ヴァンダの部屋 | 2/2 | シネマ ブルースタジオ | 監督/ペドロ・コスタ | 脚本/ペドロ・コスタ |
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ポルトガル/ドイツ/フランス映画。原題は“No Quarto da Vanda”。allcinemaの解説は「ポルトガルの移民街に住む一人の女性の部屋を中心に、再開発のために取り壊されようとしているスラム街に暮らす人々の日常を赤裸々に捉えた衝撃のドキュメンタリー。…監督自ら2年間に渡って一緒に暮らす中で捉えた過酷にして絶望的な状況を、無駄な動きを排した絵画のような美しい映像で克明かつ淡々と綴っていく。」。ユーロスペースの解説は「ここは、リスボンの移民たちの住む街。名前は、ヴァンダ。私はここで暮らしている。壊れかけた家々、廃墟、ジャンキー、鳴り響く工事の音…。こんなとこ、悪魔も住まない。でも、ここにいる、太陽がおおきく見えるこの場所に。ゲットーにデジタルカメラを持ち込み、2年間そこに暮らしとらえた捨てられた街と人々の姿。ドキュメンタリー/フィクションという区分を無効にする、あまりにも美しく濃密な映像と物語、そして時間。人々の日常をとらえ、一度も動くことのないカメラは、ペドロ・コスタ自身もその影響を公言しているように、小津安二郎の映画を連想させる。人々が暮らす暗闇の空間に射し込む光、そして屋外のラテン的なあたたかい光に満ち溢れた静謐な映像と、舞台となる移民街に鳴り響くノイズ。映画の臨界点を遥かに越えた「未知の体験」=“奇跡”がここにある。」 Twitterへは「180分のゴミ映画。5W1Hがまったく描かれてなくても、重厚で静謐でノワールで格調高そうなタッチで貧困を描いたりしてると、それだけで評価が高まり、それに引っぱられて自分も高評価しちゃう人って多いからなあ。」 2000年製作の2004年初公開。舞台がポルトガルというのは、分かっていた。あとはスラムの人が追い出される、ぐらいの説明文は読んだ。しかし、最後まで見ても映画の背景は、まったく提示されていない。↑の解説にある、リスボンとか、移民とか、再開発とか、は観客には分からない。この手の映画は、時折見かける。多くが映像美がどうとかなんたらかんたら持ち上げられ、賞もとったりしている。『ヴァンダの部屋』も同様で、「無駄な動きを排した絵画のような美しい映像」とか「あまりにも美しく濃密な映像」とか「あたたかい光に満ち溢れた静謐な映像」とか書かれている。映像が美しければ中味がつたわらなくてもいいのかよ、と思っちゃうんだよね。そりゃ解説を読めば助けにはなる。けれど、解説がないと分からん映画は、映画じゃないだろ。映像で見せろよ。と思っているので、この『ヴァンダの部屋』も映像作家気取りの勘違い野郎のトンチンカンとしか思えんのだよね。話題になって評価されればいい? バカか。つたわらないメッセージはゴミだ。 登場するのは、のべつゲホゲホ咳き込みつつアルミにたらしたヤクを炙って吸いつづけるヴァンダ。いつも隣にいるのは、ヴァンダの姉、なのか? それとときどき、母親らしいおばちゃん。クレジットされたヴァンダと同じ名字は3人なので、家族は3人だけなのか。ほかに、ヴァンダの部屋にしょっちゅうやってくる黒人青年、松葉杖の男。あとはよくわからん連中も写ってる。けど、顔やしゃべっているところがちゃんと写ってないので、誰が誰やら、誰と誰が話しているのか分からない。会話の内容も断片的なので、意味不明が大半。まあ、多くは不平不満と他人のこと、どうたらこうたら。再開発がどうの、移民がどうの、なんて話は出てこない。これじゃ何も分からない。 画面の8割方が暗い。そういう絵を狙ったのか、たまたまなのか、もよく分からない。場所は部屋の中ばかり。多くはヴァンダのベッドの上。ときどき、一家(?)の居間が写るけど、明るくて、テレビや全自洗みたいのもある。じゃ電気通ってるし、自宅も安泰なのか? それとも、撮った時期が違うのをつなげてるのか? も、よく分からない。どっかの誰かが自分の部屋(?)の模様替えをしてる場面もあったけど、それが誰でヴァンダとどういうつながりかも分からない。外はほとんど写らない。ごくたまに、女がキャベツとレタスを売ってるところとか、重機が家を壊すシーン。緑は1度だけで、だれかが墓地の近くを歩くときぐらい。あとはひたすらまっ暗に近い。 ところでキャベツとレタスを売ってる女は、ヴァンダ? 姉? 別の誰か? 妹がいるのに実父は母親を蹴ったとか、いってたけどその妹はいずこ。 こんな疑問がついてでるのは、この映画がちゃんと顔を明るいところで判別できるように映さないからなんだけどね。 そういえば、ヴァンダと姉らしいのが話している冒頭からしばらく、ヴァンダを男かと思ってた。胸はないし顔立ちも男っぽいし。声がちょっと高かったけど。にしても、咳き込んでばかりなのは気分が悪くなる。ドラッグのせいなのか。いちどなど、咳き込みすぎてベッドの毛布の上にゲロ吐いて、そのまま毛布を畳んで、その毛布を掛けて寝ようとして、「これじゃ寒いな」なんていっていた。あー。気分悪。 だれか知人とヴァンダがしゃべっていて。「血塊があるんだ」「俺もある。俺は2つだ」って何の自慢し合ってんだよ。この知人だったかな、「恵んでくれるというから4階まで階段のぼって行ったらくれたのは、ヨーグルト2つであたまきた。恵んでもらってる立場で言うのは何だけど、くれるのは金だろ!」とか怒ってた。でも、その金でヤク買うんだろ つくづくこいつらバカとしか思えない。貧乏人がロクに働かず(もしかしたら移民に仕事がないという理由があるのかもだけど、この時点で彼らが移民だと映画で説明がないので分からんよ)、物乞いし、手に入れるのは食料よりもまずドラッグ。これは仕方がない、とはいえんだろ。ただの堕落した人間だ。悪環境にあるからそうなるとも言えない。そうじゃない人の方が多数のはずだからだ。 で、ドキュメンタリーらしいのだけれど、カメラマンはいるのか? 上映は35mmだったけど撮影は 35mmカメラを部屋にセットしたとは思えない。部屋のどこかにデジカメ置きっぱなしで長々撮って、あとからテキトーに、映画として分かりにくいところを選んでつないでるみたいな感じなんだよね。カメラ目線はないし、人物が監督らしいのに聞かれたりもしていない。フィクションのようにも見えなくもない。なんにしても、よく分からない映画である。移民なら移民とちゃんと分かるように言えよ。再開発で、潜り込んだいた空き家が壊されつつある、というのも、ちゃんと説明しろよ、と思う。解説の文章がないと分からないような映画は、映画じゃない。 ・点かないライターの山は、拾ったものだから? ・部屋にランプの光なのは電気がないからか? ・生花をくれた知人がいたな。「墓地では生花禁止」だから要らない、とヴァンダがいってたけど、あとから墓地が写ったら、造花禁止、って書いてなかったか? 逆じゃん。 ※シネマ ブルースタジオは、ふだんは5〜6人がいいところなのに、30人前後入っていてびっくり。日曜だったせいもあるだろうけど、それにしても…な感じ。そんなに名作、話題作なのか? ゴミ映画にしか思えなかったけどな。 | ||||
オークション 〜 盗まれたエゴン・シーレ | 2/3 | ル・シネマ 渋谷宮下 | 監督/パスカル・ボニゼール | 脚本/パスカル・ボニゼール |
フランス映画。原題は“Le Tableau vole”。公式HPのあらすじは「パリのオークション・ハウスで働く有能な競売人(オークショニア)、アンドレ・マッソンは、エゴン・シーレと思われる絵画の鑑定依頼を受ける。シーレほどの著名な作家の絵画はここ30年程、市場に出ていない。当初は贋作と疑ったアンドレだが、念のため、元妻で相棒のベルティナと共に、絵が見つかったフランス東部の工業都市ミュルーズを訪れる。絵があるのは化学工場で夜勤労働者として働く青年マルタンが父亡き後、母親とふたりで暮らす家だった。現物を見た2人は驚き、笑い出す。それは間違いなくシーレの傑作だったのだ。思いがけなく見つかったエゴン・シーレの絵画を巡って、さまざまな思惑を秘めたドラマが動き出す…」 Twitterへは「エゴン・シーレの「ひまわり」発見のエピソードを素材にスリリングに。話自体が興味深いし、テンポがいいので、どうなるんだ? と見てしまう。しかし、“盗まれた”ではなく“奪われたor見つかった”の方が正しいだろ。」 アンドレが鑑定を依頼された絵を見たら本物のエゴン・シーレで、でもそれはかつてナチがユダヤ人から奪ったもの。なんだけど、当時のナチの価値観では抽象画は退廃的なもの、否定さるべきものだった。そういう絵は廃棄されるか、部下に「欲しいならもってけ」と言われたらしい。そうやってフランスの労働家庭に残されていた1枚。それをオークションに出す、というのも問題あるらしい。かつての強奪品は本来の所有者の遺族に相続権がある、らしい。持ち主の家庭は、母親と息子の二人暮らし。息子のマルタンは20歳ぐらいで、夜間労働者として働いている。こいつがまともな思考の持ち主で、連絡絵の由来を聞かされると、「そんな絵は要らない。本来の持ち主にやってくれ」と、10億は下らんと言われているのに、きっぱり。てなわけで、本来の相続人であるユダヤ人富豪に連絡すると大歓迎され、しかも、本来は9人の相続人にプラスしてマルタンも加え、10人で分かち合おう、といってくる。で、オークション前に権威あるコレクター(?)の老人に見せると、劣化してるとかイマイチ、とかけなされまくり。しかもユダヤ人富豪から連絡があり、オークションに出すのは止める。800万ユーロで買い手が付いた、といってくる。がっくり、なアンドレに、いまいち波長の合わなかった新人秘書のオロールが、裏がありますよきっと、とアドバイス。なるほど、そうか、とアンドレはユダヤ人富豪に話すと、そうか、となってオークションに出品。800万から始まって、2500万ユーロで落札。相続人たちに紹介されたマルタンは、拍手で迎えられる。マルタンの取り分は200万ユーロ強になるのかな。母親に家を買って、自分にはエレキギター。生活を変えたくないので、いまでも夜間労働者をしている、というのが泣かせる。 があらすじで、テンポ良よく話が進む。わずかながら謎もあるし、スリルやサスペンス感もある。たくさん登場するキャラクターも、それなりに面白い面白い。楽しめはした。けれど、よく考えると「?」も結構ある。 ・エゴン・シーレはマルタンの部屋にかかっていた。マルタンはある日、コンビニで絵画雑誌を買った。ぺらぺらした中に、「ひまわり」はあったのか? 覚えてないんだが、でも、いきなり弁護士に連絡するかな。絵の由来の事情は知らなかったんだから、まずは画商とかに連絡するんじゃないのかね。弁護士だとしても、かねて知り合いの、とかじゃないと、線がつながらんと思う。 ・アンドレと元妻ベルティナ、弁護士エゲルマンの3人がマルタン宅に行き、絵を見る。本物だ。で、つたわった由来は、話が早くて正確に覚えてないんだが。マルタンの祖父はナチの秘密警察に関係していた? 住んでいる家は、大家との契約で、大家が死んだら購入できるような約束? で、長生きの大家が90何歳かで亡くなり、絵も一緒に付いてきた、なことを言ってたような。マルタンの祖父と大家は知り合いだったのかね。大家には相続人はいなかったのか。とか、見返して会話をゆっくり吟味したい気がする。 ・ユダヤ人富豪はオークション出品に乗り気だったけど、アンドレはコレクター老人の酷評で絶句。さらに、ユダヤ人富豪からの連絡で、オークション出品はやめる。800万で買うという相手が見つかった。といわれがっかり。ここで、元秘書(この時点では辞めていた)オロールがやってきて、アドバイスをくれる。ユダヤ人富豪のコンサルタント(?)とコレクターの老人が共謀し(でいいのかな? 名前しかでてこなかったのでよく分からんのだが)、値を下げようとしているに違いない。経験から分かる、と。それでユダヤ人富豪に連絡し、裏事情を話して、堂々とオークションに出ることになる。のだけれど、肝心のこのくだりが弱いね。経験豊かな鑑定人であるはずのアンドレが値を下げる策略に気づかない、ってあるか? 素人同然のオロールが見破るとか、変だろ。このあたり、悪人の存在をちゃんと見せてほしかったね。結局オークションになって、悪だくみの2人が悔しそうな顔をしているところを映すとか。 もちろん、オロールには過去の体験があり、あれだ、とピンときたらしい。というのも、実の父親が古書の売買に携わっていたけど、よく覚えてないけど同様の罠に引っかかって大損したとかしなかったとか(このエピソードも詳しく分からないので、いまいちなるほど感がない)。だから見破れた、というんだけど、説得力がイマイチ。それに、映画が終わってみれば、新人秘書オロールに関するエピソードは多かったけど、話の中の役割としたら、この策略を暴くということだけ。その他の、養父のこと、本人の“軽い嘘つき”というようなキャラ設定は何も機能していない。このあたりは、シナリオの練りが足りないような気がする。 ・オロールについては、結局、古書販売の男が実父なのか、音楽が実父なのか、最後まではっきりさせなかったのも、なんかなあ。オチをちゃんと付けてくれよ。 ・アンドレの元妻、の存在は面白いんだけど。10年前に別れて、同業で、ぐらいしか分からない。いまはフリーでやってるのか? 会社の同僚でもあるのか? あたりがはっきりしない。別れたけど、いまだに友達みたいにつき合ってる存在、ってのは面白いんだけど。 ・マルタンが依頼した弁護士エゲルマンの存在も面白い。どうも元妻のベルティナと一緒に仕事をしているうち、密かにつきあい始めたらしい。おお。こういうエピソードはいいね。 ・アンドレの会社の様子が分かりにくい。冒頭から少しして、社内会議みたいのがあって、確執みたいのも見えるんだけど、頭に入ってこない。ラストでは、オークションの成功によって、同僚で上層部のなんとかがクビになり、アンドレが会長職につくことになるんだけど、じゃ、アンドレを会長にした男はどういう人物なのだ? 会社のオーナー? そういえば、オロールも上層部の誰かの推薦で入ってきて、アンドレの秘書になったんだよな。なのに、なんか態度が横柄というか、変なキャラクター。アンドレに、実父との関係についてだったか尋ねられ、でも答えず、さっさと会社を辞めてしまう。どういう人生観なんだ? ・オロールの養父で音楽家だったかな、アンドレだったかな、が口にした「人生で大事なのは、我慢・妥協・下方修正っていうのは」言い得て妙。そーだろーなー。 ・ラスト。その後の面々がやってきて、食事かな。アンドレとオロールは仲直りして、ひょっとしてつき合うのか? と思ったら、なんとオロールにはつき合ってる彼がいて、いきなり登場してきた。おやおや。 ・冒頭で、アンドレとオロールが、盲目の女性が売ろうとしてる(だったかな)絵について話してる場面があって。盲目女性が黒人差別的なことをズバズバ言うんだけど。その場にいる給仕が黒人女性で、みなヒヤヒヤ。打合せが終わってオロールが「なんて人」とかいうとアンドレが「黒人に対しては一般的にはあんなもんだよ」という件がある。さらに、ラストの方でも、何かの場面で給仕人が東洋人だった。白人以外の登場はこの2人だったかな。なんか、フランスの金持ち階級の有色人種に対する差別意識に、チクリ、なのかな。こういうところも、オロールが辞める遠因になってるのかな。 ・ちらっと街中にLUUPの駐車場が見えた。彼の地でも普及してるのか。 | ||||
ザ・ルーム・ネクスト・ドア | 2/7 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ペドロ・アルモドバル | 脚本/ペドロ・アルモドバル |
スペイン映画。原題は“The Room Next Door”。公式HPのあらすじは「その日、あなたが隣にいてくれたならー重い病に侵されたマーサ(ティルダ・スウィントン)は、かつての親友イングリッド(ジュリアン・ムーア)と再会し、会っていない時間を埋めるように病室で語らう日々を過ごしていた。治療を拒み自らの意志で安楽死を望むマーサは、人の気配を感じながら最期を迎えたいと願い、“その日”が来る時に隣の部屋にいてほしいとイングリッドに頼む。悩んだ末に彼女の最期に寄り添うことを決めたイングリッドは、マーサが借りた森の中の小さな家で暮らし始める。そして、マーサは「ドアを開けて寝るけれど もしドアが閉まっていたら私はもうこの世にはいないー」と告げ、最期の時を迎える彼女との短い数日間が始まるのだった。」 Twitterへは「大半会話劇なので誰がどうした、なんやかんや字幕を読みとるのが大変。小説家や画家なんかの話題もあるし、映画も出てくる。そういう飾りを取っ払うと話は単純で、だからどうしたな話なんだよな。で、あれで犯罪になるのか?」 アルモドバルである。それだけで何かありそうに思えるけれど、この映画、ムダに思わせぶりな枝葉を取り去ってみれば話は簡単。がん宣告されたジャーナリスト・マーサが自死を選択。決行のとき、誰かにそばにいて欲しい。で、選ばれたのが旧知の作家イングリッド。マーサは自死するための家屋を借り、そこで2人でしばらく生活し、マーサは作家が留守のあいだに自死する。それだけの話だ。 そこに加わる枝葉が、マーサの恋バナと元夫の死、娘のエピソード。共通の友人なのかセフレなのか、な評論家(?)のオッサンの存在。さらに、画家だか作家だか知らんが、な過去の文化人の交際に関する話(?)と、そこに係わったヴァージニア・ウルフがどうの。借家に壁にあったホッパーの複製画。借家で見る『キートンの栃麺棒』、バートンとテイラーの映画? 中東(?)取材のときの案内人と、取材した男達の男色関係とかなんだけど、果たして主軸の話とどこでどうつながるのか、は分からない。まあ、アルモドバル信奉者があれこれ調べ、想像力を働かせて関係性を理屈づけたりするんだろう。勝手にやってなさい。 骨格の話については、とくに面白いこともないし、社会的な課題も提示されていない。むしろ、いまどきがん宣告されたから自死を選択する人がいるのかよ、なアナクロな印象。それと、自死する際、知人に、直接ではないにしろ、近くの部屋にいて欲しい、と願う感覚がよく分からん。戦場を取材し、死線をかいくぐってきたはずのジャーナリストが、いよいよというときこれかよ。なんだかなあ、な感じ。 だらだら会話ばかりが続くので集中力を欠きながら見ていたんだけど、死期が近いことを娘には話してないんだよな。いくら娘に嫌われているからといって、それはないんじゃないの? とも思う。 さて、冒頭は、イングリッドの新刊のサイン会。そこに旧知の友人が並んでいて、マーサの入院を知らせる。さっそく病院に行くと、「子宮頸がんのステージ3。新薬の治療をしている」という話だったけれど、再度訪問すると「新薬が効かず、転移した」と落ち込んでいる。その後、入退院を繰り返し、あれやこれや会話し、自死の意志を伝える。そして、決行のときは隣の部屋にいて欲しい、と。 それにしても、ティルダ・スウィントンが病みゆくマーサを演じて、もともとの容貌からそのやつれ具合がまさにぴったりすぎて、おお、と思ったけど。 死を看取ってくれ、という依頼はイングリッドの前に友人3人(4人だっけ?)にしたけれど、みな断られたらしい。イングリッドの立場に立つと、なんだあたしは4番目か。だと思うんだけど、なぜかイングリッドはせっせとマーサの病室に通ったせいなのか、簡単にオーケーしてしまう。だいたい、自殺に立ち会ってくれ、なんていう願いにどんな気持ちでオーケーするんだよ。マーサもマーサだ。苦しみから逃れるなら、ひとりで勝手にやれ。友人を巻き込むな、と思っちゃうよな。 マーサは自死のために豪華な屋敷を借り、2人でクルマでそこに向かう。「ホッパーの絵?」「複製でしょ」とかはどうでもいい。ここで変なのは、マーサが毒を忘れた、とパニックになり、「取りに帰らなくちゃ」と慌てることだ。なにもその日に帰らなくても、と思うんだけど、マーサは譲らない。なんて自分勝手な人だ。しかし、大事な毒を忘れるって、なんなんだよ。意味があるのか? これはもしかして、2人でマーサ宅に戻り、クスリを探しているときに、イングリッドにマーサの手帳(だっけ?)を見つけさせるためか? でも、あれってそんな大事な内容のものだっけ? なぜか知らんが娘の話に時間が割かれている。マーサには10代で親しくなった男友達がいて。彼がベトナムに行き、もどってきてPTST。癒しているうち妊娠。でも彼は仕事の関係で別の町に行くことになり、マーサは母親の手を借りつつ娘を育てた。そのうち娘のミッシェルは父親の不在について質問するようになり、でもテキトーに誤魔化していたら自分を嫌うようになった、らしい。しかも、仕事がら家をあけることも多く、それも手伝って娘との距離が大きくなった、らしい。そんなことで仲違いするかね。話してまずいことでもなかろうに、言わなかったマーサにも疑問ありだ。10代で出産し、後年、ニューヨークタイムス(だっけかな)の記者となって世界を駆け巡るようになった経緯は、どんなものだったんだ? むしろそっちに興味が湧くな。大学は? 学費はどうした? で、元彼は別の地で結婚。でも、あるとき運転中に路傍の家の火事に出くわし、「助けを求める声が聞こえる」と単身家の中へ。ベトナム帰りのPTSDのせいだろう。で、煙に巻かれて死亡。家には他に誰もいなかった。妻にも助けを求める声など聞こえなかった、という連絡が、元彼の死後マーサのところに来たらしい。なんだが、このあとの話がよく分からなかった。あちらの妻のところに何か送られて来たとかいうことで、それが送り返されてきたらしいんだが、字幕を追い切れず。なんか、娘のミッシェルがあちらの妻と連絡をとろうとしたということなのか? Netflixならちょっと戻って確認できるんだけどね。結局、娘に対する思いがどんなものなのか、よく分からんのだよな。 その他の枝葉は…2人がかわす雑談の中での、作家らの交友関係と、そこにヴァージニア・ウルフが絡む話題は何のためなんだ? 意味不明だろ。なにかのアナロジーになってるようにも思えないし。話題を広げて、思わせぶりにやってるとしか思えない。 あと、なんとなく登場するオッサン評論家は、ありゃなんなんだ? マーサとは少し肉体関係があったみたい。イングリッドともあった、みたいなような…。ちゃんと会話を聞いてなかったので、アバウトにしか分からんが。で、イングリッドはマーサから自死を看取る役をたのまれた、ということを評論家に素直に話す。でも、そのことはマーサには言わない。どころか、マーサと評論家を会わすこともない。この関係は、なんなんだ? 映画の中で説明はあったっけ? で、評論家は、もし何かあったら弁護士を用意してるから、連絡をくれ、というんだけど。そこまでしてやる義理があるのかい。 である日、マーサは身支度して、縁側テラスのチェアーで自死する。イングリッドは外出してたんだっけか。帰ってくると室内にマーサはいなくて、探したらすでに決行の後だった。マーサはイングリッドに、迷惑はかけない、といっていた。そのためなのかマーサは警察に宛てた遺書も用意していた。自死後、イングリッドは救急車を呼んだらしい(映像では、ない)。でもすでに事切れているからと警察に通報され、検死されたようだ。ここで弁護士が登場するんだけど、人から自死すると言われ、それを止めずに見守ったことで、罪になるのか? 調べたら、日本ではならないようだ。では、スペインでは、責任を問われるのか? 登場する警官は、しつこく「知っていたんじゃないのか?」とインクリッドに問うていたけど、このあたり、首をひねってしまう。どうも警官は信心深くて、宗教的に認められない、というような立場らしいけど。そんなの知ったことか、だよな。 しっかし、あの家を貸したところはエラい迷惑だよな。自殺なんかされて。その迷惑料は払ったのか? そっちの方が気になるよ。 マーサは当初、自分が自死するときは「隣の部屋にいてくれ」だったのに、フロア違いの部屋でもよくなってしまう。この心の変化はどういうことなんだ? タイトルはネクスト・ドアなのに、そうなってないじゃないか。これまた違和感だ。 で、マーサは、生きているときはドアを開けておく。もし閉まっていたら、そのときだ、とイングリッドにいうんだけど、これが毎朝のイングリッドのドキドキ体験になる。もし自分がそんな立場になったら、耐えられんな。イングリッドにとって、ストレスが過ぎるだろ。 イングリッドが連絡したのか、ミッシェルがやってくる。これは、借家ではなくてマーサの家の方だな(そうだよな、たぶん)。あまりにマーサに似ているので、最初は幽霊かと思ったよ。でもどうやら、どちらもティルダ・スウィントンが演じているらしい。マーサのときより血色が良く、少しふくよかにメイクしてるようだ。でも、そのあと、ミッシェルは屋外のチェアーに横たわるんだけど、なんか借家の、マーサが自死したチェアーにも見えて、みんな変な感じ。 | ||||
ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女 | 2/10 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/キリアン・リートホーフ | 脚本/マルク・ブルーバウム、ヤン・ブラーレン、キリアン・リートホーフ |
ドイツ/オーストリア/スイス/イギリス映画。原題は“Stella. Ein leben.”。ステラの人生、のような意味のようだ。公式HPのあらすじは「1940年8月、ベルリン。18歳のステラ・ゴルトシュラーク(パウラ・ベーア)は、アメリカに渡りジャズシンガーになることを夢見ていたが、ユダヤ人の両親を持つ彼女にとって、それは儚い夢だった…。3年後、工場で強制労働を強いられていたが、ユダヤ人向けの偽造パスポートを販売するロルフと出会い、恋に落ちると、同胞や家族が隠れて生活する中、ロルフの手伝いをしながら街中を歩き、自由を謳歌していた。しかし、ゲシュタポに逮捕されると、アウシュヴィッツへの移送を免れるため、ベルリンに隠れているユダヤ人逮捕に協力を強いられる。生き残るために同胞を裏切ったステラは、終戦後、裏切ったユダヤ人仲間から裁判をかけられる…。」 Twitterへは「副題がネタバレして全てを語ってる。登場人物は多いけどキャラや背景がちゃんと描かれてるのは数人。なので誰が誰やらわからん! ドイツ映画らしいが、ユダヤ人気の毒一辺倒ではないものもでてきたというみことか。」 事実に基づいたフィクションのようだけど、はて、どこまで事実なのか。 1940年。ドイツに住むユダヤ人の娘、ステラはジャズシンガーとしてアメリカに行くのが夢。なれど、渡航許可が下りず、43年には胸にユダヤの星をつけ工場で働いている。という時点で、ジャズ仲間の友人だった某と一緒に生活してるのか結婚してるのか、よくわからん現在。その後はナチのユダヤ人狩りが激化し、ある日、工場にユダヤ人狩りが行われ、某とは生き別れ。その後、たしか某は登場しないんだが。じゃあただの恋人だった、だけなのか。 その後もユダヤ人狩りがある中、身分証明書の偽装してもらったきっかけで、その道のプロのロルフといい仲になる。しかし、証明書のために簡単にやらせちゃうとか、もとから尻軽だったのか? せっぱ詰まってれば女ならだれだってそうするって? こっから以降は、実は話がよく分からなくなっていく。ユダヤ人狩りが強化されていくなかで、ステラもロルフもひょうひょうとして街中を歩き、ユダヤ人と接触して偽造身分証明書の仕事をとっていく。ときには色仕掛けでナチ軍人と接触し、白紙の証明書を手に入れたりもしている。のだけれど、いくらバカでも白紙の証明書を渡すなんて、このナチ軍人もバカすぎだろ。 ところで、この偽造証明書は、純潔ドイツ人としての証明書なんだよな? それがはっきり分からんので、住所とか名前とか、どうやってんのかなって思ったりしたのだ。 こうしてるなかでも、かつてのジャズ仲間と街で出会ったりもしている。ナチが近くにいるカフェで取引してたりする。大胆すぎるだろ。マンガかよ。しかし、結構多くのユダヤ人がドイツ人になりすまし、生きていたということなのか? みな、堂々と大胆だね。偽造した身分証明書なんて、すぐ発覚しそうな気がするんだけど。 あるときカフェいたら旧知のインガとかインゲとかいう女性に声をかけられ、直後に逮捕。拷問され、仲間の情報を売るよう強制される。以降は、ロルフとともに街頭でユダヤ人とみれば声をかけ、ユダヤ人狩りに協力する。…てな展開で。まあ、アウシュビッツか協力か、2つに1つと言われれば、そうなっちゃうのかなあとも思うんだけど。このことで、後に「仲間を売った女」として告発されるようになるわけだ。 しかし、この映画、登場する旧知のユダヤ人が、誰がどれやら分からないので、その場その場で納得しなきゃならん展開なのだ。ステラがナチの手先になってから何人もの旧知と街やカフェで出会い、密告しつづけるんだけど、これがいまいち「あ、あの人だ」とピンとこない。つまりは、冒頭からの40年代でのジャズ仲間の顔やキャラをちゃんと紹介していないからなんだよね。なので、ゾクゾク感や、ハッとする感じがない。 しかも、いつのまにかロルフは消えてしまう。アウシュヴィッツに連れて行かれたのか? 両親はどうしたんだっけ。とか、流れの中の人物の整理がちゃんとされてないので、消化不良のまま、一気に57年になって、裁判にかけられている。傍聴席にはステラが密告した旧知もちらほら。おやおや。 で、このなかで、ステラはソ連に拘束されて10年ぐらい拘束されていたとか説明されるだけで、詳しくは分からない。裁判結果も、ステラは有罪で10年(?)ぐらいの禁固が宣告されるけれど、でも、すでにソ連で同じような期間拘束されていたので、差し引きゼロ。つまりは放免される。このあたりの展開はドラマもなくて、淡々とし過ぎていまいちだな。で、1984年に窓から飛び降りる。という場面で映画は終わる、のだけれど、字幕で、84年に自殺未遂、94年自殺(?)と説明されて。じゃあ結局、自死したのか。なんかいまいち盛り上がりも情緒もない話だったな。 ナチとユダヤ人を扱う映画は、概ね可哀想なユダヤ人、冷酷無比なナチ、の図式だけど。この映画はちと違う。ナチの手先になって活躍し、同胞を売ったユダヤ人の話だ。もちろん、チクるかアウシュビッツか、2つに一つ、と脅されてのことだけど。この手の話はあったんだろう。史実をもとにしているような感じだったし。では、ステラはユダヤ人にとってどう評価されるのだろう? しょうがないよね、なのか、死んでもあんなことをするべきではなかった、なのか。これは、よく分からない。結局のところ、ナチの手口は汚い、になるのかもしれないけど。 で思ったのは、ガザ地区に住むパレスチナ人を虐殺しつづけるイスラエルのこと。あんなに虐待されたユダヤ人が、パレスチナ人に対しては無慈悲になれるのかよ、てな論調で言われることが多い。いやでも、しょうがないときはあるよね、という言い訳のようなものが、この映画にあったりするんだろうか? つまり、イスラエルの正当性をそっと応援するようなものが。わからんけどね。 ・アウシュビッツに送ってやるぞ、という脅されるんだけど、当時から知られていたのか? 送り込まれたら帰ってこられない収容所、だと。ガス室がどうのとかは、戦後に分かった、ようなことを呼んだ記憶があるんだけど。 ・父親がステラのことを「点子」と呼ぶのはどういう意味なんだ? ・マヌケなドイツ兵が登場。白紙の身分証用紙を求められ、疑いなく渡すって…。 ・ステラを演じるのパウラ・ベーアは40歳ぐらいかと思ったら1995年生まれって、製作時は28歳か。婆さん顔だなあ。 | ||||
Brother ブラザー 富都(プドゥ)のふたり | 2/12 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ジン・オング | 脚本/ジン・オング |
マレーシア映画。原題は“Abang Adik”。公式HPのあらすじは「マレーシア・クアラルンプールの富都(プドゥ)地区にある荒廃したスラム街。この地域には不法滞在者2世とも言える人々や、様々な国籍・背景を持つ貧困層の人々が多く暮らしている。その場所で、身分証明書(ID)を与えられず、過酷な生活を強いられ生きてきた兄アバンと弟アディ。アバンは聾唖(ろうあ)というハンディを抱えながらも、市場の日雇いで堅実に生計を立てているが、アディは簡単に現金が手に入る裏社会と繋がっていて、彼の行動は常に危険と隣り合わせだ。そんなある日、実父の所在が判明したアディにはID発行の可能性が出てきた。しかしある事件がきっかけとなって、二人の未来に重く暗い影が忍び寄る。」 Twitterへは「珍しやマレーシア映画。BLものなのか、これ。背景がよく分からんので、なかなか物語に入り込めず。バカ兄弟2人はどうでもいいな。弟は鈍感すぎて糞。むしろ、兄が医者で妹がNPOで働く兄妹のことのほうが気になるね。」 ↑のあらすじに兄のアバンは聾唖とあるが、間違い。唖だ。兄がアバンで弟がアディ。どっちもアで始まる名前。区別しにくいからやめてくれ、と思う。 闇社会に片足突っ込んでる感じの弟アディ。真面目に市場で働く兄のアバン。NGOで貧乏人をしてる感じなジアエン。この3人が織りなす話、と思っていたら、中盤で大事件。なんとアディとジアエンが言い争い、突き飛ばしたか殴ったかして、ジアエンが頭部を打って死んでしまう。それを知ったアバンは現場をそのままに、アディを連れてバスで逃避行。でも、途中でひとり抜けだして警察に出頭。拘束・裁判の結果、死刑となってしまう。この間の流れがなかなかいい加減で。前半の兄弟愛とかオカマのマニーとのつきあいとか、面白かった要素が飛んでしまう。詰めの甘さで面白くなくなってしまうのだ。ああ退屈。 その話は後にするとして。この映画の基本的な背景が分からないのが、イライラする。舞台はマレーシアは分かってる。弟は紙切れ一枚の出生証明書をもっている。むけれど、兄は身分証がないらしい。弟は不満をいう。「身分証がないから運転免許も取れない、銀行に口座も開けない」。では、マレーシア人にとっての身分証とは何か? そもそも兄弟は何人(なにじん)なのだ? これが最後まで分からない。身分証のことで警察に追われ、人を殺め、牢獄に行く。いったいなんなんだ? ※身分証明書についてはオフィシャルHPに書いてあった。でも、見終えてからHPで知っても意味がないんだよ。見ながら分かるように映画はつくられなくちゃいけない。その意味で、この映画はダメ。 まあ、2人とも身分証明書がなくて、欲しい、と思っている。ということで。で、ジアエンは、そういう人のためにNGOで働き、代理で申請したりしている。ところで、ジアエンが申請に行って訴えていた、両親が火事で死んでいて、親の証明もできない云々の話は、ジアエンが担当している誰か、の事例か、と思っていたんだけど。HPを見て、これはアバンのことだ、と分かった。さらに、ジアエンは兄弟宅を訪問し、アディに「両親のことが分かった。身分証のために証言もしてくれる」と話すのだけれど、アディは「親の顔は見たくない」と断固拒否で、揉み合っているうちにジアエンが突き飛ばされ、頭をどこかに打って動かなくなってしまう。この経緯を見て、バカ(アディのこと)は死んでも治らんものだ、と思った。親の顔を嫌々でも見れば、身分証が手に入る。なぜそうしない。拒否した揚げ句がジアエンを殺してしまったではないか。しかも、そのままにして逃げる。階下で会ったアバンが変わって部屋に行き、出来事を知る。のあと、アバンはアディをつれてバスで逃避行。2人ともバカじゃん。で、なぜかアバンは弟をかばって、なのか、地方の警察に自首する。なんで? アバンは弟をかばう義理があるのか? 一方のアディは、のんびり食堂で飯を食っていて、テレビのニュースで兄の逮捕と現場検証の様子を見る。ほんと、アディって、どーしよーもなくダメな奴だな、と思った。 刑務所で絞首刑の日を待つ日々のアバン。アディは弁護士に審理不十分の請求をしようとしてるのに(再審要求してるのか?)無視される。マレーシアは法治国家じゃないのか。っていうか、ここらへんは、もの凄くテキトー過ぎてお話にならない。実際の手続や流れに沿って話を展開すると、映画にならなくなっちゃうから、あんな感じにしてるのかね。 で、このあたりだったか。実は…な過去が分かる。事件のとき、アディとすれ違いに部屋に戻ったアバンは、なんと、ジアエンに息があることを知る。おお。このタイミングで訪問者。ジアエンはうめき声を上げようとする。思わず口を塞ぐアバン。静かになって、気がつけば、ジアエンは息をしていない。そういうことだったのか。でも、この展開はよくあるよなあ。なるほど、とは思ったけど、なーんだ、な感じで。これでアバンが自首した理由も分かった。けど、ジアエンが声を出すのを防ぐんだったら、口だけ塞げばいいだろうに。それを鼻まで塞ぐバカがいるかよ。っていうか、いずれ隠し通せることではないのだから、ジアエンの救済が先だろう。いくら慌ててたとしても、現実認識もできなかった、ってことか? しかし、ジアエンの死はアディの過失致死じゃないのか? それで即死刑ってのは、マレーシアは怖ろしいな。調べたらマレーシアには死刑があるようだけど、Webに寄れば「2018年以来、死刑を執行していない。」という。そもそも、よっぽど重罪でないと死刑判決は出ないとも書いていた。なんか、事実と違うなあ。 刑務所で、食事しなくなったアバンに、坊さんが話しかける。その坊さんに向かって、「自分には身分証もない、何もない。どうすればいいんだ」とか坊さんに訴える。けど。そういうお前みたいな連中を助けようとした娘を殺してるんだぜ。怒りの矛先が違うんじゃないのか? しらけるだけだ。 で、死刑の3日前に告知され、最後の日々は会いたい人に合うことでできるという。アディも来るけど、俺が殺ったんだ、とは警察に言わない。なんなんだ、こいつは。で、死刑執行後も、アディは、ジアエンと兄と、2人殺してることになるのに、グースカ眠れている。まあ、実際にジアエンの息の根を止めたのは兄アバンだけど…。でもそれをアディは知らないのだから、アデイの中では殺したことになってるはず。 ラストは、転居して行ったオカマのマニーに、アディが会いに行く場面。はっきり顔は映ってないけど、マニーだろう。カツラもかぶらず、ごま塩頭が写っていた。飯屋で働いている様子。会いに行ってどうなる訳でもなかろうに。ロクに反省もしないアディ、という印象が強まるだけだ。 ・この映画でもっとも哀れなのはNGOで働くジアエンだ。弱者のために法を犯してまで働いているのに、バカなアディに反抗され、さらに、アバンに息の根を止められて。ジアエンを思う優しげな医師の兄も登場していた。兄の気持ちを考えると、気の毒すぎて言葉もないね。 この映画は、陽のあたらない状況で働いている兄弟の愛の物語、のような体をしているけれど、ちっともそんなことに感動はしない。だいたい、この兄弟はなんなんだ。実の兄弟ではないらしいが、ではなぜ兄弟のように暮らしているのだ。同性愛的な感じは、パーティで2人が抱きあって踊るときぐらいしかなかったけど、実は、見えないところでやってたのか? と、勘ぐってしまう。 ・アバンを慕うミャンマー人の女の子が登場していた。どういう関係か知らないけど、女の子がアバンを好きになってる感じで。後半では、難民認定されたのでここを離れる云々、でも、離れたくない、とアディに抱きつく場面があって。じゃあ、いい感じになるのかと思ったら、さっさと彼女は去って行ってしまった。このとき、彼女が気に入っていたスカーフを渡そうとしたのか、でも、タイミングが悪くて渡せない、みたいなシーンがあるんだが。スカーフは、屋上で会ったとき渡せば好かったじゃん。なんでミャンマー娘が旅立ちの日に、遠くからうじうじ見てるんだよ。 ・映画を見る限りでは、兄弟が住むアパートはスラム街には見えない。ラリってる奴とかチンピラとかいないし、フツーの集合住宅だろ。貧困も感じないし。 ・音楽は片山涼太となっていた。日本人? ・スタッフロールに台北とかでてきてた。スタッフの応援があったのかね。マレーシアにスタッフが充実してるとも思えんから。 | ||||
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