2023年3月

ベネデッタ3/3新宿武蔵野館3監督/ポール・ヴァーホーヴェン脚本/デヴィッド・バーク、ポール・ヴァーホーヴェン
フランス/オランダ映画。原題は“Benedetta”。allcinemaのあらすじは「17世紀のイタリア。幼い頃から聖母マリアと対話し、6歳で修道院に入ったベネデッタ。成長した彼女はある時、修道院に逃げ込んできた若い娘バルトロメアの世話係をすることになり、やがて2人は禁断の関係に。そんな中、ベネデッタはイエスの幻影を繰り返し見るようになり、ついには手と足に聖痕があらわれる。次第に人々がベネデッタを崇めるようになる一方、修道院長は彼女への疑いを強めていくのだったが…。」
Twitterへは「キツネ憑きの修道女。崇められたかと思ったら同性愛で査問されて…。張り型、拷問具、素っ裸もたくさん。ペストもからんで、なかなかにドロドロしたコメディだった。ちょい役じゃないシャーロット・ランプリングも久々に。」
内容的には話の整合性がとれてなくて散漫というか、しっちゃかめっちゃか。ベネデッタという存在と、対する当時の協会制度の関係について、批判的なの? たんに茶化しているのか? 同性愛についても、なにを言おうとしているのか、よく分からない。けれど、描かれていることはバカバカしいし、それなりに面白くて、しかもときに笑える。不思議な映画。
18年後というからベネデッタは24歳という設定か。演じたヴィルジニー・エフィラは1977年とある。映画の製作は2021年なので3年前としても、実年齢43歳の時かよ。全裸姿を思い出すと、腹の出具合とか、そんな感じかな。はさておいて、修道院に逃げ込んできたバルトロメアという娘は、母親が亡くなった後、父や兄から性暴力をうけつづけていた、という。逃げ込んだ修道院にはベネデッタ他、限定された修道女がいるんだけど、入るのに金が必要で、厳選した娘しか入れない、というのが驚きだった。ベネデッタが入るときも、ベネデッタの両親は以後25年間野菜や果実を送る他、金を要求されていた。どのぐらいの価値か分からないけど、なんでなのかね。親の方も貧乏では無さそうで、なのになぜ娘を修道女にしたがるのか。当時は、修道女にするのがステイタスだったんだろうか。とはいえ、親と金の力で修道院に入り、質素なものを身につけ、ストイックな生活をつづけるのは割に合わないとしか思えないけどね。
で、バルトロメアは奔放な娘で、トイレでウンコの後、屁をするのもへっちゃら。そして、彼女の世話をするベネデッタにまとわりつき、身体に触れ、キスをする。ベネデッタを同性愛の世界に引きずり込む悪魔的な存在として描かれる。ベネデッタもバルトロメアを忌避することなく、最初は戸惑いつつ、でも、しだいに性愛の世界に引きずり込まれてしまう。このあたり、厳格に躾けられた修道女とも思えない反応なので、すぐさま納得できないんだけど、まあ、そうなんだろう。
ところで、ベバルトロメアはウンコの後、すっ、と立とうとするんだけど、ベネデッタが壁の藁を差し出すのだよね。バルトロメアは、え? な反応をしつつ、藁で尻穴を拭くんだけど、当時はそういう感じなのか。ウンコの尻穴、とくに拭かずにそのまま、が多かったのか。うげ。
でまあ、同時並行的にベネデッタは病を経てイエスの幻覚を見るようになりるのだけれど、幻覚の中でベネデッタはイエスの妻になる運命であったり、ベネデッタを襲う男どもの首をはねたり、妙な設定が多いんだよね。のうち、両手に釘の跡が出現したり、額に茨の跡がでたりで聖人扱いされるに至り、地区の司教? から修道院長になるよういわれる。これまでの院長は経験もあるし、ベネデッタがやってきたとき指導してくれた人。院長の娘も修道院にいて、経営的にも手腕を振るってたようだけど、身をひかなくちゃならなくなる。お気の毒、な感じかな。けど、院長娘はベネデッタのあれこれはみんな嘘だと言い放って、額の傷をつけているところを見た、と言ってしまう。それにたいして母親の院長は、娘は、見たとは言っていなかった、と正直に言う。てなことがあって、追いつめられた院長娘は修道院の屋根から投身自殺しちゃうという。まあ、なんか悲惨な話になっていく。
とはいえ元院長も抜け目がなくて、院長室の中を覗き見して。ベネデッタとバルトロメアがいちゃいちゃしているところを観察。笑っちゃうのは、ベネデッタが修道院にやってきたときもってきたマリア像があるんだけど、それをバルトロメアがナイフでいいように削り、張り型にして快楽を得ちゃうというところだな。
こうなるとベネデッタの心の中がさっぱり分からない。バルトロメアとの快楽にどっぷり浸り、信仰を裏切ってるのは明白なんだけど、普段は敬虔な信者でいる。この状態でバランスを取れているのが不思議。フツーなら、わたしはこれでいいのかしら? と悩むと思うんだけど、そうはならないんだよね。
でまあ、元院長の復讐劇が始まって。ペスト流行の最中、街を出るな、というベネデッタの命を聞かず、フィレンツェの偉い司教のところに直訴に行くわけだ。ベネデッタは同性愛に励んでますよ、とかなんとかね。それでその偉い司教をつれて街に戻ってくるんだけど。最初は、街に入れない、と拒んでたのに結局一同街の中に入ってくる。このときベネデッタはフィレンツェの司教の足を洗うんだが、司教がベネデッタに「淫売がするのと似ているな」的なことを言うと、すかさず「そういう経験があるのですか?」と切り返すところがおかしい。まあ、あるんだろう、きっと。それに、ベネデッタもバルトロメアとのいちゃいちゃで、愛撫のコツをつかんでるのかなとか想像できて、これまたおかしい。
さて、偉い司教によるベネデッタの審問みたいなのが開催されることになって。バルトロメアが証人として呼ばれ、正直に言え、と迫られる。最初は否定していたんだけど、どうやら拷問男が怪しい器具を取り出す。鉄でできた花びらみたいなもので、閉じたまま女陰に差し込み、じわじわ開かせていくらしい。これも、不謹慎ながら笑っちゃったよ。女性のためのこんな拷問具があるんだなあ。すげーなー。で、簡単にバルトロメアはゲロし、聖書の中味をくりぬいて張り型を隠していることも明かしてしまう。とはいえ、あんなところに隠しても、すぐ見つかっちゃうだろうに。
というわけでベネデッタは火刑に処されることになるんだけど、バルトロメアはお咎めなし、なの? まあいい。で、広場に連れ出され、いざ、処刑人が火をつけようとすると、群衆が怒りに沸き立っている。この展開は、ちょっと説明が足りなさすぎだと思うんだよな。街の人々にとって、ベネデッタは相変わらず聖人で、そんな彼女を火刑にするなど許さん、な感じで暴れ出す。バルトロメアらがベネデッタの縄をほどき、逃走。一方、ペストに罹患してしまった元院長は、燃えさかる火の中に身を投じる。これまたペストに冒されてしまっていたフィレンツェの偉い司教は、どっかの女に刺されて死亡。おやおや、な展開だよなあ。もと院長にすれば、私は何も悪くないのに、なんでこうなるの? だろうなあ。偉い司教も、どうなってんの? な気分だろう。
ベネデッタとバルトロメアは、遠くから燃える街の灯を見ている。バルトロメアは、知っている人のいないところへ逃げよう、というんだけど、なぜかベネデッタは街に戻っていく…。なぜ戻るのか意味わからん。で、字幕が出て、ベネデッタは70歳(だったかな)まで生きたとか。ほぼ地下で暮らし、ときにみんなと一緒に食事したけれど、テーブルではなく床に直座りだったとかなんとか。実話に基づいてはいるらしいが、ほぼテキトーな感じだな。
まったく変な話だった。ぜんぜん神秘的じゃない。ベネデッタが男の凄い声で神の言葉をつたえるようなところもあるけど、映画的演出で、じっさいは声色だったんだろう。突然倒れたりしたのは、てんかん持ちだったのか。精神的な病をもっているとか、ただのキツネ憑きだったとか。そんな類だろう。幼い頃から信心深かったのが、あっという間に同性愛の世界に浸っていく経緯は、あんまり説得力がない。しかも、院長を陥れ、院長娘も自死に追いやりながら、堂々としているところは善悪の区別もついてないような感じだし。キリストの生まれ変わりをうまく利用して、修道院を撹乱したってだけな感じかな。ペストを街に流行させなかった、らしいけど。そう評価されるなら、地下暮らしにさせられることもなかったろうに。っていうか、偉い司教も元院長もいない状態で、ベネデッタに審判を与えられる人は、だれなんだ? 地元の司教とか、神父さんとかなのか? もやもや。
エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス3/6109シネマズ木場シアター1監督/ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート脚本/ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート
原題は“Everything Everywhere All at Once”。allcinemaのあらすじは「アメリカで頼りない夫とコインランドリーを営む中国移民のエヴリン。仕事ではただでさえ経営が厳しいのに、国税局から納税申告の不備を指摘され、家では頑固な父親の介護に追われる中、反抗的な一人娘ジョイが女性の恋人というやっかいな問題を持ち込もうとしていて、すっかり疲れ果てていた。そんな中、突然夫に“別の宇宙の夫”が乗り移り、強大な悪の存在によって危機に直面した全宇宙を救ってほしいと語り、いきなり世界の命運を託されてしまうエヴリン。しかも巨悪の正体は娘のジョイとのこと。困惑しながらも、平行宇宙へジャンプする技術によってカンフーの達人となった“別の宇宙のエヴリン”の力を得て、ジョイの暴走を止めるための過酷な戦いへと身を投じていくエヴリンだったが…。」
Twitterへは「金と手間をかけたB級SFな感じで。でも繰り返しが多くムダに尺も長いので飽きる、というか寝そうになった。単純な話を意味ありげで難しそうに見せているのもなんかなあ。これでアカデミー賞?」「IMDbも8.0つけてるのがよく分からない。アメリカ映画ではあるけれど、登場するほとんどは中国人。非欧米風映画礼賛の影響かしら。」「ただのバカ映画じゃん」
主人公はオバサンとオジサンだけど、話はセカイ系な構造なんだよね。↑のあらすじで概ね内容は合ってるのかな。悪の正体が娘のジョイ、ってのはどこで見せてたっけ? フードで顔が見えない(けど丸分かり)のがでてきた頃か? あんとき、敵だ、ってなこと言ってたっけか? あんまし記憶がないよ。
最初は、国税庁で監査官とのバトルだったよな。あれ、乗りうつったのは“別の宇宙の夫”だったのか。へー。なんか、全宇宙的なレベルで悪と戦ってる正義の味方、みたいなものかと思ってた。で、国税局のエレベーターで、乗りうつった夫から指示を受け、国税局監査官の女性と対峙するとき、エヴリンは物置に入ったり現実に戻ったり、せわしない。でも、なんでこんなときに乗りうつったんだよ。もっとヒマしてるときに乗りうつりゃあいいだろうに。そういやあ、店内の監視カメラに写ってる夫は、ひゅんひゅん動きまわってたけど、あれは乗りうつってる状態だったのか?
で、以後の、監査官のオバサンや警備員とのバトルは、あれは現実世界でのものじゃない、んだよな? みん、別世界でのバトル、なんだよな? どうなんだ? 以後の、娘とのバトルも、すべて別世界での別の自分や娘、と考えていいのか? でも、戦いながら、乗り移りがなくなって素面に戻ったりもしてたような…。いや、もう、よく分からん。
税金支払いでの国税庁とのバトルかと思っていたら、いつのまにか娘とのバトルになって。でも、背景が変わったりしているのは、別の世界で、ということなんだろうか。あ、そうだ。あのベーグルはなんなんだ? ブラックホールみたいなものなのか? それにしても、あんなのが登場するSF映画って、あったような気がするんだけど、記憶にないや。他の映画といえばアライグマは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』なのか? 『2001年宇宙の旅』はモロ分かりだけど。その他にもいろいろあるんだろうけど、よくわからんちんだな。
以降は、物語というより世界が変わったり、場面がチカチカしたり、いろんなバトルが繰り返されたり。それも、同じような見え方だったりリフレインだったりするので、飽きる。画面見ながら別のこと考えたり、うっすら眠くなったり、画面は派手になっていても退屈だった。
で、要するに、母娘の対立が、全宇宙的な問題になって繰り広げられる、ということのようだ。でも、対立というほどのものはないように見えたけどなあ。娘の恋人が白人女性、というので喧嘩しているわけじゃないし。むしろ、爺さんが知ったら事だ、な感じじゃないかな。それと、エヴリンは夫との離婚を考えていて、届けも書いていたんだよな。提出はしてないけど。でも、そんな険悪な雰囲気じゃない。だって国税庁にも一家四人ででかけてるし。娘だって洗濯屋の仕事を手伝ってる。なにもしないのは爺さんか。という状況で、娘との対立が全宇宙的な問題とは、思えないよなあ。
最後は、エヴリンは娘と和解し、娘は恋人を祖父に紹介し、エヴリンと夫はキスして、これで離婚の危機は逃れた? でも、一連のバトルがどう影響してそうなったんだ? 別の世界の夫の別の面を見て惚れ直した? なんだかなあ。
・マルチバース、と説明しているサイトが多い。調べると多元宇宙のことで、いつごろから言われ始めたんだろ。パラレルワールドとか、時間軸、というのと、どう違うんだろ。よく分からんよ。
まあ、映画としての見かけはさておいて、結局、夫や義父、娘との関係や、仕事で不満のたまっているエヴリンの妄想がつくり出した物語であるとは思うけどね。
・変なことをすると別の世界へ転移しやすくなるらしく、変なことをするんだけど、概ねつまらない。たとえば尻の穴に突起物を入れようとしたり、バカか。
・バトルのとき、極悪娘が長いちんぽみたいなのを振りまわす。なんなんだ。アホか。
・たらればのノスタルジー的なところが多くて。あのとき夫と結婚していなければエヴリンは映画スターだった。とか、店員だったり、いろんな姿で現れる。だからなんだってんだ。な感じ。
・はたまた指がソーセージになっている世界だったり。くだらねえ
・生命が発生しなかった世界というのもあって、2つの石が文字で会話しているのはおかしかった。あれ、エヴリンと夫かと思ってたら、娘とだったのか。
・エヴリンの額に目玉が貼り付いて3つ目になるのは、ここで超能力を獲得したということなのかね。
・アメリカで洗濯屋というと中国移民の定番の職業か。大規模なコインランドリーを経営してはいるけど、確定申告はあんなに厳しいかねえ。カラオケセットの領収書を経費に入れていたぐらいで大事過ぎるだろ。経営破綻に陥りそうなことも言ってたけど、それはないだろ。結局、最後は修正申告で済んでるんだから。
ホーリー・トイレット3/7ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ルーカス・リンカー脚本/ルーカス・リンカー
ドイツ映画。原題は“Ach du Scheisse!”。allcinemaのあらすじは「頭部を負傷して意識を失った建築家のフランクが目覚めたのは、工事現場にある仮設トイレの中。周りには大量のダイナマイトが34分後に爆破する状態で仕掛けられていた。すぐに逃げ出そうとするも、右腕に鉄筋が突き刺さって身動きができなくなっていた。記憶があいまいで混乱しつつも、この絶体絶命の状況から抜け出すべく、必死に脱出の方法を模索するフランクだったが…。」
Twitterへは「目覚めたら工事現場の仮設トイレの中。腕には鉄骨が刺さって身動きできない。外からは一帯を爆破するというアナウンス。雪隠詰めでウンの尽き、なに糞、さあ尿しような話なんだけど、ツッコミどころ多すぎて、じれったかった。」
設定が分かるまでちょっと時間がかかるんだけど。そもそもフランクは市長ホルストと知り合いで。ホルストは次期市長選に向けて活動中。さらに自宅だかなんだか忘れたけど建物を破壊し、新たな施設を創ることを目論んでいる。ついては現状の建物の爆破もイベント化し、人を呼んで見せようとしていた。しかし、この場所はなんとかフクロウの生息地でもあり、再開発も爆破も環境団体(?)のオバサンが強く反対していた。でもホルストは計画を推進。オバサンを意識不明にして爆破現場に放置した。とともに、フランクとも何が原因かよくむ分からないけど対立し、アタッシュケースで殴って仮設トイレに放り込み、トイレもろとも建設現場に投げ込んだ。…という流れの中でフランクが気がつくと、前腕を鉄骨が貫いた状態で身動きがとれない。スマホは、横倒しになった便壺の中。外からはホルストが、もうすぐ爆破、と観客に話している声が聞こえてくる。さあ、どうする、な話だった。
この時点でいろいろ疑問符が湧いてくる。どうやらフランクは記憶喪失状態? なんでそうなるの? な感じだよな。さらに、建物を爆破して再開発、な現場で、なんで建設中かのような鉄骨が生えてるんだ? しかも、あとからの描写で、外を見ると穴にはまった感じではない。周囲は平らで、オバサンも意識不明で横たわっている。ホルストも覗きに来るし。では、仮設トイレは倒れただけ? なのに、になんで鉄骨が腕に刺さる? と突っ込みたくなるよね。
その後の展開も、スマホで何とか連絡しようとして糞壺の中にあれこれしたり。やっと警察につながったと思ったら、ホルストが爆破システムの誤動作を回避したせいで一体の電波を遮断されたり、引っかかってたアタッシュケースをなんとか落としてみたり。なんかいまいちぐだぐだしてる。そういえば、アタッシュケースの中のサンドイッチが腐っていたけど、あれはなんでなの?
アタッシュケースの中から、だったか、ヤスリをみつけ。トイレのドアの鍵を削り切るんだけど。どうせ削るんなら鍵じゃなくて、腕に刺さった鉄骨じゃないのか? 鉄骨はなかなか削れないのか? でも、ドアの鍵は数分で削り切ったけど、そんな早く削れないだろ。とかね。
フランクは、外にセットされた爆弾へのケーブルを外そうとしたのか切ろうとしたのか、よく覚えてないけど、いろいろ放り投げたりするんだよね。でも、狙ってもああうまく当たらないだろう、というところにちゃんと当てている不思議。そのせいだったか、時間通りに爆破できず、爆破担当の黒人がやってきてホルストを発見するんだけど、すぐには助けてくれず。なんと、やってきたホルストに黒人は殺されてしまう。ええっ? だよな。たかが再開発を反対しただけでオバサンは爆破現場に放置され、フランクまでも爆破現場のトイレに放り込まれている。と思ったら、爆破担当まで簡単に殺してしまう。そこまでして市長の座と、再開発の推進を守りたいのか? よく分からん。
にしても、リミットまであと30分ぐらいだったのが、いきなり延長してしまうのは、肩すかし過ぎてなんだかな。
いったんは交信不能だったスマホも、なんでだったか通じるようになり、妻に連絡したらつながって。なんと、この現場に来ているらしい。あとは記憶がおぼろなんだけど、妻はホルストと浮気してるんだっけ? 違ったっけ? 忘れてる。
死んでると思ったオバサンが覚醒し、ホルストに抵抗したらホントに今度は射殺されてしまったり。なんか、行き当たりばったりの意外性が、なんかアホらしい展開。
で、なんでたったか(ちょっと爆発したんだっけか。でもなんで一部だけ爆破したんだ?)、鉄骨がぐにゃりと曲がって一端が見えるようになって。じゃあ、って腕を滑らせて外すシーンは、痛かった。っていうか、あと数分で爆発、という場面がすでにあったわけなんだけど。そういうとき、命と激痛とを秤にかけて、腕の一部を切るんじゃないのか? 数年前に見た映画で『127時間』というのがあって、トレイル中に落下して腕が岩に挟まり取れなくなった。結局、腕を切断して生存したという実話が元になっていた。この状況と比較して、フランクは骨を切る必要はなかった。肉と腱を切ればよかった。ならば、切るんじゃないのかなあ。
腕は外れた。けど、爆破のほうは実行されて、でもなぜかフランクはバラバラにならず生きていて。フランクの隣にやってきた妻は、糞まみれなフランクとキスしてたんだっけ? ホルストとは浮気してなかったんだっけ。たのか、ホルストはどうなったんだっけ? テキトーに見ていたせいか記憶にないな。ラストはどうなったんだっけ。助かったんだっけ? 記憶にないんだよなあ。
・冒頭の、半裸の女性のダンス場面。乳首にぼかしが入っているのはなんでなの? 
・ホルストの賓客が日本人で。日本語が混じったり、揚げ句、「君が代」が流れたりするのは、おいおい、な感じだった。
・糞まみれ、小便まみれだけど、あまり糞も尿もリアルじゃないので、いまいちつまらなかった。
オマージュ3/15ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/シン・スウォン脚本/シン・スウォン
韓国映画。allcinemaのあらすじは「夫と大学生の息子と暮らすスランプ中の映画監督ジワンは、バイトとしてある映画の修復作業を引き受ける。それは60年代に活動した女性監督ホン・ジェウォンが残した「女判事」という作品。さっそく作業に取り掛かった彼女は、フィルムそのものが検閲で切り刻まれてしまったことに気づき、失われたフィルムを求めてホン監督の足跡を辿る旅に出るのだったが…。」
Twitterへは「韓国映画。売れない女性映画監督が60年前の映画の、欠落した部分を探すあれやこれや。主人公がただのオバサンなのが面白い。いろいろツッコミどころはあるけどね。60年頃といえば李承晩が失脚し、朴正熙の軍事政権の時代か…。」
謎を探求する話だけど、地味。まず、主人公が小太りのオバサンのジワンで、映画監督らしく見えない。監督3作目が公開中で、題名は『幽霊人間』。客は全く入っていない。同僚であるプロデューサーと映画館に行って確認したりしてる。な、ところにバイトの話で、韓国初の女性監督が1960年代に撮った『女判事』という白黒映画の音入れを頼まれる。ギャラは経費込みで1000万ウォンと言うから日本円で100万円ぐらいか。映画は途中から音声がなくなっていて、無声映画状態。そこで依頼者とともに当時のスタッフを探したりするのだけれど・・・。
監督はすでに亡くなっていて。監督の娘の家で手記と、同僚と3人で写った写真を入手する。あとから「写真はもらった」とジワンは言っていたけど、くれるか、フツー。借りるとか、スマホで撮るだろ、とツッコミを入れたくなる。その後、娘から、母がシナリオを寄贈していることが分かったと連絡があり、フィルムセンターみたいなところへ行って閲覧・複写する。で、PCで映画とシナリオをつき合わせていく打ち、シナリオにはあるのに映像がない部分があって、話がつながらない部分があることに気付く。という流れが不自然すぎ。だって、依頼者だってそのぐらいのことは気づくだろ、フツー。なんか、謎を謎らしく見せるために話を不必要に引っぱってる感じで、いまいち、わくわくしない。なんて感じで謎を追っていくんだけど、音入れも少しずつ進んでいる、というのも、なんか変な感じ。謎が解けない状態で進めるのかよ、と。
写真に写ってるのは自称“三羽がらす”で、監督と編集と、あとなんだったか、な女性3人組。場所は明洞茶房、と教えてくれたのは娘だっけ? 忘れた。で、ジワンがその場所に行って見ると、店の名前は変わっているけど存在していて、店主は元スチールカメラマン、らしい。とうじ女性の映画スタッフはめずらしく、来ていたのを覚えていた。で、編集の女性の電話番号を教えてもらうんだけど、そんな、50年以上前の電話がつながったらしく、ジワンと依頼者が訪問。ここから、『女判事』の封切館が分かる。さらに、手近な所から、『女判事』の監督からの手紙を取りだして、渡してくれる。おいおい。まるで用意したみたいじゃないか。は、さておいて、映画館を訪ねると閉館してかなりたっている? 『ベン・ハー』(1959製作/60年日本公開)の看板のままだったりして、無愛想な男が「俺が描いた」なんていう。しかも、お客がやってきてピンク映画を見せている。1ヵ月後に取り壊しとかいってたけど閉館してないのか? 話に合理性がないよなあ。で、所有者は別にいて、副業で帽子を作っていたとかで、ジワンは1つもらって帰る。
ジワンの息子がその帽子をかぶってカッコつけてると、何かが落ちた。帽子の帯に、フィルムが使われていたのだ。みると、どうやら『女判事』のものらしい。ジワンはあわてて映画館に行き、帽子からフィルムをはぎ取って、大きめのレジ袋2つにつろて、元編集の婆さんのところへ。これがなんと、スプライサーはもってるし、プロジェクターもあって、つないだ部分をその場で見たりしてる。おお。ご都合主義! 
なぜこの部分がカットされたのか? という話になると、女性が煙草を吸うとか、当時は許されなかった。ご時世でしょう、なんていう結論で。いやもう、拍子抜け。朴正熙の軍事政権下だったから、といっても、そんなところが当局に目をつけられた? 煙草の場面がNGなら、数秒切ればいい。主人公が浜辺を延々歩く場面を、なぜ切ったのか? それから、つき合っていた相手とは別の人と突然結婚したとかいう、話が飛んでいる場面は、なぜ検閲の対象になったんだ? とか、納得のいかない部分が多すぎる。
そもそも封切館の1つにフィルム、それも、カットされた部分が残ってるのはなぜだ? 当局による検閲なら生フィルムをカットし、それをプリントするんじゃないのか? それとも、当局が封切館に命じてカットさせた? なことがあるのか? で、カットした部分を帽子のアクセサリーにしてた? 探求の流れとしては合っていても、現実的に変すぎるだろ。
最後はどうやら映画は復元できたらしく。その上映会なのか、の券をもってジワンが出かけるところあたりで映画は終わっている。3作目で検閲が入り、以後、映画を撮れなくなった韓国初の女性監督、という設定はミステリアスだけど、いまいち話がピリッとせんのだよな。そもそも、音入れを依頼してきたのは、なぜなんだ? って理由もよく分からない。韓国初の女性監督の作品の上映会でも企画されたのか? という背景が描かれないのも、なんかなあ、な感じもするのだよね。
このメインストリームより、細かなエピソードの方が興味深い。不在がつづく隣室からのノイズ…(最後に登場する隣家の住人は、旅から戻ったのか、な若い娘だった。隣人とは何度か顔を合わせている程度、と同僚に行っていたから、顔は知ってたはずだよな)。駐車場で死んで1ヵ月発見されなかった女性の現場。これは自死なのか? 自分が死んでも誰も気づかないだろう、というメタファー? にしてはムリがあるだろ。明洞茶房で流れていた、まるで戦前の上海辺りで流れていたような感じの音楽。どう考えても60年代じゃないだろ。なにかというと登場する、影。意味深だけど、とくに何かのメタファーになってるとは思えない…。ただの思わせぶりか。突然のジワンの子宮筋腫の悪化と手術。働きのないジワンに経済的支援をしないと宣言する亭主。「夢見る女といると男は寂しい」といいながら、意外とジワンに優しかったりする。あまり考えてる感じのしない脳天気な息子。謎解きより、ジワンの家庭内のあれこれ、の方が、何かありそうで、でもないんだけど、面白かったな。
・60年代はまだ漢字が使われていた名残か、『女判事』のポスターには、題名が漢字で書かれたな。
・編集の婆さんの家に『サウンド・オブ・ミュージック』のLPがあったな。なんだよ。あんな映画が好きなのか。
フェイブルマンズ3/17109シネマズ木場シアター7監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/スティーヴン・スピルバーグ、トニー・クシュナー
原題は“The Fabelmans”。フェイブルマンは主人公の名字。sがついてるから複数で、フェイブルマン一家ってことか。ユダヤ人一家、ってことも分かるのかな? allcinemaのあらすじは「1952年、両親に連れられ初めて映画館を訪れたサミー・フェイブルマン少年は、そこで観た「地上最大のショウ」の列車脱線シーンに大きな衝撃を受ける。その後、列車の模型でそのシーンを再現しようとするサミーに、母親は8mmカメラを買い与える。以来、カメラで撮影することに夢中になっていくサミー。次第に彼のつくる映像作品は周囲を驚かせるまでになっていくが、まじめな科学者の父は、あまり趣味にばかり情熱を注いでほしくないと思っていた。そんな中、一家は父の仕事の関係で、アリゾナからカリフォルニアへと引っ越すことになるのだったが…。」
Twitterへは「スピルバーグの自伝らしい。前半は淡々とし過ぎていささか退屈。中盤からやっと話が動き出す。しかし、なんでこんなテンポの悪い映画になっちゃってんだろ。最後で盛り返すけどね。スピルバーグ、金持ちの家のお坊ちゃまだったんだな。」
客が見て面白い映画、というより、自分の思い入れがあっちこっちに優先されすぎてる感じかな。なので、あれこれエピソードは多いけど有機的に機能していないものが多く、そんな話なくたっていいだろ、と思ってしまう(サソリとか、父親のテレビ修理のバイトとか、多すぎる母親のピアノ演奏場面とか、伸ばしてる爪のこととか、得体の知れない伯父さんの登場とか、猿とか…)。しかも、たいした伏線にもなってなかったりする。まあ、スピルバーグの思い出のための映画といえばそうなんだろうけど、個人的すぎて人に見せる映画になりきれてない感じがするんだよね。こういう映画を撮るということは、スピルバーグも歳を取ったということなんだろう。
初めて映画を見ることになったサミー。事前の知識はあって、巨大な人間が出てくるから怖い、という。父親は、映画っていうのは1間24コマの画像からなってて残像が残ってどうたらこうたらと説明する。母親は、「面白いのよ!」と。でまあ、見たのは『地上最大のショウ』で、でもサーカスの場面ではなく、クルマと列車が激突して脱線するシーンに魅入られてしまう。で、父親にねだって列車のオモチャを集め、家の中で走らせる、だけでなく激突させて映画と同じ場面を再現する、に夢中になる。それを見て父親は、壊れちゃうだろ! だけど、母親は「父さんのカメラで撮れば何度でも見られるわよ」てんで初の8mm体験。父親には内緒で現像し、上映して楽しむ子供になる。でも、父親はいつそれに気づいたのか? は描かれない。という感じで、とくにドラマがないんだよな。ムダに長く、ちょっと飽きる。
母親が竜巻を見に行く場面があるんだけど。あれはまあ、野次馬根性のあるおっ母さんだよ、ということなんだろう。科学的で理性的な父親とは正反対。家に置いてきぼりになる父親は、将来、実際にこうなるよ、ということを示唆しているのかな。
最初はニュージャージーで、父親はRCAに勤めていたらしい。でもバイトでテレビの修理をしてたのは、別に給与が低かったからじゃないと思うんだけど。小銭稼ぎ? 父親の同僚のベニーはしょっちゅう出入りしてて、親戚の叔父さんみたいに見られてる。でも、存在として深く描かれないので、最後までただのオッサンにしか見えないんだよな。なに考えるんだ、このオッサン、な感じで。後半で問題になるベニーの母親に対する恋心、がとくに見えないので、前半のドラマのなさにつながってるのかもしれない。で、父親はどういう伝手か知らんがGEにスカウトされて、アリゾナに行くことになる。のだけれど、ベニーはスカウトされなかったらしい。それで母親は、だったらあなたが雇って連れて行きなさいよ、みたいなことをいう。そんなのムリだろ、と思っていたら、アリゾナへの車中にベニーがいるではないか。どうやってGEを説得したのかしらんけど、話が飛びすぎだろ。
アリゾナでは中学生ぐらい? ボーイスカウトみたいな恰好で、でも、スカーフが赤なのでソ連みたいだな。はさておき、仲間でサソリを手づかみで集めたり、なかなか危険なこともしていたりする。のだけれど、そんなエピソードは要らんと思うけどな。サミーはそんな、ボーイスカウト仲間と映画づくりに没頭しているようなんだけど、誰一人として個性のある友人としてフィーチャーされない。サミーは西部劇だのなんだの、わりと大がかりに撮影していて、しかも、大きな会場で上映会まで開いている。でも、見ていて全然ワクワクしない。そもそも、なんでみんなサミーの映画づくりに参加してるんだ? それに8mmは金がかかる。出演者やスタッフは友情出演だとしても、駅馬車を借りたり、なんだかんだ、ばく大な費用がかかっているはずだ。それを父親はぜんぶ負担してたのか? 太っ腹だなあ。いや、それより、サミーの言うことを聞いて役者やエキストラ的なことをやってる連中がたくさんいることが不思議。冷ややかな目で見るやつはいなかったのか? いたと思うけどなあ。でも、そういうのはまったく描かれない。挫折も、乗り越えるべき壁もなく、重要な友人も登場しない。ぜんぜん成長物語になってなくて、ちょっと退屈してきた。
少し話が動き出すのは、少し前に母方の祖母が亡くなった後あたり。母親を元気づけるために、と家族+ベニーでキャンプに行き、そのときに撮った映像を編集していたときのことだ。なんと母親とベニーがいちゃいちゃしているところが偶然写っていて、これは? と見ていく。
にしても、明日から新作の撮影でスタッフの予定も組んでいて、というときに「それは中止してキャンプ映像を仕上げろ」と父親に命じられて編集していたんだけれど、撮影スケジュールのバラシは大変だったろうに。そっちの方が気になってしまう。
ところで、キャンプで母親がスケスケの服で踊り出すのは、竜巻のときと同じように、自由になりたいという願望の表れなんだろうけど、なんか唐突だよね。
前後して、祖母の兄という人が突然やってくる。とくに墓参ということもなく、ただやってきて去って行く。サーカスで働いた後、映画製作に携わった、とかいう話がサミーにどれだけ影響を与えたのか。この映画のメインストリームに、ちっとも絡んでないよな。ほんと、この映画、散漫でバラバラな印象しか受けないんだよな。
でまあ、母親の浮気ごころに気づいたサミーは反抗的になって。で、たぶんするだろうな、と思ったんだけど、やっぱり母親とベニーの怪しい場面だけをつないだのを、母親に見せるんだよ。映像は言葉より強いからね。
にしてもよく分からんのが、母親の態度。このときも「私は自分は父さんが好き。別れない」といいつつ、映画の最後にはそうならないわけで、これもアメリカ映画によくある口先だけの言い訳か、としか思えんのだよな。それにしても、父親が抜け作すぎだろ。妻と友人ベニーとのことを知っていたのか、気がつかなかったのか。人がよすぎて、やれやれ、な感じしか受け取れない。
な頃に、父親はまたしても会社を移る。今度はIBM。GEのときに画期的なアイディアで新商品を開発しようとしていたけど、ベニーは「GEの上司は受け入れないだろう」とか言ってたけど、そのアイディアをIBMに見せたのかどうかしらんけど。で、引っ越しになるんだけど、今度はベニーの同行はなし。これは、父親が感づいて母親と引き離そうとしたのか。父親がいうように、ベニーにはIBMに入る力がない、からなのか。そのあたりも不明。でも母親はアリゾナを(ベニーから?)離れたくないと、カリフォルニアへの途上、ひとりクルマを降りて心痛に浸ったりする。それをサミーが追っていって慰めたりするんだけど、いまいちよく分からん描写がつづくんだよな。
カリフォルニア行きに際して、というか、母親の浮気心を写してしまった8mmに対する決別なのか、サミーは8mmカメラを売り払ってしまう。でも、ベニーは、サミーに1クラス上のカメラをプレゼントするつもりだったらしく、同じ店で鉢合わせ。でも、サミーはプレゼントを受け取らない。押し問答のすえ、手持ちの35ドル(だったかな)で買うことにして、受け取りはした。でも、その後のハグで金はサミーのポケットに戻ってしまってたんだけど。というエピソードはいいとして。このベニーという男の本心がよく分からん。サミーの父親とはいい同僚で友人で、フェイブルマン一家とは親戚同様のつきあいで、でも、サミーの母親と浮気(この時点で肉体関係があるかどうかは分からないけど)していて、なのにサミーの父親に殴られたりもしない。サミーが嫌い始めたんだから、母親とのことを気づかれた、と分かってるはずだけど、それでもサミーに接触してくる。なんだこのオッサン。というか、サミーの母親は亭主のどこが不満でベニーとつき合うようになったのか。なんかよく分からん映像がつづくので、まったくドラマチックではない。隔靴掻痒。
カリフォルニアでは新築中で、仮屋住まい。ということは、給料もすごくいい、ということだよな。で、こっからサミーの学園物語になって、ドラマが色々出てきて少し面白くなってはくるんだけど。たいした成長ドラマにならないんだよ。話は単純で、まわりにユダヤ系がいないので、とりわけ背の低いサミーはマッチョと取り巻き君に目をつけられ、マッチョに殴られる、というありきたりな展開。でもマッチョの彼女に同情され、その彼女の友人になぜか気に入られ、キスしてつき合うようになるという、なんだかよく分からない感じになっていく。キリスト教至上主義のあの女の子は、サミーのどこが気に入ったんだ? わけ分からん。で、卒業記念のビーチでのおバカな1日を、女の子の父親がアリフレックス(16mmだよな)をもっていて編集機も貸してくれるというので久しぶりに撮影する。そんななことしていて、マッチョグループに因縁つけられないのかと心配したけどそんなこともなく。プロム当日を迎える。
このちょっと前だったか。母親が家族の前で「アリゾナに戻る」宣言をするんだけど、どうやらこれは離婚してベニーと暮らす、ということのようだ。こういうことを堂々と宣言する女って、なんだよ。ちょっと前まで「父さんが好き。別れない」といっていた当人が、なんでこうなるの? 前置きなしで、いきなりこの展開は、ついていけんぞ。ああそうですか、と見守るしかないわな。それを怒りの表情も見せずに許す亭主というのは、なんなんだ? 罵声のひとつも浴びせないのか。仕事と研究の方が大事なのかな。まあ、そういう亭主より、陽気で自分のことをかまってくれるベニーの方が女として好き、なのかも知れないけど。
プロムの同行者は、例のキスした女の子で。でも、いきなり十字架のペンダントをプレゼントし、さらに、テキサスA&Mに入学が決まってるというのに、行かないでくれ、一緒にいよう的な、ほぼプロポーズをして、その場で嫌われてしまう。とはいえ、プロムの当日だけは相手してくれるらしいけど。のくだりが、よく分からない。何が女の子の気に障ったんだ? 女の子は、ちょっとしたお付き合いのつもり。でもサミーはのぼせ上がってプロポーズ。それがいけなかったのか? よく分からんな。
で、宴もたけなわでサミーの撮った映像を上映。そのなかでマッチョはレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』のごとくに異様にフィーチャーされ、強く、逞しく撮られている。一方取り巻き君の方はコメディ映画のようにトンマで失敗シーンがつづく(あんなタイミングよく撮れるはずないだろ!)。マッチョは、その映像をなぜか戸惑い、動揺しながら見ている。取り巻きは、憤っている。会場はやんやの大喝采。でも、プロジェクター横のサミーはうなだれ、画面を見ることすらできない。映像は編集によって観客を操れる、ということを実証したわけだけれど、でも、なんでサミーが落ち込む必要があるんだろう? 女の子にふられたから? じゃないような気がするんだけど。もしかして母親にベニーとのシーンを編集して見せ、人を操ったことを思い出して、また同じことをしている、と自虐的になっているのか? よく分からん。
プロジェクターを放置し、ロッカーの前でうなだれているサミーのところに、取り巻き君がやってきて殴ろうとするんだけど、あとからマッチョもやってきて、取り巻き君をぶん殴る。なんでそうなるの? な感じ。取り巻き君への意地悪な撮影、は、分かりやすい。けれど、マッチョを、必要以上に逞しくカッコよく撮ったのは、どういうことなんだろう? たんなる嫌み? でも、同級生たちはやんやと褒めちぎり、関係が悪化してた元彼女までがマッチョに寄ってきてキスしていた。なのに、マッチョは「あんな風に撮りやがって!」とサミーに食ってかかる。「俺は努力してるから強いんだ!」と涙を流す。でも、なぜ自分を全面的にカッコよくフィーチャーした映像に違和感、というか、屈辱感を感じたんだ? むしろ、俺をカッコよく撮ってくれてありがとうな、と喜んでも不思議でないはず。いや、別の見方もある。もしかしてサミーは、マッチョに対して男性として憧れ、あんな肉体になりたい、とラブコールを送ったかのか。だから恥ずかしくてプロジェクターのそばを離れたのか? マッチョも、サミーの同性愛的な感情に気づいて動揺したのか? うーん、よく分からない。マッチョは「ここで俺が泣いたことは誰にも言うなよ」と言って去るのだけれど、わからん場面だった。ところで、マッチョがサミーに煙草を吸え、と差し出すのに結局サミーは吸わないのはなぜなのかね。これも謎。
そして1年後。サミーは大学に行っているらしい。けど、どの大学かは明かされない。どうも映像関係の会社に売り込みの手紙を出しまくっているけど、返事ははかばかしくない様子で、そのせいなのか家に戻ると、心臓が破裂しそう、と父親に訴える。父親はパニック症候群だ、と落ち着かせる。これも、よく分からない場面だよね。大学を辞めたいとも言っていたけど、前置きなしでいきなりなので、なんのことやら、な感じ。しかも、母親からサミーに手紙が来ていて、なかに写真が入っている。それを父親に見せたら、父親が嫌な顔になってしまう。写真に、母親がベニーとはしゃいでるところが写っていたからだけど、そういう写真を送ってくる母親ってのも、脳天気だよな。はさておいて、サミーには製作会社(CBSだったかな、忘れたけど)から返事が来ていて。行ったら、買ってくれたのは心意気で、すぐ採用ではなく、そのうち、てな感じで対応してくれて。でも、隣の部屋にレジェンドがいるから会って行くといい、なんて言ってくれて。入ると受付は老嬢で、待合室に貼ってあるポスターが『駅馬車』…、え! ジョン・フォード!? しばらくして片目眼帯の爺さん(デヴィッド・リンチとあとで気がついた)がやってきて、壁に貼ってある絵を指差し、「あの絵をどう思う?」「この絵はどうだ?」と質問。サミーはしどろもどろに絵の説明をするだけだけ。ジョン・フォードがいうには、「水平線が下にあると面白い絵になる。上にあっても、面白くなる。真ん中は退屈だ」と。それだけの出会いだったけど、サミーには自信がついた様子。外に出るとそこは巨大スタジオの中で、彼方へ歩いて行くサミーを映すカメラが急にチルト(上だったか下だったか、忘れた)する。あ、ジョン・フォードの言いつけ通り、地平線を上(or 下)にもってきたのか。はははは。で、映画は終わる。この、ジョン・フォードとの出会いの場面が、この映画の中でいちばん凄みがあって緊張感もあるし、よかった。
・母親は重要なファクターになっていて、でも、夢見る乙女的な感じでしかない。竜巻を見に行く野次馬気質。キャンプではしゃぎ、突然踊り出す幼児性。息子を殴る衝動性。カリフォルニアでは、寂しさを紛らすために猿を飼う。芸術志向と挫折。夫を支える妻というより、ベニーとのいちゃいちゃ関係に満足する。スピルバーグには、母親はそういう人に見えたんだろう。
・映画で過去を描くときに、友情が大きな要素を占めることは多い。でも、この映画にサミーの友人はまったく登場しない。いつも取り巻いているのは、個性が見えない2人の妹ぐらいだ。ボーイスカウトの仲間が協力していたけれど、とくに仲のよい友達はでてこない。 
・男は、ほぼ父親とベニーだけ。一方女は、祖母2人、母親、妹たち、高校の女の子と数が多くて、細かなところまで描かれている。スピルバーグにとって、関心があるのは女性だった、ってことなのかな。でも、母親の浮気や、マッチョの元カノがマッチョの逞しい映像を見て惚れ直してしまう、という描き方をしてるけど、もしかしてスピルバーグは「女ってバカだな」と思ってるんじゃないかな。つき合ってた女の子の予想不可能な行動なんかからも、女は得体が知れない、と思ってるのかも。そして、映画の中で、何かを創造するのは男で、女は支える係としか描かれない。描かれている時代もあるけれど、スピルバーグには女性に対する特別な見方があるのかも知れない。
・ところで高校時代のエピソードは、まるきり『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。知らない高校でいじめられ、でも女の子には好かれ、自分の芸でちょっと生徒たちを見返す。もともと『フェイブルマンズ』で描いたようなことがあって、でも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、知恵でいじめっ子をやっつける、という風に仕立て直したのか? と思えるぐらい。まあ、話としては類型的だけど。
・母親がピアノ演奏でテレビに出るとかいう話があって、練習中に爪が鍵盤をカチカチ言わせるという場面があった。かつての夢で音楽を奏でるのはいいけど、ノイズに無自覚なのは、大雑把な性格ということかね。ところで、テレビに登場の場面がないのはなんでなの?
・リアとアーノルドに捧げる、と最後に字幕が出る。調べたらリアは、実母の名前で、アーノルドは実父の名前のようだ。
・8mmフィルムは懐かしい。なぜなら自分でも8mmカメラもってたし、ビューワーでコマ送りしたりカットしてスプライサーでつないだり(映画ではセメント使ってたけど、私はテープでつなぐやつだった)、そしてプロジェクターで映したり。物語的なのも撮りたかったけど、結局仲間も集まらず、フツーにそこらを撮る程度でしかなかったけど。だから、この映画の前半が、過去の思い出に浸っているのも分かるんだよね。でも、浸りすぎだよな、とも思う。思い出は素材として見せるモノにしないと。この映画は、そのあたりでもたついてる感じがするんだよね。
コンペティション3/22ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン脚本/アンドレス・ドゥプラット、ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン
スペイン/アルゼンチン映画。原題は“Competencia oficial”。allcinemaのあらすじは「大富豪の起業家が自らの名声を残そうと傑作映画の製作に乗り出す。監督には受賞歴のある天才肌のローラが起用され、実力派の舞台俳優イバンと華のある映画スターのフェリックスが主人公の兄弟を演じることに。さっそくリハーサルが始まるものの、ローラのエキセントリックな言動と理解不能な指示に困惑するばかりのイバンとフェリックスだったが…。」
Twitterへは「画祭で賞を獲るため裏工作に奔走するようなコメディかと思ったら、ぜーんぜん違った。ペネロペが主演でサービスデーなのに席が埋まっていない理由がよく分かった。少し寝てしまったよ。」
舞台はアルゼンチンなのかな。大金持ちが社会貢献したいといいだし、俺の名を冠した橋をつくろう、いや、映画を支援するのはどうだ、てな感じでいまをときめく女性監督に会い、よろしく、となる。その監督がローラ(ペネロペ・クルス)で、まったく監督らしくない。イメージでつくりあげられた「権威」のような存在にしかみえない。同じセリフを何度も言わせて「違う!」なんて言う監督は、かつてはいただろうけど、今どきそんな監督いないだろ。しかも、リハーサルとか、いろいろする場所が、まるで何も展示物のない広々とした美術館のような場所で。そんな場所を使えるような監督なんて、いるはずがないだろ、と思ってしまう。もしかして、いるのか? 知らんけど。
壮年のフェリックス(アントニオ・バンデラス老けたな)は、「俺は賞を34個とってる!」と自慢し、老人のイバンは「俺には経験と実力がある!」なんて言ってるのを見ているうち、うちらうつらしたり、目が覚めたり、うつらうつら、覚醒…の繰り返しになってしまった。ちょっと体調もいまいちだったんだけど。
で、目が覚めてから見たのは、俳優2人が女優とキスする場面。2人のキスを見て、ローラがダメ出しをし、自分が女優とキスし始め、女優の方がとろけてしまい、抱き合ったまま床に転がってしまう。あきれて俳優2人は部屋を出て行ってしまう。
さらに、ローラは2人に記念のトロフィーなどを持参させ、意気揚々自慢気にもってきたそれらを、舞台上で破壊する。2人は客席で縛られ、何も抵抗できず。というエピソードは、元ネタがあるのかどうかしらんけど、ローラは自分の記念トロフィーまで壊して、過去を捨て去り新たな心で、のためにそこまでする必要はないだろ。バカか。
2人の駆け引きもある。フェリックスは自分が膵がんで余命がない、とイバンにつたえる。とうぜん配慮する。ところが病気は嘘で「ちょっとからかっただけ」とあっけらかん。これに対して、イバンはフェリックスを持ち上げるような話をして、フェリックスは上機嫌になるけど、これまた「からかっただけ」と素っ気ない。けど、こんな駆け引き、何が面白いんだ? 
しかし、ここまで映画関係者は、監督のローラと親子を演じる2人の男優しか登場しない。もっと役者もスタッフもいるだろうに。ぜーんぜんリアリティがない。
さて、いつのまにかクランクイン前のパーティに。イバンは料理長(?)相手にフェリックスの悪口を話していたら、それが下の広場にいたフェリックスに筒抜け。ムッとしたフェリックスが上がっていき、もみ合う打ちなんとイバンが転落死! なんていうアホな展開だわよ。というわけで、一気に映画祭(?)の会見の場になって。どうやらフェリックスが1人二役で父と息子を演じたという。おやおや。監督ローラは、記者の「もし、イバンが出演していたらどうなったろう?」な質問に、「そんなことはまったく考えていない」とキッパリ言う。
新聞の映画評では、映画製作の現場を皮肉った云々と書いてたのがあったけど、なにが皮肉ってるだ。話の上っ面をなでているようなシーンばかりで、ぜんぜん心に迫ってこない映画だな。
で、つぎは橋の渡り初めの場面で、これは富豪が新橋の製作も支援したということか。だからなんなんだ!
・ペネロペの黒くふさふさした腋毛が見える場面があったっけ。
殺しの烙印3/26ブルースタジオ監督/鈴木清順脚本/具流八郎
Wikipediaのあらすじは
「殺し屋がランキングされ、すべての殺し屋がナンバー1になろうとしのぎを削る世界。ナンバー3の花田は、元締めの藪原から名前を名乗らない謎の男の護送を依頼され、任務中にナンバー4とナンバー2を倒し、新たなナンバー2の座を獲得して任務を終える。運転手兼相棒の春日を任務中に失った花田は、「夢は死ぬこと」と語る謎の女・美沙子に迎えられて帰路につく。
美沙子は来日中の外国捜査官の男の狙撃を花田に依頼するが、花田は手元を狂わせ、無関係の人物を射殺してしまう。このためにランキング外に転落した花田は、殺し屋稼業の掟として、彼を処刑しに来る殺し屋たちの襲撃を次々と受ける羽目になる。妻の真実や、美沙子も処刑人のひとりだった。しかし美沙子と花田は、お互いを愛し合ったために殺し合うことができず、ともに逃げる立場となる。美沙子は殺し屋組織に囚われの身となる。
美沙子以外の刺客をすべて倒した花田の前に最後の敵として現れたのは、かつて彼が護送した謎の男だった。この男・大類こそが伝説の殺し屋ナンバー1だった。花田は大類と決闘し、相討ちとなる。瀕死の花田は朦朧とした意識の中で「ナンバー1は俺だ」と叫び、さらに乗り込んできた刺客を瞬時に射殺するが、それは美沙子だった。花田は美沙子を撃ったことに気づかずに絶命する。」
Twitterへは「日活の社長が激怒して鈴木清順監督の解雇騒動に発展したが観客や批評家は評価したらしい。社長の肩をもちたいな。話が「?」でコメディとしても中途半端でとくにスタイリッシュでもないしバカ映画にもなってない。当時の風潮が生んだ迷作だろう。」
いまさらながらにWikipediaのあらすじを見て、へー、こんな話だったのか、と思ったりしている。なんでそうなるの? とか。ムチャクチャだろ、とか。どういうこと? とか、そういう連続で、話がよく見えないまま進むので、はっきり言ってつまらない。まあ、その分からないところ、変なところが評価されたのかもしれないけど。
途中で、妻があらすじみたいなのを説明してくれて。でも、パパッと言うから、はあ? と思うだけ。
それでも、妻を撃ち殺すぐらいまでは、ハチャメチャもなんとか見られたんだけど。部屋に閉じ込められて出られなくなってからは、がぜんつまらなくなる。さらに、ナンバー1が部屋に乗り込んで来て、2人でコントを始める段になると、ますますつまらなくなり、さらに、ボクシング場でバタバタし始めるともっといまらなくなる。やっぱ、女性がでてきて、おっぱいを見せてくれていると、そこそこ飽きないのかもね。
コミカルに徹したお笑い映画、というわけでもなく。お洒落な場面もたいしてあるわけでもなし。女の裸も、セクシーと言うよりコメディタッチだし。殺し屋花田はとくにニヒルでもなんでもなくてトンマだし。ナンバー1の大類も、どこに凄みがあるのかという感じ。
飯の炊ける臭いが好きだとかは、いいんだよ。フロントガラス越しに銃を撃ってガラスが割れないとか、拳銃なのに連射できたり、アドバルーンに乗って逃げたり、ナンバー3なのに誤射しちゃうとか、フツーに考えてアホくさすぎる。
・殺しの報酬が250万でアタッシュケースを渡されたので、は? と思っていたら、中には伊藤博文の千円札が詰まってた。当時、1万円札あっただろ?
・美沙子って、たまたま近くを走ってたオープンカーの女、じゃないのか?
・雨の日曜日。16時の回。観客6人。
メグレと若い女の死3/27ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/パトリス・ルコント脚本/ジェローム・トネール、パトリス・ルコント
フランス映画。原題は“Maigret”。allcinemaのあらすじは「身元不明の若い女性の刺殺体が発見され、ほとんど手掛かりがない中で事件の真相に迫っていくメグレ警視の捜査によって、少しずつ被害者の人物像が浮かび上がってくる」
Twitterへは「時代設定は1953年のパリ。夢を抱いて上京する田舎娘が餌食に、が大テーマのはずだけど、待ち受ける悪が曖昧にしか描かれないのでモヤモヤ…。手がかりをたどっていく経緯はなるほどなんだけど。でも警視があそこまでするか? はあるけどね。」
全体的に地味で渋い感じに仕上がってて、謎解きの経緯もご都合主義的なところもあるけど流れは合理的だし、なかなかいい味を出しているとは思うんだけど。いろいろツッコミどころは多い。
メグレ物はほとんど見てないし読んでもいないので他と比べることはできないんだけど、そもそも警視が自らあちこち歩きまわって調べたり尋問したりするものなのか? というのがある。部下もいることはいるようだけど、たまに報告に来るぐらいで機能していないんだよね。まあ、メグレを見せたいから組織的な捜査が描かれないのかもだけど、もうちょいリアリティが欲しいよな。
それと、犯人はほぼ最初から見えていて、その動機がキモのはずなんだけど、終わってみてもよく分からんのが気に入らない。あの、亭主と婚約者の目的はなんなのだ? 万引き娘を囮にして敵中に潜り込ませる場面がある。よたよた逃げてきた万引き娘がいうには、しこたま飲まされたけど、男はマスをかくだけで、女はにあちこち舐め回されて、謝礼をくれたけど置きっぱなしてきてしまった、とのこと。田舎娘をつれこんで、男女が行っていた行為の目的はなんなのだ? 女はどうもレズビアンな感じ。男の方は、レズ行為を見て興奮する? 要は、田舎娘をおびき出して異常性行為(なんてレズビアンについていうと、今どきは偏見だと言われるのがオチだけど、昔の価値観では違ったんだろ)にふけっていた、ということでいいのかね。そもそも、この男女の出会いは何だったんだっけ? で、婚約までしてしまう関係は何なんだ? そして、こうした息子と婚約者との行為を、すっとぼけの母親は知っていたのか? てな核心部分に触れられていないのは、なんでなの? 現在の倫理観では、性的嗜好は多様性として包含されてしまう。なのに、あえてレズビアンと窃視症(そういえば、「女の身体も触れないのに」と、男に向かって誰かが言ってたよな)のカップルを犯人とする話をとりあげる理由がよく分からない。
分からないなりに考えるに、この男女は田舎娘をマンションに連れ込み、異常性欲の餌食にしていた。でも、ちゃんと対価は支払っていた。それが、ある日、連れ込んだ田舎娘が男女の婚約パーティに着飾って闖入してきた。あわてた男女は強引に連れ出し、男は金を渡そうとする。しかし、田舎娘は惨殺死体で発見される。通報は、近所の窓に小石が投げられる形で行われた。というのが冒頭の流れ、なんだけど。あとから分かるに、田舎娘はパーティ会場の階段で転落死。それを男の母親の入れ知恵で死体を別の場所にうつし、捜査を混乱させるために母親がナイフで5回刺した、という。でも、田舎娘のドレスは真っ赤に血塗られていたんだけど、変だよな、それって。遺体に刺しても出血しないだろ、あんなに。なのに、死因が外傷ではなく首の骨折、と分かるのがずいぶん経ってから、なんだよね。
で、田舎娘は男女の異常行為にさらされ、でも対価をもらいながら、あえて婚約パーティに潜入した。その目的は何なんだ? もちろん、女と田舎娘は知り合いで、いっとき一緒に住んでいというのがある。女は映画のエキストラで、田舎娘にも仕事を紹介したことがある。でも、ウマが合わず、女が部屋を出て行った。そういえば、田舎娘が、走り去る女にすがるような場面があったけど、(女が田舎娘にすがってたんだっけか?)、あれは女と田舎娘がわりと早い時期に同性愛関係になり、でも、女が田舎娘を振った、ということなのか? それで、男と婚約した女のところに田舎娘が出向いた、ということなのかね。
最後の方で、母親だったかが「遺体を刺したらどんな罪になるの?」的な質問をメグレにしていたけど、それも気になる。田舎女の死が過失致死なら、罪は重くないはずだから。母親は死体損壊か。
な感じで事件は解決したのかね。万引き娘は改心して田舎に帰り、メグレは映画館で田舎娘がでている映画を見る(エキストラにしては長く写りすぎだろ)。さらに、街を歩くメグレが、田舎からやってきたであろう娘とすれ違う。こういうシーンを見ると、1950年代の、田舎娘のパリに対する素朴な憧れと、でも、仕事もなく堕ちていく様子を描きたかったんだろうな、とは思うんだけど。その、堕ちていく具合がちゃんと描けているかというと、疑問だと思う。
・ドレス→貸衣装→田舎娘の手荷物→アヘンチンキと電話番号→薬剤師→アパート特定→大家の情報(元の住人が又貸ししていた、つまり、顔見知り)→元の住人を訪問・・・てな流れだけど、衣装を身につけるとき下着は着けていなかったのに、遺体は下着を着けていたぞ。電話番号から持ち主ぐらいすぐ分かるだろうに。住まいを探すなら遺体の顔写真を見せればいいのに…。とかツッコミながら見ていた。
・なんとか事務所だっけ? のカードから、変な爺さんのところに行ったんだっけ? あの爺さんは何だったんだ? そういえば広告を見てどうのと言ってたけど、代理店か何かだったのか? ボーッと見ていたので気がつかず。
・万引き娘を、田舎娘が住んでた部屋に住まわせたのは、訪問客を知りたかったからなのか。訪問したのは、元の部屋の女? 男の方? よく分からず。
・万引き女が男女の部屋に行ったのは、男女が広告で募っていたから? でも、田舎娘と同じような格好して出向いて、男女はギョッとしなかったのか?
ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー3/28ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/阪元裕吾脚本/阪元裕吾
allcinemaのあらすじは「一緒に暮らしている杉本ちさとと深川まひろはプロの殺し屋。なのにいつもお金がなくて途方に暮れている。しかし、そんな2人よりももっと途方に暮れていたのが殺し屋協会アルバイトのゆうりとまことの兄弟。ある日、“ちさととまひろのポストを奪えば正規のクルーに昇格できる”との噂を聞きつけ、2人を殺してしまおうと決意するのだったが…。」
Twitterへは「高石あかりの駄話はパワーアップ。でもガンアクションはワンパターン。伊澤彩織も、アクションのためのアクションな感じで、盛り上がりに欠けるかな。もっとクールにズドン、でいいような気がしたかな。」
シリーズ前作を見ていて、女の子2人の、フツーの女子高生みたいな軽妙な会話とボケ、でもやるときは冷酷無比なテイストが面白かった。でも、アクションがムダにしつこくて、もっとパパッと終わらせろやとか思って見た記憶がある。で、この監督の前作『グリーンバレット』も見てるんだけど、これも女の子たちが殺し屋修行をする話で、設定はおもしろいんだけど、アクションが割と杜撰になっていくのがイマイチだったんだよね。で、今回。冒頭の、兄弟がミッション実行する場面は、わりと生々しくてリアルっぽくて、いいじゃん、な感じ。の後につづく、ちさと と まひる が、ジムの請求書350万円余と殺し屋保険組合の納入が滞ってて本日中に納入しないと割増金が…な流れのボケた会話は前作よりもパワーアップしてて、楽しい。タランティーノの『レザボア・ドッグス』はまったくのムダ話だけど、こっちは一応流れに関係ある話の周辺で、とくに ちさと役高石あかりのゆるく舌足らずなぐちゃぐちゃしゃべりがなかなか可愛い。
で、銀行に行くと強盗がやってきて、でも期限の3時まであと数分、なので。本来は、依頼された殺し以外は清掃係の出動もなく、ペナルティになる、のは分かっていたけど、エイヤ! で結束バンドをぶっちぎり反撃。なんだけど、これが結構手間取ってるのが、おいおい、な感じ。前作の、コンビニでのアクションはもっと軽快でスマートだったような気がするんだけどなあ。相手は素人の強盗なんだから、さっさと終わらせろよ、なんだけど、反撃もずいぶん食らってた。
で、謹慎に。このときだったか、トレーニングしてる場所が汐入公園のランニングコースあたりで。知ってるところがでると、おっ、て思うよな。ほかにも、東武鉄道が隅田川を渡るあたりの架橋も? 2人の駄話では、谷中のひみつ堂とか、上野の甘味みはし、とか。マイナーすぎて大半の人には分からんだろ、な具体的なスポットがでてくるのも楽しい。さらに、2人がぬいぐるみ姿でバイトしてる商店街は、おお、京島キラキラ橘商店街じゃないか。あの公園もわかるぞ。知ってるところが続々でてくる。で、商店街の伯父さん渡辺哲が、 『花束みたいな恋をした』 についてくどくど話したり。菅田将暉がどーの、ビジュ(若者の短縮語?)がどーの、最後のファミレスの場面はよかったとか、細部に入りすぎだろ、なところもあったけど。
で、冒頭の兄弟は、ミッションが人違いで、ギャラが出ないと定食屋でマネージャー? と食事をしていて。どうも兄弟は殺人組合の正社員ではなく非正規で、だから保証されていないとかいう話は、いまどきの企業の雇用形態を思わせて面白い。それと、正社員(ちさと と まひる)が台東区にいて、そいつらを殺せば自分たちが正社員になれるとかいう流れは、こないだ見た『殺しの烙印』をちょっと連想させた。とはいえ、下請けで殺しを請け負っていて、正社員を殺せば自分たちが…という発想はあまりにもチープすぎだろ。
で、バイトの帰りに賭け将棋(いきなり変な流れを突っ込んでくるよなあ)で負けて意気消沈してあるいていると、背後から兄弟が。でも、一瞬で2人を気絶させてしまう 2ベイビー。で、清掃係を呼んで始末させながら、清掃係とムダ話をしてる間に兄弟が息を吹き返し、逃走してしまう。を追う2ベイビーと清掃係の男女。以降は、なんかトンマな感じで、清掃係の男が撃たれて倒れ、2ベイビーはうろうろするだけ。兄弟のマネージャーは組織のクルマに押し込められて…。兄弟は、早朝、マネージャーの遺体を河川敷で発見するんだけど、杜撰だな。殺しでは清掃係が遺体処理するのに、マネージャーの遺体は放置? しかもそれを兄弟が河原でドラム缶で焼くかよ。ビジュアル優先の絵づくり過ぎだろ。
にも関わらず、兄弟は、弟が女店員に惚れてる定食屋に行ってのんびり食っている、と、隣の席に2ベイビーがやってくる。どうやって突き止めたんだ? で、兄弟が先に気づいてそっと銃をむけるんだけど、2ベイビーも速攻で対応。互いに銃を向け合うカタチは『レザボア・ドッグス』かよ。で、ここで まひろ が腕を撃たれ、逃げる兄弟を追う展開に。こっからはアクションで、廃自動車置き場とかうろうろしながら撃ち合い、兄弟の弟が負傷し、ちさと も撃たれ、まひると兄の格闘対決になるんだけど、この伊澤彩織に見せ場をつくるのは前作と同じで、彼女がスタントできるから長回しで見せる演出なんだろうけど、飽きる。いくら本人がやってるからって、いつまでやってんだよ。ここで、兄が まひる を倒した、と見せて実は兄が倒されていた(パントマイムの見えない壁のような演技)という妙な演出があるんだけど、ありゃなんなんだ?
2ベイビーは質も格も違う殺し屋なら、非正規兄弟ごときに撃たれたりボコられたりすべきではなく、守勢に回りながらも知恵と勇気をつかって余裕で打ちのめして欲しいんだわ。そもそも、あの兄弟と力が互角というのは、あっちゃいかんと思うぞ。
で、へとへとで倒れ込んだ兄弟と、チュールがどうのこうのの話題を経て、2ベイビーむ冷酷無比に兄弟を撃つ(撃つ2人を見せる)場面は、なかなかよかったけどね。
で、エンドロール後に、その後の2人のムダ話タイムで餃子あれこれ。包み方がどうとか、餃子の王将と王将餃子がどうとか。長々と、楽しい。アクションはほどほどでも、この手のだらだらムダ話が多い方が楽しいな。
・2ベイビーや清掃係に指示をだすオッサンが面白い。zoomかなんかで会話してんだよね。清掃係の男女も、なかなか存在感があって、いい。次回作は、清掃係をフィーチャーしてもよいかも。
・題名をなんとかしろや。『ベイビーわるきゅーれ 2』じゃなくて、『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』らしいけど、まぎらわしい。
犬、回転して、逃げる3/30シネ・リーブル池袋シアター2監督/西垣匡基脚本/西垣匡基
公式HPのあらすじは「カフェ店員の木梨栄木は、実は「泥棒」という裏の顔を持つ青年だ。彼が今回のターゲットに定めたのは、婦人警官の眉村ゆずき。彼女の部屋に忍び込み、現金の入った封筒の中にみつけた「ずっとお前を見ているからな」という手紙にドキっとするも、難なく“仕事”を終えた木梨は、愛犬の天然くんが待つ自宅へ。可愛がり過ぎるほどの可愛がりに引き気味の天然くんなのだが、そんな気持ちなど知る由もなく幸せそうに天然くんを抱きしめる木梨であった。泥棒に入られたことなど気づかず部屋でくつろぐ眉村。1日でも早く世界が終わることを願っているところに、爆弾魔の犯行予告が入ったと職場から電話が入る。ここのところ街中は、相次ぐ爆弾犯行予告に騒然となっていた。バイトを終えて自宅に戻った木梨は天然くんが見当たらないことに気付き、ショックで起き上がる事さえできないほど。実は、盗まれた物を元の持ち主に戻すという「戻し屋」が眉村の物を戻すために木梨の部屋に侵入した際、わずかな玄関の隙間から天然くんは外に飛び出してしまったのだ。木梨は盗まれた仕返しに眉村が天然くんを盗んだと思い込む。爆弾予告事件、天然くん事件とは別に、街中は誘拐事件にざわついていた。小学生の本能寺は、「家族」に嫌気がさして家出をしたのだが、それがなぜか誘拐騒ぎに。彼は「人生」に嫌気がさした元因という中年男と偶然に出会い、二人で疑似親子生活を始める。あれやこれやと町が大騒ぎだというのにその頃、木梨は大学の先輩にして泥棒の師である物見に天然くんの奪還を依頼する。」
Twitterへは「元は舞台なのかな? ほのぼのサスペンスで、前半の脱力感はいいんんだけど、後半のつじつま合わせがいまいちピタッと決まらず。なので、おおそうか!」がない。ときどき映るメモの字は読めないし、戻し屋の役割もピンとこんぞ。」
82分の小品にしては、後半、長く感じた。なんか、メリハリがないんだよね。だらーーーーっとしてて。で、話全体のイメージも、ぼーっとしか記憶できていない。↑のあらすじ読んで、ああ、そうか、ってところもあったり。『運命じゃない人』みたいに、前半で埋め込んだ伏線が、後半でピタッピタッってはまっていくような快感もないし。なんか、引っかかるところがなかったな。
前半からスローテンポで、木梨の好き嫌いとかあれこれナレーションで説明される。木梨が泥棒に入る相手・眉村についても、同様。でも、ほとんど伏線として活かされない。不在の時間を綿密に調べてるようだけど、なぜ彼女を選んだのか分からない。そもそも、あえて警官を選んだ理由は何なんだ? 近所の公園にいるお嬢さんと執事も、なにも機能していないんだよな。その場では何となく笑えても、なんだよ、となってしまう。
木梨の性癖も、さらりとしか紹介されないのがつまらない。眉村の部屋からは、通帳と印鑑、幼い時に描いた絵や習字をいただいてくるけれど、金品目当てなのか、それとも相手の人間性に忍び込もうとしているのか、が曖昧。自室には侵入相手からいただいてきた物品が箱に整理(この時だっけ? 現金の入った封筒にまぎれこんでる「見ているぞ」のメモが画面に映るんだけど、字が読めないんだよ。小さいし、不明瞭だし。あれは伏線になるんだから、ちゃんと見せないとダメだろ。木梨の声で「ストーカーされてるのかな?」とは言ってたし、画面が監視カメラっぽくなったのは気づいたけどね)されているけれど、通帳から、さっさと金を引き出さないのはなんでなの? 相手の私生活をコレクションするのが趣味、とかあるなら、そういう描き方をするべきだと思う。
翌日だったか戻ると飼い犬の天然君はおらず、眉村の箱をあけると空っぽ。箱の中に「戻しておきました」のメモがあったんだよな、たしか。このメモも読みにくかったけど。この時点で、これは戻し屋の仕業? と思ったんだっけか。あとから戻し屋の物見が登場するけど、木梨は物見のことを戻し屋と知ってたんだよな?(知らなかったんだっけ? よく覚えてない)だとすれば、眉村の私物を物見が戻した、って分かるのではないの? 
木梨のバイト先のカフェに眉村がやってきて、逮捕? と思わせて、パスケースからViewカードはまあいいとして。そのあと木梨が眉村に惹かれていくという妙なミュージカルっぽい展開は何なの? アホか。
で、このあたりから木梨の話から離れて、元因と少年の話になる。のだけれど、少年のことがよく分からんのだよな。海辺で少年を救い、自宅アパートに連れて行く元因。一所に風呂に入ろうとして、少年の身体の痣に気づくんだけど。いまいちスッキリしない。少年は水辺で自死の真似事をしていた、のか? にしては悲壮感がないぞ。元因の、少年を自宅に連れて風呂に入れるというのも、いまどき怪しいだけだろ。似たような話が実際にあったのは知っている。女の子だったかな。誘拐に間違われたんだよな。たしか、最近、映画にもなっていたはず。とはいえ、元因はさっさと少年を家に戻さないと自分があぶないだろうに。延々と住まわせる。テレビのニュースにもなって、報道されているのにもかかわらず、腰が重い。なんか、話もぼーっとしていて、あんまよく覚えてないけど。このニュースと並行して爆弾予告のニュースがあって。それに影響されてなのか、少年は元因に、自宅に爆弾という名の段ボール箱(少年は箱の中に何を入れていたんだっけ? 忘れた)をとどけさせるんだっけか。たまたま近くにいた警官に渡すと、それは警官に変装した木梨で。元因は捕まるかと思っていたんだけど、警官木梨は元因に「帰れ」というのみ。このあたりの経緯もよく分からない。
少年には母親と、姉がいたんだよな。もうひとりいたのは、兄? それとも、少年自身だったのか? いずれにしても、親からいじめられてるような気配もなく。なぜ少年がいじけていたのか、よく分からんよ。というのもある。
しばらく後で、眉村と木梨はつき合うようなことになって。木梨は連絡先を書いて眉村に渡すんだったか。で、その連絡先の文字の字体と、通帳の引き出しに合ったメモの字体が同じなことに気づいて。…なんか混乱してきた。眉村の私物をもどしたのは、戻し屋の物見なんだよな。私の記憶違いか。
そうそう。最後にネタばらしがあって。現金と一緒にあった「見ているぞ」のメモは眉村の父親のもので、要は、眉村の部屋に監視カメラを設置していて、様子をすべて見ていた、らしい。なので、木梨が侵入したことも知っていて、それで、眉村の父親が戻し屋の物見に私物の返却を依頼した。つまり、物見は木梨の部屋から眉村の私物を盗み、眉村の部屋に戻していた、ということのようだ。
というわけで、経緯がすんなり頭に入っていなくて、ぼーっと曖昧な記憶しか残っていない状態だ。
それにしても、娘の部屋に監視カメラ設置して見てる父親って、変態だろ。泥棒に気づいたら、警察に連絡しろよ。ああ、よく分からん。変な映画。これがネトフリなら何度も見直して確認できるんだけどなあ。
ロストケア3/31シネ・リーブル池袋シアター2監督/前田哲脚本/龍居由佳里、前田哲
allcinemaのあらすじは「ある日、老人と訪問介護センターの所長の死体が発見され、捜査線上にセンターで働く介護士の斯波宗典が浮上する。献身的な介護で介護家族にも慕われていた斯波だったが、検事の大友秀美は、彼が勤務する事務所だけ老人の死亡率が異常に高いことに気づく。斯波への疑惑はますます深まり、真実を明らかにするべく斯波と対峙する大友だったが…。」
Twitterへは「人の、こころの願いに応える崇高な介護士の話だった。(内容はだいたい予告編で分かってたけどね) 素直すぎる映像は、微妙な問題を扱っているからか。問題はあるが、答はない。サブストーリーも重層的に絡んで、さあどうする、と問いかけてくる。」
ミステリーやサスペンスの要素はほとんどなし。だからドラマチックな展開は抑えられてて、むしろクライマックスは斯波と大友の対話になるようなつくりになっている。ある意味淡々。
冒頭近くで綾戸智恵の老婆が大友に、刑務所に入れてくれ、と懇願する場面がある。かつて傍聴していたときの被疑者を思い出した。彼は住んでいる公園の前にある酒屋から1000円ぐらいのウィスキーを盗んで、10何回目かの犯行で起訴されていた。その酒屋から盗むのも2度目、だったかな。ウィスキーが欲しくて盗んだんじゃないだろ。捕まって刑務所に入ることが目的だったに違いない、と思っている。でも検事は「悪質極まりない」「反省の色がない」などと述べていた。たしか執行猶予は付かなくて、強制施設に行くことになったと記憶している。してやったり、じゃないのかな。司法の、謹厳実直な法解釈と刑の執行に、矛盾と言うより、アホらしさを感じたのだった。彼に必要なのは、安心できるねぐらだろうに。
えーと。映画の内容については予告編で分かっていたので、最初はもどかしかった。なぜって、認知症の老人に優しく接し、ケアセンターの同僚から信頼され、若手の女性介護士からは尊敬さえされている様子が延々と映されるのだから。さて、いつドラマは始まるのだろう、と。
ある老人宅でセンター長の死体と、老人の死体を家族(戸田菜穂)が発見した、というところからドラマが始まるんだけど、派手だったのは家族の悲鳴ぐらい。あとは、センターが少しざわつき、その後は介護士たちの事情聴取になっていく。極めて淡々。
その後、検事事務官(なかなか有能)が死亡者データの分析をし、斯波の休日に集中していることに気付いて、大友が斯波と対峙する、という展開。検事は41人の犠牲者、というけれど、斯波は42人といい、その1人は斯波の父親であることに気づくというのがあるけれど。要は、斯波は逃げも隠れもしない。認知症の親を抱え、生活に支障をきたしているケースに、救いを与えた、という主張を繰り返す。これは、聖書にある言葉で、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい、に従っていて、確信的に行っているわけだ。これは、自分の父を介護し、介護のせいで仕事にもつけず、経済的に困窮したからと生活保護を申請しようとしたけれど却下され、途方に暮れているときに父から「殺してくれ」と言われ、泣く泣くしたがった、という経験からのこと、と描かれている。
大友は、あなたのしたことは殺人、と最初は法に則った決まり事しか言わないのだけれど。実は自身にも認知症の母親がいるというアナロジー。でも大友の場合は施設に任せているから斯波のように自ら世話をしなくてもいい、という環境の違いで見せていく。認知症の母親がいても、自分は特権的な立場? 法解釈だけで決めていいの? 次第に、自分の判断に懐疑的になっていく大友…。まあ、映画のつくりが、斯波や、他の患者と介護者の状況を考えたら、仕方がないんじゃないか、と斯波に分のあるような描き方がされているわけだけどね。
フツーの映画なら、負担となる認知症の親をどうしますか? 殺すなんて罪悪でしょう。そんなこと、心に思っていいんですか? と天秤にかけて観客に問いかけるところだ。けれど、この映画では、斯波は正義である、というような見せ方をする。斯波は、患者の期待(もう生きたくない、殺してくれ)に応え、介護者の期待(私の人生はだいなし、できれば早く亡くなってほしい)にも応えている。社会の支援は少なく、安楽死は認められておらず、人を殺めれば罰せられる、という状況で、ではどうすればよいのか? それでも介護者は苦しまねばならないのか? このジレンマに、認知症の母親を抱える大友もはまり込んでいる事実。
この映画では、鏡に映る大友の姿がよく現れる。複数の鏡に映る様子は、心が分裂していることを表しているのかもしれない。さらに、接見室で、ガラスに斯波と大友の顔が映り込む。そして、刑が決まった後だと思うんだけど、大友が斯波に面会に行き、そこで、自分の母親についてのことを話し始めるんだけど、ここはまるで懺悔室の如き状態になる。大友が告白し、聖職者たる斯波が受け入れる、というような感じ。で、このとき、大友の顔が斯波の顔にピタリと重なるのは、心を同じくした(斯波の行為を単純にな否定はできない)、ということを表しているのだろうと思う。斯波は、迷える子羊をやさしく見守るような表情なのが印象的。
・老母だったか、が亡くなって、ほっとしている介護者・坂井真紀のエピソードは、地味にいい。パートで知り合ったハゲおっさん(ハンサムではないところがいい)と第二の人生をスタートさせるエピソードは、共感できる。
・戸田菜穂は、裁判所で「お父さんを帰せ!」と怒鳴って退廷させられる。これは、坂井真紀の反応とのバランスなんだろうけど、無理矢理感があるな。彼女だって、ホッとしているところはあるだろうに。建て前に生きる人、ということなのかな。しかし、戸田菜穂はフツーのオバサンになっていたよ。
・しかし、合鍵で介護先に潜入し、盗みを働いていたセンター長って、なんなんだ?
・大友の上司が、斯波がセンター長を殺した線で進めてくれ、と、筋書きを指示しているのは、怖いよなあ。その後に斯波の一連の殺人が分かると、いちおう評価はしていたけど。
・若い女性介護士が、斯波の行ったことを知って介護士をやめ、風俗に堕ちているという場面が一瞬映るんだけど、これはなんなんだ? 突然すぎて理解できんぞ。

 
 

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