2021年9月

山椒大夫9/2ブルースタジオ監督/溝口健二脚本/八尋不二、依田義賢
allcinemaのあらすじは「平安時代末期、農民を救うため将軍にたてついた平正氏が左遷された。妻の玉木、娘の安寿と息子の厨子王は越後を旅している途中、人買いにだまされ離ればなれになってしまう。玉木は佐渡に、安寿と厨子王は丹後の山椒大夫に奴隷として売られた。きょうだいはそれから十年もの間、奴隷としての生活を続けるが、ついに意を決して逃げ出すことにする。しかし追っ手に迫られ、安寿は厨子王を逃すため池に身を投げるのだった。」
Twitterへは「監督溝口健二。森鴎外の原作は未読。退屈かなと思ってたらいつのまにか引き込まれてた。貴種流離譚に名を借りた解放と民主主義の話ではないか。平安時代の歴史は分かりにくいけど、1954年当時の観客は概略分かってたのかもね。」
たぶん初見。船が出てきて、子供2人が…ぐらいな知識。古くさくてつまらん話だろうと思ってたら、だんだん引き込まれていった。どこかの荘園主でもやってた父親が民衆のために直訴し、責任を取らされて囚われのみになったのかな。で、妻と兄妹、下女が父親のいる地を目指して旅をつづける、という話。
なんだけど、平安末期の国政とか分からんので、もやもやするところが多い。まず、父親の地位や役職、父親はどこに連れて行かれ、どういう裁きになって、どこに行ったのか。佐渡? だとしても、なんで? 
母子は、どこを目指していたのか? 佐渡? しかし、女子供4人連れで、あんなんじゃすぐ追い剥ぎに遭うだろうに。それに、最初幼かった子供が旅の間に成長していて、では、数年の旅なのか? にしては華美な着物は変だよな。荷物も少ないし。でもまあ、お話だからいいか。
で、泊まるところがなくて野宿してたら巫女と名乗る女が来て泊まっていけという。翌朝、巫女は「船なら安心」と船着き場に連れて行き、そこで男たちが登場し、子供を連れ去ってしまう。下女は川に落ち、母親はどうなったのか…。母親は「金はいくらでも出す」といっていたけど、子供を売るより、金を奪った方が効率的じゃなかったのかな。
上品な子供すぎてなかなか売れなかったが、山椒大夫の所なら買ってくれるといわれ、男が連れて行く。2人の子供が出自を語らなかった理由がよく分からない。少しは加減してくれたかも知れないよな。違いか? で、奴婢として10年ぐらい過ぎたのか。厨子王は、父親の「自分に厳しく、他人に優しく」という教えも忘れ、テキトー男になっている。妹は、佐渡から来たという新入り娘が、安寿と厨子王の名を織り込んだ歌を歌うのを聞いて、母親が佐渡で遊女になっているらしいことを知る。ってことは、母子の目指していたのは佐渡なのか、と分かるんだけど、佐渡は父親の出身地か何かなの? それとも、流刑の地?
厨子王はある日、病身の奴婢老女を山に捨ててこいと言われ、でもそのスキに兄妹は逃げることに決定。妹が見張りの目をくらましてる間に、兄が老婆を背負って山中に消える。のだけれど、兄が突然真人間に戻るのが強引かな。
妹は、兄に、落ち合う場所を告げてたよな。でも、妹は逃げず、でも、見張りのババアに「お前、兄の行方を知ってるだろう。知っていれば、拷問にあっていずれ話すことになる」と言われ、自死することを選択する。というところが、素直になっとくできないところかな。逃げろよ、妹も。と。あるいは、死んだと思わせて、実は百姓に助けられていたとか、あるのかなと思ったんだけど、それはなかった。
兄は、山椒大夫の息子で父の所業を嫌って家出し、いまは出家した太郎のもとにたどり着く。山椒大夫の追っ手もやってくるが、太郎が追い払う。んだけど、奴婢男1人に、あんな大勢は変すぎだろ。はいいけど、厨子王はどうやって太郎を探しだしたんだ?! とツッコみたい。
厨子王は奴婢老女を預け、寺の貫首?に、京の関白宛の添え書きを書いてもらい、直訴することほ決意。こそこそ今日に入り、いつのまにか、あれは御所のなかに入り込み、直訴。が、あんな簡単にできてしまうのか? おいおい。もちろん捕まるが、もっていた伝来の厨子の如意輪観音像が関白の目に止まり、直接の目通り。関白は厨子王の父を知っていて、気の毒がって、厨子王を丹後国の国守に抜擢する。おお。なんとまあ。
で、任地に赴くと、人身売買禁止、奴婢の解放、働きたい者は従前通りでもよく賃銀を支払う、と領内に布告する。厨子王の目的は山椒大夫に酷使されている奴婢の解放だったけれど、山椒大夫の収める荘園は私有地で、しかも右大臣につながる。なので、決定事項は荘園には無効で、たとえ布告しても右大臣から無効の訴えがあるだろうし、ひいては国守の地位も追われる、と部下にたしなめられる。それを無視して高札を立てるが、山椒大夫の配下に壊されてしまう。ではと自ら山椒大夫に会いに行き、妹の死を知る。かつての奴婢が国守で現れたので山椒大夫もびっくり。その太夫を捕縛してしまう。
奴婢たちは太夫の居なくなった屋敷で飲めや歌え。家財を火にくべ、ついには屋敷が火事に。厨子王は退官届をしたため、部下に預けると、母を探して旅に出る…。山椒大夫はどうなる、あの布告は守られるのか? というところは描かれていないのはずるいかも。たぶん、山椒大夫は解放され、人身売買も奴婢も、元通りになるんだろうな。
津波で死んだと思われた母は生きていて、でも、かつて逃げようとしたせいで足の筋を切られて歩くのも覚束なく、しかも、盲目になっていた。厨子王の持つ如意輪観音像をなで、会いに来たのが息子と分かり、夫と娘の死を知らされる。2人は抱き合って再会を喜び、逝ってしまった家族を嘆き悲しむ…。てなラストシーン。カメラがパンすると、海岸では漁師が若布を干している。
と、ムダにあらすじまで書いてしまった。有名な話だけど、読んだことがなかったので、へー、な感じ。しかしやっぱり、平安時代の関白とか国守とか右大臣とか荘園領主の力関係がよく分からんのと、飛ばされた父親のことが曖昧にしか描かれていないことが、もやもや。それと、怒鳴るようなセリフが多く、その半分も聞き取れないのが困りもの。
印象的なシーンは、
ススキの原野を急ぐ家族の場面の、ススキの穂が美しすぎる。
安寿の入水の場面で、上半身と水面に映る影とか゜シンメトリーで美しい。
うみべの女の子9/6ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ウエダアツシ脚本/ウエダアツシ
allcinemaのあらすじは「海辺の田舎町に暮らす中学2年生の小梅。憧れの三崎先輩にフラれたショックから、以前自分に告白してきた同級生の磯辺を相手に初体験を済ませる。以来、恋人でもないのに体を重ねていく曖昧な関係を続けていく小梅と磯辺。小梅の幼なじみで秘かな想いを寄せている鹿島は、そんな2人の関係を怪しみ、磯辺に詰め寄るのだったが…。」
Twitterへは「高校生かと思ったら中2の設定かよ。好きでもない同級生とやりまくるクズ娘を、なんとなく純情そうに描くクズ映画。」
クズ女子校生の小梅がクズ先輩の三崎に惚れてセックスして生フェラ強要され飽きられて。反動でなのか、かつて自分に告白してきた磯辺にセックスしようともちかけるけれど、好きではないのでキスは嫌だといいつつバコバコと磯辺の家や学校のトイレでやったり。セックスしても、付き合ってはいない、というのが分からない。
かつて赤線があったころ。つき合う相手は清純なお嬢さんで、性処理は遊郭で、という時代があったけど、なにかそれを連想してしまう。小梅は、誰にでもやらせてくれる、いわゆる公衆便所じゃないのか。

小梅は先輩にセックス開眼されて、快楽を求める身体になったのか? 磯辺もそれで悪くない気分だけど、次第に磯辺は小梅に横柄になっていく。ある日のセックスの後、裸で寝ている2人。磯辺は小梅にキスしようとしてやめる。なんで? 意味不明。
小梅は親に買ってもらったカメラにご執心。磯辺の家で、SDカードが満杯になり、じゃあと磯辺から浜で拾ったSDカード借りてなかを見たら知らない少女の写真が写っていて。磯辺がその写真をデスクトップにしたり、日々眺めているのに嫉妬して写真を勝手に消去したら磯辺に激怒され、脱ぎながら謝り裸で迫るも拒否されて。どんどん磯辺が忘れられなくなっていく感じ。
小梅の幼なじみの鹿島は、磯辺と小梅の仲を疑う。磯辺は鹿島に、マンコに指突っ込んでいじると嬉しがって云々と、余計なことを言いやがる。でも、それ聞いて鹿島は磯辺をボコボコに。教師にも見つかるが、教師の前でも磯辺が挑発し、それに反発してまたしても襲いかかり、二階から2人とも落ちるというハードな展開はなんなんだ。お笑いか。
鹿島は入院。学校に行かずうろうろの磯辺は、学園祭の嵐の日、喫茶店の軒下で雨宿りしている少女と遭遇。それがSDカードに写っていた少女で、話をしたら進学校の高校生で。磯辺はその高校を受験することを決意、ということを小梅に告げる。このときだったか。小梅は、磯辺と別れる代わりにキスしてくれと頼むが、今度は磯辺が拒否する…。
この後だったっけか、小梅が三崎先輩らのパーティに友人とのこのこ参加。大麻吸わされそうになったり、飲み過ぎて吐いたり。友人に「帰ろう」といいにいくと、友人は先輩の誰かとベロベロチューで、友人に「ジャマ」と追い払われ、逃げ帰る。翌日? 。小梅は磯辺を訪れるも拒否され、でも結局一発やってしまうんだっけか。
この後だったか、磯辺は突然、三崎先輩を単独襲撃してボコボコに。日頃から「もうすぐ死ぬ」といっていたのは、こういうことか? それとも、小梅をふった三崎が憎いから? なんか筋が通ってなくて分からない。その後磯辺は警察に捕まるんだけど、あれは傷害? 殺人? 説明はなし。
高校に入り、小梅には彼氏ができて、簡単にキスさせてしまう。新しいカメラを持っていて、でも、データを見ようとしたらカードがない。落とした? と海岸に行くが見つからず。それでも「見つけた!」と海に足首まで浸かって幸せそうにいうのが嘘くさい。
・ずっと女子校生かと思ってた。そしたら中二かよ。じゃ三崎先輩も中三? それが、大麻だ酒だビリヤード? あり得ん。後半の学園祭も、中学でするようなところはないだろ。嘘くさい話だ。
・うみべの女の子、ってのは、SDカードに写っていた進学校の女子校生のことだなんだな。タイトルにまでして、なんの意味があるんだ? 小梅が遊女だとして、彼女は良家のお嬢様という扱いなのかね。
・浜辺に落とされたSDカードのアナロジーは、とくに効いていない。
・磯辺の、自殺した兄と、別居してるらしい父親が怪しすぎる。母親はどうしたんだ?
・小梅の両親、妹はただの脳天気?
・小梅の幼なじみの鹿島も、とくに機能していない。
・携帯画面のメッセージの文字が意味ありそうなんだけど、文字が小さくて見えんよ。そりゃ視力が良けりゃ読めるだろうけど。
くじらびと9/8ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/石川梵撮影/石川梵、山本直洋、宮本麗
allcinemaの解説は「伝統的なクジラ漁で生活しているインドネシアの小さな漁村ラマレラ村の暮らしと迫力のクジラ漁を記録したドキュメンタリー。長年にわたって村に通い、クジラと生きる村人たちの日々の営みとドラマを丁寧に見つめるとともに、手造りの舟と銛1本でクジラに挑む“ラマファ(銛打ち)”たちの命がけの漁を、ドローンなどの最新機材を駆使した臨場感あふれる映像で詳細に映し出していく。」
Twitterへは「圧倒的な迫力。目の前にクジラがいて、小舟に乗った人間が、銛一本で挑んでいく。生きるために獲る。死と隣り合わせ。まさに血の海。獲物は分かち合う。江戸時代のクジラ漁も、こんなだったのかも。」「文科省特選映画、文化庁文化芸術振興費補助金、は日本のクジラ戦略にも関係あるんだろうけど。いっぽうで反捕鯨の人が見たら、ただの虐待・虐殺映像にしか見えんだろうな。インドネシアの話ではあるんだけど。」書いたら速攻で監督本人から「クジラ戦略?全く関係ないです。映画のクオリティをみればお分かりになるはず。」と返ってきた。なので「国としての戦略という意味です。」と返した。すると「それでもないかと。前作はネパール大地震の映画でしたが、文科省選定でした。」と返信。なので、「映画のデキと選定・支援スタンプは別だと思います。べつに、戦略があって映画ができたなどとは言っていません。その作品がなんらかの目的に資すと考えたら、作り手の意図とは別に、スタンプを押すこともあるだろうということです。選定スタンプは、動員にも影響しますから。」と返した。以降、反応はない。はたして、こちらの意図はつたわったのか。映画は、権力によって利用されることもあるのだよ、ということが。

インドネシアに、いまだにこんな原始的なクジラ漁をしてる人たちがいるのかと驚いた。文化的な都市が近くにないのか、あってもこういう生活を好んでしているのか。1年に10頭クジラが捕れれば村人は食べていける、という。農業ができない土地なので、海産物は山の幸との物々交換で役に立つらしい。って、そんな生活をしてるのか? この土地を離れて都会にでる若者が増え、クジラ漁も手が足りず…というなら分かるんだけど。
なにせ、5、6人乗ったら定員の、手づくりの木造船(鉄釘は使わないとか!)の舳先に、銛打ちはなににも捕まらず、銛を手に仁王立ち、波に上下しても、微動だにしない。他の船員も、船のあちこちに立ったまま作業する。ある程度は発動機を使っていくけれど、さて漁となると、船員たちはみな櫂を使って小刻みに船を操る。そして、間近にクジラを見て、銛とともに飛び込むのだから凄まじい。船より遙かに大きいクジラ相手に、人間業じゃないだろ。
クジラの他に、狙うのはマンタ(巨大なエイ)、ジンベエザメ、マンボウと、みな大きな獲物ばかり。映画にも登場する男は、マンタ漁で縄に絡まって引きずられ、遺体すら見つからないという経緯をたどる。彼を弔うため海で貝を流し、別の船でその貝を拾い、それを遺骸の代わりにして弔うのだそうだ。へー。
獲物であるクジラの解体場面も興味深い。小さなナイフで、ザクザクきっていく。あの、白い部分は脂身ではないのか? 赤い肉もあるけど、干し肉にして山の人との交換につかってたよな。寡婦や老人、捕鯨に関わらない人々(どういう人か知らんけど)にも分け与えられるらしい。そういう社会がいまだにあるというのが興味深い。しかも、インドネシア。近代化も進んでいるはずなのにね。
最後は、新造した捕鯨船でクジラを追う。銛が投げられ、海が真っ赤に染まる。その赤い海の中にカメラも飛び込んでいく。危険がいっぱいの撮影だ。なかなかの迫力で、捕鯨なんて日本と北欧の数カ国だけかと思っていたのに、インドネシアでもやってたのね、という発見があった。
日本人としては、捕鯨が普遍的なものであることを証明するような気がして、仲間的気分になる。とはいえ、反捕鯨団体にとっては、ただの殺戮の記録にしか見えないだろうな。捕鯨問題は、なかなか面倒なところがあるから。
・字幕に「棉」という字があって。読めねえよ、フツーこんなの。帰ってから調べたら、「わた」のことだった。wikiによると「摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿」とあった。へー。知らなかった。
・船外機って、なんだよ。通信機か何かか? 帰ってから調べたら、エンジンのことだった。へー。そう呼ぶのか。初めて知ったよ。これって常識なのか?
アナザーラウンド9/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/トマス・ヴィンターベア脚本/トマス・ヴィンターベア、トビアス・リンホルム
デンマーク/スウェーデン/オランダ映画。舞台はデンマーク。原題は“Druk”。大量飲酒、という意味らしい。英文タイトルの“Another Round”は、「もう一杯」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「冴えない高校教師のマーティン。無気力な毎日を送る彼は、学校では生徒から授業がつまらないと文句を言われ、家でも妻子との溝は深まるばかり。そんな時、同僚から“血中アルコール濃度を0.05%に保つと仕事の効率が上がる”という理論を聞く。そこで、ためしにお酒を飲んで授業を行ったところ、思いのほか気力がみなぎり生徒の評判も上々だった。これに気を良くしたマーティンは仲間の同僚3人とともに、この説を論文にまとめるための実験と称して、勤務時間中の飲酒を実践していくのだったが…。」
Twitterへは「適度な飲酒は有効だ、という話を真に受けて昼酒を正当化し、ドツボにはまっていくバカ高校教師たちの話。どこがアカデミー国際長編映画賞に該当するのかよく分からん。デンマークじゃ16歳から飲酒OKなのか。へー。」
↑のあらすじ通りで、それ以外のドラマと言ったら、マーティンと妻との関係がどんどん怪しくなっていく、ということぐらい。あとは、4バカの飲酒しながらの仕事ぶりが描かれて、なんだ、飲んでてもイケるじゃないか、飲んだ方が調子がでとるぞ、な描写がつづくだけ。もちろんアルコール濃度はどんどん高くなり、ヨレヨレになってしまう体育教師とか、学校内に隠していた酒瓶が見つかったりもする。そうなるよな、飲んで気が大きくなっているのだから。自分に課す制約がどんどんゆるくなるのは当然のこと。アル中の定番だ。でも、だれもあれがアル中だという認識がない。すでにアル中なんだよ、そういうのが。なんだけど、映画では、見るからに酔っ払っていても、酒瓶が発見されても、いずれも大問題にはならない。そりゃ、おかしーだろ!
もちろんささいな事故とか怪我させるとか壊すとか、ぞわぞわさせるところはあるけど、結局、大したことは起こらず。大事故というと最後に体育教師が愛犬とヨットででかけて死んでしまうという程度。でも、あれは事故なのか自死なのか不明だ。飲酒が原因というわけではなさそうに描いているのだよね。それと、4人のうち誰かを犠牲にするなら、あり体育教師かな、という雰囲気はうすうす伝わってきていた。
マーティンと妻の関係がおかしい、というのは、そう言われているからおかしいんだろうけど。そんなにマーティンに原因があるのか? と思う程度。マーティンは、休暇を取ってカヌー乗りに行こう、と妻を誘うけど、妻の方が「忙しくて」と断っている。でも、妻も参加していたようだから、なんとかやりくりしたのか。しかも、テントの中で久しぶりに2人は燃えていた。なのに、冷めた関係なのか? マーティンが酔ってケガしたとか、その程度のことしか迷惑はかけていたなかったろうに。それだけじゃなくて、マーティンが言うには、妻は別に男をつくっていたらしい、よな。あれは完全なる浮気なのか、セックス抜きの遊び相手なのか、その説明はなかったけど、妻の方にも落ち度はあったんじゃないのかな。でも、こういうとき、いつも悪くされるのは男の方、ってのは、なんか納得がいかないな。
で、もうやめよう、ということになって、マーティンはあっさり昼酒をやめてしまう。そしたら生徒から授業がつまらなくなった、といわれて凹んだり。まあ、でも、飲酒して気が大きくなったからすべていいってもんでもないしな。
で、体育教師の死で、実験は終了。あとは、生徒の試験の話になるんだけど。大学入試のことかとおもっていたら、内申? いや、卒業試験なのか? デンマークの制度が分からんのでなんとも言えないんだけど。でも、試験管は高校の教師が務めているのだよね。だって、試験前に問題をちょろっと漏らして教えたりしてるし。あんなのありなのか? というか、生徒に口頭試験の前に「少し飲め」なんていって、そのおかげで緊張がほどけてうまく行った、なんてところを見せている。彼の地では16歳以上は酒を買ってもいいらしいけど、高校時代からそんなことしてたら、アル中間違いなしだろ。
で、最後は卒業式なのか? 卒業できた生徒は目印の帽子をかぶっている。落ちた生徒もいるだろうに、そっちは見せないんだよな。ずるくないか? で、生徒から勧められてマーティンもビールかなんかを飲んで、昔取った杵柄の華麗なダンスを披露して、ストップモーションで映画は終わる。けど、なんだよその終わり方、と思ったぞ。昼酒の反省は一切なしか。やれやれ。
孤狼の血 LEVEL29/10109シネマズ木場シアター1監督/白石和彌脚本/池上純哉
allcinemaのあらすじは「亡き先輩刑事・大上の後を継ぎ、一匹狼となって広島の裏社会に安定をもたらすべく奔走してきた刑事・日岡。目的のためには汚い手段もいとわず、どうにか危うい均衡を保っていた。そんなある日、上林成浩という男が7年の刑期を終え出所する。上林は自分が服役中に殺された五十子会長の仇をとることに執念を燃やし、原因となった抗争の黒幕を突き止めようとしていた。そんな上林の常軌を逸した暴走で、かろうじて保たれていた裏社会の秩序が崩れ始めるのだったが…。」
Twitterへは「復習は少しだけ役に立った。映画も復讐みたいな話だった。前作は分かりやすい対立構造があったけど、今回は在日シャブ中サイコな個人に矮小化されてて、いまいちな感じ。話もとっ散らかり過ぎ。」「前作のベテランと若手のコンビは、ありがちだけど分かりやすかった。役所広司の存在感はさすが。と、復習で前作を見て思った。今回、松坂桃李だけでは荷が勝ちすぎか。それと、冒頭に前作のダイジェストと組の上下関係、対立構造3分ぐらいあってもいいんじゃないか。それが親切ってもんだ。」
ネトフリに『孤狼の血』があったので予習して行った。先代イラコとか江口洋介の存在、日岡が使うライターの意味するところに役立ったけど、それ以外はほとんど関係なかった。
組の抗争という対立軸がはっきりしていた前作と比べると、在日ヤクザでサイコなヤク中・上林に振り回されるだけの話に矮小化されてしまっている。これは私怨の話ではないか。しかも、確認したら上林は前作で登場していない。なんだよ。それで五十子会長(石橋蓮司)に心酔していた、っていわれても、リアリティないだろ。話もムダに広がりすぎて漫画的な展開。やっぱり前作、役所広司の存在は大きかった。本作はちまちましすぎ。
さらに、得体の知れない偉い奴らが登場していて。吉田鋼太郎とか宇梶剛士たちなんだけど、どういう関係なんだ? 後から関係図見たら、仁正会を構成する綿船組の組長と若頭で、仁正会のトップらしい。でも、なーんも説明がないから分からんよ。映画でも関係図を見せろよ! で、映画HPの構成図には上林組というのが出てきていて、じゃあ昔から上林は五十子の下部組織だったのか? 上林が宇梶を刺し殺した後、宇梶の組を乗っ取って自分の組を立ち上げたのかと思ってたよ。まあ、その後、五十子会の2代目をなぶり殺しにして乗っ取っちゃうんだけど。…というような個人的な乱暴者が、仁正会をぐちゃぐちゃにしてしまうっていうのは、フツーのヤクザの世界であり得るのか? なんか、ないような気がするんだけどな。仁正会トップの綿船(吉田鋼太郎)が部下に上林をおとなしくさせるなんて、いくらでもできるだろうに。変なの。
上林は出所すると、看守の妹を襲い殺害する。手口が、実の母親を殺害した時と同じで眼を潰している。警察は犯行が上林のものと知りながら、泳がせる。この理由が分からない。仁正会をつぶし、対立する尾谷組とも抗争させるつもりだったの? なんか、ピンとこない。上林の、目玉を潰すという殺害手法も、同じ手口でバカすぎるだろ。
なので、以降の上林の実行するあれこれは、ちょっと荒唐無稽に思えて話に入れず。
最終的に、日岡がコンビを組まされた元公安の中村梅雀にハメられたというのも、たいした意外性はない。そもそもの元公安でうだつもあがらない中村梅雀がコンビを組まされた時点で、何かありそうだった。むしろ、公団の空き部屋に家財を持ち込んで生活を装うには時間も労力もいったはずて、隣近所が運送屋の音に気づかない不自然さが気になってしまう。で、あのファインダーとシャッターは記者ではなく中村梅雀だったのね。それで日岡とチンタ(村上虹郎)のつながりが分かり、それが上林に封書で送られた。それは滝藤の指示なの? 何のため? 上林に虹郎を殺させるため? このあたりももやもやする。
ところで、上林が日岡に執念を向ける理由も分からないよな。なんか恨みあったっけ?
で、チンタがスパイだというのが分かり、そのチンタが殺されたニュースを車内で聞く日岡。向かうはチンタの姉で日岡の彼女の家。ということは彼女も目玉をつぶされ殺されているのか、と思ったら彼女は無事で、チンタが鶏小屋みたいなところに目を潰されて死んでいるのだった。でもそれって変だろ。ラジオのニュースで報道されてる段階で、いまだにチンタの死体がブルーシートにも覆われず放置され、新聞記者や野次馬が駆け付けてるって。
というわけで、最後は上林が尾谷に殴り込みに行くんだったか。上林と日岡の死闘があって。互いに刺され嬲られなかなか死なない…。けど、上林は確か死んだのだったよな。あんまりくどくて、忘れちゃったよ。県警の管理官(滝藤賢一)の存在は面白いけど、どうなったんだっけ? 元公安の中村梅雀が、チンタの姉にやられたのは記憶してる。で、山の駐在になった日岡が、なぜか狼の幻影をみるという最後のくだりは、要らんだろ。
・日岡はたった3年であんなベテラン風吹かせられるのか? 仁正会と尾谷組は手打ちをして抗争がないのに、どうやって日岡は経験を積んだんだよ。
・中村梅雀の女房役に宮崎美子なんだけど、あれは実は婦警なのか?
アンモナイトの目覚め9/15ギンレイホール監督/フランシス・リー脚本/フランシス・リー
イギリス/オーストラリア/アメリカ映画。原題は“Ammonite”。allcinemaのあらすじは「1840年代、イギリス南西部の海辺の町ライム・レジス。母親と2人暮らしの古生物学者メアリー。暮らしは貧しく、生計のために観光土産用のアンモナイトを探す日々。そんな中ひょんな成り行きから、ロンドンからやって来た化石収集家ロデリック・マーチソンの妻で、この地で療養することになったシャーロットを預かるハメに。もともと人付き合いが苦手で、迷惑な存在でしかないシャーロットにも冷たく接するメアリー。それでもシャーロットが高熱を出して倒れてしまうと、渋々ながらも献身的に看護するのだったが…。」
Twitterへは「ひたすらつまらない。眠るかと思った。そうなるだろう展開はすぐに分かる。でも、そうなってもドラマもなんにもなく、淡々と終わる。ああ退屈だった。」
冒頭から、ひたすら陰気で暗い。時代とか背景とか説明なしなので、茫洋としか分からない。どっかの田舎町の浜辺で化石を収集し、それを売っている中年女と老母がいて、なんだけど、そんなんで生活できるのか? まあ、珍しい化石だと1つ売って1年暮らせるとは言ってたけど…。本格的な化石からお土産化石まであって、ってことは化石で有名な地域なのか。では、なぜ競合は現れないのか? 大英博物館や化石コレクターが買い上げるようなのを発掘できるなら、ライバルもいそうな気がするけど。ってな疑問がハナから湧いて、どーも話に集中できない。
そこにコレクターのマーチソンがうつ病の妻をつれてやってきて、妻シャーロットを1月ほどみてくれないか、と頼まれる。って設定も、なに? なんで見ず知らずの化石屋の中年女に、その採集に連れて行って興味をもつようしてくれ、って唐突すぎだろ。金に釣られてメアリーは了承するけど、足手まといになるだろだろうに。と思っていたら、うつ病治療で荒海に浸かり、おかげで高熱で寝込んで、治った後は無口だったシャーロットが多弁になり、その後は積極的にしゃべりだす。地元の医師の開いた音楽会に行けば、初対面のオバサン(あれ、女牧師か?)と話し込み、メアリーをほったらかし。医師は最初メアリーだけ招待したんだけど、メアリーは「シャーロットも一緒でないと行かない」と言い張り、じゃあ、ということでシャーロットも音楽会に参加できたのに。なせいでか、メアリーは孤独感を感じたのか、途中で家に帰ってしまう。無神経な女だよな、シャーロットって。なんて思ってると、シャーロットはあれこれメアリーに提案したりし出す。なんだこの展開は。うつ病がそんな早く治るわけないだろ。でも、2人の関係は次第に親密になっていく。他にドラマも発生しないし、この2人そのうちキスしちゃうなと思っていたら、そういう気配が次第に濃厚になっていく。そう。この映画はレズを描いた映画だったのだ。
シャーロットが病気のとき、メアリーはある女の家を訪ね、塗り薬を求める。この2人の関係がなんともギクシャクで、シャーロットは本来なら話もしたくないという感じ。女の方は、メアリーに気を使っている。でもって、女は牧師のような(女牧師がいるのか知らんけど)ことをしている? なんなんだ、と思っていたけど、かつてシャーロットは彼女と同性愛関係にあったんだろう。で、音楽会でシャーロットが話し込んでた相手がこの女だとしたら、メアリーは嫉妬してたのかも知れない。
シャーロットの亭主から「返ってこい」という手紙が送られて来て、それをきっかけに2人は突然キス。濃厚なレズシーンも見せてくれるけど、やっときたか、な感じ。ここまでが長かった。別れまでの蜜月は興味深いけど、こんな寒村で2人がべたべたしてたら怪しまれるだけだと思うが。当時は、レズビアンは違法行為ではなかったのか? よく知らんけど。
残されたメアリーの所にシャーロットから手紙が来て、いそいそロンドンのマーチソン邸にいくと、なんとシャーロットによってメアリーのケバい部屋が用意されていて。ここに住め、という。シャーロットはメアリーでレズ開眼したのか、それしかない様子で。化石愛なメアリーは、地元を離れる意志はない。あたりまえだろうに。で、大英博物館に展示されている、かつて自分がみつけた化石の展示台に行くと、シャーロットもあとからやってきて。展示台を挟んで(距たりを表現してるんだろう)2人がいる、という場面で映画は終わる。
レズ映画が主目的なら、前半のメアリーの陰気な生活は大幅に端折って構わないのではないの? 老母との食事で、ゆで卵に雛がいたとかいう描写になんの意味があるんだか。むしろシャーロットの、亭主との生活の味気なさとか、うつ病の原因とか、そういうところを示唆する絵が欲しい。
あと、メアリーと女牧師(?)との関係を、もっとはっきり見せて欲しいな。さらにいうと、当時の考古学界では、発見者の存在が軽んじられていた(?のか)とか、それは女性であったせいだった、とか、そういうこともはっきりと見せて欲しい気がした。
・亭主と宿泊する宿で、シャーロットが亭主の体を求める場面があって、あれが違和感ありすぎ。自身は興味もない寒村で、うつ病なのに、セックスしたがるのか? 亭主は「疲れてる」と断るんだけど、あれは、性に飢えてると言うことを見せたかったのか?
・冒頭で大英博物館に運ばれてくる標本には採取者メアリーと書かれてたけど、ラストで登場する同じ標本には、だれそれ寄贈と別人の名が書かれてるだけだったけど、どういうこと?・メアリーがシャーロットの屋敷に行くとガラスケースに化石があって、キャプションに採取メアリー・アニングとあり、でも剥がすと下にR.マーチソンとあるのは、シャーロットの亭主が採取したけど、メアリーの名前の方がカッコイイからそうしてる、とかなのか?・動物焼き物は売り物で歯なく老母のコレクションなのか。なんか意味あるの? 映画にとって。
・冒頭で床掃除してたのがメアリーで、次の場面で石炭を取りに行った人物と同じかと錯覚していたよ。
この世界に残されて9/15ギンレイホール監督/トート・バルナバーシュ脚本/トート・バルナバーシュ、クラーラ・ムヒ
ハンガリー映画。原題は“Akik maradtak”。Google翻訳では「誰が泊まったのか」とでてきたけど…。allcinemaのあらすじは「1948年、ハンガリー。ホロコーストで両親を失い、一人生き延びた16歳の少女クララ。今も深い心の傷を抱え、一緒に暮らしている大叔母にも心を開くことができずにいた。そんなある日、42歳の寡黙な医師アルドと出会ったクララ。彼に自分と同じような孤独を感じ取った彼女は、父親を慕うようにアルドに懐き始める。それを見た大叔母は、アルドにクララの父親代わりとなってほしいと願い出る。戸惑いつつもクララの境遇に同情し、もう一人の保護者として週の半分を一緒に過ごすようになる。互いに心を寄り添わせ、優しく穏やかな日々を送るようになる2人だったが…。」
Twitterへは「16歳の娘に慕われ添い寝を求められる42歳のオヤジ。作り手はロリオタで妄想爆発か。事前情報ゼロで見たけど大戦直後は分かっても舞台も背景も分からず、ロリ展開が淡々とつづくので退屈。ヒロインが可愛いからなんとかもったけど。」
↑のあらすじの、時代、舞台となる国、ホロコースト、などははっきりつたえられない。アルドの腕に刺青があるので、かれが収容所からの生還者であるのは分かる。それ以外は茫洋としている。とくに舞台が分からなかった。オープニングタイトル以後の名前にユダヤ系らしいのが多いので、イスラエル? と思ったけど、どーも変。そのうちポーランドか? と思い、ウィーンの名前がでてきたので、もしかしてオーストリア映画? ロシア語はでてこないし…。で、帰ってから調べたらハンガリーだと。事前にあらすじよんでれば戸惑わなかったろうけど、できるかぎり事前に情報を入れたくないのでね。他国の人も見ることを考えたら、冒頭に「1948年、ハンガリー」とあるのが親切。それだけで絞れるのだから。
てなわけで、素性が良く分からない女の子クララが、いい歳になってもまだ生理がないから、ってんで医師アルドの診断を受けて。しばらくして、医師を再訪。「生理来たよ」って報告するんだけど、「家までついてっていい?」て自ら押しかけ、部屋の中をあれこれ観察し、そのまま泊まっちゃうんだっけか? 泊まるのは後日だったか? で、その後はアデルの家に入り浸りで、ついには居候状態。狭いベッドにほとんどくっつきながら寝るという、なんじゃこれ、な話なのだ。16の娘に「おじさん好き。部屋行っていい? 泊まってもいい? いっしょのベッドに寝ていい?」なんていわれて、おじさんはどーすんだ、な話だよな。
クララは大叔母と暮らしていて、でも波長が合わないのか、勉強も余りせず、かといって不良でもない、という、フツーにいい子なんだけどね。どの部分で大叔母と合わなかったのか? いがみあってる風もないし、謎。ちょっと字幕を追うのが追いつかなかったんだけど、クララは孤児院にいて、大叔母が見つけて連れてきた、てなことを大叔母が言ってたような。大叔母は、別人を探して孤児院に行ったけど、クララを連れ帰った? まあいい。
というわけで、大叔母公認でクララはアデルの居候になってる感じ。大叔母も、よくそんなの認めたよな。やっかい払い? でも、ケンカもしてなかったけどな。
ときどきクララは父親のことを思い出し、アデルに重ねる。ホロコーストで両親を失い、だからアデルに父親を見ていた、と言いたいんだろう。でも、5つ6つの子供ならまだしも、16にもなってそれはないだろ。アデルは、同年齢の子と遊べ、というんだけど、アデルにとって彼らは子供にしか見えず、たいていの男の子には惹かれない。まあ、そういう設定にしてるから、だけど。いつまでたっても、アデルが1番。いやー、見てるおじさんには嬉しい展開だ。
ロリータでなくても、大人に近い娘に好かれて、アデルは戸惑いもしないのか? 彼も妻や子を失っているから、娘に見える、のかも知れないけど、これまた都合のいい展開だよな。
少し不登校気味になり、公園のベンチでアデルの膝枕でごろごろしてるところを学校の教頭だかに見られ、注意を受ける。でも、2人はとくに引き離されることもない。てなとき、アデルはつきあっている女性をクララに紹介する。あの女性は、患者でがん患者だった人か? 別人か? どっちでもいいけど。クララは女性に嫌がらせをすることもなく、反動として自分に興味をもってくれている同級生の青年とつきあい始める。
さて、と思ったらなんといきなり10年後。みんな集まってのパーティか。アデルはあの女性と再婚している様子。クララも、あの青年とつきあっているのか、すでに結婚しているのか。そして、まだ大叔母も元気でいた(よな、たしか)。というところであっさり映画は終わってしまう。
両親を失ったクララ。家族を失ったアデル。その欠落を補い合うように暮らす2人。てな解釈が一般的なのかも知れないけど、この設定はやっぱ変態的だよ。この監督、ロリータ妄想があるんじゃないのか。クララが父親にだけ思いを馳せ、アデルと重ねるのか、意味不明だし。いくら発育が不全といっても、クララは思春期を終えようとする年齢だし。とくに不愉快さは感じなかったけど、妄想はあれこれ膨らんだよ。
近松物語9/17ブルースタジオ監督/溝口健二脚本/依田義賢
MovieWalkerのあらすじは「京烏丸四条の大経師内匠は、宮中の経巻表装を職とし、町人ながら名字帯刀も許され、御所の役人と同じ格式を持っていた。傍ら毎年の暦の刊行権を持ちその収入も大きかった。当代の以春はその地位格式財力を鼻にかけて傲岸不遜の振舞が多かった。その二度目の若い妻おさんは、外見幸福そうだったが何とか物足らぬ気持で日を送っていた。おさんの兄道喜は借金の利子の支払いに困って、遂にその始末をおさんに泣きついた。金銭に関してはきびしい以春には冷く断わられ、止むなくおさんは手代茂兵衛に相談した。彼の目当ては内証で主人の印判を用い、取引先から暫く借りておこうというのであった。だがそれが主手代の助右衛門に見つかった。…」とラストまでつつきんだけど端折る。
Twitterへは「監督溝口健二。思惑が交差する前半の、船上での告白まではなかなか面白いけど、その後がくどい。役所の処遇とか取り潰しも説明足りなくて端折りすぎ。そもそも大経師の格とか位置づけもよく分からない。当時の人はすぐ分かったのか?」
近松門左衛門の『大経師昔暦』を川口松太郎が劇化し、それを依田義賢が脚色したらしい。70年近く前の映画だけれど、前半の、おさんの兄の借金話ほ発端として、話の行き違いなんかでついには不義密通疑惑にふくらんでいく経緯はテンポ良くスリリングで、さあどうなっちゃうのかな、なヒキが十分。ついに茂兵衛・おさんは入水するしかないところに追いつめられて…。溝口の小舟と靄の場面は『雨月物語』にもあったと思うけど、神秘的でうつくしい。さて、死ぬという前に、茂兵衛が「実はお慕い申し上げておりました」とおさんにすがり、それを聞いたおさんがハッとして「それを聞いたら死ねなくなりました」といい、暗転するところの切れがいい。というか、ここで話が終わってもいいんじゃないのか、と思ったぐらい。
で、転落していく物語の興味はそこで終わってしまい、あとはだらだらと逃避行のつづきで、これがわりと単調で同じようなことの繰り返し。とくに、茂兵衛おさんの法的処遇がどうなるのか、の説明がほとんどないので、見ていてもハラハラしない。不義密通が表に出ると大経師は取り潰しになる、のは分かる。でも、2人は役人に追われている。誰がどのように役所に訴え、どういう罪で追われているのか? 以春は、おさんだけ連れ帰れ、と家の者や手下に告げている。身投げしたという噂を聞くと、「引き離して、おさんの死骸だけもってこい」といっていたかな。でも役人は人相書きまでつくって2人を追っている。2人が茂兵衛の実家で捕縛されたときも、役人はおさんだけ駕籠で連れ去ってしまう。そして、茂兵衛のことは実家の父に見張らせて、しばっておくだけ。首をひねってしまう。
この後、父親は茂兵衛を逃がすんだけど、そんなことをしたら自身や村人全員に罪が及ぶ、といっていたよな。どうなったんだろうと心配になる。逃げ出した茂兵衛は、おさんの実家の岐阜屋に行き、そこでおさんと再会するのだけれど、この話の発端となった借金男で、おさんの兄の道喜が役人を呼んだことで捕縛され、あわれ茂兵衛おさんは引き回しの上磔。大経師はとりつぶしで、大経師の主人・以春と手代の助右衛門は所払いだったか遠島だったか。そんな感じで終わる。
この映画の物足りないところは、前半で、茂兵衛がおさんに気があるところをまったく見せないところだ。いま心中しようという船上で告白し、それに反応して「死ねない」といい、その後は契りを結んで離れられなくなるにしては、おさんの茂兵衛への思いが足りなすぎ。ここを示唆する何かを描かないと唐突すぎて、後半の説得力はないと思う。
・大経師とか、何やってる人? だよね。出かける先は「関白様」って、だれなんだ? 天皇家の奥まで入れたと言うことなのか? 他にも、何度かでてくる公家みたいなのとか、以春から借金してるようだけど、どういう関係なんだ? とか、よく分からん。
・大経師以春が目をつけた女中・お玉に南田洋子なんだけど、面影はなくて別人のよう。かわいらしいけど、顔が良く見えない。以春はお玉の寝所に度々やってきて…といっているけれど、あれは、断り続けていると言うことなのだろうか、いやいやなんどか体をゆるしてしまった、ということなんだろうか。
・岐阜屋の道喜の脳天気さがなんともね。遊びまくって借金苦で、妹に頼ったら妹が困窮。でも、そんなことはお構いなく役人を呼んで捕縛させる。そのせいで妹が磔になっても平気な顔をしている。なかなか過ぎる遊び人だ。
・おさんと以春では年齢が…と思っていたら、30も年上のところに後妻らしい。以春には子はいないのか? 気になるよね。
・古典的な楽器を活用している音楽が、よかった。
レミニセンス9/22109シネマズ木場シアター1監督/リサ・ジョイ脚本/リサ・ジョイ
原題は“Reminiscence”で、「回想」。allcinemaのあらすじは「海面上昇が進み水に覆われた近未来の都市。顧客が望む記憶を呼び起こして追体験させるサービスを生業とするニック。ある日、失くした鍵を見つけたいと現れた謎めいた女性メイに心奪われる。ほどなく互いの愛を確かめ合ったのも束の間、メイは突然ニックの前から姿を消してしまう。やがてギャング組織の犯罪にメイが巻き込まれていることが分かり、彼女の行方を追って記憶潜入を繰り返していくニックだったが…。」
Twitterへは「消えた女を追う記憶再生屋の話。ハードボイルドSFだけど他人の3D記憶からヒントを見つけ、たまに足を運ぶ程度。オチはよくある感じで意外性なし。そもそも…のところが分かりにくいかな。水没都市はただのお飾り。タンディ・ニュートンが格好いい!」
ノーランがどうのこうのというから少し構えたけど、ノーランの弟が製作者に名前を連ねてる、ってだけなのね。で、話は、怪しい女メイといい関係になったニックだけど、突然メイがいなくなって、彼女の足跡を追っていく、という話。実はメイは、始めからからニックに接近する目的で近づき、用が済んだから消えただけだった。でも、つきあっているうち、ニックに惹かれるようになっていた…。というオチはありすぎる定番で、意外性はまったくなし。で、そもそも話はどこから始まるんだ? 色んな名前と人が出てくるので、途中でよく分からなくなってしまったよ。でも、最後はなんとか分かった、かな。
話の流れは、こんなかな?
資産家の地主が死んで、妻と長男が巨額な遺産を受け取ることになった。しかし地主は愛人に子供を産ませていた。そこで長男は悪徳警官ブースに愛人とその子の殺害を依頼した。ブースは、麻薬王ジョーから麻薬を盗んで逃げたメイに、記憶再生屋のニックに近づき、愛人の記憶データを盗ませようとした。金庫の鍵を開けるのに難儀して時間がかかったけれど、なんとかメイはデータを奪取。ニックの前から消えた。ブースは愛人を殺し、子も…と思ったが、悔悛したメイが子を救いだし、海上ハウスに住む老婆に預けた。ブースはメイから子の行方を聞き出そうとするが、メイは麻薬を大量摂取し、自ら水中に沈んでいく。ニックはブースにたどりつき、格闘の末にブースを確保し、記憶再生装置につなぐ。ブースに子の居場所を追及されたメイは、ブースをニックになぞらえて会話し、子の居場所をしゃべる(ブースには意味不明の内容)。メイはブースをニックにたとえてキスし、その後、麻薬を大量摂取して自ら水没死する。ニックは地主長男の罪を責める。地主長男は「捕まるぐらいなら」と自死しようとするが引き金が引けず。地主妻は、長男を妊娠した幸せな時期の記憶に生きる…。ニックは、メイとの蜜月の時代の回想に生きる。ニックのパートナーであるワッツが、10数年後ぐらいに訪れると相変わらずニックは記憶プールの中にいて、メイとの夢の時間を見つづけていた…。で、END。で、よいのか? 違うか? 分からんけど、こんな話を断片化し、見せていく。
でも、いろいろ疑問はあるんだよね。
・メイはニックに接近するため、鍵をなくしたので探して欲しい、と記憶再生を依頼する。このとき、メイの企み部分も再生される可能性は、ないのか?
・最初の頃のお客で、いつも同じ情事を回想していた女性客が、地主の愛人なのかい? 顔と名前を忘れてしまってるので、ついていけないよ。
・メイが潜入したのは、地主の愛人の記憶ファイルを盗むため? そのファイルに、どういう価値があったんだ? 地主が浮気していた決定的な証拠?
・メイは、地主の愛人の息子を命がけで救う。そんな正義感がなぜ突然、湧いたのか? さらに、麻薬によってその息子の居場所を教えないよう、自ら麻薬大量摂取で自死する。そんなことする必要ないだろうに。
・記憶再生装置は、戦時中に捕虜から秘密を聞き出すために開発された、という触れ込み。そんなものを警察が利用し、一般人も気軽に使えるという設定は、なんだかな。
・そもそもの地主、というのの存在がよく分からんのよね。沈んでない地面の所有者なのか?
・メイはヤク中でジョーのところに入り浸りだったのか? 悪徳警官のブースは、ジョーの手下なのか? それにしても、ワッツ1人の急襲でジョー一味が一網打尽はマンガ過ぎだろ。
・地主の奥さんは、子供を宿したときの小芝居を延々と繰り返してるけど、あれはなんなんだ? あのときが1番幸せだったから? ではなぜ回想マシンでなく、小芝居なの?
とかいろいろあるけど、もう一度見たら、なるほど、って納得できるかしらね。
浜の朝日の嘘つきどもと9/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/タナダユキ脚本/タナダユキ
allcinemaのあらすじは「福島県相馬市にある名画座“朝日座”。地元の人々に愛されてきた映画館だったが、時代の波に翻弄されて厳しい経営状況が続き、支配人の森田保造は閉館を決断する。そこへ茂木莉子と名乗る女性が現れ、朝日座を立て直すために東京からやって来たと語ると、存続を完全に諦めている森田に対し、潰されたら困ると強く訴える。そこには、ある恩師との約束があった。こうして茂木莉子は、勝手に朝日座の再建に奔走しはじめるのだったが…。」
Twitterへは「キョンキョンと高畑充希で映画館の話。フツーに面白いかと思ったら、軽く寝てしまったぐらいつまらない。高校時代はざっくり要らんだろ。現在の奮闘をコミカルに描けよ。地味すぎ。長回し要らん。しかし福島の人を結構disってるのはいいのか?」「ムダに、といえば、セリフにアドリブ多すぎないか。緻密に構築というより、ほったらかしな感じ。全体にテンポはないし、ギャグはすべってるし、くどいし。脚本も演出もダメだろ、これ。」
タナダユキは『タカダワタル的』『月とチェリー』『百万円と苦虫女』『ふがいない僕は空を見た』『ロマンス』を見てる。『タカダワタル的』はドキュメンタリーなので別として、他はどれも印象に残ってなく、冗漫で、つまらなかった印象。で、この『浜の…』も同様で、ムダばかり多くて肝心な部分を外していくような展開なので、喬太郎や大久保佳代子を迎えながら笑えるところはほとんどない。退屈で、2回ほど数分目をつぶってしまった。隣にいたオバサンは熟睡してたぞ。こういう、勘所を外した映画を撮る監督がなぜ重宝されるんだろう。よく分からない。
そもそも茂木莉子が朝日座の再建にやってきた理由が、なかなか分からない。恩師に言われた、は中盤で出てくるけど、はっきりとした理由は後半。そんなのさっさと知らせろ。もやもやしてしょうがない。莉子が配給会社にいて、でも会社がつぶれて、それで故郷に戻って昔からある映画感を再建、なんだろ? だったら莉子にもこの映画感の思い出を語らせるべきなのに、莉子は高校時代に朝日座の存在すら知らなかったようだ。なのに再建にやってきたのは、恩師・田中先生が赴任中によく通っていて、思い入れがあるから、程度の理由。なんだそれ、だよ。田中先生は映画ファンで、でも変な映画にこだわる人で、併映の組合せで支配人・森田に食ってかかったこともある。ならそのエピソードをもっと早くに持ってきて、カルトファンらしい知識を披露すればいいんだ。朝日座と、通っていた地元客、支配人らの交流も、あとからチラッとしか出てこない。莉子の両親も、新婚旅行で寄ったとか(だっけ?)いう話だった。なのに莉子の高校時代の話が前半にだらだらつづく。あんなのほとんど要らない。経緯だけつたえればそれでいいだろ。『ニュー・シネマ・パラダイス』的な映画愛、映画館愛がちっとも見えないんだよね。
莉子の両親との軋轢について言えば、あんなにしつこく描く必要はない。要は、莉子の父親はタクシー会社経営で、震災直後は重宝され、ありがたかれた。けれど次第に震災成金と言われるようになり、父親は逃げるように東京に、だっけか? 残された莉子は学校で迫害されたとかういう話だったか。東京に転校し、でも友人もできず、退学し(だっけか?)夏休みに帰省し、田中先生宅に転がり込んだ。そこで映画の楽しみを教えられ、でも、母親からの「帰ってこい」電話に田中先生が断り続け、母親は誘拐容疑で警察に。田中先生は事情聴取され、結局、莉子を帰らせた。莉子には「高卒認定とって大学に行け。あんたにはそれがいい」とアドバイス。以降の履歴は分からんけど配給会社に入り、でもつぶれて、田中先生に会ったら末期がんかなんかで、その遺言が「朝日座を救え」だったという回りくどさ。
ここでポイントは、東北人の妬み・迫害の凄さが描かれていることだ。父親のタクシー会社は成長し、大会社になっている。これについて、非難めいたことは描いていない。どころか、いまでもハンドルを握る社長として美化している。他にもも東北人ディスりはあって。後半、朝日座で映画をかけると、1回目は客が来たけれど、2回目は来ない。その利用は、朝日座の土地を購入した会社が、地元の人に「映画館よりスパ&レジャー施設。雇用も広がる」と説得しまくり、それで地元民は納得した、という展開だった。でも、その会社にすれば450万だったかの資金提供を続け、再建めどがつかないからと土地を買い上げる仮契約を締結。建物の取り壊しの手配まで済ませていたのに、莉子の提案で白紙に戻したい、というムリな注文をされてのことだ。会社側だって必死になるだろう。だから、工事費含め1450万だったか、を要求するのは当然だよな。と、説明が長くなってしまったけれど、地元民にとっては映画館よりスパと雇用、目先のメリットなのだ! 映画とか文化なんて二の次なのだ、という本音を見せてしまっている。いいのか、こうやって地元の人間ディスりをやって。映画なんだから、嘘でもいいから夢を見させろよ。もちろん、その後の展開で、クラウドファンディング、それで足りない分は地元民の寄付、それでも足りず、莉子の父親の500万だったか、が集まって解体作業は中止されるのだけれど、むりくり過ぎるだろ。地元民は、スパと雇用から、客の入らない朝日座に、どう心変わりしたんだ? それはまったく描かれていない。本来は、ここを描くべきだろう。莉子の高校時代の話とか、田中先生の恋話とか、そんなのは要らんのだよ。
当然ながら、莉子の高校生パートに喬太郎は登場しない。主人公は莉子で、彼女の成長を軸としているからだ。けれど、朝日座と支配人・森田を中心に据えたら、莉子は地元の観客よりも縁の薄い人物になる。それが突然、再建だ、ったって、なんだよ他所者が、ってなるんじゃないのか。
悩む森田、地元民の朝日座とのつきあい、個々の思い出話、映画が盛んだった頃のあれやこれや…。そんなことを、ありきたりでも盛り込むのが定番なんじゃなかろうか。
喬太郎も、仕掛けのあるセリフではなく、その場の思いつきみたいなしゃべくりしかできていない。もっと饒舌なのが莉子の高畑充希で、猛烈に口がまわるけれど、どーもこれは脚本に書かれたものではないのではないか、という疑惑が湧いてきてしまう。喬太郎も高畑充希も、その場の設定だけ指示され、その枠の中でアドリブをかましてるんじゃないか。まあ、それが監督の狙いだとしても、軽薄としか言いようがない。芯がない流れの中で、うわっつらだけお笑いにしようとしたってムリなんだよ。
後半になって、豪華な役者がちょい役で登場してくる。大和田伸也とか六平直政とか斉藤暁とか竹原ピストル(ただ立ってるだけだけど)も。監督かプロデューサーの声かけでつきあいで集まった感じか。1日でががって撮っちゃいました、な感じかも。な、使い方も、うーむ、なんだかな。
さいご、借金を返済し、解体費用も負担して朝日座は残ったけれど、それでいいのか? 田舎の映画館に客なんてこないし。経営者の負担が増えるだけだろ。将来も解体しないためには公的負担が必要だろうし。将来は多目的ホールとして、市の施設にでもなる他はないんじゃないのかな。と予測。
・自分の名前補告げるとき、正直に告げず、映画館の窓口あたりを見て「茂木莉子」というのは『用心棒』だ。「まだ始まっちゃいねえよ」は『キッズ・リターン』で、これは映画中にも言及されてるけど、この手の引用を持っとやりゃあいいのに2つでオシマイとはね。
・『東への道』は数年前に見たので流氷のシーンは覚えてる。けど、そんなフィルムを燃やすか!? 映画館ができたとき最初にかけた写真なら当時のフィルムなわけで、それが残ってる理由はよく分からんけど(借りたはずだし)、でも売ればいくらでも金になるだろう。映画館の経営者として信じられない行為だよな。いくら映画的演出だとしても。
・その他の、引用されている映画は、いまひとつポピュラーではなく、選定がひねくれてるよな。田舎のオバサンでも分かるような映画にしろよ。そこに何本か自分の趣味をいれてもいいけど、あれじゃおかしさなんて伝わらんだろ。
君は永遠にそいつらより若い9/28テアトル新宿監督/吉野竜平脚本/吉野竜平
allcinemaのあらすじは「大学卒業を間近に控えたホリガイは、児童福祉職への就職も決まり、どことなく手持ちぶさたな日々を送っていた。周囲が言うほど変わり者との自覚はないながらも、漠然とした欠落感に不安と焦りを募らせていた。そんな中、同じ大学に通う一つ年下のイノギと知り合い、自分とは対照的な彼女との交流を通して、改めて自分自身とも向き合っていくホリガイだったが…。」
Twitterへは「多少の違いはあれ誰もが抱えている焦燥感、自信のなさ、隠しておきたい部分…。他人には推し量り得ない、背負っている何かが、飛び散らかったエピソードからじわじわつたわってくる。最後が端折りすぎでちともやもやするけど。」
フツー映画は主人公の生き方が中心で、どういう人物で、どういう経歴で、何を考え、何をして、どこに向かって行くかが語られるものだ。ところがこの映画では、主人公に魅力がなく、人物像も薄い。主人公の堀貝は、ほとんど空虚だ。4年の初頭には就職が決まり、故郷に帰って児童相談員になる、ということがあるだけ。堀貝は映画の中でほとんど何もしない。ドラマは脇の人物に起こっていく。
冒頭、赤い自転車が草むらに倒れている。爽やかにさえ見える。
堀貝は大学四年生で、いち早く故郷和歌山の児童相談員に就職が決定。気になっているのは自分がいまだに処女であること。なのに、見も知らぬ児童の世話ができるのだろうか? などともやもや考えている。根底にあるのは10年前の幼児失踪事件で、それがなぜなのかは知らないけれど、児童相談員になるきっかけのようだ。
堀貝がちゃらちゃらしたキャラに描かれていて、軽薄に見える。むだにしゃべり過ぎ。彼女の意志はほとんど見えない。まあ、自分はなんなんだろう? と、思いながらも社会人にならねばならない女性の不安みたいなものはあるのかな。でもはっきりしないので、堀貝にはあまり魅力を感じない。むしろ、多くを語らない猪乃木に惹かれる。
猪乃木はたまたま知り合った3年生。両親は離婚し、小豆島の祖母に育てられた。小豆島と聞いただけで、勝手にロマンを思い浮かべる堀貝。まさに軽薄な感想だ。
他にゼミの同期吉崎と吉崎の友人で一度だけ話して気の合った穂峰がいる。穂峰は警察に捕まっていたとかで、その理由は自室の下の部屋の児童虐待。放置されていた少年を自室に連れて帰ったら、帰宅した母親に通報され、誘拐罪でつかまったという。起訴はされず帰されたけれど、子供が心配、と漏らしていた。その穂峰がバイク事故死した、と吉崎から聞かされる。その後、葬儀から帰った吉崎から、穂峰は自殺だった、と真相を聞かされる。ここで、堀貝はこの映画で唯一の行動を起こす。穂峰の下の部屋を訪れるのだ。でもドアは閉まっている。なので、穂峰の部屋のベランダから階下のベランダに飛び移り、ガラスを割って中に入る。そして、毛布にくるまりうずくまっていた少年を助け出すのである。幼児失踪事件と、この少年の救出が結びつき、ラストシーンの、児童相談員としての活動場面とつながる。そう。彼女は、児童を救い出すためにいるのだ、と。とはいえ、このエピソードも脇役の穂峰から派生したもの。もし堀貝が児童に感心があれば、最初に話を聞かされた時点で行動しているはずだ。
一方、吉崎は穂峰が自死した前日、穂峰と深酒して盛り上がっていた。その翌日の自死と聞いて、それを見抜けなかった自分を責める。穂峰の兄だったかにも、葬儀の時、変わったことはなかったかと聞かれ、なにも言えずにいた。なにか気づいていれば、穂峰を救えたかも知れない、という思いは、これからも重荷になるのだろう。
堀貝のバイトの同僚の安田はマッチョなやつ。でも悩みがあって、それが巨根。それを見ると女は去って行く。だからまだ童貞、と堀貝に泣いて告白する。自分のチンポを受け入れるのは外人女ぐらい、と思い、外人女のヌードを持ち歩いているが、外人女にはピクリともしないと苦悩を訴える。このとき堀貝は、内心で、ここが自分の処女の捨て所、と思ったらしい。でも、それもできず、大学を卒業した。安田はその後、童貞を卒業したかどうか知らんが、思いを吹っ切ったのか、バイトにも精を出しているようだ。
そして、猪乃木。秘められた過去、が明かされていき、そういうことは“しこり”として堀貝の心にこびりつきながら、予定通り児童相談員として就職し、働き始める、というお話。堀貝の成長の軌跡は、幼児失踪と少年の救出、ラストの、児童相談員として実務に就く姿で見えて入るけれど、線ではなく点で描かれているだけなので、いまいちすっきりしない。
むしろ、気になるのは猪乃木だ。あるとき猪乃木は、堀貝が自身の過去を話したとき、自分も、といって長い髪に隠された耳に残る傷跡を見せた。堀貝は「気がつかなかった」というが、猪乃木は「気がつかれないようにしてるんだから当然」というように応えた。中学生ぐらいのとき、クルマの男に拉致され、暴行された過去があるという。それで両親は離婚。娘を育てることも放棄し、祖母に預けた、ということらしい。想像を超える展開が後半に用意されていて、ちょっとびっくり。
猪乃木は大学を休学だか中退だかして、堀貝に連絡もせず故郷に帰ってしまった。そのまま堀貝は就職。でも、会いたい。連絡が取れないまま、メールだけして小豆島行きの船に乗る。船中に電話がかかってきたんだったか。「もう船に乗ってるのね」に「行っていい?」。でも、ながいこと返事がない。しばらくして返事があったけど、なんていったのかよく聞き取れず。
この、猪乃木の突然の帰郷、がもやもやする。何かに悩んでいるようには見えなかったしね。ここをもう少し、なんとかならなかったかな、がこの映画への不満。考えろってか? 分からんよ、これじゃ。
というわけで、この映画に登場する脇役たちのエピソードは、ひとつひとつがショートストーリーになるようなドラマをもっている。とはいえエピソードが強すぎるせいか、キャラは立っているけれど、猪乃木以外は個人があまり見えない。
主人公は堀貝だけれど、彼女が何かに向かって邁進し、成功を勝ち得るか、失敗するか、でも本人は成長した、のようなつくりになっていない。だから終わってもあまりすっきりしないんだけど、それでもなかなか見せてしまうのは、ドラマチックな脇役が描かれていることで、堀貝があぶり出されていくからなのかも知れない。
・タイトルは、少年の失踪事件に由来していて、もしかして関わった奴らがいたとしても、「君は永遠にそいつらより若い」ということらしい。とはいえ、犯罪と決まったわけでもないしなあ。
MINAMATA - ミナマタ -9/29MOVIX亀有シアター8監督/アンドリュー・レヴィタス脚本/デヴィッド・K・ケスラー、スティーヴン・ドイターズ、アンドリュー・レヴィタス、ジェイソン・フォルマン
原題は“Minamata”。allcinemaのあらすじは「1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する世界的写真家ユージン・スミスの前に日本語の通訳として現れた女性アイリーン。彼女は日本の水俣市で、工場から海に捨てられている有害物質が多くの人々を苦しめている現実を、あなたの写真で世界に伝えてほしいと訴える。水俣の惨状に心を痛め、現地での取材を開始するユージンだったが…。」
Twitterへは「アル中で借金苦のポンコツ写真家が金になりそうなネタを発見。日本に来るが絵になる写真は撮れずチッソには脅されるで、もう帰る・・・と言いだすヨレヨレ写真取材紀行だった。とはいえ暗室や有名写真の撮影場面はなかなか感動的。」
ユージン・スミスが水俣の写真を撮っていたのは知っていて、なかでも娘を抱いて湯に浸かっている写真は一度見たら忘れられない。それはいいんだけど、スミスの水俣取材が1971年だったというのが、え? だった。もっと昔かと思っていたのだ。なぜ当時、気づかなかったんだろう。むしろ土本典昭の映画の方が印象が強かった。とはいえ、土本の『水俣』は、名前を知っていても確か見てなかったと思うんだが。あと、佐藤真の『阿賀に生きる』は数年前にビデオで見た。でも、具体的な、水俣病のこと、公害裁判については、ほとんど知識がないのは事実。
Wikipediaを見ると1940年代から症例が見られ、1956年に水俣病として顕在化。1959年には原因が有機水銀であると確定された。無関係と発表する大学もあったり、チッソも関係性を否定する。 一方でチッソの関連病院では排水を猫に投与し、関連があることを工場に報告。しかし、工場責任者は公表を禁じた。厚生省の調査でも有機水銀であることを確認し、厚生大臣につたえるが、池田勇人厚生大臣は反論。チッソも否定した。59年、チッソは一部の患者家族に見舞金を支払うが、責任は認めず。しかし患者発生は地理的広がりを見せる。1962年、胎児性水俣病患者が公式に認定される。国が工場排水と水俣病との因果関係を認めたのは1968年で、でもチッソと患者との和解は済んでいるとの認識で、問題を終息させようとする。裁判はこのあたりから始まったのかな。国は責任を認めず、裁判所の和解勧告も拒否。やっと和解に転じたのは1996年だという。
という経緯は、映画にまったく描かれない。飲んだくれで浪費家のスミスは、かつての「LIFFE」誌での栄光にすがり、でも借金まみれ。仕事もなく、自分の子供たちに感心も示さない。そこに、日本のCM会社が訪ねてくる。富士フイルムのCMで、カラーフィルムのよさをナレーションで語る、という設定だったようだ。でも、「俺はカラーで撮ったことはない」というのがおかしい。CM契約書には、ナレーションの内容もあったらしいが、本人は、この日、CM撮影があるとも忘れていたようだ。このときのコーディネーターがアイリーン。
映画ではアイリーンが水俣の情報をスミスにインプット、となっているけれど、Wikipediaによるとアイリーンはスミスに会った一週間後に彼のアシスタントになり、同時に同居し始めたとある。水俣病の情報は、まったく別の日本人かららしい。
映画では、水俣に関する記事を見たスミスが「LIFFE」誌に持ち込み、売り込んだようになっている。編集長は懐疑的に見えたけど、次の場面でスミスは日本で列車に乗っていた。編集長が水俣をどう思い、決断したのか、というシーンは会った方がいいと思う。
で、スミスったら有名写真家だし、社会問題に熱心でズカズカと取材行動に移るのかと思いきや。ずっと冴えない。食欲がないとか、いちいち靴を脱ぐのがやっかいだとか、不満ばかりつぶやいてる。まあ、アル中だから酒が欲しいだけなのかも知れないけど。近所の人にレンズを向けるぐらいはするけど、なかなか水俣病の取材には入らない。あの、有名な写真の娘を1時間ほど見ていてくれ、と母親とアイリーンに頼まれ、「嫌だ嫌だ」と頑なに拒否してたけど、結局、自分で抱いて鼻歌などを歌っていた。もしかしてスミスに預けたのは、その間に撮影してもいいよ、ということだったのかな、と思ったんだけど、そうではなかった。いや、だって、娘を撮影するのは止めてくれ、って両親が言ってたから。
なんて思っていたら、患者の会の1人で16ミリカメラを回している男性の手引き(なのか?)でチッソ系列の大病院に手荷物検査を受けながら正面から潜入し、患者をバシバシ撮影。さらに、関係者の研究室、実験室みたいなところまで潜り込み、資料を発見し持ってきてしまう。てなことしてたら警備員に見つかって階段で逃げるんだけど。なんでそんなに簡単に潜入できちゃうの? でこの潜入は、Wikipediaによる、系列病院では排水と水俣病に関連あり、の調査結果を得ていた、に当たるんだろうな。で、盗んできた資料はどうするんだろうと思ったんだけど、それはそのまま、なんだよね。…という潜入のくだりは映画的創作のようだ。
そのうち、スミスとアイリーンが接近してくるんだけど、ライに直後に結婚してるようなんだよな。ロマンス要素を入れたかったのかね。で、いちゃついてたら、スミスの暗室小屋に火をつけられて、フィルムが焼けてしまう。
これで気落ちしたのか、もうアメリカに帰りたい、って「LIFFE」の編集長に泣き言をいったりする。そんなスミスに、会のメンバーがカメラを提供し、家族の写真を撮ってもいいよ、といってくれて。今度は俄然やる気をだしてしまう。そして、いざ株主総会。でも、総会の現場ではなく、総会が開かれる工場の前で、会の面々の抗議運動に巻き込まれるように撮影。そのうち敷地内に入り込んでしまい、工場関係者から殴る蹴るの暴行を受けてしまう。暴行されたのは事実のようで、でもそれは株主総会の時ではなく、1972年のことらしい。
入院中のスミスに、前々から怪しい動きをしていた男が接近してきて、袋を渡し、謝罪する。袋の中味は、焼けたと思っていたフィルムで、これで取材のムダにならなくて済んだ、と。これは創作なのか、事実なのか?
社員の暴行、病院の警備員、工場の従業員。会のなかにいて、組織を乱そうとする男。彼らはチッソの被害者であり、チッソに食わせてもらっている側でもある。患者側の分断、その苦悩や葛藤を、もうょっと出せなかったかな。そうすれば、水俣病の責任追及、訴訟の複雑さをはっきり印象づけられたんじゃなかろうか。
スミスは痛々しい姿で、あの有名な母娘の写真を撮る。でも怪我したのは後のことらしい。とはいえ、撮影シーンはなかなか興味深い。娘の写真を拒否していた両親が許可し、さらに、入浴させているという設定になったのは、どういう経緯なんだろう。アイリーンが深くかかわっいてるのだろうか。なんてことを考えたりしたけど、なかなか感動的な場面で、泣かされた。
というわけで、映画としてのつくりはツッコミどころが豊富すぎ。もうちょい輪郭をはっきりさせると、話としてのダイナミックさ、リズム感も出たと思うんだけど。でも一方で、スミスの人間くささも描こうとしている。アルコール依存、帰国願望、チッソ社長から提示された5万ドルに多少揺れた心…(スミスがチッソ社長と1対1で話し合ったのも、創作らしい)。正義感に燃えただけじゃなくて、目先の金に翻弄させられてきたスミスのありのままの姿に近いような気もする。アイリーンとも、水俣関連の展示や出版を終えると離婚してしまっているようだけど、これだって、水俣のために彼女を利用した、と勘ぐれなくもない。真実は分からんけど。
・オープニングの暗室の場面、現像、定着している様子が格好いい。
・ジャズがよく流れる。これまた格好いい。
・チッソの社長が國村準で、ダンティ過ぎ。英語ぺらぺらで、社長室もオシャレで豪華。あれはないだろ。
・株主総会が工場の狭い一室で、参加してるのは抵抗する会の人ばかり。リーダー的な存在の真田広之は、社長のすぐ前のテーブルにあぐらをかいて座り、社長を睨みつける。あんな株主総会はあるのか?
・浅野忠信、真田広之、加瀬亮、國村準…。米国映画によくでる俳優を揃えすぎ、な気がした。浅野や真田は、もっと知名度のない俳優で十分だ。加瀬亮は、顔が違っていて気づかなかったよ。
ディナー・イン・アメリカ9/30ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/アダム・レーマイヤー脚本/アダム・レーマイヤー
原題は“Dinner in America”。allcinemaのあらすじは「アメリカの片田舎で真面目な両親に過保護に育てられた孤独で臆病な少女パティ。そんな彼女が熱狂的に愛しているのがパンクバンド“サイオプス”の覆面リーダーのジョンQ。ある日、ひょんな成り行きから警察に追われていた男サイモンを家に匿うことになったパティ。実は彼こそは彼女の心のアイドル、ジョンQだったのだが…。」
Twitterへは「一見アホで枠にはまらずいろいろ欠落してるけど一芸に秀でてるやつはいるものだ。というような話を、地味ながら派手にならないレベルでドタバタとやりかます話だった。」
冒頭は、ヘロヘロになった男女で。何かと思ったら金のために治験を受けているのだった。でもともに途中でリタイヤし、バスもないので近くにある彼女の家に行く。でもって、家族と食事をするんだが、この男サイモンは不機嫌な顔と態度を変えない。家主と息子はアメフトに夢中で食事中もテレビに興奮。母親は、どういうわけかサイモンに色目を使い、濃厚キスしてるところを娘=治験で一緒だった女に見られてしまう。家族に追われるも、あらかじめ(って、準備よすぎ)花壇に撒いていたガソリンに火をつけ、サイモン逃走…。なぜか紙の指名手配所が配られ、サイモン逃げる…。を店の裏手でボーッと見てたパティが目撃し、目が合ったサイモンは匿ってくれるように頼む。
という流れで2人は知り合い、パティの家の夕食にも招かれるんだけど、アメリカの夕食はどこもあんな具合に家族そろって神妙に食べるのか?
パティはちょっと頭の足りなそうな田舎娘20歳で、アニマルショップで働いている。短大中退。毎日クスリを飲んでいるところを見るとメンタルに問題ありなのかも知れない。欝とか妄想系とか…。いつも、どこかの運動部のバカ選手2人にからかわれている。そんな彼女が好きなのはパンクバンドのサイオプスで、覆面ボーカルのジョンQが好きらしい。音楽聞きながらオナニーしてる下半身をポラで撮って、それを毎度ジョンQに送りつけるぐらい好きらしい。でも、住所知ってるなら押しかけりゃいいと思うんだけど。でもまだパティはサイモンがジョンQだとは知らない。いつだったかサイモンが自宅にもとったとき、郵便受けに大量の封書があって、なんだ? の場面は合ったんだけどね。まだ中味は見てない。でもなんか気が合うのか一緒に行動。サイモンはバカ選手2人に因縁付けるが逆襲され、でも武器によるボコりと猫の死骸とで2人に逆襲したり、なかなか覇気がある。そのうちパティがジョンQの大ファンだと知って、実はオレ様が、と打ち上げるとパティは大はしゃぎ。だよね。
サイモンは、いまは出禁になっている実家の自室に潜入し、楽器を披露。歌は得意、というパティに、自作の詩を歌わせる。これがなかなか地味だけどいい歌唱で。では、この曲をステージで披露して…となるのかなと思ったら、そうならなかったのは残念な展開だ。
よく分からないのは、最後のステージの場面。サイモンが会場に着くと、プロモーターみたいなオヤジと怒鳴りあう。なんとかいう有名バンドと共演できるのはいいことなのに。というけれど、サイモンは、そんなのお断りだ、と返す。それ以前にメンバーで会ったとき、共演する、とメンバー全員で決めたことなのに。何が不満なのか、よく分からん。で、たぶんメンバーだと思うけど、がオヤジに指名手配の人相書きを渡す。その後、サイモンはジョンQの覆面をして、ステージの上ではなく、フロアで歌い始める。じゃあ、あのバックバンドは誰なんだ?  と思ってたら警察がやってきて、サイモンは放火その他の罪で逮捕されてしまう。このくだりが、なんかスッキリしない。とはいえ、この場面でパティはどっかの女子に「一緒にバンドやろ」と誘われるのだ。歌も披露してないのに。
ムショで、サイモンはたくさん曲をつくっているようだ。けど、刑務所でギターは、あり得んだろ。まあいい。パティは、サイモンとセックスして、歌も褒められて自信がつき、かつてのダサイメガネに星条旗のTシャツではなく、パンクな出で立ちに姿を変える。でも、昔のパティを知ってる連中にバカにされるのは変わらない。とはいえ、そこで萎縮するのではなく、パンチで仕返しをするまで成長している。
というわけで、前半のドタバタは、派手ではあるけれどエピソードだけでドラマがなく、何かに立ち向かうとか壁を超える、ってのがなくて。中盤はダレ気味で興味を惹かなかった。なので、少し目をつむってしまったけど、本格的に寝はしなかった。後半に入って、ジョンQとしてパティと接するあたりから、ドラマになってきた感じ。
もうちょい早めに、サイモンはジョンQだってことを明かした方がヒキが出たはず。サイモンが治験に参加したのも、音源を取り戻すため、とかいってた。なので、サイオプスがどういうバンドで、どういう状況なのか、をちゃんと描けば、もう少しスリリングになったはず。でないと、サイモンの狂気的な行動にも共感が湧かない。
サイモンの実家での、パティを交えた夕食でもまた、典型的なアメリカの家族が描かれていた。ああいうのに反発し、サイモンはパンクになったはず。若者の無軌道な反抗心。その根元には、典型的なアメリカらしさ、があるんだろう。その意味で、当初、星条旗のTシャツを着てるパティは、古き良きアメリカの象徴であり、それを否定し、壊すことに意味がでるわけだ。パティが星条旗を脱ぎ捨ててこそ、パティらしさが発揮される、ってことなんだろうから。

 
 

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