2025年5月

秋津温泉5/2シネマ プルースタジオ監督/吉田喜重脚本/吉田喜重
Wikipediaのあらすじは「太平洋戦争中、生きる気力を無くした一人の青年、河本周作は死に場所を求めてふらりと秋津温泉にくる。結核に冒されている河本は、温泉で倒れたところを、温泉宿の女将の娘、新子の介護によって元気を取り戻す。そして、終戦。玉音放送を聞いて涙する純粋な新子に心打たれた河本は、やがて生きる力をとりもどしていく。互いに心惹かれる二人だったが、女将が河本を追い出してしまったために、河本は街に戻る。数年後、秋津に再び現れた河本だが、酒におぼれ、女にだらしない、堕落してしまった河本に、新子はいらだちを覚える。そこで、河本が結婚したことを知った新子は、苦しい河本への思いを捨てきれないまま、河本を送り出す。その後、東京に行くことになった河本は再び秋津を訪れる。一途なまでに河本を思う新子、そして、優柔不断でだらしない河本は再び都会へ。さらに四たび秋津を訪れる河本、そのときには旅館を廃業した新子だったが、河本は新子との肉体の情欲にだけ溺れる。新子は、河本にいっしょに死んでくれと言う。そして最後、河本と別れたあとに、思いつめた新子は手首を剃刀で切るのだった。」
Twitterへは「有名だけど初見。吉田喜重だから観念的な話かと思ったら企画・衣装とか岡田茉莉子で、身勝手なバカ男に惚れるムダに一途な女の話で退屈だった。クレジットされてた役者の半分も分からず。セリフは聞きづらいし…。」
一部には、これが吉田喜重の代表作で最高傑作だ、なんて書いてあった。えええ? どこが? だよな。公開は1962年。当時とは価値観が違う? いや、本質的なところで人間は変わらないし、映画の良し悪しも変わらないと思うけどな。
冒頭は、どっかの焼け野原の焼け残りの家を訪れる河本。すでに住人の女がいて何か話すけど、セリフが聞こえない。火事なのか。空襲なのか。この家が河本の実家なのか。分からないまま天蓋のない貨物列車の中。この時点で戦中か戦後か分からんまま。苦しそうな河本。列車が止まり、人々が散っていく。敵機が来たのか? なにも映らなかったけど。で、人々が戻ってくるけど、河本は逃げずに列車にいて。さっき話してた女性に、秋津温泉に…。なことを言うと、女は「そこの女中だ」というので、「連れてってくれ…」と、息も絶え絶えな河本。
このあたり、なにがなんだかさっぱり分からない。この男はどういう目的で秋津温泉に行こうとしているのか? だれか知ってる人がいるのか? とか、さっぱり分からず。↑のあらすじにある「太平洋戦争中、生きる気力を無くした」とか「死に場所を求めて」はまったく映画では描かれていない。河本の病も、最初は結核とは分からない。なぜ秋津温泉なのかも分からない。
なんとか着いたけど軍関係で部屋は埋まってるといわれ、でも布団部屋に入れてもらって。でも、頭を壁にぶつけたりもだえまくってる。いったい何を苦しがってるのか? さっぱり分からない。そこに新子が逃げ込んできて、布団の中に隠れる。どうも新子が、日本は戦争に負ける、と言ったのを「聞き捨てならん」と怒り心頭に発した兵士か将校が「女を出せ」と息巻いている。まあ、当時そんなことを兵隊の前で言ったら、そうなるわな。兵士の怒りは収まったのか、電気を点けると河本は血を吐いていて、医者の世話になるが、連れてきた女中は女将に嫌みを言われる。当たり前だわな。
明言はされてなかったけど、結核のようだ。ならば人が嫌がるだろうに、その気配がない。隔離するかと思うと、そうでもなく、部屋をあてがわれて寝ている。そこに新子が入り浸り。なんだこの娘は。結核が怖くないのか。変なの。新子が「東京の大学を出たんですって?」なんていう身の上話を、河本は誰にしたのだ? 新子と母親? が歩いていると玉音放送を聞く兵士や学校の人々に遭遇し、最初は何のことか分からなかったけれど、日本は負けた、と知る。ここで新子は「ほーら。ざまあみろ。言ったとおりじゃないか」と浮かれるかと思いきやそんなことはなく、家=温泉宿に戻ると号泣するというのだから、よく分からない。だんだん元気になる河本と新子はなかよくお出かけ散歩したりして、なんかいまいち良く分からない。だいいち、河本はこの温泉に来た目的は何だったんだ? が解決しないままなので、もやったままだ。さらに、17歳らしい新子が河本に惹かれているらしいんだけど、その理由がまったくわからない。病気なのに浴びるように酒を飲み、街場のバーに入り、やたら煙草を吸う。ぐらいのエピソードしかなくて、とくにドラマもない。話に説得力はないよな。
以降の流れは…。なぜか河本が岡山の飲み屋にいる。つきあってる女がいるようで、その女の兄は売れない小説家のようだ。で、5年後に河本は秋津温泉を、なぜか再訪する。で、またまた新子と河本の、くっつきそうでくっつかないロマンスもどき。で、帰っていくんだけど、いったい何日ぐらい滞在したんだか。よく分からん。印象的な場面も特にないし。
4年後? 河本は結婚していて(?)、女は女房になっているのか? 子どもがどうの言ってたような。なところに、義兄が文学賞を獲ったという連絡が入り、いじけた表情の河本。それが原因なのか、またまた河本は秋津温泉を訪れる。結婚して子どももいる、と話しているのに、なぜか相変わらず河本に惹かれている新子。初めて会ってから10年と話していたけど…。年数が合わない。さて、このときは、どんなエピソードがあったっけ? 単調すぎて憶えてないよ。新子の母が死んで、だっけ? 温泉を自分で経営していくと決めた、と話していたっけか? 河本は芸者を上げ、酔いまくる。それとは別の日だっけか? 新子が酔ってて、河本と飲み直しになり、気づくとなぜか河本は布団の中で。襖を開けるととなりで新子が着物のままでうたた寝していて。その後、なんだかんだでいい感じになって、やっと同衾。翌日なのか翌朝なのか、温泉に浸かっている新子。なんだけど、手拭いを湯舟に付けている描写はないだろ。変すぎる。で、湯から出たら、河本が帰った、と聞かされ「クルマを出して!」と。でバスに追いついて、津山でうろうろ。夕方までのらくらして、10時過ぎの電車に乗ろうとする河本を引き留め、どこかの安宿に泊まって、同衾。このときの岡田茉莉子の顔は、私こんなことしてていいの? ダメよね。溺れてちゃ。みたいな冷めた表情だったな。で、翌日は、ホームで別れる。
上京し、すっかり流行作家になった義兄。同じく上京し(単身?)、意にそぐわず編集(?)みたいなことをしている河本。義兄との差を見せつけられて、ひねくれまくってる。それが原因なのか。またしても河本は秋津温泉を訪れる。
精気がなく、ザンバラ髪の新子。旅館を売り、もらい湯してる状況。ここに河本がやってきて、もうすぐ解体するという離れに転がり込む。新子は河本に「初めて会ったのが17歳。それから17年」とか言ってたから、34歳か。まだそんなオバサンじゃないじゃん。ここで、またまた、まぐわうんだったかな。このとき抱かれている顔は、うつろな表情だったっけかなあ。よく憶えてないけど。で、翌日なのか、新子はひとり川沿いによたよた。で、なぜか突然、手首を切って。そのまま歩きつづけ、岸部で倒れ込む。新子を探す河本。見つけだして抱え上げるが、すでに息絶えていた、という、なんじゃこれ、な意味不明な話だった。
なぜ河本は東京から地元に戻ったのか? 結核にかかったから? なぜ秋津温泉なのだ? 新子は河本のどこに惹かれたのだ? それも17年も。初めて会ってから10年目にやっと男女の関係になり、でもいつも暗い表情で。いっぽうの河本は、すぐに女房をもらい、その後も女をつくったりしているのに、なぜ秋津にやってくるのだ? あたりがさっぱり分からないので、感情移入できるところがない。この映画が出来た当時の評価はそこそこ高いらしいけど、意味不明だな。
・新子からの手紙を、女房が隠していて、嫌みったらしく河本に見せたのはいつの時のことだっけ?
・岡田茉莉子は最初からつけまつげでケバい。
・音楽が延々と鳴りっぱなしでうっとうしい。10目に結ばれた翌日の津山市の場面と、17年目の場面で2度、無音の場面があったぐらい。
・雨の日。観客は6人
けものがいる5/7ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ ベルトラン・ボネロ脚本/ベルトラン・ボネロ
原題は“La bete”。公式HPのあらすじは「AIが国家の社会システム全般を管理し、人間の感情が不要と見なされている2044年のパリ。孤独な女性ガブリエル(レア・セドゥ)は有意義な職に就きたいと望んでいるが、それを叶えるにはDNAの浄化によって〈感情の消去〉をするセッションを受けなくてはならない。人間らしい感情を失うことに恐れを感じながらも、AIの指導に従って1910年と2014年の前世へとさかのぼったガブリエルは、それぞれの時代でルイ(ジョージ・マッケイ)という青年と出会い、激しく惹かれ合っていく。しかしこの時空を超越したセッションは、ガブリエルの潜在意識に植えつけられたトラウマの恐怖と向き合う旅でもあった。はたして、3つの時代で転生を繰り返すガブリエルとルイの愛は成就するのか。そして過酷な宿命を背負ったガブリエルが、最後に突きあたる衝撃的な真実とは……。」
Twitterへは「話がつまらん、というかよく分からんので寝てしまったよ。AIがどうの、は全く記憶にない。寝てたからか? 3つの時代の転生らしいが、1910年は分かっても、あとの2つの時代の区別がつかん。あ、髪型が違う? なレア・セドゥはやっぱり美人じゃないな。」「たまげたのはラストの後で。エンドロールの代わりにQRコードが映されて、知りたい人はここからどうぞ、ですと。スマホがないと映画も最後まで楽しめないのか。そういや展覧会の作品リストも、こんな具合のところが増えてきた。紙の方が見やすいのに。」
冒頭は、グリーンバックでカメラテストをする女。一転して、どの時代になったのか、もう忘れてる。見る前に3つの時代を行き来して、は知ってたけど、パッと見、3つとは分かりづらい。19世紀の終わりか20世紀初頭の世界は服装で分かる。でも、あとの2つの区別がつきにくい。いちど、2044だか2014だか、年代がどーんと画面に出たけど、それすらボーッと見ていたよ。やたらのらくら会話が多くて、でもドラマはなくて、なにがなんだか。なのでそのうち瞼が…。で、1度寝て。目覚めてしばらくしたら、いつのまにかすっかり沈没していた。以後はちゃんと見たけど、意味が分からず。 HPのあらすじにあるような「AIが国家の社会システム全般を管理し、人間の感情が不要と見なされている」とか「DNAの浄化によって〈感情の消去〉をするセッション」はまったく記憶にない。寝てたからなんだろうけど、起きてからの話に、そんな雰囲気はちっとも感じられなかった。
現代風の世界で、あ、女の髪型が違うのか、は分かった。けど、どっちが2044なのかは、分からなかった。分からないままなので頭の中に入ってこないし、記憶にも残らない。
以後は、断片的に憶えている場面を…。
・1910年での舞踏会だかパーティの場面。亭主があるのに他の男を漁ってる感じの女。絡んでくる青年。
・いつだか分からんけど、CMの撮影場面。
・1910年なのか、パリの大洪水。建物が火災で逃げられず、水没した地下だか1階を潜水して逃げようとして、女と男がいずれも死ぬ。
・女が黒い泥水に浸かって寝てる場面。これは何度も繰り返して映る。
・豪華な空き家の管理をしている女。家の中に鳩が飛び込んでくる。YouTuberみたいな男がストーキングしてて? なんなんだ。家の持ち主から「大丈夫か」としきりに電話。と思ったら地震発生で、外に出てYouTuber男に「家に来て」というけど拒絶されて。警報が鳴り、でも、しばらくしたら男が入ってきて、キスしてる? と思ったら別人で。でも、それは友人で。でも友人を追い返す? イメージが錯綜してるな。記憶もおぼろ。
・モデル仲間と会話する。
・黒人女が添い寝する?
・なぜか分からんけど時代を超えて現れる赤ん坊の人形。
・プールの縁で鳩の死骸を踏み、プールの水で足を洗う女。
・冒頭の、影にびっくりして包丁をもって…と同じ行動をする女。でもYouTuber男に射殺され、プールに浮かぶ…。
・ときどきデジタル風に歪む画面。
・ラストは、泣き叫ぶ女。顔がレア・セドゥじゃなくて別人のよう。暗転して、画面にQRコード。「キャストはこのQRコードを読み込んで見てくれ」ですと。おいおい。てな感じで、すべてが断片的で脈絡があるんだかないんだか分からない。ちゃんと考えて分割して再構築してるのかな。いやまあ、理解できないのは、寝てしまったこちらにも原因はあるんだろうけど。なんだかなあ、な映画だった。2時間半も、寝ずにこんな映画を楽しめる人はいるのかね。
6人ぼっち5/9ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/宗綱弟脚本/政池洋佑
公式HPのあらすじは「クラスに一人も友達がいない“ぼっち”の加山糸は、修学旅行前の班決めで、誰とも組むことができずにいた同じ“ぼっち”である5人と同じ班を組まされ、強制的に班長を任されることになってしまう。メンバーは、自己中で周りから引かれ気味のTikTokerの馬場すみれ、ガリ勉タイプで接しにくい新川琴、自慢話ばかりでウザがられている五十嵐大輔、気が弱く自分の意思を表せない山田ちえ、そして何かの理由で不登校になってしまった飯島祐太郎、いずれも一癖も二癖もある“ぼっち”の面々だった。修学旅行の行先は“広島”。みんながヨソヨソしく「友達でもないんだし」と、別々に行動することを提案されてしまい、ギクシャクした中で自由行動がスタートしてしまう。曲がりなりにも班長としての役割を果たそうと奮闘する加山に、渋々従うメンバーたち。それぞれが行きたい場所を順番に周るという提案に従って行動することになるのだが、広島での修学旅行とは思えない、バッティングセンターや“SNS映え”のためのカフェを巡るうちに、少しだが仲間意識が芽生え始める。しかし、あることをきっかけに誰も予想していなかった事態が起こる・・・。性格も趣味もバラバラな6人の“ぼっち”に訪れる、高校生活一度きりの修学旅行の行方は!?」
Twitterへは「クラスの“ぼっち”6人が修学旅行で同じ班になり…。空気読めない自分勝手奥手引きこもり…がまとまるのか? な話で。デキは自主映画に毛も生えてない感じ。人物設定や演出、編集もイマイチ。なんだけど、そんなたどたどしい青春も微笑ましく見られた。」
技術的に稚拙なところが多いし、6人のキャラがベタで薄っぺらで掘り下げもないので、ちょっとなあ、な感じで話は進むのであった。
・友達がいない加山。どんなやつでも話せる相手ぐらいいるだろうに、友達がいない、という設定は極端すぎ。友達がいないりゆうも説明されてないし。腋臭に悩んでるとか不細工すぎとか他人をバカにしてるとか、なにか原因がないと見てる方は納得できないな。
・TikTokerの馬場すみれは、ぼっちに悩んでないだろ。クラスメートの「一緒にTikTokしない?」に、フォロワー3万人以下の人とはコラボしないとか、しちゃいけないと言われてるとか、そんなこといってたし。むしろ孤高のスタンスだから、気の毒なところはまるでない。
・ガリ勉の新川琴。なぜ彼女がガリ勉なのか? その目標が示されてるといいんだけどね。二流高校から青学目指してるとか。で、彼女が周囲から相手にされてないのが不思議。フツー「ガリ勉! 不細工が青学かよ!」とかからかわれるだろ。まあ、眼鏡を取るとなかなかの美人でだしなあ。「お前らみたいに高卒で人生終わらないんだよ!」な主張でもあるといいのにね。
・自慢話ばかりでウザい五十嵐大輔。かれはウザがられてる感じがなかった。相手にしてくれる友達もいるし。誇大妄想で嘘つきや次郎みたいな身勝手野郎にすりゃあよかったのに。
・気が弱い山田ちえ。彼女のエピソードとしては、騒ぐ生徒とのジャマをしないように教室の植木に水をやる、というものだけ。もっとキャラづけしろよ。ぶつかられても不平をいわないとか、弁当を食われちゃっうとか、消しゴムでも鉛筆でも借りられて返してもらえてないとか、もっとエピソードが欲しい。
・不登校の飯島祐。いきなり修学旅行だけやってくる不登校はないだろ。ハナから生徒会長との不和をみせてもいいだろうに。テストでいい点を取って、生徒会長に睨まれるとか。あるいは、ガリ勉新川がライバル心燃やしてる相手だったりとか。なんかキャラづけが足りない。
という6人なので、話は面白くなりそうもない。キャラが一番立ってるのは、長髪のクラス担任かな。
で、そういう各人の描写はすっ飛ばして、まずは班決めなんだけど。これが、テキトー過ぎ。好きな者同士で班になれ、ってのはフツーないだろ。まあ、ぼっちが6人残るための設定としては必要なんだろうけど。でまあ、どのグループにも属さない6人が班になり、なぜか加山が班長にさせられる。で、次の場面は、さっさと修学旅行当日。は早すぎだろ。班長としての重圧とか、まったく描かないのかよ。しかも、その旅行の当日になって、いままで不登校だった飯島がやってくるという、違和感ありすぎな展開。でまあ、1日目は集団で平和公園あたりを回り、次から自由行動になる、という流れ。
加山が、まずはLINEグループをつくるんだけど、でも、馬場と五十嵐は、「みんなこっから単独行動しようぜ」と、他の4人をバカにしてる感じ。馬場はTikTokネタを探せばいいけど、五十嵐の単独行動はムリなんじゃないの? 同類の旧友の班に潜り込む?
てなこともなく、おどおどと加山が仕切って、とりあえず各自の行きたいところに行こう、ということになって、まずは五十嵐のバッティングセンター、馬場はオシャレなカフェ、新川は突然饒舌になって広島城へ。なんだ。城ガールだったのか。で、次が飯島の橋で、どうということのない橋で、ヤバそうな感じが…。そして、加山は広島焼き。このあたりで6人、和気あいあいになってきて…。と思ったら五十嵐の同類の班の連中が店にやってきて、五十嵐は、こんな連中と仲良くなってるところを見られたくない、な感じになってしまう。
というところで、どういう経緯か忘れたけど飯島が逃げ出して失踪。それをみんなが探して、ああ、そういえば、で橋へ行くとひとり川面を見つめている。聞けば彼は生徒会長からいじめられていて。というのも生徒会長は推薦を得るため勉学に励んでいて、でも、その生徒会長よりもいい成績をテストでとったので逆鱗に触れたとかなんとか。なんだけど、イジメにしては個人的な暴力だし、こんなもの無視しても他に生徒会長を応援するやつなんておらんだろ。なんか変な理由なんだよな。じゃあみんなで生徒会長に復讐しようと言うことで話がまとまる。ここで馬場が、私にちょっかい出してきたんだよね、あいつ。というわけで馬場が生徒会長をラブホ前に誘い出して。で、なにをするのかと思いきや、突然のように加山だったかが、復讐はやめよう、と言いだし。みなも、やめようやめよう、と尻すぼみ。で、山田の行きたかったという眺めのいい高層ビルから、原爆ドームを見下ろす…。てな展開。自由行動は1日だけかと思ったら、2、3日あったのか? 2日目にどこに行ったのか分からんけど。
な感じで無事に学校に戻ってきて。解散前に、先生からひと言、なんだけど。生徒会長は先生に「なんでお前あんなところにいた?」とラブホの前にいたことを追求されるんだけど。生徒会長がラブホ前で馬場を待っていたことがどうやってバレたんだ? 
で、みなパラパラと帰り始めるんだけど。加山が、だったか、みんなでどっかで話そう、とLINEで呼びかけると、みなが、そうしよう、ということになる。同類の仲間にカラオケを誘われた五十嵐も、その誘いを断って、ぼっち班の集まりにくることに。ここで、馬場から動画が送られてくる。そこには、班になった日からのめいめいの様子が映し出されていて、これがちょっとだけ感動的。てな、終わり方。
まあ、よくある感じの展開で意外性もないけど、まあ、楽しく見たよ。
ロザリー5/13新宿武蔵野館スクリーン3監督/ステファニー・ディ・ジュースト脚本/ステファニー・ディ・ジュースト、サンドリーヌ・ル・クストゥメール
フランス / ベルギー映画。原題は“Rosalie”。公式HPのあらすじは「生まれた時から多毛症に悩まされるロザリーは、その特別な秘密を隠して生きてきた。田舎町でカフェを営むアベルと結婚し、店を手伝うことになった彼女はある考えがひらめく。「ヒゲを伸ばした姿を見せることで、客が集まるかもしれない」 始めは彼女の行動に反対し嫌悪感を示したアベルだったが、その純粋で真摯な愛に次第に惹かれていく。果たして、ロザリーは本当の自分を愛される幸せと真の自由を見つけられるだろうかー。」
Twitterへは「髭女がダマテンで嫁入りし、亭主びっくりな話。設定は興味深いけど、ドラマがなく平板な展開。最初は胸毛や背毛ふさふさなのに、いつのまにか薄毛に描かれてたり違和感も。個性の尊重とか女性の自立、偏見・差別への批判みたいな捉え方はうがち過ぎだろ。」
サーカスのフリークスを描いて、本来もつ彼らの気高い美しさを訴えた『グレイテスト・ショーマン』には、ちょっと感動した覚えがある。あの映画にも鬚女は登場していて、でも、それほど大きくはフィーチャーされてなかったような。で、調べたら本作のロザリーは、フランスに実在した、ヒゲを生やした女性クレマンティーヌ・デレに着想を得た話だという。どこまで事実が反映されているかは分からないけどね。ところで、その彼女なのかは知らないが、鬚女の写真はむかしから知られていて、そのポートレート写真はわりと流布している。あの手の写真がフリークスショーのものなのかどうか、は知らないけどね。
で、主人公のロザリーは田舎の酒場の男の嫁になるんだけど、この経緯がまったく分からないのがもやもやする。父親がつれてきて、旦那になる男アベルに持参金を渡し、さっさと帰ってしまう。ロザリーは父親に「もう帰っちゃうの?」といってるけど、振り返りもしない。まあ、父親からすれば多毛症の娘は厄介払い、なんだろう。金で解決してホッとしているのかもね。
アベルの方は、ロザリーの胸をはだけて、胸毛がもじゃもじゃなので絶句。でも、話が違う、と父親に文句も言いに行かない。借金を返済して店を維持していく方が優先だったのかな。
アベルの借金というのが、実はよく分からないところがある。アベルはもともとカフェを営んでいた? どういう借金だったんだ? 借りた相手が、これまたよく分からん男で。工場主であり、領主みたいでもある。地元の権力者なんだろう。返済には持参金だけでは足りず、期日までに返済されなければ云々といっていたから、ロザリーを追い返すわけにもいかず、というところか。
ロザリーは店で働き出す。なんとかアベルの役に立ちたいと思ったのか、客と賭けをして「1月後に来たら驚くわ」とかなんとかいって。以降、亭主にも会わずヒゲを伸ばし、ひげ面で客の前に出て賭けに勝利。店の売上げに貢献する。
鬚女として登場というわけだ。けれど、以降、ロザリーは鬚を剃って女性らしさを見せようとはしない。ひげ面で接客し、客は鬚女見たさに押しかけて店は繁盛。なのでアベルは文句もいえないという、なんかなあ、な状態だ。客からは、見世物になれ、なんて声も出る始末。ロザリーもまんざらではなく、自分で写真師を見つけてきて(?) ブロマイドをつくって売り始める。それがエスカレートして、下着姿の写真も撮ったりし始める。これで店はますます繁盛する。
なぜかロザリーは村の女たちとも仲良くなって、なぜか偏見なくつきあい始める。さらに、教会の孤児の女の子なんかとも和気あいあいになる。こうなった理由が示されないので分からんのだが、人々はロザリーを獣、野蛮人、というようには見なかったということか。でも、そりはなぜなんだろう。美醜でいったら見にくいと思うんだけど。いくら心が優しくてもね。それに、亭主とは上手く行ってるのか? な質問もされない。ここら辺は都合よく話を進めてる感じで物足りないのだよな。
いっぽうの領主はなぜかロザリーをうとましく思っている様子。でも、その理由は示されない。こういうあたりが、根拠なく描かれるので、話の展開が素直に受け止められないのだよなあ。というところで、工場が火事になって。原因はよくわからないけど、女工が飲酒しながら仕事してたのが原因だ、と領主の工場主は判断し、飲酒しての仕事を厳禁化する。あおりを食らってカフェは閑古鳥が鳴くようになる。もしかして工場の火事も領主/工場主がロザリー憎しで仕掛けた、とも邪推できるけど、そんなことはないのかな。
このあたりでロザリーは医者に診てもらってたけど、病気だっけ? で、当然多毛症にも言及があり、ホルモン異常だと。ついでに性器触診で卵巣に嚢胞があるので妊娠できないとも言われてしまう。この後ぐらいだっけか? 亭主がロザリーと初めて? まぐわうんだけど、当初は胸毛ぼうぼう背中や腕ももじゃもじゃだったのに、乳房や腕あたりの毛が薄く描かれている。意図的にロザリーを美しく描こうという意図が透けて見えて、やな感じだな。
子ができない、からなのか、アベルとロザリーは教会の孤児を養子にしようと決意する。この子とは仲がよくて、発表会には見に行くわよ、とか約束してたほどの娘だ。と思ったら領主/工場主がロザリーのハレンチ写真を教会に提示して、審判みたいなので否決されてしまう。これで養子計画はおじゃん。店にも客は来ない。火事の後は村人にも見捨てられてしまうのだが、この村人の手のひら返しも、村人の本音がまったく描かれないので説得力がない。なんどもいうけど、領主/工場主のロザリー嫌いの理由も分からない。もうちょい人間を描けよ、と思う。
ある日ロザリーは例の発表会に顔を出す。これは教会の催しなのか。主賓らしい領主/工場主は「あなたは招待していない」というんだけどそれを無視して、領主/工場主と相対した席で合唱を聴く。教会の誰もロザリーを排除しないのはなぜなんだろう? と思ったら、アベルは化粧台の前でカミソリと血の付いた布を発見する。体毛処理でもしようとしてたのか? アベルはあわててロザリーを探しに出て、橋の上で彼女を発見する。ロザリーはアベルの前で橋から飛び降り、入水。なんだけど、あんな川なのに深さがかなりあって、ありゃないだろ、と思ったぞ。アベルもロザリーを追って飛び込み、水の中で2人は戯れるように絡まり合い…。で終わるんだけど。なんかよく分からんな。
化粧台のカミソリと血を拭った跡は、自死しようとしてできずの痕跡なのか? だとしたら、なぜロザリーは死にたくなったのか? 領主/工場主に疎まれ養子が叶わなかったから? そんなんで死ぬのか? だいたいロザリーを嫌っていたのは領主/工場主だけだろ。多くの村民はアベルとロザリーに(なぜだか知らないけど)好意的だったじゃないか。
という話なので、女性が自分らしく、とかいう見方はできないと思う。むしろ、なぜロザリーがヒゲを伸ばしたまま生き続けたのか? をちゃんと描かないと説得力はない。なぜヒゲを剃らなかったのか? 剃ればフツーの女のような色気も美しさもあって、アベルの期待(柔肌の女性を抱きたい)に応えられたはずなのに。それをせず、鬚女のままでいることは、どこがどう自分らしく、なのかさっぱり分からない。むしろ、無理矢理感がありすぎて首をひねってしまう。
・アベルの「生理はあるのか?」 に、ロザリーは応えてなかったよな。
・アベルはコルセットをしている様子が最初の方に映っていたけど、なんか関係あったか? なにもないよな。
夜の片鱗5/14シネマ ブルースタジオ監督/中村登脚本/権藤利英
1964年11月公開。allcinemaのあらすじは「下請け工場に勤める野上芳江は、夜はバーでホステスとして働いていた。バーには北見英次というなじみ客が来ており、芳江を夜の街に誘った。十九歳の芳江は興味本位でついていき、そのままホテルで体を許してしまう。芳江はそのまま英次のアパートで同棲を始め、工場も休みがち、実家にも帰らない日々が続いた。英次は街のチンピラで、金がなくなると芳江に売春を強要した。恐怖と諦念から、英次が連れてくる客を相手にする芳江だったが、次は街に出て客を取れと言われアパートを逃げ出す。しかし数日後、英次の所属する組のヤクザに捕まり、芳江はリンチを受けてしまう。街に出て客を取るようになった芳江は、建築技師の藤井と出会った。」
Twitterへは「1964年11月東京五輪直後の公開。女工がヤクザに惚れ、男を支えつつ堕ちていく…。いろいろ胸くそ悪くなる場面もある。しかし当時はヤクザも幅を効かせてて、女はモノとしてしか見られてなかったのね。時代は変わる。桑野みゆき、平幹二朗。監督中村登。」
内容は全く知らずに見た。ヤクザが女工を自分の女にし、揚げ句は立ちんぼにして働かせる話だった。客のひとりが女に惚れ、救おうとするが、結局抜けられず。ヤクザは後半、性機能を失い、逆に自分が捨てられないように尽くすが…という因果応報も。売春は嫌だ、という女を従わせるため、組の男どもが輪姦する場面もあったり、いろいろ胸くそ悪くなる。どんどん堕ちていく女。逃げようとも、這い上がろうとしない女。ラストの展開は意外すぎて「?」だけど。大島渚の『青春残酷物語』は1960年で、浦山桐郎の『私が棄てた女』は1969年か。まだまだ女は使い捨てな時代だったし、こういう話が映画のテーマになったんだな。いまや女性の半数は大学に行く時代。なかには自らAV女優になったり身体を売る人もいる。価値観は変わった。
芳江は貧乏な家族に産まれ、工場で働いている。傍ら、バーでバイト。19歳。華やかな世界への憧れがあったんだろう。サラリーマンを偽る英次に簡単に落とされ、同性。ヤクザと素性が分かっても別れる意志がない。組に納める金が足りない、と英次に言われると、渋りながらも英次が見つけてきた客を相手にするようになる。なんて軽いんだ、と思っちゃうけど、そういう例はあったし、いまもあるんだろう。一般には分からない世界だ。気の毒、より、バカなんじゃないのか? としか思えない。最初は英次が見つけてきた客相手だったけど、どうも英次は組の中で立場が弱いらしく、上から「女を立ちんぼにして稼がせろ」と言われたようだ。稼ぎはいったん組に入り、そこからいくらかが入る仕組み。完全にヤクザが営業する売春システムに組み込まれていく。英次も渋々な感じで、ってことは、英次は芳江を利用した、というより、惚れていたってことか。バカなヤクザだな。
この前半でいまいちピンとこないのは、英次がヤクザで、地回りの仕事をしていて、というあたり。兄貴や仲間が登場しないので英次はヤクザっぽく見えないし、組での立場もいまいち分からんところがある。あえてヤクザ臭を排除したつくりにしていたのかな。
それにしても、サラリーマンに憧れた芳江なのに、関係をもったらさっさと同棲し、相手がヤクザと分かっても縁を切らない、というのは何なんだろう。こういうのは男女の関係を最上位にもってくるタイプの女性の考えなのか。現在なら、「あんたウソついたのね」と罵倒して逃げる、がフツーだと思うけど。そうしないのは個体差なんだろうな。その後、客を取るようになって、でも、立ちん坊を要求されると同棲先から実家に戻るけど、組の若いものが芳江を呼びに来て、組の事務所で輪姦され、システムに組み込むようにさせられてしまうんだけど。タイミングが遅かったのかもね。組の幹部からすると、成績の良くない英次に女がいる、じゃあ、女に働かせよう、ということになるんだろうけど。英次も体たらくだから? あるいは下っ端だから? 自分の女を守れない。哀しい因果だね。
暴力的に売女にさせられてしまうと、女というのは仕方がない、と諦めてしまうのか。トラウマなく働けるのは、これは男性監督が男性の視点で映画をつくっているから、なんだろうな。実際はとんでもないトラウマと屈辱感に苛まれているはず。でも、もう抜けられない、というあきらめもあるんだろう。まだまだヤクザもそういうことができた時代でもあるんだろう。英次の情けなさがお気の毒、な感じだな。その意味では、英次もまた、ヤクザ社会から抜けられなくなってしまった、ということなんだろう。
そんな英次が抗争に巻き込まれて傷を負い、どうやら性機能を失ってしまった、らしい。はっきりとは描かれてないんだけどね。せいぜい子供ができない身体になった、とかいってるのみ。睾丸でも切られたのか? 医者には行かずにいたのに、次の場面では入院してたりして、経緯がいまいちよく分からんが。しかし、こうなると下手に出て芳江様様になるのが、お気の毒。自分は女を飼っている、から、女に食わせてもらっている、に立場が激変。このあたりの気の毒さは、なるほどねえ、な感じかな。
ここまで堕ちて、男を養っている芳江に好意を持つサラリーマンがいて。こんな生活はやめよう。僕が支える。男と別れてくれ。一緒になろう。といってくる。立場としては良心的に見えるけど芳江の上得意になるわけで、女を金で買いながら、女を養ってやろう、というのだから、女を下に見ているわけだ。一流会社の社員がなんで中卒の女工上がりの売春婦に入れ込むのか。そこは映画的なウソなんだろう。この時代に、どんな女性に対しても平等な目を持つ男がいたとは思えんしな。でも、ただの同情だけで、転勤先についてきてくれ、というのだから、お人好しなのか。実生活で女にもてないのなら分かるけど…。でも、立ちん坊の女に声をかけるぐらいなんだから遊び人だろ、としか思えないけどね。でも、これが英次と縁を切るいい機会、と芳江の心は揺れまくる。サラリーマンが、出張の前日に駅で待つ、といっていて、心は半分彼の元に。しかし、駅の近くまで行ったのに、結局、家に戻ってしまう。そして、食事の支度をする英次の背中を刺して…。最後は曖昧だけど、殺人犯として刑務所に入った、という流れなのかな。で、映画は終わるんだけど。
にしても、サラリーマンとともに逐電するかしないか、と心は揺れながら、英次を刺殺するにいたる心の中味が、まったく分からない。突然すぎて、どういう因果なんだ? 駅に向かいながら芳江は「あなたは一体、私の何なの? 私は一体、あんたの何なの?」とつぶやいていた。さらに裁判での言葉なのか。「ただ、あの人とのつながりが重かったんです。」といい、それに対して、「英次を殺して、そのつながりが断てたと言うのですか?」みたいなことを言われてたんだっけかな。これもなあ。いきなり哲学的な話に仕立ててるけど。重いなら逃げりゃいいだろ。実家じゃつかまっちゃうから、北海道とか九州とか、遠くに逃げりゃいいだろうに。要は、別れられない絆があったんだろ? それを断ち切るには、英次の存在がジャマだった、のか。英次がいなくなれば、情もなくなる、ということなのか。そんなに芳江にとって英次は別れられない人になっていたのか。うーむ。
新宿駅に向かう信号でENDにして、果たして芳江は英次を捨ててサラリーマンに賭けたのか? もしかして戻るのか? と、観客に考えさせて終わってもいい気がした。あるいは、英次の元に戻って、でも、カメラは台所の包丁を映し、刺す。けれどそれは願望・妄想で、実は実行していない、で終わらせるぐらいがいい気がする。実際に手を下して終わらせるのは話が飛びすぎだろ。
・クレジットに八波むと志? 東京ぽん太があったけど、実家に逃げた芳江を連れに来た組の下っ端2人かな?
・ブルーに暗転していくカットつなぎ。赤や青、黄色とか原色が鮮やかな映像。だけど、オープニングタイトルの出演者が読めない。あれはブルースタジオの光量不足か?
・最近の紹介ページには菅原文太が英次役の平幹二朗より先になってるけど、これは変だろ。文太は2つのシーンしかでていない。まあ、強烈に目立ってはいたけど。
・サラリーマンと芳江がデパートの屋上で、かつての工場の同僚の亭主と4歳ぐらいの子供と再会する。5年ぐらいでこの違い…。やっぱ環境ではなく個体差ってことだよなあ、と。
・芳江は19で英次と出会い、20歳の誕生日に女になって。立ちん坊でサラリーマンと会うのはその5年か6年後だからまだ25、6。で、あの荒み様だからものすごい。いまどきの20代半ばはまだ子供だよ。
季節はこのまま5/26ル・シネマ 渋谷宮下 9F監督/オリヴィエ・アサイヤス脚本/オリヴィエ・アサイヤス
フランス映画。原題は“Hors du temps”。「時が止まった生活」みたいな意味みたい。公式HPのあらすじは「2020年4月、新型コロナウイルスのパンデミックにより世界中で外出が制限された春。 映画監督のポールと音楽ジャーナリストで弟のエティエンヌは、それぞれが本格的な交際を始めたばかりであるモルガン、そしてキャロルとともに、子どもの頃に暮らした郊外の家に閉じこもって生活することになる。 懐かしい風景、新たな生活様式への戸惑い、世界から切り離されたような感覚、一緒に住んで初めて知る互いのこと…なにもかもが変わり、すべてが「止まってしまった」時間のなかで、ポールたちは不安を抱えながらもゆっくりと、たしかにそこにある光、愛と人生の新たな側面を発見していく。急に自炊に凝り出した。またネットで不要なものを買ってしまった。屋外で本を読む気持ちよさを知った。道で友人に会い、うれしくって泣いてしまった。縫い付けられた日々にたしかにあった、忘れてしまいたい時間、覚えておきたい静寂、ふとした優しさに救われる気持ち…」
Twitterへは「コロナ禍のフランス。両親が残してくれた田舎の一軒家におっさん兄弟とそれぞれのパートナーが非接触な生活をしつつ、だらだら話を繰り広げる。ストーリーもオチもなくて、なかなか退屈。源氏物語とか枕草子とか、なんなんだ?」
なんだかなー、な映画だった。そもそも人間関係が頭に入りにくい。冒頭でのナレーションで家族や地元の歴史、現在の周囲の住人の説明をナレーションでするんだけど、早すぎるし固有名詞多いので、頭に入らんのだよ。それに、そもそも誰のナレーションなのか? つまり、この映画の主人公は誰か、が曖昧なのだ。たぶんコロナ感染にビビリの兄貴だとは思うんだけど、はっきりしない。
とはいえ、いまはオッサンになった兄弟とそのパートナーが、オッサンたちの両親が田舎に残してくれた一軒家に生活している、というのは分かった。周囲はのんびりな農村地帯かと思うと、必ずしもそうではないようなところもあって、隣家の音が聞こえてくるようなところもある。そういうのが、あまりヒキで描かれないので、地理的によく分からない。
時代はコロナが流行し始めた頃、らしい。兄弟ともにむかしはジャーナリストで、兄は映画、弟は音楽、らしいけど、いま現在何をしているのかがよく分からない。そのちゃんとした説明もなかった、と思う。↑のあらすじには「映画監督のポールと音楽ジャーナリストで弟のエティエンヌ」と書いてあるけどね。で、兄弟ともに離婚しているようで、兄のほうには10歳の娘がいて、最後の方に登場する。弟の方は子供二人でともに成人している、とかなんとか。互いのパートナーはつい会い始めてともに2年ぐらい。見かけ貧相な兄のパートナーはすらりとした美人で、映画関係者? 弟の方は、相手の素性は良く分からない。ほんとはこういうところ、キッチリ分からせて欲しいんだけどね。
ちょっと猫背でひょうきんで、感染を極度に恐れているのは、兄の方。弟の方は大雑把な感じなんだけど、見かけはすらっとしたいい男。変な兄弟だ。
兄は感染を極度に恐れ、家族・仲間以外の他人との接触を嫌う。弟は宅配された食品をすぐに冷蔵庫に入れるんだけど、それを非難する。すると弟は、「じゃあ牛乳はどうするんだ」「牛乳だって同じだ」「そんなことをしたら牛乳が悪くなる」「感染か劣化か、どっちをとるとしたら、感染が怖いね」な感じ。
兄が店に買い出しに行く。対応する店員がマスクで、品物も箱に入れて非接触なのを評価する。で、帰宅すると衣服を脱いで洗おうとする。それに弟が、「いちいち洗濯するのかよ」と呆れると、「当たり前だ」という。
兄のパートナーが買い物に行ったら「店員がノーマスク」と聞かされ、兄は「店員と喋ったのか?」「ちょっと」と聞かされると、それだけで恐れたりする。
いまから思うとムダな感染対策ばかりしていた時代だと思う。けれど、映画は、どっちがどう、という評価は下さない。まあ、観客に考えさせる、というつもりなのかな。
兄はやたらAmazonで買い物をする。弟は、「Amazonを使うのは低賃金労働者の酷使につながるんだぞ」的なことをいっても、兄はそんなことは耳に入らない。非接触でモノを買うことの方が大切、という考えなのか。まあ、極端に独善的だよなあ。と思う。
こんなこともあった。弟がモップで床掃除してると、兄が二階から降りてきて、土足で歩こうとする。弟は「おい、いま掃除してるんだぞ」といっても、兄はいいじゃないか、な対応。「ダメだ」に、「つま先立ちで歩くんだからいいだろ」と返す。 なんてズボラでテキトーなんだ。神経質といっても、自分に関することだけ、なんだよな。やな奴。
この兄弟とパートナーたちが文学だとかなんだとか、知的そうな会話を延々としたりするんだけど、だからなに? としか思えないんだよな。兄は誰かに電話かzoomかで話していて、「枕草子がいい。源氏もいい。だけど僕は前書きで挫折した」「ホックニーがどうの」なんて話したりする。フランスの知識人に枕草子や源氏物語が通じるのか? へー、な感じ。田舎にいても、仕事はしているのかな。よく分からない。弟は部屋からDJみたいなことをしてたりするんだけど、あれはPodcast番組みたいなものか? 説明がないから分からん。 
てなダラダラが延々続いて。途中で一瞬寝落ちしそうになったけど、なんとか寝ないで見終えたんだけどね。
エピロークがあって。兄の別れた妻が娘を連れてやってくる。子供を交代で養育するようなシステムなのかな。娘は「パパー」な感じでとても父親好き。っていうのは、よく理解できないんだよな。日本の10歳の娘は、そんなに父親のことを好きじゃないだろ。なんであんなにベタベタできるのかね。元妻は、現夫? の両親がコロナ罹患? とか言っていたようなんだけど、にも係わらず娘とベタベタちゅっちゅしてるのも信じられない。他人との接触はダメだけど、娘なら感染者が出た家に住んでいるのに、接触してもいいのかよ。てなオマケ的なエピソードがあるんだが、この話がなんでエピローグ? とくにオチもないのに。
・過去の場面はモノクロ? で表現しているのか? あれは兄の主観? モノローグも兄なのか? なんかいまいちピリッとこない映画だったな。
新世紀ロマンティクス5/27新宿武蔵野館スクリーン2監督/ジャ・ジャンクー脚本/ジャ・ジャンクー、ワン・ジアファン
中国映画。原題は“風流一代”。英文題名は“Caught by the Tides”または“We Shall Be All”。公式HPのあらすじは「新たな世紀を迎え、漠然とした未来への期待に溢れていた2001年。三峡ダム建設により建物が解体され、長江で100万を超える住民たちが移住した2006年。目覚ましい経済発展を遂げ、地方都市も都会化したコロナ禍の2022年……。チャオは山西省・大同(ダートン)を出て戻らぬ恋人ビンを探して奉節(フォンジエ)を訪ね、ビンは仕事を求めて奉節からマカオに隣接する経済特区・珠海(チューハイ)を訪れる。時は流れ、ふたりはまた大同へ。恋人たちの関係と比例するように、街は変化していく。21世紀を22年かけて旅するチャオはどこにたどり着くのか。仕事もなく、道路は舗装されておらず、北京との格差にあえいでいた街が、22年の時を経て、ビルが立ち並び、グローバル化され、若者たちは世界の都市と変わらぬ娯楽を享受するようになる。二つ折りの携帯電話はスマートフォンに、SF世界だったAIロボットはスーパーマーケットで接客をし、孤独な女性の話し相手に……。壊れゆくもの、消えゆくもの、再び構築されるもの。変貌し続ける街に飲み込まれながら、出会いと別れを繰り返す。時間は戻らない。だから、前へと進む。」
Twitterへは「中国映画。2001年、2006年、2022年の3つの時代を散文的に描くんだが、主人公らしき人たちはほとんど喋らないし、ドラマもない。背景もよくわからない。公式HPのあらすじを読んで、へー、そういう設定なのか、と。なんだかなあ。」
冒頭。焚火。スパナを手にした男。人でも焼いてるのか? その経緯が解き明かされていくミステリアスな話なのか? と思ったら、オバサンたちが、交互に歌う場面。2001年。髪パッツンの娘が街をフラフラしてる。チンピラバイクに絡まれたり。娘はステージで踊ったりファッションショーにでていたり。いっこうにドラマが始まらないのでイライラしてきた。それ以前に、会話がほとんどない。散文的にだらだら映像が流れるだけ。娘が、控室になっているのか? なバスから出ようとして、何度も男に止められる。しつこくてイライラする。10数度目に、やっと出ていく。なんなんだ?
と思ったら川下り? ダム建設で水没する街がどうの。で、2006年らしい。船で旅する小太りなオバサン。ずっと無言。大同がどうの。地名か。意味が分からない。賭け将棋? 札束が忘れられている? オバサンが見る。オバサンが歩いていると、男に囲まれる。「盗んだな」。オバサンはカバンからスタンガンを取り出し、男達に向けて脱出する…。なんのことやら。
マスクだらけの飛行機の中。コロナ下か。ジジイがトイレに行こうとして「お客様のトイレはあちら」と、エコノミーの客らしく対応される。格差? そのジジイがどっかに到着し、スーパーへ。レジ打ちは2006年の小太りオバサンかな。知り合いなのか? ビル内のフロアに自律ロボット。はいはい。文明は進化してる? ジジイと2人並んで歩き、オバサンは走るランナへーの中へ混じる。で、終わる。
あー、眠かった。歌の歌詞が字幕で大書され、ナレーションでつなげていく。だからなんなんだ? まったく意味不明。最初の焚火はなんだったんだ?
で、公式HPのあらすじ↑を読んでもよく分からない。あらすじにある固有名詞や背景、経緯は映画ではほとんど説明されないし。さらにHPを読むと、「2001年から撮り溜めてきた映像素材を使用し、総製作期間は22年」とか「実際の24歳・29歳・45歳の主人公」とかあって、その他の情報も見ると、登場していた女性は同じ人物なのか。ひぇー。2001年の痩せた髪パッツンの娘と、2006年の小太りオバサン(体型)が同一人物? げ。
同一人物の成長を追う映画なら『6才のボクが、大人になるまで。』ってのがあるけど、それの真似か? でも、どっちが先なのかよく分からん。『6才の〜』は意図的に成長を追っていて途切れないけど、こっちの映画は、どーも、なんとなく撮りためてた感じがしなくもないな。で、中国の経済成長を後付け的に付与してる? 人を追うか、社会を追うか、の違いがありそう。
にしても、当初から意図的に創られていないような感じなので、一本の芯があるわけでもない。まあ、芯というのはドラマ的な、人間的なことだけど、それがないので、物語=ドラマとして面白くなっていない。なので、22年かけてもつまらないことには変わりがない。あの素材から、なんとか面白くしようとすることはできたと思うけど、それをしていないというのは、こういうだらだら映画でいい、ということなんだろう。でも、こんなんじゃ観客にはつたわらんよ。解説を読まなきゃ意味不明の映画は、ロクでもないのは変わらない。
来し方 行く末5/29新宿武蔵野館スクリーン3監督/リウ・ジアイン脚本/リウ・ジアイン
中国映画。原題は“不虚此行”。公式HPのあらすじは「主人公のウェン・シャンは大学院まで進学しながら、脚本家として商業デビューが叶わず、不思議な同居人シャオインと暮らしながら、今は葬儀場での〈弔辞の代筆業〉のアルバイトで生計を立てている。丁寧な取材による弔辞は好評だが、本人はミドルエイジへと差し掛かる年齢で、このままで良いのか、時間を見つけては動物園へ行き、自問自答する。同居していた父親との交流が少なかった男性、仲間の突然死に戸惑う経営者、余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人、ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性など、様々な境遇の依頼主たちとの交流を通して、ウェンの中で止まっていた時間がゆっくりと進みだす。」
Twitterへは「中国映画。弔辞の代筆屋の話なんだが、そんなんで食っていけるのか? もうすぐ40のオッサンが、いちいち依頼者家族と後々まで心を通わせる時間があるのか? と考えるだけでアホらしくなってくる。だらだら淡々とし過ぎで退屈。音楽やSEは良かった。」
弔辞の代筆、という時点で、ええ? な感じがした。だって、葬儀の場ではなく、その後の、告別式とかお別れの会とか、そういうのだよな。だ゜って、斎場で打ち合わせしてたし。では、いま中国ではお別れの会が人気なのか? というような背景がまるでないので、疑問はつづく、なんだよね。で、弔辞なんてせいぜい原稿用紙4〜5枚だろ? 長くても。それをバイトとしてやっていて、食っていけるのか? と思ったら、あり得ないだろ、と思ってしまうのだよね。ウェンはもう40才近い。映画だかラジオだかの脚本家志望。書いてはいるけど売れたことがない。バカじゃないのか。この時点で主人公のキャラ設定がアバウトすぎて話に入り込めない。
ま、この話のキモは、ウェンが関わった家族の物語、なんだろうとは思う。しかし、弔辞は仕事だ。仕事でやっているのに、依頼先とあんなに真面目につき合う、フォローしても時間のムダでしかないだろう。仕事ならもっとドラスティックに書き飛ばすべきで、あんな真面目に考え、対応し、後々までも係わったりしているのはアホとしか思えない。まあ、そういうナイーブな人間という設定なのかもしれないけど、でも、現実を考えたら、そんなことしてたら持たんだろ。そもそも弔辞の代筆が仕事になって稼げるという設定が、はあ? だ。そんなの自分か、誰か身近な人に書いてもらえばいいじゃないか。その程度でいいと思うぞ。
いくつかの家族あるいは依頼者からの話があったのか。なんか記憶がおぼろなんだけど。↑のあらすじによると、父親との交流が少なかった家庭は、嫁とか少年との交流がしつこく描かれてたかな。なんかいまいちピントがずれてる感じで。旦那は仕事一本槍、みたいな感じだったかな。にしても、弔辞一本書くのに子供とスケートしたりしてたら割に合わないだろ、というツッコミを入れたくなった。
あと、長兄が亡くなって、書いた弔辞が妹からクレームが入り、話していくと事実と違う云々なんだよね。そんなの弔辞なんだから虚飾に満ちていて何が悪い、だよな。その後、料理屋してる次兄からよくよく話を聞くと、長兄は妹に優しくて、長兄が次兄を殴ったのも愛情からだったとか、妹の思い込みが溶けたりする。のはいいんだけど、弔辞一つでそんな深いやりとりになるものか? ならないと思うぞ。弔辞なんて、テキトーでいいんだよ。
ある経営者が、同じく創業者である仲間が死んでの依頼は、こういう設定をまぎれ込ませたかったのかな、な感じかな。この仕事には思い入れがあるのか、ウェンは最後の方でこの会社の新オフィスに黙ってふらっと入り込んだりするんだけど。かつては地下のオフィスで窓がなく、いつかは窓のあるオフィスを、と死んだ創業者が願っていたからといって、そしてそれが叶ったからといって、わざわざもう終わった仕事の依頼先のことを思って訪ねたりするか? しないだろ。
「余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人」って、そんな依頼者がいたっけ? なんか記憶にないな。ボーッと見てたから忘れちゃったのかな。猫に餌をやってる女性か? 印象が薄いんだけど。
Webで知り合った声優がどうの、っていうエピソードは、よく分からなかったな。誰が亡くなって、誰が依頼した仕事なんだ? 忘れた。
てな感じで、どのエピソードも話に入れないままだった。
記憶にの撮ってるのは、葬儀屋のオヤジかな。このオヤジから仕事をもらってるのか。いつも二人で煙草を吸ってたりする。しかし、弔辞の評判がいいからって、そうそう頼まれるものなのか? 話をつくりすぎなんじゃないのか? という疑問が残りすぎ。
というわけで、ひとつも刺さらない話だった。
・エンドロールで猫映像がでてくるんだけど、本編に登場する猫の撮影場面あるいはオマケ映像。本編が真面目なのに、こんなお遊び画像流して、バカじゃないの? としか思えないんだけどな。・ウェンの家には変な同居人の青年がいるんだけど、あれは幻覚なのか? ウェンが書いてるシナリオの登場人物かなんかだっけ? なんか、よく憶えてないんだが。
・ウェンが、先輩らしい脚本家なのか放送局のディレクターなのか、よく分からんけど、相談に行く場面がある。あれもよく分からなかった。ウェンが弔辞の依頼者の話をすると、「ああ、その設定はいいね」とか、その場で話の構成を考え出す。あれは、設定だけ拾われちゃったのか? よく分からない。いまだにつながりのある脚本家?

 
 

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