2022年12月

 
すずめの戸締まり12/5MOVIX亀有シアター4監督/新海誠脚本/新海誠
allcinemaのあらすじは「のどかな九州の町で、叔母と二人で暮らしている17歳の女子高校生・鈴芽(すずめ)。ある日、すずめは扉を探しているという青年・草太と出会い、災いをもたらす古びた扉が日本各地の廃墟に存在することを知る。草太はそんな災いの扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として、扉を探す旅を続けていたのだ。しかし、そんな2人の前に人間の言葉を話す謎の白猫・ダイジンが現れ、突然草太を椅子の姿に変えてしまう。その椅子はすずめが幼い頃に使っていた子供用の椅子で、脚が1本欠けていた。逃げるダイジンを捕まえようと3本脚で動き出す草太と、慌てて彼の後を追うすずめ。やがて日本各地の扉が次々と開き始め、すずめは災いを止めるために各地を旅しながら懸命に“戸締まり”を行うのだが…。」
Twitterへは「監督が日本神話や陰陽五行、精霊なんかに興味があるのは分かる。でも『君の』にあった仕掛けや物語性が薄れ、生で直接的にですぎてるので、話として面白さが感じられんのよね。「おお」という驚きも、意外性もないし。」「あと、絵が、なんかどれも『君の』『天気』のときと似たような、既視感のあるモノがけっこでう出てきて。抜け出せてないな、という感じ。それと、“ルージュの伝言”のギャグは、ムダに浮いてるだろ。」「あ、そうだ。自転車の逆走はダメだろ。」
すずめ、というのは雀ではなく女の子の名前で、鈴芽なのだった。鈴芽は3.11の災害で両親を亡くし、九州・宮崎に住む叔母のところで暮らしていた。それがある日、閉じ師と称する草太と知り合い、まずは自分が間違って開けてしまった扉をともに閉める。そこに、要石が転じて白猫となったダイジンが登場。ダイジンは草太を三本足の椅子に変えられてしまう。以後、各地で開きかける扉(地震などの災害を要石が封じ込めているもの、かな)を、椅子の草太とともに閉めて歩く、という話。
多くの人がそうだと思うのだけれど、『君の名は。』のような仕掛け(男女の入れ替わり、世界線のねじれ、とか)や、ちょっとしたロマンス、を期待した。けれど、『君の名は。』で、背景となる設定だったはずの神話的な世界と登場人物が、この映画では主軸になってしまって、映画的ふくらみがなくなっちゃってるんだよね。『天気の子』で薄らいだ物語性が、『すすめの戸締まり』でほとんどなくなり、たんに使命として扉を閉めて歩くだけの旅、になってしまっている。これでは、ぜんぜんワクワクしない。途中で明かされる秘密の事実もなくて、正直いって単調すぎて退屈した。『君の名は。』『天気の子』でもそうだけど、新海誠は日本神話とか神社、鎮魂なんかが好きらしい。その趣味が前面に出すぎて、その押しつけになってしまってる。いや、それは背景でいいんだよ。『君の名は。』にあったような、全世界的に共感してもらえるような物語を見せてくれよ。
そもそも鈴芽がなぜ最初に扉を開いてしまったのか? その力は誰にでもあるのか? 鈴芽はそういう家系に生まれたのか? 災害の被害者である鈴芽が、なぜ災害を封じ込めていた要石を抜けたのか(ええと、実は抜いた場面は、ぼーっとしてて記憶にないのだよ。はは)。なぜ、いきなり閉じ師と出会うのか? なんていう設定が、あまりにも唐突すぎて受け入れ難すぎる。やはりそれなりのストーリーが必要なんじゃないのかね。
三本足の椅子は、八咫烏、かな。Wikipediaにれば「日本神話に登場するカラス(烏)であり導きの神。神武東征の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をした」とある。しかし、なぜ元は要石だったダイジンが、草太を椅子に変えなくてはならなかったのか? の必然性はあるか? 
日本全国に扉はいくつもあって。それが要石で鎮魂=封じ込められている、らしい。扉は廃墟にあって、開くとそこからミミズという地霊(?)がでてくるようだ。ところで地震といったらナマズだろうに、なんでミミズなの? 
とか思いつつ見ていたんだけど。途中から話がワンパターン(東征しながら各地の人と知り合いつつ扉を閉めていくという)になって行ったので、話をよく覚えていないのだ、実は。しかし、開いた扉を力ずくで、それも女子高生の力で閉められるって、なんなの? 
で、東京だったっけかでは、御茶の水の地下鉄線の奥に扉があるのか? で、その奥に入ると、なかにはたくさんのミミズがうごめいていて。なにこれ? ひとつの扉のなかにいくつもの別の扉があるのか? よくわかんねえなあ、とか。
ダイジンは、2人をジャマする存在のはずだよね。でも、どっちかというと、次の扉まで道案内してくれてるよなあ。なんなの、このダイジンって白猫は?
そしたらダイジンは要石ではないとかいいはじめ。椅子が要石になってしまったり。その後も、鈴芽は故郷を目指し、叔母とか草太の友人と凸凹旅。なんだかなあ。最後の方は、何を言わんとしているのか、よく分からんのだった。これ、中高生が見て面白いかね。なんか、ずうっともやもやのしっぱなしだったな。
・そもそも閉じ師ってなんだよ。蟲師てのがいるから、そんなような存在なのか。閉じないときはフツーの生活? よく分かんねーな。
・調べれば神話に関するもろもろがメタファーが埋め込まれてるんだろう。鈴芽が住んでる宮崎には高天原があったというし。でも、そんなのもういいや。パッと見てつまんなきゃ、細かなところを知ったところでたいして意味ないし。
・途中からまぎれ込んでくるクロネコはなんなんだ? 御茶の水では、白い大きな猫に変化してなかったか? よく分からん。
・猫と一緒に旅するからって、BGMは「ルージュの伝言」でいいとか、『魔女の宅急便』が突然引き合いに出されたり。バカじゃねえのか。
宮松と山下12/8新宿武蔵野館2監督/関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦脚本/関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦
allcinemaの解説は「エキストラ俳優としていくつもの撮影現場を渡り歩く主人公が、失われた記憶を少しずつ取り戻していく姿を、ペーソスを織り交ぜつつ、エキストラの仕事中と日常、過去と現在の境を曖昧にミステリアスかつスリリングに描き出していく。」
Twitterへは「エキストラ俳優の現在、そして、過去。撮影現場もまじえて、仕掛けが豊富でなかなか面白い。謎なままの部分が少しもやっとするけど、まあいいか。」
はじめは、うだつの上がらないエキストラ役者の日常かと思わせておいて。実はこの宮松と名乗る男、記憶喪失者、ということが分かる。ミステリアスな流れだけどスリルもサスペンスも、ありそうでなくて。ただもう淡々と地味に、静かに話が進んでいく。そして、最初からそうなんだけれど、これは男の日常生活かと思わせておいて、実はそれもエキストラとして出演している場面だった、とミスリードさせていく手法があとあとまで巧妙に凝らされていて、まんまと騙される快感がある。一方の、本筋の男の過去については、分かりかけるけれど結局、はっきりは分からせない。ちょっとじれったいけれど、それも狙いなのだろう。
エキストラ出演が終わって居酒屋で一杯、かと思ったらこれも撮影、という二段オチ。そして家に帰ると、なかなか妖艶な同居人がいて、なんだ女たらしなのか。「ご飯食べた?」なんて話している。その後も、2人で自転車に乗って休日を過ごし、庭園散歩までしている。同居人は水商売? どっかのカフェでお得意にアクセサリーのようなものをもらっている。そのアクセサリーを、嫌がらせのように自転車にくっつけているのを、お得意が見つけて忸怩たる様子。おやおや。やるじゃん宮松さん。と思っていたら、同居人に「デキちゃったの」と告白されてドギマギ…。と思っていたら、「カット」なんていう声で中断し、モニタで確認しているところに同居人とお得意がいる。え? 同居人と共演しているのか? と思ったらどうも違っていて。「ご飯食べた?」も自転車も庭園も、すべて映画の場面だった! これが唯一、セリフのある役をもらったものだったのか。いや、手の込んだ三段オチだよ。まいったな。
男は、エキストラ以外にロープウェイの運転管理の仕事もしている。スケジュール表か何かに、丸を書き込むのに定規を使ってやっている。同僚に「几帳面ですね」といわれ「好きなんだよ、こうするの」なんて答えてる。なにげないエピソードだけど、こういうのは記憶に残るね。
ある日、むかしタクシー会社の同僚だったというのがスタジオを尋ねてくる。しかし男には「山下」という名前に覚えがない。同僚は「山下だろ? テレビで見て、山下だと思って、探してやってきた」と、気軽に話してくる。そもそも同僚が問い合わせた時点で「あの役者の名前は山下ではなく宮松です」と答えられてるんじゃないかと思うんだが。それでも、会うだけ会って、とわざわざ京都までやってきたのか? なにがそうさせた。気になっちゃうな。まあ、細かなところだけど。
その同僚に「お前には妹がいて、結婚した」と言われ、怪訝な顔をしながらも、京都から関東のどこかにある実家へと連れて行かれる。同僚のこの面倒見の良さの裏には何かがあるのか? (でも、それは結局、とくにないのだった) で、待っていたのは、妹とその亭主。妹は山下に抱きつく。日本的には珍しい行動だけど、まあいいか。で、実家に行くも、妹もその亭主も山下にとっては初対面も同然なので、落ち着けない。
同僚が言うには、頭を打ってから行方不明。以来12年、ということらしい。その事件のことが、フラッシュバックのように蘇る。誰かに怒鳴られ、押し倒された? その後、病院(京都の?)で診察を受けるけれど、外傷というよりメンタルだろうと言われてしまう。過去を思い出そうとしても、気づいたときには京都にいて、以来、京都で生活していたらしい。のだけれど、記憶喪失した人間が京都で生活を始めようとしたら、どれほど大変なものか。住民票も戸籍もなく、たぶんお金もない。そっからどうやって生活を始めて行ったのか? わりとリアルに疑問をもってしまったよ。まあ、映画的嘘=テキトーさではあるんだろうが。
頭を打ったときの記憶が、さらに鮮明に蘇る。妹の亭主もかつてはタクシー会社の同僚だった。彼は、「あんた、彼女を妹としてみてないだろ」と山下にいう。山下は「いや、僕は父親のように見ていて」と反論している。で、どつきあいで、頭を打った? ここでは、怒鳴っていたのは山下だった。なぜ喧嘩になったのか、その理由は分からない。
山下と妹はどういう関係なのだ? 妹は、両親の命日が同じようなことも言っていた。事故か? それで妹に対して父親のように接し、育ててきた? そのうち、妹に対して恋心? なぜ?  餃子をつくっていて、「お兄ちゃんは包むのがうまい」と妹が言う。几帳面な性格が思い出される。そして妹は「お兄ちゃんのお母さんは器用だったから」という。なに? もしかして異母兄妹? 山下の父親が再婚し、その再婚相手には娘がいて、山下にとって妹になったとか? 血がつながっていない妹への恋心? それで、妹が現在の亭主との結婚話を切り出したとき、強く反対したとか? その異常さに、山下の妹への恋心を感じ、怒鳴りつけ押し倒した? それがトラウマになって記憶を消そうとしたとか? もやもや。
過去を思い出す過程のエピソードの積み重ねも、上手い。妹に亭主に「日本酒が好きだったじゃないですか?」と勧められ、否定するが、口にしてみるとおいしくて、ニコッとしてしまう。元野球部と言われ、妹夫婦とバッティングセンターに行き、最初はおどおどしてたけど、途中からガンガン打ちはじめる。買い物ついでに、「よくタバコ屋でショートピース買って吸ってた」と妹にいわれ、吸ってみたら身体になじんでる。家に戻って縁側で吸っていると、妹が「よくここで吸っていた」という。もう、このときには、自分が何者か思い出していたようだ。
実家に戻って、妹夫婦の近くに住もうと思っていた時期もあったみたい。実家の近くのアパートを見に行ったり、タクシー会社の面接も受けるような話をしていた。その直後かに、運転手然としてクルマに乗っているので、復職したのか、と思ったらいきなり撃たれてしまって。ああ、これもエキストラなのか。またまた引っかかってしまったよ。
でも、記憶が戻るにつれてやはり居づらかったのか。妹の亭主は「他人の家のようで居づらかったのかな」というが、妹は「もう思い出していたのよ」という。それは、山下の反応で分かっていたのだろう。私の想像=仮説に従えば、自分が愛した妹が、別の男と生活している様子を見るに耐えなかった、のかもね。それで、京都に戻って、またしてもエキストラ生活をつづけるのだった、と。
香川照之の、抑えた演技がなかなか浸みるのだった。
光復12/12ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/深川栄洋脚本/深川栄洋
Filmarksのあらすじは「大島圭子、42歳。27歳の時、両親の介護のため東京の仕事を辞めて長野に戻った彼女は、生活保護を受けながら寝たきりの父親を看取り、今は認知症の母親、安江と2人で人目を避けて暮らしている。ある日、母親の徘徊騒動をきっかけに、高校の同級生だった横山賢治と再会する圭子。賢治は圭子の現在の生活を知り、手を差し伸べようと仕事の合間を縫って大島家に通うようになる。それまでは暗く、表情のない圭子だったが、次第に明るさを取り戻していき、年相応の女性として肉体と精神に火が灯り始めた。しかし、そんな平穏な圭子の日常に暗雲が立ち込める。母が急死したのだ。警察は検死の結果、インシュリンの過剰摂取による殺人事件と断定し、捜査に乗り出す。警察からの取り調べを受ける圭子。その人生は不気味な音を立てて崩れ始めていく」
Twitterへは「両親の介護に人生を捧げる女性に、これでもかこれでもかこれでもか…。そこまでするか、な凄い話。でもラストでああするためとはいえ展開は強引だし、監督の考え方に共感できないところもあるのだよね。」
前知識ゼロで見始めた。しかし、この監督はどこまでサドなんだ。気の毒な主人公に、これでもか、これでもか、まだ足りないか、もっとだ、と不幸、辛苦を畳みかけ、ボロボロにして、揚げ句は信仰の世界? 主人公を取り巻く自分勝手で冷酷な人々は、ラストの「空」の悟りとの対比をはっきりさせるためだとは思うけど、強引すぎだろ。そもそも、ああして悟りを開いたからといって、主人公は幸せなのか? なことないと思うぞ。救いは般若心経だなんて、監督の趣味の押しつけな感じがしてしまうんだが。
ああ、痴呆症患者の介護の話か。悲惨だな。と思っていたら主人公の40女は高校時代の彼氏と再会し、妻子ある身だけど介護を手伝ってくれるようになって。こりゃあ、と思っていたらその通りで焼けぼっくいに火が付いて肉体関係。おやおや。と思っていたら突然の母親の死で介護終了。と思ったら司法解剖ということになって。まあ、自宅で死んだらそうなるんだろう、と思っていたらインシュリンの過剰摂取と分かって、おまえ打っただろう! と刑事か検察に追及され。知らぬこととは言え彼氏を庇って「はい」と返事して拘置所生活。と思ったら彼氏が自白して釈放されるも自宅周囲はマスコミが集結。深夜に戻ろうとするとヤンキーに拉致されまわされ捨てられ、やっと這い上がった道路で救いを求めるが軽トラに撥ねられ打撲と失明。な身体で裁判に出廷。母親が彼氏に「殺して」と言ったと証言すれば温情判決で執行猶予になる可能性も、と弁護士に言われるが法廷では「ない」と話すと彼氏嗚咽。実弟には攻められ同室患者には意地悪され、彼氏の別れた妻から多額の慰謝料請求され、よろよろ家に戻ると投石・落書き。警官や民生委員に助けられるも、なぜか山寺の本堂生活。盲目の主人公に唖の寺男が補佐し、住職には般若心経の教えを受け、「身体も精神も実体はない、すべては空」を唱える毎日。月日は流れ、出所した彼氏がやってきて、迎えるのは5、6歳の少女。これは彼氏の種か寺男の種か。剃髪して尼となった主人公の目前でといっても見えないけど、住職が彼氏の背後から首を切り落とすという呆気なラストはなんなんだ?
艱難辛苦を与えつづけ、最後に悟りの境地。これが「光復=幸福」? 『安寿と厨子王』かよ。というか、苦労の揚げ句に悟りを開くというような話はあるような気がするけどね。でも、「身体も精神も実体はない、すべては空」というのを原子の話から始めて、物体はすべて原子の組合せ、というのは分かるけれど。それは身体にはあてはまるけど、精神にはあてはまらんだろ。なので、主人公が尼となったとしても、まったく「なるほど」とは思えないけどね。
最後の、住職が彼氏の首をはねるのは、現世への執着を断ち切ることのメタファー? でも、穴掘りしてたし、現実のことなのか? よく分からん。首切断の後、なにが起こったのかと主人公が唖の寺男に聞くと、彼は彼女の手に文字を書くかなにかして説明していたけれど、なるほどな感じで微笑み、言葉を発する。のだけれど、音声がこもっていて、なんと話したのか聞き取れず。肝心なところなのに。なので、手がかりが…。
『光復』という題名なので、最後に彼女は光を感じ、視覚を取り戻すのかと思ったら、そんなことはなかった。あらま。
・主人公が買い物して帰ろうとする駐車場でヤンキーがオッサンイジメしていて、主人公は止めにも入らずだった。後に主人公に乱暴するのは彼ら、ということなんだろうけど。田舎にはバカなヤンキーがいて、女性への暴行も平気で行っている、という印象をもたせすぎだと思うけどね。それに、彼女が釈放されて家に戻るタイミングを調べて拉致するなんて、現実的にあり得んだろ。なので、このエピソードが始まって、それまでのこの映画に対する好印象ががくっと崩れたのは事実。
・いつも思うけど、こうした犯罪者の家やクルマに対して堂々と落書きしたりすることは、少ないと思うぞ。誇張のしすぎだろ。
・圭子の髪が長いことが気になった。介護してるならひっつめ髪だろ。のちに横山と関係し、髪を切って整える変化を見せたいのかも知れないけどね。
・裁判官が「答えてください」というけど、不利な証言はしなくてもいいんじゃないのか?

[流れのメモ]手づかみでむさぼり食う母親65歳 7年ぐらい前から痴呆症?
以前は父親が脳溢血(?)で介護。父親を介護していた母親が鬱になり、のちに認知症。65歳は早すぎるだろ。
東京で働いていたが29で帰省し、ずっと介護。近ごろは「死にたい」と思う。これ、殺したいではなくて、死にたいなんだよね。
弟と話し施設に入れようという話もあったが、当時は症状も今ほどではなかった。弟はそれを理由に介護に不参加。
なとき、行方不明の母親を保護してくれた店の店員が高校の同級生で、「つき合ってた彼が薬剤師で働いている」と教えてくれて。めかし込んで薬局に行って話しかけるが気づいてもらえず逃げる。思い出した彼が追跡。転倒して怪我。なところに任せていたケアから電話で母親がウンコまみれ、と。嫌いなおむつをさせ、炬燵で寝るのがすきな母親をベッドに寝かせたせいで暴れたとか。横山運転で帰宅。
翌日横山が介護グッズ持参で来訪、横山の助けで介護も楽に。
母親をつれてショッピングモールへ。クレーンで人形を取っている間に母親が騒ぎだす。ここで横山と妻と娘と遭遇。恥ずかしい。
のなかで焼けぼっくいに火が付いて身体の関係。「ケンちゃん」と呼ぶ仲に。うきうき。2人のセックスを覗く母親。
バイト(生活保護だから本来はNG?)帰りに買い物(のとき、ヤンキー目撃)し、戻ると母親がベッド(ベッドが嫌いなはずのに、なぜだ?)でぐったり。病院で死亡確認。警察官から司法解剖、と。過剰なインシュリン接種がみつかり取り調べ。留置所。弟が面会に来て罵声「会社で、高給取りながら母親は生活保護にしてたのかと言われた。いい恥さらしだ」と自分勝手。「ごめん」としか言えない圭子。ちっとは反論しろよ。
横山が自首して釈放。でもマスコミ押しかけていて帰宅できずファミレスで閉店までいて、戻ろうとしたらまだマスコミがいて、と思ったら自宅近くでヤンキーに拉致られ、暴行され、道路下に捨てられる。
気がつき、助けを求めて道路に這い上がるが軽トラに撥ねられる。
2週間後病院で気づくが視神経やられて全盲に。
横山の弁護士がきて、母親が「殺してくれ」といった、と証言すれば執行猶予の可能性も、と。裁判に出廷するも、母親の意志は確認できずと証言すると、被告席で横山嗚咽。
病院に横山の妻の弁護士がきて、離婚の責任だと1000万の慰謝料を請求。家を売れば…600万余で手をうつと。圭子の「住むところが…」に「ご自分で何とか。これぐらい当然」と冷たい
同室の患者や看護師も、盲目の圭子に食事のとき意地悪するんだが、フツーしないだろ、こんなこと。
退院し帰宅するも全盲で道路渡れず人の世話に。家の周囲に立入禁止のテープが残っているのは、事件発覚のときの名残?
家に落書き、投石。警官が訪問。民生委員がきてやっと食事にありつける。民生員は「施設に入った方が」というが。
と、山道を登る圭子。一緒なのは民生委員? 和尚は「ここでしばらく暮らしてもらって」といい、唖の男を紹介する。男は顔にケロイド。火災の火傷か何かか? 和尚は、 「彼を好きだった人と思って…」と意味深なことを言う。
さらに和尚は、「身体も精神も実体はない。空だ」(← その見解は変だろ)とかいって般若心経の唱名を勧める。 
数年後? やってきた横山。迎える少女。これは横山の子か 唖の男の子か?
圭子は剃髪して尼になっている。カツラではなく本当に剃っているのが役者の心意気? それを見る横山の背後に和尚が静かに迫り、一刀でで首をはねる。ええっ!? 何かで叩くぐらいかなと思ったんだけど…。なにがあったのかと問う圭子に、唖の男が指で何か書いて知らせると、圭子は「ああ、×××」といって微笑むが、聞き取れず。墓穴を掘る和尚? 唖の男? 空…。なラスト。
ホワイト・ノイズ12/15ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ノア・バームバック脚本/ノア・バームバック
映画.comのあらすじは「化学物質の流出事故に見舞われ、死を恐れるあまり錯乱してしまった大学教授が、家族とともに命を守るため逃走する。現代アメリカに生きる家族が死を身近に感じる環境に置かれたことで、愛や幸福といった普遍的な問題に向き合っていく姿を描く。」
Twitterへは「ほとんどムダ話。ホラー風味。パニック風味。シリアスドラマ風味。ヘンな映画。あ、ノア・バームバックか。日章旗、パナソニックはなんなんだ? ラストにNetflixのロゴ。なんだ、12月30日から配信だったのか。」
3つのパートに分かれてて。最初は大学内でのジャックのあれやこれや、かな。丘の上大学とかいう名前の大学で、新入生や家族の会話がちゃんとすぎるぐらいに聞こえるなかを歩いて行くジャック。フツーならモブ扱いのその他大勢も、人間扱いということなのかね。もう、よく覚えてないんだけど。同僚の教授がヒトラーを専門に扱いたいんだけど、ライバルがいるから、俺の講義でなんか話してくれないか? って頼まれて。で、その同僚の講義にハプニングのように介入し、同僚教授と掛け合いのように、とはいえ話がかみあってる感じはなかったけど、滔滔と説を論じていると他の教授たちも覗きにきて、拍手喝采、な話だったかな。なんか、でも、ヒトラーの件はライバル教授が扱うことになって、同両教授はがっかり、な感じだったかな。っていうか、あまり事件らしいモノもなく、印象が薄い、というか、記憶に残ってないんだよね。このパートは。
次は、トラックが事故で黒煙が空を覆い、避難勧告。みんな逃げるのにジャック一家は出遅れて、クルマで逃げ出すが…という、パニック映画風な話。避難場所で例の同僚教授と出会い、まさかのときのため、とかいって小さなピストルをもらうんだったかな。避難場所に日章旗が垂れ下がっていたりするのは、なんなんだ? ヒトラーと関係があるのか? あと、何かで「パナソニック」と出てきたのは、何だったのだ? ぐらいしか覚えてないよ。
最初の方からのエピソードとしては、妻がなにか薬物をやってる疑惑みたいなのがあって、妻はそれをジャックに隠しているのだよね。病院に行っても医師は「そんなクスリは知らない」という。で、そのクスリは…。よく覚えてないから、Webのネタバレページを見てみると…。ああ、妻は不安を除いてくれる新薬の治験を受けていて、その開発者と浮気するんだったか。で、ジャックはその開発者を撃つんだけど拳銃の威力が小さいから死ぬことはなくて、どっかの教会につれていくと、シスターは、そういう人のために用意があるとかいって医療施設があるのを見せて、手術する。とか、なんだかよく分からない話。エンドクレジットではスーパーマーケットの内部で踊ってる人々、そしてレジで踊って、レジ袋を投げる人なんかが写る。なんだかよく分からんのだった。
それぞれに何か意味があるのかも知れないけど、まったく分からない。変な映画だよ。そういえば、最後にNetflixとでてきて。なんだ、ネトフリでやるのかよ。
散歩時間 〜その日を待ちながら〜12/16シネ・リーブル池袋シアター2監督/戸田彬弘脚本/ガクカワサキ
allcinemaの解説は「新型コロナの感染拡大の影響で人々の行動が大幅に制限されていた2020年の11月を舞台に、できなかった結婚式の代わりに友人たちが小さなお祝いパーティを開いてくれた新婚夫婦や夢を追うデリバリー配達員、我が子が生まれたばかりなのに帰省できない40代タクシードライバー、学校イベントがほとんど中止となった中学3年生の男女など、それぞれに思い通りにならない辛い日々を送る人々の、“しし座流星群”が降る一夜の物語を描いた群像ドラマ。」
Twitterへは「2020年11月、コロナ禍で結婚式が出来なかった2人を祝う友人たち、産まれた子供に会えないタクシー運転手、ウーバー配達員、中学生、そして降り注ぐ流星群…。同類の群像劇に『きょうのできごと』があるけど、似すぎてないか?」「各エピソートが薄っぺらなんだよね。それに、コロナ下でのマスク使用のいい加減さが目立ちすぎ。夜中、誰もいないところでマスクしたり。ぎゃくに、わいわいするときにはしてなかったり。その矛盾へのツッコミがあるわけでもないし。」
若者たちが集まって話しをする集団をメインとして、その他のエピソードを散りばめながら、互いにわずかな接点を見せつつ映画は進行していく。これって『きょうのできごと』も同じだったよな。で、allcinemaのあらすじは「京都の大学院に進学する正道の引っ越し祝いに集まった仲間たち。映画監督を目指す中沢とその恋人・真紀。幼なじみや大学の友人、後輩といった面々。彼らは、それぞれにいろんな思いを抱え酔っぱらい、無邪気に騒ぐ。傍らのテレビでは、ビルとビルの間に挟まり動けなくなった男がレスキュー隊員に救助されているシーンが映し出されている。そして今度は、浜辺に座礁したクジラの姿が。偶然居合わせたサーファーや女子高校生がクジラを海に帰そうと必死になっていた。しかし、なかなか救助作業がはかどらないまま、やがて夜が明けようとしていた…。」となっている。同時並行で進むエピソードは、挟まった男の話だけだっけ? 覚えてないけど。とはいえ、『きょうのできごと』に同時並行エピソードをいくつか追加した感じで、パクリとまでは言わないけど、似てるよな。それに、複数の話が同時並行して進む映画は、きっとたくさんあるだろうし。と言う意味で、新鮮味があまり感じられなかった。
メインの、結婚式がわりのパーティも、新郎が転職を考えている、という隠しごとが発覚するぐらいで、とくに事件はなくて、ほとんどどうでもいいダラダラ話に尽きて退屈かな。場所になった家までやってくる道すがらはマスクをしていて、みんなでワイワイ飲み食いしているときはマスクをしてなくて。新郎がコンビニ行くときは、誰もいない夜道をマスクしているというアホ対応がみられる。ところで、途中から参加する人気YouTuberの女性は、ウーバー配達員が見ていたYouTubeの人? よく分からん。
ウーバー配達員の話はちょっと面白かったけど、彼がスマホで見ているYouTuber(?)の「ウラジミール、エストラゴン」とは何なんだ? (あとから調べたら 『ゴドーを待ちながら』の登場人物だった。なるほど、だけど、だから? な気がする)で、配達員は、劇団のオーディションを受けようとしていたのか? 芝居を観ようとしていたのか? どっちだっけ。で、それは中止になって残念がるんだよな、たしか。あとは、アラブ人っぽい同業者と話して、公園で漫才師を目指す女子二人と会って、いっしょに流れ星を見る、と。しかし、ウーバーの配達員が、仕事もせずにこんなだらだらしてていいのか? と心配になってしまったよ。
あとは、幼なじみの中学生のエピソードか。男の子が天体望遠鏡をもちだして、夜、流星群を見ようとというつもり。それを見かけた女の子がついてきて。で、なぜか公立の施設に入ろうとする。結局建物には入れず、柵を乗り越えてプールのある場所に侵入し、そこに望遠鏡を構えるのだけれど、なぜその場所を選んだのか、のかが不明。フツーなら小高い丘の頂上とか、あるだろうに。バカじゃないのか? とはいえ、ひょうひょうとしている男の子と、その彼を好きだけど言い出せない女の子と。でも、思い切って告白しようとしたら流れ星にジャマされてしまったり。という流れは、ありきたりだけど、微笑ましく見た。で、この2人がウーバーにハンバーガーを頼んで持って来てもらうんだけど、やってくるのが例のウーバー配達員という接点。
あとは、子供が誕生したけどコロナで会いにいけてないタクシー運転手か。この設定も、ありきたりだよな。タクシー運転手を登場させる映画なんて、山ほどある。なのであまり印象がないんだけど。乗客の1人が、最近、店を畳んだという男で。歳はいってないけど、マスクせずに運転手に話しかけてきたりする。で、そういえば、結婚式がわりのパーティに集まった面々は、どっかの焼き鳥屋で働いていた連中で、でも店は閉店してしまった、とかいっていたので、もしかしての接点か? とは思うけれど、従業員を何人も使う店の経営者に見えないんだよな、この男。しかも、店を畳んだといいつつ、タクシーに乗る。都心から飯能だかどっかに向かったんだっけか。電車で帰るだろ、フツー。電車のない時間帯にも見えなかったし。で、その男がタクシーを降りて歩き出そうとしたら、この運転手が呼び止めて、マスクを渡すんだよ。男はそれを受け取って、誰もいない深夜の路上で、そのマスクをするという、バカか。この監督は、この行為を奨めているのか? アホなマスク使用の例として、コメディとして見せているのか? 真意は分からずだっけけど。あとは、パーティ参加者の新婚カップルが、飯能近く(?)で呼び止めたのがこのタクシーで、都心へと帰っていく、という接点か。まあ、直接帰らず、運転手に見晴らしのいい場所まで連れて行ってもらって、流れ星を見てから帰ったようだけど。
というわけで、みなそれぞれに流星群な声を上げ、一夜を過ごす。まあ、よくある設定。『きょうのできごと』では、早朝の浜辺をみなで歩くと、クジラが打ち上げられていた、だったかな。
コロナ禍の影響をこうむった2020年が舞台というから2年前か。集団ヒステリーで意味なくウィルスを怖がっていた時代だ。で、ウィルスの力は弱くなり、死者も減ってクラスターがどうのと言われなくなった2022年の12月。街中の人は、いまだにマスクをしている。厚労省では、屋外では原則マスク不要。屋内でも、一定の距離が保てていれば不要。と勧告しているのに、いまだに美術館や博物館や公共施設やデパートなんかではマスクを強要され、なーんも考えてない一般商店でもそれに右にならえしている。ほんと、日本人は自分ではなーんも考えていないようだ。というのは、余計な感想だけど。
ブンミおじさんの森12/17シネマブルースタジオ監督/アピチャッポン・ウィーラセタクン脚本/アピチャッポン・ウィーラセタクン
英文タイトルは“Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives”。allcinemaのあらすじは「タイ東北部のとある村。腎臓の病気で余命わずかの男性ブンミ。ある夜、食卓に彼の亡くなった妻フエイが現われる。さらに、行方の分からなくなっていた息子も不思議な生き物の姿となって戻ってくる。やがてブンミはフエイに導かれ、深い森の奥へと足を踏み入れるのだが…。」
Twitterへは「ご飯食べると寝るの間違いないので昼飯抜きで臨んだけど、時々うつらうつらしてしまったよ。監督がアピチャッポン・ウィーラセタクンだから仕方あるまい。」
ブンミがどういう人物かは分からない。妻フエイとの関係もよく分からない。息子との関係もよく分からない。そういうなかで、だらだらと話が始まって、だらだらと終わっていく。タイでは一般的に幽霊が現れるのは当たり前だと考えられているのか? どーか知らないけど、ある夜、亡き妻フエイが現れ、行方不明の息子がサルの姿になってやってきても動ぜず、幽霊たちと会話しながら夕食をつづけるのかよ。とくに怨念でもなく、フエイは夫ブンミに寄りそいたい、ぐらいな感じ? 
ブンミの透析は腎臓病だから? 死が近いから、死んだ人を呼び寄せた? というか、先に逝った人への、ブンミの思いが強いということなのか。よく分かんないな。
森と農村と、幻想的な世界の話かと思って見ていると、兵士につながれたサルが登場したりする。かと思うと、ラスト近くではコンビニとか、ポップスが鳴り響く食堂も登場したりして、フツーの現代劇の雰囲気になる。トーンが一貫していない、不思議。あと、中盤にある、かつがれて森の中の泉にやってくる女性とナマズのセクシャルな描写は、ありゃなんなんだ? 浮いてないか?
とか、ぼーっとしながら、ときどき睡魔に襲われて目をつむったりしながら、みたよ。とくに感動もなにもない。だからなに? な映画だったかな。
★メモ
牛→森の中の赤い目→タイトル→車中移動のおばさん→ブンミの家?→ミャンマーからきた青年→トンがブンミの透析? →ブンミ、おばさん、トンで夕食→トンの横に浮かび上がる女→おばさんの姉で41で亡くなった妻フエイの幽霊→次は赤い目の毛だらけが息子だとやってくる(写真が好きだったけど森で行方不明に?が猿になってやってきた?)→★少し寝た→養蜂、蜂蜜→森を担がれていく女→水辺で自分は美しいかとかどうとか。姫? 水に入ると痙攣? またぐらにナマズ? →ブンミがおばさんに遺品分け?→ブンミとフェイの幽霊が抱き合う→兵士につながれて歩く猿の息子?/未来に行った、とかなんとか(あまり幻想性のない絵づくり)→ブンミとおばさんとトン? フェイも?が森の中へ。透析のパッチを外すと流れる液体。死を悟って森へ行った?★少し寝た→葬式、祭壇にネオンがチカチカ→待合室? におばさんと、娘? がテレビを見ている。そこに僧姿のトン。坊さんだったのか!? 本来は来てはいけなくて本堂にいるべき? が、シャワーを浴びてジーンズに着替え、食べに行こうと2人を誘うが娘は行かないと。セブンイレブンがどうとかと娘に言ったり。幻想性はなくフツーな雰囲気の映像→で、おばさんと行くことに→ベッドに、座っているおばさん、横になっている娘、座っているトンがいて、テレビを見ている。その横におばさんとトンがいて部屋を出ていく。どちらが実体で、どちらかが霊体?→レストランのふたり。現代風なポップスが鳴っている。ここも幻想性はない。…な、流れだったかな。
チーム・ジンバブエのソムリエたち12/20ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ワーウィック・ロス脚本/ワーウィック・ロス、ロブ・コー、ポール・マーフィ、マデリン・ロス
原題は“Blind Ambition”。allcinemaの解説は「政情不安な祖国ジンバブエから南アフリカに逃れた4人の難民たちが、そこで出会ったワインに魅了され、やがて一流のソムリエに成長し、ついには世界初の黒人チームを結成し、祖国の威信をかけて権威あるワインテイスティングの世界大会に出場した。本作はそんな彼らの驚きの挑戦を、4人それぞれの人生とともに追ったドキュメンタリー。」
Twitterへは「ドキュメンタリーだったのか。『クール・ランニング』みたいな面白ワクワク期待したけど、いろいろ中途半端で切れ味も…。なぜ監督は彼らに目をつけたのか? テイスティング大会後のコーチの表情やひと言は? などもやもやする。」
南アに逃れてきたジンバブエ人がワインに触れ、コンテストに参加、な話で。予告はチラと見てたけどフィクションかドキュメントか知らずに見たら、後者だった。にしてはいろいろ中途半端な感じで、見終わってもスッキリしないしとくに共感もない。
ジンバブエのいま、難民となった経緯、いまの仕事、などはさらりと紹介されるけど、表面的すぎるんだよね。ワインなんか知らなかった、まずいと思った、と1人が話すけれど。どういう経緯でワインを飲んで、そして魅せられるようになったのか? がない。そして、仕事にするようになった経緯もない。ジンバブエ人たちのコミュニティや、なぜコンテストにでることになったのか、なんかもない。そして、この監督が彼らに着目した理由もきっかけもない。それじゃつまらんだろ。監督本人が登場して、撮ろうと思ったきっかけを話すべきな企画だと思うな。でないと説得力が足りないし、彼らに入れ込めない。
で、コンテストに参加することになった。南アとしてでもよかったようだけど、メンツがそろっているのでジンバブエチームとしてもいいか? てな感じなのかな。で、コーチが付くんだけど、これは必須なのか? と思っていたら、ラスト近くでいなくてもいいようなことが分かる。これも説明不足かな。だってコーチ同士の確執と、ヘボコーチ、という問題が後に出てくるし。このあたりも、よく知りたか感じ。
でそのコーチの問題なんだけど。当初は南アチームに付いているコーチ・ジャンがジンバブエチームの面倒もみてワインの試飲を重ねていたんだけど。いざフランスへ行くとなって別途コーチをつけなくてはならなくなった。で、どういう経緯で選ばれたのか知らんけど、フランス在住のワイン通のおっさんドゥニがコーチに付いた。当初はジャンの計画する、あちこちワイナリー転々としながらテイスティングを重ねる、にジンバブエチームも従っていたんだけど、最後になってドゥニが別行動を主張。ジャンはテイスティングの数が大事というけれど、ドゥニは知ってる畑でこれぞ、というワインのテイスティングが重要と判断したらしい。ジャンは「ドゥニは顔を広げたいんだよ、あいつは」と冷ややかに話す。
というちょっとした決裂があっての本選当日。ジンバブエチームのテーブルでは、ドゥニが結論を先走り過ぎな感じでメンバーに「黙っててくれ」「いま考えてるところだ」といわれ、黙ってしまう。一方で、審査官から、ドゥニの用紙への書き方について注意を受けたりする。へっちゃらさ、な感じのドゥニに、メンバーは「そうじゃなくて、こうだ」とか言われてしまったり、ギクシャクしはじめる。…のだけれど、このあたりの撮影はどうしてたんだろう。カメラを持ち込んでるのはこの映画関係者だけではないと思うけど。ジンバブエチームの、ワインを当てようとする会話とか、ちゃんと入ってる。他のチームのことろにも、少しだけ入ってる。本選中は入り込まず、映画的な演出な可能な時間をつくってもらって撮ったのかな、などと考えてしまう。だってジャマだし、選考にも影響しちゃうだろ。
で、結果はどうだったかというと、最下位はイタリア、ジンバブエは24位だったか23位だったか。1位スウェーデン。そんな感じ。参加各国の旗も映らないので、日本が参加していたかは、分からない。これも不親切だよな。どうせなら全参加国を映し、順位も見せるべきだろ。だいたい南ア チームの順位も映らないなんて、そりゃないだろ。しかも、結果発表後の、ジャンとドゥニというコーチの表情もひと言もない。なんじゃこれ、な感じだ。
その後で、参加メンバーのその後の紹介があって、どこそこで講演して何かに寄与したとか、ワイン農家になったとか、オランダに移住してワイン輸入商になった、とかだったか。でさらに、翌年もコンテストに参加したけどコーチは置かず、順位は15位で、日本よりもよかった。なんてことを紹介して終わってしまう。この翌年の参加チーム、各国の順位も知りたいよなあ。もやもや。
・オープニングは、ミリアム・マケバの「パタパタ」なんだけど、意味あるの? で、調べたら南アの人だった。
ケイコ 目を澄ませて12/26ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/三宅唱脚本/三宅唱、酒井雅秋
allcinemaのあらすじは「下町の小さなボクシングジムで黙々とトレーニングに打ち込むケイコ。ボクシングの才能に恵まれていたわけでもなく、ましてや両耳とも聞こえないというハンデさえあった彼女だったが、地道な努力の末にプロボクサーとなり、今もプロのリングに上がり続けていた。しかし愛想笑いができず、嘘やごまかしも苦手で不器用にしか生きられないケイコ。いつしか言い知れぬ不安や恐怖に押し潰されそうになっていた彼女は、“一度、お休みしたいです”と書き留めた手紙を会長に手渡そうとするのだったが…。」
Twitterへは「別人のような岸井ゆきの。練習シーンはノーカットで、かなり見せる。淡々と進むけど成長ドラマもなく、「目を澄ます」場面もない。悩みも、よく見えない。音を消す演出はあえてしなかったんだろうけど、あってもよかったんじゃないのかな。」
なかなか評判がいいようだ。けど、それほどのものか? というのが見終えての感想。だってケイコが何を考えているか? なんでいつも拗ねたように不機嫌なのか? なぜボクシングをするのか? といったことのほとんどに答もヒントもないから。ただ黙々と練習し、試合に出てボコボコになり、を繰り返すだけだから。そのな娘のどこに共感すればいいのだ? 
聾者の映画なのに、音がいい、というような評価もあるようだ。練習や試合のパンチの音。会場のざわめき。それが研ぎ澄まされている、という。これには「はあ?」と返す他はない。それじゃケイミの見ている風景じゃないだろう。一切無音。それがケイコにとっての試合風景のはず。だったら試合中はまったくの無音で表現するなど、いくらでもあるだろうに。なぜしないのか? もちろん、あえて音のある風景を観客には見せているのだ、という主張もあるだろう。では、それは何のためなのだ? 聾者の映画で無音は当たり前すぎるから? けっ、な感じだな。
そして、タイトルの「目を澄ませ」だけど、こんな場面は一切ない。音を目で聞き分け、パンチを避けるとかいう場面でもあれば、なるほど、なんだけど。そんなこともない。ケイコは、目を澄ませて、いったい何を見て、感じ取っているのだ? なーんもつたわってこないぜよ。
とはいえ、驚いたのはケイコ役の岸井ゆきのが、これまでの映画の彼女と別人なのは驚いた。いつもはチャラくて軽い女の子、だけど、この映画では野性味あふれた野犬のよう。顔が違う。ジムでのパンチの練習風景も堂に入った感じで、延々とつづく様子は、本当に練習生のよう。そうとう練習したんだろう。とはいえ、それだけ、なんだけど。
・聾者でもプロになれる、のか。安全性は、ある程度担保されているのかな。まあ、そんなことを説明していたら良心的な障害者映画になっちゃうけどね。
・最初の試合、負けてるように見えたけど。ケイコが勝者コールされて、え? 本人も、だったみたい。変な場面だな。
・ボクサーとは関係なく、聾者の不自由性はちょこちょこ描かれていて。顔に傷だらけで河川敷にいたら警官の職質にあってあれこれ聞かれたり。でも、他の場面でもそうなんだけど、ケイコはほとんど主張しないんだよね。メモ帳もってて、何かあったら書く、という習慣もない様子。身振り手振りで表現することもしない。聾者とは言え、声は発することが出来るだろうに、それもしない。(聾唖なのか?) なんかじれったい。
・他にも、スマホ(?)男とぶつかり罵声を浴びても言い返さないとか、スーバーで「ポイントカードは?」と問われてマイバッグを出す場面とか、生活の中のズレがいくつか登場して興味深かった。
・あとは、聾者ならではの工夫。目覚まし代わりに扇風機はアイディアだけど、冬は寒いだろ。ドアチャイムと点滅光との連携させるとか。なるほど、なところがあった。
・とくに説明はないのだけれど、ケイコはフツーの女の子になりたい気持ちが芽生えていたのかな。女の子3人でカフェにいる場面があって。手話で話してたけど、ウェイター呼んで話してた? としたら1人は話せる? どういう関係かの説明はなし。手を見ていたのは、運勢? の頃からか、マニュキュアを始めたり。会長が倒れてから、耳にピアスまでしてた。会長への「少し休みたい」という手紙の意図は最後まではっきりしないけど、もしかしてもう殴られて顔をボロボロにしたくない、ということだったのではないかとも思えたりする。そういえば、ジムを辞めていった青年がいた。なかなかのイケメンで、ケイコと接点があるのかと思ったら、なにもない。やめる理由は「女ばかり教えてて」というようなものだったかな。ひょっとしてケイコは彼に気があった? と疑ってしまいたくなる。彼が止めて、がんばりを見せる相手もいなくなって、ボクシングを始めた頃の猪突猛進差もなくなり、自分も止めたくなったのか? と勘ぐったりしてしまった。
ジムの閉鎖が決まって。でも、決まっていた試合には参加することになって。ケイコは試合に臨むのだけれど、試合中、足を踏まれて倒れ、ダウンをとられる。レフェリーにジェスチャーでクレームするがとどかず。これで脳天に血が上ったか。がむしゃらに攻めたけど一発食らってダウン。というのは彼女の猪突猛進的な性格なのかね。後日、土手にいたら、作業服の女子がやってきて「先日は試合ありがとうございました」と健気に挨拶してくる。足を踏んだ相手かな。その顔が痣だらけ。なんだ、いい子じゃないか。この一件でもやもやが晴れたのか。ケイコは立ち上がって、土手の上へ。またやる気が出た? なラストだけど、すでにジムは閉鎖して、どうするんだろう。探してもらって挨拶に行った新宿あたりの近代的な設備の整ったジムに所属するのかしら。挨拶に行ったときは不機嫌そのものだったけど、なんで? な感じだったよな。ほんとケイコの心は読めない。
・母親を見送る場面は京成線か。場所は荒川区と言っていたから、すると町屋。ジムもその近くか。けれど、練習するのは高架下や河川敷。あんなの荒川区にはないから、小菅とか、墨田区の荒川あたり? ラストの俯瞰は汐入あたりから見た水神大橋と白鬚の防火住宅。これは隅田川だけど。にしても、エリアが広すぎ。まあ、映画だからな。
そばかす12/30新宿武蔵野館2監督/玉田真也脚本/アサダアツシ
allcinemaのあらすじは「30歳になる蘇畑佳純はチェリストになる夢を諦め、今はバイトをしながら実家暮らしの日々。母親はそんな佳純に結婚してほしいと思うあまり、勝手にお見合いをセッティングしてしまう。しかし佳純は、これまで一度も恋愛したことがなく、そもそも恋愛感情というものを抱いたことすらなかった。それを誰にも理解してもらえず、不安といら立ちを募らせる佳純だったが…。」
Twitterへは「近ごろではLGBTQIA+というらしいけど、三浦透子はそのAな30女。でも彼女にドラマは起きず「話の設定」な感じで、途中から登場するトリックスター的なふるまいの前田敦子が三浦と化学反応して話が面白くなっていく。その他の人物はいくぶん記号的かな。」
そう。三浦透子の佳純は、ほとんど自分の意志をもたず、どちらかというと巻き込まれ型で流される人生な感じ。聖と俗を併せもつ友人・真帆(前田敦子)が登場し、あれこれふりまわされる、という形の話になっている。だから、三浦透子の佳純のでているところは、そんなにドラマチックじゃない。でも、真帆に刺激されて自意識に目覚め、行動するようになって、佳純も輝いてくる、な感じの話になっているのだよね。前田敦子は、トリックスターとして面白いキャラを演じていると思う。
映画の冒頭は、海辺の砂浜でぼーっとしている蘇畑佳純。この名字名前から、題名の「そばかす」になったらしいけど、何かを象徴してるようには思えんな。仕事はコールセンター。合コンしたけどつきあいだから興味もなく。でも母親は、嫁に行った妹には子供が生まれるのにお前は的な話を佳純にする。佳純は、面倒、な感じで聞き流してる。唯一話し相手になってくれているのは、妹ぐらい?
ある日、母親が「一緒に服を買いに行こう」と連れ出されて行った先で突然の見合いをさせられて、なんだけど。いくらなんでも見合いの席に着いてまで「なにこれ?」と言ってるのは、映画的演出とはいえ不自然すぎだろ。で、見合いの相手が、いつも行ってるラーメン屋の若い店主だっていうのも、映画的演出とはいえ出来すぎだろ。それに、娘の見合い相手に脱サラのラーメン店主を選ぶか? という大いなる疑問もあるけどね。相手も結婚はまだ、と思っているらしく、客と店主な感じで友だちづきあいしてて、バイク相乗りで千葉の閉店間近のラーメン店に行った帰りに一泊したら店主にいい寄られて…。これで友だち関係は終了。一緒に旅して部屋は別でもお泊まりし、飲もうか、と部屋を訪れたら入れてくれて…、な展開なら、店主にしてみりゃ、何だこの女、になっちゃうだろうな。多くの男はそういう動物だから。では、最初から自分は男女問わず恋愛対象として関心無し、と宣言すべきなのか。という問題が残るけど。そんなことをする必要はない、というのだったら、迫られてもしょうがないだろ、と思えてしまう。なんていうと、いや、いかなる場合も一方的に迫るのは禁止である、といわれるような気がするんだけど。そうしたら、非LGBTQIA+の人たちの生理はどうなるの? な話だよね。このあたりは、障害者を基準に街づくりをするべきだ、というような主張と似てくると思う。しかし、それは合理的なんだろうか?
ちょうどその頃、かつて教師をしていた(?)同級生・男と出会って。誘われて保育園に勤めることになるという、お気軽な転身。コールセンターより魅力的だったのか。はいいけど、音大出だから保育士の資格もないだろうに、できるのか? という疑問。調べたら保育補助というのがあって、それは資格が不要らしい。なるほど。で、ここで、誘ってくれた同級生が「僕は同性愛なんだ」と気軽に告白。それで勤めを辞めたとかいってたかな。周囲の無理解? でも、具体的に何があったのかし話してなかった。とはいえ、めったな人には言わない事実をなぜ佳純に言ったのだ? という疑問が沸いてくるよなあ。
なとき、またしても浜辺で寝転んでいたら、小学生のときの同級生・真帆に声をかけられ、そんな仲良くなかったはずなんだけど、友だちづきあいを始める。この映画、こっから話が面白くなってくるんだよね。2人で喫茶店にいると近くの高校生? っぽいのが「XXXX三ですよね」と声をかけてきて一緒に写真を撮ったり握手を求められたり。呆気な佳純をよそに、にこやかに真帆が応じていく。佳純が真帆に「いい声してるね」なんて言ってたから、声優? と思ったらなんとAV女優で、しかも、隠そうとしていないところが堂々とし過ぎ。
なとき、保育園で『シンデレラ』をデジタル紙芝居にするというので佳純に白羽の矢が。でも佳純は「ストーリーは男目線」といい、真帆も「そうだそうだ」となって、当日、上演したのは、王子様からの招待状に無関心で、王子様から求愛されたシンデレラが、その申し出を断るというストーリー! これに父兄や来賓の県会議員(なんと真帆の父親)がクレームをつけ、佳純は平身低頭。の話をしたら真帆が激怒して、父親の街頭演説に殴り込みして罵倒する始末。な真帆にほだされたのか。佳純は真帆に「一緒に住もう」と申し出て、話が進むかと思ったら、なんと直前になって「結婚するからゴメン」と謝られてしまう。昔つきあっていた東京の元彼とヨリが戻り、結婚することになったという。なんと波瀾万丈な真帆であるよ。
佳純改作の『シンデレラ』に真帆父の県会議員は「多様性の大切さは分かる。しかし、幼い子供にいきなりはまずい。まずちゃんとした価値観を教えるべきだ。多様性はそれから」というんだけど、「ちゃんとした価値観」なんていうものがない、というのが近ごろの通念なのだから、話が逆転している。それは分かる。でも、女はイケメンが好き、金持ちが好き、というのもひとつの価値だし、LGBTQIA+にもそれぞれの価値があるというのも事実。王子様に好かれても喜んだりしない、というのも事実だからといって、その話だけを子供の前でするのも、ひとつの価値観の押しつけになるわけで。じゃあ、どうやって多様性をつたえるのか? 王子様に告白されたときのすべての反応パターンを見せないといけなくなるのかね。ああ、めんどくせえ。
はいいとして。あの『シンデレラ』を事前にチェックせずにいきなり見せてしまうというのは映画的演出とはいえ、保育園側にも問題はありはしないか。佳純も、こんなんつくりましたけど、とお伺いを立てるぐらいの常識はないのか疑惑はつきまとうけどね。ところで、舞踏会を「ぶどうかい」と呼んでいるのは違和感でしかない。
で、真帆の結婚式では、友人代表のスピーチの代わりにチェロを弾くのだけれど。指や弦の動きも見せていたけど、合ってるのか? 三浦透子はもともとチェロが弾けるのか? 練習したのか? それが気になってしまった。
な分けで結婚式はひと段落。で、保育士仲間で飲みに行くことになって、でも、最近入った男性保育士が「歓迎会よ」と女性陣が言うのを断り、帰ろうとする。のだけれど、佳純にそっと声をかけ、後日、一緒に映画でも見に行ったのか? 何しに行ったのかよく分からない。というのも、ロビーか何かで「じゃあ、のちほど」と別れてしまい、次の場面は喫茶店で話しているから。シネコンに行って別の映画を見て、終映後に落ち合ってお茶か? 変なの。だけれど、彼が言うには、佳純のつくった『シンデレラ』を見て、同じ人がいる、と感動したから誘った、という。なので、喫茶店の後は、後腐れも何もなく、じゃあ、と帰ってしまう。その対応に佳純も興奮気味で。やっと理解してくれる人が現れた、な感じで晴れ晴れしてる。な終わり方。
しかし、理解者が現れたけど、理解者とは特別仲良くならない、というつきあい方がいいのか知らんけど。あんなんでいいのかね。サッパリし過ぎ。というのは、LGBTQIA+ではない人の感想なんだろうなあ。
・「トム・クルーズはいつも目的に向かって走るけど、『宇宙戦争』では逃げるために走る。あれがいい」が口癖だけど。意味するところはよく分からない。
・この映画、母親(坂井真紀)、祖母、父親、他の保育士など、ほとんどアップがなくて顔が見えない。意図して記号的にしているんだろうけど、その目的がよく分からんな。祖母など3度の結婚歴があるとか、ギャーギャーとセリフは多いけど、本人は目立たない。なので、機能していない。父親は、何をしている人かよく分からなかったけど、救命士? 消防? それが欝で自宅でゴロゴロ、なのか。では、家計はだれが支えているのだ? 
・母親もステレオタイプで、娘には結婚を求む、の一本槍。いまどきおらんだろ、そんな単純なオバサンは。
・父親だけが理解者、のように描かれているけれど、その理由は分からない。欝だから? ところで父親はかつて音楽家になりたかったの? チェロの手入れしてるぐらいなんだから。違うのか? よく分からんな。
・妹は姉の話し相手になってたりして理解者かと思ったら、なんと姉をゲイだと思い込んでいたという…。このズレは何なんだ?

 
 

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