2024年6月

キッチンから花束を6/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/菊地久志脚本/菊地久志
公式HPのイントロダクションは「台湾人の両親をもち、 日本で生まれ育った 斉風瑞(ふーみんママ)。友人の一言から1971年、 神宮前に小さな中華風家庭料理のお店 「ふーみん」をオープン。父と母からもらった 確かな味覚と温かな愛情。なぜ、「ふーみん」は50年にわたって 愛されつづけるのか。様々なメニューが生まれたストーリー、 ふーみんママと料理の原点。数々の証言、日本と台湾、 そして斉風瑞の家族を 3年半にわたり追いつづけた長編ドキュメンタリー映画作品。」
Twitterへは「中華料理屋のドキュメンタリーで映画が1本撮れてしまうのね。前半は、人となり、有名なお客、独特な料理の数々で、まいった。昼飯食ってなかったのでなおさら。後半はちょっと息切れな感じ。しかし、タイトルが、よく分からんな。」
とくに興味があって見たわけではないんだが。序盤からの流れで、心を捉えられてしまった。2時35分からの回だったんだけど、まだ昼飯を食べてなくて。なもんだから、登場するメニューがどれもハンパなく旨そうに見える。食いてえ! しかもそのメニューが、フツーの中華屋にあるようなのじゃなくて、ひと工夫ふた工夫された食材の組み合わせで。納豆炒飯? なもの、食えるか、と思うんだけど。画面に登場する客が、「あれは絶品」「納豆は好きだけど調理された納豆はダメ。でも、あれだけは」とかなんとか褒めたりしてるから、なおさら興味が湧く。ママが自ら考えた料理もあれば、客に「こういうのやってみて」と請われて半信半疑でやったら、なかなかなのでメニューに加えた、とか。なかなか進取の気性に富んだオバチャンなのだ。気に入った。
常連客の証言もあるんだけど、平野レミぐらいしか分からなかったな。石津謙介の息子みたいのもいたけど、よく分からん。ほかにもファッション関係の人らしいの。あのあたり、なぜちゃんとキャプション出さんの? 五味太郎と個人の灘本唯人くらいしかキャプションが出ないのは不親切だよな。店のロゴとマークつくった人だから? うーむ。後半で溝の口の家むってのがでてきて、壁に灘本唯人の絵がかかってたけど、本物なら手元にある経緯も話してもらえばいいのに。
89分と短尺だから店と料理で突っ走るのかと思ったら、途中から様相が変わる。たしか、ママが店の厨房に立たなくなったのが2016年?
Yahoo!ニュースに経歴が載ってて、「1971年、25歳のときに東京・神宮前に「中華風家庭料理ふーみん」を開店。1986年、40歳で現在の東京・南青山に移転。オーナーシェフとして厨房に立ち続け2016年、70歳を機に「ふーみん」を甥の瀧澤一喜さんに任せ勇退。2021年、75歳のときに神奈川県川崎市に「斉」をオープン。」とあるから、いいんだな。↑の経歴では、神宮前から南青山の間に南平台にも店を出していた、ってのが抜けてるけどね。この映画の撮影が始まったのは2021年らしい。ということは、映画の中で厨房に立っている姿は、ヤラセ、ということになるよな。そういう絵が撮りたかったのかも知れないけど、なら、「ママは久しぶりに厨房に立った」とかなんとか断りを入れるのが筋だろう。
でまあ、半ばに姉妹4人が集まって旧懐談議があって。そのあと、台湾旅行の場面がでる。ナレーションでは、引退後に念願の、とかいってたけど、引退後5年以上も経ってるぞ。その間には台湾に行ってなかったのか? とか、ツッコミを入れたくなる映像が流れ出す。その台湾では、家庭料理の専門家みたいなおばちゃんに会うんだけど、これは誰が引き合わせたんだ? もしかして、こういう絵が撮りたくて監督が仕組んだのか? と疑ってしまう。さらに、高校時代の旧友と再会、とかいう場面もあるんだけど、ママは日本生まれじゃないのか? 旧友は日本語を話してなかったけど、こりゃどういうことだ? それに、旧友と話が盛り上がってるようにも見えなくて、最後の抱擁も、なんかムリやり臭い。これも、監督が仕組んだ? けど、上手く行かなかった? でも、ちょっとだけ見せた? な感じがしてしまう。
ママの甥があとを継いだらしい。その甥の登場が細切れで、いまいち把握しにくい。もっとしっかりフィーチャーすれば、町田の家(ママの妹の家だったのかな? そこから小学生の甥が腸詰めを運ばされたとか?)のこととか、溝の口の話にもつながりやすかったように思う。要は、一族紹介がパラパラと行われるから、全体像が分かりにくいんだよね。ママの実母が生きていて近々100歳とかも、あとの方でわかる。なのにその前に、実母が暮らしていたという溝の口の家をママが訪問する場面があったりするからややこしい。家財道具がなく、空虚感の漂う家。なのに、壁には灘本唯人の絵がかかってる。これじゃ、実母はもう故人、と勘違いしちゃうだろ。しかも、なぜ溝の口の家を訪問したのか。理由は明かされない。突然の無理矢理感があるんだよな。これまた、実母を中心に家族が集まってワイワイ、の時代があった、を紹介したいがための場面にしか思えない。でも、あまり効果を発揮していない。どころか、この溝の口の場面、ピンズレはひどいし、カメラもふらふら定まらない。カメラマンが違うのか? と思うほどだ。
てな感じで作為が見えだした後半は、人間に迫っているようでイマイチ焦点が定まらず、わざとらしさが見え隠れ。前半で紹介されたような料理の妙も、ほとんどでてこない。せいぜいが、病床にある人にネギ炒飯(だったかな?)を、店で食べる味はでないけれど、と持ち帰りで提供して喜ばれた、とかいう話を甥っ子がする程度で。なんか、いまいち盛り上がりに欠けるのだった。
・あの甥は、妹のうち誰の子なのか? が、見えなかった。妹が結婚したのは日本人のようだけど、その相手もでてこなかったしな。映画に出るのはやだったのかな。
・店には行ったことはない。ただ、座って開店を待つ客の場所が、あれ? たまに地下のギャラリーに行く小原流会館に似てるな、と思ったんだが。店の場所はまさにその小原流会館にあるらしい。でも、地下は何度もうろうろしたけど、気がつきもしなかった。食事時ではなかったからなね。
東京カウボーイ6/10ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/マーク・マリオット脚本/デイヴ・ボイル、藤谷文子
アメリカ映画らしい。原題は“Tokyo Cowboy”。公式HPのあらすじは「サカイヒデキは東京の大手食品商社に勤めるサラリーマン。さまざまな食のブランドの M&A を進めることが主な仕事で、プライベートでは上司である副社長のケイコと婚約している。会社が米国モンタナ州に所有する経営不振の牧場を収益化するため、希少価値の高い和牛に切り替えることを提案。和牛畜産業の専門家であるワダを連れてモンタナに向かう。空と大地がどこまでも続くモンタナでは東京の常識は通じず、ヒデキはすぐにトラブルに見舞われる。ワダが怪我で入院し、一人になったヒデキは場違いなスーツ姿で牧場主のペグに和牛の事業計画をプレゼンするが、邪険に扱われるばかり。そんな中、ヒデキはハビエルが副業として牧場の片隅で密かにキヌアを栽培していることを知る。おおらかで地に足のついた生活を楽しむハビエルと交流するうち、土地の魅力に気づき始めたヒデキは、スーツからカウボーイの格好に着替え、牧場の仕事を積極的に手伝うように。大規模な牛追いにも参加し、牧場の労働者たちと打ち解けていく中で、自身の効率一辺倒の働き方を見つめ直していく。やがてヒデキは、牧場再建の新たなプランを考えはじめるのが」
Twitterへは「傘下の米国の牧場を再建するべくやり手の社員が背広姿で乗り込むが、相手は本物のカウボーイ。そう話はうまく運ばない…。というありがちな話。井浦新主演で米国映画で監督は米国人。なぜかヒロインが藤谷文子で彼女は脚本も担当という不思議。」
↑のあらすじを読むと、映画では分からなかったことが分かるね。食品専門の商社だったのか。だから、最初は老舗のチョコレート会社を買収していた、と。分からんのは、サカイが米国の農場を売る、買う、ではなく、和牛で収益化しようと考えたことだな。その根拠はなんだったんだろう。しかも、米国に行ってからは、和牛の飼料となるトウモロコシの栽培が、その農場ではできない、と言下に否定されたりしていて。そのあたり、まったくリサーチしないで乗り込んで行ったのか? バカじゃねえの。と思ってしまう。まあ、そのあたりは映画として面白くするために目をつむっているのかもしれないけどね。
日本企業が米国の会社をテコ入れしようという話は『ガン・ホー』があって。1986年の映画だからまだ日本はイケイケの真っ最中。日米貿易摩擦で日本車がハンマーで叩き壊されたりして、米国の経済の低迷していた時代だ。あの頃と違っていまじゃアメリカは借金しまくりながらも経済は絶好調。株価も最高値を更新しつつある。そんな時代に、またもや日本企業がアメリカの牧場をM&Aする話? という気もするんだが、監督のマーク・マリオットは米国人で、でも日本滞在中の1989年に山田洋次の『男はつらいよ』の現場に見習いでついていたというから、60歳近いのか。でも長編は初監督らしい。もうひとり原案とプロデューサーを担当しているのがブリガム・テイラーという人で、こちらはディズニースタジオの人のようだ。こちらも50歳凸凹のようだ。で、脚本のデイヴ・ボイルはインデペンデントの監督・脚本家で「藤谷文子・北村一輝を迎えたサスペンス映画『Man from Reno』(2014)でロサンゼルス映画祭グランプリを受賞」と公式HPにある。藤谷文子の起用と、彼女の脚本参加には、デイヴ・ボイルとのつながりがあるのかな。
日本の大企業が米国の基幹産業を蹂躙していく様子をコミカルに描いた『ガン・ホー』。いっぽうこちらは、日本の中堅(までもいかない?)商社による米国の小規模経営の牧場のM&Aで、仕事としては食にターゲットした専門的なビジネスなので、いまの日本はそういう目で見られているのかな、とも思う反面で、日本人がアメリカ人の心にもつながる牧場の経営権を支配している、ということでは、現場を知らない東洋人がアメリカの夢をぶっ壊しに来てる、という構図は変わらないのだろうな。だから、日本人の描き方もステレオタイプで似通ってる。
この映画では、毎度ながら日本人気質丸出しのサカイが単身で米国に乗り込み、背広姿で牧場に行って乗馬しようとしたり、つねにビジネスケースから手を放さないとか、現場を知らないのにプランだけ押しつけるとか、トンチンカンなことをしでかしながらも徐々にカウボーイたちと心を通わせることになっていく。でも、サカイが心を開くまでに時間がかかりすぎて、報告を待つ日本の本社では牧場再建より売却の方がリスクがなくて手っ取り早い、という判断でサカイは見放されてしまう。同時に、会社の副社長でサカイの恋人であるケイコとも関係が怪しくなるのだが、牧場で働くラテン系のカウボーイのちょっとした内職仕事が突破口となり、牧場の維持と新事業の立ち上げに成功する、のかな、というところで映画は終わる。
全体にスローテンポで、ほのぼのな感じ。しかも米国人はみな人がよくて包容力や理解力もあるという善意でご都合主義な設定で、安心して笑って見ていられる。こういうのがアメリカ人の日本人に対する視点なのか、と。だけれど、いろいろ不自然なところもあるんだけどね。
そもそもやり手のサカイが、なぜ米国の牧場の売却に賛成せず、再建しようとしたのか? トウモロコシを栽培し、それで和牛を飼育すれば儲かると踏んだ、らしいけど。現地に行って初めてトウモロコシは育たないと知る。いくら映画のための設定だとしても、商社マンとしてお粗末すぎるだろ。さらに、牧場に行くのに和牛畜産業の専門家ワダを同行するんだけど、レンタカーを借りるのに、4WCにしろ、とワダにもレンタカーの人にも言われているのに、フツーのクルマに固執する。牧場にも背広姿で、牧場内を見学するのに馬に乗ると言われて「クルマで行けないのか?」とギョッとしつつ、背広のまま鞍にまたがろうとして馬に走られ乗る前に落馬して泥だらけになる。ステレオタイプな日本人と言うより、アホな日本人として描かれる。まったく失礼なこっちゃ。いまでも日本人はこんな見方をされとるのかね。
起死回生の力となるのが、ラテン系カウボーイのハビエルが牧場の一角に、ボスに内緒で栽培しているキアヌなんだけど、こっちはキアヌが何だか分からないからちんぷんかんぷん。街の市場にもっていって金に換えていたり、いったい何だろう? 映画が終わって調べたらスーパーパワーの穀物、みたいなものらしい。だったら、せめて簡単にでも映画の中で説明してくれよな。でないと、おお、な驚きにつながらんだろ。しかし、いくら広大な牧場だからって、その一角にキヌアを栽培していることが何年もボスや仲間に知られない、なんてことがあるかね。
ハビエルに「トウモロコシを!」と言っていたサカイも、キヌアが生育していることを知ると、じゃあトウモロコシも、となるのかと思ったらそう来なくて。最後の一発逆転に、キヌアを利用する。トウモロコシと和牛が暗礁に乗り上げ、でも、親しくなったボスやカウボーイのことを考えたら、売却もできない。さらには、ケイコから「会社はあなたを首にした」という通達を受け、どんづまりだったサカイに妙案が。自分やワダ、他の出資者を募って自分が牧場を買収し、キアヌによる農業経営と放牧を両立させようというのだよね。さらに、牧場に見つけた温泉も利用すれば、何とかなるのでは? な楽観的な終わり方だけど、まあ、こんなところがハッピーな落とし所なのかもね。そんなに話が上手く行くのかしらんけど。
あとは、サカイとケイコの関係かな。ケイコも40代として、なぜ副社長のポストに就いているのかは大きな疑問だし、その彼女とサカイが恋仲になった経緯も「?」だよな。すでに7年つき合って、婚約してから5年だったか。冒頭に近いところで、初台あたりの一戸建てを見学に行ったりしていて、うまくいっているんだろう、と思っていたらそうでもないらしく。牧場の再建については意見も異なるし、サカイもなんだかんだで日本にメールも入れなかったりして、どーも雲行きが怪しい。ラスト近く、牧場にやってきたケイコとサカイが露天風呂に入り、サカイが解決策を話す場面があるんだが。ここでケイコは、「あなたは、これまでちゃんと話をしてくれなかった」とかなんとか、意思疎通ができてなかったことを軽く非難するところがあるんだけど。「話す」って、なにを話し合うのかね。存在していた齟齬は、とくに見えなかったんだけど。まあ、映画的な演出なのかもしれないけどね。対立の解消は。
というわけで、そこそこ楽しめたけど、ツッコミどころはあったよな、やっぱり、な感じ。
・酒が飲めないのに、ハビエルの親戚の結婚パーティ(?)でバタンガというテキーラとコーラのカクテルをがぶ飲みできちゃうのは、どゆこと? ぶっ倒れもせず、二日酔いもしてなかったけど。
関心領域6/11ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ジョナサン・グレイザー脚本/ジョナサン・グレイザー
アメリカ /イギリス/ポーランド映画。原題は“The Zone of Interest”。公式HPの解説は「空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。」「どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?」
Twitterへは「肩すかし。微かなSEで列車到着や銃殺をほのめかし、時々ホラー音でさかなで。黒と赤の画面でざわつかせる。あとは平穏な日常風景。フツーなら「これじゃ2時間もたんだろ」になるところを押し通し、さあ、こういう表現もあるんだぞ、と粋がってる感じ。」
アカデミー賞にノミネートされたりした話題作。なんで構えてみたんだけど、拍子抜けだった。映像は淡々と説明もなくミドルショットでドキュメンタリーのよう。あとは、音やなんかで想像しろ、ということか。こういう仕掛けの映画を開発しました、で、監督は悦に入っているのかな。でも、映画としてはおおむね退屈。
奥様が手を入れた庭には花々、夏にはプールで子供たちが水浴び。豪勢な食卓で家族が語りあい、食事する。しかし、一つ塀の向こうは収容所。・奥様は、下着などを地元から雇ってる家政婦たちに「好きに選んで」と与える。
・奥様は、毛皮のコートを試しに着てみて悦に入り、家政婦に洗うよう指示する。
・奥様方の会話。「このダイヤ、歯磨き粉の中にあったのよ。やるわね」とかお茶を飲みながら語りあう。
・奥様は、知り合いのことを話し出す。「いまそこ(収容所)にいるのよ。欲しかったカーテンがあったんだけど、先に取られちゃった」とかなんとか。戦争前? は普通のつきあいだったんだろう。
・奥様は、亭主の転属・出世にお腹立ち。「いまの家がいいの。あなたが転属してもここに住めるよう話をして。ヒトラーに言ったら?」
・その豪邸は収容所の塀と隣り合わせ。
・ひっきりなしに列車の到着音。ユダヤ人が連れてこられている、を示唆。
・ときどきパンパンという音。もしかして抵抗者を射殺でもしているのか?
・庭からは、立ち上る煙。ユダヤ人を焼却しているのか。
・息子は、誰かの歯をベッドで弄んでいる。もしかして金歯? どうやって手に入れたんだか。
…というようなことが日常的に起こっている。これらをドキュメンタリー風に説明もなく淡々と映している。それが怖いかというと、そんなこともなくて。実をいうと、ずうっとこれなので飽きてくる。戦争を思わせる絵は、屋敷にやってくる部下たちや、収容所での兵士のアップ? が少し映るだけ。フツーならどこかでドラマを挟み込んで観客の気を惹こうとしがちだけど、そういうことは一切しない。
最後の方、亭主は単身赴任で、奥様は豪邸で子供たちと暮らしている。のが、突然風景が変わって、近代的な建物の中を誰かが掃除している。あれ? なんだ? と思うと、どうやらアウシュビッツ博物館みたいなものらしく、お客が帰ってがらんとした展示室内を清掃しているのだった。ガラスケースの中には、靴の山。収容所で亡くなったユダヤ人たちのものか。ここが一番インパクトがあるところ、だろうけど。どきっ、とするほどでもないかな。
ドイツ人はユダヤ人を人間扱いしていない、ということなんだろうけど。たとえば列車の到着から焼却、次の列車…を効率的に行うシステム案が収容所内で(?)検討されている。なかなかに合理的なんだな。そのオソロシサはそれとして。奥様方にも、いろいろ気持ち悪いところがある。そもそもユダヤ人からはぎ取った衣服や宝石、家財をありがたくいただき(軍が販売したんだろうけど)身につけたり家に置くという神経が分からない。薄気味悪く思わないのか? 日本人なら、元の持ち主の霊や怨念がこもっているからやだ、というのがフツーじゃないかね。現在だって、古着は嫌とか古書は汚い、という感情をもつひとがいるはず。もちろんドイツ人にも、人が身につけたものは欲しくない、というひとがいると思うけど、この映画はそういう感情はないかのように描く。それに、塀の向こうでユダヤ人が焼かれ、死んでいるのは奥様も知っているはず。いくら広々とした豪邸で召使いが何にもいたとしても、火葬場の煙が見え、もしかしたら遺灰が降ってきてるかも知れないようなところに住みたいか? 日本人なら100%嫌だと思うはずだけど、ドイツ人はへっちゃらなのか? ダメな人もいると思うんだけど、そういう側面は描かない。ドイツの収容所長やその奥様は、そんなものは気にしない、という風に描く。果たしてそうなのか? 意図的に片寄りすぎ、一方的すぎないか? と思っちゃうんだよなあ。別にナチ高官やその家族を擁護するつもりはないけど、そういう事実があったのか? それとも監督の想像なのか、が知りたいところではある。
分からなかったところもある。
・子供たちにヤッケを贈られて、子供たちと水遊び。のとき、ヘスが川の中からピンク色のものを拾い上げると、慌てて子供たちを連れて戻る。で、家の風呂で子供たちを徹底的に洗う。あれは、川に誰かの遺体でもあって、その一部をみつけた、ということなのか?
・その後で、ライラックがどうの、と話していたのはどういう意味があるんだろう?
・ラスト近く、単身赴任中の司令部かどこかの階段で、ヘスがもどす。2度吐いたかな。あれはどういう意味だ? 自分のしてることに嫌悪感でも感じたのか?
・あと、2つあるモノクロシーン。ひとつは前半で、少女が星のような明かりを追うんだか戯れるんだかするやつ。後半には、「ヘンゼルとグレーテル」をベースにしたようなやつ。ありゃなんなんだ? 何かのメタファー? 分からなかったでござる。
・それと、娘がピアノを弾く場面。これに字幕がつくんだよ。娘は歌ってないのに。もしかしてドイツ人あるいはポーランド人なら歌詞が浮かぶような有名な曲なのか? よく分からず。
・そして、冒頭の数分間の黒い画面。といっても濃い灰色なんだけど、あれは燃えた灰でも象徴しているのか。半ばには、真紅の画面が数分間。焼く炎とか血でも象徴しているのか。そして、ラストの数分間の黒い画面。で、思うに、ナチスの旗の色も赤と黒からなっていたよな、なんだけど。よく分からず。さらに、ノイズ音のようなのが時々あって、これで神経を逆なでする。なんなんだよ。
あんのこと6/17新宿武蔵野館1監督/入江悠脚本/入江悠
公式HPのあらすじは「21歳の主人公・杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅という変わった刑事と出会う。大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。週刊誌記者の桐野は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる」
Twitterへは「実話ベースらしいが、かなり持ってる感じで、 「凄まじい」が団体で押し寄せてくる。気の毒な娘の話かと思ったら途中から話が捻れてきて、コロナのバカ騒ぎも加わり、どんどん重苦しく…。バカすぎる母親には天誅は下らんのか。」
父親は出奔してたんだっけ。あまり記憶にない。家に物がないので小学生のときから万引きし、友人もいなくなって学校に行かなくなる。なので漢字は読めず、算数の計算も不得手。母親が鬼で、12歳の娘である杏に売春させる。16歳の頃には自然と覚醒剤常習者。というのが前提となる設定。
冒頭の場面は、ホテルで客を取ってるところ。相手は金を払おうとせず、覚醒剤を多量に摂取。杏は客の財布から紙幣を抜き取っていると、客は泡を吹いて倒れてしまう。その後の経緯はふっとばして、警察の取調室。多々羅に取り調べを受けるんだけど、この多々羅が変人で、取調室でヨガのポーズを取り始めたりする。杏は多々羅に「令状もってこいや」というが、多々羅は「令状取ると情状酌量できなくなるから」といい、結局、杏はパンツの中から覚醒剤を出すという流れ。気になるのは泡を吹いた客のことで、無事だったのか? それに、そのことを誰が通報したんだ? 杏が警察あるいは病院に連絡したのか? こういうところ、ちゃんと説明してないから、もやもやが残ったままなんだよね。
次の場面は、どっか(拘置所?)から出てくる杏で、いったい杏はどういう処分を受けたのか? 数日間の勾留で釈放された? 情状酌量? あー、このあたりも、もやもやする。で、杏が出てくるのを待ち受けていたのか、多々羅が接触してきて彼女を飯に連れて行く。そして、薬物更生者の自助グループのサルベージ赤羽とかいうところを紹介するのだけれど、後日分かるのは、このサルベージの講師が多々羅で、じゃ、多々羅が主催者? な感じで話が始まる。
杏が帰っていくのはぼろい団地みたいな所で。男がでてきた部屋に彼女が入っていくと、中はゴミだらけ。中年女が「おお、帰ってきたのか」とかいってるので、そのときはデリヘルの事務所かと思ったよ。中年女(実は母親)は、覚醒剤買う金があるならよこせ」的なことをいうしね。ここも、杏に「母親らしい言葉はないんか!」とかセリフをしゃべらせれば解決するのに。こういうところが、大雑把すぎというか、神経が行きとどいてない脚本だ。
この後は↑のあらすじにある通りで、ヘンテコな、でも本心はやさしい多々羅に心を開き、覚醒剤をやめ、髪も短く切ってサルベージに通うようになる。仕事も、祖母の介護をしたいからと介護施設のような所に行くが、給料が異様に安いことを知った多々羅が乗り込んで、そこは結局やめることになったんだっけかな。そういえば、わずかな給料からヨガマットと、桐野「なんでもいいから書けば」とか言われたんだったか、のためのノートを店で選んでいる場面があって。でも、心の中で「万引きしちゃえ」という葛藤がありながらも、ちゃんと金を払うシーンは、なかなかよかった。で、その後、誰の世話だったか忘れたけど別の介護施設で働けるようになって。きちんと働いていたら、とつぜん母親が乗り込んできて、娘の給料を渡せ! 私の子だ! とか大騒ぎになってします。施設が給与明細を実家に送ったから、の騒動らしい。なんとか収まったけど、杏は責任を感じて辞めようとするのを引き留められ、ついでにシェルターマンションを紹介され、そこでひとり暮らしするようになる。あー、それまではどこに住んでたんだっけか? 介護施設の一隅だっけか? 
凄いのが、小学校も出ていないので漢字が読めない。それを、多々羅を密着取材していた記者の桐野なんかに教わったり、さらに、外国人も大半の日本語学校に入って学び出す。このあたりの真摯さ、がんばりは健気で、迫ってくるものがある。
ところが逆境が襲い出す。まず、多々羅のセクハラ疑惑を桐野が記事にし、多々羅は逮捕。杏は行き場を失ってしまう。さらに、コロナ騒ぎで日本語学校が突然の休校。加えて仕事先の介護施設が、安全のために人員制限することになり、臨時雇いは解雇(なのか自宅待機なのか)。踏んだり蹴ったりの状態だ。杏はマンションでひとり孤独な生活を送る羽目になるんだけど、ある日、隣人が男女関係のなにかで突然やってきて、幼児を数日預かってくれとむりやり押しつけ消えてしまう。なんか、嫌〜な予感。ここで幼児が病気になるとか事故に遭うとか、さらなる試練に陥れようとしてるのか? とね。
子育ての経験もないなか、おしめの入手に戸惑ったりしながら、でも、ベビーカーは他人のをちょろまかしたりしてたけど、なんとか子どもも慣れてきて。ところが街中で偶然母親に遭遇。実家に連れてこられて手持ちの金を奪われ、「祖母がコロナかもしれない、仕事(売春)してこい! 」といわれ、従ってしまうところが杏の弱さなのか。で、戻ってくると、預かった幼児がいなくなり、母親は「児相が連れて行った」と言うんだけど、短時間に児童相談所がやってくるのか? 母親が連絡したのか? やめていた覚醒剤を打ち、ふらふら町を彷徨い、なぜか投身自殺。ええええ? という展開で、素直に納得はできず。なぜ死ぬ必要があったのか? 預かっていた幼児への責任? なんかなあ、な感じかな。
並行して挟まれるのが、幼児を預けた女性への聞き取り。あれがよく分からない。女性は、預かってもらって助かった、と話していたけど。あの聞き取りをしていたのは、誰なの? 警察? 児童相談所の人? まるで警察みたいな聞き取りだったけどな。なんか、もやもや。で、杏の墓参りがしたい、というと、遺骨は母親が持って帰ったけど、お墓はまだないでしょう、って言われてたな。
この映画、実際の事件をベースにしているらしいけど、いろいろ違いがあるようだ。
・映画の多々羅はサルベージに通う女性に関係を強要。実際は“警視庁本部庁舎1階の応接室で支援対象の40代の胸をもみ、服を脱ぐよう伝えて下着姿を携帯電話で撮影した”という(産経新聞の記事)。
・映画では週刊誌で記事。実際は、新聞の小さな記事。
・映画では、杏の存命中に多々羅が逮捕されているが、実際は、杏にあたる女性の死後に刑事が逮捕された。
・映画では、杏は21歳、実際の女性は25歳。などなど、刑事の犯罪を大げさにしている傾向がありそうだ。

母からの暴力・覚醒剤…コロナ禍に自死した25歳女性の壮絶人生
女性を「下着1枚」にしてスマホ撮影 組対5課の元刑事逮捕「警視庁内で2人きりの相談中に…」
コロナが奪った25歳の中学生活 路上で倒れていたハナ
元警視庁警部、2審も実刑 支援女性の下着姿撮影

多々羅という存在の是非が大きいかな。薬物依存者の社会復帰を応援する活動は立派だけど、ちょっと性的な誘引に弱いという性癖をどう捉えるか、てなことになるのかな。性癖を全否定でもなく、うまくバランスを取ることはできないものか、と思ってしまうけどね。女性の敵は徹底的にやっつけるべき、という人もいるのは分かるけど。
とはいえ、↑の2番目の記事を読むと、撮影の目的は性的嗜好ではなくダイエットに関する相談で、女性は自ら服を脱いだ、ということらしい。事実関係は正確には分からないけど、実際の刑事は嵌められた可能性もなくはないような…。
それにしても、この話の問題児は杏の母親だよな。彼女がどういう人生を送ってきたのか知らんけど、母親の面倒はみているようだけど、娘には売春させて金は自分がむしり取る。それが当然のような人間というのは何なんだ? 杏の健気さ、気の毒さはもちろんだけど、この母親のぶっ壊れた感覚がどっから来ているのか。そっちの方にむしろ興味が湧くね。そういえば、杏の父親は誰なんだろ。とか、祖母はこの事態をどう見ているのかとか、もね。
そして、コロナ騒ぎ。コロナに殺された感もある杏の孤独は、政策のせいだろう。はたしてコロナ対策は正しかったのか? ワクチン&マスク信者は、正しかった、と言うだろうけど。本当にあそこまでやる必要があったのか。というのは、今後の検証だろうな。
杏役の河合優実は『不適切にもほどがある!』のあの子だったのね。
オールド・フォックス 11歳の選択6/20新宿武蔵野館3監督/シャオ・ヤーチュエン脚本/シャオ・ヤーチュエン、チャン・イーウェン
原題は“老狐狸”。公式HPのあらすじは「台北郊外に父と二人で暮らすリャオジエ。コツコツと倹約しながら、いつか、自分たちの家と店を手に入れることを夢見ている。ある日、リャオジエは“老獪なキツネ”と呼ばれる地主・シャと出会う。優しくて誠実な父とは真逆で、生き抜くためには他人なんか関係ないと言い放つシャ。バブルでどんどん不動産の価格が高騰し、父子の夢が遠のいていくのを目の当たりにして、リャオジエの心は揺らぎ始める。図らずも、人生の選択を迫られたリャオジエが選び取った道とは…!?」
Twitterへは「台湾バブル期。店を持とうと倹約生活する親子。冷酷な大地主と知り合いになった息子が、同情はムダ、、知ったことか、で生きろ、と教えられクソガキになる話。よく分からんエピソードがとっ散らかってて、意味不明が多すぎ。」
大雑把な話は分かる。けれど、個々の人物やエピソードになると、いろいろアバウトすぎて輪郭がつかめない。なので、話にちっとも共感できないし、納得感もないのだよね。
1990年前後。息子は、父と二人暮らし。では母親は? はっきりと亡くなったとは言ってなかったよな。父親は、いつか理髪店をだしたくて倹約している。息子は、店をもったときのイメージを浮かべる。そこには、母親が理髪店で働く姿がある。え? どういうこと? 息子が、母親に焦がれる場面もなかったけどな。
父親はレストランのボーイ。器用なのかサックスを吹く。息子の服も縫ったりする。でも、音楽家や仕立屋になりたい訳ではなく、理髪店らしい。だれが髪を切るのだ? 父親にはその技術があるのか? で、シャのところの集金人で美人のお姉さんのリンが、どういう因果か近しい。息子が風邪を引くと面倒をみて食事に連れて行ったり。父親がつづいて風邪を引くと、これまた部屋に上がって世話をする。なんで?
レストランの客の女。あ、門脇麦だ。けど、ずっと得体が知れない。門脇麦である必要性はどこに? 日本人役でなく、フツーに台湾の、いつも1人で来ている女。なんなの? 後半になって、廃棄業者? の連れらしいのが分かるけど、だからなに? しかも、ただの客なのに、ボーイに向かって、息子さんに、とクリスマスプレゼントを差し出す。どういう関係?
息子は、レストランの隅で宿題をしてる。たまたま、集金人の美人のお姉さんリンが、なんかの業者のおっさん(門脇麦の連れ)にひそひそ話。環境問題だけじゃなくて、なんとかかんとかもあるよ、とかなんとか、はあ? な感じ。これを息子が耳にする。で、むそのことを、のちに知り合いになった地主に告げ口する。その結果、リンは雇用主である地主にボコボコにされる。
そういえば門脇麦も、連れ合いにボコられてたけど、ありゃなんなんだ?
息子は地主に、強いやつにつけ、弱いやつの弱みにつけ込め、的なことを教育されて、その気になってしまったから、な感じだけど。バカだろ、この息子。なにがなんでも店を出したい。そのために父親と倹約していた。のに、株が6倍だかに暴騰。地価も上がって賃料も高騰。手が出せなくなった。という背景があるにしても、ね。
地主がリャオジエを初めて見たのは病院で。そのとき地主は息子の死の直後だった。エレベーターに乗り込んで来たのは産まれたばかりのリャオジエを抱いた若い夫婦。妻がにこやかに笑っているが、夫は妻に「笑うな」とたしなめる。夫は、地主が子を失ったことを知っていたのか、喜びを控えたらしい。この態度を見て地主は、この男=リャオジエの父親は弱者の側の人間、と判断したらしい。はいいとして、その後もずっと地主は街の人たちを観察していたのか? いじめっ子に追われ、雨に濡れたままだったリャオジエをクルマに乗せ、家まで送ったり、後には自宅に連れて行ったりする。かつて地主は貧乏で、リャオジエと同じように「家を貸してくれ」とかなんとか頼み込んだことがあるから共通点がある、とかなんとかいってたけど、そんなんでリャオジエに肩入れするかね。リャオジエもこの時点では弱者なんだから、知ったことか、と排除するのが筋なんじゃないのか?
父子の階下の飯屋は、投資グループみたいのに大金を預け、もうかってウハウハだったらしいけど。投資グループが破綻したかなんかで夫の方が首をつるんだけど。株価暴落ということは描かれていないのが、分かりづらい。で、リャオジエは、事故物件なら安くなる、と知って地主に貸してくれるよう頼み込む。さて、葬儀には地主もやってきて、素直に手を合わせるのかと思ったら、さにあらずで。飯屋の息子らしいのが、借りているのに死んで申し訳ない。ついては物件を買いたい、というのだけれど、地主は「もう先約がある」と断るという冷血さ。リャオジエはウハウハだけれど、父親はこれを断る。というような流れだったかな。
で、2022年。建築家になったらしい息子が打ち合わせしていて、相手から「古狐」と呼ばれてるというオチがあるんだけど、これもよく分からず。
集金人の美人のお姉さんは、父親とどうにかなったのか? さらに、雇用主の地主との関係はどうなったのか? 門脇麦はどうなったのか? とかいうあたりはほったらかし。ああ、ストレスがたまる映画だ。
どーもこの映画の監督は、どう描けば観客に分かるか、の映画表現が余り良く分かっていない気がする。
・リャオジエが廃品置き場に行くと都合よく地主がいるというのは、なんなんだ?
・「他にもア●●なんとかの件が」どうしたこうした言ってるけど、なんなんだ?
・やたら雨の場面が多いけど。たいして意味はないだろ。
HOW TO BLOW UP6/24ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ダニエル・ゴールドヘイバー脚本/ アリエラ・ベアラー、ジョーダン・ショル、ダニエル・ゴールドヘイバー
原題は“How to Blow Up a Pipeline”。公式HPの解説は「環境破壊に人生を狂わされたZ世代の環境活動家たちが、石油パイプラインを破壊する大胆な作戦を実行する。やがて過激な決意が、友人、恋人、苦難に満ちた物語を持つ仲間たちを巻き込みながら暴力の象徴(=パイプライン)を爆破するという大胆なミッションへと結びついてゆく。若い世代のエネルギーは、予期せぬ混乱を招きながら、爆発的フィナーレへと疾走する。」
Twitterへは「環境活動家や国の政策に虐げられた青年たちが石油パイプラインを爆破しようとする話。昨今のアートへの暴力も似たようなもの? リアルというより、ドジでズッコケなところもあったり。人物紹介がいまいち上手くされてなくて、ちょい眠くなった。」
冒頭は、娘=ソチトル? が駐車中のクルマのタイヤを切り裂き、悪いことをしたらこうなる的な宣言書をワイパーに挟むのだけれど、やることがせこいな、あのクルマはどんな悪さをしたのだ? その後、タイマーセットしたスマホを放り投げたり、何かやってるようだけど、ほとんどなんだか分からず。と思っていたら、砂漠の一軒家に若者たちがゾロゾロ集まって来て、なにやらおっぱじめようという感じ。若者はほとんど紹介されないので、なにがなにやら誰が誰やら。なにをしようとしているのやら。なので、いささか退屈。
若者たちの素性はおいおい紹介されては行くのだけれど、まとめてゴソッとではなく、20分おきぐらいに、ポロリポロリと描かれる。なもんだから、最後の方で分かる連中もいる。まあ、最後のカップルについては、ラストのドンデンに関係するからしょうがないような気はするが。なんかなあ、な感じ。
一軒家で初対面のメンバーもいて。それぞれのつながりも、紹介されてはいたけど、頭に残るほど鮮明ではなくて、だから、結局、なんとなく仲間なのか、程度しか理解できなかった。記憶に残ったのは、爆弾製造のインディアンのマイケル。あと、先祖からの土地を国に収容されてしまった男ぐらいかな。その彼をビデオとりつつインタビューしてたのは、ジャーナリストではなく学生だったのか? ソチトルの知り合い? もしかして、施設で? あとは、レズのカップルがいて、片割れは白血病だっけか。あと、ソチトルの知り合いの黒人のオバサンは、慈善団体関連? そして、バカっぽいカップルが最後の方に説明される。
一同の目的は、どこかを通るパイプラインの爆破で。それで大企業の横暴にメッセージを送るとか言うもの。でも、インディアンのマイケルや土地を収用された男との直接的な因果関係は、あるのか? ないよな。要は、環境破壊に対する抵抗運動の一環として行う、なような感じ。パイプラインは概ね埋設されているけど、一部露出して地上を走っている。その地上部分については石油がこぼれないよう栓を締めるとか何とかいってるけど、埋設部についてはどうなんだ? こっちも同時に止まるのか?
にしても、以後の経緯はとても大雑把。マイケルが、調達した薬品でドラム缶を爆発物に。製造途中で爆破事件が起きるけど、あれで平気なのか? というような感じだけど、マイケルは製造を続行するという、なんともいい加減。で、できたドラム缶爆弾を、埋設パイプの上に1つ。このときだったか監視ドローンが飛んでくるんだけど、これを投擲で落としてしまうという、なんともご都合主義的な展開で、なんだかなあ。そして、地上部分のパイプの下に1つ、これはくくりつける。のだけれど、埋設部分の位置が簡単に分かってしまうのは、なんでなの? 地上部分については、持ち上げる途中で紐が切れ、黒人オバサンの足が折れてしまうと言うトンマな顛末。「紐が切れそう!」といってるのに無視するアホがどこにいる。
で、カップルは栓を締める役で、この2人の紹介のとき、娘の方は以前に別の仲間とテロ攻撃? ぽいことして捕まって。でも、仲間をチクって逮捕を免れた、という前歴が紹介され、オチにも係わってくるんだけど、それはさておき。さっさと栓を締めないで(まあ、タイミングもあるんだろうけど、互いの連絡は花火で、って、いつの時代の交信だよ。無線はバレる? 花火だってバレバレだと思うけどな)、いちゃいちゃセックスもどきしてると監視員がクルマでやってきて。どうやらドローンを探している様子。なので男の方が「やっつけよう」とかいいだして、ボックスにある電話線を引き千切る。監視員は、なんだこいつ、で発砲。娘の方は金網を切って栓を締め終わると男を捜してうろうろ、ですぐに見つかるというご都合主義だけど、男は肩を撃たれてる。それにしても、男は良く逃げおおせたもんだ。トンマと気の毒が一緒になって、ちょっと笑える。これまたご都合主義。で、2人はクルマで逃げるんだけど、一連のドタバタがパイプラインを管理してる組織に見つからないのが不思議すぎだ。で、2人はモーテルに入り、娘が男の肩から銃弾を摘出するんだけど、え? この娘、慣れてるな、な感じ。
この前後に、爆発物は2つとも見事に爆発。でも、途端にパトカーがサイレン鳴らしてやってくるという、はあ? と思っていたら、他の面々は逃げていったのに、ソチトルと白血病の娘だけが最初の一軒家に残り、仕掛けた爆弾で建物を破壊する。どーもこれはDNAなどの痕跡を残さないためのものらしいけど、ソチトルが残ったのは自ら登場する犯行声明をアップしたから、らしい。このあたりよく分からんのだけれど、ソチトルとしては、顔出しで犯行声明する、が重要だったらしい。で、逮捕されるんだけど、こんなに早く警察がきたのは例のカップルの娘の方が、かつてチクったときに知り合ったFBI職員にパイプライン爆破をタレ込みしていたから、らしいんだけど。これもソチトルの計画の一部だったみたいね。ただ、目的がよくわからないんだけどね。ソチトルも逃げてしまって問題ないと思うんだが…。
で、白血病の娘? が苦しんでる映像とかと、この爆破事件をきっかけに各所でテロが連発しているかのような映像がフラッシュして、話は終わる。このテロの連鎖を狙って、ソチトルはあえて捕まった、のかね。よくわからん。
全体にメンバーはのたのたした感じで、あまり緊張感がない。むしろ、だらんとしてる。その代わり、のべつ鳴ってる音楽でザワザワ感を出してる感じかな。
違国日記6/25シネ・リーブル池袋シアター1監督/瀬田なつき脚本/瀬田なつき
公式HPのあらすじは「両親を交通事故で亡くした15歳の朝。葬式の席で、親戚たちの心ない言葉が朝を突き刺す。そんな時、槙生がまっすぐ言い放った。「あなたを愛せるかどうかはわからない。でもわたしは決してあなたを踏みにじらない」槙生は、誰も引き取ろうとしない朝を勢いで引き取ることに。こうしてほぼ初対面のふたりの、少しぎこちない同居生活がはじまった。人見知りで片付けが苦手な槙生の職業は少女小説家。人懐っこく素直な性格の朝にとって、槙生は間違いなく初めて見るタイプの大人だった。対照的なふたりの生活は、当然のことながら戸惑いの連続。それでも、少しずつ確かにふたりの距離は近付いていた。だがある日、朝は槙生が隠しごとをしていることを知り、それまでの想いがあふれ出て衝突してしまう」
Twitterへは「新垣結衣の演技でなんとかかたちになってる感じ。15歳の娘のなに考えてるか分からん行動や会話は、違和感ありすぎ。あと、人間関係とか名前の読み方とか(原作知らんせいか)分かりにくすぎ。それから、父親の存在感がゼロなのが、なんだよ、だな。」
冒頭から違和感ありまくりで、話に入れない。まず、事故。両親は、父親はクルマの中。母親はクルマの横に立っている。そこにトラック。で、どういう事故なんだ? イメージできない。トラックが居眠りかなんかでクルマも大破? で、娘の持っていたアイスの玉だけが落下する…。ダサい演出というか、古くさ。で、槙生が呼ばれ警察? に行くと朝と、槙生の母親がいて、遺体を見分させられている。は? 朝は現場で両親の事故を目撃しているのだから、死姿も見てるだろうに。またここで損壊した遺体を見せられるのか? 親類も、見分しなきゃいけないの? よくあるのは病院の霊安室で白い布をとって、だけど、どっちが一般的なんだ? 
葬儀会場。両親の名字が違う。は? 参列者のひそひそ声で説明してる様子だけど、よく聞こえないし。は? な感じ。で、この場で、槙生が朝に、うちへ着いてくるか? と聞いて、朝も「はい」と返事する。で、布団袋の小さいのみたいなのを肩に、朝は槙生について槙生のマンションへ。の流れが、変だろ。調べたら、原作で両親は内縁関係で、娘の朝は父親の名字になっているらしい。そういうのは、ちゃんと説明しないと。そもそもなぜ内縁関係のまま子を育てているのか。のちのち分かるけど、母親は子供の頃に病気がちで、現実的な考えを持つ人だった、とかいわれている。であればなおさらフツーの結婚を望むのではないの? それと、葬儀は一般的に2、3日後に執り行われるはず。となると、事故当日から朝は、どうしていたのだ? 実家で1人でいたのか? 牧夫の母つまり朝の祖母は、郊外でひとり暮らしだけど。そこにいた? とか、気になってしまう。で、葬儀後、朝は荷物を肩に槙生についてくる。あの荷物はなんなのだ? 葬儀にあんなものもって参列したのか? だって、槙生の所に行く、と決断したのは葬儀の後の精進落としの会食時だろ? いやまて、葬儀は誰が取り仕切ったのだ? など、疑問がどんどん湧いてくる。さらに、モノだらけの槙生の家に入るのに、朝は荷物を肩にかけたままで。本の山をくずしても荷物を肩から降ろさない。なんだこの無神経な娘は。と思ってしまったのだよ。
これ以後の朝の態度が、また違和感。翌日は、いきなり卒業式? で、1人で行くという。学校で友人や教師に笑顔で挨拶。のなかで えみり が深刻な顔で話しかける。「両親が…」「いいの。フツーに卒業式に出たいの」というところに女教師が来て、両親の事故のことで話しかける。事故のことを教師に話したのが えみり  と分かると、「嫌い。もう会いたくない!」と怒って学校をあとにし、卒業式に参列せずに槙生のマンションに戻る。のだけれど、この娘はどういう感覚をしてるんだろう。学校からもどったのは元の実家で。でも、鍵がかかっていて入れない。なんてことがあるか? 鍵ぐらいもってないのか? 後日、朝は鍵をひねって入っていたけどな。筆業式の日は、もっていなかった? しかし、なんで実家に戻るんだよ。で、とぼとぼ戻ると路上に槙生が待っていて。帰ってこないから心配になった、と。朝は、道が分からなくなった、といっていたけど、そんなのメールすりゃいいじゃねえか。なのに、なぜ実家に戻る? で、槙生のマンションの近くに戻って、このとき、遠景に新宿西口の高層ビル群。ってことは、槙生のマンションは中野とか杉並あたり? 実家がどこか知らんが、どれだけ離れているのか、気になるよなあ。にしても、この動揺は何だ。両親の死なんかより、卒業式がそんなに大事? 同級生や教師から気にされたくない? はあ? そもそも両親が突然死んだら、顔や態度に出るだろうに。なんだこの明るさと身勝手さは…。
ところで、朝が卒業式の日に学校に行き、教師から呼び止められたとき、「タクミさん」がどうのこうの、と教師が言うのを聞いて、タクミってだれ? となったんだよね。のちのち朝の名字と気づくのではあるけれど。タクミなんて、フツーは名前で名字とは誰も思わんぞ。原作知ってる人ならいざ知らず。朝が田汲朝で、田汲は父親の姓。母親は高代姓で、槙生も未婚なので高代槙生、だなんて、分からんだろ。そのヒントになるのは、葬儀のときの看板の文字しかない。あんなの一瞬だし、両親の姓が違うとか、説明もないのでわかりゃせんぞ。
槙生は朝に、あんたのお母さん(槙生にとっては姉)が嫌い。という。その理由について聞かれても「話さない。大人には大人の考えがある」とかいうようなことを言っていたけど、あとから大した理由ではないということが分かる。姉は槙生に「夢ばかり見てないで現実を見ろ」といっていたらしい。それが、嫌い、の理由らしい。はあ? 小説家になりたい、とか、ファンタジー世界の夢想に浸ってなにが悪い、だけど。それを否定されたからって死ぬほど嫌いになる理由にもならんだろうに。で、槙生の母が言うには、槙生の姉は小さい頃に病気をして、病院に通っていたから、だという。ところが姉が通院していたことを、槙生は覚えていない。そんなバカなことがあるかよ。不自然さも極まる。で、その病気のせいで姉は現実的になったらしいけど、だからなに? だよな。どういう病気化の説明もないし。
時間をもどして。出席しなかった卒業式の後、槙生と朝は実家の片付けに行くのだけれど、室内は生活感がなく住宅展示場のよう。で、槙生は、捨てるもの、もって帰るものを分ける、といい段ボール詰めが始まる。は? いやじつは、そもそも、中学を卒業して高校に入る年齢なんだから、あえて初対面の叔母・槙生と暮らさなくても、1人で実家暮らしができるのではないか? と。別に賃借するする必要もない訳だし。映画では、実家のローンが残っているとか、実家が賃貸物件だとか、は説明されていない。ローンがあれば売る必要はあるだろうけど、借金が残ることはないような気もする。ローンが完済してるなら、物置として使えばいいし。それと、祖母は体調がどうので朝を引き取れない、なことを言っていた。けれど、後半で槙生が祖母(槙生の母)を訪ねるとちゃんと綺麗に、立派な家で暮らしていた。ここでいいじゃん。と思ったね。むしろ、祖母の体調が不安なら、高校生の孫が一緒に住むのはメリットがあるじゃん。
それともうひとつ。父親の親戚は、いないのか? が気になった。こちらが遺産分与について要求を言ってきているとしたら、槙生と朝が勝手にモノを処分したりはできないはず。というか、この時点で弁護士なりが介在する可能性もある。というのも、後に朝の後見監督人というのが登場し、預金通帳から大金が引き出されていることを疑問視し、槙生と朝を追及しているからだ。ということは、朝に残された資産をどうするか、家裁が入っている可能性が高い。フツーはそんなことにはならないと思うんだが。そうなった理由を知りたい気がする。でまた、この時点で朝の両親には借金がなく、かなりの資産があったことが想定できるのだよな。あ、それと。金は朝が引き出してMacBook Proを買ったらしい。しかし、そういうことを勝手にするかね。なんて娘だ。しかも、MacBook Proがあれば音楽がつくれるからと聞いた、というだけの理由で。そんなもの買ったら、そんなに広くもない槙生の家で目立ってしょうがないだろ。うそくさいエピソードだ。
でまあ、実家をどうしたかについては、それ以上の言及はなし。もやもやしか残らない。なので実家の荷物をどこに送ったのか、何を持って帰ったのかは分からないんだが、槙生の家にはそれほどの荷物は持ち帰れないだろう。ところで、後日、祖母、槙生、朝で食事をしたとき、祖母が槙生に、朝の母の日記を託す。送られてきた遺品の中にあったが、内容を見て、直接朝に渡すより、いったんは槙生の手に、と判断してのことらしい。のだが、この遺品は誰が送ったものなのだ? 槙生と朝が整理した段ボールなのか? よく形見分けというのはあるけど、何をどう分けてどこに送ったのか。もし槙生が贈ったモノの中にあったのなら、槙生はよく見ていなかったことになる。それとも、誰か別人が家財を分類して祖母に送ったのか? もやもやする。
で、この日記の冒頭には、朝が高校を卒業したときに渡そうと思う、と書いてあるのだけれど、槙生はそれ以上読めない。姉へのトラウマによるモノなんだろう。のちに、この日記のことを元彼で現在は友人としてつき合っている笠町という男に話していて。でも笠町は朝には内緒にしていることを知らずに、朝に話してしまう。これで朝が激怒し、高校を数日無断で休んで祖母のところに雲隠れ。しかも大事なテストの日に。ということで槙生が学校から呼び出されるのだけれど、この程度のことで呼び出されるかね。むしろ、学校から心配の電話が来て、槙生は行方を捜す、というのがフツーの流れになるんじゃなかろうか。というより、祖母から速攻で連絡が入るのがジョーシキ的な流れだろ。このあたりの展開も、違和感しか残らない。
しかし、日記には、朝が高校生になってから、と書いてあるのだから、それを見せなくても問題はないはず。だけど朝は、内緒にしていたことで槙生を責める。そんなたいそうことでもないだろ。なんだこのバカ娘。としか思えんぞ。でこの日記だけど、結局のところ槙生が朝に渡すんだけど、そのページが風でペラペラめくれる場面があって。それを見ると、1ページ目だけ書いてあって、あとは真っ白だった。はあ? たしか日記は3冊あったよな。日記の冒頭で母親は、自分のことや作家をしている妹・槙生のことを書こうと思う、と書いているけど、実際は書いてないのか書いているのか。もやもやしかない。
さて。何の問題もなく朝は高校に入学し。二週間前ぐらいに両親を失ったというのにヘラヘラ、何部に入るか、と悩んでいる。えみり が、他の友人と話していて、なぜか朝を無視する場面は、あれはなんなんだ? でも、それ以外はフツーに朝とベタベタしている。他に、音楽的センスに恵まれている娘(演ずる滝澤エリカがなかなか魅力的)、学校推薦で留学を希望する娘、移民みたいな感じの黒人の娘、が同級生で登場する。黒人の娘は、いまどきの雰囲気を出すためだけだろう。あとの2人は朝との対比ででている感じ。音楽上手の子は軽音でも活躍するけど、少しして止める決意をしている。理由は「音楽が好きだから」らしい。上級生からも信頼されていて、朝にとってはあこがれの存在なのに、さっさと次のキャリアを目指しているのか。留学希望の子は、推薦は男子を、と主催側から言われているから、と彼女に不可をつたえる。それも全クラスメートの前で。こんな差別的なことをはっきり言うのか。大問題だろ。主催者も教師もバカとしかいいようがない。のだけれど、ここには何のツッコミもいれず、夢破れた彼女を映すのみ。なんだこの腑抜けな描写は。さらに えみり は、いの女子とつき合っている、とレズ宣言。こんなことを、友人だからといって朝に言うかね、だけど。まあ、それぞれの未成に向かって人生を生きている友人に引き替え、自分は空虚=からっぽ、と自覚する朝。という図式のために配置されているだけな感じの学校生活描写だな。
というような人物と背景の中で、へらへら身勝手に生きる娘・朝と、小説を書くのに四苦八苦している槙生の共同生活。槙生を演じる新垣結衣は口調も演技もなかなかで、面白味をだしている。対する朝役の早瀬憩は、ただうるさいだけで、バカにしか見えない。で、とくにヤマ場もないし、印象的なシーンもなく、だらだらつづいて、どっかの海岸みたいなところで槙生と朝が話して、終わる。結局、槙生が姉を嫌っている理由は、そんなに詳しくは語られない。「夢ばかり見てるな」ぐらい言われたって喧嘩になるほどではないだろうし。そもそも、嫌い合っている娘たちについて、槙生の母はどう思っていたのか、とか、仲介はしなかったのか、とかいう疑問は湧くけどね。
というわけで、全編がツッコミどころだらけ。というなかで、オバサン化した新垣結衣がなかなか魅力的な演技をしていた。
中途半端な幻想シーンがある。学校で、朝の周囲に人がいなくなり、ひとりぼっちを強調する場面。でも、まだ友人たちが自立し、朝から離れて行く前なので、なぜ朝が孤立感を意識するのか、わからんぞ。あと、母親のイメージが2度ほど登場するけど、たんなる思い出にしては中途半端。印象も薄い。
にしてもこの映画、男が、笠町意外に登場しない。朝の父親の存在は、どこにもない。なんだこれは。
ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命6/28ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジェームズ・ホーズ脚本/ルシンダ・コクソン、ニック・ドレイク
イギリス映画。原題は“One Life”。公式HPのあらすじは「時は1938年、第2次世界大戦直前。ナチスから逃れてきた大勢のユダヤ人難民が、プラハで住居も十分な食料もない悲惨な生活を送っているのを見たニコラス・ウィントンは、子供たちをイギリスに避難させようと、同志たちと里親探しと資金集めに奔走する。ナチスの侵攻が迫るなか、ニコラスたちは次々と子供たちを列車に乗せる。だが、遂に開戦の日が訪れた。それから50年、ニコラスは救出できなかった子供たちのことが忘れられず、自分を責め続けていた。そんな彼にBBCからTV番組「ザッツ・ライフ!」の収録に参加してほしいと連絡が入る。そこでニコラスを待っていたのは、胸を締め付ける再会と、思いもよらない未来だった。」
Twitterへは「ドイツによるズデーテン併合で発生したユダヤ難民を、チェコから英国へと避難させた男の物語。なかなか感動話ではあるのだけれど。A・ホプキンスに初孫が誕生するというエピソードは「?」だった。娘は何歳だったんだよ。」
まだまだあるのか。いろいろ探して、手を替え品を替えで映画にしてくるな。シンドラー、杉原千畝、そして、こんな人たちもいたのね。とはいえ、ズデーデン地方を追われたユダヤ人の救出がメインらしく、正直にいって緊迫感はあまりなかった。もちろん、ドイツがチェコに侵攻し、ズデーデンを含むチェコのユダヤ人が追われ、つかまれば収容所行きというのは示されていたから、命にかかわるのは分かるんだけど。
序盤からの流れが、いまいち乗れない。ニコラスという人物がちゃんと紹介されていないからじゃないかと思うんだよね。ズデーデンう併合後、ドタバタした感じでチェコに行き、難民と直面。のあと、支援団体の女性に出会い、事務が得意だからとかいって難民リストを集めようとするんだけど、ことごとく拒否されてしまう(拒否されたのはなぜだろう。ドイツ側の情報収集だと勘違いされたからなのか?)。のだけれど、子供たちとの交流後、少しずつ信頼を得て、氏名や写真が集まり出す。のだけれど、このあたり、支援団体が何をしようとしていて、ニコラスは何をしようとしているのか、がよく分からない。支援団体には、他に男性と女性がフィーチャーされる。けれど、この3人についてはほとんど人物紹介されない。映画が終わってみると、難民救出劇として、チェコ国内で活躍した重要人物なのに。それに引き替えニコラスは、さっさと英国にもどり、株式会社の仕事をしながらの手伝い。難民の子どものビザ発行を英国のどこか(外務省なのか? 入国管理局みたいな所なのか?)に折衝したりしている。ニコラスの働きも大事だけど、迫り来るドイツ軍を肌に感じながら難民の子どもをたちの救出劇を行っていたのは、この3人なのになあ。と、見ながら思ったりした。
緊迫感がないのは、当初は難民子どもたちの英国移送をドイツも公認していたから、なんだよね。英国のビザがあれば、ドイツ軍もなにも言わなかった。乗り込んで来たドイツ兵が子供たちとビザを見て、「イギリスも物好きだな」なんていっていたぐらいだ。もちろんビザ発行にはお金もかかるし、里親が決まっていることなんかが条件だから、英国内でニコラスは奮闘するのだけれど、その奮闘の具合が映像として見えてこない。どうやって里親を集めたのか、とか、ちらっとしか紹介されないのだよね。
ビザを発行する役人も、最初は渋っていたのに、次第に協力的になる。あれ? この役人のしてることは、杉原千畝がしたことに似てないか? と思ったりした。もちろん役人は英国内にいて、杉原千畝はリトアニアだっけ? にいたから、違うのではあるけれど。役人として使命を全うした意味では、あの役人も難民を救う一翼を担っているわけで。ニコラスのしたことは、難民輸送、受け入れのひとつのパートだな、と。
チェコ国内で、送り出す子どものビザがない、という場面があった。発行されなかったのか。で、男性の支援者が慌てて偽造ビザを依頼に行き、なんとか間に合っていた。あれは何が原因だったんだろう。っていうか、そもそも、ビザは英国が発行するんだよな。ニコラスが英国内で交渉していたんだから。で、そのビザは、チェコに陸路でもってくるのか? もしかして、あのビザはチェコの英国領事館で発行したものなのか? でも、ニコラスが子供たちの写真とともに依頼していたような…。記憶違いかもしれないけど、気になったところだ。
で、いよいよドイツがチェコに侵入する。送り出すべき子供たちはいままさに列車に乗っている。そこにドイツ兵がやってきて…。というスリリングなことが実際にあったのか、映画的な演出なのか知らないけど。そこまでしてユダヤ難民の子供たちを英国に送り出すことを阻止したかったのかね。このあたりのドイツ側の都合というのが描かれていないので、いまひとつ釈然とせんのだよな。さらにこのとき、支援グループの事務所では、資料を焼くなど対応に大わらわで、支援のボス的女性と男性が、若い女性に「君は逃げろ」なことを言うのだけれど、支援していたからってユダヤ人でなければ問題ないのでは? ユダヤの子どもを送り出す行為も、ドイツ側に犯罪行為に認定されるのか? そして、さらに、駅にいた女性(たぶん逃げろと言われた彼女だと思うんだけど)に、ドイツ兵が「いたぞ、赤毛の女!」 と追われていたんだけど、彼女は顔が割れていたのか? で、彼女はその後、どうなったのか? ちゃんと逃げられたのかどうか。が描かれないので、なんかもやもやが残ってしまう。
というのが1938年のパートで。これと交互に、1988年のニコラスが描かれる。
ニコラス・ウィントンの情報が、Wikipediaにあった。1909〜2015で、1938年には29歳、1988には79歳なのか。で、スクラップブックを見つけたのは、2度目の妻だ、と書いてある。なるほど。なら、その歳で孫が誕生する、はあり得るな。スクラップブックは、ニコラス自身は「昔の過ぎたことだから...と処分を考えた」が、「子どもたちの里親の住所まで記されたその史料を子どもたちの命にも等しいものだからと、夫人が処分を押しとどめた」んだと。
1988年のニコラスは、なんでも捨てるのが嫌いで、部屋の中はゴミ屋敷のよう。若いときからボランティアとか何かの支援が好きだった、みたいな感じだな。で、あるとき奥さんに「少しは整理して」といわれ、引き出しの奥にスクラップブックを見つける。多くの書類類は焼き捨てたけれど、スクラップブックは、奥さんも「いつかはなんとかしないとね」と言っていて、それがきっかけでニコラスは旧知のジャーナリストに持ち込むが、難民救済は興味がない、と一蹴されてしまう。で、難民を支援する仲間に話すと、その伝手でメデイア王の婦人が「見たい」ということになり、持参。婦人は内容に驚く、という流れなので、Wikipediaとはちょっと違うな。映画では、自らが世に出そうとした感じがする。ここは、ちょっと気になっていたところ。
やがてそれが人気テレビ番組で紹介されることになり、ニコラスも招待されると観客席の一番前に座らされる。あー、これは、ここに座っている観客は全員がニコラスに救われた人、というオチだろうと思ったら違って。1人の女性だけだった。なーんだ。ところが、この難民救出劇の続編が放送されることになり、またまた招待されて行くと、こんどは観客席の全員が救われた人々で、立ち上がって拍手、と相成った。ミエミエのラストだけれど、まあ、ちょっと感動的ではある。
最後、おまけみたいな場面があって。それは、救出された中で、レディの称号をもらった女性の家族だったかな、がニコラスの家に招待され、プールに入ったりしてにこやかに歓談する場面なんだけど。これは、ニコラスがチェコで子供たちの面談をしたとき、水泳が好き、と言った子どもが、招待した女性で、そのことをいまも覚えていた、というエピソードにつなげているからだ。まあ、たいした話ではないので、テレビ局のスタジオの場面で終わりにしてもよかったような気がするんだけどね。
・子どもを抱いた12歳の少女の行方はどうなったんだ? 気になっちゃうよ。やっぱ収容所?
・ニコラスの家が、プールはあるし庭は広いわ、豪邸なのには驚いた。
・ニコラスがすくった難民子どもの数は、669人。でも、1988年、その子孫も含めて6000人になった、ということで「奇跡が繋いだ6000の命」という副題になっているらしい。ちょっと強引な気がする。

 
 

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