ヨーヨー | 8/3 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ピエール・エテックス | 脚本/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール |
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原題は“YoYo”。公式HPのあらすじは「世界恐慌で破産した大富豪は、サーカスで曲馬師をする女性と、彼女との間にかつてもうけた幼い息子とともに、地方巡業で暮らしを立てることに。サーカス界で成功をおさめた息子はヨーヨーという人気クラウンになる。時代が大きく変わる中、ヨーヨーはかつて父が所有していた城を取り戻そうと躍起になるが…。」 Twitterへは「ピエール・エテックス監督主演のしみじみコメディ。サイレントな前半がとてもいい。後半は、いろいろちょっと散漫になっちゃって、惜しい感じ。」 前に見た『恋する男』はちょいドタバタまじりの全編ギャグの連続、だったけど、こちらはギャグ控え目で、物語性がしっかりしてる感じ。冒頭からの、大豪邸に住む大富豪の退屈な日々から昔の恋人との再会。息子も交えたドサ回りは割りとノンセンス風味が濃くて、なかなか面白い。 にしても召使いが何10人もいる大豪邸なので高貴な家系かと思ったらそうでもなく、実は成り上がりらしい。ときは1925年。生のジャズバンドに生のダンサーで毎日チャールストンかよ。船旅? と思ったらミニチュアの船を池で浮かばせてるだけとか、犬の散歩も狩猟も運転させたクルマからでしかも自分ちの庭でとか。寝る前に靴を脱がせてもらうシーンの、ここだけムダに過剰なエロい感じはなんなんだ…。とかにも飽きて退屈してる大富豪。でもなぜか机の引き出しに女性の写真があって、どこにいるのか…なんて涙している。 ある日家の前をサーカスの一団が列を成すので、退屈しのぎに呼び寄せ、中庭にデントを張らせて見ていると、登場した曲馬の女性が件の会いたい女性で。って、話がいいかげんすぎだけど、再会が叶う。ついでに、彼女の連れていた子供の名前はヨーヨーで、なんと富豪の息子、だという。このあたりの過去の経緯が説明されないのでもやもやするけどね。どうやって出会い、別れたんだ? ときは一気に1929年の大恐慌。大富豪も投資していたのか没落し、召使いは出ていき、家は荒れ果てる。のはいいんだけど、彼女との再会から大恐慌までの4年間は何をしてたんだ? 仕事もなくなって(何か仕事してる雰囲気はなかったけどなあ)、富豪は彼女と息子と3人で、乗用車でワゴンを引いてサーカスのドサ回り。の途中が最高に面白い。クルマに載っていて木の枝に引っかかるのはキートン風。ミレーの『晩鐘』のかっこうの農夫婦がいたり。街の広場について看板だそうとしたらすでに『ザンパーノとジェルソミーナ』の看板が出てるのは笑った。時代が帝国主義・侵略戦争になるとヒットラーが登場し、ヒットラーがチャップリンの真似をする。ソビエトの勃興では、スターリン、マルクスの顔のあとにグルーチョ・マルクス! このユーモアとバロディ精神はなかなか。 1939年には戦争が始まり、クラウンで有名になっていたヨーヨーは慰問で舞台に立っていたらドイツ軍の捕虜になってしまうが、あっという間に帰還してくる、ということはいつものにか戦争は終わっていたのか。で、昔いたサーカスに戻る。…のだけれど、大富豪と彼女はいつのまにかFOしてしまい、話は息子のヨーヨーが主役になってしまっている。まあ、大富豪も青年ヨーヨーもエテックスが演じてるから、の都合なのかもしれないけど、なんか流れがぶっきらぼうだな。 以後もそんな感じで。いつものにかヨーヨーはクラウンで人気者になり、仲間と一緒になのか、率いて、なのか各国で人気者に。で、突然のように、昔のサーカスにいたイゾリーナという曲芸師と、相思相愛? かのように見せつつ、イゾリーナが「一緒に」といっても、することがあるから、と断ってしまったりする。 このすること、というのは父親がかつて住んでいた大邸宅のことで。え? あの家は大恐慌でも手放さずにいたのか。と、びっくり。荒れ果てたその邸宅を手入れし、元の姿にするのがヨーヨーの使命らしい。けど、なんで? ヨーヨーはこの邸宅に住んだことがないはずだよな。それとも、描かれていないけど、大富豪が曲馬の彼女と再会した後、住んでたのか? てなわけでつきあいが悪くなるヨーヨー。どこかの町でイゾリーナと出会っても、何もせずサヨウナラ。なんだよ。もっとロマンス話にしてくれよ。もったいない。 とか言ってたらテレビの登場で。だれもが家に居ながらにして娯楽が楽しめる。芝居を見に行く必要はなくなる。なんてやってる。なところに、うらぶれたヨーヨーが流しのバイオリン弾きで登場する。さしもの名クラウンも出演機会がなくなったか、と思ったらそれはテレビ化映画の撮影で。ヨーヨーはスターになっているという設定。 ところで、このあたりから映画はセリフをしゃべるようになる。無前半ではSEだけだったのに…。これ、他の人が書いているので気がついたんだけど、「サイレントからトーキーに移行する」時代背景をそのまま映画の中で再現していたのだ。そーか。気がつかなかったよ。なんで途中からしゃべりが多くなるんだ? 変なの、ぐらいに思ってた。 と思ったら、こんどはヨーヨーはどこかの事務所の社長室みたいな所にいて。いろんなやつらが、変なものを売り込みにきている。どういうわけか、ビジネスでも大成功してるのか? 話が飛びすぎて、なんじゃこりゃ、な感じだよ。そうだ。このとき、広告に使うピエロの絵をイラストレーターがもってくるんだけど、ヨーヨーはスケッチブックのページをめくって、ささっと単純な線でピエロを描いちゃうんだけど、これがせ上手いのだ。 とか思ってたら大邸宅の修復が終わって。なぜか知らんが盛大なパーティが開かれるんだけど、ここの場面は流れと関係ない、ちょっと二流なギャグがつづいて、ちょっとうんざり。話に関係ない連中が、ムダにフィーチャーされすぎだろ。というところに、突如、イゾリーナが「両親を連れてきたよ」とやってくる。これまた唐突すぎだろ。しかも、ヨーヨーが「どうぞ中へ」と誘うのに、両親はクルマから顔も見せず帰ってしまう。なんなんだ。帰るのなら、なぜやってきた? 大富豪は、かつての邸宅が修復されただけで満足なのかね。でも、大富豪があの邸宅に思い入れがあったようには見えないんだが…。 ヨーヨーとしては、邸宅を邸宅を修復し、父親に見せたい一心だったのかもしれないけど。そういう話も、いまいち説得力がない。ヨーヨーは、ひとりさびしくゾウと(だったっけかな)池の中に入っていくんだけど。あの池は、邸宅の池か? じゃないような雰囲気だったけどなあ。なんか、いまいちなラストだった。 というわけで、絵の中に酒とコップが仕込まれてて、召使いがときどき飲んでたりするのとか、画面のどこに仕掛けがあるのかな、と探せた前半が楽しかった。でも後半はイマイチな感じだった。 | ||||
HOW TO HAVE SEX | 8/6 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/モリー・マニング・ウォーカー | 脚本/モリー・マニング・ウォーカー |
原題は“How to Have Sex”。公式HPのあらすじは「タラ、スカイ、エムの3人は、卒業旅行の締めくくりに、パーティーが盛んなギリシャ・クレタ島のリゾート地、マリアに降り立つ。自分だけがバージンで、 居ても立ってもいられないタラ。初体験というミッションを果たすべく焦る彼女を尻目に、親友たちはお節介な混乱を招いてばかり。タラは、バーやナイトクラブが立ち並ぶ雑踏を、一人酔っぱらい、彷徨っていた。そんな中、ホテルの隣室の少年達と出会い、思い出に残る夏の日々への期待を抱くのだが」 Twitterへは「タイトルからポルノっぽいのを想像してたら違うんでやんの。卒業旅行でリゾートにやってきたイギリスの女子高生3人。「やりまくるぞー!」って騒いでたけど、飲みづかれてゲロばかり吐いてる。帰りはしょぼん。ロマンスも何もないのだった。」 しっかし、リゾートに到着した3人の娘はぎゃあすか大騒ぎで。一番多くセックスした者がどうとかいったり、どうやって男と知り合うかとか話したり、延々としゃべりっぱなし。しかも、歳を誤魔化して酒場に行くぞ、とか、もうハチャメチャな感じ。↑のあらすじには卒業旅行と書いてあるけど、そんなことは分からず、途中で黒人っぽいエムが進学先はどうのとか獣医になったらなんとかで、とか言ってたので、そうかなと想像した程度。どうやら卒業試験だか共通試験だかが終わって、その結果が出る前にリゾートにやってきたらしい。しかも、男とヤリに。なかでもタラはバージンを捨てるぞ、な意気込みが強かった様子。 で、隣室の男女グループと知り合いになり、なかでもパッジャーがイケメンで。といっても誰と仲良くなるわけでもなく酒場に行ったりゲームしたり煙草吸ったり、毎夜毎夜みんなで遊びまくってる。男どもも3人娘に迫ってくるようなそぶりは特になく、だらだら話したり飲んだりしてる。 遊びと行ったらエロいのもあって。パッジャーともう1人の青年がステージに上がらされ、勃起させてくれ! と司会がいうと女性たちが群がって裸の胸をさわったり半パンの上から舐めたり、なんじゃこれ、なことをしてる。 なんてことをしてるうち、タラが隣室の青年の1人パディと砂浜でいちゃつき、海水に浸からされる。タラは嫌がってたけどとくに抵抗するでもなく、そのまま砂浜でからみ合い、パディが「いいかい?」といい、タラは、確かうなずいたと思う。で、セックスしたんだろう。これで処女喪失。だけど、そのままタラはひと晩中部屋に戻らず、どっかの酒場で知り合った連中と遊びまくり、朝方もどってくる。でも、楽しそうじゃない。なので、パディが早漏で楽しめなかったのか? とか思ってたんだけど。 パディと再会しても、パディはとくになれなれしそうにもしてなくて。なんか気怠そうにベッドで横になってるタラの横に寝て、すこし身体に触り、そのうち上にのってきて、挿入したのか数回腰を動かしてたら仲間の誰かが部屋にやってきたので速攻で離れたんだけど。このときもタラはまったく無抵抗でパディのされるがままになっていた。 タラがパディとしたことはスカイとエムも知っていて。それはパディが言ったんだったか、タラが報告したんだったか。よく覚えていないんだけど。休暇が終わって3人で帰るときタラが落ち込んで口数も少ないので2人が「昨日もやったんでしょ?」と話しかけると、タラは、ムリやりされたといい、最初のときも合意ではなかったようなことをいう。ええっ? OKっていってたじゃないか。 でも、「私たちは来年も友達。ずっと一緒だよ」と励まされると元気になって、飛行機の搭乗口に行くのでした、というような、全体に平板な話だった。なんかいまひとつだな。レイプされたようには見えないし。嫌なら嫌っていえばいいわけで。煮え切らない娘だな、タラって。と思ってしまったのだった。 にしても、やってきたときの高揚感、男とやりまくるぞ、とかいってたのは何だったのか。タラは処女喪失したけど、すでにバージンではないスカイとエムは、男遊びしたのか? は描かれていない。このあたりもモヤモヤが残る。いつもまにか主人公がタラになってしまっていたので、省略したのか知れないけど。 盛りのついた牝犬が冷水浴びせられて呆然としてる感じなんだよな。タラはいったい何を期待してたんだろう。夢見るようなロマンス? には見えないけどな。 にしても、高校生なのに毎夜、飲みつづけで。朝はずっと寝てて、起きれば昼からもアルコール。でもってゲーゲー吐いてる。これがイギリスの平均的女子高生なのか? やれやれだな。 滞在中、試験の結果が電話であって。エムは合格して獣医の道へ? タラは不合格で、母親に「追試を受ければいいのよ」なんて慰められていたけど、進学希望がどうだったのかは分からない。 | ||||
ある一生 | 8/8 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ハンス・シュタインビッヒラー | 脚本/ウルリッヒ・リマー |
ドイツ/オーストリア映画。原題は“Ein ganzes Leben”。公式サイトのあらすじは「1900年頃のオーストリア・アルプス。孤児の少年アンドレアス・エッガーは渓谷に住む、遠い親戚クランツシュトッカーの農場にやってきた。しかし、農場主にとって、孤児は安価な働き手に過ぎず、虐げられた彼にとっての心の支えは老婆のアーンルだけだった。彼女が亡くなると、成長したエッガーを引き留めるものは何もなく、農場を出て、日雇い労働者として生計を立てる。その後、渓谷に電気と観光客をもたらすロープウェーの建設作業員になると、最愛の人マリーと出会い、山奥の木造小屋で充実した結婚生活を送り始める。しかし、幸せな時間は長くは続かなかった…。第二次世界大戦が勃発し、エッガーも戦地に召集されたもののソ連軍の捕虜となり、何年も経ってから、ようやく谷に戻ることができた。そして、時代は過ぎ、観光客で溢れた渓谷で、人生の終焉を迎えたエッガーは過去の出来事がフラッシュバックし、アルプスを目の前に立ち尽くす」 Twitterへは「養子でこき使われた少年時代から、あれこれあって死ぬまでの物語。その人生は山あり谷ありだけど、映画的には山なし谷なしドラマなしのあらすじダイジェストなのでちと退屈。真面目な映画なんだろうけど、思わず笑えるところがいくつかあって…。」 飽きずには見られたけど、だからどうしたな感じもなきにしもあらず。 生まれも育ちも気の毒ではあるんだよね。義妹(義姉だっけか?)の生んだ私生児が荷馬車で農場にやってくる。ここの家には男の子2人と女の子も2人いたかな。あと、婆さん。母親は亡くなっていたんだっけか。で、伯父にあたる父親が意地悪で、食事のときに家族と同じテーブルに座らせない。男の子には意地悪をされる。まあ、引き取ってもらえただけでも幸せな感じの時代とか、経済状況とかもあるんだろうけど。厄介者でしかないのは、分かる。だから、伯父は農場の働き手としか見ていない。しかもちょっとでも失敗をしでかすと尻を鞭で叩かれる。あるときは叩かれすぎて、それで骨でも折って、びっこになったのかな。画面上では足は引きずってなかったので分かりづらかったけど。婆さんが優しくしてくれたのだけが救いかな。の割りに、エッガーは婆さんへの敬意を見せていなかったけど。な、婆さんも、あるときパンかなんかの生地の上に顔を突っ伏する様にして死んでしまう。 ところで、エッガーは日記みたいなのを書いてるんだけど、どうやって文字を覚えたんだろ? 学校に行ってた気配はなかったけど。 長じて、父よりも腕力も強くなり、たぶん17、8歳で家を出る。日雇いの毎日。倒木に右手をもがれる男なんかも描かれていて、なかなかサバイバルな日常の様子。ある食堂酒場で、そっとお替わりの酒? をもってきてくれる給仕娘がいて、エッガーの腕に軽く触れるんだが、娘からの「関心あり」のメッセージか? だけど店の主人は、「マリーはやめとけ。ここに働きに来てるんだ」っていうのは、働き手を失いたくないから、かね。でも2人でハイキング行ったり接近していって、一緒になる。家は、貯めた金で借りたんだが、袋いっぱいの小銭をどん、と見せるのは面白かった。 とはいえその住まいは山中の傾斜地で周囲に木も生えてないような所。あれじゃあ風雨も激しいだろと思っていたら雪崩に襲われて。エッガーは両足骨折? 墓の横には箱を埋めてそこにせっせと手紙を書いては投函するという日々。一途だね。 傷が癒えて、ロープウェイ建設の仕事につこうと事務所に行くと、うちは足の不自由なのは要らない、ということろをボスに頼み込んで、ロープウェイの管理の仕事につく。山も材木の供給の地から観光地へと変貌していこうとしている。その時代の流れが自然と見える。と思ったら、夜中に酔っ払って風呂に入ってそのまま凍死した男の様子が映し出されるんだけど、あれはボスか? なこんなでひとり暮らしをつづけ、相変わらずマリーへの手紙を書きつづける。他の女性には興味もないのか。一途なのはいいけど、それで満足だったのかね。こういうのを美化するというのも、良し悪しかな。 で、なぜかエッガーは育った家に行くんだが、家の前に継父がいて、盲目状態で怒鳴ってくる。お前だろ、分かるんだ、とか。よくエッガーと分かったもんだ。で、怒鳴りながら言うには、息子二人に先立たれ、いまはこんなだ。殺せ! 殴り殺せ! と。まあ、気の毒な男の末路を見せたいんだろうけど、なんかなあ、な感じも。義父は意地悪だったけど、ここまで悲惨な人生にしちゃうのも可哀想じゃないか? とも思うんだよな。 居酒屋の建物が壊されるので、住むところがなくなったんだっけかな。居酒屋の親父は別に住まいを提供してくれて、静かなところで老後を過ごしているエッガー。と、凍死体が発見されたというニュース。50年ぐらい前なのか、のマリーの遺体がボロボロな状態で見つかる。まあ、遭難者の遺体があんなかたちで見つかるのは珍しいことではないのかも。実は、墓には遺体が入ってるんだろう、とずっと思ってたんだよね。なので、ああそうか、と。遺体は見つかっていない。だから生きている可能性もある。だから手紙を書こう、ということで墓に郵便な箱を埋めていたのかな。 そして、あるとき、マリーへの手紙を書きつつ突っ伏してエッガーも死ぬんだが、育ての家の婆さんと同じスタイルで死ぬので、ちょっと笑っちゃったよ。墓穴にエッガーの棺桶が降ろされるとき、棺桶がマリーへの手紙箱にふれて壊れたのか、手紙が墓穴ぼろぼろ落ちて一緒に葬られるんだが。墓穴を掘ってるときに気がつくだろ、手紙箱ぐらい、と思ってしまった。それに、手紙箱の中に水も浸みてなくて、フツーなら紙の手紙なんてぐちゃぐちゃになって腐るんじゃないのか? と思ってしまったよ。 亡くなったとき、エッガーは60歳ぐらいかと思ったら、80歳だと。へー。長生きしたんだ。ひげもじゃの居酒屋親父はエッガーよりだいぶ年上だと思ったんだけど、まだ健在ってことは、何歳になるんだ? 最後は、今風、といっても1960年代な感じかな、なファッションのスキー客や町の様子が映る。時代時代の街や観光客の様子が、時のうつろいを見せていて面白かった。 というわけで、とくに平凡でもない男の一生をたらたら見せるだけの映画だったけど、なにか事件が起きるのかなと思わせて、想像の範囲内の妻の死以外はとくになにもない人生。とくに欲望もないのか。夢はマリーの死とともに見なくなったのか。学校に入ったのか行かなかったのか知らないけど、世間的な興味も特になかったのかね。つまらない人生とも言えるけれど、あれで満足できるなら、それはそれで幸せかなとも思う。けれど、な感じ。 | ||||
クレオの夏休み | 8/9 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/マリー・アマシュケリ | 脚本/マリー・アマシュケリ、ポリーヌ・グエナ |
フランス映画。原題は“Ama Gloria”。乳母の名前だよ。公式HPのあらすじは「父親とパリで暮らす6歳のクレオは、いつもそばにいてくれるナニーのグロリアが世界中の誰よりも大好き。お互いに本当の母娘のように想いあっていた2人だったが、ある日、グロリアは遠く離れた故郷へ帰ることに。突然の別れに戸惑うクレオを、グロリアは自身の子供たちと住むアフリカの家へ招待する。そして夏休み、クレオは再会できる喜びを胸に、ひとり海を渡り彼女のもとへ旅立つ…。」 Twitterへは「6歳の娘のアフリカ大冒険。なんかあるぞ、と思わせつつ、とくにドラマはなかったりして。せいぜいが嫉妬に狂って逆上程度か。ところで、生みの母より乳母に思いが行くかね。6歳の娘を1人でアフリカにやるかね。とか思ってしまうのだった。」 子供が主人公の話なら、内容的には成長物語を期待してします。たとえば思わぬ状況がふりかかり、でも何とか困難を乗り越えるとかね。でも、そういう話には全くなっていない。たんに、幼いときから育ててくれたナニーの婆さんグロリア恋しさに、彼女の故国に行ってひと夏をほんわか過ごす、というだけの話だった。気負ったこっちが悪いのかもしれないが。 乳母にべったりで育てられたクレオ。乳母の母親が亡くなり、故郷に帰るという。そして、フランスには戻らない、という。それでクレオは、夏休みにグロリアの住むアフリカに行かせてくれるよう父親にせがむ。というのが発端。父親は出てくるけど、母親はどうしたのか。その説明はずっとあとにアフリカでグロリアに再会し、グロリアの母の死因を話されたときのこと。それまで分からないのは不親切だ。 アフリカへは、父親は行かない。スッチーが介添えで搭乗し、あちらではグロリアが迎えに来る。という旅に、父親は心配しないのか。6歳だろ。というところに心配になってしまったよ。というか、この父親バカじゃねえの、と。 グロリアの娘は臨月が近い。息子は10歳ちょっとな感じで、クレオを歓迎していない。グロリアはずっとフランスで、母親らしいことをしてもらえてないからだ。なので、母親のことを友達に「あのババア」なんて言っている。自分を放っておいて、母親ヅラするな。俺の母ちゃんを奪ったフランス人のガキかよ、けっ、な感じなんだろう。 ところでクレオは、女の子? いや、男の子か? と分からなかった。アフリカの場面でグロリアが「自分の娘のようだ」というセリフがあって、やっと女の子と確信したよ。これも説明不足だろ。 現地人に混じってサッカーしたり、魚取り見たり、砂浜で遊ぶクレオ。なんだ。現地の人にも差別されてないのか。へー。気がつくとグロリアがいない。実はこのときグロリアは、砂浜から奥に入った林で知り合いらしいオッサンと話していて。抱擁? まではいかないけど、怪しい感じ。それをクレオは目撃するんだけど。そういえば、亭主とは死に別れ? とはいえ、グロリアのロマンスらしきことはここだけで、あとは何もなし。なんだよ。もやもやするな。というのと、他人様から預かってる子供なんだからちゃんと見てろよ、という気分になる。 クレオが嫌いな息子は、友達同士で遊んでる。いっぽう娘は出産が近づき、精神不安定になり、生みたくない、と言いはじめたりする。いよいよ出産で、グロリアは息子にクレオを見るよう言い残して病院に行くけど、あまり見ていない。これも観客を心配させる描写だ。友達と岸壁から海に飛び込んだり。でも、波が荒くて岩の岸に上がるのが難しそう。という描写は、そのうちクレオが落ちて岸に上がれず溺れて、でもなんとか助かるような展開かな、と予想してしまうが、何も起きない。 グロリアの母親の墓参りにも行く。「何で死んだの?」「がんよ」「うちのママもがんだった ずいぶん昔だけど」という会話で。でも、4、5年前のことだろ? じゃあクレオは2、3歳。それで母親の記憶なんてないよな。まあ、それだからグロリアにべったり、になったのかも知れないけど。クレオが片親なのは離婚か死別か、ここでやっとわかったよ。 グロリアは建物を建てているようだ。でも、家はすでにある。なんなんだ? と思っていたら、後の方で「リゾートシーズン前に完成させたいのよ」とか知人に言っているので、ホテルかなんかかな。フランスでの稼ぎをもとにビジネスか。しっかりしてるなあ。こういう話は、果たしてこの映画にふさわしいのかね。やさしいお婆ちゃんとだけではなく、商才もある、という描き方は…。 クレオの父親がもたせたのかな(?)。グロリアへ、と書かれた封筒から、金を抜き取る息子。それを見てるクレオ。まあ、反抗心の現れ、かもね。 娘は出産すると、それまでの不安はすっかりなくなった感じ。もう母親になっている。でも、子供はほっといて友達と遊びたい気持ちもある。いったい娘は何歳なんだ? それに、娘の亭主がひとつも登場しないのが不可思議すぎる。 赤ん坊が産まれて、グロリアの関心はそっちの方に移ってしまう。自分はもう構ってもらえない。赤ん坊に、宗教的儀式なのか、枕の下にハサミを差し込むのを見て、クレオはなぜかとグロリアに聞く。答は、「悪魔の羽根を切るためよ」。グロリアがいなくなった後で、クレオは「悪魔さん。できたら赤ん坊を殺してください。グロリアを返して」とつぶやくクレオは、やっぱりまだ幼児だなあ。という気にさせる。 夜泣きする赤ん坊。世話するグロリアが、子守歌を歌う。それを聞いてクレオが「それは私の歌」と文句をつけると、「子守歌はみんなのもの」とグロリアに返される。燃え上がる嫉妬心。これまで自分にむいていた興味が、赤ん坊に取られてしまった…。の後あたりで、クレオは寝小便したようなんだけど。注意をひきたいからかね。でも、それを見つかって何か言われたとか、布団を干す場面は出てこなかった。 グロリアが昼寝している間に、泣く赤ん坊。その赤ん坊を強請るオレオ。「そんなことしちゃダメ」と叱るグロリア。これに呆然となって海岸に行き、息子がやっていたように高所から海に飛び込む…。で、溺れかけるのかと思ったらそんな描写もなく、息子の助けもあって陸へあがる。まあ、話的には、母親を奪われた息子と、ナニーを奪われたクレオは立場が同等になって、共闘できると言うことかな。「なんであんなことしたの?」と問われ、「赤ん坊が死ねばグロリアが戻ってくると思って…」というクレオだけど、こんな幼児の嫉妬を見せられても、とくに同情もできねえよ。だいたい6歳だろ。そんなに甘えたい年頃か? まあ、母親のいない環境は気の毒に思うけど。でも、そういう子供は独立心が強まるんじゃないのかね。 で、帰ることになって。飛行場でクレオはスッチーの手に渡る。振り返らず泣くグロリア。一瞬、引き返そうとする。スッチーに手を引かれているクレオが、ちょっと振り向く。で映画は終わる。というわけで、だからどうした、な感じの話でしかなかったよ。 ・絵筆で殴り書きしたようなイラストアニメがときどき入るんだけど、あまり効果はないように思った。 | ||||
夏の終わりに願うこと | 8/13 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/リラ・アビレス | 脚本/リラ・アビレス |
メキシコ /デンマーク/フランス映画。原題は“Totem”。「ある血縁集団と特別な関係をもつ特定の動植物や自然物や自然現象。」のことらしい。トーテムポールのトーテムだな。公式HPのあらすじは「7歳の少女・ソルは、父・トナの誕生日パーティーのため祖父の家を訪ねる。病気で療養中の父と久しぶりに会えることを喜ぶソルだったが、身体を休めているから、となかなか会わせてもらえない。従姉妹たちと無邪気に遊びまわることも、大人たちの話し合いに加わることもできず、いらだちや不安が募るばかり。やがて父との再会を果たしたとき、それまで抱えていた思いがあふれ出し、ソルは“新たな感情”を知ることになる。よろこび、悲しみ、希望、落胆。波打つ自身の感情の変化に戸惑いながらも、物語のラスト、少女が願ったこととは」 Twitterへは「設定もキャラもよく分からないまま始まって、よく分からないまま終わる。HPのあらすじを読んで、そういうことか、が少し分かるような有様じゃロクな映画じゃない。つまらないし、すこし寝たよ。」 カラー、スタンダード。いまどき珍しい。 事前情報なしで見始めたんだけど、母娘の状況から親戚がいる家に行き、娘は「お父さんに会いたい」というも会わせてもらえず、カタツムリやカマキリとひとり遊び。と思ったら従姉妹らしい5歳ぐらいの娘と坊主頭の母親の話になって。しだいに人物が増えていくんだけど、ここがどこで何のためにやってきてのか、さっぱり分からない。そもそも、どこの国の映画かわからないまま。中南米か? メキシコか? な程度。こんな具合に、良く分からないままだらだら揺れる画面がよくわからん人たちのやりとりを映していく。観客として設定を分かろうとしているのに、何も提示しないまま、延々とだらだら画面がつづく。5分か10分、うとっとしちゃったよ。 分かるのは、なんか色んな人が集まって来ていて。その家には娘の祖父や娘の父親が住んでいて、父親は0娘にも会えないぐらい身体が弱っていること。次第にいろんな人が集まって来ているのか? 何かの準備をしていて。夕方になると庭に明かりが点き、パーティがはじまる。それは病気の父親の誕生祝いらしい。やんとかがんばって父親はそれに出席する。で、翌日なのか、もっと後なのか。その祖父の家のベッドが空になっているのが最後に映る。父親は亡くなった、ということか。てな、そんなぐらいのことしか分からない。それ以外は、想像してもよく分からないようなことばかり。 ロクに編集されていないラッシュを見せられているような感じで、まったく映画に入り込めない。あの家は祖父の家らしいけど、↑の解説見ないと、祖父の家だとは、誰も分かるまい。雰囲気だけの環境ビデオみたいなもんで、でも、美しいものが描かれているわけではないので、見ていてもたいして面白くない。 娘の視点で見ている、な説明もどっかで見たけど、それは最初の方の少しの間で。いつのまにか視点はいろいろ変化していって、娘の存在すらどっかに行ってしまう。これじゃなおさら感情移入できない。 というわけで、記憶にある描かれていたもののメモを、捨てるには惜しいので貼っておくか。 。 ・冒頭。誰でもトイレみたいな大きな公衆トイレにいるソルと母親は、はしゃいでて。ソルは飾りのついたカツラをかぶってると、外から「みんなのトイレよ! 」と、怒鳴られる。いい加減な親子だ。 ・屋敷について、ソルが「父親に会いたい」というも、いま休んでいるからと会わせてくれない。ひどいな。会うぐらいいいだろうに。 ・父は画家なのか? 描かれた絵に動物が沢山いる。ソルのすきなフクロウもいる。絵ではなく、実際の虫も映される。ソルが見ている、という体か。カタツムリ? カマキリ? さらに猫、何匹もの犬、インコも登場する。オジから金魚をもらうソル。このオジは、次女の亭主? 長女の亭主? ・従姉妹の娘がでてくる。5歳ぐらい? この子は誰の子なの? ・従兄弟? の少女と少年が映る。少年はゲームをやめさせられ、掃除機をかけさせられる。いやいややってる少年。少女の方はほとんど顔が映らない。 ・盆栽が趣味の祖父。その祖父は声帯を失ってるのか合成音声。その機械で遊んでる孫?が叱られる。 ・祖母はガン死?とかいってたかな。 ・父は、夕方になってやっと自室から出てパーティに顔を見せようとするが、とつぜん「やめる」と。漏らしたらしい。ウンコか。 ・父だか祖父だか忘れたけど、ソルをポニョと呼ぶのはなぜ? 宮崎アニメと関係あるのか? それでオジが金魚をくれた? ・冒頭のあと、いなくなっていた母親が、帰ってきた、という。劇場に行ってきた? 役者なのか。演出家か? ・ドローンを飛ばしていたのは、従兄弟だったか。 ・チャットGPTに、世界の終わりについて聞くソル。どういう意味? ・トイレが故障して1つしか使えない? とオバサンが騒いでいる。だからなに。 ・霊媒師が、絵がいけない、とかいってる。あとから絵を運び出す業者の場面があるけど、古い絵じゃなくて父親の絵も、とか言っている。父親の病気に関して、なのか? 霊媒師は2000のはずが3000要求し、でも2500に負ける、とか商売上手? ・太り気味の姉か? 髪を洗う・丸坊主なのは次女? まさか彼女も癌治療中? その弟がソルの父親か? ・次女はケーキを焦がして失敗しつくり直し。だからどうした。 ・いよいよパーティが始まる。親族がみな集まっている。全員、父親の顔写真の面をかぶる。ソルは、冒頭にトイレでかぶっていたカツラと赤鼻でピエロに分し、母親の肩車で寸劇。なるほど、誕生会の出し物に使ったのか。 ・ケーキが最後に出てきて。ソルがロウソクを、消すのか? な感じで、音楽が高まって…暗転。 ・誰もいないベッドは父親の死? 窓ぎわにミミズか何かの虫? で、映画は終わる。 どこかに、父親の最後の誕生日だから人が集まって来た、とか書いてあったけど、もしそうだとして、そう思われていることは父親にも分かるだろうし。そんなことをされたら、本人としてはうれしいより哀しくなってしまう気がするな。あんな感じに、喜びの顔は見せられるのかね。 ・エンドロールに動物の絵がたくさんでてくる。あれは、父親がソルに見せていた絵に描かれた動物か? 動物や生き物は、何のメタファーにもなっていない気がするけど。 | ||||
絶好調 | 8/19 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ピエール・エテックス | 脚本/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール |
原題は“En pleine forme”。公式HPのあらすじは「田舎でソロキャンプをする青年。しかし、警官に管理の行き届いたキャンプ場に行くように言われてしまう。そこは有刺鉄線で囲われた、まるで強制収容所(キャンプ)で…。」 Twitterへは「エテックスの短編なんだが、バカな小ネタの連続で面白い。『ゲバゲバ90分!』なんか、ここら辺からパクってるの結構ありそうだな。最後は『大脱走』(1963)のパロディになってて笑える。」 14分の短編。「当初は『健康でさえあれば』(65)の一部を成していたが、71年の再編集で外された。」そうだ。 ピクニックしてる男がいて、コーヒーを淹れる単純小ネタなドタバタ。ゲバゲバ90分のネタは、ここからパクってるなじゃないのか、と思った。と思ったら野原から追い出され、金を払ってテントが居並ぶキャンプ場のようなところ。収容所みたいにも見えるけど、自由はある感じ。小さなテントに寝てるけど隣の大きなテントに自家用車があったりとか。で、自分の区画である128番に行くとぬかるんでぐちゃぐちゃ。近くには金網を隔てて会う親子みたいのがいたり。近くのテントで、テント内に穴をほり土を外に運び出す遊びの子供がいて、でも子供たちが教師らしいのに連れていかれたのでそのテントの中を覗くと穴がある。自分の区画はさておいて、その穴に潜ると、テントの向こう側にでられる。そこは金網のない自由な野っ原。これはもしかして『大脱走』(1963)のパロディか。 観客5人。 | ||||
健康でさえあれば | 8/19 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ピエール・エテックス | 脚本/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール |
原題は“Tant qu'on a la sante”。公的HPのあらすじは「なかなか寝付けない男の一夜を描いた〈不眠症〉、映画館にいたはずが、幕間に流れるCMのおかしな世界へ入り込んでしまう〈シネマトグラフ〉、近代化が進む都市で人々が受ける弊害をシュールに描いた〈健康でさえあれば〉、都会の夫婦・下手くそハンター・偏屈な農夫が織りなす田園バーレスク〈もう森へなんか行かない〉の4編からなるオムニバス・コメディ。」 Twitterへは「エテックスの4話オムニバス。『不眠症』はドラキュラ映画のパロディ?『シネマトグラフ』はフランスの映画館のシステムが垣間見れて興味深い。『健康でさえあれば』は都市社会への風刺と皮肉?『もう森へなんか行かない』はバカ話かな。」 67分の4話オムニバス。「1966年に公開されたが、71年にエテックス自身によって再編集が施され、現バージョンに生まれ変わった。」んだと。『絶好調』が外されて、過去作が追加されたとか。 『不眠症』 眠れないままドラキュラ小説を読む男と、その小説の内容のドラキュラ話が交互に。ベッドの横では妻が寝ていて。小説も読み終わった、もう明け方か、さあ寝よう。とズームアウトすると男の首に2つの歯の跡。横で妻が目を開き、口を開くとドラキュラのような犬歯が…。うーむ、な感じかな。 『シネマトグラフ』 映画館で、席を立つ人、その空いた席に座ろうとする人、のギャグ。おしゃべりがうるさい女性スタッフ。座ろうとすると係りの女性にお金を要求されるのは、席料? チップ? はたまた、お菓子? を買う時の料金の支払い(隣り合った客が料金や商品、つり銭を渡すシステム)とか興味深い。いくつも席を移り、やっと座ったと思ったら手すりが邪魔な二階席で。コートを畳んで敷いて高くして見ようとしたら映画が終わってしまう…。という話から、なぜか突然、広告の世界になる。これは映画館で上映される広告のパロディか? 男は下着姿の女性のいる部屋に入り、万能オイルとか何だとかの広告宣伝の中に入ってしまう。広告批判の風刺かも知れないけど、たいしたギャグもなくいまいち面白くない。 『健康でさえあれば』 街中。工事現場の騒音、揺れ、排気ガス。それも何するものな人々が動きまわっている。医者に並ぶ患者。淡々と薬を処方する医者。最後は医者が自分に処方箋を書くというオチ。工業化への批判なのかもしれないけど、ギャグ少なめでいまいちつまらなかった。 『もう森へなんか行かない』 柵を作る農夫と、ウサギを追うハンターとピクニック気分の夫婦の話。せっせと直した柵が、ハンターや夫婦になぎ倒されてやり直し、というバカっぽい展開。夫婦は、ゆったり楽しむ場をもとめて、ピクニックセットの入ったカバンを広げたりこぼしたり。ぬかるみにハマった靴が流されたり。はては車がパンクしたりする。パンクは直したけど、こんどはお出かけセットの入ったカバンを忘れてしまうというオチ。いまいちつまらない。で、最後は登場人物4人が登場して、お別れの挨拶をする。 『絶好調』との連続上映で、観客5人。 | ||||
新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる! | 8/20 | テアトル新宿 | 監督/小林啓一 | 脚本/大野大輔 |
公式HPのあらすじは「文学少女の所結衣は憧れの作家緑町このはが在籍するといわれている名門・私立櫻葉学園高校に入学。しかし、文芸コンクールを連覇するエリート集団の文芸部には入ることができなかった。落ち込む結衣に文芸部の部長・西園寺茉莉が、正体不明の作家“このは”を見つけ出せば入部を許可するという条件を提示。結衣は、“このは”のインタビュー実績がある学園非公認の新聞部に潜入し、部長のかさねと副部長の春菜のもとで新米記者“トロッ子”として活動することになる。教師たちの不祥事に切り込む新聞部を快く思わない学園の理事長・沼原に理不尽な圧力をかけられ、新聞部は窮地に立たされてしまう。しかし、結衣は一念発起し元文芸部の松山秋らと協力して理事長、そして学園の闇に切り込んでいくのだった。」 Twitterへは「肩すかし。ムダにくどいし演出の間とか勘所が悪すぎ。この手の学園ものならバカっぽく炸裂しなきゃ。中途半端にリアルで楽しめない。いまどき文芸部で学校を盛り上げるってアナクロだろ。高石あかりも弾けてないし。」 期待してたんだけどね。つまらなすぎて少し寝た。気がついたら、実は松山という先輩が代作をしていて、西園寺のコンクールでの実績はインチキだった…とかいう話になっていた。どんぐらい沈没してたんだろ。 冒頭からよくわからない。文芸部への入部のためのテスト? なのか、をしてる最中に新聞部の部長かさね と副部長、それとドローン少年がなんかしてる。ドローンが教室内に飛び込んで、結衣にぶつかる。の結果、結衣は学校にあるらしい和室で寝ている・・・。これはどういう経緯なのだ? そもそも、文芸部に入るのはそんなにハードルが高いのか? そういう設定らしいんだけど、どーも素直に納得できない。だって、本が売れず作家が極貧ないまどき、小説とかエッセイストに憧れる高校生なんて、おらんだろ。現実にも、高校生に向けた文芸コンテストなんてあるのかどうかも知らんし、あったとしてその入選常連校に惹かれるなんてこともないぞ。学校を有名にするなら、サッカーとか野球とかスポーツだろ。と思うと、この映画の説得力は雲散霧消してしまう。そして、ドローンを飛ばした新聞部の狙いは何だったんだ? あんなんで入部テストの様子を撮影したからって、なんの解決にもならんだろ。っていうか、のちのち明らかになる文芸部のインチキ工作、そして、文芸大賞と学園理事長の癒着とか、に、新聞部の かさね が気づいていたとして、ドローンじゃなにも発見できんだろ。バカっぽいのは、結衣にぶつかったドローンが、結衣の首にくっついたままなんだけど、ありゃどういう演出なんだ? 意味不明が多すぎる。 対立構造がいまいち明確ではないのだよね。理事長が学園を有名にするため文芸部に力を入れ、それが行きすぎて文芸大賞での代作までやっていた、と。さらに、審査員に賄賂も送っていた、と。では、それを明らかにするため、新聞部=かさね は何をすべきだったのか。実は かさね は、“このは”という偽名で文芸大賞に応募し、一席を得ていた。それを理事長や文芸部部長の西園寺は面白く思っていないようなんだけど、でも、“このは”の入賞で学園の知名度が高まっているのなら、それはそれでいいじゃないか。と思うんだけどね。 かさね も、“このは”なんて偽名で文芸大賞に応募せず、実名で応募すりゃいいじゃん。偽名をつかう意味はどこにあるのだ? ムダに話を難しくしているだけで、意味ないじゃん。もっと話を単純に、理事長の悪事と、西園寺が傀儡になっていることを暴く、でいいんじゃないのかね。そのために新聞部が活躍する、という話にして、新米記者トロッ子が事実に迫る、な話の方がスッキリするだろ。 だいたい、松山という先輩も、なんで代作なんてしてたんだ? 寝てたから分からんけど、弱みでも握られていたのかね。 というわけで、この映画はつまらなすぎて退屈だった。唯一の興味は、かさね役の高石あかり。これはもう、『ベイビーわるきゅーれ』のあの素っ頓狂なキャラが楽しすぎるからなんだけど、でも、あの感じはほとんどなくて、残念至極。というか、『ベイビーわるきゅーれ』のキャラ作りが凄すぎる、と再確認だな。 で、いろいろあって。今年度の文芸大賞発表の場で、受賞した西園寺が感想を問われ、「まだ作品を読んでないので分かりません」と発言し、場内が騒然。その真意は、というわけで時間を巻き戻して、そう仕組んだ かさね の意図と仕掛けが説明されるんだけど、これがいまいちなるほど感がない。どうやら かさね は西園寺にすべてを話し、それで西園寺さんが反省し、自分の悪事=恥をさらしてまで理事長に刃向かったという構図らしいんだが、そうなる確率なんて怪しいはず。西園寺が拒んだらどうなるんだよ。な感じだ。だって父親は西園寺建設の社長で、理事長が計画していた新校舎かなんかを受注するとか何とかいってなかったか? 新聞部副部長の恩田が突然、文芸部に寝返ったり、印刷屋の親父の態度が変わったり、も かさね のプランによって行われたようだけど、この計画を結衣は知らされてなくて、後からビックリ、らしい。それじゃ『新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!』じゃないじゃん。結衣は何もしてないじゃないか。やれやれ、な話だよ。この手の、アレは実は、な展開にするなら伏線をちゃんと考えておいて、あとから、おお、なるほど、な感じにしなきゃ。 というわけで、話自体はがっかり、であった。 で、仲間のその後、が紹介されるんだが、西園寺は、なんだっけ? 忘れた。新聞部副部長の恩田は、文芸部の部長に? なんで? ドローン少年は大して活躍してないと思うんだけど紹介されてて、その後の経緯が述べられてた。どうなったかは忘れた。かさね は、国立の社会学部に入ったという噂? じゃ一橋かよ。と思ったら結衣が新聞社で面接してて、この映画の内容のような体験をしてきた、と面接官に話した様子。3分ぐらいでどう話したんだか。で、面接が終わって廊下に出ると、「トロッ子!」と呼ばれてる女子がいて、チラッとしか映らなかったけど、かさね、に見えた。ふーん。 ・新聞部副部長の恩田は、最初だけ登場し、あとは消えたまま。と思ったら、文芸部に取り入って入部した、とかなんとかで再登場。どういうシナリオだよ。 | ||||
助産師たちの夜が明ける | 8/22 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/レア・フェネール | 脚本/レア・フェネール、カトリーヌ・パイエ |
原題は“Sages-femmes”。公式HPのあらすじは「あるフランスの産科病棟。念願の助産師の仕事に就いたソフィアとルイーズが初出勤すると、そこには想像を超える壮絶な仕事場が待っていた。常に何人もの担当を抱え走り回る助産師たち。ケアされるための十分な時間がないなか運ばれてくる緊急の産婦たち。患者の前で感傷的になるな、とルイーズがベテラン助産師ベネに厳しく叱責される一方、ソフィアは無事に出産を介助し周囲の信頼を勝ち得ていく。そんなある日、心拍数モニターの故障から、ソフィアが担当した産婦が緊急帝王切開となり、赤ん坊は命の危険にさらされる。さらには産後行くあてのない移民母、未成年の出産、死産したカップル…生と死が隣り合わせの現場で、二人は一人前になれるのだろうか?」 Twitterへは「2人の新人助産婦の失敗や成長を中心に、産婦人科で起ころ出来事を描いていく。生々しい出産シーンも。『ER』の助産婦版な感じ。群像劇というには個人が控え目すぎでちと物足りない。原題は“Sages-femmes”で、女性なんだけよね。」 フィルマークスには「5年間の研修を終えたルイーズとソフィア」とあるけど、本編には研修期間なんて紹介されない。やれやれ。 新人の黒人ソフィアと白人ルイーズの助産婦が主人公。同じアパートでルームシェアしてる。ルイーズの方はちょっと不安げで、初日は周囲も邪魔もの扱い。ソフィアは自信があるのか、でも上司に出産前妊婦の対応をするよういわれて不満顔。だったけど、緊急対応のチャンスにスタッフが足りず、ソフィアは自分をアピールし、あんたでもいいわ的に呼ばれてうまく対応し、評価される。どうだ、な感じで自信満々になる。 新人男性スタッフのバレンティン。彼は助産師なのか? なら経験があると思うんだけど、なんと子宮口の広さはどうやって測る? なんてソフィアに尋ねている。ソフィアがルイーズに振ると、「定規で…」と説明し始めて、それを真面目に聞くバレンテインに周囲が大笑い。からかわれていただけなのね。はいいんだが、バレンティンはどういう位置づけなのか、よく分からなかったんだよね。見てて。 勤務が続き、あるとき痛みを訴える産婦の異常に気がついたソフィア。他のスタッフに話しても忙しいとほぼ無視され、でも結局その妊婦は帝王切開に至ってしまう。しかも生まれた赤ん坊はしばらく脈がなく、蘇生を何度か試み、何とか脈は取り戻したものの、もしかしたら脳に酸素が行かなかった時間が心配、なケースが発生。皆で反省会を開くが、あんな状態ではどうしようもなかったとソフィアを庇う上司もいれば、もう少し早く気づいていればという同僚もいて、これまでの自信がまる崩れのソフィア。その後は、どうでもいいようなケースなのに異常に心配症になったり、さらに過剰対応して周りから止められたりして出勤停止になってしまう。自信が打ち砕かれてしまった。いっぽうルイーズの方は院内のシステムに順応し、必要不可欠なスタッフに育っていっていた。 産婦人科ではいろんなケースが発生する。 産んだ子供を抱こうとしない母親(これはのちのニジェール人?)がいたりするんだけど、そうなった背景をちょっとは見せて欲しい感じがする。 不法移民で問診もされずに放置されたままな妊婦。(こっちがニジェール人?) スタッフ男性の妹が出産で運び込まれ、その母親が異常にベッタリ付き添ってあれこれ面倒見始める。その彼女をなんとか病室から追い出すルイーズ。ロビーで、心音が下がってるが、とか、どーのこーのと逐一息子の助産師と話し合ってたけど、突然、心音がなくなる。なに? 生まれた! と大はしゃぎ。とか。 なんとか現場復帰したらしいソフィア。担当する妊婦のカルテを見て、2年前に死産の経験があると知って不安になるが、上司の女性が「あなたならできる」と背中を押され、うまくこなす。これで自信復活。ひとり有頂天になるが、気がつけば周囲は大忙しの院内。スタッフの一員として、頑張るぞ、な感じがよく出てる場面だった。 部屋を探していたバレンティンは、ならうちに住めば、とソフィアだったかルイーズだったかに言われ、2人の部屋に転がり込む。もちろんルームシェアで部屋代は払うわけだけど。あるとき知り合いだかピザの配達だかが病院にやってきて、電話対応していて廊下の隅にニジェール人の親子がいるのに気づく。子供は生んだものの住まいの当てもなく、かといって病院も追い出すわけにもいかず放置したらしい。それでバレンティンは、何と2人の部屋に連れてきてしまう。ソフィアは賛成するけど、ルイーズは難色を示す。それを押し通して住まわせてたら、ある日、母親がいなくなって大騒ぎ。それが上司に発覚して「勝手に世話なんかしちゃダメよ」と言われる。バレンティンの心配をよそに、結局、母親は戻ってくるのだけれど、その後しばらくして母子ともに消えてしまう。面倒がいなくなって病院的にはよかったのかもしれないけど、難民の出産を扱って興味深いのに、そういう場合はどう対応しているのか、消えた親子はどうなるのか、を示唆するシーンがないのは片手落ちな感じ。 かと思うと、死産の子を5時間も待ってやっと抱く両親。待たされたのは分娩室で、「こんなとこで」と文句を言われる女性スタッフは。その彼女なのかな、は仲間の前で突然「辞める」宣言。「忙しくてトイレや食事も満足にできない。自分の子供の相手もできない。だからやめる」という彼女に、周囲は、考え直して、も、言えない。そういう現状がある、ということなのだろう。 時がながれ、新たに新人助産婦がやってくる。ソフィアはかつて自分がされたように、院内を案内する。まあ、かつての新人が成長して新たな新人を迎える立場になる、という場面はよくあるパターンというか定番過ぎるかな。 ラストに、オマケのように助産師たちのデモの場面がある。本物なのか? だけど、映画の登場人物もいたから、撮影したのかな。まあ、助産師が足りない、助産師の扱いがひどすぎる、というメッセージかな。直接的すぎるけど。 ・腰椎麻酔してたけど、出産の痛みを和らげるためにしてるのかな。していいものなのか? ・バレンティンが自作のケーキをもってきたのはクリスマスだっけ? でも、デコレーションがヴァギナを形どっていて、「初めての会陰切開」とはやし立てられていたけど、その最中に緊急事態が発生して…。とか。 ・陰部の見える生々しい出産シーンもあったりした。 ・フランスでは、生まれたての赤ん坊を、まずは母親に抱かせるのか。産湯に付ける前に? 血だらけじゃねえの? 産湯に付けるところは端折ってるのか? よくわからんが。 | ||||
墓泥棒と失われた女神 | 8/26 | ル・シネマ 渋谷宮下 | 監督/アリーチェ・ロルヴァケル | 脚本/アリーチェ・ロルヴァケル |
イタリア/フランス/スイス。原題は“La chimera”。「キマイラ」なのか。へー。公式HPのあらすじは「80年代、イタリア・トスカーナ地方の田舎町。考古学愛好家のイギリス人・アーサーは、紀元前に繁栄した古代エトルリア人の墓をなぜか発見できる特殊能力を持っている。墓泥棒の仲間たちと掘り出した埋葬品を売りさばいては日銭を稼ぐ日々。そんなアーサーにはもうひとつ探しているものがある。それは行方知れずの恋人・ベニアミーナだ。ベニアミーナの母フローラもアーサーが彼女を見つけてくれることを期待している。しかし彼女の失踪には何やら事情があるようだ…。ある日、稀少な価値を持つ美しい女神像を発見したことで、闇のアート市場をも巻き込んだ騒動に発展していく…。」 Twitterへは「ポスター写真から明るいドタバタ喜劇を想像してたら大違い。ゆる〜いクストリッツァ風なファンタジーで、茫洋とした前半はウトウトしてしまう。後半やっと盗掘話になって、でも広げた話は収束しない…。でもなんで原題がキマイラなんだ?」 予告編も見ていない。ので、楽しいコメディかと思ったんだが。クストリッツァとか『ルナ・パパ』『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』のバフティヤル・フドイナザーロフみたいな、東欧ジプシー映画風なテイストで、中味は寓話的なファンタジーというか。イタリア映画なんだけど、みな定住型の人生というより、ふらふら場当たり的な生き方をしてるような連中ばかりが登場する。 墓泥棒というから盗んだ遺体がどうたらで、ではなくて、要は盗掘だった。なーんだ、である。冒頭の娘は、ありゃ誰なんだ? 出所して帰る最中の車中でアーサーが見る夢の中の娘だから、あとから思うにベニアミーナなのかね。そこらへん説明がないので、いろいろ分かりにくい。でこのアーサーはイギリス人なのイタリア語ペラペラで、ダウジングで副葬品の埋まってる墓を見つける才能があり、仲間の盗掘団に重宝されている、らしい。でも前回は逃げ遅れてつかまってムショにしばらく入ってた、ということか。で、迎えに来てた仲間のクルマで街へ行くけど一緒に飲むのはやだ、とかいって向かうのは崖下のバラックで、でもさらっと素通りで向かった先は古びた屋敷。迎えるのはイタリアと名乗る娘で、声楽の勉強に来ているというんだけど、屋敷の主のフローラは車椅子生活で、歌を教えてもらうよりフローラの世話係みたいなことになっちゃってる。しかし、アーサーはなんでフローラの屋敷にやってきたのだ? が、よく分からないまま、だらだら話はつづき、盗掘仲間とは前回の分け前をもらったりするぐらいで、仕事を始めもしない。というか、この時点でアーサーがどういう人物で何をしているのかとか、もよく分からない。なので話に入れず、少しウトウトしてしまったよ。 なんとなく分かってくるのは、アーサーとフローラの娘(ベニアミーナというらしい)が恋仲で、でもベニアミーナは行方不明。最後まで(というか、ラストではちょい登場するようだけど)まともには登場しない。でも、だからといってフローラが娘を思うフーテンのイギリス人を自分の息子のよう可愛がるか? あとから登場するけど、フローラには何人も娘とかその家族がいて、フローラが死んだら財産を…と露骨に言ってくるのまでいたりして、でも、親族ではある。その親族よりアーサーの方が信頼できるのか? のらくら話はとろとろ横道にそれつつ進んでいき、アーサーもダウジングに復帰したりする。その間にイタリアと接近して仲良くなって、廃駅へ一緒にいったり、のちの何となくの伏線をアバウトに見せたりする。 ところで、盗掘品をいかに売るか、というのは、動物病院が窓口になってるらしい。盗掘品を什器エレベーターみたいのにに乗せると上階で鑑定され、金が降りてくる。アバウトだな。上階の主はスパルタコというらしい。 なことをしてて、本格的に墓場を探索してたら天啓が。ひらめいたときはアーサーの姿が水たまりに映る、というチープな表現なのが、なんだかなあ。で、掘ったら未盗掘の神殿のようなのを発見。このとき一緒にいたイタリアが、どうやら墓場嫌いらしく。アーサー達の行為を知って大慌て。アーサーが与えた鈴を「死人のところにあったもの、これ?」と捨ててしまうし、こんなことをしちゃいけない、文化財よ! と騒ぎ出す。それはさておき一同、穴にもぐるとなかには女神像が安置されていて、一同、大喜び。とくにアーサーは、像に魅入られた表情。と思っていたら、仲間の一人が女神の首を、ガッ、と折っちまう。おお。台座含めると2メートル以上のある大理石の像じゃ持ち出せない。だから、らしいけど、荒っぽいな。というか、現存する大理石像にも首のないのがあるけど、こういうことか。と思っていたら警察のサイレン。どうやらイタリアが通報したのか。なんとか女神の首をもって逃げ出す。途中にあったエトルリア人の墓という看板はなんなんだ? 調べたら、エトルリアはイタリア中部らしい。 盗掘団はスパルタコの所に女神の首を持ち込んだんだっけかな。でもスパルタコはいなくて、彼女の姪が動物病院の受付をやってる。この姪がおデブちゃんで、前半からチロチロ登場してきたけど、映画としてはとくに機能してなくて、お飾り的な感じかな。 と思ったら、首のない女神がクレーンで吊され、コンテナに積み込まれていく。イタリアの文化財保護局みたいな所かなと思ったらそんなことはなく、例のスパルタコがあの女神を手に入れた、らしい。よく分からんけどスパルタコは盗掘団をいくつも知っていて、そこから文化財を手に入れ、この手のアートに興味のある金持ち相手にオークションして稼いでいるようだ。この日もクルーザーでオークションを開催中で、例の首のない女神が出品されている。というところにアーサー以下の盗掘団がやってきて、あれは俺たちが発見したもの、とか言い争い。と思ったら、アーサーは、仲間が持っていた女神の首を海に放り投げてしまう(ていう展開はミエミエで、予測の通り)。みな、唖然。だけど、場所は特定してるんだから、潜水夫が潜れば簡単に見つかるはず。スパルタコにとっては、良かった展開なんじゃないのかね。その後、オークションがどうなったかは、分からない。 イタリアは、実は子供がいて、子供たちも屋敷に隠して住まわせていたことが、バレた、らしい。だからどう、ということはないと思うんだが。フローラも、このあたりから消えてしまい、登場してこなくなる。 よごれてボロボロ、鬚ボウボウのアーサー。家に行くと違法建築だからか解体作業が始まっている。イタリアの娘に出くわして。お母さんは? そんな汚い恰好じゃやだ。で、鬚を刈り込み上衣も替えて連れて行かれたのは、かつて一緒にいった廃駅で。イタリアはそこをキレイに改造し、仲間と共同生活を送っていた。でも、仮の宿、といってたけど。ところで、ここでアーサーが「おお、ファビアーナもいたのか」といってた女性は誰なんだ? 盗掘団のひとり? よく分からん。 なぜか知り合った腕っ節が強そうな盗掘団に頼まれて、アーサーが建築現場みたいな所で墓場探しをしている。いやあ、なんでそんな依頼を受けるかね。と思うんだが。ひらめいた場所を重機で掘ったらビンゴで。先に入れといわれて中に入り、ローソクに火をつけた途端、入口が陥没。助けてくれる気配は、感じられない。それはさておき、なかに進むと、上に光が見えて、そこから赤い糸が垂れていて。それをたぐると、プツンと切れてしまう。画面が変わって、その上の世界では、女性が赤い糸をたぐっている。だれ、これ? イタリア? スパルタコにも似てたけど。Webの情報ではフローラの娘でアーサーの想い人であるベニアミーナらしいんだが。わっかりにくいな。 というわけで、話はとっ散らかりまくり。アーサーの存在も怪しくて何者か分からず、ベニアミーナとの関係もよく分からず。イタリアはどうなったのかも分からず。最後は、アーサーとベニアミーナをつなぐ糸だと思うんだが、なんであんな所にあったのかも分からず。そもそも、あの穴が墓とも限らず、たまたまベニアミーナとのつながりのある場所を感知して潜った、のかも知れず。実際に土砂崩れでアーサーは死んだ、のかも知れず。いや、死者の住まう幻想の世界に入り込んでしまったのだ、ともいえるし。海中に消えた女神の首がどうなったのか、も分からず。フローラの様子も。イタリアの今後もわからず。 なにがなにやら、広げた話をひとつも回収していない。まあ、こういう映画のつくりなんだろうけど、別に高尚なわけでもなく、思わせぶりで見せてるだけな感じだな。 原題は「キマイラ」で、なんで? と思ったら、予告編の墓掘り場面に。「死者への冒瀆どは?」「彼は“幻想”を追っているの」というセリフがあった。キマイラには「幻想」の意味もあるのか。 ・ところで、8mmフィルムの風景がときどき入るのは、あれはなんなんだ? | ||||
ぼくの家族と祖国の戦争 | 8/29 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/アンダース・ウォルター | 脚本/アンダース・ウォルター |
原題は“Når befrielsen kommer”。公式HPのあらすじは「終戦1ヵ月前、大混乱に陥ったデンマークに敗色濃厚となったドイツを脱出した20万人以上の難民が押し寄せてきた。当時のデンマークはナチス・ドイツの占領下に置かれており、受け入れを拒否する選択肢はなかった。難民の受け入れという突然の非常事態に見舞われた大学長ヤコブと妻リスは、たちまち究極のジレンマというべき選択を迫られていく。周囲の誰もが敵視するドイツ人を救うべきか否か。売国奴と罵られることを恐れ、飢えと病気に苦しむ子供を見過ごしてもいいのか。その葛藤を見すえた本作は、家族が戦争という巨大な暴力に脅かされながらも、懸命に人間性を保とうとする姿を感動的に描き、人間が選択すべき“正しいこと”とは何なのかを問いかける。」 Twitterへは「終戦直前のデンマークに大量のドイツ難民が押し寄せたとは知らなんだ。難民を押しつけると兵士はトンズラ。食糧も医療もないなか、感染症が発生。さて難民をどう扱うか、な話で、前半は興味津々。後半、話が失速してしまったのが残念。」 占領下のデンマークは、そんな殺伐とはしてないように描かれる。街中でも、ドイツ兵から身分証を求められるぐらい。レジスタンスもいるけど、その活躍はここではほとんど描かれない。まあ、対ユダヤ人ではないから、対応もゆるやかなのかな。あるいは、敗戦1か月前らしいから、偉そうにしてるゆとりもないのかも知れないけど。 主人公は、市民大学の校長一家で、父ヤコブ、息子セアン、妻リス、それにセアンの妹。市民大学(フォルケホイスコーレ)は、調べたら17歳以上なら誰でも入学できて、試験も成績評価もないらしい。全寮制で、教員も同じ敷地内に住み、学びたいことを学べる学校のようだ)。で、その市民大学に対し、ドイツ軍から難民を受け入れるよう要請される。当初は200人といわれ、それでも多いと反論したがドイツ軍将校に一喝され、しぶしぶ承諾。ところが、やってきた列車には500人を超える難民が乗っていた。やむなく体育館に収容するが、ちょっと見は東日本大震災の避難場所をもうちょっと詰め詰めにした感じだな、ありゃ。その上ひどいのは、ドイツ兵は難民を押しつけると全員引き上げてしまい、約束されていた食糧や医薬品の供給もなし。難民は農家のニワトリを殺して食べたりもしたけど、その後は何を食べていたんだろう。まったく説明されていないので分からない。さて、しばらくして子供が発熱したからなんとかしてくれ、と母親が訴えてくる。しかし、ヤコブはそれを拒否。敵を見てやる余裕もないし、医薬品もないから、というけど、むしろ、敵国人を助けるのはナチの支援になるからしたくない、というのがホントのところのようだ。 並行して、なぜか知らんが医者がドイツ兵にいきなり射殺されるのだけれど、あれはレジスタンスの攻撃に対する仕返し、とか言ってたっけか。でも、なぜ医者なのか、どういう因果があったのか、は説明されず。実は、医者の息子は市民大学にも在籍? してるビルクで、レジスタンスの一員のようだが。それが発覚したわけでもなさそう。というわけで、伏線としてここで、ビルクのナチへの恨みを植え付けている。 というのが発端で、劣悪な環境下におかれた難民の間にジフテリアが発生。老人と子供がバタバタ死に始める。さあ、どうするか。この映画、一見すると、博愛精神は、戦時下で発露されるのか、あるいは、どう変化するのかを描いているように見える。前半は、そんな風に見える。でも、後半になると個人の打算が背景に現れてくるんだよね。リスは最初、難民に優しかった。でも住民の反発にあって簡単に転向する。セアンは、最初は父に従っていたけど、その結果、友人にいじめられたりして、でも難民への蔑視はせず、レジスタンス活動に協力し始めるという、捻れた態度になる。ヤコブは、よく考えると一貫して大学の存続と自分の地位(職)の確保が第一義的だ。ヤコブに博愛の心があるとは思えない。そして、地元住民や大学の学生は、ほぼすべてが反ドイツな態度を取る。なんか、みんな記号的なんだよな。だから、誰に共感したらいいのかよく分からなくなってくる。 最初、妻リスが難民の子供を自宅に呼んで食事を与えるという博愛精神を見せる。それを見たヤコブは、そんなことをしたらナチの支援者だと思われるからダメだ、と子供たちを追い出す。リスは反発するが、変わらず世話をしつづける。 と思ったら、こんどはヤコブが難民のことを気にするようになる。感染拡大を危惧し、クスリが必要、と考えるようになったからだ。それでヤコブはドイツ軍に駆り出されているらしいデンマーク人医者を訪問し、医師の不在をいいことにクスリを猫ハバして帰るんだけど、遺書に連れて行ったセアンが父の行動をレジスタンス青年のビルクに告げ口。これでヤコブは地元住民のオバサンからツバを吐きかけられたり、立場が弱くなる。その上、夜、大きな石を放り込まれたりして、こんどはリスがビビりはじめる。セアンも、友人たちからいじめられ、下半身むきだしで着に縛り付けられたりしてしまう。(このときセアンを助けた娘が、最後にかけて登場する難民娘、なのか?) ドイツ占領下にあるデンマークは、押しつけられたドイツ人難民を助けるべきか否か、という設定にしているわけなのだが、ヤコブ一家の難民に対する態度がコロコロ変わるのが、なんじゃらほい、なんだよね。ヤコブは、ほぼ大学の存続のことしか頭にない。だから、ナチ支援はしたくない。ところが、ジフテリアの感染拡大を危惧。提供していたのは体育館だけだったけど、病人を大学本館に隔離しよう、と学生の前で宣言し、総スカンをくらう。のだけれど、やり方がまずすぎだろ。そもそもヤコブは大学の理事長みたいな人にすでに相談している。だけど、理事長は聞く耳をもたない。この展開は、なんともトンマな感じでイライラする。大学の関係者で知識もあるだろういい大人が、感染拡大を心配しないのはおかしいだろ。だってジフテリアは難民の間でだけ感染するわけではない。デンマーク人に伝染する可能性は十分あるんだから。なので、ヤコブが「患者隔離はデンマーク住民のため」という理屈で進めれば良かったんだよ。それで、理事の面々とか、町の偉いやつとか、教会の連中とか、にまず謀り、その上で住民相手の説明会を開けばよかったんだ。難民の健康維持、ジフテリア患者の隔離は、地元住民のためなのだ、と。でも映画は、そういう展開にはしない。まあ、対立を際立たせたいという演出意図があるんだろうけど、それが見えてくると、俄然この映画はつまらなくなってくる。 このあたりからセアンの反抗的な態度が際立ってきて、レジスタンスの青年ビルクに接近。レジスタンス仲間に拳銃を運ぶ仕事を自らし始める。というところは、子供のありがちな話にしていているんだけど、この態度は最後まではつづかない。なぜかセアンは難民に一少女に好意を示すようになり、彼女が熱を出して寝ていると分かると、自分の靴を与えたり、何だかんだ世話をし始めるのだ。でも、そんな感じになるようなエピソードはあったか? 縛り付けられた柱から解放してくれた少女だとしても、そんなに会話も交わしてないし。突然の態度がわりで、ぜんぜん説得力がないんだよな。 そして終戦。立場は変わる。 占領下でナチ支援をした連中を狩りだす運動が活発化して。セアンはビルクと一緒に行動するんだけど。ドイツ軍の軍人と関係していた女が総スカンを食らっている。その息子がたしかセアンの同級生? かなんかで、肩身が狭かったのが、ますます、ということだろう。この手の、敵と寝た女の写真はいまもたくさんあるから、さぞかし、な気分になって落ち込む。で、ビルクは「次はお前の親父だ」と、大学の体育館に向かうんだけど、ヤコブがナチを支援した非国民とは思えないんだよな。大学の体育館を難民に提供したのはドイツ軍の要請だし。積極的に優しくしようとしたのは妻の方じゃないか。で、実際に行ったのは、難民のなかの病人を看病したことと、病人を大学本館に隔離しただけだ。これが非国民に値する行為か? 感染拡大を阻止し、デンマーク住民を救ったと褒められてもいいくらいだ。と思うと、ますますこの映画が安っぽく見えてくる。 で、大学にやってきたビルクは、ドイツ人医師と看護していたヤコブを拘束。ついでに、ドイツ人医師を撃ち殺して、父の仇、と溜飲を下げる。昨日の被害者が、今日は冷酷な加害者になる。まあ、そういう図式にしたいんだろうけど、分かりやすすぎ。 で、セアンは相変わらず少女を気にかけ、病院に連れて行ってくれるよう父ヤコブに懇願する。でも、ドイツ人を診るのは禁止されているとかで、病院に連れて行っても無視される。でも、そこをなんとか、とヤコブと頭を下げ、なんとか診てもらうことになるのだけれど、診ることを決断した医師は、その後どうなったんだろう。心配だ。ところで、連れて行くとき、検問していたのがビルクで、ドイツ少女と分かっていながら通してくれたのは、あれは映画の都合だろう。なんか、人物の考えや行動が一貫していないんだよな、この映画。その場その場で面白さを優先したエピソードをつぎはぎしている感じなんかだよな。 で、この難民少女を助けた行為が理事長以下に知られたからか、ヤコブ一家は大学を追われてしまう。一家4人がカバンを提げてトボトボ行く場面がラストシーンだ。しかし、ちょっと前にヤコブは、妻リスに「大学の仕事を無くすのは困る。この仕事を失ったら、どうやって生きていけばいいんだ」とか泣き言のようなことを言ってたんだよな。大学の学長までしてたのに、それはないだろ、と思うけどね。でもまあ、学長の座を失っても、息子セアンの願いである、難民少女を救ったのは、はたして褒められたことなのか、よく分からんな。 それにしても、デンマークの一番市民は、結構バカだな、というのが見終わっての感想かな。それは、ヤコブの行為を理解できなかったことが一番だ。別にナチに媚びて祖国を裏切った訳でもないだろ。それに、難民は兵士ではなく、市民だ。敵の市民が飢えや病気で死ぬに任せるというのは、倫理に反しているだろ。心が痛まなかったのかな。まあ、周囲の同調圧力で、本心では難民に優しくしてやりたいと思いつつ、できなかった、という人もいたかも知れないが。だから、そういう存在も、映画の中に描いておくべきだったんだじゃないのかな。 というか、話が図式的すぎるというか、深みが足りないと思う。 それと、難民を連れてきていなくなったのは、連れてきたドイツ兵だけだ。他にも、以前から街のあちこちに住民を監視するドイツ兵は立っていた。ドイツの上官は、その彼らにドイツ難民が妥当に扱われているかどうか、見させればいいだろうに。そうすればデンマーク人も食糧を提供したり、看病もしたりしたのではないだろうか。その意味では、ドイツ軍の上官は、ちと頭がトロかった、ということなのか。そんなこともできないぐらいドイツ軍は追いつめられていた? なら、なんで町の中に監視の兵士がうろついているんだよ。 |