ブラックバード、ブラックベリー、私は私 | 1/6 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/エレネ・ナヴェリアニ | 脚本/Nikoloz Mdivani、Tamta Melashvili、Elene Naveriani |
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ジョージア/スイス映画。原題は“Shashvi shashvi maq'vali”。公式HPのあらすじは「エテロは、結婚したいと思ったことは一度もない。両親と兄を亡くし、日用品店を営みながらひとりで生きてきた彼女は、自分で摘んで作るブラックベリーのジャムと同じくらい、独身の暮らしを愛している。しかし彼女が未だにひとりでいるのは村の女たちの噂の的だ。ある日、エテロは崖から足を踏み外し危険な目に遭う。死を意識したエテロは、突発的に人生で初めて男性と肉体関係を持つ」「ある日、ジョージアの小さな村に住む48歳のエテロは、ブラックベリー摘みの最中、美しい声でさえずるブラッグバード(黒ツグミ)に吸い寄せられるように、崖から足を踏み外し転落してしまう。何とかひとりで崖から這い上がったエテロは臨死体験をした。それは、村人たちが自分の遺体を川から引き揚げるところを目撃する、というもの。自分の店に戻り手当てをしていると、いつものように配達員のムルマンが仕入れ品を持ってやって来た。商品を棚に並べるムルマンの首筋、腕、顔…その姿をじっと見つめるエテロ。彼女はそのまま人生で初めて男性と肉体関係を持つ。そして、その時を境に彼女の運命が変わり始める…! エテロのもとに訪れた、ささやかで大きな変化…彼女は果たしてどんな将来を選択するのだろうか?」 Twitterへは「ジョージアのど田舎住む鬼瓦みたいな顔をした、男経験なしの48歳独身女の話。110分なのに、それ以上に長く感じたのは、延々とドラマもなく退屈だから。終わってみれば一発ネタか。80分ぐらいでよかったな。」 エテロは店を経営してるんだけど、洗剤とか日用品が少しある程度の店で、あんなんで生計が成り立つのか? と思うような店。でも、近所の人は利用しているのか、なくてはならない店のようだ。日本の昔の萬屋みたいなもの? 店には卸商も来たりするけど、30個もってきた、とか言う程度で、そんなんでいいんかい、な感じ。はたまた、エテロ自身が電車で? 仕入れに行ったりもしてる見たい。このクルマ社会、ネット社会の中で、生き延びているのが不思議。という、話の前提が、なんだかなあ、な感じ。 タイトルにもなっているブラックベリーは、何に使っているのかよく分からん。自然になっているのを取って囓っている場面はある。大きなボールの中のヨーグルトみたいのに入れてかき混ぜている場面もある。でも、それを自家消費するのか、商品として並べるのか? は分からない。ブラックバードはツグミらしい。これも、ブラックベリーのなってる崖近くにいるらしいけど、とくに話に関係するわけじゃない。 でまあ、ブラックベリーとブラックバードに気をとられていたエテロが、足を踏み外して崖下に落ちる。けれど、途中で引っかかって、なんとか上まで登ってくる。上から下を見ると、死体のまわりを人が囲んでいる。その死体は、自分…! まあ、あれは↑のあらすじにあるような臨死体験じゃないだろう。もしかしたら死んでいたかもしれない、という妄想が見せた場面、だと思う。 父が死に、兄も亡くなって、48歳で処女のエテロ。ここで初めて死を意識した、ということかもしれない。なんでもエテロを生んですぐに母親は死んだらしい。その後、父親は、よくわからんのだけれど、男に係わらないような暮らしをエテロにさせていた、らしい。近所のバアサン達がそんなことを言っていた。とはいえ、エテロに取ってみれば、やり残したことがある。セックスだ。これだけはしておきたい。そう思うきっかけになったのが、転落事故だった、というわけだ。 で、配達員のムルマンに突然迫ってキスしてやっちゃう、ってあたりが、可愛いとも言えるけど、痛々しくもある。でも本人は、私はもう処女じゃない、って自信満々になるのが単純すぎ。ムルマンは孫もいて、家庭もあるけど、なぜか「俺もむかしからあんたを」って、以後夢中になっちゃうっていうのが、話としてはできすぎかな。 にしても、セックスシーンは露骨で、エテロは素っ裸で陰毛丸見えになるし、ムルマンのチンポは見えるし。でも、ぜんぜん色っぽくないのは、鬼瓦とジイさんだから、かね。なかなかのグロだ。エテロもこれで自信が生まれたのか、1人でいるとき「乳は垂れてないし、肌つやはいいし…」とは悦に入ってる場面があるんだけど、どーみても垂れてるし、腹も脇の下の肉も尻もたるんでるよ。 ところでムルマンはトルコへ運転手で出稼ぎに行ってしまう。久しぶりに戻ってきたムルマンは、「トルコで一緒に暮らそう」という(妊娠が分かる前だったかな、分かった跡だったかな。忘れた)んだけど、エテロにそのつもりは皆無、というのも面白い。あの田舎で人生を過ごしたい、のか。でも、エテロの店の近くにどっかの企業がスーパーの出店を計画中、っていってた。スーパーができたら、エテロの店なんて一瞬でつぶれると思うけどなあ。 ある日エテロはブラックベリーを摘みに行き、山で小便をしたらパンツに何やら黒いシミが。知り合いの、誰の娘だっけ。クスリをくれた、ちょい若めのオバチャンの子だっけか。に、シミのことをネットで調べてもらったら、閉経間近のそういう現象は子宮ガンの疑いあり、といわれて愕然。ここでふたたび、死の恐怖がエテロの近くにやってきた。というわけで、誰かのツテで首都トビリシの病院を沈鬱な表情で受診。超音波の結果、なんと「おめでとうございます。妊娠です」といわれて呆気。 いや、よく考えて見れば想定内の展開だけど、ミスリードに騙されてすっかり悪い結果を想像してしまっていたよ。妊娠とはね。うまく騙された。のは、観客の私だけど、エテロは、どっかの喫茶店で、泣き笑い。そりゃそうだよな。もう人生お終い、と思ってたのに、人生がこれから始まるんだから。 中盤のダラダラは退屈だったけど、ラスト5分の一発ネタで、目が覚めました。 とはいえ、成人するまで、どうやって稼いでいくつもりなんだろ。スーパーができたら店の経営は怪しいし、ムルマンもジジイだし。そもそも、頼らない、と断言しちゃってるし。という未来は気になるけど。 ・エテロの部屋。父親と兄の写真は分かるけど、もうひとつの額は、ありゃ誰の何だ? ・街に買い出しに行って、いつものケーキ、というワンパターンな生活が好きなのかもね。エテロさん。 ・エテロにはオバチャンの知り合いが3人いて、3人はトランプしたりケーキ食べたりしてるけど、でも、エテロは仲間に入らない。のはなんでなのかね。 ・あと、なんかよく分からん2人の中年女性がでてたな。役割がよくわからん。 ・エテロの設定は48歳だけど、役者のエカ・チャヴレイシュヴィリの実年齢は54歳らしい。だろうよ。 | ||||
はたらく細胞 | 1/8 | 109シネマズ木場シアター1 | 監督/武内英樹 | 脚本/徳永友一 |
公式HPのあらすじは「人間の体内の細胞、その数なんと37兆個。酸素を運ぶ赤血球、細菌と戦う白血球、そのほか無数の細胞たちが、あなたの健康と命を守るために日夜全力ではたらいているのだ。高校生・漆崎日胡うるしざきにこ(芦田愛菜)は、父親の茂しげる(阿部サダヲ)と二人暮らし。まじめな性格で健康的な生活習慣の日胡の体内の細胞たちは、いつも楽しくはたらいている。一方、不規則不摂生に日々を過ごす茂の体内では、ブラックな労働環境に疲れ果てた細胞たちがいつも文句を言っている。親子でも体の中はえらい違いだった。仲良し親子のにぎやかな日常。しかし、その体内への侵入を狙う病原体たちが動き始める…。漆崎親子の未来をかけた、細胞たちの「体内史上最大の戦い」が幕を開ける!?」 Twitterへは「クシャミ、脱糞、献血あたりは面白いんだけど、白血病細胞と血小板の対決はひっぱりすぎ。血小板とキラーT細胞、NK細胞の役割分担も「?」かな。にしても、かさぶたになった赤血球と血小板が速効で生き返るのはありなのか? 深キョン気がつかず。」 うわー。見終えてから20日も経っちゃって、もう記憶もおぼろだな。感想は、そこそこ面白かったけどツッコミどころもあって、さらに、最後の白血病細胞と血小板のバトルはムダに引っぱりすぎて、飽きる。な感じで、Twitterへの感想とほぼ同じか。 くしゃみをロケットに喩えるとか、下痢をイメージ化するとか、献血で巨大な注射針が刺さってくるとか、あのあたりは分かりやすくてとても面白い。むしろ、全編あの感じでいろんな症状について、あんな感じで面白おかしく説明してくれたらよかったのにな、と思ったりするぐらいだ。 で、血小板を主役にして、胎内に入ってきたばい菌たちとバトルが繰り広げられるんだけど、相手の強弱がよく分からんところがある。説明がささっと終わってしまって、説明が足りないのかも。さらに、体内の免疫たちについても、血小板があり、キラーT細胞があり、マクロファージやNK細胞(仲里依紗と気がつかず)がある、らしい。血小板はともかく、キラーT細胞についてはむかし『免疫の意味論』で名前を覚えたけど、マクロファージとNK細胞についてはイメージがなかった。しらべたら、NK細胞はナチュラルキラー細胞か。なら聞いたことはあるな。にしても、それらがどのぐらい強いのか、とか。それぞれの敵は別なのか同じなのか。とか。NK細胞は単独行動のようだけど、他の免疫連中とは連携はしてないのか? など、疑問が湧いてきてしまう。戯画化で分かりやすくなっているけど、結構、すっとばしてるところ、あるだろ。なので、ちょっとイラついた。 そういえば、怪我して血小板と赤血球がかさぶたになるところでは、主人公がそのままかさぶたになっちゃうんだけど、しばらくしたらフツーにまた白血球として活躍していたり。白血球の個人として活躍しているのか、他の白血球がクローン的に再登場しているのか、よく分からんところもあったりする。ちゃんとせい! という、体内の戯画化と同時に進行するのが、この身体を持つ少女の話で。最初は怪我したり風邪ひいたりだったのが、ある日、白血病に。そして、骨髄移植の必要が…。にともなって戯画化の方も、体内から血液が吸い出され、荒んだ荒野のなかを白血球や赤血球がとぼとぼ歩いてたりする。ってことは、すべての既存の血液が取り除かれるのではなく、いくらかは残ってしまうのか? それでいいのか? という疑問が湧いてくるんだが、そのあたりはお構いなしな感じ。うーむ。 まあ、骨髄移植は成功して、少女は元気になって、新たな、移植された血液が働き出す、で終わるんだっけかな。でも、またここに、主人公だった白血球(永野芽郁)がでてくるのは、どうなんだ? と、突っ込みたくなるね。 ・肺炎球菌とか化膿レンサ球菌とか黄色ブドウ球菌とか、色が違うだけで似た格好してるので区別がつかん。それに、それぞれが身体にどういう悪さをするのか、もよく分かんないし。で、これらが跋扈するのは、少女の体内なのか? 別の人の体内なのか? もよく分からない。さらに、メイクがケバくて、誰が演じてるのかさっぱり分からんのはどうなんだ? 深田恭子は幹細胞だったらしいけど、まったく気がつかなかったしなあ。 というわけで、そこそこ楽しめたけど、細部でいまいちスッキリしないのであった。 | ||||
死刑台のエレベーター | 1/9 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ルイ・マル | 脚本/ロジェ・ニミエ、ルイ・マル |
原題は“Ascenseur pour lechafaud”。公式Wikipediaのあらすじは「ジュリアン・タヴェルニエはフロランス・カララの夫が社長を務める会社の社員で、フロランスと恋人関係にあった。ジュリアンは、フロランスの夫を自殺に見せかけて殺す。一旦は会社を出た彼だが、証拠隠滅のため再び会社に戻る。ところが運悪く、ジュリアンはエレベーターに閉じこめられてしまう。約束の時間を過ぎても来ないジュリアンを心配し、夜のパリをさまようフロランス。ジュリアンに憧れる花屋、その恋人にも焦点を当てながら、物語は思わぬ方向に進んでいく。」 Twitterへは「話は分かりやすい。けどツッコミどころはたくさん。下から見られてるだろ! エレベーター内の緊張感いまいち。チンピラと彼女バカすぎ。あの写真は誰が撮った? アルジェ、インドシナ、ドイツ占領、軍産とか世相が分かりにくい。」 むかし(20年ぐらい前か?)テレビで見て以来。そのときは、ジャンヌ・モローについてとくに注目せず。エレベーターに閉じ込められる、ということしか記憶にない。にしても、名作として名高い映画だけど、いまみるとつくりが杜撰で穴が見えすぎる。 ・衆人環視のビルの外壁を登るかね。背後に人やクルマが見えてるぞ。 ・ロープは上階ベランダに登った時点で回収だろ。アルジェに従軍した落下傘部隊の元将校が、アホすぎ。 ・気づいて戻るも、どうやって外すつもりだったのか。長い棒でもなきゃムリだろ。 ・閉じ込められたエレベーター内で煙草吸いまくり。って、証拠残し放題だろ。 ・エレベーターの床を外してカゴの外に出て、脱出できる算段はあったのか? ないだろ。 ・スパイカメラに、仲睦まじい不倫の2人の写真がたくさん。アホか。はいいんだが、あれは誰が撮ったんだ? セルフタイマー? いかにもな写真過ぎて、萎えた。 とまあ、犯罪者としての実行力はマヌケとしか言いようがないね。 それにしても、休日になると管理人がエレベーターの電源を切ってでていってしまうのか? それは当時のビルの常識? 変なの。でも、後から別の男がビルに入ってエレベーターを動かしてたけど、ありゃどういうことなんだ? よく分からん。 そして分からないのが、そもそもの発端。社員のジュリアンが社長夫人と恋仲というのは、単なる不倫なのか? というのも、会社は軍産に関連してる風で、ジュリアンはクルマに拳銃を隠していて、スパイカメラをもっている。もしかして戦争の悲惨さに対する義憤から社長殺害を企んだ? そのために社長夫人と懇ろになった? とも思えたからなんだよね。 ジュリアンがロープに気づいてクルマをほったらかし、上階に行こうとした、のもアホ。鍵を挿したままで、拳銃もダッシュボードに放り込んだまま。杜撰すぎだろ。ここで話は、花屋の娘と無軌道なチンピラ彼氏がクルマをちょっと借りる、から、悪の逃避行へと進んでいく。花屋の娘はまともかと思ったらさにあらずで。チンピラと一緒に乗っていき、ドイツ車? とスピード比べしてドイツ人夫妻と仲良くなって同じモーテルに宿泊。そういえばこのとき、チンピラ車がドイツ車のオカマ掘ってるのに、ドイツ人亭主がおおらかに「初めての事故だ、めでたい」とかいってチンピラ2人を自室に招いて酒飲むの、よく分からん。でも最初はチンピラ君、「ドイツ占領とかインドシナのことがあるから」とドイツ亭主の勧めに抵抗を示していたのは、どういうことなのか。1958年頃の政治情勢が分からんのでピンとこなかった。それに、戦後13年なのにドイツ人がフランス国内を大手を振って遊んでいる? あるいは事業をしている、のも、そんな感じだったのか、と。このあたり、深く知りたいところだ。 にしても花屋の娘がジュリアンのスパイカメラでチンピラ君とドイツ人夫婦を撮りはじめるのは、アホか、な感じ。これまた証拠になるだろ、と思っていたら、ラストでそうなったんだが。これまた、翌朝には現像プリントあがりのサービスがモーテルにあるという都合の良さで。はさておいて、些細な行き違いでチンピラ君が簡単にドイツ人夫妻を射殺し、ドイツ人夫妻のクルマで逃げる、のもアホか、な感じ。すぐ足が付くだろ。まあ、この当時の無軌道な青年は世界共通で、すぐに暴力に走る、ということか。そういえば日本でもチンピラ青年の犯罪映画はよくつくられてたからな、50年代に。 行方知らずのジュリアンを追い求め、夜のパリを彷徨う社長夫人も、無防備だよな。あっちこっちの店に不倫の証拠が残ってる、のを見せていくのだから。まあ、気怠い感じで、まだ渋くなりすぎていないジャンヌ・モローはなかなかエロ可愛かったけど。 で、警察は、モーテルの事件でチンピラ君が名乗ったジュリアンの名前から、ジュリアンを手配。翌日の新聞にはジュリアンの写真が“犯人”として載っているという手早さで。朝になってエレベーターが動き出し、やっと自由になったジュリアンは馴染みのカフェに行くんだが、店のスタッフが速攻で警察に連絡。さっそくパトカーがやってきて、逮捕。同時に、会社のスタッフが社長室を覗くと、鍵は閉まっているけれど、社長が死んでいる。ジュリアンの目論見としては、中から鍵を閉めて自殺、ということなんだが。警察に昨夜のアリバイを聞かれて、口ごもるジュリアン。 まあ、最後は、DPE屋がドイツ人夫妻とチンピラ青年が一緒にいる写真をみて、警察に連絡。花屋の娘の家で、2人は逮捕される。写真のおかげでドイツ人殺しの嫌疑は晴れたけれど、プリントされた写真に、ジュリアンと社長夫人の仲睦まじい写真がたくさんあって、こちらも万事休す、という終わり方。 けど、ジュリアンが社長を殺害した、という直接の証拠はないんだよな。最後は、あの、上階に登るのに使われたロープが出てくるのかと思ったら、こなかった。なんだよ。 警察が社長婦人に言うには、チンピラは死刑間違いなし、ジュリアンは5年〜10年の禁固、だったかな。奥さんも訴追を受けますよ、とも言われていたかな。いまでいう共謀罪か。チンピラの死刑は2人殺したから? でも、ジュリアンの謀殺は、軽すぎるんじゃないのかな。で、社長夫人は、ジュリアンと再会までの時間を思って、呆然とするんだけど。当たり前だろ、な感じ。 お客は2人だけ。 | ||||
I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ | 1/16 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/チャンドラー・レヴァック | 脚本/リンジー・ブレア・ゴールドナー |
原題は“I Like Movies”。公式HPのあらすじは「カナダの田舎町で暮らすローレンスは映画が生きがいの高校生。社交性がなく周囲の人々とうまく付き合えない彼の願いは、ニューヨーク大学でトッド・ソロンズから映画を学ぶこと。唯一の友達マットと毎日つるみながらも、大学で生活を一新することを夢見ている。ローレンスは高額な学費を貯めるため、地元のビデオ店「Sequels」でアルバイトを始め、そこで、かつて女優を目指していた店長アラナなどさまざまな人と出会い、不思議な友情を育む。しかし、ローレンスは自分の将来に対する不安から、大事な人を決定的に傷つけてしまい」 Twitterへは「ADHD or パーソナリティ障害気味な映画オタク男子高校生の身勝手な思い込み独り相撲の99分間。多少の成長物語はあるけど、もの悲しく終わる。あんなでもカナダの平均的な大学には奨学金付きで合格するのね。」 ニューヨーク大学に入って監督になるんだ! な熱狂的な映画オタクが、結局は夢破れ、カナダのフツーの大学に入って、少しずつコミュ障を克服していくのかな、な感じで終わる話。誰もがスピルバーグじゃないよ、と。 設定は2003年? 映画オタクの2人の高校生ローレンスとマット。授業の課題で、学校の想い出、のビデオのパイロット版をつくれ、と言われたのかな。でも、ローレンスは、2人が登場するわけわからん映像をつくり、教師を失望させる。ちゃんとやらないなら、クラスの女子ローレンに監督をやらせるぞ、とも。でもマットと「サタデーナイトライブ」を見て、モノマネして喜んでる2人には、耳に入らない。 ローレンスは、尊敬する監督が教えている(だったか)なニューヨーク大学の映画学科しか頭にない。母親は「カナダの大学も」というけど、ムキになって怒りだす。母親は「学費が9万ドルなんて出せないわ」といっても聞く耳がない。現実的な対応ができない、想像力がない、ってのはADHDか。ではってんで、レンタルビデオ屋でバイトするんだけど、面接するアラナが大目に見てくれたのか、採用。でも、客にオタクな映画を薦めたり、店員が勧める棚をつくってカルトな映画を並べたり。客にセールスしろと言われても「できない」とか、殿様気分なんだよな。現実認識ができない。パーソナリティ障害だろうな。 学校の思い出の構成もほったらかしで、そっちは仲好しだったマットと、同級生の女子高生ローレンが担当することに。でも、そんなのバカらしくてやってられねえよ。なんたって俺はニューヨーク大学に入るんだから、しか考えてないローレンスは意に介さず。母親が応募したのか、地元のカールトン大学から奨学金付きの合格通知が来ても、「行かねえよ、そんなとこ」な態度。なのに、ローレンがカナダの大学の映画学科に合格が決まった、と聞くと落ち込み激しくバイトに大幅遅刻で、母親に連れて行かれてもトイレに閉じこもって過呼吸状態になっちまう。もうこの時点でマットとの仲も悪くなり、一緒に『サタデー・ナイト・ライブ』の過去ビデオ見てはしゃぐこともなってしまう…。 代わりに見つけたのがバイト先の年上女のアラナで。映画が嫌い、といいつつレンタルビデオ屋で働いているののを追及すると、意外な過去が分かってくる。なんと、同級生が自殺して、映画の道を諦めた、と。実はローレンスの父親も4年前に自殺していて、これで心が通じ合って…。と思っていたら、アラナの友人が自殺はウソで、本当はむかし女優志願でちょい役にでたけど、あるとき関係者にセクハラされて…。映画の世界なんて汚い、と見方が変わったんだ、と告白する。と言われても、ローレンスは、有名監督に会えたかとか、映画の世界にいたなんて! と、あまりピンときてない感じで。やっぱズレてるよな、ローレンスって。 バイト代が支払われて、必要経費が引かれていることに怒りまくったり。家に帰れずビデオ屋で寝て、でも、朝でるときセキュリティコードを設定せずドアを開けっぱなしで帰って泥棒に入られ、5000ドル相当の被害にあっても、「でも、僕は店員のお奨めコーナーをつくって売上に貢献したよ」とか、反省の色がなかったり。なんで、店長は叱責程度にしようとしてたけど、アラナが「首にして!」ということで放り出されてしまう。「ニューヨーク大学の学費を稼がなくちゃならないんだ、僕は!」って、9万ドルのうちのどれだけ足しになるか、理解できていない。 で、家に帰ってみると、ニューヨーク大学からの不合格通知で、これで人生お終い、みたいに泣きじゃくる。大学に入れば監督になれる、入れなければなれない、というような単純な思考回路も、パーソナリティ障害かね。自分で切り拓く、という考えがないのは、スピルバーグなんかと大違いだ。このあたり、制度の枠の中でしか考えが働かない感じ。結局は意欲も想像力もなくて、なにかに頼り切ってる感じ。肩書きが欲しいのか、と思ってしまう。性格というより、障害だろうな。 最後はあきらめて、カールトン大学に入る。寮の部屋でゴロゴロしてると別室の女子が、広いという噂のローレンスの部屋を見にきて、ゴロゴロしてる彼を引っ張り出して、他の友達のところに連れて行ってくれる。と、なんと、ここでローレンスの方から3人の同級生にあれこれ質問したりして、フツーの大学生みたいになっている。ある意味では成長。ある意味では妥協を知った。のか。 信じていても現実にはならないよ、という気の毒で冷たい結末。まあ、しょうがないな、あんな性格というか人間じゃ。と、思ってしまうけれど、これからフツーの人として地味に生きていくのかな。なんか、可哀想だな、とは思ってしまう。でも、大半の人間は、理想通りに人生いってないんだから、ね。 ・ローレンスが免許を取らないのは、どういう理由があるんだろう? ・アラナは、映画『マグノリアの花』が好きらしい。大学の寮の壁にその映画のポスターを貼ってたけど、アラナへの共感の証しなのか? ・マットに「なんで俺たちつき合わなくなったんだ?」ってマットに聞く場面があったな。マットは何て答えたんだっけかな。忘れた。 | ||||
アーサーズ・ウイスキー | 1/20 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/スティーヴン・クックソン | 脚本/Julia Stuart、スティーヴン・クックソン、アレクシス・ゼガーマン |
原題は“Arthur's Whisky”。公式HPのあらすじは「発明家だった夫を亡くしたジョーン(パトリシア・ホッジ)は、親友のリンダ(ダイアン・キートン)、スーザン(ルル)と一緒に夫の作業場を片付けていると、秘密のウイスキーを発見する。3人でウイスキーを飲んで目覚めると、なんと身体が突然20代に若返っていた!彼女たちは昔を思い出し、若者たちが集まるナイトクラブに繰り出すものの、中身は70代のまま。ハメを外しすぎてしまい、数時間後には元の姿に戻ってしまう。ウイスキーが残っているうちに、もう一度若返って願望を叶えようと決めた彼女たちは、人生最後の冒険としてラスベガス旅行を計画!ラスベガスで様々な体験を通じて、見た目の若さよりも「ありのままの自分」でいることの大切さに気づいていくが、ある日予想外の事件が発生し…。」 Twitterへは「ウィスキーで20代に若返った3婆が、過去を清算しつつ前向きに生きていくバカコメ。笑いつつも刺さるところが結構あって、じわりくる。IMDbで★4.4ってのが、なんで? な感じ。」 ダイアン・キートン、パトリシア・ホッジ、ルル、3婆を演じて、陽気で楽しく、暗い出来事もあるけど軽く吹っ飛ばして前向きに終わるコメディだ。だらだらムダな背景描写や息抜きカットもなくて、テンポがいいから飽きずに見られる。 大御所のダイアン・キートンはともかく、ルルがでてるのが「え?」な感じ。だって『いつも心に太陽を』しか知らないし、そっから何してたの? な人だよね。でも、登場したルルは手練れに可愛いお婆ちゃんを演じていて、なかなかキュート。なんで重用されなかったのかね、と思ってしまう。3人のなかではいちばん出番の多いパトリシア・ホッジは、よく知らない人。派手な映画には出ないけど、地味な実力者みたいだな。 パトリシア・ホッジ演ずるジョーンの亭主が、なぜか(こういうの、とくに理由なく進めるのはとてもいい)若返り効果のあるウィスキーを発明したんだけど、落雷に遭って死んでしまう。っていう雑さがなかなかいい。こういうのにこだわってると先に進まないんから。で、葬式(の場面の牧師だか神父だかの言葉のテキトーさに笑ってしまう)も済ませ、仲好し3婆が亭主の研究小屋を漁って見つけたのが得体の知れないウィスキー。を飲んだら翌朝、3人ともピチピチのギャルになってる! そのまま婆さん服で出かけてギャップを思い知らされる。 まあ、よくある設定だけど、若返り効果は限定的で、時間がたつと婆に戻ってしまう。けど、飲んだらなくなってしまう、なんてこと気にせず、あれしたいこれしたい、でグビグビやって青春満喫しちゃう勢いも痛快だ。 なわけで流行のファッションをまとい、3人でクラブに行って、ダイアン・キートンのリンダは飲み過ぎてゲロ。ルルのスーザンは青年と寝込んで、朝になって「なんだよこのババア!」と驚かれたり。という定番のギャグを散らばせて安心の展開。というなかで、過去の清算がじわっと入ってくるのが、いい。 ジョーンはかつての同性愛の相手の面影を追う。息子(これが仕事もせずダラダラなバカ息子だけど、実は真面目。らしいけど、これも深く掘らないところがいい)はそれを知り、存在を突き止める。けれど、ガンが再発し…。 リンダは、自分を振った元亭主のところに娘の姿で行って、元亭主とその連れ合いを罵倒して溜飲を下げる。 スーザンは、結婚もせず、たいした恋もしなかったらしいんだけど、キッチンカーの親父にアプローチし、新しい恋をスタートさせる。もちろん娘の姿でだけど。 このあたりの、それぞれの人生、過去が上手くからみ合いつつ話ががんがん進んでいくのが小気味よく、しみじみと訴えてくる。 余命を知ったリンダは治療や手術は受けないことにして株を売り払って貯金も下ろし、いざラスベガスへ。の、彼女の目的がいまいちわからんけど、最後はパーっとやりたかったのか。もう男漁りじゃないよな。ウィスキーは飲み尽くし(という潔さがいいね。残さず楽しんでしまうというところ)、でも、最後の1本が見つかった、というところだったはずだし。ところで、ラスベガスに行くときめたときの何かの会はなんだったの? 別の会員が、会員資格剥奪だ! は、とか言ってたけど。 思いつきで行ったラスベガス。ショーの席はない。けど、ジョーンがバーで出会った男性がバーのオーナーで仲良くなって…。という、ぜーんぜん脈絡のない出会いと、後に席を手配してくれてたラッキーとか、のご都合主義なんて気にならない。 スーザンは、キッチンカーの彼氏とテレビ電話で「顔が見たい」と言われて、最後の1本から、グビリ。のあとだっけ、ラッキーにもショーの席が例のバーの男から手配されてて、豪華ショーに3人で。の直前のバックステージ? で、巨漢の女性が登場するんだけど、これがボーイ・ジョージ? すごいな、この変容、と思っていたらちがっていて。彼女は司会らしく、登場したボーイ・ジョージはひげ面だけど面影が。で、3婆がコーラスグループとして舞台に呼ばれ、「カーマは気まぐれ」を全員で歌う場面はなかなか。やっぱ、ボーイ・ジョージを同時代的に体験してるからなあ。でも翌朝、リンダが部屋から出てこない。と思ったら、亡くなっていた…。という、思い入れとかしっとり感のない展開もいいと思う。こんなんでダラダラやられても感情移入はできない。 ジョーンは、息子が探し当ててくれたかつての恋人=いまは頭を打って病床、でも認知症はない、に会いに行く。若い娘姿で。はじめは戸惑う元恋人。でも、じわりと記憶が戻って…。次第に紙に白髪が交じるジョーン。別れるときには、ババア顔に。という流れがなかなかいい。 スーザンは、ジョーンに押されてキッチンカーのオッサンに会いに行く。顔はババアでも、会話で「もしかして…」と気づくおっさん。まあ、現実的に2人がつき合う可能性があるのかどうか分からんけど、仲のいい友人になって、オッサンの6歳の息子のいいお婆ちゃん役を務めてくれるのでは? で、スーザンとジョーンは、パラシュート降下しながらリンダの灰を捲く。見守るジョーンの息子(母親に「彼女ができたよ。タトゥー彫りなんだ」に、「私はバイセクシャルよ」と軽く堂々と返すジョーンがいい)、キッチンカーのオッサン。 ・亭主を無くしたジョーンに、周囲が「ボランティアすれば? 数独もいいわよ?」とか言ってた。ボケ防止に数独が流行ってるのか? ・娘姿でカフェに行くと、昆布茶ラテだかなんだか勧められたり、日本のお茶がトレンドなのか? ・登場する建物がいい。レンガの豪華なジョーンの自宅。手入れが大変そうだけど。あと、清楚な教会も。 ・服をリサイクルに持っていくジョーン。担当者が、なにこれ、な顔。入れてったボストンバッグも「いまはキャスター付きじゃないと」といわれてた。このボストンバッグでラスベガスにも行ってたな、彼女。 ・エンドロールの映像も、ボーイジョージに3婆と娘役の3人も加わって『カーマは気まぐれ』で楽しい。 | ||||
敵 | 1/21 | テアトル新宿 | 監督/吉田大八 | 脚本/吉田大八 |
公式HPのあらすじは「渡辺儀助、77歳。大学を辞して10年、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授。20年前に妻・信子に先立たれ、都内の山の手にある実家の古民家で一人慎ましく暮らしている。講演や執筆で僅かな収入を得ながら、預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。収入に見合わない長生きをするよりも、終わりを知ることで、生活にハリが出ると考えている。毎日の料理を自分でつくり、晩酌を楽しむ。朝起きる時間、食事の内容、食材の買い出し、使う食器、お金の使い方、書斎に並ぶ書籍、文房具一つに至るまでこだわり、丹念に扱う。麺類を好み、そばを好んで食す。たまに辛い冷麺を作り、お腹を壊して病院で辛く恥ずかしい思いもする。食後には豆を挽いて珈琲を飲む。食間に飲むことは稀である。使い切ることもできない量の贈答品の石鹸をトランクに溜め込み、物置に放置している。親族や友人たちとは疎遠になったが、元教え子の椛島は儀助の家に来て傷んだ箇所の修理なども手伝ってくれるし、時に同じく元教え子の鷹司靖子を招いてディナーを振る舞う。後輩が教えてくれたバー「夜間飛行」でデザイナーの湯島と酒を飲む。そこで出会ったフランス文学を専攻する大学生・菅井歩美に会うためでもある。できるだけ健康でいるために食生活にこだわりを持ち、異性の前では傷つくことのないようになるだけ格好つけて振る舞い、密かな欲望を抱きつつも自制し、亡き妻を想い、人に迷惑をかけずに死ぬことへの考えを巡らせる。 遺言書も書いてある。もうやり残したことはない。だがそんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。いつしかひとり言が増えた儀助の徹底した丁寧な暮らしにヒビが入り、意識が白濁し始める。やがて夢の中にも妻が頻繁に登場するようになり、日々の暮らしが夢なのか現実なのか分からなくなってくる。「敵」とは何なのか。逃げるべきなのか。逃げることはできるのか。自問しつつ、次第に儀助が誘われていく先にあったものは」 Twitterへは「80前の元教授。規則的で変わらない日常。いつ敵がやってくるのか。前半はザワザワした感じで、なかなかの緊張感。なれど後半、一気につまらなくなる。なんだ。すべてはボケ老人の妄想か。現実多め→まだら→妄想多め、で進む夏秋冬。敵は己の中にあり、か。」「しかし、前半はグルメ番組みたいで、空きっ腹に効いた。」 筒井康隆の原作は、読んでるかどうか記憶にない。予告編は、見てしまった。なので、平穏な日常に、突然「敵」が現れ、老人が乱れる、な大まかな筋は分かっていた。なので、早々に「敵」が侵入し、何か悪さをするのだろう、と身構えて見てしまった、ようだ。だから、冒頭から30分ぐらいの、淡々とした毎日、集金人や配達人の来訪、ときどきかかる電話にも、何か裏があるのかな、とザワザワしつつ見ていたんだけど、とくに何ごとも起こらず。松尾貴史の演じるデザイナーとの喫茶店の会話とか、グルメ雑誌の編集者鷹司靖子が来訪しても、まあ、元教授といえどその程度の社会性はあるだろうから、と、気配を読みつつ見ていた。 むしろそんなことより、儀助の焼く鮭、デザイナーがくれたハムでつくるハムエッグ、薬味たっぷりの日本そば、韓国店で買ってきたキムチを入れた冷めん、中盤では鷹司靖子をもてなすためのローストビーフ? とか、のメイキングが食をそそるので困ってしまうぐらい。グルメ映画かよ、と。 いつになっても、なにも起こらない。せいぜい鷹司靖子が酔い潰れて寝てしまい、でも、ちゃんと終電で帰っていったことぐらい。あとは、教え子の井戸掘り教え子が、知らない男が玄関に立っていた、と言ったことぐらいか。 あとは、儀助が、行きつけのバーで出会ったマスターの姪が立教の仏文で、バイトに来ている、という話。姪っ子が、教授の手料理食べてみたい、なんていうもんだからその気になって。2度3度かよって、でも、彼女の父親の家業が倒産しただかで学費が払えず、と頼まれ300万円貸したら、直後にそのバーが閉店になってしまい、貸した金も返ってこなくなった、らしいこと。これについては、儀助は、まあいいやしょうがない、と思っている様子。 このあたりまでは、まだ現実に見える部分が多いんだけど、次第に現実離れしてくる。 酔った鷹司靖子が儀助を誘ってまぐわう、という場面。はっ、と気づくと儀助はひとりでソファにうつ伏せで、どうやら夢精かこすりつけて射精した様子。鷹司靖子の姿はない。どういう77歳だよ。元気だな。とか。懐かしがってなのか。亡き妻のコートを出してトルソーに掛けていると、亡き妻が現れたり。旅行雑誌の鷹司靖子の上司と部下がやってきて、連載中止を宣言したり(これは、事実としてありそうな気もするが…)。鷹司靖子と2人で鍋、というところに亡き妻や旅行雑誌の部下がやってきて、さんざん飲み食いした揚げ句、鷹司靖子が土鍋で部下を殴り殺し、遺体を井戸に投げ込むとか。しかも、このとき井戸掘り教え子が手伝うとか。「敵が来る」というメールが頻繁に届いたり。自分宛に「敵」という文面でメールしたらモニタが暗転し、文字化けとともに悪質なデマらしいメッセージが画面に現れたり。その後か先か忘れたけど、希死念慮に囚われベッドで首つりをしようとしたり。妻とふたりで湯船に浸かっていたり。どんどん妄想も激しくなって、こりゃ欝なのか、痴呆なのか、とにかく妄想に支配されてるだろ、と思えるような話になる。ので、正直言って、つまらなくなってしまう。 最初は、現実の世界に足を置いていた元教授にがいて、次第に認知症の症状が侵入し、現実と妄想がまだらになってきて、ついには妄想に支配されるようになった、という話かと思ったんだよね。でも、もしかして、すべてが認知の歪みによる妄想なのかも、と思うようになった。 連載も、妄想。バーも、妄想。井戸も、妄想。デザイナーも、妄想。それが連載中止もバーの詐欺も、井戸が出ないことや、デザイナーの奇病も妄想。次第に周囲が敵意に満ち始める、は、妄想が過激になっている。挙句は「敵」を示唆するメールで、ああ、俺は敵に囲まれてる! という被害妄想が高まった、と。 元妻の言葉が正しければ、フツーより早く教授職を追われた、のであれば、60前に大学を辞めた可能性がある。もしかしたらセクハラかなんかで。そのときの相手をもとに創り上げたのが鷹司靖子の存在、という可能性もあるかも。あるいは、バーの姪っ子も、教え子に手を出しそうになった、という記憶がつくり出した話かもしれない。もちろん、認知症の元教授を狙った詐欺、の可能性もあるかもだけれど、300万円程度であんな大がかりな罠をはるかね、とも思う。 他にも、井戸掘り教え子も、妄想。自分は教え子に好かれていた、はずだという思い込みが生み出したのかもしれない。玄関に見た男の影も、妄想が見たもの、と思えば怪しくなくなるし。 そもそも、大学を離職したのは10年前。なのに鷹司靖子を教えた過去はあるのか? 鷹司靖子は40には見えないし。演じる瀧内公美は1989年生まれだから実年齢35、6歳だろ。現実的な存在には思えないよな。 20年前に妻を亡くしている。なのに妄想妻が「大学を早く辞めなくちゃいけなくなって落ち込んでた」とかなんとか言ってるのも、そんなことを妻が知ってるはずないので、整合性がない。しかも、「鷹司靖子でオナニーしてたんでしょ!」と罵倒されるのも、合わないよな。 夏から始まり、秋、冬。そして、春には儀助は亡くなったようだ。にしても、家族はいない、と言っていた儀助の遺言書を読み上げる場に、知り合いらしいのが何人もいるというのは、なんなんだ? 認知症の資産家を狙った詐欺集団のメンバーなのか? 儀助の最初の遺書では、家財は井戸掘り教え子に。書籍は鷹司靖子に。と、書いていたのに、後半で書き直した遺書では、家を他人だか甥だかなんだか忘れたけど、な男に譲る、な内容になっていた。で、儀助が亡くなった後、司法書士かなんかが遺書を読み上げるんだけど、このとき家の中を見てまわる男がいて。かれが、その譲られた男なのか。その彼が物置で見つけた双眼鏡で家の二階を見ると、儀助らしい影を見て、思わず双眼鏡を落とす、ところで映画は終わる。もしかして、この男は実在の人物で、認知症になった儀助をそそのかし、遺書の書き換えをさせた詐欺男、という可能性はあるかもね。とはいえ、これすらも、実はちゃんと血のつながった係累がいて、その存在を忘れていた、という可能性はあるだろうけど。 いろいろと、妄想か現実か、曖昧にするようなシナリオと演出がされているんだろう、と思う。 ・犬の糞に怒る近所のジジイと、糞を放置したと疑われる犬の散歩をさせる女のエピソードは、よく分からない。 ・お歳暮でもらう大量の石鹸のエピソード、むなにかのメタファーになってるのか? よく分からんけど。 | ||||
満ち足りた家族 | 1/22 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/ホ・ジノ | 脚本/パク・ウンギョ、パク・ジュンソク |
韓国映画。英題は“A Normal Family”。公式HPのあらすじは「兄ジェワン(ソル・ギョング)は、道徳よりも物質的な利益を優先して生きてきた弁護士だ。仕事のためなら、殺人犯の弁護でさえも厭わない。年下の2人目の妻ジス(クローディア・キム)や10代の娘らと共に豪華マンションに住み、家事は家政婦がこなす誰もがうらやむ暮らしだ。一方、小児科医として働くジェギュ(チャン・ドンゴン)は、どんな時にも道徳的で良心的であることを信念に生きてきた。年長の妻ヨンギョン(キム・ヒエ)と10代の息子と共に住む彼は、老いて認知症気味になった母の介護にも献身的に当たり、品行方正な日々を送る。まったく相容れない信念に基づいて生きてきた兄弟。しかし2人は、それぞれの妻を伴って月に1回、高級レストランの個室に集い、ディナーを共にする。レストランではお得意様であるジェワン夫妻が常に優先され、兄弟家族同士の会話はどこかぎこちない。ディナーが行われた夜、時を同じくある事件が起こり、満ち足りた日々を送る家族が想像だにしなかった衝撃の結末を招き寄せる」 Twitterへは「我が子可愛さに正義を放棄する親たち。なんか、韓国の身内第一主義とか貧乏人蔑視に対する批判もあるのかな。まあ、日本にも青少年によるホームレス狩りはあったけど、匿いはしなかったろ。にしても、青少年壊れてるな。」 冒頭。煽り運転で威嚇された男(野球選手?)が、煽ったクルマのフロントガラスをバットで割る。それに怒った煽り男が、相手を跳ね飛ばし殺す。相手の車内にいた幼い娘も大怪我に…。という前置きのようなエピソードがあって。兄弟の2家族の話になっていく。 兄ジェワンは弁護士で、くだんの煽り男の弁護を担当する。煽り男は地位のある人の息子? 弟ジェギュは医者で、くだんの娘の手術を担当する。それを知った兄は、弟に、娘の母親が示談に応じるよう調整しろ、と要求する。弟は、それでいいのか兄貴は、と反論する。 兄には思春期の娘と、若い後妻、生まれたばかりの息子がいる。弟には、年上っぽい妻と思春期の息子がいて、こちらが母親と同居している。従弟同士は仲がいいらしく、わりとつるんでる。ある夜、浮浪者が青少年に蹴り殺されるという事件が発生。ニュースに写る防犯カメラの衣服から、従兄弟の2人が係わっているらしいと分かる。兄は「確定できない」といい、弟は「子供のためによくない」と息子を自首させようとする。がしかし、息子を警察の前まで連れて行った弟は、結局、連れ帰ってしまう。弟妻は「子供を守るのが親の努め。警察なんてもってのほか」という息子大事な立場で、夫の行動を非難する。兄の若い妻は、マイペースでほとんどなにも言わない。 この時点では、弁護士という視点と立場で、正義よりも合理的に、冷酷非情にものごとを進めようとする兄。とはいえ、ホームレスの母親の家にそっと金を投げ込む姿も映されていたので、申し訳なさは感じているんだろうが…(でも、あんなことをして、誰がこの金を? って、怪しまれるだろうに)。いっぽう、正義感に燃えて悪を許さないという弟。という立場がはっきりしていて、ずる賢い兄に比べて弟は立派だなと思わせる。とはいえ、弟は息子に説諭して、反省しろ、と迫る。すると息子は泣いて分かった、というので、警察には連れて行かないことにした、な流れになる。なんだ、正義感も中途半端だな。な感じの構図になる。 のだけれど。あるときから話が一変する。 兄の家に弟息子が遊びに来ていて。兄嫁は、赤ん坊のために監視カメラを設置していた。たまたま従兄弟2人が赤ん坊をみていて、そのときの会話が録音されていた。それによると兄娘が「韓国の平均寿命は80余。ホームレスは50余。平均寿命だからいいじゃん」といって笑っている。弟息子も、「親父に反省してるっていったら父信じた。もっと蹴っておけばよかった」と、2人で笑い合っている。これを聞いた兄は、「このまま成長して大人になっていいのか? 反省の機会を与えないと」と、自首させようと決意したと弟夫妻に言うと、今度は弟夫妻とも激昂。弟嫁は「息子には未来がある。できるわけないでしょ」と怒りだす。 なんだよ、この考え方と立場の180度転換は。 で、会食を終えて帰ろうとする兄を、弟が撥ね殺すというラスト。まあ、これには伏線があって。冒頭の煽り野郎の事件で、相手を撥ねた煽り男の弁護をする兄が、煽られた方の立場を擁護しようとする弟に対して「轢かれたときは路上にいたかどうかも重要に判断要素」といって、弁護士的な立場で威嚇したのを受けた行動ということになる。 話としては、正義のあり方がどうあるべきか、子供可愛さが行きすぎてるだろ、な親の話ではあるけれど。従弟同士の娘と息子の感情のなさが、怖ろしすぎるだろ。こんな子供が何で育ったんだ? 振り返ればこれは韓国映画。韓国といえば、政治でも経済でも同族大事で悪事を隠蔽したり、はたまた逆転して一蓮托生で一族が逮捕されたりの国家だ。そういう状況を“家族”に置きかえて、悪い奴ほど高笑い、な現実批判をしたのかな、とも思ってしまうのだが。 | ||||
アンデッド/愛しき者の不在 | 1/22 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/テア・ヴィステンダール | 脚本/テア・ヴィステンダール、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト |
ノルウェー/スウェーデン/ギリシャ映画。原題は“Handtering av udode”。公式HPのあらすじは「現代のオスロ。息子を亡くしたばかりのアナとその父マーラーは悲しみに暮れていた。墓地で微かな音を聞いたマーラーは墓を掘り起こし、埋められていた孫の身体を家に連れて帰る。一方、別の場所でも不思議な現象が起きていた。交通事故に遭った女性が奇跡的に蘇生したり、教会で葬儀を終えたはずの死者が家に戻ってきたり…。愛する人の生還に喜ぶ家族だが、彼らは明らかに生前とは違っていた。」 Twitterへは「新手のゾンビ物、にしてはおとなしすぎて少し寝た。スローテンポで重厚を装ってつくれば格調高くなるだろって? 中味スカスカじゃねえか。終わった後のトイレでオッサンが「意味不明だったな…」とつぶやいてたぞ。」 陰気にだらーん、とした98分。終わってみればゾンビ映画の変形で、荘重な感じで全編通していて、それが新手、と思い込んでいる節がある。たんに退屈でつまらないだけなんだけど。 妻を突然の事故で失った家庭。幼子を失った母親(母子家庭?)と祖父の家庭。パートナー(女性)を失った婆さん。という3つの家庭の、愛する人(なのか?)を失ったロスを陰気にだらだら映していく。 1つ目は、事故は写らず、病院に夫が見分に行き、でも、違和感を覚えてスタッフに言うと、別室につれていかれて、あとは家族がうろうろする、というだけのもの。2つ目は、ケバい娘みたいのがいて、なんだかよく分からなかったけど、その後に墓を掘るジイさんがでてきて、娘は母親で、ジイさんと娘は父娘らしいことが分かる。娘が子を失った、とかは描かれていない。どういう根拠でジイさんが墓掘りしたのかわからんが、連れ帰ると男児は死んでなくて、動いてる。男児を隠そうとしてジジイと娘は船でどこかへ行くが、ゾンビっぽいのが現れて、ジイさんは殺されてしまう。若い母親は、男児を抱いてボートでまた逃げようとしている(?)というだけの話で、これがラストシーン。3つ目は、死んだパートナーをそのままにしていたら動いているので、そのまま見守っていたけれど、最後はその死んだパートナーに食われて死んでしまう、という話。 ゾンビ風味は薄くて、伴侶に食われる食われる話では、その場面はなくて、死んだ婆さんがぶっ倒れているだけ。ジイさんがゾンビをスコップらしいので叩く場面はあるけど、その後に、その後に殺されてしまったらしいことが分かるだけ。なので、ゾンビが襲ってくる場面はない。だから、ゾンビとは確定できないし、食われた人がゾンビ化する、というのも分からない。病院の死んだ妻に関しては、どうなったのかその後は写らない。そもそも医療スタッフがどういう見解なのか、も分からない。もちろん、街でぞくぞくゾンビ化が進行している、な話もない。あくまでも写るのは3家族だけ。 死んだ妻、男子、婆さんらは、みな精気なく、青白く、唇は割れ、かすかに唇が動く程度。蝋人形かよ。な感じで、愛する人がああなったら、気持ち悪くてしょうがねえだろ、と思ってしまう。でも家族はそんなことは口にせず、死んだはずだよおっ母さん、息子、パートナーの死体を大事に見守るという、なんだかわけの分からん映画になっていて、共感なんてこれっぽっちもできないのだった。 そういえば、妻がでかけるときとか、その他の場面でノイズが発生したり、停電が起こったりしていた。これが契機なのか。では、何らかの人為的な影響、あるいは宇宙人の仕業だったりとかするのか? でも、そんな気配も描かれない。 ラストは、↑でも書いてるけど、父親が他のゾンビに食われ、湖水のボートで息子を抱いたままの母親、で終わってしまう。だからなんなんだ! そもそも、死んだはずの人間が動いたらビックリして叫ぶだろうに。そんなこともない。粛々と、荘厳に、ゾンビだった。 | ||||
今日の海が何色でも | 1/24 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2 | 監督/パティパン・ブンタリク | 脚本/パティパン・ブンタリク |
タイ映画。原題は“Solids by the Seashore”。公式HPのあらすじは「仏教国タイの南端、イスラム文化が息づくマレーシアとの国境の街、ソンクラー。かつて美しい砂浜があったが、高潮によって侵食され、現在は護岸用の人工の岩に置き換えられている。そこで二人の若い女性が出会う。シャティは保守的な家庭に生まれた地元のイスラム教徒。フォンは活動家からビジュアルアーティストに転身し、美術展のために街に来た。お互いを深く知れば知るほど惹かれ合う二人。同性関係を禁じる伝統のもとで生きてきたシャティは内なる葛藤の波に飲み込まれていく。恐怖と欲望の板挟みになった彼女は、亡くなった最愛の祖母が語った幼少期の古い教訓の物語を思い出す。シャティの前に、祖母の物語にある奇妙な異世界の出来事が次第に起こり始め・・・。シャティは自分自身の道を切り開く決意をし、自分が何者であるかを受け入れていく。」 Twitterへは「タイ映画のはずなのにヒジャブ? 戸惑いつつ見始めた。ほのかな(でも火球が飛ぶから、したのか?)同性愛の話だった。全編思わせぶりでドラマもなくだらだら環境映画? な感じで概ね退屈。ラストも、諦めたのか? な感じだけどよく分からん。」 タイという国において、ほのか(?)な同性愛関係になった2人の女性の話で、ドラマはほとんどなく、だからどうした、な話。テアトルのHPのあらすじを斜め見てし、舞台がタイは分かってた。ストーリーの部分は見なかった。なので、ベッドで目覚めた女性(シャティ)がヒジャブして出かけるのを見て、あれ? タイ映画じゃないのか? と、戸惑う。もしかしてマレーシアとかインドネシアの映画か? だって話の中でここがタイ、と明言する場面はなかったから。もちろん、↑のあらすじにあるような「タイの南端、イスラム文化が息づくマレーシアとの国境の街、ソンクラー」てな舞台の話もなかった。これは、観客が困るんじゃないのかね。 シャティは、ギャラリーで働いてるのか? にしては、他の展示会の様子などは映らない。そこにやってきたフォンは、アーティストってのは分かるけど。↑のあらすじにあるような活動家というのは、説明されてたっけ? ないよな。たまにフォンが制作活動してる様子は映るけど、シャティが働いている様子は映らない。なんでかしらんが2人で丘の上の建築物に登って下界を眺めたり、砂浜に行ってだらだらすごしたり。というような場面が抑揚なくつづく。 シャティは、ベッドの起き抜けと、ラスト近くでフォンと一緒にいて、ヒジャブを外したときが、可愛い。ヒジャブしてるときは、オバサン顔になるんだよね。ヒジャブ効果なのか。家族も写る。一族がイスラム教徒なのか。でも、お祈りしてる場面とかは写らない。一方のフォンは、ちょいゴリラ顔だけど、角度によっては進んでる女性に見えて、ジーンズはいてたりしてちょっと可愛い。イスラム教徒ではないのか、ヒジャブはしていない。そのフォンの出自や過去は分からない。というわけで、2人とも美女、ではないので、顔を見て楽しい映画でもない。 夜の海岸。泳ごう、と素っ裸で海に入るフォン。でも後ろ姿だけ。誰かに見られてないかと心配で後ろを振り返ってばかりのシャティ。世間体が気になるんだろうけど。しばらくしてのち、裸体で水に浸かってるイメージ(?)が写るんだけど、あれは2人のうちのどっちなのだ? 顔の判別がつかず、よく分からなかった。仰向けで浮かんでいて、乳も陰毛も写ってだけど。意味があるだろうに、ちゃんと見せないのは困りもの。にしても気になるなあ。 2人がなぜ惹かれ合うのか。の理由は全く描かれない。なんとなく、かよ。 個展の日。フォンの作品がちゃんと写りはするんだけど、だからどうした、な感じの絵とか造形物で、彼女が何を考えているのか、いまいちピンとこず。知り合いらしい男性が来ていて、フォンの肩を軽く触るんだけど、フォンがビクッとしてた。あれは、男性恐怖なのか、あの男性に対する嫌悪があるのか。もともとレズビアン体質で、それでシャティにアプローチをつづけていた、な感じなのかね。 この後だったか、前だったか。2人はいい感じになって。具体的に何をしたかは描かれてはいないのだけれど、空に火球が飛ぶ。翌朝は、同じベッドにいたんだっけか(?)。あれはフォンの家? ってことは、いたしたのか? では、その後はべったりになるのかと思いきやそんなことはなく。 シャティの両親は、さっさと嫁に行かせて孫が欲しい様子。勝手に見合い話も進んでいて、後半では一緒に海岸にいたオッサンが、相手なんだろと思うが、断ったという話もないし、にこやかにしてたし。あのまま嫁に行くのかね。一夜の火球の思い出を胸に抱いたまま…。 ラストは、砂浜を歩く2人。その砂浜に鏡が刺さっていて、2人が写るんだったか。そういえば、砂浜に鏡は、中盤でもあった。フォンのアートの一部、あるいは、心象風景か。現実の自分ではない、真実の私がここにいる、とでもいうような感じに。 しかし、夜中に飛ぶ火球とか、絡みつつ浮かんでいく泡とか、露骨で分かりやすいメタファーは、映画技術がまだ未熟だからかね。 | ||||
嗤う蟲 | 1/27 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/城定秀夫 | 脚本/内藤瑛亮、城定秀夫 |
公式HPのあらすじは「田舎暮らしに憧れるイラストレーターの杏奈(深川麻衣)は、脱サラした夫・輝道(若葉竜也)と共に都会を離れ、麻宮村に移住する。麻宮村の村民たちは、自治会長の田久保(田口トモロヲ)のことを過剰なまでに信奉していた。 二人は、村民たちの度を越えたおせっかいに辟易しながらも新天地でのスローライフを満喫する。そんな生活のなかで杏奈は、麻宮村の村民のなかには田久保を畏怖する者たちがいる、と不信感を抱くようになっていく。一方、輝道は田久保の仕事を手伝うことになり、麻宮村の隠された<掟>を知ってしまう。それでも村八分にされないように、家族のため<掟>に身を捧げることに……。」 Twitterへは「田舎に移住した若夫婦が、村民に歓迎されつつも次第に違和感を感じはじめ…なよくある展開。でも因習とかおどろおどろしいサスペンスはなく、むしろちょっぴりコメディ。そんなことでああなって、そうなるの? なツッコミどころは満載。」 いまどきの日本で、いくら辺境といっても限界があるわけで。人気がなく、因習に閉じ込められて暮らしている人なんか、いるわけがない。かつて『TRICK』がいろいろやったけど、あれもまあ、それまでにいくつもつくられてきた伝奇物のパロディなわけで。大正〜昭和の初めならまだしも、平成〜令和の価値観で、閉鎖的な村なんかないだろう。と思うと、この映画のすべてが嘘くさい。ちょっとした集まりに4〜50名は集まって、小さいけれどスーパーもある。駐在所もある。なら、人里離れたとはとても言いがたい。よくあるような、なになに家の本家の誰それがどーたらという設定も、この映画にはない。あったとしても、そんなの現代の価値観では何の拘束力もないはずだ。なので、この映画における村の結束力、閉鎖性は、大麻栽培ということにしていた。なるほど、とは思うけれど、10年前の災害で疲弊した村の経済を助けるため、にしては違和感ありすぎだろ。大麻の前に、村長や県知事がなんとかする問題だろ、とか思ってしまうし。 そもそも脱サラして田舎で農業、妻はイラストレーター、という設定がアバウト過ぎ。農業で生計がたつはずがない。それもずぶの素人が。妻は遠隔らしいが、タブレットで描かず手彩色してる。あれをスキャンするのか? 面倒くせえ。非現実的な話だ。 田久保は自治会長だから、因習とは無縁のはず。村民も減っているらしいのに…。なのに、集まる村民はみなムダに元気。おどろおどろしさはない。大麻は中核になる5、6人で、田久保の家のビニールハウスや納屋で行っているらしいが、村民はみな知っているらしい。みな口が固いのか? 信じられないな。そういえば村民は4〜50代が多くて、でも、20代はほとんどいない。あの構成も、違和感。若い人が出ていって…。でもたまに戻ってくれば、分かっちゃうだろ。あんなの。 で、知りたいのが、大麻栽培でいくら収益が上がり、村人たちにどれだけ分け前がいっているのか? なんだけど、そこはスルーしてしまっている。話としてずるいだろ。それがなければ、あの結束力はないはずなのだから。 重要な人物として、三橋という中年男がいる。あとから分かるけれど、かれもまた数年前に移住したらしい。大麻栽培スタッフになっているけれど、生来のマヌケで田久保にいいようにあしらわれ、いつも田久保に頭を下げっぱなしだ。では、そうなった理由は何なんだ? とフツー思うだろ。でも、三橋の弱点は、最後まで分からない。また、三橋の妻がいつも体調が悪く、だらだら陰気な理由も分からない。この三橋の構造が重要なポイントだし、主人公の上杉と杏奈とのアナロジーが提示されないと、おおなるほど、とはいかないだろ。 積年の恨みか、三橋は鎌を持ってうろつく。発見した駐在が取り押さえようとするが、逆に拳銃を奪われてしまう。三橋は田久保の家に行き、拳銃を発射。追いついた駐在が取り押さえようと揉み合うなか、田久保が三橋を殴り殺してしまう。 祭(田舎に越してきて最初の祭で、上杉は上機嫌で飲んで、でも、ムリやり田久保に運転させられた)の夜、田久保と駐在はその死体を道路に横たえ、飲酒して運転していた上杉に故意に轢かせる。遺体は急流に捨て、数日後に発見される。これで三橋の妻も、なぜか縊死してしまう。という、テキトーいい加減な展開は何なんだよ。 飲酒運転で三橋を轢いた、ということで負い目をもった上杉は、当初は断っていた大麻栽培に参加させられる。秘密の共有だ。これで、上杉は村に縛られることになる。のだけれど、こんなの、さっさとチクれば済むことだった。大麻栽培をしていて、駐在もグルで、なことをバラせば済むこと。それをしない、という話にしているシナリオが、杜撰すぎ。というか、大麻栽培をしていることを簡単に上杉に見せてしまうのがおかしい。三橋を轢かせた後に、実は大麻を…。というのが自然な流れだろ。 百姓仕事そっちのけで大麻栽培に駆り立てられている亭主の行動に気がつかない妻の杏奈も、変すぎ。まあ、なんとかやっと気がついて、上杉を責めるけれど、逆に囚われのみになってしまい…というのが、あり得ない展開過ぎるので、なんなんだ。 そうそう。村の面々には上杉と杏奈に対する出産期待があるのだが、終わってみればとくに因習とは無縁なので拍子抜け。妊娠した杏奈の腹をさすって、「ありがとさま」と村の衆が言うんだけど、その根拠も因縁も、何もないのだった。思わせぶりも過ぎるだろ。ところで、杏奈が鎖でつながれた後、田久保の妻が上杉と杏奈の子を育て始めるんだけど、やっぱり、出産・新生児誕生にどういう意味があるのか明かされないので、ひとつも説得力がない。 杏奈の解放は、編集者が異常に気づいて村にやってきて、とかなのかなと思ったらそんなことはなく。反抗的な態度が見えなくなったら解放されるのだけれど、でも、赤ん坊は人質として田久保の妻が育てている。杏奈はインスタやってて、別にスマホを取り上げられているわけではないのだから、大麻栽培も異様な村の実態もインスタで発信すりゃあいいだろうに。と思うのだけれど、そうはならず。ムリやりそうさせないシナリオが変だろ。 で、村に来て2度目の祭がやってくる。ここで杏奈がやっと動き出し、大麻工場から大麻をもちだし、火筒や篝火に仕込む。で、今回は大筒を任された上杉もいい気な感じで演じているところで、大麻があたりに充満。このスキに杏奈は子供を奪い、上杉もつれてクルマで逃走。事前に写メった大麻の映像はSNSだけじゃなくて、警察にも送ったのか。杏奈と上杉のクルマと、村に向かう警察や消防もいたのか、な大量の車列とすれ違う。ここで、映画は終わる。のだけれど、スッキリしないよな。 ・別に、拘束されていたわけではないのだから、大麻栽培を知った時点で上杉は告発するか、あるいは村から逃げればよかった。それ以前にも、違和感がありすぎなんだから、さっさと村から出ればいいだろう。それだけの話だ。 まあ、おどろおどろしく見せているつもりでも、底が浅すぎるのがミエミエ。城定秀夫らしさ(エロも含めて)もなく、これは頼まれ仕事なのか? などと思ってしまったのだった。 ・田久保も、あれだけの権力を大麻栽培だけで握れるのがおかしい。村民は、いくらもらっているのだ。金回りが良くなれば、あんな村から村民もどんどん出てしまうだろうに。そんなことはない。 ・村民の中に、大麻のことで田久保を脅す奴が出てこない。フツーいるだろ、何人か。 ・タイトルは、杏奈が来村したときにみつけた虫のことで、エンドロールの後にも葉につく同じ虫が写る。 とくに意味はないだろ。 | ||||
ロボット・ドリームズ | 1/30 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/パブロ・ベルヘル | 脚本/パブロ・ベルヘル |
原題は“Robot Dreams”。公式HPのあらすじは「大都会ニューヨーク。ひとりぼっちのドッグは、孤独感に押しつぶされそうになっていた。そんな物憂げな夜、ドッグはふと目にしたテレビCMに心を動かされる。数日後、ドッグの元に届けられた大きな箱…それは友達ロボットだった。セントラルパーク、エンパイアステートビル、クイーンズボロ橋…。ニューヨークの名所を巡りながら、深い友情を育んでいくドッグとロボット。ふたりの世界はリズミカルに色づき、輝きを増していく。しかし、夏の終わり、海水浴を楽しんだ帰りにロボットが錆びて動けなくなり、ビーチも翌夏まで閉鎖されてしまう。離れ離れになったドッグとロボットは、再会を心待ちにしながら、それぞれの時を過ごす。やがてまた巡りくる夏。ふたりを待ち受ける結末とは」 Twitterへは「ずいぶんロングランしているので、そんなにいいのか? と思って行ったら席数60の8割方埋まってた。でも中盤で退屈で寝てしまった。ほとんど刺さらなかった。この手の映画にツッコミを入れるのは不粋だけど、間尺に合わんところが多すぎて…。」 前半のあらすじは↑の通り。設定としては、ニューヨークに住む人はすべて動物のキャラになっていて、時代は9.11以前だから2001年以前。なのに気軽にロボットが買える。で、友達もいない孤独な犬がテレビの通販で友達ロボットをみて速攻tellするとさっそく配送されてくる。で、一緒に毎日を過ごす。が、ロングビーチでロボが故障して動かなくなってしまう…。 孤独なあなたをなぐさめるロボットって、ラブドールかよ。あるいは『ブレードランナー 2049』でもエロい家政婦ロボットがでてたけど、あれを思い浮かべてしまう。しかし、貧乏人でも買えるのか。っていうか、あの犬の収入は何なんだ? 毎日だらだら暮らせるのはどういう理由? と思ってしまうと、首をひねってしまう。ホームレスの犬=野良犬がロボットに出会って、なら分かるんだけどね。もひとつ気になったのは、他にロボットを見かけないこと。後にだったか、バスから隣の車を覗くとロボット連れ、がいただけ。あとは、後半でスーパーの店頭に何体かいたぐらい。あんな安くロボットが買えるなら、街はロボットだらけだろうに。と思うと、スキがありすぎだろこの映画、と思ってしまう。 配送されたロボットは、でかくて重い。なんで? さらに、ロボットが人型、というのも違和感。なんで犬型じゃないんだよ。さらに、購入者が組み立てる? おいおい。胴体部にパワー部を入れてたよな? (なのに、のちに胴体をラジカセにして動作するってなんだよ) 他にも、ホットドッグとかフツーの食いものを食べるとか、主たるエネルギー源はどうなってるのだ? とか、不粋と言われるかも知れないが、ツッコミどころが多すぎて感情移入するどころではない。 それと気になったのは、やたらと風景にあの、焼け崩れたはずのツインタワーが見えること。のんびり平和な時代を時代をなつかしんでるのか? いや、9.11以前がとくに平和な時代とは思えんがな。アメリカが中東だの南米にちょっかい出しまくりだったじゃないか。ツインタワーを、失われた物への郷愁として登場させているとしたら、なんかズレてないか? で、ビーチではしゃいで、ロボットが海に入り、上がって昼寝して気づいたら人気がなくなっていて。しかも、ランプが赤くなってて動作不能。なので犬はロボットを置き去りにして帰ってしまうんだが、これまた人情なしだろ。で、翌日行くと来年6月1日からオープン、となっていて閉鎖されていて入れない。何とか入ろうとする犬と、警備員。役所に行っても門前払い。って、この経緯もテキトー過ぎ。所有物を置き忘れたと考えれば、いくらでも救済手段は取れるだろうに。と思うと、さらに話がウソっぽくなってしまう。 ところで、↑のあらすじだとロボットは錆びたのか。というか、海水で錆びる程度のものなのか。鉄か? あり得んだろ。それに青のランプが赤になるのは、錆を示してるのか? わしゃエネルギー不足かと思ったよ。ところでところで、ロボットが海ではしゃいで、腕に絡まった赤いものは、あれはなんなの? 浮き? 説明がなくて分からなかったよ。 それでどうするかというと、犬はロボットのことを忘れて雪山で遊んだりしてる。金があるんだな。…とか思っていたら、あまりにつまらないので少し寝てしまった。気がついたら犬はアヒル娘とバイクでイケイケ。どうやって知り合ったか知らんが。家に戻って電話するもつながらず、後日「パリに移住」とハガキがきてそれまで。とはいえ、社交性はあるじゃないか、この犬めが。 この後からが、タイトルにつながるロボットの、たられば幻想で。近くを航行していたボート漕ぎが床に穴が開いていて、オイルを入れて助けてくれる、と思ったら、足を折られて(船のオールで叩くと簡単に千切れるほどヤワなのかよ)それで穴を塞いで去って行ってしまった、とか。どこまで夢で、これは現実? なのがあれこれあったりする。しかし、ロボットの頭脳は人間に近い感情をもてるほど高性能化してるのに、見かけが古典的ロボットというのは、まあ、アニメの仕掛けとしてはアリかもだけどね。でも、この、たられば夢は、最後までつまらなくて、あまり覚えてない。ロボットの、犬に対する切ない思いを描こうとしているのかもだけど、このロボットの感情って、飼い主に対する忠誠心みたいにも思える。なんか、捻れてるな。 それと思うのは、陸からビーチに侵入するのは警備が厳しいけど、海から行くのはラクなまのか。だったら犬も、船を雇って浜に向かえばよかったじゃないか。などとも思ってしまう。知恵が足りない犬ということか? で、6月1日。犬が行く前にワニの廃品回収業者が浜の危険物を回収してしまっていて。犬が、あたりをつけて掘りまくっても見つかったのは折れた片足だけ。すごすご、肩を落として帰っていく。回収されたロボットはスクラップ置き場に放置される。けど、たまたまやってきたラスカルっていうからアライグマか、に拾われて買われていくのだが。ラスカルはなぜこんなロボットを買ったのか? 新品で安く最新のがいくらでもあるだろうに。意味不明だ。で、連れて行かれたのがホテルの最上階? って、あのラスカルはリフォーム屋なのか? ではなぜあんなところに住めるのだ? 疑問ありすぎ。 で、腹部は買ってこなかったらしく、四肢と頭部に、腹部として大きなラジカセをくっつける。折れた片足は、モップだか掃除機のノズルだか。で、動き出すと言うことは、頭脳部は頭にあるのか。では腹部がなくても動作するロボットなのか。なんだよそれ。で、ポンコツロボットはラスカルのところで和気あいあいと暮らしはじめる。 一方の犬は、やっぱり友達が欲しいと新しいロボットを買って、こちらも和気あいあい。ある日、ポンコツロボットが下界を見てたら、犬が新型ロボットを連れて歩いてるのが見えた。思わず下に降りて声をかけ、再開を喜び合う犬とポンコツロボット。と思ったら、これまた上階にいて下界を見ているのが現実で、駆け下りては行ったのは夢。なんだよ。なんで行かないんだよ。ラスカルに愛着がわいたのか? 犬が新型ロボットに心移りしたのは、あたりまえだろ。冬の間中にも別のロボットに心移りせず、6月1日の浜開きを待って駆けつけただけでも立派なもんじゃないのかね。と思ってしまう。 というような話で、個人的にはとくに泣ける話でもなかった。 ・孤独な犬にもハロウィーンは来るようで、訪れる子供たちが面白かった。『シャイニング』の双子娘風がやってきたり。 ・犬は古典的な映画が好きらしい。『オズの魔法使い』を見てたり、壁にはピエール・エテックス『YOYO』のポスターがあったり。オタクというか、教養犬なのかも。 ・ラジカセで、ロボットのセットリスト、ラスカルのセットリストがあったけど、違いは何なんなの? ピンとこず。 ・ロボットの足がいつのまにか治ってる? ラスカルが修理してくれたのか? |