2026年4月

カミング・ホーム4/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/マーク・タートルトーブ脚本/ギャヴィン・ステクラー
原題は“Jules”で、宇宙人に名づけた名前。公式HPのあらすじは「ペンシルベニア州西部の小さな町で暮らす79歳のミルトンは認知症の初期症状を娘に心配されながらも、受け入れられずに一人暮らしを続けていた。そんなある夜、庭に突如、空から正体不明の飛行物体が墜落し、彼の静かな日常は大きく揺らぎ始める。周囲に訴えても相手にされない中、同年代の隣人サンディーとジョイスだけが共に飛行物体を目撃し3人は秘密を共有することに。それぞれの孤独を抱えていた3人は忘れかけていた人生の喜びを取り戻し、やがて自らの“これからの人生”と向き合っていく」
Twitterへは「認知症初期、ひとり暮らしのジジイの庭(かなり広い)にUFOが墜落。宇宙人を助け、知り合いのババア2人と当局から隠す…という流れは『E.T.』のまんま。無味乾燥で情緒のない演出。無表情の宇宙人。まあ、どうかんがえても認知症の妄想だろ。」
ウェス・アンダーソンとまではいかないけど、わりと淡々と情緒を排した演出で、ドラマとしてのリアリティはあまりない。なので、描かれる世界は単調で、ドラマもあまりない。なので、いささか退屈なところもある。この映画は何を言わんとしているのか? なにかのメタファーになっているのか? とか考えたけれど、どーもよく分からんのだよね。
リアリティで言うと、ある夜、庭で音がして見に行ったら円盤が落下していて、青白い宇宙人も横たわってる、としたら、フツーはビビるだろ。なのにミルトンは宇宙人に毛布を掛けてやって、ベッドに戻っちゃうわけだ。なにこれ? それに、あの大きさのモノが落下したら衝撃音もあるはずで、隣家も気がついているはず。けれど、その気配はない。翌日、明るくなってみると、円盤の向こう側数10メートル先には隣家が見えて、クルマもある。隣家の人間に円盤は見えないのか? と考えると、異様だ。そう思うと、すべては妄想であると考えるのが妥当だよね。
毎日のように町議会が開催されていて、住人が意見を言う場が設けられている、というのが面白い。ミルトンは、町のスローガンについて、「A Great Place to Call Home(住むのに最高の場所)」っていうのは、電話するのにいい町、と勘違いされるから変えた方がいい。というのは、横断歩道が少ないので増やしてくれ、と陳述している。あれはどれぐらいの頻度で開かれているのか知らんけど、結構頻繁に思える。高齢ですることがないからああやって通っているのかね。ほかに婆さん2人も、毎度、同じことを主張している。というので、3人は顔見知り。でも、家を訪問するほど、ではなかった感じ。
で、円盤落下の翌朝、宇宙人が毛布にくるまっていたので家の中に招き入れ、食事を提供する。言葉を発しないけど大人しい宇宙人。恰好は、むかしから定番の青白くつるっとして目が細いあれで、記号的なビジュアルだな。裸なのかスーツなのか、も分からない。リンゴしか食べないのでミルトンはスーパーに買い出しに行き、店員に「庭に円盤が落ちて…」と話しかけたら、それが獣医の娘につたわって。娘が心配でやってくる。といっても円盤が、ではなく、ミルトンの頭の具合が、だけど。というのも食品をトイレに置いたり新聞を冷蔵庫に入れたり、おかしな行動があるから、のようだ。ミルトンは「大丈夫だ」というのだけれど、なぜか庭の円盤を見せたり、室内にいる宇宙人には会わせない。このあたりの展開は映画的な都合もあるんだろうけど、観客にはヘンとしか見えないよね。スーパーの店員に円盤のことを話してるんだから、娘に話してもおかしくはないだろ、と。でまあ、娘は父親を病院に連れて行き、認知症テストをさせると、モロに記憶障害とかでていて、ますます疑いは濃くなるわけだ。
てな展開の中に、町議会の顔見知りのババアのうち、1人(ジョイス?)がミルトンを訪れ、家に入ると宇宙人! でも、少しだけビックリ、な感じでフツーに受け入れてしまう。そこに、もう一人のババアのサンディーも加わって。このことは内緒よ、と宇宙人の情報を共有しながら、宇宙人が星に帰れるように応援する、というような流れになっていく。このあたりはジジババ版の『E.T.』って感じ? 
宇宙人は無表情でテレビを見たりしてるけど、円盤の修理も行っていて。なぜか、猫の顔がいくつか描かれた紙をミルトンらに見せる。最初は何か分からなかったけれど、家の庭で猫の死骸を見つけたことから、円盤のエネルギーには猫が必要、てなわけで、3人は町をうろちょろして猫の死骸を拾い始める…って、そんなに猫は死んで転がってないだろ。
一方で、国家何とか調査室では、円盤の落下を把握しているらしく、発見に動いているようなんだけど、よくあるSFものならもっと物々しく機動的で高度な発見の動きになるんだろうけど、どーもトロい。調査員2人が個別訪問してたりするんだけど、これ何かもトンマな『MIB』を連想しちゃうよな。
かと思うと、ババアの一人(どっちか忘れたけど)が交流の場を設けて話し合いを、てなポスターを貼ったら若者が応募してきて。でも、目的は泥棒。ババアと若者が取っ組み合ってるのを宇宙人が感じ取って、念力で若者の頭を吹っ飛ばす、という事件も発生したりする。でも、この話も、そっから先へはとくに進まない。まあ、宇宙人が恩義を感じて、のことだろうけど。恩義っていったってTシャツをもらったこととか、ミルトンの家で接したぐらいしかないはずだけど。にしても、いっぺんも笑いもしない宇宙人でも、婆2人には話し相手として(宇宙人はひと言も話さないけど)うれしかった、ってことか。そんなにジジババは地域や若者、住民と接する機会がないのか? それほどとは思わないんだけど。
さて、猫は8匹だったか必要で、でも最後の一匹が見つからない。で、ミルトンがサンディーに「君の飼い猫。もう自力で歩けないんだろ」的なことをいうんだけど、よく言えるよな。そんなこと。でもサンディーは飼い猫を宇宙人に提供し、猫エネルギーで円盤が復活。宇宙人は3人を円盤内に招き入れ、あっという間に到着したのはどっかの砂漠で。そっから円盤は帰還していった。は、いいけど、1人乗りだったの? っていうかまあ、ミルトンがこれまで蓄えてきた宇宙人とか円盤の知識を総出で繰り出しての妄想だから、貧弱なんだろうけど。
てな話で。なにかの批判とかメタファーとかになってるようには感じられないんだよな。老人の孤独、というのでもないし。童話、というにはアイロニーもないし。やっぱ、たんに認知症患者の妄想が創り上げた世界の話ではないだろうか。根拠としては、隣人が円盤に気づいていない。娘に宇宙人を会わせない。宇宙人の容姿が記号的などなど。国家何とか調査室では多くのモニターをつかって円盤を追っている? でも、やってることがトンマ過ぎて、これも過去の映画の場面からのミルトンの妄想、だろ。調査員たちも、ミルトンの家に突入してきたけど、その後は消えてしまって、円盤の痕跡を調べたりもしていない。娘が登場する場面も、あれもミルトン側の視点の場面しか登場しないし。
息子は遠くに住んでいて、数10年会っていない。なのに、息子を非難するのではなく、ミルトンが「ゴメン」と謝ったりしている。歳をとり、認知症を自覚しだしたミルトンが、この世、といっても生から死、ではなく、正常な判断ができなくなる状態へと移行する様子を描いたのかな、と。79歳でも、この手の認知症はあるのかもね。・老い、が描かれているのかね。サンディーの猫も、老いさらばえているし。
ところで、Webでこんなこと↓をいっている人がいた。
「古い日本語訳では、"E.T. phone home" が "E.T. go home" と間違われて、誤訳されていたようです。新しい日本語吹き替えではちゃんと、「E.T. 、おうち、でんわ」と言っているらしいです。」
へー、な感じ。で、この映画の題名だけど、これは3人のうち誰かが宇宙人につけた名前。で、邦題の「カミング・ホーム」は“帰還”の意味のようだ。ということは、かつての誤訳である「おうち、帰りたい」を踏まえてつけてるのかね。
オーロラの涙4/8新宿武蔵野館2監督/ローラ・カレイラ脚本/ローラ・カレイラ
イギリス/ポルトガル映画。原題は“On Falling”。落ちるとき、ってな感じか。公式HPのあらすじは「ポルトガルから移住したオーロラは、そこで「ピッカー」として働いている。スキャナーの指示に従い、無数の通路を歩き、棚から商品を取り出す。その単調な反復が、一日の大半を占めている。同僚たちとの会話は、休憩中のほんのわずかな時間だけ。勤務を終えると、彼女は疲れた体を引きずり、移民労働者たちが暮らすシェアハウスに戻る。一人きりの部屋で一息ついてから、狭いダイニングで夕食をとる。住人同士の交流は表層的で、関係が深まることはない。寄る辺のない日々が、淡々と続いていく---。そんなある日、オーロラは不注意からスマートフォンを壊してしまう。職場の連絡手段であり、時間を埋めるための“相棒”でもあった文明の利器を失ったとき、彼女の日常はゆるやかに、けれど確実に形を変えていくのだった---」
Twitterへは「Amazon的な企業が移民労働者を低賃金で使い倒してる、と非難してる感じがもやる。スマホ修理代99ポンドの臨時出費で昼飯も食えず、シェアハウス仲間の食いものを盗むまで落ちるかね。本人にも責任があるのでは。給料入ると浪費するし…。」
Amazon的な企業は従業員(低学歴、移民、外国人が多い感じ?)を低賃金で使い倒す。従業員はみな転職したいと思っている。それができず、みな次第に壊れていく…。なかには自殺する従業員も。という印象を刷り込もうとする意図が露骨で、いい気持ちがしない。そういうステレオタイプな無味乾燥な企業スタイルを批判する一方で、主人公であるポルトガル人のオーロラが、いろいろダメ女なんだよね。彼女が、真面目に働いてるのに理不尽なもろもろが襲ってきて不幸になる、なら納得できるんだよ。でも、そうではない。
オーロラ役のジョアナ・サントスは1985年生まれらしいので、製作当時は39歳か。ずいぶんいってんだな。アラフォーのポルトガル女が独身生活。シェアハウス住まいだけど、心は孤独? 故郷の家族に電話するでもない。恋人がいるわけでもない。せいぜいが、同じポルトガル出身で同じ職場のおばちゃんと話す程度? あとは、食事中も、暇さえあればスマホに夢中。でも、チャットしてる感じではなく、動画とか広告を見てるだけ、な感じ。彼女自身にも問題があるんじゃないか? と思わせるような描写も多く。これではAmazon批判も矛先が鈍るのではないかと思ってしまう。
冒頭から、ピッキングが単調な繰り返しであることを強調するような映像が何度も繰り返して描かれる。ちょいしつこい。作業してるオーロラの顔もよく見えないのもなあ…。同僚のおばちゃんのクルマで送ってもらうときも、カメラは後部座席から撮るので、2人の顔がよく見えない。意図的なんだろうけど、見ていてイラッとするね。ちゃんと顔ぐらい映せ。表情をも見せろ、と。
オーロラは移民なのか出稼ぎなのか。説明はない。クルマで送ってくれるおばちゃんもポルトガル人。でも、なぜイギリスに来て働いているのか、の背景は分からない。オーロラはポルトガルの家族に電話もしない。仕送りの様子もない。家でも会社でもスマホ見ながら飯を食っている。スマホ中毒なのが痛い。
朝から晩までやってるピッキング作業。でも、途中からオーロラは昼飯も食べられなくなる。給料が安いのか? 外人だから安い? でも、日本円で20万や25万は稼げてるんじゃないのか? シェアハウスは7万ぐらい? 知らんけど。てなことを考えると、いったいこのオーロラという女性は、なぜ貧困に苦しみ、シェアハウス仲間のポテチを盗んだり、昼飯をチョコバー1つで済ませたりしてるのか? が疑問過ぎて同情できない。他にもピッキングの仕事をしている同僚はたくさんいて、彼らは暮らして行けてるんだろ? 未来が見えない? なのに、なぜポルトガルからイギリスにわざわざやってきて、働いているんだよ、思ってしまう。
オーロラがちょっと話した同僚男性で、自殺してしまった男性がいた。仕事の単調さと未来の見えなさで死んだ、と思わせたいようだけど、たんに鬱病かなんかになってただけだと思うぞ。だって、大半の従業員はフツーに働いているのだから。
やったことない立場でいうけど、あの手の単純作業は、嫌いじゃない。むかし、現像会社でフィルムのネガをハサミで切って袋に入れる、という単調なバイトをしたことがあるけど、単調ななかにも効率を上げるための工夫が必要で、面白く仕事した覚えがある。だから、自分だったら、ピッキングも自分なりに楽しみを見つけて仕事できそう、と思って見ていたよ。
金欠の原因は、スマホの修理代? でも99ポンドだから日本円で2万円ぐらいか。カード払いしてたし、そんな負担なのか? しかも、今月はオーロラが電気代を支払う番なのに、無視してる。別の住人が代わりに払ってて、「給料が入ったら振り込むね」といっていたけど、スマホ壊さなかったとしても電気代を払ってたら財政逼迫してたはず。ってことは、日頃から浪費癖があるんじゃないのか? ほら。後半での介護の仕事の面接の日は給料日で、なぜか面接前にケーキを買ったりしている。あのケーキはどうしたんだ? 面接官にあげたわけじゃないだろ。買ってすぐつまみ食いしてたし。食ったのか? ケーキの後は化粧品売場でアイシャドーの試し塗りしてる。次の仕事に期待して、かも知れないけど。地道に貯める、を考えてない感じ。給料日ぐらい贅沢してもいいだろ、とか、女だもの化粧品に惹かれてもしょうがない、てなことをいわれそうだけど、本人に計画性がなさ過ぎだ。
昼飯代がないから、チョコバーだけですませる。シャワーしてたら自分のがなくなってて、他人のシャンプー使ってしまう。シェアハウス住人の他人のポテチを失敬する。職場の集会でも、ケーキとゲーム、が提供される場面があって、まだ上司が話をしている途中にケーキのテーブルにいき、ケーキを3つばかり手に取って、場を出ようとする。スタッフが、最後まで話を聞け、というと、トイレ、といって許されるんだけど、ケーキ3つも手にしてトイレはないだろ。金欠のストレスからか、ピッキングの最中に、意図的に荷物を取り違えるようにしてしまう…。仕事が早い、と評価されていたのに、どんどん壊れて落ちていく。けど金がないのは、会社のせい? 自分にも責任があるんじゃないの?
そんな職場から逃げ出したい。で、介護の仕事の面接を受けることになって。でも、休みを申請したら、直前過ぎてダメ、と言われてしまう。ピッキングって、休みが取れないほど忙しいのか? でもその割りに、当日「調子が悪い」と電話すると休めるいい加減さ。で、面接へ。でも、面接官に「自分の紹介を」と言われて、絶句してしまう。体調が悪いのでは、と面接官に言われる始末。なんとか「友だちとカラオケ、映画…」とかいうけど、嘘っぱちだろ。これみて、あー、オーロラって女は空っぽなんだ、と思ったね。何にも関心を向けないタイプ。まあ、映画の製作者側からしたら、仕事が忙しすぎて時間を趣味に割けないから、とかいうんだろうけどね。でも、忙しくても好きなことをする時間は捻出できるんだよ。すくなくともスマホばかりは見ない。
で、公園。「閉園ですよ」と言っているのに、オーロラは公園の芝の上で気絶してる状態。まあ、面接が上手くいかなくて落ち込んでるということなんだろうけど、そこまでなるか。そりゃあんた、自分のせいだろうが。転職したかったら自分を磨けよ。あほ。と思ってしまった。
ラスト。オーロラと、同郷おばちゃんと出社したら、従業員がみな遊んでいる。システム障害で仕事にならない、かららしい。仕事がなければみんなハッピー? そんなラストは、全然迫ってこないのだった。それにしても、同郷おばちゃんは「デスクワークに決まった」といっていたのに、なんでまだピッキングの仕事に来てるんだ?
しかし、こういう展開で、社会性の強い映画にはならんだろうと思うんだが。もうちょい情が濃くて、上昇志向も学習意欲もあって、一所懸命に生きてるけど、移民だから落ちた、とか具体的に描けば同情できるのに。
という感じで、なにを訴えたいのかいまいちピンボケな感じな映画だった。移民、階級、差別などなど、壁となるものはいくらでもあるのに、そこに切り込まない。ただ、Amazon的倉庫の非人間的な環境だけを見せて、分かってもらおうとしている。わからんよ、そんなもの。ピッキングの様子を何度も描いても、非人間的な仕事に見えなかったし。
・倉庫の見学者に、会社のスタッフが「同じような荷物を同じ棚に集めてしまうと、ピッキングのとき人が集中してしまうので、意図的にバラして離しておいている」てなことをいう場面がある。単調な仕事でムダに労働者を歩かせている、といいたいんだろうけど、効率的にはそれがいいってことなんだろ? とくに非人間的でもないし、労働者に酷な感じもないけどね。そもそも、疲労困憊な労働者は描かれてなかったし。
・シェアハウスのポーランド男はいいやつで。電気代は立てかえてくれるし、飲みに誘ってくれるし、自炊の飯も誘ってくれたりする。それをいいことにオーロラは、頼り切ってる感じ。ポーランド男は物流の運転手? だっけ。収入があるんだろうけど。あるとき飲みに行って、オーロラが隣に座ってる彼に、頭をもたれかける。頼れる友人に飢えている、ということなのかも知れないけど、友人ぐらい素面のときにつくりなさい。妙な魂胆丸見えだ。それを、そっと拒否するポーランド男は、やさしいよなあ。
・同僚の、クルマを持っているオバチャンに「ガソリン代払って」といわれてたのは、乗っけてもらっているから、なのか。後日には、オーロラがスマホでオバチャンにお金を送金していたけど、ありゃ何の代金だったんだ?
そして彼女たちは4/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ベルギー/フランス映画。原題は“Jeunes Meres”は「若い母親たち」の意味らしい。公式HPのあらすじは「ジェシカ、ぺルラ、アリアンヌ、ジュリー、ナイマの5人の少女は、若い母親を支援する施設で共同生活を送っている。「ひとりじゃ育てられない」「嬉しいと思いたいのに」…。家族との関係、貧困など、さまざまな問題を抱えている彼女たちは、戸惑い、悩みながら、母になる。なるべき家族像を見いだせず、歩むべき道がわからず、押し寄せる孤独感にもがきながらも、時に誰かに寄り添われ、それぞれの未来を選び取っていく…。」
Twitterへは「社会派ダルデンヌ兄弟が、子供を孕んだ・産んだ10代の娘たちを描く。なんだけど5組もでてきて、誰のどの話かこんがらがってしまう。相手もダメ男、母親もクズ、本人たちも、アホ。環境や社会のせいだけにしてないところはいいかも。」
どうせまた無学で無軌道な青少年が登場し、悪さをしつつも置かれた環境や周囲の視線に耐えきれず文句ばっかりいってる映画を、ぶっきらぼうなタッチで撮ってるんだろうなと思ったら、その通りだった。登場するのは10代半ばで母親になった娘たち4人? 5人? と記憶できないほどで。公式HPで5人と再確認。はいいんだけど、「若い母親を支援する施設で共同生活を送っている」とは気がつかなかった。へえ、そうだったんだ。だって施設の入口とか看板や施設名は出てこないし、5人の娘が一緒にいるような場面もなかったろ。あったとしても、よく分からなかったよ。支援スタッフも、それぞれ違っていて、同じスタッフが何人もの娘をサポートしているようには、見えなかった。5人の母親の話を分割し、群像劇として仕上げてるんだけど、これが分かりにくい。黒人娘や妊娠中の娘もいて、区別されていると言えば言えるんだけど、似たような状況の、一見して似たような娘たちが入れ替わり立ち替わりブツ切れで登場するので、連続性に難があるように思った。まあ、こちらの記憶力が足りないのもあるのかも知れないんだが。いっそのこと5つのオムニバスにしてくれた方が分かりやすかったんじゃないのか、と思ったりした。だって、あのエピソードは誰のだっけ、が多いんだもの。
・ちゃんと区別がついたのは、妊娠してる娘の話かな。彼女自身が養子に出されていて、実の母親と面会する権利、を使って会うことになって。会って見ると、態度が素っ気ない。なぜ自分を捨てたのか、としつこく聞くが、もうこないで、と突き放される。その後、彼女は出産。娘をベビーカーにのせて追跡して実母の勤務先をつきとめ、乗り込んで行って話をする。なぜ捨てたのか、って、育てられないからに決まってるじゃん、と思うんだけど、本人としたら、なんとしても聞きたいことだったのかね。
・かと思うと、生まれた子どもを養子に出す娘もいる。母親はアル中かヤク中で、暴力男の後妻になるが、なんとか分かれた。母親は3人で住もうというが、娘は拒否。音楽をやってるという養子先に子供を預ける、だったかな。
・黒人娘の場合は、すでに出産。彼氏はヤク中で、少年院? からの出所を迎えに行く。と、すぐにヤクを要求される。そのうち彼はどこかに消えて、電話したら「分かれよう」といわれ、半狂乱になる。でも、真面目に働く姉がいて、一緒に住もう、といってくれるという話かな。最初は堕ろすつもりで姉から借金したけどなぜか堕ろさず、だったらしい。まあ、結果的にはマシな方か。
・彼がわりとまともで、一緒に住もう、といってくれているカップルは、ハイティーンなのかな。でも娘の方がヤク中で、ODでぶっ倒れたりする。ダルデンヌ兄弟のお決まりのバイクの2人乗りもある。で、アパートを探して、新生活を始めるぞ、な感じ。さて、うまくいくのか心配。
・あと1人はどんな話だっけ? 
な感じで、個々の娘たちやそのエピソードが記憶に残りにくい映画だった。
生まれてすぐ養子に出され実母を知らない。母親がクズ。のように生活環境が気の毒、もあるだろう。けど、同じような環境度でもちゃんと育つ娘も多いわけで。なのに、ここに登場する娘たちは、みな10代半ばで子供を産んで、人の世話になり、文句の言い放題。タバコは吸う、ヤクもやる。つまりは本人が若くしてダメで尻軽なだけじゃないか。貧乏とか家族がないとか文句は言うけど、家族があってもダメな娘もいる。捨てられた娘もいれば、すぐに養子に出してしまう娘もいる。彼女は18歳の未来の娘に手紙を書くけど、成長した娘が会いに来たら拒絶するのか? 受け入れるのか。それは分からない。
にしても、まだ中学か高校に通っていながら子供をつくってしまう例というのは多いのか? 教育がちゃんとしてないのではないのか? みんな文句ばっかり声高にいう。自分の目ダメさ加減には気がついていないのか。と、思っちゃうよな。
ダルデンヌ兄弟の映画は、こういうの、多い。すべて環境や社会のせい、という単純なものではなくて、本人の問題もあるんじゃないかな、と感じさせるところ。社会政策だけでは対応できないよな、それは。なんか、生まれ育ちの悪さが再生産されていくのではないかと思わせるところが、リアルで怖い。なんとなくハッピーに見える結末の娘も、一寸先は闇、と思わせる。
1975年のケルン・コンサート4/13ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/イド・フルーク脚本/イド・フルーク
ドイツ/ポーランド/ベルギー映画。原題は“Koln 75”。公式HPのあらすじは「ドイツ・ケルンに住む高校生ヴェラ・ブランデスは、音楽好きでナイト・クラビングも大好き。厳格な歯科医の父親への反抗心もあり、ふとしたきっかけで来独ミュージシャンのツアーをブッキングするバイトを始めることになる。仲間たちの協力を得ながら、持ち前のバイタリティを発揮して仕事が軌道に乗り始めた頃、ベルリンのジャズ・フェスティバルに出向いた彼女は、アメリカの天才ピアニスト キース・ジャレットの演奏を聴き、雷に打たれるほどの衝撃を受け、キースのケルン公演の開催を決意する。いくつもの困難を乗り越えて当日を迎えるが、舞台にはキースが希望していたものではない違う種類のピアノが用意されていて、キースは演奏を拒否。開演時間が迫りくる中、ヴェラは……。」
Twitterへは「ジャズ好きの淫乱女子高生がひょんなことからジャズメンのプロモーターに。キースのソロに感動し、故郷のケルンでコンサートを企画する! あれやこれやの直前のドタバタ! 当該楽曲が契約関係で使えないのは知ってたけど楽しめた。」
まったく同時代ではないけれど、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」は数年遅れで買って、よく聞いた。寝起きに聞くと、あの清澄なメロディがいい、なんてもてはやされたもんだ。とはいえ、キースのアルバムではヤン・ガルバレクとの「My Song」がいちばん好きだけどね。それはさておき、公録された「ケルン・コンサート」の裏話をドタバタちょいコメディタッチで、な映画。新聞評で、「ケルン・コンサート」の演奏シーンはなくて、それは契約の問題から、らしいけど、そんなんで映画になるのか? と思っていたけど、フツーに面白く見た。とくに当日のドタバタは、へー、な感じ。
ヴェラがなんでジャズ好きに育ったのかは知らない。父親は歯科医で厳格。母親はフツー。兄は落ちこぼれ。なので歯科医になることを求められていた、らしい。冒頭の、50歳の誕生会でのヴェラは、父親に「お前には可能性があったのに・・・。失望している」とみんなの前で言われていて。よっぽど父親とズレてたんだな、と。で、高校生の頃からジャズクラブに入り浸りで、たまたま演奏していたロニー・スコットと話してるときに、誰が好き、てなところで大御所の名前をずらずら挙げたりして。ズケズケものをいう娘だな。16歳だぜ、このとき。で、ロニー・スコットから「俺のツアーのブッキングをしてくれたら売上の10%(20%?)やるよ、と持ちかけられて、その気になってしまう。
でもって、いつのまにかケルンでも名の知れたプロモーターになっちゃってるんだが、その経緯はコマ落としてきにささっと。だから、具体的にどうした、はなくて、友人と電話のかけ方を考えたり、何だかんだして、次第に実績が積み上がっていった感じ。凄いね、この図太さ。で、結構な収入もあるのか、家を出て部屋を借りて、仕事はそっちでするようになっちまう。
で、キースのソロコンサートに遭遇するんだけど、↑のあらすじにあるように、へメリンで、と描かれていたかどうかはよく覚えてない。で、そのコンサートの楽曲は聴けるんだよね。ケルンのはだめなのなのに、なんでこっちはいいの? なんだが。さらに、このコンサートのピアノは、そんなに魅力的なフレーズあるわけでもないので(むしろ単調で暗い感じに聞こえた)、ヴェラの感動がつたわってこないのがちょっと弱いかな。
で、キースをケルンに呼びたい、となる。のだけれど、その経緯がよく見えないんだよな。後に分かるけど、キースはマネージャーと2人で軽自動車でヨーロッパを移動してツアー、してる。でも、ケルンに呼ぶってことは、ツアーの予定が全部組まれてないところにぶち込んだのか? ヴェラはどうやってキースのマネージャーと連絡をとり、ケルンOKになったのか、が見えない。このあたりをもっとちゃんと描いてくれたらなと。
でまあ、ケルンに呼ぶことになって。町一番のホールで開催しようとしたら、当日はオペラが入ってて、空くのは11時。しかも1万マルク(約100万円)の手付金を要求されて、あたふた。嫌いな父親に頼み込むけどけんもほろろ。だけど母親がこっそり貸してくれる。って、そんなお金をどうしてもってるんだ?
ヴェラは地元の放送局に、コンサートのことをPRしてくれ、と頼みに行ったり。ケルンの町にポスターを貼ったり。のあとあたりからヴェラの登場がなくなって、キースとマネージャーがメインになる。
はさておいて、ヴェラの淫乱放蕩ぶりが激しいのにビックリだよな。16歳なのにタバコやお酒は当たり前。かなり年上の彼氏がいてバコバコやってるし、彼氏とは別の行きずりの男を引っ張り込んで終わったところに彼氏がやってきて大騒ぎになったり。一方で呼び屋としてマスコミに取り上げられて高校退学。派手すぎるだろ。まあ、キースを読んだ頃は18歳になっていたようだけど、悪評の高さで有名だったらしい。
キースはマイルスのバンドを経たりしながらも、この頃はソロに専念。腰痛持ちで、経済的には苦境にあったのか、ツアーといっても、各地のプロモーターが送ってくれた航空券も払い戻してマネージャーの運転する小型車で移動している始末。だから腰が悪いんじゃないか?
にしても神経質な男なんだな、キース。会場で咳が聞こえたら演奏はやめるとか、なんとかいう特定のピアノじゃないと弾かないとか。いちいちうるさい。それが音楽評論家をクルマに乗せてやって。ケルンに向かうあれやこれや。「質問はするな」といってるのにあれこれうるさい評論家。質問しなくなったと思ったら高いびき。やれやれ。な感じでケルンに到着する。迎えるヴェラ。「飛行機なのに疲れてるの?」に、真実は言わないキースとマネージャー。
ところでキースを演じるジョン・マガロは小男小太りで、ちょっとイメージが違うんだよなあ…。
そして、翌日がコンサート当日なのかな。ヴェラが会場に行ってピアノを確認すると、これが頼んでおいたものではなくて練習用。ペダルは壊れていて、調律もされていない。こりゃ困った。で事務所に行くとスタッフが出払っていて…。キース御用達のビアノを探して市内に電話をかけまくると同時にピアノ調律師も呼び寄せて…。が昼ごろ。なんとか近くの役所に目指すピアノは見つかったけれど、石畳を移動するとピアノが壊れる! と言われて諦めて。練習用のピアノの修理と調律を頼み込んで。職人達は隣でオペラが個々なわれている舞台袖で修理に勤しむ。
違うピアノじゃ弾かない、と言い張るキース。ヴェラはホテルまで説得に行き、どうやって話したのかは忘れたけど、とりあえず演奏する、の約束を取り付ける。ヴェラは1300席埋まるか心配で街頭でビラ配り。そしたら仲間が「完売した」と知らせてきて、万々歳。なんだけど、なぜ完売したのか、そんなキースが人気なのか? とか描かれないのがちょっと不満かな。
会場にはヴェラの両親もやってきている。頑固な父ちゃんまで! のちにダメな娘、というんだけど、この日だけは、なのかね。よく分からん。で、コンサートが始まる。契約の関係らしく、ケルン・コンサートの楽曲は一切かからないのだけど。バックステージのヴェラ。楽屋裏の物置をのぞくと、なんとそこに、目指していたビアンが無造作に置いてあるではないか! なんだよ。しかし、会場の後方で聞いているのかと思ったら、こんなことしてたのか。
エンドロール前に、3人の婆さんが映る。右端は、50歳のヴェラを演じた役者だけど、あと2人はよく分からん。真ん中が現在のヴェラ本人なのかね。クレジット入れてくれよ。と、思う。
というわけで、評価は星4つ。なのは、私がジャズ好きだから、ちょっとおまけな感じかな。
って、あらすじを書いてるだけだな。もうちょっと突っ込んでみようか。
見終えて。よーく考えて見るとヴェラとキースの接触というのは短時間だったんだよな。出迎えと、ホテルに説得に行ったとき。終演後もあっただろうけど、さっさと次の都市にむかったかも知れない。なんとなくヴェラとキースの映画、と思うと、ここは違うような気がする。猪突猛進な女子高生ヴェラの話と、陰気で神経質なキースの話は別、な感じだ。しかし不思議なのは、キースが練習用のピアノでもOKとなったくだり、かな。ヴェラの話にそんな説得力あったか? 
朝日新聞の映画評だと、キースはこの日のコンサートに満足していなくて。映画に楽曲を使わせなかったのもそのせい、らしい。録音することはあらかじめ分かってたのに、煮え切らない男だな、キース。しかも翌1976年には日本でソロツアーをしていて「サンベア・コンサート」って10枚組のLPで売り出されてる。その後も日本でのコンサートも多いし、結構な実入りがあったんではないのか? と勘ぐってしまう。貧乏ツアーのように映画は見せてるけどね。まあ、ケルン・コンサートのLPが大ヒットして経済的にゆとりもできたんだろうけど。
などと、現実の背景も考えてしまうな。
落下音4/14ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/マーシャ・シリンスキ脚本/マーシャ・シリンスキ、 ルイーゼ・ペーター
ドイツ映画。原題は“In die Sonne schauen”で、意味は「太陽を見る」らしく、「目を閉じて太陽の光を感じる行為や、死という直接見ることができないものを直視しようとする痛み、あるいはその余韻を表現する詩的なフレーズ」らしい。でも英文タイトルは“Sound of Falling”。公式HPのあらすじは「1910年代、アルマは同じ村で、自分と同じ名を持つ幼くして死んだ少女の気配に気づく。1940年代、戦争の傷跡が残る中、エリカは片脚を失った叔父への抑えきれない欲望に気づき、自らの得体のしれない影に戸惑う。1980年代、アンゲリカは常に肌にまとわりつく“何か”の視線に怯えていた。そして現代、家族と共に移り住んだレンカは、自分の存在が消えてしまいそうな孤独感に蝕まれていく。百年の時を経て響き合う彼女たちの<不安>が、この北ドイツの農場を静かに覆いつくしていく」
Twitterへは「前情報なしで見た。ホラーと思ってたら違って、ドラマがないし時代が入り乱れてて、でも何の説明もないので退屈。少し寝た。3つの時代? と思ったんだがHP見たら4つの時代らしい。ときどきおどろおどろしい音楽。死を連想させる何か。だからなに。な感じ。」
実際、ほとんどあらすじも読まずに見た。「不可解な怪異を」なんてあったから、なんかちょいオカルトホラーっぽいのかな、と。ポルターガイストとかラップ音みたいな。で、見始める。足を縛って片足で松葉杖であるく娘。左足を切断し、ベッドにいる男。その臍のゴマをなめる? 気味悪。19世紀初頭な感じの農村で、子供たちがいたずらしてる。な感じで、キャラの顔もよく見えず、だらだら…。少し寝た。
室内のテーブルの位置を直している家族。レンガの出っ張りをでかいハンマーで壊す女。これは現代に近いのか? なんだ。ひとつの時代ではないのか。自転車に乗ってウナギつかみに興じる村民。河辺の親子。子供がひとり、川に落ちる…。が、それは妄想? これはいつの時代? 
スタンドアップパドルボードの少女と出会う娘。これは、ボードの娘がスマホを持っているから、現代か。でも、何のことわりも、とくにきっかけもなく時代が入れ替わり描かれる。見ていくと次第に、第一次大戦前後。70年代っぽい時代。そして現代。の3つの時代かな、と思いつつ見ていた。のだけど、戦後がどうの、といってる場面もあって。では1950年代もあるのか? 川には東西の国境、なんてあるから、ドイツ国境の村で、東ドイツ側なのか、と断片的に分かってくる。けど、正確には分からないまま。
19世紀初頭的な時代では、死んだ娘と死写真を撮る場面があって、興味深かった。祖母が死んだ場面は、あれはいつなんだろう? 納屋の上から少女が投身するのはいつ? 整理がつかんまま、だらだら。メガネ娘は70年代かな。刈り取り機に身を投じる場面。も、これまた妄想か。パドルボードの娘と友だちになった娘の場面では、溺れ死にしたのではないかと焦る場面。
まあ、あちこちに死の気配が濃厚で。ときどき、おどろおどろしい音楽でザワザワさせようという魂胆もあったり。でも、とくにオカルトでもないし、悪魔的な何かも登場しない。わけ知らぬ恐怖があるわけでもない。
娘たちの名前も、いくつか記憶に残りそうなモノもあったけど、時代が錯綜しているので記憶に定着しにくくて、結局、だらだら眺めているだけ、になってしまった。なので、後半にも少し、うつらうつら。
これは、クロニクルなのか? 過去の時代の誰かが次の時代の人物になって登場しているのか? も、定かではなく、確かめようとも思わなかった。ただもう、だらだら眺めてた。で、あとからHPをみたら時代をまたぐ系統図があって。なんか、かすかにつながってる様子。でもそんなの、見てただけじゃ分かんねえよ。ぷりぷり。
最後は農場で。メガネ娘? が強風で浮遊する。男の子も真似をして、浮遊する。なんの意味があるんだか、はてさて。
で、あとからHPの解説を読んだら、1910年代、40年代、80年代、現代、の4つの時代らしい。わからんよ、そんなの。どーでもいいわ。なぜかピントがずれたシーンもあったりする。意図的なんだろうけど、意味不明。
2時間ぐらいの映画かな、と思ったらなかなか終わらず。なんと155分もあったらしい。やれやれ。
カンヌで審査員賞を受賞とか、アカデミー賞のドイツ代表になったらしいけど、なんか思わせぶりなつくりで、さも高尚なフリをしているだけ、なまがい物にもみえる。やっぱ、具体性がすくなく、なんだかよく分からない映画は心に残らないよな。どこに落下するのか、もよく分からんし。
炎上4/16テアトル新宿監督/長久允脚本/長久允
公式HPのあらすじは「小林樹理恵(森 七菜)はあるカルト宗教の信者の家の子として妹と共に厳しく教育され育つ。2人は毎日訪れる辛い日々が消えるよう、そして教育熱心な父がいなくなるよう神様にお願いをしてきた。数年後。願いが叶い突然父親が亡くなる。しかし、父親がいなくなっただけで母親から教育を受け続ける現実は変わらない。ついに樹理恵は母の目を盗み、妹を残して家を飛び出してしまう。行き場のない樹理恵のSNSに届いたDMを頼りに向かうと、そこには若者たちがたむろしている広場が。そこで【じゅじゅ】という名前をもらい、寝る場所、食べ物、スマホをもらい、そして仕事をもらい、1人で母親の元に置いてきた妹を連れ出し、共に暮らすという“夢”をもらった。」
Twitterへは「家から逃げてきた吃音少女がトー横に寝泊まりし、仲間たちと…。って、こないだ見た『東京逃避行』とかぶる話だな。ほとんどドラマがなくて内向的に精神的に落ちていく感じ。なので、話としてはつまんないのだった。」
吃音の娘(小学生?)が、なにかというと父親に体罰を受ける。妹も、連帯責任だといって、父親のベルトで叩かれたようだ。それで身体中傷だらけ。父親に「死ね」と呪い続けたら10年後に死んだけど、今度は母親から体罰を受けるようになる。で、樹理恵は出奔。トー横にいって、誰かに会いたい様子…。
ところで↑のあらすじには「カルト宗教の信者の家の子」とあるけど、そんな説明あったっけか? それでKAMIという人物に会いたくてきたようなんだけど、誰それ? ↑のあらすじには「SNSに届いたDM」とあるけど、なんでそんなのが来たんだ? 画面にはラインらしきやりとりも映ってたけど、字が小さくて読めねえよ。
吃音なので樹理恵とちゃんと言えず、仲間からは、じゅじゅ、と呼ばれるようになる。
で、びっこの三ツ葉という娘と障害者どうしていうことで仲良くなる。三ツ葉はパパ活をしていて、じゅじゅも、1000万円ためて妹を救いに行く、という目的でウリを始める。トー横仲間も登場するけど、キャラが活かされてドラマに絡んでくることはほとんどない。リス、と呼ばれる青年から、じゅじゅにメールがあったけど、無視して出なかった、その直後に飛び降り自殺した、とかいう程度? でも、リスがどういう人物かはほとんど説明がない。
そういえば、じゅじゅは、一度、一時保護施設に収容されたんだよな。いつだっけ? でも、逃げ出したんだっけか? そこにいると、実家に戻されるから? いやあ、妹のことを考えたら、実家に戻る、が正解だったんじゃないのか? 
そう。この映画、ほとんどドラマがないのだ。じゅじゅが三ツ葉に誘われて売春を始め、いったん三ツ葉とケンカ別れする。そのうち1000万貯まって。三ツ葉に「たまった」と報告した直後、現金を貯めていたコインロッカーを開けたら空っぽ。1000万の話が広まっていて、KAMIが盗んだ? KAMIに連絡したら、KAMIと阿Qという、じゅじゅに気のあった男にレイプされ? トー横広場に放り出されていて。 それに絶望して、お客が忘れて行ったバイブレーターに火をつけて(その場所はどこだかよく分からないのだけれど)。気がついたら病院で包帯を巻かれていた・・・。で、保護司みたいなオバさんに、「ここは天国ですか?」と聞いたら、なんて言われたんだっけ? 地獄だっけ? 忘れた。とまあ、それだけの話で、ドラマチックはほとんどなく、中味も薄っぺら。実家から逃げて、目当ての人をたよってトーヨコに来るとか、仲間が売春してるとか、裏切られるとか、知り合いが自殺するとか、多くが『東京逃避行』とかぶっているので、オリジナリティがもいまいちだよな。
説明が少ないので分からなかったけど、両親はカルト教団? だからって子供に体罰? 父親が死んで母親も体罰? なら教師にいうとかできないの? いきなりトー横のカリスマに会いに行く、って発想がバカすぎではないか。しかも、SNSでDMって、なんでそんなのが来るの?
三ツ葉と知り合った。はいい。けど、金のためなら身体を売る、という発想がバカすぎ。なので、見ていて気の毒とか思わないし、共感もない。お金については、なんで銀行に預けないんだ、と思ったけど、身分証明できないから口座作れなかったのか? 
にしても、知恵がないから落ちるしかない、の典型のよう。世の中には支援してくれる人もいるのだし、いちどは保護施設にたどり着いたのに…。火をつけた理由もよく分からんし。1000万あれば妹が救える、という考えもよくわからん。高校生なら、妹を救ってどっかに逃げ込めや。いもうとをほっぽり出して母親の元に置いてきている、ってのも気になるし。まあ、アホはアホ、不運な人は最後まで不運、ということか。社会が悪い、親が悪い、といっても、響かないな。それをいうなら、もっとカルト宗教の描写をちゃんとやらないと、と思う。
・トー横に放り出されている状態で、万札が降ってくるのはだれかがじゅじゅの金を撒いたから? イメージ? それを拾っている東横キッズは、リアリティなさ過ぎ。
・にしてもトー横暮らしは汚そうだな。どこに寝泊まりしてるんだ? 着た切り雀か? 洗濯なんぞせずに、どろどろだろ、衣服は。そういうリアリティがないので、説得力がないね。
みんな、おしゃべり!4/20キネカ大森3監督/河合健脚本/河合健、乙黒恭平、竹浪春花
公式HPのあらすじは「ろう者の父と弟がいる古賀家と、その街に新しく越してきたクルド人一家が、些細なすれ違いから対立する。二つの家族の通訳として繰り出されたのは、古賀家で唯一の聴者である娘の夏海と、クルド人一家で唯一日本語が話せるヒワだった。二人は次第に惹かれ合っていくが、両者の対立は深まるばかり。そんなある日、古賀家の弟・駿が描いた謎の文字をきっかけに、小さな対立は街を巻き込む問題へと発展、想像を超えた結末へと向かっていく…」
Twitterへは「聾唖、手話、健常者、クルド人、トルコ語など、コミュニケーションの手段が異なる人たちがささいな誤解で対立。いい加減な通訳/マジな通訳と、無国籍文字で混乱していく。最後の理屈を超えたいい加減な結末は投げやりすぎだろ。」
本人は“ろう者”といっていたけど、どうやら聾唖のような古賀は、街の電気店を営んでいる。いまどきこの手の店がうまく行ってる話は聞かないけれど、そういう設定なんだろう。古賀は健常者の妻を数年前に亡くし、いまは健常者の娘の夏海と、下に弟がいる。弟も聾唖のようだ。という家族構成から、そうか、聾唖は遺伝するのか、と思ってしまうんだけど、そのあたりはいいのかなと心配。かつては妻が主体で接客し、修理などは古賀がしていたのかな。夏海は浪人中ということだけれど、映画の中で勉強している様子は全くなくて、それでいいのか、とツッコミを入れたくなった。
ある日、店に幼い少女をつれた母親が立ち寄った。なにも買わずに帰ったのだけれど、少女がテーブルにあった電球を落として割れてしまった。でも古賀は聾唖だから気がつかない。しばらくして、店にクルドのオヤジと、別にオバさんが1人やってきていて。それで電球が割れているのに気づき、古賀はクルドのオヤジを疑った。クルドのオヤジが店にやってきた理由は分からない。ここはちゃんと理由を提示するべきだよな。でないと、最初のズレがはっきりしない。
問題なのはクルドのオヤジが日本語をまったく理解も話もしないこと。聾唖と言葉の壁。このズレが、最初のきっかけになって、話が進んでいく。
ほかにも、小学校でのディスコミュニケーションがある。こんな学校、授業があるのかどうか知らないが。生徒は6〜7人で、なかに聾唖が2人だか3人混ざっている。教師は簡単な手話ができて、でも、聾唖者から見ると間違いだらけのいい加減な手話。この環境で同じ内容の授業を受けている。聾唖は教師の話していることに無関心で、勝手なことをしている。健常者側は聾唖をバカにし、聾唖側は「手話で喋れ」とののしる。フツーないよな、こういう状況は。なので、コミュニケーションの断絶を象徴しているだけ、のような気がして、ちょっと納得がいかない。
ここに絡んでくるのが、地域の活性化を標榜する連中で、商店街の代表を呼んで、アイディアを募ったり、イベントに参加してくれ的なことを言いはじめる。ここに古賀が参加し、クルド人たちが来ているのを知って激怒する。「謝れ!」みたいな、本来ならトンチンカンな言いがかりをクルド人側にいうわけだ。クルド人たちも黙ってはいない。司会者に向かって「俺たちはトルコ人じゃない。クルド人だ」と。
ここ、めんどくさい事情がある。クルドは国家ではなく民族。しかも、トルコ、シリア、イラクあたりに分散して生活している。だから、トルコのクルド人はトルコ語を使うし、シリア・イラクのクルド人はアラビア語を使う。でも、クルド人の誇りがあるから、「トルコ人じゃない。クルド人だ」となるわけだけど、そんな事情を訴えられても、知らんよそんなこと、だよな。で、クルド人側は、企画書とか案内に、トルコ語、クルド語、アラビア語での複数表記を要求する。まあ、これでも折れているらしいが。でも、そんな表記をしたって、それが分かる人はほとんどいないだろう。ただの自己満足だよな。だからクルド人は面倒くさい、になっちゃうんだよ、と思う。
クルドのオヤジの息子ヒワは、日本生まれのクルド人。なので日本語はペラペラ。父親の主張も分かるし、日本の事情も分かってる。いっぽう、夏海は古賀たちの通訳として出席している。ヒワと夏海は会話が成り立つから、問題点が見えている。ただ、誤解したままの互いの父親を説得するのは、困難。という困った状態にいる。という展開なので、なーんだ。やっぱり互いを理解するには言葉によるコミュニケーションが一番重要なんだ、となっちゃうわけで。この映画のテーマであるディスコミュニケーションの克服には、言葉が大切、ということになってしまう。
手話も言葉だ、ではあるけれど、少数者がつかう言語を健常者が習得する必要性は、ない。とも言えてしまう。同様に、日本人がクルド語を使えるようになる必要も、ないといえる。だって、時間と苦労のムダにしかならんし。ここで通訳が必要になるわけだけれど、そんな身近に手話ができたり、クルド語の使い手もいないだろう。将来的にスマホとアプリで解決かもしれないけど、それは本質とは違う。つたえる努力、理解しようとする姿勢はなくなっちゃうわけだから。
こんな具合にディスコミュニケーションについて考えるのは、この映画のテーマにうまく乗せられてしまっているわけで、その意味で製作者側の目論見は成功しているのだと思う。
もうひとつ、コミュニケーションに関する話がある。これは、古賀の息子がクルド人の落とした買い物リストを見てアラビア文字に好奇心。写して書いているうちに独自の言語になっていき、聾唖の同級生だけでなく、健常者の学友にも波及。子供たちが授業中もテストの時も、この怪しいアラビア文字を書き始める。まあ、これは、言葉や発声、手話の壁を超えた新たなコミュニケーションの出現と発展ということを言っているのだろう。もちろん、そういうことはあるだろう。でも、要するに書き文字でしかないんだよな。たとえてみればエスペラント語みたいなものだ。全人類的に普及することはないだろう。理想を描いても、そう上手く話は解決しないよ、と逆に思ってしまう。なので、明るく面白い子供たちの発想、とは理解しにくいのだ。
それと、店にやってくる痴呆老人みたいなのが、得体の知れないくねくね文字を書く、というエピソードもあった。発話はぐたぐただけれど、つたえようという意志はある存在。とでもいうのだろうか。ホツマツタヱじゃないんだから。意味不明の言葉をだされたって、どこにも、なるほど、は感じられないよ。
とはいいつつ、映画は最終的にクルド人と古賀を和解させる。クルド人のケバブ屋がオープンしたけど空調が効かない。それを知った古賀は発動機と工具をもって店に駆けつけ、修理する。これで仲直り。という、かなり安直でむりくりな流れ。たとえ言葉は通じなくても心=思いやりは通じる、とでも言いたいんだろうけど、こんなのはたまたまであって。日常的な意思疎通が不十分なら、すぐにまた諍いは起こりそうだ。それに、空調の修理というより、たんにブレーカーが落ちてたのを上げただけ、みたいに見えるのも、安手な感じがする。
ここで終わっていても良かったと思うんだけど、ムダなおまけエピソードがある。そもそも古賀は、独自のスーパーライトとかいう懐中電気を販売している。どこが開発したのかは分からないけれど、光が宇宙まで届く、という触れ込みだ。これが売れれば店の将来は明るい、と思っているのだけれど、まったく売れない。と思っていたら、エアコン修理の後に店に戻ってみるとたくさんの中国人が店の前にいて、スーパーライトが欲しい、といっているようなのだ(ここでも中国語と聾唖のディスコミュニケーションが少しある)。スーパーライトは飛ぶように売れていく。古賀がライトを空に向けると、しばらくしてUFOがやってきて、店に宇宙人がやってくる、というオチ。このチープな結末は何なんだ。宇宙語との対話とか言いだすのか? こんな余分なエピソードは要らんだろ。このせいで話は安っぽくなった気がする。
・宇宙人の前だったか、後だったか。電球を割った少女が1人でやってきて。古賀に硬貨を渡す。自分が割った電球の代金なんだろう。けど、なんで値段を知ってるんだよ。と思ってしまう。それに、古賀がそれを受け取っても、少女が誤って割った、ということは理解できないはず。冒頭の事件を最後に回収しようとしているのは分かるけど、スッキリ落ちないところがもやるね。
・夏美役の長澤樹が、びっくり目でなかなか可愛いけど、浪人中なんだから勉強しろ!
・商店街の会合のあと、夏海は外でヒワが釣りをしている場面に遭遇する。ここで夏海が、クルド語で「こんにちわ」だったかな、と挨拶するのがちょい感動的。日本に暮らす外国人が、簡単な日本語を覚えて挨拶しようとする。それに応えて、日本人も相手の言葉を少し学ぶ。これがコミュニケーションの第一歩だよ、という感じだ。まあ、ヒワと夏美は日本語で意思疎通できるんだけどね。
・にしても143分は長すぎだろ。
ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。4/21ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/田口トモロヲ脚本/宮藤官九郎
公式HPのあらすじは「偶然ラジオから流れたセックス・ピストルズに衝き動かされたカメラマンのユーイチは、ロックミニコミ雑誌「ロッキンドール」に出会い、とあるライブハウスへと足を運ぶ。そこで出会ったボーカルのモモ率いるバンド「TOKAGE」のライブに衝撃を受け、無我夢中でシャッターを押した。そこは音楽もバンドも観客たちも何にも縛られない生のエネルギーに溢れた異空間だった。カメラマンとしてライブの撮影を依頼されたユーイチはモモたちと交流を重ねる。やがて彼らの音楽は瞬く間に若者たちを熱狂させ、日本のロック史を塗り替えていくのだが」で、解説は「1978年。わずか1年の間に、その後のロック・シーンに大きな影響を与えた若者たちのムーヴメントがあった。スマートフォンもSNSも存在しない時代、自分たちの音楽を、自分たちの手で届けようと、楽曲も録音スタジオもレコードもすべて自分たちで創り、新しい道を切り開いていく【D.I.Y.】のスピリットで音楽業界に風穴を開ける。メジャーしかなかった世界にインディーズというスタイルを生み出し、自主レーベルを立ち上げ、着席が常識だったライブにオールスタンディングを導入し、数多のバンドが集うロック・フェスを開催。いまや当たり前となったカルチャーの原点を築いたのは、カリスマでもスターでもない―ただ、自らの表現を信じて突き進んだ、若者たちだった。そして彼らが残した火種は消えることなく、日本の音楽シーンに計り知れない影響を与えていく…」
Twitterへは「事実ベースらしい。1978からの数年間、一部で熱狂的に支持されたロックバンドたちと、撮影から支援までしてきた青年の熱量。知ってるバンドは一切登場しないのでどうなることかと思ったけど、尻上がりに楽しめた。」
こんな音楽シーンが実際にあった、のか? 1978年といえば、あの頃か…。なんだけど、そんな音楽シーンのことは一切知らなかった。自分が無知で情報に触れていなかった、のか。知る人ぞ知る、だったのか。まあ、インディーズという言葉もなく、ライブ主体で、レコードもだせないようなマイナーバンドの叫び。とどいてくるはずもない。けれど、届いていた人はいたんだ。なんか、別世界の出来事のようだ。でも、事実なんだよな。
まずは、学園祭での過激なコンサートと、ユーイチのエピソードがあり、そっから時制を遡る。セックス・ピストルズ→「ロッキンドール」→「TOKAGE」のライブ→サチ…モモ、あたりの流れは、映画としてはたどたどしい。間延びしてるし、テンポも悪い。個人的な見解になるけど、「TOKAGE」のライブでユーイチが勝手に写真を、しかも、フラッシュを焚いて撮影し始めるのは、イラッときた。モラルに反するだろ。文句を言う客はいなかったのか、と。まあ、当時はルーズだったのかね。コンサートやライブの撮影にも、ルールってもんがあるはずなんだが。と思っていたら、案の定スタッフがフィルムを出せ、と詰め寄ってきた。そこに、「この人はいいの」とサチが入ってきて、「ロッキンドール」の投降者だからいいの、って流れは無理くりだな。
あとはユーイチが「TOKAGE」だのなんだのの、パンク的なコンサートに通い、撮りためていく。それが「ロッキンドール」にも掲載され、関連するバンド全体を総称して東京ロッカーズと名乗り、合同でコンサートを企画したりして注目(ったって、ローカルに、だけど)を集めていく、って流れだな。客が多くなりすぎたので椅子を撤去してオールスタンディングにしたり(定員オーバーで当局からの指導はなかったのかと気になった)、自主レコードをプレスして販売したり。な展開は、ちょっとワクワクしてくる。
メジャーデビューして金が欲しい、バイト生活はしたくない、という声も上がる一方で、大手の言いなりになったり媚びる音楽は嫌だ、やりたい音楽を続ける、にこだわるのは「TOKAGE」のモモ。メジャーからモモには、「君だけでいい。他のメンバーは揃えるから。そしたら契約する」と言われても無視する。潔いといえばそうなんだけど、経済的な考えはまったくないのが、面白いというか、不思議。まあ、妥協を知らないということだろう。
サチもバンドを結成する。ロボトメイアというバンドの、無機的なボーカルが面白かったな。そういや、似たようなのは、イカ天にも出てたような気がする。
よく分からないのもどんどん登場してきて。アメリカ帰りのバンドとか、あと、大森南朋が演じてるグループなんかは、どういうつながり? と、スッキリしないままだったけど、まあ、勢いで見せようという考えなんだろう。後半に登場する「ごくつぶし」の中村獅童なんかも、突然すぎて何じゃラホイだったけどね。
なんてうち、なんと「TOKAGE」が原盤権を主張しながらメジャーデビューしてしまう。ただし、音楽自体は歌詞もよく聞こえないし叫んでいるだけ、なのでビビッとくることはなかったけど。まあ、ライブでスタンディングで興奮しつつ聞くのとはまた違うんだろうな。
ユーイチはいつのまにかプロデューサー的な立場になっていて、メジャーとの交渉や広報まで担当するようになる。けれど、無給だった、ってんだから、物好きだね。というより、収入はどうなってたんだ? と、気になってしまう。
なんてうちに、「TOKAGE」は反公害の楽曲はリリースできない、ということになり、じゃあ自主レーベルで、と販売したりする。けれどいつのまにかモモが薬中になって実家に引きこもり。警察のお世話になったり。冒頭の、学園祭の過激なコンサートにユーイチがついていった経緯なんかにつながる。後から知ったんだけど、この学園祭のバンド「解剖室」は実際はスターリンで、ボーカルの未知ヲのモデルは遠藤ミチロウなのか、と。登場するバンドで唯一、名前だけだけど知ってるぞ。学園祭に呼ばれてブタの頭だの内臓を客席に投げ、全裸になって放尿して、反省どころか学園祭のスタッフを納得させてしまうとか、さらには、未知ヲはバンドのマネージャーも兼ねていて、交渉ごとなんかは一般人と同じようにできる、っていうのが笑えた。
ところで。登場する役者が、ずうっと分からずにいた。たとえば未知ヲはメイクのせいもあるけど、仲野太賀と分からずに見てた。サチも、尖った顔の娘だな、と見てたんだけど、後半になって口元を見てて、あれ? 吉岡里帆? と、やっと分かった。ずっとサングラスの大森南朋も、しばらく分からずにいた。モモの若葉竜也はなんとなく分かったけど、他の映画とちょっと雰囲気が違うな、とかね。意図的に役者としての存在を消すようなメイク、演出をしてたのかもね。
最後は、モモの復活。東京ロッカーズという呼び名の解消。中村獅童の再登場場面で終わるけど、中村獅童の存在というかバンドとしての影響力がよく分からんので、なるほど感はなかったかな。
にしても、これがたった1年の間の出来事っていうのも不思議。しかし、みんな、その後はどういう生活、音楽活動をしていったのかね。スターリンの遠藤ミチロウは分かるけど、他のみんなはどういう経緯をたどったんだろう。パンクに生きていったのかね。
・新宿ロフトにこんな時代があったのね。東京ロッカーズのコンサートに仮装行列みたいな客がやってきたり。実際の写真もインサートされるから、ホントなのかよ、と。
・ユーイチの友人で、大手レコード会社に就職したのがいて、彼との交流が面白かった。ひさびさ遭遇したら、東京ロッカーズ、という名称を間違って使用したから謝罪に来た、と。謝罪の相手がユーイチと知ってびっくり! さらに、ユーイチがレーベルを立ち上げて製作者側にまわった頃には、相手は会社を辞めてバンドに専念しているとか。まあ、脚本の妙というか、アクセントとして面白かった。
・モモの実家がレコード屋っていうのも、ホントかどうか知らないけど面白い。実家暮らしのパンクロッカー? なかなか皮肉が効いている。ロックより演歌、の母親がお忍びでロフトに聞きに来てたり。
Riceboy ライスボーイ4/23ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/アンソニー・シム脚本/アンソニー・シム
カナダ映画。原題は“Riceboy Sleeps”。公式HPのあらすじは「若くして恋人を亡くし未婚の母となったソヨンは、赤ん坊の息子ドンヒョンを連れてカナダのバンクーバー郊外へと移住する。ソヨンは工場で働きながら、言葉や文化の壁、人種差別に直面する日々の中、懸命に息子を育てていく。やがて16歳となったドンヒョンは英語名“デービッド”を名乗り、すっかりカナダでの生活になじんでいた。しかし、彼の心の奥底では自身のルーツ、特に一度も会ったことのない父親の存在への思いが次第に募っていく。そんなある日、二人に届いた衝撃的な知らせをきっかけに母と息子は初めて韓国へ帰郷し、悲しみの過去と対峙することになる…」
Twitterへは「カナダに移住した韓国人母子家庭の、ステレオタイプな弱り目に祟り目な話。話がとっ散らかりすぎ。明るい未来も見えかけるけど、救いよりつらい現実が待ち受けているんだろうな、と。」
映画の冒頭で移住までの経緯がナレーションで紹介される。それによると、捨て子のソヨンは施設度育ち。施設を離れ、兵士の青年とつきあい、子を生む。が青年は除隊直後に自死。韓国との縁を絶つためカナダに移住、らしい。彼氏はPTSDか? しかし、ソヨンの捨て子エピソードは、本筋にはまったく関係ない。なぜ韓国を捨てたのかも分からない。彼氏とは結婚してたのか? よく分からん。移住先がカナダなのもよく分からん。にしても、1990年前後、韓国はまだ海外移住するような貧乏国だったのか? 疑問だらけ。
工場での単純作業で、男性工員にケツを触られたり、は、まだ男女差別があったからか。東洋人差別も。女性工員に日本語で挨拶され、戸惑う場面が興味深い。日本人も多かったんだろう。日本人はワーホリかな。ドンヒョンは、学校では韓国弁当をからかわれ、東洋人差別を受ける。ソヨンは、やられたらやりかえせ、と教える。その結果、女の子も含めて殴ってしまって停学に…。まあ、そうだろう。
しかし、このあたりまでドラマがほとんどないんだよな。カナダでの東洋人差別なんて、当たり前のエピソード。とくに驚くに値しない。いまいちヒキがないな、と思いつつ見てた。で、一気に1999年になって。ドンヒョンは金髪の青年になってる。実は17、8の高校生かと思ったら、設定では15歳だという。あいかわらず学校では「おい、韓国」なんて呼ばれていて、でも、とくにイジメはなくて。でも、授業中に「韓国、韓国」といわれるので逆上し、相手を教科書で殴りつけてしまう。でも、どういうイジメがあったのか見えないので、なんかモヤモヤする展開なのだ。これでまた停学だっけか。
じゃあドンヒョンは孤独だったかというとそうでもなくて。白人の仲好しが一人いて、マリファナを一緒にやったりしている。でも、その彼の存在は、話の本筋に大きく影響はしない。なんか、出てくる人物やエピソードが断片的で、中途半端なのばっかりなんだよな。
で、大きな節目は、ソヨンの膵臓癌ステージ4。末期らしい。工場の同僚で、同じ韓国人のサイモンにプロポーズされたばかりなのに…。サイモンは養子だっけ。まあ、白人家庭で育った、ってことだろう。韓国からの養子については、他にもいくつか映画になってるから見たことがあるけど、まだまだ貧乏国だったんだよな、当時の韓国は。とはいえ謎だよな、サイモンは。そもそもソヨンは20歳で出産したとして35歳ぐらいか。すごく美人でもないし、趣味や芸事もよくわからん。工場で優秀ということもなさそう。共通点はルーツが韓国だということだけ。なのにサイモンはソヨンにぞっこん。うーむ。説得力が足りない。ちなみにサイモン役のアンソニー・シムは、この映画の監督で、韓国生まれでカナダに養子に来た経歴らしい。
それと、もうひとつ。ドンヒョンは学校で、ルーツについて研究発表するようにいわれていた。で、ドンヒョンはソヨンに父親のことを聞くけど、いつも誤魔化されてばかり。
というわけで、養子としてカナダにやってきた韓国人が、カナダに育ちながら差別を受けつつ成長し、いつしか英語名を名乗ったりしているけど、ルーツはどこなんだ? 自分は何人なのだ? と考える話であるのは分かるんだけど、なんか人物造形もエピソードも薄っぺらで掘り下げが甘いんだよな。
でまあ、突然、農村地帯の場面になって。どうやらソヨンとドンヒョンは韓国にやってきたらしい。で、死んだ彼氏の実家を訪問しようとしているらしい。けれど、なぜそういうことになったか、が説明ないので、どーも素直に受け止められない。ドンヒョンが「行きたい」といったのか。余命の少ないソヨンが息子に、父親のルーツを見せたいと思ったのか。それはなぜか? が明示されていないので、もやもやするんだよな。で、過疎な農村を訪ねると、そこにいたのは死んだ彼氏の弟、なのか。母親もいたけど、「顔も見たくない。帰れ」とつっけんどん。そこに父親が戻ってきて、「飯でも食ってけ」となる。この経緯も、よく分からん。なぜ母親はソヨンやドンヒョンに冷たいのか? もしかして、息子の死はソヨンのせいだ、と思っているのか? 父親は、母親の具合が悪い、とかいってたけど、そのどこが関係ある? 一方で、弟(ドンヒョンの叔父)はやさしく、ドンヒョンに「会えて良かった」といっている。父親も、非難めいたことは一切いわない。いったいこの家族はなんなんだ? それと、弟がまだ独り者らしいことも気になった。30代半ばだろ? 農村の男にには嫁のきてもおらんのか? 
さらに気になったのは、死んだ息子を山の頂上に葬った、ということ。父親は、自分らと同じく朽ちていくのは気の毒、みたいなことをいってたけど。家族の墓をあんな山の上につくるという発想が理解不能。墓参りも大変じゃないか。それに、墓地でもなさそうだったし。
で、実家を辞するんだけど、父親はドンヒョンに、形見だ、といってリュックを渡す。中には軍服と写真のようなもの。写真が気になった。もしかして、ソヨンと一緒ののもあるのか? 映るのか? と思ったら、映らないので、がっかり。弟に、墓への入口まで送ってもらったのか。ソヨンとドンヒョンはハアハア言いつつ墓へ。しっかし、弟も少しは気を利かせて、ソヨンをおぶって連れてってやるとかすりゃあいいのに。と思ったね。まあ、病気のことはいわなかったんだろうけど。
ここでソヨンは、韓国式の座ったり立ったりの儀式をするんだけど、そんなの省略すりゃいいのに。と、思ったね。てなわけで、映画はこれで終わり。あまりにも素っ気なく、とくに深掘りもせず、なので迫ってこなかった。まあ、ルーツに関する映画なんだろうけど、ソヨンはドンヒョンに、自分は捨て子だった、と話しているのだろうか? が気になるね。まあ、ルーツがたどれない韓国人、のメタファーとしてそういう設定にしているんだろうけど。ドンヒョンは故郷を訪ねて祖父母叔父に会えて満足の部分はあるんだろうけど、母親に拒絶されるソヨンは気の毒すぎ。死んだ彼氏とつき合ってた頃から、母親には嫌われていたのかな。
最後、故郷に行って、ちょっと明るい期待のようなものを感じさせるけれど、現実は厳しいはず。余命はあと数年? もあるのか? 経済的に、ドンヒョンはどうなるのか? 住む家、進学は? など壁しか見えない。サイモンがどこまでやってくれるか分からんし。ひたすら暗いとしかいいようがない。
映画的には評価が高いようだけど、どこをどう評価されているのか、よく分からん。もやもやしか残らない話だった。
・カナダ人社会から、英語式の名前に変えるように言われるのは、理不尽ではないのかね。それを簡単に受け入れ、ドンヒョンもデービッドになっちゃってるし。日本統治下で指名を奪われた、と主張している国にしては、名前へのこだわりがなさ過ぎに感じられた。
・ソヨンは、一介の工場労働者。しかも母子家庭。なのに立派で広い家に住んでるんだよなあ。不自然すぎないか? あんな家に実際に住めるのか? カナダでは。
バベットの晩餐会4/26シネマ堀切監督/ガブリエル・アクセル脚本/ガブリエル・アクセル
デンマーク映画。原題は“Babettes gaestebud”。公式HPのあらすじは「19 世紀後半、デンマークの小さな漁村で牧師だった父の遺志を継ぎ慎 ましく生きる初老の姉妹。ある日、彼女たちのもとにひとりのフランス人女性がやってくる。パリ市の動乱(パリ・コミューン)で家族を失ったバベッ ト。彼女はメイドとして姉妹に仕えるが、ある日偶然買った宝くじで大金 を手にする。かつてパリのレストランの名シェフだったバベットは、賞金を使って豪華なディナーを計画するが…」
Twitterへは「19世紀後半、デンマークの漁村で、亡き神父の誕生日に開催された晩餐会。食材が海亀やウズラなので、おののいていた12人の信徒たちも、本場パリの味に目覚めていく、のかな。前半は淡々と、後半はちょいシュールなコメディだった。」
シネマ堀切といっても名前だけで、映画館ではなく個人宅でのDVD鑑賞。
↑のあらすじにはデンマークとあるけれど、映画の中では“ユトランド”としか表現されない。デンマークの話とは分かるけど、どうなんだ? で、見終わって地図を見たら、先端の方は対岸すぐがスウェーデンで、ノルウェーもすぐなんだな、と再確認。スウェーデン公演に来ていた歌手が、ちょっと気休めにユトランドへ、も理解できる気がした。とはいえフランスからは遠いので、バベットがどういうルートで村にやってきたのかは興味がある。最後は小型ボートみたいだったし。
でまあ、そんな海辺の寒村に住む姉妹の話。美人で有名だったけど、父の牧師はやってくる男どもをみな拒絶。メガネにかなわなかったのかもしれないけど、この先姉妹はともに独身生活なので、罪作りな父親だな、と思う。で、そんな村に静養にやってきた兵士がいた。あの男もフランス人? よく分からずだけど、伯母が村に住んでいて、そこに住まって、教会に来てみれば美人の2人がいて・・・。で、姉目当てで足繁く牧師の開く勉強会みたいのに参加する。でも、突然、帰国しちゃうんだよな。その理由がよくわからん。突然げっぷとか胸が詰まったり。恋心の緊張のあまり、なのか?
のあとは、スウェーデン公演にやってきた歌手が、忙しさから逃れて村を訪れ、こんどは妹に惚れる。で、声楽を学べば賛美歌に役立つ、とかいって教え始めるんだけど、その様子が胸くそ。ムダなボディタッチしつつ合唱して、気持ち悪い。まあ、この歌手がぽっちゃりなのもあるんだけど。で、妹は「声楽はもういい」と手紙で断りをいれて。で、歌手は落ち込んでパリに帰っていく。…という、姉妹に惚れた2人の男の話までは淡々と地味に暗くて、この先どうなるんだ? な展開。でね、若い頃の姉妹は、姉は、まあ可愛い。でも、妹は馬面でギョロ目。キャスティングはどうなってるんだ、なレベルなんだよな。
それから時間が経ち、牧師は亡くなって。行かず後家の姉妹は陰気に暮らしている。というところに、ある嵐の夜、一人の女・バベットが訪ねて来る。これが妹に声楽を教えた歌手の紹介で、パリ・コミューンの騒ぎから逃げてユトランドにやってきたという設定なんだけど。いくら亡き父の牧師の教えが「善行を施せ」だったとしても、因果はあるけど縁が薄すぎないか。パリからデンマークの果てまで、の必然性が感じられない。それはさておき、バベットは家政婦として使ってくれというが、姉妹にはそんな経済的な余裕はない。そしたら無給でいい、というので置くことにする。
バベットの出自は後で分かるんだけど、歌手の紹介、デンマークの寒村の教会に避難、という流れに説得力を持たせるには、バベットが熱心なキリスト教信者であるとかにしないと、いまいち納得しづらいよな。
でまあ、バベットは家事一切をうけもつことになるんだが。貧乏人に食事をふるまったり、健気に働きつづけている。と思ったらパリから手紙が来て、なんと宝くじが当たった、という。1万フラン。当時のレートにすると100万円ぐらい? なのか。それはいいけど、どうやってデンマークにいるのにフランスの宝くじなんか買ってたんだ? が気になった(一緒に見てた人に言ったら、人に頼んで買ってもらっていた、と字幕にあったという。気づかなかったよ。はは)。しかし、宝くじを買う層って、貧乏人なのか。それとも庶民なのか。金持ちは、まあ、買わないよな。金持ちになりたい、と望む下世話な下心があるから買うんだよな。違うか? と、唐突すぎて違和感しか感じなかった。
村は、牧師がいた頃より寂れ、信者の数も少なくなっている、らしい。牧師が死んで後、教会には新たな牧師を置かなかったのか。巡回の牧師は来なかったのか。は、気になるね。映画では、信者たちのまとめ役は老いた姉妹で、定期的に食事会を開催していたようだ。けれど、信者の間では互いに猜疑心が起こり、言い争い、罵り合いが続いていた。食事会の最中にも口論は絶えない。姉妹は心を痛めていた、という流れ。のなかで、毎年恒例の、亡き牧師の生誕の祝が行われることになった。
姉妹は従前通りパンとスープだけの質素な生誕祭にしようと思っていたのだけれど、バベットが、フランス料理でもてなしましょう、と言ってくる。まあ、フランス人なのだから筋は通っているけれど、そこそこな料理なのかな、と思っていたんだけど。どーも腕まくりで張り切っている感じ。
このあたりでよく分からない場面が一つ。姉妹がバベットに札束を渡すんだよね。札束は箱に入っていて、バベットはそれを自室にもっていく。あれは、これまで払っていなかった給金のつもりだったのか。あるいは、フランス料理の食材の足しにしてくれ、ということなのか。よく分からなくて、もやった。
で、バベットは、ユトランドにやってきたとき手伝ってくれた甥に頼んで、なのか。食材の買い出しに行く。これはパリに行ったのか? 何日かかるんだ? しかしフツーに戻ってきて。持ち込んできたのは生きたウズラたち、大きな海亀、その他どっさり。え? と思ったのはかつぐほどの氷があったこと。あんなのすぐ溶けちゃうだろ。と思ったんだけど、何に使ったのかは結局、最後まで分からず。
この食材の山をみて嫌悪感を感じるのが、町の住人たち。あれを食べるのか? な目をしている。しかし、ユトランドあたりでは、ウズラは食べないのか? 海亀も。と思ってしまう。肉食系なんだから、それほど違和感ないと思うんだが…。
テーブルに着いたのは、いつもの信徒たちは、将軍とその伯母。彼は、かつて姉に惚れてでも、なにも言えずにすごすご帰っていった兵隊で、いつのまにか将軍になっていたのだ。いやその。歌手はバベットを紹介したというつながりがあるけど、あの兵隊はずっと登場しないから、どういう意味があったのだ? と疑問を感じつつみていたんだよね。でやっと、ここにきて登場した。とはいえ、将軍と伯母がいきな亡き牧師の生誕祭にやってきているのは、違和感。将軍はさておき、老齢の伯母は日頃開かれていた食事会にやってきていたわけでもないので。
でまあ、牧師の生誕祭に向け、バベットは料理を始める。調理場にいるのは、将軍と伯母を運んできた馬車の御者と、バベットの甥なんだけど、この甥はどういう位置づけなんだろう。フランス人? デンマーク人? そのあたり説明がないのでよくわからんが、15歳ぐらい何だよね。
うずらは羽をむしられ、首をちょん切られ、なんかパイみたいなののアクセントに使われる。キャビアやトリュフもつかってる様子。この製作過程は、ヨダレが出るくらい美食の香りがして、素晴らしい。
いっぽうの信徒達は、「会話では食事のことには一切触れないこと」ということで合意する。なんでなの? 食材がグロテスクすぎるから、味わってはいけない、ということらしい。へんなの。
次々と運ばれる料理。将軍は、フランスの高級料理がここで食せるとは! と感動しまくりだけど、町の信徒達はうさん臭そうにおどおどと口に運んでいる感じ。将軍は、ウズラの頭を囓ってチュウチュウ吸いながら、これはフランスのなんとかいう店が考案した料理だ! なんて興奮している。信徒達は、げ! な感じで真似して食べる。
まあ、この時点でバベットが、将軍の言うレストランで働いていたんだろうことは分かる。しかし、信徒達は、将軍に、味はいかがかな、と問われても天気のことを答えたりして、トンチンカン。まあ、そういう合意で席に着いているのだから、そうなんだろうけど。けれど、料理が進み、酒が入るにつれ、少しずつ心がゆるんできて。それまで言い争っていた相手にそっと、あれは言い過ぎだった、実はおれもズルしてたんだ、なんて告白して和んでくる。表面的には無反応でも、美食によってこころが開け、ゆるんでくるのが面白い。料理映画として、なかなかだ。
こうやって亡き神父の生誕祭は終わり、信徒達の仲違いや猜疑心もなくなり、降る雪の下でみんなで手をつないで和やかになっている。
バベットはパリのレストランの料理長として活躍していたんだと。姉妹がバベットに「宝くじの資金でパリに戻るのか?」と聞いたら、「食材は宝くじであてたお金を充てた。店では1人あたり1000フランの料理。すべて使い果たした。これまで通り、ここで暮らしていく」と応える。なんとまあ。世俗を捨て、欲を捨て、感謝の気持ちで与えるというキリストの教えを実践しているのか。しかし、なんで突然、信仰に目覚めるんだ? な疑問はあるけど。
というのが話の流れなんだけど、一緒に見た人たちと話していくうち、いろんな仕掛けに気づいてきた。たとえば、信徒と将軍と伯母で、招かれたのは12名ほど。あ。ということは、あの生誕祭は最後の晩餐で、集まったのは12信徒のメタファーなのか。では、中心となるキリストは、だれ? 亡き牧師? あるいは無欲で与えるバベットもキリストの一部かも。バベットは故郷を追われ、さまよってユトランドにやってきた。ということは、善きサマリア人を象徴しているのかも。12信徒のひとり、ユダは裏切り者だ。では、誰なのか? でも、この映画ではユダを個人に特定していないのではないか。猜疑心に犯され、罵倒と避難を繰り返す地元の信徒たちに分散して存在する悪の心、という表されているような気がする。そして、将軍の、妹への時を超えた愛は、無欲の心、なのか。無欲というのはバベットにもあるし、姉妹や信徒たちにも見いだせる。そういうキリスト教的なイコンが、いろんなカタチで埋め込まれている、と見ることができる。という意味で、読める映画になっているのが面白いね。
ところで…。
・姉妹の生活は、どうやって支えられていたんだろう? 信徒の寄進のみ?
・食事中、将軍はチラチラと姉の方を見る。それほどの恋心が、若いときの短期間で生まれたとも思えないんだけど、まあいいか。
・若い頃と歳を取ってからの姉妹の役者が、頭の中でズレる。というのも、若い頃の姉は丸四角な顔立ちでたれ目で、可愛い。妹は馬面でギョロ目、だ。なのに、歳とってからの姉は馬面でギョロ目で、妹が丸四角にな顔だから、こんがらがる。それに、若いときは左が妹で右が姉の並びだったのに、歳を取ってからはそれがときに左右逆だったりした、ように思う。なんか、あれは間違えるよ。
オールド・オーク4/27ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ケン・ローチ脚本/ポール・ラヴァーティ
イギリス/フランス/ベルギー映画。原題は“The Old Oak”。公式HPのあらすじは「イギリス北東部、とある炭鉱の町で唯一のパブ、「オールド・オーク」。活気溢れる時代から30年の時を経て、今は厳しい状況に陥っているが、町に住む人々にとっては最後の砦となる止まり木のような存在だ。店主のTJ・バランタインは、試行錯誤しながらなんとかパブを維持しているが、町がシリア難民を受け入れ始めたことで、パブは居場所を争う諍いの場になってしまう。先行きを危ぶむTJだったが、カメラを持ったシリアの女性ヤラと出会い、思いがけない友情を育むことになる。果たして、彼らは、互いを理解する方法を見つけられるのだろうか」
Twitterへは「社会派監督ケン・ローチ。廃れた元炭鉱町にシリア難民が押し寄せて…。下層同士の対立は、やっぱ哀しいね。みんなが外れクジを引いてる感じ。手短に言うと子ども食堂の話だったけど(笑)。」
ケン・ローチが取り上げるのは、イギリスが引き受けたシリア難民のあれやこれやと、受け入れ先になった、いまは没落して人気もない元炭鉱町の固陋なジジイたちとの軋轢だ。上から正論をかざして、難民は受け入れるべき、というメッセージを掲げるのではなく、世界情勢がイギリスの田舎町にもたらす、思わぬ波風を描いている。当事者たるシリア難民、英国人の支援者、仕事もなくパブにたむろっている元炭鉱夫、教育水準の低そうな地元の青少年…。その接点になっているのは、オールド・オークというパブで、経営者はTJというオッサン。父親は20年ぐらい前に炭鉱の事故で死に、自分も炭鉱夫だったのかな? でも仕事替えをしてパブを開いた、のかな。将来を嘆いて自死しようとしたこともあったけど、なついてきた子犬に救われ、2年ちょっとパブを続けてきた。
町は人口も減り、住宅の値段も賃貸料も下がっていて、自宅を売って転居しようにも不可能…。鬱屈とした空気が漂うなか、政府は難民の受け入れ先をこの町に選んだ。仮設住宅、ではなく、空き家になった住宅を借り受け、そこにシリア難民が続々と押し寄せてきている。老人から夫婦者、子供たちまで結構な数だ。元からの住人には、支援するなら難民より先に自分たちを、という思いもあるようだ。それに、民俗習慣のちがうアラブ人がうろうろするのも目障り、と感じている様子。
そんななかでTJは難民に好意的で、カメラ好きの娘ヤラと交流を持つようになる。これを気に食わないのが、むかしからのパブの常連たち。まあ、でも、常連達の気持ちも分からなくもない。ヒジャブをまとった女達がうろつき、知らない言葉を話す。いったいここは、イギリスなのか? 映画の中でも言っていたけど、受け入れ先を都市部につくらず、ここにする理由は何なんだ!? 押しつけてきやがって! というのも自然な憤りだろう。
冒頭で気になったのが、ヤラが勝手に写真を撮りまくることかな。地元の青年が「撮るな。消せ!」といっているのに、そうしない。支援者の男性(TJだったかな?)が、「あとでなんとかする」と地元青年を説得してたけど、結局しない。地元青年がヤラのカメラを勝手にカバンから取り出し、いじっていたらヤラが取り替えそうとして。その弾みでカメラが落下して壊れてしまう。これに対してヤラは「弁償しろ」というのだけれど、気持ちは分かるけど、お前が断りなく写真を撮るからそうなったんだろ、とも思ってしまう。ささいな意思疎通のズレは、互いにあるように思える。
難民の子に支援者が自転車を与えるのを見て、地元の貧乏そうな少年が「俺たちにはくれないのか」とむかついているのも同様で、支援の仕方にも問題がある。これを平等にするのは難しいだろうけどね。受け入れているのも、支援しているのも、末端の町や人々。決定している政府の上層部には届かないのだから。そして、上層部は、町で起きていることには関心を向けない。これではトラブルが起きない方が不思議だ。
ほかにもある。常連達はTJに、いまは閉まっている奥のホールを使わせろ、と相談する。でもTJは「20年間しめたままだからダメだ」と断る。でも、ちょっと前にTJは、壊れたカメラの修理代にと、父親の写真機を売って資金をつくるようヤラにアドバイスするんだが、そのときTJはヤラを奥のホールに入れている。これでは常連達がむかつくのも道理だ。さらに、支援者とヤラが、奥のホールで難民の子供たちに食事を提供したい、とTJに相談する。最初は頑なに拒んでいたTJだけれど、なんとなく心変わりし、自ら整備して、子ども食堂のようなものを開くに至るのだ。これでは常連達の腹の虫も収まらないだろう。俺たちは拒み、難民には開くのかよ、と。
このあたり、TJの人となりが十分に説明されていないので、なぜ彼が難民の支援に積極的なのか、が分かりづらい。たとえば、かつて中東に派兵されたとき地元の住民に優しくされたor命を救われた、とかいうエピソードでもあるなら分かるけど、現状では、TJが難民に好意的な理由がよく分からないのだよな。
それと、難民代表のように描かれているヤラだけど、彼女の位置づけもよく分からない。どうやら当時はアサド政権下で、反政府側にいた父親や家族が迫害を受け、それで逃げてきた、ような描き方だけど。彼女だけ、難民の中でヒジャブをつけていないのだよな。中東的世界と西欧的自由社会を行ったり来たりできる、トリックスター的な位置づけにしているのか。そして、現地かどっかの難民支援センターみたいなところで働いていたせいで、英語が堪能、という設定だ。彼女は原理主義的ではなく、自由主義的なのか? では、他の難民達から距離を置かれるようなことはないのか? 他の難民には自由主義的な考えを持つ女性はいないのか? ヒジャブをしない女性をあと何人か登場させる必要はなかったのか? てなところが、気になってしまった。
で、子ども食堂だけど、もちろん老人にも無料で食事が提供される。食材は教会や、支援組織からもたらされるようだけど、難民の子たちが「本当にタダか?」としつこく聞いているのが、なんかうざい感じがしたのも確かだ。全体を通してだけど、難民達は、してもらう、ことを当たり前に感じすぎてはいないか? 支援されているのであって、イギリス政府やキリスト教の教会、シンパシーを寄せる善意の人によって成立している、ということを深く考えていないようにも見えるのだ。いや、だからってつねに頭をさげ、感謝の言葉を唱え、肩身を狭くして生きろ、といってるわけではない。自分たちも、イギリス人たちに思いを寄せるべきではないか、と思えてくるのだ。
ヤラは、TJに感謝の言葉「シュクラン」を教える。だったらシリア人も英語を覚えて「サンキュー」と声を出して言えば? と思ってしまうのだよね。
子ども食堂は、排水管の事故でつづかなくなってしまう。ホールは水浸し。電源も危険な状態。長い間使ってなかったし、ずっと使わないつもりだったので保険もはいってなくて、修理代はばく大とわかって中止となってしまう。こうなると難民達はよってこなくなる。ここで、難民達が食糧をもちよって、小規模な子ども食堂でも開けば、感情移入もできたかも知れないんだけどねえ…。でも、排水管の事故は自然に起こったのではなく、常連達が排水管の接続をゆるくしていて、そこに圧力がかかったから発生した、と常連の息子(?)にきかされる。TJは頭を抱えるが、それを公にすると密告者が誰か分かってしまうのでそれもできない。そしかも、その悪さを企んだ常連には、TJの幼なじみのチャーリーもいたと知って、愕然とする。
この常連の悪意も、移民に対するヘイトもあるだろうけれど、いつのまにか一般住人と移民たちの動きが多数派になってしまって。常連達は、いじけているだけ、な感じになってしまっているのかも。それで、いくぶん嫉妬まじりに、TJに意地悪してしまった、ってのもあるんじゃなかろうか。
いつになくパブが客で賑わっている。これは、パブの閉業だからみんなやってきてるのかな。なかにチャーリーも見えるけど元気がなく、途中で帰ってしまう。TJはこの前だったか後にチャーリー宅をを訪れ、はっきりとは言わなかったけど、「お前が…」と訴えた場面は心に残る。とはいえ、チャーリーもこの町で生きていくためには、心ならずも常連達と行動を共にしなくてはならない、っていう事情もあったんではないか。
そんなとき、シリアで拘束されていたヤラの父親の死がつたわってくる。ヤラの家では喪に服すのだけれど、そこに難民達や地域住民(白人)が花や人形をもって集まってくる。難民の哀しみはは地元民にも共有されている、の象徴なのかもしれないけど、ほんとうかね。なんか唐突な感じがしちゃうんだよな。
どうやって終わらせるのかなと思ったら。最後は何かの祭で。TJは、難民から送られた店の旗を掲げて、仲間たちと参加していた。ああいう祭があるとか、祭に参加するとか言う話はとくになかった。あったのは、せいぜい、難民達が見せの名前入りの旗をTJに贈っているところ、ぐらいかな。旗には下の方にアラビア文字が刺繍されていたけれど、なんて書いてあるのかは分からず。まあ、この旗の象徴するところは、連帯とか戦うとかことで、これは炭鉱夫達の組合のスローガンにも通じていて。メッセージとしては、イギリス人も難民達と連帯していくのだ、という決意なんだろう。まあ、落ち込んでいなくて、明るい感じで終わってよかった。とはいえ、あの町から難民がいなくなることは当分ないのかな。アサド政権がまだある時代の話なので、アサド政権が崩壊した現在、難民達が帰国しつつあるのかどうかは分からない。そういえば、ヤラも、反難民のだれかから「国に帰れ!」と罵られていて「帰れるものなら帰りたいわよ!」と反論していたけど、帰ったんだろうか? というのが気になる。難民の中には、先進国での暮らしに満足して帰国しないのもいるだろうし。はてさて、難民受け入れはやっかいな話である。
というわけで、監督は難民を嫌悪するむかしからの住民も、それなりに生活が困窮していることを描いていて、いろいろ考えてしまう。TJが言っていたのだったか。不平不満を上にいってもつたわらないときは、自分たちよりも下の人間達をいじめて不満を解消したつもりになるのだ、というようなことか。まあ、差別の構造は、いつもそうだよね。日本でも韓国人に対するヘイトがあるけど、してる連中も実は日本国内では低所得だとか格差の下の方で不満があって、その矛先が在日や韓国人、移民に向かっているってのもあるのだと思う。いずこも同じ。それこそ為政者の思うつぼ。大衆を統治するには、国民の間に階層をつくり、俺はあいつらよりも上、という意識を持たせるのが鉄則だから。
・ヤラが、大きな教会へ支援物資を受けとりにいく場面があって。イスラム教徒でもキリスト教の寺院の建造物に感動している様子が印象的。ヤラだけのことかもしれないけどね。一般的に、イスラム教徒はキリスト教会に近寄らないイメージがあるので。
・TJの小型犬が、町の青年がつれている大型犬に噛み殺されるという事件がある。これについてTJは追求していないのだけれど、諦めちゃうのかな、と。まあ、TJも、犬にリードをつけていなかった、という落ち度もあった、というような描き方をしている。監督は、いろんなところで、どっちもどっち的な描き方をしていて、興味深い。観客に判断を委ねている感じがして。

 
 

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