福田村事件 | 9/4 | テアトル新宿 | 監督/森達也 | 脚本/佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦 |
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allcinemaのあらすじは「日本統治下の京城で教師をしていた澤田智一は、妻の静子とともに故郷の福田村に帰ってきた。同じ頃、沼部新助率いる薬売りの行商団が、四国の讃岐から関東へ向けて旅立つ。やがて9日1日を迎え、関東地方を未曽有の揺れが襲う。多くの人々の命が失われ、関東一帯は大混乱に陥る。そんな中、様々な流言飛語が飛び交い、福田村にも“朝鮮人が集団で襲ってくる”などの真偽定かでない情報がもたらされ、疑心暗鬼に陥った村人は恐怖に浮足立つのだったが…。」 Twitterへは「前半は、どろどろの田舎ぶりを見せるエピソードや、日帝支配の極悪ぶりを強調する類型的な説明ゼリフが多いんだけど、後半になると自然な感じになってくる。トンチンカンな使命感や妄想は、いまでも少なくない。まったくノリというのはオソロシイ。」「Wikipediaをざっと見たら、骨格だけ借用して、いろんな情報をてんこ盛りにしているようだ。日本人と朝鮮人だけでなく、部落民、らい病者などの上下関係も。マスメディアの義務と使命にも触れている。昨今の、政府発表に唯々諾々としたがう体たらくな有様を見ていると、ほんと、やれやれだしな。」「そうそう。たまげたのは、満席だったこと。げげげだった。」 朝鮮人虐殺の話は知っていたけれど、実際にこのような事件があったことは知らなかった。公開前から話題の映画で、公開3日目の月曜日に行ったら長蛇の列で驚いた。この手の話でこんなに客が入るのか? 動員かかってるのか。中年のオッサン客が多かったけど。タダ券配りまくりとか? ほぼ満席。 要は、世の妄言によって根拠のない不安感をふくらませ、敵意を増幅する人たちの話である。 しばらくまえに、電車の中で外人が包丁を振りまわしているということで乗客が混乱したことがニュースになった。人々は逃げ惑い、アップされていた車内の写真には脱げた女性の靴などが写っていた。原因を調べたら、外国人の調理人がうたた寝し、布に包んだ包丁をカバンから落としたということで事件性はなし。これが「外国人が包丁を振りまわしている」になり、「火をつけた人がいる」なんている話も飛びだし、最後は「みんなが逃げているから私も逃げた」になったようだ。 世の中には冷静な人もいれば、付和雷同であたふたする人もいる。個人的な性格もあるだろうし、そのときの状況や情勢に左右されてそうなる場合もあるだろう。けれど、こうしたなかで、騒ぎの中で広がった妄言から判断し、「恐れ」が「敵意」になって、くだんの包丁外国人を攻撃する人も出てくるかもしれない。 関東大震災時の朝鮮人虐殺も、似たようなメカニズムで発生したのだろうと思う。この映画の中でも、むやみに興奮して敵意をあからさまにする連中もいるけれど、同じ状況下にあって冷静に情報を確認し、事に当たろうとする人もいる。虐殺に加担した人をもって、「これが人間だ」とは言えない。そうなりやすい人がいて、そわそわ落ち着きなくなり、行動に移すということだ。そして、それを狙って虚偽の情報を撒き散らし、煽動する連中もいる。この映画の中では、警察官がそういう役割を担っていた。その目的はよくわからないけれど。 妄言に左右されやすい人は悪か? というとそんなこともなく、地震に乗じて井戸に毒を投入したりする連中を阻止するのだ、という彼らなりの正義感で事を行っている。そして、後にそれが間違いである、と指摘されても納得することなく、最後まで自分は間違っていなかった、と信じようとする。まあ、そういう類の人間がいるこということなのだ。そしてそれは洋の東西を問わず同じ。そういう意味で興味深く見られる。 朝鮮人差別が前面に出ず、朝鮮人と思い込んで日本人を殺してしまったという錯乱の捻れも、よかったと思う。直接的に朝鮮人虐殺を前面に出したら、それはただのプロパガンダになってしまう。たぶん、虐殺はなかった側の人たちからの攻撃にあって、論争は起こるけれど本質を浮き彫りにすることはなかったと思う。無知や不安から来る軽挙妄動から、味方まで傷つけてしまうとことがあるというアイロニーこそが、この映画なのだから。これなら、虐殺はなかった側の人も、反論できない。でありながら、朝鮮人虐殺という過去もまたあぶり出される。なかなかうまいつくりだ。 どこまで真実なのか。Wikipediaなどで見ると、 ・讃岐の薬売りは、描かれているとおり被差別部落民だったようだけど、富山と同じような置き薬売りだったみたい。 ・地元の船頭というのがWikipediaに登場する。船頭は薬売りたちを朝鮮人と疑い、言い争った人物らしい。けれど、映画の船頭は出征兵士の妻と間男した男で、でも朝鮮人からの自警団には加わらず、虐殺があった際にも加わらない理性的な男になっている。 また、 ・「不逞鮮人が放火をして暴れている」ので、朝鮮人には気をつけ、各自適当に対処しろ、みたいな内務省通達は実際にあったようで、行政が流言を拡散したのは事実のようだ。また、流言を真に受けた警官が「朝鮮人が暴れている」と触れ回ったこともあったようだ。(『関東大震災における朝鮮人虐殺--なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか』 ・記者の恩田が取材していた男は亀戸事件で殺害された平澤計七といい、労働運動家らしい。殺害されたのは9月3日で、習志野騎兵第13連隊と亀戸警察署の共謀らしい。事件は1ヵ月後に報道されたが、「「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。」とWikipediaにはある。 など、おおむね事実によって構成されているようだ。事実を組み合わせるだけでもなかなかのドラマチック。凄い。 散漫な感想を。 冒頭近く、帰郷する澤田(井浦新)が電車で乗り合わせた客に日露戦争について、「みんなが平等で貧富の差がない国と戦争するなんて」というんだが、おやおやな感じ。そんな単純に日露戦争を考えているとしたら、澤田はアホな感じ。あの戦争の核心を見事に外しているのは、当時の左翼主義者の考えの浅さを茶化しているのか? それともリベラルな脚本家がセリフに押し込んだのか。こういう説明ゼリフがあるんじゃ、どうだかな、という感じで見始めた。 帰郷した澤田夫妻。澤田は朝鮮に住んでいたけど、志敗れ(だっけか?)百姓をするつもりでいる。妻は、田舎に似合わぬ浮いた恰好でバカ奥様を貫き通す。駅舎では、戦没者が遺骨で戻ってきたところで、在郷軍人会や村長が最敬礼で迎えている。母親も妻もうなだれているが、「立派にお国のために」云々という在郷軍人会の長谷川とか、このあたりの描き方も絵に描いたような説明的な流れで、なんだかなあ、な感じがした。 村長の田向と澤田は同窓生なのか。田向は、「自分は進学できなかったけど、お前は立派な教師になった。村でも教師をやってくれ」というが、うなだれるだけの澤田。澤田を認めた長谷川は、「なんだ、帰ってたのか」的な不躾な態度で、ああむかしは田舎の秀才といじめっ子的な関係だったのかなと思わせる。まあでも、説明的な展開だよなあ、と。 まず、福田村が、古い因習にしばられた田舎であることが描かれる。たとえば遺骨が戻ってきた未亡人の咲江は、夫が出征中に船頭の倉蔵と関係があって村人はみんなそれを知っている。誰かが「これで心おきなくべっちょできるべ」といったのがおかしかった。たぶん、客の多くは聞き取れなかったんじゃないのかな。 さらに、茂次は自分が出征中に妻のマスが父親の貞次と関係があったに違いない、と疑っている。夜這いなんかについて書いている赤松啓介が義父と嫁の関係なんかも述べたように思うけど、出征中のこの手の話はあったんだろう。男の欲望か、女の身もだえするような欲望か。で、この話は澤田夫妻にもつながっていて、妻の静子は、夫が自分を抱いてくれないことに不満を募らせていて。それは夫がしようとしてもできなくなっていることが原因で、なぜそうなったのか、ということが帰郷の一因になっている。しかし、女の性的欲望をここまで露骨に描いて、非難されないのかなと心配になったぞ。しかし、このエピソードは福田村事件とは関係ないし、なくてもよかったんじゃないのかな。ところで貞次を演じるのは江本明で。また出てきた、な印象。どの映画を見ても登場してるな。飽きたよ。 無言の帰還もあれば出征もあって、村の人々が酒宴の会を催している。在郷軍人会の長谷川が上座にいて、茂次や倉蔵は下座の方にいる。未亡人となった咲江は女なので手伝いをしている。いろいろ関係のある連中が同じ場所に集うというのは現実的にはどうなのかな。まあ、映画的な演出なんだろうけど。ここで倉蔵と茂次が取っ組み合いの喧嘩になり、咲江の義母が「お前は恥だ」と叫びだし、咲江は家を出ると怒鳴り返す。いやあ、どろどろしとるね。 長谷川ら、何人かが軍服姿のは、なんなんだ? と思っていたけど、在郷軍人会のなかに予備役がいて、そういうのが軍服をもっているので日常的に着用しているんだろう。こういうのは、自己PRであり、ある意味で差別構造の一端にもなっているよなあ。 ところで、未亡人の咲江は豆腐屋らしいのだけれど、のちのち澤田夫婦のところに妻静子が船頭の倉蔵に与えた指輪入りの豆腐をもっていく場面があるんだが、この時点で咲江は夫の家を出ているはずで。では、もう豆腐づくりはしていないのではないかと思うんだが。それに、夫の家を出て、どこに住んだんだ? 倉蔵の住む長屋に同居を始めたのか? それとも、家を出は口だけで、ずっと義母と同居して豆腐屋をしていたのか? 引っかかったところではある。 豆腐と指輪というのは、こうだ。静子は身体の関係を夫に求める。しかし、澤田は勃起せず、できない。そこで静子は顔見知りになった倉蔵にモーションをかけて、船の上で交わる。その様子を、畑仕事に来ていた澤田、そして、咲江も目撃する。静子は倉蔵に「家を出る。どこかに連れて行ってくれ」というのだが、ちゃらちゃらした恰好では遠くに行けず、結局、夜に探しに来た澤田におぶわれて家に帰る。 澤田には衝撃的な記憶があった。朝鮮にいたときバンザイ事件(三・一運動)が起こり、朝鮮人の暴動が発生。日本人が多く殺戮された、らしい。これに対して日本軍は暴動の首謀者とされるキリスト教徒を殺害。教会も焼き払った。この事件(提岩里教会事件)のとき、澤田は朝鮮人との間の通訳としていて、自分が案内した朝鮮人たちが殺され、教会が焼かれる様子を目撃したらしい。それで性的不能となり、日本に戻ってる決心をした、ようなのだ。映画では暴動に対して日本軍が教会に火をつけて朝鮮人を射殺した、と話が単純化されていて、暴動によって日本人が殺されたことには触れていなかったと思う。まあ、日本人は悪を印象づけるための話の単純化だろう。前提として韓国併合がそもそも悪い、なんだろうから。ただし、このあたりもメッセージはステレオタイプで、善悪二元論は説明的な気がしたけど、まあいいだろう。 静子は朝鮮で得た結婚指輪を船上で外し、それが船底に転がるんだったか。それを倉蔵が拾い、家でそれを落とす。それを咲江が拾い、豆腐に入れて、そっと澤田の家の玄関に置く。家出をやめた静子と、澤田との静かな朝食。みそ汁の具の豆腐のなかに、硬いものが。でてきたのは自分が妻に与えた指輪だった、という話。咲江による、「あんたの女房は私の男と交わってるぞ」という警告のようなもの、なのかな。嫉妬にしては静かなる反撃で、なかなかおそろしい。 この映画の面白いところは、格差が見えるところだ。讃岐の行商人は穢多である。だからといって善人ではなく、効かない薬と知りつつ癩病患者を騙して売りつける。路傍で朝鮮人の娘が朝鮮飴を売っている。行商人の頭は、娘からたくさん飴を買って、仲間に与える。ひとりが「朝鮮人の飴には何が入っているかわからん」というのは、震災の前で、日頃からそういう目で見られていたのか。朝鮮併合で暴動などもあって、心の中に朝鮮人は怖いもの、という先入観が醸成されていたのか。そんな仲間に頭は「そんなことをいうな、俺たちの薬だって、穢多のつくもんだから何が入ってるか分からん、と言われてる」と、差別構造の類似を指摘し、まずは自分が飴をなめる。 行商人の2人は沢田家にもやってきて、たぶん行商とか部落民とか、よく知らないのだろう静子は家の中に上げ、富山の薬売りとどう違うの? なんて聞いている。少年の方が、あっちは置き薬で、こっちは、今日お金がもらえないと困る商売、とかなんとか言うんだが。あとから年かさの方が少年を「あんなことを言ったら、関西ならすぐバレる」と叱るのがよく分からなかった。それだけで、行商人が穢多であることが分かってしまう、というのか? 福田村の中でも、戦争帰還兵は崇められ、間男の倉蔵は白い目で見られる。進学した澤田、進学せず村に残って村長になった田向、などなど、一般人の間にもわずかな上下関係がある。茂次の父親貞次は、武勲を語り崇められてきたが、近ごろ口が重い。実は軍に従って戦争に行っただけで、敵を殺したことなどない、と息子に(だったか)告白する。見栄だ。そういう格差が見える構造になっているのがとても興味深い。 震災の話というのは分かっているので、いつグラリ、なのかと気にしながら見ていたが。行商人たちがやってきても、のらくら話は進み、澤田のへっぴり腰の農作業、浮気性の静子、倉蔵の間男話、茂次の嫁に対する疑心暗鬼、千葉日日の新聞記者の恩田楓と上司の砂田との対立、村人の間に入ってうろうろする村長・田向なんかの話がのろのろつづく。グラッときたのは、恩田が労働運動家・平澤計七を取材中のこと。おお、やっときたか。なんだけど揺れの様子や被害がどうのと言う話がそんなにない。フツーならここで当時のニュース映像や新聞紙面を挿入し、盛り上げるんだろうけど、そういうことをしないのは、意図的なんだろうけど、なんか盛り上がりに欠けるような気がしたな。 朝鮮人が井戸に毒を、てな話は、この映画では官憲が囁いて広めたようになっている。実際にそういうことはあったようだ。けれど、目的がよく分からない。朝鮮人がそういうことをしていると広めて、どうしようというんだろう。朝鮮人への敵意を高め、朝鮮人を殺害したい、という思惑があったんだろうか。朝鮮人が国内に流入していることに、警察や軍は不安感を強めていたとか、あるのかな。ムダに疑心暗鬼を強めるだけで、かえってリスクが高まるだけではなかったのかね。あるいは、一部の反朝鮮人的な思考をもつ連中の企みだったんだろうか。 恩田は、千葉へ帰る途次、朝鮮人の女性に助けを求められるが、軍人だか自警団だかに取り囲まれる。朝鮮人が言いづらい言葉を言え、といわれ、恩田は彼女を唖、といって逃れようとする。んだけど、よく覚えてないけど、バレて、女性は刺殺されたんだったかな。 このあたりから根拠のない敵意が朝鮮人に向けられ、朝鮮人狩りが始まる。こうしたことについて、恩田は「書くべきだ」と上司に言うのだけれど、無視される。そうして、記事の末尾に、朝鮮人の動向が心配だ、てきな決まり文句を書くよう要求するが、恩田は拒否する。それにたいして、上司は「書いて起こることより、書かないで起こることの方が怖い」という。このあたりの立場と行動は、分からなくもない。けれど、こういうマスコミの態度は、いまと変わらないな。 たとえばウクライナの戦争で、新聞はロシアを悪者にし、ウクライナを善人とするような記事ばかりを書いている。コロナ禍についてもそうで、実はコロナはインフルなみのレベルだし、ワクチン被害の方が重要、というのも、ウェブの情報を集めてみてみれば分かること。しかし、そうは書けない。事実を書くことは要らぬ火種を撒き散らすことになるので、大勢に従うようなことしか書かない。それと同じだ。 でまあ、福田村でも自警団が結成され、長谷川とか茂次が率先して見知らぬ連中に誰何しようとし始める。内務省通達で、朝鮮人に気をつけるように、というのが発令されていたようなことを言っていたけれど、調べて見ると、海軍から内務省警保局長名で各地方長官に、“朝鮮人が各地で放火し、不逞の目的を遂行しようとしているので、朝鮮人の行動には厳密な取締を加えてもらいたい”というような電文を打電したという例があるようだ。 映画的にはこのあたりから俄然面白くなってくる。監督も、「この映画はエンタメだ」と言っているとおり、プロパガンダという几帳面さなんかよりも、暴走する人間模様に目を奪われていく。 神社にやってきた行商人一行がひと休みしていると自警団が取り囲み、あれこれ問いかけ始める。もちろん朝鮮人ではないから、特有の妙な発音はしないのだけれど、讃岐訛りを聞き慣れないので、怪しい、となってしまう。 ここで行商人の頭が、朝鮮飴売りの娘からもらった朝鮮の扇子を出して煽ぐ、というわざとらしい演出もあったりするんだが。頭は、行商の鑑札を見せるが、本物かどうか怪しいというので、警官だったか役場の人間だったかが「調べてくる。帰ってくるまでなにもするな」と言い置くんだけれど、自警団の連中は行商人たちを針金で縛ったり、威圧的な態度を取っているのだが…。 ここで赤子を背負った女がひとり、ふらふらあ、とやってきて、頭の前に来ると手にした鎌を脳天に突き刺すのだ。おお。最初、この女は誰? と分からなかったんだけど、あとからそういえば、と分かった。亭主が東京・亀戸(だったかな?)あたりに行っていて、もしかして朝鮮人暴動の被害を受けているのでは、と妄想を募らせていた女、だったんだな。 でまあ、これを契機として殺戮が起こり、行商人たちは逃げまくる。自警団に村人たちを加えた連中は追いまくる。無抵抗で、やめてくれ、というのを竹槍で刺す。在郷軍人会は銃まで持ち出し、撃つ。死骸が川に流れていく。…が、あちこちで繰り広げられる。この殺戮の様子は圧倒的。 コロナ禍で発生したマスク警察というのがあった。マスクをしていない人に脅しをかけたり暴力を振るったりした連中だ。マスクは不織布が効果的というニュースに反応し、ウレタンマスクをしている人に威圧的になったりする例もあったという。彼らはたぶん、正義感でやっているのだろう。間違ったことをしているとは思っていない。震災時の自警団も、根は同じだろう。どこかで耳にした、不逞朝鮮人が井戸に毒をいれた、各地で暴動を起こしている、という根拠のない話を信じ込み、日本人を救うために立ち上がった人たちだ。でも、それは一方的なだけで何の根拠もない。そう。根拠もなく、どどどっと走り出す類の連中というのが、昔も、そしていまもいるのだ。 いわゆる同調圧力というのではない。その場のノリでやってる感じ。ここで俺も刺さないと、あとから仲間に何を言われるか分からないし、なんて考えている様子はなくて。自分からどんどん同調していってる感じかな。後から振り返っても、なぜ自分はそうしてしまったのか、分からないと思う。そんな感じ。 そうこうするうち警官だか役人が、「鑑札は本物だ! この人たちは日本人だ!」と戻ってきたとき、神社の境内では縛られていた何人かの行商人は震えていた。自警団の連中の動きは、止まる。けれど、長谷川はつぶやく。「いまさら、そんなことを…」。頭に血が上っていると、暴走している自分も分からなくなる。ヤバいやつの典型だ。将来的に、コロナが大した風邪でなく、むしろワクチン被害が明らかになったあとに、「いまさら、そんなことを」という人たちこそ、この事件の加害者と同じ類の正義感を振りかざす連中だ。たぶん。 そんな神社の境内に、ひとりの男がやってくる。最初に頭の脳天に鎌を突き刺した女の亭主が、ピンピンして戻ってきたのだ。呆然とみる女…。この女も、舞い上がりすぎて何も見えなくなってしまう類の人なんだろう。 ラストは、人数の少なくなった行商人が故郷に戻る場面。冒頭では、多くが出発したのに、少年は、故郷の娘と再会するのだけれど、なんともいえない顔をしている。当たり前だけど。 さて、この事件。行商人15人のうち子ども3人を含む9名が殺されたという。殺された1人は妊婦なので、犠牲者はもうひとり多いともいう。川に投げ込まれた遺体は利根川に流され、行方もわからないとか。 自警団員の何人かが検挙され、懲役刑の実刑判決が下されたが、2年半後に昭和天皇即位による恩赦で釈放されたらしい。Wikipediaによると、なかのひとりは後に村長となったという。 ・朝鮮人を怖がったのは、日韓併合や、その結果、同化政策が進み、でも地位は日本人以下。鮮人と蔑んだ人たちが、その仕返しをされるんじゃないかと恐れたから、という見方もあるようだ。ふだんから弱いやつをいじめているやつが、時として窮鼠猫を噛む的な反撃をされるとひるむ、というのと似ているのかも。罪悪感があるから恐れるというわけだ。 ・井浦新と田中麗奈の澤田夫婦は、映画の狂言回し的な感じで創作だろう。じつをいうと、この2人をめぐる話はとりたてて面白くない。澤田が提岩里教会事件を目撃し、同じ日本人として衝撃を受け、帰郷して農民になろうとするという、「?」な行動と、勃起できない身体になったということ、その結果、妻の静江が浮気に走る、てなエピソードに使われているだけ。福田村事件とはほとんど関係ない。串となる存在があると話が展開しやすいから、なんだろうけど。提岩里教会事件もムリやりくっつけてる感じもしなくもないんだよね。 ・未亡人の咲江は、強い女として描かれている。でも、夫の戦死前から倉蔵と関係があったのだから、たんに男がいないと生きられない、いわゆる淫乱女ともいえるわけで。しかも、それを恥とも思わず、村人すべてが倉蔵との関係を知っているのに、堂々としている。別に現代的な女性でもなんでもないだろう。本能的に従ってるだけな感じがする。 ・新聞記者の恩田楓は、ジャーナリズムの本来は、的なことで上司に反発する女性だ。はたして当時の日本に、こんなことを公言できる女性がいたのかどうか。まあ、ジャーナリズム、マスコミの使命を代表する役割なんだろうけど、女性である必要はなかったような気がする。 ・ビンタや殴打が、わりとリアルにやってるのが印象的だったな。たとえば咲江を義母が宴会の席で殴るところとか。 | ||||
ウェルカム トゥ ダリ | 9/5 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/メアリー・ハロン | 脚本/ジョン.C.ウォルシュ |
原題は“Daliland”。allcinemaのあらすじは「1974年、ニューヨーク。画廊で働き始めた青年ジェームズは、仕事の使いで憧れのダリが定宿にしていたホテルを訪れる。そしてダリとその妻ガラに気に入られた彼は、アシスタントとして個展の準備を手伝うことに。しかしダリはパーティ三昧で、肝心の作品は一向に仕上がらない。すると、たまりかねたガラがダリを激しく叱責するのだったが…。」 Twitterへは「ダリを演じるのも大変だ。は、主演のベン・キングズレーの言葉ではなく、ダリ自身のもの。あの岡本太郎も普段はフツーの人だったらしいからね。話はドタバタに近くて、虚飾にまみれたダリはちっとも雲の上の人ではなかった。」 予告編はベン・キングズレーがあたふたする場面ばっかりで、いまいち惹かれなかったんだけど。若い頃も描かれるとか、画廊の裏側が面白い、という話を小耳に挟んだので見てみた。若い頃というのは、いまも横にいるガラとの出会いとか、ガラの自殺願望を回想するようなところの3回だけで、ドラマと言うよりはイメージ的で、物足りなかった。画廊の裏側は、まあ、ちょっとだけで、素人には分かりにくい部分もあって、それほどでもなかったかな。結局はある時点(1974年〜)のダリのドタバタと、ガラを失い、火傷と痴呆症(?)で意気消沈したダリがチラッと写る程度。まあ、映画のつくりは青年ジェームズの視点から描かれているので、いまいちあれこれ中途半端な感じに終わってる。 ちなみにサルバドール・ダリ(1904〜1989)で84歳没。ガラ(1894〜1982)との出会いは1929年らしい。 冒頭は「私は誰でしょう?」的なテレビ番組に出て、いい加減な答を繰り出して笑わせている。へー。こんなお茶目なところがあったんだ。というか、マスコミにもひょいひょい顔を出してたのね。気難しい人かと思っていたので意外。なテレビ番組を見ている、現在? のジェームズ。 さてその青年ジェームズは実在の人物なのか? 監督の言葉がWebにあった。「“ジェームス”という人物が実際にいたわけではありません。しかし、ダリは常にジェームスのような若くて美しい男性のアシスタントをそばに置いていました。同様に彼のパーティに華を添える美女=ジネスタも実在の人物ではありませんが、当時ダリは常にブロンドのグラマラスな女性に囲まれていて、彼女たちを皆、“ジネスタ”と呼んでいたのです。ギャラリーのオーナーであるクリストフも含め、これらの登場人物たちはフィクションではありますが、実際にダリの周りにいた人々を表象する人物に違いありません」なんだと。なるほど。 でまあ、ジェームズは画廊に勤め始め、主にどこかの画廊に荷物を届けるように言われ、なことしてるあいだにダリに出会い、「おまえ、ちょっと手伝え」といわれる。画廊主にいうと、じゃあ辞めてくれと言われるけど、間近に個展をひかえるダリの情報を収集するから、ということで半ばスパイ的な感じでダリのところに出入りするようになる。ダリは絵を描くよりも乱痴気パーティが好きなようで、若い娘や若い男、トランスジェンダー?の女性、なんかを呼んで夜な夜な騒ぎまくっていたらしい。アリス・クーパーとも友達? そこでジネスタという美女と知り合いになり、さっさと寝ちゃうのだから、なんじゃこれ。 で、よく分からんのがガラの存在で。ダリの近くにいてあれこれ仕切っているのは分かる。なんだけど、若い男を見れば誘ってる。若い頃、ダリがその背中に魅せられた、というガリは、若い頃はさぞかし、と思ったら回想シーンではいかつい顔で。どこに魅せられたんだかよく分からない。蜜月はしばらくの間だけで、でも、現在まで頼り頼られの関係というのは、なぜなのかね。いまじゃ『ジーザス・クライスト・スーパースター』のジーザス役を演じた役者にゾッコンで、かなり貢いでいるらしい。大衆演劇の役者に貢いでるおばさんとなんら変わらない。ジーザス役の役者の歌は酷いものなのに、それも分からない。ダリが描いたガラの肖像画もくれてしまい、ジーザスはそれをサザビーズに出して売れたという。それを知ったダリは「あれは、そんなにいい絵じゃない」というけど、怒りは見せない。日頃からジーザスにベッタリな様子を見ても、やれやれ、という顔しかしないのだから、不思議。そんなガラは、経歴を見ると1974年の時点で80歳じゃないか。もっと若いのかと思ってたけ! ダリはガラがいないとスケジュール管理もお金の管理もできない様子。を、いいことにガラは散財している様子で。次の個展で作品が売れないと生活費もままならない、みたいなことを言っている。まあ、夜な夜なパーティもいけないんだけど、ダリはこれが辞められない。なんでダリはガラにへいこらしてるのだ? 昔の恋人でいまはマネージャーなんたぜろ? と見てるときは思ってたんだけど、れっきとした妻だったのか。おやおや。これで破綻しない関係というのはなんなんだ? それを説明するかのような、かつてダリがガラの背中にひと目したときのこと、それから、なんかよく覚えてないけど、崖から飛び降りようとしたときのこととか、回想シーンとしてでてくるけど、いまいちピンとこないんだよね。まあ、いまさら別れられない腐れ縁なのかしら。 というダリのあれこれよりも、実は、ジェームズとジネスタとの恋愛模様の方が面白そうだったんだよなあ。話としては。でも、ジネスタは別の男とも寝ていたりするし。自分だけが特別というわけでもない不思議な関係を、ジェームズは困惑しながら過ごしていたのかな。 てなわけで、遅々として進まぬ絵画制作をジェームズは監視していたりする。ダリは、速成製作を思いついたのか、出入りする娘たちのお尻に絵の具を塗って、娘たちはキャンバスの上に座る、というようなことまでしていた。へー。あんな作品、知らなかったけど。 面白かったのはダリが無地の紙にサインをする場面かな。その紙をどこぞの印刷屋に持ち込み、ダリの絵をオフセット印刷。リトグラフと称して売りさばいている、のか? あの画廊は、最初にジェームズが行ったところで、オバサンがダリの絵を買おうとしていたところかな? よく覚えてないけど。あのからくりは、よく分からなかった。 でも、ジェームズは、勤め始めた画廊でオフセットには網点がある、って教わっていたので、こりゃヤバい、とは感づいていたはず。いや、網点なんてめを近づけば誰だって分かるだろうに。あんなんで騙されるやつがいたのか? 乱痴気の合間に見せる疲弊した様子が、痛々しい。自分では「ダリは神だ!」なんていってるくせに、老いへの恐怖は隠せない。あのトレードマークのヒゲをつくる場面など、残酷なほどみじめに撮っている。「ダリを演じるのも大変だ」と漏らすところもあって、まあ、そうなんだろうな。岡本太郎も、ちょっとイっちゃってる感じの印象があるけど、あれは実は演出で、普段はごくフツーの人なんだとか。ダリの髪型や髭、奇行も含めて、人に見られる場面は計算されていた、んだろう。大変なことだ。もちろんガラも同様で。カツラがズレて直すところなど、気の毒なぐらい。ああまでして男の視線を集めたかったのか? 変な夫婦だ。 あれこれあって、どうなったんだっけ。忘れた。なんか、ジェームズが久しぶりに顔を出したらジネスタに素知らぬふりをされ、名前を聞いたらジネスタではなく、どっかのいいところのお嬢さんだったりして、な場面があったかな。あと、トランスジェンダーの女性からはちゃんと挨拶されてたかな。 あとは、ダイジェスト的な紹介。ダリが火傷して大けがとか、その後、ジェームズが病院に行くと車椅子のダリが呆けた感じでいて。でも、ジェームズを見て「聖セバスチャン」と呼ぶので自分を覚えてくれている、と思ったら、医師に「聖セバスチャンは何人もいる。若い男は、みな聖セバスチャンと呼ばれていた」といわれて、あらららら。な感じで終わるんだったか。最後は海のようなところで終わったような気がするんだけど、違うかもしれない。もう、忘れている。 ・しかしベン・キングズレー、元気だね。映画の製作年は2022年とはいえ、80歳間近で走り回ってる。 | ||||
エリザベート1878 | 9/11 | Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下7F | 監督/マリー・クロイツァー | 脚本/マリー・クロイツァー |
オーストリア/ルクセンブルク/ドイツ/フランス映画。原題は“Corsage”。コルセット、らしい。allcinemaのあらすじは「1877年、クリスマスイブに40歳の誕生日を迎えたオーストリア皇妃エリザベートは、老いの恐怖と闘いながら、世間が彼女に求めるイメージを維持しようと日々格闘を続けていた。しかし、お飾りとしての自分の役割に窮屈さを感じ、不満を募らせていく。そんな中、ふと自分を取り戻すべく旅に出るエリザベートだったが…。」 Twitterへは「ハプスブルク家最後の皇妃の話。知らなかったけどミュージカルも人気らしい。1878年、40歳を迎え彼女は束縛を嫌い、破天荒に走る。男勝り、現代的な意識の持ち主…。史実を超えた表現が面白い。ちなみに40歳は当時の平均寿命なんだとか。」 設定が分かればもっと面白いんだろうけど、知らんよ歴史のことなんて。で、Wikipediaで調べると、エリザベートは「オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼ハンガリー国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后」で、オーストリア=ハンガリー帝国とは「ハプスブルク帝国の一つで、ハプスブルク家領の最後の形態」なんだと。で、ハプスブルク家とは何かというと、13世紀に神聖ローマ皇帝(ドイツ王)となった家系で、領地はスペイン、南イタリア、ハンガリー、ボヘミアに及んだ。けれどあけこれ分裂や独立が繰り返され、国力は衰退。1867年にオーストリア=ハンガリー帝国として踏ん張っていた国らしい。Wikipediaによるとエリザベートは「ヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、ウエスト51センチで体重は生涯43〜47キロという驚異の体形の持ち主だった。美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。」とある。なーるほど。また、「皇后・王妃でありながら君主制・貴族制の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、王侯貴族などの気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒」があったという。なーるほど。これが分かっていれば、何度も繰り返されるコルセットを締め付ける場面や、死にたい願望もむべなるかな。 とはいえ、一般人はそんなこと知らんだろうに。と思ったら、エリザベートの話は1992年にミュージカル化され大ヒット。日本でもいまなお上演されているのだという。Wikipediaによればミュージカルの制作者クンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べているのだとか。なーるほど。なんだ、この映画のすべてが語られているではないか。なーんだ。 ・優雅でエキセントリックな毎日を過ごしてるように見えるんだけどね。 ・やたら食事の場面が多い。 ・ウィーンが本拠地なのか? ハンガリー? サラエボ? ハプスブルク家? 地理関係とか、国家間の関係がよく分からん。 ・冒頭の風呂場での息留めは、誕生日のローソク消しのための肺活量の準備? あるいはこれも、臨死の象徴? ・やたら登場するコルセットを締め付ける場面。これは、ハプスブルク家の皇妃という立場の、自由のなさを象徴しているのか? と思ってたんだけど、↑のWikipediaの「痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していた」という説明を見ると、自分からそうしていた、と見る方が自然なのかね。 ・亭主の頬髭はつけ髭のようだけど、ありゃなんなんだ? 威厳を保つためのものなのか? ・エリザベートは、映画を発明した男と知り合いになるという話がある。時代が違うような気がするし、撮影方法も怪しい。モノクロでコマ撮りした動画が写り、エリザベートはお茶目な恰好をしたりするんだが、ありゃ創作だろう。そもそも、パーフォレーションのあるセルロイドのフィルムなんて、まだないはず。たんに新しもの好きであることを表現しようとしてるだけ? ・自室で男とイチャイチャしているエリザベート。相手は、妹の家で働いている馬丁? その部屋のドアを、エリザベートの亭主がノックしてるのに無視してる。これが進んだ女、なのか? ・エリザベートは妹の家をふらっと訪れたりするけど、例の馬丁がいたりする。妹の家は厩舎なのか? 馬の乗り方は、あの馬丁から習った? ・そんなエリザベートを、息子が「疑われるからやめてくれ」という。ふーん。ところでこの息子、食事のときにエリザベートの横に軍服のような姿でいたので、最初は息子とは思わなかったよ。なんだ、40歳なのに、こんな大きな息子がいたのか。 ・エリザベートは、お付きの下女の名前を間違える。、ちょっと怒りの目つきでさっそく訂正する下女。あれは、なにを言わんとしていたのだ? ・40歳になっても思いつきで行動するのか、深夜、幼い娘を深夜連れ出して馬に乗せ、風邪をひかせる。反省もない。バカか、な感じ。そんなエリザベートに亭主が「あの子の時も」といい、肖像画も映る。生きていれば22歳とか言ってたっけか。では、18ぐらいで出産? 詳しくは分からんけど、この子どもはエリザベートの不注意で死なせたのか? ・精神病院が何度か出てくる。訪問するエリザベートの意図はなんなんだろう? 患者は分裂病や鬱病のようだが。エリザベート自身が精神的な疾患をもっているとはいってなかったよな。 ・馬丁と思ったのは従弟らしい。その従弟とベッドの上でイチャイチャして、「できない」とか「若い男の子たちと」どーのこーの、という場面があるんだが、よく分からず。従弟はゲイなのか? ・この辺りから従弟は出番がなくなり、妹の登場場面が多くなる。妹は、なんとか伯との結婚話が、というのだけれど、エリザベートは「認めない」とキッパリ。妹は姉のために尽くした人生なのかね。 ・夫は国王だろうに、その国王が18歳の人妻と知り合いになってどーの、らしいんだけど(この時点で関係していたのか?)。国王が街中に1人で出たりするのか? お付きの人も一緒だとしても、ふらふらできるの? エリザベートもまた、その人妻がどんな女なのかチェックしに、顔を隠して買い物に出かけるって…。お付きもつけずに? いたとしても、そんなことができるのか? で、その後、その人妻を王宮に呼びつけて、夫=国王の愛人になってくれと依頼するのはなんなんだ? そのうち自分が死ぬと思っているから? ・エリザベートはフェンシングも得意なようで、夫と勝負して勝った後、なぜか窓から飛び降りて骨折? 死の衝動がくるものなのか、こんなときに? ・落馬して足を骨折、というのもあったけど、これもホントに落ちたかどうか怪しいかな。女の人は横座りだから落ちやすいというのもあったかも知れないけど、心のどこかで死への願望があったのかね。 ・痛み止めなのか、エリザベートは医師からモルヒネを「無害」といって処方される。当時はそういう認識だったのか。でも中毒になったみたいだったよな。それにしても、このときだったか、医師から「40歳は、平民なら平均寿命」と宣言されるのは、おお、そういう時代か。エリザベートは、あかんべー、したんだっけか。 ・エリザベートが民衆への挨拶を、妹に代役させる場面があった。顔にベールをつけて、だけど。もどってきた妹はトイレに駆け込みゲーゲーやっていた。あれは緊張からなのか、それともコルセットの締めすぎで苦しかったから? ・エリザヘートはよく着衣のまま浴槽に浸かっていたけど、あれは彼女だけのことなのか。当時のやり方なのか? ・エリザベートが傷病兵の慰問にいく場面がある。え? もしかして戦争中なのか? どこと? そんな雰囲気は全くなかったのに。ベッドに横たわる兵士が、タバコが吸いたいという。左足切断の兵士の願いに応え、あれは口移しだったのか? それとも自分が吸った煙草の火を移したのか? さらに、同じベットに横たわり、煙草をくゆらす。息子は後から、「あんなことをしないで。恥ずかしい」というのだけれど、皇女としては異例のことなのかね。 ・食事中だったかな。エリサベートが関係国情報に口を挟むと、亭主がテーブルをドン! と叩いて威圧する。女が口出しするな、な感じで。これに対して、エリザベートも、ドン! と負けずにテーブルを叩く場面があった。 ・かと思うと、亭主が彼女の部屋に入っていくと、ベツドに横たわっていたエリザベートはばさっと布団をはだける。素裸。カメラは彼女の股ぐらに向かって据えられている。おお。しかし、あるときは「もう子供のできる年ではない」と拒否してたのに、この日は夫のチンポいじってやったりしてたし、その後はベッドで交接もしてたよな。なんか分からん女性だ。 ・かと思うと、長かった髪を衝動的に切る。これはモルヒネ中毒の頃だったかな。女中は死ぬほど慌てるんだけど、エリザベートの髪に人生をかけてきた、とかいってたな。そんな役割が女中にもあるのか。で、髪をカツラにしてもらってたんだっけか。 ・後半になって、野外でのミニ音楽会があるんだけど、そこで演奏されているのは、知ってる曲だけど誰の何という曲かは知らないけど、現代の曲だったよな。なんで? なんか、この頃から当時の時間軸の中に、現代的なモノがいろいろ混じり込み始める感じがあった。 ・イメージなのか。エリザベートがシャンデリアの横にいて、天井につくような位置で、うろうろするという場面もあった。あれは、首を吊りたいという願望とか? ・客を呼んで会食中に煙草を吸い始める場面もあった。不躾なことを平気でするような感じ? べつに注意されたわけではないけれど、途中退席するんだが、そのとき中指を立てて見せつける。あのサインは当時からあったわけじゃないよな。しかも、オーストリア=ハンガリー帝国で。知らんけど。 ・飼い犬が2匹、いつもウロウロしている意味は何なんだ? ・ケーキをむさぼり食うエリザベートもでてきた。摂食してウェストを維持するのはやめたのか? 娘にもケーキを食べろと言っていた。束縛から自らを解き放つという意味か? 自立への希求があったようには、とくに見えなかったんだけどな。ウェストも、自ら適応していたんじゃなかったのか? 一気に、抑圧してたモノが吹きだした? ・と思っていたら、イタリアへ行って姉妹で背中に刺青をしている。電動の刺青マシンなんてなかっただろ、当時は。乗ってる船は現在のものみたいだし。時代背景が崩壊していく。かと思ったらエリザベートはひとりで船首に行き、そこから船の進行方向にむかって飛び降りる。とうとう自分を解放し、自由気ままになった、ということ? ・Wikipediaによると「宮廷の厳格さに耐えられず」「人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い」「個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に亘りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた」らしく、そういうエピソードは映画にも引用されている感じ。でも、のちに息子は自殺し、「1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され」たんだとか。60歳没。最後は、とくに飛んでる女性でもなかったのかな。 エンドクレジットで舞うエリザベートは髪が長く、つけ髭? これは亭主を嘲笑っているのか? | ||||
ミステリと言う勿れ | 9/19 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/松山博昭 | 脚本/相沢友子 |
allcinemaのあらすじは「カレーをこよなく愛する天然パーマの大学生・久能整は、たまたま訪れていた広島で、犬堂我路の知り合いだという女子高生・狩集汐路に、ある依頼を持ち掛けられる。それは、狩集家の莫大な遺産を巡る相続争いに協力してほしいというものだった。亡くなった当主の遺言では、相続候補である汐路を含む4人の孫のうち、与えられたお題を解いた1人だけがすべての遺産を相続するとされていた。こうして、いつの間にか汐路が挑む謎解きを手伝うハメになった整。しかし狩集家は、相続争いのたびに何人も死人が出るという曰く付きの一族だったのだが…。」 Twitterへは「いまどきこの程度の遺産相続で殺し合いをするかというようなバカ話。人物の整理もできてなくて混乱するし。つまらなすぎて寝てしまった。あとからTVドラマの映画版と知って、ああ、それで。若手の役者に魅力のあるのがひとつもいない。」 エンドロールに伊藤沙莉と筒井道隆の名が…。ぜんぜん気づかなかった。見落としか、と思ったら、ぶら下がりのエピソードで、刑事で登場してた。「現場にいた」とか言われていたのは久能のこと? 犬堂のこと? っていうか、永山瑛太もどこにでてたか分からなくて。あとから、冒頭と最後に出ていた、久能の友人? の怪しい男だと分かった。ぜんぜん顔が違うから分からなかった。 さらに、これはテレビドラマの映画版で、原作はコミックというのも知った。だから人物紹介もあっさり、だったのか。それにしても、久能と犬堂、警察署の連中とか、最初に関係を明らかにしておいて欲しいよね。初めて見る人のために。まあ、警察は、ほとんど話には関係ないけど。 冒頭とラストで登場する鷲鼻の犬堂は、誰なんだ? 久能の友人? 彼が今回の仕事を久能に任せた? なんで? 久能と汐路の関係は? 汐路は遺産相続にアドバイスを求めるため久能を東京から尾行し、原爆ドーマまで引っ張ったのか? 久能なら、その前のどこかで「お前誰?」と聞けるんじゃないのか? 登場人物が多く、4人の従兄弟とその親を覚えるのが大変。弁護士の息子というのも従兄弟と同年代レベルで絡んでくる(役割的にこれが一番怪しいと思っていたら、結果、そうだった)けど、演じている俳優が柴咲コウを除いてみな似たような感じで。一族の人間関係を覚えるのに負担がかかるので、興味よりもめんどくささが先に立ってしまう。さらに、蔵をめぐって、この蔵は誰の蔵で中はなんで、とか要素が複雑。話もうだうだしてるので、眠気が迫ってきた。朗読DVDを見てる途中でいつのまにか寝落ちして、ふと気づいたら両腕を埃だらけにして久能と汐路が帰ってきたところでだった。骨が見つかったとか言ってたけど、よく分からない。まあ、ラスト近くで、蔵の地下から骨がといっていたから、ああ、そうなのか、なんだけど。DVDにヒントがあって探しに行ったのか。知らんけど。 (もしかして)肝心なところで寝てしまっているので、話の核心を見落としてる可能性はあるのだが。これは、代々つづく広島の旧家・狩集家の遺産相続の話から始まるんだが。実は現在の狩集家の人々は本家筋ではなく、途中から入り込んだ鬼(?)の血筋で。狩集家の人間をのっとるカタチで主流となり、本来の狩集の血を引く人々は追い出される、あるいは殺されてきた、というような話、で、いいのかな。寝てたからテキトーなんだけど。しかし、いまどきそんなことをしてまで守るようなものがあるのかどうか。遺産とか、たいしたことないだろ。不動産だけじゃ。あるいは、呪われた血筋、なのか。でも、そんなドロドロした伝奇的な感じはなかったよな。 (仕方がないのでWebのネタバレを見た。「戦後の動乱の最中、1人の鬼と2人の従者が本当の狩集家の人間を皆殺しにした上で、名前を乗っ取り大成した一族が、今の狩集家」というようなことが書いてあった。ふーん。) ・久能が芝居に目をつけたのは、蔵の床の隙間から芝居のチケットを見つけ、つまみあげたからだったけど。都合よくチケットがそんなところに隠れていたものだ。しかし、汐路の父親はすでにそのことは知っていたはずで。では、その芝居を見に行ったときのチケットなのか? そんなものがなぜ蔵の床下に? ・久能たちが劇団の主催(春風亭昇太)に会いに行き、親世代4人の写真を見せると、しらない、とむいう返事。さらに、その鬼の舞台の脚本家は自殺した、という。それはいい。汐路の父親たちは、芝居の内容や上演をどうやって知ったのだ? そもそも脚本家っで誰で、なぜ狩集家の秘密に関することを芝居にしようとしたんだ? で弁護士と税理士は酒の飲めない脚本家にムリやり酒を飲ませ、自殺を装って殺したんだ? 芝居のビデオは残ってないけど朗読ビデオは残ってるというのも、片手落ちではないのか? このあたりのことは、寝ないでちゃんと見ていればすんなり分かったことなんですかね。 ・昔の写真を整理している様子を見て、久能も写真を見始める。人の名に×が付いている理由を聞くと、早死にしたから、という。で、その写真が大写しになって、みな天然パーマだってすぐ分かったよ。久能自身も天パーだし。 ・従弟+弁護士息子が喫茶店で話す場面。柴咲コウが蔵にあった手帳をだすんだけど、弁護士息子だったかがアイスコーヒーを倒すのを見て、汐路は父親が亡くなった日の様子を思い出す。あの日、自分は父親が自分に勧めたジュースをひっくり返したっけ、と。で、そのジュースは弁護士息子がもってきたもので、ジュースは父親の見ていた手帳にかかり…。でも、父親は時間になって出かけるんだけど、手帳がなくなっていることに気づく。のだけれど、そんなに気にしてないんだよな。おかしいだろ。いろいろヒントになることが書かれているのに。そもそも他に人はいないのだから弁護士息子を、疑うのがフツーだろ。しかも、父親はその日、兄弟4人である人物(本来の狩集家の末裔である松嶋菜々子)に会いに行くことになっている。では、出かける前に弁護士息子は帰っていったのか? 怪しすぎだろ。 ・4人が松嶋菜々子に会って、因縁を断つ、という場面があるので、あれ? じゃああのクルマの事故は帰り? でも睡眠薬の効き遅すぎないか? と思ったんだけど、それは、事故の前に桜柄の人形を返したときのことか? では、そのときも4人揃って行ったのか? というか、まず桜柄の人形を返し、時間をおいて菊柄の人形を返そうとして事故に遭ったのか? でも、なぜいちどきに数体返さないの? というか、何体返そうとしたのだ? あ、そうそう、もう一体はどうしたんだっけか? あれは、松嶋菜々子が逃げるときに持ち出したのか? ・蔵の謎を解け、というのが遺産相続者を決める課題で、それは弁護士と税理士の2人が企んだもので、実は目的は別にあった? 本来の末裔である松嶋菜々子の住所が書かれているUSBを手に入れるため? なんか、まどろっこしいな。従弟たちを攪乱するために人形や手帳を蔵に置いていたらしいけど、全部確信にたどり着けるヒントになってるんじゃ本末転倒ではないの? 弁護士と税理士が、松嶋菜々子の存在を知らなかった? というのも不自然。だって4人は一度会いに行ってるし、2度目も行こうとしていたところを汐路の父親が弁護士息子に睡眠薬を盛られ、4人とも死んでいる。殺さず、追跡すれば松嶋菜々子の居所は分かったろうに。さらに、紫水晶のUSBの存在も、すぐ分かったと思うけどな。 ・そーいえば。久能たちが刑事(でんでん)に話を聞きに行ったら、あれこれ話してくれたんだけど。この場で、車内には焼けた人形が残されていたとか、いまになって話すんかい。 ・汐路の父親が紫水晶のUSBを作りに行ったら店主の写真の背後に人形があって。それで店主である松嶋菜々子が本来の遺産継承者であると知った? とか言ってなかったか? 出会いは偶然なのか? こちらの解釈ミス? ・もともと一体の人形は松嶋菜々子がもっていた? ・汐路の父親が紫水晶のUSBをつくろうと思ったのは、本来の末裔である松嶋菜々子の現住所を記録して隠すため、だったんじゃなかったっけ? ・USBの隠し場所が分かったとかいって、弁護士息子を宮島の鳥居におびき出すくだりが、よく分からなかったな。それで、隠し場所の本命は紫水晶の中というのは、安易すぎだろ。 ・弁護士息子がUSBを宮地の鳥居まで取りに行った、というだけで刑事(でんでん)が弁護士息子を逮捕しに来てるんだが。そんなんで警察が動くはずがない。 ・その場に弁護士と税理士もやってきて、弁護士息子に「しゃべるな!」とかいったり、弁護士息子が、父親たちが脚本家にムリやり酒を飲ませて自殺に見せかけた、とかペラペラしゃべっちゃうのも、アホっぽかったな。 ・そういえば、誰かが蔵の茶碗を売っていて、代わりに偽物をつくっていた、なんていう話があったな。売ってたのは誰だ? 弁護士の息子? 本物と偽物があるのは、これから売ろうとしていたもの、ということか? でも、偽物をつくるには本物を作陶家に見せる必要があるよな。偽物をつくって、誰の目を誤魔化そうとしていたんだ? なんていうもろもろの疑問は、途中で寝ないで鬼の血筋のDVDをちゃんとてれば分かったのかね。 | ||||
名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊 | 9/20 | 109シネマズ木場シアター4 | 監督/ケネス・ブラナー | 脚本/マイケル・グリーン |
原題は“A Haunting in Venice”。allcinemaのあらすじは「ベネチアで隠遁生活を送っていたポアロ。ある日、旧友のオリヴァが訪ねてきて、ハロウィーンの降霊会に彼を誘う。超常現象など一切認めないポアロは、霊媒師レイノルズのトリックを見破るべく、降霊会に参加することに。ところがその降霊会で、招待客が何者かに殺害される事件が発生してしまう。しかも、その方法は人間には到底不可能と思われ、誰もが亡霊の存在を信じ始めていた。それでもポアロだけは人間の犯行と確信をもって、この不可解な事件の真相解明に乗り出すのだったが…。」 Twitterへは「似たようなオジサン、オバサンが何人も出てくるので、だれがどれやら…。幻想的なカットを無作為につないでたり。謎解きもあるけど、言葉で「あれは実は…」ってまとめて言われても、頭に入っとらんがな。」「死に方が『キラー・ブック・クラブ』とまったく同じ串刺しで、見かけもそっくりなので笑ってしまった。」 舞台はイタリアだけど、ポアロは英語だぞ。あれ? ポアロはクリスティでイギリス人だからいいのか。はは。クリスティほとんど読んだことない。 ポアロの家の前には依頼人が列を成しているのに、ポアロは一顧だにしない。どころか、同行の男が水路に放り投げたりしてる。なんだ、血も涙もないオッサンだな、ポアロ。訪問客は断れ、といっているのに、男が「これを見せろという客が」というので見るとリンゴで。なぜかポアロはその客を招き入れる。なんで? というのは疑問だったけど、実は…の伏線のひとつにもなっていたぞ、これ。訪問客はオリヴァという女性で、ハロウィンパーティの後に降霊術があるから参加しないか、と言ってくる。そんなもの信じないはずのポアロなはずなのに、なぜかオリヴァについていくと、子どもがハロウィンの格好して騒いでいる屋敷にやってきて…。でもハロウィンでがちゃがちゃの件は、結局、本筋にはほとんど無関係。その後の降霊術からが本筋なんだけど。そもそも、あの家でなんでハロウィンパーティしてるんだ? 子どもがうじゃうじゃいたりして。ここで関係あるのは、フェリエという少年だけ、かな。 このあたりからどんどんオバサンが増えていく。増えていくけど、誰がどれやら分からなくなっていく。とくに、カメラが人間をちゃんと撮らないとか、暗いとか、カメラが動くとか、ちゃんと見せるように撮らないのでイラつくし、眠くなっていく。一瞬、数分目をつむったかな。まあ、霊媒師のミシェル・ヨーだけは東洋人だから区別がつくけどね。 金髪のオバサンが家の主人だったかな。アリシアという娘が自殺していて、その霊を呼び出すというので会が開かれる、らしい。けど、なんでポアロはつきあってるんだ、こんな会に。参加者は他に、アリシアの元婚約者の男、他にオバサンが2人いて、ひとりはオリヴァか。もうひとりの黒髪馬面のオバサンはだれなんだ? あと、中年男が2人ぐらい? なんか、わけ分からん感じで降霊術が始まるんだけど、すぐに仕掛けがバレて。煙突に隠れてるアシスタントの青年が発覚。と思ったら霊媒師がキツネ憑き状態になって…。 で、なぜかポアロが洗面器の底に沈んでるリンゴを顔を突っ込んで食べようとして背後から押さえつけられ、あわや、になったりするのは、ありゃなんなんだ? 犯人はあとから金髪女主人と分かるけど、なんで水の中のリンゴに顔を近づけるのか? ポアロのリンゴ好きは設定なのか? とかいう感じで、あれこれどたばたしてる後に霊媒師は転落し、下から伸びている槍みたいなのに背中からグサリ。その死に方がこないでネトフリでみた『キラー・ブック・クラブ』のと同じ串刺しで、恰好もそっくりなので笑ってしまったよ。ところで、医師が霊媒師の遺体を検死する場面があったけど、あれ、どうやって串から外したんだ? 疑問。 でも嵐がやってきてるので警察も呼べないし、外にも出られず。な状況で、引退宣言したポアロが腰を上げて解決していく、という話だ。霊的なことは大してなくて、でも、アリシアの溺れる場面とか、少女の歌声とか、チカチカ細かなカットのつなぎとか、妙なシーンが挟まったり、どーも落ち着かない。 ポアロは残った人たちを一人ひとり呼び出して話を聞くんだけど、黒髪馬面オバサンはここの家政婦らしい。へー。あと、霊媒師の死体を診ていたのは医師で、フェリエの父親らしい。この親子はなんで降霊術に来てたの? あと、いかついオッサンで元警察官というのは、冒頭から登場していたポアロのボディガードだったようだ。ちゃんと顔を見せて印象づけしてないから、誰このオッサン、になっちゃう。 しかし、このあたりでも、金髪女主人は暗く映ると髪の色は分からんし、オリヴァだって金髪主人や黒髪馬面と見間違えることすらある。ちょっと見、似たような役者を使うなよ。と思う。 このあたりからの謎の解明に至る経緯は、はっきりいってテンポ速すぎるしバタバタしていて、ああなるほど、というより、え? ええっ? はあ…な感じで、一方的に説明されるだけなので、ボーッと聞いてただけだった。 オリヴァとボディガードは知り合いで、だからボディガードは彼女をポアロに会わせたとか、オリヴァとボディガードと金髪女主人は知り合いでだから降霊術の会にポアロを呼んだとか。でも、3人は何を企んでいたんだ? ボディガードは女主人の家に出入りしていて、川からアリシアを引き上げたのも彼だった? 女主人は毒のある花で蜂蜜を作っていて、それをポアロに飲ませたからポアロも朦朧として幻覚や女の子の声を聞いた? あたりまでは覚えてたんだけど、以降はウェブのネタバレサイトで見て思い出して、ああ、そうだった、な経緯なんだけど。 なとき、医者が背中を刺されて死んでしまうのは、なんなんだ? ポアロの指摘は、アリシアを殺したのは母親である金髪女主人で、それは彼女が子離れできないことによるもので、娘アリシアが婚約したので毒蜂蜜入りの紅茶で弱らせてたとかなんだとか。これで自分の手元に置きたかったから? でもあるとき女中が代わりに毒入り蜂蜜を大量に投与したので死んでしまった? 投身自殺はウソ? じゃ、ボディガードが自ら引き上げたってのもウソか? (落下死を偽装したらしいから、水から引き上げたのはホントなのかな) 医者はどういう関係があるんだ? 彼も出入りしていて、アリシアを診てた? 電話でだったか手紙でだったか、息子フェリエをどうにかするぞ、と脅されて医師は自分で背中を刺して死ぬんだったよな。 医師の息子フェリエの件はよく分からなかったんだが、彼は金髪女主人に脅迫状を送って金をもらっていたらしい。そういえば一瞬、脅迫状は出て来たけど。はあ? な感じだな。彼は何を知ってたんだ? 息子の件で脅されたからって、医師はそんな簡単に死ぬ必要があったのか? ってか、そもそもが、子離れできない母親のせいだなんて。事件そのものがバカっぽい。 ああ、そういえば、霊媒師のアシスタントは男の子ひとりかと思ったら、いつのまにか娘も一緒にいて、2人いたのか。2人は、どこだったかに行きたい、とか言っていて。息子フェリエが金髪女主人からせしめた金を与えて、旅立つようだ。しかし、父親が死んでもなんの感情も示さないこの息子は、なんなんだ? 朝になって、警察の姿もちらほら。遺体3つがボートで運ばれていく。あれ、3つめはだれだっけ? 金髪女主人が自死したんだっけか? 忘れてるよ。それにしても、ボディガードもオリヴァも罪を問われないのか? って、どういう役割だったのか、よく分かんなかったけど。 というわけで、がちゃがちゃムダにテンポが早くて最後はどどどって言葉で謎解きされても、なんにも頭に入っていないので、納得感はゼロだったな。 ・戦後アメリカがイタリアにもたらした悪いことは、ハロウィン、ジャズ、まずいチョコレート、とかいってたよな。なるほど。 | ||||
フライング・ジャット | 9/21 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/レモ・デソウザ | 脚本/レモ・デソウザ、トゥシャール・ヒラナンダニ |
原題は“A Flying Jatt”。シネ・リーブル池袋HPのあらすじは「インド北部パンジャーブ州で母と兄と暮らすアマンは、気弱な武術教師。亡き父は、中国拳法を習得し"フライング・ジャット(空飛ぶシク教徒)"として尊敬を集めた人物だったが、アマンはシク教徒としての自覚を持てずにいた。ある時、シク教徒たちが大切に守ってきた神木が、企業オーナーのマルホートラの指示により、切り倒されそうになる。マルホートラの手下である怪人ラカの手でアマンは酷く痛めつけられるが、特別な力に助けられ、奇跡的な回復を遂げる。神木が彼に超人的な力を授けたのだ。母と兄に背中を押され、アマンは"フライング・ジャット"として経験を積みながら町を守るヒーローとなり、マルホートラらに立ち向かってゆく。」 Twitterへは「2016年製作のインド映画。底流に流れるのは『ウルトラQ』『ゴジラ』だけど見かけは『アメリカン・ヒーロー』で、仕立ては『キック・アス』とかのヒーローコメディ。ブルース・リーや『スーパーマン』『ラ・ラ・ランド』風味も。」 『キック・アス』や『スーパー!』が2010年なので、この映画がつくられた2016年頃はダメ男がスーパーヒーローになる的なブームは引きずっていたのか。まあ、フツーの男の子が力を得るスパイダーマンは、ずうっとつくられつづけてるけどね。そんな意識がインドにもつたわったのか。武術教師だけど普段は気弱なシーク教徒のアマンが、ある日突然スーパーパワーを身につけて、悪と戦うという話である。 ヒーロー物としてはとくにオリジナリティはなくて。インド風味として、登場人物の大半がシーク教徒であるというのがある。シークはインドの人口の2%弱で、インドの人口いま14億人だから3000万人ぐらいか。総量は多くても、インドじゃマイナーだ。そのシーク教徒向けにつくったのか? シークでなくても、見るのかしら? Twitterのコメントにも書いたけど、中味はこれまでの映画の引用とかパロディとかが大半で、独自性はない。でまあ、見どころはインド映画で、しかもシーク教徒、というところなんだが、その面白味もあんまりない。つまりは、引用の寄せ集めで2時間49分の長尺をつくってしまっているところなんだよね、見どころは。ああ、これはあの映画、ここはあれ、とか見ていくと、それなりに面白い。まだインド映画が独自性を花開かせる前の、学びつつ大きくなろうとしているところが感じられるのだ。 設定も、すべてありがちなものばかり。脳天気な兄に、気弱な弟。弟は教師で、教えているのは格闘技。同僚に好きな女教師がいる。気丈な母は、息子たちにやさしく、信仰心は篤い。 なぜか弟にシーク教の神の力が宿り、正義のために戦いだす。応援する母と兄。でも、ときに兄がスーパースーツを着て、とんちんかんをする。最後に、兄は死んじゃうんだけど、これはちょっと意外だったかな。 弟はスーパースーツを着てフライング・ジャットとなり、ヒーローに。でも、個人的に同僚の女教師に接近し、女教師はフライング・ジャッドが好きになる。素顔の弟は、フライングジャットのようには女教師に愛されない。よくあるパターンだ。 でも、最後は「自分がフライング・ジャットだ」と告白し、女教師との関係はめでたしめでたし。まあ、女って、ヒーローじゃなきゃダメなのかよ、というのが出ちゃう展開だけど、2016年だからしょうがないか。 もう一方の話の流れは、環境汚染だな。そもそも始まりは公害企業の横暴で。工場に出入りする橋を湖(?)だか海にかけようとしたけど、土地買収が完璧でなく。アマンの母の土地が残っていた。そこにはシークの神木があり、人々の信仰を集めている。よく説明されてなかったけど、出島みたいな土地には賃貸物件がたくさんあって、あれはアマンの母の収入なのかね。で、企業オーナーがプレッシャーをかけるけどアマンの母は応じず。てな話があっての、アマンのパワーなんだよね。 突然、どっかの砂漠でスキンヘッドの白人が暴れる場面に切り替わって。なところあたりから、本日も睡魔が襲ってきて。のあとは、闇の中でのバトルは神木の近くだったのか。アマンがそのスキンヘッドと戦い、負かしちゃうんだっけか? 最後はアマンが神木に背中をくっつけ、背中にシークの印(?)を焼き付けられて。翌朝から妙な力が、な展開だったのはうっすら覚えてる。 その後の展開を見るとスキンヘッドは企業オーナーが放った殺し屋(?)だったのかな。またしても肝心なところを見逃している。困ったもんである。 以後は、アマンが街の困った事象を助けながら人気者になっていく話があって。でも、あるとき泥の中からスキンヘットが復活。本来なら死んでいるほどの汚染で、血の色も黒だけど、生きてる! とか、企業内の病院で治療を受け、オーナーの手先になってアマンのフライング・ジャットとバトルを繰り広げる、という展開。最初はアマンのフライング・ジャットの方が強いけど、あるときオーナーの煙草の煙が好物なことを自覚し、積極的に汚染物質を採り入れるようになってパワーが増していく。そのパワーでアマンのフライング・ジャットをこてんぱんにやっつける。それで、アマンが傷ついて横たわっているとき、兄がフライング・ジャットスーツを着て立ち向かい、殺されちまうんだけど。あれは兄が無謀すぎだろ。。その後、が何かでより強力なパワーを身につけたわけでもないのにアマンが復活し、最後は宇宙の小惑星まで飛んでいき、スキンヘッドを中国のロケット(核物質のマークがついてたけど、ありゃなんなんだ?)にぶつけて爆死させるんだったかな。忘れたけど。インドは中国と中が悪いから、ああなったのか? 企業オーナーも、最初はアマンのフライング・ジャットによって自宅に汚染物質が放り込まれるだけだったけれど、幼い娘が喘息だかなんだか公害病にかかって改心するという教訓も、これまた定番的な流れ。 とまあ、徹頭徹尾、どっかで見たことのある話の集積なんだけど、いろいろバカっぽいからまあ、楽しめる。分かりやすいし。定番の踊りも純インドっぽいモノではなく、モダンになってたり色っぽくなってるし。アマンが好きな同僚の女教師も、メガネをかけてるとなかなかチャーミング。外すと、結構、濃いんだけど。 ・アマンのフライング・ジャットの足の甲に彼女が乗って宙を舞うのは、同じようなのがスーパーマンだかスパイダーマンにあったよな、たしか。 ・宙でアマンと彼女が踊るのは『ラ・ラ・ランド』っぽいけど、『フライング・ジャット』と同じ2016年公開なので、影響を受けたかどうかは分からんかな。 ・「インディアンムービーウィーク2019」で紹介された11本のうちのひとつらしい。こういうのは正式な日本公開になるのや否や? | ||||
熊は、いない | 9/22 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/ジャファル・パナヒ | 脚本/ジャファル・パナヒ |
イラン映画。原題は“Khers nist”。英文タイトルは“No Bears”。allcinemaのあらすじは「政府から出国を禁じられているパナヒ監督は、国境付近の小さな村からリモートでスタッフに指示を送り、新作映画を撮影していた。内容は、偽造パスポートを使って国外逃亡を目論む男女の話。撮影の合間に、監督は滞在している村をカメラを手に散策する。しかし、若い女性が生まれたときに決められている相手とは別の男性と一緒にいるところを撮影してしまい、思わぬ騒動に巻き込まれてしまうパナヒ監督だったが…。」 Twitterへは「ドキュメンタリー風で仕掛けのある物語を撮るパナヒ監督が、またしても自ら主演。イランの村から国境をまたいで隣国トルコで製作中の映画をリモートで演出中にあれこれ問題が発生して…。深刻な話だけど、あまり深刻に見えないのが不思議。」 ひとことで言うと、ヘンな映画。イランという国の閉鎖性もあるんだろうけど、それとは別にして。映画に登場する監督が、リモートでトルコで映画をつくらなければ。イランの辺境にしてトルコ国境に近い村に住んだりしなければ、あの人たちは死なずに済んだのに。という思いの方が先に浮かんでしまう。その意味で、登場する監督は、なんと身勝手で嘘つきでいい加減なんだ。と思うのだけれど、映画に登場するパナヒ監督が、この映画の監督と同じであるわけはない。たとえ、パナヒ監督が、映画の中のパナヒ監督を演じているとしても。 変な感じの映画だ。ふにゃふにゃしてる。反政府的な何かがあるわけでもない。メッセージ性は、どこにあるの? な印象しか受けない。 冒頭は、カフェの女のところに仲間が来て、でもパスポートがどうのという話で、ああ、そういう話かと思ったら何とそれは撮影している映画の1シーンで。おお、うまく騙された。はいいんだけど、パナヒ監督は現場におらず、ノートPCからネット経由で演出していたという。なんで? なんだれけど、おいおい分かるのは撮影現場はトルコの街。パナヒ監督は国境を挟んで至近距離のイランの寒村に部屋を借りて映画に臨んでいた、らしい。でも電波が悪いのか、ブツブツ切れる。いくら物理的に近くてもネット環境が悪いんじゃしょうがないだろうに。テヘランから演出すればいいんじゃね? と、誰もが思うよな。 部屋を借りている家の男はめかし込んでどこかへ行こうとしている。結婚に関係する男女の儀式で、川で足を洗うとかいう。じゃあ撮ってこい、とパナヒ監督はビデオカメラを渡してしまう。することがないので監督は部屋の近くでカメラを構え、少年たちを撮ったり、あちこちにファインダーを向ける。これが仇となる。 村には好き合っている男女がいて。でも、女の方には親が決めた(のかな)婚約者がいる。その2人が密会している様子を、パナヒ監督が撮った、と話題になって。村長がやってきて写真を渡せ、といい、婚約者までもがやってくる。そんななか、好き合ってる方の男がやってきて、自分たちは国境を越えて逃げる。それまでは写真を見せないでくれ、と言いに来る。 のだけれど、村長たちがやってきて、実地検分をして「こっちを撮っただろ」なんて左側を指すんだけど、映像ではそっちは撮ってなくて、右側を撮ってたよなあ。はたして監督は2人を撮ったのかどうか? でも、あんまりしつこいから、監督は「撮ってない。その証拠に、メモリカードを渡す。これが私の撮った写真のすべてだ」と渡すんだよな。はたして、2人の写真を消去したのか、ほんとうに撮っていないのか、分からないところが怪しい。というか、そういうそぶりはまったく見せないふにゃふにゃ具合なんだよな。 トルコの撮影クルーの1人がやってきて。夜中、監督を国境越えに誘う。のだけれど、監督は律儀なのか、国境付近でクルマを止めさせ、行くのをよす。クルーの男は「このあたりは無法地帯で、密輸ルートになっている。国境警備隊とも話ができていて、見つかることはない」というんだけど、どうしても国境を超えようとしない、のだよね。 後日、警察だったかがやってきて、監督に「国境を越えたか?」と尋問されるのだけれど、していない、と回答。 メモリーカードを渡して一件落着かと思ったら、こんどは村長が「宣誓の儀式をしてくれ。簡単だ。宣誓するだけでいい」という。もんくをいわず、夜、案内に引率されていくんだけど、その途中で言われるのが、「そこの角を曲がるとクマがいる。まあ、ほんとうはいないけどね。そういうことがいわれている」と。で、着いたのが村の集会所みたいなところで。コーランに対して宣誓しろ、といわれるんだけど、監督は、この様子をビデオに撮る。それでいいだろう? と、自分にカメラを向ける。一同、それでいいよ、となる。この件がよく分からんのだけれど。しかし、はたして、監督は嘘をついているのか、いないのか、よく分からない。 映画の方も着々と進んでいるのだけれど。どうも映画はフィクションではなく、ドキュメンタリーらしいのだ。冒頭では、男女2人のうち女性のだけパスポートが手に入ったけど、男性の分が手に入らない。だったら私は出国しない、と女性が訴えるものだったけれど、それ自体が事実らしいのだ。は? でも、冒頭の場面は、あなたの分はないの? と女性が嘆く場面の取り直しをするという話だったよな? ではあれは、やらせのドキュメンタリーなのか? と思っていたら、どうも男性は、自分のパスポートも手に入った、と女性をだまし、女性だけ先に出国させようとしていたことが分かる。荒れる女性。 と、思っていたら、海から女性の遺体が上がったという情報があり、その通りだった、らしい。これはトルコの撮影現場での話だけれど、ドキュメンタリーを撮っている最中に、出演者が自殺してしまったということなのか。ところで、男性のパスポートも手に入った、と女性を騙したのは、男性だけの責任なのか? スタッフも入れ知恵してのものだったのか? どっちだっけ? 撮影した写真の件は一件落着かと思ったら、翌日か数日後、好き合ってた2人が国境を越えようとして国境警察に撃たれた、という情報がつたわってくる。部屋のオーナーの息子が「悪いけど出て行ってくれ」といったんだっけかな。監督は引き払うことになり、クルマを走らせる車窓から、撃たれた2人の以外が見えるという…。 なんだかなあ、な話。監督は、トルコの撮影に関しては遠隔からの関与だけれど、人を1人死なせてしまった。イラクの寒村では、自分が国境付近まで行きながら引き返してきてしまったがために疑われ、警備が厳しくなったところを好き合ってる2人が国境越えをしようとして撃たれてしまう。監督は、直接関与してはいないとはいえ、関係する人間を死なせてしまっているわけで。居心地が悪いだろうな。でも、監督は淡々と、悪びれることもなく、クルマで去っていくのだよね。なんだかなあ。イラク政府の対応に問題があるにしても、やりようによっては他人を死に至らしめるというような話かな。 ・「熊は、いない」という言葉は、何を意味してるんだかよくわからん。 ・自分の責任で人が死んでいる、ということを監督はひとつも悩んでいるように見えない。 ・トルコでの撮影は、どこまでが事実でどこがウソかよく分からない。女性が自死したのは、本当なのか? 演出なのか? ・監督が借りている部屋の扉が斜めってる。 | ||||
燃えあがる女性記者たち | 9/23 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/リントゥ・トーマス | 撮影/スシュミト・ゴーシュ、カラン・タプリヤール |
インド映画。原題は“Writing with Fire”。allcinemaの解説は「女性差別が根強く残るインドで、被差別カーストの女性たちが立ち上げた独立系新聞社“カバル・ラハリヤ”の活動に密着したドキュメンタリー。地域に根差した独自の取材で、差別や女性への暴力など、従来のメディアが取り上げなかった弱者の声を拾い、発信するために、危険を顧みず情熱と勇気で活動を続ける女性記者たちの姿を通して、ジャーナリズムの原点を見つめていく。」 Twitterへは「インド。不可触民の女性たちが立ち上げた独立系の新聞社。その記者たちが理不尽なレイプ、違法採掘問題、訴えを取り上げない警察、選挙、カースト制度の温床であるヒンドゥー原理主義などに立ち向かう。心意気にも点をあげたい。」 不可触民(ダリトと呼ぶらしい)の女性による新聞社というから、差別される側からカースト制度を批判するような話かと思ったら、それだけではなかった。社会的問題や暮らし、女性差別など、様々な視点から権利をもとめるような活動をしている感じかな。まずはネタとして取り上げる。Webの視聴回数が上がる。行政も放っておけない。しかたなく腰をあげる、にも貢献しているようだ。憲法上は差別禁止になっていても、社会における偏見は根強い。カーストはヒンドゥー教が定めたものなので、ヒンドゥー教徒が多ければなくならないのも当然だろう。 ダリットというのは、不可触民による自称らしい。 最初に取材するのはレイプ被害の婦人で、数度暴行されているらしい。夫も知っていて、警察に行くも話を聞いてくれない、訴えを取り下げろ、と言われてしまう。記者が警察に行くと、「前の担当者のときのことで…」とはぐらかされる。警察官もヒンドゥー教の制度の中に埋没していて、正義感を振りかざすことはないのだろう。 次の取材先は、採石場の問題。いまはマフィアが取り仕切っていて、人々は働いているけれど、落石事故で人が死んだらそれまで。労働者たちは、いいたいことがあっても、記者たちを信じていないから話さない。「撮るなら話さない」と返されてしまう。 カバル・ラハリヤは紙の新聞からWebへの移行の最中で、若い記者たちも戸惑っている。家にスマホがないので使い方が分からない。英語が読めない。などなど。ひぇー。こんな女性たちが記者なのか? と思ってしまうけれど、既存のマスコミで鍛えられた人もいないので、ままならないんだろう。 主任記者のミーラは14歳で結婚、だったかな。でも、修士号ももってるらしい。ど素人集団を指導しつつリードし、次の記者を育てていく役割も担っている。 最初のうちは閲覧数もそこそこだったけど、次第に増えてくる。そうすると、記事が力を持ってくる。悪路を取材すると、すぐに舗装される。電気がない、トイレが家にない村なども、行政がスピーディに対応するようになる。なんだ、できるんじゃないか。やらないだけか。ニュースにならないと、対応しない、ということなのか。 現在、インドを率いるモディ首相はヒンドゥー原理主義的なところがあるみたいで、他の宗教やアウトカーストには冷たいみたいだ。そのせいか、地方議会でも首長はヒンドゥー派が選ばれるようになり、ミーラはそんな1人に取材する。答はのらくら。取材の後、歩いているところを動画で収めていると「なんで撮るんだ?」と文句をつけられる。「ふだんの姿も視聴者に伝えたい」というけれど、首長は、椅子に座って公式の返答をするところだけ見せたいらしい。どこの国でも同じだな。 仲間の記者が、ある政治家、だったかな、にインタビュー。どうもいきなり核心的なことをついて、機嫌をそこねいるみたい。取材の後、他者の男性記者が「最初はいいところを聞いてやるんだよ。ご機嫌をとって。そのあとで聞きたいことを聞けばいい。要らない部分は捨てればいい」と。テクニックだよな。でも、取材慣れしていないと、どうしても性急になってしまうんだろう。 こてこてのヒンドゥー原理主義者の取材もしている。なんと、いつ襲われるか分からないからと、長い刀をつねに持ち歩いている。取材は嫌々と言うより、相手に話させて、な感じだったかな。でも、たんに相手につっかかっていくだけでなく、反対意見も採り上げていく姿勢は、なかなか。 お祭りに参加しているのに党派のシンボルマークをつけてあるいていたり。まあ、こういうのも程度の差はあれ古今東西、同じだな。それを追及しても、のらりくらり。みんな、自分や仲間だけの繁栄を願い、他者を抹殺しようとする。 そうやって3年ぐらい経つと、記者も育っていく。カバル・ラハリヤも、影響力のあるメディアになっていく。けれど、この数年で記者が40人ぐらい殺されている、なんていう事実もあるらしい。利害関係や政治的なこと、によって敵対する人々もいるんだろう。日本や西欧のようにジャーナリストがサラリーマン化しているのとは、ちょっと違う。 やっと育ってきた記者が、結婚を機に退職するという。女が結婚しないで働いているのは不自然という見方があるようで、家族の願いに応えて、のようだ。もったいない。と思っていたら、半年後ぐらいに復帰したらしい。やっぱり、仕事の面白さには勝てない? ミーラも主婦で、亭主も登場するけど「仕事をするな」とはいわない。いつもニヤニヤしている。女房が気鋭の新聞記者で頭がよくてガンガンやってくタイプなのにね。でも、喧嘩してるようにも見えないし。うまくやってるのかな。 てな感じで、淡々と事実を見せていく感じ。警察での様子なんか、よく撮れたな、というようなのもあるけど、突撃型のミーラの勇ましさはよく描かれている。映画としてのトリッキーなところはないけど、でも、マイノリティであり、被差別下にある不可触民の女性たちが独自にメディアを立ち上げ、行政に物申していく姿は清々しくも美しい。しかも、命の危険だってないわけではない。ひるがえって日本のメディアはどうだ。のうのうと大新聞の名刺で仕事をし、自分たちはエリートだと自負しながら、な感じがするよな。インドという、メディアが未発達の国と、生活も豊かになっている日本とでは違うと言えばそうなんだろうけど。記事の信頼性はどうなんだろう。近ごろの新聞なんて、どーでもいいようなコラム的な内容の記事ばかりが目立つ。それを思うと、もっと戦え、と思ってしまうんだが。 | ||||
ジョン・ウィック:コンセクエンス | 9/25 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/チャド・スタエルスキ | 脚本/シェイ・ハッテン、マイケル・フィンチ |
原題は“John Wick: Chapter 4”。邦題の“consequences”は、「よくない結果」のことらしい。allcinemaのあらすじは「裏社会の掟を破り、粛清の包囲網から生還した伝説の殺し屋ジョン・ウィック。地下に身を潜める彼は、主席連合から自由になるために動き出す。一方、主席連合の新たな権力者となったグラモンは、ジョンを守ってきたニューヨークのコンチネンタルホテルを爆破し、ジョンの旧友だった盲目の達人ケインを強引に引き入れ、ジョンの抹殺に向かわせる。そんな中、ジョンは日本の友人シマヅを頼って、大阪のコンチネンタルホテルへとやって来るのだったが…。」 Twitterへは「殺しの連続で、バラエティ豊かな殺し方は興味深い。でも殺そうとする&逃げながら反撃する、以外の物語がないので、その意味ではつまらないし退屈。少し寝たし。どうやって撮ったのか? どこまでどうCGか? は興味が湧くけど。」 とうとう4作目で、すべて見てるけど、2作目からは話しも覚えてなくて、ひたすら逃げながら殺してる印象しかない。1作目もシンプルだったけど、まだ抑揚があった。けど、どんどん話が分からなくなっていく。というか、茫洋としていく。 冒頭に3作までの経緯が簡単にあったけど、まあ、忘れてる。っていうか、2作3作ともに物語がないから当然だけど。で、今回も同様に物語がなく、逃げながら殺すだけの話。だいたい、新たにトップの座についた伯爵が指揮を執ってジョン・ウィックを抹殺するらしいけど、これ、費用対効果に反してるだろ。と思ってしまう。 裏社会とか首席連合とかいうものの姿もはっきりしなくて、いったいなんなの? 掟を裏切ったから粛清される、という流れは分かるけど、ああまでして(数百人の殺し屋がジョンを狙ってうごめく)必要がどこにあるの? メンツ? バカじゃないのか、としか思えない。 ジョンは最初にアラブ人のところに行って相手を殺すんだけど、ありゃ何のため? 次は大坂で旧知のシマヅ(真田広之)を頼るんだけど、おいおい、どうやって移動した? フツーに飛行機乗れるんかい!? とはいえ、この大坂のパートは真田広之と、その娘のアキラというのが日本人だし。素っ頓狂な日本風味はあったけど、殺戮者たちを葬り去る手口やなんかも、まあまあな感じ。とはいえ、道頓堀の夜景以外はみんなセットかCGなんだろう。笑ったのは屋上から見える「初志貫徹」というネオンで。はいはい、という感じ。 ここでは盲目のケインが登場し、ガラスケースに入った鎧なんかの間を縫って争うんだけど、あのガラスケースは以前にも見たことあったよな。3作目か? しかし、ケインっていうのは殺し屋組織に属しているのかいないのか。のあたりも、なんのことやらでテキトー過ぎ。まあ、ここでシマヅはケインに刺殺され、娘アキラは復讐を誓う。 次の、ロシア(?) 教会の女の父親を殺した相手のところに行ったあたりから睡魔がじわじわ来て…気がついたらエッフェル塔を背後に侯爵と話しているところ、だったかな。世界中の殺し屋から狙われているのにひょいひょい移動できるのは、どうしてなの? で、フランス。もう、正直いって、首席連合がどういう組織で、なぜNYコンチネンタルの支配人が伯爵と一緒に行動してるのかとか、その他のモロモロの人物がどういう関係性なのかとか考えてもしょうがない。たぶん答はない。なので、逃げ方と殺し方だけ見ることにした。って、それ以外ない。 で、なんやしらん、決闘をして勝てばどうたらとかいう話になって。主席連合は盲目のケインに託し、ジョンと教会で決闘することになったらしい。なので、またまた延々と対決シーンがつづく経緯になるのかなと思っていたら、そこに行くまでが大変で。ジョンが行動に姿を見せるや否や暗殺指令が飛び、そこらにいる連中がドカドカ襲ってくる。凱旋門の周囲の道路でも、車を縫って襲ってくる。まあすべてCG合成だろうけど、 しっかし、クルマにはねられ、高いところから落ちたり、飛んだり跳ねたりしても大した怪我をせずに復活するバカバカしさは、笑う以外になにもない。 次はどこかの屋敷の中で、俯瞰のアングルから移動しながらのアクション。地味さを克服するためなのか火焔ショットガンの炎がぼうぼう燃える。夜明けまであと数分というところで、教会につづくながい階段。ここでもあれこれなぎ倒し、殺し屋の犬連れの黒人には助けられたり、ど派手な階段落ちを見せてくれたり。対戦相手のケインに助けられたり。あと3分じゃ上がりきれないだろ、と思っていたら、時間ではなく曙光がタイムリミットだったのか。へー。 で、どうすんのかと思ったたら、ジョンとケインは古式な銃をもち、30歩離れて打ち合う! のかよ。そういう決闘だったのか。なんとまあ古風な。ともにかすり傷で、20歩までツメ、さらに10歩の間隔になって。倒れたのはジョン。ケインの勝利か。と思ったら、なんとジョンは撃っていなくて、込められた弾丸を伯爵に向けて撃つ。おお。その手があったか。ではあるけれど、伯爵を殺して、なんでケインもジョンも自由になるんだ? 理屈が分からん。伯爵を殺しても、また次の頭が登場するだけで話は変わらない、とか言ってなかったか? とはいえ10歩間隔で撃たれた弾丸はジョンに致命傷。階段の途中で絶命してしまう。ジョンの賭けは成功したんだか失敗したんだか。後日、ジョンの墓を見舞う、コンチネンタルホテルの元支配人と、ローレンス・フィッシュバーン(どういう役割何だか、最後まで分からなかった。忘れてるし)。で、自由の身になったケインは、娘に会いに行くが、そこにシマヅの娘アキラが迫る…。ところで映画は終わる。2時間50分と長いけど、飽きたよ。 ・ケインは盲目。仕込み杖も使うけど、銃も使いこなす。どうやって敵の動きを感じるんだかね。とくにジョンとの決闘なんて、フツーに考えて不利すぎるだろ。マンガだ。 ・相変わらずだけど、1、2発撃っただけじゃ死なない相手。当たってるんだか外れてるんだか、よく分からんけど。 | ||||
ヒンターラント | 9/28 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ステファン・ルツォヴィツキー | 脚本/ロバート・ブッフシュヴェンター、ハンノ・ピンター、ステファン・ルツォヴィツキー |
オーストリア/ルクセンブルク映画。原題は“Hinterland”。「内陸部」という意味なのかな。allcinemaのあらすじは「第一次世界大戦後、ロシアでの過酷な捕虜収容所生活から開放され、ようやく帰郷した元刑事ペーター。しかし敗戦国となった故郷は変り果て、祖国のために戦った兵士たちにももはや居場所はなかった。帰宅しても迎えてくれるはずの家族の姿はなく途方に暮れるペーター。そんな中、帰還兵ばかりを狙った連続猟奇殺人事件が発生し、ペーターは法医学博士テレーザの協力を得ながら事件解決に乗り出すのだったが…。」 Twitterへは「第一次大戦後、ロシアに抑留されていた兵士が帰還すると、故国オーストリアは帝政が崩壊。闇に沈んでいた。なかで勃発する、帰還兵を狙った連続殺人。元刑事の帰還兵が謎に挑むが…。表現主義的な映像効果、ダークな世界のファンタジー。」「世界観が似た映画に『ダークシティ』(1998)とか、コメディ要素の強い『デリカテッセン』(1991)があるけど、こちらは割りとリアル。歪んだ書き割りのような建物とか、絵画的でなかなかいい。」 第一次大戦で抑留が解け、何年かぶりで故国に戻る元オーストリア兵たち。そうか。第一次大戦でも、ソ連は捕虜に強制労働させていたのか。もどってみると、帝政は崩壊。共和制となり、赤旗にインターナショナルまで鳴り響いていた。戦友と別れ、家に戻ると、屋敷の管理人のババアが居座っていて、「奥様は戦時国債に手を出して破産。出て行った」と。それでも部屋の権利はペーターにあるのか、ここに住みつくことに。 ところが、一緒に帰還した仲間が次々と殺戮されていく。ペーターは容疑者として拘引されるが、実は彼は元警部で警察官。同僚で友人だった男が警視になっていて、その部下の若い警部はペーターを軽視する。監察医のテレーザは、ペーターの有能さを知っているので無碍にはしない。 この映画で特筆すべきは、ドイツ表現主義的な映像効果が使われていること。地面は斜めってるし、建物や柱、窓も斜めってる。それも、同じ方向ではなく、ジグザグになってたりする。街の風景が、ゴッホの描く絵のようだ。まるで書き割り、そして、トーンがブルーから濃緑で統一されている。ダークでノワールな色調が、敗戦後のオーストリアの雰囲気を妖しくしつらえている。こういうの、好き。 でまあ、身体に杭を穿たれたり、鞭で打たれたり、下肢をネズミに食われたりと、次々と帰還仲間が殺されていく。 同時期に分かってくるのが、ペーターが抑留中に妻が友人だった警視と情交をもっていたことが分かってきて、荒れまくる。ついに教会内で小水して警官を呼ばれるのだけれど、警官が来る前にペーターが暴漢に襲われ、針金で首を絞めるという連続殺人と同じ手口で殺されそうになる。まあ、都合よく警官がやってくるのだけれど。 監察医のテレーザは、19という数字に思いつく。杭が19本、九尾の鞭…。もしかしたらネズミも19匹だったかも、と。 若い警部が、戦争から戻らない兄を探していることも知る。 妻には会いにいけない。警察には正式に復帰できない。ペーターは、彼を慕うテレーザと関係をもつ…。いいね。 ペーターは、思うところがあって救済所を訪れ、帰還兵仲間のなんとかいう青年と話をするんだけど、この件がよく分からなかった。青年が犯人かと追及しているとき、なぜか警視が青年を撃ち殺し、「これで真犯人逮捕」ということにしてしまうんだよね。でも、真犯人は別にいて。その理由は…。これまたよく経緯が分からないんだが。 なんでも抑留されていたとき脱出計画を実行しようとした連中がいて。しかし、悪事が発覚すると収容者の10人に1人だか100人に1人だかが見せしめに殺されることになる。なので、抑留者の中で委員会という組織ができて、委員会が脱出計画をロシア側につたえた。結果、脱出計画組は捕まり、殺された、のかな? その代わり、見せしめとなるはずだった500人だか5000人の命は代わりに救えた。ということがあった、らしい。で、連続殺人鬼が狙っているのは、この委員会の面々らしいのだ。 というのが理解なんだけど、ささっと説明されるので、よく分からんまま見てた。 1人が、帰還してすぐに死んでいることが分かり、さらにもう1人が殺されるんだったかな。もう、忘れてる。 で、鐘楼のシーンになるんだが。このあたり、名前と顔が分からん若いのが色々登場して、はあ? な感じがあるんだよな。どこかでペーターはクロロホルムを嗅がされ、気がつくと鐘楼で。若い男がいるんだけど、「お前は死んだはず」みたいなことを言ったりして、なんかよく分からない。男は、ライフルの照準で下を見ろ、とペーターに言う。見ると広場に妻と娘がいて、誰かが箱を渡す。男が言うには、「箱は爆弾で、建物の中に入ると爆発する。お前が妻を射殺すれば、被害はお前の妻だけで済む」てな理屈らしい。これは、ペーターたちが、人数的に少ない脱走者を告げ口した代わりに助かった収容者は多かった、という理屈を言ってるんだろう。バットマンの『ダークナイト』みたいな究極の選択だな。 と、同時に、使いの少年が警官たちのところに伝言をもってくる、んだったかな。 次第に分かってくるのは、例の男は兄を探していた若い警部の、死んだと思われていた兄だったんだよね。見ているこちらは「はあ?」なんだけど。で、その兄を、駆け付けた部下は撃ってしまい、殺してしまうのだ。 実はペーターは、若い警部に「兄は死んでいる」とつたえていたんだけど、死んでいると思っていたのか、実は生きていると知っていたのか、よく分からない。 とにかく真犯人は、若い警部の兄で、脱走計画を告げ口されたことを恨み、委員会だった連中を次々と殺していっていた、というわけのようだ。このあたりの経緯と話がささっとされてるだけなので、なんかスッキリしないのだよなあ。 一件落着。最後にペーターが妻子に会いに行く場面は、歪みがなくフツーに撮っている背景だった。 ・人間関係がちょっと分かりにくいので、途中から話に入れなくなるのが残念。もうちょっと人間を描くようにして欲しかったかな。 ・ペーターの妻についても、何年も音信不通で、そばにいたペーターの友人とよろめいた、という簡単な説明だけ。それも、その友人警視が言うだけというのがもったいない。妻が描かれていないんだよな。要は、女として寂しいから男が欲しかった、という通説にしか頼っていない。 ・脱出計画についても、言葉でだだだって説明されるだけなので、追いついていけず。ペーターたち委員会と脱出組の対立とか、仲間を裏切る苦渋とか、犠牲になった脱出組の気の毒さとか、選択することで生き残ってきたことの重さがいまいちつたわってこい。それと、過酷な抑留生活とかも描いて欲しかったね。 |