2021年8月

夏時間8/2ギンレイホール監督/ユン・ダンビ脚本/ユン・ダンビ
韓国映画。原題は“Nam-mae-wui yeo-reum-bam”。allcinemaのあらすじは「夏休み。10代の少女オクジュは、父と弟ドンジュと祖父の大きな家に引っ越すことに。母親は家を出てしまい、父が事業に失敗したためだった。ドンジュがすぐに新しい環境に馴染むのとは対照的に、オクジュはなかなか慣れることができなかった。するとそこへ、離婚寸前の叔母まで転がり込んできて、ますます居心地の悪さを感じるオクジュだったが…。」
Twitterへは「韓国の夏休み。老父がひとり暮らしする実家に、女房に逃げられた息子と子供2人、さらに娘までもが転がり込み、共同生活し始めるという、変な話。」
もっとのんびりした、自然体の映画かと思ったら違った。郊外とはいえ住宅地のなかの、家庭菜園もできる小さな庭もあり、室内も広い家での物語。これというドラマもなく、だらだらと話はつづく。なので、ちょっと退屈。それと、弟ドンジュの、食べるときのピチャピチャ音がかなりひどくて、正直いって気持ち悪い。ドンジュは、小学校低学年の設定なのか、我が儘なところもあるし、キャラ的には好きになれない。あと、叔母が苦手。いい歳をして長い髪なのが気持ち悪い。2度ぐらい後ろでまとめてるときもあったけど、あの方がずっと年相応。まあ、子供がおらず、子供っぽさを残して大人になってしまい、離婚の危機にある感じは出てるけど…。病弱な祖父はひと言も発しないので、何を考えているのかよく分からない。子供や孫がやってきても、とくに嬉しそうでもないし。主人公のオクジュは、美人ではないけどブスでもない。中学生? 高校生? 15、6かな。二重の手術がしたくて、父親の売ってるスニーカーをちょろまかしてネットで売ろうとするあたり、知恵が働くのかも知れないけど、悪人ではない。もっと悪人ではないのは、父親。人がよすぎる感じすらする。妻と別れたらしいけど、原因は分からず。↑のあらすじに、事業が失敗とあるけど、そのことは映画では分からない。映画は、住んでいる家を引き払うところからしか映らないから。生計は、偽物スニーカーの路上販売らしいけど、セールストークをクルマの中でごにょごにょ練習してるぐらいだから、慣れてないのだろう。後半、祖父の葬儀に元妻がやってくるけど、ケンカしてるようには見えないし、元妻も葬儀に来るぐらいだから、毛嫌いしてと言うことでもないんだろう。他に男がいたら、やってこないだろう。…ぐらいが分かる背景。いろいろアバウトなまま、だらだら話がつづくだけで、大きなドラマは後半になって祖父が亡くなることぐらいか。なので、いささか退屈というか、印象に残らない映画。共感できるキャラも特になかったし。
よく分からなかった場面が1つ。叔母がオクジュ?に「世話になったね」といってカートを持って出て行くようなところがあったけど、あれはなに? その後かな、夜中、酔っ払ってオクジュに電話し、玄関を開けてもらうくだりは、なんだ?
祖父が尿漏らしをすると、父と叔母は祖父を老人ホームに入れ、家を売る算段を始める。突然すぎるよな。2人とも昼間は仕事があるので世話を見られないということらしい。家を売る、は叔母の離婚前提で金が欲しいからの発想か。父は家がなくて居候中なんだから、そのまま住めばいい。叔母も離婚したら実家に戻ればいい。あるいは、相応の金をやるとか。そういうふうにならないのは、日本との感覚の違いなのか。
とはいえ、老人ホームの心配は祖父の死で解消。なんか、都合がいい展開だな。とはいえ、祖父の具合が悪くなり、父と叔母で病院に連れて行き、オクジュには電話で「大丈夫」「もうすぐ連れて帰る」といいつつ戻らず、翌朝、亡くなった、と電話する展開は、はあ? だよな。しかも、「葬式だ」という。夜中か早朝になくなり、その日のうちに葬式をするのか、韓国では。で、姉弟はタクシーで斎場に向かう。姉は制服姿。斎場の父と叔母はすでに喪服で、叔母は泣き崩れてる。いかにも韓国な泣き声だ。そのうち娘も喪服になってるけど、あれも貸衣装? の後、葬儀の儀式的な部分はほとんど映らない。けど、一日中、祭壇は設置したままで、横には仮眠できる部屋もある様子。元妻がやってきたとき、父は仮眠中だったけど、あれは会葬者と飲み食いして疲れて寝てた、のか? で、次は、仮眠室で目覚めるオクジュ。一夜が明けたらしい。なんか斎場での経緯がよく分からんぞ。帰りは父の軽バンで、父はワイシャツ姿、娘はカットソー 。来るときに背負ってたバッグに入れてきたのか? 叔母は以後登場しないけど、葬儀に来ていた夫と家に戻ったのか。諍いは収まったのか? よく分からない。
葬式から戻り、父親が車を停めてくると言う。だけど、自宅の前は他人の車が何台も停まっている。あれは近所の人が停めてるのか? フツーなら、それに怒ってどかそうとすると思うんだけど…。どっかのパーキングを借りてる? 金に困ってるのに? よく分からない。で、玄関に戻るとオクジュとドンジュは玄関にいて。父は、なんで入らないんだ? という表情。ドアに手をやると、鍵は開いている…。という場面はなに? 泥棒でも入ったのかと思ったよ。で、このとき父は喪服を手にしていて、部屋に入ると箪笥にしまったんだが、いつ喪服を取りに来たんだ?
で、3人で寂しく黙々と食事する場面で終わるんだけど、いろいろ悶々とすることばかり。家を売るという話はどうなったんだ? とか、ほったらかしの部分が多すぎ。ツメが甘すぎるだろ。この映画。
・叔母と娘が洗濯干ししてる場面。叔母は、女物の派手な色のパンツを5枚干す。叔母の、遊びっぷりが感じられる場面だけど、衣装とか持ち物には派手さがないのよね。化粧もフツーだし。いったい離婚危機の原因は何なんだ? あと、気になったのは洗濯ひもの影が叔母の顔にかかっていたこと。あれは絵づくりとして無神経すぎる。
・絵づくりは、全体に雑で、光もぼーっと全体に回っている感じ。というか、大してライティングしてなくて、自然光にまかせているのか? オクジュが自転車で坂を降りるところも、自然光だけなのか、きれいに見えないし。
・オクジュが主人公なのに、掘り下げがいまいちなのよね。彼女が母親に会いたくない理由はなんなんだ? 母親に捨てられた気分なのか。フツー、ダメ亭主から女房が逃げるとしたら、子供は連れて行くよな。なのに1人で出ていった元女房って、なんなの? とか。同級生でボーッとしてるだけの彼氏って、なんだよあれ、とか。いまいちオクジュに共感できないところも、うーむ、かな。
ヒトラーに盗られたうさぎ8/2ギンレイホール監督/カロリーヌ・リンク脚本/アンナ・ブリュゲマン、カロリーヌ・リンク
ドイツ映画。原題は“Als Hitler das rosa Kaninchen stahl”。allcinemaのあらすじは「1933年2月、ベルリン。兄と両親と楽しく過ごしていた9歳の少女アンナ・ケンパー。しかしある日、母から家族でスイスに行くと突然告げられる。ヒトラーが次の選挙で勝つかもしれず、ヒトラーを批判してきたユダヤ人で演劇批評家の父にも危険が迫っていたのだった。スイスでアンナに友だちができて少しずつ新たな生活にも慣れてきたころ、ユリウスおじさんやって来て、ベルリンの家のものはナチスが何もかも奪っていったと教えてくれた。やがてアンナは10歳となり、家族は父の仕事先を求めてパリへと向かうのだったが…。」
Twitterへは「ヒトラー政権誕生直前の独逸から亡命した一家の話。ナチに追われ緊張とスリルの連続サスペンスかと思ったらさにあらず。ナチは登場せずさしたるドラマもなし。あらすじをテンポよく転がす感じ。見どころは10歳の娘の愛らしさだけかな。」
連続ドラマの、物語展開に必要な部分だけをダイジェスト的につないだ感じで、ムダはないけど、ちまちました感じのする脚本と編集。情景とか、たわいのないエピソードとか、ふわっとヌケるところがない。小気味よく話は進むけど、余裕なく引っぱられている気がしてしまう。
ナチの映画だと、追及の手が伸びてきて、危機一髪のタイミングで逃げるとか、がフツーなので、そうなるのかなと身構えていたけど、まったくそうはならず。子供2人が登場するので、亡命地のスイスからベルリンの友だちに絵はがきを送って住所がバレるとか、きっとこいつらのどっちかがヘマして危機を招くに違いない、と思っていたのに、そういうこともなく。せっぱ詰まるといっても、収入のアテがなく経済的に困窮するぐらいで、命に別状はなし。というわけで、大いに肩すかし。
1933年のドイツで、ナチが政権を取るか、という状況で、ナチに批判的な論調の記事を書いていた批評家を、ここまでターゲットにしてたのか、というのは知らなかった。選挙前にスイスに逃げ、彼の地で連立政権の誕生へ、というニュースを知るんだけど、その後、ケンパーが賞金付きの指名手配になるというのも、へー、な気がした。そんな横暴ができたのか。ユリウスおじさんって、血縁かと思ったら、そうじゃないみたいね。友人? そのユリウスの話では、知人がナチに捕まって犬小屋に入れられ、揚げ句に自死した、というようなことを言っていた。連立政権下でも、批判勢力にここまでできるのか。いやまさに、現在、中国が香港やウイグルに対してしていることと同じだ。それを、ナチ支持のドイツ国民は是認していたと言うことでもある。先日見た『復讐者たち』でも、多くのドイツ市民がユダヤ人に対して、していた(あるいは見て見ぬフリをしていた)ことと同じではないか。となると、ユダヤ人の、一般のドイツ市民に対する憎しみも理解できる。ナチをやり玉に挙げた映画の次は、ナチを是認したドイツ人を批判する類の映画がつくられるようになるのだろうか。
登場するのはおおむね善人で、ユダヤ嫌いもいるけど、あいつら別物、って思ってるような感じ。ベルリンの近所の奥さんも、逃げる一家を見て「あら、どうなさったの?」ぐらいで通報するわけではない。スイスに来ている家族も、悪意は見せない。パリの宿屋の女主人も、金さえ払えば文句はない感じ。同じフロアの女性も、学校の成績を自慢する子供たちを見て「ユダヤ人は一番が好きね」と憎まれ口をこぼす程度。ユダヤ人だから、で、スイスでもフランスでも、隠れたり、肩身が狭い感じはない。ケンパーがナチから敵視されているのは、ユダヤ人だから、より、ナチ批判をし過ぎるから、な気がする。まあ、ユダヤ人を迫害する政策があって、そうなったんだろうとは思うけど。
スイスに向かう途次、アンナは風邪にかかる。あれは父親のが伝染ったんだろうけど、あのエピソードはほとんど意味がない。せいぜい妄想で象が出たことぐらいか。なぜウサギでなく象なんだ?
スイスの民家での生活は、田舎だけど快適な感じで。危機はまったく感じない。すでに言ったように、アンナがベルリンの友人に絵はがきを送って住所が…と気になる程度。むしろ、同級生の男女に仲よくしてもらって、和気あいあい。男の子が石を投げてきて、それは男の子がアンナのことを好きだから、というのは分かるけど、それを自ら「アンナが好きだから!」って本人の前でいうか? 外国流の流儀かしら。
ベルリンの家を去るとき、スイスを去るとき、フランスを去るとき、アンナが壁や石や家なんかに「さよなら」と告げていくのは、あれはなかなかよいエピソードだな。
で、スイスからフランスに転居するとなって、おいおい、な感じに。だってフランスはドイツに占領されるのだから。そうなったらどうなるんだ? と思ったら、イギリスに送った脚本が売れたから、今度はイギリスに転居! ってことになって。おやおや。しかし、このテンポでいったら、1945年は10年後だ。10年後の長じたアンナがでてきて、かつて別れ別れになったウサギのぬいぐるみと再会するのか? と思ったらそうはならず、イギリスに向かう船上で映画は呆気なく終わってしまう。あちこち転居して、言葉や習慣にやっと慣れたと思ったらまた引っ越し。でも、何とかなるでしょ、イギリスも。みたいなアンナのナレーションがかぶる。そして、その後、アンナが絵本作家になり、兄は法律家になって、アンナは2019年に亡くなった、と字幕が出る。長生きしたのね、というわけで、とくに共感もなく映画は終わった。
・伏線となるようなものがないのよね。ユリウスの懐中時計も、とくに機能していない。題名にもなっているウサギも、別に…。ユリウスの手紙にあった、風船を飛ばす、は多少なってるかな。程度。
・フランスの宿を出るとき、ケンパーがふて腐れた女主人にひと言いうんだけど、あれは何だったんだろ。
・フランスの宿の、同じフロアにいる女性は、なんだったんだろう。もう少し掘り下げ、エピソードを加えることはできなかったのかな。
・引っ越すたびに食べるチーズがまずい、というのは、あれは子供にとってだけの話だよな。ドイツにはチーズ文化はないのか?
・アンナがお話しづくりに長けてる、というのは、フランスの学校で作文がコンクールで入賞したぐらい。もうちょいエピソードとしてからめられなかったのかね。
・かつてケンパーが罵倒した劇作家との再会と、ケンパー妻がなりふり構わず劇作家の家を訪問して御馳走になる、のくだりは面白かった。でも、ケンパーは劇作家に会いには行かなかったのね。意固地。
少年の君8/6新宿武蔵野館監督/デレク・ツァン脚本/ラム・ウィンサム、リー・ユアン、シュー・イーメン
中国/香港映画。allcinemaのあらすじは「進学校に通う優等生のチェン・ニェン。借金取りに追われる母親と暮らす彼女にとって、貧しさから抜け出すためには、全国統一大学入試(高考)で優秀な成績を取って一流の大学に進学するしか道がなかった。そのためにひたすら勉強に打ち込む日々。そんなある日、同級生がいじめを苦に自殺する事件が起こり、今度はニェンがいじめの標的に。そんな中、下校途中に集団リンチの現場に遭遇し、暴行を受けていた少年シャオベイを偶然助けたニェン。やがて彼女はストリートに生きる不良少年のシャオベイにボディガードをしてもらうようになるのだったが…。」
Twitterへは「いじめが背景の中国/香港映画。これもまた、いじめられる側が主人公なので、他と同工異曲のテンプレ的。前半は飽き飽き。後半の事件発生後がキモなのかもしれんがムダに長く、展開としてはありきたり。最後はロマンス? で、いじめ反対キャンペーンかよ。」
第93回アカデミー賞国際長編映画賞ノミネートらしいけど、それほどのものか、という感じ。描かれている世界が、手垢が付きすぎ。いじめも、ありふれたもので、いくらでも教師や学校が気づきそうなものなのに、とイライラする。授業中に椅子に汚水なんて同級生が目撃してるのに、誰も言わないのか? クラスみな同罪だろ。
そもそも、ニェンはなぜいじめられているのか。それが描かれない。それに、バカ学校ならわかるけど、北京大学、精華大学を目指す生徒が集う学校で、いじめしてる余裕があるような生徒がいるのか? 日本じゃ考えられない。
以前にも別の映画の感想文で書いたけれど、この映画も主人公が、いじめられる側。被害者を描けばいじめがなくなると思っているのか。たまには、いじめる側が主人公の映画をつくれよ。いじめのリーダー、ウェイ・ライはお嬢さんで、仲間数人を引き連れ、女子生徒を次々にいじめ、すでに1人を自死に追い込んでいる。次のターゲットがニェンで、彼女にボディガードがつくと、別の女子生徒を狙っている。警察にチクったニェンに、男子仲間も交えて何人かで復讐し、それが警察に察知されるとニェンに「受験できなくなっちゃう。お金上げるから言わないで。あんたんち借金あるんでしょ?」と泣きつき、ニェンがそれを無視すると「あんたはいい友だちだよ、御金が欲しいと言わないし」と絡んできて、無視するニェンが振り払うと、階段から落ちて死んでしまう。ここまで嫌なウェイ・ライが可愛い顔をしているというのも演出なんだろうけど、このウェイ・ライを主人公にして映画をつくってみてはどうなんだ。ウェイ・ライのように人の痛みを感じることもなく、人をいじめて快感を感じるような人間というのがいる、というのだろ? だったら、彼らに改心させなけりゃいじめ解決にはならんだろ。被害者に同情を集めても、解決にはならない。
被害者を主人公にした方がつくりやすいのは分かる。じゃあ、加害者はただの異常者、偏執狂なのか。それで片づけてよいのか。ラストの後に「いじめは止めましょう」メッセージがぶら下がっているような映画を、いじめっ子は見ないだろう。いじめられる側しか見ない映画ではなく、いじめる側が見るような映画をつくってくれ。いじめは得にならない。かえって損だ、と認識するような映画をつくってくれ。いじめる人間の心理を追及してくれ。それが、いじめ撲滅につながるんじゃないのか。それをしないのは、怠慢だろ。
実は加害者が問題なのに、いつも被害者しか描かれないのは、ナチ映画も同じだ。これまでのナチ映画の大半では、ナチの兵士は大半が記号でしかなく、人間として描かれていない。なかには『ルシアンの青春』みたいのもあるけど、あれはドイツ人のナチそのものではない。生身のフツーのドイツ人が何を考え、なぜああした行動を取ったのか、は描かれない。とはいえTwitterに『昨今のナチ映画は変わったのが目立つ。ドイツ人一般を狙った『復讐者たち』には、戦後もユダヤ人の家を占拠したり、ユダヤ嫌いのままのドイツ人が登場する。ナチ政権成立前後が背景の『ヒトラーに盗られたうさぎ』もナチを支援するドイツ市民が目立つ。ナチ映画のつくり方が変わりつつあるのかな。』と書いたように、加害者をナチからドイツ人一般にシフトした映画もつくられ始めているので、これからは分からないけれど。
とはいえ、この『少年の君』でも、いじめのボスであるウェイ・ライは記号でしかない。付き従う数人の女生徒も、ウェイ・ライの仲間らしい少年も記号的。いじめるだけの変人としか描かれない。ウェイ・ライの日常はどうなんだろう。思いやりはあるのか? つねに傲慢なのか? 貧乏人差別なのか。人の死に鈍感なのか? 相手が嫌がってるのをみて、どこが嬉しいのか。など、いささかも描かれない。彼女、彼らは、まともな人間ではなく、これからも変わらず出現するフリークとしか描かれない。それで、ラストで「いじめはいけない」メッセージを出したからと言って、いじめる側は、そんなもの見やしないだろう。
で、映画の話。
なぜかいじめられるニェン。いじめもパターン的で、よくある感じ。それがチンピラ少年シャオベイと知り合い、彼にボディカードを頼む。という経緯は、『探偵物語』『フォロー・ミー』みたいな雰囲気もあって面白い。けど、シャオベイがあんなブスのニェンに好意的になる理由が分からない。シャオベイは親に捨てられたかして教育もなく育ち、チンピラになった、らしい。これまたよくある通俗的な背景だよね。被害者同士傷をなめ合う? 見飽きたよ。
シャオベイがヤミの仕事をしたりケンカしたりしている場面はチラチラでてくるけれど、何をしているのか説明は全くなし。まあ、なくてもいいけど。で、あるとき警察に補導されている間にニェンがウェイ・ライ一派の復習に会い、ボコボコにされる。でもニェンは今度は警察には言わない。シャオベイが復習しようと言っても聞かない。変だなと思ったけど、この後、遺体発見シーンがあって。すでにニェンは過失致死していたから、なんだろう。けど、ウェイ・ライを殺してしまっているのに、凄い精神力だ。は、いいんだけど。このあたりの展開の順序がよく分からない。
ニェンがシャオベイに事件を報告。シャオベイが、ウェイ・ライの遺体を某所に埋めた? 工事現場みたいだったけどな。シャオベイは自分が殺したかのように、友人のクルマを借りて証拠づくり? …という経緯があったはずなんだけど、シャオベイはニェンに「うまくやっといた」的なことをいって、警察が自分を犯人として逮捕するだろうと、はっきり言わずとも伝えている。けど、短時間に死体処理だのなんだの、できるものか? 
この後、悩むニェンに、自分が殺人犯として捕まる。未成年だからすぐ出てこられる。お前は受験しろ。それが望みだ。的なことをいう。ニェンもシャオベイも事情聴取されるけど、結局ニェンは釈放され、翌日・翌々日と受験した。どうやら北京の大学に合格できる点数は取ったらしい。
で、シャオベイが収監され、ニェンが大学に入学した後、若い刑事がやってきて、「シャオベイは実は成人。君が自白すればすぐ出られる」的なことをいい、ニェンの心が崩れ、自白したようだ。
結果的にニェンは、事件の背景にいじめがあったことを考慮して懲役4年となった、らしい。
で、冒頭の、英語の授業の場面にもどる。クラスに、もじもじしている少女がいて、いじめが怖いのかも知れない。ニェンは、その少女に付き添って帰路につく。その背後を、シャオベイが離れて見守りつつ付いていく、で映画は終わる。
いじめの部分は淡々とつまらなかったけど、この映画のキモは、離れてボディガードするシャオベイ、殺人の身代わりになろうとするシャオベイ、ニェンが監獄から出て来ても見守るシャオベイ、というところなんだろう。まあ、そこはまずまずいい感じなんだけど、それ以外が杜撰な気がする。
それに、刑期を終えて、ニェンは大学に復帰できたのか? 別の大学に入ったのか? 前科者でも入れるところ? ニェンとシャオベイは一緒に暮らしているのだろうか? とか、気になるよね。
サイコ・ゴアマン8/12ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/スティーヴン・コスタンスキ脚本/スティーヴン・コスタンスキ
カナダ映画。原題は“Psycho Goreman”。allcinemaのあらすじは「庭で遊んでいた少女ミミと兄のルークは、ひょんなことから宇宙屈指の残虐モンスターの封印を解いてしまう。地球どころか宇宙全体が危機に陥るほどのモンスターだったが、ミミが偶然手にした宝石の持ち主にだけは絶対服従だった。そこでミミはモンスターをサイコ・ゴアマン(PG)と名づけると、彼の怒りもお構いなしにちょうどいい遊び相手としてすっかり子分扱いに。そんな中、宇宙ではせっかく封印した残虐モンスターの復活に震撼した宇宙会議の面々が、PGを抹殺すべく刺客たちを地球へ送り込むのだったが…。」
Twitterへは「全力でバカやってるB級SFホラー。正統お子様向けかと思ったら、なかなかのグロ・スプラッター。でも反キリスト? ディストピア礼賛? スターリン? 突然の日本語! ときどき笑えるけど話がトンマ過ぎて少しうつらうつら。」
全宇宙的なディストピアな話が、カナダの田舎町の4人家族の家の裏庭で勃発するというバカ話。宇宙最悪の悪魔を、かつて何もない惑星だった地球に埋めたら、そこに人間が住み始めたということか。 悪魔、という時点でキリスト教的で変なのと思っていたら、かつて悪魔を捕まえて封印したのはテンプル教団という名前らしい。なんだ。下敷きは十字軍か? じゃ、悪魔はイスラム教? 
この悪魔、封じていた赤い宝石をもつ相手の言うことを聞かなくちゃならない、という設定になってる。理由は不明だけど。だから、掘り出したミミは悪魔を顎で使う。半魚人みたいな外観だけど服を着せ、犬を散歩させて街を歩いたり、ただのペット状態。だけどときどき威力を発揮して、すれ違う娘に殺人光線を浴びせて溶かしたりする。他にも警官をどろどろにしたり、することはえげつない。けど、ミミの言うことは聞くという…。
で、かつて悪魔を封じ込めたテンプル教団のボスたちが地球にやってきて、ミミの両親も交えてドタバタ劇。あまりの起伏のなさにうとうとしたこともあって、書いている今(8月22日)、物語の細かなことはすっかり忘れている。なんだかんだでサイコ・ゴアマンは「愛」を知り、悪魔は宝石の呪縛から自立し、地球をあちこち破壊しまくりにいく、なラストじゃなかったっけかな。
・かつてのサイコ・ゴアマンの仲間で、いまは対立する山賊軍団みたいなのが登場するんだけど、スターリンみたいなかぶり物のやつとか、白髭はビンラディン? あと、日本語を喋る女怪人がいる。 しらべたら、黒沢あすか、という日本人らしい。世界史的に悪だったことのある国とか人とか、が下敷きなのか。
・純粋に子供向けかと思ったら、なかなかのグロ、スプラッターで、えげつないのだった。カルト的存在?
・意味とかつじつまとか関係ない感じ。 わけわからん赤い宝石でただの子供に操られる宇宙最強の悪魔とか、バカでしょ。
・簡単に庭から掘り出されるとか、娘がどんなことにも物おじせず、というか動じないという設定も、笑うより「はあ?」な感じ。
アウシュヴィッツ・レポート8/13ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ペテル・べブヤク脚本/ヨゼフ・パステカ、トマーシュ・ボンビク、ペテル・べブヤク
スロヴァキア/チェコ/ドイツ/ポーランド 映画。原題は“The Auschwitz Report”。allcinemaのあらすじは「1944年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。ここに2年間も収容されていた2人の若いスロバキア系ユダヤ人。遺体の記録係をさせられていた彼らは、虐殺の実態を世界に伝えるべくその証拠とともに決死の脱走を決意する。綿密な計画の末に奇跡的に脱出に成功し、赤十字に保護されたた2人は、収容所内の実情を詳細なレポートにまとめるのだったが…。」
Twitterへは「脱出劇がショボイ。レポートも、それ何?な感じ。突然の赤十字…。ホロコーストはほとんど外部に知られていなかった、と冒頭で説明してないから、凄さが伝わりにくいのだと思う。とはいえ、ナチ映画も手を変え品を変え、だな。」「予告編が流れていた『ホロコーストの罪人』。矛先はノルウェーに向いていた。“70年間、隠蔽されてきたノルウェー最大の罪・衝撃の実話”」
アウシュビッツの事実を、収容されていた2人が外部に持ち出して出版し、衝撃をもたらした、というのが本来の話のキモのようなんだけど、映画の前半は収容所内のあれこれで、後半はスリルのない脱出劇になっていて、そのキモの部分が分かりづらい。ああ、そうなのか、と気づいたのは、ラストの赤十字のシーンと、そのあとの字幕だったしね。
アウシュヴィッツへを始めとするホロコースト、いまは全世界周知の事実だけど、大戦中はほとんど知られていなかった、ということを冒頭で強調するべきだな。それと、民族浄化が外部に知られていなかった、ということを収容所のユダヤ人は知っていたのか? 分かっていて訴え出ようとしたのか。それとも、たまたまなのか、にも興味がある。
記録係、というのがいて。あれは、ドイツ軍もしっている職種なのか、しらんけど。いろいろメモを取っている。でも、ドイツ軍にデータを渡しているようにも見えず、死体置き場の建物の床下に隠していたから、独自調査なのか。でその記録係と、もう1人が、ある日、所内の材木置き場のようなところに隠れる。失踪である。行方不明者を捜すため、記録係ともう1人が所属するグループは寒中、ひと晩中夜空に立ちっぱなし、という難行苦行。というような描写に時間を費やす。けど、本筋にはあまり関係ないんだよね。でもアウシュビッツを描くから、ナチの蛮行は描かなくては、なところなんだろう。それが仇になって焦点ボケになってる。
で、2人は、隙を見つけて収容所外へ逃げ出すんだけど、この脱出劇がすっぽりなくて。隠れ場所からでたら、次は、収容所の最後の鉄条網をくぐるところ、なんだよ。なにこれ、な肩すかし。その後、山中で相棒が足を痛めるんだけど、その対処法としては靴を脱がせただけなのか? というところで、女と出会いパンをもらう。さて、彼女はどこの国の女なのだ? 「国境は近い」といっていたので、まだポーランドなのか? 次ぎに助けてくれたのは、パンをくれた女と同じ女か? 道案内に義兄を連れてきた、といってたな。それで国境を目指すんだったか。足を痛がる相棒に「痛がるな。痛みに慣れろ」なんていうんだぜ。ひどいな。
この辺りから画面はひどく揺れる。『仁具なき戦い』みたいに横になったりして、とても見づらい。足を痛がる相棒の視点なのか? 知らんけど。いつのまにか義兄はいなくなって、収容所の長屋みたいなのがあるところにでて。なんだ? と思ったら、夫婦者に助けられた様子。いつ国境を越えたのだ? ここはどこ? チェコ? なにも説明がない。ベッドに寝て、回復したところで、知り合いがやってくる。「変装してる」といってたけど、あれは変装なのか? 本当の赤十字の職員なのか? 2人はクルマに乗って赤十字の建物に入って行く。車の運転手は誰なんだ? あの夫婦者は、なぜ赤十字に知らせようと思ったんだ? どういう伝手があったんだ? 赤十字内に、ナチは入れなかったのか? 
説明がなさ過ぎて、うーむ、だよな。簡単に赤十字まで行き着いちゃうのも肩すかし。2人のユダヤ人にみな優しいのも、ふーん、な気がするし。
で、2人はアウシュヴィッツへの状態を赤十字のエライ人に話すけれど、まったく信じてもらえない。赤十字は、収容されている人に物資を送っているというけれど、そんなものは見たことがない。赤十字が視察に行ったと言うけれど、その日はアウシュビッツにしては奇妙に平穏な日だった、とか。ナチは、いろいろ隠蔽していたんだろう。それは分かるけど、とくに衝撃もなく淡々と伝えられるので、いまいち驚きがない。というのも、アウシュヴィッツへの真実を世界が知ったのがいつだったのか、私が知らなかった=忘れていたから。だから、先に仕込みが必要だというのだよ。
そして、ふたたびアウシュビッツ。人が振り分けられている。ガス室か、否か? 振り分けられた男にナチが、「あの信仰深いやつか」といったのは、外に立たされてた時にこっそりパンを回した聖職者か。
・冒頭で、吊されてる男が映る。その後の映画の展開の、逃げればこうなる運命、を象徴してるんだろうけど、なんかいまいちつたわわってこない。死んでいるのかと思うと、ぴくぴく動く。縛り首ではなく、たんに吊るしてるだけ? 逃げて捕まった見せしめ、なのか。生きているとしたら、その後はどうなるんだろう? 
・最初の方で、記録係がメモをちぎって、渡した相手がメモを食ったのはどういう意味? メモを抹消するのは分かるけど、なんのメモなんだ? という疑問。
・記録係と一緒に逃げた相棒は、誰なんだ? 最初の方で知り合って、ヒゲの剃り方を教えた若い新参者?
・逃亡中の山中で、「もう一本の筒がない!」というセリフがあったんだけど、あれはどういう意味? とくにフォローがなかったんで、とくに意味はないのか?
・持ち出した記録って、どういうものなんだ? 何人ぐらいガス室に送られたか、という記録? それをどうやって集めたんだ? 2人の持ち出したデータは後に出版されたらしいけど、本にするほどの記録量があったのか? 
・持ち出した記録によって、連合軍によるアウシュヴィッツへの爆撃はされなかったらしい。けど、何10万人かは助かった、というような字幕が出ていた。ムダではなかったけど、当初の目的は果たせなかったと言うことか。
ラブ・セカンド・サイト はじまりは初恋のおわりから8/17ギンレイホール監督/ユーゴ・ジェラン脚本/ユーゴ・ジェラン、イゴール・ゴーツマン、バンジャマン・パラン
フランス/ベルギー映画。原題は“Mon inconnue”。Google翻訳では「私の見知らぬ人」。allcinemaのあらすじは「高校時代に一目惚れをし、ラブラブで結婚したラファエルとオリヴィア。それぞれ小説家とピアニストを目指していた2人だったが、結婚10年目を迎えた今は、ラファエルが人気SF作家として成功する一方、オリヴィアはピアニストを夢見ながらも小さなピアノ教室の先生に甘んじていた。自分のことしか考えないラファエルがそんなオリヴィアの孤独に気づくはずもなく、やがて彼女の不満が爆発。2人が大喧嘩した翌日、ラファエルは自分がしがない中学の国語教師で、オリヴィアが人気ピアニストとして活躍するもう一つの世界に迷い込んでしまったことに気づく。しかも彼女はラファエルのことをまったく知らなかった。再びオリヴィアの愛を勝ち取り、元の世界へ戻るべく彼女に近づいていくラファエルだったが…。」
Twitterへは「平行世界では、自分は敗者で妻が成功者だったというSFファンタジーロマンスちょいコメ。SF設定がアバウトで弱過ぎ。主人公に都合よすぎる展開も興ざめ。こんな駄映画をギンレイがなぜ選んだの?」
こじれていた男女が時空を超えて再開し、ハッピーエンド。のように見えるけど、男の都合でロマンスが語られてるだけだろ。過去の世界では、自分の作家としての名声が高まるにつれ妻をないがしろにし、ほぼ無視してる状態。それが、こちらの世界に来たら立場が逆転で、彼女が名声を得ていて、自分はしがない学校教師。しかも、2人は出会ってもいないし結婚もしていない。それが突然彼女に執心し、なんとかお近づきになろうと四苦八苦する。なんだよそれ。理屈に合わないだろ。身勝手なやつ。
出会いから恋愛、結婚、破局寸前までの経緯は、オープニングとタイトルバックで済ませてしまう。
彼は高校生時代から考えていた物語が小説として売れ、一流作家に。妻はピアニストの夢破れ、たまに開くコンサートも客がまばら。それでも、必ず彼は駆けつけてくれていた。しかし、作品の映画化や次回作の執筆で、妻は蔑ろにされて行く。かつては、書き上がった作品の最初の読者だったのが、今では読ませてもくれない。無理矢理「読ませて」といったら読ませてくれたけど、面倒くさそう。ムッとした彼はランプを壊し、どこかに行ってしまう。1人、作品を読む彼女。その作品では、最後に主人公の男女のうち女が死に、男が救世主として残るのだが…。で、彼が目覚める場面から、平行世界の話になる。
友人は変わらないけど、クルマがない(家も違ってるんじゃないのか? そこは流してたけど)。職業は小学校の教師。街の広告に、妻の顔。でも、こっちの世界では赤の他人のようだ。友人に説明して、なんとか信じてもらい、彼女とお友達になる作戦をあれこれ駆使する。最初は街でサインをもらっただけだったけど、彼女の、痴呆症の祖母の入っている介護施設を訪れて、会話がスタートする(よく見てなかったせいで、なぜ祖母の介護施設の場所が分かったんだ? なかに簡単に入れたり…)。
という流れも、ぜーんぶご都合主義。あんな簡単に彼女と知り合いになれるなら、世の中の有名人は、すべてガードがゆるいと言うことだろ。
で、彼が言うには、「彼女との恋愛が成立すれば元の世界に戻れる」って、根拠はなんなんだ? それ以前に、なぜ平行世界に飛んだのか、がまったく説明されていない。なので、SFとしては、つまらなすぎるんだよね。
なぜ彼は、こっちの世界で彼女に執心するのか? デリバリー娘とかジムの金髪美女とやりまくってるんだから、いまの状況もまんざらではないじゃないか。有名になるという欲を捨てれば、教師だって十分だ。ピアニストの彼女も、遠く眺めていればいい。なのに、彼女に認知され、愛し合いたい、と思ってる。それって、過去の世界に彼がしたことの反対じゃないか。独善が過ぎないか? 
いや、頭は過去の世界のままなんだから、さっさと同じ小説書いてデビューすればいいじゃないか。それって簡単なことじゃないのか? そして、有名になって、すでに有名な彼女に会う、という手だってある。とはいえ、この映画は手を変え品を変え、彼が彼女になんとか接近して知り合いになり、友だちになり、それ以上になる経緯を描いていく。そして、最後、本来なら長年マネージャーをしてきた男性のプロポーズを受け、その男性と結婚するはずのところがひっくりかえって、どうやら2人はこっちの世界でも結ばれるような終わり方をしている。さて、こっちの世界で、彼は小説家になれるのか? なれないのか。
・SFとして弱すぎ。なぜ平行世界が出現したか、はまるで説明なし。過去の世界のあれこれが、ほとんど伏線になって生かされていない。高校のピアノのある部屋、消火器、逃走経路…。ベンチは浮浪者が座ってるし。ところで、こちらの世界で、一瞬見えた、ベンチへの「一目惚れした」という落書きは、あれは過去の世界にあったモノなのか? 
・祖母のところへ一人で行く、という彼女。でも直前に彼に電話してふたりで出かけ、自転車で連れ立ってレストランで豪華な食事し、帰りに海に入って、夜は一発やって、って、なんなんだ。祖母のところは寄らず、彼女の別荘に泊まっただむ? レストランからの帰りは2人乗りで、もう一台は置きっぱなし? その翌日か数日後、祖母が倒れたからと、彼が訪問すると、祖母の指輪がなくなってる、だっけ? で、彼は焦って、彼女に電話。の、ちょうどその時、マネージャーが彼女にプロポーズしてた。あの指輪はもともと祖母のものなのか? それをマネージャーが彼女へのエンゲージリングに使ったのか? 私の勘違い?
・彼は突然、小説を書き始める。過去の世界で書いた小説のラストで相方の女性(あれは妻という設定なのか?)を殺したから平行世界に飛ばされた。ならば、男性(自分)が死ぬ設定のラストにすれば元に戻れる、って思ったらしい。でも、根拠は何なの? 教室で生徒が話していた、シェークスピアがラストでヒロインを殺したのが気に入らない、という雑談が根拠? アホか。
・その、せっかく書いた小説を彼女の楽屋に置いてくる。劇場内に入る前、入口を見ると1人の女性が道路を歩いてくる…。あ、祖母が来たのか。と思ったら、そうではなかった。思わせぶり? そんなこと気にしていなかったただの通行人? にしては、登場の仕方が意味ありげだったぞ。
・で、彼は彼女のコンサートを聴き、途中退席して、小説を取り戻しに行く。残したメッセージは「僕の一番の思い出は、君を愛したことだった」だったかな。そうしてコンサート会場をあとにし、書いた小説はゴミ箱に捨てる(なんでだ? 出版社に持って行けよ!)。そこにオリヴィアが追ってきてキスして、The End。この世界で結ばれるようだ。これまで貢献してきてプロポーズし、受け入れられたマネージャーが捨てられるのか。気の毒すぎ。
気の毒と言えば、同僚教師でセフレのブスも気の毒だよな。ああいう彼女を笑いものにしてはいけないと思う。
・そもそも、過去の意識をもちながら、こちらの世界に来てしまったラファエル。では、過去の世界線のラファエルはどうなったのだ? 過去の世界線のオリヴィアは、家から出て行ったままなのか? もともとこちらの世界線にいたラファエルの意識は、どこに行ってしまったのだ? という基本的なことが一切ほったらかし。
明日に向かって笑え!8/18ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ セバスティアン・ボレンステイン脚本/セバスティアン・ボレンステイン、エドゥアルド・サチェリ
アルゼンチン映画。原題は“La odisea de los giles”。allcinemaのあらすじは「2001年のアルゼンチン。小さな田舎町でガソリンスタンドを経営する元サッカー選手のフェルミン。寂れた町を活気づけようと農業協同組合の設立を計画し、地元の住民に出資を呼び掛ける。すると多くの住人が賛同し、なけなしの財産を快くフェルミンに預ける。予想以上の大金が集まり、足りない分は銀行から融資を受けることにしたフェルミン。銀行の指示に従い集まった出資金全額を銀行の口座に預けたところ、その翌日に金融危機で預金封鎖が起こってしまう。すると、この混乱に乗じて悪徳弁護士のマンシーが銀行と結託し、フェルミンたちの大切な金を横取りしてしまう。やがて、奪われた金を取り戻すため、仲間たちとともに無謀とも思える奪還作戦を決行するフェルミンだったが…。」
Twitterへは「爺婆による凸凹オーシャンズ10みたいな話。なんだけど預金封鎖による貸付金強奪がよく分からん。セキュリティシステムのチャージとリセットと停電がよく分からん。キモの2点がモヤモヤ…。で、そもそもなんで農協なの? もあるし。」
農協をつくろうと出資者を募り、集まった金1500万ドルを銀行の貸金庫に。150万の融資を頼むが、支店長は「貸金庫の資金をあなたの口座に移せば、すぐ融資できる」という。じゃあ、と口座に移した翌日、預金封鎖。おろせなくなって…。という設定なんだけど、アルゼンチンの経済のことが頭になかったので、「は?」という感じ。あとから思うに、そういえば金融危機があったな、程度の記憶。なので、緊迫感がよく伝わってこなかった。
支店長は預金封鎖を知っていて、フェルミンを騙してドルを手に入れた、というんだが。そのくだりがよく分からない。フェルミンたちのドル紙幣は、預金されたのではないのか? 支店長は弁護士のマンシーと組んでたらしい。マンシーへ融資という形をとったらしいが、融資したのなら返さなくてはならぬはず。それがなぜ支店長とマンシーのものになるのだ? 
で、フェルミンたちは、マンシーが町の土地の中に地下金庫をつくったという情報を得て、そこからの強奪を企む。のだけれど、この金庫の警報システムと電力の関係がよく分からない。金庫入口に張り巡らしたエリアに入ったら警報、は分かる。その警報の電源が、チャージがなくなるとバックアップされ、とかなんとかで、マンシーは形態に連絡が入るたびに金庫にクルマを飛ばし、確認する。フェルミンの仲間は電柱からの電源ケーブルを見たり、地下ケーブルを開けたりしてるけど、なんのためにそうしてるのか、よく分からない。あれ、観客でちゃんと分かった人、いるのか?
という2点が、もやもやのままなので、話に入れなかったというのが正直なところだな。
話は、単純すぎるぐらい単純で。マンシーに頼まれて穴を掘ったという老人の話を聞き、フェルミンたちは地下金庫だ! と確信してしまう。マンシーが地下室に確認に行き、扉を開ける場面はあるけど、中味は見せない。なので、ぜんぜん違うものを隠していた、というオチもあるかと思ったんだけど、ちゃんとドル札で、意外性のかけらもない。駆け付けるマンシーのクルマは、道路に掘った穴に落ちてしまうくだりはあるけど、ショベルカーは登場しても掘ってるところが映らないので分かりにくい。
あと、支店長が妻とともに死んだ、という話が途中であって。もしかしてマンシーの証拠隠滅と独り占め? と思ったら、そんなこともなく。じゃあなんで支店長を殺すという話が生まれたのだ? あ、そうそう。マンシーが手に入れたドルはさておき、支店長が手に入れたドルは、どうなたったんだ? という疑問も湧くよね。
で、大枚せしめたジジババ一党は、、出資額だけ返していただいて、残りは寄付したらしいけど、ほんとにできるのかねえ、そんなこと。っていうか、ドルの多くは他の預金者の金なわけで、それを失った人たちは気の毒すぎるだろ。
大金は、3グループで分けて持ち帰ったらしいけど、地元の起業家おばさんの、働かない息子は持ち逃げしたらしい。200万ドルといってたのは、息子の持ち逃げ分なのか? なら、総額はいくらあったんだ。
で、最初の計画通り農協ができて働いてる場面があるんだけど、そもそもなんで農協なの? 日本みたいな全国組織ではなく、地元の農家が加入して集約農業できるようにするものなのか? なんかよく分からん農協だ。
というわけで、意外性もへったくれもなく、どストレートなお話し過ぎて、いまひとつスッキリも喝采もない感じ。まったくつまらなくはないけど。
・フェルミンの息子がマンシーの事務所に園芸サポートというカタチで入り込んで…というくだりは、ムリすぎるだろ、な感じ。事務所で働いてる娘と最後は仲よくらしいけど、彼女は「恋人がいる」と言ってたはず。それがどうして? 息子も強奪犯として活躍したから? うーむ。女ってやつは…。
・エンドロールの後のシーン。マンシーが、アントニオの車修理工場にやってきたのか。アントニオは社会の窓をあけ、マテ茶を注いでマンシーなだすんだけど、あれ、なにしたの? 小便入れたようには見えなかったんだが。
子供はわかってあげない 8/23テアトル新宿監督/沖田修一脚本/ふじきみつ彦、沖田修一
allcinemaのあらすじは「アニメオタクの高校2年生、朔田美波。水泳部に所属する彼女は、アニメがきっかけで書道部男子のもじくんと仲良くなっていく。そしてひょんなことから、探偵をしているもじくんの兄に、幼い頃に別れた実の父親捜しを依頼することに。やがて元教祖だったという父の居場所を突き止め、海辺の町まで会いに行く美波だったが…。」
Twitterへは「上白石萌歌主演の、不思議な雰囲気の青春モノ。藪からスティックで、OK牧場、なっ。マンガの映画化は許せない、なっ。左官、暗殺、お酒は二十歳を過ぎてから。人から習ったことは人に教えられる、なっ。長回し、セリフがいい、なっ。」
あらすじも知らず見た。いきなりアニメで「?」からの居間の場面が長回しで、一家のほのぼの雰囲気が伝わってくる。と思ったら水泳の練習で。屋上に誰かがアニメ主人公を描く姿が見えたので、一目散で階段を上がっていく様子がまた長回し(だっけ?)。2人でアニメ話しながら降りてくるのも長回し。美波と門司君の初対面。アニメファン同士の結びつきが誕生。
ある回のアニメがレアだというので、美波は門司君の家に行くと、彼が書道家の血筋と知り、たまたま自分の持つお札(ふだ)と同じものを発見。門司君によると、さる新興宗教のお札で、その教祖から頼まれて門司君の父親が書いた、らしい。一方、美波が持っていたモノは実の父が送ってきたもの。これまで気にしていなかった、実の父親が俄然、気になっていく。バス停まで、2人でたらたら、の場面はまたしても長回し。「探偵にでも頼もうかなあ」「探偵ならいるよ」と門司君が返して、その探偵、門司君のゲイの兄に捜査を頼みに行く。なんだか『チチを撮りに』みたいな話になっていく。では、父親探しの話かと思ったら、呆気なく見つかってしまうのだよね。でもって、水泳部の合宿にかこつけて、ゲイ兄に送ってもらって実父の居所へと向かう…。
ここまでは少しシリアスな導入編。少しミステリアスで面白い。なんたって実父が新興宗教の教祖様、っていうんだから。ところが、実父と会って、最初はぎこちないんだけど(このあたりの描写はなかなか上手い)、次第に打ち解けてきて、幼い時に別れたきりの実父との交流がキモになっていく。本論はこっからなんだろう。なにがあるのかな、と思わせて、実父は単なる子供好きなオッチャンだったという、なかなかな脱力系。父は、娘への愛情で。娘は、よく知らぬ父親への好奇心が突然芽生えて。夏の数日間が、ほのぼのと描かれていく。
実父は現在、整体師の先生(旧知らしい)の離れに住んでいる。迎えるのは、生意気な小学生ぐらいの女の子で、整体師の先生の孫のジンコ。ゲイ兄、美波、実父の、ぎこちない挨拶。ジンコだけが実父に自ら肩車したりして奔放! 妙な雰囲気だけど、どうやら美波は、合宿所に戻らずここに泊まるつもりらしい。合宿所の友人に電話連絡すると、「やめろ」と言われる。なにせ新興宗教の教祖。継承権争いに巻き込まれて暗殺も! なんて妄想が渦巻いてるのだから。さてゲイ兄も帰り、実父と二人きり…。でも、教祖の実父は、べつに妖しい雰囲気はなく、かといってどう対して良いかとまどいつつ、でも歓迎しているかのような不思議な感じ。
結局、美波は合宿所に一度も寄らず、実父のところに数泊し、ジンコに泳ぎを教えたり、昼寝したりして過ごしてしまう。実父も、それまでなかったテレビを買ってきたり、美波の好きなアニメをまとめ買いしてきたり、久しぶりに会う娘にわくわくしてる様子が伝わってきて、ほんとうにほのぼの。美波も心を許し、まだずっと居たい、という気持ちになってきているのが分かる。まあ、実際にこんな設定だったら、こんな具合にはいかんとは思うが、そこは映画だから。
で、実父は最初、教祖を休んでいる、といっていたけど、結局、「人の頭の中が見えなくなったので、教祖をクビになった」と告白。いまは、整体師の手伝いをしているらしい。
よく分からないのが、教祖に担ぎ上げられてからの話で。誰かに“見える”ことを見込まれ、教祖に担ぎ上げられ、前後して離婚? では以前から整体師で、静岡のあのあたりに住んでいた? 美波の持っていた写真は実父が静岡の海岸で映したもので、整体師の先生と母親、幼い美波、あともう1人映っていたしね。それが、近ごろ“見えなく”なって、教祖をクビになり、整体師として元の先生のところに戻った、のか。このあたり、あえて説明を避けている感じ。なぜやすやすと教祖になってしまったのか? 実際に、人の頭の中が見えたから、それで人助けでもしようと思ったのか? 妻とは、喧嘩別れでもないように見えるんだが…。ここがざっくりないので、想像するしかない。生っぽくなる感じを避けているのか、ずるい。
でも、この間も娘のことは気にかけていて(当たり前だろう)、実父は「父親のヒントを与えようとして」あのお札(ふだ)を美波に送っている。そのことを、別れた実母は知っていて、でも咎めてもいない。れは、実母が元の夫を責めていないということの証なのか。たんに母親が脳天気なのか。別れた理由が分からない以上、なんとも言えないよね。
でまあ、最後まで合宿所には顔を見せず、そのまま家に戻る美波。母親は薄々感づいていて、「どこに言ってたの?」と。正直に言うと「今度からはちゃんと言ってから行ってね」とニコニコしている。どういう包容力なのだ。義父も知っているだろうに、とくになにも言わないで、アニメファンの友人として居てくれる。美波は幸せだねえ。という映画だった。
最後、合宿から戻った美波が屋上を見ると、父親探しをしてくれたアニ友の門司君がひさびさにいる。それで美波は階段を駆け上がっていくんだけど、この場面が、またまた長回しで。屋上で、門司君はアニメ絵を描こうとしていたのかな。正座して見る美波に対峙する。ここで、おいおい、という気がした。もしかして、美波は門司君に「好き」とでもいうのか? と思ったら、そう言ってしまった…。ああ。ここはぼやかして、なんて言ったか分からないようにするべきだったよなあ。あれもこれもハッピーが具体的過ぎちゃ面白くないぞ。というのが、最大の不満だな。
っていうのも、門司君とはたまたまアニ友だというだけで、それ以上に心のふれ合いとか、惹かれるとか言うものが描かれていないからなのだ。べつに恋愛関係でなく、友だちのままでいいじゃん、なんだよね。
・美波の母親は、再婚。旦那との間に男の子がいて、美波の異父弟。現父親はアニメ好きで、美波とも気が合い、波風はなし。現父親のことも好きで、美波にひねたところは一つもない。最近の変わったことというと、真剣になるとなぜか笑ってしまう、ということぐらいか。てな設定があるから、ほのぼの見られるんだろう。 ・父親、母親ともに、相手の現在の写真を見て「老けたなあ」というのがおかしい。
・父親宅でアップにされる茶菓子はなんなんだ? スポンサー提携してるのか?
・部員の前で話をするとき、「なっ」と念押しが癖の水泳部の顧問教師。
・この映画、マンガが原作なんだけど、「マンガが原作の映画は許さない」とかいうセリフを言わせたりするおかしさ。
・古書店主(高橋源一郎、セリフが下手)は、ゲイ兄貴がどうやって実父の家を探し出したかを、門司君に教えるんだけど、実父の名前を検索窓にいれてクリックすると整体院のホームページが出て、整体師の先生と並んで実父の写真がでてくるんだけど、あれは、ネット検索した、ということでいいの? 美波は、名字は分かるけど下の名前は知らない、とかいってなかったっけ?
・画面に映るモノについて、エキストラの通行人から何から何まで、ちゃんと考えられてる感じなのがいい。
キネマの神様8/24109シネマズ木場シアター8監督/山田洋次脚本/山田洋次、朝原雄三
allcinemaのあらすじは「かつて映画監督を志すも夢破れ、今やギャンブルに明け暮れる借金まみれのダメ親父ゴウ。妻の淑子や娘の歩にもすっかり見放されたゴウだったが、行きつけの映画館“テアトル銀幕”の館主テラシンだけは、いつでも温かく迎えてくれた。2人は青年時代、同じ撮影所で汗水流した盟友だった。助監督として働いていたゴウは、名だたる名監督やスター女優の桂園子、近所の食堂の看板娘・淑子らに囲まれながら懸命に夢を追う日々。そしてついに初監督作品「キネマの神様」の撮影初日を迎えたゴウだったが…。」
Twitterへは「話もギャグも演出も、ぬるい気がする。そもそも『東京物語』(1953)でカチンコ叩いた青年が2019年に78歳って、時代設定がおかしいだろ。コロナ、ミニシアターのクラウドファンディングなんかも、ムダなつけ足し。」『『キネマの神様』でスクリーンから出てくる、のヒントはキートン、と言ってたけど、これか。『キートンの探偵学入門』。でも、スクリーンから出てきてしまうというのは、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』の方が近い。』
オープニングは、日本開催のラグビーW杯の対アイルランド戦の中継テレビ画像。2019年を見せたいのだろう。でも、妙に浮いてるな。雑誌社で働く娘のところに、ヤミ金の取り立ての電話がかかってくる。
で、借りた本人は東京の雑司ヶ谷あたり? に妻、出戻り娘とその息子とともに住んでいるジジイ78歳。酒、ギャンブル好きでヤミ金に借金。取り立てが家までやってきて、妻や娘はどうする!? 娘は雑誌社をリストラされるし! というのが発端。
国民年金の通帳とカードを娘に差し押さえられ、ヤケで逃げ込んだのがポン友のテラシンのところ。テラシンは東中野の映画館主で、むかしの映画を細々と上映しつづけている。場所か東中野というのは、ポレポレ東中野を連想しちゃうよな。
で、そのあたりからジジイの若き日の話が平行して進む。ジジイはゴウといい、松竹の助監督。テラシンは映写技師。ゴウの妻・淑子は撮影所前の食堂の看板娘。清水宏、小津安二郎が活躍する松竹の全盛期で、自分の脚本で(認められたからだろうけど、そういう場面はない)監督昇進を果たし、そのクランクイン。でも、緊張と意地のつっぱりで大けがを負い、迷惑をかけたからとあっさり松竹を辞め、故郷の岡山だったかに戻ったらしい。ゴウのことが好きだった淑子もついていった、らしい。けど、以後の消息は描かれず、2019年の現在につながる。
けど、ものすごい違和感がつきまとう。設定では50年前らしいんだけど、撮影所の雰囲気、書かれている旧かな、旧字体は終戦直後を思わせて、活躍している監督は清水宏、小津安二郎を思わせる出水宏、小田監督らで、じゃあ1950年初頭じゃないか。だってゴウは、『東京物語』(1953)のカチンコを叩いてるんだから。単純に2019年の50年前は1969年。すでに清水宏も小津もいないし、松竹ヌーベルバーグが花開いていた時代だ。もしゴウが『東京物語』に参加していて、仮に25歳だとしたら、91歳だろ! 映画的嘘にしても、こういうところは許せないのよね。現在の時制を2000年に設定して、なにがいけなかったんだろう? コロナ禍の時代を描きたかったから? 要らんよ、そんなもの。
テラシンが淑子に惚れて、淑子はゴウが好きで、ゴウも淑子が好きで、みたいなねじれも、昔からの定番。スター女優の桂園子がゴウに気がありそうな気配を見せたりするのも、いまいち心が動かない。
むしろ、若き日のゴウ(菅田将暉)と現在のゴウ(沢田研二、若き日の淑子(永野芽郁)と現在の淑子(宮本信子)のギャップが激しすぎて、ロマンも何もない感じ。生々しすぎ。もし、ゴウ役を当初の志村けんが演じたら、もっとぐだぐだでダメな感じになったんじゃなかろうか。青年期のゴウの鮮烈さが、でるはずもないと思うし。そもそも、菅田将暉の青年期に、競馬やマージャンの放蕩シーンがないので、後年のぐだぐだジジイがダブらんのよね。
で、なぜかゴウが書いて、映画化が進んでいた『キネマの神様』のシナリオがでてきて(テラシンがゴウの孫に渡したんだったかな)。孫はそれに感動し、木戸賞に応募しようという。で、孫の視点から現代風に修正して応募したら見事一席という、ご都合主義もはなはだしいだろ。意外性もないし。賞金の100万円で借金を返す、ということだったけど、コロナ禍で経営難に陥ったテアトル銀幕に寄付することになるという展開。なんだけど、提示されたテラシンが「えええっ? ゴウちゃんが?」と驚くかと思いきや、反応なしで素直に受け取る変な展開。それに、そんなことしたらゴウの借金が返せなくなるじゃないか。どうすんだ? 娘だって失業中なのに。と、ツッコミを入れつつ見ておった。
内輪の受賞パーティで飲み過ぎて入院し、受賞式に出席できず、のゴウ。その後、娘とテアトル銀幕に往年の映画を見に行き、そこで映画を見ながら倒れて死んでいく、というラスト。ちっとも感動せんだろ、こんな展開じゃ!
・過去編で、人気女優として登場する桂園子は、当時の色んな女優を集めた感じかな。画面から出てきてゴウに話しかける場面は、『東京物語』の香川京子っぽかった。
・ゴウは、『キネマの神様』でスクリーンから女優が飛び出してる場面はキートンにヒントを得たと言っていた。俳優がスクリーンから飛び出る映画というとウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』だけど、調べたらそのネタ元はキートンの『キートンの探偵学入門』にあるらしい。へー。
・1950年代の当時の撮影所風景は興味深いけど、小津より清水宏の方が山田洋次にとっては記憶に残る監督なのかね。出水宏としてリリー・フランキーが演じてるし。でも、現代では、清水宏の映画はほとんど振り返られない。そのあたり、どうなんだろう。
・淑子が5年前? にテアトル銀幕のバイトに応募して、そのときテラシンが淑子に気づかないってのは不自然すぎ。この時点でゴウと交友が途切れていたなら、まあ、あり得るかもだけど、ゴウと交友があったら淑子と会ってないはずがない。応募時に名前を言うだろうし、履歴書に姓名が書いてあるはず。顔を見て面影も感じないのか、お互いに。違和感ありすぎ。
・渡線橋の上での、娘と母・淑子が言い合う場面、なんだあれ。電車の音に負けまいと娘役の寺島しのぶが大声を張り上げていて、そればかりが気になってしまった。
・ゴウの孫は引きこもりかと思ったらそうでもなく、鉄オタのようだ。部屋のあちこちに自己啓発の文章を書いて貼ってる。変なやつ。HPづくりのバイトをしてたり、社会性はあるのかね。
・木戸賞受賞をテラシンにつたえる前に、ゴウがテラシンに「びっくりして座り小便するなよ」と言ったり、木戸賞受賞の内輪のパーティでゴウが「東村山音頭」を歌うのは、志村けんへの追悼か。ムダなサービス精神のような気がする。
・松尾貴史どこにでてた? 調べたらカメラマンだって。気づかず。
・クレジットで山崎貴がVFX監修やってた。大御所は、こういう使い方できるのね。
・助監督に6人列記されてたけど、最後の1人の文字がひとまわり小さいのは、どういう意味があるんだろうね。気になる。
旅立つ息子へ8/27ギンレイホール監督/ニル・ベルグマン脚本/デイナ・イディシス
原題は“Here We Are”。allcinemaのあらすじは「売れっ子グラフィックデザイナーだったアハロンは、自閉症スペクトラムの息子ウリのために自らのキャリアを捨て、田舎町で一日中息子の世話をして静かな毎日を送っていた。しかし別居中の妻タマラは息子の将来を心配し、ウリを全寮制の支援施設へ入所させようとする。反発するアハロンだったが、定収入がないために養育不適合と判断され、入所という裁判所の決定を受け入れざるを得なくなる。ところが入所当日、ウリは父と離ればなれになると察してパニックを起こしてしまう。困り果てたアハロンは施設に向かうことを諦め、ウリとの無謀な逃避行を決断するのだったが…。」
Twitterへは「自閉症の息子が心配で、世話を焼き過ぎな父親。そのせいで息子も父親にべったり。施設に入れられるのを拒否し、父子でジタバタ暴走。現実が見えず、子離れできない父親がじれったすぎてうんざり。」
障害の名称は年々増え、細分化しているのでよくは知らない。でこの自閉症スペクトラムだけど、傍目には知恵遅れに見える。対人関係が苦手、はあるのだろう。けれど、知能面での問題が多いように思う。それはさておき、この手の子供をもった夫婦? 離婚しているのか、それとも妻は都会暮らしで、夫と息子ウリだけ郊外に住んでいるのか、よく分からんが。↑のあらすじでは別居中らしい。
ウリは20過ぎの設定? で、妻は施設に入れることを願っていて、夫は「担当者は次々に変わるような施設に入れるのは嫌だ。この子のすべてを自分は分かっている」と、あくまで自分と一緒に暮らすことがウリの幸せにつながると確信している、様子。だけれど、保健婦? とか裁判所の判断で、ウリは施設に入ることが決定してしまう。のだけれど、↑のあらすじでは、父親に定収がないのでそうなった、と書かれている。でも、映画ではそうした説明が一切無いので、なんで強制的に施設へ、なのか分からん状態。
父親に定収がないのは、息子の障害が分かって仕事をやめてしまったかららしい。フライングトースターの絵が見えたけど、ああいう感じのデザインをしていたのか? とはいえ、定収がなくても田舎で暮らしに困ってる様子もなく、妻には収入があるだろうに、どういうことになっているのか皆目分からない。まあ、妻は夫のやり方に反対なんだろう。裁判所が、なぜ妻にも養育義務を課さないのか、よく分からない。
で、裁判所決定がでて施設に行く、のか見学なのか、父と息子は電車で向かう。でも、ウリが、施設入所に気付き、駅のホームで大騒ぎ。父親も、じゃあ、てなわけでどこか海辺の街のホテルに行き、そこで数泊。この間、妻に「アメリカに行くからパスポートを送れ」と連絡し、パスポートは届いたけれど、なぜかクレジットカードが使えなくなってる。どっかの事務所に聞きに行くと、妻が使えなくした、のか? 妻に委任状があるから、という説明だけど、意味不明。しゃあない、と息子の口座(もあるのか)から考え、ウリに言わせようとするが「口座ってなに?」とヘラヘラ笑ってる。これを見て担当者が席を立ったのは、警察を呼びに行ったのか?な。
その後は、友人なのか教え子なのか、のオバサンの家で、彼女の母親の葬儀の真っ最中。でも一泊泊まらせてもらい、翌日からまた放浪の旅。弟のいる町を訪ねるが、逆に説教され、あげくウリが弟の彼女か嫁さんかのシャワーを覗いて大騒ぎ、で逃げるようにサヨナラ。トラックに乗せてもらった?まかバスなのか、描写があいまいだけど、そんなんで移動したり。で、浜辺みたいなところで、寝ていた父親が起こされると、アイスクリーム屋のオッサンが金をよこせという。みると、ウリがアイスをなめている。金がない、と断ると、アイス屋のオヤジはウリがなめてるアイスをはたいて落としてしまう。これを見て、「謝れ!」と怒りの父親が暴行に及び、警察がやってきて連れて行かれてしまう。
とまあ、この父親、バカなんじゃないの? としか思えない行状の連続で、イライラしてくる。息子・ウリにとって必要なのは、自立できる環境づくりだ。決して、なんでもしてあげるような、かわいがりではない。それを理解できず、20年間もそばにいて世話ばかり焼いてきた。そのせいでウリは、自分で判断できなくなっている。おそらく、妻は分かっているはず。周囲のみなも分かっている。なんだから、そういう説得の仕方をすればいいのに、この映画ではしないのだよね。たぶん、父親の正当性をわずかでも見せて、観客の同情を買おうとしているのだろう。
さて。父親は警察からもどり、でも、息子との接見を禁じられたようだ。その間に息子は施設に行った、ようだ。妻から電話で、ほとぼりが冷めたので会いに行ってもいいよ、な連絡が来て。いそいそとでかけると…。息子が仲間の入所者たちとぞろぞろ歩いて来て、父親に挨拶はするけれど「これからワークショップ」と、父親との再会より所内のワークショップに惹かれているのがありあり。それを見て、父親もやっと悟ったのか、別れの言葉をかけ、抱き合い、見送る。自動ドアの横に自分でボタンを描き、それを押して自動ドアが開いても怖くないように、自分でやっている。やっと父親は、息子の成長を自覚する。自分から離れることで、息子は自立の一歩を踏み出したのだ、と。遅すぎるだろ、それって。お前のせいで自立が遅れたんだよ。アホ。と思った。
というわけで、この映画の言わんとしていることが、分からなくなる。父親はバカだ、というメッセージなら、十分に伝わったけど、そんな映画でなんの意味があるの? さあ、障害児を持つ親御さん。なにからなにまで世話をする必要はありません。早く施設に預けましょう。そうすれば、障害児は自立します! って、言いたいのか? 延々と見せてきた父親の息子べったりの愛情に正当性を感じなくてもいいんだな? うーむ。変な映画。こんな映画をギンレイがかけるなんて。やっぱ、おかしくなってる。
・父親はフライングトースターのデザイナーなのか? 「原画がネットオークションでこないだ売れた」と喜んでたけど、買ったのは実の弟で、支援する気持ちからだったんだろう。なのに金を貸せとか、なんだとか、ひねくれ具合もほどほどにしろよな感じ。
・魚を飼っているせいか、魚料理が苦手とか、カタツムリがいるからとという幻覚で道路が歩けないとか、やっかいですな。
・ボタンのある列車のドアは、信用できる。でも、自動ドアはいつ開くのか分からないので信用できない。というのも興味深い。じゃあ、ボタンをつくればいい、と父親が壁にボタンを描き、それを押せ、と言ったら安心して自動ドアも通れるようになるのが面白い。で、そういう知恵を自ら身につけるのも興味深い。
・ホテルのプール内で女性客に接近しすぎなのを父親が気づいて引き離すが、立ち上がったウリは勃起してるとか、弟の彼女のシャワーを覗いて悲鳴を上げられるとか、こういうのも面倒だな。とはいえ、障害者をきれいごとで描かない姿勢は評価したい。
・チャップリンの映画が好きで、施設で窓を割ったのも『キッド』からの影響だろうとか、その程度の知恵なんだな。
Summer of 858/27ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン
原題は“Ete 85”。allcinemaのあらすじは「1985年、夏のフランス。ヨットで一人沖に出た16歳のアレックスは、転覆したところを偶然通りかかった18歳の少年ダヴィドに助けられる。互いに意気投合し、やがてアレックスはダヴィドの母が営む店でバイトを始める。これを機に、急速に距離を縮めていくアレックスとダヴィド。それはアレックスにとってあまりにも鮮烈な初めての恋だった。しかし6週間後、そんなアレックスにダヴィドとの突然すぎる永遠の別れがやって来るのだったが…。」
Twitterへは「フランソワ・オゾンのBL映画、つまらん美化に転がらず、なかなか興味深かった。労働者階級の少年。『太陽がいっぱい』を連想されるヨット。バイク。尻軽な英国娘…。かつて釣られた彼が、今度は釣ろうとする…。」
18歳のゲイの少年が、海で16歳の少年を救い、思惑を持って友だちになる。関係をもち、16歳の少年が夢中になると、気まぐれに21歳の英国女性とセックスし、16歳に「お前にはもう飽きた」と決別を宣言。その直後、バイクで事故死。原因は不明。16歳は、かねての約束通り、18歳の墓の上でダンスを踊り、警官に逮捕される。器物破損だか尊厳の軽視みたいな罪があるそうだ。でも、16歳はダンスした理由を話さない。…というところから話が始まり、出会いから語っていくという展開。だから、18歳が死んでいることは観客は知っている。ダンスした理由を16歳が話さなかった理由は分からないけど、それだけ個人的な思いが強かったんだろう。で、16歳は、海岸で、かつて酔っ払ったところを解放したことのある青年にヨットを誘い、2人で繰り出す…。ということは、16歳は青年を釣ろうとしていると言うことなんだろう。順繰りだね。
というわけで、ゲイの男漁り、関係をもつ方法、捨てる作法、なんかを改めて、うーむ、と思ったのだった。
登場する青年たちが、みな労働者階級なんだな。16歳アレックスは高校生で、その文才から教師に進学も考えたら、と言われている。けど、父親は「就職には関係ないんだろ」と軽くあしらわれるし、本人も高校出たら働く気が十分。18歳ダヴィッドの父親は船乗りで、夫婦で釣り関連の店を営んでいた。父親本人は数年前に他界し、それとともにダヴィッドは学校を辞めて店を手伝っている。酔っぱらい青年の父親は造船所で働いてる、だったか。BLって、そういうゾーンに特有とは思わないけど、なんか気になる。
18歳ダヴィッドの家は、商売がうまくいってることもあるのか、なかなかの豪邸。ヨットも持ってるし資産階級なのかも。容姿についていうと、アゴが尖りすぎだろ。アレックスの家は、両親(爺さん婆さんすぎる気がしないでない。)ともに貧乏くさい感じ。だけど、容姿はかわいらしい感じで、狙われるのも無理がないかな、という感じ。アレックスはヨットは持ってないけど、貸してくれる友だちはいて、なかなかの操り手。映画でも本人がヨットを操縦している。労働者階級もヨットぐらい、な環境なのか?
ダヴィッドが18歳にしてはやり手なのは、なんと、ルフェーヴルという教師とも性関係をもっているってことからも分かる。しかし、いいのか先生、教え子とやっちゃって。それをアレックスには話してたよなあ。たしか。ダヴィッドの嗜好を見ると、ヤリ捨てな感じ。でもルフェーヴル先生は、ダヴィッドと完全に切れてる感じ。18歳で早熟だよなと思うけど、ゲイの世界ってこんな感じに描かれることが多い様な。描く方の偏見?
しかし、ダヴィッドの母親が気の毒。亭主に死なれ、息子にも先立たれてしまうんだから。
そのダヴィッドの事故の原因だけど、結局は不明で。映画の中でもアレックスが思考をめぐらしている。罵声を浴びせられ、店を飛び出したアレックスを追った、という可能性にも言及されているけど、それはないよな。たんにむしゃくしゃしただけではないのかな。追うぐらいなら、飽きた、なんて言わんだろ。
しかし、結局ダヴィッドも、映画の流れからみると脇役だ。アレックスはさっさと立ち直り、海岸で青年=少し前に泥酔しているところをダヴィッドと解放した相手、に声をかけ、ヨットに誘うのだから。まさに次の獲物に向けて行動を開始した、ということだろう。たぶんダヴィッドも、こうして獲物を漁りつづけてきたんだろう。というようなアレックスの、ゲイとしての成長が、オソロシイ。16歳なんだもん、まだ。まあ、ダヴィッドも同じような経験があったのかも知れないが。 ・色彩とか、話のつくりも含めて、1970年代なテイストな映画だった。
・アレックスに声をかけたイギリス娘は21歳かよ。ビーチで水着で、16歳に迫るの? フランス語は堪能で、たんなる観光でもない感じ。男漁りが目的というより、会話の練習相手かな。なんとなくゴスなファションで、カルチャークラブを連想したよ。
竜とそばかすの姫8/30109シネマズ木場シアター1監督/細田守脚本/細田守
allcinemaのあらすじは「自然豊かな高知の田舎に暮らす女子高生のすず。歌うことが好きな彼女だったが、幼い頃に事故で母親を亡くして以来、人前では歌うことができなくなっていた。そんなある日、全世界で50億人以上が集うインターネット上の仮想世界“U(ユー)”に足を踏み入れたすず。そこでは誰もが“As(アズ)”と呼ばれる分身キャラクターで現実とは別の人生を生きていた。すずはそんなUの世界ではベルというAsで思う存分歌うことができた。すると瞬く間に歌姫として世界中で人気者になるすず。ある日、そんなベルの前に“竜”と呼ばれる謎の存在が現れ、彼女のコンサートを台無しにしてしまう。やがて乱暴な竜の正体探しが始まり、Uと現実世界の両方から竜を排除しようとする動きが加速していくのだったが…。」
Twitterへは「手垢付き過ぎな仮想空間・SNS批判、『美女と野獣』のパクリ、『イノセンス』風、石森章太郎的、『君の名は』的田舎風景、廃校で電気はどこから引いた? 仮想空間で歌う間に廃校の本人はどこに消えた? とかツッコミつつ。」
ネットの仮想空間でアバターを得るには、耳に付けるデバイスで身体的特徴その他をスキャンするらしいけど、どうやってやるんだ? その前に、あのイヤホンデバイスはUで買うの? すずは、自分で買った? すず/ベルの仕掛け人であるヒロちゃんが調達? この、すずがUに入ろうとした経緯がよく分からず。引っ込み思案だから? その原因は母の死? って、単純すぎるだろ。
で、なんですずは、あんな美形10頭身のアバターになっちゃうんだ? ほかの、たとえば学園のヒロインであるルカちゃんなんか、サックスは手にしてるけど美人じゃなかったぞ。ババア5人もひどいもんだ。
で、Uにデビューすると、あっという間に膨大なフォロワーが!? なんで? 歌が魅力的だから? でも、すずが意図して歌ったわけでもないだろう。あれは、ヒロちゃんの仕掛け?すずが知らないうちに、そんなことできるのか? 歌は、すずがこれまでに作曲したモノ、ってわけじゃないんだよな? とか、もやもや。であの仮想空間てのは、画面を通して見るのか? ゴーグル付けてる様子もなかったけど。イヤホンデバイスで視覚までコントロール出来ちゃうのか? などなど、基本設定にツッコミどころ豊富で話に没入できずだよ。
すずとしのぶは幼なじみ。けど、母の死後すずは陰気に。見守ってきた、しのぶ。学園のヒロイン・ルカちゃんとしのぶは、みんなが期待するカップル。な、なかですずとしのぶが話しただけで噂が広がりすずがバッシング。とか、ありそうなイジメの構図ではあるけど、ありがちでもあるわけで。すずには、メガネっ娘の知的な友人ヒロちゃんがいる。無骨でマイペースな1人カヌー部のカミシンもいる。父親は、うっとーしーからジャマな存在。なんか、どのキャラも類型的すぎて、記号にしか見えないな。
なぜかUで大人気。世界50億人が注目する歌姫になっちまうって、漫画かよ。あ、マンガだった。
で、このUの世界には暴れ者の竜がいて、顰蹙を買っていた。ここに登場するのが、正義を標榜する自警団たち。竜と自警団のバトルで、Uは大騒ぎ。というのが、アウトライン。なんだけど、50億人が参加する仮想空間にしては、出来事がローカルすぎないか? 竜を疑う有名人に簡単接続し、気軽に話せたりする。Twitterだってインスタだって、フツー話しかけても答えてくれないし、まして私生活が画面に映るなんてあり得んだろ。嘘くさい。
まあ、イジメの構図とかSNSでの炎上なんかを象徴的に描こうとしてるんだろうけど、あんなのあり得んよ。
竜の正体。もしかして、右前足のない飼い犬ではないか? いや、人間じゃないとダメか。じゃあ、ないがしろにされてる父親だ。意外性としては十分だろ。と思っていたら、なーんと、見ず知らずの、ネットの中の兄弟の兄貴の方だった、って、おいおい。それじゃ想像しても当たらんだろ。で、その兄弟は父親からDVを受けていて、被害者でもある兄が弟をかばいつづけている現実が竜の暴力となって発露していた、というような話。なんだよそんなの。だいたいDV家庭なんて数万数十万はあるだろうに。なんであの少年なんだよ。
親が早死にして陰気な子、DVの被害児と、それぞれの代表選手みたいなのをもってきて、それを普遍化してるだけなんだよな。でも、高知県の田舎娘と、東京の被害児が、世界50億人の代表っていうのはしょぼすぎるだろ。アフリカのどこかの街とか、カナダの外れとか、なーんで外国がないんだよ。
で、被害児たちと、ネット上で交信するんだけど、なーんと、見当を付けて(どーやってゃったんだ!)アクセスすると、被害児家庭が画面に映るんだよ。撮ってるカメラはどこにあるんだ? PCのカメラがONになってるって? フツー、切るだろ。しかも、アクセスしてるのは1人って画面にでてるし。それはさておき、竜が特定したのですずは、声をかける。けれど、実体である少年は、呼びかけているのがベルとは分からない。あちらから見えているのは、すず、らしいから。じゃあ、ってんで仮想空間で自分が歌って見せようと言うことになるんだけど、すず、のままでは歌に自信がない。そんなすずを、ヒロちゃんやコーラスのおばさん5人組が応援する。のだけれど、あの5人組は、なーんと、ベルがすずだ、と感づいていたらしい。なんで? しかし、親が早死にしたぐらいでひとまえで歌う自信もなくなるって、へんな話だよな。
とにかく、仮想空間の中でベルからすずになって、すずは歌う。そしたら被害児少年も信じてくれて。自警団たちも竜にやられて、周囲からの信頼も失って、めでたしめでたし。かと思ったら、少年たちが実際に父親からDVを受けてるのを阻止しなくては、ってなわけで警察に連絡しようとするけれど、警察は相手にしてくれない、と言われ、すずは、ひとり東京に向かう。偶然の導きで被害少年に、なーんと路上で遭遇。追ってきた暴力父親を睨みつけて追い返していまう。次の場面では、意気揚々と高知に戻っているんだけど、あれえ? 東京の暴力父親の方は、どうやって片を付けたんだ? なにも解決してないんじゃないのか、あれじゃ。
ところで、仮想空間でベルがすずの姿になって歌うのはいいけど、このとき、廃校にいたすずは、どうなってるのだ? 実体としてのすずがどうなってるのか興味津々だったんだけど、なんと、故意に登場させていない。観客に想像させるということ? 汚いな。
で、すずは、ルカちゃんがしのぶのことを好きで、しのぶも…と思い込んでいたら、なーんとルカちゃんはカヌー部のカミシンが好きだったという、これまたよくある外し方をして。しのぶは、ずっとすずを見守ってきたけど、両思いだった、というようなオチでまとめてしまう。なんだかなあ。いろいろツッコミどころ多くて、話を広げながらも辻褄合わず、説明不足でテキトー過ぎる。
・レジャーで、父親がパーカー姿で泳ぐ場面があったけど、あれはないだろ。
・竜の住む城のつくりや描写が、ディズニー映画『美女と野獣』そのまま、な丸パクリ。恥ずかしい。しかし、たんなるUの住人である竜が、なんであんな立派な城に住めるんだ? 大いなる疑問。
・自警団の制服や雰囲気が、石森章太郎が描きそうな感じなんだよね。
・すずのポーズが『時かけ』と同じだろ。
・すず役の声が、表情や動きと合ってなくて、ぼそぼそつぶやいてるだけ、みたいなのが気になった。
サマーフィルムにのって8/31新宿武蔵野館3監督/松本壮史脚本/三浦直之、松本壮史
allcinemaのあらすじは「女子高生なのに勝新がアイドルという時代劇オタクのハダシ。映画部に所属する彼女は、時代劇の撮影を熱望するものの、キラキラ恋愛映画に夢中の周囲にはまるで相手にされない。そんな時、凛太郎という理想の武士役に出会ってしまったハダシ。彼女の時代劇愛に火が付き、撮影を手伝ってくれる仲間集めに奔走する。こうして打倒キラキラ青春ムービーを掲げ、個性豊かな仲間たちとともにハダシの初めての時代劇撮影が始まるのだったが…。」
Twitterへは「時代劇好きの女子校生が友だち集めて夏休みに1本撮り上げるお話。演出は稚拙でセリフも聞きづらい。展開にツッコミどころも山ほどある。けど、荒削りな勢いがなかなか魅力的。女子校生3人とも美人じゃないのも、いい。」
キャラにあだ名みたいなのがあるらしいのは、いわれが何も紹介されないのでよく分からない。途中で、主人公はハダシとか呼ばれていて、橋田とかいう名前なのか? と思ったけど、どーもハダシらしい。でも意味不明。ほかに、天文部はビート板で、剣道部はブルーハワイ、筋肉ふけ男はダディボーイ、とからしいけど、頭に入って来ないので、話が複雑になるだけ。ハダシとブルーハワイだけは耳に残ったかな。マンガが原作というわけでもなさそうだし…。
要は、時代劇が好きで高校映画部に入ったけど同じ趣味の部員はおらず、部内で浮いている。むしろ、趣味が同じなのは天文部と剣道部で、打ち捨てられた廃車に秘密基地をつくって時代劇ポスターやDVDをもちこんでたむろってるという変わり者娘が主人公ハダシ。部で製作する映画には学校から資金が下りるが、年間1本。部の人気者監督の花鈴の青春映画とハダシの『武士の青春』のシナリオが提出され、投票の結果、圧倒的多数で落選。部員は、夏休みに「好きだ!」と叫ぶだけの青春映画をつくることになった。それに不満のハダシ。撮りたい。けど主演にぴったりのハンサムがいない! が、地元の映画館で、時代劇を見て泣いている青年を発見。それが凜太郞。追いかけて頼み込むが断られつづけ、でも、なんとか後日、学校に拉致して、天文部、剣道部、電飾自転車の小栗、耳だけはいい野球部でボール拾いの駒田と増山を引っ張り込み、自作の脚本を映画化することに! という、都合よすぎる展開の映画。
つくりは大学の映研レベルで、もうちょっと丁寧に撮ればもう少しマシになったろうに。とはいえ、思いつきから突っ走ってとりあえず完成させてしまった勢いがあって、それが一番の魅力のような感じ。矛盾や疑問を挙げたらキリが無いけど…。
・嫌だと言っていた凜太郞が、学校に拉致されていたけど、どうやったんだ?
・生徒でもない凜太郞が校内をうろついたり、メンバーと行動するけど、その素性をだれも訪ねない。
・廃車に電気は通じてないだろうにビデオが見られるのか?
・映画部員たちはそろいのピンクのTシャツで、撮影は一眼、ライトや録音機材やら、本格的。高校レベルじゃなくて、大学の専門部レベルだろ。予算はいくらなんだ?
・ハダシたちは引っ越しバイトで資金稼ぎ? 何日やったんだ。
・ハダシたちの方も、浪人の衣装とか刀とか本格的で、集めるだけで大変だろうに。そういうところは、さらっと流てしまう。
・ハダシたちは、iPhoneで撮影。撮影は天文部、ライティングは電飾自転車(人力であんなんで照明にならんだろ)の小栗。あの自転車をどうやって海岸までもってったんだ? 録音は野球部の2人だけど、1人で十分なんじゃね? というか、野球部は辞めたのか?
・凜太郞は、ハダシの第一作を見にきた未来人。と告白されても、メンバーのみんなは、だれも驚かない!
・凜太郞は、友人のタイムマシンを借りてやってきた、と言ってなかったか? その友人が、学園祭の上映会にやってきてたけど、彼も誰かからタイムマシンを借りたのか? 
・ハダシの映画に出演したことで、この映画は廃棄しなくてはならなくなった、という。なんで? これで発生するタイムパラドックスなんてたかが知れてるだろう。というか、未来からやってきて、その痕跡を残した、なんてタイムトラベルのお話はいくらでもあるのに。
とかとか。
まあ、そういうことを言ってもしょうがない。ツメが甘いのか、こういうことを気にしない脚本なのか。どっちでもいいけどね。面白ければ。でも、マンガチック=大げさなのはまだいいんだけど、そうでもないところは少し気になるのよね。
でまあ、ほとんど完成というところで、ハダシは撮れなくなる。えーと。理由は何だったっけ? 未来の映像は5秒がスタンダード、1分なら長編、映画自体はなくなっている、と凜太郞から聞かされて、映画をつくる意味を問いだしたから、だったっけ? けど、そんなことにこだわる理由が分からない。いま、その時点でやりたいことをすればいいだけの話だ。未来のことを考え、いまを決断する必要はない。未来に映画がなくなっていたとしても、それは新たにつくられる映画がなくなっているということであって、凜太郞のようにハダシの映画が好きで好きで、その幻の映画を見るため過去にやってきた青年もいるのだから。
あと、よく分からんのが、『武士の青春』で、登場人物2人が最後に決闘し、でも、結局戦わない、ということにしたはずなのに、イザ学園祭の上映会のクライマックスで映画をとめさせ、壇上から「やっぱり戦う映画にしないと」とか叫び、メンバーを呼び込んで、凜太郞と自分とで決闘シーンを実際に繰り広げる、という場面。これはなに? ハダシが凜太郞を好きになり、もうすぐ凜太郞が未来に帰るので、その思いからなのか? なんかよく分からんな。とはいえあの立ち回りはなかなかで、怪我しなかったのかな、なほど派手だったけど。
足利がゾロゾロ登場してきた。赤い社は階段から察するに、足利織姫神社? と思ってたら見たことのあるような廃映画館(たぶん足利東映プラザ?)のファサードがでてきて。集団の立ち回りは鑁阿寺だろ。国宝の近くで撮影ができるのか? 長い橋は渡良瀬橋? 足利の観光地をフルに使っておるな。

 
 

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