2024年5月

夜明けのすべて5/1テアトル新宿監督/三宅唱脚本/和田清人、三宅唱
公式HPのあらすじは「月に一度、PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢さんはある日、同僚・山添くんのとある小さな行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。だが、転職してきたばかりだというのに、やる気が無さそうに見えていた山添くんもまたパニック障害を抱えていて、様々なことをあきらめ、生きがいも気力も失っていたのだった。職場の人たちの理解に支えられながら、友達でも恋人でもないけれど、どこか同志のような特別な気持ちが芽生えていく二人。いつしか、自分の症状は改善されなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。」
Twitterへは「月経前症候群の娘とパニック障害の青年の話。本人たちには人生が変わるほどの重大事だけど、他人からはただの変人にしか見えない。この必死の状況は、見かけがのんびり癒やし系なので見えにくい。繊細なセリフや演出はとてもいいんだけどね。」
生理がくると女性の心が乱れるのは知っていた。けれどPMS(月経前症候群)という名前で病気扱いされているのは初めて知った。しかし、Webで調べると、この映画で扱っているようなほどひどい症状は挙げられてないような・・・。なので、過大に表現しているのではないかという気もしないではない。まあ、実際に、イライラが抑えきれずに暴走してしまう人もいるのだろうけど。でも、同性ならば多かれ少なかれ同じような症状はあるのだろうから、理解されてもいいような気がするんだけど、とくにされているような気配もない。たとえば、藤沢さんの大学の友人でヨガ教師してる人に、突然当たり散らしたる場面など、そう思った。「私、PMSがひどくて」と言い訳すりゃいいだけと思うんだけど、それも告げていないのだろうか? このあたりが、藤沢さんに関する疑問としてある。
山添君のパニック障害については、似た症状を自分も経験しているので、分からなくはない。電車に乗れない、なんていうのは経験した。けれど、突然の発作とか、うずくまって意識を失うようなことではなかったので、人によって発現する症状は違うんだよなあ、と思いつつ見ていた。
この手の症状は、その症状で悩む人にとっては、この映画であるように、人に迷惑をかけるから会社を辞めざるを得ないとか、やめても次の職場に移ることなんてできない、というプレッシャーで家に閉じこもりがちになる。まさに人生がぶち壊しになるくらいの大事なんだけど。骨折だとかマヒのように外見に変わりがないので他人からは病気とは扱われないどころか、なにを大げさに病気ぶってるんだよ、としか思われない。「電車に乗れない」と話しても、「そんなの大したことじゃないだろ。気を大きく持てよ。深呼吸して。前向きに考えよう」、なんて言われるだけだったりする。いや、そういうのとは違うんだよ。と言っても、なにを我が儘言ってんだよ。どこも悪いようには見えないぞ。で、終わってしまうところなんだよね。そもそも何かでパニックを感じてあたふたしても、一定の時間が過ぎてパニックが去ってしまえばフツーにもどってしまう。不安から逃れるように暮らしていれば、ただのだらしない人に見えてしまうこともあるからだ。
さて。この映画は、そういうPMSに翻弄されそこそこの会社を辞めた藤沢さんと、とパニック障害でそこそこの会社を辞めざるを得なかった山添さんが主人公だ。映画では、会社を辞めなければならなかった失望感は十分に描かれていない。さらに、次の職場にどうやって就職できたのか、は、山添君についてはちらっと描かれているけれど、藤沢さんについては説明がない。はたして面接で藤沢さんは自身のPMSについて話したのか、内緒にして就職したのか、は分からない。内緒にしていたとしたら、「もし、また、同じようなことが起こったらどうしよう」と不安なにおののきながら働き始めたはずだ。でも、映画ではそんなそぶりもなく、淡々と単調な仕事をこなしている。
山添君については、元の職場の上司と栗田科学の社長が、自殺した家族をもつ遺族の会で顔見知りで、その伝手で元上司が栗田科学を紹介したのだろう。であれは、パニック障害についても説明はされているのだろうと思う。とはいえ、山添君が新しい職場に行については、それだけで相当なプレッシャーがあっただろうと思われる。のだけれど、この映画はそんな風には描かず、山添君を、ももらい事故のような病気でちょっと休んでるけど、本当はやり手で自信満々な人物、ぐらいに描いている。いやあ、そんなことはないと思うけどな。パニック障害で自身は吹っ飛び、将来は見えなくなって、怯えているはずだと思うんだが。映画的にはそれじゃ話にならないので、最初はやな奴な色づけをして見せている。まあ、次第に山添君を成長させていく都合上、そうしなきゃならないんだろうけど。
てな感じで、この映画は、病気の辛さや、耐えている2人の声を代弁しているかというと、そうとも言い切れないように思う。
2人が就職したのは社員が8〜9人の、科学学習グッズをつくっている小企業で、仕事も単調でとくに頭も使わず、同僚もおじさんやおばさんばかりで刺激もなく、未来もないような会社だ。藤沢さんはとくに仕事に欲もなく、身の丈に合ったこととして捉え、淡々とこなしていくからなじんでいる。でも、たまにPMSになるけど、そこはなんとなく謝ったりリカバリーしたり。自身がPMSであることを社長や同僚に話しているかは不明。でも、気は使っていて、自分がしでかしたときは同僚にどら焼きを買って帰ったり、和気あいあいをこころがけている。でも、同僚のオバサンは、差し入れのお菓子に「ありがと。でも、妙な習慣になるといけないから、やめてよね」というが、嫌みではない感じなのがおもしろい。しかも、後半で山添君が鯛焼きを差し入れたらみんな大喜びしてたし。
山添君は藤沢さんの後からの入社なのか年下なのか、藤沢さんは「山添君」と呼んでいる。詳しくは説明されてないけど、現役バリバリで自信家だったのが、突然のパニック障害で会社を辞めたっぽい。いまでも当時の上司とZOOMで話したりして、復帰を頼んでいたりする。このあたりの心理は、↑にも書いたけれどよく分からない。いちど発作を体験すると、またなるんじゃないかと不安になって、復帰しようなんて思わんと思うけどな。しかし、元上司がムダにいい人過ぎる感じ。どこまで彼がパニック障害に理解があるのか分からんけど、そんなんで辞めたやつを面倒見るなんて、フツーおらんぞ。まあ、映画だからしょうがないけど。
終映後の観客の声で「癒やし系の映画だったね」なんて声が聞こえた。表面的にはそうかも知れないけど、当人たちにとっては癒しでもなんでもなく、前途に絶望を抱え落ち込んでいて、でも、必死にこらえたりがんばろうとしていたり、悩み苦しんでいる話なのだ。でも、映画はそう見えないようなつくりになっている。映画が癒やし系に見えるのは、登場するのは善意の人ばかりで、PMSやパニック障害にも理解がありそうに見えるからだ。いやあ、実際はそんなことないだろ。もしここに、合理主義一点張りで他人に配慮がなく、PMSやパニック障害にも「なに甘えたことやってんだよ! 仮病使って怠けてんじゃないよ!」というようなキャラが登場したらどうなるか。まあ、この映画の趣旨には合わないからそんなことはないんだろうけど。だから、テイストも、のんびり、ゆったりで、安心して見てしまえる。いや、現実はそんなんじゃないよ。
まあ、あえて必死や絶望を回避し、ほのぼの系に仕立て、こうした病を身近に知ってもらおうとしているのではないか、とも思う。まあ、ALSだのガンだの脳梗塞みたいに、実体はつたわらないけどね。
それはさておき、この映画がなんとなく癒やし系に見えるのは、一見、ムダに饒舌なセリフや、特に必要性のない描写が多いからなんだが、これがなかなか絶妙で、観客にとっての映画的な体験を豊かにしているのは否定できない。
・山添君が自転車で坂を上がれず推していると、電動自転車のママチャリがすいすい登っていくとか。※この、山添君が藤沢さんの忘れたスマホを届けるときの、山添君が一人で自転車に乗っているときは、ここで事故が起きるんじゃないかとざわざわ心配したけど、あの演出は変すぎだろ。
・藤沢さんが地元での仕事の斡旋を頼むので、友人を介してコンサルタントと顔合わせするとき、2人はコーヒーなのに藤沢さんはルイボスティーを頼んだり。さらにこの場面でコンサルタントに子どもから電話で、お風呂の追い焚きはどうするのかと聞いてきて、小声で教えていたり。
・会社で社員がのんびり話している背後の社長室(?)で、なにやら言い合いをしている様子が映っていたり。そう。主要人物以外の、画面に写り込んでいる社員がささいな会話をしたり動作をしていたり、ちょっとした芝居をしてるんだよね。これがいい。
・プラネタリウムのナレーションの打合せで藤沢さんが山添君の家にいき、資料を読んだりしてさて、帰るか、というとき藤沢さんが「これもらっていい?」といって、ポテチの筒からカケラを口に流し込むとか。※でも、この場面では、ここで山添君の彼女が突然訪ねてきたらどうすんだ? と不安になったけど。
・山添君のナレーションに「ありきたりだなあ」と藤沢さんがいい、「ほら、お爺さんが宇宙に行く映画があったじゃない。見てない?」 (これは『スペース・カウボーイ』だな)。「それから、親指でこうやって太陽を見る映画、知らない?」(これは、分からん。『メランコリア』?)とかいう場面。ああ、藤沢さんは映画を見るゆとりがあったけど、山添君は映画どころではない会社生活を送ってきたのだな、と思わせる。
・後半で山添君と上司、上司の息子がカフェにいる場面。山添君は元の職場への復帰をせず、いまの職場で働くことにした、と上司に言うと、上司が涙する。息子がハンカチを手渡す。店員が「店内の席が空きましたけど…」に「いいです」と返事すると店員が「毛布お持ちしましょうか」というんだけど、この店員の存在が、本来は不要なんだろうけど、地味にいい。他人に対する優しさとか配慮とかのメタファーになっているんだけど、そうは気づかせない何気なさ。
他にもあったと思うけれど、本筋に関係ないセリフや小芝居が映画の緩衝剤的な役割になって、でも間延びすることなく見えるのだよね。
では、いろいろと気づいたあれやこれや。
・山添君は、へんな趣味嗜好に描かれる。栗田科学でも同僚とはなじまず、世間話もせず、制服も着ない。まあ、このあたりは、まだ過去の仕事に未練があり、栗田科学をバカにしている、ということなんだろう。なんだけど、やたら味のない炭酸水を飲むのはなぜなのか、よく分からないところ。
・その炭酸水のキャップを、スポンスポンと音を立てて開けるのにイラだって、藤沢さんが怒りを投げつけるのはよく分かる。いるんだよ、ムダに音に鈍感な連中が。PMSなんかになると音に敏感になるのだろう。だから、気になってしまうと、ほんと嫌になるのは分かる。のだけれど、パニック障害の人でも、音には敏感になるはずなので。山添君の、音に対する鈍感さが、なんでなの? な気もする。まあ、自分の立てている音に鈍感になるというのは、パニック障害の人にもあるかも知れないけどね。
・藤沢さんが山添君に差し入れでお菓子をあげると、「生クリームは苦手」と断られてしまう。なので、次は“甘くないもの”ということで、御菓子屋で漬け物を買ってきて山添君にあげるんだけど。これは藤沢さんのトンチンカンな性格を表そうとしたのかね。にしては、なかなか変な場面。だってどら焼きはせいぜい1つ150円ぐらいだろうに、つあの漬け物は1袋500円ぐらいしそうだし、それを2袋もあげてるのだから。というツッコミ。
・山添君が会社で発作を起こす場面がある。クスリがないのでパニックになったのか(実際そういうこともある)、なにか別のきっかけがあったのか。そのあたりの描写がないので、パニック障害ってなんなの? って思う観客も少なくないんじゃなかろうか。
・山添君が発作を起こした翌日ぐらいに、藤沢さんは彼を見舞がてら訪問する。パニック障害は、襲ってきたときはパニックに陥るけれど、過ぎ去ってしまえば何もなかったかのように平穏に過ごせるた類の病気だ。だから山添君にとって藤沢さんの訪問は、実は迷惑以外の何物でもないはずで、でもたまたま山添君は自分で髪を切ろうとしていて、それをみた藤沢さんは「切ってあげる」と半ば押しつけがましく家に入り、「自分で切るより人に切ってもらった方が安心でしょ」といいつつ、ザックリ必要な髪まで切り落としてしまう。あ、やっちゃった、である。藤沢さんは呆然とするけど、悪気でやったわけではないからか、言葉がない。切った本人が山添君なら、もしかしたらパニックの発作を発症したかもしれない。けれど、どんな風に切られたのか、スマホで確認すると、山添君は怒るどころか大笑いし出す。ドジで間抜けな藤沢さんを受け入れた、ということなんだろうと思う。その後の顛末はないけど、思い切って短く整えたらしい髪で、山添君は出社する。このあたりから山添君は会社に馴染みだし、それまで他の社員と同じ事務服を着ていなかったんだけど、いつのまにか着用するようになる。会社に対する拒否感が薄れ、受け入れることができるようになった、ということなのだろう。長かった髪(れまでのキャリアのメタファー?)をバッサリ切り落とすのは、自分ではできなかった。それを藤沢さんはあっさり切り落としてしまう。自分で認めることのできなかった過去の自分を、いとも簡単に捨てられてしまったわけだ。だから山添君は、ここで笑えたのだ。こうして身の丈で生きる決心がついた山添君は、制服を着て周囲の社員にもなじみ、ミスをしでかせば鯛焼きを買って配れるぐらいの気配りができるようになった。そして、同じようにPMSで苦しむ藤沢さんを離れて見守り、異変が起きそうになると藤沢さんの関心を逸らすために車洗いをムリやり押しつけたりして、気を逸らしてあげようとしたりするようになる。悩んでいるのは自分だけじゃない。他にもいるのだ、という気付きができるようになった、ということだろう。そんなこんなで、山添君は元の上司に「この会社に残ろうと思います」とつたえる。一見これは成長譚のように見える。けれど、実はこれは人生のあきらめ、でもあるわけで。なぜなら、それまで人を押しのけてでもバリバリ仕事をして目立とうとしてきた生き方を捨てたわけだからね。山添君は、パニック障害にならなければ、俺には違う人生があったはず、と思いながら暮らすのだろう。でも、パニック障害は早い人なら数年で完治してしまい、元の人生が戻ってくる(長い人は軽くなりながらも一生つづいたりする)。もし山添君のパニック障害が数年で治まったららどうなるか。たぶん、従来のやる気が湧いてきて、栗田科学の仕事に物足りなさを感じるのではないだろうか。そして、元の会社とは言わないけれど転職し、バリバリ働くようになるんだと思う。パニック障害は、過ぎ去ってしまえば後遺症は少ない。だから性格も元に戻るし、他人に対する同情心も薄れるかもしれない。
・これと平行して、移動プラネタリウムの話が挟まってくる。栗田科学の社長の弟が20年ぐらい前に自死していて。その弟が宇宙にロマンを感じる男で、プラネタリウムのナレーションも考えていた、と。そのナレーションも参考にしつつ、藤沢さんと山添君が新たにナレーションを創り上げる、というサイドストーリー。このころになるとPMSもパニック障害も画面から消えてしまい、力を合わせて人々の心に残る体験を提供することに全力を挙げて取り組むぞ、というワクワク話になってしまっている。まあ、こういう展開に観客は心を捉えられていくんだろうけど。
・そのプラネタリウムは直径5メートルぐらいの球体の中で行うんだけど、あの環境はパニック障害には怖いだろ。閉所恐怖症的になって、症状がひどければパニックになるか、中に入るのは嫌だ、とわめくと思うんだけど、そんなことにならないのは映画の都合なのか、山添君の症状に閉所恐怖がないからなのか。
・ところで栗田科学の社長は自殺した家族をもつ遺族の会に参加していて、山添君の元上司も同じようにこの会に参加していて、知り合った。のは↑にも書いた。つまりまあ、2人が藤沢さんや山添君の障害に理解があるのは、2人ともが家族を失った痛みを知っているから、という設定になっていて、これはこれでなるほど、な設定になっている。・移動プラネタリウムは好評で、山添君の元上司や同僚も来ていた? 山添君は、同僚に会いたいと思ったのだろうか? これはちょっと疑問だな。負け組を自覚しなくちゃならない分けだから。ところで、何万年後かに北極星が変わる? という話は初めて聞いたよ。へー。
・山添君には昔からつき合っていた彼女がいて。山添君が精神科医を受診する場にも同行していて、なかなか理解があるな、と。でもその後、彼女はロンドンに転勤と言うことで、ある夜山添君を訪問したんだけど部屋には入らず、「表で話できない」と。まあ、別れ話に何だろう。ここの描写はなかったけれど、最後の別れのセックスとか情に転ぶような場面は避けたかったのかもしれない。これによる山添君の心の痛みはどれほどかと思うけれど、映画はさらりと済ませてしまうのはずるいだろ。仕事も失い、女も離れていく。これすべてパニック障害のせい。これを納得しろ、というのは酷だよね。でも、そういう話になると悲惨になるからか、シナリオは巧妙に避けている。まあ、善意とやさしさに包まれた世界を描くのに、こういう現実はじゃまでしかないからな。このあたりのきれい事は、やっぱり気になっちゃうね。
・そんな山添君を、同じようにPMSで悩む藤沢さんは、やさしく支援してくれる。ところが藤沢さんは、母親の介護のために栗田工業を辞めて、地元に就職することを決断してしまう。最後の寄る辺を失った山添君はさぞかし力を落としたことだろうと思うけど、そういう描写は見事に避けている。まあ、山添君と藤沢さんが恋仲になるような展開ではないのはよかったけれど、支え合う2人が離れ離れになるところは、もうちょっと深掘りして欲しい気がしたかな。
・あとは、精神科医の役割か。藤沢さんは、医師から新しいクスリを処方されて、「眠気に注意」といわれていたけど、強烈な眠気がおそって。このせいで会社を辞めることになった、な感じの描き方だ。じっさい、マイナートランキライザーは眠気を催すものが多い。でも、ありゃ用量を間違っとるだろ。
・いっぽうの山添君の処方は順調なようで。なのでクスリの弊害は描かれないけど、クスリによって緊張を和らげるせいで眠気は生ずるし、太ったりもする。炭酸みたいな刺激物は避けた方がいいようにも思うんだけど、そうしたことは描かれないのが、ちょっとなあ。山添君の担当医は、山添君が「PMSについて知りたい」というと何冊か本を貸してくれるんだけど、あんな一般向けの本を診察室に置いてる医師は、おらんぞ。
・従業員のなかの太ったおばさんの息子が黒人とのハーフらしく。ってことは現亭主か別れた亭主が黒人で、お付き合いをしていたかいまだに結婚しているかという設定で。昨今の人種多様性とか移民や国際結婚とかについて配慮なんだろうけど、とくに説明もなくフツーに描かれている。その息子と同級生の女子が栗田科学の紹介ビデオを撮っているんだけど。あれは、学校の課題の職場紹介なのか、それとも栗田科学の方から依頼したモノなんだろうかと、少し考える。
・冒頭で、パニックを起こして警察のやっかいになり、母親に迎えに来てもらっていた藤沢さん。なんだけど、栗田科学に就職後、その母親が障害者となっていて、母をデイケア(?)に送り出す場面がある(雨音がしたんだけど、画面は晴れてて、なんた変だったな)。おやま、何があったのか? 脳梗塞? とか思ったんだけど、何も説明がないのは不親切だな。
・その母親の介護のために藤沢さんは栗田科学を辞め、地元の企業にうつろうとしている。↑にも書いたけれど、大学時代の友人を介して仕事斡旋コンサルを紹介してもらっているのだけれど、そのコンサル相手に擬似面接をする場面がある。ここでも気になったのは、自分のPMSを話すのか否か、だった。隠して就職し、バレたらまた同じことのくり返しだ。でも、話せば就職が難しくなる。あとから、決まったのは地元の情報会社みたいなところ、と話していたけど。はたしてこの企業は包容力があって、障害のある藤沢さんを理解してむかえるのか否か。それが気になってしまうのだった。
ラストシーンはなかなかいい。終業後なのか、昼休みなのか。一人ひとり会社から出て来て、キャッチボールしたりおしゃべりしたり雑談したり、が定位置のカメラからノーカットで映される。そこにエンドロール。まあ、あんなのんびりした企業は存在しないだろう。社長も、紹介ビデオの撮影のときに「つぶれないようにがんばる」なんて言ってるぐらいなのだから。けど、ああいう環境があれば、障害を持った人も救われる、と思わせる感じがにじみ出てはいる。幻想だけど。
とはいえ、パニック障害も何年かすると症状は緩和し、発作も出なくなる。PMSも、更年期障害になる前か後か知らんけど、症状はなくなるはず。夜明けは必ず来る。それは確か。そして、こうした障害を体験した人は、他人に寛容になる、と信じたいよね。
街のあかり5/5シネマ ブルースタジオ監督/アキ・カウリスマキ脚本/アキ・カウリスマキ
フィンランド / ドイツ / フランス映画。原題は“Laitakaupungin valot”。映画.comのあらすじは「恋人も友人もいない夜警員コイスティネンは、カフェで声を掛けてきた美しい女ミルヤに恋をする。しかし彼女はマフィアが送り込んだ情婦だった。強盗の罪を擦りつけられたコイスティネンは逮捕され、1年間の服役を言い渡されてしまう。」
Twitterへは「書き割りのような、人形劇のような、無味乾燥で記号的なドラマ進行。先もミエミエ。とくに共感するところもない。なのに、なんでカウリスマキ信者が多いのかね。よくわからん。」
登場人物はどいつも感情をどこかに置き忘れてきたみたいな無表情で。演技はサンダーバードのあやつり人形みたい。設定の説明もほとんどなくて、↑のあらすじを読んで、あの女はマフィアの情婦だったのかといまさら知るという感じ。
警備員は上司からも同僚からも仲間はずれで、友達もいない感じ。だけど、彼のどこが嫌われているのか皆目見当がつかない。フツーに仕事してるじゃん。監督がそういう設定にしたからそう信じなさい、と言われてるみたいで、間尺に合わない。ドジでもバカでもない。とくに陰気でもないのに、なぜ嫌われてるんだ? 
で、同僚から飲みに誘われず、1人でどっかのバーに行って、隣にいた女(あれって、あとから言い寄って来た女と同一人物だったか? 記憶がおぼろ)に声をかけると、近くに男に遮られて、「あっち行け」とか言われてしまう。ここらへんも、嫌われている、を監督が押し通しているだけで、映像的には違和感ありまくり。でまあ、この場面にマフィアたちは奥のテーブルにいたんだっけか? で、この場面でマフィアは警備員の人となりを見抜いて、美女を接近させた、というのか? ムリがありすぎだろ。
で、カフェだかどっかで休憩中に美女がわざわざ警備員のテーブルにやってきて、「ここいい?」と話しかけて。「あなたが寂しそうだったから」とかいう。「これで結婚したりして?」と警備員が茶化すと、「その前にデートするのが流れでしょ?」「デート?」「そう、映画とか」「いいよ」「いつがいい?」「今日は仕事だから明日の夜は?」なんて都合よく話が進む違和感ありまくりの展開。こんな女が近くに寄ってきたらフツー警戒するだろ。しない方がおかしい。
で、警備員はめかし込んで一緒に映画に行って。その後の流れはちょいうやむやだけど。後日かな。仕事の終わりの深夜に美女と出会い、「ほんとはいけないんだけど」とかいいつつ、警備してる商店街の中に連れて行って。宝石店の暗証番号を押すところをしっかり見られてしまう。
そして当日、美女は警備員を睡眠薬で眠らせる。マフィアの仲間が店のガラスを割って警備会社の監視員を席から外させて、(そんなうまい具合に監視員全員が席を外すかよ)、この間に泥棒班が宝石店に入り、監視カメラにスプレー。戻ってきた監視員たちは画面がまっ暗なのに気づき、強奪が発覚。警備員は当然ながら警察の事情聴取を受ける。しかし、なぜか美女のことは言わない…。マフィアのボスが言うには「あん警備員は女を裏切らない」って、どういう根拠でいってるんだか。しかしマンガみたいな展開だよなあ。リアリティぜんぜんないし。
警備員は証拠不十分で釈放される。けれど、警備会社はクビ。まあ、当然だ。ニュースでは、別に警備員の名前は挙がってないんだけど、周囲の目が自分に向かってる、ように警備員自身が感じているのか、それともホントに周囲の人間が警備員に疑いの目を向けているのか。知らんけど。へんな演出だ。
大酒して酔い潰れた警備員をいえまで送ったのはキッチンカーの女。彼女の店にはちょくちょく寄ってて。ソーセージだの飲み物をよく頼んでた。話し相手にもなっていた。この彼女と最後に結ばれそうな雰囲気だったんだけど、警備員は彼女の好意をまったく感じ取ることでができなかったんだよね。鈍感だろ。
と思ったら、美女は警備員宅を訪問し、宝石の一部をソファに忍ばせて消えていく。警備員の心境や幾ばく。友達も恋人もいない自分にやさしくしてくれたのは彼女だけ、と思い込みたいのか。彼女がマフィアとつるんで自分をハメたのは分かっている。でも、警察には言えない? そんなバカな。人がよすぎだろ。このあたり、話がいい加減すぎて警備員に共感できないし同情もできないところ。
で、裁判になって刑期2年ただし2ヵ月収監ののち出所OKで執行猶予、という不思議な法律がフィンランドにはあるらしい。服役中に移動カフェの女から手紙がくるが、破いて捨てちゃうのはなんでなの? 人非人だな、この男。彼女、裁判にも来てたぐらいなのに。ところで、服役中は笑顔も見せてるのは、なんなんだ。あ、それと、刑務所内で掃除しながらタバコも吸えたりするゆるさはなんなんだ?
出所し、元の家に行くとなぜか工事中。よく分からん紙を頼りに宿泊施設に行き、大部屋でベッド一つ。という経緯もよくわからん。部屋は仮住まい、とはいってたけど家具も私財もあったろうに、2ヵ月で建物は取り壊しで本人放擲されるのか? 文句もいわないの? 誰が宿泊施設を斡旋してくれたのだ? さらにレストランに仕事を得る。ここで客として来てたマフィアと美女を目撃し、本人はやれやれ、な表情なんだけど。警備員に気づいたマフィアのボスが給仕長を呼んで警備員が窃盗歴があることを告げたことで、ここもクビになってしまう。仕事は刑務所の世話かと思ったら違うのか。
宿泊施設にも美女(移動カフェの女だっけ? 忘れた)はやってきて、なんか話してたんだよな。たしか。で、別れた後、突然の怒り? やっと感情を表出したのか。ナイフを手にレストランに行き、待ち伏せし、マフィアのボスに斬りつける。(でも、裏で糸を引いていたのはあのボス、とどうやって分かったんだろ?) が手のひらに軽傷を負わせただけ。部下は「始末しよう」といったんだけど、ボスは゛痛めつけるだけにしろ」といい、にボコボコにされ、捨てられる。
移動カフェに黒人少年がやってきて、知り合いのオジサンが大変なことに…。というのでキッチンカーの女が駆けつけ、警備員を介抱…。で、映画は終わってしまう。まあ、やっと警備員は誰が自分に優しいのかが分かり、2人で支え合ってこれから生きるのかな、と思わせる終わり方だけど。なんだかなあ、な感じ。
・黒人少年は街でうろつく移民の子で。警備員がバーの前につながれたままの犬の持ち主は誰だ? って聞いた開いて(正義感か?)。少年は店の中を指さし、店員は屈強な3人組を指さす。警備員は「6日も飲まず食わずにつないだままか」とか食ってかかるけど、当然ながら逆襲にあう。でも、殴られるところは描かない。ヨタヨタする警備員は映るけど、血は流れてない。変な演出なのだ。そういえば、ラストでマフィアの手下に半殺しに合ってるはずの警備員も、血や汚れがまったくない。この非リアリティが嘘くさすぎて感情移入できねえよ。記号的すぎ。
で、例の犬は黒人少年が連れているんだけど、あのヤクザな3人組から譲り受けたのか? なんかちぐはぐな演出だな。
・警備員は、いつかは独立して見返してやる、な志はもってるようで。独立するには、な話も聞きに行ったりしてる。銀行の融資も受けに行ってるけど、専門学校卒じゃな、と笑われて。銀行の警備にも「通用口から出ろ」と言われてるのは戯画かよ。
しっかし、ヘンな映画だったよ。共感するところはほとんどなし。まあ、幸せは身近にあるのに気がつかない、的なことを言おうとしているのかも知れないけど、美女に簡単にひっかかって、ハメたのは美女だと分かっているのに警察に言わない愚直さというのは、どうしようもないね。
悪は存在しない5/7ル・シネマ 渋谷宮下監督/濱口竜介脚本/濱口竜介
公式HPのあらすじは「長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧とその娘・花の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」
Twitterへは「たられば、の話だった。薪割り、水くみ、学童…。伏線もゆるやか。誰にも悪意はない。けど…。さあ、どうなるのだろう。あのラストには異論もあるようだけど、あれでいいんじゃないかね。すべてをさらす必要もないし。」
見終わった観客が全員、ラストにモヤモヤを抱えながら劇場を後にするという映画的な楽しさを満喫できる。あれはどういうことだ? などといろいろと自分なりに想像したり推理したり、一緒に見た人と話し合うことができる余地が多いから。でも、ちゃんとどうなったのか説明してくれないのは不親切、と思うむきには腹が立つ終わり方かも知れない。ま、そういう人はテレビドラマでも見ていればよろしい。
あらすじは↑の通りで、設定は分かりやすい。ただし、冒頭からしばらくは地面から見上げる森林の風景とか、チェーンソーと斧で薪をつくっている様子が淡々と長すぎるぐらいに描かれるので、ちょっと退屈。それが、グランピング場の説明会が開かれる辺りから、地元住民と開発側との対立が見えてくる。そもそも計画は地元の環境破壊につながるし、説明に訪れた高橋という男が通り一遍的なことしか言わないので見ている側は腹が立ってくる。高橋が、もう説明会はこの1回だけ、なのに対して、アシスタント的な黛という女性は個人的な意見もはさみつつ、持ち帰って再考する的なことを言うのだけれど、高橋が黛を睨みつけもしないので、なんかちぐはぐな感じもすねんだけど、このあたりもちゃんと伏線になっているところが上手い。
伏線は、前半にも何気ないカタチであって、点として埋め込まれていると言うより、エピソードや行為といて面的・時間的にあるので、伏線だけが目立ちすぎることはない。たとえば退屈に見える森の移動(花の自由な通り道として)、薪割り(芸プロから説明に来た高橋との接点)、蕎麦屋への水くみ(蕎麦やうどんのための水の重要さ)、学童保育への迎えの遅刻(これがために…)、鳥の羽根(チェンバロに使うために、区長の爺さんが喜ぶ)、鹿は襲わないが手負いの鹿だけは危険という話、ふらふら1人で歩きまわる花(ザワザワと不安にさせる)、鹿の駆除を行っている銃声の響き、など、その多くが後半で反復され、後半に生きてくる。なかなか上手い伏線の張り方だ。
さて、説明会の様子から開発主体の芸プロと説明に来た高橋が嫌いになるんだけど、高橋と黛が帰社し、社長やコンサルと話をすると、実は…の流れが見えてきて、高橋、黛に対する印象ががらりと変わってしまう。そもそも芸プロは経営がイマイチで、コロナ給付金をアテに(町民にも見抜いていた若者がいたけど)いま流行のグランピング場を計画。しかし、予算がない。50人規模の宿泊施設にスタッフは5人で、深夜はすべて引き上げ常駐はいなくなるとか、浄化槽の設置場所も住民の意見を聞かずに決めたもの。コンサルも、予算内でやりくりして計画を立案していた。黛は「白紙に戻して…」と提言するけど、社長は「いまさらできない」の一点張り。そこででてきたのが、町を熟知している便利屋の巧み管理人にしちまえ、という案だった。
で、再度、高橋と黛が町に向かい、巧に相談することになる。この、クルマでの移動の途中での2人の会話が、ムダにダラダラ長いんだけど、高橋がマッチングアプリに登録してて反応が運転中に来たり(スマホは固定されてたけど、ああいうのを見るのは、ながら運転にはならんのか?)、高橋は元役者でマネージャーになったとか、黛の前職が介護士で反動で芸プロに来たとか、高橋が黛に「こんな仕事よくやるね。辞めたら?」といったり、高橋も辞めたい意志を吐露したり…。いろいろ本音が出ていておかしい。
到着したらちょうど薪割りしているところで、高橋も挑戦するがまったく歯が立たない。けれど、巧の「利き足を前に。斧は落とすだけ」の助言で、スパッ。このあたり、ノーカットで撮られていて、興味深い。割らないリハーサルも何度かしたのかな。で、例の蕎麦屋に行き、管理人の話をするが、「俺はヒマじゃない。金もある」と言われてしまう。蕎麦屋の奥さんが、水が足りなくなってきてる、というので巧は高橋と黛をつれていつもの湧き水を汲みに行くんだけど、このあたり、高橋も黛もすでに巧の信奉者になりつつある様子がみえておかしい。
水を汲み終わったあたりで巧が「いかんいかん」な感じになって学童に花を迎えに行く。スタッフは、さっき帰ったよ、というので行くがみつからない。このちょっと前辺りか、花が牛に草を食ませたり、堆肥から湯気が出てる場面が映るんだけど、なんとなく心をザワザワさせるのだよね。あのひとり遊びというか散歩は、なんか不安。何かあるんじゃなかろうか、と。
花がいなくなったのが4時頃。役所の放送も流れ、住民は懸命に探す。黛は手に傷を負いいったんもどって、高橋は巧とともにさがす。鳥の羽根が落ちていた池の、氷の割れ目? みたいなところは、巧は「違う」と否定し、なおもライトをつけて探しまくる。と、薄暮のように草原のまんなかに、花の後ろ姿。その向こうに鹿。身体に弾痕の跡。手負いの鹿は人を襲う、と聞かされていた高橋は、花の方に走り寄ろうとする。それを静止し、背後から高橋の首をしめる巧。泡を吹いて倒れ込む高橋。草原には花の姿も鹿もいない。俯瞰で映る花の鼻血を指で拭く巧。ヨロヨロたちあがり、再び倒れ込む高橋の姿が映る。おそらく、花を抱きかかえ草原をあるく巧の視点で、地面が映る。そこで、突然映画は終わってしまう。
おおおお。いったいどうなったんだ? 戸惑うラストだ。もやもやするな。で、いろいろ考える。
・花を見つけたのは、おそらく6時過ぎている。花はその時間までなにをしていたのか? っていうか、花はなぜいつも父親の迎えを待たずに1人、帰っているのか。一緒に帰る友達がいないのかも知れないけど…。ひとり遊びが好きなのか。冒頭の地面から見上げる森林は花の移動に合わせているのだろうけど、なんだか森に吸い込まれていくような感じがしてしまう。
・6時過ぎているのに、薄暮の明るさはどういうことか?
・なぜ巧は高橋の首を絞めたのか?
・高橋は生きているのか、死んでいるのか?
・花の鼻血の意味は?
・花は生きているのか死んだのか?
高橋については、柔道の技で落としたんだろうと思う。これは、高橋が騒いで鹿を刺激しないように。
6時過ぎているのに明るいのは、映画的なウソかもしれない。そもそも、花がずっと帰らず鹿と対峙していたと考えるのがムリがある。あれは、4時過ぎに花が鹿と遭遇したときのこと、を描いている、のかも知れない。つまり、巧の思い浮かべたイメージ。実際に巧と高橋が見たのは、花がしゃがみ込んでいる後ろ姿だけ。すでに花は鹿に襲われ、しゃがみ込んだ姿勢で絶命あるいは気絶していた? 高橋が駆け寄ろうとしたのは、鹿を見て、ではなく、たんに花を見つけたから。では、なぜ巧は高橋を締め落としたのか? は、疑問が残るけど。
あるいは、素直にあれは6時過ぎのことで、遊びほうけた花が手負いの鹿に遭遇しているところ、と考えてみようか。鹿が襲うのではないかと心配し、駆け寄ろうとした高橋を、巧が締めて落とす。の間に鹿が花を襲った。駆け寄った巧は花を抱きかかえ、戻ろうとする。
もっと違う解釈もあると思う。
巧と高橋が見たのは、実は仰向けに倒れた花。花が鹿と対峙している場面はもっと早い時間で、巧の、鹿にやられたんだ、という直感のイメージ化。そして、巧が高橋を締めたのは、こいつらが来たせいでこうなった、という巧の怒りの矛先(高橋に復讐したい、という思い)のイメージ。ただし、殺すほどではないので、高橋は立ち上がった。実際は、花を見つけた巧が駆け寄っていっただけ、とか。とはいえ、暗い中で倒れている花を視認するのは困難だと思うけどね。
花は怪我だけなのか、死んだのか。それは分からない。たぶん監督は、ひとつの答が導き出せないように意図的に時制や状況を分解し、つないでいる。観客それぞれが多様に戸惑い、解釈してもらえるように、ではないかと思う。まあ、それが映画の面白さであることを提示している、のだと思う。
花がどうなったか、ももちろんだけど、それまで語られてきたグランピング場の計画がどうなったのか、は確かに気にかかる。けれども、この映画の言いたいのはそこではない。意図せず、そういう結果になってしまうことがあるのだ、ということだ。
こんな結末になってしまったのは、なにが原因か。芸プロのグランピング場の計画が発端か? 説明会が悪かったのか? いい加減な計画を立案したコンサルが原因か? 再度、高橋と黛が巧を訪れたのが悪かったのか? 猟友会の鹿駆除が悪かったのか? 撃ち殺せず手負いの状態にしてしまったのが悪かったのか? 巧が学童の迎えに遅れたのが悪かったのか? 花の放浪癖が悪かったのか? 原因はすべてにあるとも言えるし、誰にも悪意はなかった、ともいえる。もし、こうだったら、そうしていれば、花は事故に巻き込まれることはなかったかも知れない。
その意味で、『悪は存在しない』のだろう。
しかし、どこかで誰もが何らかの加虐に、知らない間に加担している可能性があるということの指摘でもあるわけだよね。
不死身ラヴァーズ5/13テアトル新宿監督/松居大悟脚本/大野敏哉、松居大悟
allcinemaのあらすじは「長谷部りのは、幼い頃に“運命の相手”甲野じゅんに出逢い、忘れられないでいた。中学生になったりのは、遂にじゅんと再会する。後輩で陸上選手の彼に「好き」と想いをぶつけ続け、やっと両思いになった。でも、その瞬間、彼は消えてしまった。まるでこの世の中に存在しなかったように、誰もじゅんのことを覚えていないという。だけど、高校の軽音楽部の先輩として、車椅子に乗った男性として、バイト先の店主として、甲野じゅんは別人になって何度も彼女の前に現れた。その度に、りのは恋に落ち、全力で想いを伝えていく。どこまでもまっすぐなりのの「好き」が起こす奇跡の結末とは」
Twitterへは「ヒキもなければ盛り上がりもなく、だらだらと。1日しか記憶が保てないとか、どっかの映画の設定は、くだらねえ。原作がマンガらしいけど、松居大悟はなにが面白くて映画化したのか? ほとんどバカ映画だろ、これは。」
幼い頃の出会いがどうだったのか、もうすっかり忘れてるが。まあ、その程度の映画である。
じゅん、は、陸上部の後輩や軽音楽部の部長、車椅子の青年、バイト先のクリーニング店の店長、大学の同級生(何部?)なんかに姿を変え、出現する。けど、いい感じになると、消えてしまう。なんだこの話。でも、たぶん、相手が消えるのではなく、自分が消えるんだろうな、とは分かった。でも、この映画の結末のように、逃げる、ではなく、実はすべて幻想だった、と思ったんだよね。まあ、この映画では、恋したい乙女が誰彼構わず男と見れば運命の相手と決めつけ、惚れるんだけど、いざとなると逃げてしまうらしいけど。らしい、と書いたのは、よく憶えてないからなんだけど、映画全体としてみても印象の薄い話だった。なので、バーベキューのあと辺りから睡魔がやってきて…。半睡のままだらだら見てて、気がついたら、記憶が1日しか持たないとかなんとか話していた。なんだよ、この『50回目のファースト・キス』まんまの設定は。以降のドタバカは、まともに見ようという気力もなくなり、だらだらと。
松居大悟は『くれなずめ』『ちょっと思い出しただけ』の監督。にしては、いろいろ杜撰すぎだろ。マンガが原作らしいけど、もうちょい脚色して、話をツメることはできなかったのかね。ひょっとして、依頼されたから“ちょっと引き受けただけ”なのか? 
ラストも、自分から消えていたことを知らされ、その結果、じゅんに「別れよう」といわれ、「分かった」といいつつ、なのに「好き! つき合って!」っていうのは、どういうことだ? ますます分からん。
無名5/14シネ・リーブル池袋シアター2監督/チェン・アー脚本/チェン・アー
英文タイトルは“Hidden Blade”。映画ナタリーのあらすじは「1941年・上海。政治保衛部のフーは、部下のイエと友人のワンと諜報活動を続けていた。フーは、任務に失敗した国民党の女スパイを助け、上海在住の日本人要人リストを手に入れる。だが、第2次世界大戦が激化する中、イエは日本側とも繋がる二重スパイで…」
Twitterへは「広州、重慶、国民党、汪兆銘、蒋介石、石原莞爾、東條英機、満州、中国共産党、上海…。以上の用語で当時の中国を説明できないと理解が難しいと思われる中国のスパイ映画。時制も入り組んでるし…。でも、雰囲気とテンポはなかなかなんだよね。」
分かりにくさでは『オッペンハイマー』とどっこいかな。けど、ストンと落ちる答を見せてくれるという点では、こっちの方がスッキリする。けど、背景や経緯については、あっちのほうが分かりやすい。この映画は、1930年代の中国国民党の歴史と係わった人々、その思惑、流れを知らないと、正直いってちんぷんかんぷんだ。大まかな流れは、分かる。日本軍と通じている国民軍の中国人がいて、共産党員をみつけてはつかまえて処刑している、と。しかし、よく分からなかったのは、当時日本は中国に侵攻していて、広州(にも攻略戦をしかけていたのは知らなかった)につづいて、重慶にも爆撃をしていた。であれば日本と国民党は対立しているはずなのに、なぜ中国人のスパイみたいな連中と日本の中佐がいつも会合しているのだ? 
あとで調べたら汪兆銘は孫文とともに辛亥革命を成功させ、皇帝政治が終焉。溥儀が退位し、共和国家である中華民国が成立した。1919年、中国国民党が結党。1937年、日中戦争勃発。蒋介石政権は徹底抗戦を貫くが、汪兆銘は日本と和平交渉を行い、日本側に亡命。1940年、日本占領下の南京に合作政権を樹立した。これは日本の傀儡政権だった、らしい。国民党と中国共産党は手を組んで重慶に移り、日本に抵抗した。そうだったのか。細かいことを知らなかった。なんとなく背景が分かったよ。
そうか。日本軍に協力し、森中佐の下で共産党員を見つけ出していたのがフー(トニー・レオン)で、その部下にイエとワンがいた。あー、なるほど。これでいろいろつじつまが解明してきたよ。っていうか、こういう事情を観客の大半は知らないんじゃないのかね。
それと、見終えて思ったのは、日本軍に潜入しているスパイたちの話なんだけど、母体である共産党のためになるようなことを、フーもイエもしてないよな。むしろ、日本軍による共産党員狩りや処刑を見逃しているのだから、役に立ってないじゃん。と、思えてしまう。
でまあ、大雑把な流れでいうと、フーは共産党員で、妻がチェン。このチェンも党員なんだろう。ジャンという男と偽装結婚し、ともに党員活動していた。けれどジャンは転向し、フーにいろいろ告白してしまう。
フーの部下にイエとワンがいる。つまり、映画の見かけとしては、フー、イエ、ワンが日本軍協力者。
あと、謎の女がいて、彼女は…共産党員じゃなくて国民党なのか? フーに日本人名簿を提供し、命が救われる。なんか、この話がいまいちピンとこなかった。
イエには婚約者がいて、でも、ワンが横恋慕。というか、レイプして殺してしまう。という話はなんか唐突すぎるよな。イエの婚約者も、偽装的なモノかと思ったら、あれは本気だったのか? もやもや。
で、後半でフーが妻を訪ねたところで、ああ、フーは共産党員だったのか、と分かるんだけど。この後、イエがフーと大立ち回りをするんだよね。これは共産党員フーvs日本軍の手先イエ、だと観客に思わせるものなんだけど。その後、イエがワンに詰めよって婚約者のことを通級する。と、ワンは「だってあの女は共産党だ」とかいうんだけど、イエは「俺も共産党だ」とかいってワンを撃ち殺す、と。なるほど。ではあるんだけど、じゃあ、フーとイエの、誰も目撃者がいないところでの殺し合いに近い乱闘は何だったんだ? 2人が争った、というアリバイづくりにしてはムダに念が入りすぎだろ。
なーんだ。フーとイエは、共産党の同士だったのか。まあ、それはいい。
で、戦後になるのかな。フーは香港にいる(奥さんはどこにいるんだろう?)。イエもいたんだっけか? よく分からん。喫茶店にいたのは、あの、日本人名簿の提供で殺されずに済んだ女、だよな(この場面は冒頭にも出てきた)。で、彼女にお茶を奢ったのは、イエだっけ? フーだっけ? なんか、いまいちよく分からん、その後の部分だった。
というわけで、フーもイエも実は共産党員だった、という図式だ。それはスッキリするんだけど、その他の関係がもやもやしたまま残るんだよなあ。
・イエとともに行動していたワンは、ありゃ共産党員ではなかったんだっけ? 純粋に日本軍に協力していた国民党側の男?
・広州攻略が1938年で、そのとき広州で呆然としていたフーが、数年で日本軍に潜入できているのはなんでなの? すでに共産党の工作員として経験があったから、なのか?
・ときどき日本兵がぞろぞろ登場する。井戸の水を飲んだら腐ってるとかで調べたら死体が見つかって。それでなのか、中国人が集められて銃殺? 井戸に放り込まれてセメントかけられた? な場面があったけど、ありゃなんなんだ? そういう事件があったのか?
・同じ日本兵なのか、「俺は日本の華族に似ている」とか「大山」がどうした、とかいってたけど意味不明で。あとから調べたら大山事件というのがあったようだけど、それに関連したことか? 別の兵隊は、俺の兄は犬と一緒に爆撃機に乗っていたけど戻って来なかった、な話をしていた。これについては、映画の中で犬を連れてる爆撃機があったのでこれのことかな、と。しかし、この映画の本筋と、どう関係してるのか意味不明。
・役者の発音が悪いのが気になった。中国人がムリして日本語を話しているのもあるけど、日本軍の中佐かな、の日本語が変なんだよ。役者名を見ると森博之と日本人名。でも、調べたら出身は東京でもアメリカ、カナダ育ち、となっていて、ああ、そのせいか。しかし、なぜ純然たる日本人の役者を起用しなかったのかね。疑問。
希望のかなた5/15シネマ ブルースタジオ監督/アキ・カウリスマキ脚本/アキ・カウリスマキ
フィンランド映画。原題は“Toivon tuolla puolen”。Wikipediaのあらすじは「ヘルシンキ。トルコからやってきた貨物船に身を隠していたカーリドは、この街に降り立ち難民申請をする。彼はシリアの故郷アレッポで家族を失い、たったひとり生き残った妹ミリアムと生き別れになっていたのだ。彼女をフィンランドに呼び、慎ましいながら幸福な暮らしを送らせることがカーリドの願いだった。一方、この街でセールスマン稼業と酒浸りの妻に嫌気がさしていた男、ヴィクストロムはついに家出し、全てを売り払った金をギャンブルにつぎ込んで運良く大金を手にした。彼はその金で一軒のレストランを買い、新しい人生の糧としようとする。店と一緒についてきた従業員たちは無愛想でやる気のない連中だったが、ヴィクストロムにはそれなりにいい職場を築けるように思えた。その頃カーリドは、申請空しく入国管理局から強制送還されそうになり、逃走を目論んだあげく出くわしたネオナチの男たちに襲われるが、偶然ヴィクストロムに救われる。拳を交えながらも彼らは友情を育み、カーリドはレストランの従業員に雇われたばかりか、寝床や身分証までもヴィクストロムに与えられた。商売繁盛を狙い手を出した寿司屋事業には失敗するものの、いつしか先輩従業員たちまでもカーリドと深い絆で結ばれていった。そんなある日、カーリドは難民仲間からミリアムの居場所を知らされる。ヴィクストロムらの協力で彼は妹と再会、目的を果たすに至る。だが、安心しきった彼をいつぞやのネオナチの一員が襲う。刃物で深い傷を負いながらも、カーリドは妹を笑顔で送り出すのだった。」
Twitterへは「シリア難民の男を助ける、フィンランドのおっさんの話。このおっさん、なかなかやり手で、いろいろ笑える。どの国にも難民嫌いもいれば助ける人もいるのね。歳のせいかカウリスマキの紙芝居みたいな演出が薄れてて、見やすいのもよかったかも。」
カウリスマキにしては人形劇的・書き割り的な演出、セリフが少なくて、ヒネリや笑いも多少あるので楽しく見られた。まあ、ご都合主義的なのは毎度だけど。
冒頭は家をでていくオッサンで。ヴィクストロム。捨てられたのか、と思ったら、あとから妻を捨てたのは亭主の方だった、と分かる。浮気だったかな?
仕事は服の販売かなんかなのか。これを期にその仕事はやめて、在庫の服を全部売り飛ばしてしまう。つくった金をもって闇のカジノに行き、度胸よすぎに賭けて大儲け。なんだよ。コントかよ。で、その金を元手に、売りに出ていた、冴えないレストランの経営権を取得。スタッフは、やる気のなさそうなボーイと、得体の知れないシェフ、バイトのオバサンみたいな娘の3人。こいつらが足を引っぱるのかなと思ったらそんなこともなく、みな真面目なのがよかった。
この話と並行して、シリアからの密航青年カーリドの話がある。登場シーンは石炭の山から顔を真っ黒にしてでてくるんだけど、やりすぎだろ。船員に見つかり、食事も与えてもらっていた、っていうのに、あれはない。まあ、カウリスマキ特有の戯画化だろうけど。で、簡単に見つからずに下船できて、だれに教えてもらったのか宿も紹介してもらって、そこへ。ここでトルコ難民だったか、と友達になって。まずは警察に難民申請をしにいくと、時間がかかるわよ、なんて言われて希望をもつ。で、なぜかよく出くわすネオナチにボコボコにされたところをヴィクストロムに助けられレストランで働くことに。ちょうどスタッフの1人が捨て犬を拾ってきたところで、そこに保健所か何かの抜き打ち検査が入って。犬を抱いたままカーリドが隠れるのがおかしい。
カーリドは、両親と兄弟を内戦でなくし、生き残った妹とシリアを脱出したけど途中ではぐれて。その妹との再開を願っていた。で、難民申請は結局、却下で強制送還、ということになって拘束され、当日を迎えるんだけど。係員の女性が逃がしてくれて、とりあえず逃げ出す。
レストランは、いまいち人気がない。ので、寿司がいい、という話になって、さっそく看板を書き換え、スタッフも着物になって、見よう見まねで寿司を提供するというのが、バカすぎて笑える。おにぎりみたいな飯に山盛りのワサビ。客は日本人多し。でも、すぐにネタがなくなって、あたふた。結局、ムリだ、ということなのかな。また元の店に戻ってしまう。バカか。
なことしてたら、カーリドの所に知り合いから電話で、妹がみつかった、と。会いに行くのはむずかしい。でも、ヴィクストロムが一計を案じて知り合いの貨物トラックに連れてきてもらうことにした、んだっけかな。荷台ではなく、隠れたのは車体下の荷物スペースで、再開が叶う。で、妹にも難民申請を勧めるんだけど、またしてもカーリドはネオナチに遭遇し、刺されてしまう。このネオナチの描き方もワンパターンだけどなあ。
妹が申請に行っている間にカーリドは死んだのか、と思っていたらちゃんと生きていて。このあたりがカウリスマキのテキトーさなんだけど。はたして妹は難民として認められるのかね。カーリドはどうなるのかね。
いっぽうヴィクストロムはキッチンカーで糊口をしのいでいる妻と遭遇。やさしいかな、ちゃんと妻とヨリを戻すような終わり方。そんなうまく行くのかなあ。っていうか、ヴィクストロムは寛容だなあ。
シリア難民を描いてるところが評価されたのかな。しかし、密航してヘルシンキまでやってきて難民申請し、住まいも保証されるとは日本の難民と大違いだ。とはいえ、こんな感じで難民がうじゃうじゃやってきたらどうするの? なところはある。難民にも言い分はあるだろうけど、じゃあ、日本国民の貧困者をさておいて難民に平等の権利を付与するべきなのか? もっともっと難民を受け入れるべきなのか。個人的には、慎重にしてもらいたい、と思う次第なんだけどね。
観客は5人だった。
ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ5/16新宿武蔵野館1監督/アンドレアス・ドレーゼン脚本/ライラ・シュティーラー
ドイツ/フランス映画。原題は“Rabiye Kurnaz gegen George W. Bush”。allcinemaのあらすじは「2001年9月のアメリカ同時多発テロから1ヵ月後、ドイツのブレーメンに暮らすトルコ移民のクルナス一家の長男ムラートが、旅先のパキスタンでタリバンの嫌疑をかけられ拘束され、キューバのグアンタナモにあるアメリカ軍の収容所に収監されてしまう。数ヵ月後にようやくその事実を知らされた母ラビエは途方に暮れる。息子の無実を確信しながらも、警察はまるで力になってくれず、藁にもすがる思いで頼ったのは、電話帳で見つけた人権派弁護士ベルンハルトだった。彼のアドバイスを受け、ブッシュ大統領を相手にアメリカで裁判を起こす決意をするラビエだったが…。」
Twitterへは「ドイツに住むトルコ人一家。の長男がカラチに行ったらタリバンと疑われ、グアンタナモに収容される。母親は八方手を尽くすが…。社会派だけど豊満すぎる母親の突撃ぶりばかり目について。切れ味はいまひとつ、な感じ。」
アメリカ政府によるアラブ人への偏見に立ち向かった母親の話である。のだけれど、捕まったのはイスラム教徒でもドイツ生まれ(多分)のトルコ人なんだよね。まあ、それがアフガンあたりでタリバンになったりするのはあり得るだろうけど。
しかし、ムラートの、逮捕以前の様子は描かれないので、どんなやつだったのか、は分からない。さらに、息子がカラチで拘束された、という連絡が来たとき、母親は息子が家にいるんだろう、な反応だったのも違和感。つまり、昨日家に戻って部屋にいるはずの息子がカラチで拘束!? な反応なんだもの。それとも、数日前から顔を見ていなかったのかね。しかし、カラチへ友人と観光に行くのに、親にいわずに出ていくのか? このあたりの経緯を考えると、息子ムラートの行動に疑問をもたれてもしょうがないんじゃないのかな。母親はムラートを、いい子、と思ってはいるんだろうけど。
なので、母親の、直感でしかない「息子は無実」という主張にいまいち共感できないところがあるんだよね。その根拠なき息子への信頼感で、テキトーに弁護士を探して、ゴリ押し的に相談する。相手が人権派の弁護士で、なので無料で担当してくれて、ラッキーだよな。とはいえ、このトルコ人一家、なかなかお金持ちなんだよな。亭主はベンツに勤めてるんだっけか。なので乗ってるクルマは高級車だし、のちのち亭主が妻に贈るクルマも高級車。貧乏な移民がいわれのない疑惑で苦労する話、という頭でいると、ちょっと混乱する。だって米国政府を訴えるのにアメリカまで一家そろって行ったり、を何回かしてたよな。母親は働いてる様子はなかったし。というのも、なんかいまいち同情しにくいところがあったかも。
・ムラートは、なぜ家族に話しもせずパキスタン旅行に出かけたのか。
・ムラートがどういう経緯でカラチで拘束されたのか。
・その後に、なぜ、グアンタナモに送られるに至ったのか。
・ムラートがかけられた疑いは、どんなものだったのか。
・ムラートの疑惑は晴れたのに、アメリカが解放しなかったのはなぜか?
・ドイツ政府とアメリカ政府との立場がどうだったのか。メルケル以前は弱腰? メルケルになって話が進展したのはなぜ? どうしてドイツはアメリカに強く出られなかったのか?
…といった経緯がほとんど描かれていないので、拘束した側=アメリカに対して憤りを感じにくいんだよね。こういう部分がちゃんと描かれていれば、アメリカ側の一方的な対応に、観客も反発できたと思うんだけど。
ムラートが拘束されてから何日目、という表示は出る。いつのまにか何年も経過してしまったりしているんだけど、母親はとくに気落ちしていないというのが、なんかね。いつもにこやかで、担当弁護士と、傍目には仲好し2人組みたいな感じで行動していて、元気モリモリな感じ。苦しみや哀しみが伝わってこないので、これまた同情しづらい。亭主も画面に登場するけど、ただ存在するだけ、でほとんど機能していない。母親みたいに、息子のために奔走する感じがまったくつたわってこないんだよな。なので、母親と弁護士がいい仲になっちゃうんじゃなかろうか? 亭主は弁護士に嫉妬しないのか? と、気になってしまう。
なとき、突然、ムラート解放、の報が入ってきて。またまた一家そろってアメリカまで出迎えに行くんだけど。いったい費用はいくらかかってるんだよ。の方が気になってしまう。は、さておき、飛行機から降りてきたのは別人で、ムラート解放は誤報だった、なんてこともあったりして。
なんだけど、ドイツにメルケル首相が誕生すると、これまで対応がいまいちだったのが、速攻で話が進むようになる。このあたり、その理由は何でなの? 知りたいよね。で、解放は突然にやってきて、映画的には盛り上がりがなさ過ぎて拍子抜け。
で、現れたムラートの姿に、え? と驚いてしまった。髪は伸び放題。なんでなの? ムスリムは拘束中は髪を切らないという信念でもあるのか? しかも顔つきが、冒頭付近にでてきた写真と違うし。拘束はいいがかり、と分かっていても、なんか怪しいやつ、という印象が深まるばかりだったんだよな。ムラート君。
というわけで、母親やムラートにはあまり同情できずな映画だった。まあ、お調子者で陽気な肝っ玉おっかさんが奮闘する話にしたんだろうけど、その分、リアリティは欠如して、感情移入できにくい話になってたな。
・グアンタナモでは、アメリカ兵によるイタズラ的な拷問もあったようだ。そういうのは、『モーリタニアン 黒塗りの記録』とかあったようだけど。この映画では、さらりとしか描かれずだったな。
ありふれた教室5/21シネ・リーブル池袋シアター2監督/イルケル・チャタク脚本/イルケル・チャタク、ヨハネス・ドゥンカー
ドイツ映画。原題は“Das Lehrerzimmer”。公式HPのあらすじは「仕事熱心で生徒思いの新任教師カーラは、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を獲得しつつあった。そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として、教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自の犯人捜しを開始。するとカーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物が盗みを働く瞬間が記録されていた。やがて盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱、同僚教師との対立を招いてしまう。カーラは、後戻りできない孤立無援の窮地に陥っていくのだった…。」
Twitterへは「昨今はおだてられ叱られずに育った子供や、その親たちは権利意識に敏感。教師は腰がひけ、防衛本能やプライバシーに敏感となる。そして嘘もつき通せば勝ちになる。いったい、悪はどこに存在するのか。ざわざわと緊張感の連続だった。」
『パリ20区、僕たちのクラス』みたいな感じかと思ったら大違い。校内の盗難事件をきっけかに、学校や教師にとってまずい出来事が次々に起こり、窮地に追いつめられていく。発生する出来事は現在の学校、社会、人間関係を象徴化するようなものばかりで、こういった出来事がまとめて起こったらたいへんだ。出来事を誇張し、ひとつにまとめて表現するという寓話的な世界で、現代社会、そして学校の縮図を突きつけられる。冒頭からラストシーンまで、緊張感の連続だった。
盗みが発生したからといって子供を疑い、半強制的に子どもにあやしい奴、をチクらせるやり方はまずかったよな。カーラも批判してたけど、尋問した教師たちは「他に手立てがない」感じでむにゃむにゃ。なので、一計を案じたカーラは財布を突っ込んだ上着を椅子にかけ、PCの録画機能をONにして離席。授業を終えて再生すると、怪しい人物の腕が映っている。シャツの柄から特定し、個人的にその相手(事務員?)であるクーンに話しに行くんだけど、話をしても否定する。なのでカーラは校長にそのビデオを見せると、校長はクーンを呼びつけ、校長室で映像を見る。のだけれど、顔も映ってないし決定的な証拠と言えないと否定。職員室に監視カメラを置くなんて、とカーラを非難する。で、この学校に通う息子のオスカーを連れ、帰宅してしまう。
しかし、傍目には決定的と言える映像を撮られても言説を変えないこのオバサンは何なんだ。日本の映画ならその場で泣き崩れるだろうに。サイコパスかよ。つまりまあ、サイコな人が自己主張すると手に負えない、ということを言ってるのかも。
生徒の人格を尊重しつつ、盗人捜しをせねばならない教師のジレンマ、も分かる。むかしならひっぱたいても、親ですら文句はでなかった。たとえ生徒が無罪だったとしても。でも、いまじゃ保護者は子どもの権利や、知る権利を掲げて教師に迫ってくる。学校側は、警察に相談しようか、なんて考えているところだから、問題の映像を公にはできない。けれど、どこからか映像の存在を知った保護者は、事件の全容を知りたがり、映像を見せろ、と迫ってくる。
さらに、学校新聞による新任教師カーラへの取材があって、ここでも盗難事件や映像について、を追及してくる。しかし、生徒にこんな権利があるのかよ、というような鋭さで、カーラはタジタジ。発行前に原稿を見せるよう言ったのに無視され、気がついたら発行されていて、学校中が騒然。まあ、実際にこんなことまでする生徒はいないだろうけど、しようと思えばできる環境にあるのだな、ドイツの生徒は。そういえば、職員会議に生徒が臨席している場面も合ったけど、『パリ20区、僕たちのクラス』にも同じような場面があったような。彼の地の生徒は、学校運営を監視することもできる、のだな。民主的も、ここまでいくと問題ありな感じもするけどね。
カーラはちっとも悪くないのに、どんどんドツボにハマっていく。そういう脚本にしているのは分かるけど、究極的にはあり得る可能性の一つだな、と思えてくる。カーラは、すべての原因は私、と学校を辞めようとするけど、人材不足だからと校長に慰留される。他の教師たちも、同情的に見えるけど、盗撮はまずかったよな、という態度だ。
母親が盗人疑惑の渦中にいるのに、息子のオスカーは平気な様子で登校し、授業を受けている。しかも、担任はカーラだから、表面上は何もなかったかのように話しかけている。この違和感…。他の生徒がオスカーに意地悪したり、もしない。これも不思議だけど、そういう設定と展開にしているのだろうな。実際にこんな状況で、犯罪者と言われている母親をもつ子どもが精神的に耐えられるはずもなかろう。日本なら家に閉じこもっちゃうだろう。で、よくある感じで、家の前に「泥棒」の落書きやビラが貼られるという低次元の演出で、犯罪疑惑の人を苦しめるアホな一般大衆、という構図で見せるんだろうな。しかし、この映画はそうしない。オスカーは母親を信じていて、教師のカーラに「謝罪しろ!」と刃向かってくる。
このときカーラに傷を負わせたせいで、オスカーは10日間だったかな、の停学処分を下されるんだけど、それを守らず登校してくる。教師の説得にも応じず、机にしがみついている。その結果、学校側は警察の力を借りる。ラストシーン。2人の警官に椅子ごとかつがれ運ばれていくオスカーは、まるで王様のようだ。本来なら非難されて萎縮するだろう存在が、逆に学校を支配してしまっている。そんな風に見えた。
カーラはポーランド人だけどドイツ生まれというから、移民二世なのか。同僚にもポーランド語を話すのがいたから、フツーなのかも。とはいえ、かつてドイツはポーランドを侵略し、ユダヤ人の強制収容所をつくった。だから、ドイツは国家としてポーランドにも配慮があるんだろうけど、個人のレベルではどうなんだろう? 蔑視は残ってたりするのだろうか? も、ちょっと気にかかった。
生徒には、ヒジャブをかぶった生徒もした。そういえば、最初に盗人疑惑を向けられた生徒はトルコ移民の子どもで、たまたま学校に大金を持ってきていたからだった。移民国家ドイツは、いろんな課題を内包しながらの運転なんだな。学校の先生もたいへんだ。これから日本も、同じようなことになるのかいな。
ピクニック at ハンギング・ロック5/23ル・シネマ 渋谷宮下監督/ピーター・ウィアー脚本/クリフ・グリーン
オーストラリア映画。原題は“Picnic at Hanging Rock”。公式HPのあらすじは「1900年、2月14日。セイント・バレンタイン・デイ、寄宿制女子学校アップルヤード・ カレッジの生徒が、二人の教師とともに岩山ハンギング・ロックに出かけた。規律正しい生活を送ることを余儀なくされる生徒たちにとってこのピクニックは束の間の息抜きとなり、生徒皆が待ち望んでいたものだった。岩山では、力の影響からか教師たちの時計が12時ちょうどで止まってしまう不思議な現象が起こる。マリオン、ミランダ、アーマ、イディスの4人は、岩の数値を調べると言い岩山へ登り始めるが、イディスは途中で怖くなり悪鳴を上げて逃げ帰る。その後、岩に登った3人と教師マクロウが、忽然と姿を消してしまう・・・」
Twitterへは「★」
1975年製作、1986年初公開、2024年に4Kレストア版でリバイバル。この4Kレストア版を見たわけだが。
謎、儚い女子生徒、ホラー、女の子が美しい、幻想的、耽美的、乙女…。とか、Webに書かれた感想には色んな言葉が並んでるけど、そんなの全然感じなかったよ。話としては↑のあらすじ通りで、でも、謎には迫ってないし、ホラー感もない。多少幻想的な撮り方をしてるけど、フォトジェニックな雰囲気がするだけで薄っぺら。女の子たちも、とくにきれい、美しいとも感じなかった。娘はたくさん登場するけど、特長的な顔立ちの娘はいなくて、並の美人な感じ。魅力的な雰囲気の娘はおらんかった。デブ(メガネもかけてる)もいればメガネもいるし。白いドレスとかコルセットに惑わされすぎじゃないか? 
女子生徒はたくさんでてくるけど、始原物に掘り下げた描写がほとんどないので、キャラ立ちしてないのも、いまいちだ。ピクニックに行かず、残った娘も1人いるんだけど、よく理由も分からないし、彼女が、消えた娘とどういう関係だったかもアバウト。女教師に至っては、ただの記号でしかない。もうちょいなんとかせいよ、な感じだ。
ホラー感はまったくない。謎を感じさせる伏線というか、思わせぶりな何か、も時計が12時で止まった、ぐらいしかない。ただもう、娘たちが馬車に乗って岩山に行き、のんびりごろごろ。なかの3人の娘が好奇心で、調べてくるとか言って登っていき、それをおデブちゃんも追いかけていった。それだけ。
学校では時間になっても戻って来ないので校長が心配。そしたら9時過ぎだったか馬車が戻ってきて、生徒4人と女教師の5人が行方不明に。でも、おデブちゃんは途中で引き返してきたとか言って無事で、足に草の切り傷があった程度。
岩山には他に中年夫婦と青年2人がいたんだけど、接点は、青年2人が娘4人がせせらぎを渡るところを見ていただけ。なんだけど、この4人は何者なんだ? 青年1人は中年夫婦の息子で、もう一人の年長青年は使用人? 青年は、女子生徒の一人が従姉妹だとかいってたよなあ。よくわからん。おかしかったのは、年長青年がワインの瓶を青年に渡すと、青年は口の部分を服で拭いて飲もうとするところ。ナイーブなのね。はいいけど、この話の何に関係があるんだ?
で、警察や村人一同が岩山を調べるが手がかりなし。高さが190メートル? 程度の山なんてくまなく簡単に調べられると思うんだけどね。
青年だったか、が、女教師が登っていく様子を目撃したとかで、で、それが下着姿だった、とか言っていた。でも、その話だけで映像も何もない。1週間ぐらいして、年長青年が「探しに行こう!」と遅まきながら言って、青年も連れて行ったんだっけか、で岩山に行くんだけど成果なし。だけど青年は落下したか何かで怪我して、どうやって呼んだのか知らんが馬車が来て連れて帰った。その馬車がまだ岩山から遠くないとき、年長青年が岩の洞で娘1人を発見。去りゆく馬車に声をかけるが、聞こえてないよな。なのに、娘は救出される。このあたりの展開のいい加減さはなんなんだ。
ところが、警察は救出された娘から何も聞き出さないし、何があったのかの経緯も分からない。せいぜい分かるのは、学校の小間使い? が、娘の着衣からコルセットが消えている、ということを言うのみ。元気になった娘は、なんだかしらんがさっさと外国に去って行ってしまう。こういうところからして、映画づくりはテキトー。これは事実ベースじゃないだろ。
さてこの事件は地元で話題になり、生徒のうちの3人が退学を申し出たという。3人行方不明なので、6人。さらに、とってつけたようなあって、生徒の一人が実は孤児で、身元引受人が学費を払っていたんだけど、連絡もなく学費も送られてこない。なのが校長は、うちは慈善事業ではない、と退学させてしまう。これで7人、一挙に生徒がいなくなってしまった。これを悲観して酒に走る校長。映画の終わりのクレジットに、「後日校長が岩山で死んでいるのが発見された。登ろうとして転落したようだ」みたいな文章が出てきて、これで学校は倒産ですかね。
そうそう。例の、娘を発見した年長青年も孤児で、どうやら退学させられたのは彼の妹のような感じなんだけど。彼は、学校に妹がいる、なんて言っていなかった。幼いときに別れたから、分からないのか? というような、つじつまの合わなさの謎はたくさんあるんだけどね。
というわけで、女生徒にワクワクもしなかったし、ファンタジックさもない。神隠し的な何かも薄い。
時計が狂うのは、磁力線のせいかね。1900年当時のゼンマイ時計が磁力線でそうなるのかどうかは知らんけど。なんか、平板な話だった。
バティモン5 望まれざる者5/31ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ラジ・リ脚本/ラジ・リ、ジョルダーノ・ジェデルリーニ
フランス/ベルギー映画。原題は“Batiment 5”。公式HPのあらすじは「パリ郊外(バンリュー)。ここに立ち並ぶいくつもの団地には労働者階級の移民家族たちが 多く暮らしている。再開発計画があるこのエリアの一画=バティモン5では、老朽化が進んだ団地の取り壊し計画が進められていた。市長の急逝で、臨時市長となった医者のピエールは、汚職を追及されていた前任とは異なり、クリーンな政治活動を行う若き政治家だ。居住棟エリアの復興と治安改善を政策にかかげ、理想に燃えていた。一方、バティモン5の住人で移民たちのケアスタッフとして働くマリにルーツを持つフランス人女性アビーは、行政の怠慢な対応に苦しむ住人たちの助けになりたいと考えている。友人ブラズの手を借りながら、住民たちが抱える問題に向き合う日々を送っていた。日頃から行政と住民との間には大きな溝があったが、ある事件をきっかけに両者の衝突は激化することになる。バティモン5の治安改善のために強硬な手段をとる市長ピエールと、理不尽に追い込まれる住民たちを先導するアビー、その両者間の均衡は崩れ去り、激しい抗争へと発展していく」
Twitterへは「フランス。廃墟のような団地に住む多くの移民。取り壊して再開発を目論む市当局。フランスヘの憧れと、現実とのギャップ。対立はどろどろに。だから移民なんて気軽に受け入れない方がいい、とみんな思うんじゃないのか、これ見たら。」
なんかなあ。どこにも、誰にも共感できない映画だった。最後に追い出される移民たちにしても、そうなる前に何かしたか? といいたくなってしまう。気の毒なところはあるけど、なにかあると、すぐ言い訳。自己主張。受け入れられないと罵詈雑言。そして暴力。
難民ではなく、移民、なのか。フランスは移民政策を進めているようだけど、まあ、これが諸悪の根源だな。移民は、夢を抱いてやってくる。だからって厚遇されるわけじゃない。肉体労働、底辺で働くしかない。住まいもよくない。狭い2DKぐらいに、どんどん親戚が頼ってやってきて、10人ぐらい住むことになるらしい。正直者ばかりじゃないから団地は堕落する。落書き、物の放置、団地内での食堂開業もあるようだ。期待する仕事がないから無許可の自動車修理業を始め、公害をたれ流す。役所や警察がそれを指摘しても、しょうがないだろ、と言い訳するのはいい方で、バーナーに火をつけて反抗する。これじゃエアガン撃たれてもしょうがないだろ。と、思えてくる。
フランスは移民政策を進めている、ので、「望まれざる者」というサブタイトルには違和感。望まれてるんだろ? それを、望まれていないような言い方をするのは、どうなんだ?
アビーは、あらすじにはマリ系と書いているけど、映画の中でそんな説明あったか? は、市役所職員だとばっかり思ってたけど、移民のケアが仕事なのか。なら、仕事のあっせんとか、相談事の相手だけじゃなくて、フランスになじむためにはどうすればいいか、を教えなくちゃな。自分も住んでいる件の団地の落書きを、なんとかするよう働きかけるとか。団地内の無許可食堂をなんとかするようにするとか、もしたらいい。そういう、フランスを支える人材になるためにするべきことを指導するのも仕事じゃないのかね。文句いうまえに、きちんとしろ、と思ってしまう。
川口市の芝園団地は、5千人規模だけど半数が外国人だという。ゴミや騒音などのトラブルもあったけど、日本人と外国人の歩み寄りで、ひどい状態にはなっていないという。
というようなことを勘案すると、差別的にはなってしまうけれど、やっぱ人種の問題ってあるんじゃなかろうかと思っちゃうよね。悪いけど。
この映画のよくないところは、再開発計画についてほんんど説明してないところだな。一方的に市側が古くなった建物を取り壊したり、これから取り壊すところに部屋の買い上げを通知したり、最後は強制退去になったりしてるけど、フツー、説明もなくそんなことできるはずがない。このあたりの説明を省いて、市側を悪人に仕立てるようなシナリオになっているような気がする。
あるいは、市議会にも反対派はいるはずで。ピエールは議員間の投票で、現副市長に8対6で勝っていたはず。ってことは、移民の代表でもある副市長派もいるはずで、最後の強制退去については反対意見を唱える議員あるいは派閥もいるはず。でも、そういうのを故意に排除した話にしている。このあたり、映画として評価できないところだな。
その副市長もいい加減なやつで。前市長に対しても、現市長に対しても、従いはするけど本心では支持してない感じ。というのが煮え切らない。そんなに自分の生活が大事かよ。といいつつ、団地の中にある違法な食堂で飯を食べていたりする。移民やムスリムには、仲間だよ、といいつつ、することは市長の手先という体たらく。
そもそもピエールは、たまたま前市長が急死したせいで祭りあげられた市長。普段は医師で、議員としてフツーにやってきた人物。とはいえ、市会議員になってる時点でヤバいやつだと思うけど。で、何党なのか知らんけど、国会議員からの指示もあって、自分の思ったような政策が取れない、のか? だから、前市長の、汚職がらみの再開発事業に反対もできず、踏襲しているのか? というあたり疑問。とはいえ、老朽化で建物が危険、ということであるのなら、建て替えは必要だろう。ただし、早急にというのではなく、現住民の移転先なども考慮し、団地を買っている人には相応の補償をするのが妥当になる。だから、買い上げを通達したんだろうけど、しょうがないんじゃね。そんなことしたくないなら議員なんてやってるなよ、な気がする。で、結局自分の意志はどこかにいってしまい、件の団地を倒壊の危険があるから強制退去にしちまえ、って、なるか? なんか話が強引すぎて、どこにも納得感がない。
アビーも沸点が近くて、団地を買い上げるという通達に激高して市長室に、制止を振り切って入り込むのは、ありゃ問題だろ。さらに、ブラズが、新団地の看板を燃やして盛り上がるの見て、制止もしない。ありゃヤバすぎだろ。いくら新団地の間取りが狭くて、大家族が住めないからって…。そもそも親戚を呼びつけて大家族にしちゃってる移民の方も問題があるわけで。移民を排除するために小家族の間取りにしている、のかどうかは分からない。だって、フランスは移民政策を推進しているのだから、逆行することはせんだろ。してるとしたら、なんで? となる
アビーもブラズも、憤りと反発ばかりで、どうやったら融和できるか、という生き方をしていない。もっと頭を使えよ、と思ってしまう。ブラズの父親はいいやつで、でも、不法な自動車修理場を営んでいて、それを指摘されると、息子のブラズまで暴れる。そのまえに、合法な仕事をしたらいい。なに? 合法ではロクな仕事がない? なことはないと思うぞ。フランスは国家として移民政策を進めているのだから、人手不足なんだろ? もっとうまく仕事をみつけろよ。と思ってしまう。
で、最後は、団地が火事になり、調査したら倒壊のおそれがあるからと、通達もなく即刻退去しろ、の強行。警察が出動して住人を排除していく。これは、映画のために話を大げさにしてるとしか思えない。あんなこと、やったら問題になるだけ。実際にするわけない。それに、↑でも書いたけど、反対派議員が1人も登場しないのはおかしいだろ。いくら市長でも、あんな横暴、できるはずがない。
で、強制退去に激高したブラズが市長の個人宅に潜入し、クリスマスパーティ中の市長妻とシリア難民の父娘(この2人はなぜ市長宅にお呼ばれしてたんだ?)とを襲うんだけど、これまた前後の見境のない単純なやつ、としか言いようがない。アビーの同僚でもあるシリア難民娘がアビーに連絡し、彼女がやってきたから火付けはしなかったけど、ありゃ逮捕されて執行猶予なしの禁固刑だろ。
なんか、みんなアホとしか思えないようないい加減な映画だ。もっと現実に沿った話にすれば、無説得力があったろうに。誰にも、どこにも共感できないような話にしたせいで、もやもやとムカムカが去って行かないよ。
・ところで、各自が住んでいるところが、いまいちよく分からない。アビーは件の団地、だよな。ではブラズは? ひとり暮らしのようで、シリア難民の娘(フランス語を憶えようともしない父親と同居)の隣に住んでいるらしい。では、ブラズはどこに住んでいるのだ? ブラズの父親は、あの団地なのか? とか、もやもやする。
・アビーが、妹たち(?)とクリスマスツリーを飾ってる。妹に、ムスリムでもクリスマス、っていいの? っていわれるけど、もう一般的なお祭りになってるからいいのよ。それに、友達にどんなプレゼントをもらったか、いえるでしょ? なんていっている。おいおい、それでいいのかよ。

 
 

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