劇場版ラジエーションハウス | 5/4 | 109シアター木場シアター8 | 監督/鈴木雅之 | 脚本/大北はるか |
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allcinemaのあらすじは「甘春総合病院の放射線技師・五十嵐唯織が大好きな甘春杏のアメリカ留学が目前に迫る中、杏の父・正一の危篤が伝えられ、杏は離島で小さな診療所を営んでいた父のもとへ駆けつける。しかし正一はほどなく息を引き取り、杏は島にもう一日残ることに。するとそこに大型台風が直撃し、土砂崩れに加え未知の感染症が島民を襲う。診療所が一つしかない島で杏が孤軍奮闘していることを知り、助けに向かおうとする唯織だったが…。」 Twitterへは「放射線技師に焦点を当てた話。テレビ版は見てない。人物関係で分からんところもあるけどあまり気にならず。エピソードは類型的。だけど『踊る大捜査線』っぽい話のつくりで、なかなか見せるんだよね。」 テレビ版を見ていない。本編では人物紹介は略されているので、ちと分かりづらい。とくに五十嵐が抱く杏への恋心。で、杏は五十嵐をどう思っているのだ? とか。とくに、杏が父親の急病でみんなに黙って島に行く場面などは、途中まで同行した医師との関係が噂されたり。このあたりはテレビ版知らないと、ついていけん。 放射線技師が力を発揮する話だというのは知っていた。プライドの高い医師と、コメディカルの技術屋の技師。で、技師が医師にアドバイスする事例としては、 ・杏への旧型X線撮影の遠隔支援があった。これは、島にいる杏が房子の腹痛の原因を探ろうとレントゲンを撮ろうとしたら旧型のX線装置しかなく、とりあえず撮るけれど、よく映らない。それで病院に連絡し、技師たちの指示で再度撮影するというものだ(フィルムの現像も、杏がしたのか? できるの? )。でも、それでも原因が分からない。というところで、 ・五十嵐が踵の撮影でアキレス腱を見るよう杏に指示する(そのぐらい医師なら誰でも気づくんじゃ亡いのかな。そうでもないのか?)。それで遺伝性の高コレステロール体質が分かるんだそうな。なるほど。で、家族性高コレステロールが分かり、冠動脈にコレステロールがたまっていて心臓に痛みが発生した、らしい。この、冠動脈のコロステロールは、X線では分からんのかな? ・それから、五十嵐が、事故で意識不明になった女性・夏希の頭部の反応を視覚化する、というのがあった(ところで脳内の反応を黄色・赤色で視覚化するのは、どうやってるんだ? 頭部に装置を固定してたけど、夏希はCTかMR撮影中だったっけ? CTの連続透視ってのは、まずいだろ。じゃMRか? PET? 気になる)。 …まあ、あんまり技術屋が活躍しすぎてもまずいのかな。知らんけど。 話としては、交通事故で意識不明になった妊娠中の女性とその亭主が引き起こすドタバタ劇と、父親の危篤で島に渡ったけれ暴風雨で帰れなくなった杏による島での房子の腹痛の原因追及、さらに暴風雨明けに発生する島民の奇病解決があって、大きく2つの話が平行して進行していく形。で、思ったのは、これ、構造が『踊る大捜査線』と同じだ、ということだ。まあ、シナリオづくりの基本なんだろうけど。 事故亭主の話は、よくあるパターン。妻は死を待つだけ。お腹の中の子供を救うには、帝王切開しかない。一刻も早い手技が必要だけど、亭主が「妻を救え」と主張し、医師を人質に立て籠もってしまうという陳腐なもの。こんなバカ亭主はおらんだろ。まあ、こちらはコメディパートとして考えればいいなだけどね。 杏の、房子の病因追及は、エピソード、としてはめ込まれた感じかな。島民の奇病発生は、当初は感染症の疑いと言うことで、昨今のコロナを引きずっている感じ。だけど、中毒というのは概ね想定できてしまうので、いまいち深刻さが足りないかも。 いずれの話も、何を選ぶか、誰を優先するか、というトリアージに関係するものがテーマになっている。でも、行く手に立ちはだかる「壁」とか、「トリアージ」の講義が最初の方ででてきたり、テーマをモロに出し過ぎていて、ちとダサイ感じがするな。 島の出来事を知った技師たちが「応援に生きたい」と院長に嘆願するも、感染症なら経営に影響するからと許可しない。でも、勝手に行ってしまう技師スタッフ連中、というのも、まあ、仁と金との問題で、よくある感じかな。とはいえ、誰にでも分かりやすいけどね。 ところで、「え?」と思ったのは、五十嵐ら技師たちが漁船をチャーターして島に到着すると、なんとすでに自衛隊がきていて、桟橋に入島禁止のゲートをつくっているのだ。どういうこと? 感染症の可能性があるから上陸禁止にしている? でも、自衛隊員は防護服着てなかったぞ。島の復旧作業のためか。であれば水は持参してきている(のか、近くにいる船にある)わけで、原因が井戸水と分かる前から島民に給水するのがフツーじゃないのか? とりあえずは井戸水で、という体制だったとしても、原因が井戸水と分かった時点で給水体制を変えればいいわけで。島民が「水を!」と騒ぐことはないはずだ。自衛隊独自に水を確保して島にもってくればいいのだから。 でまあ、島民の病気も解明し、房子の病気の原因も分かり、立て籠もり男の件もなあなあで解決(しちゃっていいのか?)。最後には、杏が五十嵐に駆け寄ってキスするんだけど。あれは、当然のこととして考えればよいのか、意外な展開と思うべきなのか、そこのところは、テレビ版を見ていない観客には分からないのだった。 ・病因から医師たちがやってくるのは、原因が井戸水、と分かってから。技師たちはクビを覚悟で乗り込んで来たのに、医師連中は、そうじゃなかったのね、というふうにも見えたんだけどね。 | ||||
梅切らぬバカ | 5/9 | ギンレイホール | 監督/和島香太郎 | 脚本/和島香太郎 |
allcinemaのあらすじは「山田珠子は、都会の古民家で自閉症の息子・忠男と2人暮らしをしている。しかし息子が50歳となり、改めて自分がいなくなった後のことに不安を募らせる。そんな中、グループホームを勧められた珠子は、悩んだ末に忠男の入居を決断するのだったが…。」 Twitterへは「知的障害か自閉症か、の50歳オッサンと、同居する70代の母親。グループホームへの周囲の理解のなさ。一方で偏見なく接する小学児童はステレオタイプすぎ。尺が77分で呆気なく終わってしまうのが物足りない。問題の核心を避けてる感じがしてしまう。」 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」について、あるサイトで 「桜の花は、枝が細かく分かれた更にその先に咲き、主に枝の先端に花芽が多く付きやすいため、一度剪定して新たに伸びた枝の途中には花が咲きません。一方、梅は伸びた枝全体に枝から直接花が咲くため、小枝を刈り込んで新しい枝を伸ばした方がそこにも多くの花が咲いてくれます。上記の理由から、桜は古い枝を大切にしていないと全く花が咲かず、すなわち「桜切る馬鹿」。梅は古い枝はすぐに枯れてしまうので、積極的に剪定し新しい枝を伸ばした方が良いので「梅切らぬ馬鹿」というわけですね。また、桜の枝は切り口から腐りやすいため剪定してはならず、梅は剪定しないと樹形が崩れてしまうということが、このことわざの由来でもあるようです。」と書いていた。 (『家庭教師のファミリー』)なるほど。 自閉症と書いてあるけれど、発達障害、知恵遅れもある感じの50男・忠男が主人公。障害者差別やグループホームへの偏見も、ステレオタイプで、記号的にしか描かれない。性善説に基づくような話で、ラストもなんとなく“ほのぼの”で終わっているけれど、実は問題はなにも解決していない。これから降りかかる様々な課題をどう乗り越えるか。それには、何の答えも用意されていない。 忠男は自力で作業場に通っている。作業場へは徒歩なのか、知らんけど。馬が好きで、途中にある飼育場の馬に近づきすぎ、飼育係の女性には嫌われている。母親も70過ぎて、忠男のグループホーム入居を決断する。忠男は嫌がるかと思いきや、ごく素直に入居する。問題は、数字とくに時間へのこだわりで、起床、歯みがき、食事など、決まった時間に始めないと気が済まない。ときおり騒ぎ出すけど、悪気はない。 グループホームに反対運動があるのは、あまり聞かない。問題行動の多い人は少ないからなのかな。でも、この映画では、あるように描いている。これは、根拠があるのかな。運営について話し合いぐらいはあるだろうけど、いまどき、露骨に反対する方が社会的に問題化されるんじゃないのかな。 とはいえ、隣家の息子につれられ忠男が飼育場(あれは、なんなんだ? 乗馬センターかなんか?)に入り込み、見つかって逃げようとして、馬が逃げるという事件があった後は、グループホーム前でプラカード持った近所の人が反対!の声を挙げるんだけど、まあ、実際にはあんなことにはならんだろう。映画的誇張だ。 映画の意図とは逆に、いろんな意味で、障害者やグループホームへの差別意識を助長しているような気がするんだけどね、この映画の表現って。 同時に進行するのは、隣に越してきた3人家族(神経質で細かい亭主、おおらかな妻、父親嫌いの息子・小学生)との交流で、忠男を飼育場に連れ込んだのは、ここの息子。引っ越しのとき落としたボールを持ってきてくれたことで忠男に親近感を持ち、あれこれ構ってくれるようになる。でも、小学生が忠男のような奇妙なオッサンと友達になるというのは、現実的ではない。子供は正直で、残酷だから、もっと冷ややかな眼で見るし、露骨にバカにすると思う。まあ、楽観論と性善説でつくられている映画だからしょうがないとは思うが。 ところで忠男はボールを持っていったとき無断で家の中に入り、事情を説明する前に夫婦に追い出されてしまっている。危ない隣人、という印象しかないよな、これじゃ。とはいえ、あとから家の中にボールを見つけた妻は、「もってきてくれたの…」と、親切心とは分かるんだけど。無断で他人の家に入ることの是非などは分からない様子の忠男。さて、どうつき合うか、隣人としては気が重いはずだ。 隣人と忠男・母親の珠子との和解は、馬の事件がきっかけになっている。要は、息子が忠男を誘った、ということが分かると、隣家の父親は怒りのやり場がなくなってしまうと言うわけだ。なんか、ムリくりな解決法で、馬の事件がなければ、隣家と交流が始まることはなかったような気がする。原因が息子、というのも話の都合でしかないし。とはいえ、まあ、隣家の父親の、珠子・忠男への差別感も薄まって、グループホーム反対の署名にも参加せず、人間らしいところがあったのね、てな感じでラストへとつながっていく。都合がよすぎる話だなあとは思うけどね。 でまあ、結局、グループホームとしては問題児は置いていけないことになり、ふたたび実家に戻って珠子との生活。隣家も偏見が薄れて…というところで終わってしまっている。じゃ、珠子が倒れたり認知症になったりしたらどうするんだ? という問題は放置のままかよ。グループホームの運営も、結局、周囲の住人に気を使ったままの状態、というのも変わらない。要するに、何も変わっていないのだ。これで果たしていいのか? ・忠男は「お嫁さんが欲しい」といっている。性的処理は大きな問題なんだけど、ここも放置のままだ。 ・珠子が忠男の爪を切るとき、手を出せ、の意味で「ちょうだい」というのが、東京の昔の言葉なのかな。なかなかいい。シナリオではなく、加賀まりこのアドリブなのではないかな。 ・この映画、なんか映画自体に差別感が感じられるんだよな。題名の『梅切らぬバカ』というのも、深い意味を知らずに読めば、梅の枝を切らない屋敷に住むバカ、ととれないことはない。道路に突き出た枝を切らないのは、伸ばしておくと授粉しやすいから、と珠子は言っていた。ほんとうか? 隣家に言われて切ろうとしたら、忠男が身体で反応して結局、切らず。忠男にとっては、自分の身体のようなものだから? この関係は、よく分からない。それと、グループホームを出るとき、廃品回収車とすれ違う。忠男は、廃品という意味にも取れるけれど…。あえてあそこで廃品回収車とすれ違わせる意図がよく分からんな。 | ||||
マイ・ニューヨーク・ダイアリー | 5/10 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/フィリップ・ファラルドー | 脚本/フィリップ・ファラルドー |
アイルランド/カナダ映画。原題は“My Salinger Year”。allcinemaのあらすじは「90年代のアメリカ。作家を夢見てニューヨークへとやって来たジョアンナ。老舗出版エージェンシーに就職した彼女は、J.D.サリンジャー担当の女性上司マーガレットの編集アシスタントとして働き始めることに。そんな彼女に割り振られた仕事は、毎日世界中から大量に届くサリンジャー宛のファンレターを処理すること。ところが、熱烈な文面の数々に心打たれたジョアンナは、定型文での返信に抵抗を感じ、独断で丁寧な返信をしてしまう。そんなある日、予想もしなかったサリンジャー本人からの電話を受け取るジョアンナだったが…。」 Twitterへは「出版代理店の新人アシスタントが、サリンジャーと…。仕事も恋愛もドラマらしいドラマもなく淡々と進むのでちと退屈。突然妄想が入ったり、ミュージカルになったり、理解できないところも少なくなくて、うーむな感じかな。」「サリンジャー曰く。「15分でもいい。毎日、書きつづけなさい」。なるほど。」 冒頭から、彼女は誰で何しに来たのか、とかいうことが何となくしか伝えられない。作家になりたくてNYにやってきた、のは分かった。NYの友人のアパートに居候で、故郷につきあってる彼はいるけど、でも、できたら仕事をしたい。なので仕事斡旋所に行くと、作家志望は言うな、出版社はムリ、エージェントなら、募集してる、とかいわれて面接して合格するんだけど。この経緯も、アバウトなんだよね。面接で確かロンドンの大学の修士卒と言っていたけど、故郷はイギリス? と思っていたけど、よく分からない(原作者のジョアンナ・ラコフの経歴見たら、ニューヨーク州生まれ、オハイオ州の大学を卒業し、ロンドンで修士号、と書いてあった)。友人女性とはどういう関係? 家族は? 何するつもりでNYに来たんだ? とか、よく分からない。あと、NYにやってきて書店員ドンに声をかけられ、詩の朗読会みたいなのに誘われ、なんか知らん間にいい仲になって、エージェントに勤めだしたら同棲はじめるし。なんとなく、だらだら、淡々と話が進んでいくので、どーも身が入らない。 そもそもサリンジャーやアガサ・クリスティの代理店なら志願者も多いだろうに、なんで簡単に合格しちゃうのだ? そうそう。面接のときにソファで雑誌読んでた爺さまが、マーガレットの愛人だったのか? あの爺さまの正体もよく分からんまま話が進んで、後半で自殺してからやっと妻ある爺さまで、その爺さまの世話を妻とマーガレットがしていたとか、明らかにされたり。なんだよ。いらいら。 エージェントの同僚たちも、社長のマーガレットとヒューは分かるけど、あとはアバウト。なんか、いろいろ、雰囲気で分かれ的なシナリオと演出なんだよね。こういう映画は、見ていていらつくんだよ。 ドントの同棲は、まあいい。と思っていたら、いつのまにか友人は作家をあきらめて田舎に引っ込んじゃってフェードアウト。ってか、友人の彼女、なにか創作活動してたっけ? ドンは小説書いてたけど・・・。 でまあ、エージェントでは、サリンジャーへのファンレターの返事書きなんだけど、これがすべて定型文で、「サリンジャーは返事を書かない」というもの。これをいちいちタイプしている。なんで? コピーすりゃいいじゃん。ムダな作業だなあ。 でも、毎度定型文を送るのはつまらない。ファンレターを読むと、心情的にアドバイスしたくなって、つい、サリンジャーのつもりで代筆し、返事を書いたら、受け手の娘が怒鳴り込んでくるという事件もあったりして。やれやれ。サリンジャーのファンはややこしいのが多い。 なんてやってるうち、サリンジャーからの電話を取ったりするようになるんだけど、とくに感慨も表情に表さない。なんで? もっとドキドキしろよ。人嫌いで隠遁しているサリンジャーと言葉を交わす緊張感はないのか? という話とは別に、サリンジャーが田舎の出版社と話が進み、出版するかも知れない話が進むんだけど、あれがよく分からない。エージェントより先にサリンジャーに接触し、話がまとまるのか? その後、サリンジャーがどっかの大学の学食でこの出版社の社長と会食し、別れる場面もあるんだけど、ここにジョアンナも、同席はしないけど立ち会うんだよね。あの役割も良く分からない。 あと、ある童話作家が近作を持ってきたけどマーガレットとの話の後、怒って帰ってしまったくだりも、よく分からず。でもあとからマーガレットに「なんで帰ったと思う?」と聞かれ、ジョアンナが「売れる売れないじゃなくて、マーガレットさんがどう思ったかを聞けなかったからですよ」的なことを言い、なんとか経緯は分かった。けれど、これももやもやしたぞ。 と思っていたら、突然ジョアンナの前に現れる青年!? しばらくして、あれはジョアンナには見えているけど、妄想というか、イメージなのか? というのが2回ほどあって、2回目では、その彼が、壁に並んだ作家の写真の1人だったようだけど、あの作家は、だれだっけ。 と思っていたら、どっかのレストランの通路でだったか、ジョアンナは突然、踊り始める。これも妄想の一部なのか。ミュージカルとは驚いた。なんか、いろいろ散漫な感じしかしないんだよねえ。 だけど、そのうち仕事もうまくこなせるようになり、マーガレットの信頼も得てファンレター係からエージェントとしての仕事も任されるようになるジョアンナ。でも、サリンジャーからは電話で「君は作家志望なんだろ?」といわれ「だったら毎日書きなさい。15分でもいいから、書く習慣をつけなさい」と言われ、自作を書き上げる。で、持ち込んだのは、どっかのパーティで会った「ニューヨーカー」だったか「ニューヨークタイムス」の編集者、だったかな? で、デビューするんだろう。 彼氏のドンにも三行半をつきつけ、作家として自信を得たジョアンナは、未練なく、エージェントを辞めてしまう。日本なら、自分を育ててくれた人や組織に恩を感じて、ああ簡単にはやめられないだろうなあ。何とまあ、いさぎいいこと。それにしても、なんとなくアバウトに、だらだら、な感じで輪郭が茫洋とした映画で、いろいろ、もやもが多いのだった。 ・通りを歩いていたら、建物の窓からマーガレットの愛人の爺さまに呼ばれてレストランに行き、最近読んだ生きている作家の小説の感想を聞かれ、あやふやに応えてると同席していた女性が「あの本の意図は…」と語り出し、それに対して「そんな深い意味があったかしら?」と言うと、周囲が「彼女はあの小説を書いた本人よ」といわれて恥をかくのも面白かった。けど、それだけ、なんだよね。エピソードが生きていない。 ・退社を決めたジョアンナ。ある日、サリンジャー本人が来社していて、そのコートが掛かっている。ここでジョアンナのイタズラ心。ファンレターをサリンジャーのコートのポケットに突っ込んでしまうのだ。これまた、エピソードだけに終わっていて、もったいない。その後の、受け取ったサリンジャーの後ろ姿も見せればいいのに。 | ||||
死刑にいたる病 | 5/11 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/ 白石和彌 | 脚本/高田亮 |
allcinemaのあらすじは「鬱屈した大学生活を送る筧井雅也は、思いもよらぬ手紙を受け取る。それは、24人も少年少女を殺害したとして世間を震撼させている稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。すでに一審で死刑判決を受けている榛村だったが、雅也は中学時代に地元でパン屋の店主をしていた彼をよく知っていた。その榛村が、最後の事件だけは冤罪だと主張し、ほかに真犯人がいることを証明してほしいと雅也に依頼してきたのだった。その願いを聞き入れ、独自に調べ始める雅也だったが…。」 Twitterへは「なぜ彼は面会に行って調べ始めるの? 母親の姓と同じことに気づいてたんだろ? 心理的に人をあんな具合にコントロール出来るの? 燃やしたら臭うだろ。その他、ツッコミどころ満載のサイコ殺人話。頭で構築しただけでリアリティはない。」 いまいち、カリッと迫ってこない映画だった。最初は雅也の祖母の葬儀の場面で、なぜか父親との仲がよくないらしい、と分かる。では、この、学校長だった祖母が話のカギになっているかというと、そんなことはなく。せいぜい、遺品の中の1枚の写真が関係しているぐらいなのだ。しかし、息子の嫁=雅也の母親がある女性の養女で、同じく大和もその女性の養子だったことを示唆する写真を、なぜ祖母が持っていたのだ? と考えると、不自然ではないの? しかも、話の中では、雅也自身の実の父親がもしかしたら大和かも知れない、とミスリードするために使われているのだ。なんか、話のつくりとして、嫌らしい気がするんだよね。 で、久しぶりに帰省した雅也は、自分宛の封書を発見する。差出人は、大和。内容は「自分が殺した24人のうち9件が立件されているが、中に1人、自分が殺害した事件ではないものがある。誰も信じてくれない。それを調べてくれ」というもので、この手紙に反応した雅也は、早速、弁護士事務所に行き、調書を閲覧するのだ。けれど、雅也と大和の関係がうやむやのまま話が進むので、どーも素直に受け止められない。雅也が「調べよう」と思った動機は、なんなの? 実は、雅也は、大和に拉致され拷問されたけど途中で逃亡した少年の現在、かと思っていた。ところが、話も中盤にさしかかったあたりで、やっと、大和が獲物にしようとしていたけれど、当時はまだ小学生か中学生で、幼すぎて対象ではなかった。けれど、将来的には、と思い、目をつけていた子供だったことが明らかにされる。では、雅也は大和逮捕後、警察から尋問されたりしたのだろうか? されなかったとしても、あのパン屋の店主が…。とは思ったはずだ。せいぜいその程度。ではあるけれど、身近で接した殺人鬼からの手紙に反応し、調べ始めるのか、どーも納得がいかない。それがクリアになっていないから、映画全体ももやもやしてしまうのだ。 大和の弁護を担当している弁護士の対応も、「え?」というような感じ。ふらっとやってきた雅也に資料の閲覧を許し、さらに、バイトということで事務所で働いていることにしてくれているのだ。そんなのあり得るの? しかも、持ち出し禁止、閲覧のみ、と言われているのに雅也は資料をスマホで撮影し、被害者の顔写真や現場写真も持ち帰っている。なんなんだよ、おい、この展開。 この間、大和の犯行の様子や被害者の遺体写真、動画が度々映るんだけど、これがムダにグロ。爪はがしの場面などは目を背けたくなる。大和の異常心理に迫るならまだしも、そこに迫るアプローチはまるでないのだよね。少年少女が気の毒、としか思えないようなシーンばかりだ。 そうして、大和の依頼に応じて小菅の拘置所に面会に行き、大和の主張を聞かされることになる。そもそも、大和がどうやって雅也の住所を知ったのか? そして、手紙の内容も、検閲に引っかからないのか? そして、面会時に、弁護士でもない相手と殺害状況やその他、事実認定に関係するようなことを話してよいものなのか? 最初の頃、面会立合の担当者が注意したけどそんなのは無視。でも、力づくで制止されることはなかった。後半の方で、大和は人を心理的にコントロールするのが得意で、拘置所職員の娘に勧める書物を挙げ、感謝されたりしていたけれど、そんなことで職員の心がゆるむものなのかい? 雅也は勝手に弁護士事務所の名刺を作成し、9人の中で異様に年齢の高い26歳女性の殺害現場を訪れたりしている。たまたま訪れた現場の山林。そこで、タイミング良く山林の所有者が犬連れでたき火しているのに遭遇し、現場を案内してもらっていた。2度目に訪れたときも、犬連れの婆さんと会っているけれど、偶然にしても話ができすぎだろ。大和の家を訪問したときも、近所の爺さんが案内してくれたり。これまた出来すぎで鼻白む。 この大和の家を見て、遺体を焼いた現場が畑のすぐそばで、人家も近いことが分かるんだけど、あんな所で人を焼いたら、かなり強力な火でなくては臭いも発生するだろうし、大和が木の根元に埋めていたように、サラサラの灰にはならんだろう、と思ったのだった。 それになにより、主な被害者が小さな街のパン屋のお客だったにもかかわらず、被害者の1人が逃げ出すまで大和に疑いの目が向けられなかったのが、不思議。しかも法廷で大和は、被害者が逃げ出さなかったら逮捕されなかったろう。もういちど同じ犯罪を行ったら、逮捕されない自信がある、と述べている。バカか。警察も、大和もね、と思った。 で、ここから話は雅也の個人的なことが絡んできて。母親が祖母の遺品を整理している場に出くわし、先に述べたように、母と大和が同じフレームに収まっている写真を見つける。なぜこの写真を祖母が保管していたのか。雅也が簡単に見つけた写真を、遺品整理していた母親が、なぜ見つけられなかったのか? 疑問の方が大きすぎる。 で、調べていくうち、大和はある女性の養子であり、雅也の母親も同じく養女だったことがわかり、でも、雅也の母親は妊娠が発覚して養女先から消えた(んだっけか?)ことが判明する。もしかして、自分の父親は、大和? という疑惑に苛まされる雅也。面会では、あたかも父親であるかのような態度で雅也に対する大和。話の気持ち悪さがエスカレートするんだけど、母親の告白や、あれこれ(何だったか忘れたけど)で、雅也の父親は現父親であることが分かりはする。だけれど、妊娠した幼子を始末したのは、大和と雅也の母親で、河辺あたりで焼いたようなイメージが映る。では、雅也の母親は後悔の念に苦しんでいる様子があるかというと、まるっきりそんな風には見えない。これまた大和の心理作戦で、始末したというのは嘘なのか? まさか、雅也の母親の妊娠もフェイク? なんだかよく分からない。しかし、血縁でないから父親から嫌われていると思っていた雅也の気持ちはどうなるんだ? 実子なのに嫌われていたということか? そもそも、雅也の父と母は、どういう縁で一緒になったのだ? 得体の知れない妊娠と、子供の始末の直後に結婚した? あー、まったく分からん。いらいら。 で、16、7歳が被害者ばかりの中で26歳の女性が被害者になっている件も立件されているが、これは自分とは違う、と大和は主張する。これについての調べも雅也は行っていく。女性の勤務先、行動、女性へのストーカー行為があったことなどが分かってくるんだけれど、そのストーカーと小菅拘置所で遭遇している疑惑が沸いてくる、というか、観客にそう見えるような、わざとらしいつくりになっている。この件は、大和が小学生低学年の少年兄弟を操り、互いにカッターで傷つけ合う行為をさせていた、というエピソードがあり、その兄の方の、顔に痣のある方が長じて某会社に就職したけど痣を隠すために髪を伸ばしていていて、上司に非難されたとか言う話になり、さらに、出入り先の企業の女性のストーカーになっていた、ということにつながるらしい。そして、相手を指差し、「あいつを傷つけてくれ」ということにつながり、長じてその顔痣の方が大和に、ストーカー相手を指さして指示したとかいう話になっている。話が長すぎやしないか? というか、大人になってもそんな心理コントロールの支配下にあるものなのか? と思うと、頭でひねくりだしたムリくりな話にしか見えなくて、ちっともリアリティがない。なので、26歳の女性を殺害したのも大和なのか。あるいは、そう主張しているだけなのか。いやまて、当初は、あれは自分の犯行ではないと言っていたではないか。と、混乱するばかり。もやもやはエスカレートするばかりなのだ。 で、ラスト。雅也の高校時代の同級生で、大学で再開した女の子と、ツンケンしながらも結局身体の関係になっていくんだけど(という展開もムリくりで、あんな陰気な雅也のどこに惹かれたのかまったく分からない。だって、女の子は大学のチャライ連中と仲よくしてたんだぜ。それがなんで?)、最後に雅也の部屋で、封筒から裁判記録とか写真の束をゴソッと出して広げて、すごいよねえ、とかいうようなことを雅也に言うんだけど。あれはいったいなんなんだ? 雅也の知らぬ間に、こそこそ雅也の調べていた事件についてみていたということなのか? なんか、あれが衝撃的なことのような感じで映画は終わるんだけど、どこが衝撃的なのか、よく分からない。 ほんと、すべてにモヤモヤする映画だったな。 ・24人殺した、と自供しているのに、9件立件されないの? なんでなの?・雅也の母親が中山美穂。上品なオバサンになっていた。 | ||||
ツユクサ | 5/16 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/平山秀幸 | 脚本/安倍照雄 |
allcinemaのあらすじは「海辺の田舎町で一人暮らしをしている49歳の五十嵐芙美。気の合う職場の仲間たちとくだらなくも楽しいおしゃべりをしたり、“親友”である10歳の少年と遊びに出かけたりと、明るく日々を過ごしていた。ある日、車を運転していて、隕石と衝突するというあり得ない事故に遭遇し、それを幸運と喜ぶ芙美。そんな中、草笛が上手な男性・篠田吾郎と出会い、思いがけない恋の予感に心揺れる芙美だったが…。」 Twitterへは「前半のおばさん3人の掛け合い、芙美と少年とのかけひきは、セリフも洒落ててふんわり楽しい。でもそれが後半に生きてなくて失速してる感じ。隕石は、二十世紀はどうした? 暗い過去を引きずらなすぎる芙美の陽気さも、ちと違和感あるし。」 人間と、エピソード、からできてる感じかな。隕石が串になっているようにも見えるけど、でも、関係しているのは芙美と航平と、ブローチにしてくれた断酒会会長しかからんでこないから、実質的に串にはなってないだろ。 ほのぼのタッチだけど登場人物はみんないろいろ訳ありな。繊維会社ではたらくおばさん3人のうちの、映画の主人公芙美は息子を電車の事故で無くし、流れ着いてこの街のアパート暮らし。まあ、元の街にいられなくなった事情もあるのかも。にしては前向きににこやかすぎて、現実味がなさ過ぎだろ。造船所?で働く亭主もちの直子は、こぶ付き後妻らしい。亭主に懐かない息子の航平は、なぜか芙美にはべったり。まあ、芙美が息子のイメージを投影しているのは分かるけれど、年頃の少年がオバサンに懐くというのは、リアリティがない。妙子は、亭主に死なれてひとり暮らしの40女らしい。ただいま、亭主の法要を担当した寺の住職とつきあっている。めぐまれてる順に言うと 直子>妙子>芙美かな。この3人の、柔軟体操や埠頭での昼飯雑談の会話がいろいろ絶妙でいい。 対する男たちは、みんな人がいい。直子の亭主なんか、その典型。妻を愛し、血のつながってない息子・航平にも愛情を注ぐけれど、航平はいつになっても「オジサン」としか呼んでくれない。つれないね。繊維会社の工場長は、妻に逃げられ、台湾までお見合いツアーに行ったけど成果なし。太極拳だけ覚えて帰ってきた。妙子がつき合っている坊主(桃月庵白酒)は、蘊蓄好きで、でもそんなエロ坊主でもなさそうで、いい感じじゃないか。 芙美はアル中で断酒会に入ってる。まあ、亡くした息子のことが原因か。にしてはとくに荒れてなくて、これもきれい事な描き方。断酒会の会長が瀧川鯉昇で、ときどき飲んで意識を失うけれど、人のために断酒会を運営していて、いろいろあるんだからたまには飲んでもいいじゃないか、なんて理屈をこねたりする。アル中の怖さがおちょくられてるなあ。でも、鯉昇さん、いい役者ぶりだ。桃月庵もね。 芙美の行きつけのバーのマスターは、元捕鯨船に乗ってたらしいけど、マイペースすぎる爺さんだ。泉谷しげるが地で演じてる感じで、あまり役割が機能していないかな。で、欝の妻の自殺がきっかけで歯科医をしばらく休業し、この街で交通整理のバイトのようなことをしている吾朗さん=松重豊(役名は井之頭五郎からきてるのか?)。芙美といい感じになる相手役ではあるけれど、だからどうした的な役割しか果たしてなくて、いまいち魅力が平板だよね。 それぞれに肩に重荷を背負っていながら、ここまでほのぼのしていると、暗さもほとんど感じられない。同じ設定で、いくらでも重く、暗いシナリオは書けるだろうけど、あえてそうしていない。まあ、嘘くさいおとぎ話を狙ったからなんだろうけど。でも、引っかかりが少ないんだよね。ざらつきというのか。みんなきれい事にしちゃってて、底が浅いまま、みたいな感じなのだ。とくに、話が転がって行くはずの後半が、グズグズになっちゃってる。 隕石がほとんど機能していないのがもったいない。たんに芙美のクルマに激突し、横転させただけなんだもの。修理工場から、エンジンの中に隕石が、なんて帰ってくるのかと思ったら、さにあらず。航平と一緒に浜辺を漁って簡単に見つけてしまうのは、肩すかしすぎだろ。しかも、どういう伝手なのか大学の研究員に調べてもらって太鼓判。ひとかけもらった芙美は、いいことあるようにとブローチにしたんだけど、隕石って簡単に穴が開くのか? で、そのおかげなのか、ジョギング中に見かけた吾朗と行きつけのバーで知り合い、ゴーヤのお裾分け、お返しの空心菜、その空心菜をアパートで調理して食べてもらって、いきなりキスってのかなんなんだ? 帰りがけに「キス、していいですか?」って、吾朗、どういうオッサンだよ。芙美に、亡き妻の面影を見たとでもいうのか? で、芙美もその気になってしまうのだから、尻が軽すぎるだろ。リアリティなさ過ぎで、うーむ。まあ、前半の、ブレーカーが落ちる、をキスの場面で活かしているつもりなんだろうけど、あのとき、そんなアンペア使ってなかっただろ! あと、航平の幼友達なのか、女の子の二十世紀。気になる存在だったのに、航平とのからみは最初だけで、別のクラスのなんとか君を海に突き落としたり、山中のUFO建築(実物? ミニチュア合成?)の中でキスしていたり。航平には気の毒な展開ばかり。もう少し切なく盛り上げて欲しかったな。もったいなさすぎだろ。 で、港町での生活でケジメがついたのか、東京に戻って歯科医を再開する吾朗。そこに、奥歯の虫歯を指摘されていた芙美がやってきて、これからここで治療が始まるのか、と思ったら。なんと、海辺の街に戻った芙美は、あっさりと隕石ブローチを海に捨ててしまう。これで、ロマンスごっこはオシマイ、とでもいうように。まあ、そしたら海にクジラが登場して潮吹きを見せる場面はあるけど、これは捕鯨船に乗っていたマスターが見たという話としか関係ないはずで、意味不明。と思ったら、岸壁に吾朗がやってきていて。ロマンスもつづく、のように見せるんだけど、なんかちぐはぐなんだよねえ。しかも、吾朗の方に向かって走る芙美が、まるで海に飛び込むようにジャンプする場面でストップモーションになって、映画は終わる。なんだよこのエンディング。後半になって話しの交通整理ができてない、というか、いろいろ破綻しかけてる。 そして、題名にもなっているツユクサ、そして、草笛はほとんど機能していない。たんに、草笛好きの吾朗、というだけの話。草笛でなんでもこなせるという吾朗に、芙美は、母親がよく口ずさんでいたから、と「あなたの心に」をリクエストする。この意味も、不明。そして、エンディングロールに流れるのが、中山千夏の「あなたの心に」なんだけど、なんか、もう、いろいろバラバラになってきちゃってるなあ。前半はとっても面白かったのに。 それにしても、中山千夏の「あなたの心に」。はじめは、誰かがカバーしてるのかと思ったら、当時の本人が歌ってたものらしい。なんか、印象が違うんだけど。義父ととともに、転勤先である新潟に向かう航平を、駅のホームで抱きしめるのは、この歌の歌詞からきてるのかね。うーむ。 | ||||
ほんとうのピノッキオ | 5/25 | ギンレイホール | 監督/マッテオ・ガローネ | 脚本/マッテオ・ガローネ、マッシモ・チェッケリーニ |
原題は“Pinocchio”。allcinemaのあらすじは「ある日、貧しい木工職人のジェペット爺さんが丸太から人形を彫り出すと、それはいきなりしゃべり始めた。驚いたジェペットは人形をピノッキオと名付けると、我が子ができたと喜び、彼を学校へ通わせようとする。ところがやんちゃなピノッキオは、移動人形劇の一座に潜り込み、そこで団長に捕まってしまう。“人間になりたい”と願うピノッキオは、おしゃべりコオロギの忠告に耳を貸すことなく、その後も危険な大冒険を重ねていくのだったが…。」 Twitterへは「“ダークな”というから原作をリアルに新解釈、かと思ったらほぼ原作に沿ってるのではないか?(原作忘れてるけど…) 要は実写というだけだ。マンガなら飛躍や省略もあまり気にならんけど、実写はそうはいかん。つまらんので大分寝てしまったよ。」 見終えてから時間がだいぶたってしまった。話も、よく覚えていない。は、さておき。「ほんとうの」とタイトルにあるので、童話とは違う視点で、たとえばリアリズム的な解釈で裏の意味をブラックに見せていくものかと思ったんだよね。ところがアイロニーとか、教訓とか、そういうのは薄くて、単に絵が実写に置き換わっただけ、に見えるのだよね。そのせいで、絵なら許せる非現実な展開、話の飛躍、矛盾点などが、露骨に見えてきてしまうのだ。たとえば「するな」といわれることをしてばかりで、その結果、苦境に陥ってるピノキオは、手のつけられないバカにしか見えない。たまたま入ることになった人形劇団の団長が突然ピノキオに金貨5枚くれて、オヤジのところへ帰れ、と言うんだけど、なんでぇ? とかね。生身の人間(ではなくて人形ではあるけれど)ならぶちあたる苦悩、困惑、判断、選択、などがまったく見えてこない。どこにも共感するところがないのだ、話の展開にまったく興味がもてないのだ。なわけで、凸凹2人組(こいつらも極悪なのかアホなのか)に騙され、金貨を埋める、とかいってるうちに眠くなり…。気づくと海岸みたいなところに寝ていて、婆さんが助けてくれて、大人になった妖精に会う手前辺りで目が覚めた。なので、子供の妖精は見ていない。 でまあ、起きてからはおおむね見たんだけど、基本的な話は、あまり覚えてないけど童話のままで、それを生身の人間が実写でやってる、のは変わらない。相変わらず、話にヒキはない。ピノキオはバカなままで、大人の妖精が「明日あなたは人間になる」といっているのに、悪ガキ仲間そそのかされ夜中に脱出し、通りかかった荷車(御者が子供をたくさん乗せている)に飛び乗り、御者の家へ。すると翌日、子供たちはみなロバに変身し、売られてしまう。このエピソードも、御者は誰? なぜロバに変身するのか? が描かれていない。これが何かのメタファーなら、それを感じさせる何かを見せてくれないと、納得はできないよなあ。 で、ピノキオはサーカスに売られ、芸に失敗して海に放り投げられてしまう。投げ込んだ芸人は「皮は太鼓にしよう」っていってけど、だったら溺死させるより、首でも切った方が効率的だろうに。で、溺れんとするロバ(ピノキオ)の周りになぜか魚が集まり、ロバはピノキオの姿にもどって逃げていく。なんでピノキオに戻ったんだ? と思ったらサメに食われ(クジラじゃないのか? 原作も)、胃の中に入るとゼベット爺さんがいて。ピノキオは爺さんに「一緒に逃げよう」というのだけれど、爺さんは嫌がる。でもムリやり一緒に口から海に飛び出て逃げる。その後、どうやって逃げたんだっけか? 突然、大人の妖精が登場し、叱るでもなく、人間にしてくれて、これでハッピーエンディング、らしい。なんかなあ。 ★最近のギンレイは、なんか変な映画をよくかける。これが名画座でみる映画か? くだらねえ。 | ||||
教育と愛国 | 5/31 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/斉加尚代 | 撮影/北川哲也 |
allcinemaの解説は「先の戦争の反省を踏まえ、政治から距離を置くことが重要とされてきた教育現場で、“愛国心”を教えることが求められるなど、政治の圧力が日増しに高まっている衝撃の実態を、歴史教科書を巡る攻防を軸に描き出していく。監督は毎日放送ディレクター」 Twitterへは「パン屋が和菓子屋になるのは変だと思う。でも以降の慰安婦や強制連行の話はどうどうめぐりな感じ。作る会や大阪・吉村知事の反論にも一理ある、と思えてくるのだ。イデオロギーからの主義主張でなく、客観的で学際的な追求が欲しかったかな。」「なんて感想を書いているとお前は右かと言われそうだけど、右でもなければ左でもないのよね。そういう枠組みでしか人や物事を見られないのは、哀しいことだと思う。特定のイデオロギーにしばられると、物事が見えなくなるんだと思う。」 最初は、教科書の中の街のイラストの差し替えの話だったかな。当初はパン屋のイラストが和菓子のイラストに変わってしまったというのは、バカな話だと思う。和菓子が日本の伝統だからこちらを押したらしいけど、バカげてる。西洋発祥のモノがダメというなら、お前ら洋服は着るな和服にしろ、銃はやめて日本刀で戦え、と思うよね。 それから、日本書籍の話か。他社慰安婦を抑え気味にしたのに、日本書籍は逆に大々的に取り上げ、非難を浴びて採用されなくなり、ついには倒産、らしい。でもこれは、日本書籍が時代の流れを把握できてなかった、ってことではないのか? いや、もちろん、そういう流れだからあえて慰安婦押しにしたのかも知れない。でも、そうするとどうなるか、が見えなかったってことだよな。もっと上手い方法があったんじゃないのかね。日本書籍。と思ってしまった。 で、教科書の流れと、自虐的な歴史批判から登場した、作る会の教科書。そして、作る会の分裂。一方で、慰安婦問題にページを割いた教科書も登場。でも、慰安婦を大きく取り上げた教科書を採用した学校に非難ハガキが押し寄せ、学校がびびってしまった、なんていう話が紹介される。ここで、非難ハガキを本名で書いた2人がインタビューに応じる。1人は籠池氏で、もうひとりは安倍を尊敬しているというどこかの市長、だったかな。でも、2人ともその教科書はロクに読んでなくて、市長は「尊敬する人(安倍だろう)に頼まれたからやった」と正直に話す。このあっけらかんさに拍子抜けだ。深い思惑などなく、義理で書いた程度のことなのだ。学校はびびったかも知れないけれど、萎縮していてもしょうがないよなあ、と思った。なんか、腹が据わってない感じ。 この後、慰安婦を強調した教科書に、河野談話が掲載された事例も紹介される。おいおい。そもそも河野談話は、そのときの内閣の判断を公式にしたということであって、内容が正しいという訳ではないよね。もし、内容が次第に明らかになり、解釈の幅も広がったら、それは訂正してもいいものではないのか? 間違った事実に基づく見解が、訂正されずにいる方がおかしいだろ。現在は、軍の関与はなかった、というのが政府の公式見解なのか? なこと言ってたような。もちろん、軍の関与があったという資料も見つかっている話もあると思うんだが。要は、まだまだ研究の余地がある、のだろ? そうしたことについて、「従軍慰安婦として強制連行された」と断定してよいものなのか。自主的に私設の慰安婦に身体を売った女性だっていただろうし、日本人の慰安婦もいた。そういうことは、映画『兵隊やくざ』とか『独立愚連隊』にも描かれているけど、実態はどうだったのか。そういうことを追及・研究してほしいのだよね。 反日的な論文を書く女性教授に助成金をだすのはどーのこーの、という話もあった。でも、彼女の論文の内容はまったく紹介されず。学術研究の助成金を停止するのはいかがなものか、と本人は言っていたけど、紹介・検証すべきはその論文の中味ではないの? もしその内容が学問ではなくイデオロギーなら、それは問題だろう。イデオロギーに金が出るなら、右翼的な主義主張をする学者にも助成金を出さなくちゃバランスが取れない。 作る会系列の教科書を執筆した京大だか東大の教授が登場する。監督は、「歴史から学ぶ必要があるのでは?」と問うのだが、教授は「ない」と応える。この教授もアホだな。学ぶものはいくらでもあるはず。で、「ない」と言われた監督が「たとえばなぜ日本が戦争に負けたとかは?」と再度問うのだけれど、教授は「そりゃ弱かったからでしょう」と応えて話は終わってしまった。これ、監督の質問が下手すぎだ。「なぜ日本は勝てる相手でもないアメリカに対して宣戦布告したのか? 戦争犠牲者をなくすため過去の歴史に学ぶ必要があるのでは?」てな感じで質問すりゃあよかったんだ。なんか、切れ味が悪いし、相手が言葉に詰まるような質問をしなくちゃダメだろ。 大阪の女性教師が従軍慰安婦についての授業を中学生(だっけか)に向けて行っているという新聞記事の話。これについて大阪府の吉村知事がTwitterで「いかがなものか」というようなコメントして女性教師と学校が炎上する。で、吉村知事は会見で記者の質問に応え「炎上させたのはあなたがたマスコミだ」「従軍慰安婦について語るのなら、反対意見もあることを紹介すべき。両論併記にすべきではないの?」な感じで応えていた。それは、その通りだと思う。なぜなら慰安婦問題の事実関係はすべて明らかになっているわけではないのだから。であれは、議論になっている、と教えるのが正解だろうと思う。また、女性教師が学校で新聞社の取材に応えていたことも問題になっていた。この女性教師は、自分や学校名が新聞に載ることで騒ぎになるとは考えなかったんだろうか? 考えが幼すぎないか。覚悟の上での自説主張ではなかったのか? もちろん、なんでも自由に主張できる環境が望ましい。当然だ。であるなら、反論も自由にできるのが当然となる。それが、バランスというものだろう。Twitterの罵詈雑言や右翼街宣車のがなりは、では、法律で規制すべきなのか? そこまではできないだろう。 傍から見ていると、慰安婦問題も、徴用工の強制連行も、ちゃんとした研究に立ってなくて、あらかじめもってる自説、立場、イデオロギーに沿って互いに発言しているように見えるんだよね。学問的に見えても、自説に都合のいい証拠を集めて論を立てている、ような感じ。こちらとしては、より事実に近づく研究が知りたいのだよ。 従軍慰安婦を「慰安婦」に、強制連行を「連行」or「徴用」にする程度で大もめするのも、なんだかな、な感じ。従軍をいれたいのは、軍の関与を明確にしたいということなんだろう。でも、すべての慰安婦が軍と行動を共にしたわけでもないのではないのかな。表記するなら、「軍の指揮下にあった慰安婦も一定程度存在した」というような感じなのか? 知らんけど。だから、それを調べて欲しいんだよ。そもそも、いつから「従軍慰安婦」と呼ばれるようになったんだ? 戦中も、すべての慰安婦は「従軍」が冠されていたのか? それとも、後に誰かが言いだした? そのあたりも知りたい気がする。 だいたい、慰安所は戦前・戦中ともに多くあったのに、その経営状態がなぜはっきりしないのだ? 朝鮮人の割合や、慰安婦になった経緯もあやふやなのは、なんでなの? という疑問はつねについてまわる。 それと慰安婦については、朝日新聞社の吉田清治による記事のねつ造(と言われている問題)については、一切触れられていなかった。この監督は、あの件についてはどう思っているのだろう? ねつ造ではないと思っているのか? そのあたりのスタンスも、はっきりして欲しいよね。強制連行も、同じ。進んで朝鮮からやってきた労働者=徴用工もいたはず。それをすべてが連行されたかのように一面的に表現することは、はたしてよいことなのか? 要は、慰安婦も徴用工も、その実体はまだ解明されていないんだろ? だったら、論議されているところ、と正確に書くのがいいんじゃないのかね。 慰安婦の像も登場した。別にあの手の表現があっても構わんと思う。だけど、あれをアートであるといったり、「平和の少女像」と呼ぶのは違和感がある。だって外見はチマチョゴリで慰安婦を連想させる像だ。展示が断られるからといって「表現の不自由」というのなら、では、ナチズムや日本帝国主義を賛美するシロモノをアートと称して展示することも、表現の自由として守られるべきなのか? それは違う、というのなら、それは特定のイデオロギーが表現の自由に守られているということになって間尺に合わんよなあ。 右翼もがなり立てるだけじゃなくて、天皇陛下万歳の像とか大東亜共栄圏賛美の作品でもつくって、こいつも表現の不自由展に参加させてくれ、とでも言えばどうなんだ? 日本学術会議に推薦を断られた学者も登場していた。これも隔靴掻痒で、日頃から彼らがどういう主張、発言をしていたか、が絵としてでてこない。これでは、観客としては判断に困るよね。 そうして思うのは、こうしたあれやこれやの背後にいる自民党や、安倍晋三、その他、あれやこれや。彼らは自由選挙で選出されているわけで、選出しているのは日本国民。ということは、多くに支持されていると言うことだ。では、なぜああした発言や考え方がいまの日本で支持されるのか? 教科書の検定や道徳の授業も、国民が反対すれば違ってくるはずではないか。それが変わらないのは、多くの日本国民が悪いというのだろうか? 少数派である自分たちの方が正邪をちゃんと判断できていて、国民はバカだといっているのか? などということを考えてしまう映画だった。 |