君たちはどう生きるか | 8/4 | 109シネマズ木場シアター4 | 監督/宮崎駿 | 脚本/宮崎駿 |
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allcinemaの説明は「事前の情報を極力非公開にして、タイトルとポスター1点を発表した以外は、基本的に宣伝を一切行わない異例のプロモーション方針が注目を集めた。」 Twitterへは「つまらなすぎて寝落ちしそうになった。どのサイトにも あらすじ のカケラもないのは、宣伝しないという方針とは別なはずで、言論統制のようで気持ちが悪い。内容は、そうね、脈絡のない妄想と寝言みたいなもんか。不思議の国の宮崎駿。」「この映画についてジブリが広報宣伝を一切しなかったことについてなんだが。思うに、宣伝できなかったんじゃないのかな。とくに、期待してる子供たちに「見に来てね」とは言えない内容だった、からなんじゃないのかな。ジブリとしては品質保証はいたしません。観客の責任においてご来場ください、と。」 いつものおいしい定食をだす店に行って、内容は秘密の店主渾身の新作定食を頼んだら、アバンギャルドな前衛料理が登場。料理の基本はないがしろ、お客も無視、店主の摩訶不思議な創作センスに置いてきぼりをくらい、だれもが味わうどころか戸惑って呆然として店をでる、な感じかな。 冒頭からの、戦争で母を失った少年・眞人が父とともに母の実家に疎開する。そこには父の後妻で、死んだ母の妹がいて、すでに妊娠している。初登校。田舎の人間に見せびらかすように、父はクルマで眞人を学校に連れて行く。当然ながら新入りの都会っ子はいじめられる。のだけれど、眞人は石で自らこめかみに傷をつくり、ひどくいじめられたように見せかける。これは、原罪? を示唆しているのかな。 父親は、学校に文句を言いに行く、といっていたけれど、実際に行ったかどうかは分からない。そんなことはさておいて、眞人は、森に消えた身重の義母を追って、何人かいるばあやのひとりと一緒に森の中に侵入して行ってしまうからだ。 母の実家が、ヤバい。ふだん使わない玄関から入ろう、と義母が言う。豪華すぎて、なんだこれは。商売人なのか文化人なのか分からんが、巨大な邸宅だ。さらに、なぜかババアが6人ぐらいいて、使用人なのか知らないけど、態度がデカそう。何をするにもババアたちは一緒に行動している。眞人が与えられたのは洋室で、戦時中の田舎とは思えないぐらいの屋敷だ。 そういえば、この部屋で眞人は、「大きくなった眞人へ」みたいなことが母の文字で書かれた『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)という本を発見する。なぜ母親が眞人に読ませたかった本が、母親の実家にあるんだ? 生きているうちに、なぜ母親は眞人にこの本を薦めなかったのだ? 怪しいアオサギが眞人の近くを舞い、家の屋根の下をくぐり抜けて飛んだりする。これを見て、義母は「こんなことは初めて」という。さらに、入口が半分埋められ通り抜けられない塔のある建物を、庭に発見する。なんだろね。眞人は竹を割って弓をつくり、アオサギを射止めようとしたりする。 眞人の父親が持参した缶詰に喜ぶババアたち。煙草は貴重品だったこと。ババアも煙草を欲しがったりしている。 なーんていう流れは前作『風立ちぬ』の時代背景を引きついだ感じで、そういう話なのかな。それにしても、人物の動きがムダに細かく長い。フツーなら端折るような動作も、意味があるのか? と思うほど見せるのだけれど、とくに意味はないようだ。 そういえば、この頃からアオサギの口がふくらんできて、なんだかカリカチュアされたような雰囲気になってくる。 なーんて見ていたら、義母の姿が見えない、なんていう話になって。眞人とアオサギは裏の森の中に入り込んでいく。それを追って、ババアの1人も森の中へ。 それ以降の出来事は、正直いって何が何だか分からない。アオサギは喉の中から人間のような頭がでてきて鳥人間のようになってしまい、することも話すこともお笑い系な感じになってしまう。現実世界と、森の中の世界をつなぐトリックスター的な感じ、とでもいえばいいのか。 青年(誰なんだ?)が船を操舵していたり、一緒に入り込んだ婆さんが若い娘姿になって元気モリモリ躍動していたり、実母は赤い服を着た若い娘として登場したりする。インコの兵隊とかインコの王様とかペリカンの群れ(赤ん坊を運ぶ?)とか、うじゃうじゃ登場し、眞人たちは追われたりなんだり。まったく何だか分からないし、話の流れの順番も、さっぱり覚えていない。ちょっと連想したのは『不思議の国のアリス』で、ウサギにつられて不思議の国に迷い込み、いろんな生き物に遭遇し、トランプの兵士に追われるあたりの話だ。 そういえば「時の回廊」という言葉が登場した。そうか。迷い込んだ世界には時間の概念がない、というか、過去も未来も混在して存在している、のかも知れない。そこでのドタバタ劇。絵のタッチも、迷い込む前の昭和の日本的なものではなく、西洋的で明るく華やかなモノになっている。 以下、順不同で、直後にメモしたモノたち。 溶けていく母親、義母の産屋に迷い込む眞人(産屋はタブー?)、追いつめられて時の扉から半身飛び出るが、ドアノブを離すと元の世界に戻ってしまう? その様子を、元の世界の父親たちが見ている!? と思ったら、塔をつくったんだか発見したんだか、したのは眞人の大伯父で。彼は塔を建物で覆って隠してしまった、らしい。時間の流れのない世界で、大伯父は積木を積んでいる。大伯父との会話で、眞人は自分がこめかみを傷つけたことを告白し、自分は邪悪であるという。大伯父は、人間はそういうものだ的なことを言うんだったかな(原罪の肯定?)。寝落ちしかけて、ぼんやり見てたからよく覚えてないんだよね。 でまあ、監督のメッセージとしては、人間はもともと邪悪であり、それに縛られてもしょうがない。邪悪であることを自覚しながら生きていくしかない、みたいなことなのかな、と。 大伯父のシーン、『インセプション』の独楽の場面を、なんか連想したよ。あとは、なにかを探す旅のようなところは、村上春樹の『羊をめぐる冒険』を思い浮かべた。たんにイメージだけだけど。 てなわけで、めくるめくどんちゃん騒ぎは終わって、現実に。田舎から東京に戻る場面。幼い子どもがいて、弟が生まれたのだな、と分かる。で、さらに場面がつづくのかと思ったら、そこでプッツリと、尻切れのように終わってしまう。余韻がなさ過ぎだなあ。 というわけで、あれやこれやが登場の森の中の物語は、呆気にとられ、わけが分からず、呆然と眺めていた感じ。なにしろ物語性=ドラマがほとんどないので退屈した。イメージの洪水は、なにかのメタファーなのかもしれないけど、とくに考えることなく眺めていただけな感じ。完全に寝落ちしないように、ね。もう一度見るとセリフも記憶に残るだろうし、少しは理解が進むのかな。とにかく、見たことのほとんどは断片的にしか覚えてない。 ・眞人の、母親への思いは、そんなに強調されてないような気がした。そして、新しい母親を忌避するような態度も、とくに感じられなかっな。なので、実母と義母をめぐる葛藤は、あるのか、眞人に? と思ったぐらいだ。ほんと素っ気ない。あえて説明を省いたのかもしれないけど、それじゃつたわらんだろ。 ・父親が、亡き妻の妹と結婚するというのは、むかしの家父長制の中ではよくあったこと。とはいえ、母親が死んでからそう長くないと思われるのに、実家に行くと義母がいて、すでに妊娠しているというのは、時間的にヤバくないか? 父親の軽さが気になった。 ・父親は飛行機の製造に携わっているのか。一時的に、とかいって大量の風防を住まいにもってきていた場面があった。これなど、完全に『風立ちぬ』を引きついでる感じ。でも、戦争イメージは、冒頭の空襲(?)場面と、この風防だけで、あとは田舎のおとぎ話だった。あ、アオサギとかペリカンとかインコとか、みな鳥なのは、飛ぶ者=飛行機につながるか。 ・アオサギのトリックスター的な動きは、『すずめの戸締まり』の猫に似てる感じがした。あと、ドアが登場するところも。 ・アオサギ以外は、登場人物があまりキャラ立ちしていないな。なので、思い入れしにくいかも。 ★朝日新聞にアニメ文化ジャーナリストなる肩書きの渡辺由美子という人が映画について書いていて。「メッセージは明快だ。人間は醜さを抱えた存在で、罪も犯すがそれは自分が生きた痕跡なのだから、それを引き受けて自分の人生を生きろ。この映画はそう言っている」「眞人は悪い心、卑怯な心を持つ」「父の再婚相手のナツコに初めは冷たい態度を取るが、迷宮の奥で見つけた彼女を「ナツコ母さん!」と呼ぶことで彼は新しい母を受け入れ、同時に実母の死を受け入れた。その変化は、実母が残してくれた吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読み、過ちに向き合い正しくあろうと思ったからだろう」「眞人は塔の主の「この世界を継げ」という申し出を断り、醜い争いのある現実世界を選ぶ。そこでどう生きるか自分の頭で考えなさい、と宮崎監督は眞人を通じ私たちに言っている」とし、また、塔の奥の世界をスタジオジブリと解釈して、「ペリカンはアニメの作り手。疲弊した彼らを焼く炎は苛烈な要求をする宮崎監督・高畑監督の深い業。力尽きた1羽を眞人が埋葬するのは宮崎監督の贖罪か」「強欲で太ったインコたちは、夢の作品作りには金もうけも必要という「理想と現実」を映しているのかも知れない」などと書いている。 上記の、最初の「罪も犯すがそれは自分が生きた痕跡なのだから、それを引き受けて自分の人生を生きろ」はその通りだと思う。とはいえ、映画ではこめかみの傷と、大伯父との会話だけしか関係がない。他に眞人に、罪はあるのか? 義母への嫌悪感もとくにないし、話が“罪”に収束していない。なんか物足りないのだよな。 以下の説は、深読みしすぎだろ。眞人は義母に冷たい態度なんか取ってなかったぞ。たとえそうだったとしても、そうは描かれていない。これは監督の表現が舌足らず、なんじゃないのかね。 「君たちはどう生きるか」については、内容は知らんし分からんので、取って付けてるだけだろ。監督の不親切が残るだけだ。 大伯父の「この世界を継げ」は、よく覚えていない。ぼーっと見てたから。しかし、こういう話をするなら、時の回廊について、もうちょっと深める話がないと、これも取って付けただけで、なるほど感はないだろ。 最後の、塔の奥の世界をジブリの内情にこじつけるのは、これは部外者には理解不能だ。渡辺由美子という人は「アニメージュ」編集部にいた人らしいので、知っていることは多いのだろう。だから、あれこれメタファーとして解釈できるモノが多いのだろう。でも、そんなことをいちいち説明されたって、あたっているかどうかも分からんし。なるほど、とも思えない。むしろ、ただの自慢話に聞こえてしまう。勝手にやってなさい、としか言えないな。 | ||||
658km、陽子の旅 | 8/9 | テアトル新宿 | 監督/熊切和嘉 | 脚本/室井孝介、浪子想 |
allcinemaのあらすじは「就職氷河期世代の孤独な中年女性を主人公に、疎遠だった父の訃報を受け、思いがけず東京から実家のある青森までヒッチハイクするハメになった主人公の心の軌跡を優しい眼差しで見つめる。共演は竹原ピストル、黒沢あすか、見上愛、風吹ジュン、オダギリジョー。 夢を抱き、親の反対を押し切って青森から上京して20数年になる42歳の独身女性、陽子。夢はとうに諦め、半ば引きこもりとなっていた彼女のアパートに、従兄の茂が父の訃報を伝えにやって来る。そして、そのまま茂の家族とともに車で青森の実家へ向かうことに。ところが思わぬトラブルから、途中のサービスエリアで置き去りにされてしまった陽子。手元にはわずかな所持金しかなく、明日の正午の出棺に間に合うよう、ヒッチハイクすることを決意する陽子だったが…。」 Twitterへは「糞じれったい無口でコミュ障のアラフォーバカ女がヒッチハイクで故郷をめざすという糞つまらん話。なんで電話して迎えに来てもらわんのだ。あんな陰気なのに仕事何してるんだ。ネットで物買ったりしてるし。かけらも共感するところなし。」 主人公陽子のコミュ障的態度にじれったさを感じ、イライラしながら、ラストで、やっと終わったか、な感じで見終えた。同情も共感も一切なし。もうちょい陽子の状況が伝えられれば、なにか感じられたのかもしれないけど、そういうのもなかったし。 見ながら、この陽子という40女は何者なのか、と思いつつ見ていた。アパートにひとり暮らし。コンビニのイカスミスパゲティを箸で食べる。コンピュータの件でサービスとフォームでやりとりして、最後はぶち切れてる。PCで動画を見ながら寝てしまう。ネット注文した何かが、箱3つで届けられる。その箱の上にスマホを置き、家の中で滑り落として壊してしまう。そこに訪問者が。なんだけど、コンビニには行くしコンピュータやスマホをもち、ネットで買い物(何を買ったのかしらんけど)するほどの収入もある。ということはクレジットカードもあるはずだけど、その後の行動を見ていると、もってないのか? な感じで、不自然。さらに、以降のコミュ障的な対人関係を見ると、これで働けるのか? まともに話もできなくて、と思うと、どうやって生計を立てているのか首をひねってしまう。その説明は一切ない。なので、この映画のすべてが嘘くさく感じられて、どこにも共感できなかった、というわけだ。 朝方の訪問者は従弟の茂で、陽子の父親が大動脈解離で急死したことをつたえる。田舎から(たぶん茂の両親?)電話したがつながらず(スマホが壊れてて)、それで茂が直接来た。明日出棺で、火葬の後に通夜をする(というのが青森の一般的な流れなのか?)ので支度をしろ、一緒に行こう、という。 ところで茂は「よーこ!」と名前を呼び続けて陽子を起こすんだが。20年田舎に帰らなかった女が従弟に気軽に下の名前で呼ばれるもんかね。茂には妻と小学校低学年の子供もいて、こちらは定期的に帰省しているようだけど、はたして陽子は茂の結婚式にでたのか? 怪しい。とはいえ茂の妻とは顔見知りのようでもあるし。関係がよく分からない。東京で、果たして陽子と茂との交流が、どれだけあったのかね。怪しい。 以後の陽子の態度は、なかなかイラだたせる。質問しても反応がない。したとしてもボソボソ。単語をつぶやく程度。顔に表情がない。これは最後までそうで、陽子が人と話せなくなった理由をラスト近くで、乗せてくれた運転手の男に一人語りはするんだけど、説得力はまるでなかった。 で、友部インター? (茨城県笠間市の近くらしい)ではぐれるのかな。茂たちと離れてふらふらし、むかし父親とここにきた、なんてことを思い出して茂のクルマを探すが、ない。茂の子が怪我をして病院に連れて行った、のだがスマホがなくて陽子に連絡できなかった、ということのようだ。がしかし、妻を残していくとか、やりようはあったと思うんだがねえ。 ここで陽子は、ヒッチハイクで実家まで行こう、と決断したようだ。バカだろ。いくらなんでも置いてきぼりはないはずで、フツーに考えればしばらく(数時間から半日ぐらいは)待つ、がこういうときの対応だろう。なので、陽子は知恵遅れなのか? と思ってしまった。でもネットで会話したりはできるんだから、よく分からんけど、たんに要領がわるい、のかね。 郡山ナンバーの軽のオバサンに乗せてもらって、“どっか”のトイレ休憩所で降ろされる。オバサンは失業中で、デザイン関係だったかの面接で東京に行った帰り、だという。しかし、郡山から東京なら新幹線じゃないのか、フツー。しかし、次のクルマも拾えるか分からんところで下ろすかね。オバサン。でこのとき陽子は図々しくも「お金を貸してくれ」と頼むんだが、でも、2千円札といくらかの小銭はもってるんだよね。なにこの不思議さ。財布やクレジットカードも、クルマの中のカバにに入れたまま、だから? まあ、断られるけど。 ここで、む同じくヒッチハイクの娘と一緒になるんだけど、彼女の存在はまったく機能していないし、伏線にもなっていない。ただ、1人だけなら乗せられる、というクルマに載って、1人お先に旅立ってしまう。以上。 の、あとだったか。なんと、陽子は公衆電話から田舎のオバサン(茂の母か?)に電話するんだよ。おお。オバサンは「いまどこ?」と訊いてくるし、茂の居所だって分かるはず。だから、なんとかするのかと思ったら、とくに何もせず電話を切るのが、こいつホントにバカだろ、だな。 で、画面を見ると近くの道を結構クルマが通ってるんだけど、トイレ休憩所の駐車場にずっと座ってるのって、アホじゃねえの? 手当たり次第にアタックしろよ。狙い目は長距離トラックじゃないのか? などと思ってしまうんだが。 で、どうやったのか知らんけど怪しいライターに拾ってもらったらしく、でも寝込んでしまって気づいたらラブホの近くで襲われそうになり、目的地まで連れってやるからやらせろ、の交渉に応じてしまうのだから恐れ入る。なんなんだこの価値観。そこまでして出棺に間に合いたいのか? でも、父親の幻影がしょっちゅう登場し、それは、懐かしい思い出でもなく、嫌いな対象として出てくる。「あれとあれは、いまでも許せない」なんて陽子はこころでつぶやいたりする。そんな嫌な父親が死んで、じゃあ、義理と形式だけで田舎に帰るんなら、間に合わなくてもいいだろ、と思っちゃうんだよなあ。 コトが終わって、ライターが陽子にじゃれつく場面があるんだけど、とても違和感。そもそも陽子は色っぽくないし外見は汚らしい。しかも40過ぎ。ライターがわざわざ青森まで送ってやって、なほど魅力的でもないだろ。抱きつかれた陽子は身を硬直させて嫌がるんだけど、もうコトが済んだわけで、どういう反応なんだ? と思ってしまう。で、ここにライターから電話で、今日中の仕事を忘れていることに気付き、置いて行かれることになる。灰皿で殴ろうとするんだけど、どうせなら灰皿でPCを壊してやれや、と思ったぞ。 のあとだっけ。早朝だか深夜の海岸で波打ち際で寝てしまい、海水に洗われるって、冬だろ。絵になりそうだからって、こんな非現実的な場面は、アホだろ。 と思ったら、塩臭い40女を乗せてくれる老夫婦がいて。なにやってる夫婦か知らんが、野菜の無人販売に朝採りの野菜をもってきた? にしては、「この先行き止まり」の看板の横を軽バンが走り、どっかの家に無料で野菜を配ったりしてたり、よく分からない。 ところで老夫婦の軽は いわき ナンバーなんだよね。就職オバサンが郡山だとすると、 いわき は逆方向。変じゃね? それとも、いわき の手前で女性に降ろされ、そっからライターと いわき のラブホ? なのか。どうせなら、郡山まで乗せてもらった方がよかったんじゃないのか? なんか解せないな。このルート。 さて、老夫婦に、ある女性(生協の配達みたいな感じ?)を紹介されて、そのクルマに乗せてもらう。出身は、西の方だけど移住して、富岡町あたりにどうのと言っていた。これ、たんに福島原発の近くを登場させたかった、というだけの発想だろ。アホか。 老夫婦も女性も、ただいるだけで、とくに機能しないし伏線にもなってない。せいぜい、老人の言う「女ひとりで知らない人のクルマに乗るのは危険だよ」ぐらいか。でも、もうライターにされちゃってるわけで。って、やなら断れるのにしちゃったわけで…。 のあとは、どっかの若夫婦に乗せてもらい、つぎは、むくずまきワイン? の幟旗のある道の駅。岩手どういうルートか、この間誰に乗せてもらったか、もう岩手か。しかし、老夫婦の軽に乗せてもらったのが翌日の早朝だとして、もう出棺は済んじゃってるんじゃないのか? その、くずまきワインの道の駅で、何人かに声をかけ、断られつづけ、ある老夫婦には形相を変えて詰めよって「なんで! 私は行きたいの!」とか、わけの分からんことを言ったりする。アホか。でも気持ちを入れ替えて、紙に「青森」と書いて掲げ、こえを絞り上げて頼んだら、中学生の生徒が応じてくれた。まあ、その親だけど。の車中、なぜか陽子はその親に礼を言い、個人的なことを話していいですか? と断りを入れた後、父親の死、これまでのことを訥々と語り始めるんだよ。なんで? 意味不明。 「父親が死んで、葬儀に向かっている」「進みたい道があり、18で故郷を捨てるように状況。そのときの父親の年齢は42で、いま私はその年齢」「願いは叶わず、ダメな自分が分かった。気づいたときは手遅れ。けれど、なにかカタチにしないと田舎には戻れない。なことで人と話ができなくなった云々」 初対面の人に話すことかね。しかし、なにこの古風な自堕落人生。何がしたかったのかは分からんけど、ダメならダメなりに、できることをすればいいのに、ムダにこだわってる。それで、男関係は? 仕事は何をしてきたのか? などはやっぱり分からず。父親への抵抗も、具体的にはよく分からず。父がよく歌っていたという「亜麻色の髪の乙女」の意味は、なんなんだよ。も、分からず。 で、このむクルマのあとは、中学生の兄貴のバイクで、どこかの駅のそば? で降ろされて。あとはてくてく、雪の中を歩いて、実家にたどり着くのだけれど、おいおい。だったら、バイクでもうちょい家に近いところまで送ってもらえばいいじゃん。っていうか、もう何時だよ。朝に いわき にいて、ヒッチハイクして青森の田舎に何時に着くんだよ。 従弟の茂がでてきて「出棺を遅らせてもらってる」っていうけど、火葬場の予定があるのに、居所も知れず、いつ到着するかも分からん陽子のために、遅らせるなんてできるのか? できるはずないだろ。バカか。 「出棺を遅らせてもらってる。オヤジさんの手を握れるぞ」と言われ、しゃがみ込む陽子。なんで? さっさと家の中に入れよ。と思っていたら暗転して映画は終わった。バカか。最後まで糞じれったいコミュ障のアラフォーバカ女だった。 ・主演は菊地凛子。『 トレジャーハンター・クミコ』と似たような雰囲気で、こっちはさらにしゃべらない。まともにしゃべってるところ、見たことないかも。 ・ポスター写真は長島有里枝で、音楽はジム・オルークと有名どころだけど、効果があったのかどうか怪しい感じ。 | ||||
バービー | 8/16 | 109シネマズ木場シアター5 | 監督/グレタ・ガーウィグ | 脚本/グレタ・ガーウィグ、ノア・バームバック |
原題は“Barbie”。allcinemaのあらすじは「女性が主役のバービーランドでケンと一緒に完璧でハッピーな毎日を過ごしていたバービー。しかしある日突然、彼女の身体に異変が起こり始め、バービーは原因を探るためにケンとともに人間の世界へと向かうことに。しかし、完璧はバービーランドとは何もかもがまるで違う現実の世界に戸惑い、行く先々で大騒動を巻き起こしてしまうバービーだったが…。」 Twitterへは「つまらないので眠気に耐えながら、なんとか見た。女の帝国も、男が幅を効かすようになると、女はみんな腑抜けになる…を人形世界でやってる話なのか? ラストも、いまいちピンとこず。どこが受けてるのかちっとも分からなかった。」 米国で大ヒットらしい。どこが? まずはイントロで、人形は子どもの必須アイテムだったけれど、いずれも乳児。そこにバービーが登場し、概念が変わった、というときの表現が『2001年宇宙の旅』のパロディで、人類=というか子どもの進化を表していて、なかなか。とはいえ、子どもが人形を叩き壊すのは、どうかと思うけど。 で、バービーランドになって。定番バービーが起きてビーチに行ってケンたちと楽しく踊る場面は、まるでインド映画。とくにギミックもなく、退屈。なんだけど、おそらくこのあたりは、アメリカでは大うけなのかも。小さいころ遊んだバービーを人間が演じ、バービーランドも実写化されている。あのあれが、ああなって、と探せば楽しめるモロモロが映っているのかもしれない。けど、日本人の、とくに男には、ちっともヒキはないのだよ。 である日、定番バービーは足の皮膚がなんとかかんとかでおかしくなっていて、ハイヒールも履けずに地面に踵が着いて、足の裏も平らになったことに気づく。バービーの中には、ウツになるのまででてくる。どうやって知ったのか忘れたけれど、「これは現実世界との間に裂け目ができたせい」ということで、定番バービーは現実世界へと出かけることになる。 その裂け目ができた原因は、バービーの会社の受付女が、バービーが死んだら、とか考えてスケッチしたせいで裂け目ができた? とか描かれてるんだけど、そんなことで裂け目ができるんかいな。なぜ裂け目ができたのかとか、裂け目がどこにあってどうなってるかとかは描かれず、脳天気な感じで定番バービーは人間世界へ。ひとりで出かけたはずが、ケンもクルマに潜り込んでいて、やってきました人間世界。 人間の目からは異様に見えるのか、好奇の目に晒されるけどたいして気にせず、定番バービーはバービーのマテル社へ。行くと社長も重役も男ばかり。まあ、男社会を皮肉ってるのかもしれないけどね。 で、このあたりで話がつまらなく感じられてきて、あまり集中できなくなった。有り体にいえば眠くなった。完全には寝なかったけど。 定番バービーがバービーランドに戻ってみると、なぜか男(ケン)どもが幅を効かせていて。男社会になっている。無菌状態の女の園では大統領もノーベル賞受賞者も作家もみんな女性だけど、現実社会は男の世界。ところが、女の園で男人形のケンが幅を効かすようになるのだよね。 では、バービーたちはこの動きに抵抗しなかったのか? と思うと、つまりは、ピンクのバービーランドという制約が取り払われ、ケンとバービーが平等にまじりだすと、そこは男社会になっていくようになっている、といいたいのかね。女は洗脳されやすいバカだ、と。いや、そんな主張をしていて、この映画がヒットするわけないよな。なんだか分からん。 以降は、ぼーっと見ていたので、話がよく分からなかった。セリフが観念的で能書きが多かったことも、あるかもしれない。バービーたちと、なぜか知らん女の味方をするアランが反転攻勢して、どうなったんだっけ? 男社会は覆されたんだっけ? 覚えてない。 最後は、定番バービーが人間社会に再び戻って行く。そして、最初に行く場所は、婦人科。女の子はピンクが好きでかわいいお人形(つまりは子ども)でいればいい、という既存のアイコンから自立し、ひとりの毛が生えてマンコのある女性(つまりは大人)になる、という話である。 このラストは、ピノキオを連想させる。木偶の坊が人間になったように、女の子のおもちゃで、あそこはツルツルのはずのバービーがマンコも子宮ももつようになるのだから。ピノキオの場合は、ゼベット爺さんの願いが源泉なのかもしれないけど、『バービー』の場合は、女性の自覚と自立、ということなのかな。しかし、別の意味も含まれているよな。バービーランドに暮らしていれば不老不死で遊んで暮らせていたけれど、人間社会に暮らしていけば、歳も取るし病気にもなる。そして、死ぬ。 人間社会の女性にあてはめてみても、専業主婦で働かずに料理だけつくっていればよかったものが、社会の荒波に揉まれることになるのだから。って、もうずいぶん前から女性は社会進出してるのだから、人間社会の労苦がいまとつぜん女性にのしかかるわけじゃないけどね。 ってことは、これからは産婦人科医のバービーとか葬儀屋のバービーとかも売り出されるのか? いや、映画の中で、そういう類のバービーは人気がなくて売れなかった、っていってなかったっけ。やっぱ、人形は夢を与えてくれるものなのだから、現実を突きつけられるなんて、やだよな。GIジョーとか超合金ロボとか、男のための人形もあるけど、あれだって、与えてくれるのは夢だろ。撃たれてはらわたの出たGIジョーなんて、ないだろ? あるのか? ・マテル社の名前が登場するけど、すべては了解済みなのかしら。 | ||||
さよならエリュマントス | 8/18 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2 | 監督/大野大輔 | 脚本/大野大輔 |
公式HPのあらすじは「元々は甲府の社会人野球チーム「エリュマントス」のチアリーダーだったココ、ユナ、ミズキ、リナ、スズ、サラの6人は、マネージャーの穴倉に連れられて地方の催事場などでのイベントに出演し、ドサまわりを続けている。最底辺の地下アイドルのような活動をさせれられているメンバーたちと穴倉とのケンカは絶えず、両者の溝は深まるばかり。そんなある日、とあるイベントに参加するために山梨の温泉街にたどり着いた一同は、穴倉の不用意な発言からトラブルに巻き込まれてしまい……。」 Twitterへは「解散した社会人野球部のチア6人が、ほうとうと暴走族しかない山梨あたりのイベントをドサ回りしてるという設定の、低予算マイナー映画。おっさんには6人の区別がつかんぞ。もうすこし話を練ってくれればなあ、な惜しい話だった。」 いきなり、チアダンスしてる場面にレコード会社と製作会社のロゴがバカでかく載っかってきて、なんなんだ? な感じ。 話は単純で。どっかの屋外舞台でショー(ここで盗撮男を穴倉が追跡)の後、主催者なのか関係者なのか知らんがプロパン業のオヤジに誘われた穴倉が、旅館の近所のスナックへ女の子2人を連れて行く。そこのママのことをプロパンオヤジが「どうせ美人局」といい、穴倉が「ははは」と笑ったのをママが聞き漏らさず文句を言うと口げんかになって。ママはどこかに電話。若い衆が2人やってきてプロパンオヤジと穴倉を脅し、連行しようとする。なぜか穴倉は「トイレに」といって、気分悪くてトイレにこもっている女の子1人を起こそうとするが、起きたんだっけか? プロパンオヤジは「悪いのは俺じゃない」と言い逃れて解放され、穴倉は女の子と2人、ママの亭主の事務所に連行される。ここで疑問なのは、一緒に行った女の子は、トイレの方か元気な方か? なんだよね。見かけはトイレの方だったかなと思うんだけど、流れでは元気な方だよな。まあいい。連れていかれた事務所は不動産会社の社長といっても40がらみのデブだけど。そこで穴倉は殴られそうになるんだが、穴倉と女の子が、「お前たちのために」「何いってんだよ」「お前は分かってない」「やめるよ」「お前が辞めたら解散しかない」「それでいい」とか言い争いになって女の子が穴倉を何度も殴打。それを見た不動産社長は「いいもの見させてもらった。一杯やろう」と仲直り。穴倉はギリシアの精力剤(伏線なく突然登場させるのは変だよな)を社長にやると大喜び。 若い衆ひとりが店番してねスナックに、女の子が戻ってくる、のだけれど、この子はトイレに籠もってた子なのか、元気だった方なのか、区別がつかん。が話し込んで何となく波長が合って深夜の散歩で。高台から光り輝く街を見るんだけど、甲府はあんなに光ってるのか? 旅館の4人のうち1人はオーディション合格の知らせを受けて舞い上がる。残る3人は内輪話で盛り上がる。が、オーディション合格で東京に行く、という子と、まだがんばるという子で言い争いに。 翌日はどっかの体育館で。穴倉は、金庫に入れた財布がない、と騒いでいる。出場できないというフラダンスグループの分もがんばるぞ、と思ったら少ない観客から「フラが見たい」の声が。では、と一同鳩首し「フツーのチアではなく、ファイティングエリュマントスを」というと、肉離れが怖いとか言いつつ、そのファイティングの方を演じるんだけど、みてるこちら(映画の観客)には違いというか、凄さが全然つたわらん。ジャンプとかバク転もしないし。でも、パラパラと拍手。というところに不動産社長が若い衆2人つれて殴り込み。なんで? と思ったら、昨日もらったギリシアの精力剤が効かず、チンポも小さくなって嫁さんに笑われた、とかなんとか。に対して、穴倉が「ギリシアにだんしょうはいない」とかいうんだけど、意味分からず。なんだけど、女の子たちが力を合わせて若い衆2人と不動産社長をやっつけてしまう。 穴倉と6人たらたら歩いていて。穴倉が「解散だ!」と、あきらめ顔のバカ笑い。残された6人の1人が穴蔵の財布を取り出し、みんなで3万円ずつ分ける。最後にテロップで「誰それは事務所ともめて6ヵ月で帰京。その後エリュマントスは8年間活動をつづけた」と。終わり。 とな感じで、話がわりと薄っぺらい。もうちょっと入り組ませて、たとえば冒頭の盗撮男やプロパンオヤジを後半で登場させて何らかの伏線を回収するとか、不動産社長の奥方もどこかで機能させるとか。ひとりの女の子がやってるYouTube番組を活かす(視聴者がやってきて絡む)とか。ギャグで出てきた、山梨には ほうとう と暴走族しかいない」を絵で見せるとか。ファイティングエリュマントスを編集とCGでもっと凄いものにするとか。いろいろあるじゃない。そういうのがあると話を面白くできると思うんだけどなあ。現状は画面も物語もわりとフラットで抑揚がないんだよな。 もっとも大きな問題は、6人の区別がつかんことだな。最初から引きのミドルショットで、女の子たちがキャラ立ちできるように撮ってない。のは意図的かもしれないけど、それぞれに性格づけはしてるんだから、見分けがつくようにすべきだ。現状ではみな同じような顔立ちの同じような髪型で、アップも少なく、おっさんには判別がつかん。戦隊ものみたいに色分けするとか、髪型や髪の色を変えるとか、やり様はいろいろあるだろうに。もったいない。 セリフも、判別しにくいところが結構ある。ちゃんと聞こえていても、なんのことか分からない略称とか固有名詞とか、もある。“ほうとう”も、ちょっと考えて分かったぐらいだ。ここなど、ほうとう と暴走族のスチルを噛ませるぐらいやってもいいんじゃないか、と思った。見て、聞いて、分かるような映画づくりをしてくれい。 もちろん低予算もあるんだろう。カット割りが少ないとか、ヨリが少ないとか、あまり編集が活かされてないとかに影響してるのかもしれない。でも、そこは工夫だろう。 ・「エリュマントス」というチーム名は何から来てるんだ? 解散した野球チーム名なのは分かるが、そもそもどういう意味なんだ? ぐらいは説明あってもいいんじゃないのか。 ・野球チームのオーナーが自殺した、と女の子がスナックママに説明するジェスチャーが笑えた。そう、笑えるところ、笑えるセリフはそこそこあるんだよ。でも、全体として盛り上がってない。最後の、財布を盗んだのは女の子、も読めちゃうしなあ。 ・ところで、穴倉とプロパンオヤジの接点は何なんだ? どっちがどっちを接待してるんだ? 穴倉が、プロパンの営業もする的な感じで応えているのは、どういうことなんだ? とか、ツッコミどころはあるんだけど、あまりにも原石のママ放り出されている感じで、とてももったいないと思ったよ。 | ||||
クライムズ・オブ・ザ・フューチャー | 8/21 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/デヴィッド・クローネンバーグ | 脚本/デヴィッド・クローネンバーグ |
カナダ/ギリシャ映画。原題は“Crimes of the Future”。allcinemaのあらすじは「人類が痛みや感染症を克服した近未来。“加速進化症候群”のアーティスト、ソール・テンサーは、体内で生み出された新しい臓器をパートナーのカプリースが外科的に摘出する手術をアート・パフォーマンスとして観客に披露していた。一方、進化の暴走を警戒する政府は、監視役として“臓器登録所”の調査員ティムリンをソールのもとへ派遣するのだったが…。」 Twitterへは「解剖を見世物にするといういかにもB級なクローネンバーグの変態映画。つくりものの臓器、得体の知れない食事椅子とか、退屈すぎて前半ちょっとうとうと。K・スチュワートが登場し、L・セドゥも脱いだり、ムダな豪華さも変態だ。」「奥様方はこの手の映画は敬遠されるのか、客席はオッサンばかりで、しかも200席に10人たらずでござった。」 クローネンバーグというば『クラッシュ』で、足に金属の支え見たいのをつけた女とか、自動車事故の現場でセックスするとかの変態度合いを思い出す。『イースタン・プロミス』はスリリングで面白かった記憶があるけど。 とはいえ、話はチャチいし、よく分からんしで、感想文書く気になれず、気がついたら2週間近く経ってしまっていて。話も大まかにしか覚えていない。なんか、臓器が増えていく男とパートナーの女が解剖ショーをやって、見に来る人もいれば配信で見る人もいる。最後は、プラスチックもバリバリ食べちゃう少年の死体を腑分けする、というような話だった。いつものウィゴ・モーテンセンは当然として、驚くのはレア・セドゥが登場し、おっぱいも見せてくれたこと。あと、クリステン・スチュワートまで出てくる。クローネンバーグには、美人女優も惹かれるということなのか。『イースタン・プロミス』にはナオミ・ワッツがでてたしなあ。 で、今回のは公開解剖を行っている男女の話で、でも、設定とかよく分からんまま進むので、ぼーっとみてた感じ。腹にチャックをつけたり身体を傷つけたり、痛くないのか? とずっと思っていたけど、↑のあらすじによると「人類が痛みや感染症を克服した近未来」とある。へー。そんな説明、あったっけ? 冒頭に登場するのはプラスチックをがつがつかじる少年で、なぜか母親に殺されてしまう。なんでなの? で、場面は変わって。ソールとカプリースが登場する。ソールは体内に臓器が生まれてしまう体質らしい。ソールは、なぜか知らんが食事のための変な椅子に座ってる。コメディかよ。ソールを世話するのはカプリースで、演じるのはレア・セドゥ。では、この2人の関係は? ※Webで見たら、外科医で、かつてソールの手術を行ったことがあり、いまは解剖パフォーマンスのアーチストらしい。そういえばそんな感じだったな。 2人が行くのは臓器登録所とかいうところで、得体の知れない怪しい場所。ここにいるのがティムリンという女で、演じるのはクリステン・スチュワート。でもまあ、何をしに行ったのか、よく分からないのだけどね。ちゃんと見てれば分かったのか? あと、登場するのは、解剖台(寝台?)の製造会社の人間みたいなケバい2人の女。これまた、よく分からない。 で、ソールとカプリースは公開解剖を行って、ソールの腹のなかの臓器が見える、のだけれど、いかにもつくりもの、なデキなので、ぜんぜん生々しくない。公開解剖はアートとしてのパフォーマンスらしいけど、なんだかなあ。 はっきりいって、話も、描こうとしている世界もよく分からない。だからなに? と思ってしまう感じ。 そうこうするうち、いつのまにかカプリースの額にはトゲトゲができているんだけど、あれはいつ、何のためにしたのだ? そんな手術してたっけ? 覚えてないな。 でもって、冒頭の少年は冷凍保存されていて、その、プラスチックも消化してしまう臓器を公開解剖するというような話になっていく。 ああ、もうそれ以上のことは覚えてないよ。なのでネタバレサイトを見たら、ああ、そうそう、そんな感じだった、という顛末がこと細かに書いてあったけど、読んでも思い出せないところもある。まあ、半睡状態で見てたところもあったし、しかたがないか。 まあ、どうでもいいような話である。もったいぶった感じでいろいろひねくり回してたけど、しっかりした芯が通ってなくて、設定なんかの説明もちゃんとしていないので、すっ、と頭の中に入ってこない。まあ、雰囲気で見ろよ、ということなのか。ちゃんと設定を説明すると、ボロが出過ぎちゃうから、すべてが茫洋と曖昧に描かれているんじゃなかろうか。怪しいテイストだけを、なんとなく感じればよいのかな。 | ||||
アウシュヴィッツの生還者 | 8/22 | 新宿武蔵野館1 | 監督/バリー・レヴィンソン | 脚本/ジャスティン・ジュエル・ギルマー |
ハンガリー/アメリカ映画。原題は“The Survivor”。allcinemaのあらすじは「1949年。悪名高きナチスの強制収容所アウシュヴィッツから生還し、アメリカに渡ったハリー・ハフト。ボクサーとして活躍する彼には、名前を売って生き別れた恋人レアと再会するという大きな目標があった。取材記者に重い口を開いた彼は、ナチスの余興のために行われていた賭けボクシングで選手となることを強要され、同胞のユダヤ人と戦わされていた過去を明かす。負けた者には死が待っているその戦いで、彼は生きるために勝ち続けたのだった。その衝撃の告白は人々の注目を集めたものの、レアを見つけることはできず、彼女の死を確信して引退を決断するハリーだったが…。」 Twitterへは「収容所で戦わされ、重荷を負ったボクサーの話。実話ベースらしい。尋常な精神じゃいられんだろ。なのに戦後にボクサーをつづける? 現在と収容所時代が不自然な感じで交互に描かれたり、話のめざすところが漠然とする中盤は退屈。」 アウシュヴィッツで親衛隊の中尉に腕っ節を見込まれたハリー。兵士を殴ったのはチャラにしてやるから、その代わり賭けボクシングに出ろ、といわれてしまう。その戦いは、相手が立てなくなるまで殴り合うもので、負けたら撃たれてしぬ運命。相手は同じユダヤ人がほとんど。しかし、戦って勝たなければ自分が殺される。まさに究極の選択。というのが、モノクロで描出される収容所時代の思い出。 その白黒画像と互い違いに描かれるのが、アメリカに渡ってプロボクサーとして活躍しているハリーのいま(1949年)で、なぜか理由は分からないが近ごろ連敗中らしいらしい。 という、収容所の過去と、現在のハリーの様子が交互に描かれて進むんだけど、なんか違和感があるんだよね。なぜなら、あの収容所の日々はすでに過去(といっても4、5年前ではあるけれど)の話とされているからだ。もちろんハリーはしょっちゅう悪夢にうなされ、フラッシュバックも経験している。とはいえ、目が覚めているときは横柄な態度のボクサーなんだよな。 映画の構造としては、冒頭でレアとの楽しい様子がちょっと描かれ、でも、引き裂かれ連行されるレア、がある。次はもう殺人ボクシングで、レアについては、現在のハリーが調査会社のようなところを訪れ、レアの情報はどうなってる! と暴れる段取りになっている。レアについてはそんぐらいで、ハリー自身がレアの行方を探し求める努力をしているようにはまったく見えない。 ハリーは記者のインタビューに応え、収容所での殺人ボクシングについて告白し、記事になる。ハリーの兄は非難するが、ハリーは、この記事をレアが読むことを期待して、のことだった。もちろんユダヤ人社会からの軽蔑の視線が凄くなっていくけどね。それでもハリーはまだまだ自分の名前を出すことに積極的で、大物とのマッチをマネージャーに要求する。でまあ、そのうちその試合が組まれはするんだけど、このあたりから、ハリーの願いはなんだっけ? この映画はどういう話だっけ? てな感じでもやもやしてくる。ハリーの気持ちが見えないし、つたわってこないんだよな。 あとからレアについての情報は、3ヵ月つき合っただけ、だったということ。兄が言うには、たまたま一発やっただけの相手だろ、らしい。それで、最後まで見ると目的地(レアに再会すること)が分かりはするけど、なんかなあ、な感じで。それならもっとレアとの蜜月を濃厚に描き、戦後もレアの行方を死ぬほど探してる様子を描写し、アメリカに来れば手がかりが…てな流れをつくっておくべきだよな。いきなりアメリカでボクサーになってて、KOも多いけど連敗もするような感じでは、どーもシンパシーが湧かない。リングでボコボコにされても、会いたい一心で、という気持ちがつたわって来ないのよね。 調査会社の女性ミリアムも、いつのまにかハリーに好意を抱くんじゃなくて、ともにレアの行方調べて行く過程でつい関係が…な流れの方がわかりやすいと思うけどね。 アウシュヴィッツでの殺人ボクシングは、究極の選択、という一言に尽きるので何度も繰り返し描くのはくどく感じてしまう。むしろ、本人の贖罪の意識が見えないのが不満かな。トイレで吐くとか、神に祈るとか、自分を傷つけるとか、そういう行為があってもいいんじゃなかろうか。もちろん、現在の本人がフラッシュバックでうなされる悪夢はあってもいいけど。 とはいえ、リング上で何人もの同胞を殺した経験をもちつつ、アメリカでボクサーをしているというのが、どういう神経をしてるんだ、な感じもある。もう怖くてリングに上がれないとか、人を殴れないとか、そういう感情はなかったのか。まあ、実話らしいので、そういうのを克服してのことなのかもしれないけど。 そういえば分からんのは、もともとボクサーだったのか? ということ。たまたま喧嘩が強いじゃなくて、ボクシング経験があった、ということなのか? ハリーは終戦を待つことなく、行軍から走って逃げたのか。でも、中尉に追いつかれて、でも、反抗して中尉を殺した。それはいい。興味深いのは、中尉を理性的な人物に描いていることで。戦争は負けると悟っているし、敗戦後は組織=ナチが何をしたか洗いざらい話す、なんて言っている。ってことは、中尉の興味は、ボクシングの賭け金だけだったのか? 必ずしもハリーが勝つとも限らないのに、信頼しつづけたのはなんなんだろう? 貯めた賭け金は、どこに隠しておこうと思ったのかな? それとも、殴り合い、殺し合いが好きだったのか? 不思議なキャラだ。 中尉を殺したシーンの後に、収容所で仲のよかった友人とのマッチが組まれ、ハリーは泣く泣くで殴り倒し、膝で締めて殺害する。なかなかショッキングな場面だけど、順番としたら、このあとに中尉を殺す場面を持ってきた方が復讐感が出るんじゃなかろうか。なんか、ちぐはぐ。で、格上のボクサーとの試合は、この映画のクライマックスのような描き方がされているけれど、重要度としてはそんなことはないわけで。なんかムリやりそうされてる感じだな。試合は、もしかしたら勝つの? と思わせるけど、結局はボコボコにされてしまうので、肩すかし。呆気なさ過ぎ。それにしてもハリーと相手はどっちがどっちなのか見分けにくかったな。 試合の前だったか後だったか、ミリアムとの距離が接近し。ミリアムは、太平洋戦争で行方不明の婚約者をあきらめる。ハリーも、レアをあきらめる。ということでつき合うようになったようだ。でまあ、まともに話が転がり始めるのは、ハリーの兄貴が「あのことは話すな」といっていた事実が分かった頃かな。ミリアムとの新婚初夜。ホテル(?)のドアの覗き穴に目が行ってしまう。 かつて中尉は、ハリーが試合に勝つと褒美にユダヤ女をあてがってくれて、風呂に入れさせてくれたらしい。それを中尉は、覗いていた…。中尉は窃視症だったというわけか。しかし、それでも出来てたんなら、ミリアムともできるんじゃないかと思うんだが。は、いいんだが、このことを兄貴にもすべて話してたということか? フツーこんなこと、黙ってるんじゃなかと思うんだが。 初夜にできなかったので心配したけど、次の場面では子供がいるようなのでホッとしたよ。 このあたりからフツーのドラマになっていって。かつてハリーの記事を書いた記者が、どうやって見つけたのか、レアの居所を教えてくれる。まあ、ラストはそうなるんだろうとは思ってたから意外性はないけど、やっと話がつながった感じ。 しかし、異様なのは、レアに会いに行くのに家族4人で近くの避暑地に宿泊し、さらに、実際にレアに会う段になると、息子だけを連れて行くのだよね。なんで? 意味不明だ。こういう体験を見て、強くなれ、ってか。 レアは余命幾ばくもない状態で、結婚して子供もいるのはお互い様。でせ、レアがハリーの新聞記事を読んだのは、レアの結婚式の翌日? だったとか。しかし、レアはそんなにハリーに思いはなかったのか? あったけど諦めたのか、しらんけど。もし、2人が結婚していたら、この段階でレアを失う現実に出くわしていたわけで。それはそれで大変な気もしちゃうけどなあ。 というところで、誰かの結婚式で、花嫁が“God bless America”を歌っているシーンになる。は? ここにハリーやアメリアはいたと思うけど。いったい誰の結婚式なのだ? で、なんでアメリカを讃える歌なのだ? アメリカが自由を与えてくれたから? でも、なんか、唐突だよなあ。 ・収容所時代のハリーはガリガリだけど、あれもベン・フォスターが演じてるのか? 実際に痩せたのか、CGか知らんけど。 ・ジョン・レグイザモに気がつかず。 | ||||
ふたりのマエストロ | 8/23 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/ブリュノ・シッシュ | 脚本/ ブリュノ・シッシュ、ヤエル・ラングマン、クレモン・ペニ |
フランス/ベルギー映画。原題は“Maestro(s)”。allcinemaのあらすじは「父・フランソワ・デュマールとその息子・ドニは、ともにクラシック界で活躍する指揮者の親子。40年以上の輝かしいキャリアを誇る大ベテランの父に対し、息子のドニは大きな賞を受賞するなど勢いに乗っていた。そんなある日、フランソワは一本の電話を受ける。それは夢にまで見た世界最高峰の“ミラノ・スカラ座”からの音楽監督就任の依頼だった。フランソワは歓喜に酔いしれるも、ドニは父へのわだかまりから素直に祝福することができなかった。ところが翌日、ドニはスカラ座から呼び出され、息子宛の依頼を誤って父にしてしまったと告げられる。スカラ座の音楽監督という重責に戸惑いつつ、何よりも浮足立つ父に真実を告げるという難題を背負わされ、人生最大の試練に頭を抱えるドニだったが…。」 Twitterへは「話はつまらなくないんだけど。父子の対立の原因がよく分からんのよね。最後は強引にいい感じで締めちゃうし。しかしなんといってもダメなのは予告編やポスターで、取り違い、父子並んでの指揮を事前に見せてること。これネタバレじゃん。」 指揮者の親子がいて、息子のドニは最近、賞を受賞するなど上り調子。一方の父親フランソワは、まだまだ現役らしいけど、過去の人っぽいのかな。大物過ぎるのか? このフランソワの位置づけがよく分からないので、以後の展開もいまいちピリッとしないところはある。 で、フランソワにスカラ座の音楽監督の依頼の電話で、でもそれはスカラ座総裁の秘書女性が、息子のドニと勘違いしての電話だった、と。フランソワは「40年間待ちつづけた地位が舞い込んできた!」と舞い上がっている。でもドニは面白くない感じで、誕生日でもあるので指揮棒をプレゼントしたりはするんだけど、いまいちわだかまりが感じられる、のだ。 この親子対立の原因としては、父親フランソワが忙しすぎて子どものドニを構わなかった。母親もフランソワの世話で手一杯で、ドニに意識が向かなかったから。から、とか説明されてたけど、いまいち説得力はないよね。この親子対立がもっとはっきりしたカタチで見えないと、モヤモヤする。 以降は、間違いだと連絡を受けたドニが、いかにしてフランソワを傷つけることなく事実を伝えようか、と逡巡する様子がつづくのだが、なんだ、このネタひとつで映画1本かよ、とちょっと失望した。というのも、予告編を見ているんだけど、この依頼相手の取り違えについて、バラしているからだ。まあ、映画は取り違えだけしか語ってないところがあるから、これを見せない予告編はつくりにくかろうが、知らずに見たのと、知ってて見たのでは、映画への印象がまるで違ってくるのは必定。こっちは知っているから、展開も読めるわけで、なんかなあ、な感じがしたのだよね。 もうひとつのお話は、ドニと元妻、息子、現在の恋人の話があるんだけど、まあ、よくある感じで。とはいえ、なんで元妻がしきりに登場するのか分からなかったんだけど、なんか、ドニのプロデューサーみたいなことをしてるのか? だからなのか、家族の集まりやコンサートにも顔を出していたりして。このあたりが、フランスの環境を知らない人間には、ちと違和感がある。もちろんここに、現在の恋人も混じったりするわけで。憎み合って別れたのではないのは分かるけど、離婚後の感情というのはどうなっておるのか、な部分がいまいち日本人としては理解できないところかもしれない。いまや、映画の中でもそういう事情については説明してくれないし。 ところで、フランソワは、スカラ座からお呼びが来ても「当然」と思えるほどの実績が本人的にはある、ってことなんだろうな。じゃ、大物でいいのか。でも、その大物感が出てないと思うんだよね。楽団の指導をする場面は一度登場するけどそれだけだし。もうちょいマスコミや業界人がまとわりついてると、マエストロ感が出たんじゃなかろうか。 ドニは父に向けて事情を説明する手紙を書くんだけど、結局破ってしまう。のあとで、夜、息子が父の手紙らしいのを発見して読む場面があるんだけど。ありゃなんなんだ? 書き直したけどださなかった手紙なのか? あれは説明不足だろう。 で、スカラ座移籍にあたって総裁からだったか、第一バイオリンにふさわしい女性を紹介され、聞きに行く。と、そこに父親もいて、女性に気軽に声をかけ始めるのでドニは混乱。フランソワと一緒に来ていた母親にそっと話すと、母親があわててフランソワを連れ出すという場面がある。しかし、フランソワも、確認の電話を何度も入れていて、でも、折り返しの連絡がひとつもないことになにか感じなかったのか。という疑問も湧くけど、まあいいか。 その後、ドニとフランソワが一対一で話す場面があって。実はこのあたり、話が停滞していたのでちと眠気が襲ってきていて、目はつぶらなかったけどボーッとしていたので、会話の内容はほとんど覚えていない。せいぜい、フランソワが、むかし妻が裏切ったことがある、とかいったことぐらいかな。ってもドニの生まれる前のことで、結婚していたのか以前なのか分からんけど。で、その後ドニを妊娠してどーのこーのと。じゃあ、ドニはその浮気相手の子なのか? と思わせるようなところもあるんだけど、音楽的な才能を考えたら、それはないかな。ところで、父親との対話ののちも、例の手紙を手にしていたんだけど、ありゃどういう忌みかね。 その後の展開は、なんかザックリ端折られた感じなんだよね。ひとりドニがミラノに行き、あっというまにお披露目のコンサートの開始。と思ったら、上手から父フランソワがやってきて、ふたり並んで指揮棒を振る。見ていた総裁は、あんぐり。でも、演奏者たちは平気だったんだから、事前につたえていたはず。あれだけ高慢でプライドが高かったフランソワを、ドニはどうやって説得したのか。フランソワは、そんなお情けは要らんわい! となぜ言わなかったのか。というようなことはすっ飛ばして、わだかまりなく指揮して映画は終わる。そうそう、第一バイオリンは例の女性だけど、バイオリンにはドニの恋人もちゃんといて。なんだ。結局ミラノに来てたのか。こちらも、「どーせ私は才能がないですよ!」とドニと喧嘩別れしそうになってたのに、都合よく収まってたりして。なところは、かなりテキトーだな、とは思わせるけど。まあいいか。 ・息子は音楽じゃなくて、料理人志望。ミラノへは、ACミランのシーズンチケットめあてでついていく、とか。そんなチケットが簡単に取れるのか? 金の力かな。 ・ドニのいまの彼女はバイオリンやってて、自分の指揮する楽団にいて、でも難聴で補聴器つけないと音が聞こえない? でもプロの音楽家にはなれるのか。だけど技量はイマイチ? と本人もドニも思ってる? あたりがよく分からない。たって、最後のスカラ座の場面で、ちゃんとメンバーとして参加してたから。べつのドニの贔屓、じゃないんだろ? ・冒頭のドニの受賞挨拶に、小澤征爾の名前がでてきたのに驚いた。小澤はブーイングを受けた。ブーイングを受けるぐらい栄誉はない。みたいな内容。へー。と思っていたら、後半だったか、家でリラックスして見てるクラシックのビデオに小澤が登場していて。プロが聴くほどの名指揮者なのか。へー。 | ||||
ソウルに帰る | 8/25 | Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下9F | 監督/ダヴィ・シュー | 脚本/ダヴィ・シュー |
原題は“Retour a Seoul”。公式HPのあらすじは「韓国で生まれフランスで養子縁組されて育った25歳のフレディは、ふとしたきっかけで、母国である韓国に初めて戻ってくる。しかし、自由奔放なフレディは、韓国の言葉や文化になじめず、誰とも深い関係を築けない。そんな中、フランス語が堪能で親切な韓国人テナの手助けにより、フレディは自分の実の両親について調べ始める。」 Twitterへは「フランスに養子縁組された韓国娘が、長じて実父母を探す話。監督はカンボジア人。役者はほぼ韓国人。資本は独仏ベルギーカタール。前半は面白い。2年後、5年後も描かれるけど、奔放だった娘の角が取れてく感じで、だんだんつまらなくなっていく。」 生まれてすぐ、フランスに養子に出された娘が、アジアを旅行。日本に行く予定が台風で飛行機が欠航し、韓国を訪れた。とくだん実の両親には興味がなかったはずが、探す伝手があるということを知って、その気になって探し始め、会うという話である。韓朝鮮戦争後、韓国の貧しい家庭では子どもを養子に出すのが多くなった、というようなことを聞いたことがあるけれど、その関連か。とはいえ8年前に25歳だから、2014、5年の話で、主人公のフレディは1990年前後の生まれということになるんだろうけど。 たまたま泊まったホテルの従業員のテナと知り合い、テナの友人も一緒に韓国居酒屋へ。ここでテナから、養子の素性を調べてくれる組織があると聞かされるけど、「フレディは別に会いたくない」と素っ気ない。さらに、外見は韓国人でも中味はフランス人、を見せる演出がいくつか。たとえば「手酌は相手に失礼」といわれあえて手酌したりする。さらに、 「初見演奏ってしってる?」といい、他の男性客の間に割り込むと、別のテーブルの女性二人客もつれてきて大盛り上がり。で、夜中、気づくと横に男が寝ていて。起こすと、「私とあんた、やった? もう一回やろ」となったり。まあ、韓国の儒教的な規範からは逸脱してるよな。 と思ったら、なんだよ、翌朝になるとテナに聞かされた養子探しの組織に1人で向かってるではないか。突然なので必要な書類はなかったけど、いつも持ち歩いている、生まれた時の写真の裏面の番号で本人確認できて、実の両親に連絡をとってもらうことになる。なんだ。そんな写真を持ち歩いているなんて、ルーツにこだわりがあったってことじゃないか。 電報を打って「会ってもよい」と返事があれば会えるのだという。両親は離婚しているのか、別々に住んでいて。父親からは連絡があり、来いということで、テナと2人で訪問することになる。なんだ。肝心なときになると1人は心細いのか。 待っていたのは父親と実妹2人、簡単な英語がしゃべれる父親の妹(叔母)、祖母、再婚後の義母。父親は涙ながらにベタベタな感じなのは、いかにも韓国らしいオーバーアクションで、恥ずかしくなるほど。当時は貧乏で、心ならずも養子に出したといいわけしつつ、父親は2人を故郷の海に連れて行き、露店で売っていたバレエシューズを買ってくれるのだけど、こんなものを誰が喜ぶのか、という感じ。まあ、何かしてやりたいという心の現れなんだろうけど。 父親は「泊まっていけ」というが、フレディは「テナの実家に泊まる」と断るのでそうなのかなと思ったら、なぜか父親の家に泊まっているではないか。説得されたと言うより、自ら「じゃあ」と考えを改めたのか。なんか不思議なつなぎシナリオの展開で、面白い。のはいいんだが、夜中、となりで寝ている祖母が泣きながらフレディの頭をなでてくる。あれは不気味。いかにも韓国らしい情の具現化というか、サインだな。 翌朝、父親は、別れを惜しむ感じで、「韓国に残れ」とあいかわらずしつこい。さらに、すでにタクシーを呼んでいるのに「俺のクルマで送る」といったりする。あまりのベタベタさを嫌ったのか、父親を振り切るように、挨拶もせずにタクシーに乗り込むんだけど、まあ、そうだよなあ、と思った。まあ、こうなるのは分かっていながら泊まったフレディの責任だけど。 たしかフレディは↑の途中に、フランスの母親にテレビ電話していた。日本に行くはずが台風で欠航でたまたま韓国に、と話していたけど、母親は意図的にいったんだろう、な不審感を抱いていた感じ。まあ、フレディも半ば呼ばれて韓国に来たというか、心のどこかで故郷を訪問、の気持ちはあったと思う。このときだったか、買ってもらった靴を捨ててしまう。未練なんてない、という感じで。 うさを晴らすように、どこかのクラブに出かけるフレディとテナ。どうも父親から韓国語のメールがひっきりなしに来るらしく、読めないしうざいから辞めるようにいってくれとテナに言う。のんびりした韓国歌謡からロックに替えてもらって、一人踊るフレディ。テナを誘うが、でも断られる。まあ、韓国的な常識では、1人ではしゃぎ踊る、はないのかも。 ここでだったか、テナの友人なのか、別人なのか、あのとき寝た男? がフレディにプレゼントを贈り、韓国に残って欲しい と恥ずかしげに告白する。奔放なフレディに惚れちゃったのか。義務感みたいなものなのか。でも、フレディはせせら笑う感じで、フランスに恋人がいるから、とズバリと断る。たぶん男はフレディに韓国女性らしい反応と対応を期待してなんだろうけど、フレディの中味はフランス人だからな。たまたまセックスしたからって、男が好きでしたわけじゃないはずで。そのあたりを理解できないのは、現代の韓国男でもムリなのかもね。 その後、フレディはテナにキスしようとして顔を背けられるんだけど、ありゃどういう意味だ? 奔放すぎて、韓国の風習とは違いすぎるから、相手にできない、と拒絶されたということなのかね。なわけで、夜中、あのクラブのマスターと(セックスしたのか、これからしようとしていたのか知らんけど)歩いていると父親が酔って近づいてきて、「なんでこんな男と」と怒鳴って絡もうとするのでマスターはさっさと逃げてしまう、というのが変な感じ。しかし、田舎から出て来て、いったんは捨てた娘の動向を監視し、あれこれ注文をつけるというのが韓国式の規範なのかね。うっとうしい。と、たぶんフレディも感じたはず。 で、2年後、の字幕が出て。ごちゃごちゃした部屋で、なに? ここは韓国? 住んでるのか? 少しの韓国語で答えたりしている。なんだよ。あんなことがあったのに。な感じ。 マッチングアプリで出会ったフランス人と飲んでいて、そのフランス人は武器商人らしい。フレディ自身はフランスの企業に勤めていて、ってことはいったんフランスに戻ったのか。でも、その会社の韓国担当になったらしい。フランス武器商人はフレディのことを「トロイの木馬か」なんていってるんだけど、そんなつもりはないんじゃないのかな。しかしいきなりの展開で、どこにも必然性もないので、ああそうですか、と付いていくだけだ。 派手な格好をしたフレディが部屋から出て行くんだったか、どっかの店に顔をだすんだったか。その店の兄ちゃんといい関係みたいな感じだったっけかな。刺青男とキスして。どうもフレディの誕生日らしい。でもフレディは誕生日が嫌い。まあ、自分が捨てられた日だから、なのかも知れないけど。たしかホテルや空港でパスポート見せて「おめでとう」といわれても素っ気なく返事してただけだったような。なんか騒音が聞こえて、「サプライズ?」と聞くと、刺青男は「誕生日だろ? みんなきてる」にフレディは「誕生日は嫌い」といいつつ、次の場面ではパーティに参加してたりする。こういう、逆の展開をフツーにつなぐ編集は面白いけど、要は、フレディの二律背反的な反応を見せようとしているのかも。養子探し組織に興味がなさそうにしていながら、ちゃーんと訪問していたりするところも同じだ。 と、思ったら一気にとんで5年度、の字幕が出て。白人男と来韓なのか。タクシーにいる。フレディは、例の武器商人と連絡する、とかなんとか言っている。武器商人との性的関係はつづいているのか? 白人男がいまの彼氏なのか。のあたりは、分からない感じ。 父親、叔母とも再会してるのは、やはり韓国人の血なのか。なんだ、中味はフランス人で韓国は捨ててるのかと思ったら、どっぷりじゃないか。「なんの仕事?」と聞かれて、「 ミサイルを売っている」と淡々と話す。ではフランスの商社で相変わらずの韓国担当で、5年前に知り合った武器商人とのビジネスがずっとつづいている、ということ? この映画の本筋と、どういう関係があるんだ? ちっとも分からないが。父親はお酒の量が減ったといい、さらに、相変わらず「韓国で暮らせ」という。父親のこの態度は、本心で言っているのか、よく言われる韓国人の情の濃さのアピールなのか。よく分からんけど。にしても、フレディにとって韓国に来るたび実の父親と会うというのは、どういうことなのか。なんか不思議と言うより、気持ちが悪い。 その後だったか、やけ酒だったのか、よく覚えてないんだけど、明け方、繁華街で倒れているフレディが、ぎくしゃくと立ち上がる。韓国も、女性が繁華街で酔っ払って倒れていても安心できる国なのか。 相変わらず養子探し組織に顔を出すフレディ。母親の方は2年間に6回電報したけど返事がなくて、最後の電報には「会いたくない」と返ってきたらしい。フレディは、もっと連絡をとって欲しいと要求するけれど、決まりだからこれ以上はムリ、と返される。まあ、それがルールなんだから当たり前だろう。というか、そんなに実の母親に会いたいのか? 映画の冒頭のあたりと比べて、この怨念のようなしつこさは何なんだ? と思ってしまう。骨の髄まで韓国人なんだな。 でまあ、そうなるんだろうな、と思っていたとおり、実母から、会ってもいい、という返事が来るのだが。なぜ母親が心変わりしたのか、は描かれず。なのでもやもや。で、フレディは、最初に養子として預けられた施設に行って、ここで会うことになる。係員(ここの係の女にも、誕生日おめでとう、と言われてたっけかな? つまり、この日も誕生日だったということか)からは、いったん別室で待ってもらって、呼びますから、と言われたような気がするんだが、背後に実母が現れるんだけど、ピントがボケててまともに写さない。実母は、「触っていい?」と。号泣とまでは行かないけど、泣くフレディ。なんだよ、父親には泣かなかったのに、この違いは何なんだよ。男親と女親じゃ違うってか。なんかなあ。実母は紙に書いた何かを渡すんだが(よく見えなかったけど、渡されたのはメアドだったようだ)。父親ともメールでつながり(あいかわらずうっとーしーのかな、父親のメールは。それとも、たまには返信してるのか?)、母親ともメールでつながった。フレディはこれで満足なのか? 1年後。トレッキングかなんかしていて、でも、どこの国かは分からんけど、チェックインでパスポートを見せると、またまた誕生日。ここで母にメールすると、アドレスは無効です、となっている。誕生日に、またまた母親に捨てられた、ということか。荷物を持って出ようとしたのは、泊まるのを止めようとしたのか、それともちょっと外出のつもりだっちたのか。よく分からんけど、ロビーにピアノがあったので、立てかけてあった楽譜を見ながら演奏する。これは、ソウルの居酒屋で見知らぬ人を結びつけたときにフレディの言っていた、初見演奏につながるのかね。どうつながるのかは、分からんけど。会いたくなったら目をつぶれがおっ母さんの顔が浮かんでくる? 韓国版『瞼の母』かよ。 というわけで、赤ん坊のとき養子に出され、外見は韓国人でも中味はフランス人、のつもりだったのが、実は中味までベタな韓国人で、血の結びつきを最優先する娘の話だった。こういう話をカンボジア人がつくるというのが、不思議だよな。 | ||||
ジェーンとシャルロット | 8/28 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/シャルロット・ゲンズブール | 脚本/シャルロット・ゲンズブール |
フランス/イギリス/日本映画。原題は“Jane par Charlotte”。allcinemaのあらすじは「シャルロット・ゲンズブールが、母ジェーン・バーキンを被写体に監督デビューを飾った長編ドキュメンタリー。ジェーンにはシャルロットの他に、それぞれ父親の違う長女ケイトと三女ルーがいた。自分を含む3人の娘のことをどう思っているのか、シャルロットはこれまで率直に話し合ったことのない母ジェーンの知られざる心の内に迫りたいと、カメラを手に来日中のジェーンとの対話に臨むのだったが…。」 Twitterへは「女性客がいつまでも減らない。70、80の老ファンってわけでもなさそう。こちらはジェーンもシャルロットもとくに思い入れないので漫然とみてた。母親の男遍歴とか3姉妹のこととか元亭主セルジュのことを知らないので、なおさら置いてきぼり。」 シャルロット・ゲンズブールとジェーン・バーキン。名前は知ってるけど、代表作はよく知らない。シャルロット・ゲンズブールがでてる映画は何本も見てるけど、ほとんど記憶にない。記憶に残ってるのは、なんでこんなブスが映画に出つづけられるのか、ということかな。性格俳優というわけでもないし。ジェーン・バーキンは、歌手でもあるんだよな。映画の方はとみると、『欲望』『太陽が知っている』『カトマンズの恋人』『ナイル殺人事件』『美しき諍い女』なんていうのは題名は知ってるけど、見たのか見てないのか。というより、ジェーン・バーキンに結びつかない。昔の写真を検索するとエロっぽくて可愛い写真が出てくるけど、ピンとこない。っていうか、印象に残らん顔だな。というのが感想なんだけど、世の奥様方にとってシャルロット・ゲンズブールとジェーン・バーキンは、どういう存在なんだろう。ジェーン・バーキン『欲望』のファンなら70代以上じゃないのか。客席は、そんなババアで埋まってなかったけどな。シャルロット・ゲンズブールに、特定のファンなんているのか? なんか、フランスで超有名らしいから、程度のもんじゃないのか? まず、技術的なことを言うと、カメラがダメだ。冒頭の、日本のどこかでのコンサート。カメラブレブレ。ピントも甘いし、プロじゃないだろ。他にも、面と向かって撮ってるのにAFのピントが定まらないでゆらゆらしてるとか。プロじゃないだろ。ときどき思いついたように16mmで撮ったようなカサカサの画調になったりするのは、あれはシャルロットが撮ったモノをつないでるからなのか。遊んでんじゃねーよ。 親子の会話がつづくんだが。人間関係が分からない。二人が親子。セルジュ・ゲンズブールがシャルロットの父親。これはいい。なんだけど、ケイトとかアリスとかルイとか、なんの説明もなくでてきて、なんなんだ? 中盤にケイトは死んだ娘、らしいけど、よく分からない。会話の中で、「みんな2女だから」とか「セルジュがつき合った女に子どもが一人ずつ」(だったかな?)とかでてきて、よけいにこんがらがる。アリスってだれなのよ。そういえばシャルロットの娘らしいのはジョーと呼ばれてたけど。で、セルジュ・ゲンズブールがつき合った女が何人なのかも分からんまま、そうやって人物名がだらだらでてくる。やめてほしい。 な、なかで目を見張ったのが、2人が骨董品屋のようなところを訪問する件で。小さなヴンダーカンマーのような有様。どうもセルジュの家らしいが、なんなんだ? あとから調べたらセルジュは1991年に62歳で亡くなっているらしい。その部屋が、ほとんど当時のまま、ホコリもかぶらず残っているのはなんでなの? 2人は懐かしがって、「展示すべきよ」とか脳天気に話してる。いまは誰の持ち物で、誰が管理しているのか? どういう伝手で訪問できたのか? がとても気になった。 ※あるサイトに、アリスはシャルロットの娘とか書いてるのがあったけど、じゃあ、ジョー、はなんなんだよ。はっきり映画の中で説明してくれ! 2人の会話はたわいのないものばかりで、あなたが可愛かった、でも、他の娘がひがまないように、とか、どーでもいいようなことを断片的にだらだらいうだけ。2人をめぐる男関係、兄弟姉妹関係が分からないこちとらにとっては、ちんぷんかんぷん。どーでもいい内容でしかない。それがどうした、な感じだった。 ・シャルロットはハッセルブラッドとか16mmカメラを手にしていたけど、技術の方はどうなのかね。撮ったのだろうスチルも登場したけど、うーむ、な感じ。 ・冒頭の日本でのコンサート。オーケストラの指揮者がなんとなくチンケに見えて、音もこもって聞こえたんだけど。 ・茶の湯とか魚市場とかでてきたけど、とくに説明なし。 ・ほんと、この映画、主観的で、とても分かりにくい。まあ、熱狂的なファンなら説明されなくても分かるんだろうけど。そんなもの見せられるのは、迷惑だよな。 | ||||
高野豆腐店の春 | 8/30 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/三原光尋 | 脚本/三原光尋 |
公式HPのあらすじは「尾道の風情ある下町。その一角に店を構える高野豆腐店。父の辰雄(藤竜也)と娘の春(麻生久美子)は、毎日、陽が昇る前に工場に入り、こだわりの大豆からおいしい豆腐を二人三脚で作っている。ある日、もともと患っている心臓の具合が良くないことを医師に告げられた辰雄は、出戻りの一人娘・春のことを心配して、昔ながらの仲間たち──理髪店の繁(徳井優)、定食屋の一歩(菅原大吉)、タクシー運転手の健介(山田雅人)、英語講師の寛太(日向丈)に協力してもらい、春の再婚相手を探すため、本人には内緒でお見合い作戦を企てる。辰雄たちが選んだイタリアンシェフ(小林且弥)と食事をすることになり、作戦は成功したようにみえたが、実は、春には交際している人がすでにいた。相手は、高野豆腐店の納品先、駅ナカのスーパーで働く道夫(桂やまと)だった。納得のいかない辰雄は春と口論になり、春は家を出ていってしまう。そんななか、とある偶然が重なり言葉をかわすようになった、スーパーの清掃員として働くふみえ(中村久美)が、高野豆腐店を訪ねてくる。豆腐を作る日々のなか訪れた、父と娘それぞれにとっての新しい出会いの先にあるものは。」 Twitterへは「丁寧な演出はいいんだけど、いくらなんでも豆腐屋の40半ばの出戻り女に見合い相手があんな湧いてくるわけないだろ。藤竜也のバカ親父は寅さん的な感じ。老いらくの恋心がほほえましく、友人たちもいい。ムリやりな小津っぽさは要らんのでは。」 舞台は尾道。だからって『東京物語』と同じ灯篭とか渡し船は要らんと思うけど。なんかこだわりがあるのか。 40半ばの麻生久美子がヒロイン? と思ったんだけど、若い頃に結婚してすぐ別れた設定。で、おせっかいな辰雄の友人やが辰雄を焚きつけ、いい人とくっつけようという作戦がスタートするのだけれど、おいおい。田舎町の豆腐屋の40半ばのオバサンに、相手はいるのか? と思ったら、市内はおろか県全域から相手を見つけてきて、まず父親の辰雄が面接し、イタリアンシェフと大豆の話で話が合ったので、これなら、ということになるというテキトーさ。なんだけど、いまどきあんなオバサンと結婚したいと思うようなオッサンは、そうおらんと思うぞ。 娘の春は海外経験があるとか英語ができるとかいってたっけか。でも、片鱗はみせず、ただの豆腐屋の行かず後家なんだよね。 でそのシェフとの見合いのようなモノも、なんでああなるの? 的な流れで一流レストランで父・娘・シェフでディナーとなるんだけど、あれは必然性ゼロだろ。もうちょい話を練ってくれ。まあ結局、春はシェフには興味がなく、別のちんちくりんなオッサンを選ぶんだけど、このミスリードはミエミエだし、美人がちんちくりんを選ぶ、もありがちな安心展開。このあたりの、こうなるに決まってる、な流れは、寅さんを始めとする松竹喜劇映画の定番だよな。 いっぽう、病院で狭心症のリスクでカテーテル手術を医師から勧められた辰雄は、落とした手袋をきっかけにオバサン患者の中野さんと知り合い、さらに、豆腐を納品している地元スーパーのトイレで中野さんと再会して話し込むとか、都合のよすぎる展開。いやあ、トイレで用を足しているとき後方でトイレ掃除してる女性がいて、やけに目立つからなんだろなと思っていたんだけど、やっぱりね。ミエミエだ。で、スーパーのベンチで話し込み、帰りがけに豆腐や豆乳をお土産に渡すのは唐突すぎないか? 納品が終わっているのなら、商品はないだろうに。大量に持ち歩いていたのか? この流れとは別にあるのが、高野豆腐の地元スーパーへの卸しで。あんな個人商店がカゴひとつ分の豆腐をスーパーに卸してなんぼの利益だと思うけど、まあ、映画だからな。はいいんだけど、スーパーで出会ったちんちくりん=道夫の存在がいまいちピンとこない。高野豆腐店の豆腐を東京の名店街に出したい、といいつつげていて、でも辰雄には「地元の顧客を大事にしたい」と一蹴されつづけている。さらに、豆腐を世界に広げるために海外研修制を受け入れてどうのこうの(?)な話ももってきたりして。フツーそういうのは東京の商社がやったりするんじゃないのか? でも、あらすじをみると道夫は地元のスーパーの社員? なのか。はたまた、春の企画で豆腐とチーズを組み合わせた商品もあったんだけど、チーズ嫌いの辰雄が潰したとか、てなエピソードもあった。 このあたりの具体的なところについてはほとんどフォローがなくて。なんかいまいちスッと腑に落ちないのだよね。やっぱり、そもそもの春についての情報が足りないからではないのかな。大卒? で海外経験があって? 就職して? 結婚して? 離婚して? でもなぜか実家の豆腐店の手伝いをして…。バタ臭い企画豆腐を開発しつつ父親と喧嘩しつつ、でも、職人としての父親は尊敬している、あたりのことをカチッと描くべきだと思うけどね。「するってーとお前さん、さしずめインテリだな」というところを見せておかないと、見合いも含めたドタバタにすんなりつながらないように思う。 父親と喧嘩して家出して、戻ってきてから結婚を認められ、でまあ、一緒になるんだろう。けれど、豆腐店は手伝わないような流れになっている。春が道夫と結婚しても、豆腐づくりをやめる必要性はないじゃないか。近くに住んで通いで働きに来ればいい。なんなら道夫が豆腐店に住んだっていいじゃないか。と思うのだけれど、じゃあ結婚して、春は何をするんだ? 海外がどうのという話も出ていたように思うんだけど、なんだか具体的にどうするのか、つたわってこなかったんだよね。あのあたりも、セリフが下手すぎ。そう。ときどき生の情報をベタでしゃべる硬いセリフになったりして、へんなところもあるんだよね、この映画。てなわけで、最後が父と娘の別れにつながるような、そうでないような、モヤモヤ感が残っちゃうのだ。 春に関するドタバタ喜劇とは別に、辰雄と中野さんとの高齢ロマンスがあるんだけど、実はこっちの方が面白い。辰雄は狭心症、中野さんはペースメーカー。病院で知り合って、スーパーで再会し、好意を抱き始める。辰雄のてらいが少年ぽくてなかなか可愛い。そのうち分かるのが、中野さんが被爆者で、乳がんの経験者であること。対岸の島に住んでいるらしく、渡し船で行き来している。家はあるが、結婚はしたことがない様子。姪夫婦がいて、「おばさんが死んだら家は…」なことを乳がんで入院しているときに面と向かって言うんだけど、直接的すぎる表現は喜劇ならではだな。分かりやすすぎて笑っちゃう。病院の待合室で姪夫婦の旦那の方がいう、「いっそ早くくたばってくれれば」という言葉にキレた辰雄ともみ合いになり、辰雄は警察のやっかいになるんだけど、あれもそれ程の事件じゃないだろ。でもまあ、分かりやすい喜劇としては、警察をだしたかったんだろう。むかしから喧嘩っ早かった、ってことも言いたかったのかも知れないけど。 でもまあ、乳がんの手術はとりあえず成功したのか、辰雄と中野さんはなかよく街を散歩したりしている。あんなん見られたら、辰雄の仲間たちに大いにひやかされるに決まってると思うんだが。 あともうひとつ、最後の方で明かされるのが、辰雄と春が実の父子ではないこと。辰雄の友人の子で、友人が亡くなり、友人の妻と子を養った、ということらしい(にしては、辰雄と妻の喧嘩でもよく警察の世話になっていた、という春の話はなんか解せないな。女を大切にする心根は、ないのか、辰雄には。よくわからん)。とすると、辰雄はあまり女の扱いを知らず、だから中野さんにも少年のようにおどおどして対応していたのかな。まあいい。 というわけで、おおむね楽しめたんだけど、細部のツメが甘いというか、おおなるほど、なところがちょっと足りなかった感じ。まあ、古きよき時代の映画の世界を継承した話だなあ、という感じかな。 ・しっかし、40半ばの出戻りの結婚話であれだけオタオタするんじゃ、最初の結婚式のときはどうだったのか。ひどかったんじゃないのかね。 |