幸福な結婚記念日 | 9/1 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール | 脚本/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール |
---|---|---|---|---|
フランス映画。原題は“Heureux anniversaire”。公式HPのあらすじは「ある夫婦の結婚記念日。妻の用意するディナーに間に合うよう、プレゼントやワインを買い込み家路を急ぐ夫。しかし、パリの交通渋滞やその他の問題に巻き込まれ一向に辿り着けない。果たして、幸せな記念日にすることができるのか?」 Twitterへは「エテックスの13分の短編コメディ。男は、妻の待つ記念日の夕食に間に合うか? フランスの駐車事情、渋滞事情がうかがえて面白い。」 13分の短編。1963年 アカデミー賞 最優秀短編実写映画賞 受賞ですと。 自宅では、妻がパーティの用意をして待っている。男はプレゼントかなんか買い物して戻ると、前後に他人のクルマ。前のクルマの警笛を鳴らすと、床屋にいた客がヒゲにシャボン付けたままでてきて、クルマに乗って移動する。その空いたスペースに、速攻で他のクルマが停める。ヒゲ男は、元のところにもどるも止めるところがなくて床屋のブロックをぐるぐる。男のクルマは、すんなり出られた。と思ったら渋滞で、クルマはほとんど動かない。やっとぬけだして駐車し、ワインかなんか買ってもどると、両サイドにクルマが止められていて中に入れない。となりのクルマに勝手に乗り込んで動かそうとしたら、そのクルマの持ち主が戻ってきて騒動。自宅の妻は待ちきれずに食べ始めてしまう。ヒゲ男はシャボン付けたままうろうろし、騒動にまきこまれる。男は花を買って、でもクルマに入りきらないのでサンルーフから飛び出したまま。ヒゲ男はなんとか駐車して床屋に戻ると、もう店じまいしてた。男がサンルーフを閉めると、花は真っ二つ。だいぶ遅れて部屋に戻ると、奥様はすでに酔い潰れて熟睡中。 という流れで、なかなか楽しいし、フランスの駐車の仕方とかトラブルとかも、興味深かった。 観客6人 | ||||
大恋愛 | 9/1 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ピエール・エテックス | 脚本/ピエール・エテックス、ジャン=クロード・カリエール |
フランス映画。原題は“Le grand amour”。公式HPのあらすじは「工場を営む実業家の一人娘と結婚した男。義父から仕事を任され、夫婦仲も良好ながら、どこか満たされない退屈な日々を送っていた。そんなある日、若く美しい秘書が現れ、どうしようもなく惹かれてしまい…。」 Twitterへは「エテックスの長編、っても87分だけど。一応はコメディなんだが、ほとんど笑いにつながらない。退屈。なんだけど、夢の中のベッドとか共有財産制でなんでも半分とか、妙にシュール。」 コメディのはずなんだけど、ギャグが少なめというか、ナンセンスなお笑いがいまいち。どこで笑っていいのか、よく分からん。物語自体もとくに面白いとも言えず、若い娘にうつつを抜かす中年、といっても映画の設定では38歳なんだけど、は、珍しくもない。ちょっとつらかった。というか、眠かった。寝なかったけど。 ・結婚前は二人恋人がいて、同時進行でつき合ってて、一緒に旅行に行ったり遊んだりしていた。いや、二人だけじゃなくて、つき合った相手はたくさんいたよ。なんだけど、結婚した相手はこの女性。って、なんかしおれているのは、人生は結婚でオシマイ、ということか。 ・教会の中をうろうろする協会の関係者とか、変わった参列者とか、駆けつけた参列者がすでにいる参列者の椅子を倒すとか。バカすぎてつまらない。 ・結婚前に両親に会って自己紹介、みたいなのはするんだ、フランスでも。もっとフランクにイケイケかと思ったんだけど。 ・音楽家になりたかったけど、義父が経営する皮革会社の跡取りか…。とうなだれている。あの子たち、僕が結婚して残念がってるかなあ、とつぶやく場面で、つき合ってた2人ともちゃんと彼氏がいることを見せるんだけど、おかしくもなんともない。 ・で、10年後、子供もいなくて、倦怠期、に一気に話が飛んでしまう。 ・妻はベッドから義母にしょっちゅう電話してる。なんと、妻の両親は階下に住んでいる! って、これは妻の両親の家なのか? 婿殿? ・友人がいて。お前、いくつで結婚した? と聞かれ、男は「25かな」と応えていた。そんな歳で人生を決めていた時代があったんだ。1969年か、製作は。 ・先代からの秘書はオールドミスのオバサン。が退職するので、代わりにきたのが18歳の娘の秘書。当時の感覚では、自分の歳(38歳)の半分で18歳の女性は、自分の子供みたいな小娘、になるのか。 ・用もなのに若い秘書を呼んで会話してうっとりしたり。彼女の髪の毛が落ちているのを拾って臭いを嗅いだり、机の中にしまい込んだり。当時の38歳は、もうオッサンなんだな。 ・男は会社に行くのが楽しくなる。なので、出社しようとすると妻に「今日は土曜日よ」といわれ、ショボン。しかし、1968年なのに、土曜日は休日だったのか。フランスは進んでたんだな。 ・ところで、男の10年後は35歳だと思うんだけど、10年後からさらに3年経ってしまった、ということなのか? ・夜、彼女を思うと、夢の中でベッドが走り出す。って、実際にベッドが田園を走ってる。エンストしたベッド、事故ったベッド、農業で使われてるベッド、いろんなベッドが登場する。最後は、娘をベッドに呼んで一緒に寝たまま、妻のいる部屋に戻ってくる。夢の世界は楽しいね、な漢字。このベッドのシーンは、なかなか不思議感満載。 ・友人に相談したら「告白しろ」とかいわれて。会社の自室に娘の秘書を呼んだつもりが、入ってきたのは本日が最終日のオールドミスの方。後ろ向きで話していて気がつかない男が「君が好きだった」と告白すると、オールドミスの目が輝いて、重役室(?)の鍵を中からかけてしまう。オソロシイ。はいいけど、そのあとどう言い訳し、逃げたのか、が気になるよ。 ・さらに妄想で、「離婚だ!」なんて話になって。「共有財産制だから、なんでも半分こ」というわけで、テレビも鍋も、なにもかも半分に切断されている世界が映される。これはなかなかシュール。 ・なときだったか、妻が旅行に行きたい、といいだして一人いなくなる。そういうことってあるのかね、おフランスじゃ。 ・で、いよいよ勇気を出して夕食に誘う。浮かれすぎて、業者に、「いくらでも言い値で買ってやる」なんて電話で話しちゃったりする。さらに、友人の入れ知恵で、ダンスを踊れ、いや踊れない、なんて会話で、男同士がレストランの店内でダンスの稽古を始めたり。 ・いよいよ夕食の当日。男は娘に会社のこと、事業のあれこれ、を話し始めて。娘はつまらなそうに聞いているが、男の容貌はどんどん老け込んでいく。って、どこが面白いんだ? ・娘とのデートのために買ったのか、真っ赤なスポーツカー。というか、夕食の場面は、どこまでが妄想なのか、よく分からん。 ・夕食デートは、実際にしたのやら否や。翌日にはなぜかキッパリ娘のことをあきらめたのかなんなのか。かねてからの約束なのか、妻を迎えに駅へ行く。と、青年が妻の荷物をもって現れる。この青年に、男はちょっと嫉妬した、のか? あいつは誰だ、としつこく訪ねたりしている。 ・てな感じで、映画は中途半端に終わってしまう。 ・娘は自転車通勤。なんだけど、ペダルを漕がずにどんどん進む。いまの電気自転車みたい。あれ、もしかしてモーターバイク? ・カフェやレストランに登場する、冴えないオッサンがいる。給仕がなにかに気を引かれつつテーブルの上の空いたグラスを回収しているんだけど、なぜかオッサンのグラスまで下げられてしまう。え? と驚きつつ、文句を言わないオッサン。なんかいい味を出していた。 ・噂好きのババアが何人か登場。男が出勤途中に女性と挨拶した、が、どんどんエスカレートして、茂みに入って何かしてた、とか話が大きくなる。そういう話がめぐりめぐって、義母の友人から義母につたわるという。まあ、よくあるパターンね。 ・SEが面白い。業者からの電話のときは、赤ん坊の泣き声。重役室内では、ガチャコンガチャコンと機械音。ありゃ何を意味しているのかね。 『幸福な結婚記念日』に引きつづき見たので、観客は6人 | ||||
愛に乱暴 | 9/2 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/森ガキ侑大 | 脚本/森ガキ侑大、山崎佐保子、鈴木史子 |
公式HPのあらすじは「夫の実家の敷地内に建つ“はなれ”で暮らす桃子は、結婚して8年になる。義母から受ける微量のストレスや夫の無関心を振り払うように、センスのある装い、手の込んだ献立などいわゆる「丁寧な暮らし」に勤しみ毎日を充実させていた。そんな桃子の周囲で不穏な出来事が起こり始める。近隣のゴミ捨て場で相次ぐ不審火、愛猫の失踪、不気味な不倫アカウント…。平穏だったはずの日常は少しずつ乱れ始め、やがて追い詰められた桃子は、いつしか床下への異常な執着を募らせていく」 Twitterへは「江口のりこ主演の、サスペンスという触れ込みだけど、コメディだろこれ。脛に傷持つ倦怠期の奥さんが、捨てられまいと亭主や姑に下手にでた揚げ句、現実を突きつけられる…。要は、メンヘラの話だった。ツッコミどころ多数。」 最初の30分ぐらいは、桃子の淡々とした日常生活を見せていくだけ。夫とはフツーに会話し、義母のゴミ出しも手伝う。とはいえ、いつまで経っても現れないノラ猫を待っていたり、ホームセンターの外国人店員に不審な目を向けたり、定期的に誰かのSNSを覗いていたり。夫が出張から帰ると、荷物の中のワイシャツの臭いを嗅いだりする。夜も夫に肉体関係を求めるが、なんとなく断られ、ちょっと不満顔、な感じで。あからさまな対立がないかのような日常がつづく。それがつづくので、ちょっと退屈。 話が転がり出すのは、夫の真守が「会って欲しい人がいる」と告白してから。愛人がいて、子供ができた。つまりは、別れたい、らしい。これで桃子が逆上。何を言ってるのよ、と否定し、受け入れようとしない。のだけれど、なんか素直に受け止められない反応なんだよね。なぜなら、最初の方の淡々とした日常は、本来の夫婦関係の一部であって、あやういところを避けて描かれていただけなのだから。真守に愛人がいるのは桃子も十分に承知で、相手の奈央のSNSはチェックしていたし、出張もホントかどうか疑っていた。しかも、桃子には子がないというハンデがある。あとから分かるのだけれど、実はかつて桃子自身も真守の浮気相手で、子供ができたから、と先妻を追い出して妻の座に座っていた、ようだ。子供は真守との結婚の前ぐらいに流産していたけれど、それを言わずに、妊娠した、ということだけで結婚に至ったらしい。流産を内緒にしていたことは義母にも知られており、その後、妊娠に至っていないこともあって肩身が狭かった、のだろう。嫁して三年子なきは去れ、とか、石女という言葉を思い浮かべてしまったよ。 そもそも桃子はどういう性格か。周囲に気の回る性格で、人の嫌がるゴミ収集所の掃除も率先してやるタイプの、いい人…というふうに感じる人が多そうだけど、それは彼女の我慢・演技であって、実際は負け犬の媚びへつらいだろう。子ができたからと先妻を追い出したはずが、流産。そして8年子がない。義母が、真守はお魚が好きなのよ、と言われて初めて夫の魚好きを知る。それまでは肉が好き、と思い込んでいた。普段の色気のない衣服や化粧。週に何回か、以前の職場の関係? で開催している一般人相手の石鹸講座を除けば、社会との関わりはない。他に趣味もなく、庭で土いじりか、いもしないノラ猫の世話…。これじゃどんどん身の置き所は亡くなるはず。夫に嫌われていることも分かっていて、なんとか縁を切られないように気を配っていた。それが用を為さなくなった。その事実を、はっきり具体的に見せつけられたのが、夫の告白と、愛人に子ができた、離婚してくれ、の宣言だろう。 女なら、亭主に毛嫌いされてるのは自覚してるはず。なのに、真守が「外で食べてくる」といっても、「。でもつくっとく」とか、「なるだけ家で食べてよ」とかうるさい。亭主にしてみりゃ息苦しいだけだ。 で、夜は枕を並べて寝ている。真守もよく一緒の部屋で、同じ布団で寝られるな。浮気がバレないように気を使っているのか? 真守は女に節操がないように見える。けれど、正面からその事実を桃子に伝え、頭を下げて謝り、離婚してくれるよう懇願している。いや、もちろんそれでも真守に非はある。にしても、そういうことになってしまった男どもで、ちゃんと話をしようといってくるやつがどれぐらいいるかね。あとから真守も言っていたけど、浮気や子供は口実で、桃子と暮らしていても面白くない、というのが本当のところなんだろう。映画を見ていて、これはなんとなく納得してしまう。つまんないよ、あんな女房じゃ。まあ、世の多くの亭主たちはそれでも我慢してるんだろうけど。なことをいうとフェミニズムに反すると言われそうだけど、世の女性たちがもちあげる太宰治とか竹久夢二なんかは、どんどん女を取っ替え引っ替えしてるじゃないか。男は女に飽きるんだよ。それでも子供がいれば、少しはもつんだよ、家庭は。と思う。 ホテルのような所で3人で会い、決裂。その後、桃子は単独で奈央の部屋を訪ね、持参の家庭菜園のスイカを置いて、帰ってしまう。喧嘩は、しない。言うだけ言って帰るのは、桃子にも引け目があるから、だろう。8年前、前妻を寝取った自分が、こんどは寝取られる立場になった、ということだから。 そういえば奈央の部屋を出た後、ガチャンという音したので玄関に戻ると、奈央が三和土にうずくまってたけど、あれはスイカを落としたのか? スイカであんな音がするか? それとも食器でも叩きつけたのか? わよく見えなかった。ところで、スイカは妊娠のメタファーかなんかなのか? 結局、真守は家を出ていき、桃子はひとり暮らしになる。隣接する母屋の義母は、まだその事実を知らない。 桃子の行動は過激になる。ホームセンターに行ってチェーンソーを買ってくる。おお。スプラッターになるのか、と思ったらさにあらずで、なんと畳を上げ床板をチェーンソーで切り取り、床下に埋められた缶を掘り返す。そこに入っていたのは、生まれてくるはずの子供に為に用意していた産着や靴下だった。桃子は、その産着と添い寝するように床下で寝てしまう。 ここでオソロシイのは、ぴーちゃんはノラ猫のことではなく、流産した子供のことだった、ということだ。本人はそのつもりでいたようだけれど、でも、ノラ猫と子供を混同している気配もあって、妄想型のメンヘラが入っているといっても良いと思う。 それはいいけど、建物の建っている床下に、どうやって缶を埋めたんだ? これがミステリーだな。真守との結婚が決まって、流産して、缶に産着を入れて埋めて、その後に家を建てた、のか? でも、いまどきの家は床下はコンクリで固めちゃうだろ。床下が土っていうのは、昔の家なんじゃ亡いのかね。 そこに義母と、たまたま着替えを取りに来ていた真守がやってくる。あわてて畳を上に乗せると、2人の会話が丸聞こえ。義母は経緯を知り、「前と同じ繰り返しじゃないの」「あの人、流産したこと隠していたし」とかなんとか。でも、「で、どっち? 男? 女? 」と生まれてくる孫の性別を尋ねていて、内心は孫誕生がうれしいようだ。まあ、桃子は義母からも、本心では受け止めてもらえてなかった、ということだ。 真守が、庭に撒かれた魚を見て、義母に「どうした」と聞く場面があるけど。なんなんだよ。亭主の好きなものも知らなかったのか、といわれ、ムッとして、わざわざ魚を買ってきてバラまいたのか? あの魚は、義母がくれた魚とは違うよな。 実家に行けば姪や甥の小さな靴があり、実母からはクローゼットの中を整理しろ、と言われる。開けてみると、もう、甥・姪の服がはいっている。あれこれ選ばず、どんどんゴミ袋に入れていく桃子。もう、帰るうちはない、と思い知る場面ね。 さらには住まいの柱をチェーンソーで切り始める桃子。真守が「何やってるんだ」に「あなたもやってみれば。気持ちがいいわよ」というのも、結構メンヘラな対応というか、このあたりから映画は迷走し始める感じで、それまでの流れと関係がなくなるんだよな。 順番は忘れたけど、義母は「この母屋、売ろうと思うの。もう真守は戻ってこないし。そっちの離れは、あなた住んでてもいいわ。好きにして」という。じゃあ不満はないんじゃないのかね。とくにこれまでの結婚生活だって楽しくはなかったんだろうから、スッパリ割り切ってひとり暮らしで死んでやる、と思えばいいような気もするし。捨てられた、という気持ちはあるかも知れないけど、自分だって先妻を追い出した身だし、因果かなと思えばいいんじゃないかね。 で、いろいろゴミを捨てに行くと、収集場所でまたしてもボヤ。目の前で燃えているので、呆然と立ちつくす桃子。の背後から、警官が「離れて! アブナイ!」というんだけど、どっから湧いてきたんだこの警官は。桃子はゴミを置いたまま走って逃げる。警官は「聞きたいことがある!」と追うような気配。なので、放火犯として誤認逮捕されるかなと思ったらそんなことはなく。閉まりかかったホームセンターの倉庫に逃げ込んで、倒れ込む。すると、例の中国人っぽいのが裸足の桃子を見て、サンダルを貸してくれて。たがいに、ありがとう、と言い合う場面も、なんのこっちゃ、な感じ。 ボヤ騒ぎは最初の頃から描かれていたけど、犯人が誰とか、目的はというのは追及されず、なんとなくざわつかせるための話だったような気がする。あまり機能してない。結局、ゴミ収集所のボヤ騒ぎはなんだったんだ? 近く住む中国人っぽい、ホームセンターで働いている男が怪しい雰囲気で登場するけど、彼もほとんど機能していない。 で、数日後なのか、しばらく後なのか知らんが、桃子たちが住んでいた建物がパワーショベルで解体されている。それを、義母が住んでいた母屋でガリガリ君を囓りながらヘラヘラ見ている桃子で映画は終わる。これで過去を消し去りたいのかね。そういう解釈は、へんな気がする。桃子はもう真守に期待なんてしてなかったはずだから。心の離れた夫婦に期待するのもおかしい。桃子は、たとえ離婚しなかったとしても、残りの人生を消化するような暮らししかできなかったと思う。 母屋に義母はいないのか。出ていった? でも、まだ売られてはいないのか。どうなっているのだ? それにしても、家の解体費用は100万はくだらんぞ。どうやって捻出したんだ? 桃子さん。 ・ホテルの喫茶室みたいなところで、桃子、真守、奈央の3人で会う、というのはちょっと非常識だよな。感情的になるような話になりかねないんだから。というか、実際、桃子は大声を張り上げたし。 ・奈央のSNSは、妊活なんとか、だったよな。つまり避妊はしていない。子供を作ろうとしている。確信犯だろ。真守もそれを応援しているのだろうし。とはいえSNSで浮気の報告をしている奈央も、教師をしているという割りに、杜撰だな。そう。奈央は教師らしい。だったら、将来的に脅しやすいだろうに。教師が人の亭主を奪いました! とか怪文書でもバラまいて、嫌がらせしやすいだろうに。 ・桃子が会社を辞めたのは8年前ということは、結婚を機に辞めたのか。多分、子育てするつもりだったんだろうけど、流産したんだから予定は外れたわけで、なのに専業主婦をだらだらやられても、亭主や義母にしてみりゃ期待外れの嫁なわけで。前の会社のつながりで石鹸講座の仕事で月に4、5万稼いでもしょうがないだろうに。さっさと別の仕事でもすりゃ良かったんだ、と思える。 ・実家だったか、どっかの家で、近くを通ると黄色い箱から煙がでる仕掛けがあったけど、あれはなに? 猫よけ? | ||||
ナミビアの砂漠 | 9/12 | ル・シネマ 渋谷宮下 | 監督/山中瑶子 | 脚本/山中瑶子 |
公式HPのあらすじは「世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか」 Twitterへは「人助けでナミビアに向かい、困難を排して生還するドラマチックな話、ではなかった。21歳娘の男遍歴、言いがかり的な絡み、衝動的な乱暴の末に病んでいく様子をだらだら2時間余り。あくびたくさん、でも寝なかったぞ。ナミビアはエンドロール程度。」「双極性障がい、離人症、依存性パーソナリティなんかが、映画的に消化されないままナマで取り上げられているのが、なんだかなあ。救いは本人に自覚があることと、現在の同居人が多少の理解を示していることか。ロン毛の不動産屋もカウンセリングが必要な気がするけどなあ。」 いまどき珍しいスタンダードサイズ。 ストーリーらしきものなく、だらだらと散文的にゆるいエピソードがつづくだけ。ドラマはまるでない。あらすじの「人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている」というのも、社会が悪いわけではない。個人の資質である。次第に分かっていくけどカナは精神障害者で、それが次第に彼女を支配していく様子が描かれている。人格が崩壊する程ではないけれど、双極性障がいなのだから感情の起伏が激しいのもそのせいだろう。人生つまらない、やる気が出ない、のは離人症のせいかも知れない。男遍歴は依存性パーソナリティ障害か。生きづらい世の中を表現しているわけではない。そういう資質なのだ。 映画監督には時々、精神障害者に興味をもったり美化したりする人が登場する。でその症状を調べたりして映画化し、でもその評価は「生きづらい世の中を鋭く表現」とかなんとかだったりすることがある。けど、いやいや、これは精神障害者の症例を描いただけですよ。個人の成長物語なんか、どこにもない。とはいえ自覚はしているのか自ら精神科医の診断を受けたりカウンセリングを受けたりしている。それを知っているのか、同居人はカナの奔放さを受け止めている。これが多少の救いかな。 人物のアウトラインも、ほとんど分からない。分かっても小出しに、ところどころで。たとえばカナは21歳で、これははっきり映し出されるけど美容エステの脱毛スタッフとして働いている。父親には憎しみだけを感じている、とカウンセラーらしきオバサンに話していた。母方の祖母は日本人? とかなんとかで、中国人の血が入っているらしいけど、両親がどっちかは分からないまま。ぐらいか。 冒頭では、町田みたいな街で高校時代の友人と待ち合わせていて、話と言えば卒業以来会ってなかった同級生が自死した、という話を聞かされる。その後、ホストクラブみたいなところに2人で行って、カナだけ先に出ると男にからまれ、逃げ出すと約束していたのか男がいて。(この男は、後につき合うヒゲのハヤシ?) 2人でタクシーに乗って、途中でハヤシは降りて、ひとりになったら突然、窓を開け、走るクルマからゲロを吐く。もしかして、これは後にハヤシに向かって言っていた「私は堕ろしたんだぞ」ということか? で、帰宅するとハヤシとは違う男がいて、これがロン毛の不動産屋のホンダらしく、介抱される。 というところまでに、カナの職業も年齢も堕胎のことも分からない。みな、後の方から分かるような寸法なので、ひたすら退屈。だってドラマがないんだもん。 その後、ホンダは北海道に出張だといい、ススキノには誘われても行かない、とはっきり言っていなくなる。カナは気怠そうに脱毛サロンで働く。 出張から戻ってきたホンダは、もぞもぞしながら、「ごめんなさい」といい、上司に誘われてススキノの風俗に行ったことを自ら告白し、謝罪する。なんだこの軟弱男。いう必要なんてないのに。こんな素直すぎる男がいるのかよ。カナはちょっと不機嫌になるだけ。とはいえ、なんでこんな男と知り合って同棲してんだよ、という疑問の方が先に立つ。このときだったか、カナは「あたしは堕ろしてるんだよ」とと言うんだけど、最初はよく分からなかった。ウソかなと思ったけど、タクシーで吐いたのがもしかして? しかし、外から見て分からない頃にも吐き気は来るのか? それで、なのか、ヒゲのハヤシの家に転がり込むのか、一緒に引っ越したのかよくわからん。というのも荷物が段ボールに入ったままだったりするから。その段ボールの中には、送られてきたまま開けてないリンゴがあったりして。腐って匂うだろうに。他に、超音波のプリントアウトがある。けど、とりあえずなにもしない。 このあたりの流れが、よく把握できないまま見てた。平行して2人の男とつき合っているのか。はたまた、このハヤシとの生活は、以前のことで、時制を入り組ませているのか? と。でも、あとからホンダが「帰ってきてくれ」と泣きつく場面があったので、ホンダの家から出てハヤシとつき合うようになったのか、と分かったんだけど。 しかし、あっちがダメならこっち、ってさっさと男を乗り換える21歳の娘ってなんだよ。独立心がねえな。 で、ハヤシは何かのクリエーターでシナリオ書いたりしてる。友人に官僚がいたりして、高学歴な様子。一緒にトイレに入って同じ便器で一緒に小水したり。バカかよ。なイチャイチャぶりかと思ったら、突然、からんだりする。書いているシナリオについて説明しろとか、PowerBook取り上げてからかったりする。それでケンカになったりして、互いに「出かける」「私が出かける」で言い合いになってカナが出かけた、と思ったら階段落ちして車椅子状態になったり。どーもカナは直情的。あるいは、以前に見つけた超音波写真を見せて、「これはなんだ、説明しろ。堕ろさせたのか。お前は人殺しだ」とか絡んだりする。 でもすぐ仲直りして一緒に買い物行ったりするけど、またまた何が原因か知らんが取っ組み合ったりして。わけ分からん。こんなムチャクチャな女、一緒にいてもうっとーしーだけだろ。 階段落ちから復帰して脱毛サロンに戻ると、後輩が入社していて。19歳だと。その娘は「煙草吸う場所がないなら、やめよかな、とかいってる」。お気軽なもんだわ。でも、自分でも分からないうちに客の前で放言してクビになってしまったらしいカナ。医療脱毛じゃなくて美容脱毛なんだから、またすぐに生えてくるんだよ」とかなんとかホントのことを口走ってしまったりしたらしい。どうも、自分がコントロール出来ない? このあたりだっけ。街でホンダが待ち伏せしていて、帰ってきてくれ、と懇願されたのは。しかし、ホンダも情けないな。いい大人が小娘に頭を下げて、逃げられたら道路に突っ伏したまま嗚咽でもしてるのか。なんか、情けない男しか登場せんな。 と思っていたら、カナはネットで精神科医の診断を受けていて。双極性とか躁鬱とか言われている。カウンセリングもいいけど、うちは高いので安いところを紹介してもらったらしく、日々の出来事を話したり(認知行動療法的な感じのとか、箱庭療法とか)してる。どうやって探したんだ? っていうか、精神科の患者で自ら受診するのは珍しくないか。フツーは否定しそうだけど。とはいえ、何が原因か分からないけど、壊れはじめていたのか。原因は、具体的には思いつかない。 とか思っていたらまたまたケンカしていて。おやおやと思っていたら、右上にワイプ画面がでて、次第に大きくなるとピンクの部屋でランニングマシンに乗っている映像に。マシンの画面には、さっきまでのケンカ場面が映っている。自分で自分のケンカの場面を見ているって、カナは離人症ですよと説明しているのかよ。ストレート過ぎ。 かと思ったら、フツーに家でハヤシとにこやかにしていて。双極性と言うことか。と思ったら中国人からのテレビ電話で。何のことか分からないけど、わいわいやってて、カナも中国語で返事してたりする。と思ったら、プツンと映画は終わってしまった。なんじゃこの映画。はなしがよく分からんし、どこも共感するところない。 ・ハヤシの家にいて、カナは隣家からきこえるラジオかなんかの音を聞いていたりするのだけれど。あれは壁が薄いから聞こえてくるのか? でもだったら、ハヤシとカナの大げんかも聞こえているはずで、文句を言われるはず。でもそんなこともない。ということは、カナの幻聴かな? いろいろメンタルやられてる感じ。 というわけで、精神病に冒されていく若い娘の日常を描いているだけの話だな。こりゃ。なんどもあくびは出たけど、幸いなことに寝落ちはしなかった。13時15分の回だったけど、昼飯食べなかったからかな。 ・カナもハヤシも、やたら水を飲む。なんなんだ。 ・カナもハヤシも、脱毛の後輩も、やたら煙草を吸う。なんなんだ。 ・ところで、なんで「ナミビア」なんだ? ナミビアの様子のような画像は、カナが見ていたスマホの映像にらしいのと、エンドロールで水溜まりで馬に似た動物が水を飲んでいる場面が映るのみ。わけ分からん。 | ||||
ぼくのお日さま | 9/17 | テアトル新宿 | 監督/奥山大史 | 脚本/奥山大史 |
公式HPのあらすじは「雪が積もる田舎街に暮らす小学6年生のタクヤは、すこし吃音がある。タクヤが通う学校の男子は、夏は野球、冬はアイスホッケーの練習にいそがしい。ある日、苦手なアイスホッケーでケガをしたタクヤは、フィギュアスケートの練習をする少女・さくらと出会う。「月の光」に合わせ氷の上を滑るさくらの姿に、心を奪われてしまうタクヤ。一方、コーチ荒川のもと、熱心に練習をするさくらは、指導する荒川の目をまっすぐに見ることができない。コーチが元フュギュアスケート男子の選手だったことを友達づてに知る。荒川は、選手の夢を諦め東京から恋人・五十嵐の住む街に越してきた。さくらの練習をみていたある日、リンクの端でアイスホッケー靴のままフィギュアのステップを真似て、何度も転ぶタクヤを見つける。タクヤのさくらへの想いに気づき、恋の応援をしたくなった荒川は、スケート靴を貸してあげ、タクヤの練習につきあうことに。 しばらくして荒川の提案で、タクヤとさくらはペアでアイスダンスの練習をはじめることになり」 Twitterへは「思春期の少女の嫉妬と偏見の話だった。次第に上達していく様子や、湖上のスケートシーンはなかなか。個人的にはああいう、光を全体にまわすライティングや、ボケ気味で顔もはっきり写らない画調、セリフが聞き取りづらいのは好きじゃない。」 監督の奥山大史は撮影、編集もしているらしい。 『ナミビアの砂漠』につづいて、これまたスタンダード。スタンダードサイズが人気なのか? でも、スケーティングの場面なんかは、ビスタとかワイドの方が見栄えがいいと思ったんだが。 ムダなところはあまりなく、たわいのない話題が1つあるだけの、のほほんとした話のように見えて、なかなか奥が深い。 もともと荒川に指導を受けていた さくら のフィギュアスケートに魅せられた(といっても、さくら が好きになったというより、野球でもアイスホッケーでもないスポーツとしてのフィギュアの華麗さに憧れた、みたいな感じ)タクヤがいて。その様子を見た荒川が、ホッケーの靴じゃ回転はできないぞ、と自分のを貸してやって。指導料も取らずに教え始めたのがドラマの始まり。荒川が言うには、フィギュア人口は女性が圧倒的に多くて男子が少ない。だから自分みたいなレベルでも選手になれた。という荒川の視点から見て、タクヤにはフィギュアの素質が見えたんだろう。どんどん夢中になっていくタクヤ、どんどん上達していく様子が、ワクワクさせる。 荒川は、さくらとタクヤを組ませて、アイスダンスをさせようと発案。フィギュアで一流になるのは難しいけど、アイスダンスならそこそこのレベルまでいく可能性があるから、のようだ。そうやって始まったタクヤとさくらのアイスダンスの練習。だんだん息が合って行き、いい感じになっていく。スケート場の練習も、ちょっとソフトフォーカス気味と逆光を活かしていいんだけど、3人で凍った池まで出向いて滑ったところが、なかなかよかった。 のだけれど、あるとき さくらはクルマで買い物に来ていた荒川を目撃する。淡い恋心を抱いていた、さくら。しかし、荒川は男と一緒にいたのだけれど、様子が、フツーの友だち関係ではないと見て取れた。さくらの失望。嫌悪感。その後しばらくして、スケート場でにこやかに足のストレッチをしてやったりしてるのを見て、あ、荒川コーチは同性愛者だからタクヤに接近したのもその目的でなんだ、と単純に結びつけてしまう。そして、荒川に「男の子に女の子のスポーツやらせて楽しんでいるのんですか?」「やらしい」だったか「気持ち悪い」だったか言い残して、去って行く。そして、参加する予定だったアイスダンスの基本課題のコンテストもすっぽかしてしまう。 この時点で、荒川は、自分の性癖について責められていると自覚しているのか否かはわからない。といって、戸惑ってる訳でもない。どうなんだろ。戸惑っていたとしたら、荒川は さくらに会って問い詰めたりしたはずだけど、それはしていない。ということは、バレた、と分かっていたのかも知れない。 しかし、荒川は五十嵐と同棲しているのだから、隠しているつもりはなかった、んだと思う。五十嵐は家業(はガソリンスタンド?)を継ぐために実家に戻った、といっていた。その五十嵐と荒川の関係について、家族や従業員も知っている、と考えるのが自然だろう。ひょっとしたら、さくら の母親も知っていたのかもしれない。とはいえ、後に、さくらの母親は最後の月謝を荒川に渡し、「もうあの子に近づかないでほしい」といっていた。とすると、さくら が、荒川に指導を受けるのは嫌だ、といったのは、荒川が少女に対して興味のある男、と思った可能性もある。このあたり、なにが本当のところなのか、分からない。 そして、タクヤはアイスホッケーに戻るのだけれど、新学期を迎え、中学生の制服を着たタクヤと久しぶりに再会し、3人で滑った池までタクヤを乗せてクルマで訪れる。池の氷は溶けたけれど、さくら の偏見は溶けなかった、ということか。 荒川は街を去る。五十嵐は、お前にはしたいことがあるんだろう的なことを言っていたけど、それは、後輩の育成なんだろう。つまりまあ、これまでも本格的なコーチという道はあったけれど、とりあえず五十嵐との関係を求めてこの街にやってきて、スケート場の管理と片手間のコーチ業で食っていた、ということなのかな。ある意味では、五十嵐との関係にふんぎりを付け、東京? でコーチとして自律する道を選ぶきっかけにもなった、ということなのかな。 荒川が北海道を後にして。その次の場面で、さくらが、あのスケート場で練習している場面が映る。別に指導者を見つけたのか、嫌らしい荒川がいなくなったところで思いきり滑っているだけなのか。 そしてある日、タクヤは郊外の道路で、向かいからやってくる さくら とすれ違う。青を見合わす。タクヤが何か言おうとする。というところで暗転し、映画は終わる。 さて、さくら の荒川への偏見は修正されたのだろうか? まだまだゲイを認めるには、中学生には難しいのだろうか。まだ、荒川は少年に手を出す汚らしい大人のママなんだろうか。その偏見が溶けるのはいつのことなんだろうか。など゜というところが、気になるね。という意味で、奥が深いのだった。それにしても、女の嫉妬は怖い。 ・光が全体にぼわんとまわっているような、日本映画によくある感じのライティングで。しかも、紗がかかっているような粗い感じもある。その上、役者の顔もちゃんと映さないような感じで、始めの方は主要な人物もちゃんと顔が分からない。なかでも若葉竜也がよく分からなかった。クレジットを見て、ああ、ガソリンスタンドで働く荒川の同居人がそうだったのか、と。やっぱりちゃんとカッチリ映す場面がないと、イライラするよな。しかも、セリフも良く聞こえないところが多いし。 ・スケート場での さくらの滑りも、ファンタジックに撮ってるつもりなんだろうけど。スケート場のゴチャゴチャなところがそのままなので、スッキリしない。逆光もそこそこで、いまいち美しくない。『花とアリス』の蒼井優のあの場面と比べたら、うーむ、だよな。 ・荒川と さくら のそもそもの関係がよく分からない。登場したとき、すでにコーチと生徒の関係だったようだけど、教室と呼べるほどの生徒もいなさそうだし。控室にいた女の子も生徒なのか? 2人で荒川のことを話していたけど、荒川が選手としてちょっとは有名だったのをよく知らなかったみたいだったしなあ。 ・荒川は、選手としてそこそこスポットライトが当たっていたんだよな。どの程度か知らないけど。なので、↑のあらすじの「選手としての夢を諦め」というのがひっかかる。現役選手を引退し、指導者の道を選んだ、でいいんじゃなかろうか。もっとも、名前を冠して教室を開くほどではない、レベルか。 ・3人で練習する場面はわくわくして好きなんだけど、カップ麺食べながら3人が座ったままステップを踏む様子は、ありゃ『Shall we ダンス?』のまんまだろ。 ・根本的なことだけど、さくら と タクヤは、同じ学校ではないのか。というか、さくらは中学生でタクヤは小6だったのか。どっかでちゃんと説明されていたっけ? ・エンドロールで、吃音のことをテーマにした歌詞が流れる。歌詞の文字がスタッフやキャストとかぶって映し出される。そういえばタクヤは吃音で、緊張するとどもってしまうんだけど。それを考えると、しみじみとしたいい歌だ。それと、タクヤの吃音をバカにしたり笑ったりする連中が1人も登場しないのもいい。差別と偏見のない友達たち。タクヤも引け目を感じていない。タクヤには、とても仲のいい友だちもいて、一緒に野球やアイスホッケーもやっているんだけど、ああいう温かい環境はいい。だからこそ、ゲイへの差別と偏見も、なくさないとなあ、と思うのであった。 ・公開から間もない(13日公開)のに、観客はそこそこだった。東京テアトルとしては力が入っているんだろうけど。ということで、吉岡里帆ぐらいの、客を呼べる女優が欲しかった気もする。たとえばそれは荒川の元のパートナーで、でも荒川がゲイと知って離れた過去がある的な通俗的な設定でもいいかな、と。さくら と荒川の関係のアナロジーにもなるし、観客ももう少し増えるんじゃなかろうかと思ったりした。 | ||||
ヒットマン | 9/19 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2 | 監督/リチャード・リンクレイター | 脚本/リチャード・リンクレイター、グレン・パウエル |
原題は“Hit Man”。公式HPのあらすじは「ニューオーリンズで2匹の猫と静かに暮らすゲイリー・ジョンソンは、大学で心理学と哲学を教える傍ら、地元警察に技術スタッフとして協力していた。ある日、おとり捜査で殺し屋役となるはずの警官が職務停止となり、ゲイリーが急遽代わりを務めることに。これをきっかけに、殺人の依頼者を捕まえるためにさまざまな姿や人格に変身する才能を発揮し、有罪判決を勝ち取るための証拠を引き出し、次々と逮捕へ導いていく。ところが、支配的な夫との生活に追い詰められた女性・マディソンが、夫の殺害を依頼してきたことで、ゲイリーはモラルに反する領域に足を踏み入れてしまう。 セクシーな殺し屋ロンに扮して彼女に接触。事情を聞くうちに、逮捕するはずの相手に対し「この金で家を出て新しい人生を手に入れろ」と見逃してしまう……!恋に落ちてしまったふたりは、やがてリスクの連鎖を引き起こしていくことに」 Twitterへは「大学の先生が警察のスタッフとして囮捜査に協力。殺し屋という設定で依頼者を捕まえることに…。ここまでは実話らしいからビックリ。とはいえ淡々とした冒頭部分はいまいちかな。けど中盤からドラマ(創作らしい)が転がり出して面白くなった。」 大学で工学系を教えてるから警察のスタッフとして盗聴係をやってる、っていうのがアリなのか? ゲイリー・ジョンソンは実在の人物なので、そうなんだろうけど。しかも、囮捜査官がなんでか忘れたけど外されて、おまえやれ、って話が来るなんていうことがあるのかよ、アメリカじゃ。信じられない話だな。でもって、いやー、それは…なんていいつつ言われるがままに殺し屋に化けて依頼者と接触し、見事に仕事をこなすゲイリー。なことがあるのかよ。しかも、これまでの囮捜査官より演技が上手い、なんていわれてそのままつづける、って、なんだよ。という流れが、極めて淡々と描かれる。感情を忘れてきたかのような淡々さ。見ててちっともドラマチックじゃなくて、朗読劇を見せられてる感じで、話に入り込めない。 この後、ゲイリーが七変化して殺人依頼者に接触し、まんまと逮捕に至る事例がいくつか紹介されるのだけれど、これまた淡白に淡々と見せられる。ここで思ったのは、こんな地方都市でそんなに多くの殺人依頼があるのか? という疑問と、依頼者はどういうルートでゲイリーに接触してくるのか? という疑問なんだよね。さらにゲイリーは接触者に応じて、なのか、オネエになったり悪漢ぶったり七変化する。これまて、意味があるのか? と。まあ、映画的演出なのかもしれないけど、アホくさくなってきた。しかも、ゲイリーは大学の先生でもあって、多くの人と日々会っているはずで、お気楽に囮捜査官なんてできるのかいな? という疑問もあった。とはいえ、HPによると「1990年頃から偽の殺し屋として警察に協力しはじめ70人以上を逮捕に導いたスゴ腕潜入捜査官」となっていて、まったく世の中には不思議なこともあるのだな、と思うしかない。 なもんだから退屈し、あくびが出てきて、どっかのバーで女性と接触した直後ぐらいから、うつらうつら。ふと気づくと、その女性といい仲になっているではないか。なんか重要なところを見逃してしまった、のかも知れない。くそ。で、この女性マディソンとの出会いと男女関係以降の話は創作らしいが、これはそこそこ面白く見たのだった。 マディソンは離婚した(実はしていなくて別居だけ)夫がいて、野蛮人。なのでマディソンはその夫の殺しをゲイリーに依頼した。でも、それを、なぜか知らんが(寝てて見逃したので)思いとどまらせて、いい仲になる。まあ、そういうこともあるかも知れない。でも、そこまでマディソンに魅力があるのか? デートやセックスを重ねている中で面白かったのは、射撃をする場面。マディソンは遠い的に当たらない。彼女はプロの技を見せて、という。ゲイリーは的を手前に持って来て、「これがプロの距離」とやるんだけど、なるほどね、な感じだ゜な。 で、2人がデートしてるときマディソン夫と遭遇し、夫は彼女をあばずれと罵倒し、ゲイリーにも難癖を付けるんだけど、ここでゲイリーは拳銃をむけて追い払う。という場面で思ったのは、マディソンはゲイリーには従順で優しいのに、夫からはさんざんいわれている。それはなぜなんだろう? 本当はビッチな女なのではないか? ゲイリーは騙されてる? と思ったんだけど、真相は最後まで分からず。 で、この後、なぜかマディソン夫が遺体で発見され、マディソンにも疑いがかかるけど、結局は麻薬の抗争かなんかでやられたんだろ、てな感じで警察は処理する。のだけれど、ゲイリーが、ここでもまた冷静すぎるぐらい淡々としていて、ひとつもマディソンを疑いの目で見ない、かのように描かれるのだよね。まあ、もしかしたら真犯人はマディソンと見抜きつつつきあいをつづけていたのかもしれないけど。 でもやっぱり夫を殺したのはマディソンで、確か自分からゲイリーに告白したんだよね。でもゲイリーは顔色一つ変えず、つきあいをつづける。のだけれど、デートしているところを元囮捜査官のジャスパーに見られ、でもジャスパーは「見たことがあるような女だな」ぐらいにしか反応しない。でも、気づいていたのかもしれないけど。かこに殺人依頼してきて、でも見逃した女だ、と。その後、かなり信憑性の高い証拠が出てきて、ゲイリーはマディソンに接触して証言させる、という役目を仰せつかることに。この様子は無線で盗聴され、スタッフが聞くことになる。この難局をどう乗り越えるか。 なんと、スマホに文字でメッセージを表示させ、それで、こう答えろ、ああしろ、をつたえつつその場で即興の狂言を打つという離れ業。こんなことが上手く行くのか知らんけど、勘のいいマディソンはそつなく対応し、会話を聞いているスタッフには、これは事件とは無関係、と納得させることに成功してしまう。そて、一芝居打って、やれやれ、なゲイリーがマディソンの家にやってくると、なかには元囮捜査官だったジャスパーがいて。どうやら2人の企みを見抜いていた。でもって、たしか金をよこせば黙っててやるとかいう話だったかな。その金の出所は忘れたけど。それと、ジャスパーがなぜ気づいたのか、も忘れてしまったよ。 ところがとつぜんジャスパーが苦しみ出す。ここで飲んだ酒に、マディソンが一服盛ったようだ。というわけで、知っているやつはいなくなった。あ、えーと、ジャスパーの遺体はどう処理したんだっけか? 忘れちまった。 というわけで難局を乗り越えたゲイリーとマディソン。しかし、こうも平気で人殺しをつづけるマディソンに嫌気がするとか怖くなるとかいうことのまるでないゲイリー。淡々とにこやかにしている。というところがリアリティなさ過ぎなんですけど。 で、ラストは何年後かのゲイリーとマディソン。2人の間には子供が二人いて、幸せな家庭を築いていましたとさ。なんだけど、シビックに乗り猫2匹と地味に暮らしていたゲイリーが、こうまで淡々と殺人者と仲よくできる理由は何なんだ? 話はなかなか面白くても、やっぱりリアリティがないとスカッとしないな。 | ||||
ぼくが生きてる、ふたつの世界 | 9/24 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/呉美保 | 脚本/港岳彦 |
公式HPのあらすじは「宮城県の小さな港町、五十嵐家に男の子が生まれた。祖父母、両親は、“大”と名付けて誕生を喜ぶ。ほかの家庭と少しだけ違っていたのは、両親の耳がきこえないこと。幼い大にとっては、大好きな母の“通訳”をすることも“ふつう”の楽しい日常だった。しかし次第に、周りから特別視されることに戸惑い、苛立ち、母の明るささえ疎ましくなる。心を持て余したまま20歳になり、逃げるように東京へ旅立つ大だったが…」 Twitterへは「両親が聾唖のもとで育った健常な青年の話。良心的といわれる映画にありがちな押しつけがましさも、わざとらしい過剰な演出も、お涙頂戴のくどさもなし。淡々と描かれる幼児からの成長過程はハラハラしてしまう。そして、母の背中。」 なかなかに、静かで熱い映画だった。とくに前半は、大の誕生から数年おきの成長の様子を淡々と、静かに置いていくように積み重ねていく。最初は誕生祝いなのか家族全員が集っているけど、後には喜ばれない結婚と大の誕生だったとわかって、これまた、そうだったのか、と。言葉が発せず耳も聞こえない両親と、どのようにコミュニケーションをとるのか? 学校から帰ると玄関のスイッチを入れて台所のライトを点け、しらせる、とか。あるいは、近所のおばさんに、花壇のイタズラを指揮されたり。でも、学校で、両親のことで意地悪をされたりは去れていないようなのがホッとする。とはいえ聾唖の両親は自慢できるわけではなく、学校からの連絡を母親に見せなかったりと、成長するに従って社会、周囲の目や意識を感じていく様子が見えてきて、それは痛々しいけれど、よくあるお涙頂戴映画のように過剰な演技で見せるわけでもないので、かえってリアリティがあったりする。 高校生の頃にはかなりいじけて母親をうとましく思い始める。でも、それは母親が大のことを心配で仕方がないからなんだけど。父親の方はおおらかで、なんとかなるだろ、な感じかな。この対比も面白い。 そこそこの高校を出て、反抗的だったけど、バイト生活もままならず、東京まで劇団の面接に行って落ちて。で、むしゃくしゃパチンコしてたらオヤジもパチンコ屋にいて、目が合うのがおかしい。ふたり、帰路で話すんだが。大は「田舎で仕事を探して、田舎に住む」という。父親は「東京へ行け」と独り立ちを勧める。ついでに、聾唖学校で知り合った母親との間に子供ができて、東京まで駆け落ちして、でも、来てくれるはずの知り合いが来なくて、食べたパフェがうまかった、と話してくれる。じわりとくるエピソード。そのパフェは高野のフルーツパーラーだったのかな。 で、出版社の面接に行ったりするんだけど、高卒で経験もなければ相手にされない。田舎者が思い浮かべるイメージ、希望と、現実のギャップが描かれている感じで面白い。とはいえ面接してくれた女性社員が、なかなかにやさしい人なのが印象的。そう。無碍に断るのではなく、話はちゃんと聞いてあげる、が大切なんだよ、と。で、始めたのがパチンコ屋の店員で、田舎出の高卒にはちょうどいい感じかな。で、たまたまお客に聾唖のオバサンがいて、景品について要望がうまくつたわらない現場に出くわして、手助けする。それでそのオバサンと知り合い、手話で会話するグループに参加するようになる。世界が、手話で広がっていく。ここで面白かったのは、手話にも方言があるとか、独学で習った手話には誤差もあったりと言うこと。へー。なるほど。たとえば、「ウソ」という語の東北と東京で違う手話のしぐさとかね。 で、出版業界への希望はすてていなかったのか、またまた編集者の面接を受けていて。祖父がヤクザだった、ということを話したら気に入られて即入社決定、というのもおかしい。経験より人間性、か。ところで、ここの編集長がユースケ・サンタマリアだったようだけど、気がつかなかったよ。 手話のグループでしりあったべらんめえな感じのお姉さんがいて。彼女といい感じになったりするのかな、と思ったらそういうことにはならず。彼女には旦那がいた? よく分からん。ついでにいうと、この映画の物足りなさは、ヒロインがいないことだな。中高で憧れた彼女とか、東京で出会う女性とか、それなりに恋愛感情がつたわるような相手を登場させてほしかったね。まあ、そういう女性よりは、母親との心の交流に重きを置きたかったのかもしれないけど、なんか物足りないなあ。 編集部では、何も知らないところからひとつひとつ。やればできる編集の仕事ぐらい。という感じはいい。そうなんだよ。学歴とか経験とは別に、才能は開花するもんなんだから。でこの編集部内で、「飛んだ?」、とかいって大騒ぎの場面があったんだけど、よく分からず。ありゃなんだったんだ? とかいってたらいつのまにか祖父はなくなっていて。祖母は健在。というなかで父親がくも膜下出血で倒れて。ひと段落して帰京する大を、母親が見送りに繰る場面に、大が20歳の頃に上京するときの、母と息子の場面が重なって描かれる。ここら辺が、この映画の表現の妙かもしれない。 最初の上京のとき、母親と背広を買いに行き、帰りに電車のなかでずっと手話で話をしつつけて。降りたときに母親が「今日はうれしかった。みんなのいるところでずっと手話で話をしてくれて」というところが、なかなかぐっとくるのだよね。そうか。母親にとっては、そんなことが喜びだったのか、と。 いま、自分は拠点となった東京へもどる。そのホームで別れ、母親は歩いて行く。そのゆったりと動く後ろ姿に、母親の愛情が見えるのが、なかなかしみじみ。そして、帰京する電車の中でPCを開き、自伝を書き始めるのか。キータッチ音とともに「ぼくが生きてる、ふたつの世界」とタイトルが登場する。原作者として話をつむぎ始めた、というラストなのか。 ・エンディングテーマが英語で歌われるのは、なんなんだよ。日本語で歌え! と思った。 ・忍足亜希子は聾唖の女優なのか。だからこそのリアリティ。とはいえ、母親が大のしゃべりをほとんど理解しなかったのが不思議。自然な読唇術で少しは理解できるようになるんじゃないの? ムリなのか? ・「親のどちらか、あるいは両方がきこえない・きこえにくい」という、耳がきこえる子どもたちは「CODA」と(コーダ)呼ばれます。「CODA」は、「Children of Deaf Adults」の略です。 国内には、およそ2万2000人いるという推計があります。 と、最後に出てくる。ああそうか、『Coda コーダ あいのうた』はそこから来ていたのか。コーダって、名前かなんかだと思い込んでいたよ。やれやれ。 | ||||
パリのちいさなオーケストラ | 9/25 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール | 脚本/マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール |
原題は“Divertimento”。「嬉遊曲」という意味らしい。公式HPのあらすじは「パリ近郊の音楽院でヴィオラを学んできたザイアは、パリ市内の名門音楽院に最終学年で編入が認められ、指揮者になりたいという夢を持つ。だが、女性で指揮者を目指すのはとても困難な上、クラスには指揮者を目指すエリートのランベールがいる。超高級楽器を持つ名家の生徒たちに囲まれアウェーの中、ランベールの仲間たちには田舎者とやじられ、指揮の練習の授業では指揮台に立っても、真面目に演奏してもらえず、練習にならない。しかし、特別授業に来た世界的指揮者に気に入られ、指導を受けることができるようになり、道がわずかに拓き始める」 Twitterへは「アラブ系仏人の女子高生が指揮者をめざす。実話らしい。演奏者たちと心を一体化し、街のオーケストラを実現する姿は感動的。でも音楽学校の制度とかいろいろ分からないことが多すぎ。あえて説明的でなくしているんだろうけど…。」 実話ベースの話らしい。 田舎の、アラブ系らしい双子? の姉妹ザイアとフェットゥマがいて。ともにビオラを学んでるんだけど、ザイアの方は指揮者になりたい、と思ってる。フランスの学校制度とか、とくに音楽学校の仕組みがよくわからんのだけれど、姉妹はまだ16歳ぐらい? 冒頭近くに学友と別れの場面もあったけど、姉妹がパリの音楽学校に行くことになったから、なのか? というか、そもそも音楽専門の高校なのか? 両親は移民一世で、クラシック好き。娘たちには家の中でアラブ語を使わせずに育て、音楽の道に導いたようだ。でも、田舎でどんな音楽環境があったのかは分からない。音楽専門の高校があるのか? フツーの高校なのか? で、父親は更なる音楽教育を施すためにパリの、お金持ちが行くような音楽学校に行くことになった、らしい(技術を認められたのか、お金を出したから、なのかはよく分からない)。↑のあらすじに「名門音楽院に最終学年で編入」とあるけど、そんなことは映画では説明されていない。で、その音楽院ではまるっきり田舎者扱い。ザイアが指揮をしようとしてもまともに対応しない男子や、笑ってる女子がいたりする。それでもめけずに我が道を行く姉妹は、凄いと思う。日本映画なら家に帰って泣きじゃくる場面でもありそうだけど、そんなことはまるでない。あるときなど、ザイアが指揮する予定の日に生徒の大半が登校せず、授業にならない。じゃあ、ってんで田舎の学校の時の同級生を呼んで員数合わせし、演奏しようとする。女の教師はやさしく見てたけど、もっと偉そうなオッサンが来て「君らにはここで演奏する資格はない」と一喝し、追い出してしまう。まあ、そうだよな。他校の、レベルも分からん連中がゾロゾロ来たら迷惑だよな、と。 指揮を選択している男子生徒ランベールがいて、彼には、他の生徒も従う。あと、よく分からんけど、ランベールには特権があるようで、それを不満に思ったザイアが教師に談判に行くと、「君は女で彼は男だ」と、訳の分からない説明をされてしまう。まだ残っている、男女差別。そしてもちろん、アジア人差別。 てな四面楚歌の中で、ザイアは「自分たちのオーケストラをつくろう」と発案。田舎の、以前からの学友と、パリの音楽院の生徒にも呼びかける(音楽院の生徒の中にも、ちゃんと参加してくれる子たちがいるのが清々しい)。他にも、ザイアが教師をしている(16歳で!)教室の生徒(だっけかな?)とか、あと良く分からんけど、父親は音楽家だけど刑務所にいるというピアノ弾きの男の子(でも、刑務所慰問のときはオーボエみたいなの吹いてたけど)なんかも巻き込んで、定期的に田舎で練習をすることになる。いやー、強い娘だな。 という流れと、もうひとつ、音楽院で指導に来ていた(のか?)チェリビダッケという老指揮者との出会いもある。授業の一環で話を聞いたんだけど、最初にランベールが指揮するよう言われ、でも、指揮する前に「演奏者への挨拶がない! 失格だ!」と言われてしまう。そのあとで、質問したときに自身も指揮を志望していると話したら指揮させてくれて、「女は指揮にはむかない」といわれながらも気に入られたようで、チェリビダッケの個人的な教室に参加するようになる。はたしてこれは別途費用がかかっているのか無料なのか、気になるところだけれど、説明がない。 このチェリビダッケの、褒めるときは褒める、ダメなときはがんがん言う。この態度がなかなか清々しい。 ところで、なんかのコンテストに参加するとかしないとか、というのがあって、ランベールが参加するというのは分かっていたけど、ザイアも参加することになって。でも、多くは語らない描写で、彼は合格してザイアは落とされた、らしい、というのが分かるんだけど。もうちょい、これがどういう大会なのか説明してくれてもいいよな。ほんと、この映画って、説明をバッサバッサと省いてしまう。省きすぎだと思うけどな。そういえば、姉妹のフェットゥマもビオラで参加してたけど、彼女は合格したのか? 分からない。 大会に落ちたのが、ザイアが女だから、なのか。よく分からない。以降、ランベールは登場しなくなってしまうし。だから、彼が成長し、高名な指揮者になったのかどうかは分からない。観客の立場としては、どっかで挫折して夢破れてくれていてほしいけど。実話なんだから、分かってるはずだよな。でも描かない? で、ザイアのオーケストラも、何かの大会に参加するとかいう話があって。こっちはコンテストなのか、音楽祭なのかしらんけど。で、その当日、ザイアは自信を失ってしまって、行く気もなくなり、ベッドに潜り込んだままになってしまう(これって、コンテストの結果が影響したんだっけ? 忘れてしまったけど)。というところに、窓の外からボレロが聞こえてくる。いつのまにか、オーケストラのみんながやってきて、家の前でボレロを演奏し始めてて、それに気づいたザイヤが外に出て、自然と指揮し始める場面に、「孤独を感じているうちはまだまだ。演奏者やみんなと一体になるとき、奇跡が起こる」とかいうようなチェリビダッケの言葉が字幕で出るんだっけかな。雰囲気的には感動的なんだけど、具体的な説得力はないんだよね。まあ、この映画って全体的に説明を省いて雰囲気だけで押し通すようなつくりになってるから当然と言えばそうなんだろうけど。感動気分を味わっていても、どこがどうザイヤと楽団員たちがつながっているか、も見えない。 ザイアは、もの凄く積極的で、障害者の支援活動に参加したりもする。先にも触れたけれど、音楽仲間で孤独な感じの男子と2人で練習したり、その彼の父親が刑務所にいると知って、彼を連れて音楽慰問に行ったり。やることは立派、だけど、された方は果たしてうれしいのかどうか。嫌いだ、という父親への刑務所への慰問なんて、フツーせんだろ。それをするように仕向けた過程をすっ飛ばしちゃうんだよね。このあたりも、気分で突っ走ってるだけで、説得力はない。なので、表面的には感動的な映画になっているけど、いろいろムリがあるのをそのままにしてる感じで、素晴らしいとは言えない気がするんだよな。 ・最後は、実際のザイアが、女性指揮者として活躍しているという様子の写真が紹介される。ってことは、有名楽団の指揮をしてるとかいう話ではないようだな。まあ、いいけど。 ・チェリビダッケは「トスカニーニは偉大だけど、何も訴えてこない」といっていた。譜面に忠実とか完璧な演奏がいいわけじゃない。必要なのは感動だ! ということなんだろう。ザイアが有名指揮者をめざすのではなく、多くの人に音楽を、という考え方で生きているのも、そういうことなのかな、と。とはいえ、逆境にも負けずガンガン進んでいくザイアの鉄のような心が凄すぎる。最後はちょっと挫折したけど。すぐ復活したし。 | ||||
憐れみの3章 | 9/30 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/ヨルゴス・ランティモス | 脚本/ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリッポウ |
原題は“Kinds of Kindness”。公式HPの解説は「選択肢を取り上げられた中、自分の人生を取り戻そうと格闘する男、海難事故から帰還するも別人のようになった妻を恐れる警官、奇跡的な能力を持つ特別な人物を懸命に探す女……という3つの奇想天外な物語からなる、映画の可能性を更に押し広げる、ダークかつスタイリッシュでユーモラスな未だかつてない映像体験」 Twitterへは「3つのオムニバスだけど3作とも登場する役者が同じで話が別なのでこんがらがる。1話目は『ブラック・ミラー』風でなんとか。2、3話がなんだかよく分からない。どういう話なのだ? あらすじ紹介をあとから読んで、ふ〜ん。それで? なもやもや。」 『哀れなるものたち』の監督だけど、あのダイナミックでドラマチックな展開はなくなって、なんかよく分からん小ネタがつづくような展開で、話がよく分からない。2話と3話では、ちょいうとうとしてしまったよ。 ●冒頭 どこかの屋敷に男が訪れる。相手をする女性が、男の胸の刺繍を見て、電話口でつたえる。 ●1話 上司の命令に従順な部下がいて。あれしろ、これしろ、には素直にしたがっている。けれど、あるとき、人を轢け、といわれ困惑。1日考えて「できない」と応えると、上司の態度が豹変。「家はやるが、それ以外はないと思え」てな感じになる。家に戻ると妻(東洋系)はいない。もちろん仕事もない。なんと、妻との出会いも上司が仕組んだもので、あらゆるものが上司によってコントロールされていた、らしい。で、もちろん、上司とはゲイの関係もあった。悲嘆して、かつて妻と出会ったバーに行くと、若い女性にであう。これがエマ・ワトソン、やっと登場。で、彼女はどういう役回りだっけ。忘れてしまったよ。で、なぜか改心したのか、部下は病院の、事故で搬送された患者を連れだし、クルマで轢いて殺す。そして、上司の元を訪ねる。すると上司の機嫌がもどったのか、上司とその妻との間にはさまって幸せそうに男が寝ている。というエンディング。 まあ、3話のなかではまっていて余計なものがないので分かりやすい。のだけれど、設定も話も曖昧ではあるんだよね。上司がなぜ殺人を命じるのかとか、会社は何をしているのかとか、妻とはどういう関係だったのかとか、妻がいる上司とゲイの関係というのは、どこまで公なんだ? とか、もろもろアバウト。なので、スッキリとはしない。 ・部下を演じるのはジェシー・プレモンスで、この話では髪もヒゲもある。 ●2話 警官と、行方不明だったけれど突然現れた妻の話。登山だか研究かなんかして消息不明になったんだったんだったかな。黒人の同僚警官がいて妻は白人なんだけど、3人でわいわいやってて、警官は「あのビデオを見よう」とかいうんだけど、同僚夫婦は嫌な顔。でも警官はそれを再生してなつかしがるんだけど、なんと4人で4Pしてる映像という。なんだかな。で、なぜか忘れたけど妻が戻ってきて。平穏な生活がもどるんだけど、警官は妻に「指を料理しろ」とかいう。妻は何と指を切って痛めて供する。げ。それがエスカレートして、「肝臓を料理しろ」というと、台所が静かになってしまう。警官が見に行くと妻は椅子で血だらけになっていて、取り出された肝臓がどん、と置かれている。と思ったら来訪者で、なんと行方不明だった妻なんだけど、じゃいままでいたのは誰なの? という、わけの分からん話。 ・ジェシー・プレモンスは、ヒゲがない状態で登場。 ●3話 冒頭は、裸体の女性の乳房なんかの測定をしている。と思ったら、死体安置所のような所につれていかれ、女性が死体に触れたりするが、なにも起こらない。というのがあって、以降の話はよく覚えていない。スピリチュアル風なところが多かったかな。飼ってた犬の足をナイフで切って病院に連れて行く場面があって。その後に、その女医と知り合いになるんだけど、彼女に麻酔を打って意識を混濁させ、その状態で死体置き場に連れて行き、朦朧状態の女医に死体を触らせると、死体が起き上がる。その後、女医をどこかに連れて行こうと運転中、よそ見して激突し、女医はフロントガラスを破って死んでしまうというオチ。 これまたよく分からない。あらすじによると「奇跡的な能力を持つ特別な人物を懸命に探す女」とあるけど、そんな説明は特になかったような。それに、どんな必要があってそうしているのか、もよく分からない。・出番は少ないけどジェシー・プレモンスも出ていて、でもヒゲもなく丸坊主頭。 ●全体のオチ 生き返った男がどっかでバーガーかなんか食べてて、胸の刺繍が冒頭の男のものと同じ。あの男が何かで死んで生き返ったと言うことか。だからなんなんだ。 |