2024年2月

哀れなるものたち2/2109シネマズ木場シアター8監督/ヨルゴス・ランティモス脚本/トニー・マクナマラ
原題は“Poor Things”。eiga.comのあらすじは「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。」
Twitterへは「びっくり仰天な設定と展開! 身勝手な実験。エロとグロ。レトロフューチャーな世界。な、なかでも人は学び成長する。そして、唾棄すべき者は堕ちていく。多少の中だるみはあるけど、面白かった。」
いやあ、141分のダイナミックな物語の変容に目が釘付け状態だったよ。『フランケンシュタイン』とか『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』とか思い浮かべながら、でも、それらの上を行く、ひとりの女の数奇なドラマ。こんな話をよく思いついたものだ。原作はあって、アラスター・グレイという人らしいけど、確固とした1つのメインストリームを彩るごった煮のような多様な要素が絡み合い、融合し、昇華していく。神をも懼れぬ実験の数々、虐待、エロ、グロ、反社会性、抵抗、この映画の設定による異様なカタチでの進化、そして、人間としての成長。ついでに、ダメな連中への鉄槌。次々と繰り出される異相の映像にくらくらだよ。
まずは、橋から身投げする女性。次は、解剖学教室での死体解剖。講義するのは、顔中傷だらけのゴッドウィン・バクスター博士=通称ゴッド(神)なのは意味があるんだろう。なんなんだ! 生徒の一人マックスはバクスター博士から仕事を頼まれる。博士の屋敷に住む知恵遅れ? な娘ベラの成長記録だ。屋敷には家政婦らしいのが何人もいて、ベラの世話をしている。なにしろ挙動は異様で言葉もしゃべれず立ったまま失禁する。屋敷にある解剖部屋? では、横たわっている遺体のペニスをいたずらしたり、遺体の顔をメスで突き刺して楽しんだりしている。なんなんだ?
マックスは、博士のノートを見て、ベラの秘密を探る。なんと、ベラは冒頭で投身自殺を遂げた女性で、新鮮な死体として博士のところへ届けられたんだけど、この女性は妊娠していて、胎児は生きていた。ので、胎児の脳を女性に移植し、蘇生を試みたら生き返った、のだという。なんて発想だ。まさにフランケンだよな。だから肢体は成人女性で、知能は幼児、という生物が誕生したというわけだ。言葉や動きが変なのも、これで納得。
大人の身体をもてあましながらも言葉は少しずつはっきりし、いろんなことに興味を持ち始め、街に出たいと言いはじめるベラ。周囲は馬車の時代に、頭部に馬のつくりもので実は蒸気機関の乗り物に乗せて街に繰り出すが、外に出るのも、街を見るのもゴッドは許さない。自分の容貌やベラの異様さを見せたくない、のか。そのうちマックスは、大人の肢体をもつベラに惹かれていく。それを悟ったのかゴッドは2人の結婚を勧めるんだけど、ベラは「結婚まではキスもダメ」的な感じ。ここで登場するのが弁護士ダンカンで、結婚に当たって詳細な制限をベラに加える契約書を作成するんだけど、このダンカンがなぜかベラに惚れてしまい、「外の街に連れてってやる」と騙して地中海遊覧船に荷物として積み込んでしまう。
ゴッドは、とくにベラを止めないんだよね。マックスと婚約してて、外出制限の契約書も作成してるのに。これがよく分からんところ。ここでチラと登場するのが、頭はブタで身体はニワトリの生き物で、ゴッドはあいかわらずフランケン趣味なのか。
さて、2人が着いたところはポルトガルはリスボンで。港の上にロープウェイのような乗り物が行き来しているというレトロフューチャーな世界。精力絶倫なダンカンはベラとヤリまくり、ベラはベラでセックスの快感に「なんで世界のみんなは毎日これをしないの?」なんていっている。まあ、幼児の脳に大人の性感帯じゃむべなるかな。
船の上でもベラはムチャクチャするんだけど、特筆すべきはギクシャクなダンス。飛び入りで踊り始めたベラを止めようとするダンカンの、摩訶不思議なる踊りは『パルプ・フィクション』のなかのダンストも匹敵するんじゃなかろうか。
船上で知り合う老婆と知的な黒人男性との哲学的な会話は、ちょっと着いていけず、だったな。でも、船上における時間も無駄に使わず、自死する以前のベラを知るオバサンから話しかけられたり、なぜか理由は忘れたけど、老婆を船上から放り出そうとしたり、相変わらずの奇行ぶり。
アレキサンドリアに寄港すると、見えるのは死にかけた人々、貧しい人々。これに驚愕し、なんとかせんと考えるベラ。ダンカンは船上での博打で大勝ちし、札束を放り出したままベッドで寝てしまう。これを貧しい人に与えれば。の一心で金を船員に託すが、もちろん懐に入れられてしまう。人への不審感が湧かない幼児の頭。なわけで一文無しのダンカンとベラは下船を求められ、マルセイユ。興味津々に街を歩いていると娼館があって、働けば金になると遣り手に言われ、「ダンカン以外の男としたことがない。セックスして金がもらえる。じゃあやろう」となって、初めての客が三こすり半でいってしまう。稼いだ金でパンみたいなの買ってダンカンのところにもどると、金で身体を売ったと罵倒されるが理解できない。「俺は世界一精力絶倫」と豪語していたダンカンのことを見直したようなところもあるけど、意見が合わず、ベラは娼館で引き続き働くことになる。娼館でいろんな男の相手をする場面は、こないだ見た『ラ・メゾン 小説家と娼婦』をちょいと連想したよ。で、娼館ではお客の前に女たちが並び、男が選ぶシステム。これに異を唱え、「女が男を選ぶシステムにしよう」と声高にいって遣り手に疎まれるんだけど、娼婦仲間の黒人女とともにどこかに意見を言いに行くような場面があったりして。まだ、見知らぬ男と性交することにケガレを感じないけれど、でも人権に目覚めということね。成長だ。
というところに父死んだ? の連絡があって(って、誰が連絡してくれた? ってか、ベラの居所をどう知った? なんだが)、急ぎロンドンに戻ると父親はまだ生きていて。マックスの結婚だけは見とどけたいというので式を執り行っている最中に、ベラの元の旦那の将軍アルフィーが乱入。結婚は認めない! と。糸を引いていたのはどうやらダンカンで、アルフィーに同行していた。
というわけで、ベラは頭の中ではまったく知らない元夫の元に戻り、ムダに厳格で残酷な男と同居生活するんだけど、よくわかんねえな。の前か後かでゴッドは死んで(ベラが殺したんだっけか?)。その後、どうなったんだっけ。よく憶えてないんだが。ベラはアルフィーと争ってアルフィーを殺すんだっけか? でも、飼ってたヤギにアルフィーの頭を継ぎ、ヤギ男にしちゃうんだよな。ゴッドの家にはベラとマックスが仲睦まじく暮らし、元娼婦の黒人女性も同居し、ヤギ男のアルフィーが庭をうろついている。さらに、ゴッドによってベラと同じような手術を受けた女性もいて、こちらも徐々に成長中? な感じのラストだったかなと。
てな話が怒濤のようにめくるめく感じで展開するので、ほぼ釘付け。しかもベラ役のエマ・ストーンはおっぱい丸だし陰毛も見せるし、ダンカン役のマーク・ラファロとの激しい交尾場面ががんがんなので、それもまた一興。とはいえ、地中海クルーズの船上は話があまり転がらず、ムダに交尾場面も多く、老婆と黒人男性とのちょい哲学的な会話もだらだらあったりして、いささかの中だるみか。
グロもたくさんで、解剖を待つ死体、解剖、内蔵ぐちゃぐちゃ、などなどなかなかおいしい。
でも、一貫する世界観はヴンダーカンマー的で、18世紀末の雰囲気だけどローテクなSF趣味もあり、なかなかいい。
ゴッドの変態趣味は、どうやら父親譲りらしい。ゴッドは食事のとき口から変な風船みたいなのを吐き出すんだけど、あれもまた父親がゴッドを実験台にして内臓をつなぎ替えてなにかしたから、らしい。顔がズタズタで凸凹に縫合されているのも、きっと父親の好奇心と実験のせいでそうなったんだろう。それによってゴッドが父親を恨んでいるようなことはなそそうで、逆に自身もなにものかを切った張ったすることに興味をもった、ということだろう。そのおかげで自死したはずのベラも胎児の脳を移植され復活し、異様な成長経過をたどることになった、ということだ。ブタの頭とニワトリの身体をつなげたり、ベラと同じ手技を別の女性にもしたり。フランケンシュタインな興味はDNAなのかね。
表現的にもいろいろあって。前半はモノクロで、ベラとダンカンが旅立つまでは、ベラの過去(投身、自死後に蘇生されるところ)はカラー。リスボン到着後はカラー。なんか意味があるのかね。ベラが目覚めて成長することを、鮮やかに描くということなのか?
それと、魚眼に近い広角の画面。周囲が暗く、穴から除くような視点。こういうのも面白い。面白いけど、意図はよく分からず。
ある閉ざされた雪の山荘で2/6109シネマズ木場シアター8監督/飯塚健脚本/加藤良太、飯塚健
公式HPのあらすじは「劇団に所属する役者7人に届いた、4日間の合宿で行われる最終オーディションへの招待状。新作舞台の主演を争う最終選考で彼らが“演じる”シナリオは、【大雪で閉ざされた山荘】という架空のシチュエーションで起こる連続殺人事件。出口のない密室で一人、また一人と消えていくメンバーたち。果たしてこれは、フィクションか? それとも本当の連続殺人か?彼らを待ち受ける衝撃の結末とは」
Twitterへは「話が杜撰すぎ。山なし谷なしで、だらだらと。しかもツッコミどころ満載。同年代の似たような顔立ちの俳優を区別するのに大変。なんとか区別できても、キャラ立ちしてなくて薄っぺら。怒鳴り合うだけの演技。ゴミだな。」
ほんとうに雪の中の山荘かと思ったらそんなことはなくて。そういう設定で、海辺の別荘に集まってきているという話だった。
最終オーディションを、別荘で行い、選ばれる、という話でやってきた6人。5人は同じ劇団員。久我だけはフリー。しかし、どうやって選ばれたのかは謎。しかも、やってくるマイクロバスではみなアイマスクをしている。けど、そんなことをする必要はどこにあるの? 
でも、オーディションは名目で、裏で操っていたのは雅美という元女優。力はあるけど過去に選ばれなかったことがあり、なぜか慰めるために恭介、温子、由梨江が雅美の実家まででかけた。というのが、不自然すぎ。で、帰路、3人の中の由梨江か温子が雅美に電話し、受けた雅美が車道に出てクルマにはねられ下半身不随に。これを恨んで、劇団の本多と組んで、ひと芝居。3人を含む劇団員を、オーディションという名目で別荘に4日間閉じ込め、3人の殺害を計画した。しかし、いくらなんでも、と本多は殺害相手に雅美の計画をバラし、殺したつもり、の芝居を打つことに。温子、由梨江、恭介、の順に一人ひとり殺されていくのだけれど、参加者たちはたいして動じず、警察に通報もなく過ごすのだけれど、最終日に久我がこの仕掛けを見抜き、みんなのまえでバラす、というお話。なんだけど、オーディションの課題のようなものがほとんどなくて、参加者はただダラダラウロウロしているだけ。仲間が殺されても大して騒がない。芝居をしている3人は平気だとしても、彼らの芝居を知らないない久我、田所、貴子の3人も、ほとんど動じていない不思議。まあでも、久我が、これは芝居、と見抜き、監視モニター室に隠れていた雅美を見つけ出し、下半身不随でも元気を出して芝居をしよう、みたいにハッピーエンドにもっていくテキトーさが軽すぎる。だったら始めから殺しなんて計画するなよ。な話である。
最後は、後日に面々が「ある閉ざされた雪の山荘で」という芝居を舞台で演じている、という設定になる。真ん中にいるのは、車椅子に乗った雅美で。元気づけられて舞台に上がるようになったのか。はいいんだけど、自分たちがしでかした犯罪もどきを戯曲化し(久我が、だけど)、上演するということにためらいはないのかね。ないとしたら、厚顔無恥だろ。
なんだけど、不自然なところがそこかしこにあって、これは原作がそうなら、東野圭吾の原作がひどすぎるんだな。BR>・そもそも雅美の依頼で本多が実際に温子・由梨江・恭介を殺害したとして。本多には、雅美のためにそこまでしてやる義理はあるのか? 本多と雅美がそこまで愛し合っていたor信頼し合っていた様子は見えないのだが。
・なわけで、本多は3人を殺害した、と偽装することにした。なるほど。けど、そんな偽装殺害はそのときだけで、すぐバレるだろ。雅美が本多のインチキを知るのもすぐのこと。それで雅美は満足するのか? ていうか、雅美は本多を「騙したのね」と罵倒するようになるだろ。いいのか、それで。
・雅美が下半身不随になったのは、温子だったか由梨江だったかが電話して、それに出てぼーっとしててクルマに轢かれたんだろ。電話した側の責任も多少あるだろうけど、電話しながら車道を歩いてた雅美も、悪いだろ。それを恨んで3人殺すって…。2人は直接関係ないだろうに。
・だいいち、3人を殺害するために借りた山荘が立派すぎ。4日借りたとして、いくらかかるんだよ。その費用は、雅美が全額負担? 本多も出したのか?
・実際に本多が殺害することにしたとして、完全犯罪にはならないほどの杜撰なやりかたで。あれで、死体をどう処理するつもりだったのか? 雅美は考えていたのか? 警察沙汰になったとき、どう言い訳するつもりだったのか? 理解不能だ。
・本多は、劇団の主催の名を騙って、この殺人イベントを開催したわけだよな。そんなの、このオーディションに参加した誰かが主催に質問したりすれば、一発でウソだとバレるではないか。
・で、オーディションは、告知したんだよな? しかも、ふるいにはかけているんだろ? 最終オーディションっていうぐらいだから。ならそんなの、劇団の主催に、なんじゃそれ、とバレてツッコミを入れられるだろ。それはどうかわすつもりだったんだ? 
・で、この山荘でのオーディションに参加できたメンバーは、どう決められたのだ? 本来のターゲット以外の3人は、本多がテキトーに選んだ? その選定基準は何なんだ? 他にも劇団員はいたのに。
・というなかで、なぜ劇団員以外の久我が選ばれているのは何のため? カモフラージュ? とはいえ、なぜ久我を選んだんだ? で、この久我がすべての謎を解くっていう設定も、なんかなあ、な感じ。
・ところで4日間も監視モニターを見ていた雅美は、食事や排便はどうしてたんだ? いや、監視モニター室のある上階に、雅美の存在を知っている本多以外の誰も上がっていかなかったというのがムリな感じ。だって監視カメラがあって、見られているのは分かっていたはずなんだから。
とか、話の設定が不自然すぎなので、見ていて退屈すぎた。
・岡山天音以外、初めて見る役者たち。で、とくに女性陣が似ているので区別がつきにくい。気の強そうな温子は短髪で赤いセーター、と区別した途端、殺されてフェードアウト。社長の娘? っぽい由梨江と、下半身不随になった雅美が、区別着かなくなったり。恭介って、影が薄すぎだろ、とかだったり。とにかく、似たような顔立ちの青年男女っていう配役はやめて欲しいよな。
・それと、雅美の犯行動機は、下半身不随にされた恨み、なんだけど。いまどき下半身不随で、人生終わった、人間終わった、というのはまずいだろ、と思うんだけどね。
ダム・マネー ウォール街を狙え!2/7シネ・リーブル池袋シアター2監督/クレイグ・ギレスピー脚本/ローレン・シューカー・ブラム、レベッカ・アンジェロ
原題は“Dumb Money”。公式HPのあらすじは「コロナ禍まっただ中の2020年。米マサチューセッツ州の平凡な会社員キース・ギル(ポール・ダノ)は、全財産の5万ドルをゲームストップ株につぎ込んでいた。アメリカ各地の実店舗でゲームソフトを販売するゲームストップ社は業績が低迷し、倒産間近のボロ株と見なされていたが、キースは赤いハチマキを巻き、ネコのTシャツ姿の“ローリング・キティ”という別名義で動画を配信し、この株が著しく過小評価されているとネット掲示板の住民に訴える。すると、キースの主張に共感した大勢の個人投資家がゲームストップ株を買い始め、2021年初頭に株価はまさかの大暴騰。同社を空売りしてひと儲けをもくろんでいた金融業界の大富豪たちは巨額の損失を被った。やがてSNSに集った無力な一般市民が、この世の富を独占するウォール街のエリートに反旗を翻したこのニュースは、連日メディアをにぎわせ、全米を揺るがす社会現象に発展。しかし一躍、時の人になったキースの行く手には、想像を絶する事態が待ち受けていた……!」
Twitterへは「ボロ株に売りを浴びせていたヘッジファンドに反旗を翻し、逆に踏み上げ相場をつくって逆襲した個人投資家たちの話。新聞ネタにもなってたから知ってたけど、こういう話は胸がすく。株式用語を知ってれば、もっと楽しめたかも。」
弱者である小口の個人投資家も、集まると、金にものを言わせて株価を上げ下げして儲けてるヘッジファンドに対抗できるし、打ち負かせてしまえるんだ、という話が痛快すぎ。しかも、想像ではなく事実に基づいた話だ、っていうのが気持ちいい。
いかに個人投資家が力になれるか。これはもうSNSのおかげである。YouTube、そして、Twitterのような情報交換掲示板(WallStreetBetsというらしい)。キースが自分の投資情報を公開し、その経緯や結果までをもあからさまに見せていく。これにのっかっていく学生や看護師、しがない店員…。キースがあれだけ儲けてるなら、俺の100ドルが2倍、3倍になるのも当然だ。という群集心理がどんどん広がって、さらにネットで拡散していく。それが、何億ドル(だっけ?)も動かしてゲームストップ社の株を売りたたいて儲けようとする連中に立ちはだかる。互いにチキンレース。のるかそるかがテンポ良く進む。
のだけど、株が「上がる」というのは理解できるけど、いまだに「売り」で儲ける仕組みがよく分かっていないので、大口投資家の目論見あたりがよく分からないのが素人にはつらいところ。あれは、信用取引でするものなのか? 
「踏みあげ」って言葉が出て来たけど、あれは、大口投資家の組織的な「売り」圧力を、個人の「買い」が跳ね返してさらに株価が上昇する、という理解で良いのかな。どれどれ。公式HPを見たら、「マーケット参加者が大量にショート(空売り)されている株に買いを仕掛けて株価が上がると、空売り勢は損失を抑えるために買い戻しを迫られ、株価上昇に拍車がかかる。」ことで、ショートスクイズ(踏み上げ)というらしい。そうか。空売りしてた連中も「買い」にまわるから、株価が上昇するということか。でも、映画ではそういう説明はなくて、大口投資家に何万ドル(何百万だっけ?)損が出た、とか奥さんにぼそっと告げたりするだけなので、ちと物足りない。まあ、分かる人には分かるのかも知れないけど。
ところで、ヘッジファンドが「空売り」してるって情報は、個人投資家のみんなは知っていた、のかね。
しかし、高値を買うのは怖いよなあ。みんな、よく我慢して株を持ちつづけ、それだけじゃなくて、買い続けたよなあ。やっぱり、顔出しで自分の情報を発信しつづけたキースの求心力なのかね。
向かうところ敵なしで爆上がり状態だったのが、あるとき株の取引サイトが閉鎖されて買えなくなったり、キースの動画がアップできなくなったりして、それがもとで個人投資家たちが動揺。売りに走ったりするんだけど、まあ、当然だよな。で、あの取引サイトの閉鎖とか動画がアップできなくなったのは、大口投資家が政府とか証券取引所みたいなところに泣きついたから、なのか? そのあたり、よく分からず。取引サイトにはどこかから圧力がかかった、とかなんとか、言ってたっけ? たしか、取引サイトの連中も捕まったか大損こいたかしてたよな。ところで、あの取引サイトってなんなんだ? 日本の証券会社より軽い感じがしたけど。
でも取引サイトもしばらくして再開。キースの動画も再びアップされるようになって、ゲームストップ社の株はますます上昇。いったんは売った個人投資家たちも戻ってくる。もうキースは神格化されとるな。
それと前後してキースや大口投資家の面々が公聴会に召喚される。ちょうどコロナ期だったせいかZOOMみたいな感じでリモートで行われていたんだけど、どうやら一般公開されていて、誰でも見られたようだな。キースに与えられた時間は30分だったかな。他の大口投資家の方は顧問弁護士がいて、背景が豪華すぎとかあれこれアドバイス。キースは、ネクタイしてるけど、ふだんの地下室から、かな。別に煽っているわけではないよなことを主張してた。それでとくに何も問題はなかったようだ。とはいえ、これ、何が問題化され、どこが召喚したのか、が、あんまりよく分からず。字幕で出てたのかも知らんけど、よく知らん組織だからちんぷんかんぷんだよ。
というわけで、アバウトに見てる分には面白い。けれど、あんまり人間を掘り下げてはない。キースの私生活はほとんど描かれない。5万ドルが手持ちらしいけど、1ドル140円として700万円だろ。30代で株でそこまでにするのも凄いよね。日頃はどういう生活してたんだろ。女房がいて、弟(兄貴だっけ?)がいて、両親もいるんだったか。そんなケチケチ生活でもなさそうだけど。弟(兄貴?)がアホで足手まとい。こいつがMacかなんかのデリバリーで、置き配する前に飲み物をちょいつまみ飲みする場面があって、うげ! 働かず、頭も使わず金を稼ぎたい感じが濃厚。女房はキースが何億円、数十億円の資産になっても顔色を変えないのが凄いけど。ぐらいなものだ。
あとは、キースの投資にのっかって買いまくる連中が、ちらほら。看護師の女性、女子大生なんか数ドルから軽い気持ちで始めてる。あとは、当のゲームストップ社が展開するショップの店員とか。最後に、それぞれ数千万円単位の儲けが紹介されるんだけど。なるほどね。良かったね。だけど、いま現在もゲームストップ社の株はそんなに下がらずにいるんだろうか? キースは結局、売り逃げしなかったんだろうか? てなことは気になる。
それと、大口投資家たちの実像がよくわからないってのも、あるかな。彼らはどこの証券会社をつかって売りを浴びせてるんだ? その証券会社が、出てきてなかったような…。
あとは、海外の映画でいつも気になるのは10万ドル、とか字幕で出てくると、日本円でいくら、が咄嗟に分からなくなることだね。いまは1ドル=140円台だけど、計算しにくい。100円なら、100万ドルは1億円でいいんだけど。でも、ときどき戸惑うよ。いっそ日本円換算の字幕にしてくれ、と思うけど、変動相場制だからそうはいかないのは分かるけどね。
PERFECT DAYS2/8キネカ大森1監督/ヴィム・ヴェンダース脚本/ヴィム・ヴェンダース、高崎卓馬
公式HPのあらすじは「東京渋谷の公衆トイレの清掃員、平山は押上の古いアパートで一人暮らしている。その日々はきわめて規則正しく、同じことの繰り返しのなかに身を置いているように見えた。ルーティンは孤独を遠ざけるものかもしれない。けれど男のそれはどこか違ってみえた。夜が明ける前に近所の老女が掃除する竹ぼうきの音が響く。それが聞こえると男はすっと目をあける。少しのあいだ天井をみつめる。おもむろに起きあがると薄い布団を畳み、歯を磨き、髭を整え、清掃のユニフォームに身をつつむ。車のキーと小銭とガラケーをいつものようにポケットにしまい部屋をでる。ドアをあけて空をみる。スカイツリーをみているのか。光を見ているのかはわからない。缶コーヒーを買うと手作りの掃除道具をぎっしり積んだ青い軽にのって仕事へむかう。いつもの角でカセットテープを押し込む。カーステレオから流れてくるのはThe Animals のThe House of Rising Sun。いくつもの風変わりなトイレを掃除してまわる。その日はひょっとすると声をひとつも出していないかもしれない。掃除を終えると夕方にはあのアパートに戻る。自転車に乗り換えて銭湯へゆき、いつもの地下の居酒屋でいつものメニューを頼み、そして寝落ちするまで本を読む。そしてまた竹ぼうきの音で目をさます。男の人生は木のようだった。いつも同じ場所にいて動かない。同僚のタカシのいい加減さをどうして憎めないのか。いつものホームレスの男が気になる。清掃のあいまに見つける木漏れ日が好きだ。フィルムを現像してくれるこの店はいつまであるだろうか。銭湯で出会う老人が愛おしい。古本屋の女性の的確な書評を聞くのも悪くない。日曜だけ通う居酒屋のママの呟きが気になる。今日はあいにくの雨だ。それでも予定は変えない。そんな彼の日々に思いがけない出来事が起きる。そしてそれは彼の今を小さく揺らした。」
Twitterへは「几帳面に淡々と積み重ねられるカットにムダがなく気持ちがいい。まるで主人公の日常のような映像と編集。のなかで柄本時生と三浦友和のエピソードがノイジーで調和を乱す。松居大悟、研ナオコ、柴田元幸、松金よね子、片桐はいりの声に気がつかず。」「新聞ネタにもなった有名なトイレが登場する。東京の公衆トイレはみんなあんな洒落てんのか、って思われそう。主人公の過去は分からんけど、剃らないヒゲ、が関係ありそうな・・・。向島かと思ったら押上か。桜橋渡って浅草地下街ね。」
畳敷き。空まだくらい早朝。目覚めると布団を畳み、階下に降りて歯みがきし、口ひげを切りそろえる。共同炊事場かと思ったら、1階と2階のある部屋のようだ。珍しい。で、玄関には鍵や小銭が几帳面に並び、それを手にしてドアをでる。(カギは閉めないのか? と心配だけど、自動的に閉まるシステムにでもなってるのか?) すぐ目の前にある自販機でコーヒーを買って、アパート前に停めてある(自分の軽バン? 会社から貸与? 駐車場代はどうなってんだろ? )軽バンに乗り出発。スカイツリーが見える(から向島あたりかと思ったら、HPには押上とあった)。高速に乗って都心へ。仕事場は、公園付属のトイレらしい。スケルトンガラスで締めると見えなくなるやつとか、隈研吾の木造のやつとか、超話題のトイレばかり。もっとフツーの汚いトイレも登場させろよ、と思うんだけどな。で、仲間がいるらしいんだけど、調子のいい若者タカシ(柄本時生)で、トイレ1つだけ2人で担当したかと思うと、あとは消えてしまう。どういう分担になっているのか? 映画的演出だな。公園には色んな人がいる。トイレで隠れん坊の学童、舞踏するホームレス、清掃中でも入ってくる人たち・・・。あれ、女子トイレも男が清掃するのか? 午後、何時頃か、終わると銭湯で汚れを落とし(あの電気湯は京島だよな)、自転車で浅草・東武百貨店からつながる地下街の居酒屋で酎ハイ。戻ってきて読書し、自然に眠くなっていく・・・。という日常を、判を押したようにつづける。翌日も、また翌日も。その繰り返しの映像が、ほぼ同じような感じに撮られ、繰り返されるんだけど、飽きない。平山はほとんどしゃべらず、いつもニコニコしている。過剰な欲もなく、不満もない。そんな日常の連続を、テンポ良く、余計な説明はないけど、短いカットでもはっきり分かる演出でカチッと撮られていることが気持ちよい。
というなかで、ガチャガチャうるさいのがタカシで。静謐な映画の中でムダな雑音にしか感じられない。仕事後に金髪彼女を呼んで、「今日が勝負だから」といつもはバイクなのに平山のクルマを借りて移動するんだけど、おいおい、狭いバンに3人で乗って、バイクは置いてきぼりかよ。早山のカセットに目をつけ、下北の中古レコード店に連れて行くと高値で買い取るという。でも平山は断り、なけなしの金を貸す。うーん。だったら下北まで行くなよ、って話だけど。そのうちタカシは勝手に辞めてしまい、告げられた日は2人分の仕事をこなさなくてはならなくなり、ヘトヘト。まあ、典型的ないまどきの青年を登場させたつもりだろうけど、どうせ出すならこっちも無口なやつが良かったな。池松壮亮みたいな感じの。
とくにドラマはなくて、変わらない日常の中に登場する人々と、変わらない日常を少し乱す人々がときどき登場し、話は進んでいく。変わらないのは、近所で竹箒で掃除するおばさん、公園で舞踏するホームレス(田中泯!)、昼飯を食べる神社の神主、弁当を食べる陰気なOL、銭湯の人々、浅草・居酒屋の兄ちゃん(甲本雅裕を贅沢に使ってる)、古本屋の店番のオバチャン、写真屋の無口な店主、スナックのママと常連客などなど、みな口数が少ない。これがいい。
いっぽうで乱すのは、同僚のタカシで、彼女がどうしたカセットが高く売れる、スマホ見てばかり、の果てに電話で「やめます」といってくる。存在もうざいが、映画的にもノイズでしかない。突然やってくる姪のニコは、映画のトーンに合っている感じで、それは余計なことを言わないこともあるし、平山の過去を垣間見せてくれるからなのかも。読書好きで、落ち着いているからなのかも。家出してきたのを放っておく訳にもいかず、母親(平山の妹、か)に連絡すると、夜、運転手付きのクルマでやってくるから金持ちなんだろう。ニコ曰く「伯父さんは、私たちと住む世界が違うってお母さんが言ってた」と。まあ、15、6歳の娘が家出先に10年ぶりに会う伯父を選ぶとは常識的に思えないけど、まあ、映画的展開で許しておこう。ニコは平山についてきてトイレ掃除を手伝ったり、一緒に銭湯に行ったり、浅草まで食事に行ったりするんだけど、はたして何を食べたのか。気になるけど、そこは描かれていなかった。途中、桜橋から隅田川をさして「海につづいてるの?」「ああ」「川下りしよ」「ああ、いつか」「いましたい」「いつか」「いつかって?」「いつかはいつか」みたいな会話があって、ニコが「いつかはいつか、今日は今日」といいながら自転車を駆るのがいい場面。でのちに、迎えに来たニコの母親は冷静で、でも平山と対立関係にあるわけでもなく。ニコは平山に軽く抱擁した後、素直にクルマに乗る。平山も、ニコの母親とハグ(というのは、日本的な常識からは違和感あるけどね)。そういえば、認知症の父親にたまには会いに行って、といっていたっけ。
で、想像するに。口ひげは何らかの抵抗の意識の表現だと思うのだけれど、まず浮かぶのはかつての学生運動の活動家。なんだけど、役所広司の実年齢からいうと、団塊の世代ではないので何年か遅れてる。とはいえ、高校生ぐらいで体験したと考えても不思議ではないかも。実家は資産家あるいは大企業の重役かなんかで、それにも反抗して。大学は入ったけどドロップアウトし、まともな定職に就かず日雇いとか転々とし、トイレ掃除が天職のようになった、とか。モノにこだわらず、というか、もたない。のは、いつでも逃げられる、というむかしの癖が身についているのか。ネットとかスマホとか新しいモノにはこだわらず、というか、自分を世間に晒さないような習慣が身についている、とか。でも、別に指名手配されてるわけでもないのでフツーの労働者として地道に、その日暮らしをつづけている。気になるのは5年前から通うスナックのママで、多少気はあるけど誘う気にもなれず、ただ周辺で見守るだけ、な人生なのかなと。あくまで推測。
で、ある日コインランドリーに行くとそのスナックのママのところに見知らぬ男(三浦友和)がやってきて、チラと覗くと抱きあっていて。さっと逃げだし、桜橋の下でヤケ煙草。してたらくだんの男がやってきて「見てましたか。元夫なんです。ガンでね。」という展開は、いろいろ違和感ありすぎ。店を覗いたのは夕方なのに、ヤケ煙草では日が落ちいてる。覗かれた男は、平山を認めてずっと追ってきたのか? と、考えると、それはあり得ないだろ、と思えてしまう。さらに、別れた(別れた理由がわからんが)夫が元妻に会いたくなってやってきて、ガンで余命がないからって抱擁までするかね。さらに、男は「彼女をよろしくお願いします」といい、さらに「影は重なっても濃くならないのはなぜか」なんてアホなことをいい、あげく大の大人が2人で影踏みを始める。アホか。この映画のトーンとしてはズレ過ぎてて、なんかなあ、としか思えない。
てなわけで、柄本時生と三浦友和はジャマ。これを外すと、全体の流れはよくなると思う。姪のニコはトーンが外れてない。タカシが狙ってる金髪彼女は、カセットに興味を示したりする程度なので、うるさくない。
音楽は、最初に「朝日の当たる家」つぎに「ドック・オブ・ベイ」で、以後、日本の曲とか知らない曲。「Perfect Day」も楽曲のタイトルなんだな。知らんけど。「朝日の当たる家」は、スナックのママ(石川さゆり)が日本語でも歌ってたな。こだわりあるのか、監督。
平山が読んでるのは、最初は「11の物語」? 知らん。幸田文の「木」、読んでない。パトリシア・ハイスミス(読んだことない)の名前。こういうのが好きなのか。
平山は昭和のアナログ世界に住んでいるのか。コンパクトカメラで神社の樹木の木洩れ日を撮り、プリントで溜めている。押し入れは、その写真で埋まってる。なんなんだ? そういえばラスト、クレジットの前に、Komorebiの説明が出てくる。日本語にしかないのか。でも、わざわざ説明するぐらいだから、意味があるのだろう。でも、よく分からない。
・平山が共用トイレを掃除してるときやってきて、覗いて、何か言ってつっと帰っていく子供がいたけど、なんて言ったんだ?
・かくれんぼか、いじめられて隠れてたのか、な少年の手を引いて共用トイレから出ると、探していた母親がやってきて、ウェットタオルで少年の手を拭く場面は、なんかやり過ぎな感じ。洗わせればいいじゃん。
レネットとミラベル 四つの冒険2/12シネマ ブルースタジオ監督/エリック・ロメール脚本/エリック・ロメール
1989年公開のフランス映画。原題は“4 aventures de Reinette et Mirabelle”。
Twitterへは「民俗学を学ぶ女子大生と画家志望の娘が主人公となる、4話からなる連作。性格も物事の見方も違うけれど仲好しの2人。各話が小咄のような感じで、ユーモアとウィットにアイロニーに満ちてて面白かった。」
4話からなる連作で、主人公はいずれもレネットとミラベルという若い女性。別荘地でたまたま知り合って、パリで同居して、あれやこれやな感じ。オムニバス、と紹介してるところが多いけど、主人公の2人は同じだし、設定も同じ。ただ出くわすドラマが違うんだから、連作なんじゃないのかな?
「青い時間」
両親と別荘に来ていた大学生のミラベルは、自転車がパンク。それを地元の娘レネットに直してもらい友人に。その夜、ミラベルはレネットが1人で住む家に泊まるんだが、レネット曰く、夜明けの5分間の青い光の時間がいい。てなわけで早朝起き出し、カエルの声とか聞いてたら、トラックの音が混じってきてレネットは落ち込んでしまう。その後も2人は近所の農園で牛や馬とふれ合い、イチゴを摘んだり。レネットは高校を卒業後、大学に入る意味が見つけられず、独学で絵を描いていて。でも、パリで本格的に学ぼうと思っている。それを聞いたミラベルは、だったらちょうど同居人が出ていったことだし、一緒に住もうよ。てなわけで、こんどはミラベルが早朝に起き出し、それに気づいたレネットも起きだして、青い時間を感じる、という話。ミラベルは民俗学を専攻していて、知的で落ち着いてる感じ。レネットは劇場型というか、感情で生きてるような感じかな。
「カフェのボーイ」
すでに同居を始めていて。ある通りで待ちあわせ。でも、田舎者のレネットは人に聞いたりしてうろうろ。ある男に聞くと「こっちだ」というんだけど、そのやりとりを聞いていた別の男が「こっちから行った方がいい。墓場を抜ければ過ぐだ」「墓場を通るなんて」と面倒くさいことに。なんとかたどり着いたのかカフェの路上のテーブルに。ボーイに代金を要求されるけど、200フラン札しかない。ボーイは「釣りがない」の一点張りで、でも「飲み逃げするなよ」と面倒くさいことをいい、いろいろ意地悪も。しばらくしてミラベル到着。でも、彼女も500フラン札しかない。ボーイは「釣りはない。でも逃げるなよ」と相変わらず。このボーイ、どうするつもりなのか。変なやつ。なのでミラベルは「逃げよう」といい、引きずられるようにレネットも帰ってしまう。憤るボーイ。ミラベルは、たいしたことない、な感じなんだけど、律儀なレネットは翌日小銭を持って件のカフェへいき、支払いを済ます。昨日のボーイはいなくて、別の店員に「あれはバイト」と言われてしまう。
「物乞い 窃盗常習犯 女詐欺師」
乞食に小銭を与えるのは、毎日の暮らしに支障のない私たちなら当然だ、と主張するレネット。それに影響されたのか、ミラベルも恵むようになる。そのミラベルがスーパーで万引きを目撃。万引き犯の女は袋に盗品を隠し、それはレジに通さずに出ようとする。万引き犯が監視員に目をつけられているのを知っていたミラベルは、盗品の入った袋をひっつかんで店を出る。監視員は万引き犯を捕獲するが、盗品はもっていない。なので解放され、車で帰ろうとする。万引き犯に盗品の入った袋を渡そうとするも、車道の向こう側で渡れず、さのまま持ち帰ってしまうミラベル。この事情をレネットに話すと、レネットは「監視に捕まるべきだった。万引きは悪事だから」という主張。ミラベルは「この程度で捕まるのは気の毒」な感じで延々平行線の会話をつづけるんだけど、折り合いは付かず。で、別の日。レネットは駅で電車賃を貸してくれ女に小銭を恵んでやる。しかしこの女は貸してくれ、の常習犯。で、小銭を恵んでしまったレネットが電車に乗り遅れ、電話しようとするが小銭がない。いろんな人に頼むけど無視されて、例の貸してくれ女に遭遇。また別の人に貸してくれ、をやっている。なのでレネットが意見し、返せ、というと「私は貧乏。もらったものはもらったもの。帰さない」と話は行き違い。でも、最後は電話代ぐらいは取り返す、という話。
「絵の売買」
レネットは、部屋代の負担分が払えそうもない。なので、田舎に帰ろうか、と思い始める。バイトもいくつかしたようだけど、合わない様子。それにしてもレネットは口数が多く、言い訳もしゃべり過ぎ。というわけで、ミラベルは「しゃべらないようにしたら」てなことをいったり。てなことをしていて思いついたのが、ある画廊のこと。自分の絵を褒めてくれた。連絡して、相談して見よう。ミラベルも一緒に行くことにして、でも、一緒に行くのではなく他人のフリをして行くことに。で、なぜか知らんがレミットは聾唖である、という設定で画廊に行き、写真に撮った作品群と、油彩の現物1点をもって行く。画廊主は、2000フランは出せない。だせるとしたら200フラン。と言われてしまうのを、客として近くにいたミラベルが助け船で。「彼女は耳が聞こえないししゃべれない。気の毒な娘なんだ」とかなんとか口八丁でいうと、なんと2000フランで絵を買ってくれた。2人が帰ったあと、画廊に中年の女性客がやってきて絵を見ていたんだがレネットのを絵を見て「これも売り物?」と聞いたら、すかさず画廊主は「4000フラン」というところで映画は終わる。
なかなか洒落た展開の小咄みたいな話がいくつか展開され、面白かった。意見や考え方が違っても喧嘩せず、ずっと同居できている2人も、なかなかいい感じ。
※この映画の原案はレネット役のジョエル・ミケルがロメールに語った体験談がもとになっているらしい。登場する絵も、彼女自身が描いたものらしい。その後、小説も発表するなど、才女だったのね。と、ブルースタジオのパネルに書いてあった。
瞳をとじて2/15ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ヴィクトル・エリセ脚本/ヴィクトル・エリセ、ミシェル・ガスタンビデ
スペイン映画。原題は“Cerrar los ojos”。公式HPのあらすじは「映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」」
Twitterへは「何かと話題の映画だけど30分ほど瞳をとじてしまったよ。ありきたりの設定、ムダに長い169分。1.5倍速がちょうどいい。そもそも探す努力もしてないし。そもそも当代の人気俳優が記憶喪失ふらついて人と出会っても誰も気がつかないのが変すぎ。」「いやこれは筋を追う映画ではないよ、とかいわれそうだけど。とくに深みはないだろ。せいぜいセルロイドフィルムに対する郷愁ぐらいなもんだ。それ言うために陳腐な話を見せていく必要なんか、ないだろ。というわけで見どころは高齢者施設のちょっと可愛い看護師のオバサン。」
「傑作」「震える」「凄い」「お見事」「奇跡」などなどSNSでの賛辞が続々だけど、こちらは、疲労と低気圧の影響もあったとは思うんだけど、30分ばかり気を失ってしまっていたのだよね。でまあ、思うに、こうした礼賛は『ミツバチのささやき』でエリセ信者になった方々の妄言なんじゃないの? なんだよね。でも、映画っていうのはそれ自体で面白く魅力的じゃないと意味がないんじゃないの? 過去作を見ていないと良さが分からない、じゃしょうがないだろ。もちろん、過去の映画を引きずる何かや、監督本人の生き方なんかが映画に反映され、より映画に深みを増すことは当然あるだろう。でも、新作そのものが面白くなければ、新たな観客にはちんぷんかんぷんなわけで、そんな映画はたいした映画ではない、のだと思う。都合のいいことに、私は『ミツバチのささやき』を見ていない。だからもちろん信者ではない。客観的に新作が見られるし、評価できるのだよ。で、その視点から見たら、この新作『瞳をとじて』はありきたりの話を長々とやってるだけの冗長なもので、退屈以外の何物でもないのだよね。
フツーにこの映画を見たら、突然失踪した昔なじみの戦友の行方を捜す話、と要約できる。そんな話はゴマンとあって、でしなにか仕掛けがあるかというと、そんなことはない。ミゲルは元映画監督で、失踪したフリオは人気役者。という設定にも、裏には何の因果も深みもない。水兵仲間だった2人がどういう人生を送り、なぜ監督と役者になったのか、も説明されない。
フリオの失踪は1947年で、22年前。ということは、この映画の現在は1969年という設定か。もうミゲルも忘れていただろう。というところで、テレビ番組がフリオの失踪をテーマにした番組をつくることになり、失踪当時、監督としてフリオ出演の映画を撮っていたミゲルに連絡があった、ということらしい。ミゲルは出演料目当てで事前に録画収録する。別に目新しいこともないので、本人もオンエアはあえて見ない、というぐらいのことらしい。
しかし、22年前に失踪した役者にターゲットした番組をつくると言うことは、いまなお忘れられていない大物、ってことだよな。でも、おいおい分かるんだけど、フリオは記憶喪失で街を彷徨い、漁師になって世界をまわり、さらにうろついている頃を高齢者施設に収容され、数年経っている、というのが現在の状況である。こんな大物役者が失踪後、どういう関係で漁船に乗ったのかは知らないけど、だれも「あ、この人、失踪したというあの俳優じゃないの?」と気がつかないというのは、異様すぎて話に入れない。
それはさておき、番組放映後、ある高齢者施設の介護士の女性からテレビ局に「この人なら施設にいて、毎日、顔を合わせている」という連絡が、当人の写真付きで入る。のだけれど、テレビ局のプロデューサーは真偽を確かめようともしない。その代わり、こういう連絡が視聴者から来ましたよ、とミゲルに連絡しただけ、って、これまた異様すぎるだろ。フツー、後追い取材でテレビ局も調査ぐらいはするだろ。
ミゲルはいまは監督業はしてなくて、いくつか小説は書いたけれど、いまは農業と漁師をしているらしい。これは、この映画の監督のヴィクトル・エリセとかぶるのかな? 知らんけど。で、旧友なので気になって高齢者施設に行くと、それはまごうことなくフリオで。『別れのまなざし』でつかった小道具の写真をもっていた。でも、まったく何も憶えていないただの爺さんになっていて、施設の用務員のような仕事をしている。それでミゲルはしばらく施設に滞在することにして、フリオと話をするようになる。もちろん、昔のことはまったく憶えていない。ついでに、フリオの娘も呼んで会ってもらうが、記憶が蘇ることはない。
施設のマザーが、フリオと出会ったときにもっていたというブリキ缶を見せてくれて、中には『別れのまなざし』で使ったチェスの駒、日本のマッチなども入っていた。ただし、これをフリオに返していないのは疑問だったけど。
さて、ミゲルは一計を案じ、旧友の撮影技師(なのか? むかしのフィルムを保管してる爺さん)に連絡し、最後に撮った『別れのまなざし』のフィルムをもってきてもらい、街の、閉館して間もない映画館で上映することにする。集まったのは、ミゲル、フリオ、フリオの娘、施設のマザー、連絡してきた介護士、撮影技師が映写機を動かした。あともう1人いたっけかな。マザーの部下? 
映画は未完成だったのかと思ったらラストシーンまで撮ってあって。なんだ。一応完成はしていたのか。一般公開はしたのかな? 「主演俳優が失踪!」とか広報すれば客は入ったろうに。
で、最後は画面を見つめるフリオのアップで映画は終わった、んだったか。もちろんフリオが何か思い出したかどうかは分からないまま、だけどね。
というわけで、だからどうしたな、ありふれた話でしかない。失踪した旧友を探す探偵もののような部分もある、とか紹介しているのもあったけど、そんなものはない。ミゲルは自分から探しだそう、なんてこれっぽっちも思ってなかったはずだ。施設の介護士が連絡してきたから、好奇心で出かけてみた、程度。そもそも2人のつきあいがどれぐらいだったのか分からんし、もしかしてフリオの記憶が蘇ったとして、隠されていた何かが判明するような背景もない。こんな話をありがたがる人の期が知れない。
ところで、この映画の冒頭は、老人が中国人に産ませた娘を、ある男に探してもらうよう依頼し、直後に亡くなってしまうんだっけかな。その男は探偵じゃなくて(職業は何だっけ?)、最初は固辞するんだけど引き受ける、という話で。その男が屋敷をでていくところで、交わされる会話が、あれ、何だ? というようなズレを生じさせるのだった。で、しばらくして分かったのは、冒頭から男が屋敷を出て行くまでの部分は、『別れのまなざし』という映画の冒頭部分そのままだった、という仕掛けのようなことがされている。けれど、『別れのまなざし』と、この映画の内容はとくにかぶることはなく、せいぜいが“人捜しをする”程度なのだった。なんだよ、それ。
ゴールデンカムイ2/19109シネマズ木場シアター4監督/久保茂昭脚本/黒岩勉
allcinemaのあらすじは「日露戦争においてもっとも過酷な戦場となった二〇三高地をはじめ、その鬼神のごとき戦いぶりに「不死身の杉元」と異名を付けられた元軍人・杉元佐一は、ある目的のために大金を手に入れるべく、北海道で砂金採りに明け暮れていた。 そこで杉元は、アイヌ民族から強奪された莫大な金塊の存在を知る。金塊を奪った男「のっぺら坊」は、捕まる直前に金塊をとある場所に隠し、そのありかを記した刺青を24人の囚人の身体に彫り、彼らを脱獄させた。囚人の刺青は全員で一つの暗号になるという。そんな折、野生のヒグマの襲撃を受けた杉元を、ひとりのアイヌの少女が救う。「アシリパ」という名の少女は、金塊を奪った男に父親を殺されていた。金塊を追う杉元と、父の仇を討ちたいアシリパは、行動を共にすることに。同じく金塊を狙うのは、大日本帝国陸軍「第七師団」の鶴見篤四郎中尉。日露戦争で命を懸けて戦いながらも報われなかった師団員のため、北海道征服を目論んでおり、金塊をその軍資金代わりに必要としていた。そして、もう一人、戊辰戦争で戦死したとされていた新撰組の「鬼の副長」こと土方歳三が脱獄囚の中におり、かつての盟友・永倉新八と合流し、自らの野望実現のため、金塊を追い求めていた。」
Twitterへは「なにかと題名は耳にするけどマンガもアニメも見たことないので映画でさらおうか、と。なんかゴチャゴチャしてて何が何やら、な感じ。黄金と刺青という串はあるにはあるけど、人物紹介みたいな登場の仕方でドラマがない。ツッコミどころも満載。」「白鳥由栄をモデルにしたのだろう脱獄王役の矢本悠馬という役者が印象に残ったよ。」
いきなり二〇三高地の激戦でどうなるかと思ったら、北海道で砂金取りかよ。で、ここで出くわすのが同じ目的の男で、彼からアイヌを殺して黄金を盗んだ男が刑務所に収監され、その隠し場所を外部の誰かに伝えるため、同じ囚人たちに刺青をしたという。囚人たちはあるとき集団脱走した、という話をする。はあ? 初対面の男にそんなことをべらべら話すか? 結局、その男は熊に内臓を喰われ死ぬのだけれど、服を脱がせたら上半身に刺青が。男も、脱走犯の1人だったということらしいが、なおさらそんな男が秘密を話すというのがバカっぽい。
そもそも大量の金をその男=のっぺら坊、がどうやって金を見つけ奪い隠したのか? ひとりでできるのか? その隠し場所を誰に伝えようとしたのか? 囚人たちは、隠し場所を暗号として刺青することを了承したのか? そんな話を聞いたら囚人みんなでのっぺら坊を拷問して金の在りかを聞き出し、それこそ集団脱走して見つけ出して山分け、のほうがいいだろうに。
杉元はクマに襲われそうになり、そこをアシリパという娘に助けられるのだが、アシリパは軍服姿の杉元をなぜ助けたの? 和人は蝦夷を開拓するためアイヌを追いだしたわけで、恨みこそあれ助ける理由はないと思うんだが。なのに、軍服姿の杉本と、アイヌの伝統的衣装のアシリパは、以後、行動を共にする。なんか、意味不明だな。
さらにアシリパは、熊に喰われた男の刺青を見て、切り裂いて皮にすることを前提に彫られていると指摘する。そんな刺青をよくも囚人たちは彫らせたものだ。意味不明。
ところで、杉元はなんで軍服姿のままなんだ? 後に、満期除隊したとかいってたけど、だったら平服でいいだろ。しかも銃も所持している。いいの、それ?
で、2人は囚人狩りとか始めて、簡単に2人捕まえてしまう。はあ? ご都合主義もいいところ。アシリパは人を殺したくないと2人の刺青を模写するんだが、それで済むなら皮を剥ぐ必要はないよなあ。いろいろいい加減。
その後は第七師団の鶴見中尉とか、金塊を狙うライバルも出てくるんだけど、キャラがざつなんだよな。いちいち名前が大書されてでてくるんだけど、さっさと死んでしまったり、大して活躍しなかったり。後半の方で鶴見中尉は北海道に独立国をつくるんだとか妄想をいっていたけど、アイヌの金塊は最初の頃の額より何倍にも膨れあがってる。そんな金を、のっぺら坊はどこにどうやって隠したんだよ! とまあ、意味不明。第七師団の兵隊たちも、いろいろでてきてアクションするけど、何を考えてるのかわからんやつばかりで、いまいちバカっぽい。
後半になると、集団脱獄を指示したのは服役囚の大物の土方歳三なんて話になって。それはいいんだけど、じゃあ土方の身体にも刺青があるのか? なんか間尺に合わないな。
さらに、杉本の過去がいきなり描かれる。なんと田舎に幼なじみの娘・梅子がいて、相思相愛。なれど杉元の家から肺病患者を出したせいで相手方の家族からつきあいを禁じられ、家を焼いて出奔。戻ってみると娘は、幼なじみの寅次と結婚していた。この寅次は二〇三高地で杉元を庇って爆死。その遺骨をもってもどると、梅子は眼病になっていた、という、陳腐な展開。肺病が出たら、相思相愛の娘でも近づいては来ないだろ。はいいとして、どういう眼病なんだよ。で、その手術代を捻出するため、冒頭の如く砂金を探していた、らしい。そこにアイヌの金塊の話をきいて、よっしゃ、となったんだと。おいおい。金塊をアイヌに返すため、とかいう大義はないんかい。いや、眼病の手術代に、ばく大な金は要らんだろ。とかツッコミどころ満載だ。
これでは、いくらノンストップアクションが次から次に展開されても、はあ? な感じでまったく乗れない。
で、映像がつづくなかクレジットロールがせり上がってくるんだけど、木場勝己や舘ひろしの名前がある。木場勝己、いたっけ? と思ったら、ロールの後に永倉新八の役ででてきた。舘ひろしは土方だったのか。加えて、次回予告みたいな映像も流れてきて、そこで活躍するらしいキャラが何人がぱっぱっ出てきて。なんか、あらっぽい人物紹介だな。次作があるなら、『ゴールデンカムイ パート1』とかすりゃあいいのに。
というわけで、アイヌを描いたという割りに、アイヌの恨み骨髄は描かれず、次回からのお楽しみ、なのか? なんか、129分かけて大雑把な登場人物紹介をしてる感じで、奥行きがないなあ。
一月の声に歓びを刻め2/21テアトル新宿監督/三島有紀子脚本/三島有紀子
公式HPのあらすじは
「北海道・洞爺湖。お正月を迎え、一人暮らしのマキの家に家族が集まった。マキが丁寧に作った御節料理を囲んだ一家団欒のひとときに、そこはかとなく喪失の気が漂う。マキはかつて次女のれいこを亡くしていたのだった。それ以降女性として生きてきた“父”のマキを、長女の美砂子は完全には受け入れていない。家族が帰り静まり返ると、マキの忘れ難い過去の記憶が蘇りはじめる
東京・八丈島。大昔に罪人が流されたという島に暮らす牛飼いの誠。妊娠した娘の海が、5年ぶりに帰省した。誠はかつて交通事故で妻を亡くしていた。海の結婚さえ知らずにいた誠は、何も話そうとしない海に心中穏やかでない。海のいない部屋に入った誠は、そこで手紙に同封された離婚届を発見してしまう。
大阪・堂島。れいこはほんの数日前まで電話で話していた元恋人の葬儀に駆け付けるため、故郷を訪れた。茫然自失のまま歩いていると、橋から飛び降り自殺しようとする女性と出くわす。そのとき「トト・モレッティ」というレンタル彼氏をしている男がれいこに声をかけた。過去のトラウマから誰にも触れることができなかったれいこは、そんな自分を変えるため、その男と一晩過ごすことを決意する。
やがてそれぞれの声なき声が呼応し、交錯していく」
Twitterへは「3話とも暗いオムニバス。いろいろムダに力が入りすぎかね。セリフも映像も直截的すぎて息が詰まるし、何を言いたいのか伝わってこないところが多すぎ。聞き取りにくいセリフも多かったし。なんか、意欲の空回りな気がするね。」
3つのパートに第1章、第2章…で、最終章まであるんだけど、3つの話に因果関係はない。こんなん章立てする必要はないだろ。最終章は、第1章と第3章の、その後、を短く見せるだけ。でも第2章のその後はないのは何でなんだよ。とか、細かなところに神経が行き届いてない感じだな。
●最初の舞台は洞爺湖。
曇天の重苦しい空が息苦しい。性転換して女になったババアの話。毎年恒例なのか正月に娘一家がやってきて、マキがつくったおせちを食べ、でも泊まることもなくホテルに向かってしまう。ひとり残されたマキは、残されたおせちの黒豆、数の子、キントンなどを箸でつまんでぶつぶつ。ののち、舞踏するような動きになっていく。はあ? 不気味。ここで示唆されるのは、おせちのときに用意されてる陰膳で。それは、娘の「れいこが死んで何年になる?」と、幼女が水死体でどうのというニュースだったかなんだったか。性犯罪の犠牲になったのか。とはいえ、ずーっと陰膳してるというのも、怨念が充満している感じで不気味。↑で娘が性転換した父親を受け入れていない云々あるけど、そんな感じはとくに見えない。50過ぎた娘が外見がオバサンになっているマキを「お父さん」と呼んでも不思議ではないだろ。それに、毎年、帰省してるんだし。いい関係としか見えない。
という話に、父親が性転換して女になったという話が取って付けたように存在する。なんか意味あるの? っていうか、洞爺湖畔が故郷だとして、別荘みたいで、豪華な家に住んでいられるマキの過去は何だったんだ? と、思ってしまうよね。当然、奥さんと別れてか死別後に性転換したんだろうと思うけど、となるとそんな昔じゃないのかな。水商売とは無関係? 好きな男はいてつき合ったりしたのか? 隣近所の周囲の目はどうかいくぐったのか? 娘が結婚したときは男姿だったのか、性転換してたのか? 娘の亭主や、孫娘はどう思っているのか? とか、その点での興味は尽きない。
・娘の亭主が浮気相手と電話してる場面は、どういう意味があるんだ?
・娘が、「来年からもう来ない」と決別宣言したのは、どういう意味があるんだ? 
とか、なんか、話がバラバラでひとつに収斂して行っていない感じがしてならんよ。そういえば、セリフがよく聞こえなかったので、内容がちゃんと理解できないところもあったかも。
●次の舞台は八丈島。
終わってみれは、コメディかよ、な話だった。娘が5年ぶりに帰省したら腹ぼてで。聞いてもまともに答えない。少し前に娘宛の手紙が来ていて、読んだ後、娘は放り出していた。中を見たら、離婚届。しかも相手は、気持ちを聞きにフェリーで向かう、とある。怒り心頭に発した父親は、舎弟分を引き連れ、鉄パイプとフォークを持って軽トラで波止場に向かう。同じく自転車で波止場に向かう腹ぼて娘と遭遇し、話を聞いたらなんのこと。結婚を申し込まれたけど自信がないので断ったら、いつ離婚されてもいいからと離婚届を送りつけてきた、という。こんなコントみたいな話を、これでもか、な感じで暗く陰鬱なトーンで撮る理由が分からない。
父親は娘に「妊娠か?」「妊娠か?」と直接的な言葉で質問する。セリフも直接的なら、映像も直接的なのが多くてうっとうしい。八丈島では哀しいとき太鼓を鳴らすとか、唐突にかつての妻の交通事故死の現場を何度もリフレインして見せたり。なんの意味があるんだ。映像で感じさせ、つたえる技術がないのか、この監督は。
で、娘から経緯を聞かされて、せいぜい「相手は少年院上がりだろ」とかいってたっけかな。そのぐらいしか言えんのか、この父親は。
・要は父親の早とちり。娘の離婚ぐらいで鉄パイプ持って相手を脅しに行くか? バカだろ。幼いときから知っているらしい舎弟分も一緒に行ったりして、バカだろこっちも。
・プロポーズしてきた相手は少年院でてる? ってことは、もとの島民なのか? そもそも、プロポーズされてためらう娘の心が意味不明。なににこだわってるのか? セックスして子供も堕ろさずにいるのに。
・波止場で、観光客の家族が「お父さん、煙草はダメって言ってるでしょ」とか娘にいわれ、その煙草を偶然もらった父親。なんと、火をつけて吸い出すんだけど、おまえいつもライターもってるのか? 舎弟分なんて、10年ぶりの煙草といってたけど…。
・軽トラと自転車の娘が遭遇し、なんと、こんどは娘の運転で波止場に行くんだけど。荷台に父親と舎弟が並んで乗っている。助手席が空いてるだろうに、なんで父親は助手席に座らんの?
・父親役は哀川翔なんだけど、メガネがふだんと同じ印象で。ツルのアクセントがオシャレすぎ。牛を飼ってるオヤジがあんな洒落たメガネかけるかいな。違和感ありすぎ。
●最後の舞台は大阪・堂島。このパートだけモノクロ。の、意味はあるのか?
まずはフェリー(四国あたりから駆け付けたのか?)からなかなか降りようとせず海を見つめる れいこ。向かった先は斎場で、何人かから声をかけられ、母とも出会う。葬儀後、母と喫茶店。なんだけど、相対で座らず別席に離れて座って会話する関係が意味不明。で、亡くなったのは れいこの元彼で、耳を疑ったのはコロナ死らしいこと。は? それはさらりだったけど。で、思い出の小冊子みたいのがあって、中に「グリコ勤務」(と、見えた)、「好きな映画は『息子の部屋』ナンニ・モレッティとかあるのが異様な感じ。息子が好きな映画を家族が知ってるって、変すぎだろ。
斎場で、れいこは何人かから声をかけられ、でも無視するんだけど。どういう関係なんだ? 元彼の死にやってくる会葬者は、亡くなった元彼のご近所さん? れいことつき合ってたのも知ってるの? れいこの母親は、出席する義理はあるのか? 家族ぐるみでつき合ってた? とかね。テキトー過ぎないか、会葬者について。
母親はカフェでパフェかなんか頼んで、でも若い彼氏がやってきたので、ひと口ぐらいで出て行ってしまう。あー、そういうの、あり得ないな。全部食べるだろ、せっかく注文したもの。600円以上するだろ。もったいない。としか思えんのだよ。つまらんことだけど気になるのだ。
その後、街を歩いていると自殺志願の女性が橋から飛び降りようとして止められるのを目撃するんだけど、止めてるのは通りがかりの人なのか? あるいは病院のスタッフだったりするのか、よく分からん。でも、この自殺志願の女性の意味が不明。なにをつたえんとしているのか?
で、橋の下を歩いていると、ってか、なんで橋の下を歩いているのか、意味不明なんだが、トト・モレッティというレンタル彼氏に声をかけられ、「セックス上手い?」と聞いて、ラブホテルに行く。これは、おいおい分かるけど、れいこは過去にペドフィリアに暴行されている過去があって、死んだ元彼ともセックスはしていなくて、それは自分が汚れているような感覚があるかららしくて。元彼の死をきっかけにバージンを捨てようと思った、ような感じだ。で、相手の選択にあたっては、後に「あんたみたいなつまらない男だからできた」と面と向かって言っている。つまらない男になら、触れられても抵抗がなかった? 意味不明だ。なんだかなあ、な話の展開で、ちっともなるほど感がない。
元彼が好きだった映画『息子の部屋』の監督がナンニ・モレッティで、レンタル彼氏の名前がトト・モレッティってのは単なる偶然だろうけど、何を意図して関連づけたのか、意味不明。『息子の部屋』のあらすじを少し読んだけど、まったく分からない。トトは、何から取ってたんだっけかな。忘れた。
で、行為の後、レンタル彼氏は 礼子の顔をスケッチしつづけるんだよね。レンタル彼氏はもともと漫画家になりたくて? だったか、でも叶わず、でも、スケッチすることだけはつづけているとかいってたっけかな。だからなんなんだ。
ラブホから出て歩きながらも、スケッチをつづける。それに怒って、れいこは過去に暴行されたことを告白し、そのとき咲いていたなんとかいう花が男の唇に見えてどうたらといい、その花が空き地に咲いているので、がむしゃらにむしり始める。ああ、花が可哀想、としか思えない場面だった。その様子を見たレンタル彼氏は、むしられた花を集め、スケッチ帳を破って花の上にかぶせ、ライターで火をつける。のだけど、ここでも、都合よくライターをもってるもんだよなあ、と思ったんだよなあ。ラブホで煙草は吸ってなかったよなあ? 吸ってたっけ? それに、生の花は、燃えないだろ、としか思えない行為だった。まあ、象徴的な行為だ、と言われそうだけど。
・ペドフィリアにされたのは、ムリやりのキスと、唾液を飲まされたこと、パンツを下ろされ、あそこにも同じこと(キス?)されるかと思ったら、近くにあったスコップで男の顔を刺していた、と 礼子は語っていた。ってことは、性交はなかったということなのか? それで、ここまでのトラウマが? という疑問。さらに、スコップで顔を刺された男はどうなったんだろう? が、気になった。
・ラブホの窓を開けてベランダに出たりしてるんだけど、ラブホでそんなつくりになってるとこなんて、ないだろ。
●最終章
・マキ
未だ埋葬していない娘の遺骨をもって洞爺湖を渡り(遊覧船? 対岸に行ったのか? 位置関係や目的地が分からんよ)、雪の中を歩いて湖畔に突っ伏すんだけど、意味、分からん。もしかして、娘が亡くなっていた場所に行ったのか? 娘を殺された親の気持ちは私には分からない。のだけれど、40年以上も遺骨を埋葬せず、日々、過去に縛られつづけてるものなのか。
・れいこ
歩道を歩きながら、「気になる人がいれば 花を贈ればいいさ」とか歌っている。花をむしり取っておいて、そんなことを言うのか。まあ、何の花を想定しているのか知らんけどね。そして、ブレスレット(?)を外して背後に放り投げる。元彼からもらったもの? 分からんが。
で、映画は終わる。第2章八丈島のその後がない理由は、分からない。
※公式HPの第3章の説明に「ほんの数日前まで電話で話していた元恋人」という言葉があるけど、そんなことは描かれてなかったぞ。それに、そもそも2人はなぜ別れたのか。別れてなお電話し合うのか。何を話すの? 恋人には暴行された過去は話しているのか? 元恋人が死んで茫然自失の理由はなんなの? つまらない男に抱かれて、トラウマは少し薄まったのか?
※幼女に対する暴行の被害者の名前が、洞爺湖でも大阪でも“れいこ”で、洞爺湖では、片岡礼子が“れいこ”の姉という設定は、なんなんだ?
※上映後、突然、監督登場。「いろいろあっても、最後はなんとかなるさ、の気持ちで映画をつくった」とかいうような話をしていたけど、なんのことやら理解不能。
木と市長と文化会館/または七つの偶然2/25シネマブルースタジオ監督/エリック・ロメール脚本/エリック・ロメール
原題は“L'arbre, le maire et la mediatheque”。DeepLに翻訳させたら「木と市長とメディア図書館」となった。映画.comのあらすじは「パリの南西部ヴァンデ県サン=ジュイールの市長ジュリアンは、村の原っぱに、図書館とCD・ビデオのライブラリー、野外劇場、プールを備えた総合文化センターを建設しようと考えていた。だが、この計画は周囲の賛同を得られないでいる。ジュリアンの恋人で、根っからのパリっ子である小説家のベレニスも「文化会館なんて必要かしら」と少々懐疑的。村のエコロジストの小学校教師マルクは、烈火のごとく怒る。ジュリアンにインタビューした女性ジャーナリストのブランディーヌのルポは編集長の独断で、マルクを中心としたエコロジー特集になってしまう。そんなある日、偶然にマルクの娘ゾエとジュリアンの娘ヴェガが出会って友達となり、ゾエは市長に「文化会館よりみんなが集まって楽しめる広場がいいわ」と訴える。結局、予定地の地盤が弱いことが判明し、建設は中止となった。代わりにジュリアンは広大な土地を開放し、そこは人々の憩いの広場となった。」
Twitterへは「ロメールだけどラブコメではなく行政批判や社会問題がからんで、なんかドキュメンタリーっぽかったりする。けど、フランスの政党の主義主張とかよく分からんので、ボーっとみてた。教師の娘がなかなか鋭い。」
「木と市長と文化会館」はオリジナルに即した題名だけど、「七つの偶然」は邦題でくっつけてるだけ、みたい。7章に別れてはいるけど、とくに偶然的な出来事もなく、話は進む。でも進行はのらくらで、カチッと輪郭がしっかりしてるわけじゃない。最初の方は、ジュリアンが恋人(最初は浮気相手? と思ったけど、そうではないらしい)に農村風景を案内している(と思ったら、後から分かるんだけど、あれすべて屋敷の庭だったんだな。びっくり!)様子をだらだらと。しかし、最後まで見ると分かるけど、あんな打算的な政治家に小説家のインテリ女性がくっつくもんかね。
ジュリアンは図書館やCDライブラリーの併設された施設をめざしている。田舎だからこそ必要、と主張する。恋人は、私はパリがいい。こんなところに、と否定的。駐車場の場所や止められる台数でも、なんだかんだ話が食い違ってる。でも、恋人関係は壊れないようだ。不思議。
予定地の近くに住む教師は、大切な風景がだいなしだ。あんなものができたら引っ越す、とプリプリしている。ジュリアンは、低層だし、問題ない、と自信満々。記者のブランディーヌはジュリアンや教師にインタビューするけれど、実際に記事になったのは教師の不満たらたらな意見ばかり。ジュリアンはがっかりするけど、まだまだ意欲は燃やし続けている。どうも、国政に立候補するための地ならしのようなところもあるようだ。といっても、いかにも政治家、な俗物ではないんだけどね。でも、ふだんはパリにいて、荘園屋敷のような豪邸にも住み、この街の市長になっているのかな。
でまあ、話はのらくらのらくら。どうでもいいような会話とか対話が延々とあったりして。でもまあ、ひどく退屈はしなかったんだけど。で、いちばん面白かったのは、件の市長の娘ヴェガと教師の娘ゾエが偶然にも友達になってしまって。市長の邸宅の庭にやってきて2人で仲よく遊んでる。なところにジュリアンがやってきて、君のお父さんの意見もちゃんと聞くよ、なんて言ってたら、ゾエから、あんな施設は要らない、景観が壊れる、などなど鋭い質問をされて市長はタジタジ。
で、どうなるかと思ってたら話はストーンと飛んで。施設予定地の地下を調べたら地下水が枯渇してだったか地盤がズブズブで建設は不可能、てなことになったらしい。で、市長は広大な庭園を市民に開放し、みんなでバーベキューとか楽しくやってます、てな終わり方なんだよね。
というわけで、景観問題はどっかにいってしまって、地盤問題という話のすり替えで、なんとなく話はシャンシャンで終わってしまった。もうちょい市長vs環境派の市民でバトルがあるのかと思いきや、そんなことにはならなかった。まあ、市長ジュリアンが私邸の庭を開放したのも、来る国政を睨んでの人気取りかもしれないけどね。
というわけで、エリック・ロメールにしては恋の行方がどうとか、若い娘はどうとかいう話ではなく、毛色の変わった内容だった。話もご都合主義的で、ちょっとイマイチだったかな。
落下の解剖学2/29ル・シネマ 渋谷宮下7F監督/ジュスティーヌ・トリエ脚本/ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
フランス映画。原題は“Anatomie d'une chute”。邦題がそのままだね。公式HPのあらすじは「人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが…」
Twitterへは「男はなぜ転落死したか。謎解きかと思ったら大半法廷劇で、冒頭に少しうとうと。しかし仏の法廷ではあんな感じで許可なく発言してもいいのか? はともかくありがちな展開でこれがなぜ賞レースに絡むのか分からん。ジェンダーとかLGBT扱ってるから?」
アカデミー賞候補にもなっているし、さてどんなものやら、だったんだけど。終わってみれば、よくある感じの事故? 事件? 犯人は? なソフトなミステリーで、大半は法廷でのやりとり。見始めてもあまりヒキもないし、目をつむったり開けたりしているうち、体調の具合もあったのか寝てしまい、気がついたらサンドラが保釈された、というところだった。おやまあ。逮捕されてたのか。でも、どんな理由で? だけど、それは2度見ていないので分からない。
以降は、在宅起訴され、被告=母・サンドラと、証人=息子・ダニエルが同居したまま、でも、当局から親子の過干渉というか裁判に関する相談事をしないように、というような監視役のような女性が半同居なのか通いなのか知らんけど見張っている状態で日常生活を送りつつ、法廷に通う、というようなことになっていく。のだけれど、殺人罪で在宅起訴とか、親子といえど被告と証人が同居してる状況って、珍しいよな。日本じゃないと思うんだが、こんな設定。
ここにきて初めて分かったのが、ダニエルが強度の弱視だと言うこと。いつ映画では明かされたんだろ。こっちが寝てたときかな。しかし愛犬と雪の中、わりと危険そうなところも歩いてたけど、見えることは見えるのかね。親がそういうの放置してるのが不思議。
裁判は、これまた淡々と進む。検事はいろんなことに突っ込んでくるんだけど、弁護士やサンドラの見解については「それは憶測」と排除するのに、自分は結構な憶測で突っ込んでくるのが変な感じだったな。で、ときに裁判官の許しを得ないまま検事に対してサンドラが反論したり、フツーなら許可のない発言はつつしむように、なんて言われるんじゃないのか?
あと、サンドラの弁護士が、サンドラとなあなあな感じで、旧知の間柄なのか? 変なの。
確たる証拠はないけど、検事はサンドラと夫が直前に言い争いをしていたとか、サンドラへにインタビューに来てた女性に色目を使っていただろう、とか、過去にあった女性との浮気の事実を明らかにしていくんだけど、意地悪だなあ、という印象しか受けなかったな。だからってベランダから突き落とすかね。それに墜落実験では、夫は下の納屋にぶつかってから地面に落下しているので、夫の頭部の傷はサンドラが殴ってつけたとも思えないし。ベランダで殴ったときの血液が飛び散って納屋の壁に付着した、という主張は無理くり過ぎな感じ。
それになにより、夫の小ささが気になって仕方なかったな。ドイツ生まれの自分がフランスに住み、お互いの会話は英語、ときにはフランス語も使ってお前側に合わせてるんだ、とか夫が言ってたけど。こなんだよ、愚痴かよ。妻のサンドラはベストセラー作家。夫は、書く書く、といいつつ書かない自称作家。夫のアイディアの一部を妻が小説にしたことはあるらしいけど、それを夫は「俺のアイディアを使ってるくせに」とかいってたらしい。けど、自分で作品化できないんだからしょうがないじゃないか。たぶん妻に喰わせてもらってたんだろう(教師をしているとか言ってたかな)。別に妻に対して優位性を保とうなんて思わず、主夫してればいいじゃなえか。と思ってしまう。もしかして、こういうジェンダー的なことをミステリーに持ち込んだから評価された? 
妻がレズビアンの気があった、ってーのも、いいじゃなえか、そんなこと。別に亭主の要望にも応えてくれてたんだろ? そもそも性的な関係が壊れてたんなら、離婚しちまえばいいんだ。それすらできない亭主が情けない。としか思えなかった。…もしかして、こういうLGBT的なことをミステリーに持ち込んだから評価された? 知らんけど。
てな感じでサンドラが隠していたこと、いくつかのウソも暴かれてはいくんだけど、別にそれはサンドラの心の問題であって、状況証拠にもなってないだろ。なので、法廷劇もいまいち緊迫感がない。
で、評決の結果は、無罪。なんだよ。事実が判明するんじゃないのか。もしかして息子のダニエルが犯人だったんでは? とか意外性を予測もしたけど、これまた拍子抜け。まあ、犯人当ての話ではない、というんだろうけど、やっぱりなあ。
というわけで、よくある感じの犯人未詳の事件と法廷劇でしかない。セクシャリティ、ジェンダー、LGBTQとかの要素を散りばめてはいるけど、新鮮味はひとつも感じられずだった。
法廷劇なのに、裁判官とか検事、弁護士なんかの描き方がおざなりな感じ。陪審員みたいな(でも呼び方の違うような連中)はいるようだけど、ちゃんと紹介もされず。なんとなく無実になっちゃってるのも、なんかなあ、な感じだった。

 
 

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