2022年3月

選ばなかったみち3/1ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/サリー・ポッター脚本/サリー・ポッター
原題は“The Roads Not Taken”。allcinemaのあらすじは「認知症を患い、たびたび過去の記憶や幻想で混乱をきたすニューヨーク在住のメキシコ移民で作家の父と、そんな父を気づかう娘が、医者に行くために2人で外出する中で様々な困難に直面するさまを描き出す。」
Twitterへは「若年性認知症?のオッサンが小便漏らしたり徘徊したり、娘に迷惑かける話だった。しかしメキシコ移民(設定)のハビエル・バルデムがローラ・リニーと結婚して生まれた娘がエル・ファニングって、ムリありすぎだろ。」
時制で整理すると、前々妻との間の子供が幼くして死に、その墓参りに行きたくないとひねてるレオと前々妻との話。スペインでの話かと思ったら、あとからメキシコ移民と分かるので、メキシコでの話なんだろう。この頃のレオは、顎髭ぼさぼさ。
海に近いリゾート(なにかの解説を読んだらギリシアらしい)でのんびりしていたら娘数人連れとちょっと会話して、なかの金髪の娘に惹かれたのか遠巻きにちょっかいだし、仲間の娘には変態目で見られながらも追っかけていく。娘たちが青年たちと小舟に乗り、大きなクルーザーに乗り込み、パーティを始めると、手こぎボートで追っかけていく…という、惨めな爺さんを晒すくだり。自分には同年代の娘がいる、と話していたから、これは最近のことなのか。
現在。痴呆症で在宅で、介護するオバチャンはいるけど、意識は朦朧。娘モリーは何かのプレゼンがあるけど、後から駆け付けると連絡し、レオを歯科医に連れて行く。けれど医師の指示もロクに理解できず、あげく失禁。ズボンを買いに行けばどこかへ徘徊し、他人の犬を自分の愛犬だと思い込んで騒動に。タクシーで眼医者に行こうとして、降りる時路面に転がり、頭部から血が…。なのでERでMRIかなんか(字幕はCTだったけど)撮影して異常はなし。モリーはレオの前妻(ローラ・リニー)にして実母に連絡し、来てもらっている。離婚してるのに、そこまでするか、前妻は。いまは別の家庭を持っているのに、何かあったら手伝う、とまで言う前妻はいい人に違いない。で、眼科に行って検査して…。なことしてるから、モリーは昼の会議には間に合わず、電話でプレゼン? 結果を聞くと自分の案は採用されず、同僚の案が採用されたとかで激している。けど、父親にはあたらない。モリーもいい娘だ。
というような3つの話を切れ切れに編集しているだけで、とくに“選ばなかったみち”については描かれていないよね。どの道を選んでも、レオが痴呆症になるのは変わらないわけで。
前妻が「私は成功してあなたよりいい生活をしている。あなたは電車の音がするアパートにひとり暮らし」とレオに言っていたけど、そういうこと言うか? まあ、ボケた前夫に現在の立場を分かられるためとはいえ、なかなか強烈だよね。というように、レオは作家らしいけど、売れてはいない様子。なのに、つい最近までギリシアでのんびりしたり、優雅なのね(何かの解説では行き詰まっていての旅らしいけど、そうは見えなかった)。
というようなわけで、公式HPには「父の幻想と娘の現実。ふたりは同じ空間で別々の24時間を生きた---。同じ場所にいながらも景色が異なる二人の旅路の行方とは---。人生の岐路で自分の選んだ道は正しかったのか、もしも別の選択をしていたら?胸の奥底にしまい込んだ過去の大切な出来事や記憶を繋ぎながら、人生の奥深さに迫る感動の問題作。」と書いているけど、前々妻との話やギリシアの話が幻想とはどこにも描かれておらず、ただの過去の記憶にしか見えない。人生の岐路というけど、それもどれが岐路なのか分からない。別の選択も何も、若年性痴呆症で周囲に迷惑をかけるようになるのは、変わらんだろ。
・クレジットにはロンドンユニット、スペインユニット、N.Y.ユニットを確認した。他にあったかな? メキシコやギリシアでも撮っていたのか?
MEMORIA メモリア3/7ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/アピチャッポン・ウィーラセタクン脚本/アピチャッポン・ウィーラセタクン
コロンビア/タイ/フランス/ドイツ/メキシコ/カタール の資本が入ってるらしい。制作総指揮は、主演のティルダ・スウィントン。原題は“Memoria”。allcinemaのあらすじは「頭の中で鳴り響く謎の爆発音に悩まさる女性が、その原因を探る中で不思議な出会いを重ねていく奇妙な旅路を、静謐かつ神秘的な筆致で描き出していく。」
Twitterへは「だからどうしたな女性の行動と心象風景を緩慢かつ退屈に見せる。食事の後に見てたら100%寝てただろう。家でサブスクで見たら100%早送りしたはず。映画館だから仕方なく縛り付けられてた。あの一発芸だけは笑ったけど。」「わけの分からん映画を「難解」とか評する人は持ち上げるんだろう。でも、こんな糞につきあってるヒマはないのだ。」「監督がアピチャッポンだからしょーがないか。でも、この話なら5分の短編にまとめりゃそれでOKだろ。」
アピチャッポンについては数年前だったか、たしか写真美術館かな。駒込倉庫でも見たような記憶がある。なので、退屈な環境系のビデオアートのイメージがあって、劇映画というのがピンとこなかった。で、見終えて思うのは、くだんの退屈な環境映像を2時間余りに引き延ばし、何となくエピソードも加味して連ね、最後に一発芸をかましてオシマイにした、ってな感じかな。ほとんど観客には意味不明で、本人には何らかの必然性のある事柄が描かれているのかも知れないけれど、でも、なにも伝わってはこない。たとえばテーマは何で、も分からない。人物を掘り下げることもしていない。ドラマといったら、得体の知れない音に悩まされる、ぐらい。でも、ぜんぜんドラマチックでも何でもない。だからどうした、なレベルだ。
スペイン語っぽいけど、どこの話だ? ボコタという都市名が出てきて、南米とは分かったけど、ボリビアだっけ? とか思いつつ見てた。はは。コロンビアね。
さて、
・明け方、突然鳴り出すクルマの電子音。つづいて爆裂音がしても女性が起きる。
・信号待ちをしていると、ドン、という音がして、男性が転倒する。それを女性は見てる。男性は、発砲音と思って瞬間的に伏せたような感じで、周囲を気にしながら立ち上がり去って行く。あの音は、他の人に聞こえているのか? 女性と、倒れた男性だけに聞こえるのか?
・女性は誰かの見舞に病院に行く。
・大学の講義シーン。の後、女性は教授らしい人と外で話している。蘭がどうの、菌に冒されているか、とか、良く分からない。
・女性はどこかの録音室を訪ね、ミキサーがつくった爆裂音のサンプルを聞く。教授の紹介らしい。
・女性がベンチに座っていると、女医風がやってきて、ベンチを鍵代わりにしている、背後のドアから中に入りたい、という。「死体安置所?」と聞くと「似たようなもの」と返答がある。
・女性は、別の女性、男性と食事をする。あの女性は入院していた女性か? 会食中も何度か爆裂音がするが、相手の男女は気づいてない様子。
IMDbをみると、主人公のティルダ・スウィントンはJessca Hollandという役名で、もう1人Karen Hollandという役名の女性がクレジットされている。ということは、姉妹という設定なのか? 他にも、Juan Ospina と Mateo Ospina という役名の役者がいるんだが、これは兄弟? 父子? どこに登場していたんだろう?
・このあたりだったかな、女医風に中に入れてもらったのか。中には工事現場で発見された600年前(?)ぐらいの女性の骨があり、若い女性だという。頭部の穴は、捧げ物にされたから?
・ミキサーと、屋外で会う。音を完成させたからと、DVDでもらったんだったか。
・花用の冷蔵庫工場? 同行しているのはミキサー? 別人?
・地下トンネルへのツアー。女性の姿は分からず、発掘現場も映らず。
・どこかの森。河辺。男が魚の鱗を取っている。女が近づいて会話。男は、眠るとどうとか言っていた。なので、女が「寝てみて」というと、男は草むらに横たわり寝るのだが、呼吸をしていない。起きた男に、女が「死ぬとどうなるの?」とか聞いていた。
ところでこの男の名は、たしかミキサー(かもしくは冷蔵庫工場に同行した男性)と同じエルナンだった。あとからIMDbで見たら、Young Hernan となっている。なるほど、意味がよけい分からなくなってくる。
・男の部屋に入り、強い酒を酌み交わす。回転するオブジェがある。スクリューなどは、切れ物だからアブナイよ、と言われる。男は「私はハードディスクのようなもの。あなたはアンテナだ」という。男はいろんなものを記録しているということか。で、女は、記録されたものを発見する力がある、ということ? 多少SF的なドラマが感じられなくもなてけど…。
・森。下から巨大な黒い宇宙船みたいなのが浮き上がり、爆裂音を鳴らし、飛び去っていく。女を悩ませた爆裂音は、宇宙船の推進音? といっても、ワープする感じではなく、ゆっくりと宇宙船は遠ざかっていく。背後に残された空気の波紋ひとつも、次第に薄れていく。
・緑の風景が数カット。で、オシマイ、だったかな。
ティルダ・スウィントンがアピチャッポンの映像に惚れて製作したのか。話はアピチャッポン? ティルダ・スウィントンは口出ししたのか、しなかったのか? それにしても、どーでもいい映画だな。
偶然と想像3/8キネカ大森2監督/濱口竜介脚本/濱口竜介
allcinemaのあらすじは「タクシーの中で聞かされた友人の惚気話がきっかけで、突然ある人物のもとを訪れるモデルの姿をスリリングに描いた「第一話 魔法(よりもっと不確か)」、芥川賞作家の大学教授が、自分を逆恨みするゼミ生から仕掛けられた色仕掛けの顛末を描く「第二話 扉は開けたままで」、偶然に20年ぶりの再会を果たし興奮する旧友ふたりの弾む思い出話が行き着く先を描く「第三話 もう一度」の3編」
Twitterへは「会話劇とは知っていたけど、核心的なあたりで繰り広げられる対話は観念的すぎて頭に入らず。むしろ、一発オチ的な構造の方が印象的。3作目の高校の同級生話の肩すかし感がいい。いろんな意味で、女はオソロシイ。」
密で丁寧につくられているけれど、売り(?)である会話劇の部分がムダに観念的なので頭に入らない。そんなところで哲学的論議をしてなんになる? という感じ。むしろ、それぞれに仕掛けられている一発ギャグの方が楽しい。けれど、それをお笑いにせず神妙に描いているところが、ちょっと鼻につく気がしないでもない。
1作目は、友人が最近出会った運命の男についての話で。その惚気話をタクシーの中で聞かされる芽衣子。運命の彼が自分の元彼と気づいて、そのままタクシーで元彼の事務所に突撃する。のだけれど、芽衣子役が古川琴音で、これは若すぎというより幼すぎで、いわく付きの男とつき合っていた感がまるでしない。で、元彼が友人といい関係になるからって、茶々入れる必要性がどこにあるの? と思ってしまうと、シチュエーションの面白さを狙っただけの、頭でつくった話に見えてしまって話に入りきれず。後日、友人と元彼が再会する喫茶店の場面に突然乗り込んできて、「このこの人の元カノは私」と宣言したりして、なんだこの女は? 元彼をとれらる嫉妬心? と思っていたらそれは幻想で、実は窓の外を通りがかって二人が会っているのを確かめるだけ、の映像がつづく。まあ、これが女心というものか? やだね、というか、オソロシイ。
2作目は、単位を認めてくれなかったせいで留年した男子学生が、その教授に仕返しする話。そもそも、そのチャライ学生が子持ち(だっけか?)で年上で色っぽい女性・奈緒(高齢で大学の文学部に入学したという設定)といい仲になっている、という設定自体に不自然さがありすぎ。まあいい。教授はエロっぽい作風で芥川賞を受賞しているんだが、生徒である奈緒が教授の研究室を訪ね、ファンだとかいってエロいページを朗読する。教授は、事件性が発生するのを懼れて常日頃から研究室のドアを開放しているんだけど、この日も用心してそうしていた。けれど奈緒の朗読に心奪われ(という設定もムリやりすぎ)てしまう。奈緒は、研究室訪問からのやりとりを録音していて、何かあったら証拠にしようとしていたんだけれど、そんな悪だくみを改心して(なら始めからチャラ男のためにこんなことするな、だよな)、今回の訪問が罠であることも告白。そして、小説全文を朗読し、データを教授に送る、と話す。これに教授は大喜び、という展開にムリがある過ぎるだろ。ファンタジー過ぎ。で、数年後。バスの中で奈緒はチャラ男に再会する。奈緒は、教授に音声添付メールを送る際、一字違いで総務部の別人に送ってしまって大騒動。教授は退職して行方不明。奈緒は離婚。チャラ男は留年しつつも出版社に就職!? という話で、一発ネタだよな。にしてもそんなことで教授を辞めたとしても文学者としてはむしろ厚みが出るんじゃないのか。むしろ、チャラ男が、ふだん本なんか読まないのに出版社に職を得て、今度は文学畑を担当するようになる、ということの方が理不尽すぎて、それはないだろう。とはいえやっぱり、女はオソロシイ。
3作目は、久しぶりに高校の同窓会に出た翌日、たまたま街ですれ違った同年代の女性が気になって、振り向いたら相手も振り向いて、でもって、それは高校時代の仲好しだった。家が近いということで仲好しの家に呼ばれ、話しているうちにいろいろ食い違いが見えてきて、出身高校を話すと、違う、という。似ていたのか、思い込みなのか、互いに他人を同級生と思い込んで話し込んでしまった、というアホな話。で、駅まで送られて、でも、出会った時のすれ違いをもう一度再現してみない? ということで、再度すれ違って振り向く、をするというたわいのない話。3つの中では、この話がふわっとファンタジーで悪気もなく、面白かったかな。現実的に、似たようなことは、わりとありそうだよね。知り合いと思って話していて、でも実はまったくの他人だった、なんてことは。
プロミシング・ヤング・ウーマン3/14ギンレイホール監督/エメラルド・フェネル脚本/エメラルド・フェネル
原題は“Promising Young Woman”。allcinemaのあらすじは「元医大生のキャシー。かつては輝かしい未来が約束されていたはずの彼女だったが、ある事件をきっかけに医大を中退し、今ではカフェの店員として平凡な日々を送っていた。その一方で、夜ごとバーに繰り出し、泥酔したフリをしては、良からぬ企みで寄って来た男たちに容赦なく鉄槌を下すという過激な行動を繰り返していた。そんなある日、カフェで大学時代の同級生で小児科医となったライアンと偶然の再会を果たすキャシーだったが…。」
Twitterへは「いくら親友のためとはいえ、そこまでするか? な感じがして感情移入できず。最近めっきりオバサン顔になってきてるキャリー・マリガン35歳だけど、可愛く撮れている。」
カフェで働くキャシーは、かつて医大で同窓だったライアンと再会するんだけど、どーもかつて曰く因縁があったらしい。おいおい分かっていく事実をつなぐと以下の如し。
キャシーの親友or恋人のニーナは、パーティかなんかで同級生のアルにいたずらされた。その現場には女学生、男子学生もたくさんいて、ビデオも撮られていた。この後、ニーナは学長にも直訴するが、誰も聞いてくれない。それでニーナは自殺。キャシーも同情して、なのか、退学してしまう。で、カフェに…らしい。しかも、泥酔したフリをして男を誘い、どこかに連れ込んでいたずらしそうになると豹変し、男をボコボコにする、という正義の使者を演じて憂さを晴らしていた。
それがライアンに再会し、ライアンからつき合いたいと言われ、その気になっていい仲になるんだけど、同時に、当時の同級生である女性と出会う。偶然だったか、会いに行ったのか忘れた。けど彼女は、事件のことなど忘れている。しかも加害者のアルは、近々結婚するという。なに! なキャシー。学長(女性)にも会いに行くけど、無視される。で、復讐心が再燃したキャシーは、密かに計画を練る…といった案配なんだけど、いろいろムリくりな感じがしてキャシーになかなか共感できず。
そもそも退学した時点でキャシーの抵抗は終わっていて、もうあきらめた、と。それが、なぜライアンと出会って再燃するのか? しかも場当たり的に。が分からない。しかも、本気でライアンに惚れてしまっている。なんか、してることがギクシャクなんだよね。
それと、事件の内容がよく分からない。どうもアルがニーナをレイプしたようなんだけど、その状況が、他の同級生の見てる前で、らしい。しかもその様子を撮って、仲間にバラまいて楽しんでいた? なにそれ。鈍感な医大生ばかりだったということなのか? さらに、ニーナの訴えを無視した学長は、どういう考えだったのか? 事件があったことは分かっていながら、学校の信用が傷つくのを懼れて無視したのか? それでニーナが自死? であれば、キャシーはその時点でできることは他にあったんじゃないの? 
キャシーはアルのバチュラーパーティに売春婦? として勝手に乗り込み、アルを2階に連れ込み、SMプレイに見せかけて両手をベッドに固定する。いつもの酔っぱらいにするように、ちんちんにいたずらするつもりだったのか? でも片方の手錠が外れ、アルはキャシーの顔に枕を押しつけ、なんとキャシーは動かなくなってしまう! そして、階下の同級生と一緒に死体を河原で焼いてしまう。おお。たんなる青年のハメ外しかと思っていたら、同級生たちはみなシリアルキラーだったのか? なんという展開。そして思う。キャシーはアホ。キャシーの両親がお気の毒。いろいろと割に合わない復讐劇だよなあ。
アルが結婚するという話を聞いて憤るのは分かる。でも、女性の同級生を通じて事件の映像も入手した。であれば、それをアルのフィアンセに送りつけるとか、結婚式に潜り込んで披露宴会場でそれを上映するとか、やりようは他にあったんじゃないのか。アルへの直接的な攻撃にこだわった理由はなんだろう?
それでもキャシーは、あらかじめ手は打っていた。万が一、連絡が取れなくなったら、を考え、弁護士に手紙を残していたのだ。で、アルの結婚式当日(バチュラーパーティの翌日なのかな?)パトカーが駆け付け、アルたちはその場で殺人容疑で逮捕されてしまう。次の場面ではキャシーを焼いた現場で警官が検証しているシーンが映り、灰の中にネックレスが映る。ハートの片割れで、ニーナのと合わせるとひとつになる、のか。ということは、2人は友人というより恋人同士だったのか? だからアルに復讐した?
しかし、手紙に何が書いてあったのか知らないけど、そんな簡単かつ速やかにコトが運ぶのか? そんなすぐ警察が動くはずがない。まあ、映画のウソだろうけど。
とまあ、背景の事件も憂鬱になりそうな話で、その後キャシーの取った退学という行動も「?」だし、アルたちへの復讐法法も「?」で、いまいち色々スッキリしない話だった。
林檎とポラロイド3/14ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/クリストス・ニク脚本/クリストス・ニク、スタヴロス・ラプティス
ギリシャ/ポーランド/スロベニア映画。原題は“Mila”。ギリシア語だとしたら「話す」という意味のようだ。allcinemaのあらすじは「突然記憶喪失になる謎の伝染病が蔓延する世界を舞台に、記憶を失った孤独な主人公が、治療のための回復プログラムによって新たな生活を確立していく姿を、哀愁とユーモアを織り交ぜ、ユニークな世界観で寓話的に描き出していく。」
Twitterへは「記憶喪失になる伝染病、とはいえ、だれも騒ぎ出していない、のんびりした世界の話で、いろいろ退屈。昼飯食べてたら絶対熟睡してたと思う。」
何語だ? あまり聞いたことのない言葉で、舞台がどこなのか分からず。原題の「Mila」の意味もよく分からんし。
中年の鬚のオッサンが主人公。バスに乗ってて乗り越して、車掌が訪ねても自分が誰だか分からない。病院のような所に連れて行かれ、男女の医師のような人の問診を受け、知り合いからの失踪届も出ていないので、仮寓をあてがわれる。そして、いろんなミッションが与えられて、(それはカセットテープで渡されるようだけれど、渡されるところや再生するところはほとんど描かれない)ミッション終了後は証拠のポラロイド写真を撮るように言われる。たとえば、自転車の乗り方を覚えているか? なんてもので、オッサンは子供の小さな自転車を借りて公園を走り、コケたりしながら、ポラを撮っていた。
映画も指示で見に行ったんだっけか。ホラー映画で、ここで女と知り合い、感想をいながら一緒に帰る。以後、2人は行動を共にすることが増えるが、それがいいのか、経過観察に支障をきたさないのか、とかいうことは触れられない。
実をいうと、以後の話をあまり覚えていない。なんか、どうでもいいようなことをしているだけで、男女のふれ合いもとくになくて、一緒にダンスをする場面があったっけかな? で、女が「トイレに行くから来て」とかいうのでついていくと、女がトイレ内で服を脱ごうとする場面で、でも次のカットでオッサンはベッドに仰向けに寝ている。は? で、オッサンが女の部屋に行って指示テープを聞くんだったかな? それによると、バーのトイレでセックスして証拠写真を撮る、だったっけかな? でも、大幅に省略されているから、何があったのか分からない。オッサンと女が寝たのかどうか? 分からんのだよ。
というような案配で、だからなのか、記憶に余り残っていない。記憶喪失が、見てる私に伝染したのか? 
そもそもの設定である記憶喪失という奇病が、いまいち説得力がない。症状が、ではなく、状況が。それが伝染病であるなら、みな恐れをなして外出しないとか、人と接しないとか、マスクするとか、昨今の新型コロナを見れば分かるような社会状況になっていない。変だろ。
症状についても、ある。オッサンは入所した先で記憶力テストされ、酷い成績。少し前に見たもののありかさえ分からなくなっている。なのに女と会って、翌日の訪問の約束して、女の家に行けたというのは、どういうこと? 記憶力が残ってるってことじゃないのか? ひどく不自然。ひとりで音楽に合わせてノリノリで踊るところも、身体に記憶がないと踊れないんじゃないのか?
でまあ、同病の女と恋愛関係になったんだか、よく分からん感じで。たとえば、女がオッサンの家を訪問してきてるのを外から見てる場面など、会いたくないから声をかけないのか? あれはなんでだったんだ?
とか、いろいろあって。でもオッサンは突然、死んだ妻のことを思い出したのか、墓参に行き墓参。の、のち誰もいない自宅に戻る。ボウルには、もともとリンゴ好きだったからなのか、いくつかのリンゴが残っていて、でも、なかに食べられるのも残っていて、それを食べるところで終わる。ということは、記憶を失っていた時間は、長くないと言うことかね。でも、この手の、話は昔からよくある。エーテルで地球が覆われ、多くが倒れるけれどしばらくしてエーテルが失せてみなもとに戻るとか、ウェルズの小説にあったような。なので、とくに刺激的な話でもなく、淡々と、つまらなかった。
・オッサンがやたらリンゴを買うのは、もともと好きだったんだろう。そういう記憶が残っているんだろう。でも、八百屋のオヤジに「林檎は記憶にいい」といわれ、それを聞いて袋から林檎を戻し、オレンジを買ってくるのはなんで?
・仮想パーティ? で、バットマンか記憶喪失で救急車? 知り合いは? と救急隊員が問うと、キャトガール扮装の女も「知らん」な顔をしてるのが、あれは笑いどころなのか?
ウェディング・ハイ3/17109シネマズ木場シアター7監督/大九明子脚本/バカリズム
allcinemaのあらすじは「中越真帆は、新郎新婦の要望に沿った結婚式を作り上げる優秀なウェディングプランナー。今日も新郎・彰人と新婦・遥のために万全の体制でサポートに当たっていた。ところがスピーチに人生をかける新郎の上司はじめ、クセ者参列者たちの暴走で思わぬ非常事態を迎え、懸命の対応に追われる中越と披露宴スタッフたち。そんな中、新婦の元カレや怪しげな男まで会場に現れ、いよいよ式の行方に暗雲が垂れ込めてゆくのだったが…。」
Twitterへは「ウェディングプランナー、新郎新婦、家族友人、来賓、元彼なんかが引き起こすドタバタ結婚式だけど、ムダな説明が多くてテンポ悪く、裏事情の伏線回収が始まるのも遅すぎ。群像劇としてもキレが悪すぎかな。」
ウェディングプランナーの真帆が主人公という体だけど、実際は他の人物と同じような扱いで、群像劇と呼ぶ方が当たってるかも。で、いろんな人物が登場はするけど、全体が機能かつ作用し合い、盛り上がって収斂していくような高揚感はほとんどなくて、人物個人のレベルで終わってしまうような話が多い。人々を紹介するのにいちいち名前を字幕スーパーで載せていくやり方も、それに輪をかけている。だからテンポが途切れるし、ダイナミズムがないのよね。という感じで前半がたらたら平板に進行する。
前半に埋めていた伏線が回収されていくのは、1/3も過ぎた頃か。脱走犯が闖入し、式を潰そうと乗り込んで来ていた新婦の元彼と遭遇し、ドタバタ劇が始まってやっと『運命じゃない人』や『カメラを止めるな!』的な仕掛けが動き出し、少し面白くなってくる。けれど、勇んで乗り込んで来た元彼も、それまでは披露宴会場内にちょいと顔を見せたりするぐらいで、見てる方からすると、なにやってんだよ、的な感じ。
で思うに、脱走犯をもっと早めに登場させたほうがよかったんじゃないの? なんだよね。そして、参列者なんかとちらちら接近遭遇させておく。この映画では、会場に潜り込んだ脱走犯は、新郎がお色直しに着用する予定のスーツを借用後、喫煙所にいるだけで面白みがなさ過ぎ。というか、脱走犯という設定も、生きてない。脱走の最中に結婚式会場でうろうろするか? まあ、祝儀泥棒はおいしいかも知れないけど…。であるなら、ただの詐欺師ぐらいにして置くで十分だろ。ついでに、彼はウェディングプランナーの真帆と知り合い、とかいう設定にして話を複雑にする手もあったかも。そうすれば、新郎関係、新婦関係、ウェディングプランナーと詐欺師、という3つの柱ができて、それを回していけばもっとテンポがよくなる気がする。
真帆がなぜウェディングプランナーになろうとしたか、なんて要らんだろ。新郎新婦の友人知人のエピソードも、ムダに長すぎ。もっと駒として活用しないと。
伏線としては、ロープの行方がいまいちだな。新郎の部屋に挨拶に来て「ロープ持ってきたから」というも、間に合ってる、と返答され落ち込む叔父の池田鉄洋。披露宴前に屋外の椅子に座ってたけど、ロープ入りの紙袋を置いてどこかへ…。その袋を手にする隣にいた脱走犯(向井理)…。脱走犯はロープをどうしたんだっけ? 袋だけ残してロープは捨てたのか? で、最後、バーのマスターがそのロープを投げ縄にして、祝儀袋をもって逃げようとする脱走犯をつかまえるんだけど。その間、ロープはどこにあったんだ? そして、最後、叔父の池田鉄洋はほとんど登場しなくなるのも、変すぎ。
・1時間も進行が押してから運営側が新郎新婦に相談する、というのはオカシイだろ。もっと早く相談し、スピーチや紹介ビデオの短縮を考えるのがフツーだろ。運営側はバカすぎ。で、真帆が「提案がある」というんだけど、みんな同時に余興をする、ぐらい誰でも想像つくだろ。意外性ゼロ。
・新婦の父・六角精児が新婦の父・尾美としのりのイリュージョンで消えた後、甲冑の背後に登場するのはどういうことだ? あり得んだろ、そんなの。
・新婦の父・六角精児の余興がマグロの解体だっけ。いくらかかるんだよ。いや、準備と後始末が大変すぎるだろ。
猫は逃げた3/22新宿武蔵野館1監督/今泉力哉脚本/城定秀夫、今泉力哉
allcinemaのあらすじは「漫画家の亜子と週刊誌記者の広重は離婚寸前の夫婦。亜子は編集者の松山とすでに体の関係になっていて、一方の広重も同僚の真実子と不倫中。夫婦関係は破綻しているものの、飼い猫カンタの“親権”で揉めてしまい、離婚話はまとまらないまま。そんな中、肝心のカンタが逃げ出してしまい…。」
Twitterへは「脚本城定秀夫、監督今泉力哉。エロシーンあり。猫がなかなか演技してる。話は2組のカップルの複雑関係でウディ・アレン風? つまらなくはないんだけど、伏線回収的なわくわくはなし。最後近くの4人の会話は今泉力哉色がでてて面白かったけど。」「夫婦喧嘩は犬も食わないので、猫が登場してるのかしら。」
ネタバレも含めて経緯をまとめよう。
亜子と広重が離婚寸前で、離婚届を書いて判を押そうとしたら、離婚届に猫カンタがオシッコしてしまう。夫の広重は同僚編集者の真実子と浮気中。真実子は結婚願望ありありで、早く離婚しろとせっついている。亜子は、夫の浮気に気づいていたようなことを言っていたけれど、ちょっと報復的に担当編集社の松山と不倫中。亜子は「迫ってきたのはあんたの方」といい、松山は「誘ってたじゃないですか」という。という1組の夫婦をめぐる2組の不思議な四角関係の中に、猫カンタが我関せずでいて、でもカンタもご近所の猫ミーと河原で恋愛中? という設定。で、亜子と広重がカンタを「自分が連れて行く」と主張し合って折り合わず、離婚は延び延び。なので真実子が一計を案ずる。まず、記者魂を発揮し、亜子と松山の不倫現場を路上から(撮られる方はアホすぎ)激写。さらに河原にいたカンタを誘拐して自宅に連れて行こうとしたら松山が「ちょっとちょっと」となり、真実子は「これは、タマ」と知らんふりを装うけれど観念し、松山に事情を話し、さらに不倫現場写真を見せて「協力しろ」と脅す。で、猫アレルギーの真実子の部屋でカンタを見つつ、真実子が忙しいときは松山が餌やりに、という日々。が、某映画監督の不倫現場取材中、松山から真実子に電話(たぶん、餌やりに行けない、という連絡か)。真実子は「ちょっと家に」といってクルマから離れるが、真実子のカメラケースについていた猫の毛を怪しんだ広重がそっと尾行し、行けばそこにカンタがいる。真実子の「これ、タマです」は、真実子の性格が見えて笑える。で、裏切った松山も呼んで、亜子・広重の家で4人が言い訳だらだらツッコミくどくど、の場面は今泉力哉の本領発揮な自然で軽妙でおかしなやりとりがつづいて、この映画で一番楽しい。で、結局、離婚は延び延びのままで、その間にカンタは腎臓病になって介護の甲斐なく5ヵ月か6ヵ月後にあの世へ。だけど、近所のミーに4匹の猫が誕生し、亜子、広重、真実子、松山が一匹ずつ引き取る。そのまま河原で4人で記念写真。で、見ている誰もが想像している通り、真実子と松山はつき合っていて、同居も始めた、のでした。という話だけど、亜子と広重の関係が元のサヤに収まるのは想定できたし、そうなったら真実子と松山がつながるんだろうというのも想定通り。
脚本城定秀夫なのでセックスシーンはあって、たしか真実子のおっぱいは見えた。けど、監督が今泉力哉なので『愛なのに』ほど露骨なというかピンクっぽい絵にはなっていない。まあ、個人的には、裸を見せる必要はない映画だとは思うけど。
こういう人間関係、ウディ・アレンが好きだよね。もし彼が撮ったら、きっと洒落た感じの物語になるかもね。
写真家になりたかったという真実子が家庭的で結婚願望があり、セックスもエロいのでなかなかいい感じなんだけど、4人集合での亜子に対するツッコミとか見てると割りと単純でアホな感じもして。天然の女なのかな。漫画家で連載も入り始めた亜子は、それなりに魅力的ではあるんだけど、広重は亜子に対する不満があったのか? セックスの面でいったら、亜子は松山に奉仕してくれるところもたくさんあって、不感症であるとか、広重の欲求に応えてくれない、ような感じはないんだけどね。まあ、セックスの最中に足がつって、雰囲気を壊すかも知れないけど。となると、隣の席で色気を振りまき、広重を誘ってきた真実子についフラフラ…なんですかね。でも、だからって亜子も編集者の松山に色目を使わなくてもいいとは思うんだけど。まあ、漫画家、編集者、カメラマンな4人なので、フツーの人との常識が違ってオープンなのかも。亜子と広重も、ともに、相手がガンガン不倫していたことを知りながら、元の鞘に収まれるのだから。
猫のカンタは、おとなしめで、言うことを聞く猫のようだ。とはいえ、真実子に誘拐されるときも抵抗せず、ほんわかしていたのは、バカ猫ではないか。飼い猫が外に出て、抱かれて移動するというのもあまりないと思うし。嫌がるよ、猫は。それと、誘拐中の猫のトイレ対応について、真実子がちゃんとしてる様子がないのは、映画だなあ、と。
前半、広重の就職話が話題になる場面があって。亜子が「作家志望だったじゃない」とかいうので、見てるこちらとしては「は?」だった。だって広重は編集者として働いているから。だから、会社を移るとかいう話しなのか? と。その後、カラオケに行く場面があって、途中で抜けた広重が公園でネコを拾う場面があって。え、じゃあ猫が2匹になるのか? と思って見ていたら、どうもこれはカンタを拾ったときの回想か、と気づいた。それで就職話も回想か、と分かったんだけど。これらも含めて回想シーンが3つか4つあって、そのどれもが、回想と分かるように編集されてないのだよね。まあ、監督としては何かのルールはあったのかも知れないけど、現実の流れとほぼ同じように見えて、分かりにくい。で、思うに、回想シーンはとくに無くてもいいんじゃないか? 二人の揺れる関係も、そんなにはっきり描かれてなかったし。描くなら、二人の関係のほころび、ゆれる関係性みたいなところを見せて欲しかったところである。
・画面が暗い。別にプロジェクターの光量せいではないと思う。
・相変わらず会話が聞き取りにくい。なんとかせい。
・エンドロールの文字が小さすぎ。とくに歌詞の訳が小さすぎて読めない。
・カンタは『愛なのに』で古書店にいたのと同じ猫かな。
THE BATMAN - ザ・バットマン -3/23109シネマズ木場シアター5監督/マット・リーヴス脚本/マット・リーヴス、ピーター・クレイグ
原題は“The Batman”。allcinemaのあらすじは「両親を殺された孤独な青年ブルース・ウェイン。彼は2年前から、腐敗したゴッサム・シティで悪を一掃すべく“バットマン”として自警活動に当たっていた。そんな中、権力者を狙った連続殺人事件が発生する。バットマンはゴッサム・シティ警察のジェームズ・ゴードン刑事に協力し、一緒に捜査を進めていく。しかし犯人のリドラーは犯行現場に必ず謎めいたメッセージを残し、バットマンを繰り返し挑発していくのだったが…。」
Twitterへは「寝そうだな…と思って見てたら、やっぱり少し寝てしまう。バットマンとは相性が悪い。夜、雨…。ノーランの描く世界よりリアルでチープ。でも連続する重低音で重々しさをだそうとしてる。でも話がよく分からん。格差の逆恨み?」
なぜ監督がC.ノーランじゃないのか知らないが。暗く重々しい雰囲気は継承している感じ。でも、洗練されたかっこよさ、ハイテク感、ギミックなどは消え去って、リアルに近いところがある。バイクもバットモビールもフツーのバイク、クルマに近くて、空飛ぶときもマントを張ってる姿はムササビみたいで笑える。ゴージャス感はまるでなし。住まいや執事の用意するあれこれも質素な感じ。
冒頭の、スコープで覗いている様子は、なんなんだ? でも、最後に分かってくる。でも、最初の、男性が倒されたのは、なんなんだ? 次の、男性が殺されたのは、あれが現市長なのか? 凶器はカーペットを剥がす工具というのも、あとから分かる。でも、それに警察が気づかないのはオカシイだろ。最後にバットマンが気づいて、カーペットを剥がすとメッセージが出てくるとか、バカな演出。
市長が殺されたとき、選挙戦間近だったんじゃないのか? 発見したのは市長の子供…。で、後半になって、あの殺人は過去の出来事で、殺されたのはブルースの父親で市長候補、あの子供はブルースだったのか? みたいな描かれ方をされていて、え? やっぱりあれは現在のことで、たんにブルースと父親とのアナロジー? よく分からなくなる。それと、市長が殺され、その後、市長選は行われたようだけど、じゃあ黒人女性候補の対立候補はだれだったの?
最初の方にペンギンが登場する。でも、以降はファルコーネとかいう名前が頻出し、ネズミ(裏切りのスパイ?)という言葉もよくでてくる。このあたりで、ゴッサムシティの悪の存在がよく分からなくなってくる。バットマン世界をよく知らないこちらとしては、ペンギンが一番のボスと思っているのに、ファルコーネってだれよ? 力関係はどうなってるの? さらに、覆面男の男(リドリーというらしいが)は、どう裏社会と関係してるんだ? 終わって解説を見れば、裏社会と関係ないらしい、のだよな。裏社会はリドリーをどう見ていたのだ? 頻出していた“ネズミ”って、何のことだったの? いやもう、よく分からないまま見ておったよ。
で、終わってみればゴッサムシティの悪とリドリーは関係なくて。もしかしたら裏ボスかと思っていた、バットマンといつも一緒に行動する刑事もただの善意の刑事で。リドリーは逆恨みのサイコだった、と。でも、ブルース家がつくった孤児施設で育ち、でも、ブルース家は豪華な家で高みの見物かよ、と逆恨みするリドリーって、しょうがねえな。じゃあ慈善家はどうすりゃいいんだ? 金を持っていても慈善事業をせず、豪勢に暮らしていればいいのか? でも、そうやってても恨まれるんだろ? 不幸な星の下に生まれてきたことは、どうしようもない。格差だって、多少はしょうがない。それを、殺人ゲームとして復讐しても、世の中は変わらない。アメリカ社会の現状を憂いてのメッセージが込められているのかも知れないけど、じゃあ共産主義になれということか? でも、黒人女性候補のスローガン“Change!”はオバマの主張と同じで、でも、監督がそれを揶揄しているようにしか見えないんだけどね。
あとは、キャットウーマン。彼女は、誰なの? 自分ルームメイトの失踪にこだわってて、社会正義を求めているようにも思えない。そもそも、そのルームメイトとキャットウーマンは、夜の店で客接待していたわけだよね。どういう位置づけなんだ? なんか曖昧すぎて、思い入れはできんぞ。 それと、キャットウーマンのマスクが日本の泥棒の、鼻先で手拭いをしばるほっかむりに見えて可笑しい。
で、最後はリドリーが覆面を外し、ゴッサムシティのあちこち仕掛けた爆弾を炸裂させ、街を洪水に陥らせる。で、リドリーの望みは何なんだ? リドリー1人じゃ爆弾調達も、爆弾の設置もできんだろ。あとからワラワラ湧いてきた、リドリーのWebサイトのフォロワーがいろいろサポートしてたのか? そんな風には見えなかったけどな。で、あのサポーターは、格差に恨みを持つ輩たち? あるいは、同じ孤児院の仲間なのか? よく分からんよ。
やっぱ人間関係がはっきりしてて、迷いなく見られる方が感情移入もできて、いいと思うんだけどね。ムダに謎ばかり埋め込んで、後から解き明かして、こうだった、ってのも、うーむ、だな。
クーリエ:最高機密の運び屋3/25ギンレイホール監督/ドミニク・クック脚本/トム・オコナー
イギリス/アメリカ映画。原題は“The Courier”。allcinemaのあらすじは「米ソの軍拡競争が激しさを増していた冷戦時代。米英の諜報機関であるCIAとMI6が一人の男に接近する。彼の名はグレヴィル・ウィン。東欧諸国に工業製品を卸す平凡な英国人セールスマンだった。しかし、それ故にあるミッションの適任者として白羽の矢が立ったのだった。そのミッションとは、仕事と称してモスクワに赴き、ソ連側の情報提供者であるペンコフスキー大佐に接触して機密情報を持ち帰るというものだった。スパイとはまったく無縁だったにもかかわらず、成り行きで渋々ながらも情報の運び屋となったウィン。ペンコフスキーとの間で危険な情報の受け渡しを繰り返す中で、図らずも信頼関係を築き、友情をも育んでいくのだったが…。」
Twitterへは「軽い気持ちで情報の受取人になった普通のビジネスマン。ところがキューバ危機が勃発し…な話。前半は事件も起こらず退屈。後半になってやっとドラマが動き出す。映画のためなら坊主刈りも辞さないカンバーバッチご立派。」
冒頭、GRUとか個人名がゾロゾロ出てきて、ううう、となる。GRUは説明がない。帰ってから調べたら、ロシア連邦軍参謀本部情報総局のことらしい。わかんねえよ、そんなの。
は、さておき、前半は話がタルイ。とくに事件も起こらず、いつのまにかウィンはソ連の情報提供者と接触し、あろうことか個人的にも仲良くなってしまう。で、何気なく情報を渡され、それを米国大使館にもってきたりする。よくある丁々発止の頭脳合戦的なところはひとつもない。ドキドキもハラハラも、ほとんどない。まあ、実際のスパイもこんなものなのかも知れないけど。あえてこういうおっとりした感じを狙ったのか。はたまた、事実に基づいているらしいから律儀にそうしているだけなのか。申し訳ないけど、退屈だった。緊張感がでてきたのは、ペンコフスキー一家を亡命させることになり、ついては自分が、とリスクを承知で脱出作戦に加担したあたりからかな。スパイ映画らしいスリルもあって、やっと目が開いてきた。とはいえ発覚して逮捕されてしまうんだが。後に死刑、だったっけ。
しかし、ただのビジネスマンに目をつけ危険なことをさせる情報機関って、信頼できるのか? もしミスが発生しても、知らぬ存ぜぬを決め込む腹だったのかね。ウィンにしても、最初はためらっていたのに次第に自覚が芽生えてきて、危機に飛び込むようなことまでしてしまう。使命感というのは、人を変えるのだろうか。
ペンコフスキー逮捕後、ウィンも拘束され、いろいろ尋問される。2年ぐらいで解放されたんだっけか。よくがんばったよな、と思う。しかも、解放後もビジネスはつづけたらしいから、なかなか腹が据わっているね。真似できんよ。
というわけで、内容も波乱に富んでいないので、あまり詳しくは覚えていない。10日前に見たばかりなんだけど。
ウィンに焦点が当たったのは、ちょうどキューバ危機の時期に当たったからなんだろう。すでに徴候があって、CIAとMI6がウィンに接触したのか。運び屋してる時にたまたまそうなったのか。とはいえ、CIAとMI6が連携して事を行うこともフツーにあるのね。どっちがイニシアチブをとってたんだろう。そのあたり、説明がないのでよくわからない。
キューバ危機については、なぜそんな騒がれたのか、よく分からない。ソ連がキューバに核ミサイル基地をつくったことが、なぜ核戦争につながると思われたんだろう? たとえば現在(2022.04.05)、ロシアがウクライナに侵攻し、戦闘がつづいている。原因は、旧ワルシャワ条約機構加盟国だった国々が続々とNATOに加盟し、ウクライナまでもがNATOやEUに参加したがったかららしい。ロシアがクリミア半島をウクライナから奪い返したのも、ここにミサイル配備されたらたまらないから、ともいわれている。こういう状況って、キューバ危機の裏返しじゃないのか。ロシアにとって、目と鼻の先にミサイルが配備されてしまう。周囲は敵ばかり…。キューバ危機のときはソ連が引いて事は収まった。でも、今回のウクライナ危機では、NATOは引く気配をみせない。なんかアンバランスだよな。なので、余計に、なぜキューバ危機だったのか。なっとくがいかないんだよね。
モーリタニアン 黒塗りの記録3/25ギンレイホール監督/ケヴィン・マクドナルド脚本/M・B・トラーヴェン、ローリー・ヘインズ、ソフラブ・ノシルヴァン
イギリス/アメリカ映画。原題は“The Mauritanian”。allcinemaのあらすじは「2005年、弁護士のナンシー・ホランダーは、米国政府が9.11の首謀者の一人と考えているモーリタニア人、モハメドゥ・スラヒの弁護を引き受けることに。無罪を訴えるスラヒだったが、一度も裁判が開かれることなく、長期の拘禁を強いられていた。ナンシーはこれを不当な人権侵害として政府を訴える。一方、なんとしてもスラヒを死刑にしたい政府の命を受け、起訴を担当することになった軍の弁護士、スチュアート・カウチ中佐は、有罪となる証拠を求めて調査を開始するのだったが…。」
Twitterへは「9.11後、容疑者に見せしめの死刑判決を下したい政府に、ジョディ・フォスター弁護士が立ち上がる! 事実はスリリングだけど映画は少し中だるみ。とはいえイザとなったら自国に不利な情報もすべて保管しているアメリカは凄い。」
この映画を見終えてしばらくしてから、知り合いに教えてもらった『ショック・ドクトリン』という本を読み始めた。すると、その第1章に、人間の記憶を消去し、上書きできると考え、神経症患者を隔離し、電気ショック、騒音、無感覚状態を与えつづける(強制的なセックスは書かれてなかった)実験をした、という話が載っていた。拷問と変わらないこの手法にCIAが目をつけ、このノウハウを様々に利用。とくに9.11で逮捕した容疑者にこうした拷問を行った、とあった。まさにこの映画で描いていることそのままではないか。もしかして、『ショック・ドクトリン』にインスパイアされてつくられた映画なのかな。
でもって、映画は↑あらすじの通りで、軟禁状態で拷問されつづけているモハメドゥと、彼に接見して情報を得ようとするホランダー弁護士の様子が交互に描かれる感じ。
なんだけど、物語としての対立構造がはっきり描かれないんだよね。モハメドゥを死刑にしたいのは誰で、その目的は? がピンとこない。なので、ちゃんと冒頭に9.11、政府の思惑、CIAの捜査からモハメドゥが逮捕に至った経緯を描くべきだと思った。たとえばビンラディンの親戚と電話した人物のリストアップとかもね。それでモハメドゥも逮捕された、と。モハメドゥがリクルーターだったという根拠は何で、拷問して何を聞き出そうとしていたのか? 仲間の存在? ビンラディンの行方? そういう、拷問する側の思惑や狙いを見せないと、緊迫感もでないんじゃないのかな。そのうえで 穂ランダー弁護士が立ち上がり、人権を重視したという対立構造を見せていれば、より面白くなったと思うんだよね。
で、ホランダーが最初に面会したとき、モハメドゥがフツーに見えたのが、思い返してみれば不自然すぎるかな。あの拷問を経たならば、精神に変調をきたしていても不自然ではない。なのに、たんに口が重い容疑者にしか見えないのだ。ホランダーのしつこい質問に次第に反応しては行くけれど、なんか物足りない。本来なら、自分のために来てくれた白人女性弁護士にすがるような気がするんだけど。たんに用心していたから、なのかな。
で、ホランダーは政府に情報開示を求めるけれど、ほぼ黒塗り状態。それが突然、黒塗りではない情報の山を得られた理由はなんだっけ? 忘れちゃったよ。
それと、ホランダーがモハメドゥに依頼した手記。あれ、最初は看守が見て数ヵ所塗りつぶしてたけど、でも、その後は封印したのを渡されていたような…。あれ、検閲はあったのかなかったのか。どうなんだ? というか、グァンタナモとかに収監されてる囚人の手記がほぼ検閲なしで流出するというのは、あるのか?
さらに、カウチ中佐というのがいて、彼は検事なのか? が生真面目な男で、いろいろ証拠を閲覧したいと言いだして。メモがどうのとかいう話になるんだけど、あれはどういうメモなんだ? 話がどんどん進むので、よく分からんままだったけど、それがどっかに残っているけど閲覧できない、と。なんだけど、知り合いの軍人が、しようがねえなあ、という感じで在りかを教えると、それを調べ始める。
で分かってくるのはラムズフェルドが拷問を許可したとかいう話なんだけど。でも、なぜ拷問を必要としたのか? が、よく分からない。とにかく自白させ、9.11犯人の象徴=生け贄として死刑にしたかった、のか? でも、なぜモハメドゥが選ばれたのかは良く分からない。根拠も、ビンラディンの親戚と電話した、程度。このあたり、もうちょい具体的に描いて、疑惑を晴らしていく流れにしてくれないと、なるほど感はでないよなあ。
というわけで、道は拓け、7年後、裁判で無罪? でも、その後8年間釈放されなかったのはなぜ? しかも、オバマの時代だという。しかも米政府は拷問を認めていないし、謝罪もしていない。それはなぜなんだ? とツッコみたい気分だな。
話として概略分かっても、ツメが甘すぎるので、モヤモヤ感は失せない映画になっているよ。ところで最後の、モハメドゥが好きだと言って歌い始めるボブ・ディランの曲。字幕なしはないだろ。歌詞が大事なんだから、訳をつけないとなあ。
実際のモハメドゥの映像も最後に映るけど、人格が失われているまでにはいっていない様子。『ショック・ドクトリン』に登場する犠牲者の例とは違うな。あの過酷な拷問をへて、自分を保てているのは凄い、なのか、変なのか?
ニトラム/NITRAM3/28ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジャスティン・カーゼル脚本/ショーン・グラント
オーストラリア映画。原題は“Nitram”。主人公のあだ名で、本名のmartinを逆に読んだもの。nitにはシラミの卵の意味があるらしい。周囲にバカにされてたんだな。allcinemaのあらすじは「幼い頃から落ち着きがなく、庭で花火を打ち上げるなど近所迷惑を繰り返す青年ニトラム。世間の目を気にする母親は、そんな息子にどう接していいか戸惑うばかり。そんな中、突然サーフィンをやりたくなった彼は、サーフボードを買うために芝刈りのバイトを思いつく。やがて近所の裕福な独身女性ヘレンと知り合い、次第に心を通わせていくニトラムだったが…。」
Twitterへは「ちょっと足りない青年が、無差別銃乱射事件を起こすまでの話なんだけど、どっかの記事のタイトルにあるような「人がT怪物Uになる瞬間 衝撃的な銃乱射」はまったく描かれていない。生まれながらの器質なのか。すべては謎のままだった。」
マーティンは、障害者だ。大きくなっても頭は幼稚園なみ。社会生活は、まあ、送れるけど、ちゃんと適応して暮らすのは、難しいレベル。両親のマーティンへの愛情は、でも、甘やかしと放任と、社会になじんで欲しい、という期待感の入り混じったものだったけれど、本来ならどこかの施設に通って作業を覚えて暮らしていく、ようなことが良かったのかも知れない。けれど、当時の環境ではそれが叶わなかったのだろう。
「僕は、僕以外になりたかった」というキャッチフレーズがついているけど、マーティンはそんなこと思ってなかったはず。火遊びで火傷しても懲りない。毎夜の花火で近所迷惑。大人なのに小学校のそばで花火。生まれながらの性格のまま、他人への配慮はなく自由勝手のはた迷惑に生きただけの話だ。理解されないことが不思議でならなかったはず。とはいえ、サーフィンはしたかったし、女の子の注目も集めたかったんだろう。でも、できない自分の自覚はあった。自分が人より足りないことも分かっていた。ときどき爆発するけど、その理由も分かってないと思う。苛立ちが暴力になったりする。
なんかして働け、といわれてご近所に芝刈りはいかが? と声をかけ、50歳がらみのヘレンと知り合う。かつて女優だったのか? 宝くじの会社、とかもいってたような、なぞの女性。犬の散歩をさせたら気に入られ、クルマをもらってしまう。そこに性的関係はなかったように描かれているけど、不明。で、ヘレンの家に住まうようになって、行動を共にしているうち、助手席から運転しているヘレンのハンドルをいじって横転。ヘレンは事故死し、自らも大けがを負う。けどへこたれない。なんと、ヘレンは家と50万ドルを残したらしいけど、生前にどんな約束or契約を結んだんだ?
両親の小言と、自分を下に見ている態度に憤って父親を殴ったりする。その後、父親は謎の水死をするんだけど、原因は明かされない。マーティンの仕業かも知れない、とほのめかそうとしているのかな。葬儀には派手な衣装でやってきて、母親に「帰れ」と言われたりしている。
その後はハリウッドへ一人旅。空気銃でお土産(?)のスノードームを撃ってももの足りない。海岸で見かけるサーファーがいて、声をかけても軽くあしらわれるだけ。一度、少し話したことがあって、近くに女の子がいたので「声をかけてみれば?」と言われたけど、マーティンにはできない。そういうのもコンプレックスになってしまう。見よう見まねでサーフィンに挑戦しても、溺れるのが関の山。が、ヘレンの遺産でマシンガンや重火器を大量購入してしまうのは、なんなんだ?  もともと銃扱いは得意だった。でも、空気銃じゃもの足りない。それがエスカレートして本物の銃に? 殺人計画がすでにあったのか? にしても、無免許でクルマを運転しても見つからず、銃砲店もマーティンに銃所有免許がないのを知りながら売りつけるのはなんなんだ?
例のサーファーに拳銃を「やるよ」と差し出して不気味がられたりもしている。友達が欲しかったのかな。でもその銃口が人間に向かったのはなぜなんだろう? 
ひとつのきっかけとして、父親が欲しがっていた不動産が、後から来た客に高額で買われてしまった、というのがある。でも、怒りの矛先が筋違い。売った不動産屋ではなく、買い手に怒りをぶつけ、撃ち殺してしまう。ちぐはぐな行動は、やはり頭が子供なのだ。
これが無差別大量殺人のはじまりで、つづいて行楽地に武器弾薬をもちこんで…。この映画の興味深いところは、乱射場面を一切映さないこと。まあ、それで十分に意図はつたわるし、余韻も残るから、それでいいと思う。ノルウェーのウトヤ島の事件を扱った映画などは、逃げ惑う犠牲者の様子を見せることに主眼を置いていたけど、ね。
で、思うのは、母親と父親が気の毒ということだ。父親は亡くなっているけど、母親は存命だから、どういう非難の声を浴びせられたのか。うーむ。

 
 

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