2025年3月

奇麗な、悪3/4テアトル新宿監督/奥山和由脚本/奥山和由
公式HPのあらすじは「ひとりの女が街の人混みのなかを歩く、まるで糸の切れた風船のように。生きることすら危うさを感じるその女は一件の館にたどり着く。女は思い出す、以前に何回か訪ね診てもらった精神科医院だ。人の気配はないがドアは開く。静けさが待ち受けている。医師は今でもどこかにいるのか? 女は部屋の空洞に吸い込まれるように中に入っていく。そして以前と同じ様に患者が座るリクライニングチェアに身を横たえる。目の前にあるピエロの人形に見つめられているようだ。「火の、、、火の話から始めることにします」幼少の頃、カーテンに放った火て起こった事件から話し始める。そして、、、「今日は、全部話す」と。」
Twitterへは「いささか寝不足で、そのうえ圧倒的な低気圧。さらにパンかじりながらだったせいもあって20分ぐらいで沈没。気がついたら、もうそろそろ終わりかけだった。瀧内公美を見に行ったつもりだったんだが…。淡々と自分語りのひとり芝居の長回しは退屈すぎる。」
いや、ほんとに、熟睡してしまったよ。眠気があっても話に引き込まれれば眠らないものだけど、これはダメだった。そもそも1人芝居とは知らなかった、というのもあった。
冒頭、街を歩いている女。山手の異人館みたいな屋敷に入り、全部話せって言うから話す、とかなんとか。火をつける話があって。でも、話が頭に入って来ない。恋人が捕まって刑務所に入ってしまい、そのあと22歳ぐらいで結婚して子供でできて…。と、誰かに話しかけるような口調なんだけど、ドラマがなくて、ただ話しているだけなので、引き込まれない。カメラは室内を動きまわる瀧内公美を追って、長回し。けど、彼女の知的な美しさが見えるかといったら、そんなこともなく。暗い室内で、顔もよく見えない時も多かったり。ああ、なんだよ、なんて思っていたら、記憶がなくなった。眠気を堪えることもなく、さっ、と寝てしまった。で、はっと気づいたら女はドアを開けてベランダにでて、顔に陽射しが当たっている。やっと瀧内公美の綺麗な顔が…。ドアのところまでは1カットだったのかな。以降はカット割りがつづき、冒頭と同じく街を歩き、映画は終わる。
瀧内公美は精神科医のカウンセリングを受けているような感じで自分の過去をしゃべっているのだけれど、なんどか、「閉院しました」という古ぼけた紙が映される。じゃあ彼女は誰に話しているんだよ。なんだけど。まあいいや。肌に合わない映画だった、ということで。
瀧内公美は好みの顔をしていて、はっきり意識したのは『由宇子の天秤』かな。でも、芸名までは覚えなかった。出演作を遡れば『日本で一番悪い奴ら』『彼女の人生は間違いじゃない』は見ていたけど、女優として記憶に残っていなかった。そういえば『由宇子の天秤』のあとにネトフリで『火口のふたり』を見てるけど、これまたひっかからなかった。最近、もういちど見てみたけど、ムダにエロい場面ばかりで、ああ、荒井晴彦監督か。意味なくセックスシーンを入れ込むオッサンだ。なので、途中でやめてしまった。こんな映画に出るべきじゃなかっただろ、と思ったりした。最近ではネトフリのドラマ『阿修羅のごとく』で、お上品ぶった女子社員を演じていたけど、なんかいまいち魅力に乏しかった。やっぱり役者は役柄で記憶されるんだな。
デュオ 1/2 のピアニスト3/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/フレデリック・ポティエ、ヴァランタン・ポティエ脚本/フレデリック・ポティエ、ヴァランタン・ポティエ、サビーヌ・ダバディ、クレール・ルマレシャル
原題は“Prodigieuses”。「天才」というような意味らしい。公式HPのあらすじは「双子の姉妹クレール(カミーユ)とジャンヌ(メラニー)は、幼い頃からともにピアノに情熱を注いできた。父親からアスリートのような指導を受け、名門カールスルーエ音楽院に入学する。ピアノのソリストを目指し、2人のキャリアを左右するコンサートのオーディションに向けて練習に励む日々。しかし、彼女たちは両手が徐々に不自由になる難病にかかっていることを知る。最悪の事態に直面しながらも、改めてピアノが人生のすべてであり、かけがえのない大切な存在だということに気づく。そして、絶対に叶えたい夢を2人で掴み取るため、家族に支えられながら、自らの運命を変えていく」
Twitterへは「前情報なしで見た。途中から、なるほどそういう話か。なれど、いろんな要素がごった煮すぎて、鮮鋭さが欠けるかな。父親がバカすぎるのも困りもんだ。編み出した奏法について、もうちょい知りたい感じ。」
両親、とくに父親からピアノの特訓を受け、長じては音楽学校で学んだ双子の女の子がいて、名門音楽学校に入学することになる。で、最初のクラス選別の段階で、姉は優秀者のクラスに選ばれる。まったく同じ技術、音楽性で育った妹は選ばれず、一般クラスへ。男性教師が言うには、コピーはいらない、だった。てな流れなので、姉妹の熾烈な競争物語になるのかと思っていた。
姉は音楽会のソリストに選ばれるんだけど、次第に手がおかしくなる。最初のうちは腱鞘炎だろうとか、父親にスマホを取り上げられたときに突き指をした、とか言ってたんだけど、技術的にも劣化していく。すでに発表会のポスターは刷り上がって名前も入っている。どうするか。教師は困惑する。
なとき、ふらっと教室に入ってきて演奏した妹の音を聞き、教師は「君が発表会にでろ」なことになってしまう。そんなつもりではなかった妹は、戸惑う。けれど、ちょっとした内輪のコンサートで、有名な指揮者の前で弾いて認められ、完全に主役交代。これに姉は反発し、私の座を奪った、てな感じになって。こりゃ姉妹のバトルだな、と思ったんだが…。妹は教師とピアノの上でまぐわっちゃったりもしてるし。
なもんで姉がMRIかなんかで検査したら、遺伝的な難病でピアノを弾くと指が折れるようなことになっていたらしい。あら大変。姉は妹に、あんたも検査しろ、というんだけど、一向にその気配がない。どうなってるんだ? と思ったら、いつのまにか姉妹の対立はなくなっていて。なんと、2人で劇場のもぎりをやっている。ざっくり省いてるけど、妹も同じ病気で弾けなくなった、ということのようだ。もちろん学校は退学。映画的に説明が足りないだろ、ここは。でもまあ、姉妹の対立はなくなったわけだ。
これまで入れ込んで育ててきた父親は、でも納得がいかない。医師に刃向かったり、なんだかんだしてたけど、でも、完全にお手上げ。というとき、姉妹のどっちだったかが、手に負担のかからない弾き方(手でおいでおいでをするような感じ)を考えだし、それで、例の男性教師ではなくて、一般の生徒を教えていた女性教師に相談すると、「やってみなはれ」な反応。超絶テクニックは無理だけど、それなりに演奏ができる。それも、2人でデュオで。父親も男性教師も、そんなんダメだろ、と見下すけど、一般受けは好くて、2人は、おいでおいで奏法でコンサートをつづけ、人気を博すようになりましたとさ。という実話、らしい。
にしては、前半と後半で話が違いすぎ。姉妹の対立とか、男性教師と妹の肉体関係なんかはつくりごとなんだろうな。話を面白くするために。でも、そんなことより、難病を克服して新たな奏法を生みだしたことの方に興味があるけどな。なので、その奏法がテキトーにしか描かれないのが不満だな。手指に負担をかけずに、いかに鍵盤を叩くのか。2人が別の音を叩くのに、全体で聞くと音を補い合って美しく聞こえるらしいけど、その息の合い方は、双子だから? ってだけでなく、納得する部分が欲しいよな。その意味で、後半の成功物語は薄っぺらすぎて説得力がないんだよね。
双子の姉妹を演じる女優二人は、完全なる別人らしい。なんだけど、はじめのうちは区別がつかず、優しい顔立ちの方が姉で、いかつい感じが妹、とは感じたんだけど、撮り方によっては区別がつかないときもあって、ちょっとじれったかった。
幻の光3/8シネマ ブルースタジオ監督/是枝裕和脚本/荻田芳久
公式HPのあらすじは「ゆみ子が12歳の時、祖母が失踪した。ゆみ子は自分の祖母を引き止められなかったことを深く悔いている。25歳になって、その祖母の生まれ変わりのように登場した郁夫と結婚したが、その時のことが、夢になって今もゆみ子を苦しめている。息子の勇一も生まれ、幸せな日々を送るある日、郁夫は自転車の鍵だけを残して自殺する。祖母、そして郁夫、大事な人々を次々と見送ってしまったゆみ子。5年後、ゆみ子は日本海に面する奥能登の小さな村に住む民雄と再婚する。先妻に先立たれた民雄には、娘の友子がいた。春が過ぎ夏が来て、勇一と友子は仲良くなじみ、ゆみ子にも平穏な日々が続いている。だが半年後、弟の結婚式のために里帰りしたゆみ子は、再びいやおうなく郁夫への思いにとりつかれる。冬のある朝、漁師のとめのがゆみ子に蟹をとってくると約束して舟を出した。静かだった海は次第に荒れてきて、夜になってもとめのは戻ってこない。ゆみ子の心は凍てつく。また自分は人を死へと見送ってしまった。やがて、とめのは無事戻るが、ゆみ子の心は晴れない。郁夫の思い出である自転車の鍵を、民雄に見咎められたことをきっかけについにゆみ子は家を出る。折から、葬列の鈴がゆみ子を死へといざなう。海辺の岩場で燃える柩の火をみつめ、たたずむゆみ子。追ってきた民雄も静かにゆみ子の後ろ姿をみつめている。やがて、ゆみ子は初めて民雄に打ち明ける。「なぜ、郁夫が自殺してしまったのか、未だにわからないのだ」と。「漁師だったオヤジが言ってた。海に誘われるのだ。沖の方にきれいな光が見えて自分を誘うんだって」民雄は言った。「誰にもそんな瞬間がある」再び春が来て、今やっと新しい家族が生まれようとしている。」
Twitterへは「ドラマがないので退屈。実は生きていた。また連れ合いが死ぬ。かと思ったら、そんなこともなく。にしても役者の顔がほとんど見えない。ロングで逆光で横向き。大杉蓮はどこにいた? ぼそぼそしゃべりも聞き取りづらい。江角マキコのでかズロース…。」
是枝裕和のデビュー作で評価も高いらしいので見たんだが。いまいち合点がいかぬ話だった。いや、それ以前に、役者の顔がほとんどまともに映らない手法にいらだった。正面から捉えてもロングでレフも当たってない。ミドルショットでも横向きで暗い。あるいは夜間だったりと、誰なんだこいつは、てなところが多すぎ。最初の亭主も、しばらくしてから浅野忠信と分かった。しかし、あっさりと轢死してしまって、え? 出番はあれだけ? でも名前は上の方だし、実は死んでなくて後半でひょっこり出てくるんじゃなかろうかと思ったらそんなこともなかった。
他にも、大杉蓮が見終わっても分からず調べたら、幼いときの父親だった。部屋の中で横向きでぐずぐず言ってた親父か。ぜんぜん分からなかったよ。警察に行ったときに相手をしたのは、あれ、寺田農か? と気づいたけど、大物をほんのちょい役に使ってる。はっきり分かったのは木内みどり、赤井英和、市田ひろみぐらいかな。後の亭主の内藤剛志も、はじめははっきり分からずだったし。主役の江角マキコにしてからが、ちゃんと顔が映らないんだからなあ。
着いたのがギリギリで、トイレに行ってる間にアタマの1〜2分、見損ねた。婆さんが、死地を求めて田舎(?)に帰ろうとするのを引き留めている少女、の場面からだった。で、娘が帰ると家族は淡々としてる。大人がなぜ引き留めないんだ? で、あっさり現在。同棲してんだか何だか。喫茶店行ったり散歩してたり。と思ったら次のカットでいきなり部屋に赤ん坊がいて。いくらなんでも端折りすぎだろ。このあたりだったか、自転車を返しに来て傘をもって帰った男がいたけど、あれは誰なんだ? と思っていたら家に警察が訪ねて来る。電話がないからそうしたのか。にしても、住所はどうやって知ったのか。警察に行くと、遺体は見ない方がいいと言われ、遺品を渡されるんだけど、それが自転車の鍵だというのが分かったのは後半になってから。しかし、住所が分かったんならもっと遺品はあっただろうに。変なの。
と思っていたら、引っ越し? 母親が来ていたが。なんだ? と思ったら、後添いの話が決まってのことらしい。しかも、5年後らしい。シングルマザーでどうやって生活していたんだ? 端折りすぎだろ。そもそも墓はどうしたのか? 位牌はどうしたのか? とか気になっちゃうぜ。
で、たどり着いたところが能登の海岸っぷちの家で。妻を亡くして女児のいる男が新しい亭主。どうやって縁づいたんだ? は、あとから分かるけど、なんか、無理くりだな。大阪で世話になってた店のオバチャンが、かつて大阪で働いていいて能登に戻った男を世話したらしいけど、あんな田舎によく嫁ぐ気になったもんだ。他にいくらでもあるだろうに。その決断が理解できない。
息子と一緒に遊ぶ、後添いの娘。溜池のあぜ道を走る2人のショットは、なかなかいいけど、それぐらい。能登の朝市も、とくに。漁師のババアが人がよくて相手してくれるけど、なんで? な感じ。しかし、朝市にオシャレなロングコートででかける ゆみ子は浮いてるだろ、あれ。で、漁師のババアは海が荒れた日に1人で出かけ、心配させるけど、無事戻ってくる。これも、それだけ。バス停にいる ゆみ子はなんなんだ? 葬列はなんなんだ? 葬列の場面で雪が降ってくるのはCGじゃないだろうから、タイミングが好かったのか。なかなかの場面。海岸のたき火は何なんだ? 分からんことだらけ。で、後添いの亭主に、彼のことが忘れられない、というと、人は海の光に導かれるとかなんとかいう言葉を亭主が言って、おしまい。は? なんなんだ?
で、↑のあらすじを読むと、へー、そういう話なのか。と思った。弟の結婚式? 記憶ないなあ。人を死へと見送る運命? そんなこと感じもしなかった。海岸の岩場で燃えてたのは柩だったのか。そういう葬儀はOKなのか? とか、そんなのつたわってこないよ、というものばかり。やれやれな話だよ。
田舎の祝言の様子は、うざいけどあんな感じだよな。あんな田舎に嫁がざるを得なかった ゆみ子も気の毒な話。でもそれは映画のキモじゃないらしく、昔の男を忘れられない思い、のようだ。祖母の死への旅立ちにしても、前夫の自死にしても、ゆみ子が責任を感じる必要なんてないと思う。前夫の場合は、たぶんうつ病だろう。そういう描写はなかったけど、ね。むしろ気になるのは轢死で鉄道会社に賠償請求されなかったのかな、という現実的なことなんだが…。
前夫を忘れられないと言いつつ、現夫とも良好な性生活を営んでいる様子があって。江角マキコのでかくて白いパンツ姿がムダにエロい。あのあたりの、女性の性的欲求を肯定的に描くのは、正しいと思う。それに、現夫は、父親のために大阪から能登に戻った、と話していたけど、実は能登に惚れた女性がいて、それで戻った、という話を聞きつけた ゆみ子が、「うそつき。父親のために戻ったって言ってたけど、好きな人と結婚するために戻ったって聞いたよ」と嫉妬していたけど、それぐらい現夫が好きになっていた、ということではないのか。前夫のことはさっさと忘れなさい、としか言いようがないね。そう思うと、とくに深みも感じない。だって、前夫との間に、好きで好きでしょうがない様子が、それほど描かれてないんだもの。
・亭主の父親に江本明。ほとんど存在感なし。このとき47歳かよ。なのに7つ下の内藤剛志の父親役って。笠智衆かよ。
・家の前のコンクリが斜面になってて、海につづいている。クルマも、片寄って止めている。そこで遊ぶ少年。ずるっ、といくんじゃないかと気が気じゃなかったよ。
観客6人
ノー・アザー・ランド 故郷は他にない3/17シネ・リーブル池袋シアター1監督/バーセル・アドラー、ユヴァル・アブラハーム、ハムダーン・バラール、ラヘル・ショール脚本/バーセル・アドラー、ユヴァル・アブラハーム、ハムダーン・バラール、ラヘル・ショール
原題は“No Other Land”。公式HPのあらすじは「ヨルダン川西岸地区のマサーフェル・ヤッタで生まれ育ったパレスチナ人の青年バーセルは、イスラエル軍の占領が進み、村人たちの家々が壊されていく故郷の様子を幼い頃からカメラに記録し、世界に発信していた。そんな彼のもとにイスラエル人ジャーナリスト、ユヴァルが訪れる。非人道的で暴力的な自国政府の行いに心を痛めていた彼は、バーセルの活動に協力しようと、危険を冒してこの村にやってきたのだった。同じ想いで行動を共にし、少しずつ互いの境遇や気持ちを語り合ううちに、同じ年齢である2人の間には思いがけず友情が芽生えていく。しかしその間にも、軍の破壊行為は過激さを増し、彼らがカメラに収める映像にも、徐々に痛ましい犠牲者の姿が増えていくのだった」
Twitterへは「なし崩し的な入植。入植者の横暴…。ユダヤ人の本性ここにありみたいなの感じちゃうな。ハマスの報復もむべなるかな、とかね。映画的には2人の青年がいかに行動を共にするようになったのか、の描き方が物足りない。」
ヨルダン川西岸地域に暮らす住民に、イスラエルから退去命令がでる。戦車の訓練場をつくるから、という名目。で、トラックやブルドーザーがやってきて、暮らしている家々をがんがん破壊していく。住人は、直前に家財を運び出し、文句をいうが、相手にされない。そんな様子が映画の全編に延々と映し出される。いま、あるHPを見たら、「オスロ合意に基づいてヨルダン川西岸地区は、ガザ地区と共にパレスチナ自治区になったが、面積の60%以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、各地に多くのイスラエルの入植地が作られている」ということらしい。これはもう、なし崩し的な侵略だよな。
国際的に取り交わされた合意が無視されるというのも、ひどい話だ。そういえば、ウクライナもミンスク合意を無視して、その結果、ロシアからの侵略という結果を招いている。ウクライナ東部にはロシアという救世主がいたが、ヨルダン川西岸地区を守ってくれる国は、ない。むしろ、アラブ人はやっかいなテロの温床とか、ユダヤ人の哀しい過去についての批判を許さない風潮があって、なかなか反イスラエルな感情はわきにくいんだろう。数年来のガザ地区へのジェノサイド的な猛爆も、一部に批判的な声もあるけれど、アメリカ政府はイスラエル支持だし、日本もそれに追従している。イスラエルに批判的な声明を出したりすると、逆に非難されたりする始末。とくにユダヤ人が多いハリウッドでは毛嫌いされているのかと思ったら、なんとこの映画、第97回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞したというのだから驚き。ハリウッドから無視されるのかと思ったら、違ったのか。よく分からない顛末だな。
だって、イスラエル軍の横暴や、軍と歩調をひとつにする入植者たちの傍若無人ぶりも、露骨に描かれているのだから。しかも、ヨルダン川西岸地区に住むパレスチナ人の青年バーセルと、イスラエル人ジャーナリストであるユヴァルの2人が、イスラエルの悪行をネットで配信しつづけ、それを追っていくのが話の主軸なのだから。
この映画を見て、イスラエル人は冷酷無比なひどい奴ら、と思わない人は(イスラエル人以外)いないのではないだろうか。フツーの感覚ならそうなると思う。しかし、それが現実だ。ナチの犠牲になった可哀想なユダヤ人が、なぜいま加虐者となってパレスチナ人を痛めつけるのか。ハマスのイスラエル人へのテロと人質事件がなぜ起こったのか、それを知る手がかりが、ここにある。そして、イスラエルによるガザ地区へ無差別攻撃の理由も、ここにあるように思った。
それにしても、トニー・ブレアが視察に来たら破壊活動が一旦停止したりとか、力関係で決まるのか? と字幕にあったけど、イスラエルの行動も政治力学で変わるのかね。大国に振りまわされる小国は気の毒なものだ。
ラストに、衝撃的な映像。たび重なる入植者の蛮行で、撃たれる場面が映っているのだ。あんな簡単に入植者がパレスチナ人を撃つのか。あの入植者というのは、イスラエル政府の政策として野蛮人を住まわせてるのかね。あんな土地に住んでも農業もできないだろうに。どういう存在なのだろう。
ところで、登場する2人はパレスチナ人のバーセルとイスラエル人のエヴァルだけど、監督としてこの2人の他に、パレスチナ人のハムダーン、イスラエル人のラヘルがクレジットされている。監督4人で、うち2人が登場しているということか。それぞれの役割はどうなってるんだろう。公式HPには、ラヘルは撮影監督となってるけど…。
それも含めて、この映画の成り立ちが見ていてよく分からないのが不満だ。そもそもバーセルとエヴァルはどのようにして知り合ったのか。そして、同じように行動するに至ったのか? 映画では表に出ないハムダーンとラヘルも同様だ。パレスチナ人とイスラエル人という、相容れない連中がともに映画をつくることになったのか、理由がはっきりしないと、映画もいまいち迫ってこない。映画では、バーセルがスマホで撮って、エヴァルがSNSで拡散するみたいな感じで見せていたけど、それもよく分からない。彼らは、どっかの放送局に属して行動しているのか、あるいはまったくのフリーで、配信は無償で行っているのか、とか、気になってしまう。
それと、気になったのはパレスチナのインフラかな。家が壊されて洞窟にするハメになって、その洞窟の中も写るんだけど、壁にテレビがかかってて、冷蔵庫もある。電気はそこら辺から引っぱってるのか? ガザ政府がやってるの? とか、彼らの収入とか生計はどうやって? とか、も気になるのだった。
2人(4人?)の撮影は2023年までつづいたらしい。その2023年の場面に、降雪の様子が映っていた。パレスチナでも雪が降るのか。なんか、微妙に心に残る場面だった。
スイート・イースト 不思議の国のリリアン3/19ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ショーン・プライス・ウィリアムズ脚本/ニック・ピンカートン
原題は“The Sweet East”。公式HPのあらすじは「サウスカロライナ州の高校3年生リリアンは、彼氏のトロイ、親友のテッサ、何かとトロイにちょっかいを出してくるアナベルたち同級生と、修学旅行でワシントンD.C.を訪れている。はしゃぐクラスメイトを、ひとり冷めた目で眺めている、どこか物憂げなリリアン。夜、皆で抜け出して行ったカラオケバーで、陰謀論に憑りつかれた若い男による銃乱射事件に巻き込まれてしまう。その場にいたド派手なパンク・ファッションのケイレブに導かれ、店のトイレに逃げ込むと、大きな鏡の裏に“秘密の扉”があった。それは地下通路へと繋がっていた」
Twitterへは「迷い込んで囚われて逃げてくたびれて、な感じ。アリス、ポー、アナベル・リー、ネオナチ、ムスリム、星条旗…。そこそこ面白いけど、切れ味が今ひとつかな。」
『アンダー・ザ・シルバーレイク』を連想した。あっちは、消えた女の子を青年が探しまくる話で、こっちは消えてしまった女の子本人の話なので見せ方は違うんだけど、変遷の途中でいろんな人と出会い、出来事に遭い、エピソードや小ネタ満載なところが似てるように思ったのだ。とはいえ『アンダー』の方は女に関する謎をめぐるミステリー要素があったけど、こっちは消えた本人にとくに謎はなくて。どちらかというと、巻き込まれ型で翻弄されている感じ。なので、緊張感やスリルが足りない。なので、ヒキの具合は『アンダー』かな。こっちも、なんか1本芯があるとよかったんじゃないか。リリアン本人にエキセントリックさが足りない気もするし。アナベルと自称しながら、本人には深みもない。ひどい退屈はないけど、少しの焦れったさは感じたかな。
セックス後の男が、女にコンドームを見せてる。あれがリリアンだったのか?
修学旅行でワシントンへ。 騒ぐ生徒たち。でも、みな似たような顔立ちで区別つかんよ。
な夜、ひとり抜けだして夜の街へ行くリリアン。けど、なぜ彼氏と一緒じゃないのだ? 店に入って、トイレに入っていたら、「地下室でやってることは分かってんだ!」と銃を乱射するデブおばちゃんが乱入。リリアンは、スマホを棚に置いたままなのはなぜなんだ? そこにパンク男が逃げてきて、壁をガツガツやってたら穴が開いて、地下道から一緒に逃げ出す。というあたりは『不思議の国のアリス』を思わせる。
リリアンが自分をアナベルと自称したのは、どこからだったか?
パンク男のアジトへ行くと仲間がいて。パンク男はチンポを見せびらかすんだけど、ボカシでよく分からん。「俺は小便も座ってする」といってたけど、どうなってるんだろ。
アジトにいた娘に、学生? と聞かれて、たまたまワシントンで教師から耳にしていたハワード大学と応え、首をひねられるのは、黒人専用の大学だからのようだ。それぐらいの知識の高校生と言うことか。娘は、昔同棲してた男がどうたらと問わず語りする。彼らは反ネオナチの活動家なのか? 公園に行く、と出かけて見れば自然保護区域で。そこで集会が行われると勘違い? 蚊はでるは、トイレがなくてそこらでしゃがんで…。してたらリリアンはネオナチの集会にまぎれ込んでしまう。オッサンに声をかけられ、その、いつもは大学教授してるというネオナチ教授に、うちに来いと言われてついていく。無防備だなあ。朝、起きて見れば布団の柄は鍵十字で笑った。リリアンは、アジトにいた娘の昔語りを借用して自分の物語として話す。ネオナチ教授は蛾を飼うのが趣味で、エドガー・アラン・ポーが好きで…。って、どういう因果があるのだ? よく分からん。不在時のパソコンのパスワードは、セクロピア? 意味があるのか?
ある日、ネオナチ教授の家にネオナチ仲間がやってきてカバンを渡される。で、教授は単身ニューヨークへ行くという。なら自分も行きたい、なリリアンは下着姿で「連れてって」と頼み込み、一路ニューヨーク。はじめは安宿だったけど、少し贅沢したい、と甘えてマンハッタンの高級ホテルへ。で、スキを見てカバンの中を見ると大金が。即断で、それをかついでスタコラ。
そしたら黒人の男女に声をかけられ、映画出演を懇願されてカメラテストから本番って、どういう展開だよ。で、ハリウッドに行ったのか? いつのまにか業界誌にも載るぐらいの人気のスターに? 
一方、リリアンの田舎では、リリアンが行方不明、というニュースや記事が…。
西部開拓時代の話かな? インディアンがいたり、な撮影現場に突然ネオナチがやってきて、リリアンの写真を示して、こいつはどこだ? という間もなく問答無用で銃をぶっ放し、相手男優や黒人スタッフ、その他が撃たれ頭に穴が。コメディかよ。例のネオナチ教授は仲間に拷問されたのか、クルマの中から見ておった。
こりゃたまらんとリリアンはまたしてもスタコラ。と、若い男のクルマに乗せてもらい(なんと無防備な)、どっかの小屋に連れて行かれる。「兄の小屋だけど安心」というので居させてもらうが鍵を閉められるというのは、事実上の軟禁状態。なんなんだ。外をからは時刻になるとコーランとお祈り。外を見るとムスリム男たちが祈りや体操みたいのをしてたり。ここはムスリムのキャンプ? 小水は盥で出して、若い男が持っていく。という生活に、こりゃたまらん、で裏のドアから抜けだしたら、若い男の兄たちに見つかって「ここは私有地だ!」と脅されるけれど、スプートニク(だっけ?)という犬を探してたら迷い込んだ、とか誤魔化して。見つかったかどうか聞くから連絡先を、と腕に書いてもらい、スタコラ。
のあとはどうしたんだっけ?
妊娠させるオッサンの団体みたいなところに助けてもらったんだっけ? うろ覚え。そしたら、高校のときの同級生のデブちゃんがいて、妊娠してたんだっけか? 他にも何人も女性が妊娠してる…。で、家に戻って両親と再会。父親はご機嫌で。家族がテレビのニュースで、爆弾が爆発? とかなんとかを見てるのをよそ目にリリアンは玄関からでていくんだけど、背後すなわほち玄関には大きな星条旗が掲げられている、というところでEND。
というわけで、思わせぶりなメタファーがてんこ盛りではあるんだけど、それが何を意味しているのか? 何を言わんとしているのか? は、よく分からないのだった。
・他にもローワン大学って名前がでてきたな。なんか意味あるのか?
ロングレッグス3/21ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/オズグッド・パーキンス脚本/オズグッド・パーキンス
原題は“Longlegs”。公式HPのあらすじは「1990年代半ば、オレゴン州。FBI支局に勤める新人捜査官のリー・ハーカーは並外れた直感力を買われ、重大な未解決事件の担当に抜擢される。ごく平凡な家族の父親が妻子を殺害したのち、自ら命を絶つ。そのような不可解な殺人事件が過去30年間に10回も発生していた。いずれの現場にも侵入者の痕跡はなく、“ロングレッグス”という署名付きの暗号文が残されていたのみ。“ロングレッグス”とは一体何者なのか。真相に迫ろうとするハーカーは暗号文を解読し、事件にある法則を見出すが、その正体も行方も依然としてつかめない。だがやがてハーカーの過去とロングレッグスの意外な接点が浮上し、事件はさらなる恐ろしい事態へと転じていくのだった」
Twitterへは「なんだよ。また悪魔かよ。飽きないね。むりくりのこじつけすぎ。ちっとも怖くないし、むしろ随所に笑える。ニコラス・ケイジは怪演だけど、なんだかな。キーラ・ナイトレイを馬面にしたようなマイカ・モンローは、妙に残る。」
真っ当なクライムサスペンスかと思ったら、なんだよ。変態人形作家に操られるババアが繰り広げてきた、神秘主義的(?)な悪魔の呪いみたいなオカルト話で、第六感をもつ主人公のリーがそのババアの娘だったという、ごくごく内輪で始まって内輪で解決する話だった。最初のうちはそんなこと知らないから見てたけど、いつになっても論理的な話になっていかない。なので、リーが精神病院につづて母親のところを訪れたあたりで、ちょっと寝てしまった。
冒頭の、リーが犯人の居所が勘で分かってしまうのは、あれはただのエピソードで、続く話とは関係ないのだよな。でも、部屋に入っていくと犯人が抵抗せずに両手を挙げてしまうのは、ありゃなんなんだ? と、気になってしまう。
でまあ、この第六感が見込まれたのか、連続殺人事件の捜査に関わるようになる。のだけれど、この事件のあらましがアバウトで。父親が妻や子供たちを殺すということと、謎の文字、ロングレッグスという署名が残されているということぐらい。そこでリーは、どういう手を使ったのか知らんが、謎の文字を解読してしまったのか? で、死んだ子供の生年月日が3月14日だっけか、が共通している、ぐらいしかヒントはない。で、それらを解明していくのかと思いきや、そんな展開にはならず。なぜかリーの家に侵入した人物が、3月14日までは開封するな、という手紙を置いていったりする。リーはその人物を目撃するけど、仲間に連絡して追うこともしない。
そのあとに、犯人を目撃した可能性のある少女が生きているとかいう情報を得て、農園に行くんだっけか? 忘れた。で、次がその少女が入っているという精神病院に行き、次に母親のところを訪れる。ボーっと見ていたせいか、その因果関係がよく分かんないのだった。
上司(?)の女性が同行して行ったのは、農園だったっけ? で、その女性は呆気なく撃たれて死んじゃうんだけど、ありゃなんなんだ。その後にFBI仲間が調べたりしてたっけ? なんかよく分かんないんだよな。いらいら。
で、最初に少女時代のリーを脅した白塗りの人形作家が、あれはどういう経緯で逮捕できたんだっけ? とにかく逮捕して、リーが尋問してたら突然頭をテーブルに打ち据えつづけ、自死してしまう。この後に母親のところに行くんだっけ? それとも、ネタばらしのパートが挟まるんだっけ? ええい、もう、なんだかよく分からんよ。
で、そのネタばらしだけど。人形作家がリーを殺そうとしたけど、リーの救命と引換に母親が取引に応じたのかな。人形作家がつくった妖しい人形を、3月14日に誕生日を迎える一家に「当選しました! プレゼントです」とかいって持ち込むと、なぜか父親が妻と子供たちを惨殺するという仕掛けらしい。それを、リーの母親が延々とつづけていたせいで、連続殺人事件になった、らしい。という理解でいいのかな。
しかし、あまりにも大雑把すぎだろ。人形作家は、なんなんだ? 「サタン万歳!」とか言いつづけてるんだけど、自分の肉体の一片を仕込んだ人形とはなんなんだ? 人形作家が悪魔と取引した場面はでてこない。いったい誰の指令で人形作家は家族殺しをしてるんだ? あの人形に、父親を狂わせる、何があるのだ? 人形作家は、10年の間どこでなにをして暮らしてたんだ? リーの母親は、なぜ淡々と人形作家の言いなりになってたんだ? 人形作家が自死したのに、なぜリーの母親は、リーの上司の家に人形を届けたんだ? 分からんことだらけ。
で、最後はリーが、人形のせいでおかしくなった上司を、撃ったんだっけ? その後、人形を持ち込んだ実母も撃ち殺す。というのが行われているあいだ、幼い娘は恍惚の表情で人形を抱いている。なんなんだ。オカルトにも程があるだろ。
というわけで、イマイチ納得のいかないお話過ぎて、うーむ、な感じ。こういう、わけの分からん悪魔が悪さをする、という話を、アメリカ人は好きだよなあ。
・で、ロングレッグスって、何の意味だったんだ?
・リーが、新聞だかの文字を三角形でつないで暗号を読解する場面もあったけど、あれも曰くありげにつくってるけど、何をしているのか分からなかったな。
・ときどきインサートされるヘビのイメージはなんなんだ?
・冒頭の、幼いリーと人形作家との出会い。後半過ぎの種明かしのところだけ、スタンダードサイズ。あとはワイドスクリーン。というのも、意味不明。
あの歌を憶えている3/24ル・シネマ 渋谷宮下監督/ミシェル・フランコ脚本/ミシェル・フランコ
原題は“Memory”。公式HPのあらすじは「ソーシャルワーカーとして働き、13歳の娘とNYで暮らすシルヴィア。若年性認知症による記憶障害を抱えるソール。それまで接点もなかったそんなふたりが、高校の同窓会で出会う。家族に頼まれ、ソールの面倒を見るようになるシルヴィアだったが、穏やかで優しい人柄と、抗えない運命を与えられた哀しみに触れる中で、彼に惹かれていく。だが、彼女もまた過去の傷を秘めていた」
Twitterへは「過去にトラウマを持つ元アル中の中年女性が、認知症を患った男性の介護をしていくなかで…な話。話の枝葉がムダなようで、でも微妙に意味ありげ。全体に大人しいトーンで、誰も激さないのも一風変わった演出。にしてもなんで「青い影」なんだ?」
いろいろと「?」なところが多い。最初は昔の知人? かのように始まって実は会ったことのない他人だった、な展開になりながらも新たな関係が生まれる、というのも、なんか素直に受け止められない。そんなことあり得るか? なところがいっぱいあるんだよね。かといってムリやりの強引さがあるわけでもなく。最終的には善意が勝って、温かさも感じなくはないんだけど、よーく考えるとリアリティはない。なんか、とらえどころのない変な感じの話だった。
事の発端は同窓会で、知り合いもいない感じで座っていたシルヴィアの横にオッサンが座る。知らない男性? なので、逃げるようにしてシルヴィアは席を立ち、会を後にする。が、男は付いてきて、同じ電車にも乗り、自宅までやってくる。慌ててドアを閉め、窓から見ると居つづけている。翌朝。雨。男は濡れたまま倒れている。シルヴィアは近寄り、携帯を出させ、どこかに電話。男の知り合いらしいのが連れに来る。…という件は、違和感ありすぎだろ。知らん男に尾行されたら警察を呼ぶのがフツーなんじゃないの? その途上でも、あるいは翌朝の自宅前でも。なのにそういうことはせず、自分から男に接近し、連絡先を尋ねたりしている。いくら気絶状態だからって、無防備すぎて話に入れないよ。
最初は設定が分かりにくく、家族関係も小出しで徐々に、な感じ。男性はソールといい、若年性認知症。ときどき訳もなくぶっ倒れる。面倒をみているのは弟で、アイザック。アイザックには娘がいて、短髪のサラ。シルヴィアは母子家庭で、娘は中学生ぐらいの女の子のアナ。シルヴィアの姉かオリヴィアで、姉妹の両親も居るんだけど、なぜかシルヴィアとはずっと会っていない。なのに、母親はオリヴィアとはよく会ってる様子。オリヴィアには旦那もいるけど、登場場面に比べて話もせず、存在が薄い。息子はアナと仲がいい、のかな。冒頭近くの、2家族がワイワイいってる場面も、最初は何だかよく分からなかった。まあ、こういう、きちんと説明しない演出は、後々のシルヴィアの暗い過去に関係あるんだろうけど、ちと隔靴掻痒な気がしてしまう。
ソールは同じ高校の卒業生らしいけど、同窓会っていっても同じ学年だけじゃなかったのか。最初、シルヴィアはソールを「ベンの仲間」と判断し、嫌悪感を示す。「ベンとその仲間に何度もレイプされた」という記憶があるらしく、ソールをその仲間と思い込んだようだ。ところが妹だったかな、の調べによると、ソールはシルヴィアが転校した後に別の学校から転校してきた、と言うことが分かる。つまり、在学中にはあっては居いないというわけだ。それでシルヴィアはソールとアイザックにわびを入れるんだけど、ここでサラが「私が大学に行ってる間、伯父の面倒をみてくれない?」と提案してくる。なんともいきなりだよな。でまあ、映画の都合上、シルヴィアは空いている時間にソールの家に行き、面倒を見ることになる、という展開だ。
なんか強引だよな。
ところで、シルヴィアは「ベンとその仲間に何度もレイプされた」と話しているんだけど、こんな重大なことをさらりと言うのは、なんだろう。と思っていた。でものちに、シルヴィアは実父と風呂に入ったときまさぐられたりして、父親を「ペドフィリア」と非難する。それがシルヴィアの側からの両親への敵対心だって分かるんだけど、最初のうちは、ベンのことといい、妄想癖な女なのかな、と思ってしまった。まあ、ミスリードさせる作戦だったのかもしれないが。でも、母親も「父さんはそんなことはしない」といいつつ、妹のオリヴィアの記憶で父親のペドが概ね証明され、母親も知ってて黙っていた、と非難されると黙ってしまったところを見ると、妄想ではなく事実だったような気配が濃厚だ。にしても、高校のときのレイプはどうなっちゃうんだ? シルヴィアは両親にも言えず泣き寝入りだったのか? なんかよく分からない話だ。
とまあ、先走ってしまったけれど。シルヴィアはサラの提案を受け入れ、ソールの監視を行うようになる。でもソールはアイザックから外出禁止令が出ているので、ほぼ部屋の中でテレビを見るとかだけなんだけど。てなことをしてるうちに、ちょっとはいいか、と散歩に出かけたりするようになり。なぜか知らんけど相思相愛な関係になっていくという、映画的なご都合主義的展開になっていく。まあ、フツーに考えれば認知症のオッサンに惚れる子持ちの女性はいないと思われるけどなあ。まあ、認知症の方々には朗報な話になってくる。
ソールには突然、自由が効かなくなり転倒するような症状があり、室内でも浴室で転倒しているのをシルヴィアが発見していた。その後も、シルヴィアはなんだったかしでかして(なんだっけ? 忘れた)、出入り禁止になるんだったっけか。で、シルヴィアが施設で働いているとき、「ソールが病院に担ぎ込まれた」という連絡が入って、慌てて病院に行ったらアイザックから無視される、んだっけか。えーと。このとき、2人はもうセックスしてたんだよな。それでソールは再び軟禁状態になるんだけど。これをアナだったか、がソールの家に行って彼を連れ出し、シルヴィアに会わせて。ソールとシルヴィアが抱きあって、映画は終わる。ムリやり別れさせられた男女が困難を乗り越え、再会。ではあるけど、夢も未来もないラストシーンだよな。だってソールは相変わらず認知症で記憶は危ういし、突然ぶっ倒れるのは変わらない。シルヴィアは、それでもいい、と思っているんだろうけど。じゃあ、シルヴィアはソールを引き取って一緒に住むのか? いくら好きだからって、働きもしない認知症のオッサンと住むのか? 理想の夢物語を描いても、なんか寒々しい未来しか見えないんだけどなあ。
・兄に外出禁止をいっていたアイザックは、合理的で判断力のある人だと思う。けっして人の恋路を邪魔したくてしてるわけではない。兄思いだからこそ、そうしているだけだ。気の毒な役回りになってるな。
・アイザックの娘サラは、伯父思いのいい娘だけど、映画の中では大した役割が与えられてなくて、お気の毒な感じ。
・ずっと隠されているけど、姉妹の両親の背徳的な立場は、ひどいものだ。実の娘が亭主にいじられているのを知りつつ亭主の肩を持つ母親ってなんなんだ。そういう過去を背負ってない感じが濃厚すぎて、なんかひどすぎる感じ。妹のオリヴィアも、知っていながら言えなかった、らしいが。それほど強権的な父親にも見えなかったんだが。どういう家族なんだ、この一家、って思ってしまう。
・ところで、ソールが入院したことは、シルヴィアの働く施設に報告が行き、それでシルヴィアは病院に行くんだが。・記憶を失いかけているソール。なぜか「青い影」には反応し、涙するんだけど。その理由は何なのか、結局、わからず。
・シルヴィア役のジェシカ・チャステインは撮影時45歳ぐらいか。ソール役のピーター・サースガードは53、4歳かな。そんな年齢が違う生徒が、同じ同窓会に出席するのか。変なシステム。
BAUS 映画から船出した映画館3/25テアトル新宿監督/甫木元空脚本/青山真治、甫木元空
あちこちHPの解説は「2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターをめぐる歴史と家族の物語。1925年に吉祥寺に初めて誕生した映画館・井の頭会館が、ムサシノ映画劇場、バウスシアターへと形を変えながら、多くの人々に愛される文化の交差点になっていく長い道のりを描く。1927年。青森から上京した兄弟ハジメとサネオは、吉祥寺の映画館・井の頭会館で働きはじめる。兄ハジメは活弁士、弟サネオは社長として劇場のさらなる発展を目指すが、戦争の足音がすぐそこまで迫っていた」
Twitterへは「吉祥寺で映画観ないのでBAUSシアターは知らない。前半はニュース映像と細切れエピソードを無造作につないだだけ。核となる主人公は誰? 周囲の人物も断片的。安上がりな書き割り的セット。これなら前編ドキュメントの方がマシだろ。」「音楽自体はいいんだけど、突然ノイジーだったり入れ方が下手くそ。大友良英のステージはカッコよかったけど。」
BAUSシアターのことは知らないし、見に行ったこともない。そもそも吉祥寺はそんなにいくところでもない。だから思い入れも感傷もない。という素の状態で見たんだけど、雑なクロニクルを、断片的なフィクションとニュース映像とをからめつつ展開する映画で、ほとんどまったく感情移入できず。BAUSシアターを知ってる人なら共感できるのかしら?
最初は、現在? 2014年なのかな。井の頭公園に爺さんがいて、ぼそぼそ一人語り。この爺さんがナレーターとなり、父親(本田サネオ)とその兄(ハジメ)が青森から出て来て、なぜか井の頭会館で働くことになった経緯を紙芝居的に紹介する。セリフが東北弁と早口で、なに言ってるのかほとんど分からない。井の頭会館も、公園に立てかけられた看板みたいな薄っぺらい書き割りで、でも、内部は別撮りしていて、ロビーや客席、映写室もあるという具合。芝居の書き割りや演出手法と、フツーの映画の撮り方を混ぜていて、戯画化している感じで、ホント、紙芝居なのだ。しかも、物語部分にほとんどドラマがない。トーキーが流行りだした、活弁士が不要になった、社長だった人が帰省して弟のサネオが社長になった、サネオが結婚して子どもが生まれた、ハジメが出征して戦死した、サネオの娘2人は疎開して、男の子は東京に残った。その男の子が僕=冒頭で一人語りしてた爺さんらしい、とか。戦争が終わって映画館に客が来るようになった…などなどのエポックなシーンが寸劇で挟み込まれる。周囲の人物も、サネオの妻の母親がいつのまにかいたり、戦後にはなぜか従業員がたくさんいる。なぜか妻が死に、それを契機に井の頭会館は閉館となり、サネオは新しい小屋を建設する。サネオが死ぬとその小屋もなくなって…。なぜか新しくBAUSシアターが始まった。で、その社長になったのは、男の子=爺さんらしい。てなクロニクルがアバウトに分かる、な内容。それぞれのエピソードに共感したり、なるほど、と言ってるヒマもない。あー、そうですか、と追っていくのが関の山。で、そのBAUSシアターの閉館の日、が冒頭の爺さんの場面らしいのだが、エンドロールには、本田家3代の名前がクレジットされている。初代のハジメ、息子で2代目の爺さん、は分かるけど、3代目は映画に登場してたか? 爺さん引退後に3代目が社長になってたのか? とか、よく分からんところも少なくない。
分からないといえば、子供時代の爺さんが劇場の中で赤いワンピースの少女と戯れる場面で。だれかと思ったら、どうやら爺さんの女房らしいが、まともな紹介もされず、井の頭公園をにこやかに歩く橋本愛がさらっと映るのみ。で、その彼女が死んでBAUSシアターが閉館する? ほんとにそんな切れ目になっているのかどうか知らないが、まあ、こじつけだろう。
なわけで、映画の2/3ぐらいにフィーチャーされてるサネオが主人公のような気もするけれど、一方で、BAUSシアターを閉館させた爺さん(鈴木慶一)も主人公の1人のはずだけど、登場場面はそこそこあっても存在感がない。そう。登場する人物の存在感が、薄いんだよ、この映画。サネオ役は染谷将太だけど、どういう奴だったのか、がよく分からない。だってエピソードが無いのだから。峯田和伸のハジメの方が、キャラ立ちしてて、目立ってたぐらいかな。とはいえ、ハジメも、何を考えていた男なのかはサッパリ分からない。サネオの妻役は夏帆だけど、彼女はただの母親役でしかなくて、恋も苦労も哀しみも縁がない女にしか見えない。セットも書き割りなら、人物も書き割りなのだ。
ラスト。BAUSシアターの閉館式が行われている場所に、爺さんが自転車を引っぱって戻ろうとすると、ブラスの楽団が付いてくる。なんじゃらほい。『8 1/2』みたいな意味合いなのかと思ったらそうでもなくて。なんだかな。いっぽうの閉館式の行われているBAUSシアターの調整卓にいる中年男女はだれなんだ? これが3代目なのか? 訳分からん。
で、井の頭公園の架け橋の上から、爺さんが、池へゲロなのか水をなのか吐くんだが、一瞬、顔がサネオになる。だからなんなんだ。まったく、たんなる自己満足でしかない映画だな。元の、青山真治の脚本がどこまでで、それを監督の甫木元空がどこまでいじったのか分からんけど、たんに眠いだけの映画だった。実際、戦時中のところだったか、で、少しうとってしたしね。
恋のエチュード3/30シネマ ブルースタジオ監督/フランソワ・トリュフォー脚本/ジャン・グリュオー、フランソワ・トリュフォー
原題は“Les deux Anglaises et le continent”。DeepLで訳したら「2人の英国女性と大陸」ですと。そのままだな。エチュードは、「美しい練習曲」という意味らしい。Wikipediaのあらすじを少し要約。「20世紀初頭のパリ。青年クロードは母親と妹二人、父の残したアパートの家賃などで生活をしていた。そこへ母の旧友ブラウン夫人の娘アンが挨拶に来た。彫刻を学んでいるという英国人のアンは、クロードを夏のイギリスに誘う。ウェールズの海辺を見渡す丘上のブラウン邸にはアンの3歳年下の妹で眼を患うミュリエルがいた。クロードは姉妹両方のことが気になり、 姉妹もまたクロードに恋愛感情を持つことに。ミュリエルは散歩を共にするが時にはつれない態度も。その感情に気付いた姉は身を引き妹を立てる。クロードはは昔話として15歳当時のとある事件を吐露したり、パリの娼館事情など猥談に花咲かせたり。ブラウン夫人は3人に「クロードの母のロック夫人は早くに夫を亡くされ、その後も貞淑に貞操を守っている」と諭し、クロードを隣家のフリント氏宅へ宿泊を移すよう提案。夫人は「もし国際結婚にでもなれば良しとしないが、ミュリエルの想いを尊重したい」と交流は勧める許可をした。それを受けクロードは妹ミュリエル一筋と決め、手紙をしたためた。しかし、ミュリエルは「クロードを振る返事」を手紙にして姉アンに持たせ、クロードへ伝えるが…」
Twitterへは「20世紀の初頭。不労所得で暮らす仏人青年と、地味な英国人姉妹とのじれったすぎる三角関係をのらくらだらだら。なので少し寝た。個人的な好みでいうと、妹よりオバサン顔の姉の方だな。監督はトリュフォー。撮影監督はネストール・アルメンドロス。」
評判がいいようなので少し期待はしたんだけど、なんかな、な感じだった。だからどうしたの話を、のらくら、だらだら。しかも、要所でナレーションが入って、人物の感情や行動を解説し、綴られていく。なので、演技を通して人間ドラマとして受け止めるのがしにくい。解説を聞いて、あーそうですか、と納得するしかない。だって、役者がほとんど演技しないのだから。なので、話に入りにくいし、感情移入もしにくい。というわけで、20分ぐらいして一度寝て、起きたけど、またしばらくしてうとうとして。あわせて20分ぐらいは寝たのかな。
そもそもの発端が、なんか変。母親の友人の娘アンがやってきて、クロードに「妹に会わせたいから、英国に来てよ」てなことをいうのだが、親同士が友人だからって、初対面の男女がそんな招待の仕方をするものなのかね。なことは関係なく、クロードはブラウン家にやってくる。ブラウン家は母親とアンと、目を病んでいるミュリエルの3人家族。そこに男がひとり転がり込むんだぜ。フツーは、なんだ? と思うだろ。あとから分かるのは、このときミュリエルは23歳で、アンは26歳つてこと。クロードはいくつか分からんけど、30前ぐらいなのかな。
↑のあらすじにあるように、クロードと姉妹が惹かれ合い始める、な感じは特になくて。絵を描いたりテニスをしたり、のんびり暮らしてる。しかし、姉妹がクロードに「娼館ってどういうところ?」な質問をして、クロードが説明する場面は違和感。そんなこと、うら若き乙女が話題にしてもいいのか? それに、クロードがエラソーに解説してたけど、ってことはクロードはよく娼館で女を買っていた、っていうことなのか? それょ知っても、姉妹は平気なのか? とかね。それと、世の中はアールデコ、ジャズエイジなはずなのに、そんな気配はちっとみ感じられない。よく飽きないな。で、そのうちクロードはミュリエルに惹かれているような気はしたけど、納得は行かない。だって姉のアンの方が美人だし、ミュリエルは失明寸前の目病みなのに、と。
にしても、クロードは働きもせず呑気だな。アンも、彫刻家を目指してるとか。ともに母子家庭なのに、金はどっからでてるんだ? とか気になった。まあ、アンはちょっと働いているようだったけど。
で、どーもクロードとミュリエルが接近しすぎだからと、母親がクロードに近所のオッサンの家に泊まるようにいうんだけど。これまた変なの。追い返すわけではないのだよな。嫁にやってもいいのか。いやなのか。なんか定かではない。という状態でクロードがミュリエルに「結婚してくれ」の手紙を書くんだけど、ミュリエルは「お断り」の返事。3年経ってそれでも気があるなら、みたいな返事をしてたかな。
この後ぐらいに寝たのかな。
なんだかんだ、よく分からんうちにクロードとアンは接近して。キスしたりする関係になるんだけど、「アトリエでセックスは嫌。スイスの別荘に1週間行きましょう」な話になって。ボートで行く避暑地みたいなところにこもるんだけど、最初の日は毛布で仕切りをつくり、アンはさっさと寝てしまう。でも、何日目かにやっと性交? したのか? よく分からんけど、そのときのアンの下着が赤いステテコみたいのって、なんなんだ?
で、クロードが知り合いにアンを紹介してるうち、アンは批評家のなんとかいう男と付き合い始め、2人でペルーだかどっかに行ってしまったらしい。だけど、ペルーから戻ると2人は別れてしまい…。で、アンとクロードはヨリが戻った? でも、ベタベタな関係ではないようで、よく分からない。
そういえばミシェルはクロードのことを思ってはいるようで。手紙を書いたり、告白日記を送ってきたりしていた。その告白日記が面白くて。小学生ぐらいのときか? 友人の女の子とお泊まり会で乳繰り合っててオナニーを教えられ、以後、猿のように妄想とオナニーの世界に没頭していたらしい。だって、散歩しててしたくなって野っ原でやってた、って、そんな告白をクロードにするんだぜ。オモテ面は別として変態だろ。
アンは、登山家のなんとかいう男と別れた、という話が会った。登山家は登場せず話だけ。アンがミュリエルに話すには、3度恋をした、と。それが、登山家と批評家と、言い淀んでクロードというは、ミュリエルは驚いた顔。私が好きなのを知っていながら、な感じかな。って、鈍感すぎるだろ。
と思っていたら、アンが病気だという情報で、なぜか別れたはずの批評家がクルマをとばして(馬車の時代からいつのまにかクルマ時代になっているのが興味深い)会いに行くと結核で。医者にも診せずにいたけど、あえなく亡くなってしまう。おいおい。呆気なさ過ぎ。
そんなこんなで大戦(第一次かな)を挟んで世界は変わり、とかなんとか。どういう経緯か忘れたけどクロードはミュリエルと再会し、やっとベッドイン! 初めて会ってから7年目、このときミュリエルは30歳で、シーツは大出血! て、あんな出血せんだろ。大げさな。
避妊しなかったらしい。けどミュリエルは「あなたとは結婚しないけど、子供は生みたい。かつては姉妹とクロードで3人だった、今度は私と子供とクロードで3人よ」みたいな脳天気なことをいっていたけど、どうやら想像妊娠だったらしい。
そして15年後。ミュリエルは学校の先生と結婚して、子供ができたとかで、その子供が通っているらしい学校の前をクロードが歩いている。ショーウィンドウに映る自分を見て、俺も老けたな、って感想で映画は終わるという、なんなんだ、な映画だった。
対立とか嫉妬とか挫折とか成長とかほとんどなくて、話に山もなく、苦境もないようなだらだら話。なので、退屈だった。寝ちゃうのも仕方がない。
・撮影監督はネストール・アルメンドロスか。ピクトリアリズム的な映像は美しかった。たとえば、背後に浮かぶボートに日傘の女性が乗ってるとか、なかなかいい感じ。だけど…。
・珍しく、客は19人もいた。
レイブンズ3/31新宿武蔵野館1監督/マーク・ギル脚本/マーク・ギル
レイブンズというのは、ワタリガラスのことらしい。公式HPのあらすじは「北海道の高校を卒業した深瀬は、父の写真館を継ぐことを拒んで上京する。彷徨う日々の中で彼は洋子に出会う。洋子は美しく力に満ちていた。洋子が深瀬の写真の主題となり、二人はパーソナルでありながら革新的な作品を作り出していった。家庭らしい家庭を知らずに育った深瀬は、家族愛に憧れていた。洋子の夢を支援するため懸命に働く深瀬だったが、ついに洋子の信頼を裏切り彼女の夢もうちくじいてしまう。深瀬「写真家にまともな生活はない。俺はカメラを武器のよう に使った。俺が愛する全てのものと全ての人を俺の仕事に 引きずり込んだ」 洋子「そんなものの後ろに隠れてないで…。私を見てよ…カメラ じゃなくて人の眼で見て。」 天賦の才の一方で、心を閉ざし、闇を抱えていた。それは異形の”鴉の化身”として転生し、哲学的な知性で芸術家への道を容赦なく説き、翻弄する。深瀬の最愛の妻であり最強の被写体であった洋子の存在を犠牲にしてもー。闇落ちから深瀬を守ろうとする妻洋子-1950年代の北海道、70年代のNY、1992年東京まで、疾風怒濤のダークでシュールなラブストーリー。」
Twitterへは「真家・深瀬昌久の伝記である。深瀬を知らなくても、奇人で破天荒な生き様は惹きつけられるかも。深瀬役の浅野忠信はハンサム過ぎるけど、なかなかいい。妻・陽子役の瀧内公美は知性が出すぎかな。深瀬の写真を知れば、もっと興味が湧きそう。」
深瀬昌久については何となく知っていた。写真集をちゃんと見たことはない。でも、「洋子」の一部や家族写真、などは見ていた。「烏」の初版がバカ高くなっているとか、海外からも注目がこの10年ぐらいすごいとか。PlaceMにはよく行ってたけど、主催の瀬戸正人が深瀬のアシスタントをしていたというのは、瀬戸の「深瀬昌久伝」を4年ぐらい前に読んでからかな。へー、な感じだった。
深瀬の写真を知る人の幾人かは、気持ち悪いとか、嫌いとか、オヤジの骨揚げまで撮るなんて、あんま好きじゃない感じ。ボーナス支給日、飲んで銀座から帰るタクシーの窓から1万円札をひらひらと撒き散らした、という逸話も聞いたことがある。写真も変なら本人も変な人だったようだ。では自分自身、深瀬の写真が好きかと言われると、さあてね、な気がする。面白い切り口もあると思うけど、本人が登場する“ぶくぶく”とかは好きじゃないし、後期の写真にマーカーで彩色したのとか(猫のやつとかも)も、あんまり好きじゃない。むしろ、聞いたり読んだりした人間・深瀬への興味の方が強いと思う。
この映画は、もちろん人間・深瀬をえぐるような内容になっているけれど、深瀬がぶつぶつと独り言をいう癖から、彼の根底には別人格=烏がいる、というようなつくりになっていて、その別人格が着ぐるみの烏として登場する。そして、ときに深瀬と烏は言い合ったり反発したりする。ともすると解離性同一性障害にも思えるような表現手段をとっている。実際に深瀬がそうだったかは知らない。
この着ぐるみ烏は好みが分かれると思う。後に深瀬は「烏」の個展のとき、訪れた洋子に「あなたの肖像に見える」といわれていたけど(洋子の亭主は、なんていってたっけかな。忘れたけど)、烏=深瀬と見せたいのだろう。でも、深瀬のどこがどう烏なのか、は良く分からない。烏は、何の象徴なのだろう? なんか言ってたっけかな? 忘れた。
史実を元にした映画、ということだけれど、おおむね深瀬の変態さの部分をつなぎつつ、妻洋子の出番を多くして、家族とくに父親との確執を描いている感じ。
高校を卒業し、日芸を受けて合格するも父は「写真館に大学は要らん」と高圧的だけど、なぜか進学している。学費は誰が出したんだ、と疑問が湧いてくる。で、大学生活はバッサリなくて、「今日は女房の出産予定日」といいつつ、トラックに積まれた、断ち割られ吊り下げられたブタを撮っている場面。で、やっと病院に行くと死産で、その子供を撮るんだよ。これは史実なのかね。ところで、あとから「売春婦と子供」とか、父親からだったか、罵られる場面があったけど、最初の結婚(してたのか?)は、売春婦とだったのか、売春婦のような女だったということなのか、よく分からない。
次は洋子との出会いで、でも、出会いのドラマなんかなくて、屠殺場で黒マントの洋子を取り続けている。Wikipediaによるとこの頃はまだ会社員のはずだけど、仕事をしている雰囲気は、ない。結婚前後は日本デザインセンターにいたらしいけど、広告写真を撮ってる様子もない。写真集「洋子」にでてくる、出勤時の洋子を二階から写す場面はちゃんとあるけど。
写真集「家族」に登場する父親は痩せて貧弱な顔、身体をしているので、父親があんな威張り散らしているとは思わなかった。そもそも家族写真を撮る、しかも、半裸の女房・洋子も入れて撮る。なかには深瀬と父親が上半身裸のもある。それを知っている立場からすると、父親はなぜ許容したのか疑問が湧く。映画の父親なら、こんな芸術写真は写真館には要らない! こんな家族写真を俺は認めない! 俺は映らない! とか反発してもおかしくないと思うんだよね。とても不思議。
洋子を入れ込んで取り続ける深瀬。ニューヨークMoMAで写真が展示されることになって、喜ぶ二人。でも、MoMAに行くと被写体の洋子にばかり関心が集まって、深瀬は面白くない様子。まあ、そりゃそうだろう。そのうち別の女性にもファインダーを向けるようになり、夜な夜なサイケなパーティに行ったり、ぐでんぐでんに酔って生活がすさんでいく。行きつけのバーで青年に「撮影のシステムはどうなってるんですか?」と問われ、「ただ撮ればいいんだよ! うるさいんだよ。帰る。帰るのはこいつのせいだ!」とかいって階段をよろよろ降りたり。まあ、理屈っぽい青年がいたんだろうことは分かるけど、理屈よりまず撮る、が深瀬だったんだろう。それは分かる。能書きじゃない。
この頃だっけ。父親が東京にやってきたのは。無関心そうに深瀬の写真が掲載された雑誌をぺらぺらめくり、その雑誌の上に出したコップのシミをつけられてムッとしていたり。そういえば、父親と殴り合いのケンカをする場面があったな。地元でだったか。肉体的には深瀬の方がはるかに強いはずなのに、どっかに逃げ込んでビクビクしていた。なんだ。もう40過ぎだと思うけど、まだ子供なんだな。オヤジには頭が上がらない、ということなのか。
洋子には「働いてよ」といわれる。それで広告写真を受けて撮るんだけど、コンテ通りに撮らず、「掃除機をギターのつもりで」とか演出して広告会社やクライアントに顰蹙を買っていた。のは、あれは会社を辞めてフリーになってからのことなのか。あんなことするかいな、だけどな。面白おかしく演出してる感じがするなあ。
あきれ果てて洋子は出て行ってしまう。後にもどってくると相変わらずヘロヘロで、みると酒と一緒にハイミナールを飲んでいる様子。洋子が諫めると、父親からもらった短刀で斬りつける。短刀は、イザというときの覚悟のために父親が持たせたはずなのに、困った男だ。これで警察沙汰になった様子。やれやれ。
洋子と離婚したのはこの頃なのか? 具体的には説明はない。北海道に行き、「烏」はこの頃から撮りはじめたんだろうか。なぜ「烏」なのかは、よく分からん。たぶん気まぐれではないのかな。理屈はあとからいくらでもつけられるしな。その「烏」の個展は、雰囲気的に松島眼鏡の上にあったころのニコンサロンに見えた。もうないけど、再現したようだ。ここに洋子が現在の旦那とやってきて、「あなたの肖像に見える」と言われたのだったな。もしかして、それで深瀬は、ああ、俺は烏か、と思ったような気もしないでもない。
父が死んで、骨揚げの場面があったよ。やっぱり撮ってた。なんでも記録する男だったんだな。「洋子」の個展は、この後だっけか。にしても離婚した元妻の写真にこだわり抜いた感覚はよく分からない。現在の妻がいい感情を持たなかったんじゃないのかな、と。洋子自身も、よしてくれ、とは言わなかったのかね。なこんなで、この頃の話になるとあまり憶えてない。酔っ払ってバーの階段から落ちて脳挫傷で入院し、カメラにも興味をもたずボーッと過ごしていた様子が映る。そこに洋子がやってくるんだけど、調べると、本当にたまに見舞に来ていたらしい。どういう関係なのか、不思議。階段から落ちたのが1992年で、亡くなったのが2012年の78歳。ってことは20年も入院生活だったのか。これまた凄まじい。意識がどの程度あったのか。気になるね。
・写真集「家族」も登場するけど、かつて洋子が果たしていた半裸の女の位置に別の女性がいたりする。けど、なんの説明もない。不親切だよな。再婚した相手を登場させていると言うことなのか?
・深瀬の友人的な感じで、アシスタントもする正田という男が登場するけど、あんまり機能してなかったな。彼は瀬戸正人がモデルなんだろうか? 瀬戸とは東南アジアあたりに撮影旅行に行ったようだけど、そういうのほほん話はまったく登場していなかったな。
・山岸という男も、名前と、ワンカットだけ登場する。調べたら「カメラ毎日」の編集者なのか。なるほど。でも、映画においてはあまり核心的な存在ではないかも。
・写真の中の洋子は奇矯でエキセントリックな感じだけど、瀧内公美は存在するだけで知性を感じられるぐらい端正な顔立ち。なので、洋子を思わせるところは少ないかな。
・浅野忠信はセリフ廻しが一本調子で抑揚がなくて、まあ、ヘタだと思うんだけど。この映画に関しては、素の浅野がそのままでも、らしく見えて、なかなか好かった。浅野が深瀬に似通ってるからかね。

 
 

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