2021年10月

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ10/6109シネマズ木場シアター3監督/キャリー・ジョージ・フクナガ脚本/ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、キャリー・ジョージ・フクナガ、フィービー・ウォーラー=ブリッジ
イギリス / アメリカ映画。164分。原題は“No Time to Die”。Wikipediaのあらすじは「スペクターとの戦いのその後。現役を退いたボンドとスワンはイタリア・マテーラにて幸せに静かな生活を送っていた。スワンは後に自らの過去を明かそうとし、ボンドはかつて愛したヴェスパー・リンドの墓を訪れるも、スペクターの紋章が描かれた一枚の紙を見つけるがその直後に墓が爆発する。ボンドはスペクターの傭兵プリモによる攻撃から武装したアストンマーティン・DB5で逃れ、スワンを問い詰めながら2人で車で逃走し、スペクターからの追跡者たちを打ち負かす。その後、ボンドは彼女が裏切ったと思いスワンと決別した。5年後。ボンドはジャマイカで穏やかな日々を過ごしていた。そんなある日、彼のもとに旧友でもあるCIAエージェントのフィリックス・ライターがやって来て、誘拐されたロシアの細菌学者ヴァルド・オブルチェフを救い出してほしいと依頼する。現役復帰したボンドは、危険な生物兵器を操る正体不明の敵との想像を超える過酷な闘いに身を投じる。」
Twitterへは「前作の続編みたいで、説明なくどんどん進むから、ちんぷんかんぷん。見てはいるけど人物も話も覚えちゃいないよ。物語も平板な演出で、なにがどうなってるんだ? 展開も「はあ?」が多くて困った。」「冒頭近くのカーアクションが“らしい”けど、あとは泥臭さがつづく。ぜんぜんスマートでもカッコよくもない。ミス連発だし、肉体労働の連続。意味不明な日本趣味。レア・セドゥも娘も不細工…。新米女性諜報部員がよかったけど、そのシーンだけの使い捨て、もったいない。」
冒頭から変だった。だってボンドのエピソードでじゃなくて、スワンの少女時代のもので、母親を殺した能面の男を撃ち殺した、と思ったら死んでなくて、氷の張った池に落ちたところを逆に助けられた、という話だったから。なんじゃこれ。
で、なんや知らんがボンドはスワンと蜜月で、でも、昔の彼女の墓参り? に行ったら墓が爆発し、バイクと車に追われ、とって返してスワンとクルマに乗って逃げる…。周囲からボンドカーに浴びせられる弾丸。防弾ガラスに入るヒビ。あれは、ボンドがスワンを試している、意味があるのか。と思ったらボンドカーのマシンガンが火を吹く! あたりのカーアクションとテンポは、さすが、と思ったんだけど。逃げ出して駅で2人が別れる理由がよく分からない。↑のあらすじにはスワンが裏切った、とあるけど、裏切る必要があるのや否や。ていうか、墓にあった紙のマークはスペクターなのか。そんなの忘れてるよ。でも、爆発前に犯行はスペクターの仕業、と知らせる必要なんてないよな。まあ、マンガ話だからしょうがない? でも、なんでボンドが狙われるの? つまりは前作を引きずってるんだろうけど、どんな話だったかさっぱり覚えてないよ。ある程度経緯を振り返って、あの一件以来、ボンドはスペクターに狙われ続けている、ぐらい言ってくれないとなあ。それじゃあ墓の爆発の衝撃度が減るって? そうかなあ。
で、5年後。スワンと別れ魚釣りでのんびり。なところに、昔なじみから連絡、だったっけ。これ、分からなかったけど00ナンバーを返上して一般人になってるのか? でも、ライターがボンドに依頼し、ボンドが承知する、という展開はアホすぎるだろ。ボンドが危険を冒す理由が考えられない。金に困ってるとか、ないんだろ? なんで? だろ。
で、↑のあらすじにある細菌学者を救うとかどーの、って話が、最初から最後までよく分からなかった。振り返って思うに、スペクターが細菌兵器をつくって気に入らない奴らを殺すため、なんだろうけど。最初の方で天然痘の菌をどうかするという場面もあったし。でも、すっきりしないんだよね。あれ、一度見ただけで分かる人、いるのか?
で、なにかのパーティに潜入するんだけど、このとき行動をともにする美女スパイがチャーミングで、ちょっとおっちょこちょいだけどキレのある攻防も見せてくれる。彼女のキャラがこの映画で1番輝いとったな。で、個々の演出もトロくて。普段着で落ち合うと美女がスーツを用意していて、パーティ会場に入ると耳栓トランシーバーを美女がボンドに差し込む。こういう手配までCIAにさせて、ボンドはされるがまま、なの? あまりにも無防備すぎだよな。しかも会場内で、ぶつぶつ独り言のようにつぶやく客って、怪しすぎるだろ。で、ここにはスペクターが混じってるとかなんとか。そういう情報をCIAはどうやって手に入れたの? で、最後は天井から細菌の煙幕がボンドに降りかかる! と思ったらボンドは無事で、別の客が次々に苦しんで倒れていくんだけど、なんで? そういえばDNAで特定した人だけに効くとかなんとかいってたっけ。どういう仕組みなんだ? 誰がスペクターを特定し、そのDNAを知り、細菌攻撃したのだ? 
で、このパーティ会場での耳栓で敵の会話を盗聴してるときブロフェルドの声が聞こえてきていて、でも彼は刑務所の中にいて、どうやって指示を出していたのだ? とかいう話になって。行ったらブロフェルドのカウンセリングをしているのがスワン。ボンドと顔を合わせるのも気まずい。なのか、途中で退席してしまうんだけど。ブロフェルドのカウンセリングをしている時点でスワンはスペクターに手引きしてボンドを爆殺しようとした人間じゃないだろ。ボンド馬鹿すぎ。はいいけど、思いあまってボンドがブロフェルドの首を絞めたらブロフェルドは呆気なく死んでしまう。ボンドの手が細菌兵器になってたのか? この経緯が分からんよ。
で、ボンドはスワンの隠れ家みたいな家に行くんだっけか? あの家は母親が殺された実家? 知らんけど。で、スワンから秘密を明かされるんだったか。で、能面付けてスワンの家を襲ったのはサフィンで、母親を殺したけれど少女スワンが拳銃で逆襲し、でもサフィンは死んでなくて。氷の張った池に落ちたところを逆にサフィンに助けられた、というトラウマがあるらしい。あのあとスワンはサフィンに介抱されたり、暖かくしてもらったのか? で、このことをなぜ誰にも告げなかったんだ? とかね。そもそも、スワンの父親の殺し屋(誰それ?)がサフィン一家を殺害し、サフィンが生き残って。その復習に、家族を殺しに来たらしい。でも、いろいろ疑問じゃ! サフィンの一家ってスペクターなの? 全員? 後から分かるけど、サフィンはこの映画におけるスペクターのボスだよな。どうやって偉くなったんだ? は、いいとして。なぜサフィンはスワンを助けたんだ? 恨みがあるなら殺すべきだろ。そういや、この後でも、要塞島でスワンとその娘を、人質に取るけど殺さない。なんで? 映画的都合なのかあ? おかしいだろ。
あたりからもう、もう何が何だか分からなくなっていって。船に乗ってたボンドとライターが襲われ、ライター死亡。仕事を依頼しに来たときライターと一緒にいたちゃらいCIAはスペクターの手先でボンドを襲うけど、なんとか切り抜けこの男は死亡。もともと信頼性のなさそうなキャラだったよな。
とかいってたら、日本とロシアが領土争いしてる島にスペクターの本拠があって。そこで細菌兵器を量産してるとかいう話になって、ボンドは底へ行くんだっけか。スワンと娘は、誘拐されたんだっけ? 昨日見たのにもう忘れとる。で、そこどあれやこれや。細菌兵器工場は、日本の石庭みたいな白砂のでできてる。お決まりのサフィンとボンドの対峙は、なぜか畳敷きでサフィンは座ってる。能面(は前作にも登場してたっけか。あの、軍艦島がでてくるやつ)も含め、なにこの妙な日本趣味。監督が日系アメリカ人だから? 意味不明。
でまあ、ここでボンドはほぼ1人で敵を相手に奮闘。まさに肉体労働的などろくさい感じで、スマートさは微塵もない。で、英国軍に「この島をミサイルで爆破しろ」って、ムチャクチャなことをいう。英国軍は、すでに日米露からクレームがついてるといいつつミサイル発射し、ボンドは工場のガードを解除し、とかなんとかしてる間にサフィンとくんずほぐれつで池に落ちる。どうもこの結果、ボンドが触れるすべてが細菌に感染する体になってしまったらしい。むっとして、簡単にサフィンを射殺してしまうボンド。なにこの呆気なさ。で、ミサイル着弾で、工場は爆破。ボンドも運命を共にしましたとさ。
なにこのラスト。知恵とムリを活用してピンチを切り抜けるんじゃなかったのか? 007は。まあ、愛するスワンと自分の息子だか娘だか、に、これから一生触れることができない人生をはかなんで自殺したともいえるのかな。とはいえ、映画のラストに、「ボンドは帰ってくるだろう」という字幕があって。シリーズはなくならない、ということらしい。そういえばボンドが引退してるまに007という名称は別の諜報部員につけられていて。007と呼ばれる諜報部員はボンドだけではない、と明示されていた。ということは、これまでも、ボンドを別の役者が演じ続けてきたけれど、ボンドという名前の別の諜報部員が007と称していた、と解釈もできるわけで、なかなか上手い逃げ道をつくったな。
・しかし、ボンドは避妊してなかったのか? あの子が自分の子だと、気づかなかったのか? トンマ過ぎるだろ。・スペクターは、現在ではマンガすぎ。あの島で働いて細菌兵器つくってる労働者たちはどうやって集めたんだ? あの工場はどうやって建設したんだ。英国のミサイル発射に、日米露は反発しないのか? とか、ツッコミどころ満載。
・そういえば 『ハリウッドを斬る!〜映画あるある大集合〜』にでてきた“あるある”に、「ハイヒールで走るヒロイン」というのがあったけど、この映画のスワンがそうだったので笑ってしまった。あと、黒人に「お前みたいな人種は簡単に滅亡だ」とかいうセリフもあったけど、これも“あるある”かな。
ミナリ10/11ギンレイホール監督/リー・アイザック・チョン脚本/リー・アイザック・チョン
原題は“Minari”で、野草のセリのこと。allcinemaのあらすじは「1980年代のアメリカ。農業での成功を夢見てアーカンソー州の高原に土地を買い、家族で引っ越してきた韓国系移民のジェイコブ。しかしそこは、誰も手を付けようとしなかった荒れ果てた土地。農業で生計を立てるためには想像を絶する困難が待っていた。それでも、しっかり者の長女アンと好奇心旺盛な弟デビッドは、少しずつ新しい生活に馴染んでいく。一方、妻のモニカは不便な生活に苛立ちを募らせ、夢ばかり追うジェイコブとの溝は深まるばかり。そんな中、夫婦は幼い姉弟の面倒を見てもらうために、韓国から母スンジャを呼び寄せるのだったが…。」
Twitterへは「アカデミー賞受賞・ノミネート多数なので少し構えて見たんだけど肩すかし。どーでもいい話がだらだらつづき、事件らしい出来事はほとんど起きない。ひたすら退屈。なので中盤、寝た。最後、母親に押しつけてしまうのもご都合主義で、なんだかな。」
見てから10日以上たってしまったので、記憶があいまい。細かな部分はすっかり忘れてる。アカデミー賞各部門にノミネートされ、助演女優賞を獲得した話題作なので、さてどんなもんかと思ったんだが。これが拍子抜け。どこが評価されたのかよく分からず。中国人、日本人、欧州各国、ラテン系…。米国移民を描いた映画はたぶんたくさんあるはず。どれも似たような感じだけど、苦労の揚げ句、実り少なし、みたいなのが多いはず。でも、過去の映画はおおむね第二次大戦以前の話で、そこには差別と偏見が色濃く残っていたはず。ところがこの映画は、ついこのあいだのこと。世界各国の交流も進み、文化の理解もあったはず。もちろんやってきたのが南部のアーカンソーで、東洋人には居づらい場所だったんだとは思うけど、むしろ1980年代に韓国から農業移民がいた、という事実に、へー、な感じだよ。なんでまた一家、というかジェイコブはこの時代に農業で一旗あげようと思ったのか。それが不思議。だれかに騙されてやってきたのか? 1979年に朴正熙が暗殺され、崔圭夏を経て1980代は全斗煥政の軍事政権時代。光州事件、大韓航空機撃墜事件、ラングーン事件、そして1987年には大韓航空機爆破事件も起こっている。荒れた時代からアメリカン・ドリームを目指した、のか? でも、それができたということは、韓国では金持ちだったんじゃないのかな。でも、アーカンソーで手に入れたのは痩せた土地と、トレーラーハウス。そして、苦労の連続。なんか、アホだよな、と思えてくる。
とはいえ、こんな貧乏百姓に媚びを売ってくる近隣住人がいたりするから首をひねる。トラクターを売りに来たり、使ってくれ、と言ってきたりする。アメリカも南部は、あの時代、貧しかったのか。
学校も病院も遠く、農業はうまく行かない。なので、カミサンのモニカはイライラ。それでなのか、母親を韓国から呼び寄せる。では、ジェイコブはひとりっ子だったのか? 呼び寄せても大したことはできず、予定調和的に脳梗塞で不随になり足を引っぱる始末。水不足にも悩まされたり、は、よくある展開だな。なこんなで、モニカは子供を連れて西海岸に行く、といいだす。まあ、子供にいいところを見せたいから農業をつづける、と主張するジェイコブがアホだよね。こんな亭主に人生引っかき回されてご苦労様、としか言えない。
というなかで、なんとか韓国野菜がうまくいき、韓国系のレストランに卸せるようになった。万々歳。というところで、母親のたき火の不始末で納屋が全焼。出荷しようとしていた野菜は全滅。成功への足がかりを認知症の母親に押しつける、というシナリオはいかにも予定調和。あのまま韓国野菜が出荷できていたら、順調にいってたんじゃないの? だもの。
さて、これでオシマイ、かと思ったら、そうでもないらしくて。母親が教えてくれたミナリ=セリの一群を最後に見せているのは、希望らしい。公式HPには「タイトルの「ミナリ」は、韓国語で香味野菜のセリ(芹)。たくましく地に根を張り、2度目の旬が最もおいしいことから、子供世代の幸せのために、親の世代が懸命に生きるという意味が込められている。理不尽かつ不条理な運命に倒れてもまた立ち上がる─。人生は続き、明日は必ず来ることの貴さを伝えてくれる」とあるけど、そんなふうには見えなかったけどね。まあいいや。
・韓国からやってきた、というのに名前がジェイコブ、モニカ、アン、デビッドってのは、なんなの? これは韓国教会の洗礼名かなにかなのか?
・ときどき登場する、十字架を背負って歩いているおっさん(隣人の雇い人と同一?)は、何を意味しているの? よく分からんぞ。
ファーザー10/11ギンレイホール監督/フロリアン・ゼレール脚本/クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール
イギリス/フランス映画。原題は“The Father”。allcinemaのあらすじは「ロンドンで一人暮らしをしている81歳のアンソニー。ある日、介護人とトラブルを起こし、娘のアンが駆けつける。アンソニーには認知症の傾向が見え始め、それは日に日に悪化しているようだった。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受けるアンソニーだったが…。」
Twitterへは「2つ目のシーンで、身構えた。そういう仕掛けか。でも以降、仕掛けが深まることはなく、最後まで同じ仕掛けが手を変え品を変えなのね。最初から最後までホームの一室を舞台に、認知症老人の妄想で味つけして1本仕上げてしまう。元はやはり舞台らしい。」
最初のシーンは、アンソニーのフラット。娘がやってきて、父が介護人をキャンセルしたことで不平を言う。そして、自分は好きな人ができて、パリで暮らすことになった、と告げる。次のシーン。アンソニーが部屋を移動すると居間で知らない男が新聞か雑誌を読んでいる。「お前は誰だ?」「あなたの娘の亭主ですよ」「? あ、そうだったか。俺の家に居候してるんだったか」「いえ、居候してるのはお父さんの方ですよ」てな感じになって、現れる娘も、最初とは別人。…という具合で、アンソニーの痴呆状態を映像化していく。なかなか面白い。次なる展開は、と見ていると、最初に登場した娘が現れ、でもパリに行くという話はなくなり、チキンを食べるという最初からの話が、別視点で、別の時制になったり、人物が変わったりしながらつづく。なるほど。趣向が深まっていくわけではなくて、アンソニーの混乱を多様に見せていく感じなのか。と思ったら、ちょっと緊張が薄れてきてしまった。なので、以降の内容は似たようなことが手を変え品を変えなので、ちゃんと覚えてはない。だんだん分かっていくのは、アンソニーがいるのは自分のフラットではなく、娘のフラット。認知症が進行して娘にめんどうを見てもらっているらしい、ということ。亭主は2人目が登場し、彼と娘は血親を老人ホームに入れる入れないで揉めている、らしいこと。新しい介護人がやってきて、それが次女と似ているらしいけど、後半になると介護人は彼女ではなく、別の女性になっていたりする…とか、混乱は深まっていく。
さてどうなるのかと思っていたら、突然、場所がホームの部屋になって。介護士によると娘はパリにいる、という。さらに、ドアをあけて入ってきた男性介護士は、映画で最初に登場した男性だった。ドアを開けると、廊下の奥に介護人が数人いる。これまでの経緯からすると、結局アンソニーは老人ホームに入れられたのか、と思わせておいて、そうではないことが分かる。それは、アンソニーの部屋の窓の位置、窓の隣の絵、その絵につづいて枕元の上に飾られている数枚の小さな額…。これがすべて最初から同じなのだ。ということは、この映画の最初から、アンソニーは老人ホームにいた、ということだ。老人ホームの廊下も、白壁に淡い緑の縁取りがしてあって、最初の方に出てきた自分のフラットの廊下と同じだった。つまり、最初の場面はすでに老人ホームの自室で、あとのあれやこれやはすべてアンソニーの妄想なんだろう。場所も時間も、すべてアンソニーの頭の中ではごちゃごちゃ。かつての記憶と最近の記憶・出来事もごちゃ混ぜ。妄想の中に住んでいるかのようだ。
とはいえ、本当に認知症の頭がこうなのかは、よく分からない。ここまで妄想がふくらむと、妄想性の統合失調症にも似ていような気もするし。アカデミー主演男優賞のアンソニー・ホプキンスのセリフ廻しはなかなか。83歳ぐらいのはずなのに凜とした口調で長ゼリフもまくしたてる。素晴らしい。
空白10/12MOVIX亀有シアター2監督/吉田恵輔脚本/吉田恵輔
allcinemaのあらすじは「ある日、スーパーで中学生の花音が店長の青柳に万引きを見咎められ、逃げて車道に飛び出した末、凄惨な事故に巻き込まれて命を落としてしまう。シングルファーザーの添田充は、変わり果てた娘を前に泣き崩れる。日頃、娘の気持ちなど気にもかけてこなかった添田は、せめて彼女の濡れ衣を晴らそうと、青柳を激しく責め立て始めるのだったが…。」
Twitterへは「いろいろ切ない話だった。あんな父親との暮らしは憂鬱だったろう。けどそのウザい父親と暮らすことになった理由はなんだろう。母親と暮らしてたらよかったのに。前半は重苦しかったけど、ときどきコメディ要素が突入してきて、ときどき笑ってしまったよ。」
中味まったく知らずに見た。事故の場面し、撥ねた場面からトラックがひきずる血糊まで、なかなか凄まじい。そうか。こっから物語が始まるのか。で、花音の父親のモンスターぶりが凄まじく、ザワザワ感が充満。見てて憂鬱になるぐらい。
意図しない事故から波及する多くの不幸、という構図もさることながら、巻き込まれる人物の存在感もなかなか。誰も悪気があるわけではない。法的責任はない、あるいは軽微なのに、道義的に頭を下げ謝罪を求められる。これがいまの社会だ。けれど、そのせいで職を失い、命を絶つ人まで出てくる。あああ。憂鬱。
その一方で、人の心をかき乱すマイペースな連中もぞろぞろ登場する。なんなんだ、こいつらは。といった具合にいろいろ考えてしまう。監督の術中にはまった感じ。
自分に置きかえてみる。
万引きした女子校生、花音。自分なら逃げない。逃げてもムダ、いずれつかまる。父親は恐怖だけど、しかたがない。あきらめるほかない。
女子校生の父・添田。つねに不平を他人にぶつけてる人間。すべて自分が正しい、と。行きすぎてることを感じても止められず、重箱の隅をほじくり返し、相手を追求する。性格的には自分と似てるけど、ケンカは弱いのでここまで乱暴じゃない。理屈で不利なら追及しない。でも、いうべきことは言うタイプだからな。なので、似てるけど違う。ここまで理不尽な因縁はつけないぞ。にしても、普段の娘に対するつっけんどんな態度と、娘を亡くしてからのねじれた娘への愛がどーも結びつかない。そんな娘が大事なら、ふだんからやさしくしておけよ、と思ってしまう。
万引きされたスーパー店長、青柳。万引き犯が事故に遭ったのは気の毒だけど、間違ったことはしていない。だから、記憶として重荷を背負うだろうけど、過剰に謝罪はしないと思う。
娘の実母・翔子。この人はなんなんだろう。離婚の理由は分からないけど、顔を見るのも嫌いなほどではないようで、そこが不思議。というか、なぜ添田と結婚したんだ? と不思議。離婚したとき、すでに次の相手がいたのかどうか知らないけど、娘・花音を引き取らなかったのはどうしてなのか。離婚後も娘とはやりとりがあって、あれこれ相談を受けていたようだし。夫・添田が娘を離さなかったのか? 疑問。
花音を最初に撥ねた娘。あれは事故だ。防ぎようがない。一応は謝罪しても、落ち度はないと思う。一生の記憶として残るだろうけれど、ああまで謝罪する必要はないと思う。しかし、映画の中の彼女は心が弱く、自死してしまう。親不孝だ。謝罪を受け入れず、親不孝をつくりだしたのは添田だ。この罪は重い。
最初に撥ねた娘の母親。娘の葬式に来た添田に、娘の罪は、これから私が背負う、と頭を下げる。ちょっと震えた。ここまでできる人はいないだろう。自分なら逆ギレして添田に食ってかかると思う。だって、娘の落ち度は少なく、むしろ、犠牲者といってもいいはずだから。
…というわけで、最悪の事態を組み合わせて話をつくっていて、ほんと、重苦しい。そんななかに、コメディリリーフとしてスーパーの古参店員の草加部がいるんだが、彼女はこの映画で浮きすぎている。ボランティアに打ち込むのはいいけど、店長は悪くないのビラを撒いたり、ほんとウザい。ただのアホかと思ったら、どさくさに紛れ怖じ気づく店長にキスしちゃったり、この人はちょっとヘン。ヘンすぎて、話から浮いている。
というわけで、中盤過ぎまでドロドロな展開で。添田は青柳にからみ、学校に行っては「いじめがあったろう。隠すな」と因縁をつけまくる。そんな中で、最初に撥ねた娘が自死し、ちょっと落ち込む。さらに、自分の娘は万引きなんてしない、と言い張っていたのが、娘の部屋の熊のぬいぐるみの中に化粧品がどっさり入っているのをみつけ、でもそれを青柳に言って謝ることはせず、化粧品をそっと捨ててしまう。どんどん不利になる添田。でも、いまさら引き返せない。の状況は、理解できる。でも、そこをキッチリするのが男じゃないか。やっぱただの因縁オヤジだ。人に頭を下げることのできないクソジジイだ。
しかし、娘の部屋に入って持ち物も見たこともないようなオヤジって、いるのか。わけ分からん。けれど、娘が美術部だったことを改めて知って、自分も真似事で描くようになる。なんだこの変化は。その下手な絵の中に、イルカのような雲を描いた風景画があって。それを漁師仲間の野木に笑われる。その後、教師が遺品として美術部に残された花音の描いた絵をもってきて、見ると同じようにイルカのような雲を描いた絵があって、蛙の子は蛙、と思わせる演出が憎いけれど、それで添田の罪が軽くなるわけではないのだよね。
そして。自動車は迂回、の工事現場にでくわして(最初の方で、迂回せず「通れるだろ」とゴリ押しして通ってしまう)。ここで現場の交通整理をしている青柳と出会うんだったっけ? 忘れた。で、通学する女子校生の姿が映り、映画は終わる。
多少、添田の心が柔らかくなったとしても、添田の無理難題ゴリ押し因縁で命を絶った娘はいるし、スーパーはつぶれ、青柳や店員たちは職を失う。そこまで思いが至っているのか? あの糞オヤジは? と思うけどね。
・轢かれた娘・花音が亡くなり、轢いた娘も自死する。娘の死というアナロジー。
・娘・花音は目立たない生徒で、機転も利かず、友達もいなかったのかな。スーパーの店員、草加部の参加するボランティアに、折角仕込んだカレーの鍋をひっくりかえしてしまうドジなオバチャンが登場するけど、このオバチャンと花音のアナロジー。
・スーパーと、父親の家へに、またしても落書きがされ、非難の貼り紙がされる。非現実な演出だよな。実際の事件で、こんなことが起きるのか? 誰がこんなことをするんだ。過剰な演出だと思う。
・追いつめられ、買ってきた弁当が違っていたことに切れ、電話でわめき散らす青柳。あれは、ありそうなことだ。なかなかいいエピソード。
・最初に撥ねた女性ドライバーは苦悩するけど、2度目に轢いた(つまり、決定的にひき殺した)トラックの運転手は、以後、登場しない。この素っ気なさはヘンな気もする。・添田に「いじめがあったはず」と突っ込まれる学校の教師は、フツーかな。しつこい報道を繰り返すマスコミも、あんな感じだろ。マスコミがバカなのは分かりきってる。
草の響き10/13ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/斎藤久志脚本/加瀬仁美
allcinemaのあらすじは「東京で出版社に勤めていた和雄は、徐々に精神のバランスを崩し、妻の純子とともに故郷の函館に帰ってきた。やがて自律神経失調症と診断された彼は、運動療法として医師から指示されたランニングを始める。仕事を休み、毎日同じ場所を黙々と走り続ける和雄。一方、走ること以外何もできない夫を純子は献身的に支えていくが、東京出身で函館に頼れる人のいない彼女は次第に不安を募らせていく。そんな中、ひょんなことから広場で遊ぶ3人組の若者たちと知り合う和雄だったが…。」
Twitterへは「ロングでちゃんと顔を映さずセリフも誰がしゃべってるか分からないうえに聞き取れない。当然あるべき説明も省いてブツ切れのつぎはぎ。ムダに時制をいじったり、それが新鮮な演出だと勘違いしてるのか。症状とか療法も「?」な独りよがりな映画だった。」「佐藤泰志を映画化すれば注目されると思ってるのかな。『海炭市叙景』と違って、函館らしさはほとんどゼロ。川崎とか多摩川土手っていってもそのまま通じるような情景ばかり。犬が家の中をウロウロする意味はあるのか?」「川崎は言い過ぎか。そこらにある海辺の街、と言い換えよう。」
冒頭は、スケボー少年。役者にしては上手いんだな。と思ってたら東出が出てきて、え? スケボーできるのか? と思ってたらどーも別人ぽくって。ずっと見ていったら、別人だった。
それと、白い夏服の高校生たちの意味が分からなかった。もしかして和雄の高校時代の回想なのか? とずっと思ってた。映画を見終えてから、いじめられてたのは、もしかしてスケボー少年? と思い至った。そういえばスケボーと金髪はプールで知り合った、んだったっけか? 金髪が「○○高だったら、だれそれ知ってる? あいつにいじめられてさ」とか言ってたっけ。ってことは、彼らは、スケボー少年と同級生たちか…。というような勘違いが起こるのは、スケボー少年を一度も正面からはっきり顔を捉えて写してないから、だと思う。それに、スケボー少年と東出が、両人ともか細く背が高く、体型が似てることもある。金髪は金髪だから、はっきり分かる。スクーター娘は金髪の幼なじみなんだっけか? この娘は、純子が連れてた犬を触らせてくれ、と寄ってきた娘と同じ、だよな、たぶん。てな感じで、人物関係がとても分かりにくい。説明セリフがなくても、分からせることは十分できるのに、していないorできてない。
てな感じでほとんど状況設定がなく始まり、和雄の具体的な状況なんかは、後半になって両親と食事をするところでやっと分かるという流れ。結局説明するなら、最初で説明しちゃえよ、だよな。函館から東京の大学に行き、出版社か何かに就職し、会社の後輩だった純子と結婚。でも体調を崩して函館に戻り、父親の世話してくれた何かの会社で働いていたけど、再発。妻の純子は病院に行くよう言っていたけど無視し、でも結局友人で教師の研二に連絡し、付き添ってもらって病院へ。自律神経失調症といわれ、毎日走る療法を勧められた、ということらしい。別によくある話で、とくに同情もない。
で。和雄の症状は、物忘れ、やる気が無い、希死念慮も、なところらしい。電車に乗れない、と言っていたのは、閉所だからなのか、起きられないからなのか、よく分からず。クスリを処方されるが、なかなか起きない。これは自律神経の症状なのか、抗不安剤による眠気、なのか。でもそのうち起きられるようになったらしく、毎日、決まった時間にランニング。距離も日に日に伸びているようだ。もちろん休職中、から、退職のようだけど。しかし、自律神経やられて希死念慮というのは、そう多くないのではないのかな。運動療法というのも、あまり知らない。森田療法は知ってるけど。あんなからだを動かして、いいのか? とはいえ、毎日几帳面に走った距離を記録し、1日でも欠かしたくない、という几帳面な性格は、ありゃ神経症的だなとは思うけれど。でも、希死念慮が強いとか、だるいとか、っていうのは自律神経というより、うつ病ではないのか?
あるとき、和雄が、干してある洗濯物の中から乾いているのを外し、それを着てランニングに行ったら雨で、帰ってきた純子が雨に濡れた洗濯物を無造作に取り入れる場面がある。濡れた洗濯物を部屋の中に放り投げるという神経はなんなんだ。そして、後から帰ってきた和雄に「自分の洗濯物が乾いてたら他も取り込んでくれたらいいのに」と不満げに言うんだけど、心をやられた患者はそんなことに頭はまわらず、言われたって負担になるだけだろ。などと思った。
和雄は、昔からの親友で、地元で教師をしている友人とときどき会って飲んだりしてる。純子は、犬の散歩をしている。和雄は休職して、生計はどうしてるんだ? 純子は働かないのか? 地元に知り合いがいないとこぼすけれど、初めての土地に来たんだから当たり前だろうに。そういえば、突然、ロープウェイの内部が写るんだけど、どういう意味なんだ? もしかして、ゴンドラ内でガイドしてたのは、純子か? と思ってしまったけど。違うよな。
で、和雄がランニングしてたらスケボー少年が突然並走してきて。ケンカにでもなるのかと思ったらそんなこともなく。金髪も一緒になって走ったりしている。たまたまの偶然で、会話もない様子。なのに、後半では、和雄とスケボー少年は知り合いということになっていたりして。なんで? な感じ。
夏服のスケボー少年は、運動部の連中と仲よくしてると思っていたら、別の場面では中の1人にいじめられている様子で。突然、自分から、「飛び込みに行こう」などといいだし、立入禁止区域に入って崖から飛び降りようとしたら管理者らしい人に静止され、あきらめる。と思っていたら、突然、飛び込む場面が映って。なんなんだ? もしかして自殺? と思っていたらそうで。並走してきた金髪に「友達は?」と尋ねると、「死んだ」と応える。いったいスケボー少年が自殺した原因はなんなんだ? いじめ? そんな悩んでるようにも見えなかったし。激しいイジメも感じられなかったぞ。もしかしてスケボー少年もうつ病なのか? それにしても、スケボー少年は家庭の様子もまったく分からず、なんなんだ?
で、和雄はなぜか知らんが、飲まずに溜め込んでいたクスリ(レクサプロ?)をまとめ飲みし、翌朝だったか妻の発見され、胃洗浄して、気がついたらベッドに拘束されていた。そんなことあるのか? いきなり拘束? それも何日か。でも閉鎖病棟で。なんて場面の後、和雄はたまたま開いていたドアから外に逃げ出し、病院の前の土手を走り出す。にこやかに。なんなんだ、これ。以後は写らないので、どうなったのかは分からない。再び自殺しようとしたのか? ただ、逃げてみただけなのか? 自律神経やられて、こんな元気になれるもんかいな。
一方の妻は、どうやら自分でクルマを運転して帰るらしい。きっと自宅で子供を産むのだろう。しかし、あんな大きなお腹で軽を運転して、東京まで? ちょい、信じられんな。で、フェリーニ向かう道すがら、和雄には「このあたりにはいない」と言われていたキタキツネに遭遇してにっこり。はあ? なにが言いたいの?
・冒頭近くに、和雄が教師で友人の研二に病院に連れて行ってもらうシーンがあるんだが。それは病院内の場面。その直前の、土手を2人で歩く場面が、最後の方に突然現れたりする。ここで説明なく時制をいじる必要は、あるのか? 何でそんなことするの?
ドライブ・マイ・カー10/14テアトル新宿監督/濱口竜介脚本/濱口竜介、大江崇允
allcinemaのあらすじは「舞台俳優で演出家の家福悠介は、妻の音と穏やかで満ち足りた日々を送っていた。しかしある日、思いつめた様子で“今晩話がしたい”と言っていた音は、家福が帰宅する前にくも膜下出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまう。2年後、『ワーニャ伯父さん』の演出を任された演劇祭に参加するため愛車で広島へ向かう家福は、寡黙な女性みさきを専属ドライバーとして雇うことに。やがて様々な国から集まったオーディション参加者の中に、かつて音から紹介されたことのある俳優・高槻耕史の姿を見つける家福だったが…。」
Twitterへは「ロードムービーかと思ったら違うのか。登場人物も話も欧米映画みたいで、別世界の物語のよう。とくに共感するところなく何も刺さらなかった。意味ありげなダイアログを、みなが平板に話す。劇中劇でもそうなんだけど、なんなんだ? な3時間。」「ふーん。丁寧に、よくつくられてる映画だな、ってとこかな。」
冒頭の、妻との関係の話が30分ぐらいあって、ここでやっとオープニングタイトル。役者名につづいて主要スタッフの名が大きく表示されるのが日本映画には珍しい。で、こっからが本題、なのか。
演劇祭に招聘され、愛車で広島に。上演予定の『ワーニャ伯父さん』に応募した役者の選考〜本読みなんかが始まる。妻・音の不倫相手の1人らしい高槻も参加し、でも、話は淡々と進んでいく…。最後に事件が発生するけれど、それまでは淡々と、いささか間延びしつつ、じっくりゆっくりと話は進む。それなりに見ていられるのは、出来事よりも、人間が描かれているからだと思う。とはいえ、この映画はいろんなところで日本映画らしくない。結婚して25年ぐらいたつ夫婦が出がけにキスしたりする。しばしばセックスする。海外映画では半ば義務的に同じベッドに寝て肌のふれ合いを日常的に行う様子が描かれるけれど、あれを日本人がやっている。薄気味悪い。家福の、ドライバー みさき に対する言葉遣いも、使用人に対するようで命令口調。ですますを使わない。このあたりも、職業による階層を当然のように行う西洋風に見える。そして、家福と みさき が背負っている、自分は人を殺した、という背徳感と贖罪意識。ある種の運命と、神に課された重荷を背負って生きる、ようなところがキリスト教的な気がしてしまう。そして、全体的に情緒を排した物語展開と演出。『ゴドーを待ちながら』『ワーニャ伯父さん』ともに見てないから知らないんだけど、描かれるテーマやエピソードも、映画と重なっていることは確かで。ハナから海外ウケをねらったんじゃないのか? そもそも原作が村上春樹というところからして、透けて見える。
だからなのか、この映画に描かれる出来事にはあまり惹きつけられないんだよね。みさき の、嫌いだった母親を見殺しにした、という罪悪感も、そんなの仕方ないじゃないか、と思える。二次災害を考えたら、そのせいで自分を危険にさらすことになるし。それでも助けに行く、というのは、これまた海外映画でよくある設定だよね。家福の、帰りが遅くなったせいで、くも膜下出血で倒れた妻の発見が遅れた、という罪悪感も同じ。仕方ないじゃないか。ともに、積極的に手を下したわけじゃない。
彼らと対照的な殺人が、役者の高槻によって起こされる。とはいえあの暴力は取ってつけたような攻撃性で、対称性を見せるためのような感じなので、話の中で浮いている。それに、スマホで撮られて激怒する高槻の性向は一度予兆を見せられているので、次に喧嘩、そして結末も、ああ、やっぱり、としか思えない。そして、ニュースで相手が死んだ、と知っても動揺せず、警察が来ても堂々としている様子が、これまた西洋映画の根っからの悪党のようで、記号的でもあるし、異様な印象しか持てない。まさに悪の象徴、ユダのような感じだ。で、振り返るに、本読み現場にいたのは何人だったっけ? 家福と演劇祭のスタッフ2人をいれて10人ぐらい? そこに みさき、妻の音も入れたら全部で13人ぐらいにならないか? キリスト+12使徒にならんかな。曖昧…。
失った者たち、という視点もある。家福と妻は、幼子を失った。家福は、さらに妻を失う。みさき は、若い頃は母親によって自由を奪われた。その母親を、災害で失う。韓国人女優は、言葉を失っている。こうした空白を埋めていく作業、という見方もできるかも。一方で、高槻は奪う側の象徴として登場する。家福の妻を奪い、ワーニャという役を奪い、他人の命を奪い、芝居までも奪おうとした。
そう。全体に、記号的なんだよ。人物も出来事も、その出来事に対する反応や対応も、記号的。その記号に肉付けをして物語をつづっている感じがする。だから、共感できるような人物も登場せず、感情的に揺さぶられることもない。なぜなら私は、聖書にしばられた生き方をしていないから。
家福は、妻が見た夢を聞き、それを記憶する。再度寝た妻は自分の夢を忘れていて、家福から聞かされる。その物語をベースにしたドラマで、人気脚本家になっている。自分でも、「このつづきがどうなるのか知りたい」というぐらいで、まるでシャーマンのよう。妻の話を聞くにはセックスし、ともに寝なくてはならない。50男には激務ではないのか。
そのうえで、妻はドラマの出演俳優とのセックスを続けていた。それが何のためであるかは分からないけれど、性的行為を通じて創作を維持してきた、ということなのか。家福は妻の浮気に気づいていた。ウラジオ行きが延びて家に戻った時、家福は妻の浮気現場を目撃するけれど、浮気はあれが初めてではないのだろう。とはいえ、妻が別の男と寝たベッドで寝られるか、という問題もあるけどね。気にしないのかな。
家福は、妻を愛していて、妻が浮気をしていても離れて行くことはない、と確信していた、のだろう。とはいえ、妻の心が自分を離れている時があることを、意識していた。ここに怒りはないようで、そぶりも見せず、妻に尽くし続けていた。日頃、クルマの中でしていた『ワーニャ伯父さん』のセリフの稽古は習慣なんだろうか。だってセリフは完全に入っていて、いまさら必要はないはず。それでも行っているのは、妻の音源に会わせて自分のセリフをしゃべり、空白を埋めていく行為は、夫婦という関係性を完成させていくものだったのかもしれない。それで心の安寧を確保できていた、と。
とはいえ家福は、『ワーニャ伯父さん』を演じる中で、そのなかのセリフに妻の裏切りや、それに対する彼の感情が重なるようになっていく。自分は妻を愛している。けれど、妻を憎み始めている。その両方の思いが心の中にある。『ワーニャ伯父さん』でワーニャを演じることが苦痛になっていた、のだろう。そんな家福にとって、妻が出がけに「後で話がある」というのは、不安=動揺だったとねか。何を言いだされるのだろう。自分は捨てられるのか? とかなのか? でも、夫婦間で貢献してるのは、家福が妻に、であって、妻は家福にたいして貢献していないよなあ。まあ、そんな妻でも、家福にとってはかけがえのない存在だったのか。このあたりは、理解できないが。その不安があって帰りが遅くなり、発見が遅れた、と。
てな経緯が冒頭30分にあって。広島の演劇祭で福家は、もうワーニャを演じることを止めている。演じれば妻を思い出し、妻への想いや憎しみまでも蘇ってくるから、なのか。それで、ワーニャ役は高槻にした、と。
ここからの話は本題のようでいて、実はオマケのようなものだ。稽古の連続とか、高槻と韓国人(?)女優との関係とか、唖の女優と、夫であり演劇祭のプロデューサーの話とか。そういうのは物語を膨らませているだけ。重要なのは、みさき という人物の来歴を少しずつ見せていくことだ。
みさき は、23歳の娘なのに質素な外見で、ドライバーに徹して家福と距離を取る。仕事に集中し、ちゃらちゃらしない。せいぜい、「芝居の稽古が見てみたい」と漏らしたのと、あと、たまたま同乗した高槻だったか(忘れた)、の話を「嘘はないと思います」と言ったぐらいか。
彼女は、家が土砂でつぶされ、母親が亡くなったときにできた頬の傷を、そのままにしている。忘れないため、というけれど、このスティグマもまた、キリスト教的なものだよね。
なわけで、不良役者高槻は韓国人女優と仲良くなったのかな。で、クルマで事故って練習に遅れたり、まあ、この映画の面倒を一気に引き受ける。で、再度、スマホ撮りにあって、相手を殴りつけて、死なせてしまう。誰がワーニャを演じるか。だれもが家福に期待する。しかしふんぎりがつかない家福は、みさき に、北海道の君の家が見たい、という。それで家福のクルマで、みさき の運転でたどりつき、雪の中に顔を出している残骸に花を手向ける。このとき、家福は、生きていれば同い年だった娘と同じ年齢の みさき を抱きしめる。幼子を亡くした過去があり、生きていれば同じ歳。失った空白を、みさき が埋める、みたいなところがある。とはいえ他人である若い娘を抱きしめるというのも、日本映画にはあまりないよな。西洋的親近感、同情、慈愛の表現だよな。
この北海道行きで家福は吹っ切れて、ワーニャを熱演。芝居は大成功。らしい。なんで吹っ切れたのかは分からない。
最後、みさきは韓国に行っている。韓国との縁は、あの演劇に参加したプロデューサーと唖の妻なのか。犬も飼ってたから、そうかな。日常会話はできてる感じ。クルマは家福からもらったのか? 家福と同じクルマを買ったのか? 知らんけど。しかし、韓国でいったい何をしてるんだろう。
・人を殺した、という背徳感から抜け出す話、なのかな、これは。でも、家福も みさき の場合も、そこまで悩む必要があるのかどうか。
・妻、音のシナリオは、セックスから生まれる。というのは面白いけど。いかにも村上春樹的か。家福が聞かされた妻に話は、「女子が男子の部屋に侵入、モノを盗み、モノを置いてかえる。オナニーはしなかった。けれど、ある時、自慰にふけろうとしたら階段を上がる足音…」というところまで。と思っていたら、そのつづきを高槻が聞かされていて、「やってきたのは本物の空き巣。半裸の娘を犯そうとするが娘は抵抗して空き巣を殺し、逃げる。翌日、娘は男子に真実を話そうとするが男子は何事もなかったように登校してくる。不審に思った娘は男子の家の前を通るが変わったのは防犯カメラが付けられていたことだけ。他は一切変わっていない。あの空き巣はどうなったのか? 娘は防犯カメラを見る」という内容を家福に話すんだが、どういうことなんだろう。このときかな、みさきが「嘘を話しているように思えない」と言ったのは。
・みさき の話で興味深かったのは、母親が二重人格で、ときどき4歳ぐらいの幼児に変貌するという話。これを家福に当てはめてみると、妻の変貌ぶりに当てはまるかも。日常的には家福のよき妻でありながら、家福の知らないところで性をむさぼる女に豹変する。その二重性を連想してしまう。
・愛車にこだわる。自分で運転したがる。他人に運転されたくない。というのは、愛車=妻と考えればいいんだろうか。それだけ家福には不可分な存在だった。しかし、自分だけが運転(性交)してきたつもりだったのが、妻は他人にも運転(性交)されていた。自分が支配してきた妻=クルマを相乗りされていて、でも、妻を手放したくないから許容してきた。しかし、妻が死んでしまったことで、こだわりが薄れてきた。芸術祭でドライバー みさき を紹介され、たじろぎはしたけれど、みさき の腕前を見て、運転をまかせるようになる。妻はもう、いないのだ。自分だけが運転する必要は、ない。そうやって家福は、妻との精神的決別を果たした。もし、みゆき が韓国で乗っていたクルマが、もとは家福のものであったとしたら、家福の妻へのこだわりは無くなったということの証なのかも知れない。
・多国籍語で芝居をする、というのは原作にあるのかな。変なの、としか思えない。
・妻の音役の霧島れいかは、『運命じゃない人』の娘か。いつのまにか色っぽい女になってたのね。
かそけきサンカヨウ10/18シネ・リーブル池袋シアター2監督/今泉力哉脚本/澤井香織、今泉力哉
allcinemaのあらすじは「幼いころに母が家を出てしまい、父との長い2人暮らしの中で家事も自分でこなすようになっていった高校生の陽。幼なじみで同じ美術部の陸に淡い恋心を抱きながらも、静かで穏やかな日々を送っていたある日、父から再婚することを告げられる。唐突に訪れた父の再婚相手とその4歳の連れ子との新しい生活に戸惑いを隠せない陽。そんなある日、彼女は画家である実の母・佐千代の個展に陸を誘うのだったが…。」
Twitterへは「監督が『愛がなんだ』『街の上で』の今泉力哉なので期待して行ったんだけど大ハズレだった。ギミックはほぼなくて、登場するのはみないい人ばかり。なんだこのほのぼの映画は!」
『街の上で』の緻密な構成、あちこちに散りばめられた仕掛け、脱力感を感じさせるキャラや展開。それを期待して言ったら、なーんの仕掛けもなくて、ただの腑抜けた青春ロマンス、のようなものだったので、がっかり。頼まれ仕事なのかな。
陽は映画音楽家の父親・直と二人暮らし。美術部。近しい友人に、母子家庭で喫茶店でバイトしてる沙樹、いまいちキャラがよく分からん みやこ、陸、バスケ部の数人がいる。最初に喫茶店で5人が集う場面。陽のセーラー服姿は、悪いけどAV女優みたいに見えた。あれ、中3の設定なんだよな。で、みな同じ高校に行き、陸は心臓病が発覚し、中学で数人と一緒だったバスケを止め美術部に。な、アウトライン。5人の結びつきが何か、は分からない。陽が陸に感じる思い、もよく分からない。そういう設定です、という感じ。
陸が手術で入院したら、みなで見舞に行くよ、と。でも、陸は陽と2人のとき、どこか行こうか、と誘う。おお。陸は陽に気があるのか。と思うじゃん、フツー。で、出かけた先がどこかのギャラリーで。そこで、陽にとっての最初の記憶であるサンカヨウの絵と出会う。なぜこの個展に2人で行ったのか、は後から分かるけど、知らないうちは妙だよね。で、あとから、絵を描いた左千代は陽の実母で、でも絵を描きたいからと陽を夫に押しつけ出奔したと知れる。なんだよ、この母親。なんだけど、左千代と直はLINEでつながっていて、個展の連絡も来ている関係と知れて、えええええっ! な気分。4歳の娘を押しつけられて出ていった自由人の元妻と、つながってるう? あり得んだろ。ということは個展も父親から教えてもらって、デートの場所は陽が決めて、ギャラリーで左千代が現れると、でも、自分の顔も見なかった、生んだ子の顔も分からないのか、と不愉快になって、陸を置いて帰ってしまう。なんじゃこの娘?
と思っていたら、父親の直が、つきあってる美子という女性を連れてきて、の会食。でも、少し緊張しただけで、すんなり受け入れてしまう。美子には幼い娘がいて、こいつが悪ガキで、陽が大切にしていた佐千子の画集を狙ったかのようにビリビリに引き裂くという、なかじゃこれ、な映画的演出で笑うに笑えない。しかも、それを直すのにセロテープで貼るって! 一瞬、激する陽だけど、すんなり和解。実母の左千代とも改めて連絡をとり、正式に再会した様子。その様子は描かれないけど、そんな簡単に許せるのか? 信じられないな。絵のために自分を捨てた母親なんて、社会人として不適格だろ。許せないと思うけど、そこはなあなあで済ませてしまう。ずるい。
陸は無事手術成功。ののち、2人のとき、なーんと、陽の方から「好きです」と告白したのに、陸は「好きだけど、同じ好きかどうか分からない」と恋愛感情を否定するかのような発言で、なんだおまえ。だって最初は陸の方からデートに誘ったんだろ。陽がその気になるのは当然じゃねえか。本気の恋愛かどうかは別にして、「僕も好きだ」って言ってやれよ、唐変木。
な、感じのまま陽の誕生パーティで5人の仲間が集い、わいわいがやがや。見ているこっちは、悪意のない連中が集まってあれこれやってる様子に嘘くささしか感じないんですけど。
てなわけで、ラストシーンがどんなだったかなんて忘れてしまったよ。
・サンカヨウは、陽が幼いとき母に背負われて森に行き、そこで見た花、という設定らしい。しかも、人生で最も古い記憶、らしい。でも、このとき陽は、母親と背中合わせで背負われていたよな。だから、見えるはずがないんだよ。
・父親の直に、映画の場面に付けた音楽を聞かされて、どっちがいい? なんて、どーでもいい。・母子家庭だから行くなら国立、でバイト先の喫茶店の奥で勉強してる沙樹が気になる。陸は、陽のことを話すんだけど、自分が陽より下に見えるから私のところに来たの? 的なことを言われて、しょげる。皮肉たっぷりな性格だけど、この勝ち気な感じ、好きだな。自立心のある沙樹は、なかなか魅力的。そうだ。2人で話すとき雨が降ってきて、陸が傘さしたまましゃがむんだが、あれ、敷石に腰を下ろしてたよな。あれはないだろ。尻が濡れるだろ。
・陸は、母親と、父方の祖母と住む。祖母はいちいち細かい。みそ汁がしょっぱい。体に悪いからお湯を差せ、という。お湯で薄めても全部飲めば塩分摂取量は同じだろうが。アホか。
・陸が公園でちょっと走って。息も絶え絶えで倒れるんだが、このタイミングで陽の義母となった美子が自転車でタイミング良く通りかかる。できすぎだろ、それ。
・陽は、実母・左千代が描いたサンカヨウの花の絵を壁に貼っている。そこに、陽が描いた義母・美子の顔が加わる。そして、陸が描いた陽の顔が加わる。って、これを並べて、何の意味があるのだ?
コレクティブ 国家の嘘10/19ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/アレクサンダー・ナナウ撮影/アレクサンダー・ナナウ
ルーマニア/ルクセンブルク/ドイツ映画。原題は“Colectiv”でライブハウスの名前。allcinemaの解説は「2015年10月30日、ルーマニアのライブハウス“コレクティブ”で火災が発生し、死者27名、負傷者180名を出す大惨事となる。しかしその後、本来亡くなるはずのない負傷者が治療を受けていた複数の病院で次々と命を落とし、最終的にその数は当初の死者数を大きく上回ることに。この異常事態にも政府は医療体制に問題はないと繰り返すのみ。ほとんどのメディアがそれを追認していく中、スポーツ紙“ガゼタ・スポルトゥリロル”の記者たちは一連の経緯に疑問を抱き、地道な調査を進めていた。(略)アレクサンダー・ナナウ監督が彼らの調査報道の過程に完全密着し、医療をめぐる巨大な汚職の実態と権力の腐敗が次々と暴かれていくさまを進行形で記録した衝撃のドキュメンタリー」
Twitterへは「“医療をめぐる巨大な汚職の実態と権力の腐敗”が暴かれるドキュメント。なのに若者の投票率は相変わらず低いし、腐敗政党が勝利、って、日本と同じではないか。あまりにリアルなので演出されてるのでは? と疑ってしまいそうな映像だ。」
ドキュメンタリーなんだけど、え? ホントにドキュメント? これって芝居してないか? なんでこんなタイミングで撮れてるんだ? こんなセリフ、つぶやきまで撮れてる。演出してるのでは? 自然すぎて、演技じゃないのか? って思うような場面の連続。しかも、最初はスポーツ紙の記者の視点で描いていて、途中でリベラルな保健相が就任すると、今度はこの保健相にべったり貼り付いて行動を記録する。追及する側とされる側、その双方の視点からドキュメントして構成するようなのって、珍しい。まあ、監督がどちらにも信頼され、撮れてるってのがあるんだろうけど。まあこれは、驚きではあるけれど、若干の疑惑も含んでいるということだ。
とはいえ、ライブハウスの火災(この火災発生の場面が映るのは、かなり衝撃だった)に端を発して病院の消毒液の希釈問題、メーカーへの追及、メーカー社長の不審死、保健大臣の交代、さらには肺移植の問題まで話が膨らんでいって。病院スタッフの告発(しかも顔出し)、告発者への得体の知れない脅しまで発生する。では、庶民ベースで大規模なデモがあるのかと思ったらそうでもなく、しかも、直後の選挙は若者の投票率が5%〜20%程度で、若年層ほど選挙に無関心。その結果、一連の闇の背景となっていたらしい社会民主党が大勝するという結果に終わるのが、なんとも不気味。日本と似ているけれど、日本よりも闇が深い気がした。
・追及を始めたのがスポーツ紙だってのが凄いし、そのスポーツ紙の記者に早くから密着したのが凄い。もしかして監督の入れ知恵で取材を開始したのかな。
・メーカーに行って関係者の写真を撮り、除菌剤の分析も行い、大臣に追及する。当初の大臣(もともと医療関係者で、内情を知ってた模様)は、安全、問題ないを繰り返してたけど、直後の辞任とか、新任の挨拶とか、そういう場面も撮れている段取りの良さ!
・新任の保健大臣にも密着し、打合せなんかも撮れてる凄さ。保健大臣は、この国の大統領なんかから指示は受けてるのかね。
・と思ったら、メーカー社長が事故死? 自殺? 事故車のニュース写真も出てきて、なんだこの展開は。ドラマよりドラマチックじゃないか!
・新大臣も、メーカーの操業停止を考えるけど、側近に「それは法的に問題が」といわれて考え込む。人の命より、法律。こういうのは、日本でもあるけど、どこも同じなんだな。まあ、法律には権力者の暴走を阻止する目的もあるんだろうけど。
メーカーが殺菌剤を1/10に薄めて病院に売り、病院の経営者は還元された賄賂で海外に病院をつくったり、豪邸に住んだり。医療スタッフも知りながら、黙認。医療関係者が政治家になって世論を封じ込める。裏にはマフィアも? 日本でもあるだろうけど、システムが確立されてしまっていてどうしようもないのか。こんなことを言ったら「陰謀論だろ!」と言われそうなことが、事実として行われている恐ろしさ。
・肺の手術を海外で、という保健大臣に食ってかかるのは、どこかの女性市長だったか。前政権の社会民主党の息がかかっていて、それでの発言らしい。なのに、後日の選挙では社会民主党が大敗。これはなんでなの? と思う。草の根の運動は発生しないの? ジャーナリズムの告発も、これじゃ意味ないよな。日本も外国も、若者は抵抗する意志を失っているのだろうか。空しい。
DUNE/デューン 砂の惑星10/21109シネマズ木場シアター5監督/ ドゥニ・ヴィルヌーヴ脚本/ジョン・スペイツ、ドゥニ・ヴィルヌーヴ、エリック・ロス
原題は“Dune: Part One”。allcinemaのあらすじは「遥か未来。宇宙帝国の皇帝によって“デューン”と呼ばれる砂の惑星アラキスの統治を命じられたアトレイデス家。アラキスは宇宙で最も価値がある物質の産地だったが、巨大生物サンドワームに支配された危険な惑星でもあった。当主のレト公爵は、この任務に裏があることを感じながらも家族を伴いアラキスへ移住する。やがて公爵は宿敵ハルコンネン家の陰謀に巻き込まれ命を落としてしまう。公爵の息子ポールも母ジェシカとともに命を狙われる身となり、逃亡を余儀なくされる。そんなポールの前に先住民族フレメンの女戦士チャニが現れる。彼女こそ、これまでに何度も夢で見た謎の女性だと気づくポールだったが…。」
Twitterへは「最初の1時間、寝ては夢起きてはうつつ幻の…で、ときどき見た記憶がある。以後も、荘厳な音楽は覚えてるけど、物語は緩慢でくどく、人間を描こうとしてない。デジタルのない未来のファンタジー書き割りな感じ。」
リメイクなのは知っている。でも、既作は観ていない。原作もあらすじも知らない。155分にたじろぎつつ、でも『007』も3時間の『ドライブ・マイ・カー』も乗り越えたし。で見に行った。まずメインタイトルに「パート1」ってあって驚いた。だって邦題にないから。
さて、公爵が、スパイスが名産の星の統治を皇帝に命じられて出向いた。は分かった。以後、惑星名とか人物名がうじゃうじゃ登場し、しかも登場する人物の地位や関係性がよく分からんので、次第に瞼が…。ときどき目覚め、少し見て、またうとうと。ほぼ覚醒したのは始まってから1時間過ぎたあたりか。なんか、物語の輪郭がよく見えないのだよね。皇帝って、どの程度の宇宙を統治してるのだ? 皇帝には敵はいないのか? スパイスって、宇宙の航行に欠かせないとかいうけど、なんで? それがないと宇宙の機能がマヒするほどなのか? だったら皇帝もちゃんと管理しろや。とか思う。まあ、寝ている間に説明があったのかも知れないけど。
で、↑のあらすじにあるけど、宿敵ハルコンネン家の陰謀ってのが、よく分からない。皇帝が統治しているのに、家臣同士の内輪もめなのか? このハルコンネンとかいうやつ、スパイスの売上げで利益重視だ! とかいってる場面が後半にあって、ここだけ笑ってしまった。宇宙の平穏より、私利私欲…。しかも、金かよ。じゃなんで皇帝は警察権力つかってハルコンネンを調べたりしないの? 公安的な存在はないのかえ? とかね。
父親を殺され、仮に公爵になったポールは、母親と逃げ回るんだけど、部下はもうおらんのか? というか、星に住む民人はポールたちを助けないの? とか、素朴な疑問が湧いてきて、とても話に入れるような感じではない。
それと、ときどき現れる幻影のような少女は、あれは、“夢”なのか。なんでそんな夢を見るんだ? でまた、後半の逃亡中に岩山の民のようなのに遭遇し、ボスは認めるけどナンバー2みたいのが仲間入りは認めないといい、決闘。ここの少女に「あんたは負けて死ぬ」といわれながら、大したアクションもなくスリルもない決闘で簡単に勝利してしまう。肩すかしもいいところ。
壮大、というより、画面に何もない砂漠が広がる、という様子は書き割りのよう。全編にわたってドガドガと壮大風を仕立ててるつもりの音楽が鳴り響き続ける、虚仮威し。ストーリーも、大したことのないものを、さも凄そうにしているだけ。テンポはノロく、アクションほとんどなくて、ちっともワクワクもハラハラもしない。こんなん見て凄いといってる方々の気持ちが分からんな。
ノマドランド10/26ギンレイホール監督/クロエ・ジャオ脚本/クロエ・ジャオ
原題は“Nomadland”。allcinemaのあらすじは「ネバダ州の企業城下町に暮らしていた60代女性ファーン。リーマンショックの影響で長年住み慣れた我が家を失った彼女は、亡き夫との思い出を詰め込んだキャンピングカーでの車上生活を始める。アマゾンの集配センターで短期バイトの職を得たファーンは、そこでリンダという女性と知り合う。彼女も車上生活を送る現代のノマドの一人で、ファーンはアリゾナの砂漠で行われるノマドの集会に誘われるのだったが…。」
Twitterへは「アカデミー賞は、社会問題を扱ったからの受賞だろ、きっと。ドラマも感動も共感もない。アメリカって、採掘場がなくなっただけで町も郵便番号もなくなるのね。定住せず日払い(?)での生活を選ぶのは、なんでなの? 雇用する側があるからなのか?」
Twitterへの別投稿「しかし映画が始まった瞬間から寝てるって、なんなんこのオヤジ。しかも盛大にイビキ。もしかして脳溢血? 心配したりしてすっかり集中できず。1時間くらいして起きたけど、フツーに息しててもスーハー音聞こえてきて気持ち悪い。な一本目。」というわけで、前半は気が散って集中できず。くそ。
ノマドだから、あちこち転々と、だと思いつつ見始めた。でも、最初はどっかのおっさんになぜか知らんが金を払っている。そして、いきなりAmazonで働き始める。その後も、公園管理とかレストランとかで働くんだけど、その間、が描写されないので、「?」なのだ。つまり、ファーンの移動している姿はほとんど映らない。仕事募集に応じている様子もない。どれぐらい働いて、いくら稼ぎ、いつどういう理由で辞めて、次にどこへ行くのか、という経緯が見えない。車をどこに停めているのか、も見えない。砂漠の中らしいことは分かるし、同じような車上生活の仲間も周囲にいる。でも、そこはどこなんだ? 誰の土地なのだ。金を払って停めているのか、ただの野っ原なのか、食料品店は近いのか、街場は遠いのか、というのが写らない。買い物場面は写ったりするけど、それは点でしかなくて、線が見えない。だから、大変さも呑気さも分からんのよね。
最後の方で、ファーンが言う。働いていた採掘場がなくなり、夫も亡くなった。でも、ここを離れたら夫の記憶もなくなってしまう、とかいうようなことを。夫は採掘労働者で、ファーンは事務で働いていた、らしい。社宅に住んで、見える風景は自然そのもの、とかなんとか。それが、採掘場がなくなって社宅を追い出された、ということか。ということは、採掘場があった町の周囲をうろうろしてるってことなのか?  というようなアウトラインをちゃんと見せず、場所を移動しながら季節労働者のように働き、同じ仲間と知り合っては別れ、またどこかで再会する、ということをと映していく。ドラマらしいドラマもなく、淡々と。なので、飽きる。
前半で仲良くなる車上オバサンは70いくつかで、でもがん宣告されていて、未来はない。けれど、ある日、どこかへ行ってしまう。彼女は働いてないんだろう。年金生活だったっけ? それでも車上生活をやめない。ジジイも知り合いの1人で、同じ職場で働いたり、別れたり、とか。ある日ジジイの息子で音楽家というのが尋ねてきて。子供、つまり、ジジイにとっての孫ができた、という。それで、息子と孫と暮らすらことにしたらしい。いつか訪ねておいで、と言われていて。後半になって訪れるんだが、ジジイはいいおじいちゃんになっちゃってる。で、一緒にここに住まないか、と申し出をされるのだ。その晩、ファーンは屋根の下、ベッドで寝ようとするが眠れず、自分のクルマに逃げ込んでしまう。
そんなクルマが安心できるのか? いや、その。夫の思い出のある町を離れたくないなら、町に部屋を借りて住めばいいはずで。クルマにこだわる理由が分からない。しかも、かつては社宅に住んでいたのに、家で眠るのが落ち着かない、とはどういうことなのだ。車上生活に慣れすぎた? でも、ジジイは車上生活から家の生活にすんなり溶け込んでいる。要はファーン個人の問題で、でも、それがなぜなのかは分からない。だから、共感するところはない。
ファーンの気持ちの転機は、車上生活社の長老みたいな爺さまと話したことなのかな。爺さまは生きていれば30いくつという息子に自殺され、それを乗り越えた、とかいう話だった。その後、ファーンは、冒頭で金を払っていた相手に、家具など一式を処分しもらうように依頼している。ってことは、過去の思い出を貸しガレージにでも預かってもらっていたのか? 爺さまの話を聞いて、過去との決別をした、のか? のあと、かつての社宅に行き、部屋に入ると、テーブルには埃がたまっていて、マグカップもそのまま。は? そういうの、置いたまま出てきたのか? と思ったら、どうやらそれは他人の部屋らしい。わかりにくいな。なんで他人の部屋なんかに入るんだよ。次に、がらんどうの部屋に入り、奥の部屋の窓から見える荒涼とした原野と山並みが見える、で映画は終わった。
夫との思い出=過去を処分したということは、この町の周囲に住む必要はなくなったということなのかな。では、ファーンは、一緒に住もうといってくれたジジイの家に行くのか? それとも、相変わらずこのあたりで車上生活と季節労働者をつづけるのか? よく分からん。
企業城下町が消えると街も人も亡くなってしまうスケールは、日本の夕張以上なんだろう。社会問題といえばそうだけど、でも、多くの人たちはその試練を超えて生きつづけているわけで。では、なぜファーンはこだわりつづけたのか。という答は、明らかにされないのだった。うーむ。
・ジジイの具合が悪くなって手術し、見舞に行く場面が突然でてくる。医者は憩室炎と言ってたかな。それはいい。けれど、日々の生活費もままならない車上生活者に、アメリカの医療費は莫大なんじゃないのか? と、気になってしまった。
ブラックバード 家族が家族であるうちに10/26ギンレイホール監督/ロジャー・ミッシェル脚本/クリスチャン・トープ
アメリカ / イギリス映画。原題は“Blackbird”。allcinemaのあらすじは「不治の病に苦しむリリーは病状が進行する中、医師である夫ポールの助けを借りて安楽死することを決断する。そんなリリーとの最後の時間を過ごすため、娘たちが集まってくる。真面目な長女のジェニファーは母の気持ちを尊重するつもりだったが未だ心の整理はつかず、一方の次女アナは、そもそも母の決意を受け入れることができずに苛立ちを募らせていくのだったが…。」
Twitterへは「デカ尻おばさん誰かと思ったらケイト・ウィンスレットで、その妹役が不意義の国のアリスか。最後のドタバタ劇はとってつけたようでミエミエだけど、なんでも話し合いにもちこむ外国の家族はうっとうしいかも。」
Twitterへの別投稿「なわけで席を移って2本目。と思ったら前の席に女の人が座って頭がジャマくさくなったので本編前に後列に移動という、点々とノマド観客。自由席だかんね。えー、1本目は『ノマドランド』だった。」
特定の場所を舞台にした一場面ものの芝居のような映画だった。ある海岸沿いの豪邸に、一族が集まる。家族以外の2人は、リリーの大学時代の友人と、次女(ゲイ)の彼女が混じってる。最初はなんのことやら。しばらくして、これが別れの集いであることが分かる。リリーは左手が不自由で、脳溢血の後遺症かと思ったら、必ずしもそうではなく。近い将来、病状が進行して死にいたる、というようなもののようだ。でも、それがどういう病かは明かされない。で、リリーは夫と話し合い、安楽死の道を選ぶことにした。とはいえまだ合法ではなく、夫が散歩で目を離したスキに妻が毒薬を飲んで亡くなる、という筋書きにするらしい。そのことを家族、友人に連絡し、納得して見送ってもらうつもりだったのが、前々夜、前夜でいろいろ巻き起こって、周囲が右往左往するという話。
予定調和で、リリーが毒を飲む、という大筋は変わらない。どんでん返しも無かった。あるのは周囲のドタバタ。主に原因となるのは、次女のアンナで、同性愛者。彼女は母親に死んで欲しくない、といいはじめる。理由は分からないけれど、そのせいで姉ジェニファーと対立する。そもそもアンナは彼女と別れてひとり暮らしのはず。1ヵ月間連絡とれずで、久々の対面だけど、じつはアンナは自殺未遂を起こしていて、発見したのが元カノで、その後、精神病院に入院していたんだという。まあ、うつ病なんだろう。そんなアンナにも、母親のリリーは、みんな立派で私の誇り、という。ゲイで自殺未遂を起こした自分にもそういうのが、どーも耐えられなかったみたい。とはいえ、アンナの存在は、場を撹乱するために設定されたような感じで、いまいちなるほど感がないのも確かなのよね。
もうひとつのドタバタは、父親ポールの浮気疑惑。リリーが呼んだ旧友リズと、キスしているのを目撃し、リリーの自死直前になって騒ぎ立てる。父親が母親の死を支援するのは、自分の浮気が原因で、不要になったリリーを殺すためだ、と。なんと大げさな、と思うけれど、西洋人はこういうことを言葉にして話し合う人種だからめんどくさい。この浮気疑惑については、予想がついたけれど、夫の相手ができなくなったリリーがリズに頼んで相手をしてもらっていた、ということに過ぎない。とはいえ、妻の友人といえばかなりの老人なわけで、それで性的関係を結ぶというのも、ちょっと薄気味悪い気がするけどね。
長女ジェニファーと、夫、息子の3人は、とくに問題のない家庭で、次女との対照として存在するような感じ。夫とは倦怠期で、でも、誰もいないところでワインをこぼしたのがきっかけで突然燃えて、いたしてしまう、というのも、映画的だなと思う。フツー、冷めた夫婦がそんなんでセックスしたりしないだろ。
というわけで、基本は安楽死の話ではあるけれど、どちらかというと、同性愛者アンナがもうひとりの主役のような感じでもある。けれど、しょせんは病気であり、何かをしたからそうなったというわけでもないので、感動的な話にはなりにくい。その意味では、話を広げた分、中途半端になってしまっているような気もするんだけどね。
・ちょい早めのクリスマスプレゼントで、母親リリーが長女のジェニファーに、電動(かどうか知らんけど)こけしをプレゼントというのが笑えた。
ビルド・ア・ガール10/30ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/コーキー・ギェドロイツ脚本/キャトリン・モラン
イギリス映画。原題は“How to Build a Girl”。allcinemaのあらすじは「学校に友だちもいない孤独で冴えない女子高生のジョアンナ。悶々とした日々を送る彼女は環境を変えたいと、音楽マニアの兄クリッシーの勧めで大手音楽情報誌“D&ME”のライターに応募すると単身でロンドンに乗り込み、みごと力ずくでライターの仕事をつかみ取る。やがて辛口音楽ライター“ドリー・ワイルド”として頭角を現していくジョアンナだったが…。」
Twitterへは「26歳が16歳を演じるのはないだろ。夢想気味でドジで巨乳の小デブスが一夜にしてロック誌の人気ライターに。でも失恋して反省し、フツーのコラム書いたらまたまた花開くって都合よすぎ。脚本家の自伝らしいけづ脚色しすぎ。美人は1人も出ない。」
ほぼ事実に基づく、らしいけどカリカチャライズされすぎで、いまいち感動も共感もなし。そもそもデブ、ブス、ムダに巨乳、厚顔で図々しく勝ち気な高校生が、作文コンテストで選ばれるのはいいとして、いきなり訪問したロック誌に試しとはいえ雇われ、実はストーンズを聞いたこともないのにライターとして辛口評をか書きまくったら人気者になる、って話なんか知りたくないよね。挫折を味わい、壁を乗り越え、やっと採用されて次のステップへ、っていう成功物語ならまだしも、することなすこと成功譚ばかりじゃ面白くもなんともない。
父親は障害者年金者? だけど犬のブリーディングがバレて役所にテレビ持って行かれ、子供の進学費もままならず、っていう状態がジョアンナのおかけで家計は持ち直す。でも、自分が稼ぎ出すと家族に対して上から目線で「あんたらはリンゴ・スター」なんて口をきいたりして、おいおい、だよな。それにしても、あれが公営住宅? 兄妹で1つ部屋を2つにして暮らしてるけど、日本なら広すぎてウハウハものだろ。ところで、あの音楽好きの兄貴は、ジョアンナと双子なの? そんなこといってたような…。でも、だからって学校中の嫌われ者のジョアンナを、兄はいろいろ応援したりするのがよく分からない。フツーなら、関係ありません、って顔をするんじゃないのかな。
それが、単独取材したアイルランド在住のロッカーに恋をして、親密になって昔語りをオフレコと言うことで聞かされるまでになり。でも、のぼせ上がったジョアンナがキスしようとして拒否され、それで絶望してオフレコ話を記事にして大騒ぎ。って、どこにも同情の余地はない。っていうか、そのデブで人気ロッカーに恋してキスしようというのは身の程知らずの思い上がりではないの? まあ、役者がもっと可愛いかったら別の印象をもつとは思うんだが。
傷ついたロッカーは話もしてくれなくなった。当然だ。ここでやっと、自分が他のバンドに描き殴った辛口批評の罪悪に思い至り、こき下ろした130余組に謝罪の電話をいれて反省ですか。やれやれ。でも、そんな電話する前に、ドリー・ワイルドを名乗ったらクラブに出禁になるとか取材拒否に遭うとか、こきおろしたバンドメンバーのテロに遭うとか、なるだろ。違うか?
謝ろうにも面会もできず、ではと直撃謝罪に挑んだジョアンナ。そこで取りだしたのが、切り落とした自分の髪。私はあなたの大事なものを傷つけた。だから、私も一番大切なものを切り取った。てなことをいうんだけど、オフレコ話と比較するには、そんな髪の毛、約に立たんだろうと思うんだがね。髪はやがて生えてくる。しかも、丸坊主じゃなくて、長い髪を半分ぐらいカットしただけ。痛くもかゆくもないだろ。バカか。なんだけど、これでロッカーはジョアンナは許され、仲直りしてしまうという、なんじゃこれ、な展開。どこにも共感する余地はない。
・名前のドリー・ワイルドって、何に由来してるんだ?
・芋っぽいファッションのジョアンナが、取材記者になったとたん、ドリー・ワイルドとして変身する。あのファッションは、ジョアンナが自分で選んだのか? 兄の意見も採り入れて? 変身? どうやって?
・壁のピンナップや広告写真の人物が話しかけてきたりアドバイスしたりする演出で、ここは『アメリ』的な感じなのだ。まあ、夢想家、というようなことか。でも、他とトーンが違うんだよなあ。なんかギクシャクな感じだな。
それでも生きていく、10/30シネマブルースタジオ監督/仲井飛祐脚本/仲井飛祐、菊原爽人
50分。シネマブルースタジオのあらすじは「コロナウィルスで彼女を亡くした拓巳は心の支えを失い、生きる気力も無くしていた。ある日、怪しげな男が拓巳の家に訪ねてくる。「もう一度彼女に会いたいと思わないか?」次の日、目が覚めると世界は一変していた。」
Twitterへは「話もダメだけど音声がひどい。」
タイムリープとパラレルワールドを足した話で『シュタインズ・ゲート』からの発想か。でも話の必然性が「?」すぎて、いまいち入り込めず。
仮にA世界としよう。ここに仲のよい3人組(こいつら高校生か? 大学生? が曖昧)がいて、女の子がコロナで呆気なく死んでしまう(というのがバカすぎ。若者は死なないのだ。殺すなら彼女を末期がん設定にでもしなきゃ説得力はゼロ)。で、拓巳のところに金髪男が訪ねてきて、彼女に会いたくないか? と、不思議な時計を渡す。これが光って世界線が変わり、B世界へ。こちらでは女の子は生きていて、男の友人が理由は分からんけど死んでいる。拓巳と彼女は、いつのまにか恋人同士になっていて、あちこち散歩したりピクニックに行ったり。その様子を、金髪男が至近距離で監視してる。
この金髪男は未来の拓巳で、ノートの切れ端に描いた設計図でタイムリープできる腕時計を開発したんだと。嘘っぽいけど、『シュタインズ・ゲート』も電子レンジだったからなあ。
そういうタイムリープやパラレルワールドの遊びは、根拠がないといけない。『シュタインズ・ゲート』では まゆりを殺さないため、という使命があった。しかし、この映画にはそうした必死さはない。そもそも未来の拓巳が彼女に会いたければ、自分で過去に遡るか、B世界に行けばいい。わざわざ過去のA世界にいる自分に託す必要はない。まあ、あのときの失望感はたまらなかったから、過去の自分に彼女を会わせたい、ぐらいなものだ。彼女の死を救う、という発想はひとつもこの映画にない。それに、顔を隠して過去の自分に会う理由は何なんだ? タイムリープでは、過去の自分に会わない、というのが鉄則としてあったりするけど、それは未来の自分に影響を与えるから、だったかな。であれば、ずっと会わないようにすればいい。この映画では自ら腕時計を過去の拓巳のマンションに届け、その後には対峙し、一緒に行動したりする。どうみてもおかしいだろ。
老人になった拓巳、というのも登場しているらしい。けれど、演じているのは未来の拓巳の姿のママで、声だけが変わっている。予算の都合で老人が手配できなかったのか、メイク代がなかったのか。それにしても、老人拓巳はどういう意味があるんだ?
というような案配で、ラストがどうなったのか覚えてないよ。
それにしても音声がひどい。会話は聞き取りにくい。ノイズは混じる。公園の蝉の声が、カット割りされるごとに変化する。公園の展望台付近では、近くにいる別の客の話し声がガンガン聞こえてくる。他人を排除できない状態だったのかも知れないけど、人がいるなら撮影日を変えるとか、撮り直すとか、いくらでもあるだろうに。うんざりの50分だったよ。
・拓巳はなぜマンションにひとり暮らし? 後に有人が親から鍵を借りてきたとかいってたけど、どこまで取りに行ったんだか。近くに親がいるなら、なぜひとり暮らし?
・B世界で、拓巳と彼女が亡くなった友人宅へ行く場面。1月後なら、位牌ぐらいはあるだろうに。畳んでない布団のある部屋しか見せない。母親役は、顔出しNOなのか、不自然に顔が出ない。
知らない息子10/30シネマブルースタジオ監督/平岡亜紀脚本/平岡亜紀
23分。シネマブルースタジオのあらすじは「旦那、息子に先立たれ、一人孤独に生きていた林浩子。ある日死んだはずの息子から電話がかかってくる。会話を続けるうちに浩子の孤独は埋まっていく。一方、電話をかけていた村田淳は徐々に罪の意識に苛まれ始める。」
Twitterへは「白川和子がお見事。」
トラブルがあって、『それでも生きていく、』につづいて上映が始まらず。ずっと“pioneer”の文字がスクリーンに映っていた。スタッフが後方の映写室に確認に行き、「もうすく再開」と告げるが、なかなかはじまらず。退席orトイレ? の人、場内のあちこちでスマホの光。やれやれ。10分ぐらいして(もっとかな?)、いきなりババアの顔が映る。タクシーの後部座席で「息子の結婚式に行く」と運転手に話しているそれは、明らかに白川和子。え。自主映画の短編に、こんな大物がでるの? の、のちの話は↑のあらすじの通りで、よくある話。なんだけど、クオリティがとても高く、画質やライティングもプロっぽい。でまあ、冒頭でネタばらししてしまっているので意外性はないけれど、年寄りを狙った詐欺から足を洗った村田は、自分を偽物と知りつつ対応してくれた浩子に謝罪し、結婚式に出てくれ、と頼む。このあたり、なかなか感動的。とはいえ、その後の結婚式のシーンは画質が少し荒れるんだけど。まあいい。
で、気になるのは村田の考えで。オレオレ詐欺はやめるけれど、以前の犯罪はそのままで、仲間を告発はしないし、自分の過去の罪も償わない、ということだよな。それと、村田は同棲中で、相手が妊娠。それを聞いて出産に賛同する。ような男なのに、なぜにオレオレ詐欺? 孤児院を逃げだし、あてもない時に手を差し伸べてくれた先輩に誘われたから? でも、悪いこととは知りながら、だよね、多分。それで家庭をもつ、という発想になるのか…。オレオレ詐欺をやめてまともな職につけていたらいいけどね。と、そんな気がした。
村田の暮らす部屋、その壁が真っ白。なんか生活感だしてくれよ、な感じがした。絵を飾るとか、カレンダーでもいいし…。
レイディオ10/30シネマブルースタジオ監督/塩野峻平脚本/中村綾菜
46分。シネマブルースタジオのあらすじは「ラジオを聞くことが趣味の地味な大学生の加藤は、大学で同じ趣味を持つ女性松岡と出会う。夢がなかった加藤に、松岡は「後悔しない生き方」をしたいと言った。加藤は真っ直ぐに生きる松岡にだんだん惹かれていく。」
Twitterへは「ミエミエの展開だけど、なかなか。」
ラジオ好きで投稿職人の加藤、大学のゼミで一緒になった松岡が、自己紹介のときに「芸人のラジオを聴くのが趣味」といっていたのに、話しかけることもできず。だったんだけど少しだけ会話を交わし、LINEも交換。そのことを「他言無用」という芸人番組に投稿。それと相まって松岡はゼミを休むようになる。ゼミ合宿の資料を手渡すことになって連絡すると、病院にいるという。見舞がてら訪ねる加藤。
加藤は袋小路なんとかという名前で、松岡はアンビバレントなんとかという名前で投稿していたが、ラジオ上では互いの存在は知らず。でも、投稿してるとは言っていたから、読まれていることは知っていたはず。なのに、私のが読まれた、とはいわず、袋小路は松岡との状況を投稿、松岡も孤独な鳥に喩えて加藤との交流を投稿しつづける。…のだけれど、2人とも同じ番組を聞いているんだから、あ、自分の状況と似てる、と気がつかないのはおかしいだろ。でもま、映画的嘘ということなのか。
すぐに退院できる、といっていた松岡だけど、状況はますます悪化。ついには、最後の投稿の後、亡くなってしまう。LINEの返事がないまま、加藤は、その3日後に見舞に行って初めて気づく。その後、松岡の最後の投稿が読まれるのだけれど、そのなかで彼女は、加藤が袋小路だと分かった、と告白。さらに、彼は私のことを知らないだろうと思うけれど、ともいっていた。
そして数年後、加藤は「他言無用」の構成作家になっていて、松岡がリクエストしていた「リンダリンダリンダ」を番組でかける、というエンディング。「リンダリンダリンダ」をかけるということは、加藤もアンビバレントが松岡だ、と知っていたってことなんだろうな。
ありがちな話だし、松岡がどうなるかもミエミエなんだけど、そこそこ感情移入できた。
・いつラジオ上の互いの存在を気づいたのか、というのは気になるよね。そのあたり、示唆的なイメージは見せられなかったのかな。
・松岡の投稿が、くどくて長すぎ。そもそも、加藤の投稿も松岡の投稿も恋愛の経緯報告で、あんな内容の話、番組で読んでくれないだろ、と思ってしまうのだった。
・加藤は公務員志望で、ゼミも商法みたいな感じ。中央みたいだな、と思っていたら、実際に中大OBの製作で教室も中大のようだ。笑ってしまう。
最後の決闘裁判10/31109シネマズ木場シアター8監督/リドリー・スコット脚本/ニコール・ホロフセナー、ベン・アフレック、マット・デイモン
原題は“The Last Duel”。allcinemaのあらすじは「14世紀のフランス。騎士ジャン・ド・カルージュの妻マルグリットが、強姦被害を訴える。犯人とされたのは従騎士のジャック・ル・グリ。しかし目撃者もなく、無実を訴えるル・グリと重罰を望むカルージュの主張はいつまでも平行線のまま。そこで真実の行方は、神が正義の者を勝利に導くと信じられていた、互いの生死を懸けた決闘裁判に委ねられることに。それは、カルージュが負ければ、マルグリットも偽証の罪で火あぶりとなるあまりにも非情な裁判だったが…。」
Twitterへは「フランス人が英語を話すのはいいとして。これ『羅生門』じゃん。戦場は『七人の侍』その他? とはいえ中世騎士の鎧ガチャガチャ白兵戦は見もの。ヤマ場の決闘も、これでもか、これでもか、で凄かった。ジョディ・カマーがかわいい。」
カルージュの真実、ル・グリの真実、マルグリッドの真実、という具合に3つの章で描かれる153分。女が強姦され、真実はどこに? ったら黒沢明の『羅生門』=「藪の中」? 川を挟んだ闘いとか白兵戦の様子とか、他にも黒沢色があちこちに。では、3人の視点で語られるそれぞれの真実は大きく違うのか? というと、これがあまり違わないのだ。たとえば2章ル・グリの視点では、もしかしてマルグリッドが色目を使って彼を誘惑し、和姦に至ったとでもいうのかな、と思っていたらそんなことはなく、誰もいないカルージュの居城を家臣とともに訪問したル・グリは嫌がるマルグリッドを犯している。しかも後背位で、あっという間に果てるのは、3章マルグリッドの視点とおんなじ。
もちろん違う部分もある。カルージュの真実では、この男、細かいな、と思った。さらに、いろんな不満を領主であるピエールにズケズケ言う。そして、嫌われる。そういう関係はフツーだったんだろうか? ル・グリの真実では、彼がピエールの寵愛を得ていたことが分かる。ピエールと3Pしたり。でも、マルグリッドを置かした後、教会に行って懺悔したりするのは、いまさらなんで? な感じ。マルグリッドの真実では、奥様友達と、男の値踏みをするなど、ル・グリを男として見ていたエピソードも登場する。そして、ル・グリが彼女に秋波を送ってきたような感じのところも。でも、それらはいずれも主張の食い違いではなく、全体像を3つの角度から“それぞれの関心領域を”語り、話を補完しているような感じなのだ。あまり藪の中って感じはしないのだ。もやもや。
冒頭から、背景とか経緯は大雑把に描かれる。時代は14世紀で、年号も出る。けれど、フランスと英国が戦っているような気配は見えるけれど、あまり重要視されていない。むしろ気になるのは支配関係で、カルージュ、ル・グリともに従騎士となっている。騎士ではないのか。どういう位置づけなのだろう? で、ピエールという男が登場するけれど、伯爵らしい。カルージュはピエールの家来なのか? 自分の土地と居城はもっているようだけど、ピエールに地代が払えない。そこに友人のル・グリが代わりに取り立てに来る。ル・グリはピエールの寵愛を得ていて、いろいろ世話を焼いてもらっている。
カルージュはマルグリットを娶るが、後妻になるようだ。先妻がどうなったかは分からない。マルグリットの父親は、かつてフランス国王を裏切った過去があるらしい。どういう裏切りか、簡単に語られていたけど忘れた。現在はピエールから地代を要求される立場らしい。結婚にあたってある土地を持参金変わりにやる、という約束だったのだけれど、ピエールに払う地代が足りず、その土地をピエールに物納。そのことをカルージュは結婚式に当日に知って慌てる。カルージュの結婚の目的の一つは、その土地にあったようなのだ。しかもピエールは、その土地をル・グリに与えてしまう。これでカチンときて、カルージュは親友だったはずのル・グリとぎくしゃくしはじめる、というような流れだ。
伯爵は、日本でいえば大名みたいなものなのか。で、騎士は有力旗本。従騎士はフツーの旗本っぽい感じ? でも、カルージュの住まいは立派な城で、日本の旗本レベルの比ではない。でも、家僕はそんな多くないのか。20人規模? なあたりが、日本人にはよく分からない。国王 伯爵 騎士 従騎士、の関係もふくめて、もやもやする。
でも、そんなことは二の次なのかも知れない。こんな話がありましたよ、というのを3つの視点から描くことで、重厚感をだそうとしているだけ、なのかもね。
たぶん言われるのは、被害者である妻が、犯された、と公言・避難し始めた、ということだろう。女の存在はちいさく、主張しないのが礼節とされていた時代に、ここまで言うか、という感じがした。こうしたマルグリッドの態度が史実どおりなのかは知らないけど、フツーには恥として扱われるのではないのかな。とはいえそういうところは描かれていなかったけど。ただし、義母が「私も犯されたことがある。でも黙って耐えた」というところは、おお、な感じ。当時としての古い女と新しい女、ということか。
訴えるとしても、採択するのは領主のピエールだから、カルージュとマルグリッドは不利。というわけでカルージュは直接国王に嘆願する。真実を明らかにするため決闘を許してくれ、と。で、これが題名にも関連しているんだろう。
しかし、妊娠するには女性が絶頂を感じなければいけない、という時代だからな。決闘で勝った方の意見が真実、というどーしようもないもの。れそとそれと。マルグリッドは結婚5年目にしてやっと妊娠するんだけど、これがル・グリの子であることは明らか。けれど、夫とのセックスでは絶頂を感じた、犯された時は感じなかった、という主張で、子はカルージュのものとみなが認める。やれやれ。こんな時代に生まれなくて良かった。まあ、騎士の身分に生まれたりしないだろうけど。
てなわけで国王以下の見守る中の騎馬での決闘。落馬したら剣と斧で殴り合う。鉄の鎧をまとってガシャガシャと。これがなかなかの迫力で、見ている方も力が入りすぎるほどだった。結果はカルージュの勝ちで、負けたル・グリの遺骸は足を結わえられて馬に引きずられて退場。さらに、街中に逆さ吊り。勝ち負けの差が大きすぎる。多くは語られてないけど、ピエール伯爵の残念そうな様子、愕然とするル・グリの従者の顔が印象的だった。
とはいえ、夫が勝ったのにマルグリッドはちっとも晴れ晴れとはしておらず、浮かない顔をしているのだよね。あれは、腹の中の子の父親が死んだ、ということへの感情なのか? もし夫が負けたら、マルグリッドは火刑に処せられるというのに…。
決闘の数年後、カルージュは十字軍遠征で命を落とし、マルグリッドは息子と幸せに暮らしましたとさ。なんかいろいろ切ない話ではある。
・犯された当日、義母は家僕全員をつれて町に行ってしまった。その理由が明かされるのかと思ったらされなかった。とくに義母が仕組んだわけでもないのか。もやもや。
・結婚式に招待してくれた、友人のヒゲの従騎士がいたけど、彼の素性が良く分からず。彼はカルージュびいきだったと思ったんだが。
・カルージュの父親は地方の長官で、でも亡くなってしまう。カルージュは後を継げるかと思ったら、ピエールはル・グリを任命した。ピエールとル・グリの蜜月からなんだろう。しかし、ピエールはなんでル・グリを重用したんだ? ただの遊び仲間として?
・カルージュはよく戦に参戦している。あんな闘いをしていて、死なないのが不思議なぐらい。でも、生きて帰ってくる。いっぽうのル・グリはそんなに戦に参戦しない。だったらカルージュがどんどん出世しそうなもんだけど。と思っていたら、カルージュは戦場である英国で騎士の称号を得る。昇格は誰が決定するんだ? でも、周囲は誰も賞賛してなかったけど、嫌われてたのか? カルージュは。
・カルージュとマルグリッドの性行為は、夫からの一方的なもので、妻はちっとも感じてなかったみたいね。妻の不機嫌な顔が象徴的。まあ、女は子を生むだけの道具だったのかも知れないけど。けれど、夫の不在時に、家計のやりくりに生きがいを見出していたマルグリッドだったな。このあたりは、フェミニズムを反映した描写かな。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|