2023年5月

雑魚どもよ、大志を抱け!5/1新宿武蔵野館2監督/監督/足立紳脚本/脚本/松本稔、足立紳
原作であめ『弱虫日記』も、監督の足立紳らしい。allcinemaのあらすじは「地方の町に暮らす高崎瞬は、乳がんを患っている母の病状よりも学習塾に入れられそうなことを心配してしまう、まだまだ遊びたい盛りの元気な小学生。父親がヤクザの隆造やいじめられっ子のトカゲら気の合う仲間たちと楽しく遊びまわる日々。そんなある日、映画監督を夢見る友だちの西野がいじめられている現場を見て見ぬふりしてしまう瞬だったが…。」
Twitterへは「オープニングからのバカっぽさ、長回しとテンポのよさはなかなか。このまま『スタンド・バイ・ミー』かと思ったら、延々とエピソードの積み重ねで、どんどんウェットになって、地獄のトンネルも拍子抜けだった。」「そもそも小学6年生の話じゃない。中2ぐらいにしないと説得力ないだろ。ヒロインがいないのも、うーむ。いろいろとっ散らかったまま、別れで泣かせるつもり? いつの時代の映画だよ。」
瞬は、両親がいて、母親は乳がんだけど明るく、でも「勉強しろ」ばかりいう。本人は勉強嫌い。父親は放任主義。妹がいて、いつも苦虫を噛みつぶしたような表情だけど、いいキャラしてる。
瞬の親友の隆造。父親はヤクザで、人を殺したとかどうとか。母親はどこかへ出奔中。父が出所してもどってきている。けど、暗さは感じられない。とはいえ、のちのち瞬に吐露したのは「フツーの家庭でいたかった」だった。
トカゲは、母子家庭で、宗教二世。いじめられている。トカゲだけマイ自転車がない。
正太郎は、ゲームと勉強好き? 母子家庭。姉はヤンキー。
の4人の描き分けができているので、迷わず話に入れる。これは『スタンド・バイ・ミー』か。
小学校5年の春休み直前に駄菓子屋に行き、婆さん騙して万引きし、おまけに婆さんの飼い猫をトラックにひかせて怪我させたり。のあとは、終業式が終わったばかりの学校に行き、池のオオサンショウウオにイタズラしたり。の4人にとっての魔界は、廃線跡にある地獄のトンネル。関心はあるけど、まだ怖くて中に入れない…。てなところで出会ったガンマニアの転校生・小林も仲間に加わって…。な流れは、なかなかテンポよく進んで、これは面白くなるかなと思ったんだけど。いつまであっても軸になる物語が見えてこない。早く始まれよ、と思っているのに、ずっとエピソードの積み重ねがつづく。なので飽きてきた。
エピソードは、明をボスとするライバルグループとの対立関係。ライバルグループにいじめられるトカゲをかばえない瞬。正太郎の姉の臭いを嗅ごうとしてボコられる4人。瞬が学習塾で出会ったグラスの同級生・西野との交流。ライバルグループに喝上げされる西野をかばえない瞬。瞬の母親のガン転移・手術。マサちゃんとかいう、ライバルグループのボスの存在。小林のエアガンに夢中の隆造。それにがっかりする瞬。西野の映画好き。じゃあ映画を撮ろう、僕がシナリオを書く、と西野。ちょっとワクワクしたけど、映画撮影はとくになしのまま、西野は両親が離婚で転校。少年が登場する映画にありがちな、出会い、対立、いじめ、悩み、別れ、がてんこ盛りだ。でも、どんどん話がジメジメしてきて、高揚感からは遠くなる。
なんだよ、『スタンド・バイ・ミー』的な高揚感はいつになったらやってくるんだ? しかし、最後までそれはやってこず、しだいに飽きてきた。
仲間意識を高めるような“冒険”がないんだよね。かろうじてマサちゃんとライバルグループと戦う場面は出てくるけど、あまりにもマンガっぽくて拍子抜け。そして、4人が立ち向かうべき地獄のトンネルも、転校して街を去る隆造への別れのはなむけ(?)のようなカタチで瞬が駆け抜ける場面はあるけど、まったく意味不明だし。4人の得意技が最後まで披露されないつくりも、肩すかし。とくに、正太郎など後半はまったく出番がなくて、ヤンキー姉ちゃんも消えてしまった。2時間半もあるのに、拍子抜けの映画だったな。
・主人公は瞬で、相手役は隆造。それにトカゲと正太郎の仲好し4人組、があまり活かされていない。そもそも、なぜ4人に結束力があるのか、が分からない。
・4人も含め、ガンマニアの小林、ライバルグループの連中含め、どう見ても小学6年生=12歳には見えない。万引きぐらいはするだろうけど、喝上げとか喫煙、グループの対立、マサちゃんとかいう愚連隊とのつきあいとか、小学生じゃしないだろ。せめて設定を中学生にするべきだな。
・マサちゃんたちと、傘下になっているライバルグループをやっつけるのが、瞬の一蹴りとそれにつづくトカゲと正太郎の石つぶて、というのもチャチい。あんなんでマサちゃんたちが逃げ出すか? 傘下のライバルと西野もマサちゃんに刃向かうけど、突然すぎて、はあ? な感じ。あんなんじゃ、そのうち復習されるのがオチだろ。むしろここで正太郎の姉のヤンキーを登場させ、マサちゃんは頭が上がらなくなるとかね。
・小林は、マサちゃんを裏切ったと言われていたけど、それ以前に隆造たちを裏切ってライバルグループについたわけで。なんか、存在がいい加減すぎだろ。ライバルグループのボスも、突然マサちゃんに刃向かい、隆造と手打ちな感じになる。これも、テキトーにまとめようとしている感じで、いまいち説得力がなさ過ぎ。
・隆造の家族も、描写がアバウト過ぎ。ヤクザの父親と、得体の知れない母親。なぜ母親は一度隆造を捨てたのか。それが、なぜ隆造と暮らすことになって、この街を去るのか。はあ? な感じだよなあ。
・で、隆造が旅立つ日、駅には瞬を除く仲間たちや教師が。電車が動き出し、別れを惜しむ友人たちがホームを走るばめんがあるけど、アブナイだろ。
・いっぽうの瞬は、地獄のトンネル前にいて、意を決して中に入り、走り抜ける。のだけれど、とくに障害もなく走り抜け、さらに、隆造の乗った電車を追う。気づく隆造。という、ありがちすぎる映像に、がっかり。はいいんだが、瞬が線路に入り込み、列車を追うという映像は、倫理的にどうなんだ?
・西野は両親の離婚で転校。「瞬みたいにフツーになりたかった」という隆造も、いい加減な母親に連れられていずこかへ。別れで泣けってか。
・マサちゃんたちを破った4人が、次に立ち向かうべきは地獄のトンネルのはず。ラストは、4人が並んで、これまで怖じ気づいていたトンネルに入って行くという場面で終わらせるべきなんじゃないのか?
・あるいは、もっと早く、中盤でトンネルへの冒険があって、そこで結束を強めるとか。『スタンド・バイ・ミー』みたいに難敵を克服しつつ個々人が成長する話にしないと、みていてつまらんだろ。
会社物語 MEMORIES OF YOU5/5シネマブルースタジオ監督/市川準脚本/鈴木聡、市川準
映画.comのあらすじは「花岡始は57歳。東京の商事会社で34年間真面目にコツコツと働き続けた万年課長だが、間もなく定年を迎えようとしていた。いまや仕事もさほど忙しくなく、若い部下達もあまり相手にしてくれない。家に帰れば家族間のトラブルがまたストレスの種。そんな花岡にとって唯一の心の安らぎは、愛らしく気立てのよい新入社員の由美だけだった。彼女は若いエリートの恋人がいたが、わざわざ花岡のために二人だけの送別会を開いてくれた。退職が近づいたある日、同僚がジャズ・バンド結成の話を持ってきた。若い頃に情熱を傾けたジャズで有志を集めて、コンサートをやろうというのだ。犬山、安井、桜田、谷山、上木原とメンバーも揃い、花岡は練習に精を出して再び生活に張り合いを取り戻した。そして12月25日にコンサートが始まったが、その時花岡の家では息子が暴れ回っていた。花岡は途中で家に帰り、息子を止めようとしてケガをしてしまう。しかし花岡は再び会社に戻り、コンサートを成功させたのだった。また、退職の日に花岡は、娘のように親しみを感じていた由美を二股にかけて振った生意気な若いエリートをぶっ飛ばし、会社を後にするのだった。」
Twitterへは「監督市川準。ハナ肇&クレージー出演。定年間近の万年課長の悲哀を淡々と地味に。バブル最中、当時は58歳で定年? 東京〜銀座辺りの風景、服装髪型、非自動改札、携帯なし。あんなだっけ? 最後はオッサンバンドの話だった。」
話は↑のあらすじの通りで、たいした内容ではない。というか、違和感ばかりだった。そもそも主人公の花岡は大手町に本社のある一流企業勤務で課長まで勤めている。それ以上の出世ができなかったからといって、どこに不満があるのだろう? 年がら年中苦虫を踏み潰したような苦渋顔で、日陰者のようにしている。さらに、周囲も、あのひとは落ちこぼれ的な見方をしている。そうかあ? もともと出世欲が強く、営業畑でがんがんやっていたけど、社内の勢力争いに敗れて云々でもあればなんだけど、そんな感じではない。むしろ、重役連にはマージャンのメンツで呼ばれ重宝がられている。マージャンで交流を深め、上に引っぱられた、なんていう話なら、知ってるぞ。
つまりまあ、この映画が狙っているような、課長止まりで退職する60間近のオッサンの悲哀が、まるでつたわってこないのだよ。
12月に退職で、時期は初冬。こんな時期に、花岡は千葉の団地だかマンションから、一戸建てに越している。退職金をあてにしてなのか、マンションが高く売れたのか。バブルだったからなあ。少し会社からは遠くなったのか。とはいえ退職後の仕事も決まってないらしいので、いまさらローンは組めないだろう。マンションを売った資金でほとんどまかなえたのか。というか、一流企業の課長さんなら、もっと早くに一戸建てを手に入れてもおかしくないと思うけどな。
というようなことを考えると、観客に共感を得られるような設定ではないと思うんだけどなあ。市川準は、世の中のことが分かっているのか? と思ってしまう。
ところで、同期らしい谷山(谷啓)は、課長なの? 係長ぐらいなの? 翌年2月に退職らしいけど、こっちにも暗い哀しみはあるのか? ほかの、犬山(犬塚弘)、安井(安田伸)、桜田(桜井センリ)も社員のはずだけど、役職がどうなのか、気になるよね。
花岡が女子社員の由美に気があるのは分かるんだが、木野花が分する40凸凹のオールドミスに遠くから見守られていたというのが、あまりつたわってこないのが残念。花岡の送別会について、誰も積極的ではないので、木野花が由美に示唆して、2人だけの送別会を開いてやって、というんだけど、由美にしたら余計な負担が増えるだけだろうに。木野花も、花岡の送別会を開いてやりたいなら自分が幹事になればいい話。由美と2人だけのシーンをつくるために、ムリの展開のような気がしてしまう。そういえば、ラストで、花岡を送り出すのは木野花だったかな。モノローグで秘めた思いをこそっと言うのだけど、なんかやなババアだなあ。だって自分が思っている花岡は由美に気がある、のを分かっていて、由美を操って花岡を喜ばせて、それで自分は陰になって満足してるんだろ。木野花にとって、花岡のどこがよかったんだ? が分からんし。
花岡には妻と3人の子がある。長女、長男、次女。長女は大学に行ったのかどうかよく分からん。デキがよくないのか、スーパーのレジ打ちに仕事が決まったとかいっている。長男は二浪してふらふら、反抗的で、警察のお世話になったりしている。次女は、ありゃ小学生だろ。ってことは、花岡50歳近くにできた娘か? 奥さん、高齢出産だな。しかし、定年間近で、息子を大学にやって、娘を短大卒ぐらいまで育て上げるのにまだ時間もお金もかかるだろうに。そういう経済的な計画は、まるでないな。
長女は大人しいけど息子は反抗的で。別に花岡も妻も教育熱心風に見えないけど、大学進学がそんなにプレッシャー? 最後は家の中で暴れてあれこれ壊しまくり、花岡にも怪我をさせている。まんか、当時の反抗的子供のテンプレみたいな感じだな。とくにオタクでも引きこもりでもなく、なにに反抗しているのかよく分からん。昨今なら学習障害とか発達障害という設定にしたりするのかな。当時は、そういう分類はなかったんだっけ?
由美は新入社員という設定で、でも、社内恋愛中。というのが、唐突すぎる感じ。可愛い顔をして尻軽だな。でも彼氏は重役の娘と婚約で捨てられ、フツーに見合いするけど、相手が「恋人いるんでしょ? いろいろあるのは分かるけど、気にしませんから」というと「そういうの気持ち悪い」と切って捨てる。なんだこの女、な感じ。いっぽうで花岡のご機嫌伺いをするやさしさもある? のか? 
で、中盤から、ジャズの話がじわじわと。谷啓のトロンボーンに花岡のドラム、警備員の植木等がギター…。安田伸や犬塚弘、桜井センリもくわわって、クレージーのバンドが結成されて、最後は華々しく社内デビューか? なんだけど、いまいち高揚感がないのよね。みんなで植木等の実家に行ったら昔の庄屋かなんかみたいな豪邸で、若い奥さんがいて、というのは面白かった。それが、丸ノ内の一流商社の警備員。前職は定かではないけど、みんなで銀座で飲んだとき「いまの日本は俺たちがつくったんだ!」と叫んでいるところを見ると、かつてはサラリーマンだったのかな? で、練習を積み、花岡の退職の前日にバンドのデビュー。まあ、社内で陰になっている連中がスポットライトを浴びる、という設定なんだろうけど。まあ、ただの親父バンドだな。観客はフツーの社員ばかりで、幹部は見にこない。そんなもんだろ。でも、始めた直後に、花岡に家から緊急電話。行ってみると息子が家で大暴れ。まあ、あんな暴れる理由が分からんのだけどね。当時の話の設定として、大学受験に失敗で反抗的になって、というテンプレみたいな展開だ。
顔に痣をつくって花岡が戻ってみたら、一同疲れ果てて眠っている。でも、起こしたのかな。ふたたびはなおかを交えてコンサートが再開。由美とか、木野花が観客でいたのかな。っていうか、あんな夜中まで残ってる社員がいるのかよ、という方が疑問だったけど。で、そのまま朝を迎えたのか? 木野花にだったか由美にだったか花束をもらい、東京駅に向かう横断歩道で、出社してくる由美の元彼とであう。花岡は男の顔をわしづかみのすると、そのままねじり倒して行く、というのがラスト。なんだけど、由美の恋愛事情に介入する筋合いはないだろうと思うけどね。そんなことより、自分の家の修繕と、暴れまくる息子の調教が必要なんじゃないのか。子供の教育が間違ってたんじゃないんですか? とか。
・退職直前に花岡はフィリピン出張を命じられるのだけれど、総務課長がなんで? な感じ。彼の地ではひと仕事終えた後、ホテルの部屋にフィリピン娘が「◯○さんのお土産よ」とかいって、現地法人か関連企業のオッサンが手配した女が訪ねてくるんだけど。まあ、抱いたんだろうな。というか、会社の上司としては、フィリピン旅行を退職のはなむけに設定したというところか。
・いまから思うに、大物役者がたくさん登場している。ジャイアント馬場、テレビCM中に小林旭、岡本太郎、なぜか知らんが村松友視。小川菜摘は目立ってた。笹野高史がいた。石丸謙二郎もいた。酒井敏也もわかった。エンドクレジットに余貴美子(専務の娘?)、筒井真理子(常務の秘書か)、岩松了がいて、でも、どこにいたか分からず。ほかにも、植木等の若い妻は羽田美智子かよ。由美の母親は馬淵晴子か、そういえば…。桂三木助、わからなかった。イッセー尾形は公園のベンチでであう怪しいバイトのおっさん。
・全体に、市川準らしい淡々と暗いテンポで、物語に関係あったりなかったりする雰囲気的なシーンをイメージ的につないでいく。なので、ちょっと退屈もするけど、当時の風景やファッションなんかがそのまま映るので飽きない。とはいえ丸ビルや東京駅の映し方は小津風で、50年代〜60年代な感じ。どこにもバブル感はない。せいぜい花岡と由美が行くディスコぐらい? 
・1988年当時、自分は銀座に勤めていて、ああ、あんな感じだったのかなあ。といまさら思うけど、客観的に見ると古くさい昔だなあ。
せかいのおきく5/8テアトル新宿監督/阪本順治脚本/阪本順治
allcinemaのあらすじは「寺子屋で子どもたちに読み書きを教える22歳のおきくは、武家育ちでありながら、わけあって貧乏長屋で父と二人暮らし。ある日、糞尿を仕入れて農家に売る下肥買いを始めた青年・中次と出会い、心惹かれていく。そんな時、おきくはある事件に巻き込まれてのどを切られ、声を失う。やがておきくは、文字の読めない中次に、身振り手振りで懸命に気持ちを伝えようとするのだったが…。」
Twitterへは「浪人の娘が汚穢屋に恋をする話だが、理由が分からない。その他もリアリティがなさすぎ。現代風な口調とか、蝋燭を灯したり真新しい紙を使ったり明治以降のひらがな書きだったり相手が糞尿を撒き散らしたり。合点のいかないことが多すぎ。」「「青春」なんて言葉は、江戸の貧民は知らなかったんじゃないのか?」
章立てされていて、各章の最後の数秒が淡いカラーになっている。あとはモノクロという趣向。
まずは、厠の前で雨宿りの忠次と亮介。そこに おきく、が割り込んできて。亮介か「おきくさん」というと、人の名を呼ぶな、という。忠次も紙問屋で顔見知りなのか、「おきくさん」といっても別段なんともない。あれはなんなんだ? おきくは「ただの雨宿り」というが、実は用事があってやってきてたらしく、2人を追い払って厠に入る…。なーんだ。なんとなく『羅生門』の冒頭を思わせるけど、ところで、ああいう公衆便所はフツーにあったのか? 管理は寺がしているようなので、寺の敷地内か? あとから分かるけど、おきくは寺子屋で教えていたらしいから、その途中か帰りだったのかな。
おきくの父は正義感で、上司だかの悪行を上申し、逆に藩(あるいは藩の陪臣の誰かから?)を追われた身の上、らしい。それで娘と長屋住まい。おきくは寺子屋で教えているようだけれど、父親は何をしているか分からない。ある日、藩の知り合いらしいのが1人やってきて、父親に何かを告げる。何日か後に3人やってきて、父はともにでかけていく。父の身の危険を察知したおきくは後を追うが、父は背中を袈裟懸けに切られ、頓死。おきくも喉をかき切られ、声を失う。父は、自分が殺されると分かりながら、なぜ出かけていったのか。娘がひとり残されることに、心残りはないのか? なぜ逃げなかったのか。このあたり、説明がないので分からないけど、とてももやもやする。
それと、おきくの父の口封じをした連中の手際の悪さはどうなんだ。切り捨てた死骸を放置するなんて、仕事としては三流だろう。とどめも刺してないし。おきくに対しても、殺すつもりだったのなら、とどめを刺すべきだろう。中途半端な仕事ぶりだ。まあ、映画的な演出なんだろうけど。
で、おきくの父親の出演はこれでオシマイ。あとから、実は…というのはなにもなく、伏線にはなっていない。そういえば、同じ長屋に住んでいた元早桶屋のジジイ=石橋蓮司も、前半ではいわくありげだったけど、再就職で長屋を出た後は、再登場せず。なんだよ。あとから機能するかと思ったら、放り捨てかよ。
さて、失意のおきくだったが、寺子屋には復帰する。とはいえ寺子屋で教えていくらになるのか。父親も手内職や売卜の形跡はなし。なにで生計を立てていたのか不明だな。なので、フツーに蝋燭を灯し、上質な用紙を使っていることに、とても違和感。
忠次は紙屑屋で、矢亮は汚穢屋。それがなぜか忠次が汚穢屋を手伝うようになる。汚穢屋は、とくに穢多や非人の仕事ではないようだけれど、あんな若い連中がする仕事なのか。仕方なくしているとはいえ、亮介が汚穢屋をしている理由は何だろう。他の仕事より割がいいから? 親代々なのか? とても気になる。
この映画、とくに大きなドラマは、おきくの父親の一件ぐらいで、あとは、汚穢屋である2人が屋敷の奴と喧嘩したり、農家で怒鳴られたり、長屋で頼られたり毛嫌いされたり、のエピソードの集積。
そんななかで、おきくは忠次に恋をして。おにぎりをつくって差し入れしようとして、荷車とぶつかって握り飯がぐちゃぐちゃになってしまったり。なんか、トンチンカンな感じ。やはり、元は武家の娘でありながら、紙屑やから汚穢屋になった忠次に恋心を抱くようになる、という筋立てにムリがあると思う。まあ、昨今のご時世なので、仕事に貴賤はないとか、おきくが忠次に「好きだ」と告白し、長屋で抱き合うとか、女性の権利を尊重するような描き方をしているんだろうけど。まあ、よっぽどでなければ、当時にはあり得なかったはず。その、よっぽど、を見せなければ、説得力はない。ただの薄っぺらなファンタジーだ。だって江戸の男女比は5対1ぐらいで男が多かったはず。おきくなら、いくらでも相手はいたはずだ。
で、最後は矢亮、忠次、おきくが連れだってにこやかに歩いていて。矢亮だったかが「俺たち、青春してるよな」なんていう。「せかい」という言葉はあったろうけど、「青春」なんて言葉は、使われていなかったんじゃないのか? なんだこの変な世界観は。
・時代劇でありながら、口調がみんな現代風なんだよな。いまっぽいと言えば、そうなんだが。
・屋敷(2〜3千石の陪臣あたり? にしては奴が4〜5人いて、じゃあ家臣もたくさんいるだろうに。肥桶ひとかつぎで足らんと思うが。大所帯だな)へ下肥を買いに行く矢亮。小門から入るんだけど、フツー裏門に回れと言われるんじゃないのか? 終わって、奴に高値を要求され、渋っていたら突き飛ばされる矢亮。当然、肥桶は倒れ、糞尿は撒き散らされる。たまたま見ていた おきく。はいい。問題は、屋敷前に撒き散らされた糞尿だ。あれどうすんだよ。奴が始末するのか? 変な描写だ。
・大八車が壊れて、亀有の百姓家に下肥を届けられなくなる。ではと2人はかついでもっていくが、走ったせいで下肥が半分になってしまい、主に文句いわれるだけでなく、その半分になった下肥を頭からかけられる。って、主はなにに腹を立てているのだ? たとえ腹が立ったからって、自ら肥桶を手にするか? 下肥を自分の庭に撒き散らすか? 誰が後始末するんだよ。バカだろ。っていうか、そういう話にする脚本がおかしい。
・矢亮は、よく糞尿を手で始末する。しかも、そのあと手も洗わない。あれはフツーだったのか? 気になって仕方がなかった。
・その矢亮は冗談が好きで、糞尿に関する洒落を頻発。忠次に「ここ、笑うところだろ」というんだけど、まあ、明るい性格なんだろう。その矢亮だって若い男なんだ。恋をするとか、お歯黒どぶに女を買いに行くとかすると思うんだけど、そういう描写はない。
・おきく が、何かの書付で「忠義」という文字を見て、紙に「ちゅうじ」と書く。それが、思いの表出なんだろう。それはいい。しかし、夜、蝋燭を灯している違和感。あんな高価なものを日常的に使えるはずがないだろ。紙もそうだ。あんな純白の紙を惜しげもなく使って。忠次が、紙問屋で紙を買ってくるけれど、あんな紙を買う余裕が忠次にあるとは思えない。最後に寺子屋で「せかい」と書くときも、みんなまっさらな紙。あり得んだろ、あんなの。
・その「ちゅうじ」も「せかい」も、明治以降の自体で、万葉仮名ではない。あり得んだろ。万葉仮名は、書き物にちらりと見えたのが1度、もう一度は「そばぎり」という蕎麦屋の屋台の文字程度。もっとちゃんと考証しろや。そりゃ、万葉仮名で書いたら観客は読めないかもしれないけど、でも、嘘よりましだと思う。
セールス・ガールの考現学5/10ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/ジャンチブドルジ・センゲドルジ脚本/---
英題は“The Sales Girl”。allcinemaの解説は「従来のモンゴル映画のイメージを覆す都会のアダルトグッズ・ショップを舞台にした異色の青春映画。ひょんなことから大人のオモチャを扱う店でアルバイトを始めた地味目な女子大生が、謎めいた女性オーナーや店のお客たちと接していく中で、様々なことを学び視野を広げていくとともに自らの生き方を見つめ直していく成長の物語を、ユーモラスかつ軽妙な筆致で描き出していく。」
Twitterへは「珍しやモンゴル映画。でもパオも馬も相撲もでてこない。都会のアダルトショップで働く女子大生とオーナーおばさんの妙な友情? 登場人物の顔を米国人に入れ替えたら、街や背景そのままでインディ映画になりそうなほどモンゴル風味はない。」
モンゴルと言われなければ、どこの国の映画か分からないし、人物が欧州的な顔をしていたら、それだけで欧米のインディーズ映画と思えるくらいなテイスト。なんだけど、全体に印象が薄い。なのは、ドラマらしいドラマがないからだと思う。とくに大きな事件が起きてそれを克服するであるとか、家族や彼氏との関係が上手く行かなくなるとか、トラブルが襲ってくるとか、そういうのはほとんどない。大雑把にいうと、女子学生サロールと、アダルトショップのオーナーのカティアとの、妙なふれあいがだらだらつづく程度なんだよね。
そもそもサロール自体が得体が知れない女の子だ。大学生だけど、理系なんだっけ。でも、自室では夜空に星が流れるような絵をえんえんと描いている。ほかに楽しみはないのか? 同級生も、冒頭で描かれているようにバナナの皮で転んで足を痛め、バイトを代わってくれ、といってきた1人しか登場しない。理系に進んだのは親が勧めたから? でも、自分が何をしたいのか? も、よく分からんままだし。絵は描いていても、そっちに進みたい、という雰囲気は感じられない。
要は、サロールのキャラ造形が弱いんだと思う。たとえサロールが、最初は浅黒くてヒゲでもあるのか、というような鼻の下の黒さで芋っぽい感じだったのが、カティアとの交流が深まるにつれどんどん垢抜けていき、表情も顔色も明るく、可愛く魅力的になっていっても、なぜそうなったのか、が見えないからちっともワクワクしない。
犬を飼っている男友だちも登場して、でも、幼なじみなのか、なんなのかよく分からない。たまに話をして、それでオシマイ。一度、犬が逃げる(サロールが媚薬みたいなのを犬にかけたら盛りがついたのか、どっかに消えてしまった)というのがあったけど、だからなに、な感じ。後半では、サロールは彼を部屋に連れ込みキスをして、誘惑。おお、それなら、てな感じでパンツを脱ぐ彼氏に「コンドームつけて!」というと、「あ、じゃあ買ってくる」「これ使って」とバッグから出すんだけど、つける前にイッちゃって、精液が天井に着いてしまう。ふたり裸のままその精液を絵筆で拭いていると、サロールの両親が帰ってきてドアを開けてビックリ、というお笑いシーンはあったけど。でも、素朴で世間ズレしていないように見えたサロールが男友だちを誘惑する、が突然すぎて「はあ?」な感じでしかない。だってどうみたってバージンにしか見えないんだもの。それがいつのまにかバッグにコンドームが入ってるっていうのは、どういうことなん? サロールがバッグにコンドームで、彼氏はまったく引いてなかったけど、それも違和感だな。そもそもどっかで、女性として開発された形跡はあったか? あ、そういえば、性具をもってホテル(?)に行き、いろいろ試したけど、どーもイマイチ、な場面はあったな。
オーナーのカティアも不思議すぎ。サロールがもってくる売上金を、なんの疑いもなく受け取り、家には自由に入っていい、占いをしたり、あれこれ話をしたり(足を怪我した前任のバイトとも同じように対していたんだろうか?)。といっても、どういう話をしていたのか、さっぱり記憶に残っていない。なんか、砂漠みたいなところに2人で行き、ふらふら踊ってる場面とか、サロールがカティアと対立したのは覚えてるけど、対立の原因は覚えてない。なんか、会話の中の食い違い? まあ、なにしろ、いろいろ記憶に残らない映画なんだよね。
でも、足を怪我して休んでいた前任バイトが復帰し、サロールがバイトを辞めると関係は修復したような、なんとなく、そんな感じ。なぜサロールの腹立ちが収まったのかは覚えてないけど。なんか、カティアは、サロールが理系専攻なのを、それは自分の意志じゃないだろ、みたいなことを言っていたっけかな。忘れたけど。
でまあ、なぜか知らんけど、サロールは美術系の学部に変更したのか。しかし、彼女が絵を描くのが好き、というのは部屋で描いてる絵と、スケッチブック程度でしか示されないんだけどね。アート好きなら、最初からファッションも変わっててもいいんじゃないか? あんなダサい感じじゃなくて。で、久しぶりに店にいって見るとなくなっていて、別の店になっている。ではとカティアの家を訪ねると引っ越していて、現在の住人にサロールあての置き土産を託していた。なかには瓶に入った何か。スケッチ帳(あれはもともとサロールのものだっけ?)。そして、赤いスカーフ。その赤いスカーフを首に巻いて、サロールは大学に行く、のかな、なシーンで終わっている。赤いスカーフが何の象徴なのか、よく分からず。こちらが寝てるときに描かれた(?)何かと関係あるのかないのか? あの瓶の中味は何なんだ? とか、なんかよく分からん終わり方だなあ。
・大学の先生が店に来て性具を見てるのに気がついたり。アダルトショップ=性の多様性は多くの人が求めているもの、みたいなことは言ってるような気がした。
ウィ、シェフ!5/11ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ルイ=ジュリアン・プティ脚本/ルイ=ジュリアン・プティ、リザ・ベンギギ=デュケーニュ、ソフィ・ベンサドゥン
原題は“La Brigade”。あるHPに「レストランで働くスタッフの役割分担と作業責任を定められたチームを「brigade(ブリガッド)」と呼ぶ。」とあった。なるほど。allcinemaのあらすじは「一流レストランでスーシェフとして働いていたカティだったが、シェフと大ゲンカして店を辞めてしまう。しかしようやく見つかった次の職場は、移民少年たちの自立支援施設だった。まともな食材も調理器具も揃っておらず、不満をぶつけるカティに対し、施設長のロレンゾは少年たちを調理アシスタントに起用することを提案する。少年たちは18歳までに就学できないと強制送還されてしまうため、フランス語が苦手な彼らをアシスタントとして指導し、調理師として育成できれば一石二鳥のアイデアだった。こうしてカティと移民少年たちのぎこちない交流が始まるのだったが…。」
Twitterへは「有名店のシェフと喧嘩して辞めた副料理長。やっとみつけた次の職場は移民少年の自立支援施設だった…。予想通りの展開だけど、少年たちも彼女も、新たな刺激で成長していく様子がなかなか。移民に対する日本とフランスの対応の違いも興味深い。」
話としてはよくあるパターンで、信念に基づいて行った行為が相手の反感を買い、レストランを辞めたはいいけど今度は就職口がない。やっとみつけた先は自立支援施設で、子供たちのための給食のおばさんの役目。食材は主に缶詰で、施設長のロレンゾは、食えればいい、な感じ。でもそうはいかないカティ。手間をかけて仕上げたランチは2時を過ぎてしまって、食堂にはほとんど人が残っていない。みんなどこに行ってしまったのか、行き先をいっていた子もいたけど、よく分からないよなあ。
さて、食事の用意を「1人で短時間にやるのはムリ!」に「だったら少年たちを使えばいい」とロレンゾ返されて。そしたら応募者がうじゃうじゃやってきて、調理場一杯に。というわけでテストをしてスタッフ選びになるんだけど、エシャレットのむき方も分からず、男は料理なんてしない! と、出ていく青年も。その青年が非行に走ったことが分かり、ロレンゾはカティに「お手柔らかに頼む」と。な感じでカティと施設の青少年との、おずおずとした交流が始まっていく…てな感じ。
ところで、応募者がうじゃうじゃきたのはなぜなんだろう? ヒマだから? それとも、ちび少年のギュスギュスみたいに、技術を身につけたい、というのがあるからなのかな。仕事があれば国外退去はない、とか。違うかもしれんけど。このあたりも説明が足りない感じ。
背景にあるのは、難民の収容施設。ただし、あまり具体的には説明されない。始めの方でロレンゾが、黒人青年が就学できないということで悩んでいたけど、↑のあらすじによると18歳までに就学できないと強制送還のようだ。この説明が、ちと不十分だったかな。あと、中盤で、ある青年(「男は料理なんてしない!」と言った青年)が強制送還されるんだけど、これは、施設に入所している青少年の骨年齢を調べ、その結果18〜22歳と判定されたから。へー。そういうのがレントゲンで分かるんだ。そして、そういう手段をフランス政府はとってるんだ、という驚き。
フランスが、移民や難民に対してどういう対応をしているのかは、よく分からない。この映画は、観客がほぼ分かっている、だろうという前提でつくられている感じで、日本人には分かりづらいと思う。それと、彼らの親はどうしているのか? も分からない。たまたまフランスに入国したけど行くあてがなく、施設に収容されたのかな。フツーは難民申請という流れになるけど、そんな感じではない。例の、就学がどうの、ということなのかな。その就学を阻むものはなんなのか? 本人のやる気? 受け入れてくれるところがない? そのあたりも、よく説明されない。こういう、フランス国内の制度とロレンゾは戦っているのかな。では、この自立支援組織は政府の支援を受けているのか? あるいはNPO法人のようなものなのか。運営費もかかるだろうから、気になる。けど、こういうのも説明されない。まあ、なんとなく分かれ、ということなのか。それでも話は十分に通じるんだけどね。
そう。この映画は、細かい突っ込みを入れ始めたらキリがない。大雑把に、施設の少年たちと、落ちぶれシェフの出会いと、互いの成長、ととらえればいいのかも。少年たちは、カティによって調理場でのノウハウ、調理スタッフとしての心得と技術なんかを教わっていく。みんな素直にしたがって、調理場での役割分担を決められると自信に満ちた喜びの顔になる。これまで、だれも一人前の人間として見てくれなかったのが、役割を与えられて人間あつかいされていることが誇らしいのだろう。
一方のカティは、高級料理店という世界を離れ、いろいろ知ることが多かったのだろう。親と離れ、異国の地で、いつ強制送還されるか分からない状況で毎日を暮らす。その未来のなさは、カティと同じだ。いや、カティ自身も孤児で、いまついている名前もむかし居た施設のスタッフからとった、といっていた。頼れる者のない世界でたくましく生きてきたという意味では、少年たちと同じだったのだ。おお。
でまあ、大雑把に展開を話すと、終盤に入ってカティは、フランス版『料理の鉄人』に出演することになる。この件については、たしか、レストランを辞めて次の就職先を探しているときだったかに、番組に参加しませんか、な招待状が来てたと思うんだけど、カティは未練なく捨てていた。で、突然、出演することになって、最初は3人が2人になり、決戦というとき、生本番でカティは雲隠れ。カティの選んだレストランの内装は、難民少年に仕事を、だったか、就学を、だったか忘れたけど、少年たちをアピールするビラが貼られ、レストランの中には少年たちがうじゃうじゃいる、という仕掛けが。つまりカティは、番組で勝利を納めたくて出演したのではなく、生本番で少年たちの現状をアピールするための方策だったわけだ。
この結果、ロレンゾが目論んでいた料理プログラムが正式に発足したようで、この時点で残念ながら強制送還させられた少年もいるけれど、ギュスギュスのように生徒になっている子供が20人ほどいる。もちろん講師はカティ。生徒たちは、カティに「ウィ・シェフ!」と返事するところで終わっている。
話の流れとしては、そうなんだろう。けど、このあたりも、ちょっと説明が足りないし、疑問もある。レストランは辞めたけど。『料理の鉄人』から出演依頼が来るような料理人カティに、つぎの職場=レストランが見つからない、という設定はどうなんだ? 
それと、冒頭で、味つけで対立したマスコミで人気の女シェフ。彼女の存在は、どうしちゃったの? 最後に彼女をぎゃふん! と言わせて終わらないと、スッキリ感が足りないような気がするんだよね。もしかして、『料理の鉄人』のジャッジにいるのか? と思ったけど、いなかったような…。いたのか? よく覚えてないけど。
それと、カティが辞めたレストランに、少年たちを引き連れて食事をしにいく場面があって、味つけで、バルサミコか、あるいは別の味か、で対立した同じ料理が運ばれてくる。お、味はカティの味つけなのか? それとも、女シェフの味つけなのか? と気になったけど、説明はされなかった。あれもモヤモヤするな。
というわけで、いろいろ、もうちょい物足りないところはあるのだけれど、アバウトな流れだけでも、カティの権威に対する反抗心、移民や難民に対する共感がつたわってきて、なかなか感動するところも多かったのであった。
・自立支援施設の女性スタッフで、小太りなおばさんがいるけど、なかなかチャーミングでよかった。カティの友人で、自意識過剰な役者志願の黒人女性も、なかなかいい役回りだった。・フランス料理店で、「テンプラ」「タタキ」なんていう言葉が飛びかっていた。テンプラは分かるけど、タタキも料理用語になっているのだね。
EO イーオー5/15ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/イエジー・スコリモフスキ脚本/エヴァ・ピャスコフスカ、イエジー・スコリモフスキ
ポーランド/イタリア映画。原題は“Eo”。allcinemaのあらすじは「サーカス団で心優しいカサンドラの相棒として深い愛情で大切に扱われてきたロバのEO。しかし動物愛護を理由にサーカス団から引き離され、カサンドラとも離れ離れに。やがてポーランドからイタリアへと続く過酷で不条理な放浪の旅が始まり、道中で様々な事情を抱えた人々との出会いを重ねていくEOだったが…。」
Twitterへは「ロバが主人公、でも牧歌的な話ではない。動物愛護団体の圧力でサーカスが破産。動物たちは没収され、ロバ君も別の人生へ。人間の勝手であっちへウロウロこっちへヨロヨロ。ロバは何かの象徴? 悲哀に満ちた話だけど、単調でいまいち感情移入できず。」
冒頭のサーカスでの、倒れたままで赤いライトがチカチカ、立ち上がって拍手喝采、はどういう趣向か知らんが。ロバのEOが復活する、というようなことなのかな。サーカスのスターとはいえんとは思うけど、まあまあの人気者だったのかな。と思ったら、団員の男性がEOに荷車を引かせて、どっかえゴミ捨て? 戻ってくると動物愛護団体の抗議があって、次は役人なのか、が「破産更生法により動物を没収」と宣告する。動物愛護運動とサーカスの破産と動物の没収の因果関係は定かではないけれど、まあ、EOはどこかに連れられていき、なにかのテープカットの裏側で荷車を引いているのは同じこと。CMか何かの撮影で仕事をしているのは、そういう関係の企業に払い下げられたのか。馬と一緒にいるのは、そういうこと? でも、動物愛護してないよな。
以降、どっかの農家に引き取られていたら、サーカス団でやさしくしてくれた女性が男とやってきて、でも、去って行ったり。サッカー勝利チームのフーリガンに持ち上げられたかと思ったら、負けた相手にボコボコ殴られ瀕死の重傷を負ったり。街中をうろついていたら消防団? に捕獲されたり。と思ったら動物運搬の兄ちゃんに引き取られたり。その兄ちゃんが誰かに首をかっ切られたり。司祭とか、なぜかイザベル・ユペールが登場したり。そして、不要動物の屠殺場で荷車を引いたり。でも、動物を殺す係の男を蹴り殺したり(死んでるとは限らんけど)。最後は牛の屠殺場の列にまぎれ込み、鈍い音で終わるんだけど、あれは殺されたということなんだろう。
人間の都合で居場所を失ったり放浪したり、というのは案外と話としては単調で。人間ドラマが介入しているとはいっても断片的なので、あまり印象に残らない。見始めた頃は遍歴の流れを順番に記憶しようとしていたんだけど、だんだん面倒くさくなった。何がどうしてそうなったのか、の因果関係は明示されず、なぜか別の場所にいたりする。だから記憶にも残りづらい。どうでもいいや、な気分になっていった。
果たして、こうやって翻弄されていくのは、もしかしてポーランドという国家のメタファーかなんかになってるのか? それとも、一般市民は国家の勝手で右往左往させられ、最後は見捨てられるということのメタファー? 
アダマン号に乗って5/18ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ニコラ・フィリベール撮影/ニコラ・フィリベール
フランス/日本映画。原題は“Sur l'Adamant”。allcinemaの解説は「精神疾患を抱えた人々が無料で利用できるセーヌ川に浮かぶ船のデイケアセンター“アダマン”の日常を記録し、ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞に輝いた日仏合作ドキュメンタリー。精神疾患のある人々が、創造的な活動を通じて社会と再びつながりを持てるようサポートする目的で運営されている“アダマン”にカメラを据え、様々なワークショップや話し合いが行われる中で、患者もスタッフも分け隔てなく積極的に参加し活動している姿を映し出すとともに、それぞれに自身の病気と向き合う人々の不安や葛藤を優しく見つめていく。」
Twitterへは「精神病患者のためのデイケアセンターが舞台のドキュメンタリーで、ドラマチックはゼロ。淡々かつ雑然としたフラットな映像がだらだらつづく。なので少し寝た。編集とか構成は「?」だな。ベルリン映画祭の金熊賞ってどこがどう評価されたのやら。」
精神病患者の話だとは分かっていたけど、こんなに平板な映画だとは思わなかった。最初から最後まで同じようなだらだら撮りで、ひとつも引っかかりがない。医師らしいのは、最初はギターを弾く男性で、後半に担当が変わって女性医師が出てきたけど、全般的にスタッフと患者の区別がほとんどつかない。明らかな患者はいるけど、ボランティア? スタッフ? どういう人? てな感じの人が多い。何度も登場してきて、コアな人物らしい人はいるけど、とくにフィーチャーされているわけではないので、人物プロフィールは分からないまま。いっぽうで、白い鬚の爺さまみたいに、なんども画面に映りながら、一度も話をしない人もいる。
個人的な話をする婆さまとかいたけど、家はどこで何時にここにきて、何時に帰っていくのかとか、家に帰ると家族がいるのか否かとか、そういうことには触れない。大半の人の私生活はわからない。とくに大きなイベントがあるわけでもなく、せいぜいあったとしても「映画祭を開こう」という会議が最初の方にあったのがせいぜいで、経緯はまったく分からず、最後の方になって窓ガラスに『8 1/2』他何作かのチラシが貼られる程度で。その映画祭はセンターにやってくる患者だけを対象に行われるのか、あるいは一般人に向けても開かれているのかとか、そんなことも分からない。
センターに通えるぐらいだから、症状のひどい患者はいない。とはいえ、患者のおっさんのひとりは「こうしていられるのは投薬のおかげ。カウンセリングなんて何の役にもたたない」と言ってのけていたけど。そのせいか、ちょっとボーッとした感じの患者はいるけど、異様な感じの人はいない。まあ、たとえいたとしても、そういうケース省いて写さないだろうけど。
というような具合で初めから最後まで単調すぎるせいなのか、前半で少し、後半でも少し寝た。とくに大きな出来事もないので、起きていたとしても寝ていたとしても、たいして本質には関係ないと思う。まあ、こんな具合に単調に、毎日が過ぎていくのだよ、ということを見せたかったのかもしれないけど。観客としては、何かを克服して進化する姿というのを期待してしまう。まあ、病気が病気だから、なかなか難しいかもしれないけど。ドラマがないのは、いい証拠、ということなのかな。
妙だなと思ったのは、映画が終わり、エンドクレジットが始まる前にやっと「アダマン号とはセーヌ川に浮かぶデイケアセンターで…云々」という説明が入ること。おいおい。そういうのは映画の冒頭に言うべきだろう。トンチンカンもいいとこだぜ。
それでも私は生きていく5/23新宿武蔵野館3監督/ミア・ハンセン=ラヴ脚本/ミア・ハンセン=ラヴ
原題は“Un beau matin”。「ある美しい朝」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「パリに暮らすサンドラは夫を5年前に亡くし、通訳の仕事をしながら8歳になる娘を一人で育てていた。記憶が失われつつある年老いた父親のことも気がかりで、一人で暮らす彼のもとを頻繁に訪れ献身的に世話する日々。しかし彼女の奮闘も空しく着実に症状が悪化していく父の姿を前に、大きな無力感に襲われるサンドラ。そんな時、旧友のクレマンと思いがけない再会を果たすと、妻子があると知りながらもどんどん惹かれてしまうサンドラだったが…。」
Twitterへは「難病の父親は、父親の現在の恋人、妹夫婦、別れた母親まで(なんで元亭主の面倒をみる必要があるんだ?)総がかりで支援してるからいいとして。新たな恋については、視点を変えればただ掠奪で。魔性の女の話を爽やかに描かれてしまっては、いいんかいな、な感じもないではない。」
日頃から、ドラマのない映画はつまらないし、寝てしまったりする、といいながら。この映画には大したドラマもなく、だらだらとどーでもいいようなことを連ねているのに、飽きなかったし、面白かった。母子家庭のサンドラだけど、いまのところの課題は父親の病気と耄碌。ベンソン症候群とかいって、失明ではないけれど文字や物が認識できなくなって、頭の方もボケていくような感じの難病だ。父親はすでに実母と離婚していて、つき合ってる女性レイラもいる。レイラも病気を抱えているけれど、寝たきりとか言うわけではなくて、でも、しょっちゅう見守ってくれているわけではない。その理由は、よく分からないのだけれど。父親は家を持っているので、施設に入るために経済的な負担は新たに発生しない。その施設選びも、姉と一緒にやっているし、なぜか分かれた実母も足繁く心配してやってきたりするので、彼女だけに負担がかかっているわけではない。仕事は同時通訳で、娘のお迎えにもとくに支障はきたしていない。老父の介護といってもつきっきりというわけではなく、施設に入る前までは自力でトイレにも行けていたし、たまに挨拶に行くような感じでしかなかった。
施設に入れようという話になって、最初は病院にしばらくやっかいになり、そのあと2つほど施設をたらい回しされたのは、日本と似たような感じなのか。病院には3ヵ月ぐらいしかいられず、次の施設はまあまあだったけど、なぜか移ることになり、でも、移った先は周囲がゾンビだらけ(ボーッとしてうろうろしてるだけの患者ばっかり)な有様だったけど、最後には最初にみんなが「ここならいいね」といういうところだった。だから、とくに患者たらい回しの有様を非難するようなところもなく、むしろ、なんだかんだいいながらも、まともな施設に入れました、な展開なのだ。
サンドラにとっての事件は、亡くなった夫の友人クレマンと不倫したということぐらい。互いに飢えていたのかどっぷりな感じで、とくにクレマンは妻と別れる、といいつつなかなかできず、でも妻に話だけはして、それでいったんは追い出されたけど、でもやっぱり家庭は壊せない、と戻って行く。のだ゜けれど、やっぱり分かれられない、とふたたびくっついて…。でも、その始末がどうなったのかは描かず、ほんわか罪悪感のない関係のままでラブラブの二人を映して映画は終わってしまう。なるほど。『それでも私は生きていく』って題名にぴったりだな、と思った。
全体に軽くて、重さや暗さがまったくない。サンドラや姉、実母、愛人のレイラにしても悲壮感はまったくない。淡々と事を進めていく感じ。ちょっと意外だったのは、サンドラの父親に対する介護の意識のなさ。何度目かの施設で父が尿意を催すと、彼女は看護婦に話し、看護婦に同伴・介護を頼む。へー。父親に小便をさせるぐらいできねえのかよ。もちろん看護婦もひと言いう。「父親の介護ぐらい、私は自分でするわよ」と。でも、サンドラは意に介さない。これがフランス人の一般的な態度なのか、サンドラの特異性なのか分からんけど、なんだこの女、と思ってしまったね。もうひとつ。これは別の施設でだったけど、父の見舞に来て、じゃあね、と分かれて廊下に出ると、意識が混乱した父親が「レイラ…」と愛人の名を呼んで廊下に出てくる。その姿を見て、サンドラは振り返りはするけれど、そのまま打ち捨てて帰っていくのだ。意識の混濁した父親が自分ではなく愛人を頼っていることにムッとしたのかどうかしらんけど。フツーなら「お父さん、部屋はこっちよ」と連れ戻すだろうに。なにこのドライというか冷酷な態度は。病を得たら、肉親でも邪魔者扱いなのか? この映画で一番気になったのは、このサンドラの父親との距離感だな。
そういえば父親は教師で哲学を教えていたのかな。蔵書も多く、絵画や帆船模型など趣味も多彩。でも、姉妹はそういうものにはほとんど興味を示さない。サンドラが幾冊か本をもっていった程度で、後は教師としての父親を慕っていた教え子たちにくれてしまっていた。サンドラは、「この本の中に父親は生きている」みたいなことを言ってたよな。生身の父親はうざったくて、イメージとしての父親だけ頭に残ってればいいよ、な感じなのかね。
いくぶんむ不満なのは、家族関係でサンドラ以外の人物関係がほとんど説明されないこと。妹夫婦も、実母のパートナーも、ほとんど画面に映るだけでロクに紹介もされない。実父の愛人レイラもそう。なぜレイラは実父と一緒に住んでいない(ような感じ)のか? 実父はかなりレイラを頼っているようなのに。
・いつも素朴な服装でリュックを背負って移動している様子はなかなか好ましいサンドラ。
・娘がフェンシング習ってるのは驚いた。まだ小さいのに。日本でいえば剣道を習ってるようなもんか。
・家で、実母とそのパートナー、妹夫婦と子供たちを交えたクリスマスパーティで、サンタクロースがプレゼントをもってやってきた! という小芝居をするところが微笑ましくて面白かった。
・父親が書きためていたメモ帳を繰る場面に引用されていたのは、サイレント映画『ニーナ・ペトロヴナ』なんだそうな。よく意味は分からない。
・クレマンとのセックスシーンで、レナ・セドゥは背中ヌード、おっぱい、交接場面もあるんだけど、あの程度でボカシを入れるか? と驚いた。
TAR/ター5/29MOVIX亀有シアター2監督/トッド・フィールド脚本/トッド・フィールド
原題は“Tar”。allcinemaのあらすじは「女性として初めてベルリンフィルの首席指揮者に就任したリディア・ターは、類まれな才能に甘んじることなく、常に努力を重ねて現在の地位を掴み取ってきた。今や作曲家としても活躍し、自伝の出版も控える彼女だったが、新曲が思うように作れず生みの苦しみを味わうとともに、マーラーの交響曲で唯一残っていた第5番の録音が目前に迫り大きなプレッシャーにも晒されていた。そんな中、かつてターが指導した若手指揮者の自殺が明らかとなり、これを境に彼女と周囲の歯車が急速に狂い始めていくのだったが…。」
Twitterへは「形容詞と動詞がなく名詞だけ並べたような映画。説明は端折られ、長々話すセリフのカケラがヒントだったりする。こういうつくり方があってもいいけど、モヤモヤするところもたくさん。知識と教養が足りないので、分からんところもいっぱいあったし。」
つまらなくはないけど、いろいろ説明が端折られてるところが多くて、いまいち理解できないままどんどん進んでいく。前半はターの権威と傲慢の紹介な感じで、とくに冒頭での公開対談では、ターの経歴や考えなんかがインタビュアーによって紹介され、ター自身も滔滔と自説を語るんだけど、こけが結構長い。それをケイト・ブランシェットはまるでターが乗りうつったみたいにしゃべる。なかなかの演技力だけど、これで観客を驚かせ、煙に巻くような虚仮威し感もなきにしもあらず。正直なところ、あんなに長く語る必要はないだろ。実をいうと半ばから始まるリハーサルは何のためなんだ? 公開録音のため? と戸惑っていたんだけど、そういえばこの対談で、「ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない交響曲第5番を、遂に来月ライブ録音し発売する予定」とかいってたな。そうか。それがつながるのか、は後からつながった。対談ではクラシックのあれこれについて具体的な曲名や指揮者やあれやこれや出てくるんだけど、字幕を追うのが精一杯で、でも、読んでも意味が分からず置いてきぼり、だったんだよね。凄そう、は分かったけど。まあ、一般的な映画を見慣れた客としては、もうちょっと説明の映像なりセリフを増やして、ターやその他の人々がしていることや起こった出来事について理解できるようにしてくれた方がよかったよね。まあ、そんな、説明過剰で分かりやすい映画なんてつくらない、というスタンスなんだろうけど。でも、分かりにくいから高尚な映画というわけではないからね。分かりやすくてもいい映画はいくらでもあるし。
でまあ、説明の足りない映画を想像で埋めながらあらすじを確認してみるか。
映画の舞台がどこか、もちゃんと語られてないんだよな。でも、ドイツだろ。たぶん。ベルリンフィル相手だったし。で、ベルリンの首席指揮者だ、と。(この威圧的な存在と絶対的な権力を握る女性、という流れはなかなか強烈。だけど、結局のところターは凄い女、ということを繰り返しているだけで、それ以上の何かがあるわけではないのが虚仮威し的か)  ベルリンではバイオリニストのシャロンの方が先輩で、経緯は分からないけど2人は同性愛関係になった。そして養子を迎え、幼い娘がいる。ターのマネージメント(なのか? 後から次席指揮者の候補になるから、音楽的な素養もあるのかな)を担当するのがフランチェスカで、従順なフリをしているが、実は…。というのは最近、ターが指導していたクリスタ、という25歳の女性指揮者が自殺した。クリスタとフランチェスカは頻繁にメールのやりとりをしていて、内容は一切触れられないんだけど、ターのハラスメントを受けていたらしい。ただし、セクハラなのかパワハラなのかは分からない。(このあたり、ミステリー要素が加わって、そういう流れになるのかな、と思ったらそんなこともなくて、がっかり) さらに、バークレーでの講義で男子生徒を指導していて意見が相違したときの映像がSNSで拡散。この2件が社会問題化。(で、この問題がどういう具合にターに降りかかったのか、ということは具体的には示されず、いつのまにか追われてしまってる感じなんだよね) 結局、ターはシャロンから決別され、娘とも会えなくなり、ベルリンフィルからも追われ、ターが指揮するはずだったコンサートも別の男性に変更されてしまっていて。と、思ったらなぜかターは東南アジアのどこかの国に向かっていて、彼の地で色物楽団の指揮をするまでに落ちぶれた、というところで映画は終わってしまう。最後の追われる部分は後半も押しつまってからバタバタと忙しなく描かれて、それまでの重厚な展開から安っぽい流れになってしまっている。
なんか終わり方としては尻すぼみ。零落したままで満足はしてないだろうけど、ここはひとつ復讐の狼煙のひとつでも感じさせて終わって欲しかった。とくにフランチェスカとシャロンに対してね。
以上の経緯が、何がどうしてどうなった的な説明がほとんどなく、起こったことが映し出されるだけ。見る側が勝手に想像しなさい、分かるだろ、な感じなので、イマイチ共感できない部分が多いのだよね。
・まず、冒頭のスマホ画面の会話だけど、もう内容は忘れてるんだが、あれは助手のフランチェスカなのか? その後も何度かスマホ上での会話が映るけど、どういうことだったのか、よく分からんよ。フランチェスカがターを裏切った、ということが分かってから見返すと、意味が分かるのかもだけど、いちいちスマホでの会話なんて覚えてねーし。
 ・バークレーで男子学生がターに向かって「ビッチ!」と吐いて出ていった経緯も、実はよく分かってない。たしか男子学生が「バッハは女性差別的だから弾きたくない」と言ったことに対して、ターは、そういう判断で音楽を評価してはいけない、というようなことを言っていたような…。学生は、それでターを女性差別主義社だ、と決めつけたのかね。だとしたら、学生が変だと思うけどね。だって、現在の尺度や価値判断を過去にあてはめるのはムリがある。なことをいうと、ワーグナーはどうなんだ、てな話になるのかも知れないけど。でも、価値判断の基準は時代とともに変化しているわけで、これから将来、独裁主義が再評価されるというようなことだって、ないとは言えない。また、昨今の、少し行きすぎたフェミニズム運動とかLGBTQIAを揶揄しているのか、はたまた、その逆でターを非難しているのか、どっちなのかよく分からない。この場面で気になったのは、学生の貧乏ゆすりがえんえんとつづいていることで。学生のイライラを表現したものだろうけど、もっと早くやめさせろよ。彼の地では貧乏ゆすりにあんなに寛容なのか?
・あの、ドイツ語使ってのリハーサルは何のため? とずっと思ってた。で、あとから↑のあらすじ見て、あーそーか、そういえば冒頭の対談で、ベルリンで録音してなかったのがマーラーの5番とか言ってたっけ。そのこととつながるのか。でも、ひと言その説明的なカットがあれば、すんなり見られたのになあ。で、もう一曲、で追加したのがチェロの何とかいう曲で。抱き合わせの曲をどうするか、だったのか? 追加の一曲が必要だった理由は、やっぱり素人には分からんよ。
・ターとシャロンは一緒に住んでいるのか? 娘がいるのはシャロンの家で、ターが通っているのか? ターは、別に借りているアパートメントに住んでいるのか? アパートは練習部屋? というのも、もやもや。で、寝ているのはアパートなのか? で、やたらチクタク音やピーピー音で目覚めるのは、神経過敏になっているから聞こえる妄想なのか? でも、原因がメトロノームだったときは、娘にいじったかどうか質問していたよな。っていうことは、あれはシャロンと暮らしている部屋でのことか? 寝ているときだけではなく、ランニングしてて聞いた女性の悲鳴はなんなんだ? あれも幻聴? 威圧的に暮らしていることの反動でそうなる、とでもいうのか? 
・チェロの娘は、どっから登場したんだっけ。シャロンが、「弾いてるとき、イクときみたいな表情をする」とはなしてた娘だよな。のちにオーディションにやってきたとき「団員ではない」といっていたけど、じゃあ練習生とかそういうことだったのか? 足だけ映ってたりした場面があったけど、あれは彼女を示唆しているのか? それでターはチェロ娘をYouTube見て、気に入って、食事に誘った? けど、チェロ娘は屈託なくターに接し、ズケズケものをいう。でもターはそういう態度を許している。よっぽど気に入った、のか。チェロ奏者としても、恋愛対象としても? それで、もう一曲にチェロのソロのある曲を選び、楽団にチェリストがいるのにオーディションにした。楽団のチェリストは不満そうだったけど、怖いね、ああいうの。オーディション当日、参加者は楽団のチェリスト1人、と思ったらもう一人いて、結局、満場一致で件のチェロ娘が選ばれる。まあ、実力だから仕方ないのかもしれないけど。では、チェロ娘がオーディション当日にすべり込んできたのは、なぜなのだ? ターが仕組んだのか? そう見るのが妥当だろうな。
・チェロ娘が参加しての練習。シャロンの顔がしきりに映る。でも、露骨な嫉妬は見せていない。そこが怖い。でも、チェロ娘にデレデレなター。チェロ娘を家に送っていったり、彼女が忘れたぬいぐるみを持って行ってやろうとしたり。でも、間違って転んで顔をしたたか打って傷だらけになったりする。それを、男に殴られた、というのはどういうことなのだ? チェロ娘への入れ込みを知られたくないから? あとは、そろそろターが痛手を負うことのメタファーとしてこの事故をもってきたのかな。
このあたりから、自殺した25歳の女性指揮者の話が絡んでくる。その原因は、とはならないのがこの映画らしい。ミステリー要素よりも、その結果がターに及んで炎上する、ということを見せればいいから、なんだろう。ターがチェロ娘に何をしたか、は結局分からない。彼女にも惚れ込んで接近したけど拒絶され、それで冷たく接するようになった、のか。でも、それぐらいで自殺なんかするかね。セクハラではなく、パワハラ? 分からないのがモヤモヤする。この件でターは女性指揮者の両親から告発されたようだけど、弁護士とのやりとりもあったけど、よく分からない。さらに、バークレーで男子学生に話した内容がSNSに拡散されて、こっちも炎上らしい。けど、どういう炎上なのか、これまたよく分からない。ミソジニーなバッハを擁護した男尊女卑な女、ということにでもなったのか? そういえば、フェミニストの団体がプラカードを掲げているところをくぐり抜けてる場面があったけど、あの手の連中を敵に回した、ということなのか? ベルリンフィルの偉いさんに呼ばれたような場面もあったけど、どういうことなのか説明がないのでさっぱり分からない。
・ターと助手のフランチェスカとの関係も、よく分かんない。冒頭の対談で、インタビュアーがターの経歴を披露しているとき、彼女はそらで同じ内容を暗唱していたけど、最初、フランチェスカがターを尊敬しているから、と思っていたんだよね。でも、後から思うにあの経歴はフランチェスカが書いたもので、それをインタビュアーが読み上げていたのだな。従順に見えて、実は違っていたのか。女性指揮者の自殺を知った後、フランチェスカが女性指揮者とやりとりしていたメールを全部消せ、と命じていたけど、ではターはメールの中味を想定できていたのか? たとえば、女性指揮者はフランチェスカと恋愛関係にあって、そこにターが割り込んだとか、2人の関係を壊したとか、そういうことがあったとか? にしても、自分のPCが壊れたからと助手のMacを強引に借りてメールをのぞき見るって、露骨すぎるというかバカすぎだろ。でもって、女性指揮者の両親の告発後、フランチェスカは突然転居して家はもぬけの空。ありゃどういうことなんかね。
・そういえばターは、ベルリンフィルの次席指揮者の男性が気に入らないらしく、面と向かって「別の楽団に移れ」というのが露骨。まあ、ああいう世界では日常茶飯事なのかもしれないけど。で、フランチェスカには、その後釜に、と話していたのは、フランチェスカのご機嫌取りだったのか…。それが、一気に反旗を翻されて、味方がいなくなった、ということか。まあ、フランチェスカはもともと見方ではなく、SNSに投稿して炎上させていた本人なのかもしれないけど。
あー、やだやだ、女同士の世界。
このあたりだったか。アパートの隣の部屋の住人が亡くなった。その後、世話していた娘はいなくなったと思ったら、その姉妹らしいのがやってきて、部屋を売るつもりだけど内見のときは音楽をやめてくれ、といいにきた。そこまでうるさかったのか。弱り目に祟り目のター、を象徴している場面だな。ちょっとわざとらしいけど。まあ、傲慢な人には周囲の人間は見えないし、バカとしか思えないのは分かるけど。そこまでターを単純化しなくてもいいんじゃなかろうかな感じ。
で、コンサートの録音の当日。ターはトイレで吐いている。そうか。あの女でも緊張するのか。と思っていたら、指揮台にいた男性を横から突き飛ばして大騒動。は? あれはイメージ? それとも、スキャンダルが大事になりすぎて、ターは降ろされたのか? 
 で、話は飛んで、ターも飛行機で飛んで、東南アジアのどこかの国。『地獄の黙示録』がどーのと言ってたからベトナム? の、色物楽団の指揮者に落ちぶれたターの姿で映画は終わる。なんか、終わってみれば話は単純で。傲慢な指揮者がSNSで大炎上し、地位も名誉も失って田舎のドサ回り、という話ではないか。しかも、なぜ、どのように炎上したのか、ははっきりしていないので、ターのことを「当然だろ」と決めつけてよいのか、「お気の毒」と憐れんでよいのかよく分からない。近ごろのLBGTQIAやフェミニズムが絡んできているらしいのは分かるけど、どう絡んでいるのかが分からないので、判断に困ってしまう。
・その異国のホテルでマッサージを紹介してもらったら、水槽のようなショーウィンドーに何人もの女たちがいて。ターは、出てきて吐くんだけど、あれは売春婦なんだろうか。男が選ぶなら分かるけど、女が女を選ぶ? というか、マッサージ屋を紹介した親父は、ターがレズとは知ってないと思うんだが。
・『挑戦』とかいう題名の本がターに、送られてくる場面があるんだけど、ありゃどういう意味なのだ? 題名を見て、速攻で捨ててたけど。よく分からん。
・ターがイスラエルで指揮することになったことがあって、そのとき楽団員が「あなたはユダヤ人か?」と聞いてきたことがあった、とかいう話をしていたけど。あれは、ターがベルリンフィルの首席指揮者だからドイツ人だと思って聞いてきたということか? よくわからん。ところでターはユダヤ人という設定なのか? このときの答は、ユダヤ人なら問題なく受け入れられ、ドイツ人なら抵抗されたかも、ということなのかね。
・フルトヴェングラーがナチに抵抗したとかいう話もしてたよな。調べたら史実らしいけど、この映画の筋とどういう関係があるんだ?
・娘をいじめる同級生に、「今度やったら容赦しないからね。このことを大人に話しても容赦しないからね」と脅し文句を告げていたけど、あれは、ターの性格を見せるための描写なのか? 相手のいじめっ子(娘)は平気な顔して聞いてたけど、イジメはなくなった、ということか。しかし、小学校であれは問題行為かもな。
・その自分の娘を学校に送っていくとき、有名な文章を引用して暗唱させていたけど、あんな感じでターも子供の頃にフレーズを暗唱させられていたのかしら。スキャンダルの後、その娘と会えなくなって、シャロンは娘とターが会うことを拒否したようだけど、あんなことは実際できるのか? 親権の侵害だ! って、シャロンに攻撃しなかったのかね。
Winny5/31キネカ大森2監督/松本優作脚本/松本優作、岸建太朗
allcinemaのあらすじと解説は「2004年、革新的なファイル共有ソフト“Winny”を開発するも、利用者による悪用が社会問題化したことで新しい技術を開発しただけの金子勇氏本人までもが逮捕されてしまう事態が起こる。本作は、便利な技術が犯罪などに悪用されると、開発者自身も責任を負わなければならないのか、という日本のソフト開発の未来そのものを揺るがした“Winny事件”を題材に、金子氏と彼の裁判を支えた弁護士・壇俊光氏の無罪を勝ち取るまでの7年の道のりを描いた社会派ドラマ。」
Twitterへは「ファイル共有ソフトの開発者が一審有罪になるまでの話。え、無罪じゃなかったっけ? と思ったら字幕+ぶら下がりの映像で最高裁で無罪の話がちょこっと。おい。無罪判決で終わってくれよ! 警察・検察の腐敗などテーマはいいけど映画としては物足りない。」
Napsterについてはファイル共有ソフトというのは知っていた。けど、使ったことはなかった。一方で、その後のWinnyに関する出来事はほとんど知らなかった。この映画が公開中であることを知ったのも、Podcast『弁護士放送』で話題になっていたからで、Winnyの基本技術であるP2Pテクノロジーがいまでは世界の様々な分野で応用されているにもかかわらず、日本ではWinnyの裁判によって開発が止まり、世界に後れを取るようになったという。という話を聞いていたら、そういえばそういう話しは聞いたことがあるような…。なので見ておこう、となったわけだ。
話は、Winnyが警察の標的になっていて、まず、使用した2人が見せしめ的に逮捕され、次に開発者の金子の自宅にも捜査が及ぶ、という流れになっている。金子に対しては逮捕令状ではなくむ家宅捜査なのか。北村刑事は「使用しているPCを教えろ」といい、金子は正直に答える。北村は「アップロードできないぞ、どうしてだ?」とぶつくさ言い、金子は「それはダウンロード専用です」と茫洋と答える。あとから『弁護士放送』を聞き返して分かったんだけど、警察は、ソフトをアップロードしている現場を押さえ、現行犯逮捕したかったらしい。しかし、映画ではそんな説明はないので、なんのこっちゃ? な感じにしか見えないのよね。
あとで弁護士の壇が話していたけど、拳銃による殺人事件があったからといって、拳銃を製造した人は罪に問えない。Winnyも同様で、ソフトをつくった人間は、ファイルを不正に共有しているわけではないのだから、罪には問えないはず。米国での同様の裁判では、そういう流れになっている。でも、日本の警察は、Winnyの製作者もまた罪に問おうとしている。だから北村は、金子には不正なファイルを流布させようとしたという意志があった、と金子に認めさせたい。だから、金子がソフトをアップロードしていた、という証拠を確認したかったんだろう。
金子はかなり変なやつで、北村たちが踏み込んできたときもまったく抵抗せず、いいなり状態。任意同行で尋問を受けた後も、北村刑事が書いたテンプレ調書をそのまま書き写し、まるで北村に不正ファイルの共有を意図したかの様な言い回しについても、「あとから書き換えられますよね?」などと呑気に質問して、そのまま写してしまう。バカか? と思えるレベルで、警察という組織のヤバさをまったく知らないようだ。
そのせいなのか、金子は逮捕されてしまう(逮捕のはっきりした理由は、説明されないけどね)のだけれど、これに対して壇というネットに詳しい弁護士がこの事件に関心をもち、仲間の弁護士とともに弁護を開始することになる。別に国選でもないだろうに、自ら申し出て弁護することになったのか? とかいう流れはよく分からない。
逮捕後、金子は検察で不正ファイルの流布は意図していなくて、調書は警察に言われて書いた、と述べたようだ(というシーンはないけど)。けれども検事は、「弁護士の入れ知恵でああ述べた」という宣告書のようなものに署名してしまう。どこまでお人好しのバカなんだ。こうした軽率な行為について弁護士から指摘されても、「そうなんですか?」とあっけらかんとしている。無防備すぎる。
金子は、わりと簡単に保釈されるのだけれど、警察や検察のやり口に疑いを持っていないのは相変わらず。実姉に連絡はとるな、Winnyのプログラムはいじるな、と言われているのに、身体がいうことをきかないようで、なんとか言いつけを守ってはいるけれど、破りたくてしょうがない様子。金子にはプログラムのことしか頭になくて、社会のことなんかに興味なんかないのだろう。天才たる所以なのだろう。でも弁護士たちを慌てさせてばかりだ。
『弁護士放送』によると金子はWinnyの欠陥を認識していて、数行書き換えれば勝手にファイルを交換してしまうようなリスクが減るらしい。しかし、それを禁じられているのだから、ストレスはあったろうな、と。
でまあ、法廷での争いになるんだけど、裁判官が年寄りで、コンピュータのことなど分からないような爺さまなのだ。法廷でのやりとりは分かりやすい方だったとは思うけれど、北村が金子に書かせた調書の中で、「滿えん」という言葉の使い方についてやりとりする場面があった。蔓延を「滿えん」と北村が間違えて書いた、ということらしい。弁護側は、蔓延という表現は一般的ではない、という主張をする。蔓延というのは、記事や雑誌において「ファイルの違法なやりとりが蔓延する」というような文脈で使われることが多く、多分、北村はそれを見て参考にし、調書にも使用したのだろう、的な推測で話していくんだけど、それを聞いている北村の表情が変わっていく。のだけれど、この「滿えん」のやりとりの件は、なぜ北村があたふたな表情になるのかがよくわからなかった。映画のキモであるはずの場面らしいのだけど…。
他にも、Winnyというプログラムの特性について話をする場面も、弁護士同士ではもちろん、法廷でもあるのだけれど、専門的すぎてよくわからんところが結構あるのだよね。まあ、説明していくとややこしくなるから、というのもあるんだろうけど、もうちょい単純化してもいいんじゃないのかなと。
こうした金子と弁護士をめぐる話と平行して、愛媛県警の裏金づくりについての話が平行して進んでいく。話としてはストレート過ぎるんだけど、Winny問題で金子を追及する警察が、京都と愛媛で場所は違えど違法行為を堂々と行っている様子を見せるのは、なかなか効果的。どうせ京都府警だって同じような不正はしてるんだろう。不正を行ってる警察が、金子を騙して調書を丸写しさせ、検察は嘘の陳述に署名させている。なんだ、こいつら、って見えてくるからね。ほんと、見てて警察や検察のやり口には憤りしか感じない様なつくりになっている。
てなわけで、総じて警察と検察の汚いやり口が露骨に描写されて、観客は憤るような仕組みになっている。のだけれど、結局、警察がなぜああまで執拗に金子を有罪にしたかったのか。海外の判例もあるわけで、フツーに考えれば勝てない、と分かっているのに、 金子に、不正ソフトを蔓延させる目的でつくった、とムリやり書かせてまで有罪にしたかった理由が分からない。『弁護士放送』でも、理由はよく分かっていない、といっているのだけどね。なら、映画としての主張を盛り込んでもよかったと思うんだけど。
でも、多少、観客が誤解する様な描写もある。愛媛県警の正直な警官が実態を記者会見して、裏金づきりを曝露するという出来事が起こるのだ。警察側は全否定するのだけれど、後に裏金の証拠となる帳票がWinnyで流出するのだ。もしかして警察は、これを懼れて事前にWinnyが一般に使用させることをやめさせようとしたのかな? でも、そうはっきり言っているわけではない。なんとなく、そう思える様な描き方をしているだけ、なんだよね。もやもや。
で、一審は金子に罰金刑が下され、敗訴。金子は、気分転換にでも行くのか、空港で壇と別れる場面で映画は終わってしまう。え? 『弁護士放送』では、最終的に勝訴した、っていってたよなあ。と思ったら、クレジットの後に実際の金子本人のニュース映像の様なのが流れ、最高裁で勝訴した、と分かる。なんだよ、こんな風に知らせてくれたって、カタルシスはないだろ。二審がどうなったのかも知らせてくれないし。悔しがる警察と検察の表情がなけりゃ、最終的に勝った、という爽快感がないじゃないか。
ついでに、だけど、愛媛県警の、曝露した警官のその後も文字で分かる。当然ながら閑職に追いやられたけど、裁判で勝って復帰でき、定年まで勤め上げたんだという。周囲はすべて敵の中で、よくできたなあ。感心する。金子の、戦うつもりゼロ、な態度とは大違いだ。退官後は、フツーならどっかに就職を斡旋してもらえるらしいんだけどそれがなくて。でも、いろいろ外部で活躍したようなことをWikipediaには書いてあった。
・この映画、時間の経緯がよく分からない。逐一、何年、と字幕もないし。なんとなく数年? と思っていたら、Wikipediaには、起訴が2004年で、2006年に一審で150万円の罰金刑。控訴して、2009年、高裁で無罪。検察が上告し、2011年、最高裁で無罪決定らしい。ところで、金子は2013年、心筋梗塞で43歳で死去したのだという。映画では姉役の吉田羊が登場し、金子が亡くなったときにかけていたというメガネを遺品として壇に「もらってくれ」というんだけど、そんなもの、もらってもなあ、と個人的には思うけどなあ。
・傍聴席に、お決まりの配役として、阿蘇山大噴火がいた。あと、法廷にいた記者のひとりが春風亭一之輔に似てたけど。クレジットにはなかったから別人かね。

 
 

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