2023年6月

怪物6/6109シネマズ木場シアター3監督/是枝裕和脚本/坂元裕二
allcinemaのあらすじは「大きな湖のある静かな郊外の町。シングルマザーの麦野早織は、小学生の息子・湊の不可解な言動から担任教師の保利に疑念を抱き、小学校へ事情を聞きに行く。しかし校長や教師たちの対応に納得できず、次第にいら立ちを募らせていく早織だったが…。」
Twitterへは「よく聞き取れないセリフが多すぎ。字幕つけて欲しいぐらい。構成は裏→表→中、な感じで、『運命じゃない人』をシリアスにやってる風。背景やテーマはいまどきのアレで、審査員ウケを読み切ってる。で、裏→表は面白かったけど、中はいまいちかな。」「裏→表→中の、最後の中は、読めちゃうんだよ。そして、意外性がない。ところで、今回、監督が脚本に参加していないのは、何でなんだろ。」
とくに湖は話に関係ない。具体的には諏訪湖だけど。
前情報はほとんど入れずに見た。なるほど、そういう話なのか。最初は、父兄の立場からの視点(というか、シングルマザーが主人公)ザワザワと観客の心を逆なでし、こんな教師が入るのかよ、とミスリードさせていく、モンスター教師? 編。つづいて視点が変わって(というか、最初はヤバい教師? と思われた保利が主人公)、実は教師は好人物で、騒ぎ立てた早織こそがモンスターペアレント編。と思ったら、実は子供たちの中にこそモンスターが住みついていた? という生徒編をファンタジーで。そして、ラストは天国で結ばれる様子を、爽やかに。黒沢明『羅生門』の藪の中的な韜晦さはないけど、観客を翻弄するつくりだった。
視点が変わる=主人公が変わることで、あのときの、あの出来事、が別の意味を持つことが見えてくる。とうぜん、時制が戻ったりが頻繁で、見ているこちら側に「なるほど」感はあるけれど、1本の時間の流れとして見るのは頭が少し混乱する。解体された時制を戻してみるには、1度だけの鑑賞では難しいかも。とはいえ、大雑把には再構築できるかも。
話を単純化してみようか。星川は、学校で旧友にいじめられている。ゲイ、というより、かつてのシスターボーイ的なキャラだから、のようだ。でも、なよなよしてはいない。いじめられているといっても、からかわれている程度で、暴力的なところは少ない。湊はクラスメイトで、きっかけは忘れたけど、なぜか星川と気が合い、一緒に遊ぶ様になる。でも、他のクラスメートがいないところで、だ。星川は、廃線のジャングルの中に捨てられた電車の存在を知っていて、隠れ家にしている。そこに湊をつれこんで、遊ぶ。星川が学校でみつけた猫の死骸を火葬にしようとするんだけど、心配になってなのか、水筒に泥水を汲んできて、火を消す。
湊の怪我、水筒の中の泥、無くした靴、などに異常を感じた母親・早織は、息子を問い詰める。と、殴ったのは教師の保利である、と分かる。それで学校に真偽を確かめに行くも、校長も他の教師ものらりくらり。謝罪はするけれど、説明はしない。早織が湊の友人である星川の家に行くと、玄関に湊の靴の片方がある。早織は再度、学校に訪問。証人として呼ばれた星川は、保利が殴った、と(確か)証言していた。他にもクラスの女子が呼ばれ、保利にいじめられていた、と証言していたように記憶している。ある日、湊の行方が分からなくなり、夜、探しに行く。と、藪に突っ込んである自転車を見つけ、探るとそれはどうやら廃線に向かう藪道で。そこで早織は湊を見つける。(あとから、湊と星川がファンタジックに遊んでいただけ、と分かるんだが) クルマに乗せて連れ帰る途中、早織が「お父さんみたいになって、子供をつくって」云々したところで湊はドアを開け道路に転がり出る。病院・検査。〜てな感じだったかな。あとから思うに、結婚して子供つくって、という世間的によく使われる表現が、ある種の子供には重圧というか、逃げたいぐらいのものになっていた、ということなんだろう。ある雨の日、湊の家の前で、教師の保利が「ごめんな!」と叫びつづける。(謎だ)ところで、このパートは終わる、んだったか。
新任教師の保利は、基本的にやさしい。ガールズバーに行ったりはするけど、生徒思いのいい教師だ。ある日、教室で暴れている湊を止めようとして、ちょっとした怪我をさせてしまった。湊が暴れたのは、クラスメートが星川をいじめることに対して、だったかな。その後も、子供思いのやさしさが目立つ。けれど、誤解をもとに父兄=早織が学校に怒鳴り込んできた。騒ぎを大きくしないために校長らは穏便に済ませようとする。保利は説明しようとするけれど、他の教師たちにとめられる。というのが大きな流れかな。あと、組み体操で下の生徒がつぶれたとき、「男らしくないぞ」といってたっけ。あれ、いまどきの映画で生徒にピラミッドさせたり、男らしい、という言葉を言わせるんなんて変だな、と思ったのを覚えている。あとから思うに、知らず知らずのうちに「男らしく」をインプリントしている行為を何気なく表現していたんだろう。
このあたりから、湊と星川の交流が描かれていく。なぜ湊が星川に興味をもち、一緒に遊ぶ様になったかは、あまり記憶にない。むしろ、星川の女性的な雰囲気がチラチラ目に入った。たとえばオーバーオールや、服の色とか、が野郎っぽくないのだよ。小学生なんだから親が選ぶだろうし、子供の好みが反映されるとは思えないんだけど、映画的な手口だろう。そもそも星川の母親は出て行っていて、父親は息子をバカにして「お前の頭にはブタの脳みそが詰まってる」と罵ったりする。(この表現を、湊は「保利から言われた」と母親に話している) 父親は、なよなよした息子にイラついていたんだろうか。
2人のときは仲よく過ごす。秘密の廃線・捨てられた車両の中では、世間と隔絶できて、2人だけの世界に遊べる。でも、教室で星川がからかわれていても、湊は助けられない。一度、星川の描いている絵を同級生がいたずらしたときもそうだった。けれど、女生徒が、なんとかしてやれよ的に雑巾を湊に放り投げた。すると同級生たちは、湊にも、ラブラブ! 的な言葉を投げつけた。湊は、つくろって星川をいじめにかかる。そのあと、湊が壊れて、あたりの物を投げつけた、んだっけか? そこに保利が来て、湊が怪我をした、んだっけか? よく覚えていないが。
このときの女生徒は、保利に、猫が死んでいる、と保利に知らせる。このときは、殺したのは湊であるかの様な印象だった。でも、あとからの描写では猫の死骸は星川がみつけ、湊ともに隠れ家にもっていき、火葬する。そのとき、湊は水筒に泥水を入れ、火を消す。という流れになっている。実際はどうなんだろう。
もしかして女生徒は保利のことが好きで、先生が湊をいじめた、と嘘をついたのか。好きの裏返しで先生を困らせた、とか。あるいは、女性とは湊のことが好きで、それで猫と湊を結びつけて保利に知らせた?  まあ、しらんけど。
いやもー、このあたりから時制が錯綜し、あのときのアレに、新たな物事も描かれたりで、順番がどうたったのか、なんて、よく分からなくなっちまった。アバウト分かってるからいいけど、細かな前後関係なんて、もう分からんよ。なので、断片的にいくか。
でまあ、要は。湊は星川に惹かれた。それが同性への愛であることを意識したのかどうかは分からない。なにせ小学5年生だし。でも、湊は母親の、大きくなったら子供をつくり、に抵抗している。教師保利の「男らしく」にも、たぶん違和感を抱いているのだろう。でも、同類である保利がクラスメートにホモ野郎的にいじめられていても、助けられない。同級生の女の子は湊の星川への感情を理解して、教師に嘘までついているというのに。
台風の日、2人が廃線の車両に行ったのは、もしかしたら自死を意識してかもしれない。とはいっても土砂崩れがありそうな場所とも見えなかったんだけどなあ。
雨中、保利が湊の家の前で湊に「ごめんな」と謝ったのは、日頃から「男らしさ」について言及していたことで湊を精神的に追いつめていた、と気づいた、からだとは思う。しかし、そんなことにフツー気づくか? 無意識に言ってたことに、突然罪悪感を感じるというのは、ムリがあると思う。
早織は、台風の中、いなくなった湊を探しに出かける。保利もまた、早織に同行する。で、かつて探し当てた廃線への入口を思い出す。なぜ思い出したのか、都合よすぎる展開だとは思うけどなあ。まあいい。で、そこで、泥に埋まった車両の上にたどりつく。そこにガラスが嵌めてあるんだけど、屋根にガラスが嵌めてある車両なんて、あるか? とは思うけどね。で、そこを開けて覗くと、なかは薄暗くごちゃごちゃしてる。電車の屋根ではなく、建物の天井にも見えて、地下につづいているようにも見えたけど、よく分からない。で、たぶん2人は泥に埋まって死んだんだろう。と思っていたら台風一過。廃線の線路の上を、湊と星川が楽しそうに疾走していく。ああ、これは天国か。この世では認められることなく、あの世で一緒になる、ということか。なエンディング、だった。
・台風の中、湊が星川の家に行くと、星川が浴槽で倒れているのは、あれは自殺しようとしていたのか? その星川を連れて、わざわざ廃電車まで行ったのかよ。で、土砂崩れを待ったってのか?
・保利が湊の家の前で「ごめんな」と叫ぶのは、あれは、自分が湊の性癖に気がついてやれなかったからなのかね。だとしたら、いつ、どうやって湊が性的マイノリティーだと気づいたのだ? それで、わざわざ謝りに行く必要はあったのか? 湊が星川とつき合っていたのは知っていたのか? いろいろ謎である。
・冒頭で、ガールズバーの入っているビルが放火された、という設定だ。そのガールズバーには保利が行っていた、という噂が流れている。父兄や、教師の間にもあるようだ。ほんとうに行っていたのかは分からない。とくに否定されてはいなかったので、行っていたのかな、と思って見ていた。で、保利の恋人はガールズバーで働いているのかな、と思っていた。その恋人は高畑充希が演じているんだけど、とくに役としては機能していなくて、誰でもいい様な感じだった。それに、すぐ消えちゃうし。もったいない。
・早織は、湊の部屋でライターをみつける。で、そのライターはもともと星川のものらしく、猫を火葬しようとしたときに使っていた。あと、忘れていたんだけど誰かが「放火当日、校長がライターをもっている星川とすれ違った」と言っていて、ああ、そういえば、と思い出した。では、星川が放火犯か、というと、とくにそうとは言い切れないわけで。あちこち連続放火があったわけでもないのだから、ただの思わせぶりな表現=小道具ではないかと思う。星川はそんなに暗くないし、怨念を放火で晴らす様なキャラには見えなかったしな。
・そういえば保利が学校の屋上に上がって、飛び降り?でもしようとした場面があったけど、ありゃなんだ? 台風で湊に謝る前だっけか? 
・湊の父親はラガーマンで、でも浮気してその相手といるところで事故死、とか悲惨なことを言っていたな。そんな父親の様になれ、という母親=早織もどうかと思うけどね。でも、このエピソードは、何か本質と関係あるのか?
・校長は、孫が亡くなったことで落ち込んでいる、という設定。轢いたのは校長の夫で、刑務所に収監されている。でも、噂では轢いたのは校長で、立場上夫のせいにした、らしいとも言われている。真偽は分からない。そうまでして守らなければならない立場なんてないと思うし、それで経済的にも損失がない、とでもいうのか。自分が、犯してもない罪をかぶるか、といったら、そんなことはしたくないぞ。
音楽室での、校長と湊の会話。特別な人にしか訪れない幸福なんてない、とかなんとか言ってたかな。意味がよくよく分からない。校長は湊にトロンボーンを吹かせ、私は昔これだったとチューバ吹く。なんなんだ?
・星川を「ちゃんとしろ!」=男らしく、とプレッシャーをかけていた父親は中村獅童が演じていたけど。あの役も、目立たなかった。すぐにいなくなっちゃうし。保利の恋人同様、存在の薄いキャラだ。
で、全体を通してみると、なんかいろいろ薄っぺらいのだよね。いまどきの、いじめ、モンスターペアレント、弱腰の学校、LGBTQIAを扱ってタイムリーだけど、なんかなあ、という感じがしてしまう。たとえば湊の感じていた母親からのプレッシャーとか、星川の感じていた父親からのモロモロとか、いずれも些細なこと過ぎないか? あんなことで悩んだり、ひいては自死しようとするかいな。しかも、まだ小学5年生だぜ。しないだろ。と、考えると、ものごとを大げさに捉えすぎていて、この映画はかなりビミョーなんだよな。
aftersun/アフターサン6/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/シャーロット・ウェルズ脚本/シャーロット・ウェルズ
原題は“Aftersun”。ヒューマントラストシネマのあらすじは「11歳のソフィは、離れて暮らす若き父・カラムとトルコのひなびたリゾート地にやってきた。輝く太陽の下、カラムが入手したビデオカメラを互いに向け合い、親密な時間をともにする。20年後、カラムと同じ年齢になったソフィは、ローファイな映像のなかに大好きだった父の、当時は知らなかった一面を見出してゆく...。」
Twitterへは「惹句は「20年前のビデオテープに残る、11歳の私と父とのまばゆい数日間。あの時、あなたの心を知ることができたなら」なんだがそんな説明はどこにもないし見終わっても父の心はまるで分からない。ざわざわ感はあるけど何も見えてこない。」
他にもポスターに「最後の夏休みを再生する」というキャッチがある。しかし、どこにも「最後」とは描かれていないぞ。そういえば「あなたの心を知ることができたなら」という言葉は見る前に見ていて、だから見終えたら心の中が分かるのかと思ったら、まったく分からないではないか。もしかしてCIAの殺し屋で避暑してる様に見せかけてターゲットを狙っていたとか、そんな話はまったくなく、描かれるのは娘と父ちゃんがトルコのどこかのリゾート地で何日かだらだら過ごすだけの映像だった。
その映像は、ときどき荒れた感じになったりする。はたまた、短いカットでつながれてサブリミナルな感じになっているのもある。だからよく見えなかったりする。ビデオカメラはリゾート地に持って行っていて、互いに映し合っていた感じかな。
<過去>・カラムと妻は離婚していて、よくあるような、子供の面倒を互いに取っ替え引っ替えしてる感じ。
・カラムは右手首を骨折したとかでギプスをはめている。けれど、そのままプールに入ったりしていて、数日後には自分で外してしまう。
・ソフィはカラムが大好きな感じで、オイルを背中に塗られてもへっちゃら。どころかカラムにしょっちゅう抱きついてくる。
・元妻は再婚してるのかな。忘れた。
・カラオケ大会で、ソフィはカラムに内緒でエントリーしていて、それはカラムが好きだった曲にもかかわらず、一緒に歌うのは嫌だ、とカラムに拒否された。ソフィは少し不満げで、でも2人の心のすれ違いはこれぐらい?
・そのあとソフィは1人になりたいと一緒に帰るのを嫌がり、大学生たちと一緒になって過ごしていたけど、夜中に帰ると部屋は鍵が閉まっていて入れない。この間、カラムは深夜の海岸をうろついて、だからソフィを心配して探しているのかと思ったら海に入って行ってしまって、なかなか戻って来ない。これは入水自殺か? いっぽうソフィは、ホテルのどこかから下を見ると、誰かがキスしている。誰だかは分からない。男同士にも見えたけど、カラムの様には見えなかった。ただのリゾートの風景な感じ。なあと、でも部屋に入れないのでフロントのベンチで寝てしまって。心配したスタッフが鍵をくれて(なぜもっと早く鍵をくれと言わなかったんだろう?)、部屋に入るとカラムが大きい方のベッド(これはソフィのベッドになっていた)に素っ裸でうつ伏せになって寝ていて。なんだ。生きてたのか。で、このときだったか翌日だったか、カラムは肩に少し怪我をしている様子。原因が何かは分からない。
・↑の場面もそうだけど、ときどき不安をかき立てる様な音楽がながれて。もしかしてソフィは大学生たちにいたずらでもされるのか? と心配になるけど、全編を通してそんなことにはならないのだった。
・この前後だったか、カラムはベランダの手すりの上に乗っている。飛び降りようとしている様には見えなかった。
・ツアーバスでどっかの遺跡にいったとき、ソフィは他の参加者に頼んで、合図とともに「誕生日おめでとう」をカラムに向けて唱和してもらう。カラムはうれしそうじゃなかった。
・カラムはビリヤードが好きで、ソフィにも教え込んでいて、そこらの大学生よりはよっぽど上手い。
・ソフィはゲームで出会う小太りな少年と知り合い、その後、目立たないプールに一緒に行ったとき、キスをする。多分初体験。そのことをカラムに話す。カラムは、これから大きくなっても色々話してくれよ、という。
<現在>
・長じたソフィは女性と暮らしているようで、同じベッドで寝ている。赤ん坊の泣き声が聞こえるのは、養子? 表情は暗い。会話もしない。そういえば、リゾートで撮った映像を、ベッドに座ってあのときのカメラで見てたようなシーンもあったかも。
・現在の場面は、少ししかなくて、あまりよく分からない。↑のあらすじにあるように、「20年後、カラムと同じ年齢になった」ということは、とくに描かれていない。また「映像のなかに大好きだった父の、当時は知らなかった一面を見出してゆく」というのも、つたわってこない。どの映像の中に、「知らなかった一面」が見えたんだ? さっぱり分からない。
・ラストシーンは空港で。帰ろうと見せかけて戻ったりを何度も繰り返すソフィ。ひとり、他に誰もいない通路にいるカラム。なにかを象徴しようとしているのかわからんけど、それじゃつたわらんよ。
というわけで、プールだったり、飲んだり食ったり、ふらふらしたり、ただのトルコでのリゾート風景がだらだらとつづくだけの100分。妙に退屈するところはなかったけれど、とくに何も伝わったこない100分でもあった。
当時のカラムは、何に悩んでいたのだ? 金は無さそうだったけど。手首の骨折、素っ裸でベッド、入水疑惑、肩の傷は気になる。けど、それが何を意味しているのか、わからんだろ、あれだけじゃ。結婚して子供までつくって、実はゲイだから別れたとか、そんなこと? でも、リゾートでは、別の男の影すら見えなかったぞ。そもそも子連れでそんなことするかいな。
これがアカデミー主演男優賞ノミネートなのか? 全米批評家協会賞では監督賞を受賞しているけど、謎だ。
テノール! 人生はハーモニー6/12ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/クロード・ジディ・ジュニオール脚本/ラファエル・ベノリエル、シリル・ドゥル、クロード・ジディ・ジュニオール
原題は“Tenor”。allcinemaのあらすじは「パリのスシ屋で出前のバイトをしながら趣味のラップを楽しむその日暮らしのフリーター青年アントワーヌ。ある日、オペラ座に出前を届けた際、レッスン生の失礼な態度に腹を立て、仕返し半分にオペラのまねごとをしてその場から立ち去る。すると、その歌声を聞いたオペラ教師のマリーは彼の才能に惚れ込み、自らバイト先を突き止めてアントワーヌを強引にスカウトしてしまう。最初は渋々始めたレッスンだったが、少しずつオペラへの興味が増していくアントワーヌ。ラップ仲間には内緒にしていたものの、いつしかマリーとのレッスンにも熱が入っていくのだったが…。」
Twitterへは「スシ屋のデリバリーやってるラッパー青年(移民系?)がオペラ座の教師に美声を見出され…な下層階級成り上がり物語。壁となるのは家族、はよくある感じ。教師のおばさんがとても魅力的だった。ところで監督は、日本好き?」
ビンボーだけど一芸に秀でてるおかげで見出され、新たな世界での活躍を始める…。定番のサクセスストーリーで、しかも、分かりやすいので感情移入しやすい。のではあるけれど、細かなところの辻褄が曖昧だったり、ほったらかしになっていたり、「なるほど」がイマイチなところがあるので、最後までスッキリ、という訳にはいかず、がちょっと残念な感じだった。あとは、アントワーヌが、なぜオペラに関心を抱けたのか、があまり描かれていないので、彼の高揚感を共有しにくいというのもあったな。
あと、フランス人ならアントワーヌの出自が分かるのかも知れないけど、日本人の我々には分かりにくい、というのもある。顔立ちは中東かアルジェリアか、いやフツーにフランス白人なのか、なんていうところが分からなかった。母親とはスマホの画像でやりとりしてたけど、母親はどこにいるのか? フランス国内の田舎? 海外? アントワーヌは出身地を言っていたけど、それがフランス国内なのかどうか、分からんし。両親は移民でアントワーヌは二世だったりするのか? とかも、はっきりしてもらいたかったかな。仲間がケバブ食ってたけど、トルコとか? イラン、イラク? なんだけど、イララム教な雰囲気はみえなかったし。
乱暴な兄がいて、ストリートファイトで稼いでいる。兄はアントワーヌにまともな人生を歩ませたいと思っているのか、会計の専門学校の様なところに通わせている。そこに通いつつ、夜な夜なラッパーとして活躍。住んでいる地域で抗争があるらしく、昔は暴力で、だったけど、いまはラップで片をつける、な感じらしい。兄とすれば、弟のために、と思っていたら、いつのまにか会計の学校はサボってて、オペラの学校へ。俺たちは下層階級なのに、上流社会のお遊びに心を売ったのか、な感じだったのかもしれない。それを無知といって退けていいものなのか。よく分からんけど、足を引っぱるのは身内だった、というのはよくある話かな。でも、他の要素として、お金がないから学べないでもなく、アントワーヌの才能に嫉妬するお金持ちの生徒の嫌がらせもないので、克服、という面からみると少し物足りない気もする。
アントワーヌは気が弱いのか、外的要因のせいですぐに力が出せなくなってしまう。兄がストリートファイトで逮捕されたりすると、とたんに声が出せなくなってしまったりする。あのあたりは、もうちょい堂々としろ、と言いたくなっちゃうよな。でまあ、結局、家族を棄ててもオペラ、という心に達するんだけど、原因はラップバトルのとき、相手方に「オペラなんぞ習ってやがって」といわれたこと。これによって仲間や、ムショ帰りの兄にも知られてしまい、愕然。ではあるんだけど、なぜそれで愕然とするのか分からんのだよ。だって、そのすぐ後には「俺にはオペラしかない」と決意できるのだから。だったら、コソコソ嘘をついてやってないで、会計学より家族よりオペラが好き、と、さっさと告白しちゃえばいいだろ。つまりは、兄に対する負い目、大きくいえば、家族をすてることへの申し訳なさがあったってことだよな。なんか、小さすぎないか? ちょっと冒険心があるなら、さっさと家族の絆なんて捨てられるだろうに。それができないというのは、やっぱりイスラム社会と関係しているのか? と思ってしまったりする。
ラストなんか、もっといい加減で。アントワーヌの幼なじみの女の子が、オーディションの知らせの手紙を見つけ、それを仲間や兄に知らせると、これまで「オペラなんて」と言ってた連中が「アントワーヌがんばれ」な感じで結集し、みなでオーディション会場へ集結。一般人は入れないのでは? という懸念なんかどーでもいい感じで会場に闖入し、アントワーヌが歌い終わると拍手と歓声! で、終わるんだけど、あれあれ、というラストだよな。あんなんでわだかまりが一瞬にして消えちゃうのか? いい加減すぎだよな。
・スシ屋の店長がデリバリーでオペラ座に来てたのはなんでなの? 学生がまたスシデリバリーを頼んだからか? まさか教師のマリーばはないよな。彼女は「スシは日本でしか食べない」といっていたから。
・オペラ座で、宅配の兄ちゃんがアントワーヌに気づいたけど、あれはピカソ地区の誰か、なのか?
・ラップバトルで、オペラを習ってることを曝露され、相手を殴って兄に罵倒された後、アントワーヌはジョセフィーヌの家を訪問。だけど中に入らず、なのは家の中で乱痴気パーティをしてる風だったからか? 学友に「ジョセフィーヌに翻弄されてるな」というようなことをいわれてたけど、もとからジョセフィーヌは軽い女で、アントワーヌにキスしたのも本心というより、お遊びな感じだった、ってことか。
・あの、ちょっと嫌みな学友が、後半ではなぜかアントワーヌに優しいのが、なんか変。貧乏人でも能力は認める的なやつなのかね。
・幼なじみの彼女は、アントワーヌに好意を抱いていたんだろうな。アントワーヌがジョセフィーヌといるところを見て、以来、彼を避ける様になってたから。でも、最後の方でジョセフィーヌは尻軽と分かり、アントワーヌも彼女を忘れたあとで、幼なじみはアントワーヌのオーディションの手紙を見つける。それを見て、みんなに、「行こうぜ」となるんだけど、この段階で幼なじみは、アントワーヌがジョセフィーヌへの関心を失ったことを知らんわけで。もやもやは払拭できてないと思うんだが。
・オペラ教師のマリーは、ガンか何かなのか? オペラ学校の上の男性は、マリーに「ソウルに行け」と言っていたけど、もしかして「ソウル」は、病院をあらわす符牒だったのかね。たまたま来ていた韓国人の一団は、それを誤魔化すための演出?
・やたら日本趣味がたくさん登場する。のデリバリー寿司、マリーは「スシを食べるなら日本」、マリーがアントワーヌに最初に聞かせるオペラは蝶々夫人。アントワーヌの兄が、ムショではなく日本に旅行に行ってると嘘をつき、兄は富士山や金閣寺の写真の前で母親とテレビ電話。仲間の一人が好きなのは、カニかま。兄はストリートファイトしてるけど、あれもゲームからか?
・家にオペラステージがあるジョセフィーヌ、大金を寄付してる男の学友…。オペラ座の学生は金持ちばかりなのはなんでなの? 映画的な嘘か?
・アントワーヌがジョセフィーヌの家に行ったときのことだけど。アントワーヌが椅子に座ったら、ジョセフィーヌの義母に「そこは人間が座る椅子」と、どくように言われたのはどういう意味なんだろう?
・オペラ教師のマリーが、とてもいい。私生活ではロックな感じだし、教え方も丁寧。まあ、映画だからあんなやさしいんだろうけど。いくら才能があっても、お金がなきゃオペラなんて学べないのかもな。あ、それと、会計学校の先生もいいキャラしてる。
はざまに生きる、春6/13テアトル新宿監督/葛里華脚本/葛里華
allcinemaのあらすじは「出版社で働く小向春は、青い絵しか描かないことで有名な画家の屋内透と出会う。彼には発達障害の特性があり、周囲に合わせることができず、思ったことを何でも口にしてしまう嘘がつけない青年だった。そんな屋内に戸惑いながらも惹かれていく春だったが…。」
Twitterへは「アスペルガーを美化する話かと思ったら、アスペルガー青年に入れ込みすぎた女性編集者(同棲相手あり)が深みに入りかけて空回り、な話だった。同棲相手がお気の毒。映画的にはピンずれがあったり、間尺に合わないことがあったり、いまいちだな。」
発達障害(アスペルガー)の絵描き=屋内が主人公なので、そうした障害に対する理解を深める様な、いわゆる良心的な(つまらない)映画かな、と思いながら見始めたんだが。どうも様相が違う。屋内の絵を雑誌で取り上げることになり、担当となった女性編集者小向春が個人的に好意を抱くようになる。けれども屋内はそれに気づかない。なのでみずから関係を迫るような行為を実施し始めるという、妙な映画だった。というのも小向には同棲相手がいるんだが、その彼には取材と称して屋内に接近し、取材とは関係なく一方的なラブを発信しつづけるからで、これはただの発情したバカ女の話じゃないか、なのだ。
アスペルガーがどういう症状なのか、は最初の方で説明ゼリフで説明される。あとは具体的に屋内がみせてくれるので、それは分かる。けれども、一般的に言う様な偏見や生きにくさなどについては、ほとんど触れない。まず、屋内は絵が売れて半ば自律できているからかもしれない。とは思うが、屋内の家族、とくにこういう場合に苦労してそうな母親は登場しない。屋内は東京西郊の自然に恵まれている地で一軒家に住み(自宅か賃貸か知らんが)、障害者手帳はもっているけれど一人で生活できている。これは恵まれている方なのか? それとも、よくあることなのか、それは分からない。
屋内の、社会不適応な部分については、これまたほとんど描かれない。せいぜい、団地か何かの壁に勝手に絵を描いて管理者に文句を言われる程度だ。この部分を見た限りでは、アスペルガーは、自分のしたいことを止められず、その場合はモラルや犯罪加害なども無視して実行するように感じられたけれど、この場面以外ではそんなことはない様子。まあ、1人で暮らせるのかな、と、見えてしまう。
屋内は陽気だ。マイペースで、したいことをする。では他人の嫌がることもしてしまうのかというと、小向春に対して、配慮をしたりする。春が、「自分の左側にいてもらえると安心する」というと、ずっとそれを守りつづける。じゃあ、相手の心も少しは読めるのではないか。
アスペルガーについては、詳しくは知らない。屋内は、グレーゾーンの障害ではなく、障害者手帳があるぐらいなんだから、問題あり、だと思うんだけれど、そんなに問題ありにも見えない。まあ、見ていても、よく分からない。かといって、偏見を助長するほどではないのかもね。
そういう屋内に、なぜか春は取材を通じて好意を抱き始め、仕事そっちのけ、同棲相手無視でどっぷりハマリ、「ちょっと来ませんか」と言われると都心からタクシーを飛ばして屋内の所に行ったり、デートしたりし始める。とはいえ、屋内は春に好意以上の者は感じておらず、ただの友達ぐらいにしか思っていない。女性に対して性的好奇心をもたないのはアスペルガーの特徴なのか? そんなことはないと思うんだが、よく分からない。
「屋内さんのことを、変わってる、というの止めませんか?」と編集の同僚に言うぐらいはいい。けれど、取材と関係なく屋内のもとにはせ参じで月蝕をみたり、水族館にでかけたり、屋内の家でホラー映画大会と称してひと晩過ごしたり、はどういう理由=魂胆なんだろう。長い階段を登るときは「私、体力ないの。手をつないで」と甘えたりする。ホラー映画のときは屋内の横に寝転がり、身体を触れ、顎を屋内の首に乗っけてうっとり。屋内はうるさがりもしないけど、なにも感じていない様子。「これで何もないわけないわ」などと思うってことは、やりたい、と男を誘っているだけではないか。同棲相手がいて、べつに気まずい関係になっているわけでもなさそうなのに、障害者に惹かれるというのは変態的な性癖の持ち主としか思えんぞ。なんだ、やさしく可愛げな顔して、大股開きかよ。
だけど屋内は春には興味を示さず、エキセントリックな女性カメラマンと意気投合し、つきあつてるとかどうとかとか。真偽を確かめに写真展に行くと、カメラマンは「透ちゃん」などと親しげに話していて、屋内の写真も展示してある。落ち込む春。バカじゃねえの。ってか、この映画はなんなんだ! てな感じになってくる。
約束だけは律儀に守る屋内は、桜の季節に春に連絡を入れ、一緒に花見をし、なっていた小さなサクランボを春に渡す…。てな感じで映画は終わるんだけど、要は、アスペルガーの青年に一方的に恋した女がエロ仕掛けで迫るも無視される、という話だった。なんだかなあ。ところで、花見をしてサクランボを食べる、なんて約束してたっけ?
・このキャッチはダメ、レイアウトがダメ、とケチつけまくりの編集長が、違和感ありすぎ。あんな風にケチつけたって、いい案なんてでてこやしない。まあ、編集現場を知らない監督なんだろう。
・その編集長が屋内のインタビューに春を同行させるのは、どういうこと? この段階から編集長は屋内に着目していた? でも、雑誌で屋内を特集することになったのは、それからしばらくしてから、春と同僚が企画を編集長に提出してから、なんだよな。話がギクシャクしてるだろ。
・屋内の絵は画面に映るんだけど、どってことない絵で、評判になってるとはとても思えない。堂々と見せてしまったのは、どうかとおもうね。
・『はざまに生きる、春』とは、いいのか、これで。はざまに生きているのは、屋内青年なのではなかったか?
・屋内の最初の取材は、編集長と一緒に府中郷土の森で、なのか? そもそも、なぜここで屋内の取材をするのか? 意味不明。屋内は、府中には初めて来た、というようなことを言っていた。わざわざ府中で取材する理由が分からない。で、あの部屋はどこなんだ? 府中郷土の森の会議室かなんか? インタビューしてた女性は誰だ? 府中郷土の森の学芸員? その後も編集部に出入りしてたけど、ただの外部のライター? インタビュー中に男性(どこの所属の人間なんだ?)が、屋内と編集長、インタビュアーの女性にペット飲料を渡す。このとき春は後ろに立っていて、飲料をもらえない。監督は、春はまだそういう立場、といいたいのだろうけど、現実的ではない。一緒に席に着くのがフツーだし、飲料も提供されるはずだ。
・屋内が春にLINEで「人恋しい」と送ってきた。春は、これは、と思うけど、意味を聞いたら、絵が売れないときの気持ちだという。よく分からない。
・春が学生時代につくった映画を見て「気持ちは分かるけど、すべてにいまいち」的な感想を言うんだが、春は落ち込んだ表情で、「刺さった」と応える。刺さる、というのは、感動したようなときに使うんじゃないのか?
・屋内は「月蝕だから見に来い」とか、建物の壁に絵を手で描いて「すいぐに来い」と電話してきたりする。都心から西郊へ行くまでの間に、月蝕なんて終わっちゃうだろ。まして建物の壁に当たる光なんて、分単位でどんどん移動していく。と思うと、アホみたいな脚本だな、と思ってしまう。
・屋内と春が行くのはしながわ水族館か。と思ったら海岸で出てきて、八景島か? でも、クレジットには、しながわ水族館とあった。このデートで最後に並んで座って背中が見えながら話す場面があるんだけど、2人の横にある紙袋はなんなんだ? まるで葬儀か法事のあとみたい。
・屋内は、あのエキセントリックなカメラマンとつき合う様になったのか? あのカメラマンも、アスペルガーじゃないのか? てな感じだったけど。
・「幸せ」とは、どういう状態かを辞書で調べる屋内。そこまで感覚が分からないのか? 
・「人を描いたことがない、というので互いに相手を撮り合うことにしよう、とでかけた水族館デート。で、雑誌の特集のために新作を描く、といって、編集部に送ってきたのは、いつもと同じブルーの風景。自分の顔でも描いてあるかと期待した春の失望…。まあ、そういう期待を、屋内は読めない、ということか。それにしても、色校正が出てる頃にその新作を送ってくるって。間に合うのかね。
・屋内は、送り返されたのだろう絵に加筆して、打ち上げに持って来た。絵には青の絵の上にいろんな色の点が散りばめられていて、「春さんが好きな色が分からなかったから、すべての色をつかった」と。で、下の方に春らしき女性の後ろ姿が黒い輪郭で描かれている。屋内にとって春は、色のない人物ということかね。外に連れだし「今夜はスーパームーンの月蝕だ。けど、都会では見えない」というんだけど、最初の方で見たのは火星の月蝕だっけか? なんか、こんがらがる。
・春の顔にピントを合わせていながら後ピンになって、また顔にピントが合うシーンがあって。それは、ないだろ、と思った。やり直すだろ、フツー。
・ホラー映画大会で見ていたのは『呪鈍』という映画で、屋内は何度も「駄作」といってた。実際にある自主製作映画らしい。葛里華監督の知り合いの監督作品なのか?
・『Maybe』というのは、実際にある雑誌なのか。タイアップでもしてるのか?
逃げきれた夢6/15新宿武蔵野館1監督/二ノ宮隆太郎脚本/二ノ宮隆太郎
公式HPのあらすじは「北九州で定時制高校の教頭を務める末永周平(光石研)。ある日、元教え子の平賀南(吉本実憂)が働く定食屋で、周平はお会計を「忘れて」しまう。記憶が薄れていく症状に見舞われ、これまでのように生きられなくなってしまったようだ。待てよ、「これまで」って、そんなに素晴らしい日々だったか? 妻の彰子(坂井真紀)との仲は冷え切り、一人娘の由真(工藤遥)は、父親よりスマホの方が楽しそうだ。旧友の石田啓司(松重豊)との時間も、ちっとも大切にしていない。新たな「これから」に踏み出すため、「これまで」の人間関係を見つめ直そうとする周平だが──。」
Twitterへは「バイプレーヤー風なのになぜか主演作の多い光石研だけど、今回は監督に恵まれなかった感じ。↓リンク先あらすじの様なことはほとんど表現されていない。思いに映像表現がついていってない。松重豊、坂井真紀、他の女性たちの方が存在感がある。」
↑のHPのあらすじの様なことは、映画からはまったく読み取れない。そもそも会計を忘れるぐらいのことは誰でもあるだろう。もちろん物忘れが多くなって支障きたす、なら別だけど。でも周平は、学校でもとくに問題なく、友人と話をしても記憶は問題なさそう。なので、↑の様なことは映画からは読み取れない。
人間関係や人生を振り返る、ようなこともあらすじにはある。しかし、とくに改めて人間関係を見つめなおす様なことはしてないだろ。映画の中では。妻と冷え切り、娘とも疎遠なんて、どこの家でもあることだ。たとえ、見つめなおすにしたって、どうしようというのだ? もっといい人生にできたかも、なんて思ってるのか? でも、旧友からは「お前は大学行って公務員になって、立派だよ」といわれるほどで、人から見たら羨まれる人生のはず。校長になれないのが残念、といっていたけど、教頭になったんだから、いい方だろ。多くの生徒とふれあい、支えたりしてきたんだろ。どこがどう不満なんだよ。しかも、「学校を辞める」と妻と娘にいったとき、娘から「何かしたいことがあるのか?」といわれ、絶句する。かねがね思っていた、したいこと、なんてないのだよ。家族や旧友との時間を大切にしたい、だなんて、嘘くさすぎるだろ。なんの説得力もない。まあ、そもそも、映像には、そういったことがほとんど描かれていないから、広報がなんとか物語をつくりあげているだけ、の可能性は大きいけど。
↑のあらすじで、これまで、を見つめなおし、これからを踏み出す、なことが書かれているけど。周平がぶち当たったのは、記憶の低下、あるいは、死なのではないか。であるなら、これから、は、これまで、とは別物になるんじゃないのか。残された人生をどう生きるか、というような風に。でも、全編を通して、周平は自分の病気や死と向き合ってるようには見えないのだよね。想像しろって? アホか。
監督はもしかしたら、説明的なのが嫌い、分かりやすいのが嫌、観客の想像力に任せる部分を残したい、的な考えをもっているのかも知れない。しかし、あの映像だけでは、ほとんど何もつたわってこないよ。要は、どこまで、なにを描いて、何を省けば、いいか、の勘所が分かってないんだと思う。まあ、手身近にいうと、独りよがりで下手くそ=経験不足、なんだと思う。周囲にいるプロデューサーとか仲間が、そこを補ってやらないといけないはずなんだけど、それが出来ていないから、無残な映画に仕上がってしまっている。
始まりは、窓外の風景
これ、ときどきインサートされるこれはなんなんだ? 意味不明。
介護施設の父を訪問する周平
認知症で反応がない父親がいる、という以上の何もない。
犬の散歩
このあたりから、これは周平の1日の行動を描いているのか、数日の様子を描いているのか分からなくなり、見ていてイライラし始めた。
娘と会話
なれなれしく話しかけ、気持ち悪がられる。娘の勤め先の香水(?)を加齢臭対策で欲しいとか、彼氏がいるなら教えろとか。アホかと思う。
定食屋(ここで支払いを忘れる)
店員娘が「先生」と呼びかけるので、なんだ? と。あとから、元の恩師と分かるけど、説明なさすぎ。で、帰るとき払い忘れ、追いかけてきた店員娘に「払ってない」といわれ、1000円出しかけるけど、渡さずそのまま帰ってしまうのはなんで? このとき、頭に異常が発生していた? でも、この場面以外、周平の頭はフツーだったぞ。(次に店に来たときは、前の分も含めて払っていたし。でね、このとき周平は病院に行ってなかったのか? すでに病院に行っていたのか? がわからない。あとから病院で診断される場面がでてくるけど、あれなんか検査入院が必要なんじゃないのか? あるいは、頭部MRIのあとに検査入院して、もしかして生検してと大事になるんじゃないのか? でもそんなことにはならない。↑のあらすじを読むと、払い忘れがきっかけ、とあるから、もしかして自分も父親の様にボケたのか? と若年痴呆症を疑って検査して、それで何か分かった、ということなのか? いやでも、↑のあらすじで、へー、そんな話の流れだったの? と思うぐらいで、映画だけを見ても、そんなこと分からんぞ)
学校
でやっと職業が教頭と分かったけど、時制がぐちゃぐちゃだな、と思った。校内でも、教師と会話、吸い殻拾い、帰ると生徒挨拶、教職員との朝礼、食堂? の後だっけか、電話で「なんとかていじのなになにですが」と、よく聞き取れない声で話していて。ああ、定時制なのか、とやっと分かった。あれ、聞き取れなかったら、ずっと「?」のままだったかも。
娘に気持ち悪く話しかけたと思ったら、今度は妻にタッチして「やめて」と言われたりするのは、病院の前だったか後だったか。妻との会話で、かつて妻が浮気して、いまだに後を引いている? もしかして、いまもその浮気相手とつきあってる? みたいなことを言っていて、なんだこの関係、と思ったりした。女房に浮気された亭主なら、もっと毅然としろといいたい。「出ていけ!」とかね。
この後ぐらいかな。病院で医師に「5年で40%ですか」といっている。医師の背後に頭部MRI画像かな。ってことは脳腫瘍? でも落ち込んでる感じはなく、医師に子供はいるかと尋ね、「勉強しろっていってもダメ」とか話したりする。ショックから逃げようとしてなのか? ところで5年生存率が40%? でもそれは手術してのこと? 手術できないとしたら重篤だけど、だったら余命数年ではないのか。では放射線治療してのことか? なんか中途半端に曖昧にしてるのがイラだつ。
地元の旧友を訪ねたのは病院の前だったか後だったか。今晩飲もう、といいつつ、肝心なことは話さず、逆に同級生に「なにか言いたいことがあるんだろ。言えよ。でも言え、っていっても言わないんだよお前は。自分勝手なんだよ」と見透かされてもヘラヘラしてる。脳腫瘍だ、と言えばいいのに、なぜ言えない? ほのめかして、それで満足なのか? と思う。ホント、自分勝手なオヤジだ、周平は。こういうやつ嫌い。
で、突然、家で「俺、学校を辞める」と言ったら、妻には「辞めたいけど、といわれたら考えるけど、辞めるって決めたんでしょ。ローンも終わってるし、好きにすれば」と言われるし、娘には「辞めてしたいことあるの?」といわれ、したいことが何も浮かばない周平。アホかと思う。そんなやつおらんだろ。なに。死を目前にして何も考えられない? そんなやつが毎日学校に行ったり、人と会話したりできんだろ。
死の可能性を宣言されたから、ひとり寂しくなって娘や妻にすり寄ってるのか? だったらはっきり病気のことを言えばいいのに、そうはしない。何を考えているのか、よく分からない。だいたい、定年手前で辞めて、退職金が2000万円ぐらい? あと、年金が、調べたら15万/月とあったけど、それで、自分は死ぬからいいとして、妻は大丈夫なのか? それとも、浮気妻にはお金はやらんとか?
店員娘の「払い忘れの1000円は、私が出しといた」に、お返ししなくちゃ、といっていた周平。なので豪勢に食事でも誘うのかと思ったら、母校や駅前広場なんかの自分の思い出の場所を引きずり回し、入ったのは喫茶店。周平に呆れるより、店員娘がよく途中で帰らなかったな、なんだが。ここで店員娘が「先生、なんとかかんとかだったらどうしてた?」と、よく聞き取れないセリフで、周平は「懲戒免職で退職金はなかったろうな」と応える。さらに、「その退職金をくれ」というんだけど、え? この2人、肉体関係でもあったのか? と。聞き取れないから、よけいに気になった。さらに、嫌われる教師の3要素は「(1つめは忘れた)好かれたいと思ってる、授業がつまらない」とかいい、自分はあてはまってる、とかヘラヘラ笑う。「好きなことをやればいい」と周平がいった後、店員娘は、もうすぐ店を辞めて風俗になる、ようなことを言う。「先生、私を見る目が変わったでしょ。もし娘さんが私と同じになっても、好きなことだから認める?」的なことをいわれて返す言葉がない周平。情けない。店員娘は、「先生は私に、正直なのがいい、っていったけど、だから正直に言うけど、先生の思い出の場所をめぐってもおもしろくもなんともない」というんだけど、そんなの当たり前だろ。よくまあ周平につきあってるよ。で、帰っていく店員娘を追って店を出て、声をかけて、それで映画はオシマイだったかな。尻切れもいいところだ。
・最近行ってないけど、おかみと馴染みの店に行くと店員が台湾人で。彼氏はいるのか、何をしている人か、とかズケズケ聞くんだが。失礼きわまりない。彼氏が弁護士と分かると、旧友に「お前の負けだな」という。冗談だろうけど、周平は台湾人と旧友をくっつけようとしていたのか? 差別だろ。そもそも飲み屋で働いてる台湾人の彼氏が弁護士って、なんなんだよ。それに台湾になんの意味があるのか?
・校舎の裏で煙草吸ってる女子生徒を追い出し、吸い殻を拾う周平。店員娘には、「吸い殻を拾ってたから教頭になれた」なんていってたけど、意味不明だ。
・授業に出ない女子生徒も登場してたけど、なーんも機能してないだろ。たんに、いろいろと生徒に声をかけまくって、でも叱ったりしない教頭、を見せているだけだ。
・タイトルの『逃げきれた夢』の意味が分からない。なんなの? これも監督のひとりよがりかね。
・光石研は演技の人というより、設定=で生きるタイプな人だと思う。でも、この映画は設定も話も中途半端すぎて、彼が活かされていない。そういえば、施設にいる周平の父親役は、実際の光石研の実父らしいけど、そうしたからってとくに意味もないことだろ。監督の自己満足。
・終映後、5、6人の観客が、壁に貼ってある雑誌や新聞の評を読んでいた。たぶん、なんなんだ? この映画は、と思って、じゃなかろうか。どーせ「分かりやすい映画にしたくない」とか屁理屈こねるんだろ。でも、言わなくてもいい部分がどこまでか、どこまで言わなくてもつたわるか、ここを観客に想像させる、といったところの勘所を監督は分かってないと思う。
波紋6/19シネマカリテ2監督/荻上直子脚本/荻上直子
allcinemaのあらすじは「新興宗教を心の拠り所に、一人で穏やかに暮らす主婦の須藤依子。ある日、長らく失踪したままだった夫の修が突然帰ってきた。面倒ごとを依子に押し付けて逃げ出したにもかかわらず、がんになって治療に高額な費用が必要とすがってくる夫にいら立ちを募らせる依子。そんな中、息子の拓哉が障害のある女性を連れて帰省し、彼女と結婚すると報告してきた。次々と降りかかる苦難を前に、ますます宗教にすがっていく依子だったが…。」
Twitterへは「放射能、人間蒸発、新興宗教、高い水、がん、唖者…。と、広げた風呂敷をどう収拾するのかと思ったら、なんとほったらかし。江本明、安藤玉恵、江口のりこ、平岩紙も端役でちっとも機能していない。なんだかなぁ。ムロツヨシはどこにいたんだ気がつかず。」
最初から最後まで、ずっとピントがずれたまま話が進んでいく様な感じかな。なにをいおうとしているのか、よく分からない、というのが感想だ。
公式HPに監督の言葉として「我が国では男性中心の社会がいまだに続いている。 多くの家庭では依然として夫は外に働きに出て、妻は家庭を守るという家父長制の伝統を引き継いでいる。 主人公は義父の介護をしているが、彼女にとっては心から出たものではなく、世間体を気にしての義務であったと思う。日本では今なお女は良き妻、良き母でいればいい、という同調圧力は根強く顕在し、女たちを縛っている。 果たして、女たちはこのまま黙っていればいいのだろうか? 突然訪れた夫の失踪。主人公は自分で問題を解決するのではなく、現実逃避の道を選ぶ。新興宗教へ救いを求め、のめり込む彼女の姿は、日本女性の生きづらさを象徴する。(略)荒れ果てた心を鎮めるために、枯山水の庭園を整える毎日を送っていた彼女だが、ついにはそんな自分を嘲笑し、大切な庭を崩していく。 自分が思い描く人生からかけ離れていく中、さまざまな体験を通して周りの人々と関わり、そして夫の死によって、抑圧してきた自分自身から解放される。 リセットされた彼女の人生は、自由へと目覚めていく。私は、この国で女であるということが、息苦しくてたまらない。それでも、そんな現状をなんとかしようともが き、映画を作る。たくさんのブラックユーモアを込めて。」と書いてあるんだけど、映画を振り返ってみて、ジェンダーギャップに対する怒りは感じなかったし、日本女性の生きづらさも見えなかったぞ。夫の死で抑圧してきた自分が解放されるようにも思えなかった。まとまり(一本の串のようなもの)がなく、散漫なだけだと思う。
荻上直子の映画は、これまで、ほわんとしたユーモアに包まれている印象があったけど、今回はあまりない。ときどきクスリとはするけど、いろいろズレまくってる感じで、いまいち落ち着きがない様子。
冒頭は、東日本大震災のニュースで、放射能がどうたら。そこに夫の修が会社から戻り、テレビを見る。どっちが話したのか忘れたけど、沖縄に逃げた人もいるらしい、とかつぶやく。思い出しすのは、子供を連れて沖縄に逃げた俵万智のことだけど、それはまあいい。その後、庭で水まきしてた修が突然失踪。で、正確には分からないけど、受験前だった息子が就職してるらしいので、10年後ぐらいか、に突然舞い戻ってきて。「俺はガンだ。最後は自宅で過ごしたい」といってくる、という流れである。
失踪の原因は、よく分からない。察するに、放射能が怖くて逃げ出した、けどガンになってしまったトンマな亭主、ということか。依子に「なにしてたの」とは聞かれたけど、どこにいたかは聞かれていなかった。農業をしていた、とかいってたっけか。しかし、着の身着のままで失踪し、どうやって暮らせるのかね。そっちの方がドラマ的には面白そうだな。
で、依子はなぜか新興宗教にハマっていて。家の前庭は枯山水にしている。枯山水が宗教と関係あるのかしらんけど、たんなる趣味なのか。しかし、夫という収入源を失い、どうやって生活できたのか、が謎である。依子はスーパーのレジのパートをしているけれど、あんなもの、月に10万か15万かだろ。それで生活費、固定資産税、息子の学費、石庭をつくる費用、宗教のお布施や霊験あらたかな水代、夫の治療費なんかをどうやって捻出したのか。義父(修の父親)は大学教授で、「遺産があるはず」と修は言ってたけど大学の先生は給料そんな高くない。郊外に広い庭付き一戸建てを買って、ローンは済んでいるけど金融資産はわずか、な感じじゃなかろうか。それを使って息子を大学に行かせた? が関の山かな。と、考えると映画にはリアリティがなさすぎで、説得力はほとんどない。
さい、居座る修に、ストレスを感じつつ、でもなにも対抗手段を講じないのも不可思議。嫌なら追い出せばいいのに。修は「ガンの治療台をだせ。家の名義は俺だ。いざとなったら家を売る」的なことをいうけれど、名義が夫でも離婚の場合はすべて夫ではないはず。夫の失踪や子供の養育費を考えたら、大半は妻のもの、になるんじゃないのかね。
さて、宗教の集まりには必ず参加し、霊水も大量に常備。上の人に効果の高い水を「あなただけに」と勧められるとひょいひょい購入。ボランティアでホームレスの炊き出しにも参加する依子だけど、依子の収入源のことを考えると嘘くさすぎて見ていられない。つらいこと、哀しいことがあると新興宗教はそこにつけ込み、全財産吸い取る的な話しか聞かないので、そうであれば依子は家を失い、安アパートで貧困生活してなきゃおかしいだろ。
息子は、九州だったか、で就職したんだよな。で、結婚相手をつれて戻ってくるんだが、依子は「事前に何も連絡なくむ突然…」と動揺する。でも、動揺は、連れてきた相手が唖者だったことで、パートの同僚オバサンに「五体満足に生んでやったのに、あんな…」なんて言っている。うわ。差別発言する女ね。誰しもが思ってはいるけど口に出さないことをしゃべる女、という設定なのかもしれない。では、その態度に、女性の生きづらさとかジェンダーギャップはどう関係しているのだ? 監督さん? 修の方はあまり差別的ではないように見えるんだけど、この違いはなんなんだ? 息子に、彼女を東京現物に連れて行ってくれといわれ、依子は息子の彼女をスカイツリーに連れて行く。よく覚えてないんだけど、そこでもギクシャクあったよな。それで、言い返されていたような記憶がある。あれは、なにを表現しようとしていたのだろう。
ところで、息子の彼女は唖者なんだけど、唇で読めるという設定なのか、手話や筆談なしにコミュニケーションできるんだよね。屁をしても聞こえないから、とか馬鹿臭い冗談はあるんだけど。でも、あんなに読唇術ができる、という設定は、なんか不自然すぎな気がする。映画的なゴリ押しだろ。
でまあ、日に日に弱る修に、新薬の費用もだし、さらに特別の水まで購入してしまう依子というのは、なんなの? 「だしません。死んでください」とは言えないのかね。自分たちを捨てて出ていった夫を助けるというのは、依子のやさしさなのか、何らかの圧力や束縛なのか。宗教の教義に反するとか? いまでは立場的に強者にあるんだから、積年の恨みを晴らせばいいじゃないか、としか思えない。これと、女の生きづらさ、ジェンダーギャップとどう関係があるんだ? ないだろ。
夫・修は呆気なく死んでしまう。ほら。どうせ死ぬんだから、治療費も特別な水もムダになっただけじゃないか。運び出す棺桶がひっくり返ったりするのは、なんの意味があるのか。たんに、ちょっと笑いを取るためだけ、なのかね。
で、その後、にわかの日照り雨で、でも、依子は喪服に赤い傘で、なんと庭でフラメンコを踊り出す。なぜフラメンコか。息子が言ってたけど、昔ならってたことがある、らしい。それがラストで突然、どういう関係があるんだ? なんでフラメンコが「抑圧からの解放」なんだよ。バカか。
というわけで、いろんな要素は散りばめられているけど、どれも有機的に機能しておらず、放り出されているような印象しか持てなかった。女の生きづらさとかジェンダーギャップなんて、どこにも感じなかったけどね。
・義父も修も、死の床で依子の胸を触ろうとするというギャグは、浮いている。義父には、嫁に対するすけべ心はあったとしても、修にはないだろ。だって60の古女房だろ。触りたいか?
・隣家の猫が、よく枯山水にやってくるらしい。それで隣家の女にいうんだけど、「うちの猫ではない」と言下に否定されてしまう。のだけれど、あのエピソードは、どういう意味があるんだ? 分からない。で、隣家の女が安藤玉恵なんだけど、ぜんぜん活かされていない。
・新興宗教の集まりの人数が、10人ぐらいで、いくら支部だとしても少なすぎないか? で、集まってくる仲間に江口のりこ、平岩紙なんかがいるんだけど、これまたもったいない使い方。だって、なにも機能してないんだもの。後から調べて分かったムロツヨシみたいに、カメオ的にでるなら分からんでもないけどね。
・江本明は、スーパーにやってくる「半額にしろ」ジジイなんだけど。まあ、現実にはあり得ないだろう。上司が対応し、問題があれば警察を呼ぶだろう。言い張っていれば通用するような話ではない。老害の代表みたいに登場させているけれど、意味不明だ。
・スーパーで同僚で、掃除のオバサンに木野花。これは出番も多くて、依子の話し相手になってる。で、彼女が病気で入院で、買ってる亀が心配だからと団地の部屋に行くと、なかはゴミ屋敷。なんかがきっかけ(東日本大震災で、家の中がぐちゃぐちゃ、だったかな?)で、それ以降、掃除する気がなくなった、とかいってたけど、契機となったのは何だったっけ? 忘れた。忘れるぐらい、どうでもいいエピソード。このオバサンの存在も、ほとんど機能してないよな。
・ときどき、人物の対話がCG世界みたいな白黒になる。ありゃなんなんだ? どういう意図があるのだ? 分からない。
・ときどき入る、リズムの拍手は、テンポをだすため? 他に何の意味があるのだ?
・「水は腐らない」 と依子が夫に言ってたけど、うそ、水だって不純物が混入していれば腐るよ。
・枯山水の波紋。あれ、ちゃんと描くには、石に梯子をかけないと、あそこまで描けないだろ。
青いカフタンの仕立て屋6/20ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/マリヤム・トゥザニ脚本/マリヤム・トゥザニ、ナビール・アユーシュ
フランス /モロッコ/ベルギー/デンマーク映画。原題は“Le bleu du caftan”。allcinemaのあらすじは「モロッコの古都サレで父から受け継いだ小さな仕立て屋を営むハリムと、職人気質の夫を接客担当として支える妻のミナ。やがてハリム1人では注文をさばききれず、2人は若い職人ユーセフを助手として雇う。真面目で筋のいいユーセフのおかげで仕事はうまく回り出すが、ハリムとユーセフの間に師弟の関係を超えた特別な感情を感じ取るミナ。そんな中、病気を抱え次第に体調が悪化していくミナだったが…。」
Twitterへは「イスラム社会での、アレを扱った映画だった。舞台はモロッコ。やっぱり犯罪になるのか。それにしても寛容な奥さん。ちょっと淡々と、長すぎる気はするけど。」
予告編をチラと見ただけで、ほぼ先入観なし。イスラム圏のどこかの映画、と思って見てた。でも、場所が分からない。イラン・イラクじゃない。トルコ? にしては顔立ちや雰囲気が違う。街中にユダヤの星印があったりする。どこだろ。見終えてから、モロッコ、と分かった。ふーん。
で、仕立屋と女房の話ではあるけど、ああ、そういう映画か、と割りと早くに分かる。それは、新入りのユーセフのちょっと、なよっとした雰囲気。店で着替えようとして上衣を脱いだユーセフに、妻ミナが「ここで着替えないで」と語気強くいったときは、その背中を必要以上にじっくり映すカメラ。そして、決定的なのは、亭主ハリムがサウナに行ったとき、彼の前に男が立ったときだな。このあと2人は個室に入ったんだっけか。そーか。ハリムはゲイ、というより、バイセクシャルなのか。で、そのことをミナは知っていて、彼女は亭主がユーセフに惹かれないよう「店で着替えないで」と言ったのか。
ミナは身体の具合が悪いらしい。どう悪いのか分からなかったけど、医者が来て「モルヒネを強くしろ」といったので、ガンか、とわかった。もう治療でどうなる感じではないらしい。ある夜、ミナの方からハリムに要求し、セックスしている様な場面がある。あれなどは、自分が弱り切ってしまう前に亭主と契りたいという思いと、もうひとつ、亭主をユーセフに取られたくない、という嫉妬の気持ちが相まってしたのかもしれない。
ミナはたまに亭主に甘え、めずらしく帰路の途中で店により、お茶を飲み、煙草も吸う。余命を感じつつ、したいことをする、という思いがあるのだろう。それを亭主は、微笑ましく受け止めている。
のちに、ミナがユーセフに話したんだっけか。ミナの方からプロポーズした、と。そして「もし結婚式を挙げていたら、こんなカフタンを着たかった」と、注文を受けて仕上がりつつあった青いカフタンを見て話す。これはラストへの伏線にもなっているのだけれど、ということは、駆け落ちの様な感じだったのかね。そういう時代があり、職人の亭主を支え、店を維持してきたわけだ。
でも、亭主は男色の欲求に逆らえない。サウナは発展場になっているのかな。個室があるのも、そういう潜在的な要求に応えるためなのかもしれない。とはいえ、モロッコでも同性愛は公に認められていない様だけど。
次第に身体の自由が効かなくなり、ときに痛みに呻吟する声が夜な夜なハリムの心に突き刺さる。着替えも自分でできなくなり、ハリムが手助けする。ここで、背中ではなく正面からのカメラが、ミナの左乳房が切除されているのを映す。イスラム圏の映画でおっぱいが出るのは珍しい。このあたりだったか、ミナは亭主に 「愛することを恐れないで」というのだが、これはもちろん、ハリムのユーセフに対しての愛を意味しているのだろうな。夫の性癖を知り、それを認める妻というのは、イスラム社会ではフツーあり得ない話だろう。心が広いのか、バイセクシャルな亭主も愛している、ということなのか。そういえば、この少し前の場面で、ミナが亭主とユーセフを「かび臭い」だったか言って、2人を風呂に行くよう進める場面があった。みれなんか、モロに2人の関係を認め、してきてもいいよ、と言ってる様なもんじゃないか。なんという妻のおおらかさ。そこまで亭主を愛しているのだね。あるいは、こんな自分を見捨てることなく介護してくれていることへの感謝なのか。
そうして、静かに息を引き取るミナ。町の女たちが死化粧をして、白い布に包むのだけれど、ハリムは女たちを追いだし、注文品である青いカフタンに着替えさせてしまう。本来の宗教的儀式に違反しているからだろうけど、葬儀に集まって来た人たちはもういなくなってしまっている。そして、ハリムとユーセフのふたりでミナの遺体の乗った輿をかついで町を行く。
昨今の様にLBGTが大っぴらに扱われている時代には、話の内容は、とくに驚く様な物ではない。イスラム社会の人には衝撃的な話、展開なんだろうけど。話はゆったりと進む。とくに事件は起きない。なので、多少、飽きる。122分あるようだけど、100分ぐらいにしてくれた方が、緊張感も維持できたんじゃないのかな。
イスラム社会でも同性愛はあるわけで。同性愛が罪になる社会では、生きにくさもなおさらだろう。しかし、それを許容する余地もあるのだよ、ということなのかも知れない。とはいっても、あくまでもドラマであって、ドキュメンタリーではないけどね。
ところで、二人の間に子供がいない。できなかったのか、つくらなかったのか。そのあたりは、少し気になったりする。結婚はしたけど、あまりセックスはしなかった、とかいうこともあるんだろうか、とか。いろいろ邪推できる余地もあったりする。
水は海に向かって流れる6/21109シネマズ木場シアター6監督/前田哲脚本/大島里美
allcinemaのあらすじは「高校進学を機に、親元を離れ叔父の家に居候することになった直達。ところが、駅に迎えにきた見知らぬ大人の女性、榊さんに案内されてやってきたのはまさかのシェアハウスだった。叔父の茂道は脱サラしてマンガ家となり、ここに住んでいた。そんなシェアハウスには叔父と榊さんに加え、女装の占い師、海外を放浪する大学教授といういずれも曲者揃いの男女4人が暮らしていた。こうして思いがけず彼らと共同生活を送ることになった直達は、いつも不機嫌で、恋愛はしないと宣言する榊さんに淡い恋心を抱くようになるのだったが…。」
Twitterへは「原作マンガのあらすじをマンガのまま紙芝居的にやってる感じで、味わいとか情緒がない。人物の発する言葉も、フツーそんなことズバリと言わんだろ、なことを無神経に撒き散らす。実写化する意味が、ないだろ、これじゃ。」
つくりが無骨、というか、大雑把。で、説明過多。監督は『こんな夜更けにバナナかよ』老後の資金がありません『ロストケア』『そして、バトンは渡された』の前田哲だけど、物語をカリカチャライズしてもOKな話なら、それでもいいかも。でも、不倫とか離婚とか高校生の恋心とか、ナイーブな情感を扱うには、合わないんだろうな。いまいち琴線に触れる表現になっていなくて、がさつな印象しか受けないのだった。
予告編は見てなくて、広瀬すずと高良健吾、の名前ぐらいしか頭にない状態で見た。まず設定がよく分からない。叔父の家に居候というから、叔父はオッサンかと思いきや、高良健吾が演ずる茂道なのか? 漫画家? であの日本家屋は茂道の持ち物? 茂道は漫画家してることを直達の両親には知られたくない? なんで?
茂道はシェアハウスを経営しているのか? で、住人は、女装占い師の颯、榊さん、大学教授の成瀬さんら。だけど、設定はユニークでも、ほとんど有機的に活かされていないのだよね。それぞれ紹介されてしばらくは画面に登場するけど、成瀬なんかいつのまにか消えているし、颯もあまり働いていない。いてもいなくてもいい感じ。
さらに、榊の家族とW不倫がどーの、という話が会話でされて。でも、人間関係がさっぱり分からない。まあ、だぶたってから茂道が関係図を描く場面があって、なるほど、にはなるんだけど。説明が遅すぎだろ。要は、榊の母親と、直達の父親が不倫して、駆け落ち。その間、5歳の直達は祖父の家に預けられた。そこにいたのが茂道で、茂道は直達の母親の弟、らしい。やっと人間関係は分かったけど、なんかすべてに安っぽい。
さらに安っぽいのは、直達の父親が北村有起哉で、後半に出てくる榊の母親が坂井真紀だってこと。加えて、榊の実父が岡村政信だから、夢がない。この連中で、家を壊すほどの不倫があったのか。引きつっちゃうな。で、直達の家は元のサヤに収まったけれど、榊の母親は家を出て。再婚したけど、それは最近のことらしい。てな親たちの10年前の不倫騒動から現在までの流れを知りたいものだ。
しかし、直達は、両親にいろいろあったことに気づかないのか? アホじゃない?
まあいい。
直達は、転校したわけじゃないんだよな。通学のために居候、っていってるのだから。だから、クラスメイトはすべて知ってるはず。なのに、捨て猫のことで「あの子、猫の人形つけてるから、聞いてみる」と楓に声をかけたら、級友が「よく話せるな。彼女、2人から告られてるんだぜ」とかいう。まるで直達と楓が初対面みたいだ。
さらに、下校時に、捨て猫にエサをもっていったら、そこにシェアハウス住人の颯がいて。「妹に猫のことを聞いた」という。颯と楓は兄妹なのか。なんで颯はシェアハウスに住んでるんだ? 通える距離だろ、実家から。猫のことについては、いつ楓が颯につたえたのだ? と思ったら、いつのまにか楓がシェアハウスに出入りしている。はあ? テキトー過ぎるだろ。いろいろ。
てな感じで、シェアハウス(の様子が描かれないのは、やっぱりもったいない)の面々の存在が薄れていき、榊と直達の登場が増えていき、そこに楓がからむようになっていくんだけど。学校のマドンナ的な存在らしい楓が、なぜか直達にべったりで。なら級友がからかうとか嫉妬するとかあってもいいけど、まるでない。どころか、後に楓が直達に告白してしまったりする。は? 何がきっかけで楓は直達に惚れたんだ? さっぱり分からない。でまあ、ここで楓の登場場面はほぼなくなって。あとは榊と直達が、榊の実母に会いに行く、という話になっていく。
しかし、不倫して出奔し、戻らなかった実母に対する未練というのが、よく分からない。不倫騒ぎの後で榊が一度実母に会ったとき、実母に「あなたも恋愛すれば分かるわよ」と言われたらしいけど。それを受けてなのか、榊は「一生恋愛しない」という決意のもとで生きている、らしい。マンガの展開を引きついでいるんだろうけど、アホか、な感じ。実母のあっけらかんさ。榊の執念深さ。なんか、人物の描き方が記号的すぎて、趣きもなにもあったものじゃない。
実母に会っても怒らない、と思いつつ怒ってしまう榊。再婚相手の連れ子娘にチョコみたいの投げつけられて退散し、地元のレストランに行くと、そこに実母と亭主と娘(まだ3歳ぐらいで、亭主の連れ子ということは再婚したのはつい最近? 亭主の妻は死んだのか別れたのか?)が海老フライを食べに来たのに出くわして。それが気に入らないのか、榊はでていってしまう。子供かよ。そういえばシェアハウスの教授だか茂道が、「榊さんは高校生のまま成長がとまってる」とかなんとかいってたな。で、直達は食べ残しをドギーにしてもらってバス停に行くと最終バスが終わっていて、旅館に宿泊(都合よく宿があるのね。千葉らしいが)し、残り物が満腹に。朝、直達が起きると榊はおらず、探すと海岸で、なんと榊が蹴りで直達を水に ふたりともずぶ濡れ って、冬だろ?
FOして学校、授業中。茂道が校庭にやってきて、榊が出ていく、とスケッチブックで知らせる。しかし、まだ榊は段ボールを集めている段階で、すぐいなくなってしまうというわけでもないだろうに。なのに直達は教室を飛び出し、榊を追う。で、都合よく段ボール運ぶ榊サンに追いついて、日照り雨が降ってきて、 そこで、「好きです」と告白して暗転し、映画は終わる。なんだかな。10歳の差がある榊と直達。うまくいくわけないし、なぜ直達が榊に惹かれるのかも分からない。
・同じ原作で是枝裕和あたりが演出したら、もうちょい情緒的で大人な話になってんじゃなかろうか、と思ったりした。
・榊さんはどこかに勤めているらしいけど、なにしてるんだろう。
・颯は、占い師? そんなんで生活できるのかね。田舎で。
遺灰は語る6/26ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/パオロ・タヴィアーニ脚本/パオロ・タヴィアーニ
原題は“Leonora addio”。「さらはレオノーラ」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「1936年、ノーベル賞作家のピランデルロは、自らの死に際し、“遺灰は故郷シチリアに”と遺言を残すが、独裁者ムッソリーニは、遺灰をローマから手放そうとはしなかった。戦後、ようやく彼の遺灰はシチリアへの帰還を果たすことになるのだったが…。」
Twitterへは「寝た。話がよく分からんし、つまらない。遺灰は何も語ってなかった。オマケ的なドラマはどういう意味?日本で公開されたのは、『グッドモーニング・バビロン!』のタヴィアーニ兄弟の片割れだったから、程度しかないのでは」
最初は、ノーベル賞の受賞式だったか。受賞式は、ニュース映像? つくりもの? ピランデルロは実在の作家(劇作家? どっちだ?) 想像上の人物? 知らんし、わからんよ。
白く無機的なスタジオに家具がしつらえられていて、奥のドアから少年2人、少女がでてくる。が、大人になり、白髪が増える。その様子を、ナレーションで説明するのは、だれ? その作家? いま死のうとしている作家? 自分が死んだら自分のモノが何も残らない様にしたい。遺灰すら残したくない、とか言ってたように思うんだけど、「遺灰は故郷シチリアに」だったんだっけ? 
でも火葬場面もあった様な…。
この後だったか、はげ頭の男が登場して、ああ、あれはムッソリーニか。いや、じつをいうと、予告編をみて、ムッソリーニの遺灰がうろうろする話なのかなと思っていたのだけれど、それは冒頭から違っていたのは分かったんだけどね。で。ムッソリーニが何かしゃべってたけど、頭に入らず。↑のあらすじには「ムッソリーニは、遺灰をローマから手放そうとはしなかった」とあるけど、そういうことだったのか。でも、なんで? 
遺灰をレンガ壁みたいなところに埋め込んでる場面は、このあたりか? あの場所はどこなんだ? 
前後よく覚えてないけど、古い映画みたいな映像があるけど、あれはなに? それと、街頭での暴力行為みたいのと、銃殺刑。ありゃなんなんだ? ニュース映像? 
10年後? レンガ壁が壊され、とりだされた遺灰が、フツーに考えて遺灰壺とは思えない様ような、水差しみたいな大きな陶製の壺に入れ、さらにそれを1メートル四方ぐらいの木箱に寝かせて入れるのだ。は? なんで? な感じ。その木箱を載せたクルマが田舎道を走ってると、サイクリングの青年たちが前にいて。乗ってた男の帽子が飛ばされて、の場面は何を言いたいの?
のあと、飛行機で運ぼうとしたら、同乗客が「それはピランデルロの遺灰か?」と尋ねてきた。他の客も含めてみな降りてしまう。死人と一緒に乗るのはいやだから、だと。
のあたりから、うつらうつら…。いつのまにか記憶を失って、気がついたら列車の窓から富士山が見えていた。え? 日本? と思ったら、似た様な山らしい。で、どこかの教会にやってきて、そしたら司祭が、ギリシアの壺に祈るのはできない、とかいっていて。そしたら年輩の司祭が、じゃあ壺をキリスト教式の棺桶に入れて、それを拝めばいいじゃないか、といったら、おお、それはグッドアイディア! てな話になって。でも、インフルエンザが流行って棺桶が不足中で、子供用のしかない。それはまずい、いやしかし、の悶着があったのち、輿にかつがれていくのは子供用の棺桶。それを見て、街(ここはどこなの? シチリアなの?)の子供が「小人の葬式だ」とつぶやくんだが、それまで「おしゃべりしてるんじゃない」といってた親たちが、「小人」と聞いて笑い出すのは、なんでなの? 差別感? あと、作家の芝居にでた、とかいう数人もいたな。ありゃプロの役者なのか、アマチュアなのか。
で、なんかどっかの部屋のテーブルに四角い小さな遺灰壺が置かれ、ギリシア壺の遺灰が移されるんだけど、その雑なことこの上ない。入りきらないのが明らかなのに山盛りにし、でも結局すり切りにして。はみ出た遺灰は下に敷いた紙の上。それには無頓着に、遺灰壺はもっていかれる。で、ひとりの男が紙の上に残った遺灰を包み、ポケットに入れて持ち去る。堂々と。
どっかの丘の巨石を見てる男がいて、彫刻家らしく、かれは15年後に墓石を完成させたんだと。で、遺灰壺はそこに納められる。いっぽう、遺灰を持ち去った男は(このあたりからカラー画面になる)、どこかの海の近くの丘にいて、ポケットから取り出した遺灰を風に舞わせる。
というところで、話は終わってしまう。90分の映画なんだけど、いやに短いな。もしかして寝てた時間が長かったのか?  と思ったら、なんと。作家が死の直前に書いたという話の映画化されたモノがオマケでついてくるという、摩訶不思議な展開。
この映画はカラー(移民前の場面は白黒)で、『釘』という題名だったかな。移民がアメリカで食堂をひらくんだが、12、3歳ぐらいの男の子が、公園で遊んでいた女の子2人の片割れを釘で刺し殺すという話。捕まった少年は、殺した理由を「釘が落ちたのは定め」とだけいい、死んだ女の子には「刑務所を出たら毎年くるから」と言い残す。その後、少年は老いて行きつつ、少女の、墓石もつくられず簡素な十字架だけの墓に詣るというだけの話。墓参の時期はいろいろて、夏だったり冬だったり。命日と限ってないのが、なんでなの? 
少年は、母親か祖母かしらんが、祖国で離れ離れになったのか。おばさんが「行くな」な感じで抱きしめていて、高く伸びた草の上に、何の意味か知らんが白い布が揺れている。この画質が、古い映画の引用に見えたり、最近撮った様なシャープな白黒だったりして、意味が分からん。あと、少年がそこらの犬の後足をもってあるく場面が2ヵ所あるんだけど、なんのことやら分からず。
散文の様な映像で、よく話がわからんよ。ちゃんと説明すべき所はして、流れに論理性をもたせないと、分からんぞ。ピランデルロという作家は実在する様だけど、あらかじめ知らない人には、なんのこっちゃ、な話としか見えないよ。公式HPには草刈民代、久米宏、とり・みき、長塚圭史他の賛辞があるんだけど、この人たちは映画を理解できて、感動してるんだろうか。こっちの感性がにぶいだけなのかしら。困ったもんである。
大名倒産6/29109シネマズ木場シアター1監督/前田哲脚本/丑尾健太郎、稲葉一広
allcinemaのあらすじは「越後・丹生山藩の鮭売り・小四郎は、父から本当はお殿様の四男だと告げられる。そして、隠居することになった藩主・一狐斎から跡継ぎに指名されてしまう。実は藩は借金まみれで、一狐斎は“大名倒産”という形で責任を小四郎に押し付ける腹積もりだったのだ。借金が返済できなければ切腹という絶体絶命のピンチに陥った小四郎は、幼馴染のさよや、心優しい兄・新次郎、生真面目な家臣の平八郎らとともに財政再建のための節約プロジェクトを推進していくのだったが…。」
Twitterへは「この手のコメディ時代劇って昔はよくあったよなあ。いまや人気監督の前田哲だけど『老後の資金がありません!』並の手際の良さで「おぬしも悪よのう」も含めた決まり事をちゃんと引きつぎつつ、伏線もちゃんと回収してる。ツッコミどころもあるけどね。」
美空ひばりなんかのスターが主役になって、民百姓が大名の知り合いとして活躍するという時代劇コメディは、昔はよくつくられていたと思う。そういう系譜につらなる、ドタバタ、とまでは行かないけれど、江戸時代の人間が現代語で話したり書いたりするような、時代考証としてはムチャクチャだけれど、なコメディに仕上がっていて楽しく見られた。時代劇に定番の表現もふんだんに盛り込まれていて、松平家次男・新次郎のうつけ若君、三男・喜三郎の病弱(紫の鉢巻きは歌舞伎における“病人”の記号的な表現らしい。それをつかっている)、大名を手玉に取る豪商、謹厳実直ですぐ腹を切りたがる侍=磯貝平八郎、小判とみればすぐに噛んで(伏線になっている)確かめる侍=橋爪佐平次、賑やかしの家臣二人(名前が黒田に白田、らしい)、長谷川平蔵を思わせる火付盗賊改、頑固だけど人のいい旗本、悪の老中、「おぬしも悪よのう、というセリフ」、そして、小四郎の幼なじみでただの庶民なのに、ずっと小四郎のそばで相談役になってる町娘 さよ。この、さよ、のような存在は、現実的にはまったくあり得ない。映画的ウソの典型だけど、それを押し通せるのは、日本のコメディ時代劇の系譜だからだよね。とまあ、俗な時代劇の決まりごと=記号をすべてぶち込んでる。ある意味ではマンガなんだけど、だからこそ楽しいといえるのだ。『水は海に向かって流れる』では無神経にしか見えなかった大雑把な演出も、この映画では『老後の資金がありません!』と同じように、いい方に向かって転がってる。
とはいえ、ツッコミどころもたくさんあって。
・鮭役人は、捕獲した鮭を勝手に売っていいのか? 藩に納めた残りを売ってる? ところで、小四郎が藩主として江戸に向かった後、鮭は利が薄いから事業から撤退する、と決まったんだという。なら鮭役人の間垣作兵衛(小日向文世)も別の仕事をするはずで、映画の様に貧乏に落ちぶれるということはないのではないの? そもそも間垣の上には鮭奉行の誰かがいるはずだし。
・丹生山藩の重臣の格付けがはっきり説明されていない。筆頭家老は天野大膳(梶原善)というのは分かる。では、並んで登場する磯貝(浅野忠信)や橋爪佐平次(小出伸也)も重臣なのかな、と思っていたんだけど、HPの相関図を見たら磯貝は小四郎の教育係だという。じゃあ平侍なのか。橋爪は勘定方だという。こちらも100〜200石ぐらいの下級武士か。天野、磯貝、橋爪が同じ画面に登場するというのは、ちとあり得ないな、本来なら。でも、コメディだからいいのだ。でもその代わり、磯貝と橋爪の役職ははっきり示してほしかったな。
・参勤交代で越後に戻ると、まず育ての父親の家へ。すると、家はすさみ漁師たちや村も落ちぶれている。藩が、利益の薄い鮭から手を引いたらしいけど、根拠が薄い。それより、小四郎が江戸に行ってから3ヵ月ぐらいしか経ってないのに、あの荒みよう、父のヒゲの伸びよう、着物のつぎはぎはないだろう。いくら映画的演出といっても、やりすぎ。
・参勤交代で地元に戻ると、すぐ江戸の老中から呼び出され、ふたたび江戸へ。それはいいのだが、江戸滞在が妙に長い。ふたりの兄に会いに行ったり、そんなことしてるヒマがあるのか? 
・小四郎は、育ての親である間垣作兵衛ももとに、早馬で「鮭をつくれ」との書状を早馬でつかわす。たぶん江戸からだろう。では、まだ小四郎は江戸にいるのか? そんなにずっと江戸に居ていいのか?
・結局、先代領主の一孤斎は悪なのか善なのか? わかりにくい。大阪商人の天元屋に中抜きされていた、というのは、一孤斎や藩の重臣・天野大膳、勘定方の橋爪佐平次も知ってたんだよな。で、その理由は、天元屋の後ろ盾として老中・仁科摂津守がいたから、ということか。同じ手口で、他藩も数倍から10倍を大阪商人に納めていて、その半分が老中・仁科摂津守に流れていた、と。では、それを告発できなかった理由はなんなんだろう? 一孤斎は他藩主からも聞き取りをし、連判状を拵えている。最後に、それを見せられた仁科摂津守はあわてふためき、老中・板倉周防守は仁科摂津守を捉えるよう命ずる。そんな簡単なことで仁科摂津守の悪事がバレるなら、一孤斎自らさっさと上申すりゃあよかったじゃないか、と思うんだが。
・一孤斎が仁科摂津守や天元屋と一緒の場面があって。ああ、一孤斎が私腹を肥やしていたのか。それで「大名倒産」しろ、と言ったのか。と思わせておいて、じゃああれは、たんに仁科摂津守の言いなりになっていた、ということなのか。
・しかし、そもそも一孤斎が小四郎に「大名倒産」して逃れよう、と言っていたのは、どういうことなんだ? 借金の返済日に「できませ〜ん」と倒産宣言すれば借金はチャラで、家臣も民も安泰、という理屈が分からなかった。現代の自己破産みたいなのって、江戸時代にも合ったんかいね。っていうか、次第に分かる仁科摂津守と天元の悪事にたいして、丹生山藩が犠牲になる必要はないと思うがね。そもそも丹生山藩は徳川家康の血筋をひく松平家なんだから、老中仁科摂津守なんてほっといて、同じ松平のネットワーク、徳川家の威信でどうにでもなったんじゃないのかね。
・勘定方の橋爪佐平次は、自分の責任を自覚してか自死しようとし、磯貝平八郎に救われる。ところで、橋爪佐平次は帳簿の誤魔化しなんてとくにしてなかったんだろ? 家臣たちが帳簿を見直したら、そこに赤裸々に、請求額の何倍ものお金を天元屋に納めていたことが記されていたんだよな。へんな帳簿。はいいとして、なら橋爪が首をつる必要なんてないじゃないか。だれか、たとえば先代藩主の一孤斎に「誤魔化せ」と命じられていたわけでも、ないんだろ?
・その橋爪佐平次だけど、これは江戸でのことだったか、地元での話だったか。町の裏長屋みたいなところに住んでいる。地元ならいいんだけど、あれが江戸でのこととなると、ちょっとおかしい。なぜならWebで調べると、「武家屋敷は,幕府や藩から身分や石高によって給地されるものであった。江戸では大名と旗本,御家人に給地され,陪臣には与えられなかった。」とあって、江戸では平侍なら上屋敷か中屋敷に住むことになるはずだからだ。まあ、このあたりから、話が江戸で進んでいるのか、地元でのことなのか、分かりづらいというのもあるんだよね。
・丹生山藩の重臣・天野大膳は、腹に一物、な怪しい存在として登場してるけど、結局、彼は悪事に手を染めていたり、隠しごとをしているようなこともなかったんだよな。ミスリードか。じつは3兄弟で、大膳、中善、小善、というのは、なにかの映画からの引用かな。
・借金の説明のところで1両=4万円で換算しているけれど、20万円ぐらいと記憶している。ウェブで調べたら4万円というのもあったけど、10万円〜がわりと多い感じかな。でも、1両が4万なら、下級武士で年に10両ぐらいしかもらってないのもいたわけで。すると、年収40万円だ。いまどきバイトでも15万〜20万は稼ぐのだから、じゃあ、江戸時代の日雇いは月に4〜5両稼いでいたかっていうと、どうかね。「これ小判、たったひと晩いてくれろ」という川柳があるけれど、小判は庶民が手にすることのないものではなかったのかなあ。
・最後の方に出てきた、名前もないものがつくった庭、というのは、兄・新次郎が手がけたもの、なんだよな。にしては、その解き明かしがないのは不親切なのではないか? 
・その、兄・新次郎だけど、“うつけ”というのは、実はウソで、藩主になりたくなかったのでフリをしていた、というオチかな、と思ったらそういうことではないらしい。では、そんな新次郎に惚れた旗本の娘、というのが異様に見えてしまう。これを解消する何かが欲しかったな。その意味でも、庭師新次郎とその妻という話をちゃんとして欲しかったと思う。
・ラスト近く。小四郎の依頼で育ての親である間垣作兵衛が仕込んだ鮭が、船に積まれてやってくる。その越後からの鮭船に、旗本の小池越中守と娘が乗っているのはおかしくないか? 船の手配はする、と小池越中守が言ってたような気はするけど、わざわざ越後まででかける必要性はないだろ。
・育ての母に、宮崎あおい。なかなか可愛い。なのに、流行病で死んでしまうという設定は、うーむ、だな。
・町娘さよ、に杉咲花なんだけど、雰囲気が高畑充希とそっくりで戸惑う。
・音楽は大友良英か。

 
 

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