2025年10月

ファンファーレ!ふたつの音10/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/エマニュエル・クールコル脚本/エマニュエル・クールコル、イレーヌ・ミュスカリ
原題は“En fanfare”。公式HPのあらすじは「世界を飛び回るスター指揮者のティボは、ある日突然、白血病と診断される。ドナーを探す中で、自分が養子であること、そして生き別れた弟ジミーの存在を知る。かつては炭鉱で栄えた町は今は寂れ、仲間との吹奏楽団が唯一の楽しみであるジミー。すべてが正反対の二人だが、ティボはジミーに類まれな音楽の才能を見出す。これまでの運命の不公平を正そうと、ティボはジミーを何がなんでも応援することを決意する。やがてその決意は、二人の未来、楽団、そして町の人々の運命をも思いがけない方向へ動かしていく」
Twitterへは「白血病と診断された指揮者が生き別れの弟を見つけ、骨髄移植…。が大半の話かと思ったらそれは序の口だった。ジャズあり楽団あり工場閉鎖あり、あれやこれやがテンポよく進む。ラストも感動的。」
ちゃらい話かと思ったんだけど、テイストはそうでも描かれているあれこれは、医療の問題、社会不安、労働者、炭鉱閉鎖、養子問題、などなど多様。重く描かれてはいないけど、現代の諸問題をつまみ食い的に俯瞰していて意味があると思う。
ところで、予告編からは、存在を知らない兄弟を発見して骨髄移植、の話をテーマにしているのだと思っていたんだけど、この話題は冒頭の15分ぐらいでさっさと終わってしまう。だから、骨髄移植のために病院で苦労する話もなく、カットが変わったらもう移植が済んでるのだから、ちょっとビックリ。なるほど。こういうテンポでどんどん話が展開していくのか。この切れ味と、だらだらと情に拘泥せずドライに突っ走っていく姿勢は、なかなかいい。
では、どういう話になるのかと思ったら、なんと離れて育ちながらも、弟のジミーも地元の炭鉱楽団でトロンボーンを吹いていて、ジャズ、とりわけクリフォード・ブラウンが好きだとか、ディボと趣味嗜好が似ているというのが面白い。とはいえ、地元の産業は壊滅状態で、工場は閉鎖寸前らしい。…というところが、よく分からないのがもやもや。というのも、楽団は炭鉱楽団なのに、働いているのは工場? この工場は何を製造しているのだ? 炭鉱は、もうないのか? というあたりの説明がないので、イラつくんだよな。もしかしてもう閉山していて、そこに新たに工場がつくられたけど、ここも経営不振で工場閉鎖が目前。それで、労働者が団結し、戦っている、のかな。でまあ、楽団はむかしからの名前でやっている、と、そういうことか?
そんな楽団で指揮を担当していたやつが、会社の指示で移動になって。指揮者をどうしよう、ということになるんだが、ジミーは推されても嫌だ、の一点張り。なんだけど、この、ジミーが指揮は嫌だ、の理由も描かれないので、ここもちょっとイライラ。
なわけで、ティボも忙しいなか、炭鉱楽団の指揮の練習を手伝ったりするんだけど、まあ、そこまで。本格的にはサポートできない。このあたり、命を救ってもらったんだから、もうちょっと支援してやればいいじゃないか、とは思うんだけど、元気になると病気のときのことは忘れちゃうものだからな、人間って。
ティボとジミーの仲も良好で、最初は骨髄移植についても、なんで知らない兄のために、とかいってたジミーも、結局はいいやつだった。最初は、仲違いするかなと思ってたんだけどね。そうそう。2人がなぜ別々の家の養子になったのか、についても、なんとなくアバウトな説明だったな。ジミーの養子先では、兄もいることがわかって一緒に育てようとしたけど経済的にムリだった…だったっけかな。その逆だったかな。よく覚えてないんだが。
ティボはジミーに、人間には可能性がある、努力すれば上の世界に到達できる、てなことをいったらしい。それを信じてジミーは、どっかのオーケストラのオーディションを受けるんだけど、メタメタ。たまたま審査員にティボがいて。「分かっていたら止めた。みな毎日何時間も練習しているような相手だ」とかいうんだけど、「やればできるっていったじゃないか」ってな感じで諍いが生じてしまう、まあ、ティボは気休めに行ったんだろうけど、それをジミーは本気にしちゃったんだな。気の毒。その後も、「いいよな。お前は当たりクジを引いた。オレは外れクジだった」って拗ねてしまうジミー。気持ちは分かる。おれだってティボと同じ環境で育ったら、一流の音楽家になってた可能性が高い、って思うと、そうなるよな。
なわけで、ティボが指揮して、大会へ向けて練習し始めても、でてこなくなってしまったジミー。だけど、まあなんとか気を取り直して練習に顔を見せるようになり、いやだと言っていた指揮者も受け入れて。工場の調理場でお玉を手に指揮の練習をしていたりしたんだけど、その様子がSNSにアップされ、いざ大会の本番と言うとき、ライバルの楽団員に「お玉で練習かよ」と揶揄されて、大乱闘。結局、大会での勝利は消えてしまったのかな。
なので、というわけではないんだろうけど、ティボは工場でコンサートを開くことを提唱。演奏するのは、ボレロ。指揮は、ジミーだったかな。なぜジミーが指揮を受け入れたのかが不明なのはもやもやだけど。ってな最中、ティボは、白血病が再発し、公演をこなすのも息も絶え絶えになってきて、海岸でジミーに泣きつく…。
このあとだったか。工場閉鎖に反対していた面々の前で、強制的に工場がロックアウトされてしまう。工場再開はもうムリ。
いっぽうのティボは、これが最後の指揮? な感じでタクトを振り終わる。その静寂のなか、カッカッとタクトが手すりかなんかを叩く音がしてきて。これに唱和が始まる。ボレロだ。周囲の客は困惑しているけれど、指揮台のティボは気づく。炭鉱楽団の面々が正装してコンサート会場の二階にいて、ボレロをティボに向けて捧げていることに。あの、工場で演奏すると誓い合ったボレロを、この場でティボに向けて演奏しているのだ。この炭鉱楽団がリズムと朗唱で応える場面はとても感動的。おお、そうきたか、な感じだ。
感動的ではあるけれど、問題は何も解決していない。労働者たちにとっては工場が失われてしまった。ティボは病が再発した。絶望の中でのボレロ。ティボにとっての最後の指揮は、炭鉱楽団にとっての最後の活動なのかも知れない。そんな終わり方。夢も希望もないけれど、人の心は通い合っているということをつたえている、のかな。
・ジミーには、別れた妻との間に娘がいるんだっけかな。で、楽団員の中に、いい感じの彼女がいる。これは、ジミーの希望かな。
・でも、ティボの周囲には女性の影はないんだよな。まさか、あの、マネージャーっぽい女性が? なことはないよな。
テレビの中に入りたい10/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジェーン・ショーンブラン脚本/ジェーン・ショーンブラン
原題は“I Saw the TV Glow”。公式HPのあらすじは「毎週土曜日22時半。謎めいた深夜のテレビ番組「ピンク・オペーク」は生きづらい現実世界を忘れさせてくれる唯一の居場所だった。ティーンエイジャーのオーウェンとマディはこの番組に夢中になり、次第に番組の登場人物と自分たちを重ねるようになっていく。しかしある日マディは去り、オーウェンは一人残される。自分はいったい何者なのか?知りたい気持ちとそれを知ることの怖さとのはざまで、身動きができないまま、時間だけが過ぎていく…。」
Twitterへは「つまらないという噂なので寝るだろうと思ったらその通りで、前半からうとうと。間延びした展開、よく分からんテレビ番組、妄想? とか観念的なだらだらセリフ。話もよく分からん。キャラも魅力がない。こんな映画、よく公開できたな。」
いやほんとに、なにをテーマにしているのかも理解できなかったけど、話自体もよく分からなかった。あとから朝日新聞の映画評をみたら、「非現実さまよう若者の自分さがし」なんて見出しになっていて、へー、そうだったのか、な感じ。すでに見た人の意見でも「つまらなかった」があって、こりゃあ寝るな、と思っていたけど、始まってしばらくしてウトウト。覚めては寝ての繰り返しで、後半はちゃんと見たけど、それでも意味がよく分からなかった。これほど、どこも刺さらない映画を、よくもまあ公開したもんだ。シアター1は162席だけど、20人ぐらいしかいなかったから、つまらないという評判が広まっていたのかもね。
7年生(中一に相当)のオーウェンは、アフリカ系ではない黒人の血を引いている感じで、夜10時半からのテレビ番組「ピンク・オペーク」が気になってるけど、10時が就寝時間なので見られない。あるとき学校で陰気な女子マディに接近遭遇したら、彼女はその「ピンク・オペーク」の解説本を読んでいて、会話が始まる。マディは9年生(中三に相当)。見られないなら、うちに来なよ、と言われ、オーウェンは友人宅に泊まりに行くと母親に嘘をついてマディ宅へ。いくともう一人女子がいて、テレビを見てる。友人は帰り、マディはテレビのある居間で寝る。マディは「義父が戻ってくる前に帰ってよね」ということで、とぼとぼ帰路につく・・・。という、どーでもいい経緯をだらだらのらくら見せるんだけど、退屈すぎて退屈すぎて。「ピンク・オペーク」に登場するキャラも画面に出てくるけど、番組自体がどういうものかよくわからないし、番組のストーリーもよく分からない。2人が夢中になるぐらい魅力的で面白い番組である、って感じはまったくつたわってこない。マディがえんえん説明するような場面はあったような気もするけど、そんなの言葉で説明するなよ、絵で見せろよ、と思う。
でまあ、オーウェンはマディが録画したVHSビデオを借りてかもらってなのか、それで「ピンク・オペーク」をコンプリートするのかな。しかし、1話から順にではなく、話が前後したり再放送があったり、なにんがなんだかよく分からん始末。
で、2年後。マディは女友だちと喧嘩別れかなんかしてる。オーウェンの就寝時間は10時半になってたかな。でもやっぱりリアルタイムには見られないので、録画ししてもらってたのかな。にしても、15歳にもなろうという男の子がそんな時間によく寝られたもんだ。
「ピンク・オペーク」の番組のイメージは突然、フツーに登場するので、どれが番組なのか分かりづらい。たとえば毎回タイトルがでるとか、色が違うとか、なんか配慮してくれよ、な感じだよな。マディはどっかの街に引っ越すと言ってたり、マディの家でテレビが燃えるボヤ事件があったりしてたかな。
このあたりから記憶はまだら。またまた時間が過ぎて、何年後か知らんけど。マディがもどってきてオーウェンと再会していて、じつは「ピンク・オペーク」に出演していた、とかいうんだよ。では、それ以後の「ピンク・オペーク」の番組のイメージにマディが登場してたか? してなかったように思うんだけどな。マディの妄想なのか、嘘なのか。よく分からん。
でまた時間が過ぎて20年後と言うからオーウェンは50歳を過ぎているのか? 若い顔に老けメイクで、レストランだか、どっかの掃除(?)の仕事をしている、のかな。だれかお客(?)の誕生日で、ハッピーバースデーを謳っているけどオーウェンはよたよたで、調子をくずして倒れてしまい、トイレで吐いたのか、倒れている。なんとか立ち上がって…。なところで映画は終わる。だから何なんだ。どこが「非現実さまよう若者の自分さがし」なんだか? オーウェンは自分探しなんてしていたか? まったく無分からんな。この時代にはマディは登場せんし。
同じテーマでももうちょっとエッジの効いた感じでテンポよく、リリカルでメリハリを効かせれば、まだ見られたかもね。あんなだらだらした演出じゃだれだって寝ちゃうだろ。
・オーウェンとマディ以外には、オーウェンの母親がでてたかな。あとは、マディの友人。それも、ちらっとでてくるだけ。なんなんだ。
・マディは最初のときはゴスロリっぽいメイクで妖しく可愛いのか? と思ったら、2年後には髪を斬っちゃってて陰気な顔がもろ見えで妖しさゼロに。
LOVE10/7ル・シネマ 渋谷宮下 9F監督/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード脚本/ダーグ・ヨハン・ハウゲルード
ル・シネマ 渋谷宮下のHPのあらすじは「泌尿器科に勤める医師のマリアンヌと看護師のトール。共に独身でありステレオタイプな恋愛を避けている。マリアンヌはある晩、友人から紹介された男性と対面するが、子どもがいる彼との恋愛に前向きになれない。その後乗ったフェリーで偶然トールに遭遇すると、彼はマッチングアプリなどから始まるカジュアルな恋愛の親密性を語り、マリアンヌに勧める。興味を持ったマリアンヌは自らの恋愛の方法の可能性を探る。一方トールはフェリーで知り合った精神科医のビョルンを偶然勤務先の病院で見かけ…」
Twitterへは「監督。脚本ダーグ・ヨハン・ハウゲルード。死、愛、セックス、ゲイ、医療などをめぐって複数の人物がからみ合いつつ、オムニバスのように物語が展開する。驚くべきは脚本の巧みさで、こいつ誰だっけ? が全くなく、それでいて説明的ではないところ。」
冒頭で、女性医師が、ピンクの服を着た青年にガンの宣告をする。看護士の男に、「彼は分かってないと思う」といわれ、一緒に待合室に行くと、母親に「どうだったの?」と聞かれ、「よく分からなかった」と言っている。看護士は、ほらね、な感じ。女性医師は、今度は母親とともに診察室に2人を呼んで、話をしはじめる。というエピソードがあるので、ピンクの青年が重要なキャラかと思ったらそうではなかった。次の場面は、博物課課らしきところで、何人かの人を相手に話をしている女性の場面。ここで、話をしている女性の友人らしいのがいて、始めは分からなかったんだけど、彼女は医師で。冒頭の女性医師だと分かる。女性や市役所の職員のようだ。このあたりの人物紹介が、とても自然だ。
2人は、フェリーで対岸の町に行き、仲間うちの集まりに参加する。6人だったかな。なんのことかよく分からなかったけれど、だんだんはっきりしてくる。訪問先は鉱物学者の家で、離婚してひとりもの。なのに、元妻が隣家に住んでいて、娘が両親の家を行き来している。なぜ離婚したか分からないけど、妻の方はまだ十分に納得してない感じ。のちに分かるけど、鉱物学者にとっては、これは2度目の離婚らしい。市役所女は友人の女性医師と鉱物学者を出会わせ、仲を取り持とうという考えらしい。とはいえ、女性医師は、そこまで鉱物学者を気に入らない。…この鉱物学者の家で記憶に残るのは、役所の申請が上手く行かない、と嘆く黒人男性。それと、東洋系の顔をした女性も参加していたこと。
で、オスロに戻るフェリーで、女性医師は、知人に出会う。始めは分からなかったけど、冒頭にでてきた看護士だった。仕事中は髪をまとめているけど、普段はちりちりの髪でいるらしい。看護士は、ただフェリーに乗っているだけ、という。で、見せてくれたのはマッチングアプリで、実は彼はゲイで、マッチングアプリに登録している男性をフェリーで見つけ、その場かぎりのセックスをするのが目当て、らしい。フェリーはオスロについて、女性医師は降りていく。看護士は、乗り続けているのだけれど、ここで登録している男性を見つけ、接近する。彼は精神科医らしい。その後、看護士はこの男性を病院の近くで見つけ、とても具合が悪そうだった。でも、最後まで世話をせずに別れてしまう。で、再会したときだったかそのことを話すと、どうも精神科医はガン宣告されていて、落ち込んでいるらしい。
再度、鉱物学者のところを訪れた帰路だったかな。女性医師もマッチングアプリに登録したんだっけか。フェリーで出会った調子のいい男と接近し、そのままオスロの港で泳ぎ(泳げるのか?)、近くでセックスする。なかなかお盛んなことで。男は妻がいるけどアプリに登録していて、出会いを楽しんでいる、らしい。
このことを市役所女に話すと、せっかく紹介した鉱物学者とじゃなくて、そんな男とセックスしたの? と驚かれてしまう。「あなた、もっと冷静な人だと思ってたのに」「私は冷静よ。そして、自由なの」てな感じで返されてしまう。
なんて感じで淡々と話が進むんだけど、そこらの映画でよくあるみたいに、あれ? これ誰だっけ? というのが、ない。場面が変わっても、さりげなく、誰なのかが分かるようなフレーズをセリフに忍び込ませたりして、しかもそれが自然なので、説明的でない。そして、名前という固有名詞をセリフで言うだけで話が進むようなこともない。なので、こんがらがったりしないのだ。このシナリオの巧みさは特筆ものだ。
てなわけで、女性医師と看護士をベースとして、女性医師と市役所女、鉱物学者やその他の男、という話。看護士と精神科医の交流。というような感じで、完全に別れてはいないけれど、オムニバスのような感じで複数の話が織りなされる。しかも、結構な部分が対話劇になっている。でも、観念的で難しいとか考え込むとかもなく、淡々とだけれど、話が進んでいく。
なんだかんだいいつつ女性医師は鉱物学者の家に通い、セックスして。彼の方はウキウキで、結婚を前提に、というのだけれど、彼女の方は、結婚は考えない、と。その理由は分からないけど、女性医師にとってはこれも、マッチングアプリに似た感じの行きずりのセックスと考えているのか。自由なんだね。鉱物学者のように、つき合ってセックスしたら、次は結婚、とは考えていない様子。北欧でも、色んな考えの人がいるのだね。
看護士は、手術後の精神科医に、なぜかよりそうことになる。女性医師は、仕事と個人的なことは分けた方が、と言われたけれど、それでも買い物だの料理だの、細々と世話をする。興味深いのが、看護士が女性医師に言った内容かな。前立腺を摘出すると、セックスの快感がなくなる。そのことを患者に説明した方がいいのでは? ということだけど、つまりは精神科医にとって将来的に、セックスでの快感がなくなる、ということだ。そういうことに同情したのか知らんけど、フェリーで女性医師に話していたように、行きずりの相手とその場限りのセックスもする人間から、ひとりの患者に対する敬意というか、やさしい愛情を示すようになっていくことが興味深い。同じマッチングアプリを使いながら、人間の行動は変わっている物なのだな、と。
しかし、北欧の人間関係って、話題がオープンなのはいいね。職場の女性医師と看護士の間での、仕事に関するアドバイスとかも、看護士から医師に対して気軽にするし。看護士はゲイであることを公言している。女性医師と友人の市役所女も、セックスについて大っぴらに話している。日本では、ここまであけすけには言えないよな。
あと、それから。最初の方で鉱物学者の家にやってきた東洋系の女性は、どうやら市役所女の部下らしいことも、後のほうで分かる。それから、これは市役所女が話していたんだったかわすれたけど、役所業務がスムーズ行くように考えているとか何とか、の話題もさらりとでてたけど、鉱物学者のところで申請が分かりにくいと不満を漏らしていた黒人男の話を受けて、なんだろうな。
それと、後半で、看護士が見た風景としてでてきたんだっけか、わすれたけど。Uber Eatsみたいなデリバリー自転車たくさんでてきて、みなピンクのバッグなのは、冒頭の、ガン宣告を受けた青年を受けてのイメージなのかもね。いろいろ、こまかに話をフォローしているので、ストレスがなく見られたのはとてもよかった。
火の馬10/10シネマ ブルースタジオ監督/セルゲイ・パラジャーノフ脚本/セルゲイ・パラジャーノフ、イヴァン・チェンディ
Wikipediaのあらすじは「カルパチア山地のチョルノホーラ山系に住むフツル人の村で、パリイチューク家とフテニューク家が対立していた。パリイチュークの息子オレクサの事故死後、葬儀中の決闘でパリイチュークがフテニュークの斧で殺され、両家の確執が深まる。死の直前、パリイチュークは赤い火の馬が天を駆ける幻を見る。パリイチュークの妻はフテニュークの羊を呪う。対立の中、幼いイヴァーンはフテニュークの娘マリーチュカと出会い、親交を深める。二人は成長し、恋に落ち、結婚を誓う。マリーチュカはイヴァーンの子を妊娠するが、貧しいイヴァーンは羊飼いとして出稼ぎに出る。マリーチュカは村で羊を養い、星を見ながら互いを想う。ある日、マリーチュカは迷った子羊を救おうとして崖から急流に転落し、死体で発見される。イヴァーンは絶望し、乞食同然の生活を送る。村人は彼を哀れみ、新しい花嫁パラーフナを勧める。二人は結婚するが、イヴァーンの心はマリーチュカに縛られたまま。パラーフナは子作りを願うが、マリーチュカの霊が現れ、彼女は魔術師ユールコと不倫に走る。ユールコがイヴァーンの友人を傷つけ、決闘に発展。イヴァーンはユールコの斧で額を傷つけられ、マリーチュカの墓の十字架を幻視。彼女の霊(ルサールカ)に導かれ、川に転落して死ぬ。イヴァーンの葬送はフツル人の伝統的な歌と踊りで執り行われ、村の子供たちが窓から見守る。」
Twitterへは「Wikipediaによれば「ウクライナ詩的映画の代表作」らしいけど、脚本や演出は三流で、話がよく分からない。現地の風俗・衣装は興味深いけど、ドラマがないし、なんでそうなるの? な展開…というか、映画的文法を無視しすぎだろ。」
↑のあらすじを読んで、ふーん、話の設定はそういうことだったのか、と思った。というのも、映画ではほとんど説明されないからだ。映画だけ見てると、貧乏な家に生まれた、ちょっと頭の足りないイワンが、どうやら父を殺した家の娘と仲良くなり、長じて恋人同士になって。でも、貧乏なイワンは出稼ぎに行き、その間にマリーチュカは羊を助けようと絶壁を登ったせいで転落し、川に落ちて溺死。落ち込んだイワンだったけど、そのうちどっかの娘=パラフナと結婚するが、子供ができないパラフナは神に祈り、祈祷師にに頼るが、いつのまにか浮気女になって…。と思ったら、なぜかよく分からないがイワンが死んで葬式が行われる。オシマイ。な風にしか読めなかったんだよね。
なによりまず、脚本がへろへろで話がよくわからん。ヘンなカットつなぎの編集。ぎこちない演出。正直いってプロの仕事とは思えない。とはいえ監督のパラジャーノフは芸術的な詩的映画の巨匠と呼ばれているらしいので、首をひねるばかり。だって、詩情豊かな映画ではないのだから。もちろん、ちょっとは前衛的で実験映画的なシーンもいくつかはあった。たとえば、父親が殺される場面はカメラの前にガラスを置いてそこに血の赤が飛び散り、その赤が馬になったり、イワンが森の中を走る場面で強いコントラストでハイキーみたいになったり、顔を洗う場面を水の中から捉えたり(たぶんガラスのプールを使ったんだろう)とか、筏を空撮のように流れるように撮ったり。でも、筏のシーンには詩情をすこし感じたけど、それ以外はたんにトリッキーなだけで、とくに意味もなく思いつきでやってるだけ、にしか見えないのだよな。
カットつなぎも、冒頭の、イワンが兄を呼ぶ声、倒れる巨木(というには細かったけど)とかの場面は、カット尻がムダに長かったり、つなぎがスムーズでなく素人っぽくしか見えない。
それに、この場面ではイワンのバカさ加減しか感じない。イワンがノコノコ木が倒れるところに行ってしまい、それを助けるために兄が代わりに下敷きになったわけで。では、イワンは自分の過ちを恥じるかと思いきやそんなこともなく、脳天気。なんなんだ、こいつは。
ストーリー的にも、イワンの父がある男を「金持ちが偉そうに」とののしると、逆に襲われて簡単に死んでしまう。公衆の面前で殺人が行われ、司法は機能しないのか? とか疑問が湧くよね。兄の死の後で、どっかの少女とちゃらちゃら遊び、しかも、2人とも素っ裸で遊んでたりする。この監督はペドフィリアか? で、長じて後、その娘=マリーチュカは「私たちの家は対立している」とかいうので、もしかしてマリーチュカの家はイワンの父親を殺したやつの家なの? にしてはマリーチュカが両親や実家にいる場面はなく、娘がイワンと遊んでいることを知らんのか? バカか、と思ってしまう。
イワンの母親は、相手の家が没落し、羊もみんな死んでしまえ、と罵る。そして、みんな死んでしまった、と名前を呼び上げるんだけど、6〜7人いたのだが、それってみな子供たちなの? 残ったのがイワンだけってこと? 子供たちはなぜ死んだのか? 意味不明。
ところで、イワンは母子で貧乏家庭、と思っていたんだけど、住んでいる家はでかい。なんでなんだろ? と思ってたんだけど、もともとは村では勢力があった、ということなのかな。
でまあ、言わんが出稼ぎの間にマリーチュカは羊を助けようとして死んでしまうんだが、村人や母親が娘を探しているところに、なぜかイワンが現れるのはなんなんだ? 出稼ぎからタイミングよくもどってきた? で、次の場面では、マリーチュカの土まんじゅうの上にイワンが十字架を刺している場面なんだけど、え? マリーチュカの両親が弔うなら分かるけど、なんなん?
で、すさんだ生活で鬚ボウボウのイワン。このときは母親は亡くなっていたのかな。ところで、この頃、イワンが蹄鉄を打ってたらすり寄ってきた娘は、だれなの? 顔が東洋系で、後に結婚するパラフナとは違うよな。それとも、パラフナなの? でまあ、なんか知らんがパラフナという娘と結婚するが(式の様子は伝統的な感じで、へー、とは思ったけど、それを描く必要がどこにあるのか、疑問)、なんかマリーチュカを忘れられない様子。
子供ができないパラフナが夜、素っ裸で神に祈りに行くのは、ありゃなんなんだ? そういう因習があるのか。祈ってねパラフナに近寄り、襲おうとしたおっさんは、ありゃなんなんだ? 誰?
あとは、クリスマスか。ウクライナの結婚式は珍しいから興味深く見たけど、話としては、だからなに? レベルだな。物語的にはなんの進展も含みもないし。むしろ、人がいなくなった中庭で、女が男に襲われている場面があったんだけど、ありゃなんなんだ? クリスマスはタガが外れて夜這いの類が許されるとかあるのか? フォローするシーンがないので分からんけど。で、その夜だったか、イワンの夢かな? にでてきたのはマリーチュカなんだよな。いつまで恋々とめそめそしてんだよ、だよな。
パラフナは、祈祷師のところに行ったのは、あれは子宝祈願? で、その後、イワンとパラフナが居酒屋に行くと赤いマントの男がいて、パラフナが男に首ったけ見たいにして近づいていく。のを、言わんが止めたんだっけ? 赤いマントの男はだれ? と思ったんだけど、↑のあらすじによると祈祷師のようだ。ってことは、祈祷師のところに通ってる間に関係ができた、のか。この場面、祈祷師が部屋の角を背にしてテーブルに座っているので、パースペクティブが歪んでて、奥行きが遠く感じられるのは面白い視覚効果だった。
それはさておき、その後の展開をよく覚えてないんだよな。↑で「ユールコがイヴァーンの友人を傷つけ、決闘に発展。イヴァーンはユールコの斧で額を傷つけられ、マリーチュカの墓の十字架を幻視。彼女の霊(ルサールカ)に導かれ、川に転落して死ぬ。」というあたり。そんな展開だっけか? ほとんど記憶がない。イワンが死ぬところもはっきり描かれてなかったように思う。いつのまにか部屋に横たわっていて、女たちが身体を拭いている。なんだ、呆気なく死んじゃうんだな。なんの教訓も、意外性もない。
ラストシーンは、窓枠にいる子供たち。あれは何なんだ? イワンの死んだ兄弟たちを示しているのか? 8人いたけど、みんな死んじゃった、とでも? やれやれ。よく分からん映画だったよ。
観客は私をふくめ9人。
ホーリー・カウ10/14ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ルイーズ・クルヴォワジエ脚本/ルイーズ・クルヴォワジエ、テオ・アバディ
原題は“Vingt dieux”。「なんてこった」の意味らしい。公式HPのあらすじは「フランス、コンテチーズの故郷ジュラ地方。18歳のトトンヌは、仲間と酒を飲み、パーティに明け暮れ気ままに過ごしている。しかし現実は容赦無く彼に襲いかかる。ある日チーズ職人だった父親が不慮の事故で亡くなり、7 歳の妹の面倒を見ながら、生計を立てる方法を見つけなければならない事態に……。そんな時、チーズのコンテストで金メダルを獲得すれば3万ユーロの賞金が出ることを知り、伝統的な製法で最高のコンテチーズを作ることを決意する。」
Twitterへは「チーズ職人の親父を事故で失ったチンピラ少年が、心ならずもチーズづくりに励むことになる…。でも最後までチンピラのまま、というのが痛い。こんなバカを好きになる色○○○○な娘も、真面目なようでアホだろ。」
バカは死んでも治らない的な、糞少年の話だった。母親は、よくあるパターンでおらず。父親はチーズ職人。だけどアル中で、しょっちゅうベロベロ。息子も同じで、あらすじによると18歳なのか。15、6歳に見えたけど、これまた煙草と酒と女の日々。悪ガキ3人でつるんでバイクを乗り回し、遊んでばかり。村の祭りみたいので、女の子歩引っかけて、でもイザというとき勃起しなくて、じゃあね、で朝帰り。またまた夜は祭見たいのにでかけると、オヤジが泥酔で腰が抜けてる。を、クルマに乗せて(運転させて)帰す。と、昨日の女の子(なのかな?)がいたので声をかけたら別の男性何人かと一緒で、帰って、と言われる。かっとしたトトンヌは、瓶か何かで男性の頭を殴り、逃走。の帰路、オヤジのクルマが木に衝突してるのを発見…。で、オヤジは死んで、ひとり残され、金がないからなのか、家にあるトラクターとか工場で使う道具を一切売り払い、どっかの牧場/チーズ工場に就職、な感じ。
しかし、フツーに考えて親戚知人がいないというのも不自然だよな。母親は離婚ならどっかに居るはずだし、死別でも家族はいるだろう。父親だって天涯孤独でもないだろうし。映画時都合で少年をひとりぼっちにしてる感じがして、なんか、素直に受け止められない展開だな。
という経緯から分かるのは、オヤジも息子のトトンヌも、計画性もなく、だらしなくてバカだろ、だ。オヤジの仕事がどんなだったのかは、よく分からない。自分のところで牛を飼ってた気配はないので、牛乳を買ってチーズにしていたのかな。で、息子は仕事もせず遊んでばかり。というのを叱りもしない、のはなんでなの? 息子に学がないならチーズ作りを教え込んで備えさせりゃいいじゃないか。そういうことをしてる気配は一切ない。トトンヌもチーズ作りに興味はなかったようで、でも、将来に夢や希望も持ってない様子。無軌道というより、ただのバカじゃん。親子でバカ。
で、勤め始めた牧場にいたのが、祭で殴った男で、牧場の息子たちだったという、偶然。ボコボコにはされるけれど、働かなくてはならん。で我慢するんだけど、ここで出会ったのが兄弟の妹マリ=リーズで、美人ではなく逞しい系なんだけど、たまたま仕事を手伝って(だっけかな)、帰ろうとしたら、「帰っちゃうの? やらないの?」と突然誘ってくる。なんだこの色キチガイ女は。トトンヌに惚れたにしても、いきなりすぎるだろ。でも、このときも勃起せずにできなかったんだよな。トトンヌは、精神的な障害かなにかを抱えている、ということをいいたいのか? よく分からん。
牧場でつくってるチーズがコンテストで賞をとってて、賞金が2万フランだか3万フランだったかな。っていうのを聞いて、じゃあオレもつくろう、となるトトンヌ。捨てた釜や売り払ったトラクターを、友人の助けも借りて買い戻し、3バカトリオで牛乳を煮詰めるが、いつまでたっても固まらない。「なんで?」なとき、公園のチーズ講習会みたいなところで、酵素を入れることを知って、なるほど。っていうか、チーズ職人の息子が基本的なことも知らないって、バカだろ。さらに、つかう牛乳は、働いてる先のものがいい、ということで、マリ=リーズとシコシコしてる間に友人が盗むというシステムを確立。トトンヌも、マリ=リーズのマンコを舐めたりして勃起するようになって、こっちはこっちでよかったんだけど…。
なんとか1つチーズを完成させ、コンテスト会場に持ち込むと、一見さんの参加はお断り。協会のようなところに登録して参加資格が得られる、と初めて聞いて、すごすご…。って経緯も、バカすぎ。そのぐらい事前で調べろよ。っていうか、父親の工場は協会に登録してなかったのか? 登録してたらそれを使えばよかっただろうに。廃業したから登録は取り消し? 父親はコンテストに参加したことはなかったのか? っていうような、情報がまるでない。無知はオソロシイ。
悪事はいつかバレる。マリ=リーズが牛の出産のサポートをしていて、そこについていたトトンヌ。仲間は牛乳泥棒している最中。マリ=リーズが仮眠して、でも、牛の膣から赤ん坊の足が見えてきた。でも、仲間のところにいって鍵を閉めなくちゃいけない。せっぱ詰まって、マリ=リーズを起こすと、なんでもっと早く、と言われてしまう。いっぽう、仲間は牧場の兄弟に見つかり、貯蔵庫に閉じ込められてしまう。ドタバタ始まり、しかたなくトトンヌはマリ=リーズに、ここの牛乳を盗んでた、と告白。…というドタバタで、仲間はなんとか逃げ出すんだけど、この経緯がよく分からない。兄弟からどうやって逃げたんだ? マリ=リーズが助けたんだっけ?
トトンヌは牧場をクビになったんだろうけど、そういう説明はまるでなし。牧場から3バカへの追求があったのかどうかもよく分からない。
3バカの1人が参加するストックカーレースみたいなのが開かれていて、トトンヌはそれを見にきている。友人が優勝するが、観客の中に、牧場の兄弟とマリ=リーズがいる。会わせる顔がないな、な感じですごすご帰ろうとするとマリ=リーズに呼び止められる。振り向くと、マリ=リーズがTシャツをたくし上げてオッパイを見せて笑ってる。なんだこの色キチガイは。で、オシマイ。
という、身も蓋もない話で、いったいこれからトトンヌはどういう人生を過ごしていくのか。映画のラストは陽気に終わってるけど、実際は未来が見えない状態だろう。身から出た錆とは言え、どうするのか。幼い妹を抱え、18歳の、手に職もなにもなくて、知恵も知識もないただのバカが、どうやって生きていくのか。闇しかないだろ。この映画。
まあ、泥棒したりと努力のカケラもないトトンヌだけど、牧場での働きは真面目そうだったので、間違ったことをしなけりゃ、時間はかかるかもしれないけど、社会適応できるようになるかな。にしても、こんなトトンヌに惚れたのか何だか知らんが、マリ=リーズもそうとうのアホだろ。彼女は真面目そうなのに、なんでこんなバカを相手にするのか、意味不明だな。
トトンヌの妹役の娘がなかなかいい味を出している。
マリ=リーズ役のマイウェン・バルテレミは23歳らしい。美人じゃないけど、素朴でいい感じ。
ホーリー・カウ、といいつつ、牛はほとんど登場しない。こっちも、なんてこった、の意味で使われるらしいけど。
ジュリーは沈黙したままで10/17ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/レオナルド・ヴァン・デイル脚本/レオナルド・ヴァン・デイル、ルト・ベククアルト
原題は“Julie zwijgt”。公式HPのあらすじは「ベルギーのテニス・アカデミーに所属する15歳のジュリー(テッサ・ヴァン・デン・ブルック)は、その実力によって奨学金を獲得し、いくつもの試合に勝利してきた。ある日、突然、担当コーチのジェレミー(ローラン・カロン)が指導停止になったことを知らされると、彼の教え子であるアリーヌが不可解な状況下で自ら命を絶った事件を巡って不穏な噂が立ちはじめる。ベルギー・テニス協会の選抜入りテストを間近に控えるなか、クラブに所属する全選手を対象にジェレミーについてのヒアリングが行われ、彼と最も近しい関係だったジュリーには大きな負担がのしかかる。それでも日々のルーティンを崩さず、熱心にトレーニングに打ち込み続けるジュリーだが、なぜかジェレミーに関する調査には沈黙を続ける……。」
Twitterへは「背景や出来事、人物がよく分からない。そのうちクリアになって、人間ドラマが始まるかと思いきや、そうならず。最後までよく分からないまま、ダラダラとテニスの練習風景ばかり。公式HPのあらすじを見て、へー、そういう話しだったのかと。」
↑のあらすじの「テニス・アカデミーに所属する15歳」「その実力によって奨学金を獲得し、いくつもの試合に勝利してきた」は説明されていない。「彼の教え子であるアリーヌが不可解な状況下で自ら命を絶った」もさらりとしか話されない。「ベルギー・テニス協会の選抜入りテスト」も、テストを受けている様子は映るけど、説明はない。「全選手を対象にジェレミーについてのヒアリングが行われ」についても、面談があるとか言うことはわかったけど、曖昧にしか分からない。「彼と最も近しい関係だったジュリー」ってのはそうだったの? 「ジュリーには大きな負担がのしかかる」というのは、なぜに? 「なぜかジェレミーに関する調査には沈黙を続ける」は、いいたくない、といってる様子は映ったけど、頑なでもなかったし、強制的にいわせようともしてないように見えた。そもそも、他の生徒が話したのかどうかも分からない。
という具合で、こんな説明不足の映画で何かを感じてもらおうということ自体が間違っている。この映画を評価している人は、おそらく事前に解説を読んだんだろう。あるいは、見終えた後に読んで、あー、そうなのか、って納得しているのだろう。私は、納得はしない。こんな映画は糞である。
いろんな映画があっていい。しかし、映画は、映し出されるものがすべてだ。解説を読まないと分からないようでは、明らかに、足りない、としか言いようがない。たとえば、この映画。コーチのジェレミーが指導停止になった理由とか、アリーヌが自死した理由は分からなくてもいい。そこを考えさせるのも映画だからだ。しかし、考えさせるための要素が不十分では、考えることはできないではないか。この手の思わせぶりな映画をつくって悦に入ってるのは、アホである。読み、推理、想像すらもできないような状態で、完成品です、と提示されても困るだけだ。そんな映画はクズでしかない。
どっかの高校生で、課外活動or地元のテニスクラブでテニスもやってる娘、と思っていた。授業の途中に、理学療法に行くから、と抜け出したり。試験中に呼び出され、ジェレミーのビデオを見せられたり。なんでそんなことが学校で行われるの? と疑問に思っていたけど、なんだよこのテニス・アカデミーって。プロ養成所なんか? それでテニス優先なのか? 
それと、この手の映画で多いのが、会話に名前が登場すること。それも、画面に登場していない人物の名前がバンバンでてくる。この映画でも冒頭、生徒たちが「ジェレミーがこない」とか騒いでる。シチュエーションが分からないので、なんのことやら。この時点では友人か何か? と思っていたけど、そのうちコーチらしいと分かるけど、このジェレミーはちゃんとしたかたちでは最後まで登場しない。ジュリーがカフェであっていたのはジェレミーなのか? という疑問はあるけど、はっきりしない。あとは、小さく、告白みたいな映像で出るだけ。なんだよ。
ほかにも、バッキーとかソフィアとかイネスとか。だれ? な名前が会話にでてくる。こういうのはホント、イラつく。まあ、あとからバッキーは後任(もとからいたのか?)コーチで、ソフィアは立場は分からないけどオバサン。イネスっていうのは、同級生みたいなものなのか? 豪邸でテニス遊びとかしてたのは、イネスの家、だったかな。しかし、このイネスって娘の存在意味はあるのか? 豪邸もだけど。
でまあ、確実なのは、アリーヌが自死した。ジェレミーが指導停止になってでてこなくなった。生徒に面談が行われることになった。以上だけだ。何があったのか、ほのめかしも、最後までない。面談についても、これが面談、というような場面はよく分からない。ジュリーが両親らしい人と、ソフィア? らしいオバサンと、もうひとりいたかな、な感じで話している場面があったけど、あれが面談なのか。でもごくフツーな会話で、緊張感はまるでない。ジューリーが感情的になることもないし、嫌がってもいない。でも、話したくない、な感じ。両親もスタッフも、話させようと強制的な雰囲気もない。なんだよ。
ジュリーがジェレミーと親しかった、というのも、そういう場面がないので分からない。指導者と教え子という関係でなのか。私的な関係で行きすぎがあったのか。も、分からない。ジュリーが個人的にジェレミーが好きだった、ような雰囲気もない。
半分寝ながらスマホで会話してた相手はジェレミーだよな。あと、試合かなんかで父親だかバッキーに送ってもらうとき、スマホでチャットしてたのも、ジェレミーだろ。まあ、そんなことは誰とでもするだろうしなあ。でも、後半になって、ジェレミーが移籍したと知って驚いていたのはなんで? 移籍のことは会話の中で話題に上らなかったのか。ヘンな関係。
でまあ、後に試験中に呼び出され、ジェレミーの言い訳映像みたいのを見せられるんだけど。なんでジュリーだけなの? 一番親しかったから? でも、べつにジュリーに言及していたわけじゃないだろ? というか、そもそもあのジェレミーの映像は誰が撮ったんだ? あの学校での話し合いかなんかで? クラブが僕を悪者仕立ててるとかなんとか、意味不明なことを話していたけど。
という間に、淡々と練習風景が写る。バッキーはジュリーの腕を買っているのか、他の生徒の見本のプレーをしてくれ、とかいわれ、嫌々やってたり。なぜか、練習に遅刻してもバッキーが怒らないので、他の生徒が「私たちには罰を与えるのに!」と抗議したりしている。ジュリーは特別扱い? 本人は迷惑顔だけど。
テニスの場面は本人がやっているので、よほどテニスになれた役者がやっているのか。テニスプレーヤーに演じさせているのか。にしても、練習場面ばっかり多くて、辟易。人間ドラマを見せろよ、と。
でも、最後は、警察に行ったような場面があったような。字幕をちゃんと追えなかったんで、はっきりせんけど。でも、そのせいでジェレミーがどうなったか、とかはまったく描かれず。エンドロールの最後の方に、淡々と、普段通りに筋トレしてるジュリーが映って、オシマイ。なんなんだよ。
・ジュリーの両親も、はっきり出てこない。家庭が映らず、どういう家庭環境なのかも見えない。不親切すぎ。
・協会のテスト? とかいうのが2回ほど出てくる。何なんだ? あらすじには「協会の選抜入りテスト」とあるけど、説明は一切ない。2度目のとストでは、「最後までできなかった…」というから落ちたのかと思ったら、合格者3人に入っていた。このエピソードって、本質に関係あるのか?
・クラブ対抗試合? とかいうのもあって、他のクラブの選手たちと会話を交わす場面があった。まあ、コーチが首、というのが広まっているのを知らせたかったんだろうけど、噂の中味には触れていない。なんなんだよ。もやもや。
その他、よくわからん場面が盛りだくさんで、人に見せるレベルではないね。
監督/●脚本/●
原題は“●”。公式HPのあらすじは「●」
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