2023年4月

零落4/3テアトル新宿監督/竹中直人脚本/倉持裕
allcinemaのあらすじは「8年間、ひたすら走り続けてきた連載が終了を迎えた元人気漫画家の深澤薫。新たな漫画が描けなくなり、鬱屈した日々を過ごすうち、多忙な漫画編集者の妻との間に大きな溝が生じてしまう。そんな中、“猫のような目をした”風俗嬢のちふゆに出会い、彼女に惹かれていく深澤だったが…。」
Twitterへは「傲慢な男の凋落、恨みつらみ、責任転嫁、暴言、女への甘え…。な、ダメ男が一転横柄。もう見ててうんざり。太宰ってほとんど読んだことないけど、想像するに似てそう。」
うんざりする映画だな。ダメ男がどんどん自滅していく様子を見せつけられる。バカだろ、こいつ、としか思えない。世の中には、この手のやつもいるんだろうけど、興味もなければ同情もできない。すべて自分は正しくて、世間や周囲が間違っている、と主張する。こういう男を主人公にした話を映画にして、誰が楽しい気持ちになるんだろう。なに? 楽しくなってもらおうと思ってつくってないって? あー、そうですか。じゃ、何を感じてほしいんだろう? まったく分からない。
浅野いにお原作らしいけど、リアリティが感じられない。世の中の売れてるマンガを「下らない」「読者に媚びてる」といいつつ8年間連載したなら媚びてきたわけで。アシスタントの女の子に「俺は売れてるんだ」と言ったかと思うと、「売れればいいのか!」と怒鳴ったり。最終的に1年余りのブランクを経て、編集者に「自分の描きたい物を描く。それを見て判断してください」と言った後、の新刊は売れているようで。じゃあ、自分の描きたい物で売れたのかと思いきや、熱心なファンがサイン会にやってきて絶賛すれば「君はなにも分かっていない」と突き放すように言って、映画は終わる。どっちなんだよー。なんだか話が分かんねえよ。
女性への対し方も、よく分からん。学生時代につき合ってた女性には「バケモノ」と言われ、去られてしまう。けど、とくにバケモノには見えないぞ、深澤君。どこがバケモノなのかちっとも分からない。で、漫画家デビューして知り合った編集者と結婚し、現在に至る。妻は売れっ子漫画家の担当で忙しい。いっぽうで深澤は少し落ち目で、連載が終わってヒマしてる。すると、急に「そんな漫画家の相手してないで、俺にも目を向けてくれ」と泣き言をいい、風俗通いを始め、つてには離婚を切り出す。なんなの、深澤君。いままで支えてくれていて、たぶん自分が忙しいときには妻をないがしろにしたこともあったろうに、妻が忙しくなると嫉妬し始める。なんて自分勝手。妻に悪態をついても、妻は相変わらず深澤君が嫌いではないと、離婚を拒む。出来た嫁じゃないか。なんの不満があるんだろう。バカだろ、深澤君。
風俗の、最初におデブちゃんがやってきて場面は笑った。お前じゃ立たない、となるのかと思ったら、しっかりとしてもらって。で、次に行ったときにきた ちふゆ に入れ込んで。祖母が入院するので世話する人が必要だから辞める、ということになったら、深澤君は「俺も行く」といいはじめる。速攻で断られるかと思いきやOKで、上野駅から出発する。着いたところは、かなしき駅(架空の駅?)クルマのナンバーは遠野? にみえたけど、よく分からんところ。農村だけど海も近い。で、どっかのホテルで無料でセックスさせてもらってる。な展開は、非現実的すぎて、なんだかなあ。
ちふゆ は、実家に行かないのか? っていうか、深澤はどこに宿泊していたのだ? そもそも ちふゆ の実家も祖母も登場しない。風俗辞めて帰省する必要がどこにあったか、皆目分からん。しかも、あんな田舎で中年男と一緒にいて、どっかのホテルに入ったりしたら、噂は一気に広がるだろうに。
ちひろ は、風俗で働く理由を「部屋代15万だから」と言っていた。21歳の大学生が、どういう生活をしてるんだ? ところで、深澤が 田舎で ちふゆ と対話する場面は、大島渚とか吉田喜重の映画みたいな、単調な抑揚の対話になっていたのが印象的。ありゃどういう意図なんたか。
編集が深澤から逃げまくるのも、意味不明。いくら深澤が落ち目でも、あんな手のひら返しはないだろう。アイディアを提供するとか、企画プランナーを紹介するとか、いくらでもすることはあるはず。深澤が、売れそうもない企画を持ち込んで迷惑、と言うわけでもなさそうだし。落ち目物語を捻出するために、ムリして考えたストーリーのようだ。
深澤自身も、読者に迎合するマンガを「くだらない」というわりに、読者に媚びないマンガをどーの、と言ってる割りに、そういう企画を出している様子はない。フツー、ある程度売れた作家なら、自分の描きたいマンガぐらい、ちょっとは描かせてくれるだろ。それがダメならコミケで自費出版だってあるし、Webで公開というのもある。編集に逃げられながら、なんども電話したり、コンタクトを取ろうとしている深澤も、なさけない。結局は大手出版社の編集者頼みなのか。っていうか、現実的ではないよね。
で、ちふゆ の田舎から戻り、互いに連絡を取り合うこともなく過ごしていて。一度風俗に行くと、なかなかのブスがやってきて、「こんなブスでごめんなさい」ってにこやかに言うのは、笑った。なこんなで妻との離婚も成立して、心にすきまが生じたのか。ちふゆ のLINEしてみると、既読は付いたけど返信はなし。それに、なんと、いつのまにか風俗に復帰していて、でも、金で買う気にならない深澤君。それじゃ、と、やっと自分なりの企画を絵にし始め、忌憚なく意見を言ってくれ、と編集者に渡した、ようだ。
で、どうやらそれが大ヒットしたのか、書店に並んでいる。なんだったんだよ、この期間のダメぶりは。っていうか、ダメにならないとアイディアが出てこない質なのか。で、その新刊のサイン会(ほかにもオッサンが映るけど、あれは元のアシスタント?)に、1年間ずっとLINEで応援メッセージを送ってくれていた女性ファンがやってきていて。いかに深澤のマンガで力づけられたかとか熱く語るんだけど、それに対して、「君は全然分かってない!」と冷酷に言うんだけど。バカか、深澤君。このマンガは読者に媚びているだけで、僕の描きたい本当のマンガとは違うんだよ、とでもいうのか? でも、じゃあ、編集に向けて描いた、自分なりのマンガが成功したわけではないのか? そこんところがよく分からない。
その後、編集と街を歩いていると、男と歩いている ちひろ とすれ違う。互いに知らんふり。まあ、どうでもいいわ、な感じ。っていうか、あんな昼日中、風俗嬢がお客さんと歩いていいのか? なに、客じゃなくて、本当の恋人? 知らんわ。
・8年間の連載が終わって仕事がなくなり、アシスタントの仕事もなくなってしまった。…ってことは、平行して何も仕事をしていなかった、ってことなのか? 変なの。
・アシスタントの男女2人はクビにするんだけど、女の方が妙にしつこくて。「困る」といいだすのは、どうなんだ? フツー、ほかにアシスタントの口ぐらいあるだろ。揚げ句、深澤をハラスメントで訴えると言いだしたり。でも、自分で描いたマンガを見せに来たり。なんか情緒不安定な感じだな。深澤なみにめんどくせえ女だ。・最初の方の打ち上げの席に、久住昌之が地味に座ってる。登場シーンはそこだけ。しりあがり寿は編集者役で、カフェで、ガロ風の変な漫画を見せている男に、こんなの誰も見たくない。エロと暴力だよ的なことを怒鳴ってる。あんな編集おらんだろ。
トリとロキタ4/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ベルギー/フランス映画。原題は“Tori et Lokita”。allcinemaのあらすじは「アフリカのベナン出身でまだ幼い少年トリとカメルーン出身で10代後半の少女ロキタは、ベルギーへ向かう道中で知り合い、本当の姉弟のような絆で結ばれる。ロキタはなかなかビザが下りず正業に就くことができない。それでも故郷の家族に仕送りするため、危険なドラッグの運び屋としてお金を稼ぐ日々。ある日、仕送りのためのお金を密航の仲介業者に奪われてしまったロキタは、さらに危険な仕事を引き受けることを決意し、ついにトリとも離れ離れになってしまうが…。」
Twitterへは「ベルギーかフランスで暮らすアフリカ難民の年上娘と年下少年(なぜか仲好し)が、どんどん堕ちていく話。食いものにする白人が悪いのはもちろんだけど、後先考えず行動する2人もなかなかバカっぽい。」
そうか。『ある子供』『息子のまなざし』『少年と自転車』の監督か。ぶっきらぼうでいささかドキュメンタリータッチの演出に納得。で、この監督の映画って、気の毒な立場にあるけど、でも、そのために犯罪に手を染め、堕ちていくような主人公のものが多いよね。なので、諸手を挙げて主人公に同情できないところがあるのだよね。
この映画も、アフリカから難民でフランスかベルギーに来ている2人が主人公で、2人はヤクの売人してたり、法を犯している。でもたぶん、それは難民に対する扱いが悪いとか、いやそもそも国から逃れてこなければならない人たちがいることに注目すべきだ、てな理屈に退けられて、悪事も仕方ないこと、とされそうのだよね。もちろん、すべての難民に最高の持てなしで迎えられたら言うことはない。けれど、現実にはそういうわけにいかない。ほんとうに命の危険があって逃れてきている人もいれば、たんに豊かな西欧社会に憧れているだけのヤクザな輩もいる。それをどう判別するか。すべて迎え入れるわけにはいかないのだから、聞き取り調査も必要になるのは分かる。なことをいうと、かつて西欧各国はアフリカを植民地にして利益を吸い取るだけ吸い取ったのだから、恩返しをしろ、なんていう人もいるのかな。でもそうしたら、共倒れになってしまいやしないか。国内にも貧乏人がいて救済しなければならないのに、なぜ難民に税金を使うのだ? と暴動が起きるんじゃないか。べつにネオナチでなくても、フツーの市民でも、思うんじゃないのかな。
法を犯していることについて言えば、同じような環境化にいても法を犯さない人が大半ではないのかな、と思うのだよね。そう考えると、2人の思いや行動に、とくに共感も同情もできない、というのもある。
この監督の特長として、説明的なことが嫌い、というのがある。この映画もそうで、2人の関係とか出自とか現在の環境とか、もろもろよく分からないところが多い。だんだん見ていくと断片的に分かってくることもあるけれど、それまでがもやもやする。もちろん、最後まで分からないこともある。たとえば、この2人の関係はなんなんだ? トリは2011年生まれといっていたから10歳か11歳。ロキタはかなり大きいから17、8なのか。傍には姉弟で通しているけれど、後半で分かるのは同じ難民ボートに乗り合わせて知り合ったようだ。先日Netflixで見た『スイマーズ: 希望を託して』みたいな感じで生死をともにしたのかな。にしても年の違う2人が実際の兄弟以上にべったりなのは、なんでなの? ロキタにパニック障害があって、でもトリと話すと落ち着く、というのも、気持ちが悪いぐらいだ。
トリは、施設に暮らしているらしい。ロキタは施設から出ているようだけれど、それはなぜなんだ? 年齢? また、どこに暮らしているのだ? どっか借りていて、部屋代と故国への送金のために売人をしているのか? 
ロキタは何かの面接を何度か行っている。そのたびに、上手く話せなかったとか落ち込んでいる。ロキタは難民認定されていないのか? ビザが下りていないらしい。それをひたすら嘆き、トリは慰める。ロキタはビザを取得し、介護の仕事がしたいらしい。けど、映画を通して見て、ロキタはいい介護士になれないと思うぞ。売人の仕事をくれるシェフ男への態度はぶっきらぼうだし、後に大麻工場で働くことになっても、駄目だと言われているのにスマホでトリと話したいと痩せ男に何度も訴え、却下され殴られてる。自分の立場を考えたらあれこれ主張できないだろうに、我が強い娘だ。もし介護士になっても、今日は調子が悪いから休みたい、給料が少ない、ああしたい、なんだかんだ、と不平不満を並べたいる気がして、なんかうんざりな性格だなあ、と思って見ていた。
なかなかビザが下りないので、ロキタはビザの偽造に走る。で、売人の上司であるシェフ男にいった、のだろう。そうしたら金がかかる、と言われたのだろう。大麻工場の世話係の仕事をもらう。べつに押しつけられたわけじゃなく、自分から了承したはず。で、痩せ男につれられ行くんだけど、クルマで目隠しされると「なぜだ?」といやがるし、大麻工場でも「シーツはないのか」「寝袋は嫌だ」と文句ばっかり言ってる。別に奴隷的な扱いをされているわけでもないのだから、我慢して黙々と働きゃいいだろうに、と思っちゃうんだよね。
で、スマホで撮りと話そうとして、位置がバレるおそれがあるから、とSIMカードを抜かれてしまうと、しつこく食い下がる。そこまで訴える必要があるのか? っていうか、なんでトリと毎日話さないとダメなんだよ。じれったい娘だな。と思ってしまう。さらに、食事をもってくる女性が来たときにも、スマホで話したいとしつこく食い下がり、女性のスマホでちょっとだけ話して安心したりしている様子を見ると、なんだいい歳をして、と思ってしまう。トリと話さないとパニック障害になる、ってなんだよ?
ロキタに「売人はダメ」といわれていたトリだけど、そんなことはお構いなしにシェフ男から仕事をもらっている様子。で、自分の絵があるとロキタの気持ちがやわらぐからもっていってと、施設に戻って絵をもってくる。絵というからA4サイズぐらいのを想像したら、壁3畳ぐらいに模造紙が貼ってあり、そこに小さな紙に描いてあるのが貼り付けてあって、その模造紙ごと剥がしてもっていくんだよ。呆気か。でも、それを、文句も言わずもって行ってやろうとするシェフ男は、なかなか優しいところもあるのだな。ところで、トリは同じ施設の女子に自転車を借りているようで、「今日中に返してよ。門限までに帰れる?」と聞かれても、ほぼ無視。で、大麻工場に向かうシェフ男のクルマに密かに乗り込み、大麻工場に潜入する。こういうところは知恵が働くのね。
しかし、初めて行った大麻工場で、誰がいるか分からんのに「ロキタ! ロキタ!」とずううっと名前を大声で呼ぶ。バカか、と思う。で、壁の吸気口? から侵入し、地下の大麻乾燥室に忍び込み、送風機みたいなところからもロキタを呼び、なんとか遭遇。和気あいあいと食事し、自分のSIMカードをロキタのスマホに差し込んで、話せるようにしてやる。でも、そんなことをしたらスマホで通話がバレる恐れがあるだろうに、そこまで考えないのかよ。バカじゃないのか? で、戻るとき、大麻乾燥室から大麻を持ち出し、これを売ろう、とロキタと話がまとまる。って、そんなことをしたらすぐバレるだろ。この2人、ほんと頭が幼いというか、想像力が欠如しているとしか思えんよ。
当然のように、翌日、トリが大麻工場に行くと、シェフ男(痩せ男?)に捕まりそうになる。すでに足を痛めたロキタがいて「SIMカードを見られた」と言う。ほーら見ろ。偽造ビザも、介護士の夢も、すべてパアだ。トリは男を棒で殴り、さらにロキタも殴り、気絶させて鍵を奪い、逃げようとする。と、そこに痩せ男がやってくるんだけど、隠れてやり過ごし、大麻工場から二人は逃げ出す。ロキタは足を痛めているのでヒッチハイクしようとするんだけど、ロキタはトリに「隠れてろ」といい、自分がクルマを停め、交渉が成立したらトリを呼ぼうとする。トリは反対するんだけど、ロキタは押し通す。この理屈が分からない。なぜそんなことをするの?
で、次にやってきたクルマは痩せ男の運転するクルマで。逃げるロキタは足のせいで倒れ込み、痩せ男は無情にもロキタに2発銃弾を撃ち込み「死体は明日始末する」と仲間に報告する。おお。なんとも簡単に始末しちゃうんだな。っていうか、それぐらいやばい仕事なんだってことだよな。だからロキタを連れてくるとき目隠しをし、スマホも取り上げたわけだ。だけど、考えが及ばないロキタは我が儘をいいつづけ、トリとこっそり話をしたりした。そもそもトリが大麻工場にこなきゃ、こんなことにはならなかっただろうに。ただロキタと話がしたい、という思いだけで、最後はロキタの死に結びついた。だから、この2人のべったり関係は、なんなんだよ!
で、ロキタの葬儀。トリは別れの言葉を朗読するけど、自分が大麻工場に忍び込まなきゃこんなことにならなかったのに、という思いはあるのかね? で、映画は終わる。
・シェフ男がよく分からん。調理場で料理つくりながら2人と売人としての仕事を発注したりしてる。ときおり、ロキタにフェラさせたりしてるけど、金は払ってる。特権を利用しているのは、よくないとはいえるけど。こういうの気にしない娘なら、風俗で儲けようという発想になるかもな。偽造ビザもちゃんと対応するつもりらしく、ロキタの顔写真も撮ったり。ついでに、Tシャツ脱ぐところ撮らせろ、なんてもいう。まあ、嫌ならシェフ男から仕事をもらわなきゃいいわけで。なんて書くと、そうせざるを得ない状況が難民にはある、なんて言われそうだけど。でも、すべての難民を受け入れ、住まわせ、仕事を与えるるわけにはいかんだろ。それは、国としての政策とも関わることだ。気の毒な難民がいるのは分かるけれど、だからといってそのまま受け入れるのは難しい話。ロキタだって、親兄弟を故国に置いて逃げてきたようで、稼いだ金を送金している。故国は平和なのか危険なのか、分からんよ。
・仲介業者というのがよくでてきて、ロキタから金を巻き上げ、最後に「教会に来い」という。すべての料金をまだ払い終わってない、ということなのか? そして、教会に来いというのは、どういう意味?
・トリにはビザが下りたけど、ロキタはダメ。トリは、なんだっけ、なんかオカルトっぽい理由で認められてたよな。で、ロキタは、トリと兄弟、と嘘をつき続けて、認められない。これなんかも、なんでなのか、よく分からない。
ヌーのコインロッカーは使用禁止4/10シネ・リーブル池袋シアター2監督/上西雄大脚本/上西雄大
allcinemaのあらすじは「刑務所から出所した黒迫は、別れた妻子に送る金を工面するため、知り合いのヤクザに紹介された覚せい剤の売買に手を染める。ある日、コインロッカーを使おうとして、ヌーと呼ばれる発達障害の女性に咎められる。彼女は自分が赤ん坊の頃に捨てられていたロッカー“ぬ5515”を守るため、毎日ロッカーの横で絵を描きながら見張っているのだった。次第にヌーに興味を持つようになった黒迫が、彼女の絵をSNSに上げたところ、思いがけず購入したいとの連絡が舞い込むのだったが…。」
Twitterへは「知恵遅れの女性(少女でないところが微妙)と、ヤクザに半分足を突っ込んだダメ男との交流という、よくある設定。物語を逐一説明していく展開で、割りと素っ気ない。女性の画才がいまいち活かされてないのも残念。画調をいじりすぎ。」
もとは舞台らしい。社会からこぼれ落ちたはぐれ者を描いていて、底辺の人が底辺の人を支えるような話。それが監督の狙いなのかもしれないが、よくある設定な感じもする。ヌーの生まれは『コインロッカー・ベイビーズ』を連想するし、障害者だけど絵が上手いというのも、よく見かける。ダメ男が正義感を振りかざす、とか、高校球児の友情とか、いろんな寄せ集めに見えてしまう。で、なんか既視感があると思ったら、監督・主演の上西雄大は『ひとくず』の人だったのか。スタッフ、キャストもほぼ同じ。話が似た感じなのも、そりゃそうだわな。話を追っていくだけ、な展開も似てるし。
もともと黒迫=カーブはフツーの会社員で、早期退職制度に応募し、多めの退職金で居酒屋を始めて失敗。保険金詐欺で刑務所に入ってでてきたばかり、という設定だ。こういう落ち方をする人もいるんだろうけど、ただのダメ男だろ、としか思えない。妻には、「相談なくやめるなんて。居酒屋なんて失敗するに決まってる」といわれていて、まさにそうなった。しかし、会社員時代はまとも、だったんだろ? 息子も高校生で、グレてもないし。それがいきなり保険金詐欺できる、というのが不思議。そもそも話し方からして教養があるように見えないんだよね、カーブは。で、保険金詐欺は初犯だろうに、でも数年ムショには入っていた、というのも解せないところ。執行猶予つかないの? さらに、出所して訪問したのがむかしの野球部の仲間の木嶋で、ヤクザの幹部らしい。ほのめかしだけだけど、カーブはむかし投手で、木嶋の暴力事件で高校野球大会に出場できなかった、のかな。という借りがあるからか、木嶋はカーブに売人の仕事を与える。のだけれど、すぐにヤクザ世界になじみ、態度もでかい。組の面々にも上から目線で対応する。組員からすれば親分の友人だから仕方がないのかもしれないけど、カーブってバカだろ、という印象しか持てないのだよね。
ヤクの受け渡しにはコインロッカーを使っていて、そのコインロッカーの特定の箱が、ヌーが捨てられていたところ、というところから2人が知り合うことになるわけだ。あとは、カーブが飯を食わせたり、ヌーがついていく、ということぐらいしかしてないんだけど、なぜかヌーはカーブになついてしまう。ちょっと説得力が足りないよな。
ここに絡むのが、市の職員の女性(藤山直美似)で、彼女は幼いとき、自分の身勝手から妹を死なせたことがあるらしく、その妹と同じ名前のヌー=叶(かなえ)には熱心に面倒をみているというムリやり設定。だから、ヌーにまとわりつくカーブに警戒心を抱き、これ以上かまわないよう訴える。けど、カーブは聞く耳を持たない。
てな話に、ヌーの描く絵が絡んでくる。木嶋の部下が仕事用にくれたスマホでインスタを始め(ってのが違和感ありすぎなんだが)、ヌーの絵をアップしたら大評判。外国の大物タレント? が買いたいと言ってきて、日本のエージェントと会い、1枚200万円で7枚売ることになる。さらに、依頼通りの絵を描いてほしいとか、それをまとめて絵本として出版したい、とかいう話も持ち上がって。息子を大学に進学させたいけど金がないカーブは渡りに船と、手にした1400万円のうち一千万を妻に送金する。って、身分証明とかなにやら必要になるはずだし、突然の大金なら税務署も関心をもつと思うんだが、どうクリアするんだ?
このあとは、木嶋とその兄弟のショバに関するもめごとあったりする。もともとその兄弟の管轄エリアを、木嶋がカーブに与えたことが原因らしい。そりゃそうだよな。ところで、木嶋は下部組織の組長なのか? で、兄弟というのは別の組の親分なのか? それとも、ある組の幹部通しなのか? そのあたりがよく分からない。組の中のもめごとなら、上に立つ親分が仕切るだろうに、そういう存在は出てこないのだよな。
このあたりで想像したのは、ヌーの画才を「金のなる木」と木嶋が利用し、働きづめにする、とかだったんだけど、そんなことにはならなかった。なぜかっていうと、インスタで有名になって、絵が売れた、ということもインスタで広がっているはず。なんだけど、市の職員も、木嶋や部下たちも、そのことをずっと知らないまま、なんだよね。これは実に不思議。
なにが理由だったか忘れたけど(白血病はまだだったよな? 違うッけ)、カーブはエージェントに連絡し、絵の取り引きは今後一切しない宣言をする。なんか、もったいないなあ、と。カーブは、自分が描いた、なんて言わず、ヌーが描いた、といえば良かったんだよ。そして、カーブがヌーの代理人になって、ビジネスを始めれば良かったんだ。保険金詐欺をするぐらいなら、そのぐらいの才覚はあっても不思議じゃないと思うんだけど、話はそうはならない。どころか、今後、絵が売れると言うこともないし、大物タレントがCDのジャケットにした、とかいう話も登場してこない。なんだよ、もったいないな。障害者だけど絵は天才的、という展開にすりゃあ、清々しい話にもなり得た物を。っていうか、カーブを知性のない下品な男としてしか描いていないのが、なんかなあ、な感じかな。
でまあ、ヌーは鼻血から入院で検査したら白血病で。医師は、完治は難しい、と。骨髄移植なら可能性があるが、兄弟でもいれば・・・。他人ではほぼムリ。と言われて、カーブは「俺を調べてくれ」といきり立って調べたら、「適合します!」という結果なんだけど、話がご都合主義過ぎてしらけるな。
で、移植手術が終わる直前、カーブは麻薬の売人行為で逮捕されてしまう。麻酔から覚め、カーブはどこ? と騒ぐヌー。逮捕されたことをどうやって知ったんだか忘れたけど、ヌーは雨中警察まで行き、刑事に「会わせて」といい、そのまま倒れてしまう。
カーブも、ヌーに会わせてくれ、と検事に言うけど無視される。が、すべて吐けば起訴しないでやるぞ、といわれて売人のことや木嶋のことや、すべてしゃべってしまった様子で、なんと釈放されてしまう。途次、木嶋と川を挟んで彼岸と此岸、すれ違う。実をいうと、カーブはヌーに会う前に、木嶋の子分に刺されて死ぬんじゃないかと想像してた。ところが「みんなしゃべっちまったぞー」といっても木嶋は、しょうがねえなあ、って感じで手を振るんだよむ。なんてことがあるのか? いくら高校時代の借りがあったとしても、木嶋は逮捕されてしまうではないか。きっと長いぞぉ。ヤクザなのに、いい人過ぎるな、木嶋は。
ところが病院に行くとベッドはからで、ヌーはくなっていて、カーブは号泣! 市の職員女性からロッカーの鍵を渡され、行って開けて見ると、ヌーのスケッチブックとカーブのスマホが…。カーブに頼まれていた(つまりはエージェントに頼まれていた)絵を入れておいたらしい。さらにスマホには、誰が撮ったのかヌーが映り、「カーブと結婚したい」と恥ずかしそうに言っている。ここは泣き所なんだろうけど、いろいろ納得がいかないのだよね。
そもそもスケッチブックをわざわざロッカーに入れておく必要はあるのか? ヌーがコインロッカーベイビーだから、むりやりこじつけてないか? あと、スマホの映像は病室(?)撮られてようだけど、誰がどういう状況で撮影したんだか。市の職員女性? にしても、違和感ありすぎ。そして、いつロッカーに入れたのか、も気になる。ヌー本人は入院しているのだから、ムリだろ。じゃ、市の職員女性? 彼女がなんでそんな仕掛けをしなくちゃならんのだ?
というような感じ映画は終わるんだけど、エンドロールでは、改心したのかカーブが施設で働いている様子が映る。のだけれど、ヌーの描いた絵で手に入れた1000万円は返さずじまいか。残りの400万は、あれこれ使って、残りをどうしたんだか。というか、最後までヌーは、自分の絵が高く売れたことを知らないのか? そして、エージェントに依頼された絵は、そのままなのか? 最後に、ヌーの絵による絵本が完成しました、なところが映るのかと思ったけど、そんなことはなかったのね。なんかなあ。いろいろモヤモヤするんだよなあ。
・中途半端に標準語ばっかり。大阪の話なら、大阪弁で通せばいいのに。
・ところで、ヌーの設定は娘なのかな。でも実際の役者の年齢は40近いようだ。
・後半、木嶋がカーブのアパートにやってきたとき、カーブはが「この腕時計を100万で買ってくれ、返すつもりで借りた金で買った」とかなんとかいう場面があるんだけど、あれ、意味不明だな。
・画調の彩度を派手にいじってるのは、あんま好きじゃないな。
・webで調べると出演者として木下ほうかの名前がでるんだけど、出てたか?
・主題歌は山崎ハコのオリジナルらしい。ほーう。
AIR/エア4/17109シネマズ木場シアター8監督/ベン・アフレック脚本/アレックス・コンヴェリー
原題は“Air”。allcinemaのあらすじは「1984年、シューズメーカーのナイキは人気がなく低迷が続いていた。営業担当のソニーは、CEOのフィルからバスケットボール部門の立て直しを命じられる。しかし競合ブランドにシェアで大きく水をあけられ、知名度で圧倒的に劣るナイキ。なかなか妙案が浮かばず苦悩するソニーだったが、ついに一人の選手に目を付ける。しかし、その若者はまだNBAの試合に出たこともない全く無名の新人選手だったのだが…。」
Twitterへは「エアジョーダン誕生秘話だけど、あまりワクワクしない。ナイキ社内やエージェントとの力関係がよく分からんし、MJ本人も影が薄い。まあ、母親がメインなんだろうけど。小ネタ満載だけど「?」なのもたくさん。あれが分かれば楽しめるのかな。」
いまをときめくナイキの、弱小時代の話。バッシューでは当時、シェアはアディダス、コンバースの下だったのね。それがいまや、ナイキはコンバースを買収して傘下に収めているらしい。へー。なチャレンジとサクセス物語。なんだけど、社内の状況とか力関係とかがよく分からんところがあって、話に入り込めないところもある。社長がベン・アフレックなのは分かった。でも、クリス・タッカーはどういう関係なのだ? 共同経営者っていってたっけ。上司? ほかにもオッサンがいたけど、どういう関係? 上司? 同格の同僚? ソニーは社長ともフレンドリーな口調だけど、役員ではないのか? 後の方になって、雇われたとわかるけどね。てな感じで、社内の関係、役割がよく分からんのよ。靴のデザイナーのオッサンは分かったけどね。あと、ときどき登場するエージェントは、どういう人物でどういう関係なんだ? MJの代理人なのは分かるけど…。スポーツ関係の何人もの代理人をやってるような人物なのか? というようなことが初めっからちゃんと分かれば、もっと面白くなったと思うんだけどね。ていうか、アメリカ人は、分かるのか? あれで。
でまあ、ナイキとしては、べつにMJでなくてもよくて、25万ドル程度の予算で、複数人と契約できればいい、と思ってた感じで。でもソニーは、MJとだけ、予算を全部使って契約することを主張する。冒頭で描かれていたけどソニーは博打好きで、ラスベガスにもたびたび遊びに行っていたらしい。最後の最後で負けてたけどね。まあ、それが伏線にあって、の大博打に出た感じなのか。でまあ、MJだけに絞ることに社内では反対意見もあったけど、掟破りの、直接MJの家を訪れ、母親と直接話して、プレゼンさせてくれ、と頼み込む。直接会うのは御法度らしく、代理人は怒り心頭だけど、でもそのまま話が進むのは、決めるのはMJ側だから、ということなのかな。
ソニーも、大契約を結ぶことについては、態度は真摯だけど、そんなに興奮してない感じ。そもそもMJはナイキと会うのも嫌だ、といっいたから、ダメ元な感じだったのかね。でも母親からプレゼンOKの返事がくる。でも、会うのも嫌だといっていたMJを説得したのは、MJの母親なのかね。そこんところよく分からない。でまあ、社内でも、それならば、という空気がでてきて。でも、契約できなかったら会社を去れ、という感じ。はたしてソニーは、会社を辞めてもいいや、だったのか。確信があったのか。そこら辺も、描かれない。
MJたちはドイツまで出向いてアディダスのプレゼンを受けてたけど、向こうから来るのではないのか。旅費持ちで招待、ということだったのかな。そしてコンバースのプレゼンも受ける。このあたり、リアルに他社(といってもコンバースはいまやナイキの子会社らしいけど)の名前を出したりして、いいのかね。日本映画じゃ、ないよな、こういうの。
で、プレゼン当日。用意した映像に手間取ってる間にソニーが、予定外に個人的に話を始めて。よくは覚えてないけど…。君には才能がある。でも失敗する可能性もあるし、多くがたいした成功もしていない。でも、僕らは支援する。てな感じだったかな。聞いていて、とくに説得力があるとも思わなかったけど、それが功を奏したのか、MJ側が選んだのはナイキだった。そのソニーの予定外の説得には伏線があって。同僚の誰かが、よく覚えてないけど有名な誰とかの演説の下書きをもっていて、も、実際の演説は、原稿通りではなく、その場のアドリブで変えたとかいうのだったかな。なんかミエミエの伏線過ぎて浮いてると思うんだけどな、このエピソード。
さて、MJの母親は条件を加えてきた。エア・ジョーダンの売上の一部をよこせ、というものだった。これまでにない要求にソニーは戸惑うけど、社長がOKしたらしく、契約完了してしまうという流れ。
弱諸企業で、MJには嫌われていたナイキが契約を結んだ、という逆転劇はドラマなんだろう。けど、MJ本人はソニーのプレゼンでの説得をどう思ったのか、がまるでない。もちろん、MJの母親がなぜソニーという人物を選んだのか、も、はっきりとは描かれない。そこがネックなので、見ているこちら側も、あまりスカッとしないのが残念なところ。
・しかし、契約金が25万ドルなんだな。いまの日本円で約2500万円。時代だなあ。で、エア・ジョーダンの初年度の売上は1億ドル+αだっけか。エア・ジョーダンの現在の売上が40億ドルで、日本円で400億円プラスα。現在のMJ側の、エア・ジョーダンによる収入は4億ドルっていってたかな。40億円だったか? なんともはや。MJの母親の招魂たくましさには敬服するよ。もしかして、同じ条件をアディダスやコンバースにももちかけて断られていたのかな?
・いろいろ小ネタもたくさんあった。社員の誰かが、ボーン・イン・ザ・USAはを気持ちよく聞いていたけど、ベトナム帰還兵の歌だったのか とあとから気づいたとか。ミカドがどうとか。そのほかいろいろあったけど、それが分かればもっと面白く見られたのかもね。
幻滅4/19シネ・リーブル池袋シアター1監督/グザヴィエ・ジャノリ脚本/グザヴィエ・ジャノリ、ジャック・フィエスキ
原題は“Illusions perdues”。「失われた幻想」の方がいまのタイトルよりいいかも。allcinemaのあらすじは「19世紀前半のフランス。詩人としての成功を夢見る田舎の青年リュシアンは、貴族の人妻ルイーズと恋に落ち、やがて2人で駆け落ち同然にパリへとやって来る。そしてルイーズの支援で社交界への進出を目論むも、世間知らずな振る舞いでたちまち笑い者に。その後、生活が苦しくなった彼は、やっとの思いで新聞記者の仕事を手にする。しかし、お金のためなら平気で嘘も書く、私欲にまみれた同僚たちの姿に戸惑いを隠せないリュシアンだったが…。」
Twitterへは「19世紀。田舎の文学青年が、成功を夢見てパリへ。腐敗した小新聞、芝居小屋の拍手(罵声)屋、王制と自由主義が対立する中の社交界…。前半は見どころたっぷりだけど、後半の展開はミエミエなので、少し飽きてくる。へー、原作はバルザックなのか。」
見終えて2週間以上たってしまったので、細かなことは忘れてる。
田舎の文学青年の、文壇への憧れと挫折の話だった。リュシアンは薬屋の息子なんだけれど、対外的にはド・リュバンプレという名を名乗りたがる。どうやらそれは母方の姓で、貴族を意味する名字らしい。フランスの話で、フランス革命後の話らしいのに、貴族がまだ幅を効かせていたのか? と考えながら見ていた。あとから調べると、19世紀初頭にナポレオンが失脚するとルイ18世が即位し、復古王政が始まった。立憲君主制は守られていたけど、貴族の復活があったり、対して自由主義運動が盛んになったり、いろいろ揺れていたようだ。なーるほど。
田舎者であるコンプレックスをもちつつ、でも貴族の血を引いていることにすがり、上流階級のたしなみである詩を書いて出版し、田舎の人々をバカにしながら田舎貴族のルイーズと懇意になり、パリに出て認められるんだ! と思っていたというわけだ。貴族に憧れるっていうのは、時代の流れを見誤ってると思うけど、当時は上流社会も復活していて、勘違いしたんだろうな。というか、王制よ再び! と願っていた人が多かったということか。
夫のある身の、かなり年上のルイーズと恋人同士になり、ともにパリにでてきたリュシアン。でも一緒に住むはずが世間体を指摘され、ひとり安アパートで貧困暮らしのリュシアン。だけど、そんなことぐらい分かりそうなもんだけどね。面白いのはルイーズの立ち位置で、従姉妹も公爵夫人だったかでパリに住んでいる関係。従姉妹はリュシアンをひと目見て「田舎もん」とバカにする。ほかに、ルイーズの相談相手のようなオッサンがいて、彼からも、一緒に住むのは…、と言われるし。で、ルイーズの亭主も、妻が若い男とつき合っているのを知ってる様子。このあたりの関係は、どーなってるんだ? と思って見てた。
で、カフェでバイトはじめて、小新聞の記者・ルストーと知り合う。こっからの、当時のパリの新聞業界の話は頗る面白い。ジャーナリズムと言いつつ金をもらって新刊書籍のヨイショ記事を書くかと思えば、しぶる書店には批判記事、芝居の批評も同然で、ゴロツキも同然。そこで働くことになったリュシアンは詩をつくることよりこっちの方で名が売れてしまう。ルイーズと疎遠になってうじうじ、かと思えば若手女優とねんごろになり、でも、その女優にはジジイのパトロンがいるので寸暇を偲んで乳繰り合う。パリの暗部にどっぷりつかってしまう。面白かったのは芝居のヨイショ屋の存在で、金をもらって拍手喝采、くれなきゃブーイングでモノを投げる。しかも、開演間際まで、芝居の主催者と対抗勢力に張り合わせて、金を多くくれた方に味方するという。ひでー商売があったもんだ。人手が足りないと、手動のブーイングマシンのような物をつかって足を踏みならすような音を立てる。いや、すごい時代があったものだ。
この映画、このあたりがいちばん面白くて、以降の、リュシアンの堕落と凋落は、予定調和みたいなので、意外性もなくわりと退屈。金のために書くのは嫌だとかいって酒と博打に入れ込み、でも、女優の収入はないので借金地獄。ド・リュバンプレという姓を正式に名乗れるよう申請したけど、ほぼ無視される。ルイーズからは相手にされず、ついには女優はコレラだか結核で死んでしまい、共同墓地に放り投げられてしまう。作家デビューの夢も果たせず、貧乏なまま田舎に戻りましたとさ、な栄華の夢の物語。なんか、あの時代に上流階級に憧れているという時点でアナクロだとは思うけれど、身分を手に入れたいという連中は、少なからずいたのだな。というか、いくらがんばっても氏素姓は誤魔化せない、という教訓話でもあるんだろうけど。
・ちなみに、バルザックは1冊も読んだことない。
ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう4/27ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/アレクサンドレ・コベリゼ脚本/アレクサンドレ・コベリゼ
ドイツ/ジョージア映画。原題は“Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt?”。allcinemaのあらすじは「ジョージアの美しき古都、クタイシ。街で偶然出会った若い男女、ギオルギとリザ。その場はすぐに別れた2人だったが、夜の道で再会すると運命を感じ、互いに名前も知らぬまま翌日のカフェで会う約束を交わす。ところが朝になると、2人は不思議な力によって全くの別人になってしまっていた。それでも約束のカフェに向かい、相手の姿も変わっていることに気づかぬまま、ひたすら待ち続けるリザとギオルギだったが…。」
Twitterへは「20分ぐらいの短編で済む話を150分に伸ばしているので、本筋に関係ない場面がだらだらと盛りだくさん。この手のファンタジーが好きな人もいるんだろうけど、こんなの、寝ていいぞ、と言われてるも同然だ。」
↑のあらすじあるように、たまたま出会った男女2人が再開を約束したが、翌日、起きて見るとともに外外見が変わって別人になってしまっていた。それに、特技や知識も失われていた。なので、待ちあわせ場所のカフェに行っても再開できず。なんだけど、リザはくだんのカフェで働くことになり、ギオルギもカフェの店長にカフェ以外の仕事で雇われる。なぜか近くにいたというわけだ。たまたまカップルを撮影していた映画監督がいて、ギオルギとリザを(別人になって初めて再会したところで互いによく死なない状態)をカップルとして撮影。その後、フィルムを上映したら、むかしのままの外見で映っていた、というお話。話は、説明的なナレーションと、2人にまつわるだらだら画像で進んでいき、ドラマ的なところはほとんどなし。そのナレーションの最後に、ナレーションで、この映画には不自然なことが多い。外見が変わってしまったり、とかなんとかいうんだけど、そんな言い訳されたってしらんよ。な感じ。
ファンタジーとしてもなにか教訓があるわけでなく、しみじみした再会があるわけでもない。たんたんと、だからどーした、な話なので、どこにも引っかかるところがなくて、なんかすぐに忘れてしまいそうな気がするな。
2人が登場しない、だだとした情景映像が多くて、何度も登場するけど特に重要な役ではない人物もいる。子供や娘もいる。なのでこんがらがる。話の筋には関係ないと思えるし、なくてもいいような感じで、退屈。まあ、そういうのがいい、という観客もいるだろうけど。というわけで、一部の終了前と2部が始まってすぐに、少しずつ寝てしまった。当然だろ。ヒキのない話だから、集中できない。
・たまたま街ですれ違った男女。すれ違うたびに女は本を落とす。2人は2度3度と出会うので、男の方から、また会おう、と言い出して。翌日の20時に会う約束。でも、それを阻む何か(って何だよ!)によって、男女は容姿を変えられてしまう。20時、双方ともカフェでが待つが、相手は来ない、と思い込む。これまでの知識をは失われているので、女は薬剤師をやめ白い橋の店で働く。男はサッカーの技術もなくなって、外見も違ってしまっているのでかつてのチームに参加できず、店のマスターに鉄棒の管理を頼まれる…。なんで? 
・最初戸惑ったのは、もともとの外見がしっかりと映されていないので(とくに女性のリザの方)、どう変わったのかが一目瞭然には分かりにくいということがある。ギオルギの方は、痩せぎすからいかつく逞しい外観になっているので分かるんだけど、もとの外見をしっかり頭に入れられていないので、どんなだったっけ? と思ってしまうのだよね。
・ギオルギは、朝の洗顔で別人になった、と気がつくんだったか。違和感を感じたなら精神科へでも行けばいいのに、そうはしない。おとぎ話に現実的対応はジャマなのか。リザは、ベッドから起きて、突然、ドタリと倒れた様子。こっちも鏡を見たのか? リザには同居人がいるんだけど、その彼女を巻き込んだ騒ぎにならないのだよね。フツーなら、大騒ぎだろ。なのにとくに事件にもならず、同居人も、リザの顔が変わった、を受け止めている様子。変すぎるだろ、それって。
・ギオルギは、なにして働いてたんだ? サッカーで食ってたわけじゃないだろ? でまあ、カフェの近くで店主に鉄棒の管理を頼まれる。2分ぶら下がれたら賞金がもらえるという、詐欺みたいな不思議な鉄棒。仕掛けは知らんけど。でその商売で収入を得た、のか。にしても小遣いにもならんだろうに。そういえば、後半になって、ビスケット3枚を1分で食べたら賞金、という商売も始めていたけど、あれは店主の考案なのか、ギオルグの企みなのか?
・女は薬剤師の知識を失い、男はサッカーのテクニックを、失う。得意技とか知識が失われるということだったんだけど、男はサッカーへの興味は失っていない様子。それと、カフェの店主に言われてケーキを取りに行く場面があるんだけど、男は運転技術を忘れていない。これって変じゃないか。失う知識が恣意的すぎる。
・そのケーキだけど、わざわざクルマで行かなくちゃならないほどのところになぜ注文するんだ? しかも、完成したのを受け取るだけかと思ったら、まだ完成していなくて、現地で少しずつ完成させてくというつくりかた。どういう意味があるんだ? 映画と関係があるのか?
・前半の終わり頃、監督とカメラマンが登場する。2人に直接関与して話が転がるのかと思ったらそんなこともなく。とくにまともなドラマはなくて、だらだらな感じなので、監督たちの名前と顔が一致しないまま、撮影対の話は途切れ途切れになる。でも、撮影対の登場で、ラストのネタが分かってしまった。それしかないだろ。
・撮影隊はカップルを6組選ぶことになり、ギオルギとリザは、つき合ってるわけじゃないし会ったばかりなので、と断るけど撮影されることになって。で、多くの候補カップルから6組が選ぶことになったらしいけど、でも、次はもう本番の撮影ななっている。選ばれた過程や、選ばれて戸惑う2人なんかはまったく描写されない。にこやかに映されている。なんか違和感。でその試写にカップル6組を招待され、上映が始まると、ギオルギとリザは元の姿のママで映し出される。まあ、これは予想通り。しかし、2人の驚く様子とか、撮影したスタッフのざわめきなんかはまるでない。
・さらに問題なのは、2人が元の外見に戻れたかどうかは明かさない。今の、本来とは違う外見のままで付き合い始めるのかどうかも分からない。なんか、中途半端な尻切れトンボ。いくらナレーションで、この映画には不自然なことが多い、なんていわれても、ふざけんなよ、と思うばかりである。
・この映画の時期に、サッカーW杯が開かれていたようだけど、なんか関係あるのか? あと、グルジアがなぜアルゼンチンを応援してるのかも、よく分からん。移民?
・この映画、やたら野良犬がウロウロするけど、意味があるのか?
聖地には蜘蛛が巣を張る4/27ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/アリ・アッバシ脚本/アリ・アッバシ、アフシン・カムラン・バーラミ
デンマーク/ドイツ/スウェーデン/フランス映画。原題は“Holy Spider”。allcinemaのあらすじは「イランの聖地マシュハドで娼婦ばかりを狙った連続殺人事件が発生する。犯人は娼婦を汚らわしい存在として、街を浄化するために行っていると宣言する。女性ジャーナリストのラヒミが取材を開始するが、市民の中には公然と犯人を英雄視する者も少なくなかった。そんな中、同じ犯行が続いているにも関わらず、警察の動きが鈍いことに苛立ちを募らせていくラヒミだったが…。」
Twitterへは「女性ジャーナリストが連続娼婦殺人事件を追う話で、舞台がイスラム国家イラン、なんだよね。サスペンスより、宗教が生活の規範になっている国の、その救いのなさを告発している感じだな。」
殺人事件の話だけど、ミステリー要素は皆無。だって、早々に犯人・サイードが登場し、犯行を繰り返していくのだから。警察は何もしないし、追及するのは女性ジャーナリスト・ラヒミと、地元の男性記者ぐらい。サスペンス性は、ラヒミが自ら囮になって危機一髪! というところだけかな。そもそも犯罪とはいっても猟奇的でもなく、神の教えに従って、聖地で売春する娼婦を殺している、と信念をもった行為なので、人間に迫ることもない。つたわってくるのは、イスラムの狂信者はヤバい、ということ。そして、一般のイラン人にも、その狂信者を賛美し、「サイードは無罪だ」と叫ぶ連中が多いという描写もオソロシイ。
この映画を紹介するサイトでは、ミソジニー=女性蔑視の社会というくくりでこの映画を定義し、どの世界でもあること、なんて書いていたりする。もちろん、そういう面もある。たとえばラヒミが上司にセクハラされて会社を辞めたとか、マシュハドでも警察署長がホテルの部屋にやってきてセクハラまがいのことをするとか、はある。でも、キリスト教徒か仏教とか、他の宗教が流布している社会で同じようなことをすれば、された方は声を上げることができる。ところが、それができない社会での出来事をこの映画は描いているのだ。たとえばラヒミがマシュハドでホテルに宿泊しようとしたら、予約したにもかかわらず女ひとりだから、と拒否される。これは一般的な女性差別とは次元の異なる話だ。おそらく映画紹介で反イスラム的なことを書いて、狂信的なイスラム原理主義者に攻撃されるのを懼れて、なんだと思う。でも、それではこの映画の本質を見失う。そもそも、この映画は西欧資本で撮られている。おそらく監督のアリ・アッバシは、イランには入国できないのだろう。そういう映画だ。
事件自体は、娼婦を殺していくだけなので、変哲がない。犯人サイードの動機は最初から明らかで、謎もない。どころか、かなりマヌケな犯罪だ。だって、家族(妻と2人の子供)が実家へ行く日を狙い、サイードは娼婦をバイクでいえに連れ込み、絞め殺す。そのあとは、バイクの後ろにつんで、そこらへんに捨てに行く。そして、地元の記者に犯行声明の電話をする。これで10数件つづけていて、捕まらないのだからコメディだ。死因だの付着物だの、証拠は山のようにあるはず。目撃情報だっていくらでもありそうだ。娼婦が出没するあたりを警察が警戒していれば、簡単に目星はつくはず。なのに、そういうことはまったく描かれない。警察が意図的に捜査していない、ということもありそうだけど、変すぎるだろ。娼婦たちも、危険があるのに平気な顔をして商売している。つまりは、犯罪の描き方が平凡で三流過ぎるのだ。でも、たぶん監督はそれでよかったんだと思う。これはそもそも犯罪映画ではないのだから。イスラム教の聖地で春を売るような女たちは殺されて当然。もっとやれ。聖地マシュハドをきれいに掃除してくれ、と思っている警察や市民の異常さを告発している映画なのだから。
一般市民がサイードを支持する、のはありそうな話だけど。妻や息子がサイードを信頼しているのが、異様。自宅で亭主が女たちを殺しているっていうのに、気持ち悪くならないのか? まあ、そういうのは無視して話をつくっているのかも知れないけどね。とくに息子は、ラストでラヒミに、父から聞いたという娼婦の殺し方を実演し、将来はあとを継いで娼婦を殺すようなことをにこやかに言うのは、映画的な演出とだろうけれど不気味な余韻を残している。これは、監督の警告なのかもしれないね。
殺害される娼婦は、冒頭の1人も含めて小さな子供がいる母子家庭、というように描かれている。はっきり示されてはいないけれど、夫に死別されたとか、離縁されたとかで経済的に困窮しているような感じだ。後半に出てきた被害者両親は働いてない様子で、つまりは女手ひとつで両親と子供を育てなければならない環境にあった、ような感じだ。よくは知らないけれど、イスラム国家は男尊女卑で、離縁も一方的にできるんじゃなかったかな。たとえ亭主が別の女に走ったとしても。そんな状況も、女たちが娼婦に堕ちる原因なのではないのかな。そして、聖地マシュハドで商売が成り立つということは、女を買う男たちが一定するいるということだ。
さて、警察は何もする様子がないので、情報を得たラヒミは自分が囮になり、サイードのバイクにまたがる。その後を男性記者がクルマで追うんだけど、途中で撒かれてしまう。観客はサイードが犯人と分かっているけれど、ラヒミには分からない。という設定がスリリングかというと、映画的なご都合主義だなあ、としか思えない。ラヒミの機微をすっとばしちゃってるし、この男は犯人なのか? というドキドキ感もないのだから。とはいえ当然ながらラヒミは襲われ、でも、咄嗟のところで逃げ出せるという、これまたご都合主義で、当然そうなるしかないよなあ、な展開だ。だから、スリリングはそんなにない。
あとは、ラヒミの通報で警察は仕方なくなのか動き出し、サイードは逮捕される。でも、市民のどれぐらいか知らんけど、サイードは無実、釈放しろコールが沸き起こる。妻や子も、父ちゃんは正義だ、悪くない、すぐ釈放される! と信じる脳天気さ。というか、信心深さ、かな。でも、はたして2010年頃のイランでも、そうなのかいね。監督が誇張していることはないのかな。いくら実際の事件に基づいた話といっても、市民や家族の反応は少し演出されてるんじゃないの? な、気もしないでもない。
裁判長もイスラム教徒、検事もイスラム教徒。法律はあっても、コーランもある。そういう裁判が行われ、裁判所前にはサイードの支援者が集まったりしている。まあ、それはそれとして。判決は、もしかして無罪になったりするのか? と思ったら、死刑12回、禁固35年だか何年だか、あと、ムチ打ち100回だったかな。おー。法律に則した結果が出るとは。ちょっと意外。でも、監禁されてるサイードの所に検事がやってきて「裁判ではきついことを言ったけど立場上ああするしかなかった、すまん」とにこやかに話して「刑が執行される直前に逃がしてやるから大丈夫だ。妻にも言うなよ」なんていう。ひでえもんだ。
で、死刑が執行される当日、サイードが刑場に連行されるとき、ラヒミは「臨席したい」と主張するんだけど無視されてしまう。それでも「ムチ打ち100回はどうなってるのよ!」というと、執行吏はサイードを部屋に連れ込み、ムチ打つ音と悲鳴が聞こえてくる。おお、ちゃんとやってるな、と思ったら、なんと、ムチで壁を叩いているだけ。なんだよ。で、刑場、といっても天井からロープが下がっていて、床上30センチぐらいの長椅子があるだけのテキトーな絞首刑場なのがちゃちい。さて、こっから逃げるのか、と思っていたら、なんと、執行吏はサイードをわしづかみにし、長椅子の上に乗せ、首にロープを…。おやおや。「話が違う!」と叫ぶサイードは、吊されてしまいましたとさ。
なんなの、このラストは。検事が逃がしてやる、といったのは嘘だったのか? それとも、ちゃんと刑を執行する、と主張した人がいたのか? でも、あのインチキなムチ打ちは何だったの? インチキなムチ打ちをした執行吏が、今度はまともに吊す…。その流れが、どーも、変だよなあ。もやもや。社会的、対外的に、吊さなければならなかったから、そうしたってことなのか? よく分からんな。
犯人を挙げ、死刑にまで追い込んだラヒミは、あのままイランで記者をつづけられるのだろうか? 熱狂的な信者に狙われるんじゃないのかね。気になる。

 
 

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