アット・ザ・ベンチ | 12/2 | テアトル新宿 | 監督/奥山由之 | 脚本/生方美久、蓮見翔、根本宗子、奥山由之 |
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公式HPのあらすじは「川沿いの芝生の真ん中に一つのベンチが佇んでいる。ある日の夕方、そのベンチには久しぶりに再会する幼馴染の男女が座っている。彼らは小さなベンチで、どこかもどかしいけれど、愛おしくて優しい言葉を交わしていく。この場所には他にも様々な人々がやってくる。別れ話をするカップルとそこに割り込むおじさん、家出をした姉とそんな姉を探しにやってきた妹、ベンチの撤去を計画する役所の職員たち。一つのベンチを舞台に、今日を生きる人々のちょっとした日常を切り取る」 Twitterへは「5話のオムニバス。役所の職員2人の話は面白い。幼なじみはありきたり。別れ話はよくある不条理劇? 姉妹の話はつまらない。ペナントのことをタペストリーといったり、更地に保育園が1年で建つような話とか、ツメが甘いだろ。エンドロールが横文字ってのはバカすぎ。」 つまらなくもないけど、特段面白くもなかった。場内でくすくす笑いは起きてたけど、なんかなあ。こんなんで笑うの? な気がしてしまう。頭で考えたコントを映像にしている感じが強くて、しかも、意外な方向にずれていくのは少なく、第4話ぐらい。あとは、なんかなあ…。 それと、各話に個別のタイトルが付されていたはずなんだけど(たとえば第1話だと、取り残されたとかなんだとかいうもの)公式HPにはそれが載ってないのはなんなんだ。ここで言っておくけど、エンドロールがすべてローマ字なのも、イラッときた。そんなに日本語はカッコよくなくて、横文字にすればカッコいいのか? パッと見て、全然読めない。役者とかスタッフとか協力とかもろもろ確認できないのは、ほんと不親切極まりない。こういうマイナス要因で、本編も割り引いて見てしまうよな。 1話と5話は続き物で、幼なじみの男女のじれったい恋愛話。女の方が男に気が合って、結婚したいんだけど、男の方がちょっと鈍いのか、あるいは気がついていても反応しないのか。ベンチが残されていることと、2人ともが行き遅れかけて残されてるのをかけて話は進む。その過程で、ベンチのある場所はもとは公園で、でも、遊具が撤去されてベンチが1つだけ残されているんだけれど、この場所には保育園が建設予定だということなんかが分かる。それはいい。問題は細部に「?」が見えてしまう脚本のいい加減さだ。1話の時期は晩秋っぽくて、工事はもうすぐ始まって、来年には保育園が完成する、なんてことを言っている。そんな早く建つわけないだろ。で、冷めてしまう。5話でも、お土産に三角の、タペストリーを買ってくる人、とかいうセリフがある。そりゃペナントだろ。と突っ込んでしまう。他に、「若者のあいだで同棲が流行ってる」なんていうセリフがあって。いつの時代の流行りだよ、と思ってしまう。さらに、会話の中で、義理のお母さん、という言葉をつかって、読めになったらそう呼ぶことになる的な示唆を使って笑わせようとするが、女の気持ちに気がつかない男はバカだろ、としか思えなくなる。もうちょっと言葉を選んでホンを練り直した方がいいだろ。まあ、広瀬すずと仲野太賀の2人役者で成立しちゃってるところがあるから、観客はそれで満足なのかもしれないけどね。 2話は、ベンチで別れ話をする2人に、変な親父が割って入ってあれこれ関与し始める話。別役実なんかが得意にしてた不条理劇をコントにした感じだな。落語なら『締め込み』がある。舞台や落語なら押し通せるけど、映画ではリアリティが問題になるだろう。ベンチで話す2人の後ろでずっと聞いているオッサンとか、女の方がオッサンを呼び込んだり同意を求めたり。ムリがありすぎで共感できず。もっと自然な流れに仕立て上げて欲しいよな。それに、女の方がずっと気になっていた男のあれこれが、つまらない。バイク乗りじゃないのにバイク乗りみたいな恰好をしているのが気に入らないとか、だったらいえばいいじゃん。それに、男のかぶってる帽子も、いつの時代のバイク乗りの恰好だよ、なもの。ちっとも笑えない。どころか、変な帽子、としか思えない。あとは、テレビに出ている有名人をあいつ呼ばわりするのが気に入らないとか。そんなの、だれだってやってることだろ。女のほうのムダな几帳面さが、なぜこのベンチで爆発するのか、分からない。さらに、女は男に対する不満をスーパーの安い寿司に喩えて言うんだけど、これがよくつたわってこない。オチも、女が入れた山葵の入った寿司を男が食べるモノで、そんなのミエミエでつまらなすぎ。 3話目は、一方的に男を追って上京した姉がなぜかベンチでホームレス生活。それを改めさせようとやってきて妹が説得しようとする話。姉は意味不明な言い訳をしているだけなので、ぜんぜん共感も何もできず。このパートだけ知らん役者で、でも調べたら片方は『』にでてた森七菜らしい。でも、全然分からなかった。顔をちゃんと映さないからな。カメラぶんまわしの連続だったし。それと、あんなベンチで生活できんだろ、と思うと途端に嘘くさく見えてしまう。 4話目は、市役所員らしい男女が残されたベンチを調べている様子。だけど、男女で縦横幅厚みの見方が違ったり、男が方角について「西南東北」を「ざいなんとうほく」(だったかな)と呼んだり、幅の「57」を「ごごーなな」(だたかな)と呼んだりする異常さが気になっていたんだけど、突然2人がキュルキュルという音で会話をし始めて、なるほど。2人は宇宙人で、人目があると日本語で、なくなるとキュルキュルと会話する。字幕もついて、どうやら先輩だかなんだかがベンチになって埋もれて暮らしているので調査をしに来た、という設定らしい。違和感からの落差が、おもしろい。さらに、暗転し、宇宙人らしいのが降臨してきていて、ベンチと会話する。救出に来たらしいけど、ベンチ宇宙人は、まだいいよ的な返事をする。われわれは人間よりはるかに長生きだから。なんてもいうんだけど、ずっと残されたのはそのせい? 保育園建設でも撤去されずに残されるのか、このベンチは。 1話でバカ話した2人が、5話でも話し合うんだけど、男は背広姿で、ちゃんと就職した? で、どうもすでに結婚を前提につき合っている? はっきりはしないけど、手をつないで退場していくんだけど、なんか状況がはっきりつたわってこなくて、ちょっと、うーむ、な感じだな。 | ||||
ルート29 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 12/4 | 監督/森井勇佑 | 脚本/森井勇佑 |
公式HPのあらすじは「他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった」 Twitterへは「ストーリーはあって無きの如し。人物の行動に論理性もなければ必然性もない。なぜ? という疑問を排除して、ハラハラドキドキワクワクもなく映画は進む。ので少し寝た。何かの暗喩? にも見えないし…。少し深読みできる糊代があるといいんだけどねえ。」 →修学旅行? 路地の中学生。路地にトンボ。商店街で コケるトンボ…。簡易宿泊所で調べている警官と、つかまった男。ちょっと警官に抵抗するトンボ。ハルを探してることを表現してんの? なんの伏線にもなってなくて、なんなんだ? →草むらに小屋。ハルがいて(男の子かと思ってた)、ホームレス風の親父もいる。トンボに気づくと、トンボは「あなたを探しに来たの」という。そもそもどうやって探したのだ? 手がかりは写真だけだったはずなのに。 →で、1月前(だったかな)の鳥取へ。病院の掃除で働くトンボ。患者に話しかけられ、煙草を与えると「娘を探して欲しい」と写真をワタされる。よく見えなかったけど、ノートに必要なのは車と金と、あとなんとか、と書いて。仕事を抜けるフリして清掃会社のバンを盗んで一路姫路へ。このあたりのトンボの行動は理解不能。女なのに煙草を吸ってるトンボと患者にも違和感。いまどき。そもそもあの病院は? 精神病棟? →クルマの中で、ハルはトンボというあだ名を付ける。トンボメガネだから? 並走するクルマに変顔をするハル。隣のクルマの男の子が「お父さん、事件!」 というも、父親はスマホに夢中。では、あのクルマを運転してるのは誰? →食堂にいるトンボとハル。2頭の犬を連れた赤い服の老婆が入ってきて、「犬は外」という店主の言葉を無視し、2人と相席に。「3匹いたけど1匹行方が分からなくて。乗せてって」とかいわれて。きっかけは忘れたけど、ちょっとのスキにクルマを乗って行かれる。という話は、どういう関係があるのだ? →歩いていたらひっくり返ったクルマに遭遇。なかから老人を引っ張り出す。立ってはいるけど、ハルは「死んでる」という。たしかに。精気がなくしゃべらない。たぶん霊を仲間に加えたということか。 ・このあたりで、数分うとっ。すぐ気づいたけど。 →川で、街を離れてきたという父息子と遭遇。自然主義な連中か。父親は終末論舎で、やがて地球は滅びるといい、息子もそれを信じているらしい。ほとんど意味ない人物だな。 →別れて、湖。老人が「カヌーに乗りたい」といい、老人で一艇、ハルとトンボで一艇。彼方にカヌー群が現れ、老人は彼らと一緒に消えていく。彼らの中には結婚式姿の青年がいたり。彼らも霊なのか。成仏できない老人を迎えに来た? もしかして老人のクルマはバスかなんかと接触し、バスは谷底に落ちたとか? →牧場。雨。このあたりで、赤い服の老婆が話していた3匹目の犬がチラとでてきたかな。疲れて藁の上で寝てると、主人らしいのが傘を置いていく。大きすぎる傘をさしてあるくハルとトンボ。 →2人は学校へ。トンボの姉が教師をしているらしい。姉の家に数泊。なんか、母親のこととか育ちだとか、つまんねえことを話題に。である朝、食事中にテレビで、姫路で行方不明の少女のニュース。姉は速攻で警察に電話しようとするが、ハルはそれを阻止。2人でさっさと出ていく。なんだ。ハルには家庭があり、そこで暮らしていたのか。じゃああの森の小屋は何だったんだ。 →どっかの街の時計屋にハルが入って行く。なぜか気に入った腕時計があり、ハルは何か(よく見えない)と交換してくれ、という。時計屋のババアは、針が恐竜の骨でできている、とかいって交換に応じる。この時計は、トンボにあげたんだっけかな。見せただけかな。時計の意味するところは、よく分からない。 →まちを歩く人々が、スローモーション。空が紅く、住人の多くが見上げている。救急車のサイレン。事故ったクルマ。担架で運ばれる誰か。「私の知っている人かも知れません」と近寄る親らしい人物に、顔を見せる警官。救急車に向かう担架を、親らしい人はついていく。 →病院に到着し、3人で面談。どんな話をしたかさっぱり覚えてない。母親は、「連れてきて」といったにも係わらず娘に抱きつくことも声をかけることもせず淡々と未練なく話し、退出していく。はあ? なんなんだ? →トンボはハルを連れて警察へ。別々にされ、ハルは女性警官1人の運転するクルマで姫路に向かったのか? 途中、パトカーに異音がして、警官が見ているあいだにハルは道路に。遠くから大きな金色の魚が路上をたゆたってきて、通り過ぎていく。警官はそれにまったく気がつかず。 →トンボは、収監されるのか? どっかへ。で、おしまい。 こういう、意味ありげな要素を散りばめた映画はときどきでてくる。でも、事故った老人が幽霊、ぐらいしか読めるところがなくて、あとのあれやこれやは、どういうことを意味しているのか。アナロジーとか暗喩とか考えつつ見たんだけど、意味ないだろ、多分、というのが結論かな。 そういえばこの監督は『こちらあみ子』の監督で、あの映画もアスペルガーで多動児で幻聴や幻覚のある少女を、ちょっと変わった子として美化して描いていた。この『ルート29』では、変人度が大きいのはトンボの方だな。コミュ障で、クルマを盗むとか分別なく、邁進する。40歳近い女だけどね。ハルも負けずにワイルドだけど。まだ、大らか、な範疇に収まりそうだ。まあ、そういう、世間からは疎外されるような人たちに、監督は関心があるのだろう。 事故した老人の霊とか、犬と暮らす老婆、社会生活から逃げ出してきた父息子。街の交通事故。時が止まったような時計屋の老婆、教師に生きがいなく独身をつづけるトンボの姉、精気を失ったような病院の患者…。みな暗いな。夢のないファンタジーな感じで、惹かれず。 ・トンボは同じ作業着、ハルも着たっきり。洗濯もせず、パンツも同じか。臭いだろ。ファンタジーのなかの人物だから、汚れないのか? | ||||
浮き雲 | 12/6 | シネマ ブルースタジオ | 監督/アキ・カウリスマキ | 脚本/アキ・カウリスマキ |
フィンランド映画。原題は“Kauas pilvet karkaavat”。DeeoLによると「雲は遥か彼方へ走り去る」という意味らしい。映画.comのあらすじは「電車の運転手ラウリとその妻でレストランの給仕長イロナは、不況のあおりを受けて同時期に失業してしまう。2人は職探しを始めるが、なかなかうまくいかず…」 Twitterへは「書き割りみたいな芝居のカウリスマキ節。でも、どストレートな展開で、妙なヒネリや意味不明な飛躍がないので安心して見られた。夫婦とも失業し、さらに苦難が降りかかってくるのに住まいは広く立派で、壁には絵がかかっているのが、西洋だな。」 仲好し夫婦な感じ。妻を喜ばせようとローンでリモコン付きのカラーテレビを買う亭主。すでにあるソファーセットもローン。未来は安定、と思っていたら、赤字路線が増えたからとラウリは首。イロナも、レストランが経営不振で買収にあい、従業員は首。イロナは就活するが、なかなか決まらない。ラウリも、ロシアへのバスの運転手に決まりかけるが、健康診断で聴力がひっかかり、さらに運転免許も没収されてしまう。それでやけ酒で、帰ってきてぶっ倒れる。 街中では、かつての店のフロア係の男が飲んだくれてるのに出くわし、誘われて自分もやけ酒で、家に戻って吐きまくり。紹介料を払って行った先は安手のスナックで。経営者の妻が1人で回していたけど、妻に逃げられて難儀中。食器洗い機を手配するよう紹介所に話していたのにやってきたのはイロナ。でもいいや。1人でやってくれ、と彼女に任せて自分は店を見ない。なんとか切り盛りしてたら、かつての店のアル中料理長がやってきて、飲んでいく。と思ったら経営者がふらりとやってきて、レジの金を大半持って行ってしまう。 テレビもソファーセットも返品。だけど、壁にはちゃんと絵がかかっているのがおかしい。複製画で価値がない? イロナが店を出そうと決心したのは、この頃だっけかな? 元フロア係と銀行に行くも断られ、亭主のクルマを売っても出展費用には足りず、なんとカジノに行ってすべてスルのはアホだろ。 ラウリはスナック経営者が賭け事をしてるところに乗り込み、「女房の給料を払え」と迫るが返り討ちに遭って、ボコボコにされて波止場に放り出される。なんとか一夜の宿をとり、イロナに「仕事が決まりそうだから変えれない」とウソをついて数日滞在。でも、あんな血だらけで宿に泊まれたのが不思議。宿代はどうしたんだ? それと、部屋でアイロンかけてたら宿の人間がやってきて、どーたら親切にいうんだけど、アイロンをシャツの上に放置したママなので、おい、焼け焦げるだろ、と心配になる。ちゃんと考えて撮れよ。 しばらくして顔の傷も癒えて、ラウリは戻ってきてイロナに謝る。でも、何が悪くて謝ってるんだ? イロナの「帰ってきて」を無視して「仕事が見つかったから」とかウソを言って戻らなかったから? でも、イロナの雇い主の経営者に「給料を払え」と言いに行って返り討ちに遭ったんだから、申し訳なさを感じるのはイロナの方ではないの? と思ってしまう。 かつて勤めていたレストランの支配人と再開したのは、この頃だったか。美容院に面接に行っていたら、客としていたのか。「あなた店を始めなさいよ。資金は私が出すから」と背中を押され、金のめどが付いた。ホームレス生活してたアル中の元料理長も施設に入れて復活させ、いよいよオープン。イロナの横にはラウリもいる。もとのレストランのスタッフもみな集まっているが、11時半になっても客はゼロ。と思っていたら次々に来客し、何かの団体の30人のディナー予約注文も入って、未来は明るい、で映画は終わる。 弱り目に祟り目の健気な夫婦の復活物語で、とことんイジメ尽くして復活させるので、ラストにいくぶんの爽快さは感じられる。とはいっても、公開された1996年当時のフィンランドの経済状況がよく分からんので何とも言えなくて、社会全般が不況だったのか、この夫婦が運に見放されていたのか。この手の、不況に喘ぐ小市民の話は戦前戦後に日本でもたくさんつくられていて、あばら屋で暮らすような描写があったもんだ。それとくらべると、登場する夫婦はひろいアパートに家具もたくさんあり、壁には絵も飾ってあり、犬まで飼っている。時代の違いもあるだろうけど、精神的なゆとりはまだありそうに見えるんだよね。赤貧洗うが如しでもなさそうだし。 でもまあ、弱者に未来を、という映画の永遠のテーマを、ここまでどストレートに淡々と描かれると、見ちゃうよね。カウリスマキの映画では、主人公が意味なく暴力を振るわれたりすることもあるけど、この映画にはそういうこともないし。理屈がつながっているのは、大事だよ。映画にとって。 ・仕事終わりのイロナを路面電車を運転するラウリが拾って乗せて帰る冒頭近くの場面がなかなか洒落てていい。 ・失業して映画を途中で退出し、受付嬢に金は払わん、と罵声を浴びせ、なんと預けていた犬を返してもらうラウリ。なんて横暴な、と思ったけど、受付嬢はラウリの妹だったらしい。なかなかチャーミングな娘で、彼女の登場場面をもっと増やして欲しかったな、と。あと、元支配人もなかなか魅力的なオバサンに描かれていたよ。 ・スナックに勤めるときに経営者に渡していた課税なんとかという紙がよく分からなかった。のちにスナックに税務署(?)の査察が入ったときの様子も、理屈が良く分からなかったな。どゆこと? | ||||
藤十郎の恋 | 12/11 | 京都文化博物館3階フィルムシアター | 監督/山本嘉次郎 | 脚本/三村伸太郎 |
Twitterへは「山本嘉次郎監督だけど製作主任に黒澤明、タイトル画は小村雪岱、主演は長谷川一夫に入江たか子。京都文化博物館で。96分版だけど短縮版なのかね。字幕で話が進む前半はイマイチだけど、カメラの動きはすごかった。」 京都に旅行中、宿の近くに京都文化博物館があったので、18時30分の回に行った。ホームページには「1938年東宝作品(モノクロ・96分)/監督:山本嘉次郎/出演:長谷川一夫、入江たか子、藤原釜足」とあったけど、クレジットには製作主任が黒澤明、美術監督が小村雪岱、作曲演奏が宮城道雄で絢爛豪華すぎ。菊池寛の原作なのはおぼろげに知ってたけど、内容はまったく知らず。それと、他の情報では尺が122分となっているのだけれど、上映されたのは96分版。これは、短縮版なのか? そこのところよく分からず。 戦前の映画で、芝居の世界の話。京都弁で、音声も聞き取りにくい。しかも前半は映像で語る展開ではなく、節目で字幕が登場し、状況説明をしていくつくり。まあ、分かりにくいのが分かっているから、の配慮だろうけど、映画としてのダイナミズムというか、話に引き込まれていく感じがなくて、なんだかなあ。とはいえ、冒頭からの映像は思いのほか凄くてびっくり。芝居小屋の前に密集し、押すな押すなの観客たち。それを俯瞰で高所から。しかもカメラが動いてる! でかいクレーン? イントレ組んでその上にクレーン上げて撮ってるのか? これが、向かい合う芝居小屋の公演を紹介するたびに繰り返される。芝居小屋の中も、昔の枡席の様子を俯瞰で撮り、花道をうろつく、あきらかに芸人じゃない連中がいたり、な様子をリアルに撮っている。セットなら大がかり過ぎて、凄すぎる。他にも、藤十郎がカメラに向かって歩いてくる場面で、カメラが引いて動くんだよ。よく覚えてないけど、レール敷いてたかな? ギリギリまで敷いてたのかな。ドリーみたいな仕掛け? にしても、ここもダイナミック。というのに驚きながら見てた。 話は単純で。人気の藤十郎の芝居に対して、対抗する小屋が江戸で人気の七三郎を呼び寄せての競演となっているらしい。はじめは藤十郎の圧勝で、あんな江戸の役者なんて、なんて言っていたのが逆転し、七三郎側が圧倒。藤十郎の芝居は閑古鳥で、打ち切りになってしまう。とはいえ映像では結果だけが描かれて“なぜ”が描かれないので、いまいち納得感がない。 字幕での説明はこのあたりまで。以降はドラマの展開になるんだけど、それにしたって人物がちゃんと描かれないので、いまいち話が分からないのは相変わらず。こいつは興行主とか、だれそれ、というようなことすらも分からんのだもんな。まあ、セリフをちゃんと聞いていれば分かるのかも知れないけど、音声も聞き取りにくいし、困ったもんである。調べたら、原作は1919年の新聞小説で、翌年には戯曲化され大当たり、らしいので、筋立ては誰でも知っていて、だから役者を見に行くような映画だったのかもしれないけど。 それはさておき藤十郎側の小屋の使用人たちもライバルに引き抜かれ、後がない状況。で、藤十郎は近松門左衛門に新作を依するが、仕上がりが遅い。やっとできあがった台本は、どうやら数年前の事件を元にしたもので、藤十郎は(理由は良く分からないけど)頭を抱える。取り上げた事件が生々しすぎて悩んでいたのか、と思ってたけど、そーでもないのかな。よく分からん。なもんで、いつになっても藤十郎は稽古に出てこない。こまり果てる周囲の面々。 女型の役者とかは分かるんだけど、ほかの面々が、どういう役割なのか、これが分からない。顔が分かるのは藤原釜足ぐらいで、その彼の立ち位置も分からない。芝居小屋の主なのか? 他の面々も、なんなんだこいつは? な感じの連中が藤十郎のまわりにいる。やれやれ。 で、藤十郎は突然のようにある女に会いに行く。で、自分はむかしからおぬしのことを思っておって…。なんて昔語りを始める。いまは30になったけれど、10年前のあのとき、わしはそなたに…。なんていわれてうろたえる女。どうも亭主持ちらしいんだけど、藤十郎に思いがあったらしい。でも、亭主がどいつなのかわからんのよね。 これで演出が分かった! と満足したのか、とって帰すと、夜中なのに「さあ、稽古を始めよう!」と一同に。みなは、藤十郎も来ないし、夜だし、帰ろうぜ、なんて思ってるところに藤十郎が勇んでやってきて、女型に「そうじゃない」を連発し、女型の演技に満足すると、そこに絡む役者にどうたらと注文を付け始めて…。それで夜が明けたのかな。ひとり満足の藤十郎。 さて、初日。あの女型の演出は、藤十郎がある女の反応を参考にしてつけた、という話が広まって。それを聞いた女は、はっ、と青ざめる。いよいよ幕が上がる。というとき、裏方で騒ぎが。どうも奈落で首つりがあった様子で、遺骸が運ばれていく。それを知った藤十郎、一瞬ためらうが、振り払って舞台に向かう…。てな話。 なんだけど、藤十郎の行為や女の反応は、良く分からなかった。あとから映画の解説のようなのをWebで見て、藤十郎と女が顔見知りだったのは本当だけど、藤十郎が思いを寄せていた、というのはウソで、女の反応を実際に見たいがためにしたものらしい、と分かった。ああなるほど。芸のためなら女も騙す、か。騙された女は恥じて、もう生きていられない、と自死した。そうか。そういう話か。 1938当時、藤十郎の長谷川一夫は30歳。へー。おっさんに見えるけどな。女の入江たか子は27歳。うへー。オバサンに見えるけどな。それに、いまの感覚ではキレイでも可愛くもない。まあ、白塗りしてて、土台がよく分からないというのもあるけど。まあ、化猫女優を見たことがある程度だけどね。あ、『滝の白糸』もそうなのか。 国立映画アーカイブのHPには「山本が元禄時代を蘇らせようと時代考証に腐心したと語る菊池寛原作の映画化。芸道のため、幼なじみの女将(入江)に偽りの恋を仕かけ、死に至らしめる名女形(長谷川)の物語を描く。松竹からの移籍発表後、暴漢に左の頬を切られた林長二郎が、本名の長谷川一夫を名乗って出演した東宝入社第1作。入江たか子との共演も話題を呼び大ヒットした。長谷川は森一生監督の1955年作で再び藤十郎を演じた。」とあって、なるほどそういうことか、と。 さて、青空文庫で原作を読んでみるか。短いようだし。 | ||||
クラブゼロ | 12/16 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ジェシカ・ハウスナー | 脚本/ジェシカ・ハウスナー、ジェラルディン・バヤール |
原題は“Club Zero”。オーストラリア/イギリス/ドイツ/フランス/デンマーク/カタール映画。公式HPのあらすじは「名門校に赴任してきた栄養学の教師ノヴァクは【意識的な食事/conscious eating】という「少食は健康的であり、社会の束縛から自分を解放することができる」食事法を生徒たちに説く。親たちが気付き始めた頃には時すでに遅く、生徒たちはその教えにのめり込んでいき、「クラブゼロ」と呼ばれる謎のクラブに参加することになる。栄養学の教師が導くのは、幸福か、破滅か」 Twitterへは「ほぼ会話劇。単調で書き割りみたいな芝居で淡々と話が進む。ドラマチックは皆無。なので少し寝てしまう。気がついたら2人脱落してた。話にリアリティがなく生徒が洗脳される理由もなるほど感がない。生徒や保護者の区別もつきにくく、字幕も読みづらい。」 変な話だ。全体にリアリティがなくて、芝居も書き割りみたいに感情なく、無機質で、淡白に。それが淡々と続いていく。ドラマチックはなくて、登場人物たちは概ね静かに対話していく。その対話が、つまらない。ので、睡魔が…。始まって10分過ぎると眠くなり、ふっ、と気づいたら黒人の少年と、白人の女子が、「食べなきゃやってられない」と離脱していくところだった。 ので、教師のノヴァクがどのように生徒たちを説得・掌握していったのか、は見てない可能性が高い。多くが感化され、数人が現実を考えて離れて行った、ということか。で、ノヴァクが言った効果には、痩せるとか、があったかな。あと、自分の授業を取ると奨学金が受けられる、とか。他にも環境にいいとかも言ったらしいけど、そんなんで高校生が腑に落ちて絶食を受け入れるものなのか? それと、少食、といっているけど、映る映像では、ほとんど食ってない。学校での食事も、家での食事も、生徒たちはナイフとフォークを動かして料理をいじってはいるけれど、口には運ばない。なんだあの変な演技みたいな態度は。食べないなら、食いものをいじらず、食うな。あるいは、少食なら、少しだけ食べているところを映せよ。そうしているなら、分かる。けど、この映画は、そうはしていない。だから、余計に、食わないでどうやって体力を維持しているのだ? という疑問がつきまとってしまう。それに、誰も痩せてもないし、ヨロヨロもしていない。リアリティがなさ過ぎなんだよね。 そもそも学校はノヴァクを迎え入れた側。なのに、その思想や教育態度の情報を事前に得ていないのがおかしいだろ。しかも、学校内で食わない生徒がいるのに、教師や校長(?)は気がつきもしない。バカじゃないのか。 親たちも、子供が食べないのを知りながら、態度や声で説得する様子が少ない。ある家庭の父親は怒鳴って「食え」といってたけど、生徒が食わない理由を言葉で反論するような場面がない。 てな感じなので、怪しい思想に感化された教師が生徒たちを洗脳していている、って感じが見えない。たとえば、新興宗教の教えにはまり込んで他の意見を耳に入れず、おかしくなっていくような風には見えないのだ。ますます話に入れない。 淡々としているから、じゃあ記号的かというと、そんな感じもない。少食を主張する特異な教師がいて、それに感化された生徒がいました。以上終わり。みたいな感じしでしかない。パカーン化した感じかな。だから、映像として見ていても、面白味がひとつもない。 後半で、親たちが対策を講じ、ノヴァクを説得しようという話になるが、そのころにはなぜかノヴァクは画面に登場しない。どうやら学校をやめさせられたらしい。学校側の対応は、それでオシマイ。親の中には子供を家から出さず、ノヴァクと会わないようにするのもいたようだけど、なんか、話がグズグズになってしまっていて、話がよく見えなくなっている。 で、最後に子供たちは家を抜けだし、いずこかへ。と思ったら、家(誰の家だっかか? ノヴァクの?)にかかっている野原の絵がどんどんクローズアップされ、額縁も見えなくなると、絵が現実の世界になり、上手から生徒たちが現れる。まあ、別の世界に行ってしまった、の象徴的な表現なのか。 その後に、親たちが集まって話をしているけど、これまた冷静に淡々と話し合っている。「こんなことになってしまって…」とかね。では、集団自殺でもしたのかと思ったら「死んだというわけじゃない」な声も聞こえていて。なんなんだ? 子供がノヴァクと消えたなら、警察とか学校とかに訴えるとか相談するとかするだろうに、そういうわけでもない。さあどうしようと話し合う父兄が落ち着いている気味悪さ。生徒たちは死んだのか? 逃避したのか? なんだかよく分からない話なのだった。 | ||||
どうすればよかったか? | 12/17 | テアトル新宿 | 監督/藤野知明 | 脚本/--- |
allcinemaのあらすじは「面倒見がよく、絵がうまくて優秀な8歳ちがいの姉。両親の影響から医師を志し、医学部に進学した彼女がある日突然、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。その判断に疑問を感じた弟の藤野知明(監督)は、両親に説得を試みるも解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。このままでは何も残らない…。姉が発症したと思われる日から18年後、映像制作を学んだ藤野は帰省ごとに家族の姿を記録しはじめる。一家そろっての外出や食卓の風景にカメラを向けながら両親の話に耳を傾け、姉に声をかけつづけるが、状況はますます悪化。両親は玄関に鎖と南京錠をかけて姉を閉じ込めるようになり…。20年にわたってカメラを通して家族との対話を重ね、社会から隔たれた家の中と姉の姿を記録した本作。“どうすればよかったか?” 正解のない問いはスクリーンを越え、私たちの奥底に容赦なく響きつづける。」 Twitterへは「答は明白。すぐに精神科を受診するべきだった。それを拒む父と従う母親。弟であるこの映画の監督も、両親に逆らって受診させることなくカメラを回す。そこに打算はなかったか? 不快な印象しか残らない。」「精神病は投薬で改善が期待できる病になっている。それは、この映画でも証明されている。しかし、発症から25年後に初めて受診するなんて。無知だからではない。父親は医師で、母親も医療関係者なのだから。」 なんだかなあ、という感想だな。精神疾患の徴候を感じ取った弟は、知り合いの医者に見せようとアポをとるが、当日やってきたのは母親だけ。父親が、娘は正常だ、といっている、と報告に来ただけ。父親は「知り合いの医者に診せたら100%正常だといわれた」を繰り返すのみ。それに反論しない母親。この映画の監督でもある弟は、両親を振り切ってまで医者に診せようとしない。なんか、家族全員に見捨てられた感じがする。 弟は北大卒業後に映像の学校に行き、Webのプロフを見ると、そこをでてからは映像関係の仕事を現在もつづけているらしい。弟が姉を撮りはじめたのは発症後18年後と言うから、すでに姉は40前後。弟は30過ぎのはず。その間、姉は元気なときもあったようで、外出なんかもしてたようだけど、ほぼ自宅から出ず。写される姉はほぼ無言で見つめ返す。話せないのではなく、自分を病人扱いし、写しつづける弟を警戒し、敵視している感じ。 両親がバカなのは、娘の病気を認めないだけではない。ヨーロッパの怪しい学会に献金(300万とか言ってたな)したりして、娘の地位を買ってたりする。高額な研究機材を揃え、自宅で研究できるようにしてやったりしている。占いの本も自費出版したらしい。それと、信じられないのは、年金だかなんだかを勝手に解約して金をつくり、一人で渡米し、彼の地で保護されたことがある、ということ。その間の会話とか手続きとか、フツーにできたのか。ちょい驚き。ともあれ、これらは娘を溺愛している結果、なのか。娘の疾患を認めない、認めたくないという心理なのか。異様な両親だ。気になるのは、いったい金はどっからでてきたんだということ。資産家なのか? 娘の活動はあまり写されてなくて、占いに没頭したり、得体の知れない工作物をつくったり、論文らしきモノを書いたりしていたようだけど、そういう様子は映像にはない。たぶん弟が仕事の合間に札幌の自宅にもどり、そのときだけ撮影していたからだろう。なので、密着的なドキュメントとは言えないな。 たまに妄想もあったようで、誰かが窓から侵入し、自分を掠っていく、と両親に訴えたようだ。窓を見ると、そんな形跡はない。けれど、母親は娘の言を100%信じ込んでいて、こうやって侵入するのよ、とか弟に話している。母親も狂ったか? と思っちゃったよ。 玄関には南京錠が掛けられている。よく分からんのだが、自宅軟禁だったのか。でも、外から鍵をかけて軟禁? よく分からんぞ。それに、老いたとはいえ両親は健在なのだから近所づきあいもあるだろうし、買い物も行くだろう。そういうのが写されないので、この家で行われている日常がいまいちつたわってこないんだよね。たまにやってくるのは、母の妹。この叔母の前でも姉はわけの分からんことをしゃべりつづけたりする。この叔母だって姪の異様さは分かるはずなんだから、両親を説得すりゃあいいのに。見ていてなんかイラつく家族・親戚だ。 母親の認知症をきっかけに、やっと精神科を受診したのは発症から25年後というから、姉50歳ぐらいか。これがなんと、合う薬がみつかったからと3ヵ月で退院。しかも、退院した姉は料理をしたり、弟と日常的な会話もしている。外出もし、買い物もする。同窓会にもでようかな、とまでいう。結局出なかったけど。でも社会とふれ合いが始まっている。玄関の鍵もなくなったのかな? 投薬の劇的な効果にびっくりだ。もちろん完治ではなく緩和だけど。 でもときどき妄想はやってくるらしく、家の中で刃物を持った人が暴れてる、とか警察に電話して。警官が玄関に集まってる様子も、インターフォンの映像で映っている。 そのうち母親が85歳ぐらいで亡くなり、父親との生活。料理は娘がつくっていたようだ。しかし、ガンを発症。その後の娘の還暦祝い、62歳のバースデーの映像になると、若い頃のキリッと知的な(ちょっと戸川純に似てる)面影はうすれ、白髪交じりの小太りなオバサンになっている。ガン治療の頃は放射線治療の影響か、髪が抜けているのかな、というニット帽の姿も。で、2024年の今年、姉は亡くなった。棺桶のなかに入れられるタロットカード、論文らしきモノ、ショートケーキ…。 父はすっかり老いて車椅子。に、弟が聞く。「受診させなかったのは、恥だから?(みたいにこと)」「ちがう」「精神病院で虐待されることを懼れたから?」「ちがう」「じゃあなんで?」「母さんが嫌がった」と、母親のせいにする。母親にも生前、聞いていたけど、母親は「受診させたら父さんは死ぬよ」と弟に話していた。この矛盾。 弟は、撮りためていた映像を映画にして公開するがいいか?」ときくと、父親は「いいよ」と了承する。自分の行いが正しかった、と信じているらしい。 父親は、娘が狂人であることを認めたくなかったんだろう。医学部を卒業した自慢の娘。とはいえ異常は明らかなのに。自分も医者でありながら昨今の知見を無視して家に閉じ込める。その経緯がこれだ。弟が姉を撮影した動機も、嫌な感じが残る。「これで一本俺の映画が撮れる」とは思わなかったか? バカな両親とバカな自分を反省する視点は感じられなかったんだよなあ。・娘が亡くなったのは64歳ぐらい? では、年金は掛け捨てになっちゃったのかな。と、気になったりする。 ・精神障害者を美化したり理想化する映画は少なくない。『まぼろしの市街戦』だの塚本晋也の『KOTOKO』だの枚挙にいとまがない。そういうのと一線を画す、生の患者の姿をまのあたりにするというのは貴重な体験だ。とはいえ、はたして尊厳の元に提示されているのかどうか。やや心配。 | ||||
お坊さまと鉄砲 | 12/19 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/パオ・チョニン・ドルジ | 脚本/パオ・チョニン・ドルジ |
ブータン/フランス/アメリカ/台湾映画。原題は“The Monk and the Gun”。allcinemaのあらすじは「2006年、国王陛下が退位の意向を発表し、ブータンは民主主義体制へと移行する。総選挙で新しいリーダーを選ぶ必要があるが、ブータンでは選挙を実施したことがない。国民の理解促進を図るため、政府は選挙委員をブータン全土に派遣し、4日後に“模擬選挙”の実施を決定する。周囲を山に囲まれたウラ村。山で瞑想修行中のラマのもとを訪れた僧侶のタシは、模擬選挙の報を聞いたラマから「次の満月までに銃を二丁手に入れてほしい」と頼まれる。戸惑うタシに、ラマは「物事を正さねばならん」と話す。時を同じくして、銃コレクターのロンがブータンに到着。ウラ村に昔の貴重な銃があると知り、アメリカから取引にやってきたのだ。ロンは、運転手と通訳を務めるベンジとともに村へ向かう。一方タシは、村中の家々を尋ね歩き、ペンジョーという村人の家に銃があるという噂を手に入れる。銃を譲ってもらうためペンジョーの家に向かうが、一足先にロンとベンジが訪れていて…。ラマが銃を必要とした理由は? 選挙は、村人たちに幸せをもたらすのか」 Twitterへは「ブータン製のファンタ爺だった。冒頭から複数の似た顔つきの男女が次々と登場し、しかもロングショットで、話ものらくらしてるので気が滅入った。次第になんとなく分かってはきたけどね。アメリカへの皮肉は分かるが、中国やロシアにはないのかね。」 ラジオの音声と、老僧の後ろ姿、弟子らしいのの会話。娘のいる3人家族と、テレビ。ベッドから起き出す男(ガイド)と、その女。派遣されてきた選挙委員の女と仲間。が、平行して登場する。アップはほとんどなくて、ロングかせいぜいミドル。なので顔が分からん。設定も分からんし、だらだらと話が始まっていく。とくに驚くような出来事もなく、しだいに何となく分かっていくようなつくりになっている。ので、ちょっと寝不足のこちらにとっては、ヒキがたりない。ので、数分目をつむって、開けたら、ガイド男とアメリカ人が老人と銃の交渉をしてるところだった。いかんいかん。肝心なところ、見逃したか? アメリカ人の素性や意図が良く分からんまま。なので、いまいちもやもやしてたんだよね。アメリカ人は、アメリカにもこの銃は珍しくてどうのといい、老人から買う意志を見せている。はたしてこの銃はなんだったのか? こっちが意識を失ってるあいだに説明はあったのか? 知らんけど。そもそもアメリカ人は如何にしてめざす銃がブータンの、この老人のところにあるのを知ったのか? ガイドに連絡して情報を得た? のところが、よく分からん。銃にしても、なぜブータンにあるのか? 老人は、物置でずっとホコリをかぶっていて忘れてた、とかいってたけどね。ほかにも老人は、昔の戦争につかわれ、同胞もこの銃の犠牲になった、とかいっていた。いつの時代のどの戦いのことを言っているのか? このあたりが知りたいのに、その話が出てこない(目をつむってるときに出てきたのかもしれないけど…)。というわけで、この映画として冒頭に銃のいわれ、老人の手に渡った理由、を端的に語るべきではなかったか。その後に、ブータンで国王が退位し、民主国家になることになった、という話を持ってきた方がよかったと思う。 それと、描かれるのは本番の選挙の前の模擬選挙について、なんだけど。実は立候補する2人の男がいるらしいことが、ほんわかと示される。で、この2人の支持者の間で対立が発生し、3人家族の娘は学校で仲間はずれにされている、らしい。この話ももやもやする。3人家族の父親はすでに片方を支持していて、かなりのめりこんでいる。テレビまでもらってご機嫌で、娘を都会の学校に入れるんだ、とか盛り上がってる。その妻は貧乏なりに地味に暮らせればいい、な考えで。でも、なぜか村長からの指示で、選挙委員の女の手伝いをするようにいわれ、行動を共にしている。 ということを考えると、すでに選挙という概念は村民に浸透している気がするんだけどね。でも、模擬選挙の練習では、委員が村民に赤、青、黄の党の主義主張を説明し、そこに投票するのだ、とかいっても理解できてない様子。こんな村民ばかりなら、3人家族の娘はいじめられたりしないだろうに。と思ってしまう。 話の軸は、老僧が弟子に「銃が必要だ」と言ったことに始まる。その理由が分からないまま展開し、最後に理由が分かってファンタジー的な話になる。それはいいんだが。順序としては、まず、アメリカ人と銃の所有者の老人との交渉が、成立する。老人が、提示額に「高すぎる」というのは笑えるけど、自由主義経済が浸透していなくて、仏教思想によって欲望が薄いということを前提にすれば、そうなんだろうな、と。ところが、その後に弟子僧がやってきて、銃を探しているという話になり、じゃあ寄進するという話になってしまう。面白いのであるが、弟子僧は、老人のところに銃がある、と知っていたのか? 銃を探して村中を歩きまわった形跡は、ない。せいぜい、村の茶店で見た「007」の映画でダニエル・クレイグが銃を撃つ場面を見た程度。が、すんなり老人の銃にたどり着くのは都合が良すぎだろう。で、金をつくって老人の元に戻ったアメリカ人とガイドは、約束が違うじゃないか、と抗議するけど暖簾に腕押し。というところで、弟子僧は「2丁必要だ」といい、カタログをみて「これがいい」といったことから、アメリカ人とガイドは、インドからAK-47を密輸する。へー。あの古い鉄砲にはそんな価値があるのか? でも、老僧が話した満月の日には間に合わず、ラストにつながる訳だけど。てな裏でブータン警察はアメリカ人が銃取引目的で入国していることを察知し、追跡を始めていた。 という話と、3人家族は直接は関係ない。選挙狂いの父親はテレビにご満悦だけど、娘に消しゴムを買ってやりもしない。娘は選挙の前にはなかった村民対立のせいで学校でいじめられている。母親は、選挙の手伝いをしている。という矛盾。消しゴムがないことを知った選挙委員の女は、娘に筆記具と消しゴムを与える。でも、映画の終わりで選挙委員が帰っていくとき、娘は消しゴムを委員の女に返すのだ。所有欲がないというか、相手への思いやりのこころが、選挙の実施前にはあった、とでもいいたいような話だけど。選挙委員の女も、返してもらわず、「あげるから」って与えればいいのに、と思ってしまう。 というだらだらな話の終わりは、老僧が登場。ここでやっと銃を求めた理由が分かる。争いの種である銃を埋め、その上に新たに仏塔を築く儀式をする! という。なるほど。話は子供だまし的なファンタジーだったか。掘られた穴に、弟子僧が古式銃を投げ入れる。アメリカ人とガイドはAK-47を手にしていたが、すでに警察も来ている状態なので諦め、「この銃を奉納する」と投げ入れる。ついでに、警官も拳銃を投げ入れる。子供はオモチャの銃を投げ入れる。いろんなモノが投げ入れられ、その上にコンクリが流し込まれ、埋められてしまう。まだ仏塔の用意はないようだ。夜中にこっそり掘り出すことは出来そうだな。 その後、アメリカ人には銃を奉納したお返しに、ブータンの平和の象徴(?)である、赤い男根を与えられる。 模擬選挙の実験では、黄色の党が95%の投票率。どうやら国王の色が黄色だったので、そうなった、という話らしい。のんびりしていていいね。選挙委員の女も帰り、騒ぎは収まる。で映画は終わり。いや、終わりでいいのか? と思う。3人家族の親父の選挙狂いは、解決してないはず。ならば、娘のイジメも変わらないはず。消しゴムの問題も、解決していない。 という模擬選挙が2006年で、実際の選挙は2008年に実施され、ブータンは民主国家になったらしい。はたしてそれでよかったのか、と映画は言っている。世界の人たちが血を流してまで求めた民主主義。それが導入され、でも、その結果、村民の対立や子供のイジメが発生した。文明も、ラジオからテレビになって、人をバンバン撃ち殺す「007」も見られるようになった。これで村は、よくなっているのか? 民主主義や選挙がなく、仏教の教えと国王崇拝の時代の方が、はるかに村民は平和で安穏な生活を送れていたのではないか? ということを言いたいんだろうと思う。文化人類学的にも、そうだ。 アメリカ人の武器コレクターは、世界の悪の権化であるアメリカを象徴しているのだろう。しかし、銃を埋めて仏塔を建設しても、世の中は変わらないだろうな。なので、ファンタジーで終わらず、その仏塔の下を掘り進むアメリカ人とガイド、をラストに持ってくるとかした方が皮肉が効いてないかな。 | ||||
型破りな教室 | 12/24 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/クリストファー・ザラ | 脚本/クリストファー・ザラ |
メキシコ映画。原題は“Radical”。公式HPのあらすじは「麻薬と殺人が日常と化した国境近くの小学校。子供たちは常に犯罪と隣り合わせの環境で育ち、教育設備は不足し、意欲のない教員ばかりで、学力は国内最底辺。しかし、新任教師のフアレスが赴任し、そのユニークで型破りな授業で、子供たちは探求する喜びを知り、クラス全体の成績は飛躍的に上昇。そのうち10人は全国上位0.1%のトップクラスに食い込んだ!」 Twitterへは「落ちこぼれ学校に赴任した破れかぶれ教師が、押しつけ授業は無視し、遊びながら学ぶ教室を実践するが…。なメキシコ映画。実話ベースらしい。理解ある校長と天才美少女が印象的。にしても、2012年のメキシコってまだこんな貧乏で危険なのか。」 ダメ学校に熱血教師が赴任して生徒の心を捉えるも、周囲の教師や為政者から、学校で教えるべきことが教えられてない、などと非難される。けれど、全国テストで好成績を達成し、見返す。と、荒筋を書けばありがちなドラマ。なんだけど、事実ベースの話らしい。でも、なんか脚色しすぎでほとんどフィクションなんじゃないのか? と疑ってしまう。そこがこの映画の弱点ではないのかな。 驚くのはメキシコの劣悪な環境なんだよな。ただのダメ学校ではなくて、日常的にギャングが白昼抗争し、死体もゴロゴロ。導入したコンピュータは速攻で盗まれてしまう。ゴミ収集が仕事のオッサンの娘がいたり、新生児の保育を任されて学校に行けないとか、そういうのがフツーにある世界が、2012年の段階であった、というのはビックリだ。たぶん、未だに基本は変わってないはずだ。それが、ありがちな設定の中での大きな違いかな。 新任教師のフアレスは、さほど熱血な感じではないかも。風体は冴えないし、とくに特技もない。することは、難破船の遭難者をどう救うか、とか、船はなぜ浮くか、をデブと痩せ、風船と石で考えさせたりする(アルキメデスの原理の実践だ!)。とはいえ、やる気のなかった生徒や、チンピラとつき合ってたニコまでが興味を示すようになる。実話ベースと言いつつ、かなりドラマチックにしてしまっているので、なんか嘘くさいのだよな。一方では、ゴミ屋の娘パロマの天才性を見出したりするんだけど、彼女は廃材を組合せ、独学で天体望遠鏡をつくったりしている。ので、見出した、というより、たまたまクラスに天才がいた、ということなんだろうけど。でも、彼女のモデルはいたようで、エンドロールで写真がでてくるのは彼女なんだろう。全メキシコでトップクラスの成績を達成するとか、フアレスの型破りな授業だけじゃ到底ムリだろ。だって、浮力の計算だって自力でできてたんだから。それともう一人、子だくさんの家庭のルペは、じっくり思考型だな。 フアレスには妻と子があるけれど、あまり話の中では機能していない。なんかもったいない。かなり機能するのは校長で、フツーなら新任教師の暴走を止める立場なんだろうけど、なぜか大らかに見守ってくれて、応援までしてくれる。なかなかいいオッサンである。この小学校が全国最低レベルの成績しか取れないことを危惧しているのは、むしろ同僚の教師だったりする。べつに校長がハッパをかけているわけでもなくて、生徒の成績がいいと給料やボーナスに繁栄されるから、らしい。日本じゃそんなのあり得ないけどな。 なにが原因だったか忘れたけどフアレスは停職処分になって、2週間だか一か月だか自宅待機を命じられる。せっかく生徒たちといい関係が築けかけているのに…。なのでフアレスは役人らしきところに直訴に行くんだが、かえって役人に目をつけられてしまう。フツーの授業になって、身の入らない生徒たち…。というのも、ありがちな展開なので、このあたりもフィクションだろうな。 ニコにはギャング仲間になってる兄貴分なのか本当の兄なのか分からんけど、がいて。どうも怪しい商売の手伝い(運び屋?)を、カバンの中味をよく知らないままさせられている、らしい。なので、そのうちトラブルが起こるな、と思っていたらその通りになった。とわいえ、これも強引な展開。というのも、落ちこぼれニコと天才美少女パロマがなんとなくいい関係になっていくんだぜ。映画的展開すぎるよな。でまあ、ヤバい仕事はやめる、と決心するんだが、それを知ったギャングたちは、ニコがパロマがもりあがってるところにやってきて、仕事をしろ、さもないとパロマを…。という態度をとる。咄嗟にニコはギャングの銃を奪って…。その結果、ニコも兄貴分もギャングたちもみな死んでしまう、のだけど。何が起きたのは、正確には分からない。とはいっても撃ち合いなら生き残りが1人もいないというのは変だよな。だれか逃げたやつがいるということか? 生徒が死んだ。ニコがヤバい仕事をしているのは、フアレスも知っていた。けれど、あえて止めなかった。かなり衝撃的だと思うんだけど、わりと早めに回復しちゃうのは、映画的な都合か。 全国試験みたいのがあって、でも、生徒たちはフアレスもでてこないので、家にこもったまま。を、フアレスは尻を叩くようにして受けさせる。でまあ、これでかなりいい点数を取って、フアレスも自信を回復する、ような終わり方になっている。でも、フツーの教室の授業もしないと、いい成績はとれないよなあ。あんな型破りな教え方だけじゃムリだろ。話をつくりすぎ。と思ってしまうんだよな。 フアレスはいまでも件の学校で教えている、らしい。では、あんな調子の教え方をいまでもしているのか? あれが成功の要因だとしたら、他の教師も同じような教え方をするようになったのか? など、気になるけどね。 エンドロールでパロマのモデルになった少女が雑誌の表紙に登場したりして、話題になったのは事実らしい。では、モデルの少女の父親もゴミ拾いだったのか? 映画の中のパロマは貧乏すぎて宇宙セミナーの受講もムリだったけど、では、全国試験で好成績をとり、その後、支援は得られたのか? あれから10年、いまは大学生になっているのか? 気になりすぎ。ほかにも、子だくさんの家のルペは、学校を休学しないですんだのか? 死んだニコの家庭は描かれていなかったけど、家族はどうしたんだ? とか、気になるところをほったらかし、っていうのもスッキリしないのだった。 ・フアレスがこの学校を志望したのは、学校にコンピュータ導入ヘの支援金がでた、という新聞記事を信じたかららしい。けれど、支援金はまだ来ていない。どころか、くるかどうか分からない。以前導入したコンピュータは盗まれたまま。そういうダークな面に、もっと焦点を当てて欲しい気もする。 ・冒頭で車椅子の老婆を押していたのは、あれはニコ? ラストシーンでも、この老婆がでてきてたと思ったけど、あれは誰の婆さんなんだか、よく分からん。 ・同僚教師が全国試験の問題をどっかから入手し、生徒にそれを教えるという場面がある。あんな学校の教師でも手に入れられるなら、全国どこの学校でもやってんじゃないのか? と思ってしまうよ。 | ||||
● | ● | ● | 監督/● | 脚本/● |
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