| エロス+虐殺 | 2/16 | シネマ ブルースタジオ | 監督/吉田喜重 | 脚本/山田正弘、吉田喜重 |
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| 2024年東京国際映画祭HPの解説は「大正期のアナキスト・大杉栄(細川)と彼とともに虐殺された伊藤野枝(岡田)の愛憎関係を、現代の若者の姿を対比させながら描いている。フランスでの先行公開によって吉田の国際的評価を高めた作品だが、国内では実在の人物に関わるプライバシーの問題が取り沙汰された末、一部シーンをカットした本版が劇場公開された。」 Twitterへは「つまらないうえに、ムダに長い。わざとつまらなく、わざと分かりにくくつくってんだろうと思うけれど、内容も表現も、時代を感じてしまうね。1970年公開。」 165分。オリジナルは216分らしい。むかし見たような記憶があるんだけど、調べたら見てなかったようだ。それはさておき、大杉栄、辻潤、伊藤野枝、神近市子の存在ぐらいは知っている。もともと辻と伊藤が夫婦で、伊藤が大杉に走り、さらに神近市子が嫉妬して大杉を刺した、ぐらいな感じだけど。なので、平塚らいてうが、あいちょう、というなになっていて。神近市子も、XXXXいつこ、という名前になっているので、ちょい戸惑った。まだ神近市子が存命だったことによる配慮なのか。 とまあそんな感じで見ていたんだけど、30分ぐらいでやはり沈没し、少し寝た。まあ、寝てもあまり大勢に影響がない映画だとは思うけど。 というわけで誰と誰がどういう関係でどうなって、こうなって、それでああなって…。ということが具体的に描かれていなくて。大杉は、すべての女を平等に愛することができるとか、なんかよく分からん主張をしてるだけだし。伊藤は大杉の周囲をうろうろしているだけ。辻は尺八を吹いてふらふらしていて、神近は、何をしていたんだっけ? な感じで、ドラマやエピソードがはっきりしていないので、なーんも迫ってこないし、画面に惹かれない。 海外では高く評価されたなんて言う記事も見かけたけど、日本人でもよく分からんのに外人に分かるわけがないだろ、と思ってしまう。 大杉、伊藤、甥の3人が虐殺された日陰茶屋の場面もなくて。でも、オリジナル版にはあるらしいけど、ザックリないので、いまいちダイナミズムがない。せいぜい3人が椅子に座って正面を向いている場面があるばかり。しかも、この場面がクライマックスかというとそうではなく、中盤過ぎにある。なので、この場面が過ぎても、それまで通り大杉と伊藤は画面をフラフラしていて、なんだったのあの椅子の場面は? ということになってしまう。 神近市子が大杉を刺す場面も、襖がバタバタ倒れたり造形的な風にはなっているけれど、最初に首を切られながらよたよた大杉が逃げ回り、浴槽でグサリとされた、と思ったらその後も神近は大杉を追っていたりして、むだに長い。あんなの一瞬でいいだろ、と思ってしまう。 要は、登場する人物が生身の人間として生きていなくて、書き割りのように現れ、ぶつぶつつぶやいて、シーンが変わっていく、というような構造になっているので、ぜーんぜん映画的なドラマがないのだ。誰にも感情移入できないし、面白くもなんともない。もう少し登場人物に関する知識があれば、それなりに楽しめるモノなのだろうか? ところでこの映画には、現代パートがある。青年と女が1人だか2人出てくる。というのも、顔が区別できないからなんだが。女の裸もあって、愛撫されたりなんだりするけど、いまの尺度でみるとぜんぜんセクシーでもエロでもない。そもそも女性の体型が寸胴で乳房も豊かではなく、ドテ、としていて、魅力がないのだよね。で、青年と女が部屋の中でポーズを決めていたって、何のことやらさっぱり分からないので、これまたヒキがない。この現代パートはいったい何のためにあるのだろう? 疑問しかない。 ラストは、記念撮影だとか言って、登場人物たちが横に広がって並ぶんだが。大杉、伊藤、辻、神近、大杉の最初の妻の他にも何人かいるんだよね。ありゃなんなの? オリジナル版に登場した誰かも3人ぐらい並んでいるってこと? 誰なんだよ。よく分からんなあ。 ・何度かセリフで登場する谷中村事件、という言葉。あとから調べたら足尾銅山の関連で廃村になったところで、渡良瀬遊水地になっているところらしい。そんなの知らねえよ。 ・大杉とイチャイチャしていた女で、大杉のことを「お兄様」と呼んでいた女は誰なの? 妹? ・観客はみなオッサンとジジイで12人だった。 | ||||
| たしかにあった幻 | 2/24 | テアトル新宿 | 監督/河瀬直美 | 脚本/河瀬直美 |
| 公式HPのあらすじは「フランスから来日したコリーは、神戸の臓器移植医療センターで働きながら、小児移植医療の促進に取り組んでいたが、西欧とは異なる日本の死生観や倫理観の壁は思った以上に厚く、医療現場の体制の改善や意識改革は困難でもどかしい思いを抱えていた。そんなコリーの心の支えは、屋久島で運命的に出会った恋人の迅だったが、彼の誕生日でもある7月7日の七夕に突然、姿を消してしまう。一年後、迅が失踪するはるか前に彼の家族からも捜索願が出されていたことを知ったコリーは、迅の実家である岐阜へと向かう。そこで明かされた事実から迅との出逢いが宿命的だったことがわかり愕然とするコリー。一方、心臓疾患を抱えながら入院していた少女・瞳の病状が急変するが・・・」 Twitterへは「心臓移植という手垢のついたモチーフを、河瀬直美らしい緑や霧のザワザワ感や神社、祭なんかを散りばめて、さも神秘的に。テーマとなるのは西欧と日本的な死生観の対立…かと思ったら、いつのまにかこれは腰砕けてしまってた。」 日本の神戸の病院に、なぜかフランス人女性の医師コリーがいて、心臓移植のドナー関連の仕事をしている、という設定からして、不自然すぎるよね。だって彼女はほぼ英語かフランス語。日本語は挨拶程度しか話さない。いったいどういう資格で彼女はこの病院にいて、何をしているのか? が、分からない。 コリーはときどき日本人スタッフに向けてレクチャーをする。概ね、日本人はドナーになりたがらない。海外は多い。これをどうにかしなくては、てなよく聞くような内容。スタッフからは、脳死の定義が違うからすでに死んだと認めにくい、とか、移植される側も人の死を待っているようで心苦しい、とか、日本人の死生観に関するようなことが大半。そして、最後にスタッフからは、時間がない、人がいない。だからコリーの要望には応えにくい。てな感じ。ときには、他の仕事があるので、とレクチャーを中座する。そういうスタッフに、絶望を感じるコリー。なんだけど、はあ? な感じだよね。だって移植はドナー待ちなのだから、人手が多かろうが時間があろうがなかろうが関係ないだろう。このあたりの違和感も大きい。 コリーさん、あなたはこの病院で何をしているの? 何がしたいの? と。 いっぽうコリーは一人で屋久島に行き、屋久杉の佇まいに感嘆したりする。このあたりの緑や霧の景色、は河瀬直美お得意の神秘的な雰囲気だな。で、ここで迅という青年に会い、ハッセルで写真を撮ってもらい、どら焼きをご馳走になる。という出会いは、まあ、できすぎた話で、映画的すぎてとくに何もない。 で。迅はどこかの港町の魚加工場で働いている。のところに、コリーからどら焼きの御礼が来る。甘いものは「別腹」のメッセージとともに。って、このエピソード意味あるのか? でまあ、なぜか迅はコリーの元を訪れ、なんとなくセックスし、同居しはじめる。のだけれど、この経緯もよく分からない。コリーは迅の何を受け入れたのか。迅はコリーに何を求めたのか。2人の生活は1年余におよぶのだけれど、せいぜい7月7日が迅の誕生日であることぐらいのエピソードしかない。毎日なにもせずだらだら暮らしている迅。金はどうしてたの? 働かない迅に腹を立ててる風もないコリーって、なんなの? ところで、コリーを演じるヴィッキー・クリープスは1983年生まれの42歳ぐらい。迅を演じる寛一郎は1996年生まれの30歳凸凹。まあ、40女と30男の関係に、見ていてエロチックはないし、ヴィッキー・クリープスも骨張った体つきなので、セクシーさはほぼゼロ。 でまあ、だらだらひも生活してて、どんどん堕落していく迅。あるときコリーが、「子供ができたらどうする?」という質問をしたりして。男としてはビビるよな。この女、家庭が持ちたいのか? と。それが影響したのかしらんが、ある日、迅はいなくなってしまう。途方に暮れるコリー。街に出ると祭の山車が…。てな展開も河瀬直美スタイルだな。神隠し? で、思ったのは、コリーは迅の住所を知ってるわけじゃん。どら焼き送ったんだから。だったらまずそこ行けよ、なんだけど、そういう展開はなくて。病院に出入りする弁当屋の夫婦の亭主(彼も子を失って、病院に奉仕するようになった、という設定)が元警察官なので相談すると、成瀬迅という人の失踪届が官報に掲載されているのを発見する。しかも、あと数年? かそこらで死亡宣告OKな状態らしい。ってことは、コリーが迅に会ったときはすでに失踪状態だった、ということか。で、迅の実家に行くんだけど、両親から、実は迅は旦那の妹の子で、その妹が亡くなったか(忘れた)で養子にしたらしい。その後、実子が産まれて。迅は自分の出生の背景を知って出奔したんだと。はあ? なんでそんなことでヒネてるんだ? 意味不明。 で、旦那は、自分の遺産を実子の次男に委譲するにあたって揉めないよう、迅を死亡認定したくて失踪届をだした、らしい。って、なんか利害関係がドロついてないか? 別に失踪届を出さなくてもいいんじゃね? で、得るところなくコリーは兵庫の病院に戻る。唯一、迅が残していったハッセルは壊れていて、撮影できない状態で、フィルムも残っていなかった…。日々、生活の中でシャッターは押し続けていたのに、というのがある。でも、屋久島で撮ったコリーの写真は撮れているのだから、その後に壊れたの? 病院にはドナー待ちの少女が以前からいて。そこに、新たにドナー待ちの少年がやってくる。この少年が10歳ぐらいなんだけど態度が横柄で、躾が悪すぎ。ああいう性格として演出した理由は何だろう? 幼いときから心臓病を患っていると性格が歪むってことか? たんに親がバカだってことなのか? で、少年と少女は仲良くなるんだけど、少女の容体が急変し、亡くなってしまう。呆然とする少年。なんだけど、ここで少女が死体役をやってるんだよね。これには強い違和感を抱いた。子供に死体役をさせちゃダメだろ。 というところで、どこかの原っぱで遊んでいる少年たち。の一人が突然倒れ、脳死状態に(そういうことはあるのかね。事前の症状があるなら分かるけど。元気だった少年が突然にねえ…。なんか映画の都合のようで、なんかいまいち納得しづらかったな)。少年の父親に対して、医師が臓器提供の話をし始める。もちろん一刻でも早く、は分かるけど、やっぱ血も涙もなく移植手術をしたいんだなという感じがつたわってきて、やだったな。で、この少年も死体役をやらされるんだよ。これもやだったな。子供に死体役をさせるなよ。 以後、手術室に向かうストレッチャの少年に対してスタッフが次々に礼をしていく場面は、なるほどそうするのか、と印象的だった。そして心臓摘出などの描写もあって、なんかちょっとグロ。 その摘出した心臓を運ぶとき、母親が心臓の入ったケースに「さわってもいいですか」というのは、まあ、感情的に分かる。けど、ここで思い出すのが、ドナーの記憶転移を題材にした『さよならのつづき』という映画だ。あの映画にあった、息子の心臓は誰かの身体で生き続ける、という発想や表現があってもいいのになと思ったのだった。 それはさておき、摘出された心臓は神戸の病院に運ばれ、場慣れしたような医師の手によって移植される。スタッフとして手術室に入っているコリー。手術後、晴れ晴れとした笑顔で待ちを歩くコリー。で、映画は終わる。 というわけで、話としての心臓移植はありきたり。そこに西欧的な合理主義的な考えと、日本的な諸行無常的な考えの対立構造があるのかなと思ったんだけど、結局はそういうのはなくて。日本的を代表する迅も、途中でいなくなってしまって話は途切れてしまう。そもそも迅の出奔が出生にかかわる、というのが分かった時点で腰砕けだったしね。 最後に移植で感動話にしたかったのかね。個人的には腎臓や肝臓はまだしも、心臓移植は先進医療に取り憑かれた医者たちの功名心、勲章づくりになってる気がするので、どーも嫌だ。そもそも心臓移植後の生存率は、高くないはず。と思ってWebで調べたら 「日本の心臓移植後の生存率は非常に高く、5年で90%以上、10年でも約80〜90%に達し、世界的に見ても非常に良好」「20年以上の長期生存データは日本国内ではまだ限られますが、国際データでは約20%の生存率が報告されており、免疫抑制療法の進化により長期生存例は増加傾向」 ということらしい。思ったより高いのね。余命10年以上が大半なら、高額な治療費や拒否反応を気にしながらの暮らしも理に叶っているのかな。とはいえ自分や自分の家族に医師から「臓器提供を」と言われたら、お断りする立場なんだけどね。 そういえば映画の冒頭で「愛は個の喪失」とかなんとか文字が大書されて、これがタイトルか? と一瞬戸惑った。なにを言わんとしているのか「?」である。河瀬直美の信念か信条なのか? 意味不明だ。 迅のハッセルは、なにを象徴しているのか? 写真による記録を残す? 残さない? 空シャッターを切っているだけでもない。わざわざ屋久島まででかいカメラを持っていった意味。コリーとの生活で空シャッターを切り続けた理由。ハッセルが壊れた理由。コリーのところにカメラを残して行った理由は? 自分の視点が壊れたカメラの中に記憶されている、とでも? 彼が撮った写真は、屋久杉の横に立つコリーの写真しかないので、よくは分からない。何かを追い求めて空シャッターを押していたとも思えない。コリーの顔ばかりにレンズを向けていたし。 迅の誕生日は7月7日。この日を母親の死と結びつける意味はあるか? 七夕で、年に一度だけ出会える織姫と彦星。そこから連想されるのは、コリーと迅、心臓病の少女と少年? でも、もうともに、もう再び会えない、ということだよな。 病院スタッフとか入院患者とか、あ、素人を使ってドキュメンタリー的な効果を狙っているな、というのは河瀬直美がよく使う手口か。歴とした役者も何人も登場しているけど、芝居クサイ演技は抑えて、自然な感じで喋っていた。全体のトーンとしては、調和してると思うけどね。 というわけで、なんか中途半端に空回りしてる感じがしてしまう。河瀬直美は、映画を見る限り心臓移植に賛成のようだし。これまでの映画のような神秘性、神の意志的なところは、あまり感じられず、だったな。 | ||||
| 国宝 | 2/27 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/李相日 | 脚本/奥寺佐渡子 |
| 公式HPのあらすじは「後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく...。誰も見たことのない禁断の「歌舞伎」の世界。血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。もがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。何のために芸の世界にしがみつき、激動の時代を生きながら、世界でただ一人の存在“国宝”へと駆けあがるのか?圧巻のクライマックスが、観る者全ての魂を震わせる」 Twitterへは「クライマックスは渡辺謙の吐血で、後は手垢の着いた業界について(血と業)だらだらと。それはシステムの話で、人間が描けてない。そもそもわしゃ主演の2人の区別がつかん。とりまく女たちも誰が誰やら。婚外子についてはチラとあったけど・・・。退屈だった。」 去年から今年にかけての特大ヒットで、いまだに観客動員数ベスト10に入り続けているらしい。ここまでくると、見たくない、という気持ちだったんだけど、たまたま木場で10時20分からやっていたので、とりあえず見てみっか、な気分になって行ってみた。歌舞伎の世界の話で、話は極めて単純。花井半二郎は代々の役者で、息子・俊がいる。なのに、たまたま長崎で惚れ込んだ喜久雄を弟子にする。同い年。2人は仲よく育つが、あるとき半二郎が怪我をして代役が必要になる。周囲は当然、俊介が半二郎が代役を、と思ったら半二郎は喜久雄を指名する。歌舞伎の世界は血筋のはずが…。失意の俊介は出奔。さらに時が経ち、半二郎は糖尿病が悪化し、大名跡を継いで男の花道と決める。ついでに、喜久雄が半二郎を継ぐことに。半二郎は死に、そして俊介が戻ってくる。この俊介を支援したのが、国宝役者の万菊。一方、喜久雄は、なぜか主役に指名されなくなり、大物役者の娘に手を出して歌舞伎界を追われドサ回り。数年後、病床の万菊から呼ばれ、再び表舞台に。俊介との2人道成寺でにんきをとるが、俊介が糖尿病で左足切断の憂き目に…。俊介とともに演じた曽根崎心中が最後で、俊介は…亡くなるのか? で、年を経て喜久雄が国宝役者になる。話としてヒネリもなく、とても分かりやすい。こういうのが、国民の多くが3時間近い映画に群がった理由なのかな。 とまあ、歌舞伎の世界は血筋、病気になって目が不自由でも、足を切断しても舞台に立ちたいという役者の業、がモチーフになっているので、この点では話はありきたり。だれでも知っているようなネタだ。そういう環境にありながら、半二郎は、俊介は、喜久雄は…。というところで、人間がさっぱり深掘りされていない。歌舞伎の世界のシステムを語るための書き割り人形にしか見えないのだよな。 そもそも半二郎が喜久雄にめをとめた冒頭。あれだけで惚れる、というのに説得力がない。喜久雄は親の敵を取りに行くけど、半二郎に「しくじった」というのだけれど、どうしくじったのか分からない。警察沙汰にはならなかったのか? 怪我もしなかったのか? もやもやする。でまあ、どういう因果か喜久雄は半二郎のところに預けられる。すると、そこに同い年の俊介がいる。ここでフツーなら、血筋外の弟子が来たら、直系の俊介は嫌がるんじゃないか、と思うんだけど、なかよく稽古して育つんだよな。女っ気もなく。で、半二郎は2人を2人道成寺でデビューさせる。はまあいい。問題はその後だ。 半二郎が交通事故で代役が必要になる。半二郎の妻は、ここは息子の俊介が筋。けれど、半二郎は喜久雄を押す。のくだりが意味不明だ。稽古のときや舞台で、俊介より喜久雄が優れている、という描写が一切ないのだ。ここで周囲の声として、喜久雄に天性の素質がある、とか、それに俊介が焦る、という場面でもあればまだしも、そういうのが全くない。なので、半二郎の決断が浮くんだよね。周囲の声で俊介への同情もないし。血統が筋の世界なら、そういうのがあって然るべきだろう。そう。歌舞伎の“世界”が描かれていないのだ。 この後、説明はないのだけれど、この一件で俊介は家を出たらしい。これも後から分かるんだが、悔し涙と、その後のドサ回りも描くべきだよな。っていうか、歌舞伎界の人気者がいきなりドサ回りできるのか? 地元のヤクザとどう関係をもっているのだろう? で、10年後ぐらいに半二郎は糖尿病が悪化して視力が衰える。で、最後のひと花咲かせたい、で。自分はその上の大名跡を継ぎ、半二郎を喜久雄に継がせるという、同時襲名。2人はにこやかにお練りもする。しかし、そんな半二郎のやり方に、業界内からは異論が出なかったのかね。マスコミからもツッコミはなかったのか。なんか違和感ばっかり。で、W襲名披露の壇上で半二郎に異変が…。なぜか吐血してぶっ倒れてしまう。まあ、これがこの映画の一番の出来事で、クライマックスだよな。 さて、分からんのが喜久雄の女関係。長崎時代からつき合ってる娘がいたけど、その後に役者が変わるのでよく分からんのだが。大阪でアパート住まいでセックスシーンもあるのは、彼女なのか? 喜久雄が半二郎の代役で舞台を務めているとき、俊介と女が客席にいたけど、この女がこの娘、なのか? ふたり一緒に席を外して外に出るのは、どういう意味? あと、娘がアパートに戻ると俊介が待ちかまえていたことがあった。あれも、この娘かね。でまあ、このあと俊介は家出してしまうのだけれど。喜久雄の女だった娘は、俊介にほだされて行動を共にした? のか? このあたり、説明がないのでもやもや。 喜久雄には他に、クラブで知り合いになった女と、芸者の若いのがいたよな。ありゃどうなってんだ? と思いながら見ていたんだが。あるとき喜久雄と音が娘を連れて神社を遊山の場面があって。娘が「何をお祈りしているの?」と聞くと、「芸が上手くなるように悪魔に心を売った」とかいう場面があって。これはどういう意味なのか? さらにその後、お練りのときにこの娘が人力車を追いかけて「お父ちゃん!」と呼びかけるけれど、喜久雄は無視する場面がある。ああ、外につくった女に産ませた娘か、は分かる。けど、この女が分からないまま。なのいのがもやもや。そして、あのクラブの女はどうしたんだ? も、もやもや。 で、この後がまた話が飛ぶ。なぜか喜久雄にいい役がつかず、腐ってるという状況。なんで? これが、家柄のない家の出へのイジメ、とかなら、なるほど、と思うけど、そういう説明もない。な、ことで業界の大物役者に「役が欲しい」といいに行くと、「そういうのは言わずに待っているのがいい」とか言われてしまい。さらに、なぜかその大物役者の娘とねんごろになって、大物役者にボコボコにされてしまう。なんなの? この展開。不自然すぎてバカっぽい。 一方、俊介は出戻って。なぜかこの俊介に国宝役者が入れ込んでともに細々と公演を始めたりする。この流れもよく分かんねえんだよな。なぜ国宝役者は俊介の応援をするのか。なぜ喜久雄を押さないのか。説明がないのでもやもやばかり。 大物娘との一件で業界を追われた喜久雄は大物娘とドサ回り。酔客に絡まれる場面もあるけど、この理由が分からない。酔客3人にボコボコにされるんだが、ヤクザの息子で彫り物もあり、親の仇と鉄砲玉もやった喜久雄がなんで酔客風情にやられちゃうの? 意味不明だよ。俊介の場合もだけど、歌舞伎界の大物がいきなりかみさん(籍を入れたかどうかは不明だけど、大物娘は一緒になると主張していたよな)と2人でドサ回りなんてできるのかいな。 の、あとは、話がぽんぽん飛ぶ。俊介と国宝役者のあれこれのエピソードはまったくない。喜久雄と俊介は対立しているようだけど、本心では仲がいいのか。仲のいい体を装っているけど、ほんとうは俊介に恨みがあるのか。あたりがよく分からない。まあ、分からなくてもいいんだけど、こういうのは。俊介は、これも血筋なのか糖尿病なる。このとき俊介の妻がいたような気がするけど、喜久雄の元カノ(高畑充希?)かどうか、確認しなかった。喜久雄もなぜか歌舞伎界に戻ってきて、俊介の息子の稽古をしている。で、デビューの時と同じ2人道成寺を成功させるのだけれど、その経緯もない。でまあ、舞台の肝心なところで俊介が鐘に登れずずり落ちてしまう。糖尿病の悪化で俊介は足を切断し、義足になる。これまた血筋なのか、父親の半二郎(このときはもう亡くなっているのか? よく分からない)俊介は最後にもうひと花割かせたいと、いいはじめて。じゃあ俺が徳兵衛をやる、ということで、これは先代半二郎追悼公演とかだったかな。でやるんだけど、義足でたいりょくも衰えている俊介はボロボロ。なんとかその日は追えたけど、いったい何日間公演したのか。1日だけの特別公演だったのか? 知らんけど。 でまあ、こっからが一気に老けて、どっかのホテルのロビーでインタビューと写真撮影を受けている(この時点が俊介が死んでいるのか生きているのかは、不明だ)。で、人間国宝に選出されて、のことらしい。インタビュアーが「ずっと第一線で活躍し続けて…」みたいなことをいうんだけど、なことないだろ。ドサ回りの時代は無視するんかい。で、その後に写真撮影で、途中でカメラマンが、どこそこの誰々を覚えてますか、てな質問をする。おお、ここでやっときたか。あの、お父ちゃん! とすがっていた娘がカメラマンか。で、母親は、芸者なのか、と種明かし。娘は、「ずっと嫌いだった」というのだが、幼いときには慕ってたじゃないか、とツッコミを入れたいね。でまあ、喜久雄は「悪魔に心を売って国宝になった」とかなんとか言ってたかな。いいんだけどね、芸人だから外に女をつくって婚外子をつくったって。そんぐらいじゃないと、まともな芸人にはなれんだろ。芸人に倫理を期待しちゃいけない。 とはいえこの映画、前半の、渡辺謙が吐血するまではまだしも、後半は、出来事の羅列でドラマになっていない。あらすじを見てるようでつまらない。繰り返すけど、人間を描いてないんだもの。でも、映画を見つけないフツーのおばちゃんらに受ける映画なんだろうな、こういうのが。 ところで、喜久雄は正式に結婚したのか? 誰と? 大見の娘となのか? そして、俊介の妻は、喜久雄の幼なじみ、でいいのか? もしそうだとしたら、喜久雄と幼なじみの確執はないのかね。よく分からん。 | ||||