2022年11月

窓辺にて11/7シネ・リーブル池袋シアター1監督/今泉力哉脚本/今泉力哉
allcinemaのあらすじは「フリーライターの市川茂巳は、編集者である妻・紗衣の浮気に気づいてしまうが、怒りの感情が湧き起らなかったことのほうに悩んでしまう。そんなある日、とある文学賞の受賞者である高校生作家の久保留亜と出会い、受賞作に惹かれた彼は、モデルがいるなら会わせてほしいと頼むのだったが…。」
Twitterへは「今泉力哉の手になる『ドライブ・マイ・カー』の前半部分、みたいな感じ。会話主体の展開は苦手なので、どんなことが話されたのか、もう忘れてる…。『街の上で』みたいな仕掛けも少なく、ちと面白みに欠けるかも。途中まで紗衣と なつ を混同してた…。」「とはいえ話の構造は『街の上で』とほとんど同じで、登場する人物もウェイトは違えど似たり寄ったりの感じなんだよね。素材は同じで、調理法を変えた感じかな。」
作家で、いまはフリーライターの亭主は妻の浮気に感づきながら怒りも感ぜず嫌いにもならず、淡々と見守っている…。という設定は、『ドライブ・マイ・カー』の初めの方の逸話を連想させるよね。今泉力哉は、同じような設定なら自分ならこういうドラマにするけどな、な感じで物語を創り上げていったような気がしてしまう。
『街の上で』と比べると話が淡泊で、コメディ要素も少ない。真面目。サブキャラで気になるような存在もあまりいない。淡々と、主にみなの心が離れつつある様子を描いているので、あまりワクワクしないのだよね。誰かが、『街の上で』は選ばれなかった人たちの物語、と書いていて。ああ、その通りだな、と思ったんだけど。比べると『窓辺にて』は、壊れ行く関係を描いているようにも見えた。とはいえ、『街の上で』との、キャラの共通性は高くて。『街の上で』に登場したキャラが役割と名前を変えて配置されているようにも見える。今泉力哉は、手持ちの話が少ないのか? それとも、意図的に同じような話を繰り返し描いているのか。今泉の抱えている要素として存在するキャラの、誰、を主役にもってくるかで、別の話が1つできあがっていってる感じがする。
主人公の茂巳は、『街の上で』なら同棲相手が浮気して出て行ってしまった古着屋の店主に相当しそう。茂巳の妻・紗衣はでていっていないけど、担当作家と浮気を重ね、最終的には離婚するのだから。もっとも、『街の上で』の同棲相手は最終的に戻ってきて、元の鞘に収まるのではあるけどね。
そんな茂巳の心の穴を塞いでくれるエキセントリックな存在が、新人女流作家の久保になるのかな。久保の方から茂巳に興味を抱き、ホテルの自室に招いて、以後、男女としてではないけれど、たびたび話し合う関係になる。この久保は、『街の上で』なら、衣装を担当した娘に相当しそう。『街の上で』は娘が主人公に同情しつつ自室に招き、明け方まで自分たちのつき合ってきた異性について話し合う。これなど、久保が自分のつき合っている彼氏=水木についてはなしたり、あるときはラブホにこもっている久保に呼び出され、ひと晩話したりするシチュエーションに似ている。
その、久保の彼氏である水木は、『街の上で』の古着屋にやってきた妙なカップルの彼氏に重なる。彼は、意中の人に告白するためのTシャツ選びに、2番手の女を同行させてきた。結局告白は失敗し、その2番手女とつきあうことになるのだけれど、この関係は『窓辺にて』の、別に好きな女ができたからと久保を降るけれど、最後に関係が戻る久保と水木の関係に相当しそう。
の売れっ子作家で茂巳の妻の浮気相手である荒川は、『街の上で』の有名俳優を演じた成田凌か。
引退を考えているサッカー選手(?)の有坂は、『街の上で』ではすでに死んでいる古書店主で、有坂の妻は、古書店主と不倫関係にあったかも知れない娘、というのはこじつけがすぎるかな。
『街の上で』の、女優の姪に惚れてるという妙な警官の役割は、『窓辺にて』では、競馬は時間も金も使う贅沢な遊び、などと自説をまくしたてるタクシー運転手がになってる感じかな。でも、警官は2度目の登場があって、そこもまた面白いのだけれど。
『街の上で』の女性監督は、有坂の妻の芯の強さ引きつがれているのかな。
という具合に、似ている存在、関係性が見えてくるのだよね。
とはいえ、あてはまりにくい存在もいる。有坂の浮気相手のモデルなつ はただの浮気相手でそれ以上には登場しない。久保の両親について話してくれた彼女の叔父(?)のカワナベも、1シーンだけ。主人公の義母(なんだよね?)ハルは、2度かな、登場するけどとくに機能しているわけではない。そして、この人たちは『街の上で』には登場しないようだ。
逆に、『街の上で』で登場する喫茶店主、マンガ持参の下北観光娘、バーのマスター、そこにくる元相撲取りの役者志望デブ、衣装担当娘がつき合った相撲取り(?)といったキャラは『窓辺にて』には登場しない。のだけれど、これらの、どちらかというとあまり機能せず、ムダにも見えるキャラこそ、『街の上で』の物語性を豊かにしてくれていた存在のような気がする。こうしたムダな存在が『窓辺にて』には少ないので、それで面白みに欠けるように思えたのだね。
久保は、「信頼があるから関係性が保てる」とかなんとか本で書いていたんだっけか。でも、そんなことをいいつつ、現在進行形の彼に振られてしまう。信頼も一方的なら、関係性は壊れてしまうと言うことか。
茂巳と妻の関係は、すでに壊れている。茂巳の、妻への想いは最後までよく分からない。茂巳の妻と、作家荒川の関係も、どういうものなのかよく分からない。関係をつづけることで、つまらないけれど売れる小説を書かせるため、なのか? なことないよな。どちらが求めているのか、これまた不思議な関係で、だからなに? 的だ。この関係は、最後には壊れたんだかそのままなのか。よくは知らないけど、荒川は茂巳とその妻・紗衣との関係を小説に仕立て、やっと自分の書きたい物が書けた、と言わしめている。他人夫婦のそんな話を書いて、それが文学的に価値があるのか、よく分からない。というか、荒川は、茂巳と妻・紗衣の関係をどこまで知っていて小説にしたのだ? という疑問の方が先に立ってしまう。まあ、「壊れる」の理屈でいうと、不倫関係が壊れて優れた作品が誕生した、ということなのかな。
有坂の夫婦関係は、壊れそうだったけれど、夫が浮気をやめることで(不倫関係が壊れる)、夫婦関係は元に戻った、ということなのか。でも、あの妻は、夫の浮気を心から許せているのかどうか、怪しい。
茂巳と妻・紗衣が離婚したことによって、茂巳と義母の関係もきっと壊れるのだろう。
久保の両親、家族はすでに壊れまくっている。久保は、成功を捨てるような人物を小説に登場させているらしいけれど、それは意図的に「壊す」ということなのか?
パフェが登場する。茂巳と久保が喫茶店で会ったとき、一法的に「パフェ2つ」と注文して、茂巳も困惑しながらパフェを食べる。久保が「パフェ」の意味を尋ねると、茂巳は「パーフェクトの意味。完璧なお菓子のこと」と答える。「知っている人、初めて!」と感動するんだけど、そのパフェを食べるということは、完全な状態を壊していくことだよな。対象を壊すことで、食する人は満足を得られる。でこのパフェ。最後の方で久保の彼氏が茂巳と会うときにも登場する。彼氏は、関係を元に戻したがっている。茂巳が、久保の考えだったかな、を彼氏に伝えたら、彼は遺産で席を立って、久保のところに向かったのかな。1人なった茂巳は、あらためてパフェを注文する。久保と彼氏の壊れた関係がもとにもどることの象徴として、パフェが登場するのかしらん。
で、この映画に登場した、あれやこれやの意味ありげな言葉、会話。そのほとんどを、すでに忘れている。哲学的問答のようでもあり、どうでもいいような話でもあり。ただ、耳から入って、すぐに抜けていってしまった。それでいいんじゃなかろうか。それほど含蓄のあるようなことは言ってなかったような気がする。「人生のケジメ」なんていうこともどこかで誰かが言っていたっけか。茂巳の妻・紗衣が編集した荒川の小説について、茂巳は「僕には必要ない作品だった 」とかるく言ってのけていた。まあ、とくに重みも何もないよね。
・茂巳は、久保の小説に登場する人物のモデルに会いたくなるんだけど。この好奇心に、とくに説得力はないよな。描かれている「成功を捨てるような人物」がどんな人物なのか、なぜ知りたいのか? 妻の浮気を知りながら放置している自分と、「成功を捨てるような人物」とがどう重なるのか、それがよく分からない。尋ね歩くことで、自分の何を発見しようとしたんだろう? しかも1人は水木というチャラい兄ちゃんだし。もう1人は、テレビ業界(だっけ)に嫌気が差していまは山の中のロッジで1人で暮らす叔父だったりする。語られるのは、久保の母親だったか父親が失踪したまま、というようなことぐらい。これで茂巳は、何を得られたのだ? よく分からんぞ。
それに、『窓辺にて』の、壊れいく関係を見るよりも、もしかしたら恋に発展するかもしれない? と思わせるような『街の上で』の方が見ていて楽しい。『街の上で』には、元同棲相手、学生映画監督、衣装担当、古書店バイトなどなど、主人公の周囲にはいろんな女の子がうろうろしていた。一方『窓辺にて』では、妻は浮気中だし、まさか久保とどうにかなるとも思えないし、なつ は有坂の浮気相手だ。達観して恋の可能性のない茂巳より、女の子に翻弄させられてる『街の上で』の古着屋店主の話の方が、見ていて楽しいじゃないか。その意味で、『窓辺にて』にはあまり惹かれなかったのだよね。
・最後の、久保が彼氏に渡す小説は、荒川が書いた茂巳夫婦の曝露もの? それを、本を読まない彼氏に読ませる意味、期待する効果は何なんだ? 
・有坂の浮気相手を、ずっと茂巳の妻・紗衣かと思って見てた。関係をやめよう、これからはマックス焼肉、といいつつ、またまた関係してしまった場面で、有坂が彼女を「なつ」と呼んでいたので、あれ? 違う人物か、とやっと気がついた。妻・紗衣役の中村ゆりと、なつ役の穂志もえかが、似てるんだもの。
線は、僕を描く11/08109シネマズ木場シアター8監督/小泉徳宏脚本/片岡翔、小泉徳宏
allcinemaのあらすじは「深い悲しみに暮れる大学生の青山霜介は、水墨画の巨匠・篠田湖山と偶然の出会いを果たし、霜介の中に何かを感じた湖山によって弟子に迎えられる。水墨画を学び始めた霜介は、改めてその難しさに戸惑いつつも、線のみで描かれるシンプルな芸術表現の奥深さに魅了されていく。そんな霜介に対し、湖山の孫娘で自身も水墨画家の千瑛は激しいライバル心を募らせていくのだったが…。」
Twitterへは「突然、水墨画の世界に連れ込まれた青年が開眼していく話。高校スポコンの亜流かと思ったら結構シリアス。水墨画はよく分からんけど自然に世界に入り込めた。伏線もうまく回収してるし、話に意外性も。ジメジメしてないのもいい。」「とはいえ場内は観客3人とは残念。売り方を間違えてないかな。江口洋介がよかった。」
水墨画は、よく分からない。東博なんかで見ても、どこがいいのか、どこに技術があるのか、なんてことがよく分からない。そもそも墨の濃淡だけで描かれる絵に、あんまり興味がない。もそも、墨の濃淡だけでそう絵がうまく描けるわけがない、と思ったりしているところもある。でもたまには、ほぉ、と思うようなのに出会うこともある。そういうのはディテールを描くと言うより、墨の勢いというか、ささっ、と描いたものが多い様な気がする。というのが前提としてあって。さて、映画だけれどど。基本は高校スポコンの範疇だけど主人公は学生で、コメディ要素はほとんどなくて割りとシリアス。なので、フツーの青春モノに近いような気がする。
何が因果か、水墨画のイベントのバイトにやってきていた霜介が、たまたま出品されていた花の絵を見てちょっと感動。とはいえ、なぜに? とは思うよね。で、その場で人間国宝の湖山がライブで描くという際に近くで見ていたら、壇上から降りてきた湖山に「弟子にならない?」と誘われるって、どういう展開だよ。マンガかよ、と思ったんだけど、その理由は後半で明かされるので、なるほど。たまたま霜介が花の絵を見て落涙している姿を湖山が目撃し、この子なら、と思ったということらしい。経験もない白紙の状態の青年が水墨画を始めたらどうなるか? が見たかったようなのだ。とはいっても見て感動するのと描くのとでは大違いなはず。思いつきにしてもやりすぎだろ。まあ、湖山も、水墨画の現在とか、スランプ状態の孫娘に対するブラフ的なところもあったのかもしれないけど。
で、千瑛は霜介と同年齢ぐらいかと思ったら、彼女は高校生なのか。それが人生かけて水墨画にかけているというのは、なんかオソロシイ世界だな。フィクションとはいえ。で、最初は、なんでこんな素人を、とナーバスになっていた千瑛も、なぜか丁寧に霜介に手ほどきを始め、なんとなく和気あいあいになっていくのが不思議。ドラマ的にはもっと対立とか、あってもいいはずなのにね。
千瑛がなぜスランプなのかはよく分からんけど。察するに、彼女は写実を追い求めすぎて、心で描くことを忘れているような感じなのかな。それを見抜く女流評論家(冨田靖子がやなババアを演じてる)が登場するけど、果たしてそんなことが絵を見て分かるのかどうかは、知らんよ。でまあ、湖山の名前を冠した展示会で、湖山が倒れてしまう。観客はそれを知らず、でも、賓客として外国の大臣を呼んでいるのでライブで水墨画を描く、をせねばならんところで、誰だったかが千瑛に代筆を求める。ところが女流評論家が反対。では、と、それまで下働きかのように登場していた江口洋介=湖峰という名らしい、が自ら登壇し、龍を描いてしまう。どうやら湖山の一番弟子らしいけどずっと描かずに家事をしたり作業の手伝いをしていたらしい。この登場のさせ方は、なかなか上手いね。ずるいともいえるけど。
でまあ、その後は、はっきりした何かがあるわけではないんだけど、霜介は練習を重ね、千瑛もまたスランプを克服し、なんとか賞で霜介は新人賞、千瑛は大賞を受賞するという、まあ順当な展開で終わるのだった。そこそこ清々しいけど、いまいちパンチがないというのかな。
霜介がいくぶん陰気なのは、故郷の水害で両親と妹(だっけか?)を亡くしているというのが後半に明かされるんだけど。それで水墨画に集中できた、というものでもないし。なんか、唐突な感じでもある。
あと、この手の話に不可欠なロマンスが足りないことか。霜介と千瑛はそんな雰囲気がさっぱりだし。大学の、水墨画サークルを立ち上げる美嘉もそんな感じではない。お調子者の巧は、千瑛を可愛いと言っているけれど、どうにかなるわけでもない。なんか、メンツはそろっていても話の進展では中途半端すぎなのだよね。
それと、この手の話に必要なライバル。難敵。のような存在もいない。あるのは、自分の心。ということなんだろうけど、図式化できる分かりやすさではない。そのあたりに、見終えて残るところが少ない理由があるのかも知れないかも。
夜を越える旅11/09新宿武蔵野館2監督/萱野孝幸脚本/萱野孝幸
allcinemaのあらすじは「漫画家の夢を諦めきれずに半ばヒモ生活を送るフリーターの春利。ある日、学生時代の友人たちと1泊2日の旅行に出かけるも、応募していた漫画賞の落選を知り自暴自棄に。そこへ、かつて想いを寄せていた小夜が遅れて合流してくるのだったが…。」
Twitterへは「冒頭からの流れはいい感じで、小夜と再会して三途の川の橋を渡りかけるあたりの奇譚的ファンタジー感はよかったんだけど、そっから突然の異世界オカルトホラーに突入して安っぽくなってしまう。いろいろ作り込みが足りなくて、もやもやしか残らんぞ。」
前知識ゼロ。タイトルもポスターもロマンチックな感じなので、男女のぐだぐだ話かなと。ところがどっこい、前半部分はワイワイガヤガヤ、後半はがらりとテイストが変わってホラー。なんだこれ、な感じ。漫画家志望の春利が大学ゼミ仲間と一泊旅行に出かける流れは、目をつむってじゃんけん(伏線になってた)とか、タマネギがダメとか、饒舌な小ネタも面白い。とはいえ会話が聞き取りにくいのが難点で、もっと面白いこと話してたのかもね。
ロッジについて、ワイガヤで昔話。誰と誰が結婚したとか、あれ、関係ある話なのか? よく聞き取れなかったけど。のうち寝静まって。ふと春利が目覚めると来る予定ではない小夜がやってきて(これが、話に出ていた、今回は用事があって来れないと言っていた友人なのか? と思っていたんだけど)、2人で深夜の散歩。夢幻的でなかなかいい感じ。※予告編では仲間も小夜に挨拶してるんだけど、そうだっけか。よく覚えてない。
小夜は何度か映る過去映像にもチラリと出ていたかな。あと、小夜メインでの回想場面もあったな。なので、ほんとうに小夜がやってきていたと思ったんだけどね、始めは。
でも、石橋に出くわして、渡れるのかな、なんて話していると、たもとに爺さんがいて。「渡れるよ」と答えたあたりで、ああ、これは三途の川にかかる橋なんだろう、と分かった。爺さんは「向こう岸でいつも石揉みをしてるよ」と何気なく言うんだけど、悪さを(引っ張り込むような、とか)する様子もなく、春利と小夜も「じゃあ」といって戻って行く。早朝、小夜は他の友人ちと会うこともなく「変える」といい、春利は駅のホームで見送る。このあたりまでの、異世界に足を踏み入れかけるあたりのテイストはとてもいい。
のだけれど、宿に戻るとテープルの上に、餃子みたいのが3つ皿にのってあるんだけど、あれは揉まれた石? ただの餃子? と、春利は、いきなり、ひゅーっ、と空中の穴に吸い込まれて消えてしまう。おおお。なんだこれ。このCGは、突然『寄生獣』の世界が飛び込んできたような感じ(お笑いな感じ)で、意表を突かれたかな。
で、気づくと、遊園地のコースターに乗っていて、向かい側には顔の真っ黒な女がいて、髪をどかすと目が黒かったり。洋館でいたぶられるようなイメージがつづいたんだけど、あまりよく覚えておらず。ここで、死にたくなかったら●(来ていた友人の1人)を身代わりに、今日中に殺せ)と言われたんだったか。
翌朝、目覚めて●とは違う友人に、「昨晩、小夜がきた」というと、寝ぼけてるのか? と言われてしまう。すべては夢の中。そして、友人たちと別れるのだけれど、春利は●と話を始める。
●は、「俺も来るときの車中で小夜の夢を見た」という。●は、春利を身代わりに殺せ、とは言われてないんだよな? たしか。で、春利が、●を殺さないと自分が死ぬというと、●も焦って霊媒師のところに行く。ちゃらい霊媒師は、「忘れろ。考えると入ってきて狙われる」とかいうのでカラオケ行ったりするんだけど、頭に浮かんできてしまう。というところに霊媒師から電話で、除霊師が会ってくれるからといくと、坊主とあと2人いて除霊を始めるんだけど3人とも自死してしまって唖然。と思ったら、この3人は●の仕込みで、ただの脅し、と分かるんだけど、それは本当のことなのか? 
ホラーと言いつつどんどんドタバタな感じになって、テイストはチープになっいてく。そして、つじつまも、テキトーになっていく。ひれが残念。
そもそも大学時代、春利と●と小夜には何があったのか? 春利は小夜とつき合っていた。その後、別れて小夜は●とつき合った。●は、いま、この旅に来ている別の女ともうすぐ結婚予定。仕事も順調。いっぽう小夜は2年前ぐらいに縊死。の、理由がまったくでてこない。つまり、春利も●も、小夜に祟られる理由があるのか否か。語られていない冷酷なことを、春利と●がした? という示唆がまるでないのだよね。霊媒師が恐れを抱くほどの怨念が、小夜にはあるのか? あるなら、小夜の夢を見た時点で春利も●もビビるんじゃないのか? でもそんな雰囲気はない。むしろ、春利は小夜を懐かしがっている。
春利と●は、どちらが死ぬか、で話し合う。フツーなら、自分が生き残るために相手を殺すだろうに、そうならない不可思議さ。2人は、死なない程度に石で頭を殴り合ったりするんだけど、ありゃ何のため? クルマの上に血液みたいな粘液が落ちてきたり。よく分からん。で、最後はジャンケンでどっちが死ぬかを決めることにして。ここで、春利は目をつむってジャンケンして負けて、崖から飛び落ちるを選択するんだったよな、たしか。人のためにそんなんで死ねるのか? 疑問。
でも、死ぬ前に遺書を書くとこにして、自作マンガのコピーの裏面に経緯をつらつら書いていると警官がやってきて誰何され。時間を聞くと、当日を過ぎた12時何分かになっている。あ、死ななかった…。と呆然とする春利。なんだそれ。じゃ、異世界に引き込まれてあれこれ言われたことはみな幻なのか。
ラストは、なぜか知らんが、自室でマンガを描いている春利、と終わってしまった。えーっ。遺書がわりに描いたマンガがコンテストに入賞したとかいうオチはないのかよ。
それに、後半には友人たちは登場せず、ほぼ春利と●のドタバタホラー。友人たちを活かすホンにすべきじゃないのか? あと、どっかの居酒屋? みたいな過去イメージが何度も流れるけど、ありゃなんなんだ? 春利と現在の同棲相手の関係はどうなってるの? とか、いろいろ隔靴掻痒。やっぱ、そういう細部の作り込みが足りないというか。いや、前部バラせというんじゃなくて。思わせぶりがもう少しあってもいいじゃないか。春利にとって、小夜の夢が悪夢ではなく、いい思い出なのはなんなんだよ。
・ゼミ仲間と行く大きな洋館のロケ地は、どこなんだろ。庭園にいる友人たちは、『去年マリエンバードで』を連想させる様式的な配置だったり。
・運転席の春利の首を助手席の方にひねった男の手は、あれは誰の手? ちょっと笑ってしまった。助手席には小夜がいて、声が男の声になるのは不気味だったけど。
声/姿なき犯罪者11/10新宿武蔵野館2監督/キム・ソン、キム・ゴク脚本/ ペ・ヨンイク
英文タイトルは“Voice”または“On the Line”。allcinemaのあらすじは「妻が振り込め詐欺の被害に遭い大金を失った元刑事が、危険を顧みず詐欺組織への潜入を図り、巨大な敵を相手に壮絶な復讐へと突き進むさまを、詐欺集団のリアルな実態と迫力のアクションを織り交ぜスリリングに描き出していく。」
Twitterへは「韓国映画。大規模な振り込め詐欺組織に挑む元刑事の奮闘なんだけど、冒頭の事件はいいとして、以降の、単独で潜入して大活躍!な部分は大雑把すぎ、というか都合よすぎる展開で、イマイチ爽快感がないのだよね。」
冒頭の、建設現場での事故がらみの事件に仕組まれた大規模詐欺の手口は、なかなか。とはいえ、あの落下事故も仕組まれていたのか? 詐欺集団の仲間は、刺青の男(彼が携帯の電波攪乱をしたのか?)以外にも複数潜入していたということなのか。元警察官のソジュンの妻が、ソジュンの保釈金だかを振り込んだのは、わかった。でも、それ以外の社員の給料が盗まれたのは、なんだっけ? 社長が、効率のいい保険金かなんかにつられて加入したんだっけか? じゃあ、ソジュンの妻の件はついで?
で、ソジュンは現場の監視カメラ映像から、首に刺青の怪しい男を見つけ、その入れ墨を彫った男を特定する。刺青男は人買いのようなことをしていたという情報を得て…。次は、その刺青男が東南アジア人をトラックに積み込み、自身は別の車で同行している映像で。その刺青男のクルマに、ソジュンは体当たり。刺青男から、パク本部長という名前を聞き出すんだが…。おいおい、刺青男の動向を、ソジュンはどうやって知ったんだ?
パク本部長の存在を警察に言うが、「知ってる。監視中だ」というつれない返事に、ソジュンは単独で韓国内にある詐欺集団の本拠地に潜入。なんとも簡単かつ都合よくパク本部長に接近するんだが。警察もまたこの本拠地に踏み込まんとしているところで。発覚を察知したパクは有り金もってトンズラを図るが、警察に囲まれる。ソジュンはパクを庇って逃げさせて、自身もまんまと逃げ出して。パクのクルマで逃げるんだっけ? あいまい。ソジュンはパクに「中国で働きたい」と訴え、さらに大規模な中枢に潜入する。ここは150人もの韓国人が詐欺集団のコールセンターになっていて。ここではまず下っ端で。仲間に、あれこれ質問攻めで、そんなことしてたら不審がられるだろ、という心配はほとんどなくて、みな知ってることをあれこれ話してくれるというご都合主義。さらに、上の人間に取り入るため、仲間が金を盗んでいることをチクったり。なことして、やっと、最初に弁護士として電話に出て来た男を確定するのだが。妻がスマホで話した相手=弁護士との会話、つまり、落下事故が起きて旦那=ソジュンが警察に逮捕された。保釈金を振り込め的なことをアドバイスした弁護士との会話なんだけど、それをソジュンは何度も聞いているのだよ。え? フツー、スマホでの会話なんて録音するか? しかも、あんな動転しているときに? という、基本的な疑問があるんだけどね。
しかし、組織のなかにいろんな役職と人物がいるので、しかも韓国名なので、誰が誰でどういう役割なのか、混乱してくる。クァク本部長? チョン本部長? ミン室長? なんとか管理部長、ファン社長…。これでオシマイかと思ったら、最後はなんとか会長まで登場する。わけわからなくなってくる。中国組織のトップがクァクだったかな。メガネのやさ男で、元フィナンシャル関係が破産してダークに蘇ったにしては雰囲気なよなよ。そのライバル的な存在がチョンだかミンだかどっちかで、社長に覚えめでたさそうないかついやつ。でも映画はクァクの変態ぶりばかり描いて、チョンorミンはただ存在してるだけ、な感じで。もうちょっと役割と人間を描いたらいいのにね。
という組織の最末端の電話番に潜り込み、でも、なんだかんだで上司につけいっていくソジュン。奥にある顧客(被害者?)情報に接近しようと工作して潜り込み、請け出し業務の情報の一部を知り合いのハッカー女にPCから送るんだけど、はじめは何をしているのかよく分からなかった。なことしててダクト経由で脱出するんだっけか? でも、天井ダクトから飛び降りて、あの、開いたままのダクト穴はどうするんだ? だけど。
その後は、なんでたったか忘れたけど拘束され、でも、逃げようとしてクァクと争ったり。な、なかでチョンorミンはクァクに刺殺されたり。組織内の対立もあるようで、このあたりをちゃんと描き込めばいいのになあ、とか。あと思ったのは、働く末端の連中が、ひんぱんに札束をこっそり自分のモノにしてたりすることだな。その多くは見つかってたけど、管理の杜撰さはひどすぎないか? 
な、あたりからアクションな感じになっていき。どうもソジュンはアジトの位置データを外部(警察? ハッカー女?)に送ろうとしていた、のか? これはスマホから?
で、クァクが企んでいた計画は上手く行かず? 別のシナリオで詐欺を実行することになって。なんか、企業入社試験の合格発表をねつ造し、信用調査会社に幾ばくかの金を納入しろ、とかいうやつだったかな。とはいえ、仕組みや送金先についての分かりやすい説明はないので、なんとなく想像するだけなんだよね。たぶん、架空の信用調査会社の口座はいくつかつくられ、そこに騙された人たちが送金する。別働隊がCDから降ろしてまとめる。それを組織から取りに行く輸送部隊がいる、のかな。その1つの場所を、ソジュンはハッカー女と、いまは彼女と行動しているパクに連絡。2人は輸送部隊に化け、金を受け取りに行くが本来の輸送部隊とかち合わせてしまい…。で、ここに警察も介入するんだったか? いや、韓国警察が中国国内で自由に行動してるのが不思議なんだけど。
で、ソジュンはクァクにボコボコにされ、えーと、なんか屋上で乱闘してたな。結局、撃てたけど撃たず、クァクは家韓国警察に連行されてたんだったか。ついでにファン社長も逮捕されていた。なあたりで、ああ、この組織の役職は大手企業の役職を模しているのかといまさらながらに気がついたけど。室長というのは社長に近いのか。
詐欺被害にあって、そのうえ交通事故で大けがしたソジュンの妻も順調に回復し、ソジュンの被害額や、ソジュンの属していた建設会社の社長が引っかかったニセ保険の被害額ももどって、給料はちゃんとでるようになったんだっけか。さらにソジュンは警官に復帰して、めでたしめでたし。そういえば、ソジュンは大臣の息子だっけか、を逮捕して警察を追われたんだったか。汚職国家韓国らしい設定だ。
でも話はここで終わらず、持ち出した顧客情報(だったか?)を、会長のところにもちこむ男が最後に描かれる。あの男って、中国の組織で、最初はソジュンを「兄貴」と呼んでいたけど、肝心な時に裏切った若者か? 顔がよく分からなかったけど。
てなわけで、アクション度が高いんだけど、がちゃがちゃと因果関係がよく分からん展開も結構多くて。あのあたり、きりっと整理できて、ああなるほど感がでると、よかったのにね。ていうか、あんな大規模な詐欺集団は実際にあるのか? という疑問があるんだけど。
・韓国の組織でソジュンが手に入れたUSBメモリ、の情報はあまり意味がなかった、のかな?
パラレル・マザーズ11/14ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ペドロ・アルモドバル脚本/ペドロ・アルモドバル
原題は“Madres paralelas”。allcinemaのあらすじは「フォトグラファーのジャニスは考古学者のアルトゥロと出会い、彼にスペイン内戦で亡くなった親族の遺骨発掘について相談し、これをきっかけに2人は深い仲となっていく。やがて既婚者であるアルトゥロの子を妊娠したジャニスは、シングルマザーとなることを決意する。出産を控え入院した病院で、ジャニスは17歳の妊婦アナと出会い、彼女もひとりで出産すると知り仲良くなっていく。やがて2人は同じ日に女の子を出産し、再会を誓い合って退院する。その後ジャニスは娘と対面したアルトゥロから“自分の子とは思えない”とDNA検査を要求され腹を立てる。しかし気になって検査したところ、実の子ではないという衝撃の結果を突き付けられてしまうジャニスだったが…。」
Twitterへは「冒頭にNetflixマーク出たんだけど、配信するって話は聞いてないんだが…。本筋はよくある感じだけど、取って付けたようなサイドストーリーが印象的で、ラストはちょい感動した。本筋と併せて、書き換えられない家族の系譜の話だった。」
↑のあらすじはよくできていて、その通り。とはいえ深い仲になってセックスシーンがあった次のカットが産婦人科で出産間近、という、いつもながらの省略の多いザックリ進行だけど、むしろダラダラとくどい説明がないのはいい。
この映画、その9割ぐらいが赤ん坊の取り違えの話で、でもそれは手垢の付いたネタだから取り立てて面白い展開があるわけではない。せいぜい、どうやって分かるか、分かったときの反応、対応はどうなるのか、だけど、それはこの手の話のバリエーションでしかない。
むしろ、1割ぐらいしか描かれない傍流の話、すなわち内線で亡くなった親族の遺骨発掘の経緯の方が興味深い。もちろん、取り違えの話も遺骨発掘の話も、血族の話しという意味ではつながってはいるけれど、遺骨発掘の話が、取って付けたような感じになっているのは否めない。なぜこんな体裁にしたのか、大いに疑問がある。遺骨発掘の話の話をもう少しふくらませて、発掘時にちょっとしか映らない、今も生きる親族をもっと登場させるとか、当時の様子をイメージさせる映像をインサートするとかしたほうがよかったんじゃなかろうか。とくに、こうした遺骨発掘事業は国家的な規模で展開しているらしいので、その点でも関心がある。それをアピールする意味でも、紹介ビデオにならない程度に見せた方がよかったと思うぞ。いまやスペイン内戦についても遠い話なのだから、なおさらだと思う。
話の本流は赤子の取り違えと、親子ほども年の違う2人の母親の交流なんだけど。たまたま仕事で撮影対象だったアルトゥロに、かつてファランヘ党に連れ去られ、虐殺され埋められた場所を掘り起こそうとしていることを相談する。スペインでは内戦時代に殺害された人たちの遺骨を特定・掘り起こす事業が国家的に進められていて、認定されれば支援されるようになっているのかな。そんな感じ。でその申請を勧められて、でも、どういう経緯かジャニスは妻子あるアルトゥロと一夜を過ごし、その後、遺骨発掘の件はいったん忘れ去られる。あとは、赤ん坊取り違えの話が延々と。
色黒でアラブっぽい顔つきなので、知人にもそのことを言われる。久しぶりに会ったアルトゥロも、「これは自分の子じゃない。調べて見ろ」といわれ、突っぱねはするけどもやもやは消えず。なのでDNA鑑定キットを配送で取り寄せ、自分と娘の口内からサンプルを採取し、返信。するとメールで鑑定書が送られてくる。これまでなら検査〜鑑定で数シーン使うところだろうけど、なんともあっさり進行する。もう、宅配やネットが大活躍だ。時代ね。
そしたら99.99…の確率で他人の結果。で、ジャニスがうろたえるかと思いきやそんなことはなく、いままでと変わらず自分の子のような様子で対応する。このあたりの感覚は、よく分からんな。
病院で同室だったアナとは、近所のカフェで偶然再会。店員をしていたアナから子供が突然死したことを知らされる。このときも動揺せず、「あ、そう」な対応なのが、どーも不自然な感じなんだけどね。で、現在の通い乳母に(イギリスからの留学生だったかな)不満をもっていたジャニスを、住み込みの乳母として雇うことにする。実の母親は乳母として実子と知らず面倒をみて、赤の他人のジャニスが2人の面倒をみる。妙な3人の同居関係だ。
この過程で、アナはあるとき本命の彼氏とセックスをして。でも、その映像を拡散するぞ、と仲間に言われ、本命彼氏の友人たち3人ともセックスをし、それで子供が生まれた、というようなことを告白する。いまどきのレイプ問題をさらりと入れたりして、社会的な話題として盛り込んでいく。けれどこの話はそれ以上にふくらまない。たんなるエピソードな感じかな。監督はあまり関心がないのかも。
共同生活はそこそこ上手く行くんだけど。あるときジャニスがアナに「自分の国のことを知りなさいよ!」と強く罵るところは、凄いなと思った。若い世代は内戦やフランコの独裁政治のこともよく知らない、ということなんだろう。フランコの独裁政治は1975年までつづいたようなので、ジャニスの世代は叔父や叔母に、親類が犠牲者になったケースもあって、身近な問題。この映画でも、ジャニスの親類はファランヘ党員に連行され、虐殺されたようだ。ただし、それがいつ頃なのかははっきり示されないので、よく分からんのだが。そう。そのあたりの、ジャニスの親族の誰と誰がどのように犠牲になったのか、をもっとちゃんと見せてくれたら、もっと共感できただろうなと思うのだよね。
で、ずっと黙っていたFNA鑑定結果をおもむろにアナに言うと、あら〜、な返事かと思ったら、なんと、「ずっと黙ってたのね」とアナは憤り、その場から赤ん坊を連れて行ってしまうのだ。なんか、ジャニスは割に合わないなあ、と思った。自分の子供をアナのところで、突然死とはいえ失い、さらに、他人の子をここまで育て、正直に話したら人非人扱いされる。アナがまだ10代だからなのか。それとも西欧的な考え方はこんななのか。とーも間尺に合わない展開だ。これって、裁判所に提訴すれば、ジャニスにも多少の権利はあるんじゃなかろうか。
というときアルトゥロから発掘の予定を聞かされ、作業が開始される。以降は、なかなかシリアルな映像で、迫ってくる。発見される遺骨。細長い穴に折り重なり、横たわっている。見守るジャニスの親族たち。親族たちが遺骨の上に重なるようにして横たわっているイメージ…。
発掘には、アナが子供を連れてやってきていたり、子供を連れて行ったときの素っ気ない態度はどこへ、だったけど。あとは後日談として、アルトゥロは離婚し、ジャニスと結婚。子供も生まれる、だっけかな。こうやって血族は受け継がれていく、な感じかな。
・そうか。ジャニスとアナは同居中に同性愛的な関係になるのだったか。忘れていた。でも、あんまりテーマとは関係ないかもね。
・アナが関係をもった何人かの青年の写真が出てくるんだけど、前の列の真ん中の青年がアラブっぽくて、彼の子供かな。アナの本命は、誰だったんだろ?
・生後すぐの子供の耳に、ピアスの穴を開けるのかよ。と、思った。
・キャノンボールのっていうかマイルスの「枯葉」、ジャニスの「サマータイム」がいいタイミングで、季節の移り変わりを告げていたっけ。
RRR11/15109シネマズ木場シアター1監督/S・S・ラージャマウリ脚本/S・S・ラージャマウリ
原題は“RRR (Rise Roar Revolt)”。allcinemaのあらすじは「1920年、英国植民地時代のインド。ゴーンド族の不屈の男ビームは、英国軍に連れ去られた村の少女を奪還すると心に誓った。一方、ある大義を胸に秘め、英国政府の下で警察官として働くラージュ。互いに対立する2人だったが、運命に導かれるように出会い、相手の素性も知らぬままに列車事故から少年を救い出すために協力する。これを機に友情を育み、強い絆で結ばれていくビームとラージュだったが…。」
Twitterへは「インド映画。評判いいらしいが…。謎含みの前半はヒキがあるけど、後半にさっさとネタばらし。なので受け身的に派手なCG見るだけ。しかも主人公の片方が、鬚あったりなかったりで、別人かと思うことしばしばなのも混乱した。」「英国植民地下のインドってわりと従順で安定してたように思っていたけど、思い込みだったのかね。あれだけイギリス人が横柄で残酷に描かれるのも珍しい感じ。中国や韓国の映画に見られるようなナショナリズムが多分に入っているのかね。国家が強国になりつつあると、こういう映画もできやすいのかな。」「エンドロールの踊りの中でで主人公2人がターバンを巻くのだけれど、え? シークなのか? そういえばインド警察は勇敢かつ従順なシーク教徒が多かったという記憶が…。でも、映画にはヒンドゥーの神の名前もでてなかったっけ? なんか、知識が足りず理解が覚束ない。」「そういや、銀座ナイルのオヤジもインド独立運動の闘志だったんだよなあ。」「「よく混ぜて食べてね」って、よく言ってた。」
この映画にはいろいろ欠陥があると思う。まずは、価値観の問題。
発端は、英国人総督とその妻が、ある部族の少女をはした金で奪い去っていったことなんだが、少女の価値はその歌唱力と、肌に細密な絵を描けるということのみ。なんだけど、彼女を奪還に来る同じ部族のビームに対して、英国側が多大な損失をものともせず、全力を挙げて戦う。インド人を殺すための銃弾一発を惜しむ総督が、なんで少女にこだわるの? 不自然すぎるだろ。
次に、顔の区別がつかないこと。
冒頭、革命派の人間が逮捕されたので、群衆がどこかの英国庁舎をとりまいて騒いでいる。どうみても圧倒的不利。ななかで群衆の1人が石を投げると総督の写真に当たる。それを見て英国人指揮官が「逮捕しろ」と命ずると、守っていた部隊の1人(顎髭なし)が群衆の中に突入し、数千人相手に格闘し、石を投げた相手を捕まえてくるのだが。その荒唐無稽さは、笑っちゃうぐらいだ。で、次に登場するのがオオカミを捕まえようとして虎を捕まえてしまう男(顎髭あり)で、これが少女と同じ部族の男ビーム、らしい。ビームは弟だか兄(顎髭あり)と、他の仲間とともにデリーにやってきて、少女奪還のために奮闘する。な、なかでビームの兄弟がどっかに潜入し、ある男(顎髭あり)に話しかけると彼は警官で、なにを疑われたか忘れたけどその男に追跡され、以後、その兄弟は指名手配されることになる。というなか、川で遭難しかけた少年をビームと、その男が協力して救ったことから2人は仲良くなり、義兄弟的につき合うことになるのだが…。以後も、ずっと、冒頭の警官、ビーム、仲良くなった男(ラーマ)の3人の男の話かと思っていたのだ。これが、「え?」となったのは、ラーマが実は警官である、とどっかで分かったあたりだと思う。群衆を相手にした警官は制服姿で鬚なし。ラーマはいくぶんふくよかに見えて鬚あり。同一人物には見えないよ。もしかして、最初の警官の名前がラーマだと、どっかで説明があったのかも知れないけど、そんなことは知らん。まあ、ビームとラーマも顎髭あるので最初は区別つきにくかったけど、次第にビームはふくよかで団子っ鼻なのでラーマと区別つくようになった。で、分かったときから頭の中を修正し、つじつまを考えていたんだけど。あれだけの働きをしながら3人だけ選ばれる成績優秀者に選ばれなかった後、ラーマはぐれたのか? なぜラーマは警官なのに顎髭姿であんな場所にいて、そんなラーマになぜビームの兄弟は声をかけたのか? よく分からない。
字幕に「兄貴」というのが多すぎる。たしかラーマとビームは互いを「兄貴」と呼んでいたような。そして、ビームは、彼の兄弟を「兄貴」と呼んでなかったか? だからなのか、人物関係が余計に混乱。同じような顔に見える顎髭男たちが「兄貴」と呼びあってちゃ、頭も混乱するよ。
というわけで。1920年代、イギリス植民地下ののインドが舞台。にしては、イギリス人がみな極悪人に描かれている。1887年が舞台の『ヴィクトリア女王 最期の秘密』、1947年が舞台の『英国総督最後の家』なんかでは、英国人に真摯に仕えるインド人が登場するんだけど、この映画ではそんなことはなく、インド人を人とも思っていないようなイギリス人ばかりだ。1人の、インド人にも親切な女性を除いては。
インド人による英国に対する反乱は、確かにあった。とはいえ、おおむねイギリスはうまく統治してきたような印象があるんだよね。まあ、上に上げた映画も西欧側の視点でつくられているから、そうなるのかも知れないけどね。はたしてインド側の視点で反イギリス的な内容を描いた映画があるのかどうか、はよく知らない。輸入されていないから知らないだけかも知れない。輸入されていても、知らないだけかも知れない、けど。
んでね。『RRR』でも、登場するのは大半がインド人なんだよね。警備する警官の大半はインド人だ。Wikipediaによると「シク教成立時より裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは、事実上の中間支配層と位置付けられ、官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出する事となった。現在でも、職務等で海外に渡航したインド人に、ターバンを巻いたシク教徒が多く見られ、その事がターバンの着用がインド人の習俗である、という世界的なイメージにつながった。」とある。ということは登場する警備兵・警官の多くはシーク教徒で、彼らは英国人に従順で、ヒンドゥー教徒を征圧してきた、または現在も上位にいる、ということなのかいな。などということを考えながら、反乱インド人を征圧するインド人の関係性を想像していたのだった。
ビームは掠われた少女と同じ部族の人間。少女はビームを「お兄さん」と呼んでいたけど、「兄貴」と呼ぶのはインドの風習なのか、真の血縁関係があるのか、よく分からない。それはいいとして、ビームに反植民地主義的な思想があるのかというと、大いに疑問ではある。地元に総督が訪れたとき住民は総督やその妻を歓待していたのだから。なのに、少女をはした金で掠われたというのは、怨念にはなっているだろうけど。
ラーマと仲良くなったビームはいつも2人で遊びまくっているんだけど。ラーマは警官の身分でなにをやってたんだ? 潜入捜査でもしていたのか? なときビームは親切な英国婦人ジェニーを見て惚れてしまう。ラーマはこれを応援し、一緒にクルマに乗れるようジェニーのクルマをパンクさせたりするんだが、後々のことを考えるとどこまで本心でやっていたのかは大いに疑問ありだな。とはいえジェニーに家に招待されたらそこは総督邸の一部なのか。っていうか、ジェニーは高級官僚の誰かの娘? なんか、最後まで身分が分からなかったんだが。で、内部をうろうろしてて、掠われた少女と遭遇し、救出を誓うのだった! と、紙芝居的な勧善懲悪物語だな。こりゃ。
ビームはジェニーに総督邸で開かれるパーティに招待される。ビームはラーマとともに参加し、イギリス人たちにインド式の踊りを見せつけるんだが、これにイギリス女性たちが大興奮というご都合主義的描写があって笑ってしまう(でも、後から思うに、ちょっとは知られた警官が得体の知れないビームを連れて総督邸に行くのはOKなのか? というか、ラーマは身バレを気にしなくてもよかったのか?)。その後、どうしたんだっけ。よく覚えてないけど、ビームと兄弟、仲間たちは総督邸への強行突破を計画し、実行。結構な歳の爺さんが運転するトラックから虎やカモシカなんかが飛び出して警護兵を襲い、いやまて、虎はビームにも襲ってきたけどかわしたりしてたよな。バカなんじゃないか、この計画って。で、少女を救い出そうとするんだけど、実は警官のラーマが活躍し、2人は大乱闘。ここで初めて冒頭近くで反乱インド人を征圧したインド人警官が実はラーマだった、と一致したんだったかな。やれやれ。
それでビームは逮捕され、ラーマは昇進。この昇進が目当てだったらしいんだけど、実は…なラーマの生い立ちが紹介されるのだ。どうやら英国軍に征圧された村の出身で、父親(?)は反イギリスの闘士で、村人全員に銃を持たせ、イギリス軍と対決することを目指していた(なんか『七人の侍』の村人をちょっと連想したぞ)。幼いラーマは父親に銃の撃ち方を習い、最後はダイナマイトを腹に巻いた父親を撃ち、英国軍に一矢報いたこともある。それで、自身はあえて英国警察に入り、銃が自由に扱える立場になり、そのあかつきには銃をうばって帰省し、戦うのだ! という決意でいた、というネタばらしが、後半の初めにされちゃうのだよね。これで映画のヒキが半減してしまった、と思う。
まあいい。で、こっから、ラーマは心を鬼にしてビームに対応。ビームの公開むち打ちだの、ひどいことをしまくるんだけど、すでに昇進して銃を自由にできる立場になったんだから、そこまでしなくてもいいだろ。と思えども、映画的演出はラーマに冷徹に対応をとらせる。このあたりから映画の物語性に対する興味が薄れ、集中力もなくなってきた。だから、話を断片的にしか覚えていない。
そのうちラーマはビームと少女を助けて。逃亡中の2人はラーマの婚約者シータに出会って。だけどラーマは逮捕されて地面下の独房に入れられて。それをビームが助けるんだっけか? あとはどんなバトルがあったのか、よく覚えてない。もう、飽きちゃって退屈しながら見てたし。ラーマが急に弓の名手になって。総督の妻は死に、総督も…どうなったんだっけ? 記憶にない。ラーマが保管してた銃をビームが持ってきた、んだっけか? なんか、船でその銃を故郷の村にもちかえり。村人が喜んでた姿は覚えてる。その後、蜂起はとくにしてなかったよな。記憶にないよ。まあ、1947年以降でないと英国はインドを放棄しないはずなので、ラーマたちが反乱軍を率いて蜂起しても、成果ははないと思う。
とまあ、最後は大げさなCGだらけで、寝はしなかったけど集中力なくぼーっと見てた。だから記憶に残ってない。なんか雰囲気的にMARVELコミック風なんだよな、つくりが。やたら大げさにCGでドカドカやるってのは。ああいうのは、いつも飽きるんだよ。
しかし、ラーマの行動はあれこれ異様すぎだろ。子供の頃には、ダイナマイト巻いた父親を撃ち、爆破させるとか。そんなことをさせる父親も父親だ。トラウマになるだろ。ダイナマイト抱えて走って行けよ、お父さん、と思うね。そして、いくら銃を村に持っていくという使命があるとしても、警官になるだけが能じゃないだろ。自作の銃をつくるとか、他のルートで入手するとか、手はあるんじゃないのか? そして、自分を隠すためにビームを激しくむち打つとか、人でなしじゃないか。いくら後から、それは間違っていたと反省してビームと少女を逃がしても、あんまり意味がないはず。逃がすぐらいなら、始めから助けろよ、と思ってしまう。ラーマの葛藤はどこにもうかがえないのだよね。
話を派手にするためにだけ大げさでマンガチックな演出がされているだけだろ。Twitterにも書いたけど、国家が成長する時代には、民族主義的な思想が広がりやすい。ラーマは実在の人物を派手に解釈して主人公にしたらしいけど、「わが国にはこんな英雄がかつて存在していた」というような、史実とは違う妄想が形成されやすい。実在した人物を派手派手につくりかえ、神話的要素も採り入れて、新たな伝説化しようというような感じもしてしまうんだよね。韓国映画にも似たようなのがあったけど、インドにも登場してきたということなのか。やれやれだな。でも、映画では、ラーマは革命家だけど、ビームは村の黒幕的な存在であって、必ずしも革命家じゃないよな。
最後、ラーマはシータと、ビームはジェニーとニコニコしている画像があったけど、なんだかなあ。インド人がイギリス婦人に恋して恋されるみたいなほのめかしは、いいのか? なんでイギリス人はみな極悪人にしないのかね。よく分からん。 ・エンドロールが右端に、幅1/5ぐらい使って小さく流れていく。あとは登場人物の踊りというか、ミュージカルのような体裁。で、ここで主人公2人がターバンを巻くのだけれど、え? シークなのか? そういえばインド警察は勇敢かつ従順なシーク教徒が多かったという記憶が…。でも、ヒンドゥーの神の名前もでてたよなあ。なんか、知識が足りず理解が覚束ない。
君を想い、バスに乗る11/21ギンレイホール監督/ギリーズ・マッキノン脚本/ジョー・エインズワース
イギリス映画。原題は“The Last Bus”。allcinemaのあらすじは「最愛の妻を亡くしたばかりの老人トム・ハーパー。悲しみに暮れる彼は、ある決意を胸に旅に出る。しかし、その目的地は彼が今住んでいるイギリスの北端から遥か南端に位置するランズエンド。しかも移動手段は高齢者用フリーパスが使えるローカル路線バス。90歳の老体にはあまりにも過酷な旅路だった。それでも、様々な人々との出会いを重ね、いくつものトラブルを乗り越えながら、ランズエンドへ向けて旅を続けるトムだったが…。」
Twitterへは「イギリス版、90歳のローカル路線バス乗り継ぎの旅、な感じ。SNSが登場するのが今どきの演出か。しかし、70年近く前に泊まった宿や寄った食堂が健在で、どの部屋に泊まったのか覚えているという設定がびっくり。」
90歳の老人がバス旅行するというロード・ムービーである。大きな事件は起こらない。乗り継ぎやバス停、乗客とのあれこれで、ちょっとしたことが起こり、でもトムはそんなことには大して煩わされず、マイペースでバスを乗り継いでいく。なぜに? は、おいおい分かってくる。要は、幼い娘を死なせたランズエンドからできるだけ離れたい、という妻の申し出で、いまの住まいに越してきた、ということのようだ。そういうものなのかなあ、と思ってしまう。とくに、ランズエンドに到着し、訪れた娘の墓を見たら、日本人との感覚の違いに驚いてしまう。70年近くも娘の墓をほったらかし、なんだぜ。しかも、70年前に墓前に供えた何かの残骸が、まだ残ってるという…。だれも墓前に参ることなく70年近く。それでも、亡き娘を思っていた、ということなんだろう。けどね…。
だからといって娘の墓参りが目的ではない。最後の最後に分かるけど、思い出の桟橋近くの海に、妻の遺灰を撒くのが目的だった、という次第。なので、小さなカバンを気にしながら、の旅だったんだね。遺灰が、よく見かけるような容器ではなく、ブリキのクッキー缶みたいなのに入っているのは、携帯性を考えてのことなのか? なんかテキトーだなあ。
妻をがんで失い、自身もがんに冒されながら、故郷の町に路線バスで、っていうのは、よく分からない。まあ、70年近く前にたどった経路を、宿やレストランも含めて同じようにたどろうというのだけれど、それにどういう意味があるのかね。たんなる自分のこだわりなのか。だとしてもあまり説得力はないよね。自分に苦行を強いてどうするの? 万一たどり着けなかった時のことを、考えてるのか爺さん?
とはいえ、多くの宿やレストランがむかしのまま残っているというのは、ヨーロッパの国らしいよね。日本じゃ成立しない話だと思う。
この映画の新しい切り口。それは、孤独な旅をつづけていると思っていたはずが、実は、全世界の人にトムの行動やたどり着いた場所が映像で知られていたこと。いや、SNSはおっかない。車内で若い兄ちゃんの無作法に抗議し、他の乗客の支援もあって追い出したり、バス停(?)でアメイジング・グレイスを歌っているところ、若い娘っ子たちと一緒に乗っているところ、スコットランドでだけ通用する無料パスをイングランドでも使いつづけていて、運転手に非難され降ろされたこと(運転者への抗議の声として)、などなど、トムが知らぬ間に動画がアップされていて、あの爺さんは何者? な話題で地上波テレビも注目していた存在になっていた。まあ、誰もがSNSの時代だから嘘ではないにしろ、そんなことが話題になることなんか、現実的にはないと思うけどね。それに、知らない間に行動が筒抜け、というのは、自分だったらやだな、と思ってしまう。なので、新しい切り口であっても、拍手は送れない。だいたい、目的地のランズエンドに到着したら、数10人が待ち受けていて拍手で迎えられるなんて、なんだよお前ら、な話だよなあ。
・15歳で大戦に志願、で、1952年に夫婦でランズエンドを立っている。仮に1939年に15歳だとしたら52年には28歳。でもってスマホやSNSが盛んになる2020年を映画の現在とした場合、プラス68年で96歳だぜ。と思ったら、映画では語られなかったトムの年齢が↑のあらすじにあって、90歳となっている。ん? じゃあ52年には22歳か。すると志願したのは7年前の1945年で生まれは1930年ってことか。
・ところで、種なしという訳ではないのだから、また子供をつくればいいような気がするんだが。励んだけど出来なかったのか? 親戚の子供を養子にするとか、それもムリだったのかね。と、いろいろ考えてしまう。
・トムが自宅を出てバス停に向かおうとすると、同じ画面に、対面から若い2人がやってくるというシーンがあって。あれは、面白い見せ方だなと思った。
マリー・ミー11/21ギンレイホール監督/カット・コイロ脚本/ジョン・ロジャース、タミー・セイガー、ハーパー・ディル
原題は“Marry Me”。allcinemaのあらすじは「世界的ポップスターのカットは、人気歌手で新曲『マリー・ミー』のデュエット相手でもある婚約者バスティアンとの結婚式をファンが見守るコンサート会場で挙げる計画を立てていた。ところがその直前にバスティアンの浮気が発覚、失意のままステージに上がったカットは、会場にたまたま来ていた男性チャーリーに衝動的にプロポーズしてしまう。友人に頼まれて付いて来ただけのシングルファーザーで数学教師のチャーリーは、突然のことに混乱しつつも、カットとの結婚を受け入れるのだったが…。」
Twitterへは「『ノッティングヒルの恋人』を派手めにして焼き直した感じ。まあ、そこそこ楽しいからいいんだけど。にしても69年生まれのジェニファー・ロペスが35歳過ぎの設定で登場して違和感ないのがオソロシイ。」
『ノッティングヒルの恋人』のあらすじをWikipediaで見てるんだけど、出会いとか女性側の性格嗜好はちょっと違うけど、展開とか脇の人物とか、ホント酷似しすぎ。まあ、あえてやってるんだろうけど。
どうせやるなら出会いも控え目な偶然にして欲しかったかも。あんな、大観衆の中からテキトーに指さして「あんたと結婚する!」じゃ、何かを感じた、って部分がなさ過ぎだろ。それと、カットの日常が人の目に晒されすぎていて不気味。私生活の大半もカメラマンが横にいて、SNS投稿のために動画を撮っている。ひとりになる時間のないあんな毎日、ストレス過ぎるだろ。
バスティアンとの結婚破棄も、彼の浮気が原因らしいけど、その程度のことはフツーに当たり前なんじゃないのかね。永遠の愛を信じている人気歌手なんて、それもすでに3回の結婚歴があるの。と思うと、カットがアホに見える。もちろんジェニファー・ロペスらしいキャラが前提なんだろうけど、フツーの人間らしさに気がつく場面がもっとあって然るべきかなと。もちろん、チャーリーの家に行って、カメラマンも遠ざけて、1人の女として行動する場面もあるけど、なんか物足りない。どころか、結局、頼るところは金かよ、って場面が多い。チャーリーの娘の数学コンテストに行くのにリムジン使って、空港で「席がない」といわれると「誰か、売って!」と周囲に向かって叫んだり。なんとかエコノミー席を確保すると、乗客全員にビールとチーズ(だったか)をふるまったり。あれじゃいつまでたっても自分で解決したりできんだろ。カットに家事や育児はムリムリ。と思えてくる。だから『ノッティングヒルの恋人』のラストのようにご懐妊で公園にいるような、フツーの人のフツーの生活を求めるようなことはなく、チャーリーと結ばれてもいつも派手派手でスケジュールに追われる生活は変わらないのだろう。チャーリーは数学教師はつづけるのだろうから価値観違いすぎで、あれじゃそのうちすれ違いで性格の不一致で別れるよなあ。と思えて来てしまうのだった。そういう意味で、『ノッティングヒルの恋人』のような、たらればファンタジーにはなりにくい。バカっぽいおとぎ話どまりではないのかな。
まあ、それはそれでいいのかも知れないけどね。だったらいっそ、チャーリーが芸能界に目覚め、音楽的な才能を開花させてデュエットで大ヒット! みたいなところにエスカレートしてもいいんじゃね? と思ったりもするんだが。
ある男11/22109シネマズ木場シアター1監督/石川慶脚本/向井康介
allcinemaのあらすじは「弁護士の城戸は、かつて離婚調停を請け負ったことのある女性・谷口里枝から、亡くなった夫「大祐」の身元調査をしてほしいと奇妙な依頼を受ける。離婚後、子どもを連れて故郷に戻った里枝は、そこで「大祐」と出会い再婚し、新たに生まれた子どもと家族4人で幸せに暮らしていた。ところがある日、「大祐」が不慮の事故で命を落とすと、知らせを受けてやって来た大祐の兄によって亡くなった夫が大祐とはまったくの別人であることが判明したのだった。里枝が愛した夫はいったい誰で、なぜ別人として生きなければならなかったのか、その謎を調べ始める城戸だったが…。」
Twitterへは「「あなたは、誰?」がキャッチフレーズの『嘘を愛する女』と枠組みが似てる。背景を探っていく過程はミステリー風。でもあまりドラマチックじゃなく淡々と。分かった事実は驚くようなもんじゃなかったけど、まあ、リベラルな人が主張しそうなものかな。」「理不尽な差別、偏見から逃れるためにどうするか? ラストは、誰だって自分じゃない誰かになりたいときもあるよね、な感じかな。」
田舎町で毎日スケッチをしている30男(これってたんなる不審者だよな。すでに林業に就いてたのかも知れないけど)が、スケッチブックを買いに行く文房具屋のバツイチこぶ付き30女に告白し、結婚。娘が生まれるが事故死。1年間墓石もつくらなかったのはなぜなんだかしらんが、本人が実家だと言っていた伊香保の温泉宿から実兄がやってきたのは一周忌の法要で、遺影を見た実兄は「弟じゃない」と言い放つ。そこから妻・里英は夫の正体調べを弁護士・城戸に依頼する。城戸の同僚が、数年前に戸籍の売買事件があったことを教えてくれて。その主犯の男・小見浦は現在収監中なので接見に行く。そのときは教えてくれなかったけれど、後日、ハガキで「曾根崎」という名前を教えてくれるが、真相までは教えてくれない。Xが名乗っていた「谷口大祐」本人は、実兄と仲違いしていて行方不明。なとき死刑囚の絵画展でXと酷似した死刑囚を発見し、その息子の存在を知る。というのが主な流れ。とくに説明もなく(だったと思うんだが)息子の名字は「原」となっていて、想像するにそれは母方の名前なのかな。小見浦がしたのは、その「原」にまず「曾根崎」という戸籍を与えること。そして、「谷口大祐」と「曾根崎」の戸籍を交換すること。だったかな。そんな感じ。戸籍のロンダリングらしい。
上にまとめたように、整理すると話はそれほど複雑ではない。奥が深そうですよ、とほのめかしているから、そんな風に見えるだけだ。むしろ、興味深いのは、差別・迫害される側の人がメインになっていることかな。在日三世だという城戸が、父親の殺人事件によって自分は何の罪もないのに白い目で見られまっとうな人生を送れなくなったX=原の正体を追う。この関係性がキモだと思う。だけれど、この映画ではそこに焦点を当てることが少ない。本来なら、犯罪加害者家族の問題や、在日三世ですでに帰化している存在の問題にこそスポットを当てるべきだと思うんだが。
X= 原についていえば、彼への差別・偏見をあなたは支持しますか? 無視できますか? と観客に突きつけることが必要だろう。その意味で、たんなるXの正体探しに終わってしまった感じがあるのは、残念な感じ。
X=原の正体を突き止めた城戸が、ラスト近く、妻の浮気を、妻のスマホにきたメールの本文が画面表示されるのを見て知る。冷静な城戸。次の場面は、どこかのバーで城戸が誰かと飲んでいる背中2つ。相手は妻の浮気相手かと思ったら鈴木という初対面の男で。最後に、自分はもともと伊香保の出身で13歳の息子と3歳の娘(年齢は正確には忘れた)がいる。といい、男と別れる。…はあ? どういうことだ? 一瞬戸惑った。けれど、実は城戸は谷口大祐だった、みたいなどんでん返しのオチではないはず。たんに、誰だって別人になりたいときもある、ということを表しているのではないか。冒頭とラストに登場する背中姿の絵はマグリットの絵画『複製禁止』という絵らしい。初めて見た。自分ではない他人になりたいときがある、ということを言っているのではないかな。
・出自を隠そうとする人間が、実家は伊香保の温泉宿、などというものだろうか? 誰かが行ったり調べたりしたら一発で嘘が分かってしまうだろう。
・殺人犯の子供であることを苦に自殺を試みた人間が、別の場所に別の名前で暮らしはじめたとして、文房具屋の女に「友だちになってくれ」などというものだろうか。人並みの幸せを夢見たとはいえ、大胆な気がするけどね。
・たまたま関わった死刑囚の絵画展で、見かけた絵がXの描いた人間の顔と似ていて、調べたら描き手はXに酷似していて、でもすでに刑は執行済み。という偶然はフィクションだからいいとして。父親が描いた絵と息子が描いた絵が似ている、というようなことはあり得ないだろ。
・本物の谷口大祐が兄と仲違いしている理由が、よく分からない。それまでつき合っていた女性にも話さず雲隠れし、曾根崎という人物の戸籍を得て、なりすましている。この理由も、ちゃんと説明されるべきだよな。城戸は曾根崎(本当の谷口大祐)を探しだし、かつてつき合っていた女性に会わせる。曾根崎は驚きながらも、拒否はしていない様子。ますます、谷口兄と谷口大祐に何があったのか、知りたいよね。
・里枝の息子・悠人がX=原になつくのはあり得るだろう。でも、実の父親に対してはどう思っているのか、よく分からない。暴力でも振るわれてたんだっけ? 
・Xの墓を1年間つくらなかった理由がよく分からない。経済的なこと? 里枝の父親はいないようだけれど、実父の墓はあるんだろ?
ファイブ・デビルズ11/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/レア・ミシウス脚本/レア・ミシウス、ポール・ギローム
原題は“Les cinq diables”。allcinemaのあらすじは「小さな村“ファイブ・デビルズ”に暮らす8歳の孤独な少女ヴィッキー。嗅覚の不思議な能力を持つ彼女は、どんな匂いも嗅ぎ分けることができ、それを再現しては瓶に詰めて集めていた。大好きな母ジョアンヌの匂いも秘かにコレクションするヴィッキー。そんなある日、父の妹ジュリアが現れたのをきっかけに、タイムリープの能力が覚醒した彼女は、自分が生まれる前の母の封じられた記憶を覗いてしまうのだったが…。」
Twitterへは「かつてのフランス映画らしい妖しくもエロスで唐突なファンタジー。臭いに込められた個人の記憶を体験できる少女が、あれこれ過去を嗅ぎまわって…な話。危険な感じがなかなか。」
「“香り”の能力をもつ少女が飛び込んだのは、母の封じられた記憶」「タイムリープ・スリラー」「悪魔が真実を嗅ぎつける」とか謳い文句がHPに書いてあるけど、とくに悪魔的でもないし、母の過去も「封じられた」という程のものではない。村の人はみんな知っていることだらけだった。タイムリープについても、ちょっと違うんじゃないのか? な感じ。むしろ、個人に付帯する香りにその人の過去がDNAのように記憶されていて、それを嗅ぐとその人の過去に入り込んで見ることができる、な感じだ。いわゆるタイムリープだと、放り込まれた時代のモノや人に触れられるし、相手からも自分が見られたりする。でも、この映画の場合、ヴィッキーは、誰かの過去の記憶をVRで体験しているような感じなんだよね。見ることはできるけれど、関われない。例外として、ヴィッキーの叔母ジュリアは、誰かに見られている、と感じることができるようだけど、それはジュリアもまたヴィッキーと同じ能力を潜在的に継承しているからだと考えられる。それはおそらく、セネガルの先祖から受け継がれた能力で、女だけがもてるものなのではないか。そしてそれは、ヴィッキーが個人の香りを瓶に封じ込めたり、鳥だのなんだのを煮てエキスを抽出している様子から思うに「魔女」的なものだろう。よくあるじゃないか。その人の持ち物に触れ、水晶玉を見ると過去が見えてくる的な占いが。ああいうのをベースにつくられている感じがする。
とはいえ、あどけない少女が感性にしたがって母親や叔母の過去を窃視することで、過去が見えてくるという展開は、とくにスリリングではないけれど、面白い。この手の映画にありがちな耽美的な感じはなく、淡々とヴィッキーの好奇心だけが走って行く。そして、少しずつ見えてくるヴィッキーの魔女性。これは魔女の新解釈か。
とはいえ、あぶり出される過去は、宣伝文句にうたいあげられているほど“封じられた”でもないし、“禁断”でもない。有り体に言えば母親と叔母の同性愛体験と、叔母の放火の過去、ナディーヌの顔のひきつりは放火の結果だった、もともと父親はナディーヌと恋仲だった、ぐらいのものだ。そして、それは村人の記憶にまだ新しい。だって10年前だから。なので、明かされる真実にはとくに驚きはない。もっと底なしの妖しさがあってもいいとは思うんだけど。まあ、いいか。
・“ファイブ・デビルズ”は、村の名前らしい。とはいえ、5人の悪魔的な人物がいるというのかな。語感的には、謎ばかりだった「ツイン・ピークス」に似てるけどね。
・ヴィッキーはもともと嗅覚が異常に発達していた。それが、叔母の香水の匂いを嗅いで失神。見たのは、体育館へ向かう少女部員たち パリから来た転校生=ジュリアで、部員には母親もいる。
・次に見たのは、道路でクルマを停め遊んでいる少女部員たち。ここに父親がいたので、「父親が浮気?」と思ったけど、あれは過去なんだな。で、相手はよく覚えてないんだが、たぶん並んで座っていたのはナディーヌではないのか。母親が叔母といちゃついている。それを見ていると、叔母はヴィッキーに気づく。というのは、同じ能力を叔母も共有しているということかな。
・他にも練習風景も見ている。母親は大きな輪っかのピアスを監督に注意されている。そりピアスを、のちに現在の母親に返す場面があるんだけど、ということは、過去のモノに触れることができるというこてか? でも、事例はこれだけだったような…。能力が進化したのだろうか? よく分からん。
・で、過去の出来事を整理すると…。10年前、黒人の一家が越してきた。兄ジミー、妹は体操選手のジュリア。セネガルからの移民で、兄はセネガル生まれ。妹はパリ生まれ。ジュリアは体操部でジョアンヌと仲がよくなり、同性愛の仲に。ジミーは体操部のナディーヌとつき合っていた。ジョアンヌは、父親にジュリアとの関係を見抜かれる。で、ジュリアはジョアンヌに「一緒に街に逃げよう」と誘う。体操部発表会の後、逃避行の準備をして外で待つが、ジョアンヌがなかなか来ない。じれたジュリアは、庭のクリスマスツリーに火を放つ。その火が建物に燃え移り、部員のナディーヌが顔に火傷。その後なぜかジミーはジョアンヌと結婚し、ヴィッキーが産まれる。そして、なぜか、ジョアンヌとナディーヌは、村のスポーツクラブで一緒に働いている。ジミーは村の消防隊員になった。そこに10年後、ジュリアが戻ってきて、一家の家で同居を始める。父親や、ジミーの同僚は、ジュリアに嫌悪感を見せる。…ななかで、ヴィッキーは母親と叔母の過去を除き始める。な感じかな。
とはいえ、ジュリアは罪に問われたのか? 自身は生物学系の企業で働いているといっていたけど、もしかして出所して戻ってきたのか? ほかに行くところはなかったのか? ジミーは妻ジョアンヌと妹ジュリアが同性愛関係だったことを知らないはずはない。なのに家に住まわせているのは不可思議。被害者のナディーヌもいるっていうのに。などなど疑問というかツッコミどころはある。
ジュリアはラスト近く、冷たい川に入って低体温症で死のうとしたのかな。それは、過去への自責の念? それを感知した(あれは霊感か?)ヴィッキーが走り出て母ジョアンヌのクルマを停め、ともに川まで行ってジュリアを暖める。救急車がくるが、乗っていたジミーは妻に同乗をすすめる。これは、2人の関係を知ってのことだろう。救急車のなかで、意識を取り戻したジュリアとジョアンヌがキスをする。ヴィッキーは父親と家に戻り、戯れている。と、背後にそれを見ている10代の黒い女の子。彼女は、長じたヴィッキー? 父親の臭いを嗅ぎ、過去を覗き見しているのか? あるいはまったくの別人なのか? さそれは分からない。
ナディーヌが見せた緑色の舌は、あれは彼女の悪魔的な部分なのかな。焼けぼっくいに火が付いてなのか、父親ジミーとナディーヌが関係をもってしまう場面がラスト前にあるけれど。ジミーとナディーヌ、ジョアンヌとジュリア。もとの関係にヨリが戻っていくのだよね。その結果何が起きたのか。未来からの誰かが、覗きに来ているのかね。
というような案配で、同性愛を“封じられた過去”とするのは、今どきどうなんだと思ってしまうけどね。とはいえ、長いシリーズ物(「ツイン・ピークス」のような)のイントロとしたらいろんな要素が散りばめられていて、あれこれ如何様にも掘っていってドラマがつくれそうな構造をしているなと思った。まあ、続編がつくられるとかどうかはしらんけど。
・ジョアンヌが蛸を調理する場面があって。ジュリアが手伝うのだけれど、することは、蛸を包んで叩きつけることなんだよね。そういえば蛸は悪魔と呼ばれていたりするんだけど、元同性愛関係の2人が自分たちを迫害した連中を悪魔に喩えて復讐しているようにも見えなくない。は、いいんだが。フツーに家庭で蛸料理なんかするのかいな。
シスター 夏のわかれ道11/28シネ・リーブル池袋シアター1監督/イン・ルオシン脚本/ヨウ・シャオイン
原題は“我的姐姐”。allcinemaのあらすじは「必ずしも両親に望まれて生まれてきたわけではないことを自覚し、早くから自立し看護師として働くアン・ラン。医者になるために北京の大学院進学を目指して勉強にも励む日々。そんなある日、疎遠だった両親が交通事故で亡くなり、親族から会ったこともない6歳の弟ズーハンを押し付けられてしまう。待望の男の子として両親に甘やかされて育ったズーハンのワガママに振り回されるアン・ラン。自らの人生がかかる北京行きの計画に暗雲が垂れ込める中、彼女は弟を養子に出すと決意するのだったが…。」
Twitterへは「中国。両親が交通事故死。年の離れた弟の世話をどうするか、で悩む看護師…。フツー悩むか? 彼女の考え方に驚きつつ見てた。ひとりっ子政策や男尊女卑が背景にあるとはいえ、ドライすぎないかね。」「大陸の映画なんだけど、画面から貧しさがまったく感じられないのよ。地方都市にそびえる高層ビル、近代的な地下鉄、整然とした車社会、先進医療を提供する病院…。こうしたシーンが多くて、なんか国策的な背景も感じてしまう。」
題名から、夏休みに出会った少女の恋、なんてのを想像してたら大違い。中国の家族の問題、親子の問題、なんてのが、中国人の思考回路とともに押し出されてきて、驚きというか違和感がふくらんでしまった。いくらそれまで会ったことのない弟でも、実の弟を扶養することなく養子に出す、という発想しかでてこない20歳過ぎの看護師の頭のなかはどうなっているのだ? という疑問で困惑してしまった。すべての中国人がこういう考え方をするわけではないだろうけど、こういう映画があるということは、それを支持する人もいくらかはいるということなんだろ? と思うと、なんか救いようがない、と思えてしまった。
あとは、発展する中国の現在ががんがん登場していて、きれいな地下鉄ホームや駅のトイレ、高層ビルの夜景とか、話に関係あるのか? と思ってしまった。ああいうのって、「中国は先進国並みにインフラが整っていますよ」アピールなんじゃないのかね。近代的なのは表通りだけ、ちょっと裏道に行くと田舎丸だし、といわれた中国はほんとうになくなったのか? それとも、印象がよくなるように取り上げているだけなのか。とても気になった。
で、簡単にいうと、将来は医者になりたいという夢を両親につぶされ、看護師をしている女性がいて、不慮の事故で両親を失う。代わりに、1軒の家と、初対面となる年の離れた弟が残された。彼女は家を売り、進学したいと思っているが、親戚は弟の面倒をみろという。そこで弟を養子に出すことにするが、いろいろあって、弟と一緒に暮らす道をえらぶ。な話だ。
まずは冒頭。交通事故か。娘が警察に話を聞かれている。彼女がアンで、次は葬儀の場面。故人のためだから、と参列者にマージャンを勧めているのに驚いた。そういう風習があるのか。ここで叔父とか叔母がいろいろ登場するんだけど、とても分かりにくい。母親の妹、叔母は分かる。でも、叔父らしい(あとからマージャン狂いらしいと分かる)のが、よく分からないので困った。
で、アンには学区にある家が残された、らしいこと。アンは大学院に行きたいと思っていること。両親とはずっと(どのぐらいか知らないけど)会っておらず、実弟がいるけどこれまで会ったことがなかった、というようなことが分かる。その弟がズーハン6歳らしい。ということは、少なくとも6年は両親と会ってなかった、ということか。大学を卒業するぐらいなら22歳? で、叔父や叔母や親族は、アンがズーハンを養うものだ、と思っている。けれどアンは、自分はまだ大学院に行くつもりなので、預かれない。養子に出す。と決めている。それと、学区にある家は誰か親戚に貸しているらしいことも分かった。
ここで疑問がごちゃまんと発生する。ずっと会っていなかった両親の事故現場に、なぜアンがいたのか? 葬儀の後、帰ってきた家は、どの家なのか? 両親が住んでいた社宅? それとも、学区にある家? その学区にある家に住んでいた親戚は誰で、いつ退去したのか? などなど、茫漠としたまま話が進むので、ちょっと集中力が途切れがちになった。
大学院に行くというのだから大学生なのかと思ったら、なんと看護婦で。実は高校を出て北京の医大に進学するつもりが父親が勝手に進学先を地元の看護学校に書き換えていたという。じゃあ看護学校をでて看護師をしていた、ということか。じゃあ看護関係の大学院なんだろうとずっと思っていたんだけど、最後の方に医学の大学院だと判明するんだけど、医大で医学を学ばず大学院だけ行けるのか? と困惑してしまったよ。
で、とりあえずは、両親が住んでいた社宅なのか学区の家なのか知らんけど、アンはそこに戻り。ズーハンととりあえず同居する。この弟が言うことを聞かないやつで、なんだかんだうろちょろしたり、肉まんが食いたいとだだをこねたり、パパとママはどこ? と言ったり。6歳なら分かるだろ、なんだけど。アンはますます弟が嫌いになって行く感じ。それでも、どういう伝手があるのか知らないけど、養子縁組先との面接はしたりして、ドライなのだ。
でね、いくらなんでも、と思うのは両親の事故の加害者が、ズーハンの通ってる保育園に娘を通わせていて、迎えに行くと加害者に会ってしまうという設定は、どうなんだ? 偶然にも程があるだろ。で、事故については、父親が心筋梗塞で意識を失った、ということで加害者は無罪になるんだけど、叔父とアンは責任を求め、叔父は訴えないという代わりにいくらかの金を得るんだよね。なんだ、この関係。
で、加害者の男が、知り合いに子どもが欲しいという夫婦がいるんだが、とアンに話を持ちかけるという、なんだこりゃな展開。でも保育園でズーハンが加害者の娘(だったか?)に怪我をさせたとかで、乱暴な子供は…と断られてしまう。でも誤解が解けと、では養子に、と、決まりかけたあとにアンの方がズーハンに気が移り、アンの方から養子は断るという、何だこりゃな展開になって、最後は、どうやらアンがズーハンを育てていくような流れで終わるんだけど、いいのかそれで? な感じなんだよね。
でもその前に、いろいろあって。アンは学区の家を売って学費に充てようとする。マージャン狂いの叔父は「その金は俺が預かってやろう」なんてことをいう。でも、悪気があって、とかではなさそう。しかも、いったんは「俺がズーハンを育てる」なんていって引き取ったりする。でも、自分がマージャンしてる間、ズーハンを子供の賭け事に夢中にさせたりするのをアンが発見し、それで自分のところに連れ戻し、いつしか自分で育てよう、と思うようになる感じだったかな。でも、育てようと決心するには、それほど決定的なことではないよなあ。
そんなアンにやさしいのは叔母で。自身の夫は不治の病で大変なのに、いろいろ面倒をみようとしてくれる。のはいいんだけど、アンの父親は3人兄弟なのか? アンの父親の妹、弟、がいるっていうことか? でも、ひとりっ子政策の時代だったんではないのか? 
その関連でいうと、アンはむかし足が悪かった、とずっと思い込んでいた。あとから誰かが書いているのをみて知ったんだけど、ひとりっ子政策の時期に、是が非でも男子が欲しかったので、長女のアンは足が悪い、ということにして第二子をもうける許可をもらおうと、アンに足が悪いフリをしろ、と命じていた、らしい。でも、それを、本当に足が悪い、と思い込んで見ていたよ。審査の日に、スカートをはいていて、両親に叱られていたのは、そういうことだったのか。まあ、男子が欲しいという時代の話なんだろうけど。分かりにくいったらありゃしない。でまあ、そうやって授かったのがズーハンだった、ということなんだろう。
アンの気の強いのは分かる。その原因として、親に進学先を変えられたこと、があるらしい。とはいえ、看護学校は親の金で行ったんだよな。で、卒業していまは看護師として働いている。ってことは、もう25、6になるのか? 知らんけど。で、病院では看護師なのに患者の病名を指摘したりして、女医に「なんで医者にならなかったの?」といわれ、激怒している。そんな怒ることか? 同僚の看護師だか医師なのか知らんけど、恋人がいるんだけど、結局、別れてしまう。アンが北京の大学院に行くってことにしたからだったっけ? 理由はよく覚えてない。
でまあ、何度も書いてるけど、最後は弟の存在を認め、養子に出すのを止める、ということなんだけど。では、北京への進学はあきらめるのか? そうではなく、家は売って、進学しつつ育てていくと言うことなのか? それは可能なのか? については曖昧なままに終わってしまう。それってきれい事だよな。あんなに弟を毛嫌いし、血も涙もなく「養子に出す」といっていたのが、どういう心境の変化なのか。そのあたりもアバウト。なんかなあ。な終わり方だった。
・子供を産んだら妊婦の命は危ない、という夫婦がいて。亭主や医師は産ませる方を選ぶが、アンは反対する。というエピソードは、男子が欲しいという中国のいまを反映しているのだろう。でも気になるのは、あの妊婦がどうなったのか、なんだよね。
・加害者運転手の知人の、せっかく養子をもらおうとしていた家族がお気の毒。
・マージャン狂の娘はジャズダンスの先生? 別人? よく分からん。
ドント・ウォーリー・ダーリン11/29ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/オリヴィア・ワイルド脚本/ケイティ・シルバーマン
原題は“Don't Worry Darling”。allcinemaのあらすじは「アリスは愛する夫ジャックと郊外の美しい街に暮らしていた。完璧な生活が保証された安全安心な街で幸せな生活を送るアリス。男たちは皆ビクトリー社で働き、妻たちは家事をこなして家を守り、夫婦一緒にパーティに参加して楽しい時間を過ごす。しかし夫の仕事について何も知らないことに不安を覚えたアリスは、徐々にこの完璧な生活に違和感を抱くようになっていくのだったが…。」
Twitterへは「『トゥルーマン・ショー』かと思ったら『マトリックス』だった。1950年代の理想的なライフスタイル、懐かしの音楽、『水着の女王』みたいなラインダンス…。」
1950〜60年代の雰囲気。『シザーハンズ』に出てきたような住宅街の同じようなパステル調の家々、亭主を送り出したあとはご近所の奥様方と四方山話、そして夕食の支度、子供たちの世話…。なんだこの嘘っぽい町は。で、浮かんだのは『トゥルーマン・ショー』で、これはきっと亭主たちは政府の機密研究に従事していて、町はテネシー州あたりにあって、家族は監視されているけど本人たちは気がつかないでいる。でも、近所の主婦の1人が違和感を感じ、主張し始めると当局の赤い服を着たスタッフに排除される、とか? んな話なのかなと思って見ていた。
ときどきインサートされる、ラインダンス、『水着の女王』みたいなショーを平面的に演じている様子とか、ありゃなんなんだ? とか思いつつ。なにを象徴してるんだろう。意味不明。
アリスは、そんななかにいて亭主はいるけど子供はおらず、淡々と同じような生活をしていたのだけれど。でも、ふと気づくといろいろ変。たとえば、使おうと思った卵に中味がなくて殻だけ、だったり。訳の分からない地震が発生したり。家の壁が迫ってきて挟まれたり。他にも、パーティ前の風呂の場面で、湯船から顔を上げるor顔を沈めるとき、ガラスに映るアリスの顔が違う方向を向いていたような…。な、前だったかあとだったか、アリスが路線バスで荒野を走っていると、突然、セスナ機が墜落して、運転手に言っても反応がないのでムリやり降りて墜落地点を目指していくと、立入禁止の立て札のむこうに得体の知れない建物があって。その窓に触れると、妙な感覚に襲われて気絶してしまう…。以降、違和感と不安は増していき、主婦仲間に話したり、亭主の会社のパーティで(だっけか?)論をぶったりしていたら、会社の上司から目をつけられ、拘束されちゃうんだったかな。
この拘束のところでネタばらしされちゃうんだったか、その後だったか、忘れちゃったけど。どうも、何かをされた様子。で、分かってくるのが、実は…。
というわけで、なんとアリスは現実社会(これは、現在なのかな)では医者で。やり手の社員のはずの亭主は堕落したオッサンな感じ。2人は同居しているのかな。疲れて戻ってきたアリスはすぐ寝たい感じだけど、亭主の方がちょっかい出して拒否られてる感じ。で、亭主の方がある組織に依頼し、自分とアリスを仮想現実の世界に住まわせてる感じ。なので現実には、2人ともベッドに寝ていて、頭の中にインプットされた情報の中で暮らしている、のかな。まさに『マトリックス』の世界だ。
つまりまあ、仮想現実の世界で暮らせる時代になって、「仮想現実のハッピーな生活を!」的なコピーで応募者を募り、参加者はベッドに横たわって頭の中に情報をインストールされ、そこで苦労のない毎日を送ることができる、ということなんだろう。でもたまに情報エラーも起こって、中味のない卵や地震、画像再生の不備、飛行機の墜落なんかも体験してしまう、と。そういう世界に、アリスは半強制的に亭主に住まわされている、ということなのかな。
もちろん、いろいろ疑問もある。このシステムは公にビジネス化しているのか、それとも闇の世界なのか? どうやってアリスにインストール出来たのか? だってたぶん現実のアリスは拒否するだろうし。はたまた、上司もまた仮想世界に住んでいるのだけれど、それは自主的に、管理するためにいるんだよな? そういえば、奥さんは知っている、と話していたような。などなど、設定はおもしろいけど細部にはツッコミどころは結構あって。でも、設定だけで突っ走ってるのかな。
最後は、よく覚えてないんだけど。上司が奥さんに刺されてしまう、ってのがあったよな。で、仮想世界で刺されると、現実社会でもその事実は反映される、とか言っていたから、このシステムを提供しているボスは、仮想世界でも現実世界でも死んでしまった、ということなのかいな。
で、アリスはこの世界から逃げだそうとクルマで、かつて立ち入って触れたことのある建物を目指すんだったよな。赤い衣装のスタッフ(『マトリックス』の黒服に相当するのかな)が追ってきて、クルマは途中でエンスト。崖をよじ登って、タッチの差でアリスは建物の壁に触れて…。なところで終わるんだったかな。あのまま現実世界にもどったのか? 
面白いことは面白いんだけど、ネタバレしても、それで? というところが残ってしまうのが残念。
・アリス役のフローレンス・ピューは、可愛いことは可愛いんだけど、少し猫背で寸詰まり見えて、田舎娘っぽいんだよね。

 
 

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