| ファンファーレ!ふたつの音 | 10/6 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/エマニュエル・クールコル | 脚本/エマニュエル・クールコル、イレーヌ・ミュスカリ |
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| 原題は“En fanfare”。公式HPのあらすじは「世界を飛び回るスター指揮者のティボは、ある日突然、白血病と診断される。ドナーを探す中で、自分が養子であること、そして生き別れた弟ジミーの存在を知る。かつては炭鉱で栄えた町は今は寂れ、仲間との吹奏楽団が唯一の楽しみであるジミー。すべてが正反対の二人だが、ティボはジミーに類まれな音楽の才能を見出す。これまでの運命の不公平を正そうと、ティボはジミーを何がなんでも応援することを決意する。やがてその決意は、二人の未来、楽団、そして町の人々の運命をも思いがけない方向へ動かしていく」 Twitterへは「白血病と診断された指揮者が生き別れの弟を見つけ、骨髄移植…。が大半の話かと思ったらそれは序の口だった。ジャズあり楽団あり工場閉鎖あり、あれやこれやがテンポよく進む。ラストも感動的。」 ちゃらい話かと思ったんだけど、テイストはそうでも描かれているあれこれは、医療の問題、社会不安、労働者、炭鉱閉鎖、養子問題、などなど多様。重く描かれてはいないけど、現代の諸問題をつまみ食い的に俯瞰していて意味があると思う。 ところで、予告編からは、存在を知らない兄弟を発見して骨髄移植、の話をテーマにしているのだと思っていたんだけど、この話題は冒頭の15分ぐらいでさっさと終わってしまう。だから、骨髄移植のために病院で苦労する話もなく、カットが変わったらもう移植が済んでるのだから、ちょっとビックリ。なるほど。こういうテンポでどんどん話が展開していくのか。この切れ味と、だらだらと情に拘泥せずドライに突っ走っていく姿勢は、なかなかいい。 では、どういう話になるのかと思ったら、なんと離れて育ちながらも、弟のジミーも地元の炭鉱楽団でトロンボーンを吹いていて、ジャズ、とりわけクリフォード・ブラウンが好きだとか、ディボと趣味嗜好が似ているというのが面白い。とはいえ、地元の産業は壊滅状態で、工場は閉鎖寸前らしい。…というところが、よく分からないのがもやもや。というのも、楽団は炭鉱楽団なのに、働いているのは工場? この工場は何を製造しているのだ? 炭鉱は、もうないのか? というあたりの説明がないので、イラつくんだよな。もしかしてもう閉山していて、そこに新たに工場がつくられたけど、ここも経営不振で工場閉鎖が目前。それで、労働者が団結し、戦っている、のかな。でまあ、楽団はむかしからの名前でやっている、と、そういうことか? そんな楽団で指揮を担当していたやつが、会社の指示で移動になって。指揮者をどうしよう、ということになるんだが、ジミーは推されても嫌だ、の一点張り。なんだけど、この、ジミーが指揮は嫌だ、の理由も描かれないので、ここもちょっとイライラ。 なわけで、ティボも忙しいなか、炭鉱楽団の指揮の練習を手伝ったりするんだけど、まあ、そこまで。本格的にはサポートできない。このあたり、命を救ってもらったんだから、もうちょっと支援してやればいいじゃないか、とは思うんだけど、元気になると病気のときのことは忘れちゃうものだからな、人間って。 ティボとジミーの仲も良好で、最初は骨髄移植についても、なんで知らない兄のために、とかいってたジミーも、結局はいいやつだった。最初は、仲違いするかなと思ってたんだけどね。そうそう。2人がなぜ別々の家の養子になったのか、についても、なんとなくアバウトな説明だったな。ジミーの養子先では、兄もいることがわかって一緒に育てようとしたけど経済的にムリだった…だったっけかな。その逆だったかな。よく覚えてないんだが。 ティボはジミーに、人間には可能性がある、努力すれば上の世界に到達できる、てなことをいったらしい。それを信じてジミーは、どっかのオーケストラのオーディションを受けるんだけど、メタメタ。たまたま審査員にティボがいて。「分かっていたら止めた。みな毎日何時間も練習しているような相手だ」とかいうんだけど、「やればできるっていったじゃないか」ってな感じで諍いが生じてしまう、まあ、ティボは気休めに行ったんだろうけど、それをジミーは本気にしちゃったんだな。気の毒。その後も、「いいよな。お前は当たりクジを引いた。オレは外れクジだった」って拗ねてしまうジミー。気持ちは分かる。おれだってティボと同じ環境で育ったら、一流の音楽家になってた可能性が高い、って思うと、そうなるよな。 なわけで、ティボが指揮して、大会へ向けて練習し始めても、でてこなくなってしまったジミー。だけど、まあなんとか気を取り直して練習に顔を見せるようになり、いやだと言っていた指揮者も受け入れて。工場の調理場でお玉を手に指揮の練習をしていたりしたんだけど、その様子がSNSにアップされ、いざ大会の本番と言うとき、ライバルの楽団員に「お玉で練習かよ」と揶揄されて、大乱闘。結局、大会での勝利は消えてしまったのかな。 なので、というわけではないんだろうけど、ティボは工場でコンサートを開くことを提唱。演奏するのは、ボレロ。指揮は、ジミーだったかな。なぜジミーが指揮を受け入れたのかが不明なのはもやもやだけど。ってな最中、ティボは、白血病が再発し、公演をこなすのも息も絶え絶えになってきて、海岸でジミーに泣きつく…。 このあとだったか。工場閉鎖に反対していた面々の前で、強制的に工場がロックアウトされてしまう。工場再開はもうムリ。 いっぽうのティボは、これが最後の指揮? な感じでタクトを振り終わる。その静寂のなか、カッカッとタクトが手すりかなんかを叩く音がしてきて。これに唱和が始まる。ボレロだ。周囲の客は困惑しているけれど、指揮台のティボは気づく。炭鉱楽団の面々が正装してコンサート会場の二階にいて、ボレロをティボに向けて捧げていることに。あの、工場で演奏すると誓い合ったボレロを、この場でティボに向けて演奏しているのだ。この炭鉱楽団がリズムと朗唱で応える場面はとても感動的。おお、そうきたか、な感じだ。 感動的ではあるけれど、問題は何も解決していない。労働者たちにとっては工場が失われてしまった。ティボは病が再発した。絶望の中でのボレロ。ティボにとっての最後の指揮は、炭鉱楽団にとっての最後の活動なのかも知れない。そんな終わり方。夢も希望もないけれど、人の心は通い合っているということをつたえている、のかな。 ・ジミーには、別れた妻との間に娘がいるんだっけかな。で、楽団員の中に、いい感じの彼女がいる。これは、ジミーの希望かな。 ・でも、ティボの周囲には女性の影はないんだよな。まさか、あの、マネージャーっぽい女性が? なことはないよな。 | ||||
| テレビの中に入りたい | 10/6 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ジェーン・ショーンブラン | 脚本/ジェーン・ショーンブラン |
| 原題は“I Saw the TV Glow”。公式HPのあらすじは「毎週土曜日22時半。謎めいた深夜のテレビ番組「ピンク・オペーク」は生きづらい現実世界を忘れさせてくれる唯一の居場所だった。ティーンエイジャーのオーウェンとマディはこの番組に夢中になり、次第に番組の登場人物と自分たちを重ねるようになっていく。しかしある日マディは去り、オーウェンは一人残される。自分はいったい何者なのか?知りたい気持ちとそれを知ることの怖さとのはざまで、身動きができないまま、時間だけが過ぎていく…。」 Twitterへは「つまらないという噂なので寝るだろうと思ったらその通りで、前半からうとうと。間延びした展開、よく分からんテレビ番組、妄想? とか観念的なだらだらセリフ。話もよく分からん。キャラも魅力がない。こんな映画、よく公開できたな。」 いやほんとに、なにをテーマにしているのかも理解できなかったけど、話自体もよく分からなかった。あとから朝日新聞の映画評をみたら、「非現実さまよう若者の自分さがし」なんて見出しになっていて、へー、そうだったのか、な感じ。すでに見た人の意見でも「つまらなかった」があって、こりゃあ寝るな、と思っていたけど、始まってしばらくしてウトウト。覚めては寝ての繰り返しで、後半はちゃんと見たけど、それでも意味がよく分からなかった。これほど、どこも刺さらない映画を、よくもまあ公開したもんだ。シアター1は162席だけど、20人ぐらいしかいなかったから、つまらないという評判が広まっていたのかもね。 7年生(中一に相当)のオーウェンは、アフリカ系ではない黒人の血を引いている感じで、夜10時半からのテレビ番組「ピンク・オペーク」が気になってるけど、10時が就寝時間なので見られない。あるとき学校で陰気な女子マディに接近遭遇したら、彼女はその「ピンク・オペーク」の解説本を読んでいて、会話が始まる。マディは9年生(中三に相当)。見られないなら、うちに来なよ、と言われ、オーウェンは友人宅に泊まりに行くと母親に嘘をついてマディ宅へ。いくともう一人女子がいて、テレビを見てる。友人は帰り、マディはテレビのある居間で寝る。マディは「義父が戻ってくる前に帰ってよね」ということで、とぼとぼ帰路につく・・・。という、どーでもいい経緯をだらだらのらくら見せるんだけど、退屈すぎて退屈すぎて。「ピンク・オペーク」に登場するキャラも画面に出てくるけど、番組自体がどういうものかよくわからないし、番組のストーリーもよく分からない。2人が夢中になるぐらい魅力的で面白い番組である、って感じはまったくつたわってこない。マディがえんえん説明するような場面はあったような気もするけど、そんなの言葉で説明するなよ、絵で見せろよ、と思う。 でまあ、オーウェンはマディが録画したVHSビデオを借りてかもらってなのか、それで「ピンク・オペーク」をコンプリートするのかな。しかし、1話から順にではなく、話が前後したり再放送があったり、なにんがなんだかよく分からん始末。 で、2年後。マディは女友だちと喧嘩別れかなんかしてる。オーウェンの就寝時間は10時半になってたかな。でもやっぱりリアルタイムには見られないので、録画ししてもらってたのかな。にしても、15歳にもなろうという男の子がそんな時間によく寝られたもんだ。 「ピンク・オペーク」の番組のイメージは突然、フツーに登場するので、どれが番組なのか分かりづらい。たとえば毎回タイトルがでるとか、色が違うとか、なんか配慮してくれよ、な感じだよな。マディはどっかの街に引っ越すと言ってたり、マディの家でテレビが燃えるボヤ事件があったりしてたかな。 このあたりから記憶はまだら。またまた時間が過ぎて、何年後か知らんけど。マディがもどってきてオーウェンと再会していて、じつは「ピンク・オペーク」に出演していた、とかいうんだよ。では、それ以後の「ピンク・オペーク」の番組のイメージにマディが登場してたか? してなかったように思うんだけどな。マディの妄想なのか、嘘なのか。よく分からん。 でまた時間が過ぎて20年後と言うからオーウェンは50歳を過ぎているのか? 若い顔に老けメイクで、レストランだか、どっかの掃除(?)の仕事をしている、のかな。だれかお客(?)の誕生日で、ハッピーバースデーを謳っているけどオーウェンはよたよたで、調子をくずして倒れてしまい、トイレで吐いたのか、倒れている。なんとか立ち上がって…。なところで映画は終わる。だから何なんだ。どこが「非現実さまよう若者の自分さがし」なんだか? オーウェンは自分探しなんてしていたか? まったく無分からんな。この時代にはマディは登場せんし。 同じテーマでももうちょっとエッジの効いた感じでテンポよく、リリカルでメリハリを効かせれば、まだ見られたかもね。あんなだらだらした演出じゃだれだって寝ちゃうだろ。 ・オーウェンとマディ以外には、オーウェンの母親がでてたかな。あとは、マディの友人。それも、ちらっとでてくるだけ。なんなんだ。 ・マディは最初のときはゴスロリっぽいメイクで妖しく可愛いのか? と思ったら、2年後には髪を斬っちゃってて陰気な顔がもろ見えで妖しさゼロに。 | ||||
| LOVE | 10/7 | ル・シネマ 渋谷宮下 9F | 監督/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード | 脚本/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード |
| ル・シネマ 渋谷宮下のHPのあらすじは「泌尿器科に勤める医師のマリアンヌと看護師のトール。共に独身でありステレオタイプな恋愛を避けている。マリアンヌはある晩、友人から紹介された男性と対面するが、子どもがいる彼との恋愛に前向きになれない。その後乗ったフェリーで偶然トールに遭遇すると、彼はマッチングアプリなどから始まるカジュアルな恋愛の親密性を語り、マリアンヌに勧める。興味を持ったマリアンヌは自らの恋愛の方法の可能性を探る。一方トールはフェリーで知り合った精神科医のビョルンを偶然勤務先の病院で見かけ…」 Twitterへは「監督。脚本ダーグ・ヨハン・ハウゲルード。死、愛、セックス、ゲイ、医療などをめぐって複数の人物がからみ合いつつ、オムニバスのように物語が展開する。驚くべきは脚本の巧みさで、こいつ誰だっけ? が全くなく、それでいて説明的ではないところ。」 冒頭で、女性医師が、ピンクの服を着た青年にガンの宣告をする。看護士の男に、「彼は分かってないと思う」といわれ、一緒に待合室に行くと、母親に「どうだったの?」と聞かれ、「よく分からなかった」と言っている。看護士は、ほらね、な感じ。女性医師は、今度は母親とともに診察室に2人を呼んで、話をしはじめる。というエピソードがあるので、ピンクの青年が重要なキャラかと思ったらそうではなかった。次の場面は、博物課課らしきところで、何人かの人を相手に話をしている女性の場面。ここで、話をしている女性の友人らしいのがいて、始めは分からなかったんだけど、彼女は医師で。冒頭の女性医師だと分かる。女性や市役所の職員のようだ。このあたりの人物紹介が、とても自然だ。 2人は、フェリーで対岸の町に行き、仲間うちの集まりに参加する。6人だったかな。なんのことかよく分からなかったけれど、だんだんはっきりしてくる。訪問先は鉱物学者の家で、離婚してひとりもの。なのに、元妻が隣家に住んでいて、娘が両親の家を行き来している。なぜ離婚したか分からないけど、妻の方はまだ十分に納得してない感じ。のちに分かるけど、鉱物学者にとっては、これは2度目の離婚らしい。市役所女は友人の女性医師と鉱物学者を出会わせ、仲を取り持とうという考えらしい。とはいえ、女性医師は、そこまで鉱物学者を気に入らない。…この鉱物学者の家で記憶に残るのは、役所の申請が上手く行かない、と嘆く黒人男性。それと、東洋系の顔をした女性も参加していたこと。 で、オスロに戻るフェリーで、女性医師は、知人に出会う。始めは分からなかったけど、冒頭にでてきた看護士だった。仕事中は髪をまとめているけど、普段はちりちりの髪でいるらしい。看護士は、ただフェリーに乗っているだけ、という。で、見せてくれたのはマッチングアプリで、実は彼はゲイで、マッチングアプリに登録している男性をフェリーで見つけ、その場かぎりのセックスをするのが目当て、らしい。フェリーはオスロについて、女性医師は降りていく。看護士は、乗り続けているのだけれど、ここで登録している男性を見つけ、接近する。彼は精神科医らしい。その後、看護士はこの男性を病院の近くで見つけ、とても具合が悪そうだった。でも、最後まで世話をせずに別れてしまう。で、再会したときだったかそのことを話すと、どうも精神科医はガン宣告されていて、落ち込んでいるらしい。 再度、鉱物学者のところを訪れた帰路だったかな。女性医師もマッチングアプリに登録したんだっけか。フェリーで出会った調子のいい男と接近し、そのままオスロの港で泳ぎ(泳げるのか?)、近くでセックスする。なかなかお盛んなことで。男は妻がいるけどアプリに登録していて、出会いを楽しんでいる、らしい。 このことを市役所女に話すと、せっかく紹介した鉱物学者とじゃなくて、そんな男とセックスしたの? と驚かれてしまう。「あなた、もっと冷静な人だと思ってたのに」「私は冷静よ。そして、自由なの」てな感じで返されてしまう。 なんて感じで淡々と話が進むんだけど、そこらの映画でよくあるみたいに、あれ? これ誰だっけ? というのが、ない。場面が変わっても、さりげなく、誰なのかが分かるようなフレーズをセリフに忍び込ませたりして、しかもそれが自然なので、説明的でない。そして、名前という固有名詞をセリフで言うだけで話が進むようなこともない。なので、こんがらがったりしないのだ。このシナリオの巧みさは特筆ものだ。 てなわけで、女性医師と看護士をベースとして、女性医師と市役所女、鉱物学者やその他の男、という話。看護士と精神科医の交流。というような感じで、完全に別れてはいないけれど、オムニバスのような感じで複数の話が織りなされる。しかも、結構な部分が対話劇になっている。でも、観念的で難しいとか考え込むとかもなく、淡々とだけれど、話が進んでいく。 なんだかんだいいつつ女性医師は鉱物学者の家に通い、セックスして。彼の方はウキウキで、結婚を前提に、というのだけれど、彼女の方は、結婚は考えない、と。その理由は分からないけど、女性医師にとってはこれも、マッチングアプリに似た感じの行きずりのセックスと考えているのか。自由なんだね。鉱物学者のように、つき合ってセックスしたら、次は結婚、とは考えていない様子。北欧でも、色んな考えの人がいるのだね。 看護士は、手術後の精神科医に、なぜかよりそうことになる。女性医師は、仕事と個人的なことは分けた方が、と言われたけれど、それでも買い物だの料理だの、細々と世話をする。興味深いのが、看護士が女性医師に言った内容かな。前立腺を摘出すると、セックスの快感がなくなる。そのことを患者に説明した方がいいのでは? ということだけど、つまりは精神科医にとって将来的に、セックスでの快感がなくなる、ということだ。そういうことに同情したのか知らんけど、フェリーで女性医師に話していたように、行きずりの相手とその場限りのセックスもする人間から、ひとりの患者に対する敬意というか、やさしい愛情を示すようになっていくことが興味深い。同じマッチングアプリを使いながら、人間の行動は変わっている物なのだな、と。 しかし、北欧の人間関係って、話題がオープンなのはいいね。職場の女性医師と看護士の間での、仕事に関するアドバイスとかも、看護士から医師に対して気軽にするし。看護士はゲイであることを公言している。女性医師と友人の市役所女も、セックスについて大っぴらに話している。日本では、ここまであけすけには言えないよな。 あと、それから。最初の方で鉱物学者の家にやってきた東洋系の女性は、どうやら市役所女の部下らしいことも、後のほうで分かる。それから、これは市役所女が話していたんだったかわすれたけど、役所業務がスムーズ行くように考えているとか何とか、の話題もさらりとでてたけど、鉱物学者のところで申請が分かりにくいと不満を漏らしていた黒人男の話を受けて、なんだろうな。 それと、後半で、看護士が見た風景としてでてきたんだっけか、わすれたけど。Uber Eatsみたいなデリバリー自転車たくさんでてきて、みなピンクのバッグなのは、冒頭の、ガン宣告を受けた青年を受けてのイメージなのかもね。いろいろ、こまかに話をフォローしているので、ストレスがなく見られたのはとてもよかった。 | ||||
| 火の馬 | 10/10 | シネマ ブルースタジオ | 監督/セルゲイ・パラジャーノフ | 脚本/セルゲイ・パラジャーノフ、イヴァン・チェンディ |
| Wikipediaのあらすじは「カルパチア山地のチョルノホーラ山系に住むフツル人の村で、パリイチューク家とフテニューク家が対立していた。パリイチュークの息子オレクサの事故死後、葬儀中の決闘でパリイチュークがフテニュークの斧で殺され、両家の確執が深まる。死の直前、パリイチュークは赤い火の馬が天を駆ける幻を見る。パリイチュークの妻はフテニュークの羊を呪う。対立の中、幼いイヴァーンはフテニュークの娘マリーチュカと出会い、親交を深める。二人は成長し、恋に落ち、結婚を誓う。マリーチュカはイヴァーンの子を妊娠するが、貧しいイヴァーンは羊飼いとして出稼ぎに出る。マリーチュカは村で羊を養い、星を見ながら互いを想う。ある日、マリーチュカは迷った子羊を救おうとして崖から急流に転落し、死体で発見される。イヴァーンは絶望し、乞食同然の生活を送る。村人は彼を哀れみ、新しい花嫁パラーフナを勧める。二人は結婚するが、イヴァーンの心はマリーチュカに縛られたまま。パラーフナは子作りを願うが、マリーチュカの霊が現れ、彼女は魔術師ユールコと不倫に走る。ユールコがイヴァーンの友人を傷つけ、決闘に発展。イヴァーンはユールコの斧で額を傷つけられ、マリーチュカの墓の十字架を幻視。彼女の霊(ルサールカ)に導かれ、川に転落して死ぬ。イヴァーンの葬送はフツル人の伝統的な歌と踊りで執り行われ、村の子供たちが窓から見守る。」 Twitterへは「Wikipediaによれば「ウクライナ詩的映画の代表作」らしいけど、脚本や演出は三流で、話がよく分からない。現地の風俗・衣装は興味深いけど、ドラマがないし、なんでそうなるの? な展開…というか、映画的文法を無視しすぎだろ。」 ↑のあらすじを読んで、ふーん、話の設定はそういうことだったのか、と思った。というのも、映画ではほとんど説明されないからだ。映画だけ見てると、貧乏な家に生まれた、ちょっと頭の足りないイワンが、どうやら父を殺した家の娘と仲良くなり、長じて恋人同士になって。でも、貧乏なイワンは出稼ぎに行き、その間にマリーチュカは羊を助けようと絶壁を登ったせいで転落し、川に落ちて溺死。落ち込んだイワンだったけど、そのうちどっかの娘=パラフナと結婚するが、子供ができないパラフナは神に祈り、祈祷師にに頼るが、いつのまにか浮気女になって…。と思ったら、なぜかよく分からないがイワンが死んで葬式が行われる。オシマイ。な風にしか読めなかったんだよね。 なによりまず、脚本がへろへろで話がよくわからん。ヘンなカットつなぎの編集。ぎこちない演出。正直いってプロの仕事とは思えない。とはいえ監督のパラジャーノフは芸術的な詩的映画の巨匠と呼ばれているらしいので、首をひねるばかり。だって、詩情豊かな映画ではないのだから。もちろん、ちょっとは前衛的で実験映画的なシーンもいくつかはあった。たとえば、父親が殺される場面はカメラの前にガラスを置いてそこに血の赤が飛び散り、その赤が馬になったり、イワンが森の中を走る場面で強いコントラストでハイキーみたいになったり、顔を洗う場面を水の中から捉えたり(たぶんガラスのプールを使ったんだろう)とか、筏を空撮のように流れるように撮ったり。でも、筏のシーンには詩情をすこし感じたけど、それ以外はたんにトリッキーなだけで、とくに意味もなく思いつきでやってるだけ、にしか見えないのだよな。 カットつなぎも、冒頭の、イワンが兄を呼ぶ声、倒れる巨木(というには細かったけど)とかの場面は、カット尻がムダに長かったり、つなぎがスムーズでなく素人っぽくしか見えない。 それに、この場面ではイワンのバカさ加減しか感じない。イワンがノコノコ木が倒れるところに行ってしまい、それを助けるために兄が代わりに下敷きになったわけで。では、イワンは自分の過ちを恥じるかと思いきやそんなこともなく、脳天気。なんなんだ、こいつは。 ストーリー的にも、イワンの父がある男を「金持ちが偉そうに」とののしると、逆に襲われて簡単に死んでしまう。公衆の面前で殺人が行われ、司法は機能しないのか? とか疑問が湧くよね。兄の死の後で、どっかの少女とちゃらちゃら遊び、しかも、2人とも素っ裸で遊んでたりする。この監督はペドフィリアか? で、長じて後、その娘=マリーチュカは「私たちの家は対立している」とかいうので、もしかしてマリーチュカの家はイワンの父親を殺したやつの家なの? にしてはマリーチュカが両親や実家にいる場面はなく、娘がイワンと遊んでいることを知らんのか? バカか、と思ってしまう。 イワンの母親は、相手の家が没落し、羊もみんな死んでしまえ、と罵る。そして、みんな死んでしまった、と名前を呼び上げるんだけど、6〜7人いたのだが、それってみな子供たちなの? 残ったのがイワンだけってこと? 子供たちはなぜ死んだのか? 意味不明。 ところで、イワンは母子で貧乏家庭、と思っていたんだけど、住んでいる家はでかい。なんでなんだろ? と思ってたんだけど、もともとは村では勢力があった、ということなのかな。 でまあ、言わんが出稼ぎの間にマリーチュカは羊を助けようとして死んでしまうんだが、村人や母親が娘を探しているところに、なぜかイワンが現れるのはなんなんだ? 出稼ぎからタイミングよくもどってきた? で、次の場面では、マリーチュカの土まんじゅうの上にイワンが十字架を刺している場面なんだけど、え? マリーチュカの両親が弔うなら分かるけど、なんなん? で、すさんだ生活で鬚ボウボウのイワン。このときは母親は亡くなっていたのかな。ところで、この頃、イワンが蹄鉄を打ってたらすり寄ってきた娘は、だれなの? 顔が東洋系で、後に結婚するパラフナとは違うよな。それとも、パラフナなの? でまあ、なんか知らんがパラフナという娘と結婚するが(式の様子は伝統的な感じで、へー、とは思ったけど、それを描く必要がどこにあるのか、疑問)、なんかマリーチュカを忘れられない様子。 子供ができないパラフナが夜、素っ裸で神に祈りに行くのは、ありゃなんなんだ? そういう因習があるのか。祈ってねパラフナに近寄り、襲おうとしたおっさんは、ありゃなんなんだ? 誰? あとは、クリスマスか。ウクライナの結婚式は珍しいから興味深く見たけど、話としては、だからなに? レベルだな。物語的にはなんの進展も含みもないし。むしろ、人がいなくなった中庭で、女が男に襲われている場面があったんだけど、ありゃなんなんだ? クリスマスはタガが外れて夜這いの類が許されるとかあるのか? フォローするシーンがないので分からんけど。で、その夜だったか、イワンの夢かな? にでてきたのはマリーチュカなんだよな。いつまで恋々とめそめそしてんだよ、だよな。 パラフナは、祈祷師のところに行ったのは、あれは子宝祈願? で、その後、イワンとパラフナが居酒屋に行くと赤いマントの男がいて、パラフナが男に首ったけ見たいにして近づいていく。のを、言わんが止めたんだっけ? 赤いマントの男はだれ? と思ったんだけど、↑のあらすじによると祈祷師のようだ。ってことは、祈祷師のところに通ってる間に関係ができた、のか。この場面、祈祷師が部屋の角を背にしてテーブルに座っているので、パースペクティブが歪んでて、奥行きが遠く感じられるのは面白い視覚効果だった。 それはさておき、その後の展開をよく覚えてないんだよな。↑で「ユールコがイヴァーンの友人を傷つけ、決闘に発展。イヴァーンはユールコの斧で額を傷つけられ、マリーチュカの墓の十字架を幻視。彼女の霊(ルサールカ)に導かれ、川に転落して死ぬ。」というあたり。そんな展開だっけか? ほとんど記憶がない。イワンが死ぬところもはっきり描かれてなかったように思う。いつのまにか部屋に横たわっていて、女たちが身体を拭いている。なんだ、呆気なく死んじゃうんだな。なんの教訓も、意外性もない。 ラストシーンは、窓枠にいる子供たち。あれは何なんだ? イワンの死んだ兄弟たちを示しているのか? 8人いたけど、みんな死んじゃった、とでも? やれやれ。よく分からん映画だったよ。 観客は私をふくめ9人。 | ||||
| ホーリー・カウ | 10/14 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ルイーズ・クルヴォワジエ | 脚本/ルイーズ・クルヴォワジエ、テオ・アバディ |
| 原題は“Vingt dieux”。「なんてこった」の意味らしい。公式HPのあらすじは「フランス、コンテチーズの故郷ジュラ地方。18歳のトトンヌは、仲間と酒を飲み、パーティに明け暮れ気ままに過ごしている。しかし現実は容赦無く彼に襲いかかる。ある日チーズ職人だった父親が不慮の事故で亡くなり、7 歳の妹の面倒を見ながら、生計を立てる方法を見つけなければならない事態に……。そんな時、チーズのコンテストで金メダルを獲得すれば3万ユーロの賞金が出ることを知り、伝統的な製法で最高のコンテチーズを作ることを決意する。」 Twitterへは「チーズ職人の親父を事故で失ったチンピラ少年が、心ならずもチーズづくりに励むことになる…。でも最後までチンピラのまま、というのが痛い。こんなバカを好きになる色○○○○な娘も、真面目なようでアホだろ。」 バカは死んでも治らない的な、糞少年の話だった。母親は、よくあるパターンでおらず。父親はチーズ職人。だけどアル中で、しょっちゅうベロベロ。息子も同じで、あらすじによると18歳なのか。15、6歳に見えたけど、これまた煙草と酒と女の日々。悪ガキ3人でつるんでバイクを乗り回し、遊んでばかり。村の祭りみたいので、女の子歩引っかけて、でもイザというとき勃起しなくて、じゃあね、で朝帰り。またまた夜は祭見たいのにでかけると、オヤジが泥酔で腰が抜けてる。を、クルマに乗せて(運転させて)帰す。と、昨日の女の子(なのかな?)がいたので声をかけたら別の男性何人かと一緒で、帰って、と言われる。かっとしたトトンヌは、瓶か何かで男性の頭を殴り、逃走。の帰路、オヤジのクルマが木に衝突してるのを発見…。で、オヤジは死んで、ひとり残され、金がないからなのか、家にあるトラクターとか工場で使う道具を一切売り払い、どっかの牧場/チーズ工場に就職、な感じ。 しかし、フツーに考えて親戚知人がいないというのも不自然だよな。母親は離婚ならどっかに居るはずだし、死別でも家族はいるだろう。父親だって天涯孤独でもないだろうし。映画時都合で少年をひとりぼっちにしてる感じがして、なんか、素直に受け止められない展開だな。 という経緯から分かるのは、オヤジも息子のトトンヌも、計画性もなく、だらしなくてバカだろ、だ。オヤジの仕事がどんなだったのかは、よく分からない。自分のところで牛を飼ってた気配はないので、牛乳を買ってチーズにしていたのかな。で、息子は仕事もせず遊んでばかり。というのを叱りもしない、のはなんでなの? 息子に学がないならチーズ作りを教え込んで備えさせりゃいいじゃないか。そういうことをしてる気配は一切ない。トトンヌもチーズ作りに興味はなかったようで、でも、将来に夢や希望も持ってない様子。無軌道というより、ただのバカじゃん。親子でバカ。 で、勤め始めた牧場にいたのが、祭で殴った男で、牧場の息子たちだったという、偶然。ボコボコにはされるけれど、働かなくてはならん。で我慢するんだけど、ここで出会ったのが兄弟の妹マリ=リーズで、美人ではなく逞しい系なんだけど、たまたま仕事を手伝って(だっけかな)、帰ろうとしたら、「帰っちゃうの? やらないの?」と突然誘ってくる。なんだこの色キチガイ女は。トトンヌに惚れたにしても、いきなりすぎるだろ。でも、このときも勃起せずにできなかったんだよな。トトンヌは、精神的な障害かなにかを抱えている、ということをいいたいのか? よく分からん。 牧場でつくってるチーズがコンテストで賞をとってて、賞金が2万フランだか3万フランだったかな。っていうのを聞いて、じゃあオレもつくろう、となるトトンヌ。捨てた釜や売り払ったトラクターを、友人の助けも借りて買い戻し、3バカトリオで牛乳を煮詰めるが、いつまでたっても固まらない。「なんで?」なとき、公園のチーズ講習会みたいなところで、酵素を入れることを知って、なるほど。っていうか、チーズ職人の息子が基本的なことも知らないって、バカだろ。さらに、つかう牛乳は、働いてる先のものがいい、ということで、マリ=リーズとシコシコしてる間に友人が盗むというシステムを確立。トトンヌも、マリ=リーズのマンコを舐めたりして勃起するようになって、こっちはこっちでよかったんだけど…。 なんとか1つチーズを完成させ、コンテスト会場に持ち込むと、一見さんの参加はお断り。協会のようなところに登録して参加資格が得られる、と初めて聞いて、すごすご…。って経緯も、バカすぎ。そのぐらい事前で調べろよ。っていうか、父親の工場は協会に登録してなかったのか? 登録してたらそれを使えばよかっただろうに。廃業したから登録は取り消し? 父親はコンテストに参加したことはなかったのか? っていうような、情報がまるでない。無知はオソロシイ。 悪事はいつかバレる。マリ=リーズが牛の出産のサポートをしていて、そこについていたトトンヌ。仲間は牛乳泥棒している最中。マリ=リーズが仮眠して、でも、牛の膣から赤ん坊の足が見えてきた。でも、仲間のところにいって鍵を閉めなくちゃいけない。せっぱ詰まって、マリ=リーズを起こすと、なんでもっと早く、と言われてしまう。いっぽう、仲間は牧場の兄弟に見つかり、貯蔵庫に閉じ込められてしまう。ドタバタ始まり、しかたなくトトンヌはマリ=リーズに、ここの牛乳を盗んでた、と告白。…というドタバタで、仲間はなんとか逃げ出すんだけど、この経緯がよく分からない。兄弟からどうやって逃げたんだ? マリ=リーズが助けたんだっけ? トトンヌは牧場をクビになったんだろうけど、そういう説明はまるでなし。牧場から3バカへの追求があったのかどうかもよく分からない。 3バカの1人が参加するストックカーレースみたいなのが開かれていて、トトンヌはそれを見にきている。友人が優勝するが、観客の中に、牧場の兄弟とマリ=リーズがいる。会わせる顔がないな、な感じですごすご帰ろうとするとマリ=リーズに呼び止められる。振り向くと、マリ=リーズがTシャツをたくし上げてオッパイを見せて笑ってる。なんだこの色キチガイは。で、オシマイ。 という、身も蓋もない話で、いったいこれからトトンヌはどういう人生を過ごしていくのか。映画のラストは陽気に終わってるけど、実際は未来が見えない状態だろう。身から出た錆とは言え、どうするのか。幼い妹を抱え、18歳の、手に職もなにもなくて、知恵も知識もないただのバカが、どうやって生きていくのか。闇しかないだろ。この映画。 まあ、泥棒したりと努力のカケラもないトトンヌだけど、牧場での働きは真面目そうだったので、間違ったことをしなけりゃ、時間はかかるかもしれないけど、社会適応できるようになるかな。にしても、こんなトトンヌに惚れたのか何だか知らんが、マリ=リーズもそうとうのアホだろ。彼女は真面目そうなのに、なんでこんなバカを相手にするのか、意味不明だな。 トトンヌの妹役の娘がなかなかいい味を出している。 マリ=リーズ役のマイウェン・バルテレミは23歳らしい。美人じゃないけど、素朴でいい感じ。 ホーリー・カウ、といいつつ、牛はほとんど登場しない。こっちも、なんてこった、の意味で使われるらしいけど。 | ||||
| ジュリーは沈黙したままで | 10/17 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/レオナルド・ヴァン・デイル | 脚本/レオナルド・ヴァン・デイル、ルト・ベククアルト |
| 原題は“Julie zwijgt”。公式HPのあらすじは「ベルギーのテニス・アカデミーに所属する15歳のジュリー(テッサ・ヴァン・デン・ブルック)は、その実力によって奨学金を獲得し、いくつもの試合に勝利してきた。ある日、突然、担当コーチのジェレミー(ローラン・カロン)が指導停止になったことを知らされると、彼の教え子であるアリーヌが不可解な状況下で自ら命を絶った事件を巡って不穏な噂が立ちはじめる。ベルギー・テニス協会の選抜入りテストを間近に控えるなか、クラブに所属する全選手を対象にジェレミーについてのヒアリングが行われ、彼と最も近しい関係だったジュリーには大きな負担がのしかかる。それでも日々のルーティンを崩さず、熱心にトレーニングに打ち込み続けるジュリーだが、なぜかジェレミーに関する調査には沈黙を続ける……。」 Twitterへは「背景や出来事、人物がよく分からない。そのうちクリアになって、人間ドラマが始まるかと思いきや、そうならず。最後までよく分からないまま、ダラダラとテニスの練習風景ばかり。公式HPのあらすじを見て、へー、そういう話しだったのかと。」 ↑のあらすじの「テニス・アカデミーに所属する15歳」「その実力によって奨学金を獲得し、いくつもの試合に勝利してきた」は説明されていない。「彼の教え子であるアリーヌが不可解な状況下で自ら命を絶った」もさらりとしか話されない。「ベルギー・テニス協会の選抜入りテスト」も、テストを受けている様子は映るけど、説明はない。「全選手を対象にジェレミーについてのヒアリングが行われ」についても、面談があるとか言うことはわかったけど、曖昧にしか分からない。「彼と最も近しい関係だったジュリー」ってのはそうだったの? 「ジュリーには大きな負担がのしかかる」というのは、なぜに? 「なぜかジェレミーに関する調査には沈黙を続ける」は、いいたくない、といってる様子は映ったけど、頑なでもなかったし、強制的にいわせようともしてないように見えた。そもそも、他の生徒が話したのかどうかも分からない。 という具合で、こんな説明不足の映画で何かを感じてもらおうということ自体が間違っている。この映画を評価している人は、おそらく事前に解説を読んだんだろう。あるいは、見終えた後に読んで、あー、そうなのか、って納得しているのだろう。私は、納得はしない。こんな映画は糞である。 いろんな映画があっていい。しかし、映画は、映し出されるものがすべてだ。解説を読まないと分からないようでは、明らかに、足りない、としか言いようがない。たとえば、この映画。コーチのジェレミーが指導停止になった理由とか、アリーヌが自死した理由は分からなくてもいい。そこを考えさせるのも映画だからだ。しかし、考えさせるための要素が不十分では、考えることはできないではないか。この手の思わせぶりな映画をつくって悦に入ってるのは、アホである。読み、推理、想像すらもできないような状態で、完成品です、と提示されても困るだけだ。そんな映画はクズでしかない。 どっかの高校生で、課外活動or地元のテニスクラブでテニスもやってる娘、と思っていた。授業の途中に、理学療法に行くから、と抜け出したり。試験中に呼び出され、ジェレミーのビデオを見せられたり。なんでそんなことが学校で行われるの? と疑問に思っていたけど、なんだよこのテニス・アカデミーって。プロ養成所なんか? それでテニス優先なのか? それと、この手の映画で多いのが、会話に名前が登場すること。それも、画面に登場していない人物の名前がバンバンでてくる。この映画でも冒頭、生徒たちが「ジェレミーがこない」とか騒いでる。シチュエーションが分からないので、なんのことやら。この時点では友人か何か? と思っていたけど、そのうちコーチらしいと分かるけど、このジェレミーはちゃんとしたかたちでは最後まで登場しない。ジュリーがカフェであっていたのはジェレミーなのか? という疑問はあるけど、はっきりしない。あとは、小さく、告白みたいな映像で出るだけ。なんだよ。 ほかにも、バッキーとかソフィアとかイネスとか。だれ? な名前が会話にでてくる。こういうのはホント、イラつく。まあ、あとからバッキーは後任(もとからいたのか?)コーチで、ソフィアは立場は分からないけどオバサン。イネスっていうのは、同級生みたいなものなのか? 豪邸でテニス遊びとかしてたのは、イネスの家、だったかな。しかし、このイネスって娘の存在意味はあるのか? 豪邸もだけど。 でまあ、確実なのは、アリーヌが自死した。ジェレミーが指導停止になってでてこなくなった。生徒に面談が行われることになった。以上だけだ。何があったのか、ほのめかしも、最後までない。面談についても、これが面談、というような場面はよく分からない。ジュリーが両親らしい人と、ソフィア? らしいオバサンと、もうひとりいたかな、な感じで話している場面があったけど、あれが面談なのか。でもごくフツーな会話で、緊張感はまるでない。ジューリーが感情的になることもないし、嫌がってもいない。でも、話したくない、な感じ。両親もスタッフも、話させようと強制的な雰囲気もない。なんだよ。 ジュリーがジェレミーと親しかった、というのも、そういう場面がないので分からない。指導者と教え子という関係でなのか。私的な関係で行きすぎがあったのか。も、分からない。ジュリーが個人的にジェレミーが好きだった、ような雰囲気もない。 半分寝ながらスマホで会話してた相手はジェレミーだよな。あと、試合かなんかで父親だかバッキーに送ってもらうとき、スマホでチャットしてたのも、ジェレミーだろ。まあ、そんなことは誰とでもするだろうしなあ。でも、後半になって、ジェレミーが移籍したと知って驚いていたのはなんで? 移籍のことは会話の中で話題に上らなかったのか。ヘンな関係。 でまあ、後に試験中に呼び出され、ジェレミーの言い訳映像みたいのを見せられるんだけど。なんでジュリーだけなの? 一番親しかったから? でも、べつにジュリーに言及していたわけじゃないだろ? というか、そもそもあのジェレミーの映像は誰が撮ったんだ? あの学校での話し合いかなんかで? クラブが僕を悪者仕立ててるとかなんとか、意味不明なことを話していたけど。 という間に、淡々と練習風景が写る。バッキーはジュリーの腕を買っているのか、他の生徒の見本のプレーをしてくれ、とかいわれ、嫌々やってたり。なぜか、練習に遅刻してもバッキーが怒らないので、他の生徒が「私たちには罰を与えるのに!」と抗議したりしている。ジュリーは特別扱い? 本人は迷惑顔だけど。 テニスの場面は本人がやっているので、よほどテニスになれた役者がやっているのか。テニスプレーヤーに演じさせているのか。にしても、練習場面ばっかり多くて、辟易。人間ドラマを見せろよ、と。 でも、最後は、警察に行ったような場面があったような。字幕をちゃんと追えなかったんで、はっきりせんけど。でも、そのせいでジェレミーがどうなったか、とかはまったく描かれず。エンドロールの最後の方に、淡々と、普段通りに筋トレしてるジュリーが映って、オシマイ。なんなんだよ。 ・ジュリーの両親も、はっきり出てこない。家庭が映らず、どういう家庭環境なのかも見えない。不親切すぎ。 ・協会のテスト? とかいうのが2回ほど出てくる。何なんだ? あらすじには「協会の選抜入りテスト」とあるけど、説明は一切ない。2度目のとストでは、「最後までできなかった…」というから落ちたのかと思ったら、合格者3人に入っていた。このエピソードって、本質に関係あるのか? ・クラブ対抗試合? とかいうのもあって、他のクラブの選手たちと会話を交わす場面があった。まあ、コーチが首、というのが広まっているのを知らせたかったんだろうけど、噂の中味には触れていない。なんなんだよ。もやもや。 その他、よくわからん場面が盛りだくさんで、人に見せるレベルではないね。 | ||||
| ワン・バトル・アフター・アナザー | 10/20 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/ポール・トーマス・アンダーソン | 脚本/ポール・トーマス・アンダーソン |
| 原題は“One Battle After Another”。公式HPのあらすじは「最愛の娘と平凡ながら冴えない日々を過ごす元革命家のボブ。突然娘がさらわれ、生活が一変する。異常な執着心でボブを追い詰める変態軍人“ロックジョー”。次から次へと襲いかかる刺客たちとの死闘の中、テンパリながらも革命家時代の闘争心がよみがえっていく…。逃げなければ、生き延びられない。だが、娘を救わなければ、父では居られない…!! ボブのピンチに現れる謎の空手道場の“センセイ”の手を借りて、元革命家として逃げ続けた生活を捨て、戦いに身を投じたボブと娘の運命の先にあるのは、絶望か、希望か、それとも…」 Twitterへは「これは、ふがいない米国リベラルへの応援歌なのか? キモサベー、ヒルビリー、ヴァン・ヘイレン作戦…。会話にでてくる小ネタが楽しい。気がつかないのもふくめて、分かったらもっと楽しいに違いない。」 冒頭からの反権力テロ活動、そして、さらわれた娘を奪還しようとするボブ。追う、ロックジョー。の流れは波瀾万丈めまぐるしくて飽きない。のだけど、そもそものところで疑問があるので、手放しでは賞賛できないところがあるんだよね。それは、ボブの女の存在のあやふやさだ。テロ活動してるときは鉄の女な感じだった、んだが。あるときロックジョーに現場を押さえられてしまう。経緯は詳しくは分からんのだけど、オレの女になれ…、てなことをいわれたらしい。 このあたり、ロックジョーと女が性的関係にあるのか、いまいちはっきり描かれない。たんに変態行為だけしてるのかな? とも思ったんだけど、そのうち女の腹がふくらんできて。でも、これはボブの子どものように描かれているので、ロックジョーのことは考えていなかった。 テロ活動は銀行強盗にまで発展し、女は「動くな」といって制止した男がいうことを聞かないので射殺。おいおい。簡単に撃っちゃうんだな。とか思ってたんだけど、結局、逮捕されてしまう。で、刑務所に入ったら当分でられない、仲間の情報も吐けといわれ、とくに拷問もされていないのに簡単に仲間を売ってしまう。この軽さはなんなんだ? 仲間がどんどん逮捕され始め、ボブは幼子を抱えていずこかに逃走。そして、15年だか16年たって、娘は成長し、オヤジとなったボブはのんびり酒浸りな日々。 女の方は、証人保護プログラムみたいな感じで、どっか別のところに移住したのかな。このあたりは詳しく描かれなかった。もしかして後半で彼女が「実は…」な感じで話を大逆転させるような存在になるのかなと思ったら、そうもならず。彼女がどうなったかも描かれない。もっとキーパーソンな働きをするかと思っていたのに、腰砕けな感じ。というところまでは序章でしかなくて。本編は、この後の、件の女の娘=ウィラがさらわれ、それを追うボブのドタバタコメディみたいな追撃ドラマなんだけどね。 でまあ、ずっと分からなかったことがあって。なぜロックジョーはウィラの行方を探り出し、誘拐したのか、だったんだよね。もやもやしてたけど、その理由は後半になって分かる。つまり、ロックジョーは白人至上主義のグループに加入したくてしたくて。やっと加入はできたけど、心配事があった。あのとき、女が孕んだのは俺の子か、ボブの子なのか。もし自分の子どもだったら、グループに加入できないどころか、排除されてしまう。なので、その真偽を明らかにしなければならなかった、のだ。なるほど、その理屈はわかった。けど、ロックジョーは、性癖として非白人との性的交渉を抑えきれないにもかかわらず、黒人との接触すら嫌悪するような白人至上主義のグループに入りたかったのか、なんだよね。これは、謎のまま。なので、いまいち話が終わってもスッキリしないところではある。 これが基本的な話の構造。で、ウィラが誘拐され、ボブが追跡する過程のあれやこれやは、実はあんまりよく覚えてない。ジェットコースター的な展開で面白かったけど、なんか記憶に残んないんだよな。 でまあ、確保したウィラの唾液から、携帯用のDNA判定機で検査。すると、自分の娘であることが判明する。これがバレるとマズいので、ウィラを殺し屋に渡し、処分するように言うんだっけか。でも、殺し屋はどっかへウィラを連れていって。でも、なぜか心変わりしてウィラを殺さない。どころか、連れて行った先の連中を撃ち殺すんだけど、自分もやられちゃったんだっけ? で、ウィラは結束バンドをされたまま殺し屋のクルマで逃走する。 それと前後して、白人至上主義の幹部が、別の殺し屋を雇ってロックジョーを狙うんだっけか。クルマで並走し、ライフルで撃たれたロックジョーは道路脇に落下するんだったよな。そのロックジョーのクルマを、ボブが確認。死んでいる、と思ったらしい。観客もみな死んだ、と思ったはず。 白人至上主義に雇われた殺し屋が、ウィラのクルマを追走。この場面の、道路のアップダウンが面白い。ほんとうはゆるやかで距離も長いんだろうけど、望遠で撮影しているので、急峻なアップダウンに見える。ウィラのクルマが追いつかれる…! と思ったら、なんと。坂を上がりきったところにウィラはクルマを止めていて、殺し屋のクルマがオカマを掘るようにぐしゃ。這い出てきた殺し屋に、ウィラが銃弾を浴びせる。というところに、タイミング良くボブがやってきて、再会。…という展開だったように思うんだけど、ボブはウィラがどこに居るのかとか、分からんと思うんだけどな。殺し屋も、あのクルマにウィラが乗ってるとか、わからんだろうに。このあたりは、なんか、ご都合主義で展開していて、観客は騙されてる感じ。 死んだと思ったロックジョーは傷だらけながら生きていて。白人至上主義の幹部たちに、部屋を与えられる。満足そうに机に脚を乗せリラックス。と、上から殺人ガスが…。で、焼却炉で処分されてしまう。という場面だけど、焼却炉に入れるとき、足から入れられてるのに、窓からロックジョー顔が見えるのがヘンだろ。ところで、ロックジョーは実は黒人女と関係していた、って、どうやって知ったんだっけ? で、元のように父娘で暮らしはじめたボブとウィラ。なんだけど、どーもウィラは反権力のテロ組織に加入して活動しているような雰囲気。ボブはそれでいいのかね。心配じゃないのか? まあいいんだが。 ・しかし、金権力テロ組織を主人公にした映画ってのも、トランプ政権で右傾化が進むアメリカで、よくやるね。低調なリベラル諸氏への、がんばれ! メッセージなのかね。 ・組織が使う合い言葉が笑える。3つの言葉を組み合わせたような感じなんだけど、「じゃじゃ馬億万長者」とか入ってて。このテレビ番組のオリジナルタイトルは“The Beverly Hillbillies”。トランプ政権の副大統領ヴァンスはヒルビリー出身で、『ヒルビリー・エレジー』という著作もある。ってのを考えると、おちょくってるのかと思えてくるし。 ・ほかにも小ネタがたくさん。取締側の警官のいう「ヴァンヘイレン作戦」とかもそう。ウィラの空手のセンセーはボブのテロ仲間なんだけど、逃走するボブを「キモサベ(相棒、と字幕がでていた)」と呼んでいたのも笑った。『ローン・レンジャー』にでてくる言葉だ。こんな古い言葉が、まだ生きてるのか。 ・ロックジョーは警官らしいんだけど、途中で登場したときは軍服みたいのを着ていて。警察の組織がどーなっているのか、よく分からない。どんどん出世していって、15〜6年で結構、エラくなってたようだけど。黒人の少女を探すとか、ボブは殺してもいいけどウィラは確保しろ、なんて命令を独断で下せるようになっているのは、不思議というか、部下の誰も「なんで?」と疑問をもたなかったのかね。 ・白人至上主義のグループのお偉方は、ロックジョーを認めて、加入させるんだけど。それでロックジョーはうれしいのかね。黒人好きという性癖はともかく、自分は白人至上主義者でありたい、そう見られたいという二律背反。そういう人が少なからずアメリカに入るということか。白人の中にも、隠れ黒人好きがいるんだよ、ってことなのかね。 | ||||
| グランドツアー | 10/23 | ル・シネマ 渋谷宮下 9F | 監督/ミゲル・ゴメス | 脚本/マリアナ・ヒカルド、テルモ・シューロ、マウリーン・ファゼンデイロ、ミゲル・ゴメス |
| 原題は“Grand Tour”。公式HPのあらすじは「1918年、ビルマのラングーン。大英帝国の公務員エドワードと結婚するために婚約者モリーは現地を訪れるが、エドワードはモリーが到着する直前に姿を消してしまう。逃げる男と追う女の、ロマンティックでコミカルでメランコリックなアジアを巡る大旅行の行方は…。」 Twitterへは「ポスターは意味ありげな男女が対峙。HPには「逃げる男と追う女の、ロマンティックでコミカルでメランコリックなアジアを巡る大旅行」とあるからドタバタコメディかと思ったら…。2人が同一フレームに収まる場面はない。ほぼ環境映像だったので寝た。」 4〜50年代の無声映画のようなモノクロ風に、線路を挟んで男女が並んでいるチラシ。男の方は、左手の女性に目を向けている。「逃げる男 追う女」というキャッチフレーズ。これを見て、ああこれは活劇映画よろしく、追いつ追われつのドタバタ映画なんだな、と思い込んでしまった。ところが、内容は全然違うものだった。 冒頭は、人力の観覧車。その後も、メインのストーリー(モノクロ)のあい間に、インドネシアっぽい影絵とか、どこの国か分からんあやつり人形とかがカラーで挟まる。何の意味だかよく分からず。これは、カラー。 そのあと、モノクロになって、マンダレーからビルマの港湾都市にやってきた男がいて、そこで知人に遭遇。話をしながら仕立屋にスーツの寸法を取ってもらう。知人の従妹とエドワードは婚約していて、でも結婚しないまま7年が過ぎた、らしい。その彼のところに電報がとどいて、件の彼女がビルマにやってくる、という。てな流れ。その後、男はシンガポールからタイへ。このあたりで列車転覆事故に遭うけど、べつに問題なし。そしてベトナムを経由して日本に行き、中国(重慶だったかな)へ。合間合間にドキュメンタリーらしい現地の風景が写るんだけど、ストーリーには関係ない。だらだら見ててもドラマがないので、ちっとも面白くない。ので、いつしか沈没し、目覚めてまた見て、また沈没して…。 そもそも↑のあらすじのようにエドワードが「大英帝国の公務員」であることは、説明あったのか? 何の目的で旅をしているのかが、まず分からない。エドワードは婚約者モリーから逃げているらしいけど、なぜなのかは分からない。つまり、結婚したくない理由が分からない。それに、追われている感じもない。たまに電報が届くぐらいか。この電報も、モリーはどうやってエドワードの居場所を先取りして打てるのか、意味不明。しかも、ずうううううっと登場するのはエドワードだけで、モリーは登場しない。だから、追いつ追われつも、好きよ嫌いもない。これじゃ寝ちゃうような。「カンヌ国際映画祭で監督賞」らしいけど、どこがどう評価されたのかね。不思議。 と思っていたら、突然、主役交代。モリーが登場してきて、ミャンマーの港町かな。で、エドワードの行き先は? なんて訊ねていると、誰かが、シンガポールのなんとかホテル以外ない、とかいうようなことを教えてくれる。そうか。これをもとに電報を打っていたのか。にしても、テキトーすぎるだろ。てなわけで、前半でエドワードが残した足跡をたどるようにしてモリーも移動していくんだけど、これまたとくにストーリーもなく、地元の連中と会話したりとか、だったかな。もう忘れた。だって印象的なエピソードなんてないんだもん。 せいぜいモリーが病気で死にそう、とかいう話ぐらいかな。どういう病気で、なぜ病気なのにエドワードを追うのか、エドワードはモリーの病気を知っているのか? とかいうことは、よく分からず。最後は、森の中みたいなところでモリーが倒れて…。あれは息絶えたのか? と思ったらカメラがアップしていって、上方でカメラを下に向けている撮影スタッフが映る。そして、モリー。モリーは立ち上がって、森(これはスタジオの中なのか?)から移動していく…。で映画は終わる。そして、“ビヨンド・ザ・シー”が流れる。ボビー・ダーリンじゃないと思うんだけど…。で、歌詞を見てみたら、この映画とは違って、男が女を待っている歌だった。話が違うんじゃない? ・ミャンマーで仕立てていたスーツは、どうなったんだ? | ||||
| はじまりへの旅 | 10/26 | シネマ堀切 | 監督/マット・ロス | 脚本/マット・ロス |
| 原題は“Captain Fantastic”。Wikipediaのあらすじは「ベン・キャッシュとその妻レスリーは、6人の子どもたちとワシントン州の森の奥深くに住んでいる。資本主義とアメリカ人の生き方に幻滅したベンとレスリーは、子どもたちにサバイバルの技術と哲学を教え込む。社会から離れ、ベンとレスリーは子どもたちを育てることに身を捧げる。批判的思考ができるよう教育し、肉体的に健康で活発であるように訓練をさせる。そして、森での生活を通じ、テクノロジーに頼らず自然と共生することの素晴らしさを身をもって体験させる。しかしながら、レスリーは双極性障害によって入院し、最終的には自らの命を絶ってしまう。ベンは妹のハーパーからこの事実を知らされる。葬儀の手配についての話し合いがもたれるが、義父のジャックとベンは言い争いを始めてしまう。レスリーの遺志に従いベンは火葬を執り行いたいが、ジャックは土葬にしたいと言う。結局土葬が行われることになり、ベンは葬儀への参列をしないことにし、子どもたちにそう伝えた。しかし、ベンは葬儀を台無しにしてやろうと決意し、子どもたちを連れ車での旅に出る。そして、子どもたちは初めて森の外の生活を体験する。」 Twitterへは「久しぶりの2度目。反権力はいいけど泥棒はダメだろ。とか、アーミッシュみたいに15歳ぐらいで、子供たちに森の生活がいいか世俗がいいか選ばせるとか、してもいいような気もするな。まあ、最後はなんとなく折り合いをつけるんだけど。」 2度目。シネマ堀切といっても名前だけで、映画館ではなく個人宅でのBlu-ray鑑賞。 サバイバルな一家が…。ぐらいしか覚えておらず、8割方忘れていた。ちょうどいい感じで見られた。そうか、そういう話だったのか、と。で、前回は星4つの高評価にしたんだけど、そこまではないな、という感じ。そこで今回は星4つ半にした。で、ずっと考えていたのは、ベンとレスリーの反権力とか家庭学習とか自然農法とかサバイバルは、考え方としてはいいけど、親の考えを子供たちを半強制、刷り込みすぎだろ。で、比較対象に浮かんだのがアーミッシュで、Wikipediaによると「アーミッシュの子供は、16歳になると一度親元を離れて俗世で暮らす「ラムスプリンガ」という期間に入る。ラムスプリンガでは、アーミッシュの掟から完全に解放され、時間制限もない。子供達はその間に酒・タバコ・ドラッグなどを含む、多くの快楽を経験する。そして、18歳成人になる(ラムスプリンガを終える)際に、一年の間、アーミッシュのコミュニティから離れた後にアーミッシュのコミュニティに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択する事が認められている」という制度が設けられていることだ。ベンとレスリーも、子供たちに、森の生活か俗世間か、の選択肢を与えるべきだよなと思う。だって両親は俗世間で育ち、その後に森の生活を選ぶようになったのだから。俗世間を知らせずにいるのは隔離であって、信条にはならないだろう。ちなみに「ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる」らしい。であれば、この一家の主人も、自分の教育に自信をもつべきだ。それをしないというのは、自信がないからだといわれても仕方がないと思う。まあ、結果的に、つまりラストでは、ベンは森の生活を離れ、里山らしいところに一軒家を借り、自然農法なんかはつづけているけど、子供たちを学校に通わせる生活スタイルになっている。まあ、この映画の日本語題名は、こういう生活が始まるまでの、抵抗の旅、ということなんだろうが。 ・この手の反権力、反キリスト教、自然礼賛は、かつてのコミューン的な生活を継承しているんだろうか。でも、自由の国アメリカであってもそういう生活を続けるのはなかなか難しいんだろう。子どもの権利や福祉という考え方があるわけだし。ただの異端、カルト的な連中とみなされるのがオチだ。いくらベンが子供たちにチョムスキーの思想を教えたり、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』なんかを読ませたって、たんに頭でっかちになるだけだ。 ・知識だけの人間が現実に対応できない、のは、この映画でも表現されていて。長男がキャンプ場で出会った娘に勃起して、いきなりプロポーズするところだな。ま、こういう場面をちゃんと入れているのはバランスが取れていてよいのではないかと。とはいえ、あんなバカ娘と結婚しても、3ヵ月で飽きられる、飽きるに決まってる。 ・森の生活をすれば知識が増える? そんなことはないだろ。両親が知的でそのDNAを受け継いでいて、頭がいいから知識も吸収できるはず。6人も子供がいれば、半分ぐらいは、のーたりんだと思うけど、そういう子どもを登場させないのは問題かもね。 ・今回もまた、子ども6人の年齢順が分からず。長男と次男は分かるけど、長女と次女はどっちがどっちか分からない。下の、金髪の2人は双子? 男か女か分からない。しかし、レスリーはほぼ毎年のように妊娠して子どもを産んでいたのか。これまた自然主義だな。 ・映画の中でも触れられていたけど、一家の収入はどっから得ているのか? ベンが民芸品みたいのを卸してたけど、あんなんじゃ衣服や書籍やガソリンやその他の食料はまかなえないだろ。それに、ラストで一軒家を手に入れ、電気のある生活を始めている。どうやって手に入れた? レスリーの父親が援助してくれたとも思えないし、そんな援助ならベンは断っただろうから。 ・反権力も自然主義もいい。けれど、農家の羊を射て食おうとか(娘は、逃げない羊を射てずに失敗したけど)、スーパーマーケットで仮病を使って子供たちに万引きさせたり、はいかんよな。泥棒を正当化するのは、よくない。それはサバイバルではない。 ・レスリーは仏教徒で、遺言で火葬を要求していた。らしいが、仏教がみな火葬というわけではないだろ。これは誤解からきてるのか。しかし、いったん墓地に埋められたレスリーの遺体を掘り出し(というのは、発覚するだろ。そこんとこ、曖昧にしてる)、どっかで火葬にしてたけど(あのときの娘たちの衣装や飾りは『ミッドサマー』(2019)を連想してしまった)、あんな火力じゃ人間は灰にはならんだろ。燃えたとしても、材木とどうやって区別するんだよ。で、空港のトイレに流すんだけど、いくら遺言だといってもトイレに流すのはなあ…。せめてどっかの海にすりゃあいいのに。とか思った。しかし、現在のアメリカで反キリスト教をこんな大々的に映画にはできんだろ。信者に攻撃を受けそうだ。 ・よく分からんのが、次男の態度かな。俗世間にあこがれ、ベンに反抗。「義父の家で暮らす!」といっていたのが、いつのまにか心変わりで、母親の盗掘には陽気に参加し、ラストでは里山生活にも参加していたのは、どういうきっかけなのか? ちょっとご都合主義に次男を使いすぎではないか? 彼ぐらいは俗世間を選んだ、という終わり方でも良かったような気がする。 ・長男はMITやアイビーリーグに合格してたけど、試験のないはずのアメリカで、どうやって合格できたのか? 母親が段取りをくんで、試験を受けたみたいなこともいわれていたけど、内申が重視されるんだろ? あんな森の生活で、アピールすることはないと思うんだけど。 ・ベンも、義父の家で娘の1人が怪我しただけで意気消沈。すごすごと義父の家にやっかいになる、という展開は、なんだかな。あれだけ反目してたのに軍門に降るとは。それとも、レスリーの盗掘をしやすくするための作戦だったのか? で、2017年の初見のときに書いた感想文を読み返してみたら、↑と同じようなことを書いていたよ。やれやれ。 | ||||
| 8番出口 | 10/27 | 109シネマズ木場シアター4 | 監督/川村元気 | 脚本/平瀬謙太朗、川村元気 |
| 公式HPのあらすじは「地下鉄の改札を出て白い地下通路を歩いていく。天井には【出口8】の看板。しかしいつまでも出口に辿り着くことができない。何度もすれ違う同じ男に違和感を感じ、やがて自分が同じ通路を繰り返し歩いていることに気付く。そして壁に掲示されている、謎めいた【ご案内】を見つける。通路のどこかに【異変】があれば引き返し、なければそのまま前に進む。【1番出口】【2番出口】【3番出口】…正しければ【8番出口】に近づき、見落とすと【0番出口】に戻る。次々と現れる不可解な異変を見つけ、絶望的にループする無限回廊から抜け出すことができるのか?」 Twitterへは「ホラーらしいけどちっとも怖くない。中盤は単調で退屈。早く気づけよ! なんでオッサンに訊かない? イライラのち少しウトウト。少年は自分&子供の象徴? 責任感と正義と、迷ってぐるぐる思考してるアナロジー。なんか教訓くさいところも、なんだかな。」 近くの席がうるせーなー、と思っていたんだが。映画が終わって明るくなったら、あちこちに小学生らしいのがおった。原作はゲームらしいので、それでガキが見にきているのか。でも、映画の内容は子どもには難しいのではないのかね。 地下鉄車内。赤ん坊が泣いている。近くの男性客が「うるさい! なんとかしろ。みんな迷惑してるんだ!」とキレている。それに気づきながらも無視し、列車を降りて通路を歩く。女性から電話で、「いま病院。妊娠した。どうする?」と。別れ話が成立している元カノから。動揺しつつ、勤務先へ向かうが、通路から次第に人がいなくなり、最後にすれ違うのがヘンなオッサン。角を曲がると、また同じ場所に…。というところまでは、いい。その後の、迷路に迷い込んだ男の反応が、ヘンすぎだろ。2度目3度目も同じ通路で同じポスター、同じオッサンとのすれ違いで、こりゃおかしい! って、フツーの心理ならうろたえるだろ。なのに、何度もループしてるのに、戸惑いつつ前に進む。そりゃゲームならそうせざるを得ないかもだけど、これは映画だ。生身の人間が演じている。なら、生身の人間の生理的な反応が描かれないと。 ループして、同じところに戻ると、出口番号が0になったり、1や2に変わっている。そして、表示板に「異常があったら引き返せ」と書いてあるのを発見する。しかし、この表示の変化だってそうだ。これも、異常現象だろ。でも、この変化は、映画で言われるところの「異常」にはカウントされない。なので、イライラしてくる。 そして、何度も何度も同じオッサンにすれ違い、同じポスターや消火栓、排水口や扉を確認していく。この現実離れした世界に迷い込みながら、とくに頭も混乱せず、男は指示通りのゲームをつづける。なんかなあ。飽きるよ。ドラマがなさ過ぎ。 なので、ときどきヘンな演出をする。すれ違うオッサンが背後にへばりついて笑っているとか。得体の知れない、オバサン顔の女子高生に絡まれるとか。猫が通り過ぎるとか。天井から血のような液体が垂れるとか。男はそういうのに影響されず、あいかわらず歩きつづける。そんなことせず、聞けよ。オッサンとか女子高生とか少年に、どこに向かっているのか? とか。あるいは、ついていって一緒に行動するとか。フツー、そうするだろ。でも、しない。あいかわらずポスターや消火栓、排水口や扉を確認していく。一度だけ、ポスターの人間やイラストの目が動くときがあったけど、たんにそれだけ。なんの伏線にもなってないし、闇も訪れない。 突然の洪水に見舞われるときもあったけど、あれは、少年と一緒の時だったか。でも、あれは単なる幻覚なのか。でも、なんの伏線にもなっていない。 かと思うと、オッサンが主人公のパートもあって。ここではオッサンはフツーの人間的な反応をし、少年と絡んで行動する。で、なぜかオッサンは出口にたどり着き、地上に上がっていく。少年に、一緒にでよう、と誘うけれど、少年は断る。このパートの意味が不明だ。 つぎの少年のパートでは、少年は男と行動を共にするけれど、ここにもオッサンがまたまた登場する。そして、以前のあの場面を少年の視点で描いているのかな、というような場面も登場する。しかし、時制や視点の違うその場面をあわせてみても、とくに何も解決はしないようだ。なんか、中途半端な思わせぶりばかり。これじゃ知的で合理性のある謎解きにはなってないだろ。 異様な声が聞こえたり、突如停電したり、なんだかんだあるけど、たんに散漫なだけなんだよね。 で、とつぜん、男は子どもと浜辺にいて。女がいる。女は男の元カノのようでもあり、はたまた母親のようでもある。おとこが少年に「お母さんは?」と質問した場面があったけど、「お母さんを知らない」と応えていた。それに男も「僕もなんだよ」といっていたけれど、男は孤児なのか。ということは、少年と男は同一人物で、幼い日の自分と出会っている、という解釈もできる。で、元カノの妊娠を知らされ、動揺し、心のループにはまり込んだ状態を、地下鉄通路の迷路に喩えていると見ることができる。っていうか、アナロジーとしてはミエミエかつ露骨すぎて深みがなさ過ぎて面白くもなんともない。 で、最後、男は、どういう異変をみつけて辿り着いたのか覚えてないけど、8番出口にたどりつく。のだけれど、あの無表情なオッサンが見つけた出口とは違っている。オッサンが見つけたのは、通路の奥にあって、階段を上がると地上が見えていた。けれど、男がみつけた出口は、さらに下っていって、他の乗り換え表示があるようなところなのだ。地下の階層が、なんかあってないような気がするんだが、いいのか? で、病院に行くために乗り込んだ車両で、冒頭と同じ事件が起きる。すなわち、赤ん坊が泣き、男が怒鳴りつける。しばらくそのままにしていたけど、男はイヤフォンを取って、男の方に身体を動かす…。というところで終わる。たぶん「そんな怒鳴らなくても。赤ん坊なんだから」とか注意に行く、ということなんだろう。正義感が目覚めた、というところか。これまた、元カノの妊娠からの影響なのか。 でまあ、男が迷い込むのは、元カノが妊娠したということを聞いて悩み始めたことの象徴なんだろう。で、抜け出せたのは、自分なりに解決策を見出したということなんだろう。その解決策は、なにか。それが、ラストの、泣きわめく子どもになり散らすオッサンに抗議、あるいはなだめに行く、ということが示しているのではないか。それで、元カノとよりが戻るのか? いや、よりが戻るとも思えないけど、子どもは堕ろさずに生むのかな。でも、ひょっとしたら、ヨリが戻るのかな。でも、そんな結婚はすぐ破綻するよな、などと、いろいろ想像させる終わり方かな。でも、この教訓臭さが、分かりやすすぎて安っぽい気がしちゃうんだよな。 ・ところで、男がループに嫌気が差して放り投げたカバンはどうしたの? 拾いに行かなかったよね。 | ||||