2024年1月

きっと、それは愛じゃない1/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/シェカール・カプール脚本/ジェマイマ・カーン
イギリス映画。原題は“What's Love Got to Do with It?”
公式HPのあらすじは「ドキュメンタリー監督として活躍するゾーイは、久しぶりに再会した幼馴染で医師のカズから、見合い結婚をすることにしたと聞いて驚く。なぜ、今の時代に親が選んだ相手と? 疑問がたちまち好奇心へと変わったゾーイは、カズの結婚までの軌跡を次回作として追いかけることに。「愛もなく結婚できるの?」と問いかけるゾーイ自身は、運命の人を心待ちにしていたが、ピンときては「ハズレ」と気づくことの繰り返し。そんな中、条件の合う相手が見つかったカズは、両親も参加するオンラインでお見合いを決行。数日後、カズから「婚約した」と報告を受けたゾーイは、カズへの見ないふりをしてきたある想いに気づいてしまう」
Twitterへは「パキスタン系青年と英国女性のロマコメで、結ばれるのは決まりなのに、実は…な感じが希薄なので、あまり隔靴掻痒できない展開。まあ、リリー・ジェームズの素朴な(とはいえ内容的には淫乱だったけど)魅力でもたせた感じ。」
話が始まった時点で、ラストに2人が結ばれるのはキマリなんだけど。でも、その2人の関係が、ただの友人にしか見えないのが大きな欠点だね。フツーなら、秘めた思いとか、本当は彼(彼女)のことが好きだったんだ、てなのが見えてきて、観客に隔靴掻痒させるんだけど、そういうのがない。カズ(彼の女遍歴は分からない)は淡々と見合いをつづけ、パキスタンの女性とネットで見合いして決めてしまい、意気揚々。ゾーイの方はクズ男ばかり拾ってやりまくってるビッチな感じで、リリー・ジェームズが演じてるから一見清純そうに見えるけど、バカ女だろ。せいぜいあるのは、はるか昔、ツリーハウスでファーストキス相手、ということが言われるだけ。
カズの婚約が破綻するのはミエミエで、なぜなら相手がずっとふて腐れ顔だから。だれでも、こりゃ本意ではないと分かる。それでも結婚が決まって、カズと両親、ゾーイは撮影と友人として、さらにゾーイの母親もカズの家の隣家として参加することになり、一同パキスタンへ。このあたりでは、おやおや、結婚前に破綻するのかなと思っていたんだけど、そうではない流れに、おやおや、どうするんだ、という感じはしたけどね。
で、婚約なのか結婚パーティで、親世代が引っ込んだ後、別れ連中はイケイケ感覚で踊り出す。え、ムスリム国家だろ? と思ったけど、こういうのが本当のところなのかも。で、新婦は旧知の悪みたいのから大麻をもらって始めたり。羽根を伸ばし始めて、それをカズは遠巻きに見ている。のだけれど、拒否感覚はないようで、ちゃんと結婚して新婦をつれてロンドンに戻ってくる。
で、ゾーイのドキュメンタリーの試写会となり、関連者が呼ばれて上映が始まるんだが。ここで問題になったのは、カズの妹(?)でイギリス人と結婚したため家族から縁を切られている夫婦の映像で。これを見てカズの両親は怒り心頭。なんとなくギクシャクする。
と思ったら、新妻のところにきたメールをカズが指摘すると、新妻は臆面もなく文面を見せるのだが、そこには「君に会いたい」云々があって、おやおや。こういうのを見せるか、この女。親が勝手に決めた結婚だから、と渋々でも従ったあんたが悪いだろ。結婚してから、実は、なんて言いだすなよ、な感じだ。
でまあ、結局のところカズたちは離婚し、カズの妹夫婦も家にやってきて、なんとなく認められた感じで。というのも生まれたばかりの赤ん坊がいたから取り持った感じで。両親や祖母が、異教徒と結婚した娘(孫)を心底許しているかどうかはあやしい。というなかで、カズとゾーイも、なぜか急にいい仲になってしまうというご都合主義。とくにきっかけもなく、なんとなく丸く収めてしまった感じで、うーむ、なエンディングだよな。
・ゾーイ役のリリー・ジェームズは、相変わらず素朴な感じで可愛い。だからこそ、クズ男に引っかかってるところがイメージに合わなすぎ。
・カズの、「僕らは外見で、なに人? といつも聞かれてる。君は聞かれることはないだろ? 君はイギリス人だ。47番地と49番地は別の大陸なんだ」とかいうようなセリフが記憶に残った。隣どおしに住んでいても、外見で差別される。オープンに見えるイギリスでもまだまだそうなのね。
・ハリポタのキャラ(?)とかパキスタンの衣装(?)とかの固有名詞がそのまま説明なくでてくるので、ときどき置いてきぼりになってしまった。
・ゾーイの母役はエマ・トンプソンで、ちょいエキセントリックな役柄だけど、いまいち見せ場がないのが残念ね。こういう役柄は、彼女に合ってないような気もするし。
笑いのカイブツ1/10テアトル新宿監督/滝本憲吾脚本/滝本憲吾、足立紳、山口智之、成宏基
Twitterへは「ハガキ職人が認められ漫才作家になるも「人間関係不得意」で下手をこく青年の話。性格というより自閉スペクトラムだろ? 映画的にはパワーあっても主人公にカケラも共感できず。だって挨拶できず笑わず世間話できずじゃつきあいきれんもの。」「もし自分の会社に、ニコリともせず独り言ばかりで冗談も通じず、仕事時間に投稿ネタを考えててしくじりばかりしてるようなやつがいたら、どうよ。原作者がいてその体験談らしいけど、Webにある原作者の写真は笑ってるから演出過多に違いない。」
公式HPのあらすじは「何をするにも不器用。人間関係も不得意なツチヤタカユキの生きがいは、「レジェンド」になるためにテレビの大喜利番組にネタを投稿すること。5秒に1本。狂ったように毎日ネタを考え続けて6年。その実力が認められ、念願叶ってお笑い劇場の作家見習いになる。しかし、笑いだけを追求し、他者と交わらずに常識から逸脱した行動をとり続けるツチヤは周囲から理解されず、志半ばで劇場を去ることになる。自暴自棄になりながらも笑いを諦め切れずに、ラジオ番組にネタを投稿する“ハガキ職人”として再起をかけると、次第に注目を集め、尊敬する芸人・西寺から声が掛かる。ツチヤは構成作家を目指し、意を決して大阪から上京するが─。情熱や努力だけでは上手くいかない現実。不器用にしか生きられないもどかしさを抱えて傷だらけになりながらも、自分の信じる道を猛進するツチヤとその熱量に突き動かされていく人たち─。観る者の魂に突き刺さる、圧倒的な人間ドラマが誕生した。」
つくりての意識としては、お笑いネタに邁進する主人公の純粋さを見せようとしているのかもしれないけど、これ、病気だろ。自閉症か。調べたら自閉スペクトラムにあてはまる性格・行動のようだ。こんなん純粋でもなんでもない。ただの病気だ。
でも、実話ベースらしく、ツチヤタカユキは同様の人生を送ってきたのか? で、Webで調べたら、映画の紹介のページなんかに、監督や主演の岡山雨天音と一緒に、にこやかな笑顔で写っている。は? 映画の中では一切笑顔を見せず、世間とつきあいできないキャラなのに、本人は違うのか。では、映画は徹底して病的に描かれているのかも。映画を見てるときも、こんなやつ付き合いきれんだろ、と思っていたんだけど、結構な変更が加えられてる感じがして、なんかなあ、な気がしてきた。だいたい、映画で描かれてるようなキャラだったら自分をメタ認知=客観的に見て自伝(読んでないけど)なんて書けないだろ。本を仕上げるまでに周囲とやりとりも必要だし、そういうことができるなら、まだ社会適応できてる方じゃないか。と思ったら映画が嘘くさく見えて、嫌な感じがしてきてしまった。
病的な症状を“純粋”と思わせ、美化するのは映画によくあることだけど、これはいかんよな。
とはいえ映画の中での主人公は、面白いネタづくりがすべて、それが正義、と思ってる。それ以外の要素はジャマな感じ。挨拶したり世間話したり冗談言い合ったり飯食べたりお世辞言ったりは、すべてムダな時間。そんなことしてる時間があったらネタを考えた方がいい、という考え。だから先輩作家で、大したネタも書かず、潤滑油的なことで生きてるやつを見下す。これはある意味で、弱者切り捨て、にもつながる。これはまた、不器用、とも違う。不器用は、それをしたいけどうまくできない、ということだ。でも、主人公のは、周囲とうまくやろうという気持ちはないわけで、自分のネタは常に最高と思いつつ、才能のないやつは軽蔑しているのだから。これは純粋な心、なのか? いや、社会不適合者だろ。自分でも「人間関係不得意」といっているけど、これは多分原作者の言葉なんだろう。原作者にはまだ人間関係を築こうという気持ちがあるのだ。でも、映画の中の主人公は、人間関係なんて関係ない、いいネタをつくればつれでいい。テレビ局もマネージャーも芸人も、それを認めるべきだ。なにをのらくら、なあなあな関係でやってるんだ。ふざけるな。と思っているからだ。
芸人の西寺が目をかけてくれているのに、周囲との日常的なつきあいができない。「お前は売れたいんだろ」と問われると「売れたい」とはいう。でも、周囲との交流や、芸能界のなあなあな関係や距離感は許せない。「それはできない!」となる。まあ、自滅する他ない。窒息して死のうとしたり、道頓堀川に身投げしたりするのは、世間に合わせられない自分への嫌悪、というより、鬱状態から来る病気としか思えない。
本人にあまりにも隙がなさすぎて、周囲は疲れるよ。まあ、全力でやったら死ねばいい、27で死ぬと言ってるぐらいだから、それはそれでいい。しかし、周囲には迷惑なだけだ。「世間に合わせるのができないって言うけど、お前が笑わせる相手は世間に生きてるんだよ」的なセリフもあった。そう、その通りなんだよ。世間を蔑ろにした、純粋なお笑いネタなどないのだ。世間の中にあってこそウケも成立するのだ。と考えると、自閉スペクトラムには、観客が共感して笑えるネタは書けないんじゃないのかな。現実のツチヤタカユキは、お笑い作家の才能があったのか? 映画の中に引用されてたお笑いネタのほとんどは、つまらなかったし、西寺らのコンビ、ベーコンズが演じてたネタも、大して面白くなかった。なんだ、この程度か。としか思えなかったのよね。
ベーコンズの西寺とも別れ、大阪に戻り、自室の、かつて頭をぶつけて血を流した壁の、母親がテープで修復したのを剥ぎ取り、足で蹴るとポッカリ穴が開き、向こう側が見える。服がかかっているのは、自分ちの隣室なのか、隣家の部屋なのか、わからんけど。その穴を見て、猛烈にやる気がでたのか、彼はネタを紙に書き始める。まあ、勝手にやってなさい。なラストだった。
・ネタづくりは、書くより、考える時間が長いと思うんだけどな。がむしゃらに書けばいいってもんでもない。
・ベーコンズ単独ライブの構成、のところに、自分の名前の上に才能のない(と主人公が思っている)氏家の名前があるのを、我慢できなかったのかな。
・Macみたいな店の店員娘ミカコが、毎日ひたすら安いポテトだけで何か書きまくってるので近づいてきて知り合いになるエピソードがあるけど。とってつけたような話しすぎて、現実味がないだろ。
・ホストクラブで働けたというのも異様すぎるけど。だって、面接で落とされるだろ。で、結局路傍に放り出され、菅田将暉演じるピンクと知り合う。得体の知れないキャラで、仕事も転々としてる。
・ミカコもピンクも、映画的演出だろう。病的なツチヤにも理解者はいる、的な。でも、ウソっぽいだけだよな。ツチヤが東京からもどり、3人でピンクの働く居酒屋で会い、テーブルに自ら頭をぶつけ泣きながらの鼻水演技は、岡山天音としては迫真のものかも知れないけど、白々しすぎる。たんに、他人に配慮のない病人のしてることだよ、と。
・セリフが関西弁で早口なので、多くが聞き取れず。
・冒頭の監督名その他が横文字で、読めねえよ。なにカッコつけてんだよ。
ファースト・カウ1/11ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ケリー・ライカート脚本/ケリー・ライカート、ジョン・レイモンド
原題は“First Cow”。公式HPのあらすじは「1820年代、西部開拓時代のオレゴン。アメリカン・ドリームを求めて未開の地にやってきた料理人のクッキーと、中国人移民のキング・ルー。共に成功を夢見る2人は自然と意気投合し、やがてある大胆な計画を思いつく。それは、この地に初めてやってきた“富の象徴”である、たった一頭の牛からミルクを盗み、ドーナツで一攫千金を狙うという、甘い甘いビジネスだった」
Twitterへは「カウボーイも殺し屋も出てこない西部劇。牛乳泥棒の話だった。ゆったりとしたテンポで、とくに大事件もなく、しみじみと時が流れていく。かと思いきや…。本筋と関係ない風景や人々、あれやこれやが、地味に効いている感じ。」
カラー、スタンダードサイズ。話の中味は大したことがない。料理人のクッキーと中国人のルーがたまたま出会い、気があって一緒に暮らしはじめ、裕福な仲買人の牛からこっそり乳搾りをし、ドーナツをつくって大儲け。でも結局、牛乳泥棒がバレて追われる身となり、疲れ果てて横たわる。それだけの話だ。ただし、横たわった恰好が、冒頭で女性が掘り出した2体の白骨と同じなので、きっと追っ手に見つかって撃たれたんだろう、と想像できるんだけど。白骨が発見されたのは、現在、でいいのかな。だから200年ぐらい前の話、ってことか。でも、そこらの野っ原で犬が骨を見つけたからって、飼い主が好奇心で全身を掘り出すかね。そんな薄気味の悪いことをフツーせんだろ。2人が横たわったときの恰好と、掘り出された骨が同じ恰好だって見せたいのは分かるんだけど。
話はいたってスローペース。かと思うと、ぽーん、と飛んだりする。クッキーが、ビーバー狩り仲間に「食いもの!」と言われ、河で魚を獲っている次の場面で、市場でブーツを買ってたんだっけか、牛が登場するんだったか。一瞬「?」と思ったけど、料理人係は終わって給金をもらい、悠々と新しいブーツを手に入れ、酒場に行ってルーと再会、ということか。大胆な端折りだな。こちらとしては、魚捕獲を褒められるとか、仲間の荒くれが「市場で金を支払ったら殴って奪ってやる」といっていたので、どうなるのかなと心配してたんだけど。
クッキーとルーの出会いはまだ狩りの最中で、森の中に素っ裸のルーを発見するところから始まる。なんでもロシア人といざこざがあって逃げてる最中とかで、銃は捨てたし服は木に隠した、なんていってたけど、素っ裸の理由はよく分からずだった。それに、クッキーがルーを助けた理由もよく分からず。中国人を差別してる様子もなくて、そういうのもあるんだ、と思ったぐらい。しかし、ルーは荷物の中に隠れたんだけど、その荷物を引っぱっていく狩り仲間が、荷物の重さに気づかないってのはないだろ、とツッコミを入れておく。
で、酒場で再会。市場の近くにあるらしいルーの家に招かれ、居候のクッキー。かつて料理店で見習いをしていたのでドーナツをつくるが、小麦粉と水とベーキングパウダーだけでは旨くできない。ミルクがあればなあ、ということで、最近、仲買人のところにやってきた乳牛の乳を深夜に絞りに行って。これで商売大繁盛、という流れだ。
この間、画像には市場を行き交う人々、ミルクか水か知らんけどを運ぶ少女とか、人々が淡々と織り込まれて描かれていく。もちろんドーナツに並ぶ男どもの姿も。みなとくに荒くれではなく、順番を守るし、大人しい。フツーの西部劇なら、俺のショバで勝手に商売するなとかいうやつとか、売上を掠めとろうとするやつとか登場するけど、そういうのはなくて。淡々と、毎日の売上は、銀行がわりに近くの木にぶら下げておくということで防ぐという大雑把さ。
とはいえ、毎夜の乳泥棒は、見ているこちらとして、そのうち見つかるだろうと、イヤーな感じで見てるわけで、ざわざわする。
なことしてたら、当の牛の飼い主である仲買人から特別な客にだすケーキ? のようなものの注文を受けて。もっていくと、「うちの牛の乳の出が悪い」とか愚痴られて笑っちゃうんだけど。でも、ミルク泥棒は深夜なんだから、夕方に搾れば出だろうに、と思ったりのツッコミ。
で、とうとうある夜、バレて。仲買人の手下等に追われてクッキーとルーはあわてて逃げ出す。ルーは川に逃げ、クッキーは森をうろつく。そのクッキーを遠くから見ている男がいて…。でも、すぐに撃たないし捕らえもしない。なんてことしてたら深夜、クッキーは深みにはまったのか何かにぶつかったのか、頭を負傷して様子。な有様でルーの家に行くと、ルーもたまたま来ていて再会。は、都合よすぎだけど。で、木に下げておいた売上の袋を手にふらふらと。でも、クッキーの様子はかなり悪い感じで。疲れて横になるクッキーの横に、ルーもまた金を枕に横になった、ところで映画は終わる。
で、その恰好が掘り出された骨と同じような恰好なのが、意味深で。クッキーは頭の傷でそのまま死んだとしても、ありうる感じ。でも、ルーは元気だった。では、クッキーを追っていた男が寝ている2人に近づいて、撃った、のか? そう考えるのが妥当な感じだよな。
だからどうした、というような話もなく、たまたま西部でであった料理人の青年と、中国人移民の2人の友情。不思議な感じの関係だよなあ。なんか、静かに哀しい物語であった。
・ドーナツといっても穴はなくスコーンのよう。原料は小麦粉とミルク? これに蜂蜜やシナモンをつけて供する。卵なしで旨いのか? 西部ではこの程度でも魅力的だったのかもね。
葬送のカーネーション1/15ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ベキル・ビュルビュル脚本/ビュシュラ・ビュルビュル、ベキル・ビュルビュル
トルコ/ベルギー映画。原題は“Bir Tutam Karanfil”。あらすじは「荒涼とした冬景色のトルコ南東部。年老いたムサは、亡き妻の遺体を故郷の地に埋葬するという約束を守るため、棺とともに旅をしている。紛争の続く場所へ帰りたくない孫娘のハリメだったが、親を亡くし、仕方なく一緒に歩いている。亡き妻とともに故郷への帰還を渇望するムサ。旅で出会う様々な人たちから、まるで神の啓示のような“生きる言葉” を授かりながら進んでゆく。」
Twitterへは「無口なジサマが幼い孫娘を道連れに、棺桶引きずって歩くだけの話。理由が分かっても、はあ? な感じだし。そもそも、どっからどこへ向かってるのかも、よく分からない。カーネーションも、唐突すぎ。もしかしてジサマは難民だったのか?」
上のあらすじの大半は、映画ではずっと明かされない。場所がトルコであると分かるのは、無最後近くにトラックの運転手が「トルコ語で話せ!」とムサに行った時だし、妻の遺体を故郷に埋葬するため、というのも、警察に捕まって尋問されてるときのこと。孫のハリメの両親が亡くなっていることは、最後まで映画では分からない。漫然とみていたら、ほんと、わけ分からん映画である。予告編も、あらすじも知らないまま見たので、ヘンな映画、という印象しか持てなかった。で、最後に、妻の遺体を故郷に葬りたい、故郷は紛争の地、ジサマはトルコ語が話せないが、孫娘は話せる、あたりで、ああそうか、と思いついたのが、ジサマは難民だったのか、ということだ。故郷がどこなのかは特定されていない。イランなのかイラクなのかシリアなのか。特定させないために、ムサにはセリフを話させなかったのか? でも、警官の尋問に応えてるときは、故郷の言葉だったのかな。でまあ、他に想像できるのは、故郷が内戦に巻き込まれ、ハリメの両親は死亡。ムサと妻とハリメは難民としてトルコに。妻が病死かなんかで、でも死ぬ前に「故郷に葬ってやるから」と誓ったので、その通りにしようとした、ぐらいかな。
しかし、トルコの人は死体を忌み嫌わないのね。最初の、乗用車の屋根に乗せてくれた2人の男、唖の羊飼い、トラクターのオッサン、若い大工、オバサン運転手、ガソリンスタンドの男まで、みんな積極的に遺骸運びを手伝ってくれている。憤ったのは、最後のトラック運転手ぐらいだ。見てるこっちは、いくら冬でも死体は腐るだろうし臭うだろうし、死体なんか触れるのやに決まってる、と思うんだが。もしかして、慣れてるのか? そんなことないよなあ。ケガレの概念はトルコにもあるよなあ。
トラクターのオッサンに「もういい」って別れを告げて、行くところなくなって洞窟でたき火して過ごした夜なんか、遺骸を棺桶からだしてたき火の前にもってきて、孫娘に空になった棺桶に「入れ」「ここで寝ろ」なんて言うのには、驚くより笑ってしまった。フツーせんだろ、そこまで。不気味すぎる。
で、この夜、ムサは異様な夢を見るんだけど、ここだけ変にファンタジーなんだよね。ひとつめは、ふと気づくと近くを列車が通っていて、見上げると棺桶が高い木の上に引っかかって乗っているもの。もうひとつは、孫娘が入ったままの棺桶をずりずり引きずっていたら、孫娘が棺桶の中からボコボコ叩くもの。なんじゃこれは。全体のトーンとかけ離れすぎてて、変だろ。
若い大工が異様に親切丁寧だったな。死体なんか運んでると警察に捕まる。棺桶はボロボロだ。段ボールがいい。防水だし。なんていって、お得意のオバサン運転手にガソリンスタンドに運んでもらう。のだけれど、警察に捕まるようなことの手伝いを、みんなよくするよなあ。とはいえ、あの段ボールだと、遺骸を三つ折りぐらいにしないと入らないと思うんだが…。
そういえば、オバサンはハリメにお菓子を勧めるんだけど、人前ではやっぱり口にしない。でも、オバサンがパンク修理してるスキに食べるんだよね。しかも、オバサンの父親も乗っていて、お菓子を食べたそうにするんだけど、オバサンに「糖尿だからダメ」といわれていて。でもハリメはオバサンのいないスキに件の父親にお菓子をあげるという、なかなかお茶目ぶり。で、むそのとき、お菓子を勧められたムサは、歯が痛いから、と断るんだが。だったらそこにクローブがあるから、と勧められるのは、歯痛に効くのか? そのクローブの缶をこっそりいただいてきてしまっていたハリメは、妻の遺骸の入った段ボールにもクローブをパラパラと入れるんだけど。あれは、臭い消し? なんかのまじない? 
ハリメの、女としての意識が高まる場面がある。実は、オモチャの引き車をもっていたんだけど、その車輪をムサに取られ、棺桶運びのために使われてしまっていた。でも、本体はまだもっていた。でもあるときガソリンスタンドのトイレでだったか、母親と一緒の同世代の女の子とすれ違って。かたや鏡を見て髪をなでつけている。それを見て、ハリメは引き車の本体を惜しげもなくゴミ箱に放り捨てる。そして、白い毛糸のキャップを外すと、赤いカチューシャをつけて髪を見せるようになるのだよね。幼さを捨て、色気のある少女への脱皮の瞬間、なのかも。とはいえ、ムスリムなんだろうから、しばらくしたら髪は隠すようになるんだろうけどね。
さて、警察に言われて妻の遺骸を泣く泣く埋葬したムサ。墓掘り人に、国境はどっちだ、と聞くと、山の方で紛争地帯だ、と言われる。でも、誰も見ていないスキにそっちの方へふらふらと。ついていくハリメ。立ち塞がる金網。と思ったら、一瞬でムサは金網の向こう側に行ってるんだよな。は? 穴でも開いてるのか? と思ったけど、ハリメは金網にしがみついている。は? あれは、ムサの心が故郷を目指しているってことなのか? それとも、銃弾に当たって死んじゃって、魂だけが向こう側に行けた、ということなのか? なんかよく分からんラストだった。
それにしても、そこまで故郷にこだわるのか? その理由が、よく分からない。
・ハリメは絵が得意らしく、要所でスケッチが写る。のだけれど、その意味、映画的な機能がよく分からなかった。どういう意味を込めたのかね。
・預かってくれる人がいなかったから、って、こんな儀式に幼い孫娘を連れてきた理由も、よく分からん。変なジジイ。
正欲1/17キネカ大森2監督/岸善幸脚本/港岳彦
公式HPのあらすじは「横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。同じ地平で描き出される、家庭環境、性的指向、容姿 様々に異なる背景を持つこの5人。だが、少しずつ、彼らの関係は交差していく。」
Twitterへは「LGBTQ+のQ+になるのか? しかしこれは変わった性癖で、これは犯罪、の線引きはどうするんだ? とかいろいろツッコミも湧いてくる。そもそも世の中には『季刊性癖』 なんていう雑誌もあるから、あれぐらいじゃ驚きもしないのだ。」
内容については、事前に全く知らずに見た。まず交通事故で両親を亡くした佐々木(のちに登場する水フェチの少年とは、ずっと気がつかずだった)の話が最初にあって。その後、ショッピングセンターで無気力に働く夏月、検事の寺井、ダンサーの大也、その追っかけの八重子らがフィーチャーされて話が進行するのだけれど、なんかどれも話がぎこちなくて、いまいちな感じだったな。何を言いたいのか皆目見当がつかない。とくに、夏月の中学生時代のエピソードは、なんなんだ? な感じだし。仕事もふてくされなのは、なんなの? な感じ。
夏月の同級生が結婚するんで、ついでに同窓会も開こう、という実家で暮らしているという佐々木と再会、というか、遠くから見る程度なんだけど、なぜか強く意識していて、視線は佐々木の方に行ってる。異様。
その夏月と佐々木の中学生時代のエピソードも、わけ分からん。教師が、裏の方にある水道が工事で使用中止になる、といったら、佐々木はそこに行って悔しそうにする。近づく夏月。佐々木がブロックで蛇口を壊すと水が噴出し、2人で水を浴びて笑い合っている。なんなの? で、佐々木が転校し、名残惜しそうな夏月。というのが思い出のようだ。なんなの? な感じ。
で、同窓会後、ひとりで回転寿司にいると、佐々木が女の子とやってきて。夏月はこそこそ退散、かと思ったら、2人を追って佐々木の家に行き、家の電気が消えた(水フェチの佐々木が、電気を消して、同級生の女の子と何をしようとしていたんだ? が気になるんだけど。)ところで石を窓に投げつけるという蛮行。なんなんだ? 投げたい、という気持ちのイメージ化と思ったんだけどね。このときは。
そのあと、大晦日だったか、夏月が自殺しようとしてなのか? クルマで暴走し、佐々木を轢き掛けて、佐々木が借りていたアパートに行く。え? 実家じゃねえのか。と思ったら、夏月が佐々木の荷物を見て「それじゃガス漏れは防げない」云々。「よく知ってるな」と佐々木もいい、夏月も佐々木も自殺志望なのか。で、このあたりで佐々木が冒頭の両親を亡くした青年とつながり、そういえば、この世の色々は死ぬ人のためにないとか、変なことを言っていたなと結びついた。このときだったか、佐々木は両親が早く死んでよかったのかも、的なことを言っていて。どうやら、両親が期待するような人生を自分は送らないだろうから、ということだった。それを聞いて夏月も同意するような感じで。ついでに、窓に石を投げたのは自分、と告白した。あれは事実だったのか。このときから2人はつき合うようになり、公園の水飲み場の蛇口を噴水させ、水浸しになって快感に浸っていた。そうか。互いに水フェチだったのか。そういえば、冒頭の社食で佐々木が給水器にセットしたコップの水があふれているのを放置していたのは、そういうことだったのか。とか、むすびついた。そして、夏月がベッドでオナニーし始めるとベッドが水に沈んでいくとか、夏月が着衣のままプールに浮かんでいる場面も、これに関連していたのか、と。
ということは、夏月は水で性欲を感じると言うことか。では、中学生のとき水遊びしていた佐々木は、あのとき勃起していたのか? はたまた、2人が公園で水かけごっこをしたときも、佐々木は勃起していたのか? 夏月は、濡れていたのか、と。たんなるスキ、ではなく、性欲を感じる性癖なのか?
検事の寺井の話は、あまり面白くない。冒頭近くで、過去の事件で、蛇口を盗みまくって水をあちこちで流しっぱなしにし、捕まった男の新聞記事を見て、「バカか」と言っていたのは、表現としてあまりにも稚拙だけど、おそらく水フェチなんかたんなる異常者だろ、という多くの一般人の代表格として登場させているのだろう。それは図式としてはいいんだけど、寺井の家庭状況がバカッぽすぎて、なんだかな、なんだよね。息子(10歳だったかな)が登校拒否で、同じ登校拒否の女の子がYouTubeで生きがいを見出しているので、自分もやりたいと言ってくる。それを妻も応援する、という。息子が通うサークルの青年が、動画撮影や運営を協力する、と寺井のいない間に自宅にやってきている。動画撮影に協力しろ、と妻はいい、渋ると息子も嫌悪感をしめす。てな流れで妻との関係が悪くなり、息子を連れて実家に行ってしまう…。これ、バカ妻だろ。息子にオモチャの片付けも指示せず、子ども可愛さで甘やかしてる。クソだな。この寺井の家庭の話は本筋とはあまり絡まないので、ムダな感じだな。いっそのこと寺井も何らかのフェチだった、てな設定にした方がよくなかったかね。自分じゃそれをフェチと感じてしなかったけど、何かのときに、自分もいつそう指摘されてもおかしくない、と気づくとか。爪をかむとか耳かきで快感を感じるとかAKBファンだとかプラモ中毒とか鉄オタとか、妻に着衣の性行為を求めるとか…。
大也と八重子の話は、つまらない。大也と八重子は同じ大学の学生。大也は何かのイベントに参加していて、そのリーダーっぽい女性は何かのインタビューで、ダイバーシティがどうとか、それを表現したい、なんていっていたけど、その言葉に大也は否定的な言葉を投げかけるんだよね。ただの変人なのか? てな感じだけど、後に、ネット経由で夏月や佐々木と同じ水フェチと分かるり、ともに水遊びに興じて。その結果、少し運命が変わっていく。で、それ以外の部分では、八重子は男拒否症なのだけれど、大也にだけは惹かれる、と告白するのだけれど、拒否されてしまう、という流れがある。これは、八重子が、男一般の女を見る目に性的なものを感じて拒否感が増す、というのがあり、はたまた、大也も水フェチで、生身の女には何も感じない、ということなんだろうけど。それだけの話で深みはない。
という流れの中、佐々木は夏月に偽装結婚を提案し、合意に至る。つまり、傍から見たら普通の夫婦。だから、家族は安心させられる。さらに、ともに水フェチで、その意味で快感は共有できる。しかし、生身の肉体には互いに興味はない。よく、同性愛者が本心を隠して結婚し、両刀遣いで子どももつくる、というのとはちょっと違うやり方だな。寝室は別、ご飯は一緒、な、同居人的な感覚が、なかなかいい。あるとき、夏月が、いちどセックスしてみない? と、提案して着衣のまま体位を真似事する場面があるんだけど、肉体的なものに興味がないからなのか、その手の写真や映像を見たことがないからなのか、ぎこちないのが笑える。結局、裸になってセックスすることもなく、ただ、抱き合うことで安心感を得ただけだったけど、なかなかしみじみきた。
で、そのあとは、佐々木がネットで過去の水フェチ犯罪人の名前を語る人物とコンタクトを取り、互いに水フェチということで会ってみたい、ということになり。相手が、同好の士を連れてくるということで3人で会う。ついでに、水場で騒いで、そこにいた子供たちとも遊ぶのだけれど。その同好の士というのが、水に濡れた服がスキ、というオッサンで、たしか、教師で。その彼が、ペドフィリアで逮捕される。さらに、PCに保存されていた画像から佐々木と大也も逮捕されてしまう。このとき、佐々木を尋問したのが寺井で、佐々木は「幼児には興味がない。水には興味がある」と話すのだけれど、理解できない。まあ、そういう設定にしているからだろうけど、世の中にいろんな性癖があることぐらい分かるだろ、だけどね。それに、同好の士の教師にはれっきとした証拠があるけど、大也と佐々木にはない。水場で子供たちとはしゃぐ動画はあっても、被害者はいないわけで。追及するなら、写っている少年たちに聞き込みをすればいいじゃねえか。なんだけどね。
この後、夏月も参考人として呼ばれ、寺井に尋問されるのだけれど、佐々木が幼児に関心があったかとかいう質問には毅然として「いいえ」と応え、佐々木への伝言として「消えずに待ってます」とつたえてくれと言い残して、映画は底で終わる。実は夏月は寺井と商店街でちょっとしたことで言葉を交わしていたので、寺井はギクリとするんだけどね。しかも、そのとき、妻が実家に帰っているになんて言うことも話しちまっていて。だからなのか、夏月の「奥様は戻りましたか?」に、うろたえつつ「調停中です」などと正直に話しちゃったりして。情けないんだが。夏月の、佐々木への信頼が強いのは、信念としてつたわってくるいい場面ではあった。
というわけで、要は、他人には理解できない性癖の話だった。前半はギクシャクしてるように感じられたけど、後半から水フェチという切り口が分かって、いろいろ歯車が噛みあった。なるほど。
世の中には、いろんな性癖の人がいて、暮らしにくい思いをしているのだよ。ということなんだろうけど。水フェチはよくて、幼児フェチはダメ、は、被害者がいるかいないかで別れるからいいとして。では、自転車のサドルフェチとか、女性の衣服に対するフェチとか、覗きとか、フェチにもグラデーションはあるわけで。仕方がない、と犯罪だろ、の区別がつきにくいのも事実で。犯罪に分類されるものに対する性癖を持つ人の嗜好と、誰にも迷惑をかけない人の嗜好も、嗜好としての根源は同じものだよな、という気持ちもある。はたして、こういうのは病気なのか。趣味嗜好なのか。迷惑をかけない嗜好は、どこまで認められるのか。どこまで公にできるものなのか。水フェチはいいのか。紙フェチはいいけど、髪フェチはだめなのか。いろいろ考えていくと、わけがわからなくなりそうだ。
ビヨンド・ユートピア 脱北1/18シネ・リーブル池袋シアター1監督/マドレーヌ・ギャヴィン脚本/---
原題は“Beyond Utopia”。公式HPのあらすじは「韓国で脱北者を支援するキム・ソンウン牧師の携帯電話には、日々何件もの連絡が入る。これまでに1000人以上の脱北者を手助けしてきた彼が直面する緊急のミッションは、北朝鮮から中国へ渡り、山間部で路頭に迷うロ一家の脱北だ。幼い子ども2人と80代の老婆を含めた5人もの人たちを一度に脱北させることはとてつもない危険と困難を伴う。キム牧師の指揮の下、各地に身を潜める50人ものブローカーが連携し、中国、ベトナム、ラオス、タイを経由して亡命先の韓国を目指す決死の脱出作戦が行われる」
Twitterへは「寝た。緊張感やスリリングはほとんどなくて、なんか、だらだら。脱北者の語る、人糞集めて農家に持って行ってるとか、高層マンションで薪を燃やしてるとか、は興味深かったけど。隠しカメラによる北の映像は、よくある感じだし。」
アメリカの女性監督によるドキュメンタリーらしい。監督は、最後の方にちょっとだけ写る。脱北ものは、むかしからテレビドキュメンタリーもあるし、いまさら、な感じもするのだが、わざわざ映画として公開するのだから、なんかあるのかな、と思って見たんだけど。とくに目新しいものも、スリリングな感じもなし。
最初の方で、ソウルで脱北を手伝っているという牧師が登場する。いいのか、顔が出ちゃって。でも、にこやかにでてきて、どうやら北の脱北志願者や、脱北ブローカーなんかと話をしている。そのキム牧師は、主に電話仲介なのか? (でも後半に、ラオスで登場したのはキム牧師だよな、たぶん)
それから、脱北ルートの紹介。38度線は地雷原なので、いまは北朝鮮と中国の間に流れる鴨緑江を超えて中国入りするということのようだ。ただし、中国は北と通じているので、見つかると強制送還される。その後に、西側に逃げ出すには中国を南下してラオスに入るとか、いくつかあるようだ。で、80の婆さん含む夫婦と子ども2人の5人の脱出劇と、すでに脱北して韓国にいる母親が、息子の脱北劇を支援するような話と、2つの脱北劇が平行してドキュメントされる。5人の方は、最初はどこにいるのが映ったんだっけかな。鴨緑江を越える前か、越えた後だったか。なんかよくわかんねえんだよな。もうひとつの方は、韓国内にいる母親がインタビューされて、泣いたり困惑したりしてる様子しか映らない。なもんだから、こっちの体調もあってかうつらうつら…。ふ、っとときどき目覚めても同じような感じなのでまた沈没して、を繰り返し、ちゃんと見たのは5人がラオスに入るとかいうあたりで、、母親の方は息子が、川は渡ったけど拘束されたとかいうあたりからかな。
なんか、草むらにいる5人家族とか映るけど、あまり緊張感は感じられず、みんなボーッとしてるみたいに見える。まあ、演出のあるドラマと違って現実はこんなものなのかも知れないけど。それに、経緯が見えないから、余計にそうなのかも。どういうところから、どういうところにやってきたのか。ブローカーも、顔が隠されて少し映るだけで、指示されて動くとか移動するような場面もなくて、困惑した表情の婆さんとか、何が何だか戸惑ってるような父親・母親、なーんも分かってない子どもが映るだけ。映しているのは誰なのか? 映画のスタッフ? ブローカー? 5人の自撮り? そのあたりもよく分からんので、隔靴掻痒。
間に挟まる北朝鮮の実態映像も、なんか、いままでにも見たことのあるようなものばかり。あと、脱北者である、ちょい化粧の派手めな女性のインタビューもあるけど、これがいちばんドキュメンタリーっぽかったかな。よくある手法ではあるけれど。で、息子を待つ母親は、相変わらず部屋で話しているだけ。
まあ、こちらが寝てる間に迫力のある映像や、分かりやすいシーンがあったのかも知れないけどね。
で、5人はミャンマーの隠れ家に行く。のだけれど、外観が映るわけでもなく、部屋の中と、庭で洗濯と、あと、猿を見に行ってる場面があったけど、あれはどっかへでかけたということなのか? そんなお気楽なの? でたしか、ここにキム牧師がやってきて、ラオスは共産国だから見つかるとまずい。川を渡ればタイ。船は細くて危険。タイに着いたら、さっさと警察に逮捕されろ。助けてくれる。てなことをいうんだけど、あのキム牧師はどういうルートでラオスにやってきてるんだ? 脱北者ごとにあちこち動きまわってるのか?
で、タイへの船上は、暗視カメラでグリーンで家族が映るだけ。なーんの緊張感もない。降りてからの移動もない。タイ警察に保護された映像もない。なぜか、高層マンションに住むことになって、うきうきの一家が映り、インタビューされる婆さんは、まだ金正恩に敬語を使っていたりするというのが映ったりするぐらい。
いっぽう、息子が拘束されたという母親は気の毒ではあるけれど、その様子が映るわけでもなく、嘆き悲しむ様子だけなので、緊張感なんかはまったくない。
Twitterで見ると、凄い迫力、スリリング、とか高評価なんだけど、そうかあ? と思ってしまう。公式HPには「総移動距離1万2千キロ、50人以上のプローカーが協力。「楽園」と信じた場所を離れ、家族は決死の脱北を試みる」とあるんだけど、この移動距離は地図上でしか示されない。ブローカーも、どういうつながりで、どんな役割を果たしているのか、見えない。いったい費用は幾らかかるんだ? ほんとうに「楽園」と信じている人はどれだけいるのだ? 決死の脱北を、誰がどう撮影しているのだ? が、さっぱり見えない。
婆さんみたいに西側にやってきてさえも北にいたときと同じように「素晴らしい金正恩のおかげ」というような刷り込みがある人と、死のリスクを犯しても脱北しようと決意した50代らしい両親とも意識の差、なんかを知りたいよね。北の一般大衆は、どこまで本音で現体制を支持しているのか? 否定する人はどういう情報からそうするのか? とか、同じ家族の中にも情報格差がある。あの婆さんは、いつになったら、金正恩のやつ、というようになるのだろうか? そしてまた、韓国という国のいろんな悪い面も知るようになるだろうし。そういうところも知りたいよね。
ラ・メゾン 小説家と娼婦1/23ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/アニッサ・ボンヌフォン脚本/アニッサ・ボンヌフォン、ディアステム
原題は“La maison”。公式HPのあらすじは「フランスからベルリンに移り住んだ27才の小説家エマは、作家としての好奇心と野心から娼婦たちの裏側に惹かれてゆく。そして、大胆にも彼女たちの実情を理解するために、有名な高級娼館“ラ・メゾン”に娼婦として潜入する。危険と隣り合わせの女性たちの日常、そして孤独や恋愛の尽きない悩み…。そこでの日々は、エマにとって新たな発見に溢れていた。そして2週間のつもりが、いつしか2年もの月日が流れてゆく。」
Twitterへは「取材のため娼婦になってみた小説家の話。なぜそこまで? は説明されない。多くの娼婦は好きで働いているわけではないけどみな明るいし、でも蔑視への抵抗感は強い。エロ映画としては愛欲抜きなので、わりと淡々としてたかな。」
小説家として成功しているのに、次回作のために体験が必要、と自ら娼館で売春婦として働き始めるという話だ。もともとセックスが好き、なのかしらんけど、そこまでするかね、と誰しも思うはず。それも、2週間のつもりが娼婦の仕事に生きがい(?)を見出してしまうのだから、なんとも。しかも、演じるアナ・ジラルドが上品な美人だから、そそそ、それはダメだろ、的な気分にもなってくる。という時点で、私にも娼婦への差別感があるのは否めない。なぜって、登場する娼婦たちもそれぞれに色んな理由があってのことで、娼婦として蔑視されるのは耐えられない、とはいっているけれど、では、公言して自慢できるかというかというと、それはしていないからだけどね。ただし、原作者である小説家は公言し、男性を喜ばす職業人として喜びと誇りを持っているようにも見えるけど。そう。性的快楽を求めているわけではないのだ。性に溺れているわけでもない。性に悩む男や、ときに女性、快楽を得たいという恵まれない男達に満足を与えたい、という心根の方が優先している感じかな。だから、描かれるエマの行為はちっともエロくなくて、ほとんど仕事としての性行為。だから淡々と、お客のニーズに応えるものになっていて、ああ、仕事なのだな、と見えてくる。とはいえアナ・ジラルドの肢体は美しいから、まあ、それをエロ本的に感じるようなモノかもね。
ラストがどんなだったか、よく憶えていないんだけど。まあ、2年間娼婦をして、そのことを出版して売れたんだっけか。なんか、淡々と終わっていたような気がする。
・最初にカップルが建屋に入ってきて、「精神科医の隣に、娼館?」なんて話しているのは、そこまで娼館が身近でありふれている、ということをいいたかったのかな。
・主人公はフランス人作家なのに、なぜかドイツにいて、ドイツの娼館の面接を受ける。これは、フランスでは売春が合法化されていないから? 面接では「経験は?」と聞かれて、しれっと「ある」と答えてる。
・妹もドイツに住んでるんだよな。そのよく分からん。
・ルールについての説明が興味深かった。1時間に射精2回まで。フェラ、キスは別料金とか。
・エマは、妻ある男と関係をもっているらしい。でも、彼は最初の頃にちょっと出てきただけで、あまり機能していない。
・娼館では、エマはしきりにメモを取っている。遣り手らしいオバサンから「ボスがあんたは書き物ばかりしている」と小言を言われていたけど、ってことはボスは監視カメラで女たちの様子を見てるのか? 
・いきなり6カ月後で、ドアにラ・メゾンとある娼館が映る。ってことは、娼館を移ったということなのか?
・このあたりから、色んな客との対応が描かれていて、面白い。
・3P好きらしい医者は巨漢で大らか風。のちにエマは風邪を引いたとき医者に連絡したらしく、往診してくれていた。しかも、料金は無料で「この住まいの住所も頭から消去するから」と。こういう客がいいお客様なんだろうな。
・コカインをしきりに勧め、ムリやり吸わせる男。でも、なぜ断らないのか? この後、早引けしたのか? 妹に、「だから」とか責められていたような。
・と、思っていたら、どこで知り合ったのか、なイケメンとデートしてて、どっかの建物の中で濃厚セックス。これは仕事ではなく求め合っているという設定か。あとで分かるけど、この男はどっかの店のバーテンで、イアンというらしい。けど、出会いのきっかけぐらい描いてほしいよね。
・仕事の方では、同僚に鞭の使い方やサディズムで男をコントロールする方法を教わったり。とくに仲間から嫌われてないのかな。と思ったら、同僚の1人から「あんたのノートを見た。ジャーナリストかなんか知らないけど、私はあんたを信用していない」と言われたりする。でも、店の遣り手やボスには告げ口しないのかな。
・最近、彼女ができたというオッサンには、指使いとかマンコの舐め方を懇切に教えたりする。「クリトリスだけを舐めるんじゃなくて、全体を舐めるといいのよ」とか。男に優しいなあ。
・かと思ったら、たまたま訪れた女性客に対応するように言われたり。別にゲイではなくて、こういう機会に試してみたかったの、てなオバサンもいるのだな。なかなか興味深い。
・かと思うと、「俺はゴムはつけない! 幼い娘になれ! なレイプ男もいたりして。射精前に身をよじって逃げてはいたけど、こういうときなぜ叫んで助けを呼ばないの? と思ってしまった。個々の事案に対しては、仲間の助けは借りない主義なのかしら。
・レイプ男のあとにイアンを訪れると、心配してくれる。理解あるように見えるけど、「だから売春婦なんてやってると…」な口調に蔑視を感じてしまうエマ…。やっぱりなあ、男って、みな売春婦を見下してるんだよ、結局、というところかな。
・実際、客に蔑視されたせいでやめていく娼婦もいて、金髪のカツラを取ると地毛は茶色っぽかったりする場面もあったな。
・主演のアナ・ジラルドは知的な美しさに満ちていて、見るからにインテリな感じ。なので、とても美しいけど淫らな感じがない。それが、この映画の淡白なところを支えている感じ。まあ、娼婦でいるけれど観察者であることを表現するには、これが良かったのかも知れないけど。
・いまどきのエロではめずらしくチンポぼかしたりしてた。一方で女性の陰毛は見えてたり。基準がいまいちよく分からんのだった。
リトルサイエンティスト1/27シネマブルースタジオ監督/かなめぐみ脚本/かなめぐみ
49分58秒。シネマブルースタジオのあらすじは「科学大好き少年・兄のハヤトと弟のユウタはいつも実験に夢中。でも最近ママは一緒に実験をしてくれない。なぜだろう?不満を募らせた兄弟はママの心を変える実験を始める!」
【ジェンナー賞】
大筋は↑のあらすじ通り。実はママはシングルマザーで、別れた夫は金を振り込んでくれない。金欠のママはファイナンシャルプランナーめざして勉強中で、面接もそういう方面ばかり。しかも正社員にしてくれなど、虫のいいことをいう。なので、「資格を取ってからこい」とかいわれるんだけど、当たり前だよな。書き上げた履歴書を布団の上に置きっぱなしで、子どもに踏まれたりして面接に遅刻したり。バカ親じゃん。そんな資格を取ったって面接通るわけもない。金が欲しけりゃ肉体労働でも何でもすりゃあいい。と、思ってしまう。それでストレスがたまってるからって子どもの相手をしてやらないのも、変だろ。もともと実験好きな子どもにつきあっていたのに。すべては、あんたのせい、だろ。てななかで、子ども2人がアイスクリームづくりの実験をして。できあがったモノを冷凍庫に入れておいたんだけど、ママは気がつかず。アイスの周りは冷凍ご飯で埋まっていて、でも、あるとき気がついて食べて涙を流して反省し、子どもの実験につき合うようになりましたとさ。でも、だからって面接には通らんと思うぞ。
『リトルサイエンティスト』『My town,TOKYO』『KUTSUYA』の3本で1コマの上映だったけど、観客は7人だった。
My town,TOKYO1/27シネマブルースタジオ監督/小野光洋脚本/---
30分。シネマブルースタジオのあらすじは「レトロな建物好きの由香と、なんでも新しいもの好きの和美。2人は1984年の高校生。ある日、見知らぬ男から「時間旅行のチケット」を手に入れ、タイムトリップする。2人が着いたのは、2021年の東京だった。」
【追分賞】
レトロな建築を見て歩いている女子高生2人がいて…。てなところで眠くなり、ふと気づくと現代に来ていて、カウンセラーらしきオバサンがアドバイスするところからちゃんと見た。なので、なぜ、どうやってタイムリープしたのかは分からず。で、後半は、あの建築がない、とか、大きな地震が2度あったとか、そんな話を仕入れて話すんだけど。何かセリフを素っ気なく淡々と話すのだよなあ。1人は、かつて家庭教師をしてくれた先輩を探すんだけど、その彼は建設現場で警備の仕事をしていた。むかしは、大手プロジェクトで建設現場の先頭に立ちたい、と言っていたのに…。この娘は、「私は自分の時間を生きる」ともとの時代に戻る。もう1人は、現代に残る、という。もとの時代では、現代に生きることにした娘の父親が、蒸発してしまった娘を探すために、駅前でビラ配りをしている、という哀しい姿も。親不孝だね。現代に生きることにした娘は。
しかし、時間差は40年近くなのだから、現代に生きている自分に合うことはできるんじゃないのか? 現代に生きることにした娘も、父親や家族に会えないことはないだろ。それにしても、現代にやってきて、会いたい人が先輩男子だけというのも、なんか情けない生活してるんだなあ、としか思えんぞ。
KUTSUYA1/27シネマブルースタジオ監督/武田成史脚本/---
13分12秒。シネマブルースタジオのあらすじは「10分後の電車に乗らなければ間に合わない!恋人とのデートのために駅に向かっている男の足が、突然地面から離れなくなった。強力な接着剤だ!目の前に現れたのは、ひとりの靴屋。何故、こいつは俺の邪魔をする!?」
【脚下照顧賞】
オレオレ詐欺で婆さんに300万振り込ませたかと思うと、盗作で文学賞を受賞、かと思うと、女を騙してデートする。慌ただしい男がいたもんだ。で、整髪して、さて家を出ると、大きな蠅取り紙みたいなのを踏んづけて、靴がくっついてしまう。しかたなく靴下のまま歩くと数メートル先の路傍に靴屋がいて、970円で売っている。買おうとするも現金のみで、でも、カードしかもっていない。なのでテキトーなのを履いて、後払いで、と頼み込むも断られ、かくなる上はと近くにあったコンクリブロックでその靴屋を殴り倒そうとするも、いつのまにか逆転され、頭上にはブロックを振り落とそうとする靴屋が…。
ちょっとした不条理劇で、細かくキレのある編集が気持ちよすぎるぐらいに決まってる。
のだけれど、こんな男が駅に向かう道すがらが田園地帯の農道だっていうのは、変すぎるだろ。さらに、ブロックを振り落とそうとしている靴屋、の、次のシーンが踏切を通過する列車で。通関すると、そこに、靴下姿の男がたっていて、こちらに歩いてくる、というラストは意味不明。男はやられたのではなかったのか。では、靴屋をやっつけたのか? でも、それならなぜ靴を履いていないのだ? よく分からんな。
不完全世界1/27シネマブルースタジオ監督/古本恭一・齋藤新脚本/水津亜子
142分。シネマブルースタジオあらすじは「不妊症の女優、失声症の元アイドル、311の津波で被災した男、死を前にした老女優とその娘。出逢うはずのなかった様々な人間の運命を巻き込んで、事態は予想もつかなかった方向へ転がって行く」
【グランプリ賞】
何げなくはじまって、波瀾万丈な感じで進むけど、終わってみればたわいもない感じの話かな。
仲好し3人仲間の女友達がいて。1人は女優をめざしてるけど、不妊症で、でも子どもは欲しいと思っている。もう一人は、大学教授(?)と不倫して妊娠し、堕ろそうとしている。最後の1人はノッポで、でも、あんまり描かれない。で、妊娠女は不倫相手にメールで妊娠結果を写真で送る。のだけれど、その日に交通事故に遭って死んでしまう。妊娠女は堕胎を決意するんだけど、不妊女優は、「産んで。私が育てる」というんだけど、それは拒絶。でも、いざ産婦人科に行ったら決意が鈍り、産むことになり、子どもは不妊女優に育ててもらう約束に。が最初のエピソード。
次は、死んだ教授の未亡人の話。教授のところに妊娠告知メールが来たとき家で近くにいて、ペディキュア塗ってたのかな。夫が出かけるとき「死ね」とか言ってたから、ちゃらんぽらんな妻かと思ったら、弁護士のところに行って夫の遺産は生まれてくる子供にすべて行くように依頼。住んでいたマンションも出て、仕事を探す。が、なかなか見つからず、最後は街角でキッチンカーだしてるオヤジのところに行き、ケバブみたいなやつを食べて感激。働かせてくれ、というが最初は断られ、でも、オヤジのアパートまでおしかけ、働いてもいいよ、な許可を得る。住むところもないので、そのままいついてしまう。実はこの妻、元アイドルらしい。きんぴらを挟み込むメニューでヒットし、仕事も順調。で、なぜか忘れたけどオヤジと東北に向かい、オヤジは「ここに支店をつくる。東京は任せた」ということで、1人帰郷してキッチンカーをつづける。
キッチンカーの回りにたむろうアコーディオンのオバサン、得体の知れない小学生娘? 元アイドル未亡人のファンとか、の賑やかしもいたり。小学生娘がいい味出してたな。
しかし、個々のキャラがいまいち得体が知れないんだよな。不妊女優は、女優になりたいのかどうなのか、よく分からん。不妊というのは、自覚症状? 過去にそう診断された? ではかつてパートナーあるいは夫が居た? で、子どもが欲しい。なのに女優志願? わけ分からん。元アイドル妻も、死んだ亭主と仲が悪かったのか? 浮気を知ってた? しかし、大学教授がなぜにアイドルと結婚? 芸能界に未練はなかったのか? 子どももいないようだが。でも、全財産を夫の浮気相手の子どもに与えるのは、なんで? わけ分からん。妊娠女は、彼女は何をしてる人なんだ? 如何にして大学教授と知り合った? そして、女三人組はどういう結びつきなのだ? わけ分からん。こういう背景を、もうちょい掘り下げてみせるべきだよなあ。でないと、話に厚みはでんだろ。
と、思っていたら、後半になって突然、新しい登場人物が。老女優と、介護の娘。それまでの話と関係なく始まるから、えええ? となるよな。半ボケだけど、久しぶりの映画出演に燃える老女優。の、話は、これまでの話とどう絡むんだっけ? ほぼ忘れてる。不妊女優がこの映画に出てるんだっけか。でも不思議なのは、日常的には妊娠偽装して腹をふくらませているんだよ。なのに、撮影のときは偽装してない。それで偽装になるのか? 
で、老女優は撮影終了後、急に認知症が進んで、あっという間に死んでしまう。別に認知症で死んだわけじゃあるまいに。ご都合主義的な展開だよなあ。ところで、エンドクレジットで老女優は吉村実子だと分かって、びっくり!
東北でのんびりテイクアウト店をしてるオヤジのところに、小学生娘とアコーディオンおばさん、元アイドル未亡人がやってきて、久しぶりの邂逅。はいいんだが、アコーディオンオバサンはキッチンカーの仲間じゃないよな。勝手に弾いてるだけだよな。小学生娘は、家はないのか? ツッコミどころ満載である。
いっぽう、妊娠女は無事出産し、その子どもを不妊女優に手渡す。しかも、そこらの路傍で。で、映画は終わるんだけど、色々あって飽きないけど、なかなかにテキトーな話だった。
冗談じゃないよ1/28シネマブルースタジオ監督/日下玉巳脚本/日下玉巳
公式HPのあらすじは「30歳が迫っている売れない役者、江田丈。オーディションを受け、荷上げのバイトで稼ぎ、仲間と酒を飲み、それなりに充実した毎日を送っていた。何に対しても、ただただまっすぐ突き進んできた丈だったが、年齢を重ねるにつれ、周囲とすれ違い、衝突することが多くなる。理想と現実の狭間で、愛する人たちを失いそうになった丈は..。」
【脚本賞】
役者(映画とかテレビか)での成功を夢見てオーディションを受けつづけ、たまに端役で出演けど、そこから抜け出せない。21から始めて、日頃は建設現場で働き、彼女もいるけど、我も強い。彼女に妊娠を告げられ、結婚を決意するも、なぜか彼女は消えてしまう。そして5年後。30になっても相変わらずオーディションで落ち続ける。むかしの仲間は主演、準主演クラスになっている連中も。俺は何やってんだ、という、よくある青春の蹉跌な感じの話。
主役の江田は、オーディションで落ちたやつを主催者に推薦して、受かりかけてた自分のチャンスをフイにしたり、その落ちたやつを家に呼んで飯を食わせたり、余計なおせっかい男だったりする。かと思ったら、オーディションでセリフ覚えてない相手に絡んで主催者の顰蹙を買ったりもする。せっかく出番が回ってきても、現場で指示とは違う過剰な演技をして煙たがられたりする。建設現場でも、突然、上役に前借りを依頼してトラブったり、やたら面倒くさい男。だから、なかなか這い上がれない。そんなこんなで、同期の仲間が主役決定しているオーディションで、あきらかにふて腐れた表情をしていたり。ある意味でトンチンカン。処世術が下手で、自己PRもいまいち。俺が俺が、もあったりして、見ているだけでつき合いづらい野郎だな、という感じ。まあ、役者になるからには尖っていても当たり前かもしれないけど、己を知らなすぎじゃないか、と思ってしまう。こんな江田に、彼女がいること自体が不思議なんだけど。
最後は、ライバルに先を越された自分の身の程を知った感じで、建設現場で、役者志望の後輩に注意したりと、考えを改めた、のかなと思っていたら。なんと、妊娠したといっておきながら失踪した彼女が、別の男と子どもと、3人でクルマに乗っているところが映る。おおおお、な江田は、自転車で追いかける、というラスト。なんじゃこれ。彼女が逃げたのは、江田に見切りをつけたから? なのか。あるいは、彼女は実は浮気していて、浮気相手の子とバレるのが怖くて逃げたのか? ここの江田の心境が「冗談じゃないよ」なのかね。よく分からん。
・監督・脚本の日下玉巳は、妊娠して出て行ってしまった彼女役の女性のようだ。24歳だという。おお。そう聞くと凄いかも。
・江田の母親役で竹下景子がでてきて、びっくり。反則だろ。
・江田の同期の仲間とかいろいろ出てくるけど、似たような顔つきが多くて見分けがつかないよ。小太りなやつはしっかり区別ついたけどね。
・それにしても、セリフが聞き取りにくかった。
・観客は2人だった。
サン・セバスチャンへ、ようこそ1/29シネ・リーブル池袋シアター1監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は“Rifkin's Festival”。リフキンは主人公の名前。公式HPのあらすじは「かつて大学で映画を教えていたモート・リフキンは、今は人生初の小説の執筆に取り組んでいる。映画の広報の妻スーに同行し、サン・セバスチャン映画祭に参加。スーとフランス人監督フィリップの浮気を疑うモートはストレスに苛まれ診療所に赴くはめに。そこで人柄も容姿も魅力的な医師ジョーとめぐり合い、浮気癖のある芸術家の夫(との結婚生活に悩む彼女への恋心を抱き始めるが…。モートはサン・セバスチャンを訪れて以来、昼も夜も摩訶不思議なモノクロームの夢を垣間見るようになる。街を散策中、突如フェデリコ・フェリーニ監督『8 1/2』の世界が目の前に!夢の中では、クロード・ルルーシュ監督『男と女』、ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』の世界に自身が出現したり。モートは、いつしか、映画の名作たちの中に、自らの“人生の意味”を探し求め、映画と現実の狭間を迷走していくのだった…。」
Twitterへは「チビ禿小太りな爺さまが色っぽい女医にストーカー、な話。監督好みの売り出し中の若手女優は登場せず、が原因なのか、製作は2020年なのにやっと日本公開。名作映画のパロディは、『カイロ』その他でやってるような遊びかな。」「日本映画も引用されるけど、主人公オススメの映画としてで、タイトルと役者名がセリフで語られるだけ。イメージにならないのは、日本映画の中に入り込むのは難しいからかね。」
終わってみれば話は単純で。モートは美人女房のスーにくっついて映画祭に参加し、でも、ほとんど別行動。最初は胸の痛みを心配し、紹介してもらった医師を受診したらこれが美人な女医ジョーで。かつてN.Y.に住んだこともあるというので話がはずんでしまう。検査の結果異常はなくて、でもまた会いたいので虫刺されを湿疹だと言い張って受診しようとしたけど、それは映画祭の関係で叶わず。でもこんどは耳鳴りが、とかなんとか理由をつけて受診し、なんと食事の約束を取り付けてしまうというのが、出来過ぎなご都合主義だよな。下心ミエミエなんだけど、女医ジョーには絵描きの夫がいて、それも浮気し放題の夫で、でも、ジョーとは離婚するつもりがないという関係。しかも、ジョーも離婚の意志が無いという妙な関係で。ややこしい。というような、モートのお話が映画を貫くお話。
これに絡むのがスーの話で。こちらは売り出し中の若手監督フィリップと、映画祭中はべったり。食事や会合にモートもつき合わされるけど、うんざり、な感じで。でも、強く嫉妬してる感じには見えないし。勝手にさせているのかなと。でも、ラスト近くで、スーからモートに別れ話を持ち出し、フィリップと何度も関係をもったことも告白。「本と服、ウォーホルとラウシェンバーグはもって出ていく」ということに。モートはせいぜい「家が広くなっちゃうな」と言う程度で、激しいバトルはなし、という、なんかよく分からない終わり方。
というわけで、ウディ・アレンの映画によくある恋のさや当て、すれ違い、なんかはほとんどなくて。爺さんがアラフィフの美女によろめくというだけの話なんだよね。で、ウディ・アレンはよく、人気上昇中の美女を登場させたりするんたぜけど、今回はそれがない。ジョーも美人ではあるけど調べて見れば1975年生まれだから、映画製作時は45歳。スーも美人だと思うけど1962年生まれだから、映画製作時は58歳。どっちも婆さんの部類に入るし、知られている女優でもない。そう。よく知られた役者というと、モートのウォーレス・ショーンだけで。でも、彼は1943年生まれだから、映画製作時に77歳だ。完全なる爺さんだ。まあ、ウディ・アレンがモートに自分を託しているんだと思うけど、いくつになっても男は雄で、美女を見るとソワソワするってことかな。
しかし、モートの履歴が謎で。大学で映画を教えていたということだけど、どこで映画を学んだの? 映画界にいたような風には見えないんだが。で、いまは小説を書いているらしいけど、そういうことを公言する彼の地の風習は理解できないのよね。本職の作家でもないのに。な爺さんが、どうして自分より背も高くて美人のスーと結婚したのか、が謎すぎる。さらに謎なのは、60歳近いスーが、いくら近しいからといって新進監督のフィリップと関係をもつかね。フィリップ役のルイ・がレルは1983年生まれで、映画撮影時に37歳だから、異様すぎる。しかも、これがもとでモートと離婚を決意するのだから、なんなんだ。
さらに謎なのが女医のスーで。医者なんだから患者なんてモノも同然で、診察終わったらさっさと帰れ、だと思うんだけど爺モートのN.Y.話につき合って、食事までして、あげくにクルマで遠出してピクニックまでしてしまう。いくら浮気亭主にイラだってるからって、これはないだろ。しかも、モートとピクニックから戻ると亭主がモデルと寝てて大騒ぎ。なのに、そのモデルとモートを街中まで送ってくれるという。なんなんだ? この寛容さは。
というわけで、ウディ・アレンの映画としてはスリルはないし、ワクワク感もない。並な感じだな。
巷間いわれている古典的名作の引用は、だからど゜うしたレベル。『市民ケーン』、『8 1/2』、『突然炎のごとく』、『男と女』、『勝手にしやがれ』はすぐ分かったけど、ベルイマンはほとんど見てないので、『仮面ペルソナ』、『野いちご』は分からず。『第七の封印』」も、死神の場面は有名だから知っていた、程度。ブニュエルも見てなくて『皆殺しの天使』は分からず。シーンの中にモートが登場していることから、要は夢、または妄想なんだろうけど、なにを言わんとしているのかは分かんなかった。名作を引用する必要があるのかね。わかりにくいだけじゃん。
ある食事会で、モートがオススメの映画を聞かれて、いきなり日本語読みで『忠臣蔵』 と『影武者』をだしたのにはびっくり。それほどのものか? ところで、『忠臣蔵』 の後に加山雄三っていってなかったっけ? 聞き間違いかな。あの『忠臣蔵』は稲垣浩らしいからなあ。『影武者』では仲代達矢ともいってたよなあ。どうせなら、モートが戦国武将になってでてくる夢想でもイメージ化すりゃよかったのに。
友だちの恋人1/31シネマ ブルースタジオ監督/エリック・ロメール脚本/エリック・ロメール
原題は“L'ami de mon amie”。
Twitterへは「男女4人の恋のすれ違いな感じで、ウディ・アレンが考えそうな恋愛コメディ。くっついたり離れたり捨てたり拾ったり。たわいがないけど、ヒロイン2人がチャーミングなので、それはそれで楽しかった。」
パリ郊外の、都市計画でつくられたような街でのお話のようだ。レアは学生で、もうすぐ卒業。ランチに、近くの役所の食堂を使ってる。そこで相席になったブランシュと仲良くなり、以後、親友関係になる。レアには同棲中(といっても、後に彼の方が、週に2回ぐらい泊まるだけだよ、なことをいってた。けど、どっちの家にどっちが転がり込んでるのかは分からず)の彼氏がいて、ファビアンという。ファビアンはメカっぽいものに興味があり、でも、レアは興味が薄そう。なこともあってレアとファビアンは、いつも一緒な感じになる。泳げないファビアンはレアに教えてもらうということでプールへ。そこでレアは旧知のアレックスと連れの女性と遭遇。ブランシュはアレックスに一目惚れしてしまう。けどアレックスはいかにもモテ顔で、いつも連れてる女が違う、ような男らしい。
で、以後は、レアがテニスのチケットをくれて、ファビアン、アレックスと観戦するんだけど、体調が…とかいって逃げ出すように帰ったり。レアがファビアンを振って別の男とどっかへ休暇にいってしまうと、ブランシュはファビアンと街中で遭遇して話をしたり。ファビアンと話をしているアレックスに接近するも奥手すぎて「送っていく」というのを断ったり。じれったい。なことしてる間に、レアとファビアンがデキてしまって。でも、レアを気にして深入りはしたくない感じのブランシュ。ファビアンも、ブランシュはアレックスに気があるのを知ってるし…。
やがてレアが休暇から戻ると、一緒に行った男はダメ男だった、とかなんとかブランシュに言い。ファビアンとよりを戻した、なんて言いはじめる。ブランシュは、まあいいか、な感じなんだけど。と思っていたら、レアはアレックスと急接近。私とつき合いたければ、他の女とつき合わないこと、なんて言い放って、アレックスはうろたえる感じ。
つまりは、ブランシュは親友レアの元彼を好きになり、レアはブランシュが好きになったアレックスといい仲になっちまう。互いに内緒にしながら関係は進んでいくんだけど、あるときブランシュは、あるカフェでファビアンと待ち合わせる約束をする。ファビアンが近づいていくと、なんと別の方角からレアとアレックスがペアルックでやってきて、レアはブランシュと同席。これはまずいと慌ててファビアンは身を隠す。ブランシュは「実は、好きな人の彼と仲よくなっちゃって…」と話し始めるんだけど、それを聞いてレアはアレックスと仲良くなったのかと思い込んでうろたえるけど、実はファビアンのことだった、と分かってひと安心。だったらいいわ、くれてやる、な感じかな。レアの方も、実はあんたが好きだったアレックスとうまくいっててね、な話になって。4人でにこやかに談笑するという、まあ、よくある感じの、すれ違いで笑わせるオチ。最後は4人とも紺・緑系のシャツでともにペアルックってのが、笑えた。こういう話、よくウディ・アレンがつくってたよなあ。
ラストまで、あれやこれや細かいエピソードがあったけど、経緯はくわしく憶えていない。
観客、10人。
※始まって20分ぐらいから尿意が…。見始める前にトイレは済ませたんだけど、出し切れてなかったせいかな。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|