2026年4月

カミング・ホーム4/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/マーク・タートルトーブ脚本/ギャヴィン・ステクラー
原題は“Jules”で、宇宙人に名づけた名前。公式HPのあらすじは「ペンシルベニア州西部の小さな町で暮らす79歳のミルトンは認知症の初期症状を娘に心配されながらも、受け入れられずに一人暮らしを続けていた。そんなある夜、庭に突如、空から正体不明の飛行物体が墜落し、彼の静かな日常は大きく揺らぎ始める。周囲に訴えても相手にされない中、同年代の隣人サンディーとジョイスだけが共に飛行物体を目撃し3人は秘密を共有することに。それぞれの孤独を抱えていた3人は忘れかけていた人生の喜びを取り戻し、やがて自らの“これからの人生”と向き合っていく」
Twitterへは「認知症初期、ひとり暮らしのジジイの庭(かなり広い)にUFOが墜落。宇宙人を助け、知り合いのババア2人と当局から隠す…という流れは『E.T.』のまんま。無味乾燥で情緒のない演出。無表情の宇宙人。まあ、どうかんがえても認知症の妄想だろ。」
ウェス・アンダーソンとまではいかないけど、わりと淡々と情緒を排した演出で、ドラマとしてのリアリティはあまりない。なので、描かれる世界は単調で、ドラマもあまりない。なので、いささか退屈なところもある。この映画は何を言わんとしているのか? なにかのメタファーになっているのか? とか考えたけれど、どーもよく分からんのだよね。
リアリティで言うと、ある夜、庭で音がして見に行ったら円盤が落下していて、青白い宇宙人も横たわってる、としたら、フツーはビビるだろ。なのにミルトンは宇宙人に毛布を掛けてやって、ベッドに戻っちゃうわけだ。なにこれ? それに、あの大きさのモノが落下したら衝撃音もあるはずで、隣家も気がついているはず。けれど、その気配はない。翌日、明るくなってみると、円盤の向こう側数10メートル先には隣家が見えて、クルマもある。隣家の人間に円盤は見えないのか? と考えると、異様だ。そう思うと、すべては妄想であると考えるのが妥当だよね。
毎日のように町議会が開催されていて、住人が意見を言う場が設けられている、というのが面白い。ミルトンは、町のスローガンについて、「A Great Place to Call Home(住むのに最高の場所)」っていうのは、電話するのにいい町、と勘違いされるから変えた方がいい。というのは、横断歩道が少ないので増やしてくれ、と陳述している。あれはどれぐらいの頻度で開かれているのか知らんけど、結構頻繁に思える。高齢ですることがないからああやって通っているのかね。ほかに婆さん2人も、毎度、同じことを主張している。というので、3人は顔見知り。でも、家を訪問するほど、ではなかった感じ。
で、円盤落下の翌朝、宇宙人が毛布にくるまっていたので家の中に招き入れ、食事を提供する。言葉を発しないけど大人しい宇宙人。恰好は、むかしから定番の青白くつるっとして目が細いあれで、記号的なビジュアルだな。裸なのかスーツなのか、も分からない。リンゴしか食べないのでミルトンはスーパーに買い出しに行き、店員に「庭に円盤が落ちて…」と話しかけたら、それが獣医の娘につたわって。娘が心配でやってくる。といっても円盤が、ではなく、ミルトンの頭の具合が、だけど。というのも食品をトイレに置いたり新聞を冷蔵庫に入れたり、おかしな行動があるから、のようだ。ミルトンは「大丈夫だ」というのだけれど、なぜか庭の円盤を見せたり、室内にいる宇宙人には会わせない。このあたりの展開は映画的な都合もあるんだろうけど、観客にはヘンとしか見えないよね。スーパーの店員に円盤のことを話してるんだから、娘に話してもおかしくはないだろ、と。でまあ、娘は父親を病院に連れて行き、認知症テストをさせると、モロに記憶障害とかでていて、ますます疑いは濃くなるわけだ。
てな展開の中に、町議会の顔見知りのババアのうち、1人(ジョイス?)がミルトンを訪れ、家に入ると宇宙人! でも、少しだけビックリ、な感じでフツーに受け入れてしまう。そこに、もう一人のババアのサンディーも加わって。このことは内緒よ、と宇宙人の情報を共有しながら、宇宙人が星に帰れるように応援する、というような流れになっていく。このあたりはジジババ版の『E.T.』って感じ? 
宇宙人は無表情でテレビを見たりしてるけど、円盤の修理も行っていて。なぜか、猫の顔がいくつか描かれた紙をミルトンらに見せる。最初は何か分からなかったけれど、家の庭で猫の死骸を見つけたことから、円盤のエネルギーには猫が必要、てなわけで、3人は町をうろちょろして猫の死骸を拾い始める…って、そんなに猫は死んで転がってないだろ。
一方で、国家何とか調査室では、円盤の落下を把握しているらしく、発見に動いているようなんだけど、よくあるSFものならもっと物々しく機動的で高度な発見の動きになるんだろうけど、どーもトロい。調査員2人が個別訪問してたりするんだけど、これ何かもトンマな『MIB』を連想しちゃうよな。
かと思うと、ババアの一人(どっちか忘れたけど)が交流の場を設けて話し合いを、てなポスターを貼ったら若者が応募してきて。でも、目的は泥棒。ババアと若者が取っ組み合ってるのを宇宙人が感じ取って、念力で若者の頭を吹っ飛ばす、という事件も発生したりする。でも、この話も、そっから先へはとくに進まない。まあ、宇宙人が恩義を感じて、のことだろうけど。恩義っていったってTシャツをもらったこととか、ミルトンの家で接したぐらいしかないはずだけど。にしても、いっぺんも笑いもしない宇宙人でも、婆2人には話し相手として(宇宙人はひと言も話さないけど)うれしかった、ってことか。そんなにジジババは地域や若者、住民と接する機会がないのか? それほどとは思わないんだけど。
さて、猫は8匹だったか必要で、でも最後の一匹が見つからない。で、ミルトンがサンディーに「君の飼い猫。もう自力で歩けないんだろ」的なことをいうんだけど、よく言えるよな。そんなこと。でもサンディーは飼い猫を宇宙人に提供し、猫エネルギーで円盤が復活。宇宙人は3人を円盤内に招き入れ、あっという間に到着したのはどっかの砂漠で。そっから円盤は帰還していった。は、いいけど、1人乗りだったの? っていうかまあ、ミルトンがこれまで蓄えてきた宇宙人とか円盤の知識を総出で繰り出しての妄想だから、貧弱なんだろうけど。
てな話で。なにかの批判とかメタファーとかになってるようには感じられないんだよな。老人の孤独、というのでもないし。童話、というにはアイロニーもないし。やっぱ、たんに認知症患者の妄想が創り上げた世界の話ではないだろうか。根拠としては、隣人が円盤に気づいていない。娘に宇宙人を会わせない。宇宙人の容姿が記号的などなど。国家何とか調査室では多くのモニターをつかって円盤を追っている? でも、やってることがトンマ過ぎて、これも過去の映画の場面からのミルトンの妄想、だろ。調査員たちも、ミルトンの家に突入してきたけど、その後は消えてしまって、円盤の痕跡を調べたりもしていない。娘が登場する場面も、あれもミルトン側の視点の場面しか登場しないし。
息子は遠くに住んでいて、数10年会っていない。なのに、息子を非難するのではなく、ミルトンが「ゴメン」と謝ったりしている。歳をとり、認知症を自覚しだしたミルトンが、この世、といっても生から死、ではなく、正常な判断ができなくなる状態へと移行する様子を描いたのかな、と。79歳でも、この手の認知症はあるのかもね。・老い、が描かれているのかね。サンディーの猫も、老いさらばえているし。
ところで、Webでこんなこと↓をいっている人がいた。
「古い日本語訳では、"E.T. phone home" が "E.T. go home" と間違われて、誤訳されていたようです。新しい日本語吹き替えではちゃんと、「E.T. 、おうち、でんわ」と言っているらしいです。」
へー、な感じ。で、この映画の題名だけど、これは3人のうち誰かが宇宙人につけた名前。で、邦題の「カミング・ホーム」は“帰還”の意味のようだ。ということは、かつての誤訳である「おうち、帰りたい」を踏まえてつけてるのかね。
オーロラの涙4/8新宿武蔵野館2監督/ローラ・カレイラ脚本/ローラ・カレイラ
イギリス/ポルトガル映画。原題は“On Falling”。落ちるとき、ってな感じか。公式HPのあらすじは「ポルトガルから移住したオーロラは、そこで「ピッカー」として働いている。スキャナーの指示に従い、無数の通路を歩き、棚から商品を取り出す。その単調な反復が、一日の大半を占めている。同僚たちとの会話は、休憩中のほんのわずかな時間だけ。勤務を終えると、彼女は疲れた体を引きずり、移民労働者たちが暮らすシェアハウスに戻る。一人きりの部屋で一息ついてから、狭いダイニングで夕食をとる。住人同士の交流は表層的で、関係が深まることはない。寄る辺のない日々が、淡々と続いていく---。そんなある日、オーロラは不注意からスマートフォンを壊してしまう。職場の連絡手段であり、時間を埋めるための“相棒”でもあった文明の利器を失ったとき、彼女の日常はゆるやかに、けれど確実に形を変えていくのだった---」
Twitterへは「Amazon的な企業が移民労働者を低賃金で使い倒してる、と非難してる感じがもやる。スマホ修理代99ポンドの臨時出費で昼飯も食えず、シェアハウス仲間の食いものを盗むまで落ちるかね。本人にも責任があるのでは。給料入ると浪費するし…。」
Amazon的な企業は従業員(低学歴、移民、外国人が多い感じ?)を低賃金で使い倒す。従業員はみな転職したいと思っている。それができず、みな次第に壊れていく…。なかには自殺する従業員も。という印象を刷り込もうとする意図が露骨で、いい気持ちがしない。そういうステレオタイプな無味乾燥な企業スタイルを批判する一方で、主人公であるポルトガル人のオーロラが、いろいろダメ女なんだよね。彼女が、真面目に働いてるのに理不尽なもろもろが襲ってきて不幸になる、なら納得できるんだよ。でも、そうではない。
オーロラ役のジョアナ・サントスは1985年生まれらしいので、製作当時は39歳か。ずいぶんいってんだな。アラフォーのポルトガル女が独身生活。シェアハウス住まいだけど、心は孤独? 故郷の家族に電話するでもない。恋人がいるわけでもない。せいぜいが、同じポルトガル出身で同じ職場のおばちゃんと話す程度? あとは、食事中も、暇さえあればスマホに夢中。でも、チャットしてる感じではなく、動画とか広告を見てるだけ、な感じ。彼女自身にも問題があるんじゃないか? と思わせるような描写も多く。これではAmazon批判も矛先が鈍るのではないかと思ってしまう。
冒頭から、ピッキングが単調な繰り返しであることを強調するような映像が何度も繰り返して描かれる。ちょいしつこい。作業してるオーロラの顔もよく見えないのもなあ…。同僚のおばちゃんのクルマで送ってもらうときも、カメラは後部座席から撮るので、2人の顔がよく見えない。意図的なんだろうけど、見ていてイラッとするね。ちゃんと顔ぐらい映せ。表情をも見せろ、と。
オーロラは移民なのか出稼ぎなのか。説明はない。クルマで送ってくれるおばちゃんもポルトガル人。でも、なぜイギリスに来て働いているのか、の背景は分からない。オーロラはポルトガルの家族に電話もしない。仕送りの様子もない。家でも会社でもスマホ見ながら飯を食っている。スマホ中毒なのが痛い。
朝から晩までやってるピッキング作業。でも、途中からオーロラは昼飯も食べられなくなる。給料が安いのか? 外人だから安い? でも、日本円で20万や25万は稼げてるんじゃないのか? シェアハウスは7万ぐらい? 知らんけど。てなことを考えると、いったいこのオーロラという女性は、なぜ貧困に苦しみ、シェアハウス仲間のポテチを盗んだり、昼飯をチョコバー1つで済ませたりしてるのか? が疑問過ぎて同情できない。他にもピッキングの仕事をしている同僚はたくさんいて、彼らは暮らして行けてるんだろ? 未来が見えない? なのに、なぜポルトガルからイギリスにわざわざやってきて、働いているんだよ、思ってしまう。
オーロラがちょっと話した同僚男性で、自殺してしまった男性がいた。仕事の単調さと未来の見えなさで死んだ、と思わせたいようだけど、たんに鬱病かなんかになってただけだと思うぞ。だって、大半の従業員はフツーに働いているのだから。
やったことない立場でいうけど、あの手の単純作業は、嫌いじゃない。むかし、現像会社でフィルムのネガをハサミで切って袋に入れる、という単調なバイトをしたことがあるけど、単調ななかにも効率を上げるための工夫が必要で、面白く仕事した覚えがある。だから、自分だったら、ピッキングも自分なりに楽しみを見つけて仕事できそう、と思って見ていたよ。
金欠の原因は、スマホの修理代? でも99ポンドだから日本円で2万円ぐらいか。カード払いしてたし、そんな負担なのか? しかも、今月はオーロラが電気代を支払う番なのに、無視してる。別の住人が代わりに払ってて、「給料が入ったら振り込むね」といっていたけど、スマホ壊さなかったとしても電気代を払ってたら財政逼迫してたはず。ってことは、日頃から浪費癖があるんじゃないのか? ほら。後半での介護の仕事の面接の日は給料日で、なぜか面接前にケーキを買ったりしている。あのケーキはどうしたんだ? 面接官にあげたわけじゃないだろ。買ってすぐつまみ食いしてたし。食ったのか? ケーキの後は化粧品売場でアイシャドーの試し塗りしてる。次の仕事に期待して、かも知れないけど。地道に貯める、を考えてない感じ。給料日ぐらい贅沢してもいいだろ、とか、女だもの化粧品に惹かれてもしょうがない、てなことをいわれそうだけど、本人に計画性がなさ過ぎだ。
昼飯代がないから、チョコバーだけですませる。シャワーしてたら自分のがなくなってて、他人のシャンプー使ってしまう。シェアハウス住人の他人のポテチを失敬する。職場の集会でも、ケーキとゲーム、が提供される場面があって、まだ上司が話をしている途中にケーキのテーブルにいき、ケーキを3つばかり手に取って、場を出ようとする。スタッフが、最後まで話を聞け、というと、トイレ、といって許されるんだけど、ケーキ3つも手にしてトイレはないだろ。金欠のストレスからか、ピッキングの最中に、意図的に荷物を取り違えるようにしてしまう…。仕事が早い、と評価されていたのに、どんどん壊れて落ちていく。けど金がないのは、会社のせい? 自分にも責任があるんじゃないの?
そんな職場から逃げ出したい。で、介護の仕事の面接を受けることになって。でも、休みを申請したら、直前過ぎてダメ、と言われてしまう。ピッキングって、休みが取れないほど忙しいのか? でもその割りに、当日「調子が悪い」と電話すると休めるいい加減さ。で、面接へ。でも、面接官に「自分の紹介を」と言われて、絶句してしまう。体調が悪いのでは、と面接官に言われる始末。なんとか「友だちとカラオケ、映画…」とかいうけど、嘘っぱちだろ。これみて、あー、オーロラって女は空っぽなんだ、と思ったね。何にも関心を向けないタイプ。まあ、映画の製作者側からしたら、仕事が忙しすぎて時間を趣味に割けないから、とかいうんだろうけどね。でも、忙しくても好きなことをする時間は捻出できるんだよ。すくなくともスマホばかりは見ない。
で、公園。「閉園ですよ」と言っているのに、オーロラは公園の芝の上で気絶してる状態。まあ、面接が上手くいかなくて落ち込んでるということなんだろうけど、そこまでなるか。そりゃあんた、自分のせいだろうが。転職したかったら自分を磨けよ。あほ。と思ってしまった。
ラスト。オーロラと、同郷おばちゃんと出社したら、従業員がみな遊んでいる。システム障害で仕事にならない、かららしい。仕事がなければみんなハッピー? そんなラストは、全然迫ってこないのだった。それにしても、同郷おばちゃんは「デスクワークに決まった」といっていたのに、なんでまだピッキングの仕事に来てるんだ?
しかし、こういう展開で、社会性の強い映画にはならんだろうと思うんだが。もうちょい情が濃くて、上昇志向も学習意欲もあって、一所懸命に生きてるけど、移民だから落ちた、とか具体的に描けば同情できるのに。
という感じで、なにを訴えたいのかいまいちピンボケな感じな映画だった。移民、階級、差別などなど、壁となるものはいくらでもあるのに、そこに切り込まない。ただ、Amazon的倉庫の非人間的な環境だけを見せて、分かってもらおうとしている。わからんよ、そんなもの。ピッキングの様子を何度も描いても、非人間的な仕事に見えなかったし。
・倉庫の見学者に、会社のスタッフが「同じような荷物を同じ棚に集めてしまうと、ピッキングのとき人が集中してしまうので、意図的にバラして離しておいている」てなことをいう場面がある。単調な仕事でムダに労働者を歩かせている、といいたいんだろうけど、効率的にはそれがいいってことなんだろ? とくに非人間的でもないし、労働者に酷な感じもないけどね。そもそも、疲労困憊な労働者は描かれてなかったし。
・シェアハウスのポーランド男はいいやつで。電気代は立てかえてくれるし、飲みに誘ってくれるし、自炊の飯も誘ってくれたりする。それをいいことにオーロラは、頼り切ってる感じ。ポーランド男は物流の運転手? だっけ。収入があるんだろうけど。あるとき飲みに行って、オーロラが隣に座ってる彼に、頭をもたれかける。頼れる友人に飢えている、ということなのかも知れないけど、友人ぐらい素面のときにつくりなさい。妙な魂胆丸見えだ。それを、そっと拒否するポーランド男は、やさしいよなあ。
・同僚の、クルマを持っているオバチャンに「ガソリン代払って」といわれてたのは、乗っけてもらっているから、なのか。後日には、オーロラがスマホでオバチャンにお金を送金していたけど、ありゃ何の代金だったんだ?
そして彼女たちは4/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ベルギー/フランス映画。原題は“Jeunes Meres”は「若い母親たち」の意味らしい。公式HPのあらすじは「ジェシカ、ぺルラ、アリアンヌ、ジュリー、ナイマの5人の少女は、若い母親を支援する施設で共同生活を送っている。「ひとりじゃ育てられない」「嬉しいと思いたいのに」…。家族との関係、貧困など、さまざまな問題を抱えている彼女たちは、戸惑い、悩みながら、母になる。なるべき家族像を見いだせず、歩むべき道がわからず、押し寄せる孤独感にもがきながらも、時に誰かに寄り添われ、それぞれの未来を選び取っていく…。」
Twitterへは「社会派ダルデンヌ兄弟が、子供を孕んだ・産んだ10代の娘たちを描く。なんだけど5組もでてきて、誰のどの話かこんがらがってしまう。相手もダメ男、母親もクズ、本人たちも、アホ。環境や社会のせいだけにしてないところはいいかも。」
どうせまた無学で無軌道な青少年が登場し、悪さをしつつも置かれた環境や周囲の視線に耐えきれず文句ばっかりいってる映画を、ぶっきらぼうなタッチで撮ってるんだろうなと思ったら、その通りだった。登場するのは10代半ばで母親になった娘たち4人? 5人? と記憶できないほどで。公式HPで5人と再確認。はいいんだけど、「若い母親を支援する施設で共同生活を送っている」とは気がつかなかった。へえ、そうだったんだ。だって施設の入口とか看板や施設名は出てこないし、5人の娘が一緒にいるような場面もなかったろ。あったとしても、よく分からなかったよ。支援スタッフも、それぞれ違っていて、同じスタッフが何人もの娘をサポートしているようには、見えなかった。5人の母親の話を分割し、群像劇として仕上げてるんだけど、これが分かりにくい。黒人娘や妊娠中の娘もいて、区別されていると言えば言えるんだけど、似たような状況の、一見して似たような娘たちが入れ替わり立ち替わりブツ切れで登場するので、連続性に難があるように思った。まあ、こちらの記憶力が足りないのもあるのかも知れないんだが。いっそのこと5つのオムニバスにしてくれた方が分かりやすかったんじゃないのか、と思ったりした。だって、あのエピソードは誰のだっけ、が多いんだもの。
・ちゃんと区別がついたのは、妊娠してる娘の話かな。彼女自身が養子に出されていて、実の母親と面会する権利、を使って会うことになって。会って見ると、態度が素っ気ない。なぜ自分を捨てたのか、としつこく聞くが、もうこないで、と突き放される。その後、彼女は出産。娘をベビーカーにのせて追跡して実母の勤務先をつきとめ、乗り込んで行って話をする。なぜ捨てたのか、って、育てられないからに決まってるじゃん、と思うんだけど、本人としたら、なんとしても聞きたいことだったのかね。
・かと思うと、生まれた子どもを養子に出す娘もいる。母親はアル中かヤク中で、暴力男の後妻になるが、なんとか分かれた。母親は3人で住もうというが、娘は拒否。音楽をやってるという養子先に子供を預ける、だったかな。
・黒人娘の場合は、すでに出産。彼氏はヤク中で、少年院? からの出所を迎えに行く。と、すぐにヤクを要求される。そのうち彼はどこかに消えて、電話したら「分かれよう」といわれ、半狂乱になる。でも、真面目に働く姉がいて、一緒に住もう、といってくれるという話かな。最初は堕ろすつもりで姉から借金したけどなぜか堕ろさず、だったらしい。まあ、結果的にはマシな方か。
・彼がわりとまともで、一緒に住もう、といってくれているカップルは、ハイティーンなのかな。でも娘の方がヤク中で、ODでぶっ倒れたりする。ダルデンヌ兄弟のお決まりのバイクの2人乗りもある。で、アパートを探して、新生活を始めるぞ、な感じ。さて、うまくいくのか心配。
・あと1人はどんな話だっけ? 
な感じで、個々の娘たちやそのエピソードが記憶に残りにくい映画だった。
生まれてすぐ養子に出され実母を知らない。母親がクズ。のように生活環境が気の毒、もあるだろう。けど、同じような環境度でもちゃんと育つ娘も多いわけで。なのに、ここに登場する娘たちは、みな10代半ばで子供を産んで、人の世話になり、文句の言い放題。タバコは吸う、ヤクもやる。つまりは本人が若くしてダメで尻軽なだけじゃないか。貧乏とか家族がないとか文句は言うけど、家族があってもダメな娘もいる。捨てられた娘もいれば、すぐに養子に出してしまう娘もいる。彼女は18歳の未来の娘に手紙を書くけど、成長した娘が会いに来たら拒絶するのか? 受け入れるのか。それは分からない。
にしても、まだ中学か高校に通っていながら子供をつくってしまう例というのは多いのか? 教育がちゃんとしてないのではないのか? みんな文句ばっかり声高にいう。自分の目ダメさ加減には気がついていないのか。と、思っちゃうよな。
ダルデンヌ兄弟の映画は、こういうの、多い。すべて環境や社会のせい、という単純なものではなくて、本人の問題もあるんじゃないかな、と感じさせるところ。社会政策だけでは対応できないよな、それは。なんか、生まれ育ちの悪さが再生産されていくのではないかと思わせるところが、リアルで怖い。なんとなくハッピーに見える結末の娘も、一寸先は闇、と思わせる。
1975年のケルン・コンサート4/13ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/イド・フルーク脚本/イド・フルーク
ドイツ/ポーランド/ベルギー映画。原題は“Koln 75”。公式HPのあらすじは「ドイツ・ケルンに住む高校生ヴェラ・ブランデスは、音楽好きでナイト・クラビングも大好き。厳格な歯科医の父親への反抗心もあり、ふとしたきっかけで来独ミュージシャンのツアーをブッキングするバイトを始めることになる。仲間たちの協力を得ながら、持ち前のバイタリティを発揮して仕事が軌道に乗り始めた頃、ベルリンのジャズ・フェスティバルに出向いた彼女は、アメリカの天才ピアニスト キース・ジャレットの演奏を聴き、雷に打たれるほどの衝撃を受け、キースのケルン公演の開催を決意する。いくつもの困難を乗り越えて当日を迎えるが、舞台にはキースが希望していたものではない違う種類のピアノが用意されていて、キースは演奏を拒否。開演時間が迫りくる中、ヴェラは……。」
Twitterへは「ジャズ好きの淫乱女子高生がひょんなことからジャズメンのプロモーターに。キースのソロに感動し、故郷のケルンでコンサートを企画する! あれやこれやの直前のドタバタ! 当該楽曲が契約関係で使えないのは知ってたけど楽しめた。」
まったく同時代ではないけれど、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」は数年遅れで買って、よく聞いた。寝起きに聞くと、あの清澄なメロディがいい、なんてもてはやされたもんだ。とはいえ、キースのアルバムではヤン・ガルバレクとの「My Song」がいちばん好きだけどね。それはさておき、公録された「ケルン・コンサート」の裏話をドタバタちょいコメディタッチで、な映画。新聞評で、「ケルン・コンサート」の演奏シーンはなくて、それは契約の問題から、らしいけど、そんなんで映画になるのか? と思っていたけど、フツーに面白く見た。とくに当日のドタバタは、へー、な感じ。
ヴェラがなんでジャズ好きに育ったのかは知らない。父親は歯科医で厳格。母親はフツー。兄は落ちこぼれ。なので歯科医になることを求められていた、らしい。冒頭の、50歳の誕生会でのヴェラは、父親に「お前には可能性があったのに・・・。失望している」とみんなの前で言われていて。よっぽど父親とズレてたんだな、と。で、高校生の頃からジャズクラブに入り浸りで、たまたま演奏していたロニー・スコットと話してるときに、誰が好き、てなところで大御所の名前をずらずら挙げたりして。ズケズケものをいう娘だな。16歳だぜ、このとき。で、ロニー・スコットから「俺のツアーのブッキングをしてくれたら売上の10%(20%?)やるよ、と持ちかけられて、その気になってしまう。
でもって、いつのまにかケルンでも名の知れたプロモーターになっちゃってるんだが、その経緯はコマ落としてきにささっと。だから、具体的にどうした、はなくて、友人と電話のかけ方を考えたり、何だかんだして、次第に実績が積み上がっていった感じ。凄いね、この図太さ。で、結構な収入もあるのか、家を出て部屋を借りて、仕事はそっちでするようになっちまう。
で、キースのソロコンサートに遭遇するんだけど、↑のあらすじにあるように、へメリンで、と描かれていたかどうかはよく覚えてない。で、そのコンサートの楽曲は聴けるんだよね。ケルンのはだめなのなのに、なんでこっちはいいの? なんだが。さらに、このコンサートのピアノは、そんなに魅力的なフレーズあるわけでもないので(むしろ単調で暗い感じに聞こえた)、ヴェラの感動がつたわってこないのがちょっと弱いかな。
で、キースをケルンに呼びたい、となる。のだけれど、その経緯がよく見えないんだよな。後に分かるけど、キースはマネージャーと2人で軽自動車でヨーロッパを移動してツアー、してる。でも、ケルンに呼ぶってことは、ツアーの予定が全部組まれてないところにぶち込んだのか? ヴェラはどうやってキースのマネージャーと連絡をとり、ケルンOKになったのか、が見えない。このあたりをもっとちゃんと描いてくれたらなと。
でまあ、ケルンに呼ぶことになって。町一番のホールで開催しようとしたら、当日はオペラが入ってて、空くのは11時。しかも1万マルク(約100万円)の手付金を要求されて、あたふた。嫌いな父親に頼み込むけどけんもほろろ。だけど母親がこっそり貸してくれる。って、そんなお金をどうしてもってるんだ?
ヴェラは地元の放送局に、コンサートのことをPRしてくれ、と頼みに行ったり。ケルンの町にポスターを貼ったり。のあとあたりからヴェラの登場がなくなって、キースとマネージャーがメインになる。
はさておいて、ヴェラの淫乱放蕩ぶりが激しいのにビックリだよな。16歳なのにタバコやお酒は当たり前。かなり年上の彼氏がいてバコバコやってるし、彼氏とは別の行きずりの男を引っ張り込んで終わったところに彼氏がやってきて大騒ぎになったり。一方で呼び屋としてマスコミに取り上げられて高校退学。派手すぎるだろ。まあ、キースを読んだ頃は18歳になっていたようだけど、悪評の高さで有名だったらしい。
キースはマイルスのバンドを経たりしながらも、この頃はソロに専念。腰痛持ちで、経済的には苦境にあったのか、ツアーといっても、各地のプロモーターが送ってくれた航空券も払い戻してマネージャーの運転する小型車で移動している始末。だから腰が悪いんじゃないか?
にしても神経質な男なんだな、キース。会場で咳が聞こえたら演奏はやめるとか、なんとかいう特定のピアノじゃないと弾かないとか。いちいちうるさい。それが音楽評論家をクルマに乗せてやって。ケルンに向かうあれやこれや。「質問はするな」といってるのにあれこれうるさい評論家。質問しなくなったと思ったら高いびき。やれやれ。な感じでケルンに到着する。迎えるヴェラ。「飛行機なのに疲れてるの?」に、真実は言わないキースとマネージャー。
ところでキースを演じるジョン・マガロは小男小太りで、ちょっとイメージが違うんだよなあ…。
そして、翌日がコンサート当日なのかな。ヴェラが会場に行ってピアノを確認すると、これが頼んでおいたものではなくて練習用。ペダルは壊れていて、調律もされていない。こりゃ困った。で事務所に行くとスタッフが出払っていて…。キース御用達のビアノを探して市内に電話をかけまくると同時にピアノ調律師も呼び寄せて…。が昼ごろ。なんとか近くの役所に目指すピアノは見つかったけれど、石畳を移動するとピアノが壊れる! と言われて諦めて。練習用のピアノの修理と調律を頼み込んで。職人達は隣でオペラが個々なわれている舞台袖で修理に勤しむ。
違うピアノじゃ弾かない、と言い張るキース。ヴェラはホテルまで説得に行き、どうやって話したのかは忘れたけど、とりあえず演奏する、の約束を取り付ける。ヴェラは1300席埋まるか心配で街頭でビラ配り。そしたら仲間が「完売した」と知らせてきて、万々歳。なんだけど、なぜ完売したのか、そんなキースが人気なのか? とか描かれないのがちょっと不満かな。
会場にはヴェラの両親もやってきている。頑固な父ちゃんまで! のちにダメな娘、というんだけど、この日だけは、なのかね。よく分からん。で、コンサートが始まる。契約の関係らしく、ケルン・コンサートの楽曲は一切かからないのだけど。バックステージのヴェラ。楽屋裏の物置をのぞくと、なんとそこに、目指していたビアンが無造作に置いてあるではないか! なんだよ。しかし、会場の後方で聞いているのかと思ったら、こんなことしてたのか。
エンドロール前に、3人の婆さんが映る。右端は、50歳のヴェラを演じた役者だけど、あと2人はよく分からん。真ん中が現在のヴェラ本人なのかね。クレジット入れてくれよ。と、思う。
というわけで、評価は星4つ。なのは、私がジャズ好きだから、ちょっとおまけな感じかな。
って、あらすじを書いてるだけだな。もうちょっと突っ込んでみようか。
見終えて。よーく考えて見るとヴェラとキースの接触というのは短時間だったんだよな。出迎えと、ホテルに説得に行ったとき。終演後もあっただろうけど、さっさと次の都市にむかったかも知れない。なんとなくヴェラとキースの映画、と思うと、ここは違うような気がする。猪突猛進な女子高生ヴェラの話と、陰気で神経質なキースの話は別、な感じだ。しかし不思議なのは、キースが練習用のピアノでもOKとなったくだり、かな。ヴェラの話にそんな説得力あったか? 
朝日新聞の映画評だと、キースはこの日のコンサートに満足していなくて。映画に楽曲を使わせなかったのもそのせい、らしい。録音することはあらかじめ分かってたのに、煮え切らない男だな、キース。しかも翌1976年には日本でソロツアーをしていて「サンベア・コンサート」って10枚組のLPで売り出されてる。その後も日本でのコンサートも多いし、結構な実入りがあったんではないのか? と勘ぐってしまう。貧乏ツアーのように映画は見せてるけどね。まあ、ケルン・コンサートのLPが大ヒットして経済的にゆとりもできたんだろうけど。
などと、現実の背景も考えてしまうな。
落下音4/14ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/マーシャ・シリンスキ脚本/マーシャ・シリンスキ、 ルイーゼ・ペーター
ドイツ映画。原題は“In die Sonne schauen”で、意味は「太陽を見る」らしく、「目を閉じて太陽の光を感じる行為や、死という直接見ることができないものを直視しようとする痛み、あるいはその余韻を表現する詩的なフレーズ」らしい。でも英文タイトルは“Sound of Falling”。公式HPのあらすじは「1910年代、アルマは同じ村で、自分と同じ名を持つ幼くして死んだ少女の気配に気づく。1940年代、戦争の傷跡が残る中、エリカは片脚を失った叔父への抑えきれない欲望に気づき、自らの得体のしれない影に戸惑う。1980年代、アンゲリカは常に肌にまとわりつく“何か”の視線に怯えていた。そして現代、家族と共に移り住んだレンカは、自分の存在が消えてしまいそうな孤独感に蝕まれていく。百年の時を経て響き合う彼女たちの<不安>が、この北ドイツの農場を静かに覆いつくしていく」
Twitterへは「前情報なしで見た。ホラーと思ってたら違って、ドラマがないし時代が入り乱れてて、でも何の説明もないので退屈。少し寝た。3つの時代? と思ったんだがHP見たら4つの時代らしい。ときどきおどろおどろしい音楽。死を連想させる何か。だからなに。な感じ。」
実際、ほとんどあらすじも読まずに見た。「不可解な怪異を」なんてあったから、なんかちょいオカルトホラーっぽいのかな、と。ポルターガイストとかラップ音みたいな。で、見始める。足を縛って片足で松葉杖であるく娘。左足を切断し、ベッドにいる男。その臍のゴマをなめる? 気味悪。19世紀初頭な感じの農村で、子供たちがいたずらしてる。な感じで、キャラの顔もよく見えず、だらだら…。少し寝た。
室内のテーブルの位置を直している家族。レンガの出っ張りをでかいハンマーで壊す女。これは現代に近いのか? なんだ。ひとつの時代ではないのか。自転車に乗ってウナギつかみに興じる村民。河辺の親子。子供がひとり、川に落ちる…。が、それは妄想? これはいつの時代? 
スタンドアップパドルボードの少女と出会う娘。これは、ボードの娘がスマホを持っているから、現代か。でも、何のことわりも、とくにきっかけもなく時代が入れ替わり描かれる。見ていくと次第に、第一次大戦前後。70年代っぽい時代。そして現代。の3つの時代かな、と思いつつ見ていた。のだけど、戦後がどうの、といってる場面もあって。では1950年代もあるのか? 川には東西の国境、なんてあるから、ドイツ国境の村で、東ドイツ側なのか、と断片的に分かってくる。けど、正確には分からないまま。
19世紀初頭的な時代では、死んだ娘と死写真を撮る場面があって、興味深かった。祖母が死んだ場面は、あれはいつなんだろう? 納屋の上から少女が投身するのはいつ? 整理がつかんまま、だらだら。メガネ娘は70年代かな。刈り取り機に身を投じる場面。も、これまた妄想か。パドルボードの娘と友だちになった娘の場面では、溺れ死にしたのではないかと焦る場面。
まあ、あちこちに死の気配が濃厚で。ときどき、おどろおどろしい音楽でザワザワさせようという魂胆もあったり。でも、とくにオカルトでもないし、悪魔的な何かも登場しない。わけ知らぬ恐怖があるわけでもない。
娘たちの名前も、いくつか記憶に残りそうなモノもあったけど、時代が錯綜しているので記憶に定着しにくくて、結局、だらだら眺めているだけ、になってしまった。なので、後半にも少し、うつらうつら。
これは、クロニクルなのか? 過去の時代の誰かが次の時代の人物になって登場しているのか? も、定かではなく、確かめようとも思わなかった。ただもう、だらだら眺めてた。で、あとからHPをみたら時代をまたぐ系統図があって。なんか、かすかにつながってる様子。でもそんなの、見てただけじゃ分かんねえよ。ぷりぷり。
最後は農場で。メガネ娘? が強風で浮遊する。男の子も真似をして、浮遊する。なんの意味があるんだか、はてさて。
で、あとからHPの解説を読んだら、1910年代、40年代、80年代、現代、の4つの時代らしい。わからんよ、そんなの。どーでもいいわ。なぜかピントがずれたシーンもあったりする。意図的なんだろうけど、意味不明。
2時間ぐらいの映画かな、と思ったらなかなか終わらず。なんと155分もあったらしい。やれやれ。
カンヌで審査員賞を受賞とか、アカデミー賞のドイツ代表になったらしいけど、なんか思わせぶりなつくりで、さも高尚なフリをしているだけ、なまがい物にもみえる。やっぱ、具体性がすくなく、なんだかよく分からない映画は心に残らないよな。どこに落下するのか、もよく分からんし。
炎上4/16テアトル新宿監督/長久允脚本/長久允
公式HPのあらすじは「小林樹理恵(森 七菜)はあるカルト宗教の信者の家の子として妹と共に厳しく教育され育つ。2人は毎日訪れる辛い日々が消えるよう、そして教育熱心な父がいなくなるよう神様にお願いをしてきた。数年後。願いが叶い突然父親が亡くなる。しかし、父親がいなくなっただけで母親から教育を受け続ける現実は変わらない。ついに樹理恵は母の目を盗み、妹を残して家を飛び出してしまう。行き場のない樹理恵のSNSに届いたDMを頼りに向かうと、そこには若者たちがたむろしている広場が。そこで【じゅじゅ】という名前をもらい、寝る場所、食べ物、スマホをもらい、そして仕事をもらい、1人で母親の元に置いてきた妹を連れ出し、共に暮らすという“夢”をもらった。」
Twitterへは「家から逃げてきた吃音少女がトー横に寝泊まりし、仲間たちと…。って、こないだ見た『東京逃避行』とかぶる話だな。ほとんどドラマがなくて内向的に精神的に落ちていく感じ。なので、話としてはつまんないのだった。」
吃音の娘(小学生?)が、なにかというと父親に体罰を受ける。妹も、連帯責任だといって、父親のベルトで叩かれたようだ。それで身体中傷だらけ。父親に「死ね」と呪い続けたら10年後に死んだけど、今度は母親から体罰を受けるようになる。で、樹理恵は出奔。トー横にいって、誰かに会いたい様子…。
ところで↑のあらすじには「カルト宗教の信者の家の子」とあるけど、そんな説明あったっけか? それでKAMIという人物に会いたくてきたようなんだけど、誰それ? ↑のあらすじには「SNSに届いたDM」とあるけど、なんでそんなのが来たんだ? 画面にはラインらしきやりとりも映ってたけど、字が小さくて読めねえよ。
吃音なので樹理恵とちゃんと言えず、仲間からは、じゅじゅ、と呼ばれるようになる。
で、びっこの三ツ葉という娘と障害者どうしていうことで仲良くなる。三ツ葉はパパ活をしていて、じゅじゅも、1000万円ためて妹を救いに行く、という目的でウリを始める。トー横仲間も登場するけど、キャラが活かされてドラマに絡んでくることはほとんどない。リス、と呼ばれる青年から、じゅじゅにメールがあったけど、無視して出なかった、その直後に飛び降り自殺した、とかいう程度? でも、リスがどういう人物かはほとんど説明がない。
そういえば、じゅじゅは、一度、一時保護施設に収容されたんだよな。いつだっけ? でも、逃げ出したんだっけか? そこにいると、実家に戻されるから? いやあ、妹のことを考えたら、実家に戻る、が正解だったんじゃないのか? 
そう。この映画、ほとんどドラマがないのだ。じゅじゅが三ツ葉に誘われて売春を始め、いったん三ツ葉とケンカ別れする。そのうち1000万貯まって。三ツ葉に「たまった」と報告した直後、現金を貯めていたコインロッカーを開けたら空っぽ。1000万の話が広まっていて、KAMIが盗んだ? KAMIに連絡したら、KAMIと阿Qという、じゅじゅに気のあった男にレイプされ? トー横広場に放り出されていて。 それに絶望して、お客が忘れて行ったバイブレーターに火をつけて(その場所はどこだかよく分からないのだけれど)。気がついたら病院で包帯を巻かれていた・・・。で、保護司みたいなオバさんに、「ここは天国ですか?」と聞いたら、なんて言われたんだっけ? 地獄だっけ? 忘れた。とまあ、それだけの話で、ドラマチックはほとんどなく、中味も薄っぺら。実家から逃げて、目当ての人をたよってトーヨコに来るとか、仲間が売春してるとか、裏切られるとか、知り合いが自殺するとか、多くが『東京逃避行』とかぶっているので、オリジナリティがもいまいちだよな。
説明が少ないので分からなかったけど、両親はカルト教団? だからって子供に体罰? 父親が死んで母親も体罰? なら教師にいうとかできないの? いきなりトー横のカリスマに会いに行く、って発想がバカすぎではないか。しかも、SNSでDMって、なんでそんなのが来るの?
三ツ葉と知り合った。はいい。けど、金のためなら身体を売る、という発想がバカすぎ。なので、見ていて気の毒とか思わないし、共感もない。お金については、なんで銀行に預けないんだ、と思ったけど、身分証明できないから口座作れなかったのか? 
にしても、知恵がないから落ちるしかない、の典型のよう。世の中には支援してくれる人もいるのだし、いちどは保護施設にたどり着いたのに…。火をつけた理由もよく分からんし。1000万あれば妹が救える、という考えもよくわからん。高校生なら、妹を救ってどっかに逃げ込めや。いもうとをほっぽり出して母親の元に置いてきている、ってのも気になるし。まあ、アホはアホ、不運な人は最後まで不運、ということか。社会が悪い、親が悪い、といっても、響かないな。それをいうなら、もっとカルト宗教の描写をちゃんとやらないと、と思う。
・トー横に放り出されている状態で、万札が降ってくるのはだれかがじゅじゅの金を撒いたから? イメージ? それを拾っている東横キッズは、リアリティなさ過ぎ。
・にしてもトー横暮らしは汚そうだな。どこに寝泊まりしてるんだ? 着た切り雀か? 洗濯なんぞせずに、どろどろだろ、衣服は。そういうリアリティがないので、説得力がないね。
監督/●脚本/●
原題は“●”。公式HPのあらすじは「●」
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