美しき結婚 | 12/4 | シネマ ブルースタジオ | 監督/エリック・ロメール | 脚本/エリック・ロメール |
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フランス映画。原題は“Le beau mariage”。 Twitterへは「監督エリック・ロメール。不倫に嫌気がさし結婚願望にめざめた25歳の大学院生が、知り合った弁護士にターゲットを絞り、ストーカーまがいにアタックする話。夫は妻を養うものとか、アナクロなことをいうんだよね、彼女。変な映画。」 もうすぐ25歳のサビーヌは実家がル・マンにあって、大学のあるフランスに下宿中。院生で、論文提出時期が迫ってるのに、妻子ある画家と不倫中。なんだけど、最中に画家に息子から電話で、お父さんぶりを見せるのにムッとして、「妻子ある男はもうお断り。結婚するわ!」「誰と?」「これから探す!」な別れをしてしまう。 サビーヌは骨董屋でバイト中なんだけど、これがル・マンにあるんだよね。調べたらパリとル・マンって300キロぐらい離れてて、どういう行き来をしとるんだ、この女は。で、バイト先の近くに友人クラリスのアトリエがあって、クラリスはすでに医者と結婚してるらしい。サビーヌは彼女にも「結婚宣言」をするんだけど、これが当時のフランスとは思えないアナクロさ。夫に稼ぎがあれば妻は働かず、家にいればいい、とかなんとか。でもまあ、そのクラリスの弟の結婚式で、サビーヌは彼女の従弟で弁護士のエドモンを紹介される。クラリスとすれば、将来の夫候補の紹介をしたつもり、らしい。 話が弾む2人だったけど、エドモンは急用ができてみなに挨拶もせず早々に帰ってしまう。突然消えたエドモンに、呆然…。なサビーヌ。クラリスはエドモンの電話番号をサビーヌに教え、あんたからかけなさいよ、とけしかける。 で、エドモンがジャージー島の焼き物に興味があるというので、バイト先の骨董屋の主人が「出物がある」といっていたのを勝手に利用してエドモンを誘い、売り手のところに連れて行ってしまう。しかも、売り手には値切って、手数料は取らずに。だけどこれが主人にバレて、でもサビーヌは謝るどころか売り言葉に買い言葉で「やめてやる、こんな店」と言ってしまう。そんなワガママ勝手な女である。 じゃあ、私のアシスタントする? とクラリスに言われると、そんなのはお断り。私には才能がある。と自信ありげに言う。でも、自分じゃ描いたりしないくせに。そんな負けず嫌いの強がり女。 でも、これでエドモントつながった、と思ったサビーヌは電話攻撃を開始する。たまたまちょっと会っただけの相手なのに、サビーヌはもう結婚相手の第一候補にしちゃってるところが、変だよな。妻子あるオッサンと不倫してた女が、こんなんで燃えちゃうのか? 以降は、自分勝手な考えでガンガンとエドモンの事務所に電話して。秘書に「いません」「来客中」「つたえておきます」といわれるの連続。一度、サビーヌの誕生パーティにちょっと顔を見せたぐらいで、それもすぐに帰ってしまう。当たり前だろ。パリからル・マンに来るなんてたいへんだよな。しかも、サビーヌの母親はちゃんと見抜いていて、「お前には合わない」とそれとなく言ってくれてるのに、気がつかないサビーヌって、バカじゃないの? エドモンがサビーヌに関心があるなら向こうから電話するだろう。してこないっていうのは、迷惑がられてるってことなんだよ。アホか。この女。 そういえば以前つき合っていたらしい学校の先生と教会で出会って。先生の家に、ちょっとおいでよ、なんて言われて寄ったりするんだけど。この先生も妻子持ちで。いったいサビーヌはどんだけ不倫してるんだ。よく分からん女だ。 なんど電話しても埒があかないので、とうとうエドモンの事務所に押しかけ、秘書に面倒がられるサビーヌ。来客の合間にちょっとだけエドモンと話すと、手紙を書いた、と言われる。でも、サビーヌはまだ読んでなくて。で、説明を受けるんだけど、エドモンはサビーヌを傷つけないよう遠回しに言っているのに、鈍感すぎるだろ、この女、な感じなんだよな。黒髪で痩せてて、好みではあるけど、つき合うというわけでもない、な感じとか。例でいっていたのは、住みやすい家を見付けたけど、田舎にある。田舎には住みたくない。だから、その家は買わない、というのと同じ様なもの、とか。僕は自由が欲しい。そういう人間。束縛はされたくない。などと言っていたけど。要はエドモンは、サビーヌに興味はないのだよ。でも、そういわれて逆上し、「偽善者!」と罵倒し、来客とぶつかっても謝らずに帰ってしまう。 自分の考えはつねに正しくて、傲慢不遜で、自分の負けは認めないサビーヌ。なんだかな、この映画。 そういえば冒頭では、パリに向かう列車で相席になった青年がなにか勉強中で。この相手とどうにかなるのかな、と思っていたんだけど、ぜんぜん関係なくて。で、ラストで、パリに向かうんだか戻るんだか知らんけど、な列車で相席になったのが、またまた青年で本を読んでいて。その彼がチラチラとサビーヌを見るんだけど、彼女は気づかない、というものだった。もしかして、あの青年は、冒頭の青年と同じか? そして、新たなる恋の予兆なのか? でも、青年には「やめておけ、こんな女」とアドバイスしたいところだな。 ・妻子ある画家との不倫を母親は知っている、というのが凄い。それで、今度はどんな男? なんて聞いてきたりする。弁護士で独身で、とかいうと、まずは同棲からじゃないの? なんて言ってくる母親。そうか。当時のフランスは、独身娘に母親が、男つつき合うならまず同棲してから、という時代なんだ。 ・パリのサビーヌの部屋に、浮世絵が貼ってあったな。 | ||||
モナ・リザ アンド ザ ブラッドムーン | 12/5 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/アナ・リリー・アミールポアー | 脚本/アナ・リリー・アミールポアー |
原題は“Mona Lisa and the Blood Moon”。 Twitterへは「ヴァンパイア物かと思ったらそうでもなく。サイキックだけどそれが主題でもなく。娘が自由を求めて抗う話だった。これをプロローグとして話をどんどん転がしていったら面白くなりそうな感じ。できるかどうか知らんけど。」 モナ・リザ・リーは韓国系の少女で、でも、ある夜=月が赤く輝く夜に、女性看守を念力で操って脱出する。夜の街をうろうろしつつ、ストリッパーのボニー・ベルに出会うまであたりまで、食いものを奪うとか、チャラ男と出会ってキスしてチャラ男のTシャツをもらうとかあるけど、とくに事件も起きないし、だらだらな感じなのでちょっと退屈。ボニー・ベルと出会って家に泊めてもらい、その後に能力を利用され悪事を働き出すあたりからクライム感がでてくる。さらに、モナ・リザを追うトンマな警官も登場。母親に意見するボニー・ペルの息子チャーリーもからんで、話が動き出す。モナ・リザも少しずつ現実に目覚めるのか、動物的ではなくなってきて、病棟に戻りたくない、逃げたい、という目的もでてくる。背景はほとんど分からないけど、少しずつスリリングが増してきて、大きなドラマがあるわけじゃないのに、いつしか引き込まれていった。 10歳で病院にやってきて、12年間いるというから、22歳という設定か。チラッとでてきたのは、入国審査(移民?)だかなにかで撥ねられて病院にやってきたということのみ。母親がいたんだっけか? でも、その存在はまったく出てこないし語られない。このミステリアスなところにイラだつかというと、そんなこともない。不思議。 トンマな警官と最初に出会ったのは、チャラ男に会った後だったっけか。拘束衣を着ている韓国系娘が手配中で、それが目に入って空き地を追って行ったんだったか。それでモナ・リザに操られ自ら膝を打ち抜いてしまう。 ボニー・ベルはモナ・リザの能力を使ってポールダンスにやってきた客からチップをたんまり出させたり、ATMから引き出してる人から金をくれるようにしたりと、濡れ手で粟の稼ぎをつづける。という時点で、モナ・リザには善悪の判断ができないというのは分かるんだけどね。まあ、10歳から社会に出たことにないから分からないのかも知れないんだけど。しかも、脱出してからやさしくしてくれたのが、チャラ男の次にボニー・ベルだったのも不幸中の不幸かな。 トン名の警官はその後、歩けるようになって杖をつきながらモナ・リザを探すんだけど、まずはボニー・ベル探し。で、見つけたけどタイミングよく2人は逃げ出して、でも行き止まりに追いつめられて。でも、モナ・リザの念力で自分で自分に手錠をハメルというお粗末な結果に。 ボニー・ベルは、モナ・リザの超能力でチップを奪った3人組にボコボコにされて病院行き。 一方、モナ・リザは、追っ手を逃れるために逃亡を決意。母親に愛想をつかしたチャーリーとチャラ男に会いに行くと飛行機の手配までしてくれるという、なんという親切心。ヤバい男かと思ってたら、いいやつなんだな。でもチャーリーが母親に電話したせいで居場所が空港と分かって、警察が一斉手配。2人が搭乗手続きの列に並んでいると、空港職員の脇で顔チェックをしている。さあ、どうするか。と思ったらチャーリーが列からそっと離れて、近くにいたアジア系の女性のてをもって「この女につかまって云々」と叫んだから、周囲の景観はその女性に銃を向ける。そのスキにモナ・リザはまんまとデトロイト行きの飛行機に搭乗。やるじゃん、チャーリー。そのチャーリーは警官から「どこ行きの飛行機に乗ったのか?」と問われるも、うだうだ誤魔化して、母親のいる病院へ。 モナ・リザは、別れる時にもらったiPodで、チャラ男から「まず、この曲を大音量で聞きなといわれた曲で、ウキウキに。やっとモナ・リザにも笑顔が浮かんできた。 トンマな警官は、またしても逃げられて残念、な表情。で、思い出すのは、モナ・リザに会う直前に食べたフォーチュンクッキーにあった、「知らんふりをしろ」だったかの言葉。おお。伏線がちゃんとここで落ちた。 そうそう。ボニー・ベルをボコボコにした連中は、ストリップ小屋の入口のオッサンに、思いっきり殴られるという因果応報もちゃんと忘れずにあった。 ・結局、モナ・リザの正体は分からずじまい。いろいろ思わせぶりが、そのままほったらかしだ。でも、それは気にならないんだよな、なぜか。病棟から逃げる→脱出したら食欲→知り合いができて→次第に自我が目覚め→敵(警官だけだけど)から逃げて、新しい自分を再スタートさせるという部分は、まさに、物語のプロローグそのもの。この先にモナ・リザの正体が少しずつ明かされていくようなドラマがつくられるのかも、な期待は感じたんだけど。つくられる可能性は低いとしても、ね。 ・ボニー・ベルが、なんかケイト・ハドソンに似てるな。でも、こんな面長じゃなかったよな。とか思ってたんだけど、やっぱ本人だった。まだ44歳にしては、ぶよぶよだったけど、映画的なエフェクトなのか? | ||||
ショータイム! | 12/7 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ジャン=ピエール・アメリス | 脚本/ジャン=ピエール・アメリス、マリオン・ミショー、ジャン=リュック・ガジェ、ミュリエル・マジェラン |
フランス映画。原題は“Les Folies Fermieres”。 Twitterへは「農場を差し押さえられた酪農家が、納屋にキャバレーを開いて難曲を乗り切ろうとする、なんと実話らしい。イギリス映画では炭鉱の町を舞台にした映画がよくあるけど、こちらはフランス映画。のせいか、おとぼけのらくらコメディになりすぎかも。」 この手の、ダメ状況から起死回生の大博打で成功を! っていうのは、イギリスの炭鉱を舞台にした映画でたくさんつくられてる。その物真似的ではあるんだけど、ラストで「実話」とでてきて、へー、な感じ。 ↑と書いてから2週間経ってしまった。 酪農家のダヴィッドがなぜ農場を差し押さえられるのか? がよく分からない。経営不振なら、他の酪農家も同じはず。でも、そういう感じではない。そのダヴィッドが判事に交渉して2ヵ月間の猶予を穢多帰り道、なんでキャバレーに寄るのだ? 金もないのに、あり得んだろ。さらに、タイミングよくダンサー(ボニー)がクビになって。その彼女を誘ってど田舎でキャバレーを開こう、という発想が、いまいちトンチンカンな感じなんだよね。だって、客なんて来ないだろ。だって田舎なら住んでいる人も少ないし、みな離れたところに住んでいるはず。一度来たら、しばらくもう来ないだろ。もし酪農の経営不振が一帯に及んでいるなら、なおさら客はおらんはず。ダヴィッドは、どういう採算性でそろばんをはじいたんだ? そこに引っかかってしまうと、現実味の薄い夢物語に思えてしまうんだよね。これがたとえ実話に基づいた映画だとしてもね。 オカマのダンサー、催眠術師、双子のダンサー、手品師などなど、うだつのあがらない連中で、余技で芸をしているような面々。ユニークだけど、でも現実にはあんな連中じゃないんだろうなあ。どうせなら添え物的な扱いじゃなくて、もっと彼らをフィーチャーしてエピソードを盛り込めばいいのにね。 でまあ、ボニーがリーダーになって特訓が始まるんだけど、この間の収入はどうしてるんだ? という素朴な疑問。とくにDIY店で働いてたオカマちゃんとか、お店に勤めてた手品師の女性なんか、仕事をやめてきたのかどうか気になってしまう。だって収入がなくなっちゃうわけじゃないか。 芸人の上達具合も、いまいちよく分からないままオープンが近づいて。でも、前日の夜、ダヴィッドの父親がキャバレーとなるはずの納屋に放火して、全焼。もうだめだ、とボニーや芸人は落胆して帰ろうとするのをダヴィッドが(だったよな)引き留め、やろう、ということになる。のはいいんだけど、用具やなにかあったんだろう納屋が全焼したのに、庭でキャバレーを開いてみたら、照明だの何だの焼けずに残っているではないか。え? それって、納屋じゃないところにしまってたのか? なんか嘘くさいなあ。映画のための都合のいいつくり話だろ、火事も含めて。と思うと、あんまり共感できないんだよなあ。もやもや。とはいえ映画では大盛況で、農場の差し押さえは回避できた、ということなんだろう。信じられないな。と思っていたら、現実に大盛況のキャバレーの様子が映し出されて。へええっ、とは思うんだけど、ホントかなあ、という疑念は拭いきれず。 なんか、ムリやり面白くしようとして戯画化しすぎ=バカっぽい演出してるんだけど、逆効果なのでは亡いのか。マンガみたいな成功譚ではなく、もっと現実に即した、ドキュメンタリーに近い内容なら、納得できたかもなあ、と思ったりしたのだった。 ・ダヴィッドは離婚していて、元奥さんが登場するんだけど、キャバレーのオープンまで手伝ったりするのだよ。離婚してるのに。なんか変な感じだよなあ。どうも、ダヴィッドの父親がらみの離婚なのかな。映画では、また一緒になりそうな感じで、小太りな元奥さんもなかなかチャーミングでよかった。 ・父親と、使用人の1人を途中まで混同してた。なんか、雰囲気が似てるんだもん。 | ||||
女優は泣かない | 12/8 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/有働佳史 | 脚本/有働佳史 |
公式HPのあらすじは「スキャンダルで女優の仕事を失い、10年ぶりに故郷の熊本に帰ってきた梨枝(蓮佛美沙子)。彼女は、ドラマ部志望の若手ディレクター・咲(伊藤万理華)と共に“女優が生まれ故郷の熊本で素顔を見せる”密着ドキュメンタリー撮影に渋々挑むことに。女優復帰と希望部署への異動をかけて、それぞれ再起を図ろうとする2人だが、全くソリの合わない2人はたびたび衝突し、撮影は前途多難。そして、なるべくこっそりと撮影をしたい梨枝の気持ちとは裏腹に、次々と現れる知人たち。やがて小さな町で噂が広まり、撮影のことを内緒で帰郷した梨枝の存在が家族の耳に入ってしまう。かつて、父・康夫(升毅)と大喧嘩の末、町を飛び出した梨枝。その父は今、がんに冒されていた。父の病状を知りながら、父を避けていた梨枝に怒り心頭の家族。果たして、ドキュメンタリー撮影の行方は?そして、梨枝と康夫の確執は……。」Twitterへは「故郷を捨て10年戻らずのアラサー女優。不倫スキャンダルからの復帰企画で、故郷訪問ドキュメンタリーを撮るという意図がまず分からん。それを任されたのがうだつの上がらない女性演出家。捨てたはずの家族や同級生もからんで、のらくら退屈すぎ。」 いまいちドラマがないし、山もない。オチ(自分を嫌っていたと思っていた父親が、実は自分の活躍の記事をスクラップしてしたりビデオを撮っていたりしていた)も、ありきたり。なんかテレビの2時間ドラまっぽいんだよな、つくりが安っぽいところが。なかなかに退屈な2時間だった。 そもそも高校を中退し、なんのあてもないまま上京し、芸能界に潜り込めたこと自体が奇跡。生活費や住まいはどうしたんだ? そっちの方が気になってしまう。で、最初はアイドルでテレビ出演もし、芝居もして、あるとき監督の家を訪れてそれをスクープされて干されて。が28歳のときらしい。そんぐらいだったら大成功の部類じゃないか。それが復帰作で、故郷の駄菓子屋訪問ってショボすぎだろ。しかも利枝にはマネージャーもついてなくて、撮影スタッフは地方局なのかキー局なのか知らんけど若手の女性ディレクターの咲だけって、あり得ないだろ。しかも予算がないから自宅に泊まれとか、アホすぎ。こんな企画が通るわけない。と思うと、バカバカしくてあくびが出る。 実家には10年ぶりに会う弟1人で、父親はどこにいるんだ? 入院していたからだっけか。 ディレクターの咲も変で、ぶらぶら散歩レベルにガッチリシナリオつくってきて、利枝の「ドキュメンタリーじゃないの? これじゃやらせじゃない!」にも「ドキュメンタリーにも演出が必要」っていうんだけど、業界でどういう育ちをしてるなんだ。っていうか、映画としてルーズすぎるレベルだな。 で、延々、梨枝と咲とのかけあい漫才がつづく…。で、ファミレスの店員とか居酒屋の息子(かつて、つきあってたんだと、ははは)とか、行く先々で同級生にでくわす。それを梨枝は恥ずかしいと思って顔を隠すんだけど、なんでなの? みんな地元の誉れと思っているのに、本人だけ気にしすぎだろ。スキャンダルからの復帰作で地元訪問という企画がやなら、受けなきゃいいんだ。受けないわけに行かない? そんなことないだろ。もっと堂々としてるタレントや、じっと潜んだままのタレントはいくらでもいる。ショボイ仕事を受けて、それがオンエアされたら、もっとみっともないだろ、と思うんだが。 それに、スキャンダルだって、あとから、ただ訪問しただけで何もなかった、と言っているのだから、それならなおさら恥ずかしく思う必要はないはず。 というようなだらだらは、ドタバタにもならず、つまらない。 多少ドラマチックになるのは、梨枝が実家の隠し扉みたいなのを開けたらそこに梨枝の出演ビデオや雑誌のスクラップがぎっしりで、なんだかんだいいつつ父親は娘の活躍をよろこんでいた、という話ぐらいか。でも、そんなのよくあるエピソードで、とくに劇的でもなんでもない。むしろ気になったのは、梨枝の同級生のファミレス店員が「梨枝の出てる雑誌を熱心に切り抜いてる年寄りがいる」と、地元人気を話していたことで。それがつまり梨枝の父親だったんだろうけど、同級生なら梨枝の父親の顔ぐらい知ってるだろ、とツッコミを入れたい。 ときどき過去映像がインサートされるのだけれど、たとえばそれは高校時代だとか、女優時代だとかで。脈絡なく現れるのが、なんとも不自然なんだが、それはいいとして。梨枝は、泣きの演技ができないらしい。それを咲も知っていて、「演技が下手」と直に言っていたよな。失礼な話だ。で、ラスト近く、やっと梨枝が病院に行って父親に面会することになって。この段階で梨枝は、咲の「ほんとのドキュメンタリーを撮ろう」に逡巡していたんだけど、病室に入ったら咲に「撮って!」と指示する。父親の葬儀の場で咲は「なんであの時、撮れって言ったんですか?」と問うのだけれど、梨枝は「撮られてないと泣いちゃうでしょ。撮られてると、私は泣かないの」と応える意味が、すっ、と入らなかった。梨枝は父親の前で涙を見せたくなかったということか? あれっ、梨枝が父親のスクラップを発見したのは、この後だったっけか? なんか、もうすでに記憶が曖昧だよ。まあ、これが題名の『女優は泣かない』にかかってくるんだと思うけど。 まあ、これを通して咲もドキュメンタリーとは何かを学び、成長。梨枝も、父親への恨みと拒否反応を克服、ということか。なんかなあ。しょぼい話だった。 ・スマホ画面の文字でつたえようとしているところが多いんだけど、文字が小さくて見えないんだよ。 | ||||
市子 | テアトル新宿 | 12/12 | 監督/戸田彬弘 | 脚本/上村奈帆、戸田彬弘 |
Twitterへは「「誰も想像できなかった、彼女の真実」というキャッチなので、面白そう、と思ったら期待外れ。「壮絶な過去と真実」はいまひとつピンとこず、核心部分ももやもや。時制は頻繁に変わる人物もうじゃうじゃ。でもつながりがよく分からない。」 とにかく分かりにくい。時制も、1999年あたりから2000年、2014年、他にもあったか。が入れ替わり立ち替わり。そのたびに人物が子どもだったり大人だったり。過去の証言者も、字幕で名前がでるから重要人物かと思うとそうでもなく。むかしの実家の団地に出入りする男達も、だれなの? から、家族写真に収まっていたと思しき男までいろいろで。とくに説明もない。母親が売春してたらしい場面もあるけど、なんか変な感じだし。父親見たいののが高校生の娘を暴行したかのような場面もあるし。本人が不良な同級生とつき合っていて性交渉もあったようなこといってるし。で、その不良な同級生に「ストーカーしてたろ。あやまれ」と言われていたメガネの同級生は、後の熱帯魚飼ってた男か? なんか、わざと分かりにくくしてるみたいで、もやもや感半端ない。 「壮絶な過去と真実」はなんだったのか? そういえば出産後何日までは前夫の子どもとして扱われる云々というのは言っていた。けど、だから母親は出生届をしなかった? それで無国籍になった? とか、ちゃんと平易に分かりやすく言ってたか? なんか、さらっとだったような。無国籍だからと、公的な機関にも相談に行ってたよな。あれはどうなったんだ? ほったらかし? 市子なのか。月子なのか。月子は姉で、筋ジストロフィーで、いつ頃発症したんだっけか。で、あるとき市子は酸素マスクを外して殺した、ということか。それをどっかに埋めて、それが白骨遺体で発見された、と。この件についてもアバウトすぎるかな。医療設備は母親がなんとかしてきた、とかいってたか。でも高額だし、なんとかなるもんじゃないだろ。難病支援があるんじゃないか。となると登録・申告が必要になるわけで、存在は知られる。それが突然いなくなったら問題になるんじゃないのか? 月子殺害は市子の独断なのか、母親の指示か、共謀か。あいまいなまま。遺体の遺棄も、親子でやった? なんかムリな感じだよな。そもそも殺害は経済的なところなのか? よく分からん。 市子が月子になりすましてどーの、というのも、なんか無理くりな感じでで。数歳違いが難病になったはずの月子に代わって小学校行くとか、変な感じ。歳のわりに強かった、なんてことも言っていて、ありゃどういうことだ? ある日から、もともとの市子で小学校に行った? よく分からん。そもそも無国籍の市子としては、入学できないはずだろうし。ああ、わけ分からん。 刑事が出てきて、現在の恋人のところに「この人は誰ですか?」なんて訪問してくるんだけど。あれも変な話で。どうやって現在の市子の存在や写真を入手したのか? しかも、個人宅に刑事1人で訪問してこないだろ。さらに、恋人から刑事に接触するようになって(このあたりで、ちょっとウトッと意識を失ってしまったよ)、刑事が、市子の過去の知り合いに話を聞きに行くのに同伴するなんて、あり得ないだろ。むちゃくちゃ過ぎる。 母親の存在も、よく分からん。いまは1人、どっかで男と暮らしているのか。それ以前との流れがぶち切れているので、ぜーんぜん“なるほど”感がないんだよなあ。 メガネの熱帯魚君は、なぜに市子に接触したのか? アイスバー食べてて「同じ」というのから知り合ったようなことがあるようだけど、だからなに? 現在の恋人とは、お祭りの屋台でやきそばで知り合って同棲、ということか。で、彼から結婚しようと言われ、翌日、姿を消す。まあ、戸籍がないからできない、でビビったのかとも思うけれど、それで死ぬわけではないだろ。実は、と相談して解決していく方法はあるんじゃないのか? そうすることで、姉殺害が発覚する? と思うなら、生まれ故郷の周辺でだらだらとバイト生活してても同じだろう。恋人に写真もバンバン撮らせてるし。姉殺害が発覚するのを懼れたのか? 無国籍の発覚を懼れたのか? そのあたりが、なんなのこの女? と思ってしまうのだった。 原作は戯曲で、シナリオも担当しているようだけど、それがよくなかった、ってのはありそうな気が…。ざっくり映画的にやっちゃえば、つじつまも分かりやすくできたんじゃなかろうかね。 ・声が聞き取りづらいのもよくないね。 | ||||
隣人X 疑惑の彼女 | 12/14 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/熊澤尚人 | 脚本/熊澤尚人 |
公式HPのあらすじは「ある日、日本は故郷を追われた惑星難民Xの受け入れを発表した。人間の姿をそっくりコピーして日常に紛れ込んだXがどこで暮らしているのか、誰も知らない。Xは誰なのか?彼らの目的は何なのか?人々は言葉にならない不安や恐怖を抱き、隣にいるかもしれないXを見つけ出そうと躍起になっている。週刊誌記者の笹は、スクープのため正体を隠してX疑惑のある良子へ近づく。ふたりは少しずつ距離を縮めていき、やがて笹の中に本当の恋心が芽生える。しかし、良子がXかもしれないという疑いを払拭できずにいた。良子への想いと本音を打ち明けられない罪悪感、記者としての矜持に引き裂かれる笹が最後に見つけた真実とは。嘘と謎だらけのふたりの関係は予想外の展開へ…!」 Twitterへは「オープニングから9割方は山なし谷なしのだらだら煮え切らないロマンスで、ミステリアスな部分もツッコミどころだらけ。西山太吉記者になりきれない彼氏も、なんだかなあ…。で、話はどうなったの? な感じ。」 ・そもそもXは、どういう姿をしているのだ? それが出てこないから、ひどくもやもやする。笹の隣室の、黒いモヤモヤ(実は良子の父親?)がそうなのか? 仮ににそうだとして、それが人間に触れると、相手をコピーして人間そっくりになる、と。では、触れられた人間はどうなるのだ? 消えて入れ替わるのか? その場合、元の人格は残るのか? Xの人格はどこまで繁栄されるのか? もしそのまま生きているのなら、そっくり同じ外観の人間が2人存在することになる。ならば、すぐ分かっちゃうじゃないか。 ・週刊誌の編集長は、怪しいと思われる人物の情報を集めていて、それを部員に配っていた。笹は、そのなかの1つ(良子と蓮の2人分ある)を手にし、追求することになる。ところで、そもそも編集長は、疑いのある人物の情報をどこから入手したのだ? ・良子は国立大学を出て(だっけ?)就職したけどいまはコンビニと宝くじ売場のかけもちの37歳、という設定が違和感ありすぎ。どういう人間関係を生きてきたんだ? 良子に接触しろと言われ、取材方法もよく知らない奥手の記者という設定の笹も、アホ。たまたま宝くじ売場で変なやつが暴れ、それを排除して良子に感謝され、もう一枚スクラッチを買って、当たったら飯を奢らせてくれ、で、当たったからってホイホイついていく良子はアホすぎ。ご都合主義すぎな話の展開。 ・良子の父はコンビニで挫折して、でも、良子を大学に行かせているけど、仕事はどうしたんだ? コンビニつづけてたのか? どうやって娘を大学に行かせたんだ? ・笹は、良子と台湾人の蓮をマークすることになったんだけど。良子がXである証拠は、なかったよな。そもそも、どういう証拠があればXなのか、という前提もなく取材してるのがおかしい。Xである、Xではない、のどちらも証明できないではないか。そのことは、後に良子の父親(笹が大した根拠もなくXと決めつけ記事にし、それだ騒ぎになった)も会見で言ってたけど。 ・笹は、良子の恋人として良子の実家に行き、父親に接触。髪の毛を入手し、あたふたと帰り(先にクルマで帰ってしまったけど、良子はどうやって帰ったんだ? 父親が送った? タクシー?)、その後父親がXであるという記事を書いて、掲載される。でも笹は、掲載された記事を見て、「でっち上げだ!」とか上司に食ってかかっていたけど、手直しされたと言うことか? 編集長はDNA鑑定すればXであると分かる、とか言ってて、笹は良子の父親の毛髪を入手し、でも、上司は鑑定もしないまま笹の記事を公表してしまった。って流れが、変すぎ。DNAがどうのでXが分かるなら、編集部だけじゃなくて、全国のあちこちで行われてるはずだろ。 ・笹としては、仕事上接触した良子だけど、本心でも惹かれていった、というようなことは言っていた。西山太吉になりきれなかったわけだけど、なんかふんぎりが悪いよな。 ・笹の隣室の黒いモヤモヤは、ときどき登場するけど思わせぶりなだけで意味不明。ラスト近くにでてきたモヤモヤは良子の父親の姿をしていたけど、では、なぜ良子の父親のXは、笹の隣室にいるんだ? 意味不明。 ・台湾人の蓮にまつわるエピソードは、ほとんど本筋とは関係ないだろ。彼女がXである云々の話題はでてこないし。日本語が下手な蓮を庇って、終いには恋愛関係になる写真家(だっけ?)の仁村も、存在がよく分からない。唯一、後半で仁村の腕に刺青のような点が3つあるのが写るんだけど、ありゃどういう意味だ? 事前に、Xが乗りうつった人間にはそういうものがある、という話もなかった。そもそも、もしそうなら、人間とXの見分け方なんて簡単なはずだろ。だってアメリカでは難民Xの受け入れは始まってるわけで、人間をコピーしたXの特長なんて把握されているはず。 ・では、良子の父親はXなのか? 良子はXではないのか? あたりは最後まで分からずじまいで。でも、良子の手紙には、笹は自分にひどいことをしたけれど、学んだところもあるので受け入れる云々とあって。じゃあ、ふたりはハッピーエンドになるのか? なんかなあ。 ・惑星難民Xは、現在、世界中で発生している難民のメタファーなんだろうけど、アメリカが受け入れを了承したなら、日本もそれに準じるんじゃないの、アメリカの圧力で。それにアメリカが了承したからには調査もされていて、友交性や安全性も確認されているはず。それを殊更に日本で騒ぎ立てる、という筋立てがいまいち理解できない。アメリカで事件が多発して、それが日本でも、というような虞れを描くならともかく、日本人騒ぎすぎ。 ・Xは、旧Twitterのことを示唆しているのか? | ||||
満月の夜 | 12/18 | シネマ ブルースタジオ | 監督/エリック・ロメール | 脚本/エリック・ロメール |
原題は“Les nuits de la pleine lune”。 Twitterへは「自由恋愛主義な女性に翻弄される男たち。なんだけど、最後に彼女も足をすくわれる、な感じの話。この当時からフランスはこんな感じだったのかね。壁にモンドリアンとか、小道具がいろいろ洒落てる。まあ、監督がエリック・ロメールだから。」 変な話だ。とはいえ構造は単純で、彼氏のレミと暮らしていながら男を取っ替え引っ替え遊んでいた若い女ルイーズが、最後に、同棲相手のレミに「好きな女性ができたから」と言われ、しかも他の男にも相手にされなくなって、ひとり寂しく彼氏の家をでていく、というもの。中に挟まる奔放な男遊びのあれこれが自由気まますぎて、アホか、と思うんだけど。製作された1984年当時にすでにフランスでは自由恋愛が叫ばれていたのか? ・そもそもルイーズがレミと同棲しているのが不思議。しかも交通の不便なパリ郊外に。ルイーズにとってレミのいいところはどこなんだ? セックス? ・でも遊びたい盛りのルイーズは、夜な夜なパーティで踊り狂う。レミを誘っても踊りも下手だして読書好きで技術系(?)なのであまりやって来ない。 ・ルイーズにご執心なのは、妻子のあるオクターブで、友人と言いつつ肉体関係にも興味アリで、でも、ルイーズとの交際は奥さんも知ってる? って、変な関係。 ・ルイーズは、パーティで野卑なサックス吹きのバスチアンとダンスで気が合って。それをオクターブはいい気がしていない。なんかなあ。勝手にやってろ、だよな。このオクターブの行動も、変すぎて理解不能。 ・レミはルイーズに意見する。けど、パリに別宅拠点を借りたので、そっちと行き来するわ、と身勝手のし放題。イラつくレミだけど、ルイーズはそんなレミにやさしくしたりして、何を考えてるんだか分からんよ。さっさと別れちまえ。と思うんだけどね。 ・何度目かのめぐり逢いで、ルイーズはバスチアンとパリの別宅で一夜をともにし、翌早朝に郊外の家に戻るけど、レミはおらず。いつしかソファでうとうとしてると、10時ぐらいにもどってきて。以前にパーティで紹介してもらったルイーズの友達と気があって、一夜をともにしてきた。彼女と将来をともにしたい。と言われて愕然。オクターブか誰かに電話するも相手にされず、1人、荷物をまとめて郊外の家を出ていくところで話は終わる。まあ、皮肉だけど、この展開は読めた。 ・っていうのも、あるときパリのカフェでオクターブとお茶してるとき、トイレでレミを見かけ、隠れるんだけど。オクターブはオクターブで、いつかパーティで会った君の女友だちが僕を見てたよ、というのだ。その女友だちはルイーズの一番の友達だろう、とルイーズは想像するんだけど、パーティではもう一人のテニス好きな美人もいて、その美人ともルミは挨拶を交わしていた。レミはもともとテニス好きという設定だから、こっちのほうの友達と上手く行くんじゃなかろうか、と誰しも思うはずで、その通りになっただけだよなあ。 ・ところでテニス好きの美女はそのパーティの場面しか出てこないんだけど、なかなか綺麗だったんだよなあ。まあいいけど。 ・フィルムの状態が悪くて、かなり雨が降っているところがあった。あと、バスチアンを残してルイーズがベッドを出るところでヌードシーン。陰毛が削られてる! 久しぶりに見た、ボカシではない削り。 ・観客は9人だった。 | ||||
枯れ葉 | 12/19 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/アキ・カウリスマキ | 脚本/アキ・カウリスマキ |
原題は“Kuolleet lehdet”。そのまま「枯葉」の意味のようだ。 Twitterへは「破れ鍋に綴じ蓋な感じの話。淡々と地味に、主義を貫き落ちこぼれていく中年男女。ラジオ、民謡、カラオケ、酒、映画館、ポスター。ネット時代のすれ違い。当人たちが幸せならいいんじゃね。」 なんか、話の構成とかセリフ、シナリオ全体が、アニメみたいな感じ。実写には実写のための、機微も含めたシナリオ構成が必要だけど、アニメのために書いたシナリオをそのまま実写でやっちゃってる感じかな。アニメなら許されるけど、実写になると「つながりが変」とかでてくるけど、そういうのは無視してやってる風というのか。絵づくりも同じで、人間が演じてる映画というより、なんか記号的なんだよね。人物や背景までも含めて。まあ、それがこの監督の持ち味なのかもしれないけど。たぶんカウリスマキの映画を見るのはほとんど初めてだと思うし。 たとえば建設現場で働く40凸凹のホラッパが、スーパーで働く40凸凹のアンサと最初に出会うのは、カラオケ酒場で。でも単にに目が合うだけで、会話もなにもせず。次に2人が顔を合わせるのは、アンサの雇い主(スーパーをクビになった後の酒場)が麻薬販売で逮捕される現場で、アンサは「今日は給料日だったの」といい、ホラッパは「じゃあ金がないだろ。コーヒー飲む?」とアンサを誘い、それが食事になって、その後映画に行って、別れ際にキスする、というもの。ここでアンサは電話番号をホラッパに書いて渡すけど、それをホラッパは落としてしまう。で、すれ違いが始まるわけだ。正直いって情緒も何もない。話の展開があるだけだ。 ふたりはどこに惹かれたのだろう? 下層労働者のふたりの心の穴は、どういうものなのだろう? ふたりの過去は、どうだったのだろう? というような問いに、示唆をくれるような映像がない。 たとえば、アンサの家に、死んだ亭主の写真と思しきものがあってチラと映るとか。そんな話をスーパーの同僚と、チラとするとか。はたまたホラッパは女房に逃げられた過去があるとか。なんかないと、互いに心の隙間を埋める誰かを心の底で求めていた、とはしみじみ感じられないのだよなあ。そういう引っかかりがあると、もうちょい情緒的になると思うんだけど、でもまあ、そうなるとフツーに安手な凡百の映画と同じになってしまうとは思うんだけどね。アニメ風書き割り的なつくりがカウリスマキの持ち味、なんだろうけど。 アンサもホラッパも、友達がいないわけではない。アンサはスーパーマーケット時代の友達がいるし、ホラッパにも年上の酒飲み友達がいる。ともに一緒にカラオケに行き、アンサとホラッパは目が合った、のだから。だから、孤独ゆえの人恋しさではないのだよな。なので、2人の恋愛感情がどうとか、がまるっきり分からない。この点も、ちょっと不満。なにか心に残る出来事でもあって、やさしさに惹かれたとか、男らしさに恋したとかあっても良さそうなもの。それがないのが、やっぱ、ロマンスとしての説得力のなさ、につながる。 ホラッパがアンサの電話番号をなくし。それでホラッパは最後に別れた映画館の前で待つんだけど、タイミング悪くのすれ違い。とはいえ、何度か互いに映画館の前をうろうろ、を繰り返していて、なんなく会えてしまうのが、ちにょっと味気ない。ドラマチックがないんだよ。それでこんどはホラッパはアンサの家で食事をするんだけど、スパークリングワインだけで物足りないホラッパ。でも、飲み過ぎを指摘されると、「指示されるのは嫌い」とさっさと帰ってしまうホラッパ。ほんと、こいつ、仕事中も酒瓶を隠し持ってて、それで職場を何度もクビになってるのに、懲りないやつ。まあ、フツーに見て同情の余地はないよね。 アンサも強情なところがあって。スーパーで働いているとき、廃棄する食品をもったいないからと仲間に分けたり自分でも持ち帰ったりしていた。それを指摘されてクビを宣告されると「どうせ捨てるものなのに、もったいない」と堂々と反論する。スーパーの仲間2人も、一緒に「やめてやる!」宣言する。なかなか気が強いのだ。 それでも愛の力は強いのか。ホラッパは酒を断ち、アンサに電話して、会いに行こうとする。が、路面電車にはねられて意識不明、って、トンマ過ぎるというか、これまたマンガ的な即物的な展開で、笑えもしない。会いに来ないホラッパを心配していたけれど、事情を知って見舞に行くと、命には別状なくて。そのうち気がついて、最後は2人並んで遠くに歩いて行く…。このとき、やっと「枯れ葉」が流れる。しかもアンサが飼いはじめた犬の名前がチャップリンで。チャップリンの映画も、最後はこうやって2人ならんで遠ざかっていくハッピーエンドが多かったよなあ、と思うのだけれど、あまりにも直接的な隠喩過ぎるだろ、それって。 ・ホラッパの同僚はカラオケ店で「俺は低音が魅力。いまにレコード会社から声がかかる。それを待ってる」なんて脳天気に、でも本気らしい。アホか。 ・アンサはラジオを聴く。最初に日本の民謡が流れてきて、えええっ? 意外すぎて、何じゃこれな感じ。 ・アンサが郵便物を見て、急にラジオを消したり電気を消したりしたのが笑えた。まあ、電気代の請求書かなんかだろう。でも、スーパーで働いてりゃ、それほど貧乏でも亡いような。家だって立派だったように思うんだけどな。 ・ラジオはウクライナ情勢を刻々と伝えるのだけれど、ウクライナが攻撃されているということばかり。あの戦争の本質を知らず、ウクライナ可哀想、な立場なのか、この監督は。困ったものだ。 ・2人が見る映画は、ゾンビ物。他の客は、誰かの作品と比較して高尚な評論をしていたような。遊んでるな。映画館のポスターも古いものばかりで、そういう映画館なのか。趣味が出すぎ。 | ||||
ポトフ 美食家と料理人 | 12/22 | 新宿武蔵野館3 | 監督/トラン・アン・ユン | 脚本/トラン・アン・ユン |
原題は“La passion de Dodin Bouffant”。「ドダン・ブッファンの情熱」だってさ。主人公の名前かよ。 Twitterへは「ほとんどドラマがなくて、料理をつくるシーンと食べる場面が多くて、でもどういう料理か分からんので退屈。旨そう、というより、見るからに腹にもたれそうなものばっかり。それに、後の洗い物が大変そう。話もよく分からんしなあ。」 この手の映画を評価する人もいるんだろうけど、やっぱダメだったな。まず、ドラマがない。雰囲気しか描かれていない。もちろん人物関係とか立場なども分からない。で、どうなったのか、なども分からない。なので、退屈してしまう。いつしか瞼が落ちてきて、うつつな状態になって…、皇太子の食事会に招待されたとか言ってたあたりから、うつらうつら。ふと気づいたらウージェニーが椅子から崩れ落ちるあたりだった。2度目に倒れたあたりかな。以降はちゃんと見たけど、でも、あまりよく理解しているとはいえないかも。ボーッと見てたしね。 冒頭からの映像は、ウージェニーとドダンがふたりして料理をつくっているシーンで。若い女の子もいて、彼女が「姪です」と紹介して、一緒に手助けするような感じ。骨付き仔牛の肉を焼くあたりは、なかなか旨そうだな、と思ったりもした。単に焼くだけじゃなくて、天火からとりだし、野菜を敷いてまた焼いて…とか、手の込んだつくりかたをしているのが、なかなかな感じ。で、このあたりを見ていて、ウージェニーとドダンは料理好きな夫婦かな、と思っていた。(いやじつは、サブタイトルに「美食家と料理人」と書いてあるのをよく読んでなかったのもあるんだけどね。)なので、後半になって広大な庭での会食(ブーダンの絵みたい)で結婚宣言したときは、ええっ? となってしまった。丸で夫婦のような暮らしをしているのに、どういう関係だったんだ? と。で、この後、庭を散歩しているときウージェニーが「(結婚宣言のとき)あなたは私たちを人生の秋と呼んだけど、私は夏よ。夏に死ぬわ。ところで、私はあなたの妻なの? それとも料理人?」「もちろん料理人さ」にニッコリしてドダンに手を重ねるんだが。ここでウージェニーが料理人であることがはっきりつたわった。ちなみにいうと、日本語のサブタイトルでは「料理人」とあるけど、原題にはないからね。 というわけで、ウージェニーはドダンの料理人だったんだ…。30年以上働いていた、ともいっていたかな。ってことは、30凸凹から屋敷で料理人をしつつ、そのうちドダンも手伝いはじめて? ついには肉体にも手をつけて。でも、使用人と主人だから結婚ができなかったのかどうかしらんけど、な暮らしをつづけていた、ということか。 しかし、時代設定はいつなんだ? なかで飲んでいたシャンパンだったかが、1857年(もっと前だったかな)に沈没して50年経って引き上げられて云々という話をしていたような。となると20世紀初頭か? と思っていたら、公式HPに19世紀末となっていた。アール・ヌーヴォーの時代か。でもそんな感じはほとんどなくて。いろいろ現代風なタッチが入り込んでたけどな。 で、主人のドダンは何をしてる人なんだ? 大きな邸宅に住んでいて、ウージェニー以外にも使用人が何人かいる感じで。では貴族? 友人達を呼んで美食会を開いているのか。その準備はウージェニーとドダンが、若い女中の手も借りて行っていて、このとき女中が姪を紹介したんだった。で、ドダンはその姪にも味見をさせて、「何を使っているか当ててごらん?」なんて試したら結構当たっていて。女中は料理に関しては全然ダメだけど、この姪はなかなかだ、なんてことを話している。 で、美食会が始まると、2階ではドダンと客人が何人か、次から次へとむしゃむしゃ。あれ見てて、旨そう、も少しあるけど、あんなよく食えるな、もう60過ぎみたいに見えるけど、と思ってしまった。健啖家ぞろいなのか。で、下でも、そのお裾分けをウージェニーと女中と姪でしてる。この、調理場の食事は楽しそうでなかなかよかった。 客人はウージェニーにも挨拶し、「君も一緒に食べればいいのに」とかいっていたから、ウージェニーが妻同然なのは周知のことだったんだろう。けれど、同席しなかったのは、ドダンが許さなかったというより、ウージェニーが一線を引いているような感じなのかな。まあ、見てるときは、奥さんはなぜ同席しないの? ぐらいに思ってたんだけど。 皇太子の食事会への招待話云々もよく分からない。その後、ドダンがレシピメモを読み上げ、ウージェニーが「ポトフ?」「ああ、よく食べられてるメニューだけど、いいと思って」なんて話していたのは、あれは、皇太子の食事会の準備を任されたということか? なんかよく分からないまま見てた。で、ポトフづくりに熱を入れて、なぜか居つづけの姪(彼女の両親が、料理人として育てたいのでなんとか、と頼みに来たけど断っていて。でも、いつのまにか屋敷に住み込んでいる?)を朝も早くから呼びつけてドダンはあれこれやってたな。ポトフっても簡単なのではなく、ウズラだかニワトリだか丸ごと何匹か入れて煮込むような凝ったのだったけど。でまあ、原因は何かは分からんけどウージェニーが度々気を失って倒れるようになり、結局は呆気なく死んでしまう。あれ? 皇太子の食事会はどうなったの? ポトフは結局どうなったんだ? はさておいて、悲しみに暮れるドダンと、慰めようとする美食会仲間の面々が映し出される。 何日も食べないので新しい料理人を探してきて面接させようとするんだけど、ドダンはリストのメモも見ようとしない。とはいえ、なんとか面接するけど、どれも気に入らない。面接官には、いつのまにか女中の姪も参加していて、その後には女中も含めて3人で味見してる。ある1人の料理人はレシピを見て、「こんな料理はできません」とすごすごと帰ってしまう。なんだかね。なことしてたら、美食家仲間のひとりがドタドタやってきて。どこどこの家で食べた料理だ。ぜひ君(ドダン)に食べさせたくてもってきた。とかいって食べさせるとドダンの目が輝いて。「行くぞ」と、美食家仲間とでかけようとする。姪も、どんな味かな、と試そうとしてると、ドダンが「君も一緒に行くんだ」と呼びつけて、3人でその料理を作った料理人のいる屋敷へと向かっていった、ようなんだけど。もし気に入ったからって、引き抜いちゃうのか? 結局は、料理の味なのか。心ではなくて。と思ってしまった。 のあと、誰もいない調理場をぐるぐるカメラが回るとそこにドダンとウージェニーが座っていて、あの、 「(結婚宣言のとき)あなたは私たちを人生の秋と呼んだけど、私は夏よ。夏に死ぬわ。ところで、私はあなたの妻なの? それとも料理人?」「もちろん料理人さ」にニッコリしてドダンに手を重ねる という場面がイメージとして描かれるのだけれど、なんだ、結局ウージェニーは女としてよりも、料理人として重宝されていたのか。それをウージェニーも喜びとしていたのか? と、なんだか割り切れなさを感じてしまったのであったよ。 ・料理の出来や味を表現するのに、ワインの味を表現する時みたいな、詩的で、喩えが多く過剰な表現をするのか、アホらしかった。 ・歪な菱形の大きなパンは、あれは、大きな舌平目用なのか? | ||||
緑の光線 | 12/25 | シネマ ブルースタジオ | 監督/エリック・ロメール | 脚本/エリック・ロメール |
原題は“Le rayon vert”で、「緑の光線」だ。 Twitterへは「男の選り好みが激しく面倒くさい女の話。2ヵ月(だっけか?)のバカンスを1人で過ごすのは耐えられない。けど家族や知らん人と過ごすのも嫌と文句ばかり言ってる。勝手にしろな感じ。ハンディなカメラでドキュメンタリーっぽいタッチは興味深かったけど。」 女心と秋の空とか言うけれど、女心も色々だよね、な感じ。夏のバカンス直前に、友人(男か女か?)にキャンセルされたのかな。で、同行者がいなくなって途方に暮れるデルフィーヌ。女友だちに相談しても、もう先約があるといわれる。家族はアイルランドに行くらしいけど、一緒に行く気はない。他の女友だち(4人組がくっちゃべる場面に、すでに登場していた人物はいたのかどうか、よく分からん。みんな似たような顔をしているから)に話すと「一人で行って、旅先でオトコを見つけりゃいいじゃないか」なんていわれて、でも、納得できない…。 待ちで拾ったトランプもスペードで、これは運がよくない、ということなのか。 なんて様子を見てると、「イライラしてくる。いままで彼氏いなかったの?」なんて問われると、「いたわよ!」と反論するのでもなく、ためらいがちに「いたけど別れた」云々と歯切れが悪い。どーも同棲してたとか、そういう感じでもなさそうなのは、友人の誰もデルフィーヌの元彼を知らないことから察せられたりして。 まちで男に声をかけられても、すげなく断ったりしてる。まあ、見かけが貧相で胸毛だしまくりのタンクトップのチビで、しつこくつきまとってくるから、しょうがないか。とも思うけど、それは身体的差別表現だよなあ、あれは。たんにデルフィーヌの好みじゃなかった、ってことだろ。 友人の1人が、親戚の部屋がシェルブールにあって、それを使っていいよ、と言ってくれたので1人で出かけて。でも、つまんなそうにビーチで焼いてたら、ひとり旅のスウェーデン娘と知り合って。彼女はオトコ漁りの意欲満々。ビーチでもトップレスで溌剌としてる。で、いいオトコ見つけて声をかけたら船員で「明日出航する」といわれ、「それじゃしょうがないじゃない」というんだけど、スウェーデン娘は「それでもいいじゃない?」とキッパリ。デルフィーヌによれば、「身体めあての下心ありまくりな男は嫌」なんだという。ロメールの描く女にしては、奥手で慎重で打算的だな。 2人組と目が合って。スウェーデン娘は盛り上がって、片方とワイワイ。でもデルフィーヌは全く乗らない。あれも、2人ともデルフィーヌの好みじゃなかった、ってこったよな。ラストの展開からすると、そうとしか思えないんだが。 で、結局、シェルブールから戻って、こんどは山へ出かけるんだけど、これは誰のアドバイスだったんだ? 山にいったら宿の人なのか、知り合いらしく挨拶してたけど。でも、山も気に入らなくて、その日の夕方に帰ってきてしまう。やっぱり1人が嫌らしい。じゃ、バカンスよりまずオトコを見つけるのが先決じゃないのか? ほんと、面倒くさいし、じれったい女だな。 で、またもやどっかの海に行って。ヴェルヌの小説『緑の光線』について爺さん婆さんが話しているのを聞いたのは、どこだったっけ。沈む太陽の光は、ほんとうはすでに沈んでしまった太陽の光の屈折がどうのこうので、一瞬、緑色の光に見えることが少ないけれど、ある、というような話。これがタイトルにもなってるんだけど、なんか、取って付けたようなエピソードだよな。そういえば、ハートのトランプを拾ったのは、このあたりだったかな。幸運の兆し? と思っていたら、帰りの列車を待つ駅舎で目が合ったオトコに「『白痴』を読んでるの?」なんて言われて、なぜか急にウキウキしはじめ。自分から話を始めたりして。家具職人で、数日の旅(どっかの波止場らしい)に行くらしい。それに「連れてって」なんていったりして、なんなのこの心変わり。オトコは家具職人らしいんだけど、真面目そうで。しかもイケメン。『白痴』を知ってるから知的とも限らないだろうし。要はデルフィーヌはイケメンに弱いのかよ。他の基準はとくに出ていなかったし。家具職人の笑顔には下心がなかった、のか? 知らんよ。 出かけた先で2人で波止場で沈む夕陽を見ていたら、沈む間際にちょっとだけ緑っぽくなって。デルフィーヌは涙うるうるって、なんだよこの映画。で、2人はつき合うってか? それで、セックスはせずに高尚なお付き合いをしたのでしょうか? しらんよ、そんなの。 ・会話がドキュメンタリー風というか、即興風だったけど、実際、そうだったらしい。Wikipediaに「全編がシナリオなしの即興演出で撮られた『緑の光線』の場合は、毎朝その場で役者に台詞を渡して撮っていた」という監督の言葉が載っていた。 ・冒頭からほとんど山もなければ谷もない。ひとりで避暑地にでかけ、ああなんで私は1人なの、と嘆き悲しんで、泣いたりしているだけ。バカかと思う。 ・トランプ、星占いとか出てくる。迷信に頼り過ぎだろ。 | ||||
父は憶えている | 12/27 | 新宿武蔵野館2 | 監督/アクタン・アリム・クバト | 脚本/アクタン・アリム・クバト、ダルミラ・チレプベルゲノワ |
キルギス/日本/オランダ/フランス映画。原題は“Esimde”。英文タイトルは“This Is What I Remember”。 Twitterへは「で、結局、なにが言いたかったの? な感じ。似た設定の『かくも長き不在』みたいに背景がはっきりしてもいないし。そもそも亭主が行方不明だからって村のヤクザなオヤジのところに嫁に行くのは変だろ。あの村は女不足なのか?」 23年前にロシアで行方不明になった父親を息子が探しだし、郷里に戻ってきた。しかし父親は記憶喪失で、家族の顔さえ分からない。終日ぼーっとしていて、でも、村に捨ててあるゴミの収集だけには異常に執着し、息子たちを手こずらせている。…というだけの話で、それ以上の内容がない。そう、具体性に欠けるのだ。 父親ザールク(役者の実年齢65歳ぐらい)と、すでに他家に嫁に行ってしまっている母親ウムスナイ(役者の実年齢は?)の年齢、息子の年齢、妻の年齢もアバウトだから、家族がバラバラになった経緯すら推量しにくい。そもそも23年前に行方不明の前は、父はロシアに出稼ぎに行っていたのか? それがなぜ行方不明となったのか? そのとき父親は何歳で、息子はいくつだったのか。息子ケバト(役者の実年齢40歳か…)は35歳ぐらい? 23年前は12、3歳ぐらいか。その息子が、インターネットにでている行方不明者の写真から父親を特定し、ロシアに行って引き取りの手続きをしたんだろうけど、それは簡単に済むような話だったのか? 父親は手がかりになるような何かをもっていた? 母親は、夫の行方不明を確信して後、何年後に他家に嫁したのか。そのとき何歳だったのか? とか、本筋に絡むであろう細部がいちいち茫洋としたままで、いらいらする。 村の同級生たちも何人かいるけど、とくにフィーチャーされてるキャラはいない。村人で、金をたかったりする口出しオヤジがいるけど、彼もそれだけ。とくに機能していない。めだつのはヤクザみたいな偉そうなジャイチぐらいか。 前半は父と息子、同級生たちのあれやこれやな当惑な感じ。で、妻が他家に嫁していて、その相手がジャイチというヤクザっぽいやつで。村人に金を貸して、返せないと養魚場を取り上げたり、ひどいことをしている。子分もいて、高級車に乗り、警察も思いのままに動かしている。そういう男のところに、なぜウムスナイは嫁に行ったのか? これが最大過ぎる疑問で、何か理由があるならいいんだが、そんなことは説明されない。されるのは、ジャイチの母親が「ウムスナイを嫁にしたら」といった、という程度だ。これで観客に納得しろというのがムリな話だろう。映画には、若い女は息子の嫁ぐらいしか登場しない。ジャイチは金もあるし野蛮なんだから、若くて美人をいくらでも嫁にできると思うんだけど、なんでまたウムスナイのような婆さんを嫁にしたのか? 彼女が23年前に40歳ぐらいとして、では彼女は夫が行方不明と分かってから何年後に嫁に行ったのか? その行為は、息子や孫、義父を捨て、嫁した家をすてる行為だ。そういうのは、キルギスでは当たり前のことなのか? それとも、イスラムの教義のなにかと関係しているのか? 説明されないと、素直に納得できないであるよ。 で、後半は元妻のウムスナイが中心で話が進む。最初、同級生たちがジャイチの家にザールクをムリやり連れていくが、ザールクの母親に犬をけしかけられ逃げていく。そのあと、ウムスナイがケバトと母親の家を訪れるけど、ザールクには会ってなかったかな。このあと、ウムスナイが住む(なのか?)離れが火事になり、のあとで村人を招待しての正式なサールクが戻ってきたことの歓迎会があり、そこにウムスナイもやってきて、突然、歌い出す。このときザールクは枯木の樹林に白ペンキを塗っているという、何かよくわからんことをしてるんだが、その歌に聞き覚えがあるのか、空を見上げる。空には、樹林の葉が茂っている、みたいなエンディングだった。すべて忘れたかのように思えたザールクだけれど、元妻の歌には反応した、ということか。これが記憶が戻るきっかけにはなりそうもないと思うんだが。 ウムスナイは、ザールク帰還の報を聞いて心が揺れたようだ。たとえば現夫のジャイチが「今日は離れで寝る」と言ったとき、布団を用意して去ろうとするとジャイチが「1人で寝ろというのか」なんていってウムスナイを引き留めるんだが。年老いたウムスナイとセックスしようとしていたのか? ウムスナイはジャイチに「離婚してくれ」というようなことをいい、拒否されたんだったかな。それでイスラム教の伝道師のところに行って相談すると、夫が許可しないとできない、とすげなく言われる。肩を落として帰ろうとすると伝道師の家の家僕のようなのが「女性から●(なんとかいう言葉。忘れた)といえば離婚できる」と教えてもらうんだけど、じゃあなんで伝道師はそれをウムスナイに教えないのだ? 変なの。で、家に戻ってジャイチにその言葉を言うと「お前は俺と離婚したいのか!」とか強圧的に言われ、ムリやり犯されてたようなんだけど、あんな婆さん(どうみても60歳超えだよなあ)相手に性欲が湧くのか? で、その後にウムスナイはケバトと母親の家を訪問するんだったか。だんだん、元の亭主への憐憫と恋心が戻ってきたのか。っていうか、なんでジャイチのところに嫁に行ったんだよ! 息子ケバトがむかしのアルバムを繰って父親に見せる場面があって、自転車の前でモダンの恰好をしているんだけど。2人でよく散歩していたのを村人はよく憶えているとかいう話もあったり。なのに、なぜにウムスナイは? そして、ラストの歓迎会にやってくるのは、どの面さげてな気がするんだけどね。なんか、何を言いたいのかよく分からない映画だった。 ・舞台はキルギス。って、どこだ? ロシアとの関係もよく分からん。 ・冒頭の、白く塗られた樹林を引いていくカメラはどういう意味? ラストで、ザールクが樹木を白く塗っていく意味は何なの? ・ケバトの仕事って何なの? なにして暮らしてるんだろ。トラック使ってるのか? ・ネットで行方不明者の写真を見た、のは息子か? むかしの面影で、よく特定できたものだ。 ・孫娘のサガミが愛らしい。ベッドのトランポリンで遊んでて。のちにはザールクが手を取ってジャンプさせてた。それを見て息子が「俺もむかしはああやってオヤジに」ということは、これも憶えていることのひとつなのか? ・ケバトがザールクの髪を切っていると来客で。そのスキにサガミがハサミを手にしてザールクの髪を切る場面がなかなかほのぼのしていた。 ・ゴミ袋を見るとケバトのトラックに積み込む。ロシアで仕事としてゴミ拾いしてたことの影響かね。 ・イスラム教の伝道師と、イスラム教を強く信仰する村人たちの世界の話だ。日常的な流れの中に、とつぜん「アラーは偉大なり」とか、他の宗教信じたら救われない、地獄に落ちる」的なことを伝道師がいう場面が入ってきて、不気味。 ・ジャイチの母親が、息子とウムスナイとの結婚を勧めたらしいけど、その理由は何なんだ? ・後半で発生する火事の原因はなんなんだ? とくにザールクが責められてもなかったが。意味不明。 |