2025年9月

海辺へ行く道9/4シネ・リーブル池袋シアター2監督/横浜聡子脚本/横浜聡子
公式HPのあらすじは「アーティスト移住支援をうたう、とある海辺の街。のんきに暮らす14歳の美術部員・奏介(原田琥之佑)と後輩の立花は、夏休みにもかかわらず演劇部に依頼された絵を描いたり新聞部・平井の取材を手伝ったりと毎日忙しい。街にはあやしげな“アーティスト”たちがウロウロ。そんな中、奏介たちにちょっと不思議な依頼が次々に飛び込んでくる。長いサンバイザー、江戸の人魚、静か踊り、カナリア笛、野獣、穴…。この街は今日も何かがちょっとヘン。ものづくりに夢中な子供たちと、秘密だらけの大人たち。果てなき想像力が乱反射する海辺で、すべての登場人物が愛おしく、優しさとユーモアに満ちた、ちょっとおかしな人生讃歌。」
Twitterへは「東京テアトルは定期的に、似たようなヘンな映画を製作する。これもその系譜につらなる脱力系の話。エピソードはたくさんあるけど、なんの伏線にもなってなくて、放り出しっぱなしでほとんど収束しない。にしても2時間20分はムダに長すぎるだろ。」
脱力系にしても全体がバラバラすぎて、映画になかなか集中できなかったな。静か踊りを撮影した少し後ぐらいに、ふっ、と睡魔に襲われて少しうとうと。眠気が飛んだので、あとはちゃんと見られた、けど、1本筋が通っている話も特にないので、やっぱり引き込まれなかったな。
軸になる話は、ない訳ではない。奏介と立花、奏介と同級生の平井、奏介の先輩の高校生・テルオ、テルオの妹の加奈たちが繰り広げる、アートがらみの学園物語がひとつ。もうひとつは、奏介の叔母で借金取りのメグと、その周辺の人々がからむアート詐欺な話。それ以外は単発的で、最初の方の、高良健吾と唐田えりかの怪しい包丁売りの話は、ありゃなんなんだ? あとから再登場するかと思ったらそんなこともなくて、インチキ包丁を売ったら消えてしまい、そのまま。ほかの人物と絡むのは、部屋を紹介してもらったときに不動産屋の谷川(剛力彩芽)とのときだけ。唐田が自転車で海辺に行くとき、ツバの長〜いサンバイザーで降りていくんだけど、ツバの長さは意味不明。それより、また戻ってくるとき大変だろうなと思ったぐらい。
学校の展示会にやってきた学者風のオッサンが奏介のアートに興味をもち、というか、ずっと注目して多様なんだけど。自宅に呼んで江戸時代の巻物をだし、ここに描いてある人魚の立体をつくってくれ、と依頼する話も意味不明。あんな得体の知れないオッサンが、あんな街に住んでたら知らん人はおらんだろうに。で、依頼を受けて夏休みの終わり頃に見せると喜ばれ、5万円もらう。安っ! その後、その人魚の模型が新聞ネタになって、江戸期の何とかが新発見、と騒がれるんだけど、そんなバカな話があるわけがない。依頼したオッサンは消えてしまうし、話はそれでオシマイだし、だからなに? だよな。
テルオが知り合いのババアの死んだ亭主のそっくりお面をつくるという話は、なんか中途半端。テルオとババアが知り合ったエピソードは、あったのか? こっちが寝てるときにあったのかな。しかし、そのお面のつくり方もテキトーで、でも、テルオは婆を騙したとかいわれて事件になって、学校は退学させられてた。そこまでするかね。せんだろ、フツー。しかし、その後にババアは死んでしまったので、ババアの意図は分からずじまい。だから何だよ!
静か踊りと介護士の女性のはなしもよく分からず。認知症のジジババを炎天下つれだし、音のない盆踊りを踊らせてたのはパワハラだとかで介護士が逮捕されたかでテレビのニュースになったんだけど。もともと気づいたのは平井で、ビデオを撮っていて、もっと探ろうとしていたらそのビデオを教師に「貸せ」と言われUSBを渡す。それが、いつのまにかSNSで話題になって事件化した、らしい。平井は自分でもっと取材して学校新聞で取り上げようとしていた(って、そんなのが学校新聞のネタになるのかよ!)のに、教師が勝手なことをした? の経緯は分からない。この件も、得体が知れない。平井が関心を持っていたと言えば、街に出没する謎の動物の件もあって、奏介はその取材を平井に頼まれるんだけど、うまくいかず。当の平井もやる気がなくて取材せず。謎の動物は、最後はほったらかし。なんなんだ!
埠頭に店を出す謎の女と、定期的にランチを食べに泳いで来る男の話も、よくわからん。坂井真紀と宮藤官九郎がどこにでてたのか分からなかったけど、この謎の女と男だったようだ。やれやれ。
自称彫刻家の岡野が部屋を借りに来て、不動産屋の谷川とできちゃう話も、だからなに! 金を借りてアートをするというシステムがあるのかどうか知らんけど、岡野はそれで金は借りている。けど作品はつくらない。その手のアーティストから金を回収する仕事をしているのが奏介の叔母の大林で、彼女は谷川の友達だったりして。大林は岡野の行方を追っているので、それに気づいた谷川は岡野を匿い、最後は部屋の床に描いた穴から「逃げた」という言い訳をするんだけど。でも、岡野の実家にはお金があるらしく、借金を返してしまったので、大林は岡野探しをやめて帰ってしまう。という話も、それがどうした、だよね。
カナリア笛は、誰がくれたんだっけ? 大林がもらっていろんな人に吹かせたけど、まともに音が出たのは奏介だけで、本当の芸術家だけが音を出せる、という触れ込みだったかな。よく覚えてない。
ときどき妙な力を発揮する立花、いつも不平不満だらけの、テルオの妹・加奈。彼女はいいキャラしてたけど、だからなに。
てな感じで、みんな役として機能してないんだよな。散発的なエピソードの寄せ集めで、たいした因果関係もなくて、伏線もないしもちろん回収もない。ほったらかし。ときどき画面を黒猫が横切る。だからどうした、なけったくそ悪いだらーんとした映画だった。これは記憶に残らない映画だよな。
撮り方も、アップは皆無。ミドルも少なめ。ロングとか、顔や発話者がだれかよく分からないような感じで、テレビや娯楽映画の正反対を行ってるんだろうけど、誰がどれやら分からないので、観客からしたらイラつくだけ。おまけにムダに長い。退屈になるのはしょうがないな。映画的ギミックがなきゃ、飽きちゃうよ。
侵蝕ヒューマントラストシネマ有楽町シアター29/8監督/キム・ヨジョン、イ・ジョンチャン脚本/キム・ヨジョン、イ・ジョンチャン
英題は“Somebody”。公式HPのあらすじは「ヨンウンは水泳インストラクターとして静かな生活を送っていたが、その日常は7歳の娘ソヒョンの奇妙な行動によって次第に崩れ始める。彼女の小さな手が巻き起こす恐怖は日に日に増してゆき、母娘の関係は闇に包まれていく。そして、20年後…。特殊清掃の仕事に携わるミンと、新たな同僚となったヘヨン。それぞれ生い立ちに暗い過去を抱える2人は共に暮らし始める。しかし、周囲で次々と起こる不可解な出来事をきっかけに、2人の生活に不気味な影が忍び寄る…。過去と現在、2つの物語が交錯したとき、逃れられない狂気が姿を現す。」
Twitterへは「ホラーかと思ったら、ちっとも。サスペンスもイマイチ。サイコな娘の、救いようのない話。前半の7歳時の話はちょいブキミだけど、20年後の話はミスリードがバレバレ。だらだら退屈なので少し寝てしまったよ。」
5歳ぐらいかと思ったら7歳なのか。あの娘。ふてぶてしい顔つきで、なかなか悪者ぶりを発揮していた。しかしあんな話のあんな役で、本人は分からずやってるのかもしれないけど、長じて自分はサイコ少女役だと知ったらトラウマになるんじゃなかろうか。
で、7歳のときの母親との関係が描かれる前半と(1/3ぐらいかな)、後半の2/3は20年後という設定になっている。のだけれど、20年後のソヒョンがどの女なのか分からないようなつくりになっている。そこが仕掛けとして面白いつもりなんだろうけど、バレバレだ。先輩のミンには施設に入っている母親がいる設定で、そこに明るい新人のヘヨンが加わるという流れなので、これはどう見てもミンがソヒョンであるとミスリードさせたい意図が露骨すぎ。ミンじゃなければヘヨンなわけで、のちにそれが分かったときには何の衝撃もなくて、やっぱりな、な感じ。
7歳の話では、飼ってる犬を上階から叩き落としたり、幼稚園? で同級生に危険なことをさせたり、母親のプールで一緒になった同年齢の少女をいじめたり、善悪の基準の分からないサイコな娘ぶりを見せていく。両親は離婚していて、その理由がヘンなのだ。父親は娘の異常にについて「入院させよう」と考えたが、母親は反対し、それで別れたんだと。父親は理性的で、母親はムダな母性を発揮したというわけか。母親はソヒョンの欲望を満たすため養鶏場につれていき、鶏を絞めさせてくれ、と頼んだりしている。そもそも飼い犬を殺すと言うんだったらもっと早く手を下していてもいいはずで。いまさらなんだよ、な感じもする。幼稚園で同級生をシーソーの下に寝かせたりと、異様なことをしているようだけど、本人の腕力が強いというわけでもないようだ。子分格がいた様子もない。どうやって同級生を威圧したのかね。プールでも、同級生を見ずに突き飛ばしたり首を絞めたりするんだが、強者が弱者をいじめるスタイルでもない。ソヒョン役の娘もデブでふてぶてしく愛想なしな程度で、不気味さはない。なので、いまいちゾクッとしないのが物足りない。とはいえ、サイコな幼女を淡々と見せていくのはそれなりに面白かった、とも言えるんだけどね。
よく分からないは、ソヒョンがなぜそうなったのか、の部分かな。生まれつき、なのかも知れないけど、脳の気質異常だとかなんとか、あるとよかったような気もする。それと、母親が、娘の異様さに気づいていて、他者を傷つける存在であることも分かっていながら放置する、あるいは庇うのはなぜか、が足りないような気がする。それだけ母親に愛されているなら、もっと可愛い顔立ちで冷酷であって欲しいんだけど、ただのデブだからなあ・・・。
それと、駐車場の場面。あれは女の子を突き飛ばした後だったか、忘れたけど。ソヒョンが「私のことが嫌いなんでしょ」みたいなことをいいつつ1人で帰っちゃうんだよ。それを呆然と見送るとは母親失格だろ。7歳を1人にするのも、あんな危険な娘を1人にするのも、どっちもヘンすぎ。まあ、それでもソヒョンはひとりで帰っていて、でも、家では祖母が腕を血だらけにしてるんだけど。何をするか分からん娘だったら、いまからでも遅くない。隔離病棟に入れろ、と思ったぞ。
で、その後、母親は自分も包丁で手のひらを切られ、血が止まらない。そして夜中、母親はソヒョンをプールに連れて行き、水に沈めて心中しようとするんだけど、母親だけ沈んでしまうという…。なんかよくわからない展開。まあ、ここではどっちが死んだとかなんとか、説明されてはいないんだが。それはさておき、クラブのプールが深さ5メートルぐらいあるみたいなのは、ありゃヘンだろ。飛び込み用のプールなのか? 母親の手から流れる血がプールの水に広がるのが、不気味すぎてやな気分。あんな不衛生なことをするのかよ、母親は、と思ってしまったね。
で、20年後。
ミンは、孤独死した人の部屋の清掃をする仕事をしている。ぼんやり、うとうとしていたのでよく分からなかったんだけど、ミンは施設出身らしい。母親は居るけど施設にいて、自分が誰だかわからない、らしい。でも、最初は、自分が誰だか分からない、という説明だったよな。一緒に仕事をしているオジサンとオバサンがいて、2人は夫婦なのか? の家に住まわせてもらってる? なところに、新たなスタッフが加入。これがヘヨンで、若そうな雰囲気。ミンはつき合っていた男がいて、別れているけど、ただいま妊娠中、だっけか。なところに、住むところがないからとヘヨンがミンと同居することになって。ヘヨンは天真爛漫的に明るい。反面、ミンは暗いし、客の遺品を勝手に売りさばいたりしている。それをヘヨンに指摘され仲違いしたり。てな、本筋にどうでもいいような話がだらだら続くし、せいぜいあってもミンの元彼との争いにヘヨンが加わって元彼を殴り倒してしまうぐらい。サイコもない展開なので緊張感もなくて、うとうと…。ふと気がつくとヘヨンがオジサンと対峙していて。次の場面ではオジサンは血だらけに。という話と、あとはヘヨンの出自については、火事で両親を失ったというのはウソで、実は施設に火を放っていたとかいうことが分かっちゃった、な流れになっていた。のだけれど、ウトウトしていたので、施設での子供3人が座っている写真のこととか、なぜ施設にいたかとか、そういうのは前後よくわからない。
その後、ミンが家に戻ると浴槽にオバサンが血みどろでいて。ミンとヘヨンの争いになるんだっけか。で、ミンが危険な状態になったとき、なぜか血みどろだったオバサンがいつのまにか復活してヘヨンに襲いかかり、ヘヨンがオバサンに逆襲して包丁でグサリ、だっけかな。
ラストシーンは、湖畔にいるヘヨンのところに、7歳のときの母親が水の中から現れるのだけれど、ヘヨンは大きな石で母親を殴り殺す、だったかな。なんか、そんな話だった。
はたして、何も解決していないんじゃないのか、な終わり方で。救いようがまるでない。サイコはやっぱり隔離しておくべきだった、という教訓なのか。
たぶん7歳のときの無理心中では、母親が死んでヘヨンは生き残ったんだろう。でも、その結果、どうなったのかがよく分からない。10歳ぐらいのときには施設にいて、火を放って自分も火傷して、その後どうしたのか分からない。で、27歳になって特殊清掃の仕事について…。では、その間はどういうサイコをしてきたんだろう。サイコパスをつづけなけりゃ我慢できない、ような感じだったから、いろいろやってきたんじゃないのかと思うんだが、事を行ったのちの始末や処理はどうしていたのか、とか、突っ込みたくなってしまうのだった。
DREAMS9/10ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード脚本/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード
ノルウェー映画。公式HPのあらすじは「女性教師のヨハンナに初めての恋をした17歳のヨハンネは、この恋焦がれる想いや高揚を忘れないように自らの体験を手記にする。そしてこの気持ちを誰かに打ち明けようと詩人の祖母に手記を見せたことから、物語は思いもよらない展開へと進み始める。ヨハンネが経験するのは、誰もが一度は経験したことのある相手の一挙手一投足に対する期待や不安、過度な妄想、理不尽な嫉妬などあまりにも無垢な初恋。そしてその気持ちを秘密にしておきたい、でも誰かに共有したいという矛盾した思いが祖母や母を巻き込み、ヨハンネの手から離れた手記の行方が、モノローグで綴られる。娘の手記を見て、祖母は自らの女性としての戦いの歴史を思い出し、母は“同性愛の目覚めを記したフェミニズム小説”と称し、現代的な価値観にあてはめようとする。3世代で異なる価値観を持つ3人が初恋の手記を通して辿る運命は…。」
Twitterへは「ノルウェー映画。女子高生が女教師に惹かれ、積極的に迫っていくいう、日本の少女マンガにありがちな話で、いずこも同じ様な感じなのね。心情吐露のモノローグが多多いので字幕量もふえて、ちょい頭が追いつかないのが困ったけど。」
『オスロ、3つの愛の風景』というショルダーがついて、ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督作品『DREAMS』 『LOVE』 『SEX』3本をまとめて公開する体の企画らしい。そのうちの1本。
年上の教師に憧れ、心ときめかせ、愛を告白したいという気持ちを持つようなことは、万国共通なのかね。まあ、男なので女の子の気持ちは分からないところもあるのだけれど。こういうケースは、男にはないような気がする。少女マンガの場合も、女の子は女性教師に同性愛的な感情を抱くようなパターンだけど、それも世界共通なのかね。
でまあ、この映画のヨハンネは思いあまって教師の自宅を調べ、突然の訪問をしてしまう。教師の方は、戸惑いつつも、学校でやなことがあったのか? というような対処の仕方で対応し、部屋に入れてやってハグしてやる。で、セーターの編み方を教えて? いいわよ、な流れで教師の部屋を週に一度ぐらい、バレエのレッスンをズルして訪問をつづける。
この間に、教師はヨハンネをどう思い、どう対処したのか、ということは、正確には分からないように描いている。ただ、2人の間に心の交流はあった、というような感じかな。
ヨハンネに言わせると、最後は振られた、らしい。それらしい場面はあって、2人でいるところに別の女性がやってきて、教師は「うちの生徒よ」とだけ紹介する。どうやら教師と女性は同性愛的な関係があるのかなと思わせる感じ。これで絶望的になって、ヨハンネは教師の家を黙って去る、な感じか。
でまあ、このことを自分で整理するために80枚くらいの原稿にまとめて書き上げた、と。見せるつもりはなかったけど、職業詩人をしてる祖母に見せて、評価を仰ぐと、母親にも見せた方がいいという。母親は一読し「これは虐待よ。学校に言う? 告訴する?」と祖母に言う。このあたりから、もしかして社会ドラマになるのか? そんな風になったらやだな、と思ったんだけど、結局そうはならず。母親はなんどか繰り返して読んでいくうちに、よく書けている、と祖母と同じような感想を持つようになり、出版できるんじゃない? に変わっていくのが面白い。
で、ヨハンネは、祖母に渡した原稿を母親が読んでいるのに気付き、「おばあちゃんには、お母さんに渡さないで、っていったのに」と言うけど、それほど怒るわけでもない。母親はヨハンネに「よく書けてる」といい、娘も悪くない雰囲気。
祖母と母親が階段で話す場面がある。ヨハンネの手記で、ずっと書いていなかった祖母の恋への情念が復活したような感じとか、知り合いの編集者に見せてみる、とか、私はあんたより多くの男と寝てるんだよ、とか言ったり、そうとうな奔放ぶりも感じられて、ただの婆さんではない感じがつたわってくる。親子3代の祖母、母親の女の部分が、ヨハンネの手記でたぎってきてる感じ。まあ、母親の男関係はよく分からないんだけど。
というような流れで、過去にあったヨハンネと女教師の交流がインサートされつつ、ヨハンネのナレーションがかぶったりするんだけど、ナレーションは字幕で追わなきゃいけないのでたいへん。
ヨハンネの、女教師へのほのかな恋慕、と思っていたのに「虐待」「告訴」「手記には女教師の肌に関する性的描写も」とあるのがギャップなんだけど、実際にどんなことがあったのか? もしかして裸になって愛撫し合ったりもしたのか? と想像するんだけど、なんか終わってみるとそこまでではないような。でも、後半で母親が、手記の出版の許可を求めるため女教師に会うんだけど、まずは友好的な握手。すでに女教師はヨハンネの手記を読んでいるのか? 「告訴するの?」と開口一番。ってことは、「虐待」に相当する性的関係も疑われるということなのか。頭が混乱する。母親は、告訴はしない。出版の許可をもらいたい、というと女教師は簡単に「いいわよ」と答えるんだよね。で、いまつき合っている? 彼女と颯爽と去って行く。それにしても、描かれ、他人に読まれてもいい、というような関係なのか。ますます、よく分からなくなるね。
で、ヨハンネは編集のオバサンと会って褒められ、本になる。16歳の経験を17歳で書いて作家になるのか。凄いな。でも、すでに女教師への未練なんかなくて、男の子とつき合っていて、こっちはもうセックスもしてる感じで。16、7歳の女の子の考えてること、することはわかんねえなあ、な感じだけど、話としてはドロドロになるわけではないので清々しい。
ヨハンネは以前からなのか女教師と別れてからなのかカウンセリングに通っていて。精神科医との面会はまだ続いているらしい。で、彼氏を待たせてカウンセリングし、1階まで降りたところでUSBを落とし忘れたことに気づき、精神科医のドアを開けようとしたら、声をかけられる。どうやら彼女は女教師の元カノ(?)で、「うちの生徒よ」と紹介されたときの女性、なのかな。髪型が違ったような気がするんだけど。もう女教師とはつき合ってなくて、いまカウンセリングが終わったところ、というんだけど、ヨハンネは90分も精神科医と話していたのに、その後で? 早いな。別の医師とかな。それはいいとして、彼女から、お茶しない? と言われ、USBが気になるけど、な感じで「いいよ」と答えるのだ。USBは、女教師との手記のデータが入っている。たぶんPCのは削除して、USBにしか残っていない。それをお守りのように身につけていたことで、安心を感じていたのかな。この時点で、それにサヨナラする。心身ともに新しいヨハンネに変わった象徴だろう。なかなかうまい。まあ、USB自体は次のカウンセリングのときに渡してもらえるだろうし。すでに書籍になっているのだから。過去の遺物、ってことだ。それにしても、ちょっと待ってて、取りに戻るから、と言われていた、いまつき合っている彼氏も置いてきぼりかい! ところで、女教師が結婚した、と教えてくれたのは、この彼女だっけ? 結婚? 男性と? それとも、女性と? 思考が混乱するよ。
・母親と祖母の会話で、『フラッシュダンス』に関するのがあった。母親は「感動した」というけれど、祖母は「結局は女は肉体を売るようなことじゃない」とかなんとかそんなことを言っていたような。男性と同格の自立ではなくて、フェミニズムではない」と否定する。そういう祖母は信仰心が篤い。母親は無宗教。このあたりの感覚が興味深かった。
・教師は、ヨハンネに特別な関心をもっていたのだろうか?  フランス語の授業で、ヨハンネをフランス語読みでジャンヌと呼んでいたらしいけど、ほかの生徒にはしなかったのか? それでヨハンネは自分が特別、と思い込んだのか? 女教師は、レズビアンだったのか? 相手をとっかえひっかえしていたのか? その中の予備軍としてヨハンネを見ていた? でも、生徒だからなあ。ハグぐらいで押さえていたのか。
・ヨハンネが女教師の肌をなでるとき、女教師は聖書の一文をつぶやいていたとかなんとか。これは、一線を超えないように、という自制の気持ちだったのかな。このことは女教師が母親と会ったときに話していたと思うけど…。でも、ヨハンネは最後の方で「先生がつぶやいていたのはちゃんと知っていたよ」とナレーションでいう。微妙な2人の関係だね。
・祖母は別居してるのかな?
ユニバーサル・ランゲージ9/12ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/マシュー・ランキン脚本/マシュー・ランキン、ピルーズ・ネマティ、イラ・フィルーザバディ
カナダ映画。原題は“Une langue universelle”。公式HPのあらすじは「舞台はペルシャ語とフランス語が公用語になった、“もしも”のカナダ・ウィニペグ。暴れまわる七面鳥にメガネを奪われたオミッドは、学校の先生に黒板の字を読めるようになるまで授業を受けさせないと理不尽に怒られてしまう。それに同情したネギンとナズゴルは凍った湖の中に大金を見つけ、そのお金で新しいメガネを買ってあげようと思いつくのだった。2人はお金を取り出すために大人たちにアドバイスを求めるが、街に住んでいるのはみんなちょっとヘンテコな人たちでなかなか思うようにいかない。そこに、廃墟を観光スポットとして紹介する奇妙なツアーガイドのマスードや、仕事に嫌気が差して自暴自棄になったマシューまで絡んできたからさあ大変! はたしてネギンとナズゴルは無事にオミッドにメガネを買ってあげられるのだろうか?」
Twitterへは「いまひとつ期待外れ。ウェス・アンダーソンみたいな感じかと思ったら、そうでもなくて。すっとぼけ方もいまいち。とくに笑えないもやもやなエピソードが連続するので、なにがなにやら。少し寝た。起きても面白くなってなかった。」
ウェス・アンダーソンみたいな感じで淡々と無機的にアイロニーたっぷりの紙芝居的ドラマが展開されるのかと思ったら、とくにそんなでもなくて。人物がてくてく画面の下の方を歩くとか、余韻を残さないカットつなぎとか、表面的には似ていても、なんか物足りない、というか、どういうドラマなのかもピンとこず。↑のあらすじを見て、あの氷の中の紙幣は、同級生の眼鏡を買おうとしたきっかけだったのか、といまさら気づいたぐらい。まあ、ちゃんとセリフを聞いて噺を追ってていれば分かったのかも知れないけど、集中できないまま終わってしまった感じだな。だらだらと散漫で、うすっぺらで、何がどう関係するのかよく分からんエピソードがつづくのであくびが出始め、早々に沈没。目覚めたら、街の名所ツアーをしている場面だった。名所っていってもよくわからん偉人? だとか、ベンチに置き忘れられたままのスーツケースが世界遺産に登録されたとか、どこが面白いんだかわからん始末。
氷の中の紙幣はいくらの価値なんだ? 斧を借りようと金物屋行ったら(たどりつくまで時間がかかりすぎじゃないのか?)、買わないなら貸せないと言われて、そりゃ当たり前だろ。しかし、あの女の子は眼鏡なくした少年とどういう関係なんだ? とか、グルーチョ・マルクス似の同級生の意味は? そういやあ、後半ででてきたオッサンの家に彼がいたけど、息子なのか。どういう因果? 
とか思ったら、どっかのオッサン(ありゃ誰だ?」が氷を切り出してもってきて、とけた中から紙幣が出て来てたな。どうやってあんなカタチに氷が切り出せるんだ? の方に疑問が…。で、眼鏡は買ったのか? 買わなかったのか? なんか、最後はまた、切り出した後の穴に紙幣を置いて、水で満たしてたけど、どういう意味? 
てな感じで、誰が誰やらどういうつながりやら、よく分からないままに沈没し、目覚め、でも何が何やらで最後までみたけど、もやもやが続くだけという。脱力系の話とはいえ、脱力したのは見ていたこっちだよ。
それにしても、ペルシャ語とフランス語が公用語のカナダって、どういうこと? 本来は英語とフランス語のはず。アメリカはイランに征服されて、アメリカにはアラブ人が退去してやってきて、公用語もペルシャ語になったということなのか? そんな皮肉もとくに感じられなかったけどね。まあ、ひたすら眠くて、ボーッとしながら見たのは事実なんだが。
最後のピクニック9/16ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/キム・ヨンギュン脚本/チョ・ヒョンミ
公式HPのあらすじは「大都会ソウルで暮らすウンシムは、60年ぶりに「宝島」と呼ばれる故郷へと帰り、親友のグムスンの元に身を寄せる。そこでウンシムは、かつて彼女に恋をしていたテホと再会、忘れていた記憶を一つ一つ思い出し、懐かしさに心を躍らせる。だが、ウンシムが長年この地を離れていたのには理由があった。彼女の未来を決定的に変えてしまった16歳の頃の出来事と、波乱に満ちた人生が明かされていく。そして、互いの“今の真実”を知ったウンシムとグムスンは、“最後のピクニック”に出かけ、「生まれ変わってもまた友だちになる」と誓う…」
Twitterへは「韓国映画。婆さん2人の凸凹珍道中かと思ったら、最後はおいぼれ2人がテルマ&ルイーズかよ。ところで彼の地ではバカ息子が親の遺産を当てにするのがデフォなのか? 脚本も演出も編集もイマイチで、もうちょうなんとかしてくれな感じ。」
なんか全体にだらだらしてるし、脚本がイマイチなのか話の流れやつながりがすんなり入って来ないところが多い。冒頭は、自宅マンション(?)でボーッとしているウンシム。と思ったらウンシムの息子は食品偽装かなんかでニュースネタになってるのか? なんか説明が中途半端のままなんだが、家に居られないからとウンシムのマンションに妻子を連れてやってくる。そこに正装したグムスンもやってきて、ウンシムとは15年だかそのぐらいぶりの再会といっている。でも、自分たちの息子と娘が結婚しているのに、ずっと会っていないというのはどういうことなんだ? 
では、ウンシムの息子はずっと家に居るのかと思ったら、次の場面ではどっかの部屋でゴルフのパターの練習をしてたりする。ウンシムの部屋でやってるのか? それとも会社? でも、会社にいられないんだろ? 
それはさておき、ウンシムはグムスンの家つまりウンシムの故郷である街まで2人でヨロヨロ帰るんだけど。そのことをウンシムの息子や嫁は知らんみたいな感じなのが不思議。だって、以後、ウンシムの息子やその家族がどこに身を寄せているのか分からんのだもの。
で、帰郷すると、食堂でウンシムに惚れてたらしいテホと再会し、やんやのさわぎ。でも、ウンシムに罵声を浴びせるオバサンがいて、どうもそのオバサンの父親の土地を安く奪った! とかなんとか言っている。このあたり、意味不明。↑のあらすじに「ウンシムが長年この地を離れていたのには理由があった。」とあるけど、その理由はなんだったんだ? どっかでちゃんと説明してたか?
で、街はリゾート誘致派と反対派に分かれて争ってるらしいけど、その背景もアバウトにしか描かれない。テホや爺さん婆さんは反対派でデモをするが、賛成派にグムスンの息子がいて、テホに暴力を振るったかと思うと釜山(?)の家にひとり帰るってしまったり。このグムスンの息子は、妻子と上手くいってないのか? よく分からん。この息子はウンシムの息子の嫁の弟だと思うんだけど、キャラがイマイチ分からん。最後の方でも、前後の脈絡なく実家を訊ねてきていたり、なんだか分からない噺の流れなんだよね。
というような背景なので、どーも話が頭に入って来ない。次第に分かってくるのは、ウンシムがパーキンソン病に冒されていること。グムスンは強度の骨粗鬆症で骨が溶け出していて、痛み止めの注射もできない状態。立って歩くのはやっとのこらさであること。てなことを後から小出しで、2人がのっぴきならない状態であることを知らせる。いっぽうで、ウンシムの息子は資金繰りに難儀していて、ウンシムに「マンションを売って姉をつくってくれ」とせびる。どころか、ウンシムの生命保険の契約書をそっと覗いているところを妻に見られ、「お母さんが死ぬのを期待してるの?」なんて言われている始末。偽装疑惑でニュースになっているのに、保険金ぐらい投入したって焼け石に水だろうに。さらに、グムスンの息子も、グムスンに金のことで頼ろうとしているらしい。なんだ、頼りないというか、最後は親の金狙いかよ。儒教思想の韓国は、こんな状況なのか? 
この前後にテホは突然死してしまう。デモのとき頭をうって病院に行き、CT撮ったら医師に「大きくなってますね」と言われていて、付き添ってたウンシムも聞いていたんだった。
ある日、グムスンは腰が痛いとウンシムに訴える。小便がしたいが動けない。と、見てる間に漏らし、脱糞まで。な状態のグムスンを、ウンシムが風呂場で盥で洗ってる。どうやって運んだんだか。ともかくこれで入院。それで骨粗鬆症の悪化を告げられるんだけど、では入院しつづけかと思ったら、次の場面では家に戻って椅子に座ってる。はあ? どうやって退院した、ケアはどうする? 疑問だらけだぜ。
ななか、ウンシムの息子は離婚。なんだかよく分からんが、ウンシムはなんかの金を下ろして、ウンシムの元妻に渡していた。あれは、マンションを売った金なのか? 息子に渡したらなくなっちゃうから、孫の留学資金として渡した? よく分からん。
で、パーキンソンで手が震えたままのウンシムと、正装したグムスンは、2人でヨロヨロどっかの山に登頂して、いい眺めだねえ、なんて感じだけど、どうみたってこれから投身自殺だろ。息子たちはアテにならない。あとは死ぬだけ、だって? 知らんがな。まあ、投身場面はなくて暗転だけど、前半はコメディ路線で、中盤からはひたすら暗くなっていく。てなわけで、これは病魔に犯され、子供たちには遺産以外無用の存在とみなされた老婆2人が、明るく飛んで行く話。この世に未練はない、バイバイ! てなわけで、『テルマ&ルイーズ』みたいな感じなのだった。
冒頭で注文付けたように、もうちょい脚本と演出をしっかりしてたら、分かりやすく、共感できるような映画になったかも知れないけど、ここまで建て付けが悪いと文句も言いたくなる。それに、過去の中学生時代がモノクロで写るけど、もっとこっちのシーンを多くするべきだったな。そしたら2人の婆さんにもっと共感できたかもしれん。
幸福(しあわせ)9/21シネマ ブルースタジオ監督/アニエス・ヴァルダ脚本/アニエス・ヴァルダ
原題は“Le bonheur”。1965年フランス映画。ブルースタジオのあらすじは「家具職人のフランソワは美しい妻テレーズとの間に2人の子を設けて幸せな家庭を築いている。妻と幼い子供達をこよなく愛すフランソワだが、偶然立ち寄った郵便局の受付をしていたエミリーに一目惚れをしてしまう…。」
Twitterへは「1966年。監督・脚本アニエス・ヴァルダ。むかーしテレビで見た記憶はあるんだけど話の中味は忘れていた。ピクニックの場面だけなぜか覚えてた。男の身勝手な感じが普段着を着るように描かれていて、怖い。」
女房子持ちのイケメンが、郵便局の窓口娘といい仲になって。女房も窓口娘も両方愛して楽しむ宣言をした途端、女房に自殺される。けれど、それにめげず窓口娘と速攻で再婚し、かつてと同じような平穏な日々を続けていくという話で、こんな男に都合のいい話がベルリンで銀熊賞をとったりキネ旬3位だというのだからよく分からない。
フランソワがエミリーを見初めた、っていうのか、話しかけたらエミリーも気軽に冗談を返してきて、フランソワが「近くにいいカフェはない?」って問うと、もうちゃっかり2人でカフェに座ってる。このときのエミリーの妄想がカットバックでテキパキ写るのが面白い。妄想と言っても、他のカップルがキスしてたり、なんだのかんだの、を短くインサートするんだけど、彼女が“この男とそうなったら…”な感じを表現していて、オシャレに楽しい。エミリーのほうがぞっこん、な感じ。
エミリーは家族の関係で郵便局を移る、という。この移る先は、フランソワの住む街、なのか? その位置関係がちょっと分からなかった。ってことは、エミリーがいた郵便局は、フランソワの住む街とは離れたところだったのか。その街から電話をかけて、兄だか弟の出産がどうの、と話してたような…。
フランソワは正直に、女房子供がいて、愛している、という。それでもエミリーは、転居先の新しく住む家の棚を直して、とフランソワにねだる。そうして関係が始まっていく。エミリーはフランソワの妻とはりあうつもりはなく。こういう関係で満足、という。男には都合のいい女だな。
とはいえ、フランソワにはうれしい出会いだったみたい。っていうのも、セックスに関して「女房は消極的で、植物のよう。君は行動的で、動物のよう」というんだけど、なかなか興味深い。たぶん妻テレーズは“マグロ”なんだろう。セックスは嫌いではないけど、自分から男にしてあげる感じがない。そこにフランソワはちょっとだけ不満を感じていた。けれど、妻と子供たちという幸せをもたらしてくれる存在だから、別れるつもりはない。その代わり、エミリーとのセックスは楽しい。だから、どっちも愛するし、別れたくない、と。なかなか贅沢な環境だ。羨ましいね。
そういえばフランソワは映画好きなのか。テレーズに「バルドーとジャンヌ・モローならどっちが好き?」と問われ、「君が一番」と応えていたけど、部屋にはBBのポスターが貼ってあった。バルドーみたいな奔放で色気のある女性が好き、ということか。ちょっとテレーズには女としての魅力が足りないと感じていたのかも。そういえば従軍してるとき知り合って結婚した、といっていたから、十分に遊んでいなかったのかもね。
フランソワがエミリーの家に行くときだっけか、街中の看板の文字が浮気を示唆するような意味でインサートされるのも洒落てるカットの使い方。
そういう日々を過ごしていたある日、恒例のピクニックに行って子供たちが寝た後、フランソワは妻テレーズに、実はつき合っている女性がいる。君を愛しているのは変わらない。彼女のことも愛している。理解してもらいたい、みたいなことを告白するんだよ。げげ。浮気してます、というか? フツー。テレーズは逆上するともなく、でもちょっと不満そうな雰囲気だったけど、その後はキスして服を脱ぎ合って、まぐわう。目覚めたフランソワは、隣にテレーズがいないので探しに行くと、溺死して湖畔に引き上げられた妻が居た…。おうおう。こりゃ夫の不逞に抗議しての自殺しか考えられないよな。先行きを不安視してふらふら歩いていて水にハマった、という可能性もなくはないけど…。そのあたり、映画はなにも示唆しない。
悲嘆にくれるフランソワ。娘たちは両親だか叔父だかが預かるとかなんとか話し合い。なんだけど、この家族関係がわっかりにくい。赤ん坊が生まれた兄弟は、同居してるのか? 別のところに住んでいるのか。叔父は、やんちゃな男の子がいて隣に住んでるんだよな。両親? は別に住んでいるのか? あたりが、もやもやする。先にも話したけど、エミリーが元いた郵便局はどこで、移ったのはどこの郵便局なのか。地名はでてきていたけど、分かりづらい。
なわけで、しばらく幼い子供たちとは別居状態。郵便局に行くとエミリーが「聞いたわ」と慰めてくれるけど、フランソワの妻が溺死したという情報はどうエミリーにつたわったんだろう? 
てなことがあってしばらくして、フランソワから言いだしたんだっけ。結婚しよう、と。で、何の障害もなくさっさと再婚したらしい。子供をつれて、この映画の冒頭のように、ピクニックに行く家族。入れ替わっているのは、妻。なかなかシュールな幸福だね。女は交換可能な存在というわけか。
ふつうの子ども9/24テアトル新宿監督/呉美保脚本/高田亮
公式HPのあらすじは「上田唯士(ゆいし)、10才、小学4年生。両親と三人家族、おなかが空いたらごはんを食べる、いたってふつうの男の子。最近、同じクラスの三宅心愛(ここあ)が気になっている。環境問題に高い意識を持ち、大人にも臆せず声を挙げる彼女に近づこうと頑張るが、心愛はクラスのちょっぴり問題児、橋本陽斗(はると)に惹かれている様子。そんな三人が始めた“環境活動“は、思わぬ方向に転がり出して…」
Twitterへは「よくいるいたずら小僧たちのやんちゃな話、で売ってるみたいだけど、普通じゃない子供だろ、登場するのは。あるいは、世の過激派革命家世直しにかぶれた連中の頭の中は子供のまま、と揶揄しているのかも。最後は瀧内公美がかっさらっていった感じ。」
子供たちが主人公の映画である。だけど、実際の社会、とくに、過激な活動家たちの縮図を子どもに演じさせている感じがする。というのもこの映画で扱われているのは環境問題であり、地球温暖化やCO2排出などで、それに強力に反対する女子が登場するからだ。まるでグレタさんみたいな感じなのだ。それでいてまだ10歳。そんな小学4年生がいるか? まず、いない。その論理的活動家が、心愛である。これに参加するのが、実は環境問題は二の次で、心愛が好きだから接近して同調したような活動をするようになる唯士。社会問題より色気、だ。もう一人は、心愛の考えにちょっと興味をもった陽斗で、こちらは普段は乱暴者。唯士は、いじめられている方。まあ、陽斗はただ騒ぎたかった、いたずらに加担したかった、規則や制約を破りたい、てな感じの男子だ。この3人が、心愛の発案と指示のもと、「クルマに乗るな」「牛肉を食べるな」「服をつくるのにエネルギーがかかっている!」とかチラシをつくって貼りまくる。花火攻撃までしてしまう。揚げ句、農場の牛舎の門扉を外して、牛を自由にしてしまう。
という流れを見ていて、ああ、これはかつての全共闘とか新左翼なんかの過激派のメンバーの構造とそっくりじゃねーか、と。まず、知的な単細胞が生半可な情報にかぶれ、理論家になる=心愛。活動に参加すれば女の子とお近づきになれる=唯士。とりあえず騒ぎたい、からだを動かしたい、ルールを破りたい=陽斗、にあてはまるではないか。なので、登場するのは小4の3バカトリオだけど、示唆しているのは深い考えもなしにテロ活動をしたりしてきた過激派の連中ではないか。
最後、犯人が発覚し、校長と担任に呼ばれ、父兄とともに尋問される場での発言も興味深い。心愛は相変わらず、堂々と自説を主張する。曰く、環境問題を大人たちに知ってもらうには、行動するしかなかった、と。唯士は、言葉がなくオタオタ。結局、吐露したのは、心愛が好きだったから一緒に行動した、ということ。思想的なことはなにもないのだ。で、陽斗は母親に抱きついて泣きじゃくるだけ。なにも言葉を発しない。乱暴者って、こんなだよな、たいてい、と思わせる。
という、テロ集団によくある3種類の人格が、小4の姿で描かれるのだ。
さらに面白いのは、最後の、父兄と一緒に尋問される場面で。陽斗の母親は、自分の息子がいじめっ子であることを知らないのか、「他の子にそそのかされたんだよね」といい「誰に言われてやったの?」に対して、陽斗は唯士を指さすのだよ。いるんだよ、こういう汚い野郎が。イザ、最後になると責任転嫁して泣いて誤魔化そうってやつが。「心愛が好きだったから」と正直に吐露する唯士なんて、まだマシな方だ。そして、心愛は相変わらず信念を曲げず、自分が主導した、明言する。潔いけど、バカすぎというか、自制も反省もなくて、真実を見る目がない。まあ、宗教に帰依したのと同じだ。母親(瀧内公美)はそのことを指摘し、それは違うって何度も言ってきたでしょ! と言うのだけれど、心愛は信念を曲げない。母親は「むかしは可愛かったのに、なんでこうなっちゃったのか」と嘆くけれど、そうなんだよな。いわゆる活動家、過激派の連中って柔軟性がないというか、他の意見を採り入れようとしない。母親は心愛に「ちょっと考えれば分かるでしょ」とかも言っていた。ポスターを貼ったり、テロ活動をしても世の中は変わらない。どころか平穏な日常を脅かし、3人がした牛の一件でも避けようとした車が事故でドライバーが重傷を負っているのだ。そういうことに考えが及ばない。自らの信念が先に立ち、想像力が働かなくなっている。『桐島です』の過激派も、あれが正義だと思ってやっていたわけだ。大義のためなら下層民は我慢しろ、の発想。困ったもんである。
あの母親は、家では環境問題なんかも口にしているんだと思う。その影響で心愛が活動家頭になっちゃったのかも。でも、母親は節度を知っている、のだろう。つまり母親は、心愛の考えは分かる。けれど、それを是正するための手段が間違っている、といいたかったのではないかな。
心愛の母親はなんとなく元ヤンキーっぽくて、首筋にタトゥーがある。教師が、心愛への追求をやめて話を進めましょう、というけれど、その言葉も聞かず、心愛を攻めつづける。けど、ただのヤンキーではないように思う。彼女に比べて、唯士の母親は平凡。陽斗の母親は子ども可愛さ一辺倒。なので、心愛の母親の強さが尖ってより見える。家庭内の軋轢も想像できるけど、信念がある女性だと思う。娘の心愛は、そこは引きついでいるけれど、方向が過激に走りすぎた感じかな。
それにしても、瀧内公美の存在感、演技は凄い。彼女1人で、これまでの、だらだらにやけた物語を緊張のどん底に突き落としてしまうのだから。あれは演出なんだろうか。瀧内の意見がけっこう入ってるんじゃないのかな。と、想像したり。
唯士の母親は蒼井優で、とてもやさしくていい母親。けれど、息子の恋の暴走は気づけなかった、てなところか。
・最後に、親につれられ帰る途中、心愛が唯士にいった言葉(口を動かすだけで言葉は発しなかった)はなんだったんだろう。読み取れなかったよ。
・前半の、教室内の学童たちのやりとり、遊びなんかは、リアリティがなかったな。今と昔では違うのかもしれないけど、女の子が唯士のそばにやってきてあれこれ話しかけてきたり。冒頭の作文では、女子が「席替えで好きな人が近くに云々」とみなの前で話したり。中盤からの、心愛と2人の男の子がつるんで遊んでたり。こういうのって、すぐにはやし立てられたりするんじゃないのか?
・陽斗のいじめも、からかい程度で。唯士にちょっかい出しても陰湿にならない。どころか仲間扱いしたりする。ああいうのは、いまいち現実を踏襲していない感じがして、なんかなあ、な感じ。まあ、大人の過激派の行動を子どもが代理で演じさせるためには、ああならざるを得なかったのかもしれないけど。
・唯一、よくないのは、セリフがよく聞き取れないこと。とくに主役の唯士は滑舌も悪すぎて、何を言っているか分からない。ありゃひどすぎる。
Dear Stranger/ディア・ストレンジャー9/25テアトル新宿監督/真利子哲也脚本/真利子哲也
公式HPのあらすじは「ニューヨークで暮らす日本人の賢治(西島秀俊)と、中華系アメリカ人の妻ジェーン(グイ・ルンメイ)は、仕事や育児、介護と日常に追われ、余裕のない日々を過ごしていた。ある日、幼い息子が誘拐され、殺人事件へと発展する。悲劇に翻弄される中で、口に出さずにいたお互いの本音や秘密が露呈し、夫婦間の溝が深まっていく。ふたりが目指していたはずの“幸せな家族”は再生できるのか?」
Twitterへは「サスペンス&アクション系かと思ったら、米国に住む東洋系夫婦のすれ違いの話だった。廃墟も人形も虚仮威しで大して意味なし。いろいろ「?」も多くスッキリしない。だからどうした、な感じも。西島秀俊はもう54歳なのか…。」
賢治は大学で廃墟について教えている。妻ジェーンは中国系雑貨屋で店番? そこに強盗。どうも店はジェーンの父親の経営のようだけど、具合が悪いので店番してた、みたいな感じか。ジェーンは人形劇団を率いている(?)らしく、でも息子カイの面倒と店番で時間がない。賢治はカイの面倒をみてくれない。なのでストレス、な感じ。
スーパーで、目を離したスキにカイが居なくなる。しかし、子どもが目を離したスキにいなくなる、という設定はお約束みたいに頻出するのは、見飽きた。これでハラハラさせる、つもりなんだろう。あるいは、次のハラハラの予兆にしているつもりなんだろう。手垢が着きすぎてうざい。でまあ、店を出て車に戻ると「BLANK」といたずら書き。書いたのは東洋系の男で、顔はバレバレ。
賢治は知り合いの整備工・ミゲルのところへ、消してもらうように頼みに行くんだけど、ここに、件のいたずら書きした男がいて、ミゲルの娘モニカの彼氏らしい。名前はドニー。で、あとから思うに、ドニーはジェーンの元彼で、カイの実の親。という男が賢治の知り合いの整備工のところで働いてるって、世界が狭すぎるだろ。それに、賢治はカイの親であるドニーをあらかじめ知っていたのか? 知らなかったのか? っていうのも、のちにカイが誘拐されたとき賢治はドニーに会いに行って、撃たれてるんだよね。いったい賢治とドニーの関係性はどうなってるんだ? もやもやしすぎ。
あー、話が進みすぎた。
でまあ、ジェーンは人形の修理のためとか、堅実の諍いがやになって1人で夜中に家をでて、稽古場に行ってしまう。翌日、賢治は大学にやむなく息子を連れて行って、そこで息子は行方不明に。刑事が来て調べるが手がかりなし。というか、ジェーンも賢治も警察に多くを語ろうとしない。刑事がジェーンに質問するがジェーンは答えたがらない。それをみて賢治は「もうほっといてくれ!」と刑事に言い返す。どゆこと? カイを探してほしいのか、ほっといてほしいのか。意味不明。
賢治は雑貨店襲撃の時の防犯カメラをチェックし、なかに東洋系の顔があるのを発見。ドニーだ。それでミゲルのところに行ってドニーの落書き車を見つけ、ドニーを追求すると、逆に撃たれてしまう。まあ、額をかすめたぐらいなんだが。…ところで、この銃はもともと賢治が自分の車に隠し持っていたものなのか? あるいは、ドニーのものなのか。そのあたりが、曖昧。モニカがドニーに、「なぜクルマに銃が?」と言ってた場面があったような…
まあ、このあたりまで来ると背景が分かってきて。カイはジェーンの元彼ドニーの子で、ジェーン曰く、「妊娠を告げたらドニーは逃げた」らしい。ではなぜドニーはいまさら息子カイにこだわり、今の彼女モニカと一緒にカイを誘拐したのか? これは最後まで分からず。
そもそも最初の雑貨店襲撃は複数人の犯行だったけど、ドニーはカイを誘拐する意図があったのか? たまたまってことはないよな。なんかつじつまが合ってない。
さて、カイを大学から誘拐したのは、ドニーとモニカらしいけど。あんなのが大学の校内をうろついて少年を誘拐したってのが、リアリティない。カイはもう4歳だろ? 両親の区別もつくし、好き嫌いも言える。なのに、ドニーとモニカに廃墟に連れてこられても泣き叫ばず大人しくしていて、最後は寝てしまう。あり得んだろ、そんなの。
で、その後、廃墟で銃声が響き、死体の前でカイが拳銃を弄んでいる。カイが遊んでいて間違って撃った、とミスリードさせたいんだろう。カイはモニカが連れだして郊外のガソリンスタンドに放置、で発券される。カイは賢治とジェーンの元に戻った。けれど、刑事はカイに話を聞きたい、というのだけれど、またまた賢治が逆上し、子どもにそんなことを聞くな、とかいう次第。なこといったって、刑事は仕事をしてるだけだろうに。で、保育園でも、危険な子どもは預かれない、といわれてジェーンは凹む。まあでも、当たり前だろ。そういう疑惑があるのなら。
とりあえず一件落着? ジェーンは人形劇を成功させ、賢治も見に行った。カイもいたっけか。
その後、賢治は大学で廃墟に関して講演するんだけど、なんかメロメロな感じ。質疑で、廃墟をみつめるなんて経済的に非合理的だ! とか講義されるのは、突然すぎてなんのことやら。そのあとだっけ? 賢治が信号待ちしていて、発車すると車が突っ込んできて事故。これは正直びっくりした。よろよろでてくる賢治。突っ込んできたのはモニカで、クルマはドニーの落書き車。そこでだっけ? 刑事がたまたま(?)居合わせて(?)、賢治は「すべては僕のせい」とかいって手錠をかけられる…。なんで? ドニーが死んだのも、賢治の責任なのか? 意味不明。
のあとに、ドニーが自分に向けて銃を撃つ場面が登場する。なんだ、自殺なのか。あれなら銃に指紋があるだろうから、自殺って分かるだろう。疑う余地はない。それを4歳児が誤射したとして捜査を進めるのはヘンだろ。それに、カイも自分が撃ったのか否か、説明できるだろうに。
。後日談?なのか。ドニーの質素な墓を訪れているジェーンとカイ。そこに刑事がやってきていて。で、暗転。で、この場面は何を示唆しているのだ? まだ裏があるのか? 意味不明。それにしても、あの刑事はタイミングよく色んなところに登場するよな。
というわけで、ドニーはなぜ、興味もなかった自分の子どもに執着し、誘拐までしたのか? さらに、その息子の前でなぜ自死する必要があったのか? 意味不明だ。
・冒頭から少しして、賢治は、ジェーンと出会ったという廃墟の劇場に行き、一発撃つ。あの意味も不明。いくら廃墟でも、銃声は漏れるんじゃないのか? それに、賢治とジェーンが会った場所というけど、どういうシチュエーションなんだ? 廃墟になっていた劇場で、どうやって会ったんだ? それとも、あの劇場でジェーンが人形劇をやってた? 意味不明。・それにしても、ジェーンは我が強すぎるだろ。たかが(というと叱られそうだけど)人形劇のために息子を放置し、いなくなったらギャーギャー騒ぐし。賢治の都合も考えない。賢治のキャリアを考えたら、多少自分が犠牲になる、のも仕方ないと思うけどな。勝手に夜中居なくなってカイが誘拐され、その不満を賢治にぶつけても解決はしない。自制心はないのか。と思っちゃうね。

 
 

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