2025年4月

ケナは韓国が嫌いで4/3ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/チャン・ゴンジェ脚本/チャン・ゴンジェ
韓国映画。英文タイトルは“Because I Hate Korea”。公式HPのあらすじは「ソウル郊外で両親と妹と共に暮らす28歳のケナ(コ・アソン)。大学を卒業後、金融会社に就職し、毎日片道2時間かけてソウル市内の会社に通勤している。仕事には関心がなく、上層部の顔色を伺う上司に辟易する日々。大学時代から長く付き合っている恋人のジミョン(キム・ウギョム)は、外国に行きたいと口にするケナに「自分が就職したら支える」と告げるが、ピントのずれた話をしがちなジミョンにケナは苛立つ。ケナは、ジミョンの家族との関係にも居心地の悪さを感じていた。だが、ケナの母は裕福な家庭で育ったジミョンとの結婚を待ち望み、折に触れて急かす。そればかりか、新しい部屋を購入するための費用もケナに出すように迫る。ケナが家族と暮らす小さな団地は老朽化が進み、再開発が予定されていた。地獄のような通勤、興味のない仕事、恋人との不透明な未来、古い価値観を押しつけてくる家族との息の詰まる日々---「自分には落ち度がないのに、ここでは幸せになれない」。ケナは、韓国を抜け出すことを決意する。」
Twitterへは「韓国が嫌いといいながら、海外で会った同胞に「年下なのにため口?」といいがかりつけたりする。隣の芝生は緑というか、理想を求めてさまようアラサー女(むくんだ井上真央みたい)の話だった。」
冒頭のエピソードは、ケナと上司の対立。何かの入札で、データを元にある会社を外したケナに、上司が「なぜ外した」とつめよる。ケナは、これまでのデータを元に外しました。というと上司は、仕事で必要なのは何だ? という。それにケナは、入札はフェアに行なう必要があります、てなことをいう。すると上司は、仕事は信頼だ。これにケナは、評価の低い会社に仕事を出すのが信頼ですか? そうだ、の言い合いになり、じゃあ辞めます、とキッパリ言ってしまう。なのでケナは情報を判断する力があり、正義感あふれてやるきのある女かと思ったんだが…。
面白いのは「辞める」と言われた上司がうろたえることで。いまの会社は部下が辞めると評価が下がるみたい。なので、来週から仕事の忙しくない総務に異動してやると言われたようだけど、キッパリと辞めて海外に行くことになる、という成り行き。なんだけど、ケナは韓国のどういうところが嫌いなのか、がよく分からんままなのだ。一番大きな要素は、「冬に寒い」のが嫌なようだ。アホみたいな理由だな。しかし、実家は寒くて、家の中で寝袋で寝てるなんて、あるのかよ。どの家にもオンドルがあるんじゃないのか。
で、なぜか行き先はニュージーランド。そこで語学学校? に入って2年間生活し、なんとか永住権を得ようという計画らしいんだが。渡航以降のケナの動向がぼんやりとしか分からない。同じ韓国出身の青年と出会ったのと、あと、いくつかバイトを繰り返したり、靴屋の同僚の西洋人(移住組か現地人か分からん)が冒険好きのSNS動画マニアで、ビルの屋上からパラシュート降下した動画をケナが撮ってアップしたのが警察に咎められ、永住権取得の障害になるかも、な話があるぐらい。
興味深いのは最初に会った韓国人青年と話していて、相手が年下だと分かったときで。「年下なのにタメ口かよ」とむっとするところ。なんだ。そういう因習はしっかり身に染みついてるんじゃないか。なにが「韓国は嫌い」だよ。ケナ自身が情に縛られてる。NZでも何人かの韓国人(?)とつきあって、いつも年下だった、な話もでてくる。それを気にすること自体、ケナは韓国の儒教文化にひたったままじゃないか。まずは自分から抜け出す必要があるだろ。と思ってしまった。
いっぽうでケナは、大学の同級生で、大学院にでも行っているのか、もうすぐ卒業という彼氏がいて、肉体関係をつづけている。これなんかは、儒教文化とは別の、いまどきの娘だ。なことを考えつつみてると、ケナの人格がよく分からなくなる。ケナを海外に向かわせたのは、いったい何なんだ? と。
この映画、NZでの生活の合間に韓国での過去がブツ切れでインサートされる。時制がぐちゃぐちゃなのだ。この過去に、ケナの同級生で、いまだに受験しているという友人がでてくるんだけど、これが得体が知れない。司法試験でも受け続けているのか? 貧乏で冬でも靴下なしのサンダルで歩いてたりするけど、この彼、だよな、の葬式の場面がある。自殺でもしたのか? は、いいんだけど、これは過去なのか? ケナの帰国後のことなのか? 分かりづらい。で、その後に、たぶんその彼と居酒屋で話す場面があって。さらに時制がぐちゃぐちゃ。なんだか、訳が分からなくなる。
おまけに、ケナの元彼(といっていいのか? ケナは帰国して、セックスしてたよな…)と、NZの学校で一緒になった年下の青年、受験男の顔の区別がつきにくいもんだから、話がすーと、っ入って来ない。
な感じの、ほとんど山なし谷なしのだらだら話なので、映画としてのヒキはない。
寒がりのペンギンの絵本があって、最初ケナはそれもNZに持っていこうとして、でも空港で荷物を減らすと言い出して、その絵本は元彼が預かった、らしい。絵本によれば寒がりのペンギンは南極を抜けだそうと氷の船で暖かい地方を目指すんだけど、船が溶けてしまってどうたらこうたら。ケナの状況をシンボライズしているつもりなんだろう。ケナはNZから帰国し、30歳になって、今度はバックバッカーとして旅立つ、という場面で終わっている。いくら韓国から逃げだそうとしても、つまりは、いくら環境を変えたとしたところで、本人=ケナの心構えや体質が変わらなければ、ダメなんじゃないの? ということを言っているのかね。ケナは、青い鳥をもとめて、一生旅を続けるのかね。自分を棚に上げたままで。
ところで、両親が家を買う、という話がでてきたけど、あれがよく分からなかった。娘のケナに300万ぐらい借りて、自己資金と合わせて転居するとかいう話だったけど、ケナがNZから戻ったら転居してたんだよな。両親が貧乏すぎて転居できなかった? 
そういえばケナはFラン大学出だとかいってたけど、韓国では女子でも金をかけてFランでもでないと仕事にありつけない? なんか、最初にでてきた会社でのんびり仕事してれば幸せになれたんじゃないのかね。たまに海外旅行する、でよかったような気がするけどね。
ケナが考えるアジア人のランクてな話題があった。一番上に西洋人、次が韓国と日本、そして中国、その下はその他のアジア人、だったかな。それに対してインドネシア人の友人だったかが、そんなランクはなくて西洋人にとっては英語が分かるアジア人とそうでないアジア人に分かれる、だったかな、と言われてしまうところ。が、面白かった。
片思い世界4/7シネ・リーブル神戸シネマ1監督/土井裕泰脚本/坂元裕二
公式HPのあらすじは「東京の片隅、古びた一軒家で一緒に暮らす美咲、優花、さくら。仕事、学校、バイト、それぞれ毎日出かけていって、帰ったら3人一緒に晩ごはん。リビングでおしゃべりして、同じ寝室で寝て、朝になったら一緒に歯磨き。お互いを思い合いながら穏やかに過ごす。楽しく気ままな3人だけの日々。だけと美咲には、バスで見かけるだけの気になる人がいて、そのことに気がついた2人は…。そもう12年。家族でも同級生でもないけれど、ある理由によって強い絆で結ばれている3人。それぞれが抱える、届きそうで届かない〈片思い〉とは---」
Twitterへは「それでああいう演出だったのか。なるほど。重い話をファンタジーで描いてじわりとくる。でも設定に少し「?」があったり、あのラジオはなんだっんだ? とか、母親は罪に問われなかったのか? とか、もやるところがあるのがもったいない。」
当然ながらネタバレなしで見たんだが。広瀬すずが出社するとき路上の何か(忘れた)を無視して歩いたり、広瀬すずが片思いしている、バスで出会う青年が彼女とコンサートに出かけたときの清原果耶の会場でその青年に近づいてあれこれ話したり、席に座っていてもギャーギャーうるさいのはなんなんだ? 周囲に迷惑だろ、と思っていたら、なんと突然ステージに上がっていって、広瀬すずの片思いの青年の近くにいって話をぶちまける。でも、そんなことされても周囲の誰も動揺しない。あ、これは…。で気づいて、3姉妹に見えたのは実は無差別殺人の被害者の霊で、なぜか彼女たちは現実世界が見えるけれど、周囲からは存在すら感じられない、というのが分かる。この冒頭からネタバレまでの展開は、なかなか小気味いい。
事件は池田小事件の無差別殺人事件を連想させる感じ。とはいえ、この映画では児童3人を殺害していながら、犯人は12、3年後に出所してくるんだよね。これはあるのかな? 犯行時に犯人が未成年だったら、あるんだろうか。
3姉妹、というか、お友達3少女の生活は明るく、自分たちは現実世界に介入できている感じが得られるのかな。自分の存在が認知されないで、それで満足が得られるのかどうかは分からないけどね。
広瀬すずは、事件直前、貧乏で弁当も食えていない彼女のために肉まんを買いに行った少年とのもの。でも、彼が戻ってきたら惨劇の後で、それがトラウマになって今にいたる、というもの。広瀬すずは、自分のために肉まんを買いに行き、それで難を逃れた彼にやさしさを感じているが、彼の方は、自分が惨劇から逃げられた、広瀬すずを救えなかった、という記憶が重石になって解放されていない。ともに思い合っているという片思いのすれ違い。
杉咲花は、実母を街で発見。すでに再婚して子もあることを知って、杉咲花は、もう自分のことを別れて幸せに暮らしているのだな安心するけどさみしさもある。と思ったら、出所した犯人の居所を探しだす。犯人は「僕ももう、刑期を終えました。お互いに過去は忘れて前向きに生きましょう」などというのは、いささか犯人の脳天気さを誇張し過ぎだけだと思うけど。でも、それを聞いて「なぜ殺したのよ」と詰め寄り、犯人に包丁を突きつける。このあたりは全体のトーンからははみ出してる感じがするけど、まあ、本心だろう。逃げる犯人がクルマに轢かれて半身不随で寝たきりになる、というのは、ほどほどな落とし所か。とはいえ、母親が犯人とは言え、この場合、殺人未遂に問われないのかどうかは、気になるんだが。
3娘の日常は、現実世界と交わっているようで、レイヤーが違う。レイヤーが違うと言えば、他の死者は別のレイヤーにいるという説明があって、他の例と交わらないことになっているらしい。なんか、それって、ちょっと寂しいよな。と思うけど、現実世界のにぎわいが周囲にあるので紛れるのかな。
彼女たちは、死後、ボロボロのまま出会って共同生活するようになったらしいけど、このあたりの論理性はテキトー過ぎ。廃墟をきれいにして住み始め、家事も分担し、バイトや就学、就職もしている。どーやってするんだよ、そんなこと! とツッコミ。それに、フツーに食事し、睡眠し、成長する。だから、彼女らは思春期から30近くになっている。じゃあ、このままいったら霊のままオバサン、ババアになって、その先はどうなるんだ? というような疑問は不粋なんだろうけど、気にはなる。
でまあ、現実世界の話も平行して進んでいて。こちらでは、事件後に音楽を捨て、陰気に暮らすかの青年に、教師が再起を促すが、本人にはその気がなったのが、広瀬すずが書いた発表会の脚本を改めて発見し、腰を上げる、という流れはとくに説得力があるとも思わなかったけど。まあ、いいだろう。で、現在の児童たちに交じって、自分たちが成し遂げられなかった発表会に参加し、コーラスを歌い上げるところはなかなか切なく、でも感動的。なんだけど、3人の制服のデザインが違うのは何でなの? と気になったけど。
今住んでいる廃墟はリフォームされて貸し出されるので、そこを出なくてはならない、というのは、なんでなのかね。現実の人たちと一緒には住めない設定なのかね。まあいい。3人は、また別の廃墟を探して家を出る。な、終わり方。
ところで、彼女ら霊が現実の物を手に取ったり触れたりする、のか? 一度、杉咲花が講義する教授の指示棒を手に取る場面があって。でも、現実の指示棒はそのまま机の上に乗っていたことがあった。あんな感じで、現実の物にも触れ、衣服や食料も手に取れるのか。現実と霊世界でモノは共有できる、のか。では、彼女たちが手に入れた衣服が、現実世界で廃棄されたら、霊界では、ふっ、と消えてしまうのかな。とか。食事はどうなってんだろう。ウンコもでるのか。とか、いろいろ考えてしまうのだった。
霊界ラジオがあって。日常的に聞こえてくる。そのパーソナリティは、霊界から戻ってきた者だ、と自分を紹介。なんかの時に何かがあると、現実に戻れるとか何とか話してて。3人はそれを信じてどっかの海岸に行くんだけど、生き返るはずもなく、というエピソードがあるんだけど、なんだったんだ、あれは。パーソナリティの存在は結局明かされないし。でね、エンドロールに松田龍平という名前があって。 どこにいた? と、思ったんだけど、あ、ラジオの人か、と。しかし、現実のテレビやラジオと、霊界ラジオと、どう区別付けて楽しんでたのかね。
・最初の方の、観客には死人に見せない演出は、『シックス・センス』と少し似てるかな。
・3人で現実世界のオバケが出るホラー見てて。驚いたりしてるんだけど。「あんなの、実際はないよね。私たちもオバケなんだし」とかいってるのが笑えた。
・ときどき狂言回し的に楽団(ムーンライダーズ)が登場するけど、彼らには3人が見えてるみたいなのは、なんなんだ? あれは、イメージです、なのかね。
※旅先の神戸での、シネ・リーブル神戸。20時15分の回。しかし豪華すぎるロビー、とても素晴らしい音響。リクライニングするシートも、おお、なんだけど。リクライニングしすぎると前の座席の、出張ってる頭受けの部分がジャマになって見えないという、失敗設計だな、こりゃ。中途半端なリクライニングで、腰が疲れるよ。にしても、東京のテアトル系列が貧相に見えるほどのつくり。けど、客は5人。いつつぶれてもおかしくないだろ、これじゃ。ずっとつづくといいけどね。10時半に終わってでたら、神戸の夜は早い。人気なんかほとんどなかった。
1980 僕たちの光州事件4/8シネ・リーブル神戸シネマ3監督/カン・スンヨン脚本/カン・スンヨン
英文題名は“The Unforgettable Day”。公式HPのあらすじは「1980 年5 月17 日。チョルスの祖父は念願だった中国料理の店をオープンさせる。父親はどういうわけか家にいないけれど、チョルスの大好きな幼馴染のヨンヒや優しい町の人たちに祝福されて、チョルスと家族は幸せに包まれていた。しかし輝かしい未来だけを夢見る彼らを、後に「光州事件」と呼ばれる歴史的悲劇が待ち受けていた。」
Twitterへは「『タクシー運転手 約束は海を越えて』もそうだったけど、光州事件の見直しの映画化だ。半ばコメディにしつつ、結果は歴史のごとく。人物それぞれの立場や思いが巧みに交錯したりして、なかなか興味深かった。」「字幕が、パク・チョンヒとかチョン・ドゥファン、キム・デジュンとかになってて、一瞬、戸惑う。朴正熙、全斗煥、金大中で記憶してるのだよ、こっちは。別に日本語読みにしろという訳ではない。漢字も併記してくれよ、と思った。」
見終えてから2週間経ってしまった。やれやれ。感想を書くのが追いつかない。それはさておき、この映画、体裁はコメディなんだけど、扱ってるのは重い話。しかし、『タクシー運転手 約束は海を越えて』に引きつづいて映画として表現できるようになったのは、韓国の閉鎖性がゆるくなってきたということなんだろう。
で、舞台は光州。父親は、韓国なのに中華料理店を経営。長男は優秀で大学を出ていることが自慢。でもその長男は本来の家業を継がず、学生運動のリーダーとして暗躍している、らしい。でも、冒頭では開業祝いなのか、で、ピエロの恰好で登場してたりする。その長男の嫁と、長女が店を手伝っている、のかな。韓国では次男は家業を継ぐ権利がないからなのか、次男はのらくら。たまに店を手伝うぐらいで、仕事には関心がない様子。そんな次男を、ちょっと疎ましく思っているように見える父親。やっぱり自慢は長男。というあたりが、実はよく理解できなかった。だって家の仕事もせず反体制運動に血道を上げている長男に意見することもないのだから。当時の韓国は、ソウルの大学を出ている、は自慢だったのかね。
反体制側と鎮圧する警官? 軍隊側の拮抗は歴史的なものだから、それはそれとして。同じ韓国の国民に対して警棒で威圧する、はまた分かる。日本でも安保や学生運動の時代に、投石や火炎瓶の運動家に対して、警官は警棒、たまにガス弾で応戦してたから。でも、光州事件では銃が使われたのがすごいよね。学生側も銃を手にして、軍隊も銃で応戦したわけで。完全なる内戦状態だ。そういえば光州は全羅南道に含まれていて、さらに、済州島も全羅南道で、あの反乱で多くの人民が虐殺されている。むかしから全羅道と慶尚道は仲がよくないってのもあって、そういうのもあるのかね。
いっとき軍隊が引いていって、勝った勝ったと喜んでいたら一気に反転されるんだが。このとき、一家の長男が立て籠もっているところに父親が飯を差し入れで持っていくんだったかな。そこに、次男と長女と彼氏もいたんだっけか? もう、細かいことは忘れてしまったけど。で、そこに、映画ではミサイルみたいなのが撃ち込まれて、一網打尽。一家で残ったのは、長男の嫁と息子だけ、だっけかな。という、なかなかなエンディングだった。
もうひとつ、一家の店の近所にあるパーマ屋の奥さんが、長男の嫁と友達で。パーマ屋の娘が、長男の息子と学校が同じ仲好し。なんだけど、パーマ屋の旦那は軍隊の将校かなんか、だったかな、って構造が埋め込まれている。中華屋の次男が騒乱の中で軍隊に捕獲され、兄の居所を吐け、と拷問を受けるんだけど、その場にパーマ屋の旦那がいるんだよ。そんなこんなで町からパーマ屋の奥さんと娘が村八分になってしまう。まあ、反乱軍も軍人も人の子だから、フツーに生活しているわけで。でも、たまたま立場が違うと、弾圧する側とされる側に別れてしまう。なかなか哀しい設定で、重苦しいのだった。とはいえ、そんな最中にどうやったのか、夫の軍人が家に戻って家族に会ってたりするのが不思議。家族を町から避難させることは発想になかったのかね。
てなわけで、前半のコメディタッチが、ラストでは沈鬱になってしまうのだけれど、まあ、致し方ない。シリアスに描くよりは、このぐらいコメディ要素があった方が気楽に見られるとは思うけどね。そうじゃなかったら、息苦しくて見られないだろう。とくに韓国人には。
※前日に引きつづいて、神戸での映画鑑賞。18時35分の回で、終わったのは20時20分ぐらい。客は9人。昨日よりマシだった。この館はリクライニングなしで、見やすかった。また昨日と同じ花まるうどんはやだな、と三宮方面に行ったらびっくりドンキーがあったので、おろしシソハンバーグを食べたのだった。
バーラ先生の特別授業4/17シネ・リーブル池袋シアター1監督/ヴェンキー・アトゥルーリ脚本/ヴェンキー・アトゥルーリ
英題は“Vaathi”。先生、の意味みたい。公式HPのあらすじは「1990年代の経済自由化と1993年の教育制度の改革により、インドには多くの私立教育機関や予備校が生まれ、高い授業料に応じた質の高い授業が提供されるようになった。一方で公立学校は有能な教員が私立校に引き抜かれ、低階層の生徒は家計を助けるために授業を放棄し、教室が成立しない状況だった。チョーラワラム村の公立校に赴任してきた数学教師バーラは、大手私立教育機関の経営者からの妨害と闘いながら、受け持ちの生徒全員に共通試験で上位成績を上げさせることを目指す。」
Twitterへは「インドの熱血教師の話。メキシコ映画『型破りな教室』もそうだけど、底辺の生徒をトップに押し上げる話が流行りなのか? こちらは、教育で金もうけな連中に、教育は平等を主張。不可触選民への言及もあって、特別授業も、なるほど。」
いきなり近代的な高校がドーン、と画面に出て、インドっぽくないのだ。土と埃と乞食とリキシャはいずこ? で、ここで学ぶ少年が、爺さんのビデオ屋が廃業するというので、友人と店内に入ると、棚の奥に隠された古いビデオテープが埃をかぶっていた。これはとっておきのポルノに違いない。でも、再生したら、学校の授業と同じような様子が映っていた。そして、紙切れが一枚。そこに書かれていた名前を訪ねていくと、どっかの長官みたいな人がいて。ビデオを見せると、「これは僕の恩師だ!」というわけで、回想に入る、という流れ。
はさておき、↑のあらすじにあるように、インドでは私立学校の方が授業が充実し、公立校に通う生徒が減っていたらしい。私立学校は金もうけのビジネス化が進み、優秀な先生も私立学校に引き抜かれていた。これじゃいかん、というので私立校から公立校に教師を派遣し、公立校の充実化とともに、学費の平準化を図ろうという政策がとられた、らしい。私立学校の組合の長は、ロクでもない教師を派遣すれば痛手は少ない、と政策を受け入れた。という状況で、数学教師のバーラがチョーラワラム村の公立校に赴任した。生徒もそこそこいる。美人の生物教師も入る。ところが生徒がいたのは初日だけ。かき集めてきただけで、多くは家の手伝いをしていたり、働きにでている始末。裕福な家庭の子どもは、私立へ。貧乏人は教育を受けられないまま、だった。愕然としつつもバーラは父兄を呼んで、大演説。いまは貧乏でも、学問を身につけて大学に行けば、あの有名な学者(インドでは誰もが知ってる科学者だったかな)のようになれる。学問は平等だ。カーストも関係ない、と。これで風向きががらっと変わり、翌日から学校は生徒でにぎわい出す。という展開は、あまりにご都合主義で、そんなんで親が納得するかよ、なんだけどね。
でまあ、生徒に徹底した教育をし始めるんだけど、これが『型破りな教室』とはまったく逆。あちらは、詰め込みではなく体験的に面白楽しく身につける、だったけど、こちらはフツーに板書して学問していくんだよね。これに生徒たちは夢中になる、という展開なのだ。でも、それはないだろう。考えるのが苦手な子もいるし、できない子というのもいるはず。だけど、この映画では、生徒たちは学べる喜びで目がらんらん、なんだよね。ちょっと理想にすぎやしないか?
ところでバーラは赴任前に、赴任先の生徒が成績アップしたら自分を出世させてくれ、と私立学校経営者に言うのだ。なんだ。結局は自分の出世が目当てか。まあ、それはいい。で、生徒たちは全員テストで優秀な成績を獲得していって。これをもとにバーラは「出世させてくれる約束だろ」というんだけど、経営者としては、私立よりも学費の安い公立学校の生徒に好成績を上げられたんじゃ商売あがったりになる。というわけで、ならず者にバーラを襲わせたりする。最初は、バーラはブルース・リーか、てな感じでならず者をなぎ倒したりするんだけど、あまりにもスーパーマン過ぎて笑っちゃうよ。
しかし、次第に圧力が強まって校舎が使えなくなる。ではと屋外の仮設校舎で授業をするが、無断で土地を使ったと因縁を付けられ(ちゃんと許可は取っていたのに)、バーラはボコボコにされてしまう。公立校の教師たちも続々と私立校に引き抜かれ、残るはバーラと美人生物教師だけ。生徒も離れていき、バーラも教師の道を諦め、故郷に逃げ帰ることに…。
美人生物教師とは相思相愛になり、結婚の約束をしていたんだけど、彼女が学校を留守にしている間に、バーラは田舎へ。どうなってるの、な美人生物教師がバーラの故郷へ説得に行くが、バーラはもうやる気を失っていた。というところに、たまたまテレビスタッフが何かの撮影をしていて。それを見たバーラは、ひらめいた。これだ!
このあたりから話がやっと面白くなってくる。
というわけで、学校にに出入りしていた写真師のオッサン(冒頭で店を閉めた、少年の祖父だろう)に授業の様子をビデオ撮影させる。貧乏な子供たちには、授業が復活! と知らせ、ビデオを映画館で秘密裏に上映する。その繰り返しで、生徒の成績もぐんぐんアップ、というこれまたご都合主義だけど、なかなか面白くなってきた。
で、田舎で講義を録画し、それを赴任地の映画館で上映し、生徒たちが学んだ結果、その年の大学入試に、40数人全員が上位合格してしまう。一度底辺に落とされたバーラが、文明の利器ともちまえの発想で大復活。こういうのが観客に受けるんだろうな。これで私立学校経営者は面目丸つぶれ、のはずなんだけど、まだへこたれない。スタッフが合格者に接近し、奨学金をやるから、家庭をサポートするから、とかいう名目で、「うちの私立校で学んだ、ということにしろ」と説得してくるのだ。で、みなはこれに反発するかと思いきや、全員が受け入れてしまう。どゆこと? と思っていたら、経営者の行動もバーラはすでに読み込み済み。俺は名誉も地位も要らないから、君らは、実利を得なさい、とあらかじめ教えていた、というわけだ。こうすれば、貧しい生徒たちも安心して進学できる、ということだ。なるほど。
でも、そうするとビデオによる遠隔授業はこれ一回切りになっちゃうと思うけど…。それに、私立校出身じゃない連中が大学に大量入学、なんて噂は簡単に広まると思うけど。まあいい。映画的な効果を狙ったストーリーだろう。
ところで、貧しい生徒の中に、既卒業生(?)で足の悪い少年がいるんだけど、たぶん彼もアウトカーストかな。も、大学入学試験を受けていて、しかも、1位合格していた。で、その彼が、冒頭で少年たちが面会した長官本人だった、というのはミエミエ。まあ、予定調和として楽しむ映画なんだろうな。
この映画で感動できるのはまだあって。バーラが不可触選民に対する平等をはっきりと明言しているところだ。でも、この映画の弱いところは、バーラと美人生物教師、私立学校経営者、足の悪い生徒、ぐらいしかキャラが立ってないことだと思う。生徒はたくさんいるんだから、ちゃんと人間を描いていけば、もっと感情移入できたと思うんだけどね。分かりやすさ、は分かるんだけど、勧善懲悪的な二項対立やっときゃいいだろ的なつくり方なのがもったいない。
ドマーニ!愛のことづて4/18ル・シネマ渋谷宮下 7F監督/パオラ・コルテッレージ脚本/フリオ・アンドレオッティ、ジュリア・カレンダ、パオラ・コルテッレージ
イタリア映画。原題は“C'e ancora domani”。「明日がある」の意味らしい。公式HPのあらすじは「1946年5月、戦後まもないローマ。デリア(パオラ・コルテッレージ)は家族と一緒に半地下の家で暮らしている。夫イヴァーノはことあるごとにデリアに手を上げ、意地悪な義父オットリーノは寝たきりで介護しなければならない。貧困や家族の問題に悩みながらも家事をこなし、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を助けている。多忙で過酷な生活ではあるが、市場で青果店を営む友人のマリーザや、デリアに好意を寄せる自動車工のニーノと過ごす時間が唯一の心休まるとき。そんな母の生き方に不満を感じている長女マルチェッラは裕福な家の息子ジュリオからプロポーズを受けるため、嫌々ながらも彼の家族を貧しい我が家に招いて昼食会を開くことになる。そのとき、デリアのもとに1通の謎めいた手紙が届く。彼女は「まだ明日がある」と新たな旅立ちを決意する---」
Twitterへは「敗戦直後のイタリア。頭の5分程で男尊女卑、家族や時代設定を自然に説明し尽くす見事な脚本。対立、不安、夢…。作劇としてはベタだけど、そう見せない手際の良さ。でもラストが「?」 そんな伏線あった? なんかモヤモヤが残るなあ。」
第二次大戦後の、アメリカ占領下のイタリアって、まだ男尊女卑がひどかったんだな。冒頭は、朝、起き上がる女房に平手打ちを食らわせる夫。ケンカにもならない。思春期の娘は小学校卒業で働いていて、下の男の子2人は毎日騒ぎまくってる。寝たきりの義父の世話。命令口調の夫イヴァーノ。黙々と働き、夫の機嫌を気にしてばかりの妻デリア。でかけるデリア。路傍の人々。まずは病人に注射して代金をもらい、繕い仕事を納品して代金をもらい、仕事先は傘の修繕なのか。新人青年がいて、賃銀に不平を言っている。その賃銀を聞くと、ベテランのデリアより高い。経営者に言うと、「男だから」…という短時間に、一家の暮らし、家庭内の力関係、生活レベル、知的レベル、時代の状況がすべつ説明つくされる。それも説明的でなく、ごく自然にドラマとして。昨今の日本映画の、よくわからん退屈なだらだら映像は皆無。見事な脚本だ。以後も端的に話を進めて、人々を描いていく。オーソドックスではあるが古めかしくなく、人々の存在がありありと描かれていく。
メインのエピソードは娘の結婚話かな。食堂経営者の息子ジュリオといちいちゃしてて、ふたりとも結婚するのが当然、な感じ。で、相手の両親と彼氏の妹を食事に呼ぶことになるんだけど、ひともんちゃく。マルチェッラは下卑た言葉遣いの弟2人と、寝たきりで口の悪い祖父を同席させたくない。なので、どっか別の処で会食を、っていうんだけど、自分以外に対して吝嗇なイヴァーノは無視。でまあ、自宅で開催するんだけど、懸念したとおり弟2人はバカ丸出し。立てないはずの祖父も部屋から出て来てムリやり同席。デリアは躓いてデザートの皿を割ってしまう。イヴァーノは、金持ちに嫁がせてうちも豊かになる、と満足げだったけど、相手家族に対する態度は横柄。2度も戦争にいったんだから苦労人なんだ、とかいつも言ってるからなのか、超負けず嫌い。それでも婚約指輪を交わして(祖父は石を見て、ジルコニアか、ガラス玉だといったりするから笑える)、まずはめでたし。でも、以後のジュリオの態度に懸念。っていうのも、自分もイヴァーノに「好きだ」と言われ結婚したけど、ただの男尊女卑男で、女を人とも思わない男だった。ジュリオもイヴァーノになる、と直感。で、なんと知り合いの米兵MPにジュリオの父親が経営する家を爆破させるという、えええええっ、な行動にでる。これで相手の家は没落(するのか?)し、貧乏人からのやり直し。結婚も取りやめで、マルチェッラの将来の不幸を回避した、ということらしい。やることがひどすぎるな。デリアさん。
ということができたのも、デリアは彼女を思う自動車整備工との駆け落ちを考えていたから、なんだろう。相思相愛でも、この時代に浮気はムリだろうし、そんなことが知れたらイヴァーノは激怒してデリアをボコボコにするはず。整備工は北部に移住するから一緒に行こう、というんだけど、決めかねているデリア…。でも、マルチェッラの結婚をチャラにして、スッキリしたデリダは逃避行を決意。と思ったら、当日に義父=祖父が突然死して、間一髪で計画はおじゃん。になったか、と思ったけど、翌朝、デリダは家から出ようとする。このとき整備工からのラブレターを落としてしまい(別な演出だなあ、と思いつつ…)、デリダはカバンを手に向かう先は…。駅かと思うじゃん。デリダがたどり着いたのは、大量の行列。列車に乗る人の列? それとも、船に乗るための列? と思ったら、書類がないことに気づくんだけど(観客は整備工からのラブレターと思うよな)、気を利かせた娘マルチェッラがもってきて手渡してくれる。一方、ラブレターに気づいた夫イヴァーノも追ってきて、捕まっちゃうのか、とハラハラ。と思ったら、周囲の女性たちがイヴァーノを睨みつけて退散させるという、なんか意味不明な展開で。デリダは受付で書類を見せ(ラブレターを見せればいいのか?)、いよいよ乗船なのか、と思ったら、なあんと。そこは選挙の投票所だった、というオチ。
え? 整備工を追うのじゃないのか。その代わりに、焦りまくって早朝に投票所? 最後に、イタリアで最初の女性の投票が行われた云々の字幕がでるんだけど、そんなに遅かったのか。けど、投票したからって夫の暴力も、世間の男尊女卑もすぐには改まらないだろう。なのに、映画では、デリダの勝利、みたいに描いているのが違和感ありまくり。そもそも、選挙が近い、という伏線はあったのか? ないだろ。ときどき壁に書かれていた「VIVAなんとか」という文字が写ってたけど、もしかしてあれが関係あるのか? てなわけで、このラストで大いに失望。家族を棄てて整備工の元に走ってくれれば星4つの評価だったけど、3つ半になりました。
要は、男尊女卑の世界で、女性が立ち上がった。男に対して主張するようになった。投票という権利を手に入れて、自立し始めた、を言いたいんだろうけど。だったら、そういう伏線を張って欲しい。デリダの友人にジャーナリストの端くれみたいな女性がいて、イヴァーノの暴力を否定する発言をしてるとか。あるいは、普通選挙のPRかー行なわれているけど男たちは冷ややかに見ているとか。で、そういうのが伏線になってラストになるなら分かるんだけどね。
・路上で拾った写真が米軍MP(黒人)の大切なモノで、以後、彼がデリダを気遣ってくれる、のはいいんだが。娘の婚約者の家業であるレストランを爆破するってのは、すっ飛びすぎだろ。
・イタリアの男って、イヴァーノみたいなのが多いのか? 結婚前は女を持ち上げ、結婚後は小間使いのようにこき使う。文句を言えば暴力。周囲の奥さんたちからは、デリダの亭主はひどい、の声が多そうだったけど。
・夫の暴力をミュージカル風に見せるという不思議な演出も。まあ、リアルになりすぎないように、なのかも知れないけど。
・祖父の遺骸のそばにいるババアに、みんなが「あれ、誰?」 というのが、落語のくすぐりみたいでおかしい。
・減らず口でいたずらばかりしてる兄弟が、姉が嫁に行くなら、ベッドは俺の物と言ったり、祖父の死にも速攻で、部屋は俺たちのものといったり。なかなか現実的でおかしい。
・イヴァーノは夕食はデリダがつくるモノ、と決めていて。食後はカードに行ったり、ときには女を買いにいったりしているようだ。でかけるときに、オーデコロンをデリダにつけさせたりしていることを、娘がデリダに「いいの、そんなことまでさせられて」というように言う。新しい女の象徴的存在だな。
・女を買った翌朝、ベッドでバックでシコシコやってるイヴァーノ。「まだ俺はお前を愛してるんだぜ」とかいったりしてる。なんかなあ。
・イヴァーノも、亭主関白しかできない小物なんだろう。戦争に2度行った、ぐらいした誇れない。自分のことを「温厚な俺でも我慢がある」とかいいつつ、デリダをボカスカする。イタリアの男って、こんななんかねえ。
ガリレアの婚礼4/19シネマ ブルースタジオ監督/ミシェル・クレイフィ脚本/ミシェル・クレイフィ
フランス/ベルギー映画。製作は1987年で、日本公開派1989年。英題は“Wedding in Galilee”。映画.comのあらすじは「イスラエル軍による厳重な戒厳令の敷かれたパレスチナのある村落。そんな折、この村の村長ムクタールは、息子の結婚式をアラブの慣習通り夜を徹して行おうと決意、イスラエル軍の司令官に、一晩だけ外出禁止令を解除してもらえるように要請する。司令官は、これを軍の支配権の大きさを知らしめる好機と思い、式に自分と部下の将校を主賓として招待すること等を条件に、それを了承する。支配する者とされる者との間の、さまざまな思惑のもと、パレスチナの伝統と格式にのっとった婚礼の宴は盛大に始まり、イスラエルの将校たちも次第に心なごませる。しかしその一方で、司令官暗殺を企てる青年グループと、それをたしなめようとする穏健派、そして軍の秘密警察が、祭りの喧騒の陰で暗躍していた。夕刻、花婿と花嫁が寝室へと消えた。次第に夜は更け、村中が物々しい空気に包まれ、将校たちの警戒心も再び高まってくる。おまけに自分の体面を保つためにイスラエル軍を招いた父親への反感や、村をあげての仰々しい婚礼から受ける重圧から、花婿は花嫁を抱くことができない。アラブの伝統的な婚礼では、花嫁の鮮血が染みついたシーツを客に披露することで、夫婦の証として儀式は完結するのだ。焦る花婿、せかす両親、村内の緊張感が極限に達した時、花嫁は自らの手で“夫婦の証”を作り上げることで、無事宴果て、夜が明けるのだった。」
Twitterへは「1987年頃のガザ地区? イスラエル占領下の村で婚礼を挙げようとするが、緊張が続き集会も禁止状態。イ軍司令官招待して式を挙げようとするが・・・。司令官を狙う若者たちもいて、式は血を見ずに済むのだろうか? な話。」「製作がフランス/ベルギーのせいなのか、変なところも多い。女たちが甲高いヘラヘラ声をだしたり、ヒジャブしてない女性もたくさんいたり、婚礼と言っても儀式はとくになくて村民が歌って踊ってばかりで散漫だし。なんか、とりとめがないのだった。」「なんとパレスチナ人女性のフルヌードぼかし付きまであるんだぜ。なんじゃこれ、な感じ。」
ストーリーは上の通り。なんだけど、冒頭の、村長とイスラエル司令官とのやりとりを除くと、訳分からん描写がだらだらつづく。誰が誰やら、何でそうなるの、あれはどうなったの? などなど、極めて説明が足りなすぎ。しかも、昔のフィルム映画のせいで、字幕が手書きの打抜きで、白地に白字だったりして、読めないところも。イライラが募る。とくに、『ドマーニ!愛のことづて』の手際のいい脚本を体験した後なので、じれったすぎた。それにしても中東を描く映画って、こういう、もやる描き方が多いんだよな。伝統なのか?
まず、村長の一家が分かるまでに時間がかかる。妻が居て、婿となる長男、お転婆な娘、10歳ぐらいの男の子、で全部なのか? 最後の方で、村長の弟らしいのが出てきてた。司令官暗殺計画を進めていたのは、この弟の息子とその仲間? 他にも、娘の彼氏と同年代の3人の4人組も、ナイフや拳銃を持って集まってたよな。この4人は、村長の息子たちとは別働隊なのか? もしかして一緒? ちゃんと顔が映らないし、紹介もしっかりできてないので、分からんのだよ。
他にも、村長の考えに反対の長老が何人か出てくるけど、こいつらもちゃんと描かれない。そういえば、結婚式当日も出てこず、村長が話しに行って、「ならつきあいはこれまでだ」と断言した相手は、その後どうしたんだ? とかね。
で、反対派は、イスラエル軍の見守る中での儀式は尊厳を損ねる、とか言い張る。まあ、土地を奪われ、対立もあって夜間外出禁止令や集会禁止状態らしいから、ひどいことはされたんだろう。それを恨んでいるのは分かるけど、じゃあどうすればいいというのか。解決策を出さずに反対だけしてたって始まらんだろう。
というなかで、若い連中は式の途中に司令官を襲う計画を立て、武器も集めたりしている。こいつらもアホか、な感じ。そんなことをしたらどうなるか、想像力が足りなすぎ。たとえ司令官を人質にとって自分たちの主張を訴えても、通るはずがないぐらい分かるだろう。もし司令官を傷つけたり殺害したら、その仕返しは多くの村民に及ぶはず。それが分からん直情的なバカとしか言いようがない。
で、あっという間に当日になり、司令官たちはジープで乗り付け、席に着く。村民たちは、えんえん歌って踊っての連続。だけど、式が儀式的に行われる感じはほとんどなくて。村民が勝手にあっちこっちで飲めや歌えしてる感じで、ダラダラ感がはなはだしい。
当日に起こったトラブルというと、イスラエルの女性将校の熱中症と、村長のバカ息子と友達が式に必要な馬を逃がしてしまい、それを回収するためにイスラエル兵たちまで狩りだされたことぐらいか。これは馬が地雷原に入ってしまったからなんだが、銃で脅して捕まえようとするイスラエル兵に対して、村長が声をつかって呼び寄せて問題解決。それにしても、ガキがバカすぎ。ところでこの馬は、新郎がちょっと乗ってる場面が出たぐらいで、大して活躍してなかった。なんでそんなに馬が大事なのか? は分からずじまい。
ところで、ガキ2人が「立入禁止」の看板を前に、なんでだ? イスラエル軍が施設をつくるため立ち入り禁止にしてて、地雷が埋まってる、とかなんとか話す場面で、先日見た『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』を思い出して、同じような話が会ったな、と。もしかしてこれはガザの話か。『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』は最近の話だけど、こっちは1987年。そのころから土地の収奪は始まっていたのだなあ、と。
素っ裸の花嫁の身体を女たちが清めていく(?)描写は、ボカシありのフルヌード。ああいう準備段階があるのを知るのは興味深いけど、意味あるかというと、疑問だな。そんなおっぱい陰毛シーンにつづいて、妹も自室で上半身さらけだし鏡を見てる場面がある。たまたまやってきた弟に「この村で誰が一番キレイ?」と聞くと、如才ない弟は「今日は結婚式だからお嫁さんだけど、普段はお姉ちゃん」といって、悪い気がしない娘もバカか。というか、この場面も意味ないだろ。
花婿、花嫁は規定の場所に座ってる様子で、みんなの前で並んで披露するというのはないのか。いつのまにか床入りの場面になって、2人は床入り部屋に入る。このとき、ブドウを踏みつけるとか、床入り部屋では新妻が夫の足を洗うとか、儀式=因習があるようだけど、民俗学的に意味があっても、映画的にはほとんど意味がないだろ。っていうか、この間、客はどうしてるんだ? 飲めや歌え? イスラエルの兵隊たちも、飽きないのかな。とくにイベントもなくて、飲んだりしてるだけで。村人は勝手に歌って踊ってで参加型なのでいいだろうけど。
で、足を洗う新妻を、夫は突き飛ばす。なんなんだ? しばらくしてオバサンが様子見に来て、夫は誤魔化すが。どうやら妻とセックスできないらしい。突発的な勃起不全とかと言うより、LGBTQIA?のどれかなのかね。でも、女性を嫌悪するほどでもなくて、裸で絡んだまま横たわっていたりする。どうやら結婚式のメインイベントには、新妻の処女の血のついたシーツを参加者に見せる、というのがあるらしい。そういえば、以前に見たか聞いたかしてたぞ、それ。業を煮やした父親=村長が床入り部屋にやってきて、これは困った、な表情。で、甥(なのかな)に医者を呼びに行かせようとするんだけど、甥は拒否。なぜって甥は司令官暗殺計画の一員だから、そんなことしてるヒマはない、からのようだ。これは困った父親=村長。いっぽう床入り部屋では、「あなたにもメンツがあるんでしょ」と、新妻が素っ裸になって指で処女膜を破って出血大成功。これを見せたら父親=村長は大喜び。はいいんだが、1987年頃に、パレスチナ人の一部にも同性愛者の問題なんてのがあったのかね。
しかし、自分が同性愛者かなんかだったら、結婚式なんぞあげたら自分も相手も家族も傷つけることになるぐらい分かるだろうに。なのに、自分から婚礼の日を早めて欲しいと言ったとか言わなかったとか、そんなことも話に出ていた。なんかなあ。偽の血でその場は誤魔化しても、将来的に不幸になるだけだろうに。バカかよ。
さて、暗殺計画だけど、のらくらと、ああしようこうしようと仲間がときどき集まって話してる様子が映るぐらいで、スリルもサスペンスもない。で、連中が料理の大皿を司令官に持っていこうとすると、何人かの村人に阻止されるんだけど、阻止したのが誰なのかはよく分からない。なんか、もりあがらない暗殺計画だこと。イスラエル側の私服監視員も、機能してたんだかなんだかよく分からん。
と思ったら、司令官が兵隊を村に集まるように言うんだが、これまた意味が分からない。村の周囲に配備してたのか? 新たに呼び寄せたのか? ちゃんと説明しろよ。で、イスラエル軍の連中はジープで去って行く。そういえば、やってきて早々に熱中症で倒れたイスラエル軍の女性将校(?)は、女たちに部屋に連れて行かれ介抱されてたけど、男子禁制だとか言って、イスラエル軍の同僚に面会もさせないまま。そのうち媚薬だか怪しい薬草を嗅がせて酩酊状態にさせ、軍服を脱がせて民族衣装に着替えさせてしまってたけど、最後は民族衣装のまま同僚に連れだされ、皆と一緒に帰っていった。あの女性将校の存在と村人の対応は、どゆこと? 意味不明すぎ。
で、イスラエル兵たちが帰り、村長の息子らしい少年が野原を駆け下りて…。地雷でも踏むかと思ったらそんなことはなく、そのまま終わった。なんか、のらくらだらだらしてるだけで、ピリッとしない映画だな。
・むかしトルコと戦ったときはなあ、と孫に話しているジジイは、あれは村長の父親なのか? でも第一次大戦前と言うから、オスマントルコとの戦いか? どういう対立構造かしらないが、その話と、現在のイスラエルとの対立との話は関係あるのか? ところで、ジジイの知り合いらしいのが、「トルコ、フランス、イギリス、日本も」とか口を挟む場面があった。え? 日本がパレスチナになんかしたことあったのか? 疑問。
・子供たちが馬を追っているとき、出会った青カン中(?)らしいのは、ありゃ誰だか分からんけど。
・娘の彼氏たちがひそひそ暗殺計画を話してる隣の部屋で離婚話中の2人はなんなんだ? 男の方が「もう70何日かやらせてもらってない」といい、妻の方は「私は離婚したいの」と拒んでる。ありゃなんなんだ?
・イスラエルの司令官が部課になのか、シリアの話をしてて、アレッポの飯は旨かった、とか、今日の飯は旨いけどそ酒は不味い、とかいってるんだが、どういう意味があるんだ?
・村の女たちが、やたら舌を動かしてヘラヘラ声を上げるんだが、ああいうのは初めて見た。中東映画は結構見てる方だと思うんだが。地方によって異なる習慣なのか。
・ヒジャブをしてない女性がずいぶんいた。してる女性も、髪の毛が見えている。パレスチナはあんな感じなのか?
・出席してる村の女たちは、ちょいいい衣装を着てる感じはあった。けど、男達はありゃみな普段着じゃないか、な感じで。スラックスにカッターシャツとかポロシャツが多い。新郎も、淡いグレーの背広にネクタイをしていて、民族衣装ではない。ああいうのがフツーになっているのか?
・監督はパレスチナ出身らしいから、当地の習俗習慣に間違いはないんだろうけど、なんかいろいろ異質だった。フルヌードとかオッパイ見せは現地の製作ではタブーだろう。海外で、フランス/ベルギーの資本でつくったからの、踏み込んだ描写なのかもしれない。とはいえ婚礼儀式のしきたりをちゃんと見せようと言うには舌足らずで、イスラエルとの軋轢を感じさせるにも当時の情勢が、この映画だけでは分からないので物足りない。暗殺計画のサスペンスも甘い。なんか、いろいろ中途半端な感じだな。
ミッキー174/21ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ポン・ジュノ脚本/ポン・ジュノ
原題は“Mickey 17”。公式HPのあらすじは「人生失敗だらけの男“ミッキー。一発逆転のために申し込んだのは何度でも生まれ変われる“夢の仕事”、のはずが…。よく読まずにサインした契約書は、過酷な任務で命を落としては何度も生き返る、まさにどん底の“死にゲー”への入口だった! 現代からひとつの進化も無く、労働が搾取される近未来の社会。だが使い捨てワーカー・ミッキーの前にある日、手違いで自分のコピーが同時に現れ、事態は一変--- 予想を超えたミッキーの反撃がはじまる!」
Twitterへは「どこが面白いんだ? ただのクローンじゃん。その先のドラマがなきゃ映画にならんだろ。そもそもマーク・ラファロの目的は何だったんだ? マルティプルが禁忌なのはなぜ? とか、根底となる物語があやふやすぎ。ダメ男ミッキーが突如モテ出すのも変だろ。」
前知識ゼロで見た。冒頭はクレパスに落ちたミッキーで、連れが「どうせ死ぬんだから」と置いてきぼりにする。で、遡って、この度の企画に参加する様子が描かれるんだが、なんか記憶に残らない描き方。なんでも選挙に2度落選した元議員が宇宙旅行みたいのを募集し、借金苦のミッキーが応募。いろいろあるけど、簡単で、自分でも通りそうな役割で応募する。係員は、注意事項を読んだか? と何度も言うけど、ろくに読まずに応募したところが、それはエクスペンタブルという役割で。1度死んでも生ゴミから身体を3Dプリンターみたいに再生できて、直近の保存された記憶も保持されるので、記憶の切れ目はないんだとか。それで、初めて行った星の環境に耐えられるかとか、人体実験させられる。死んでも、次のミッキーがプリントされ、それが延々とつづくらしい。なわけで、自分が死ぬのは理解しているけれど、再プリントされるので慣れる、とかなんとかだったかな。
とはいえ、このあたりの展開というか描写で決定的に足りないのは、どこからどこへ向かっているのか、どういう宇宙船で向かっているのか、着陸はどうしたのか、着陸したのは既知の星なのか、初めての星なのか、母船から探査船でいくのか、宇宙服にはいつ着替えるのか、といった、フツーのSFなら必ず押さえる部分なんだよね。そういう景色がなくて、いきなり星にいるミッキー、何のために雪の中を歩いていたのか? とか、宇宙旅行の目的やなんやかんやが、ほとんど語られないってのも、話に入り込めなかった理由だと思う。
死んだら再生される、は『オール・ユー・ニード・イズ・キル』にちょっと似てる。あっちは、目覚めたら同じ時間だけど、こっちは時間が経過しているのが違うところか。CTみたいので身体が作られるのは面白いけど、要はクローンだろうよ。と思うと新鮮味は薄れてしまう。
不思議なのは、冴えないミッキーなのに、食堂で黒人女性に目をつけられ、簡単に男女の関係になってしまうこと。後の話ではあるけど、他に管理者的な立場なのか? な白人女性にも好意を抱かれたり、地球にいた頃のダメ男ぶりはどこへやら。モテ男じゃないか。という、素直に納得できないところがある。
メンバーが洞窟を探査していて、『ナウシカ』の王蟲みたいの(クリーパー)にでくわし、中の女性が天井に発砲して天井画崩れ、死ぬ、というマヌケな場面がある。あれなんかも、いったいどういう目的で洞窟を調べていたのか? 元議員は、地球外に別天地でも求めて出かけたのか? 落ちぶれた元議員に、そんな資金があるのか? 元議員の思惑は? 地球にいられない理由でもあるのか? など、もやもやがありすぎなのだ。
カロリー消費を少なくするため食事制限があり、セックスも禁止、なのにミッキーと黒人女性は毎日やりまくり。そんなの、宇宙船の中なのか星につくった基地の中なのか知らんけど、すぐわかっちゃうだろうに。なんかなあ、設定も行動もいい加減だなあ。
で、さて、冒頭に戻って。仲間からは死んだ、と思われたミッキー。なんとか自力で脱出してみれば、なんと次のプリントされたミッキーがすでにいたのでビックリ。現在のはミッキー17番目で、新しいのはミッキーの18番目、らしい。ところが、同じクローンが同時に存在(マルティプル)してはならない、という決まりがあるらしいのだ。でも、なんでなの? 合理的な理由は、説明されてなかったよな。なんか、もやる。
てなわけで、以後は睡魔との戦いで、寝落ちはしなかったけど、ボーッとしながら見てた。元議員は悪の組織の長のような制服姿になってやたらかまびすしい。その妻も、バカっぽく隣にいる。なぜかどっかで探させた石を切断し、なかからクリーパーの子供が出てきたときが一番笑えて面白かった。殺菌だ! とかいって粉をふりかけたり。バカかよ。で2匹のうち1匹は殺しちゃうんだっけか。のこる一匹の尻尾を元議員の妻が切断して「いままでにないソースをつくるわ」とか言ったり。病原菌や殺菌はどうしたんだ。でもその一匹の声に仲間がわらわら集まって来て。元議員はクリーパーを殲滅するのだ、とかいっていきり立つ。ここでまた、考える。元議員のそもそもの野望は何だったんだっけ? 宇宙植民? とかなのか。しかし、そんなこと、ただの元議員ができるのかいな。国家的規模ではないのかよ。とか、もやもや。
ミッキーの方は17と18が、自分の生存の優先を主張したりして。いいじゃないか、両方存在していたって。なんの不都合があるんだよ。と思っちゃうよな。それはさておき、このあたりから話がぐちゃぐちゃで。よく憶えてないよ。美人黒人と白人女性がからんであれやこれや。ミッキーも2体あることがバレちまって殺し合ったり。性格が違うようだけど、あまり気がつかなかった。17の方が穏健なのか? 元議員は、クリーパーをやっつけたあとに17 か18 を爆殺するつもりでスイッチを持ってるんだけど、わざわざそんなことまでして1体にしなくちゃならんのはなんでなの?
てせまあ、17がクリーパーの幼虫を親元に届けて、それでクリーパーは大人しくなって。元議員は18に押さえつけられ、18が自分の方の爆破スイッチを押して、ともに爆死。そんなんでなにが解決するのかよくわからん。
で、しばらく後、エクスペンタブルを再生する人体プリンターの爆破によって、もうエクスペンタブルはつくらない、という儀式が行われ、落着。してるのか? プリンターを1台破壊しても、技術は残ってるんだから、意味ないと思うけどね。
そうそう。この儀式のとき17は夢? を見て。プリンターによって元議員が再生されるんだったかな。まあ、だからどうしたな感じで、いまいちピンとこない映画だったな。ポン・ジュノは『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞をかっさらい、鳴り物入りでこの映画をつくったようだけど、なんでこんなスキの多い話になっちまってるのかね。
ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男4/22ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ヨアヒム・A・ラング脚本/ヨアヒム・A・ラング
ドイツ/スロバキア映画。原題は“Fuhrer und Verfurer”。公式HPのあらすじは「1933年のヒトラー首相就任から1945年にヒトラーが亡くなるまでの間、プロパガンダを主導する宣伝大臣として、国民を扇動してきたヨーゼフ・ゲッベルス。当初は平和を強調していたが、ユダヤ人の一掃と侵略戦争へと突き進むヒトラーから激しく批判され、ゲッベルスは信頼を失う。愛人との関係も断ち切られ、自身の地位を回復させるため、ヒトラーが望む反ユダヤ映画の製作、大衆を扇動する演説、綿密に計画された戦勝パレードを次々と企画し、国民の熱狂とヒトラーからの信頼を再び勝ち取るゲッベルス。独ソ戦でヒトラーの戦争は本格化し、ユダヤ人大量虐殺はピークに達する。スターリングラード敗戦後、ゲッベルスは国民の戦争参加をあおる“総力戦演説”を行う。しかし、状況がますます絶望的になっていく中、ゲッベルスはヒトラーとともに第三帝国のイメージを後世に残す最も過激なプロパガンダを仕掛ける。ヒトラーの腹心として、プロパガンダ政策を担ったゲッベルスは、演説、ラジオ、映画などメディアを通して国民感情を煽り、操り、ヒトラー政権を拡大させた。本作は、入念なリサーチに基づきゲッベルスの驚きの発言や行動、ヒトラーやナチ幹部たちの恐るべき会話など、裏側の実態を描き出し、その半生と戦略を暴き出す。」
Twitterへは「見出され、才能を発揮し、階段を上りつめる話かと思ったらさにあらず。具体的な例は少なく、とてもプロデュースとは見えない描き方。過去映像や過剰な死体映像も多く、この映画もプロパガンダじゃないの?」「ところで。ゲッベルスに愛人ができて、これに妻が怒り心頭。なのにゲッベルスは「愛してる。認めてくれ」と離婚を切り出す。妻は断固拒否。ヒトラーも、離婚は許さん、なんだよね。で、愛人発覚の時には子供が4人だったんだけど、その後6人に増えてるんだよ。え?!  離婚しようとまで思ったのに?」
描かれるのは1933年(だったのか? よく憶えてないんだが)から1945年まで。ここに過去のヒトラーやゲッベルス、ヒムラーの記録映像がときどき絡む。その記録映像と同じアングルとタイミングを再現した映像がタブる。まあ、これで、この映画が事実に基づいているんだよ、といいたいのかな。それと、随所にユダヤ人が惨殺される場面、折り重なる遺体の記録映像が挟まる。ほぼ会話劇で戦場の様子はない。主に閣僚会議の場面と、ゲッベルスの私的な時間帯が大半。当時のナチスの閣僚の紹介はほとんどない。名前がちゃんとでるのはヒムラーぐらいのものか。でも、ゲッベルスが宣伝大臣だとして、それ以外の閣僚がなにしてるのかとか、ほとんどわからない。ドラマチックはほとんどない。ナチの戦争開始後のスウェーデンへの進軍とかフランス征服とか、言葉ではでるけど、兵士の姿は映らない。なので、飽きる。完全な寝落ちはなかったけど、ときどき1、2分目をつむってはあくびして、朦朧としたまま映画は終わった。
期待したのは、そもそもゲッベルスとはどういう男なのか、なんだよね。少年時代とか青年時代、どんなエピソードがあったのか。ナチに入ってどうやって頭角を現し、いかにヒトラーに重用されていったのか。プロパガンダの大切さ、効用などをいかに理解し、それを現実に応用していったのか。その宣伝にまんまと動員され、興奮を感じていった当時のドイツ人はどんなだったの? てなことだったんだよね。でもそういうのはほとんどなくて、すでにヒトラーの懐刀として存在し、茶坊主みたいにご機嫌を取っている状態から始まるんだよ。これじゃ面白くないだろ。
冒頭近く、ヒトラーたちが芸術家たちと歓談する場面がある。なかに一人、ユダヤ人を妻にした男性がいて、閣僚たちから「ユダヤ人を妻にしてるなんて」とかいわれ、肩身が狭い様子が映る。なるほど。1933年頃には、まだユダヤ人狩りは始まってなくて、嫌悪されている程度だったのか。ところで、くだんのユダヤ人を妻にした芸術家はどうなったのか? の末路は描かれない。いや、そこまで描いてドラマだろうに。
その後の閣僚の歓談で、ユダヤ人が議員(?)を狙撃した事件があったという話が持ち上がり、たしか、ゲッベルスがそれを利用して民衆にユダヤ人への敵意をかき立てようとした、のかな。そういうのがあったけど、とくに宣伝がどーの、な話じゃない。だれでも考えそうなことだ。ほかには、ヒトラーの様子を映した映像に、手が震えているのがあると、「総統は震えない。この映像は使うな」と部下に命じたり。あとは、リーフェンシュタールがちょっと登場したりと、すでにどこかで見たか聞いたかしたことのある話で。ゲッベルスならではの才覚を発揮、とはとくに思えない。
なもんだから、サブタイトルの「ヒトラーをプロデュースした男」の、どこがどうプロデュースなんだよ、ってしか思えないんだよ。そもそもヒトラーはゲッベルスの意見や指示に従って行動したわけじゃないだろ。ヒトラーのご機嫌をうかがいながら事を運んでいただけだろ、にしか見えないのだ。
というなかで興味深かったのがゲッベルスの家庭状況で。どうやら大臣時代にチェコの女性と通じていたらしい。それを知った妻に、「彼女を愛している。このまま関係をつづけたい」というも非難されて、離婚を決意したらしい。ところがヒトラーから、それはよくない、と制止され(どういう理由だったかな…忘れた)、チェコの女とは別れたようだ。陰口だったか、妻が言ったんだったか「チェコの女となんか!」といわれていたな。ところで冒頭タイトルの前だか後に、2体の大人の遺体と6体の白い服の子供の遺体が写るんだよね。家族かな、とは思ったんだけど、この映画の始めで登場する子供は4人なんだよ。それが、離婚騒ぎの後に2人増えている! 離婚しようという妻と何度もセックスして子供までつくっているのか! 精力絶倫だったのかね。
後半は負け戦が続く状況で、どこが爆撃されたとか、瓦礫が散乱するベルリンも写るけど、ヒトラーや閣僚は断じて負けを認めない態度。ヒトラーが爆撃にあったらしい場面がでるけど、そんなことがあったのか。へー。しかし、こうした中でもゲッベルスはまだ宣伝映画を撮ろうとしているようす。トンチンカンだね。
あとは、ヒトラーが死んだ、の後でなんとなく映画は終わる。で、最後に、ゲッベルスは子供を殺した後、夫婦で自害した、と字幕が出る。これはこれで、なんか痛々しいね。子供に罪はないのだから。
・会話の中に「エクス・マキナ」とか混じってて、そんなのフツーの人は説明がなくちゃ分からんだろ。
・気になったのは、ヒトラーが似ていないことだな。いかつすぎだろ。
KIDDO キドー4/22ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ザラ・ドヴィンガー脚本/ザラ・ドヴィンガー、ニーナ・ファン・ドリール
オランダ映画。原題は“Kiddo”。もしかしてオランダ語の子供、って意味かな。公式HPのあらすじは「ママがやって来る!児童養護施設で暮らす11歳の少女ルーのもとに、離れ離れだった母親のカリーナから突然連絡が入る。自称ハリウッドスターのカリーナは、再会を喜ぶルーを勝手に施設から連れ出し、「ポーランドのおばあちゃんのところへ行く」と告げる。カリーナにはルーとずっと一緒にいるための、ある計画があったのだ。「人生はゼロか100かよ、お嬢ちゃんキドー」。ルーは破天荒な言動を見せるカリーナに戸惑いながらも、母親と一緒にいたいという思いでついていくのだが…。」
Twitterへは「珍しやオランダ映画。娘を施設に預けっぱなしのバカ母が突然やってきて、数日間、娘を引きずり回すロードムービー。アメリカのインディーズによくある感じの設定だな。ボギー&クライド気取りで食い逃げするとか、切ないバカっぽさもあったりする。」
ルーが預けられているのは大きな施設ではなくて、フツーの住宅みたいな感じのところ。10歳前後の、同じような年齢の子供が集団生活してる。黒人のオバサンスタッフ(HPでは養母となっていた。養子縁組していたのか!?)のところにルーの母親から電話で、「明日行く」と連絡があった。それを聞いて喜ぶルー。でも、当日、現れずにがっかり。で、翌日、みんながどっかに引率されてるときに母親がやってきて、よお、久しぶり、な感じ。5年ぶり? にしては涙の再会シーンもなくて。でかけよう、でボロ車に乗って出発。
という時点で、施設とはなんだ? なぜカリーナはずっと娘を預けていたのか。生活苦? 借金? 双極性かなんかで精神病院に入ってた? アル中離脱? でもその説明は一切ない。ちょっとのほのめかしもない。施設の方でも、とくに問いただす風もなく、娘に会いに来るならどうぞ、な感じなんだよね。で、あとから分かることなんだけど、ルーの外出は夕方までで、その日のうちに戻る、のがルールのようだ。そういう施設って、あるのかね。なんかアバウト過ぎな感じだ。
で、なんとなく出かけるんだけど。ルーは、リュックの中に、飼ってる小さなヘビを連れていく。カリーナは、目的地を、ポーランドのおばあちゃんち、と告げて、ドイツを通り越してポーランドに行く、らしい。ってことは出発地はオランダ、なのか? と思っていたら、後で見たらオランダ映画なので、そうなんだろう。ってことは、カリーナはポーランド出身でオランダに行き、そこで子供を産んで施設に預けたのか。ってことは、もしかして、性産業で働いていたのか? それで子供ができた? とか、想像したりする。ルーを生んで仕事はやめて別のことをしていたけど、たち行かなくなって? あるいは、また性産業に戻るのに、公的支援として施設があったりするんだろうか、と想像してみる。なにって、カリーナはずっとノープラ乳首見せスタイルで、ホットパンツ姿なんだぜ。だからんやっぱり…。
この映画のちょっとポップなお遊びとしては、話題に応じて関連したり想像できたりするアニメとか写真とか、音とか、が話と関係なく挿入されることかな。カリーナはルーに「ハリウッドに行って女優になる」とか「スタントをやっていた」とか話しているんだけど、そういう話題のときには横転するクルマの映像が映る。まあ、よくある手だけど、飽きさせない仕掛けとしては、いいのかもしれない。
で、カリーナはルーに、人生は0か100、だ。といい、ほいっと携帯を捨ててしまう。世間とのしがらみを断ち切っての大博打、とでもいうのだろうか。でもルーは真面目らしくそうはいかず、隠し持ったスマホにかかってきている不在者着信に、ヤバっ、ってなったりする。カリーナのスキを見て施設に電話し、今の状況をサクッと報告したりする。「今日中には帰るから」とテキトーなことを言って。でも、そうはならないんだけどね。でも、ついにはルーは、施設に連絡してたことをカリーナに告げる。なんだこいつ、な反応をされるけれど、ルーもスマホを捨てて、母ちゃんにつき合うよ、という意思表示をする、のだが…。
ボニー&クライド気取りでレストランで無断飲食したり、ウィッグで変身してみたり、変な少年に出会ったり。母娘で『テルマ&ルイーズ』やってるみたい。こまかなエピソードはほとんど忘れてしまった。で、クルマがいよいよ動かなくなって、しかも爆発。ヒッチハイクでトラックに乗せてもらったりして、いよいよポーランドに到着。実家に行ったら、姉だか兄嫁だかがいて(HPには従姉妹となっていた)、母さんは亡くなった、連絡先も分からないのでつたえようがなかった、といわれ、家にも入れてくれない。よほど義理を欠いているのだろう。それでもカリーナは家の中に入り込み、台所の天井近くから箱をとりだし、なにに大金があるのを確認。ルーのリュックに移し替えてトンズラする。
という展開は何なんだ? 本物のボニー&クライドかよ。しかしあの金は誰の物なんだ? 死んだ母親のもの? 兄だか姉だかのもの? だって、母のものだとしても、カリーナが知ってるぐらい何だから、ほかの家族が知らないわけがないよなあ。
で、その金で新しくクルマ(中古だろうけど)を買って。一路、オランダに向かうのだった。のはいいんだが、クルマを買ってまだ残るってことは100万円以上あったってことだろ。ポーランドの家族は訴えないのかな。それが気になったぞ。
で、すっかり寝ていたルーが気がついてみればクルマは施設の横に停まっていて、ッリュックには「みんなお前のもの。あげる」と、メモと大金が。しかも、途中で行方不明になっていたペットのヘビも熊のぬいぐるみに貼り付いていたようで、あれもこれも解決。なのかね。
はたして、カリーナの目的は何だったのか? ルーと一緒に住むことではなかったのか? ルーは、それを望まないのか? 11歳の子供ならそれを一番に望むだろうに。それに、あんな大金を持っていたら、施設で取り上げられちゃうんじゃないのかな。一時的に。とか、いろいろ突っ込みたいところはたくさんある。しかし、あれでルーは幸せになれるんかいな。
で、公式HPを見たら、施設のオバサンは養母、らしい。ってことは、カリーナには親権がなく、いまではただの生みの親、ということなのか。それが、思い立って母親の遺産を与えたい、と突如、思い立った? 「これは誘拐だ」ともいっていたし。
・カリーナはモーテルでいつも古い映画を見てるんだけど、いつも同じ映画なんだよね。あの映画が好きなのか?
終わりの鳥4/25ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/ダイナ・O・プシッチ脚本/ダイナ・O・プシッチ
原題は“Tuesday”。死にかけてる女の子の名前。公式HPのあらすじは「余命わずかな15歳のチューズデーの前に、喋って歌って変幻自在な1羽の鳥が舞い降りた。地球を周回して生きものに命の“終わり”を告げる、その名も<デス>。チューズデーはそんな彼をジョークで笑わせ、留守の母親ゾラが帰宅するまで自身の最後を引き延ばすことに成功する。やがて家に戻ったゾラは、鳥の存在に畏れおののき、愛する娘の身から<デス>を全力で遠ざけるべく、暴挙に出るが……。」
Twitterへは「落語で言うところの“死神”が、インコの姿で現れ、少女にまとわりつくが…な話。それ以上のドラマがないのでとても退屈。ムダにファンタジーに仕立ててるけど、たいして意味がないだろ。20分ぐらいのショートムービーで十分な内容だ。」
死にかけている生物(人間や植物も含む)のところに現れ、死を宣告し、送るオウムの話である。日本では落語の「死神」が有名だ。もっとも、これは圓朝が海外の話にヒントを得て翻案したらしいが。こんな話は珍しくもない。では、なにかひねりがあるのかというと、これが、ない。映画の中で死を宣告されようとしているのは15歳の少女で、なぜかオウムは死の世界へと送り出さず、会話をし始める。なにか理由があるのか? とくになかったよな。仕事がらか鳥には死に行く人の声がこびりついていて、のべつ雑音のように聞こえているようだ。チューズデーの処に来る前に蠅取り紙みたいなのを踏んづけていて、足に糊がついていた、らしい。チューズデーはめざとくそれに気付き、「洗ってあげるよ」というと、オウムは「自分は汚れている」といいつつ、なぜかチューズデーに従い、水のたまった洗面に入る。と、水は真っ黒になる。これでスッキリ! 雑音が消えた御礼なのか、オウムはのらくらチューズデーと話を始めてしまい、死を宣告しない。「君に出会って頭がスッキリしたよ」とか、バカじゃないのか、このオウム。
このオウム、巨大化も縮小化も変幻自在なのだよね。ところで、地球では1日にすごい数の死が発生しているはずなのに、このオウム一匹で担当しているみたいな感じなのか不思議。チューズデーに長時間かかずり合ってていいのか?
ところでこの汚れは死穢なのか? それはいいけど、真っ黒になった水から上がると、ぶるぶるして、それで終わりなんだよな。あんな汚れてるんなら、なんども洗って身体をすすげよ! と思ってしまった。
チューズデーとオウムの会話は詳しくは忘れたけど、オウムが「私は暗闇の子宮から産まれた」とかいうのには、え? と思ったね。鳥は卵だろうに。子宮たあなんだよ。一気に冷めたね。それから、オウムがこれ迄に看取った有名人について「エリザベス一世はしぶとかった、とか、スターリンは糞だった、キリストは皮肉屋だった」みたいな評価をしてたな。しかし、その後、チューズデーの「神はいるの?」「いない」「死後の世界は?」「ある」とかいう会話もあって、では、神がいない世界でキリストはどういう存在なのだ? と思ったね。
この家は母子家庭で、父親がどうしているかは分からない。チューズデーの病気もなんなのか分からない。チューズデーが短髪なので、抗がん剤治療の結果脱毛し、もう、効果がないと分かったから治療はストップしている状態? なのかね。にしてはチューズデーは肉付きもよく、ムダに巨乳で、元気なのが変だよな。ひとり、介護の看護師が来ていて、個人で支払っているらしい。
母親は仕事をしているのかどうか。公園のベンチで時を過ごしたり。このとき、彼女の顔のまわりを虫がぶんぶん飛ぶんだけど、なんと母親はピシャリ! と潰そうとするのだ。げ。フツーしないだろ。潰した虫の死骸が手に付くのを考えたら。へんな母親。まあ、虫も母親に死の臭いを感じてまとわりついたのかもしれないが。で、帰宅すると看護師と会話するんだけど、このとき、頬になにか黒いものがついているんだけど、なんだ? と思っていたら看護師が指摘して、剥がしていた。でも、その説明は一切ない。ありゃなんだったんだ? 
で母親はオウムと対面。母はオウムを拒絶するが「死はmustなもの、としてやってくる。」とか冷酷。でも、とつぜん母親はぶ厚い本でオウムを叩きつぶし、庭に持っていって燃やし、なんと食べてしまう。げ。あんなものを口にしようという発想はないだろ、フツー。で、すぐ吐き出すのかと思ったらそうならず、ゲップをしてる程度。え? 死神を食べたのか? 死神オウムはイリュージョンではなく、物質なのか?
とりあえず、死を回避してしまったチューズデー。翌日は母親に風呂に入れてもらうんだが、看護師もいないのに一人でよくできるよな。体ごと吊り上げる装置もあるようだけど、あんなものが自宅にあるのか? さらに、チューズデーは「もう1年も2階にあがってない」といい、母親に階段を引っ張り上げてもらう。そんなことが女手でできるのか? で、上がるとどの部屋もがらんとしている。「ここにあったダイアン・アーバスの写真は売った」とかなんとか、いろいろ売却しているらしい。そういえば、冒頭でも母親は何かの人形を古物商に持ち込んでおった。娘の介護費用に追われているのか。働かず、モノを売って生活している? なんか変なの。
母親は玄関の天井のライトを修繕しようと脚立の上。ネジ回しが合わないとか言っている。「じゃあ、このネジ回しは?」と、車椅子で下にいるチューズデーが渡そうとするんだが。おまえ。車椅子で動ける範囲にネジ回しがあるのか? それはさておき、「オウムはどうしたの?」に返答をもごもごする母親に、電灯のスイッチをオンにして、「感電させるぞ」な脅しで聞き出そうとするチューズデー。ヤバい娘だな。で、白状する母親。と思っていたら、突然、母親が巨大化する。腹の中にオウムがいて、そうさせているらしいが。だったら腹から出てくりゃいいのに、なんででてこないの?
で、このあとは、大きくなった母親が娘を背負って町をのし歩き、人や獣に死の宣告をして歩く。母親は「この仕事は私に合ってる。定職にしようかしら」なんてバカなことをいったりする。なんなんだ。
で、浜辺にやってくるんだが、なぜか突然、母親がえずいて。口からオウムが飛び出してくる。それを見ているチューズデー。でも、なぜかオウムは再び母親の腹の中に入って行くのは、なぜなんだ? どういう交渉がなされたんだか。
家に戻ったんだっけか。チューズデーは眠るように死んでいく。母親の「あの世で娘に会えるの?」に、オウムは「思うことで死者は生きつづける」みたいなことを話していたかな。母親は泣き叫ぶでもなく、落ち着いて娘の死を受け入れたみたい。
では、この映画は、キューブラー・ロスの『死の瞬間』がいうような否認、怒り、取引、抑うつ、受容の経緯をもとに構成されておるのかい?
しっかし、葬儀の場面もない。チューズデーの友人知人、家族や近所の人もやってこないの? そういうのはたんに省いただけ? にしても、リアリティがないよな。
という、それだけの話で、人によっては、生と死の哲学的な内容が云々、と書いてる人もいたけど、そんな深いことは言っとらんぞ、この映画。
・母親はチューズデーを「カエルちゃん」と呼ぶんだけど、どういう意味があるのだ?
・チューズデー役のローラ・ペティクルーは1995年生まれらしいので、撮影時は27、28歳なのか。それが15歳の役かよ。垂れた巨乳もなるほど。
今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は4/28テアトル新宿監督/大九明子脚本/大九明子
公式HPのあらすじは「思い描いていた大学生活とはほど遠い、冴えない毎日を送る小西。学内唯一の友人・山根や銭湯のバイト仲間・さっちゃんとは、他愛もないことでふざけあう日々。ある日の授業終わり、お団子頭の桜田の凛々しい姿に目を奪われた。思い切って声をかけると、拍子抜けするほど偶然が重なり急速に意気投合する。会話が尽きない中、「毎日楽しいって思いたい。今日の空が一番好き、って思いたい」と桜田が何気なく口にした言葉が胸に刺さる。その言葉は、奇しくも、半年前に亡くなった大好きな祖母の言葉と同じで、桜田と出会えた喜びにひとり震える。ようやく自分を取り巻く世界を少しだけ愛せそうになった矢先、運命を変える衝撃の出来事が二人を襲うー。」
Twitterへは「前半は関西大学のPRビデオだった。半ば過ぎから、やっとちょいドラマが…。最後は、ありがちな感じだったけど、まあ、そこそこ面白かった。伊東蒼がちょっと可愛く見えたし。けど彼女の通う大学は、まさか京大?」
終わってみれば、ああなるほど。な、本人たちには見えない三角関係で、考えて見ればよくある設定。勘のいい人なら、線香を上げに行ったとき、誰が出てくるのか分かったんだろうな。こちらは気がつかなかったけど。だからまあ、うまく騙された感じで、そこは楽しめたのではあるけれど。それは、たんに設定なだけで、話の根幹ではない。
小西が、学食で目をつけた女子学生桜田がいて、授業で同じだったので相手の出席カードを盗み見し、自分は「出席カードを出しといて」と頼むことで名前を知らせる、という狡猾な手法で接触。冴えない学生がこんな積極的なことをするのかよ。と思ってしまうエピソードだな。その後は学内で、思いがけない出会いを重ねて知り合いになっていく、という都合のいい話がひとつ。もうひとつは、小西くんは風呂屋の清掃のバイトをしていて、そこで働いてるサッちゃんとは仲好し。だけど、彼女のことは女性として見ておらず、名字も正式な名前にも関心がないまま。つまりは、ただの面食いだということだ。ところがサッちゃんは小西のことが好きだった。なのに小西は、つき合ってる女子がいるようなことをほのめかす。桜田に紹介された童話と、あともうひとつ(忘れた)のことについて、サッちゃんにも話したことで、さっちゃんは、その子のことが好きなんだな、と気づくわけだ。で、ある夜、バイト帰りにサッちゃんは住宅地の路上で、好きだったけど、気にしなくていいよ的なことを長々と10分ぐらいくだくだと告白する。うぜー女、と思ってしまったよ。それに、周囲にまる聞こえだろうよ。アホか。と思ってしまったよ。
そもそも冴えない生活を送ってるやつが、なぜ学食で一目惚れした女の子に大胆なアプローチができるんだ? むしろバイト仲間のサッちゃんの方がアプローチしやすいだろうに。なぜしない? 手近なところで妥協しない性格? なんか、よく分からん男。
それはそれとして、小西と桜田は順調で、ながながと一夜を語り明かした後の喫茶店から登校するんだけど、「あの店に、今日、もう一回行かない?」ということになって午後2時に待ち合わせる。けれも、いつまで待っても桜田は来ない。こっから小西の妄想が始まって。好きなフリして実は嫌がっていた、ストーカー扱いされてた…と悶々と勝手に悩むパートが始まって、以後、画面に桜田さんは登場しなくなる。とはいっても桜田さんが登校してればどっかで会うはずだし、彼女のバイト先のカフェもあるから、調べりゃ分かるはずなのに、しない。このあたり、不自然すぎ。だって、妄想の中で桜田さんはバイト先には行っている、のだから。
いっぽうで、小西に告白したサッちゃんは、翌日から風呂屋のバイトに来なくなる。こりゃ自殺の線もあるかな、と思っていたら、風呂屋の主人にサッちゃんちから電話があって、亡くなった、と。うーむ。まんまとミスリードさせておいて、な流れだな。でも実は、交通事故で、事故自体はたいしたことなかったんだけど、倒れたときの打ち所が悪くて亡くなった、とかいう。うーむ。失恋でボーッとしてたせいもあるんじゃなかろうか、とは思った。では小西は全面的に自分のせい、と思い込んだんだけど、そうでもないらしいところもあって、もやもや。で、銭湯の主人と線香を上げに行くことになって、サッちゃんちを訪問したら、玄関口に現れたのが、なんと桜田さん。ああ、なるほど、そういう仕掛けだったのか。驚きというより、へーなるほどね、よくある意外な展開だな、な感じかな。ここで小西君はいきなり「今じゃない!」と叫ぶ。これは、再会が「今ここでじゃない」ということなのかな。そして、辞そうとするとき、風呂屋の主人が「嫌だ!」と叫び、直後に桜田さんが「最悪!」と叫ぶんだけど、このあたりのセリフの意味が、よく分からない。たんに心の叫びだけ、なのかな。深い意味はないのかな。
で、風呂屋の主人はひとり先に帰ったのか。小西と桜田さんが話を始めて。実は、あの日2時に会う約束を守れなかったのは、サッちゃんの事故があった日だったから、と説明される。それで小西君は、ああなるほど、にはなるんだが。桜田さんが言うには、あの日、いったん家に戻ったら母親から電話で妹が事故だ、と。それで家にいたらいつのまにか寝てしまって。ふと起きたら夕方か夜で、妹の死を知ったとかなんだとか、どーも間尺に合わないのだよ。2時に会う約束をしていて、それで実家に帰った? それで妹の事故をしらされて、家でもんもんしつつ寝ちゃった? はあ? このふたり、LINEとかメールは交換してなかったんだっけ? いや、遅れてもいいから正門前に行って小西君を探すとか、行こうといっていた店を見に行くとか、考えなかったのかな。
でまあ、妹が亡くなって1ヵ月。この間学校には1度行っただけで、ずっと家にこもってた、と。だから、顔を合わせることができなかった、という説明。なんかなあ、話がモヤモヤするんだよなあ。ところで、この、桜田さんが語るときに、いきなり意味の分からんズームアップがあって。おいおい。素人監督かよ、な気分になっちまった。それでまあ、桜田さんに嫌われたわけではないと分かった小西君は少し安心したような感じで。「自分は人の気持ちも分からないようなサイテーな男だけれど、でも、ずっとあなた(桜田さん)と一緒にいたい」的な告白をするんだよね。ぜんぜん感動できないだろ。
自分が好きな女の子=桜田さんについては一所懸命になるのに、気にも留めないブス(とまで言うのはなんだけど)なサッちゃんには無関心でいる男だと自覚しつつ、その死にまったく関係ないとも言えないだろう(サッちゃんは失恋の後遺症でボーッとしてた可能性はある)立場で、その姉である桜田さんに愛を告白するのかよ。ここで比べてしまうのは『片思い世界』の、横浜流星が演じていた少年だな。彼は、たまたま事件の時間に肉まんを買いに行っていて現場にいなかったけど、その間に事件があり、同級生の女の子が犠牲になってしまった。少年にはなんの責任もない。現場から逃げたわけでもない。なのに彼は、死んでしまった少女に対していまだに重荷を背負っていきている。この事例と比べたら、小西君の軽さテキトーさはなんかなあ。妹の心は傷つけたけど、姉のことが好きなんだから、それは押し通せよ、となるのか。うーむ。
話としての、ねじれた三角関係という仕掛けは成功してはいると思うけど。妹を傷つけた小西君を、桜田さんは変わらずに好きでいられるのだろうか? 疑問だな。まあ、小西君がサッちゃんとの敬意を話していない状態だからなあ、まだ。話したらどうなるんだろ?
な、かんじで。ほとんど刺さることのない話だった。
・舞台が関西大学で、キャンパス内や近くの商店街も全面的に支援、な感じ。昨今の大学模様がうかがえて興味深かったけど、出席表を代わりに出してもらうというのは、当たり前のことなのか? 授業中のおしゃべりは、、当たり前のことなのか。教師もなにも言わないのか? とも思ってしまった関西大学。
・サッちゃんは京都・出町柳にある大学なのか。では、京大か? サッちゃんは音楽をやってるらしく、ギターをかついで移動している。ひとりじゃバンドにならんだろうから仲間はいるんだろうけど、そういう連中は登場しない。そっちにイカス男はおらんのか。なぜに小西君なのか。小西のどこがよかったのか、よく分からない。
・誇張し過ぎな小西君の寝癖が描かれるけれど、コメディかよ。『メリーに首ったけ』の、あの精液のジェルのとんがり具合を連想してしまったよ。
・サッちゃんが「世界で最高のイントロ」というスピッツの曲は、曲名からすぐに連想できなかったけど、あとから聞いたら知ってる曲だった。世界最高とも思えないけどな。

 
 

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