冒険者たち | 2/4 | ブルースタジオ | 監督/ロベール・アンリコ | 脚本/ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョヴァンニ、ピエール・ペルグリ |
---|---|---|---|---|
原題は“Les aventuriers”。allcinemaのあらすじは「海底に眠る財宝を引き上げるため、三人の男女がアフリカのコンゴ沖にやってきた。しかし財宝が引き上げられたとき、襲ってきたギャングの流れ弾に当たり、女は死んでしまう。残った男二人は、財宝をもって彼女の故郷へ逃げるが……。」 Twitterへは「飛行機、クルマ、かわいい女、一攫千金、海中の宝探し、要塞島、銃撃戦…。男の子の妄想爆発だ。ずいぶん久しぶりに見た。フィルム上映。ジョアンナ・シムカスが可愛すぎ。」 最初はテレビで見て、そのあと映画館でも見たんだっけか? ケーブルTVのをDVDに焼いてもってるけど、冒頭だけ見て通しでは見ていない。記憶では、凱旋門、飛行機、鉄のオブジェ、どこかの田舎、要塞島での銃撃戦…。なので潜水での宝探しとか、そうだったっけか。あと、レティシアはあんな場面で呆気なく死んでしまうのか…。ドロン32歳、リノ48歳、ジョアンナ24歳。ドロンは既に青年とは言えない。リノは中年。ジョアンナ・シムカスはまだピチピチか。しかし、マヌー(ドロン)とローラン(リノ)はどういうつながりなんだろうね。なにやって稼いでるんだろ。とか考えてはいけないのかも知れないけど、気にはなるよね。だって金がなくてあんな大博打や宝探しを、いい歳こいてやってるんだから。 でまあ、凱旋門の下をくぐれば賞金が…という偽情報に騙されたわけだけだ。偽情報を「ちょっとした冗談」 という保険屋はなんなんだ。保険屋が賞金を出す相手、と説明した男は日本人で、でも、じっさいにその黒幕だったと言うより、名前を使われただけ、みたいな感じだな。それにしても、芸者が給仕する料理屋で接待されるというのも、当時のフランス人にとって日本は憧れの国だったのかね。 で、保険屋のいう海底の財宝話にすぐ乗ってしまうマヌーとローランは、どうなんだ? アホじゃん。で、潜ってる様子を見て接近してくる元パイロットのおっさんがいて、実は…と、たぶんコンゴ動乱から脱出のどさくさで金持ちを乗せてフライトし、墜落していたから場所を知っている、という。今度はこの話に乗ってしまうマヌーとローラン、アホじゃん。で、4人の様子を遠くから監視していた一団がいて、連中が船に接近して撃ち合いに…。ここでなんとレティシアがあっさり死んでしまう。やれやれ。まあ、得体の知れない芸術家であり、船上での色気のない男女の友情の輝きで、ジョアンナ・シムカスは役目を終えてるのかも知れないけどね。ま、マヌーとローランにとってのアイドルというかミューズという存在なんだろう。 レティシアはローランに「あなたと住みたい」と言っていたけど、マヌーには「お前と住みたいといっていたぞ」というのは、男の友情って奴か。はは。 それにしてもレティシアの存在は謎だよね。田舎の出で、たしか両親が死んで叔父だか叔母に育てられ、長じて出奔。それでパリに大きなアトリエをもって鉄の芸術に打ち込み、大々的な個展を開けばマスコミまで取材に来る。なんなんだ、それ。すべてもう、ファンタジーだよな、これ。しかも新聞に酷評され、個展が失敗したと落ち込んだりしてる。あれもこれもリアリティなし。 でまあ、マヌーとローランは悪党たちを追い払い、さらに潜っていると難なく小型機を発見し、金持ちがもって逃げようとした宝石をゲット。で、これを4等分し、マヌーとローランはレティシアが叔父叔母と暮らした田舎を訪れ、分け前を預ける。といっても、甥っ子の学費みたいな感じで、長じて支払われるようにしたらしい。このあたりの律儀さは、男だねえ、な感じ。 マヌーはパリへ戻ると、さっそく訪れるのが飛行場でウェイトレスしてたイベット(当時32歳?)で、彼女はセフレなんだろう。レティシアには恋心を抱き、はけ口はウェイトレスの方で、というのが昔のフランスでもありだったのね。それはさておき、ここでもマヌーは悪党どもに狙われていて、でも、先に見つかった元パイロットのおっさんはマヌーの行方を語らず悪漢どもに殺されてしまう。ちゃらちゃらしてるオッサンと思いきや、義理堅いのね、と。 マヌーは、レティシアが「住みたい」といっていた要塞島を購入し、そこをレストランにしようとしていた。って、4等分した額で要塞島が買えるほどの大金なのか! そんなのがあっさり見つかっちゃうんだから、映画だね。で、ふと思う。元パイロットのおっさんは、マヌーとローランを頼らず、自前でスタッフ雇って財宝探しすればよかったのに。そうすれば分け前も多かったろうに、と。 なんて浮かれ話をしていたら、島に例の悪党どもがやってきて、銃撃戦に。ここでマヌーは撃たれ、ローランは要塞島にあった銃器や手榴弾で悪党どもをやっつける。で、ここでカメラが上空に移動してオシマイ。のラストシーンは覚えておるよ。 しかし、あの悪党どもはなんだったんだ。連中も墜落機の財宝狙い? なら、自分らでがんばって引き上げればいいじゃないか、と思うんだけど、悪漢に襲われないと映画が面白くならないから、なんだろうな。いろいろとムリがたくさんある話ではある。 ・観客はたったの5人だった。 | ||||
クレッシェンド 音楽の架け橋 | 2/14 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ドロール・ザハヴィ | 脚本/ヨハネス・ロッター、ドロール・ザハヴィ |
ドイツ映画。原題は“Crescendo”。allcinemaのあらすじは「世界的指揮者のスポルクのもとに、対立が続くパレスチナとイスラエルの若者たちで構成されたオーケストラを結成し、平和を願うコンサートを開くという企画が持ち込まれる。やがてオーディションを勝ち抜いた20余人の若者たちが顔を揃えるが、互いに憎しみ合い、不信感も増すばかり。そんな中、南チロルでの21日間の合宿が始まるのだったが…。」 Twitterへは「パレスチナ人とイスラエル人からなるオーケストラが企画され、オーディションが行われる。監督・指揮はドイツ人。さて、どうなるか? な話。IMDbでは思いのほか低評価。投票する人の政治的判断が反映されているのかね。」 オーケストラの企画は、平和的なイベントを仕掛けているオバサンらしい。監督は、ドイツ人のスポルクに依頼。で、オーディションに。というあたりはざっくり簡略化されていて、こういう企画がイスラエルでよく通ったな、という気がしてしまう。パレスチナの若手音楽家にも周知されたみたいだし。で、パレスチナからはレイラ、オマルらが参加する。検問所を通ってエルサレルにいくんだけど、イスラエル人兵士の意地悪なところが強調されていて、ここはパレスチナに肩入れか。 オーディションはブラインドで行われ、パレスチナ人かイスラエル人か分からない仕組み。そのせいで合格者はイスラエル側が多く、それに異を唱えるパレスチナの参加者。このあたりもパレスチナ側に肩入れかな。で、一行はドイツだったかスイスで合宿することに。 イスラエル人のロンは、技巧的には上手いけどハナからパレスチナ人をバカにしていて、レベルが低いとか、イスラエルにはパレスチナ人に見える連中もいる、などと、オーケスチラの完成度を上げたい感じ。これじゃ目的とは違ってしまうけれど、でも、個人的に知り合いの演奏家を連れてきて、メンバーに入れてしまったりする。スポルクは、平等を言いつつ、パレスチナのハンデを認めない。一定の質を保ちたい、らしい。なので懸命に練習するレイラが痛々しい。けれど、指導者に恵まれないレイラに、やさしく手ほどきをしたりはする。 映画的には、イスラエル側とパレスチナ側のバランスを取るのが難しい素材のように思った。全体的に見ると、始めは敵対心に固まっていたロンが次第に懐柔し、最後はパレスチナ人に敬意を示すようになるけれど、そうなるまでの諍い、罵り合いは凄まじい。まあ、手を出しはしなかったけれど。歴史的な経緯を考えれば憎しみ合うのは当然かも知れない。なにせ、まったく過去のことになっていなくて、現在も進行中なのだから。 スポルクは、相手を5分間罵れ、という時間をつくったり、争いがいいか平和がいいか選べ、などということもする。次第に融和しつつあっても、いったん何か些細な対立があると、もう止まらず大騒ぎになる。で、自分のドイツ人としての経験を話す。のだけれど、話の最初から、イスラエル側からスポルクが非難の対象になっていないというのも変だよな、と思ったんだけどね。だって、ユダヤ人からすればスポルクは怨念の対象じゃないか。 でまあ、あれこれ融和を探りながら、なかなか上手く行かない様子は、結構、見応えがあった。イスラエル人の多くが対立より平和、を選ぶ中で、あくまで対立していく立場を堅持するのが2人いたりして。それが誰かは分からないんだけど、ああいう立ち位置で、でも、音楽の演奏には影響しなかったんだろうか? とかね。 ロンが敵対心を隠さないことで、レイラと対立するのは当然のこと。レイラがコンサートマスターに選ばれた時など、ロンはイスを蹴飛ばして出て行ってしまった。まあ、どんなときも冷静でいること、が条件だったらしいけど。これでひねたロンが、ソロに選ばれたのは実力、と思っていたら、実はレイラが推薦した、と知ると黙ってしまったり。こういうバランスを話の随所に埋め込んでいって、どちらかに片寄らないようにしているのも、ドラマとして面白い。けど、脚本は苦慮したろうな、と。 な、なかで、イスラエル人のシーラがオマルと仲良くなり、ついには関係をもってしまうんだけど、どーもシーラがうぶなシーラをたらし込んじゃった感じだよね。で、おバカなシーラはパーティの様子とか、ベッドの中の2人を友人に送ったら、それがSNSで拡散してしまう。で、2人で逃げようということになるんだけど、ムスリムとして育ち、父親思いで、スポルクに留学するなら手助けするよ、といわれても逡巡していたのが、夜中に駆け落ちしてしまうという顛末は、ちょいと唐突すぎ。しかも、夜中の道路に飛び出し、なんとオマルが死んでしまうというのは、おいおい、な展開すぎ。故郷の父親の嘆き哀しみは幾ばくか。レイラの母親なんか、娘が音楽をすること自体、忌み嫌っていたのに、知り合いのオマルが海外で死んでしまったことを知って、どう反応したことやら。それは映像になってないけど…。 な悲劇的な事故のせいで、オーケストラの発表会は中止に。シーラは、ドイツに住む叔父が連れ帰ってしまう。あ、ところで、イスラエルでは18歳になったら軍隊に入る、といっていたけど、まだシーラはその歳になっていないようだから、17歳ぐらいなのか。にしては、早熟だな。 この手の映画で、オマルを殺して発表会を取りやめにするという展開は安っぽすぎるので、なんかなあ、と思ったんだけど。最後に、一同が帰国する空港で、沈みきっているところに、ロンが立ち上がってボレロを演奏し始める。これに応えて、みなが演奏し始める場面は、なかなか感動的。イスラエルの面々とパレスチナの面々との間にガラスの壁があるという設定も、分かりやすい演出だ。とはいえ、空港であんな仕切りのある部屋に別々にされてしまうのか? 単なる演出? という疑問は残るけど。 ・カノン、ドボルザーク、ボレロとか、誰でも知ってる曲が流れるのは、素人には親しみやすかった。 ・一同で水浴びする場面があるんだけど、パレスチナ人も一緒に水着でびちゃびちゃというのは、あり得ないんじゃないのか? それとも、海外で、若い連中だから気にしないのか? | ||||
ちょっと思い出しただけ | 2/15 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/松居大悟 | 脚本/松居大悟 |
allcinemaのあらすじは「ステージの照明スタッフをしている佐伯照生とタクシー運転手の葉を主人公に、今は別れてしまった2人の6年にわたる愛の軌跡を、照生の誕生日である各年の7月26日を遡るかたちで描き出していく。」 Twitterへは「ああ、時間を遡ってくるか。よくある手法だな。でも、切れ目が時計だってのに気づくのが遅くて、時制が混乱するよ。で、散文的なエピソードの羅列。なので薄っぺら。伊藤沙莉も持ち味出し切れてない感じ。テーマソングはいい。」 最初はみなマスクしてる。現在を描いてるのか。と思ってしばらくすると、みなマスクなくなって。最初だけマスクで、あとは顔を見せる演出か、と思っていたら、どうも違うみたい。最初、恋人と別れた設定の照生が、つきあってる様子になってきて。ああ、時間を遡る構成か。と気づいたのは時間を遡って2年目になってから、だと思うけど、定かにはあらず。で、そういえば毎回照生の誕生日で、切れ目はタイマーみたいなカレンダーか。でもあれ、ずっと同じで7月26日だったよな。年が表示されていたかあ? てなわけで、あらすじ読んでる人ならあらかじめ知ってただろうけど、こちらは知らんので、なんだよこれ、な気分。 後半で、猫が小猫になっていたり、同じ部屋から別人が出て来たり、なドラスティックな違いが、最初の方にはない。だから、分かりにくいんだと思う。 で、話は。芝居を見にきた葉が、出演していた照生と知り合い、同棲し、別れた、というだけのスケッチ的な内容で、とくにドラマがあるわけでもない。そのときそのときの日常を、周囲の人物も交え、いくぶんドキュメントタッチというか、アドリブで自然に話しているかのような雰囲気で描いていく。だから、見終えてとくに何も残らない。↑のあらすじで6年と書いてあるから、6年だったのか、と思うだけ。勘定していなかったので、5年前後かな、とは思っていたけど。にしては、その間に大したこともなかったんだなあ、と思うのが関の山。 照生がなぜ足を骨折したのかも分からないし。照生がよく行くバーの仲間の個々の情報もよく分からんし。照生がかつて所属していた劇団のメンバーのことも、よく分からない。葉の方も、いつからタクシー運転手してるのか、もよく分からない。2人が別れた原因も、曖昧。まあ、分からなくていい、のかも知れないけど、でもその分、人物の深みがなく、薄っぺらで記号的にしか見えなくなる。 で、遡っていって、最後は冒頭の現在のその後、が描かれる。葉は結婚し、子供がいるんだけど、あの相手は合コンのとき煙草吸いにでて、火を借りた相手か? あの世、交換したラインで誘われて行きずりのセックスして、男が、結婚ぱなし持ち出してたあの男? ダサっ。でもって照生は相変わらず、劇場の照明係、ね。なんか、夢がない終わり方。 伊藤沙莉は『タイトル、拒絶』で初めて意識して。『全裸監督』でも同じような役柄なので、ふーん、と思い。アニメの『映像研には手を出すな!』の声に気づいて、存在が大きくなっていった。出演作を見ると経歴は長くて、『ナラタージュ』『ブルーアワーにぶっ飛ばす』『寝ても覚めても』は見てるんだけど、気づきもしなかった感じ。そうか。『ボクたちはみんな大人になれなかった』にも出てたんだっけか。このあたりから、客を呼べる役者としてキャスティングされるようになったんだな。とはいえ、いくらタクシー運転手とはいえ、ロマンスの主人公としてはどーもしっくりこないな。ハスキーな声で色っぽさも無いし。面白い役者だけど、使い方が難しい気がする。 照生役の池松壮亮は、ああまたか、な感じで。30凸凹の、ちょっと気が弱そうな青年の範疇からいまだにでられない感じ。バーのオーナーの國村隼とか、バーの客でオカマっぽい役の成田凌の方が存在感あったりするんだよなあ。 あと、公園で(たぶん)死んだ妻を待ちつづけるオヤジに永瀬正敏なんだけど、このエピソードだけ観念的でメッセージ性が強くて、浮いている。ずっと公園のベンチにいるのは映画『パターソン』みたい。 照生が劇場の照明係に職を変え、そこで出会ったミュージシャンに「どっかで会ったことありましたっけ」といい、首をひねられる。その後、葉のタクシーに乗ってたそのミュージシャンがトイレを借りに劇場にやってきて照生と会い、ミュージシャンが「どっかで会ったことありましたっけ」って尋ねるエピソードも、とってつけた感じ。それに、劇場で照生がミュージシャンに声をかけたのは最近のはずで、しかも、劇場でふたたび顔を合わせ、ミュージシャンが覚えてないことの方が不自然。 2つのエピソードは、出会いと別れの濃さ薄さ、みたいなことを表現しようとしているのかも知れないけど、あんまり効果ないと思う。 という映画の中で、クリープハイプによる主題歌「ナイト・オン・ザ・プラネット」だけは、なかなかいい。メロディがオリジナリティに富んでいて、予告編の時から耳について離れない。すぐメロディも覚えたし。歌詞はほとんど聞いてないけど。 そういえば、話に出てくる、女運転手が「目指すのは配管工」って話す映画はなんなんだ? ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』は見ていない。 | ||||
沈黙のレジスタンス ユダヤ孤児を救った芸術家 | 2/16 | ギンレイホール | 監督/ジョナタン・ヤクボウィッツ | 脚本/ジョナタン・ヤクボウィッツ |
原題は“Resistance”。allcinemaのあらすじは「1938年、フランス。精肉店で働きながら夜のキャバレーでパントマイムを披露する青年マルセル。ナチス・ドイツの影響力が増していく中、秘かにレジスタンス運動に身を投じていく。仲間たちとともに多くのユダヤ人孤児を世話していた彼は、子どもたちを安全なスイスに逃がすべく、過酷なアルプス越えを決意するのだったが…。」 Twitterへは「いろいろアバウトでいい加減な脚本なので、いまいち説得力がない。それに、これ、マルセル・マルソーのことなのに、なんで邦題で“芸術家”なんてしちゃうのかね。」 まず、人物の区別と関係性が、すっと頭に入らなかった。エマとミラって、姉妹だったのか? と、処刑される寸前のセリフで気がついた。他に、あごヒゲのやせた男が複数登場し、誰がどれやら区別がつかん。老人も、マルセルの父親は分かるけど、それ以外の爺さまは、ありゃ誰なんだ? とかね。冒頭で両親をナチに殺された少女が、施設にいた少女と分かるまでも、ちょっと時間がかかった。ナチ将校のバルビーも、なんとなく妻と子供連れで登場し、なんとなく敵キャラになっていく。なんかこう、輪郭が曖昧なんだよね、つくりが。 背景も分かりにくい。1938年当時、ドイツ国内のユダヤ人はどこまで自由があったのか。どこまで存在や住居を把握され、そして迫害されるようになっのか、も曖昧だ。最初の方で、親を殺された子供たちがトラックで来るのをマルセルたちが迎えに行くけど、あれはどこまで公なのだ? ドイツ軍が子供たちをマルセルたちのもとに送ったのか? そうでなければ、どういう経緯なのだ? 子供たちはどこかの城の中でマルセルやエマたちの世話で暮らしているけど、あれはドイツ軍公認なのか? 危険だからと城から離れ、庇護してくれる家やキリスト教会に隠れるようになるけど、あれはもう非公認、だよな。とか、話がアバウトなんだよ、いろいろ。 子供たちと別れ(だっけ?)、マルセルたちはフランスへ。いつのまにかフランス全土がドイツに占領され、マルセルはレジスタンスになることを決意して、どっかへ行くんだったよな。でも、仲間のヒゲがドイツ軍に連行され(なんで彼だけ?)、すんでの所をマルセルが口に含んだガソリンで火を放ち、まんまと逃げおおせる、つて、マンガみたいな展開だな。 レジスタンスにはマルセルだけかと思ったら、エマとミラも一緒なのか? でも、大したこともしないうちにガサ入れをくらい(なんで発覚したんだ?)、ここは逃げるんだっけか。でも女たちは捕まって。とはいえ、隠れているところが男女別なのか? レジスタンスと行っても日常的にはフツーの生活をしている、の? でも、フランス国内でマルセルの父親は星マークをつけていたけど、マルセル他はつけていない。ってことは、建て前はフランス人なのか? 身分証明書も偽造していた? だって、ふらふら出歩いてるし。無防備に見えたから。 で、女たちがナチに捕まり、多くが射殺される中、エマとミラは姉妹でレジスタンス、ということがバルビーに知られていて(そんな有名だったのか? 姉妹は)、男たちの居所を言うように迫られる。バルビーは、エマの前で、ミラの皮を剥ぐ、と宣言したんだけど、つぎの場面ではそのナチの建物から出て来て、協力者バッジを付けられるエマを、マルセルと仲間が見ている場面になる。そんな都合よくエマを見つけられるのか? で、放心状態のエマが列車に飛び込もうとする直前に、マルセルが救い出す、という映画的演出なんだけど。それはいいとして。ミラはどうなったの? エマの前で皮を剥がされたの? エマは、最後まで男たちの居所を吐かなかったの? いや、ゲロったから協力者バッジを付けられたんだろ? でも、男たちが捕まった様子もなかったし。あれは、いったい、どういうことなんだ? で、子供たちを逃がそうということになって。ハイキングを装って列車の旅、のマルセルとエマとヒゲと子供たち。列車内でのバルビーとのわざとらしい緊張感は映画的演出でいいとして。でも、バルビーがマルセルのポケットから付けひげを見つけ、「総統の真似?」と問うと「チャップリンの真似」と誤魔化すんだけど、チャップリンは『独裁者』(1940)でヒトラーを茶化しているのだから、問題なんじゃないのか? 『独裁者』の前だったということなのか? その後の展開が薄っぺら。どういうわけか、子供たちは逃げようとしている、とバルビーの所に通報があり、ナチの何人かが追ってくるんだけど。マルセル一行がはあはあ言いながら登ってきた山道を、難なく追いついたかに見えるナチご一行様。先頭にいたのは、バルビー? エライ人が先頭に立って、逃げようというユダヤ人らしき一団を追ってくるのか? しかも、多くが制帽のナチで、兵隊の姿は見えなかったぞ? ああ、追いつかれる、というところで「ここがあの断崖か?」とマルセルがいい、ほいほい子供たちを放り投げる。崖一つ挟んで、下はスイスなの? エマは撃たれて、そのまま下へ。でも、かなりの落差で、崖下を見てナチの連中は「みんな死んだろ」というのだけれど、マルセルも子供たちも死んでいない。あり得ん! あんなだったら、ナチも追ってこい! なに、スイスだから越境になるって? てなわけで、マルセル・マルソーがレジスタンスとして何度もアルプス越えをして子供たちを救い出したとさ、という話にしてはいろいろアバウトで、ムダにドラマチックに演出しすぎではないかな。 そもそもマルセルは最初に登場したときバーでチャップリンの物真似で受けていなかった。でも、本人は芸で身をてたいといい、父親にうさん臭く見られていた。では、当時のマルセルはすでにパントマイマーだったのか? それとも、コント芸人で、次第にマイムに目覚めた頃だったのか? マイムの師匠は? とか、その辺りもアバウトで、じれったいんだよね。 ・マルセル役のジェシー・アイゼンバーグはパントマイムがあまり上手くない。 ・フランス人が英語をしゃべる映画は、違和感ありまくり。 ・ヒロインのエマを演じるクレマンス・ポエジーがあまり可愛くなく、オバサンに見える。 | ||||
国境の夜想曲 | 2/18 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ジャンフランコ・ロージ | 脚本/--- |
原題は“Notturno”。allcinemaの解説は「紛争や圧政、テロに翻弄されてきたイラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を3年にわたって旅して撮り上げたドキュメンタリー。理不尽かつ凄惨な暴力による深い心の傷を抱えながらも静かに生きる市井の人々の日常を、説明字幕やナレーションを排し、静謐な映像で淡々と映し出していく。」 Twitterへは「中東の国境地帯を撮影したドキュメンタリー。でも背景も説明もほとんど無いのでさっぱり分からず早々に寝落ち。後半は見たけど、やっぱり分からず退屈。新聞雑誌の激賞記事が壁に貼ってあったけど、別途解説読まねば分からんような映画はクズ。」「分かりにくい、分からないものを有り難がる連中が持ち上げてるんだろう。」 冒頭で、中東の国々がどうの、という簡単な字幕があって。つづいて、いろんな映像が断片的に映される。土壁みたいなのを背に嘆いている老婆。どうも、ここで息子が死んだらしい。でも背景は分からない。バイクだったか、むこうからやってくる。それだけの映像。川に小舟をこぎ出す男。どれも説明がなく、いつどこで誰が何を、がない。昼食後のせいもあって眠くなる。我慢してたけど、いつのまにか寝てしまった。たぶん映画の半分ぐらい寝てた。で、起きてからのスクリーンも、なんだか分からない様子を映し出している。なにも伝わってこない。なにも刺さらない。 新聞雑誌の評をちらと見ると、静謐な映像、とか、説明はなくても感動がつたわる、ようなことが書かれていたりする。それだけではない、あの場面は実はなになにで、そのなんとかをなんとかで、と、御丁寧に説明しているものまである。おいおい。評者の方々。あなたがたは、あの映像からそんな情報をよく読み取れましたね。もしかして、プレスシートに書いてあったことを引き写しているのか? 見る前に事前準備で読んでいたのかな? それとも、見終えてから読んで、ああ、あれはこういうことか、と納得したのかな? そんな、別紙の情報がないと理解できないような映画は、映画ではない。伝えたかったら、映像で伝えればいい。伝わらない映像なんて、ゴミだ。 で、こういう評があふれ、評価されているものだから、この映画を見た素人も、褒めていたりする。あなた、ほんとうにそう感じたんですか? 世間で評価が高いから、私も褒めておこう、なんですか? 読み取れもしない情報や背景を、理解したつもりで、この映画を激賞したりする。アホか。 自分の能力で、見たものを判断し、評価すればいいのだ。分からないものには、分からないという。つまらん映画には、つまらん、という。それでいいのだ。だから、この映画は、ほとんど理解できなくて、つまらなくて、面白くもなくて、退屈で、糞だ! としか、いいようがない。のである。 | ||||
オーストリアからオーストラリアへ ふたりの自転車大冒険 | 2/21 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/アンドレアス・ブチウマン、ドミニク・ボヒス | 脚本/アンドレアス・ブチウマン、ドミニク・ボヒス |
原題は“Austria 2 Australia”。allcinemaの解説は「オーストリアに暮らすIT企業勤めのごく普通の若者アンドレアスとドミニクは、“限界に挑戦したい”という情熱と好奇心に突き動かされ、自転車でオーストラリアを目指すという無謀な冒険に挑むことに。本作は、準備に2年をかけ、海路を除いた距離18,000km、期間11ヵ月、3大陸にわたる過酷にして壮大な自転車旅の一部始終を自分たちでカメラに収めた冒険ドキュメンタリー。」 Twitterへは「自転車旅行しつつ(たぶん)スマホとドローンでドキュメンタリーを仕上げてしまってる。しかも上出来。カザフスタン、ロシア、パキスタン、インド、ネパールと人、風物がとても興味深い。」 まず気になったのは、同行者がいて撮影しているのか、だった。けれど、ずと見ていくと走行シーンは自撮り棒だし、遠景での走行場面はどこかにスマホをセットして撮っている様子。そして、ドローンもあるけど、いちいち走行を停めて撮影のための演出をしているようだ。とはいえ、ときどき2台が走行しているところをドローンで空撮しているところもあったりして、まさか走行しながらはムリだよな、と思ったりした。もしかして、誰かに頼んだ? はいいとして、基本2人でのサイクリングで、撮影スタッフは他にいないようだ。allcinemaのスタッフ欄にも、撮影は登場する2人アンドレアス・ブチウマン、ドミニク・ボヒスの名前しかない。 にしては、映像のレベルが極めて高い。自撮り棒で自分だけ撮ってるんだけゃなくて、客観的に見えるカメラ位置、空撮など、間としてインサートする風景映像までちゃんと計算して撮っている。これがIT企業に勤める青年二人の撮影とは思えないほど。手間がかかっているから、たんに走っているだけではないのが分かって、随時、いちいち停止して撮影して、を繰り返したんだろう。ご苦労さんなことである。 次々と超える国境。とはいえ、国境通過をまともに撮っているのは1箇所ぐらいか。あとは、いつのまにか通過している感じで、そこがちょっと物足りなかった。なにか問題があるわけでもないと思うんだが。とはいえ、カザフスタンにラクダがいるのか! 意外にやさしいロシア(だったかな)の自転車爺さん。と思ったらゴビ砂漠で熱にやられてあっさり力尽きてトラックに乗ってしまう。志はこの程度らしい。中国の奥地(?)の内蔵みたいな屋台料理?パキスタンのやさしい運転手は、実家に招待してくれた。インドのしつこくて、でもやさしい警察と、招かれたパーティ。静かすぎるネパール。などなど、走るたびに変化するお国事情。でも、人は基本やさしい。 ところがミャンマーのビザが下りず、でも、すでにビザの切れた中国にも入れず。なので自転車をバラして飛行機でシンガポールへ。このあたりから話がまきまきになって、いろいろすっ飛ばしてる感じでオーストラリア西端に入ってしまう。出来事がつまらなかったのか、差し障りのあることが発生してたのか、それは知らんけど、気になるよね。で、豪州西端からの行程で、片割れがついにギブアップしてしまう。かと思ったら、結局、合流して目的地を目指す、で終わっている。シドニーあたりは完全に端折ってる。なんか、ミャンマーすっ飛ばしたあとは、いまいち面白さが半減してしまう。 ・坂を気持ちよく降りる自転車。片割れは降りて撮っているのか? ああいう場面だけで、時間がかかってるだろうな。それに、上りは大変だったんだろうな。でも、そういうのは見せない。 ・どっかの路傍のコンクリに、いついつやってきた、と落書きしてた。それはアカンだろ。 ・もってった缶詰やポリタンクは、空になったらそこらに捨てたのか? ちゃんと持ち帰ったのか? ・トイレも大変だったろう。水が大事だから、手なんて洗ってられないよな、きっと。 とか、聞きたいところ、突っ込みたいところはたくさんあるけど、やっぱりキレイごとになってるところは多い様な気がするぞ。 | ||||
ホテルアイリス | 2/24 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/奥原浩志 | 脚本/奥原浩志 |
allcinemaのあらすじは「寂れた海沿いのリゾート地で母が営むホテルを手伝うだけの閉塞的な日常を送る孤独な少女が、謎めいた翻訳家の男性に惹かれていく禁断の恋の行方を幻想的な筆致で描き出す。」 Twitterへは「変態エロジジイの話だった。で、いろいろ不思議で分からないことが多すぎな映画。とはいえ思うに。これは、空想好きな娘マリのつむぎだした妄想のひとつ、ではないのかな、と。やってくる客と自分を主人公にして、お話の中で遊んでいるのかも。」 永瀬正敏がでてたよなあ、な程度の前知識。で、いきなり字幕の中国語で、日本映画じゃないのか? と戸惑いつつ。あとから日本映画と分かったけどね。 前半は、とても退屈。ドラマは起きないし、たらたら扁平な描写がつづいて、話が転がらない。ホテルの娘マリも、とくに魅力的ではないし。そのマリが中年男の翻訳家に手紙でデートに誘われ、のこの出かけていく。なんだこのリアリティのなさは。翻訳家は徒歩で移動していて、その街につづく島に住んでいるという。そこに招かれ、いきなり椅子に縛り付けられ、衣服をはがされるマリ。なんなんだ、この不自然さは。いつのまにかマリは翻訳家に恋し、夢中になり、いたぶられることを喜び始めた様子。でも、変態シーンで乳首はちらっと見えるけど、乳房は見えない。陰毛も見えない。なので、ちっともエロチックではない。つまんね。 マリは、翻訳家がホテルに売春婦を連れ込んでトラブルになったことも知っている。なのに、なんで、翻訳家に惹かれるんだ? 意味不明。 マリの父親はすでに亡く、しかもマリは父親に犯されていた? それで変態性欲になったみたいなほのめかしがある。そして、マリは父親を殺したような雰囲気も…。でも、祖母が残したホテルで、マリは母親とともに呑気に暮らしている。このギャップ、違和感。 リアリティがないといえば、ホテルのある街も、外界につづいていないような雰囲気がある。夢の中のような感じ。街並は中国風だけど、歩いている男女は下北あたりにいるオシャレな男女、つまり、日本人に見える。彼らはどこから、なにをしに来た連中なのだ? 翻訳家はマリに、舌がなく話せない甥を紹介する。でも実は甥ではなく、翻訳家の息子らしいが、翻訳家はそれをマリに告げない。 翻訳家にのめり込むマリ。警察がやってきて、翻訳家には売春婦殺しの疑いがかかっているという。警察は翻訳家の家でマリの変態場面のポラを入手したらしく、マリに見せる。でも、平然としているマリ。 なんていうところで飽きてきて、ふっ、としばらく意識を失っている間に、翻訳家が消えた、ということになっていた。やれやれ。見逃しだ。その後、順番はよく覚えていないけど、翻訳家が登場してマリを家に案内する。売春婦殺しの疑惑は解けた、という。そして、「甥を呼んできてくれ」というのでマリが奥に行くと、女が首を絞められて死んでいる。女装し、スカートをはいている甥か? これは、翻訳家が息子相手に性関係をもつという、マリの設定? の、あと海岸に死体が上がる。足しか見えないが、島に住んでいたらしい、などと人が話している。それを平然と見るマリ。と思ったら、マリは翻訳家と海岸近くに立っている。死んだんじゃなかったのか? と思ったら、ホテルの場面になり、冒頭と同じオレンジ色の上衣のマリが電話に出て「はい。ホテルアイリスです」と言い、そして中国語になる。これと同じ場面は冒頭にもあって、それと同じことが繰り返されるのか。その後、訪れるのは、甥の青年と母親らしい中年女性。でも甥は、話せる。その甥が階段を登るのを見送るマリ。 なんなんだ? なんで同じ服で同じように電話に出る場面が繰り返されるのだ? ん、まてよ、これは…。もしかして、すべてはマリの空想物語なのか? マリは、ホテルにやってくる客を見て、その相手にふさわしい妄想を紡ぎ出す。ひとり、受付にいながら、その相手と自分との物語を繰り広げ、浸っているのではないか。であれば、 ・しばられていないはずなのに、手首に縄の跡があるマリ ・マリと翻訳家の変態場面をのぞき見る売店の男 ・売店の男、死んだはずの父親、翻訳家、マリが4人が一同に会する場面 などなど、不自然な場面もすべて解決する。まあ、父親が亡くなっているとかいう話は現実なんだろう。現実を踏まえた妄想が、マリは得意なのかも。ということで納得することにしたよ、この映画については。 ・単調で抑揚のないしゃべりのマリは、もともと中国人が話す日本語だから、なのか。それとも、そういう指示なのか。 ・台湾が舞台なのに、マリや母親が日本語で話す不自然さ。それも、妄想で片が付くか? 日本語を話す理由はなんなんだろう? ・字幕が小さくて読みにくいのは、意図的? | ||||
Our Friend/アワー・フレンド | 2/25 | ギンレイホール | 監督/ガブリエラ・カウパースウェイト | 脚本/ブラッド・イングルスビー |
原題は“Our Friend”。allcinemaのあらすじは「ジャーナリストのマットと妻で舞台女優のニコルは、2人の幼い娘を育てながら、忙しくも幸せな日々を送っていた。そんなある日、ニコルが末期がんによる余命宣告を受けてしまう。妻の看病と子育てに追われ、次第に疲弊していくマット。親友のデインはそんな2人を心から気遣い、自らサポートを買って出ると、ずっと彼らのそばにいて献身的に支え続けるのだったが…。」 Twitterへは「余命○ヵ月の嫁さんを支える亭主と、その男友だち、という変な関係をだらだら山なし谷なし、でも時制をごちゃごちゃ入れ替えて分かりにくくして見せるので、退屈かつイラッ。」 基本はマットとニコルの夫婦。それに、共通の友人デイン、なんだけど、3人を取り巻く友人関係がぐちゃぐちゃでてきて、正直いって混乱する。しかも、がく告知の年、出会いの年、告知前後のときなど、時制がなかなか細かく切られてつながっているので、余計に分かりにくい。こいつ誰だっけ? この黒人の女性は、誰と結婚したんだ? マットが敵意を持った男性はだれだ? その原因は? たぶん、丁寧に見れば描かれているのかもしれない。けれど、ばらばらの時制のせいで頭に残らず、戸惑うだけだよ。 で、根幹は、女房のがん治療で手一杯になったマットを、デインが泊まりがけで数年手伝う、ということなんだけど。そんなことするやつがいるのか? いや、手伝ってもらう方も負担を感じてストレスなんじゃないか? と思うんだけど、それがそうでもないのは、なんでなの? そもそもデインはニコルの演劇仲間? で、スタンダップコメディアンを目指していて、どっかの店で働く店員さん。演劇にのめり込んで、定職はこんなのも、なのかな。で、ニコルにデートを申し込み、妻子持ちと分かって謝り、しばらくしてマットとも会った、ということらしい。この程度なのに1番の親友になっているのは、なにか理由があるのか? だって、ちょっと斜めから見ると、マットとデインはホモなんじゃないか? と思えるほどなんだよ。なので、無償で夫婦に尽くすテインが、気持ち悪い変人に見えてくる。だって自分の恋人をおいてきぼりにして、恋人に非難されながらも夫婦に全力で尽くすって、なんなの? ほどほど、でいいじゃないか。 てなことが、延々と、単調に、とくにドラマもなく時制が入れ替わりながらつづく。と思っていたら、なぜか知らないけど、デインが落ち込み、無口になり、ひとりモニュメントバレーあたりへトレイルに行く。そのデインを「自殺の危険があるかも」と見ていた同じトレイルおばさんが声をかけ、メンタル治療を勧めるんだれど、デインはなんで落ち込んだんだ? で、デインは向精神薬でさっさと改善したってことか? トレイルおばさんに紹介されたケアばあさんもやってきて、乱暴になったり塞ぎ込んだりするニコルを介護。「ありゃメンタルがやられてる」ということで、ニコルもがん患者の鬱状態だったということか。みんな欝だな。向精神薬メーカーのPR映画かなんかなのか? でまあ、ニコルは眠るように死んでいき、夫のマットは2人の娘と楽しく暮らし、デインは地元に戻っていく。デインはスタンダップで成功した、ようなことはないようだ。恋人とよりを戻した、のかどうかも分からない。 そうそう。マットは地方新聞社からNYタイムスに引き抜かれた経緯があるようだけど、妻の介護で休職してたのか? で、復職したのか? のあたりは、ひとつも説明がなかった。それじゃ説得力もリアリティもないよな。 | ||||
愛なのに | 2/28 | 新宿武蔵野館1 | 監督/城定秀夫 | 脚本/今泉力哉、城定秀夫 |
allcinemaのあらすじは「古書店の店主・多田は、かつてのバイト仲間である一花という女性のことが忘れられずにいた。そんな中、女子高生の岬から一途に結婚を迫られ困惑する。一方、結婚を控えていた一花は、婚約者の亮介がウェディングプランナーの美樹と浮気していることに気づいていなかったが…。」 Twitterへは「監督 城定秀夫×脚本 今泉力哉。『街の上で』のスピンアウト的な話かと思ったらそうでもなくて、でも男女関係が錯綜し合うのは似てるかな。女子高生パートはエキセントリックでいい感じなんだけど、大人パートはからりとしつつ中味はドロドロ…。」 古書店主が主人公らしいことは分かっていた。あの『街の上で』でも、女性関係に謎が多い古書店主が、実体は登場しなかったけれど、話として登場していたので、もしかしてあの古書店主を主人公に持ってきたような話かなと思ったんだけど、そうでもないようだ。 古書店主の30男多田と、なぜか多田に恋し結婚したがっている女子高生・岬、岬に恋している正雄、の話がひとつ。大学時代に多田が告白し振られた同級生・一花が近々結婚予定。相手はチャラい感じの亮介で、でも亮介は2人が相談しつつあるウェディングプランナーの美樹と関係をもっている。2つの三角関係が多田を中心に交互に進行していく、というのが映画の構造。 なんだけど、2つの話が有機的につながっているかというと、まったくなくて。テイストの違う話をむりやりくっつけた感じで違和感が残ってしまう。ともに話としては面白いんだけど、一緒にする必要があるのか? なんか、ファンタジーとポルノをごたまぜにした感じなんだよね。監督の城定秀夫がポルノ出身だから濃厚なセックス描写があるのは分かるけれど、岬の登場するパートとの違いが気になりすぎなのだ。 岬がなぜ多田に惚れ、結婚してくれと告白し、何通も恋文を書くのか。その理由は分からない。けれど、ファンタジーだからいいのだ。おっさんには、それで十分。こんな可愛い妖精に、おじさん好き、っていわれたら、フツーはめろめろだろ。でも多田は30歳だったよな。それほどおじさんでもないし、あり得なくはないんじゃなかろうか。 岬の、多田への接近法法も、なかなかコケティッシュでチャーミング。わざと本を盗んでおっ駆けっこしてみたり(途中で水を買って多田に渡すのは笑った)、丁寧に「結婚してくれ」の恋文を手渡してきたり。文字に対する信頼とアナログ感満載で楽しい。多田も、コンプライアンス的にヤバイ、とは思いつつも追い払ったりしていないところが、揺れる心で面白い。といった具合で、この岬のパートは見ていて楽しい。 一花と亮介のパートは、セックスによる結びつきになる。2人がどういう結びつきなのか、それは分からない。けれど、式の準備をしている過程で、ウェディングプランナーの美樹に手を出すってのは、じゃあ亮介はやり手かと思うじゃない。ところがどっこい、なのが面白い。 2人はすでに同棲していて、たぶんケジメの結婚なんだろう。でも一花は、亮介の浮気に気づく。ここでひとつの疑問なんだが、一花は亮介の服から赤いライター? を見つけ、追及。亮介は簡単に告白してしまうんだけど、あんなライターひとつで浮気がバレてしまうほどか? はさておいて、この件で一花は「だったら私も別の男とセックスする。いいよね」と宣言するところは飛躍しすぎな展開だけど、これが話のキモなのでしょうがない。それで選んだのが、どうせするなら、私を好きと言ってくれたことのある男と、というわけで選んだのが多田、なのだ。一花も交際範囲が狭いな、だけど、まあ映画の都合だからしょうがない。それで呼び出されホテルまでノコノコついていったものの、乗り気ではない多田。そりゃそうだろう。そんな理由で、なのだから。でも、するのしないの? と言われ、してしまうところが男の性ということか。 でも、背徳感に苛まれて、ドレスの試着に行った式場の牧師に告白・懺悔し、どうしたらいいのか聞くんだけど、そんなところの牧師に相談するかあ? なんだけど、外国人らしい牧師は「御心に従いなさい」とだけいう。 ならば、というわけで、一花は多田に「もう一度したい。できれば、結婚後もときどきして欲しい」というのだ。これまでしたセックスの中で一番よかった、のだと。はあ? ということは多田はセックスが上手で、これから結婚しようという亮介は下手で、その下手な亮介と浮気してる美樹は、どうなんだ? と思っていたらちゃんと答がでてきた。何度目かの浮気をつづけていて、自信満々の亮介に、美樹が言う。「あなたは下手」と何度も繰り返して。がっくり肩を落とす亮介がいて、笑える。しかし、感じないセックスにつき合ってる美樹って、なんなんだ? とは思うけどね。お客とセックスして、その妻となる人の前で素知らぬふりをすることが楽しいのか。まあ、そういうスリルが一番感じるのかも知れないけど。 こちらのパートのセックス描写は、まんまポルノ映画。その点では嬉しいことではあるけれど、岬のパートとのギャップが大きくて、多田のイメージが分裂したままになるのが困ったところ。 岬の方は、まとわりついている同級生とつきあいで一度デートしたけど、「他の男のことばかり考えるな」と言われたので、もう会ってない、という。で、その岬は「これを最後にするから、返事をくれ」と何も描いていない恋文を多田に渡し、多田は悩んだ末になんとか書いて返事する。ほんとうにうれしそうな岬がとても可愛い。 一花が多田に二度目のセックスを頼み込んだのは「御心のままに」を、自分の心のままに、と解釈したからだと多田に話し、そりゃ違うだろう、と言われたりしたけど、あっけらかんのままだ。多田は、そんな結婚ならやめろ、というのだけれど、一花はもごもご…。とくに愛のないセックスに没入することもなく、多田は一花と会うことはやめるんだったっけ? アパートのドアが叩かれ、やってきたのは岬の両親。多田の手紙を発見し、抗議に来たらしい。のだけれど、母親は「気持ち悪いんですけど」を何度も繰り返し、父親の方が暴力に訴えかけてきたので、思わず殴ってしまって警察沙汰に。そんなの、岬にもらった手紙の束を見せればいいじゃないか、と思うのだけれど、まあ、こういう展開にしたかったんだろう。でも、この映画でいちばん夢のないつまらない場面だった。 岬への返事には、「ラブレターをもらうのは嬉しかった。将来。自分の気持ちがどうなるか分からないけれど、ラブレターをまたくれ」みたいなことを書いていたかな。 古書店。猫。結婚式の招待状。一花はセックスの下手な亮介と結婚することを決めたらしい、とナレーション。でも、多田は出席しなかったんだよな。 本を読んでいる多田。やってくる岬。岬は多田の読んだ本が読みたいのだ。「最後の章が残ってる。読んじゃうから待ってて」といい、その横で岬も本を開く。友人たちが、結婚式の引き出物をもってやってくる。出席はしなかったけど祝儀だけは渡したのかな。でも、岬がいるので、友人たちはそそくさと帰っていく。なかなかいい感じの終わり方だ。 ・岬に横恋慕し、古書店で多田を殴ってしまう同級生の場面と、もうひとつの場面にも登場していた常連のジジイがなかなかいい。 ・監督の城定秀夫は、『街の上で』で、2人が打ち明け話をしていくとき、スタイリストやってた女の子が口にした監督だ。『アルプススタンドのはしの方』が良かった監督。 |