2026年7月

きれっぱしの愛7/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/フリーヌル・パルマソン脚本/フリーヌル・パルマソン
アイスランド/デンマーク/スウェーデン/フランス映画。原題は“Astin sem eftir er”。直訳すると「残された愛」らしい。公式HPのあらすじは「北欧・アイスランドの田舎町。芸術家のアンナは、しっかり者の長女イダ、わんぱくでいたずら好きな双子グリムールとソルギス、そして愛犬パンダと暮らしながら、芸術家としての道を模索していた。若くして結婚したものの、今や<もう夫婦ではなくなった>はずの元夫マグヌスは、いまだに情を断ち切れず、何かと理由をつけては家を訪ね、食卓を囲み、ピクニックにまで付き合う始末。気がつけば、まるで<まだ家族>であるかのような日常を再び送るようになるが」
Twitterへは「舞台はアイスランド。ゲージツ家の母親と3人の子供、と元夫がだらだら過ごすだけの、ストーリーもドラマもほとんどない意味不明なファンタジー? なのでちょっとウトッとした。ウェス・アンダーソンほどドライではなく、記号化もされてない感じ。」
なんか、暖簾に腕押しみたいに存在感のない、いまいち何も返ってこないような映画だったな。設定の大枠は、↑のあらすじ通り。追加すると、アンナとマグヌスは若くして結婚し(17ぐらい?)たけど、3人の子を産んで後、離婚したようだ。離婚したのがいつ頃なのか、理由は何かは、わからない。という前提で、元夫のマグヌスは家に入り浸り。ってことは、マグヌスが出ていって1人暮らししているのかね。離婚にあたって子供たちがどう反応したか、どっちについていくか、など話し合ったかどーかも分からない。とにかく、そういう状況になっている、ということしか伝えられない。離婚したなら嫌なところがあるとか、一緒に暮らせないと言うことがあるだろうに、元夫マグヌスは一緒のテーブルについて食事を採っていたりする。吹雪の夜、元夫は泊まりたい雰囲気を出すけど、アンナは、帰ってよ、と冷たい。けど、まったくけんか腰ではない。どーいう関係なんだ、この二人は。
アンナは現代芸術家らしいけど、それで食べている、ような感じでもない。どうやって生計を立てているのか、謎。画商もついているけど、いまいち上手く行ってない感じで。画商が帰ったあとに、アンナは不満をブツブツ言ってたりする。画商はセスナを操縦してやってきたらしいけど、なんと、そのセスナが墜落するシーンがある。でも、何も問題なく話は進み、後半ではその画商が登場しているので、もしかしたらアンナの「死んじまえ」という心の声のイメージとして墜落があるのかも知れない。ところであんなのアートだけど、NT旋盤で鉄板を切断する場面があるので鉄のアート? と思ったら…。一家+元夫でピクニックに行き、帆布みたいなのを広げて切り抜いた鉄板を置き、その上に石を置いたりしているので、なんのこっちゃ? と思っていたら、後日、その鉄板を帆布から剥がし、帆布を洗っていた。どーも、鉄板のカタチに付着した鉄さびのアート、のようだ。なんか、いまいち魅力的じゃないな。個人が収集すると言うより、どっかの美術館に出も買ってもらわないと、なアートだな。
あと、不思議な話がひとつある。子供たちが海岸に近いところに大きな穴を掘り、そこに一本の杭を立て、そこに布の人形をぶら下げるのだ。人形は時を経て人間サイズになり、バイキングの鉄兜をかぶせられる。ののち、子供たち(主に男の子)が、矢を射て遊ぶ。なんなんだ、である。不思議なのが時間の経過で、夏になったかと思うと雪に降られたり、をコマ落とし的に表現される。まともにみると、数年間経過しているように見えるけれど、映画全体では1シーズンぐらいにしか見えない。なんなんだ? そうそう。後半で、双子(とは説明されていなかったぞ、映画の中では)の片割れの肩に、兄弟の射た矢が刺さって大騒ぎ、という事件があった。病院に連れて行かれ、ちょうど船に乗っていたマグヌスは連絡を受けて、でも、船は戻れないので、全身救命胴衣みたいなのを着たまま、海中に放り込まれる。なんでも、帰港する漁船に、拾ってくれと連絡しているらしいけど、結局、その漁船はやって来なくて、マグヌスはぷかぷか海に浮いたまま。で、そのマグヌスの場面で映画が終わるんだけど、これが最大のドラマかな。マグヌスだけ、家族から“浮いている”とでも言いたいのか。
というわけで、ほとんど何も起こらない映画なので、退屈極まりない。アンナが美形とか巨乳とか、ってこともない。スカートの中のパンツはあったな。みんなでアート制作兼ピクニックにいったとき、アンナが寝転がってるマグヌスの顔の上をまたぐんだが、そのとき見えるのはフレアスカートの中のグレーのパンツ。ちっともエロくないんだけど、アンナの無防備さ、というか、元亭主を男と見ていない様子がつたわってきた。
最初の方で、一家の様子に、マグヌスの仕事の様子がカットインされるんだけど。黄色い作業服で階段を降りたりしている様子なので、海上に浮かぶ作業場で何かの調査でもしてるのか? と思ったぐらい。とても漁船の中とは思えなかった。よくある、水浸しの船上で大量の魚が網からどどど…な感じではなく、まるで工場か研究所のよう。ところで、あの漁船は出航したらどれぐらい戻って来ないのかな、とか考えたりした。
しかし、子供たちの、父親に対するドライな接し方、はリアリティなさ過ぎ。人形を射たり、セスナの墜落もそうだけど、行動が戯画化されている感じで、ウェス・アンダーソンを思わせたけど、あれほど寓話的でもないし、記号化されてもいないかな。ぜんたいに、なんかのメタファーにでもなってるのかなと考えたけど、結局よくわからなかった。
処刑の丘7/7シネマ ブルースタジオ監督/ラリーサ・シェピチコ脚本/ラリーサ・シェピチコ、ユーリー・クレピコフ
ソ連映画。原題は“Voskhozhdenie”。ロシア語の英語表記のようだ。登る、とかいう意味らしい。Wikipediaのあらすじ(DeepLで翻訳)は「大祖国戦争(第二次世界大戦)中、ソ連のパルチザンであるソトニコフ(ボリス・プロトニコフ)とリバク(ウラジーミル・ゴスティューヒン)は、食料を求めてベラルーシの村へ向かう。協力者の村長(セルゲイ・ヤコヴレフ)から家畜を奪った後、彼らは部隊へ戻ろうとするが、ドイツ軍のパトロール隊に発見されてしまう。雪の中での長引く銃撃戦の末、ドイツ兵1人が死亡し、2人はその場を脱出したが、ソトニコフは脚を撃たれてしまった。捕らえられそうだと悟ったソトニコフは、自らの頭に銃を突きつけて自殺を図ったが、ちょうどその時リバクが駆けつけ、彼を連れ去った。リバクは彼を最寄りの避難所、3人の幼い子供を持つデムチカ(リュドミラ・ポリアコワ)の家へと連れて行った。しかし、彼らは発見され、捕らえられてしまう。2人の男と泣きじゃくるデムチカは、ドイツ軍司令部へと連行された。ソトニコフはまず、地元の協力者であるポートノフ(アナトリー・ソロニツィン)から尋問を受ける。ポートノフは元ソ連のクラブ所長兼児童合唱団指揮者で、ドイツ軍に忠誠を誓うベラルーシ補助警察の地方責任者となっていた。ソトニコフがポートノフの質問に答えることを拒否すると、協力者である警察官たちから残酷な拷問を受けるが、一切情報を漏らさなかった。一方、リバクは、後で脱走できるよう生き延びたいと願い、警察がすでに把握していると思われる範囲の情報をすべて話す。ポートノフは彼に警察官になるよう持ちかける。その後、彼らは、パルチザンを支援している疑いが持たれる村長バシャ・マイヤーという若いユダヤ人女性と共に、その夜、同じ地下室に投獄される。」
Twitterへは「1977年ソ連映画。第二次大戦中のソ連の寒村。ソ連のパルチザン、ナチ協力者のソ連人、ドイツ兵がからんで、のっぴきならない状況に…な話。背景も状況もよく分からんけど、なんか、大変だね、な感じ。」
ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞らしいが。映画の技術的にはいまいち未熟な感じがしてしまう。だらだら描きつつ、ポイントは究極の選択を迫られた男の話、でもある。とはいえ冒頭からの、アバウトな時代背景、展開のたどたどしさ、人物の掘り下げのイマイチさ加減なんかから思うに、古い時代の映画だなと言う感じがしてしまう。↑のWikipediaのあらすじを見て、ああ、なるほど、と思った部分も少なくなかったし。冒頭に背景を字幕かなんかで説明しちゃえば良かったのにね。
「194x年、ドイツ軍がロシア国境を越えて進軍。占領下となった地域では、ソ連住民はナチへの協力が強制された。一方、対ナチのパルチザンも結成され、激しい戦いが繰り広げられていた。」
ぐらいの説明があると、話に入りやすかったかもね。
冒頭は、雪の中でのドイツ軍とソ連軍(と思ったけどパルチザンらしい)との攻防。子供や一般住民がいるのか「?」だったけど、パルチザンは彼らも引き連れて行動しているのか? で、敗走してなのか? パルチザンは小休止。銃弾も食糧も不足したので、隊長らしいのが部下に調達を命じる。1人は「手を怪我している」といい、もう一人は「村に恋人がいる」といい、もうひとりは元砲兵らしく、砲兵と呼ばれてた。けど、白黒の低画質なので顔の区別がつかんのよ。なので、2人連れだって偵察なのか徴発にでかけるんだけど、先の3人のうち誰が行ったのか、わからない。で、焼かれた家なのか村なのかにたどり着き、ありゃありゃ。これが、恋人のいるという村なのか? とか首をひねりつつ。
なことしてて、いきなりどっかの家に寄るんだっけか。ジジイがいて、村長だ、なんて話だけど、どーもナチの息がかかってる感じ。ここでひと騒動起きるかと思ったらそんなこともなく、次は片割れが何か動物を背負って雪の中を歩いている。↑のあらすじには「協力者の村長から家畜を奪った後」とあるけど、経緯が描かれてないので「?」の方が大きいね。で、うろうろしてたら馬車みたいなので移動してる数人から狙撃されてあたふた。どーも片割れが足を撃たれたらしいんだが、そういう描写もないので、へー、そうなの、な感じ。まあ、雪の中でよく撮影したよなあ、寒かったろうなあ、としか思えなかった。で、まあ、動物はどっかに放り投げて? と思ったら、どっかの家にやってくる。家の外観もなく、ドアから2人はいると、子供が2人か3人。そのうち母親が戻ってくるんだが、そこに親ナチの連中? がやってきて、隠れていた2人と母親は、連行される。2人のうち怪我男は判事? といっても親ナチ住人なのか? の焼き印の拷問でも屈せず。元気男の方は、命あっての物種的な考え。元気男は簡単に情報を吐き、民警に取り立ててやる、になびいてしまう。
まあ、この2人の選択がこの映画のキモになるのかな。情報を売らず死ぬか、裏切って協力者になるか。てな部屋に、なぜかジジイ村長と先の母親、何をしたのかよく分からない15、6の少女もぶち込まれる。母親はパルチザンを匿った罪なんだろうけど、村長が捕まった理由は何なんだ? 少女は何の罪? てなところが気になりすぎてしまう。
でまあ、パルチザンとしての侠気を貫く怪我男に対して、死ぬよりは生きてていた方がマシ、と考える元気男の考え方の違いを見せつけることになる。怪我男は覚悟を決めて、母親は「3人の子供がいるからお助けを」と叫び、村長は諦めた感じ。少女は淡々と。丘の上に用意された刑場に連行され、吊される。坂を登り、丘の上に向かうのは、ゴルゴダの丘を意識しているのかも。首にロープをかけられた怪我男の足元には、元気男。処刑後、ドイツ兵に「いい仕事したじゃないか」といわれ、茫然自失。トイレに行く、といって便所で首をつろうとするけれど失敗し、意気消沈して出てくる…。というラスト。吊されるのは高潔な人々。元気男は裏切りのユダ。とか、読めないこともない。
どう考えても理不尽極まりない状況下と、あなたならパルチザンの心意気を貫けますか? それとも、命乞いしますか? ナチの手下になりますか? という難題が突きつけられたカタチだ。もちろん2人のパルチザンだけではない。ナチ占領下の村にはナチ協力者もいるし、もしかしたらパルチザンと通じている村人もいるかも知れない。独ソ戦が、ドイツの敗走、ソ連の勝利で終わったことを知っている立場で見ると、判事も含むナチに協力した村人たちは、あのあとどういう扱いを受けたのだろうか? とも思うけれど、そうせざるを得ない状況にあったともいえる。どちらが正しいとも言えない状況。そんな選択肢は、俺は選びたくないなあ。
・吊されようとする怪我男の頬に、涙がひと筋。25歳だといってたかな。そして、吊される4人を見ている中に少年がいて、彼も涙を流している。こころが通じていることの象徴なのだろうか。
・母親を失った子供3人は、どうやって生き存えていったのだろう?
・パルチザン仲間を裏切り、ナチの手下として生き存えた元気男は、あのあとどうなったのだろう。
客は12人。
死ねばいいのに7/9テアトル新宿監督/金井純一脚本/喜安浩平
公式HPのあらすじは「鹿島亜佐美という女性が殺された。犯人は未だ分からず、犯行動機も不明。そんな中、渡来映子が「亜佐美のこと、聞かせてもらいたいんです」と、生前、彼女と付き合いがあった人々のもとを訪ねてくる。」
Twitterへは「屋上で死んだ女性について、ある女が関係者に話しを聞きまわる…というヘンな設定。関係者が、何だかんだ言いつつペラペラ喋るのが不自然すぎて眠くなった前半。罪とは何か、裁きとは何か、を対話主体に描きたいのかな。でも、話が生っぽすぎ。」
亜佐美という若い娘が、どっかのビルの屋上で死んでいた。殺人事件らしい。警察は調査するが、犯人の手がかりは見当たらず。という状況で、なぜか映子という短髪の女性が、関係者に話を聞きに回りはじめる。それによって生前の亜佐美のプロフィールが次第に分かってくる。亜佐美は会社の上司と不倫中で、毎日のように会っていた。亜佐美のアパートの隣人女性は亜佐美の会社の先輩で、付き合いもあった。母親は亜佐美をうっとうしがっていて、雄也という青年に売った? 雄也は亜佐美の彼氏ではあるけど暴力で支配していた。といっても亜佐美は雄也に不満を持っていたわけではない。役所にも押しかけて、情報を調べ回ろうとする。ななかで亜佐美という娘の概要が分かってくる、という展開なんだけど。だいたい、知人や肉親が殺害されている状況で、見も知らぬ女が「話を聞きたい」と突然やってきて、あれこれ詮索するのに、ああもペラペラと亜佐美と自分との関係を喋りまくるものかねと思ってしまう。
みんなはじめは映子に対して「お前は誰。亜佐美とはどういう関係?」と問うけれど、ろくに答えない。けれど、みな、自分と亜佐美のことをあれこれ喋り始めるんだよ。という時点で、この映画に入り込むことはできなかったな。得体の知れない映子に、無防備すぎだろ。
映子が警察に押しかけて、関係情報を知りたい、と話した時点で流れは変わる。なぜか警察官が3人ぐらい映子を無言で囲んで、圧をかける。の、次の場面で映子は拘置所か刑務所の面接室で弁護士と話をしている。え? どうなったんだ? である。なぜ映子は逮捕されたのか? は一切説明されない。弁護士は映子に、なぜ亜佐美を殺したのかとあれこれ質問を繰り返すけど、映子はのらりくらり。上司は亜佐美を搾取しながら罪に問われないのか? とか、彼氏は亜佐美に暴力を振るっていながら逮捕されないのか? 母親については、娘を売り飛ばしていながら罪に問われないのか? などと逆に問う。ええと、隣人で先輩の女性は、何をしたんだっけ? 忘れちゃったよ。
弁護士は別の事件を抱えていて、それは過酷な勤務を強要されていたトラック運転手が子供2人を撥ね殺してしまったというもので、運転手に、会社を訴えろ、と話すのだけれど、運転手は甘んじて懲役25年を受け入れる、というもの。これにたいして、だったか、イジメに悩む少年の話だったか、そんなのがあって、いじめ少年は裁かれないのか的な反論をしておったような記憶があるんだが、あいまいだ。とにかく、法の裁きと、倫理的な悪意を並べ、なぜ連理的な悪意は裁かれないのか、と弁護士に問い詰めていたような記憶がある。
でまあ、亜佐美と映子の関係だけど。ある夜、亜佐美がチンピラに絡まれているとき映子が助けて、それから映子は亜佐美の部屋に通うようになって。亜佐美の日記だとかSNSだとかを見せてもらうようになって、それで関係者の存在を知った、というような流れなんだよね。でも、それはそんな長い時間ではなかったような気がする。そもそも、映子は亜佐美の隣人で上司にも会ってないし。で、あれこれ本音を言える相手を見つけたことで亜佐美は色んなくびきから解放され、「いま、私は仕合わせ!」と言うようになった。それで映子は、そんなに仕合わせなら、仕合わせな状態で死んでしまうのが一番仕合わせなのではないかと思い、亜佐美の了承を得て首を絞めて殺した、ということらしい。
そういった経緯や物的証拠もないのに、にぜ警察が映子を亜佐美殺害の罪で逮捕勾留したのか、よく分からない。なんか、話が杜撰だ。
ラストは、映子の正面の顔のアップで。映子が、涙を流す、というもの。意味は分からない。反省しているとも思えないし。亜佐美殺害を正当化しているようにも思えない。よく分からん映画だ。
表現的に特長的なのは、映子が関係者に質問し、対話する場面で、とつぜんそこが部屋の中や喫茶店から、夜の野っ原に置かれたテーブルと椅子になったりするところだ。対話劇として1対1の密度を高めようと言うことなのか。多少、対話の緊張感は高まると思うけど、だからなに? な感じもあって、気を衒った感じしか受けないかな。
じつをいうと、対話劇が大半なので、でも、会話の内容についてはあまり覚えていない。面倒くさいというのもあるし、ムダに理屈をこね回しているだけ、な感じもしたから。↑でも話したけど、法律の裁きと、倫理的な裁き、その違いは何なのだ? とでも言いたいのかも。映子は、亜佐美のニーズに応じて彼女の幸せの絶頂の状態で息の根を止めた。たぶん亜佐美は永依子を恨んでいない。喜んでいるかもしれない。そんな私が法的には殺人者になる。亜佐美に暴力を振るい、搾取し、ひどい扱いをした関係者は、法的にはなのにお咎めもない。それでいいのか? 的な話をしているのかなと思うんだけど、だからといって映子は自分の罪を逃れようとはしていない、と思う。だって、事件を嗅ぎ回って警察まで乗り込んだのだから、自分を逮捕して調べてくれ、といってるようなものだし。まあとにかく、なんま共感も感じられない話だったな。
GOOD BOY/グッド・ボーイ7/15ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ベン・レオンバーグ脚本/アレックス・キャノン、ベン・レオンバーグ
原題は“Good Boy”。公式HPのあらすじは「アパートで飼い主トッドと暮らすレトリバー犬のインディ。最近トッドの体調が悪く、ある日、吐血。偶然アパートを訪れたトッドの妹ヴェラが病院へ急いで連れて行く。退院したトッドはインディを連れ、祖父の家に移り住む。その家は祖父が謎の死を遂げて以来、空き家となっていた。トッドは隣人から予備の発電機を借り、少しの明かりと昔にホームビデオで撮られた祖父が映っている映像を見て過ごすが、インディは家の中に何か異変を感じ取る。トッドはヴェラとの電話で、祖父とこの家に呪いでもあるのではと話す。もちろんインディには理解できないが、何かがおかしいと感じ、何かの物音を聞き、家の隅から影が漂ってくるのを感じるインディ。邪悪な存在がトッドの容態を悪化させ、インディは不気味な何かから必死にトッドを守ろうと奮闘するが・・・。」
Twitterへは「惹句は「自分だけに見える邪悪な何かから、飼い主を守ろうと懸命に立ち向かう、全編犬視点の新感覚ホラー」だったけど、嘘だろ。単調だし、まったく怖くないし、つまらないので少し寝た。バカ犬な気がする、こいつ。」
↑のあらすじを読んで、へー、そういう話だったの? と思ったりするところがあったりするんだよね。冒頭は、子犬を育てて成犬になっていく様子。それはいい。で、その成犬が主人=トッドの異変に気づくが何もできない。スマホが鳴っても対応できず、そのスマホの画面に血が滴り落ちている…。で、たまたま女性=妹らしい、が訪ねてきて、救急車を呼ぶ。「息をしていない」と話していた。てな場面の後、トッドは、祖父の家に住むことにした、とかいって犬と一緒に家を片づけ始めている。という場面を見て、時間を遡って過去からの経緯を描いてるのだな、と思ったんだよ。でも、↑のあらすじでは、順番通りのようだ。そういえば退院して犬と再会の場面も会ったけど、見てて納得がいくような映画の文法に則ってはつくられてなかったと思う。ずっと、過去からの再現、だと思っていたので、ラストの場面は、冒頭に戻ってるんだとばっかり思っていたんだよ。だから余計に「?」が多かったのかもしれない。
でまあ、最初は祖父の家で録画したビデオや、家族映像を見たりしているトッド。近所を散歩してると知り合いのご近所オヤジと遭遇。トッドは「電気がまだないんだよね」なんていうと、ご近所オヤジが「うちのジェネレーターをやるよ。取りに来い」なんて言っている。え? 電気は通じてなかったのか? じゃあ家族ビデオの電源はどっからとってたんだ?
ご近所オヤジは猟もしていて。キツネの罠をあちこちに仕掛けてるから気をつけろ、なんて言っていた。迷惑なオヤジだ。
てな流れで、とくに事件も起きず。怪しい感じもないし。なので飽きてきて、完全に寝込んだ、というよりは薄っすらうつらうつら、な感じになってしまった。だから、もしかしたらショッキングな場面があったのかも知れないけど、ぜんぜん記憶にないのだ。
それと、「全編犬視点」っていってるけど、それは違うだろ。多くの場面に犬が映っている。まあ、トッドだのご近所オヤジが映る場面がローアングル、ってのはあったかもしれないけど、でも、そのせいで、そこで何が起きているのかがよくつたわってこない、のだよね。怪しい感じは、ところどころにあった。なにやら黒い影が横切ったりとか。でも、たんにそれだけ。干からびた犬の骨は、あれは祖父が飼っていた犬の死骸か。そんなていどで、ぜんぜんビックリもできない。なまま、話は終盤へ。何しろ尺が73分だからね。
よく分からんまま、黒い人間が登場する。これは実体。コールタールを浴びたみたいな感じで、家の中をうろうろする。犬は逃げる。トッドも逃げて、犬を抱きかかえたりする。この黒い人間はなんなんだ? と思っていたら、雨の中、トッドが泥まみれになって真っ黒になってしまう。ってことは、あれはトッド自身なのか? さらに、この黒いトッドが見た先に、ベッドに横たわるトッドがいる…。ので、これはトッドの霊体が離脱し、いま死にゆくトッドを見ているのかな、と思ったんだよ。ラストで。でも、ベッドに横たわったトッドを見ているのは、犬、とすると、また話は変わってきそうだ。
いやあ。なんだかよく分からない映画だったよ。分かりやすくつくるのを避けているかのようだ。これは技術的にただ下手なだけかもね。
そうそう。中盤にトッドが医師に、余命わずか、と宣告されていたけど、いったいトッドはなんの病だったんだ? あらすじの通りの流れだとすると、吐血→入院→退院→医師の診断→死の床に、という流れなのか。これまたよく分からん。
私はモスクワを歩く7/19シネマ ブルースタジオ監督/ゲオルギー・ダネリヤ脚本/ゲンナージ・シュパリコフ
原題は“Ya shagayu po Moskve”。MovieWalkerのあらすじを少し短縮したら、「偶然地下鉄の同じ列車に乗り合わせた2人の若者。モスクワ生まれのコーリャは地下鉄の工事現場で働いている。ワロージャは、シベリアの奥地に住んでいて、旅行の途中に一日だけモスクワに滞在する予定で、飛行場からの移動中。コーリャの親友サーシャは婚約者と口論しながらも、黒い礼服を買い、5時からその服を着て結婚式を挙げることになっている。この3人がデパートのレコード売り場の可愛いい売り子アリョーナと出会い、結婚式に招待する。コーリャは知人が不在だったワロージャをもてなす。サーシャには結婚式を目前に軍から召集命令が来て、軍事部に行って1ヵ月の延期を願ってやったりする。ワロージャは雑誌に短篇小説を発表していて、それが有名作家に認められたので、コーリャと連れだってその作家を訪ねる。扉を開けてくれた床磨きの男を二人は作家と思い込み、感激して話に耳をかたむける。コーリャはアリョーナの気をひくため催眠術ができることを自慢するが、催眠術の実験がもとで、泥棒騒ぎにまき込まれ警察につかまってしまう。どうにか事件も終って、4人は、サーシャの結婚式に集まる。もめにもめた結婚式もどうやらめでたく挙行され、愉快な一日が終わるのだった。」
Twitterへは「1964年製作のソ連映画、なのに音楽もテイストもフランス映画のよう。ソ連のヌーヴェルバーグと称されているらしい。前半はテンポ良く。でも中盤からもたもたしてきて、何かに追われるとかドラマもなくてちょっと、うとっとしてしまったよ。」
空港に到着した青年が、夫を迎えに来ている女性とにこやかに声を交わす。青年は「羨ましいなあ」という。女性は「あなたも早く結婚すればいいのよ」と返す。青年はバスに乗り込んで、女性にサヨナラ。で、彼女とどっかで再会するのかと思ったら、それは特になし、かよ…。
街の俯瞰ショット。中央を流れる川。建物…。まるでセーヌ川。軽快で洒落た音楽。これがソ連? モスクワ? ロシア人? と思ってしまうくらい洒脱。やっぱりヌーヴェルバーグの真似してるのかね。真似だとしても、いいじゃないか、と思ってしまう。
地下で作業してる青年は、冒頭の彼ではないな。地下鉄。やたら「うるさい」と絡んでくるオッサン。乗り込んで来た乗客が、どこどこにいくにはどこで降りればいいのか? と、別の客に聞いている。と、「うるさい」といってたオヤジが、それならどこどこ駅で、というと、地下鉄青年が、いや、なになに駅で、とちょっと対立。互いに、俺はモスクワ生まれだ、と意地を張っている。こんなユーモアのあるソ連人がいるのかよ、な気分。だって50〜60年代のソ連映画なんて、戦争の影を重く引きずってるのばかりだったから。スタイルが新しい。テンポもいい。役者もいい。
コーリャは、車内で知り合ったワロージャを案内する。途中コーリャは、子供を2人連れた従兄弟と遭遇して、挨拶。この従兄弟、後々、登場するかと思ったら、しなかった。なんてことしてたらワロージャが犬にかまれて。飼い主かと思った少年は、教会に入っていったおばさんに「ちょっと見ててくれ」といわれただけ、という。教会で件のおばさんを見つけたと思ったら、「主人の犬」という。犬が病気持ちか否か、なんて話をしてたけど、そんなことは関係なし。その後に犬も飼い主も登場しない。てな感じでワロージャと分かれたけど、目的地に知人がいなかった、とワロージャが戻ってくる。ついでに「荷物を預かってくれ」というので、コーリャは家にワロージャを連れていき、姉にワロージャのズボンを縫ってもらう。姉は約束があってでかけるところ、だったらしい。コーリャの祖母は子だくさんだったけど、多くが戦死した、なんてところが戦争の影か。でも、以降、コーリャの母も祖母も姉も登場しない。話がどんどん転がっていくけど、なんの伏線もないのだよな。
ワロージャは何かの雑誌に自作の小説が掲載された、とかで。で、それを見た作家に会いたいと言われ、出かけていく。じゃあ僕もついていく、とコーリャも一緒に作家の家に。最初に出迎えた男がいて、次に登場した男が話を聞いてくれて、あれこれ蘊蓄を。と思ったら、この男は清掃作業員で、最初の男が作家本人だった、というエピソードがあったりするんだけど、なんかミエミエな感じだな。
ここらへんでコーリャの友人サーシャとが登場するんだけど、脈絡なしなので最初は「?」。召集令状の出頭日時を忘れたか無視したかで。日時を猶予してくれ、といいに行くから来てくれ、といわれてついていくんだけど。係官と最初に話すのはサーシャではなくコーリャで、コーリャがどうたらと交渉する。係官が「なぜ本人が来ないんだ」と問うと、ドアの外に来てる、と呼び込むって、そんなのアリなのか。最初からなぜ本人が出頭しない、と係官が怒っても良さそうなもんだけど。でも、こんないい加減なのに、召集が一か月延びた、とサーシャは喜んで彼女に電話してる。サーシャも、結婚するとか言いつつ、しかも夜に結婚式をすると言いつつ、なんをだらだらやってるんだか。
というあたりから、ちょっと緊張感が薄れてきた感じ。
サーシャが、結婚式のためにスーツを買う、というと、コーリャはワロージャに「君の上着を貸してやればいい」とかいう。結婚式なのにそんなんでいいんかい? サーシャが、彼女にプレゼントのレコードを買うから、だっけか? で、レコード店に行くんだけど。なかなかレコードを買わずに女店員アーリョナと雑談しつつ、結婚式に招待してしまうと言うトンデモ展開。アリョーナもテキトーにあしらってる感じではあるんだけどね。3バカ相手に話しつつ、他の客の、クラシックレコードの注文にはテキパキと対応してるのがなかなか凄い。にしても、アリョーナはなかなか可愛い。
このあたりから話のテンポがとろとろしてきて。ちょっと退屈感が増してきた。
この後、サーシャはなぜか入隊の猶予を解消した。入隊する、と坊主頭になっていたり。アリョーナがやって来ないので店に行って彼女の夜の予定を聞き出して、出向いていたコンサート会場まで行って呼び出したりする。でも、呼び出されたアリョーナはとくに怒りもしない…。
ぐらいまではちゃんと見てたんだけど、この後ぐらいから瞬間的に目をつぶったりして…。催眠術がどうの。泥棒がどうの。というくだりは断片的に言葉だけ覚えているけど、映像はほとんど記憶にない。
で、突然、雨の中をずぶ濡れの女性。その彼女に傘をさしだす自転車の男。…というシーンは、ありゃなんなんだ? 女性はアリョーナ? サーシャの結婚相手? よく分からん。そういえば、ずぶ濡れのサーシャも写っていたっけ? なぜか、結局、結婚式もすることになったのか。みなで踊りまくってる。そんな場面もあったな。
で、ワロージャはモスクワから地下鉄で次の地へ向かうんだったか。アリョーナはワロージャに惹かれている感じ。そのワロージャは、コーリャにサヨナラを言ったか言わないか、反対側のホームに来ていた車輌に乗り込む。がらんとした巨大な地下鉄のホーム。エスカレーターで登っていくコーリャ。下から誰かに呼び止められ、少し下って、でもまた登っていくんだっけか。なんか、この辺も記憶が曖昧。
全体的には軽快で洒落てはいるんだよ。けど、話の展開に因果関係がなさ過ぎ。登場する人物もその場限りで、あとから、あああれが、的な伏線にもなっていない。その場限りでどんどん消費していく感じ。大人世代への抵抗、社会への不審感があるとかもない。抑圧からの解放への憧れも感じられない。なにか事件とか失敗があって、誰かに追われるとか、尻拭いをするとか、解決するとか言うスリリングな展開もない。なんか脳天気なんだよね。ヌーヴェルバーグのスタイルも表面的に真似ているけど、芯がないというのか。危険が感じられないのだよね。ほんとうに当時のソ連はこんなに楽天的だったのか?  キューバ危機の直後だぜ。ので、後半は集中力が切れてしまった。エッジが効いていないとでもいうのかな。もったいない感じだ。
観客は15人ぐらい。
トロフィー7/21テアトル新宿監督/孫明雅脚本/孫明雅
公式HPのあらすじは「在日コリアンのルーツをもつ14歳の少女・ソヒは朝鮮学校に通い、部活で朝鮮舞踏に打ち込む日々を送っている。ある日、日本学校との交流会で日本人の未来とK-POP好きという共通点で仲良くなり、ソヒは少しずつ外の世界と繋がりを持っていく。そんな中、ふたりは推しのK-POPアイドルのライブチケット代を稼ぐために、ソヒの家にある不要品をフリマサイトで売ることに。そこで意外にも高値で売れたのは、朝鮮学校の校長である父・サンジュが持っていた一枚の北朝鮮のCDだった。それに味をしめたソヒたちは、サンジュが祖国・北朝鮮から授与された“勲章”までも売ってしまう---」
Twitterへは「生徒が集まらず苦労してるとか、喜び組みたいな踊りも練習してるとか、朝鮮学校の現状が見えるのが興味深い。無条件に讃美できないし、否定もできない祖国…。登場人物だけでなく製作者側の歯切れの悪さもリアル。青春映画には物足りないけど、ね。」
不思議な映画だった。在日朝鮮人、それも総連系の家族を扱っているんだけど、日本帝国主義の植民地政策のおかげで…的な言葉がひとつもない。肩肘張ってない、朝鮮人映画っていうのかな。メッセージ性はほとんどないし、むしろ親世代の三世の両親のダメダメさを見せていく。
主人公は朝鮮学校に通う女生徒ソヒで、14歳の中学生だったのか。高校生? とも思ったんだけど。でも、恋バナも差別も、『パッチギ!』みたいな大立ち回りもない。もちろん『パッチギ!』公開の2005年とは20年違うのだから、描き方が違ってもおかしくないけどね。
そういえば、朝鮮学校の制服がチマチョゴリじゃなくなったのはいつなんだろう。調べたら、廃止されては射ないけれど、「1990年代以降、通学時の着用については「任意」とする学校がほとんど」らしい。むかしはこの制服でからかわれる女生徒がいたり、暴力におよんだりすることもなくはなかったと思う。
ある意味で、あっけらかんとしているのだ。ソヒは、民族意識はほとんどない。家で「北朝鮮」と言うと父親に「ウリナラ」と言え、と注意されて直すけど、うっせーなー、ぐらいな感じで、素直にしたがっている。それだけではない。総連系に都合のわるそうなことが、いろいろ透けて見える話になっているのだ。たとえば朝鮮学校は生徒が集まらず困っていて、校長でもあるソヒの父親は北朝鮮籍の家族を訪ねて勧誘、説得までしている。自腹を切って交渉しているのでムダな出費も重なり、校長ではあるけれど経済的に苦しい生活を強いられている、とか。あるいは、朝鮮学校の部活で民族舞踏があるんだけど、ソヒも部員として練習の毎日だったりする。けれど、その踊りと言ったらいわゆる北の喜び組が踊るような民族的なもので、指導する女性教員は「心がこもっていない。祖国に対する心を表現しろ」的なことをいうわけだ。ソヒはK-POPファンなのだけれど、学校で教えられるそうした舞踏に何の疑問も抱かず、教師の指導に応えようとする。
そーか。朝鮮学校は経営が苦しいのか。その背景には金一族の独裁が世間に知られていて、肩身が狭いからなのだろうか。日本人からの差別意識を回避したいからなのだろうか。と思うんだけど、いっぽうで「今は昔と違う。昔みたいな差別はなくなっている」というセリフもあったりする。まったく偏見がないとい行かないけれど、差別意識は薄まっているのだろうか。という一方で、北の思想に則った舞踏も行われている。わざわざ差別されるような原因を自らつくっているんじゃないのか? という疑問も湧いてくる。後日、父親の勲章の件でソヒと未来は北朝鮮愛好家の交換会のようなところに行く。そこで上映されていた祖国の舞踏。それが、いま練習しているものと同じで、それを愛好家たちは面白がって見ている。ずっと素晴らしいものだ、と思って打ち込んできたはず。それが、キッチュなものとして好奇の目で見られていることを知る。ソヒにはコペルクス的発見だったんだろう。いままでの私は、なに? 自分や家族、祖国のイメージが覆されていく。未来も、愛好家たちと同じような目で見ていたことを、ポロリと告白する。そーか。14歳はまだ純朴で、世間が家族内で収まっている。けれど、外の世界の現実を浴びる端境期でもあるのか。
たとえばソヒは、未来に「曽祖父が済州島からやってきた」と説明する。未来の「なぜ日本に来たの?」に、「もともと同じ国だったから」と当たり前のように応える。きっと学校では日本の植民地だった、ということを教え込まれているだろう。けれど、未来には植民地ということばを避けている。たぶん未来は知らないだろう、と判断したと思う。このあたりソヒは、対日本人に対する配慮は知ってる感じ。観客の中には歴史的事実を盛り込みたい向きもいて、物足りないだろうてど、若い世代はこの程度の理解なんだなと分かる場面で、あっさりだけど、なかなか良かった。もうひとつ、ソヒが未来を家に連れてきたとき、「この子も在日だよ」と、さっと紹介する場面。未来はちょっと戸惑った表情だけど、ソヒの家庭的には日本人を連れてくるのはタブー、なことがあるんだろう。朝鮮学校の校長の家で、娘が日本人と友だちになっている、というのはまずいことなのかも知れない。
監督は、総連側が困るようなことを描く。フツーなら、自分たちを肯定するため日本の植民地政策を持ち出して相対的に祖国を持ち上げたり、誇りを持とう、的な内容になるはずなのに。そのあたりは、じれったかったし、歯がゆかった。映画のつくりとしてまったくスッキリした気分にならないのだ。
現在の総連系の朝鮮人社会。それを素直に描いたら、こうなったというわけか。怒りやパッション、感動はない。けれど、現状はこうなのか、という発見のある映画なのか。でも、ドラマとしては見ていて気の毒になってくるんだよな。
いまだに北朝鮮を「ウリナラ」と呼べ、という愛国意識をもつ父親。かつて苦しいとき、祖国は我々を助けてくれた、と信じ込もうとしている父親。もちろん総連が行なってきた裏のことや、万景峰号の出来事は知っているはず。でも、それを見ないし語らない父親。そのことを知っていながら、父親を非難したりもせず、信頼し続けるソヒと弟、そして妻。まあ、家庭がこじれないだけマシか。厳格すぎない父親でよかったのかもね。まあ、父親も社会人として北朝鮮の悪事は分かっている、けど、祖国に背くわけにいかない程度の想いで現在を生きているのかも知れない。そのあたりが哀れでもあるし、滑稽でもある。映画は、それをはっきり指摘はしないけれど、隠そうともしない。ああ、じれったい。歯がゆい。それにしても父親は脳天気すぎ。母親が洗濯機を購入したことに疑問ももたない。洗濯機の金はどうした? ぐらい聞くだろ、フツー。まあ、映画的な演出かもしれないけど、ちょっと不自然かな。
ソヒと未来は、朝鮮学校で行われた、日本人学校との交流会で知り合った。いまではそういうこともしてるのか。って、向かしもしてたのかどうか知らないんだけど。で、お互いに推しのK-POPアイドルが同じなことで気があって、連絡を取り合うようになる。けれど、ソヒの家は経済的に難があって、コンサートに行くなどムリ。ファンクラブにも入れてない。ので、ソヒは一計を案じ、家の中の不要品をネットで売ろうとする。↑のあらすじにあるように北朝鮮のCDが5千円で売れたのに味をしめ、父親の勲章まで売ってしまう。この辺りの暴走は映画的なドラマになっていて、ちょっとスリリング。でも、なぜか「勲章がない」と母親が騒ぎ出して、ソヒも悩むことに。この勲章は祖国に貢献した人に北から贈られるらしい。へー。そんなのがあるのか。そこで未来は、祖父(?)が鋳物をやっているので同じ物を造ろうとして、知り合いに同じ勲章を持っている人をなんとか探しだし、自分で型をとって社員に金属を流し込んでもらうのだけれど、バリを取ったり磨く作業は、祖父に断られてしまう。というシーンは、なかなか面白かった。北朝鮮愛好家の集まりに顔を出すと、買った本人がでてきて、「どれがいい?」と見せてくれたのは20個ぐらいがケースに入ったもの。それだけ売りに出す人がいる、という事実と、キッチュな物としてあつめている人がいる、という事実。北の権威なんて、そんなものなのだ。で、結局、手に入れることができない。ネットで売っぱらったことはすぐにバレたけど、その金が洗濯機に化けた事実を妻に突きつけられ、父親は反論できず。まあ、父親がゴリゴリの金日成主義者じゃなくてよかったね、な感じだ。
朝鮮舞踏のコンクールは、本来の主演が足をくじき、代役でソヒが演じることに。最初はヤル気満々だったけど、北朝鮮愛好家の集まりで見た本場北の喜び組的踊りと、それを面白がって見られていること、なんかを知って、俄然、ヤル気が失せてしまったソヒ。踊りに身も入らず、だったけど、なんとかコンクールの当日に。未来も駆けつけた。けど、目指した金のトロフィーは獲得できず、去年と同じ銀のトロフィーに。それでもみんなで写真に収まって、笑顔になる。監督の女教師も一緒に入った写真のシャッターを押したのは、未来。その名前のように、未来はもっと明るくなるのだろうか。
映画を見て帰宅し、朝日の夕刊をみたら監督のインタビューが掲載されていた。「朝鮮学校への葛藤 映画に込めた」と。「出発点にあったのは、自らが朝鮮学校に抱き続けてきたもどかしさだった」とある。さらに「「トロフィー」は、朝鮮学校が高校無償化の対象から外されている問題など、日本社会との対立を正面からは描かない。まずは朝鮮学校の生徒たちを身近に感じてもらいたい」とある。また「日本社会で役に立たないのに、なぜ朝鮮語や朝鮮の歴史を学ばないといけないのか」。孫監督はそう考えていた」。朝鮮学校の教員である母親に「(朝鮮学校のことを考える前に)まずユニバーサル・スタジオ・ジャパンのチケットを買ってよ」。家族よりも「祖国」を優先しているように見える母に、いらだったこともあった」「「トロフィー」は、孫監督がこれまでの人生で抱えてきた葛藤を映した作品でもある」「在日コリアンの人たちからは「学校がどのように描かれるのか」と警戒されたりした」「北朝鮮というバックグラウンドがあっても、日本の子どもたちと変わらない。その姿を見て欲しい」などと書かれていた。なーるほど。みながら感じていたじれったさ、歯がゆさ、もどかしさは、監督自身が感じ続けていたことだったのね。それは、十分につたわった。のではあるが、映画としてのドラマチックは、その分薄れたのかもしれない。製作者側が正直すぎて、映画は歯切れが悪くなっているように感じたんだよね。不気味の谷とでも言うのかな。
・父親が勧誘していた商店の息子は、結局、朝鮮学校に入学することになった。ソヒは「日本人の学校の方がよくない?  友達のいない朝鮮学校でいいの?」と話すけれど、父親は、「日本人の学校に言っても、俺たちは日本人にはなれない」と言い放つ。そりゃそうだけど。昔ほど朝鮮人だからと下に見られることもないように思うけどな。この傾向は、年々高まってると思う。もちろん民族差別を叫ぶ輩はいるとは思うが。
・朝鮮学校の授業で、教師が金日成の凱旋門を説明していた。のちに北朝鮮愛好家の集まりに行ったとき、参加者がスライドで映された凱旋門の写真を見ながら、「いつもここでパリの凱旋門より5メートル高いことを自慢するんだよね」って笑っているのをソヒは聞いている。このあたり、自分が学校で教わっているのはなんなんだ? って、思うわな。そういえば父親も、かつて北朝鮮に言ったときのアルバムを捲りつつ、これは一番高い山だ、と誇らしげにいっていた。ソヒには、その全てが虚しいと感じられたのではないか。
・その父親は、ソヒがネットでモノを売るというので、CDも売っていいよ、とはいったけど。「サザンは売るなよ」と言っていたのが印象的。結局、日本の文化に浸っているのだ。父親も。
フレンチ・カンカン7/26シネマ ブルースタジオ監督/ジャン・ルノワール脚本/ジャン・ルノワール
原題は“French Cancan”。MovieWalkerのあらすじは「1888年、パリ。興行師ダングラール(ジャン・ギャバン)の経営する寄席“シナ屏風”から物語は始まる。モデルをしていてダングーアルに見出され、この寄席のスターとなったローラ(マリア・フェリクス)は烈しい気性そのままダングラールを熱愛していた。しかし、彼の事業の出資者であるヴアルテル男爵が彼女につきまとっていた。ある夜、モンマルトルへ行ったダングラールは、“白い女王”というキャバレーで、恋人のポオロとカンカン踊りに興ずる小娘ニニ(フランソワーズ・アルヌール)の新鮮さに驚かされ、カンカン踊りを新しいショーとして興行する決心をした。彼は早速“シナ屏風”を売り払い、“白い女王”を買う契約をした。そしてフレンチ・カンカンと新しい名をつけ、ニニを説得して踊りの練習をさせた。“白い女王”は取り壊され、その名も“ムーラン・ルージュ”と改められた。“ムーラン・ルージュ”の棟上式の日、ニニに嫉妬したローラが喧嘩をしかけ、大乱斗となった。ダングラールはニニのことで怨みをもつポオロから工事中の穴に突落され、重傷を負った。彼が退院した日、ローラにそそのかされたヴアルテル男爵が出資を中止したことを知った。この絶望の日にダングラールとニニは初めて結ばれた。しかし、かねてニニに思いを寄せていた近東の某国王子アレクサンドルの援助で”ムウラン・ルウジュ”の建設は着着と進められた。嫉妬にもえるローラは、アレクサンドルを連れて”ムウラン・ルウジュ”にやって来、ニニに王子の面前でダングラアルの情婦であることを白状させた。失望した王子はピストル自殺を計ったが、未遂に終り、ニニに“ムーラン・ルージュ”の権利書を渡して去って行った。後海したローラも協力を約束した。そして、“ムーラン・ルージュ”開場の日が来た。人々は開場前からどっと押寄せた。しかし、ニニは、ダングラールの心が彼の発見した新しい歌手に移ったのを知って沈んでいた。いよいよ呼びもののカンカンが始まるというとき嫉妬にかられたニニは楽屋にこもって出演を拒絶した。観客は騒いだ。しかし、恋人がほしければアレクサンドルに電報を打て、亭主がいるならポオロのところへ行け、というダングラールの厳しい言葉に、ニニはカンカンに生きる自分の立場を知った。割れんばかりの拍手のなかに飛び出たニニは何もかも忘れて踊り出していた。」
Twitterへは「ムーラン・ルージュができ、フレンチ・カンカンが登場する語。人物関係や土地の権利、支援者で分からんことあるけど、楽しいからいいか。監督ジャン・ルノワール。ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール、エディット・ピアフ。」
モノクロかと思ったら、カラーなのでびっくり。1954年の製作だからカラーでも当然だけど、ジャン・ルノワールなのでモノクロかと思っていた。
フィクションだけど、連想される人物や場所はあるだろう、的なことが字幕ででてきた。ということは、事実ベースのところが多いということなのかね。知ってる人が見れば、ああ、そうそう、と思える内容なのか。だからなのか、映画は説明が少ない。大まかな流れは、分かる。けれど、人と人とのつながりとか、関係性が不明瞭、というか、なんとなくだったりして、「?」も多い。最初に小さな小屋でショーをしていて、そのときのヒロインはローラなのかな。左頬のホクロしか見分けつかなかったけど。と思ったら、次はもうちょっと大きなダンスホールみたいな場所で、わいわいガヤガヤ。ここに来てたのが洗濯女のニニと、その彼氏のポオロなのかな。で、ダングーアルはニニと踊って気があって。ローラはニニに嫉妬し、ポオロはダングラールに嫉妬する、と。でも、ダングラールが興行主だとか、最初の小屋が「シナ屏風」だとか、次の「白い女王」はただのキャバレー、とかいうのは説明もロクにない。↑のあらすじを後から見て、ああ、なるほど、そうか、と分かる程度なのだ。
ローラにつきまとっていた紳士が男爵だとか、彼がダングラールに出資していたとか言うのも、あらすじをみて分かったほど。「彼は早速“シナ屏風”を売り払い、“白い女王”を買う契約をした。」というのも、へー、そうだったのか、だ。ダングラールが「カンカン踊りを新しいショーとして興行する決心をした」というのも、分かりにくい。もともとカンカン踊りはあったけど、大人数のはなかった、ようなことを言っていたような…。でまあ、「白い女王」は改修工事に入り、ニニを始め何人かの娘たちは歌と踊りのレッスンに励む。のも、流れがぶっきらぼう。レッスンの様子や指導するオバさんなんかは丁寧に描写するのに、ダングラールの思惑とかは、さらり、なので。資金繰りに困ると、男が出資を申し出たりするんだけど、この男は例の男爵なのか? ローラは男爵とつき合うようになったの? ダングラールのことは諦めたの? な人物描写は、甘過ぎ。
面白かったのが、ニニの貞操観念。洗濯女から脱出して踊り子になるぞ、と決心するのはいいんだけど、そのためにはマネージャー(ダングラールのことかな?)と寝る必要がある。でも自分はまだ処女。処女だとバカにされるから、かねて処女を棄てるなら相手はポオロ、と決めていたらしく、色目で誘ってさっさと済ませる。小娘なのに魔性な感じが、怖いね。貞操観念はゆるかったんだな。でも、こんなことされたらポオロは、ニニは俺の物、と強く思うようになるよなあ。
ニニは、いつも一緒にいるダングラールに惚れてしまい、さっさと関係を結ぶ。ダングラールも、ローラのことは過去のこと、とニニとつきあい始める。なんだよ、このいい加減さは。なわけでポオロがまたまた嫉妬でダングラールを工事中の穴に突き落としてしまう。やることが直情的すぎ。なんとか歩けるようになった頃、出資者(男爵か?)が、支援はやめだ、と告げに来て、ムーランルージュ(しかし、大臣が視察に来てたようだけど、そんなに注目された計画だったのか?)の工事はストップ。あらすじには「ローラにそそのかされたヴアルテル男爵が出資を中止」となってるけど、へー、そうだったのか。なぜまたローラがそんなことを? 映画では説明されてなかったぞ。
でまあ、このあたりから出てくるのが、ニニに心を寄せるハンサム男なんだけど。王子、とは字幕で出てたけど、アラブ人なのか。でも、まだニニは修行中の身なのに、どうやって目をつけたんだ? で、積極的にアタックするけど、ニニはお姫様になるよりダングラールに夢中。王子は、ニニとダングラールがつき合ってるのを知ると、あっさりと拳銃自殺未遂。おやおや。それが回復すると白い女王の権利書をニニに渡して、自分は身をひく。ええ。そんな都合のいい話があるのか? だけど、これでダングラールのムーランルージュ計画は再スタート。まあ、なんてダングラールはついているのかね。
と思ったら、隣家の住人の娘の歌声に惚れてしまったダングラール。彼女をどうするという描写はないんだけど、後のムーランルージュオープンには、この娘が歌手として登場しているという、ざっくり経緯を省いた演出は、ちょい分かりにくいよな。
さて、ムーランルージュのオープン。こっからのながれは、素晴らしい。昔からつきあいのある口笛芸人。隣家の歌の上手い娘…とショーは進んでいく。でも、ダングラールが歌の上手い娘にお熱なのを知って、ニニは「舞台に上がらない」とダダをこね始める。それをみんなが説得し、母親までつれてきて、なんとかニニもカンカン踊りに参加する。ホールの客の多くはテーブルと椅子を舞台に移動。踊り子たちは、二階から降りてきたり壁からでてきたり、群舞になって大股開きのズロース見せ放題。この場面は楽しかった。なので、分かりにくいとか、人物関係がどうのトか、よくなってしまった。このカンカン踊りだけで、結構、満足したよ。ロートレックの描いた世界が、ここにある!
ジャン・ギャバンは分かるけど、ローラ役のマリア・フェリクスは知らない。ニニのフランソワーズ・アルヌールは名前は知ってるけど、顔はよく分からない。てな具合なので、分かりにくさも多かったのかもね。もしかしたら、当時としては、大物役者総出演の総天然色映画、てな大衆向け映画だったのかもね。踊り子たちが踊りまくっている舞台裏で、ダングラールのジャン・ギャバンが腰を下ろしてニコニコしつつ、足を上げ下げしているカットが面白かった。しかし、ダングラールも次々と女を乗り換えて、色男過ぎるね。
観客は2人。
チルド7/27テアトル新宿監督/岩崎裕介脚本/岩崎裕介
公式HPのあらすじは「24時間灯り続けるコンビニ。同じ商品、同じ挨拶、同じ作業。繰り返される日常が、静かに狂い始める。舞台は東京の片隅にあるコンビニ〈エニーマート倉冨町7丁目店〉。小さな社会で起きたわずかな歪みをきっかけに、世界は終わりへと向かっていく。」
Twitterへは「どこにでもあるコンビニの、定番の部分が闇になり、ダークに染まっていって…。見ていない、見えていない、無関心になっていく。最後はやり過ぎな気がするけど、88分ならではの面白さ。」
冒頭の、パックに入ったチキンの棚。半眼で無表情な染谷将太のアップ。無味乾燥なコンビニの象徴か。ここで繰り返されるのは、レジ袋を「くれ」といったかどうかの言い合い。客は、「いってない」というが、店員染谷は、「聞いた」と打ち込んでいて。さらに言い合いになるかと思ったら、客は、もういいよ、と帰っていく。3円5円返却しろ、というのではない、ダークな部分かな。店員は、言われなくても、客が言った、と打ち込んでいるかもしれない。そんな些細なことからはじまるこのドラマ。なかなかスリリングで面白かった。
コンビニ内でのルールとか常識が、いつのまにかオーナーや店員を蝕み、自我を失わせてしまう恐怖、とでもいうのか。そのルールから逸脱するとコンビニから追い出され、最後は抹殺されてしまう流れ。そんなことあり得ないと思うけど、ちょっとはあるな、この感じ、っていうのがつたわってくる。合理的に排除されるのが、おばさん店員かな。廃棄品に手をつけて、それがバレて首。というか、その合計金額が200万以上でそれを請求されるという異常な感じ。どうせ捨てられるモノ、と気軽に手をつけるオバさんと、もったいない、と擁護する唐田女店員。しかし、社会的な“もったいない”より、コンビニルールが優先する社会。まあ、これはあるだろう、とも思うけど、もっと柔軟性があってもいいよな、な気もする。議論が分かれるところだな。
染谷とオーナーが食事をする場面があって。染谷がタメ口なので、親子? と推測しつつ見ていたら、そうだったんだけど。この一家も不思議すぎ。オーナーの西村まさ彦がひたすら暗い。仕事は店長以下にまかせきりで管理が主だけど、日常会話はできない人。なんか、本部の指示に洗脳されてしまったような不気味さを感じる。ある店員の「またのご利用をお待ちしております」に対して「じゃねえだろ。またのお越しをお待ちしております、なんだよ」とぶつくさいってる。そんなのどっちでもいいと思うんだけど、オーナーにとっては経営するエニーマートのレゾンデートルであるかのようにこだわり、深夜、ひとりテレビのテストパターンにむかいながら、これをつぶやいている。そして、店員にも口頭で注意するんだけど、注意したその直後に「またのご利用をお待ちしております」というのを聞いて、プチン! と切れて、その店員の側頭部にを焼き鳥の串を差し込んでしまう。それも、淡々と。オーナーの狂気はエスカレート。独自品を取り扱うように、としつこい本社営業社員の頭をフワイヤーの中に突っ込む。女店員が、染谷に頼まれ、良かれと思って描いた揚げ物セールのPOPの貼り紙を見て、プチン! なんと唐田の首を切断し、冷蔵庫に並べたりする。…まあ、このオーナーの狂気は映画としてはやり過ぎな気もして、そこまでやるとムダにホラーになるだけ、な気がする。一歩手前で、それはオーナーの妄想だった、ぐらいで止めておいてもよかったかなと思う。
染谷はたまにゲーセンに入り浸りの中年女性のところに行く。たぶんこれは染谷の母で西村の妻なのではないか。なぜゲーセンなのかは分からないけれど、社会性からの逸脱を表現しているのかも。
コンビニでは、すでに死者がいる。店長だったかな。店員仲間で飲みに行って、ある店員に「店長、給料安いから」とか言われて、表情が急に暗くなる。さらに、陽気に振る舞おうと破顔してものをいったのに、染谷に否定的なこと言われ(だったかな?)、これも表情がなくなってしまう。あらら、と思ったら店の奥で縊死してしまう。心が弱く欝なのかもしれないけど、コンビニのシステムに歪められての結果、なのかもしれない。
かとおもうと、店の近くにキッシュ屋がオープンし、店長がビラをもってやってきて。最初は行列の店だったのに、次第に閑古鳥。ついに閉店の貼り紙が。その貼り紙の前で写真を撮りたい、という店員がいて。道路を渡って、シャッターの前でニコッ。まあ、ここでトラックでもきて轢かれるのかなと思ったら、上からキッシュ屋の店長が降ってくるというブラック。しかも、この店の後には魯肉飯の店が開業し、当初は行列の店になる。その後は知らんよ。
というわけで、話の流れとしてはオーナーの狂気のエスカレートなので、焼き鳥串刺しからの唐田生首で、この店はつぶれたんだろう。でも染谷はラストシーンで、別のコンビニの店員をしている。コンビニの世界から足を洗えず、なコンビニ店員の話、ということか。
というメインストリームに、いろんな小ネタが絡んでくる。
・染谷のところに不動産屋のセールスマン。インターフォンで追い払ったのに、裏庭に潜入している。これは意味不明だけど、他業種の大変さでもいおうとしているのかな。
・応募者の面接が、おかしい。最初は髪が赤い男。髪についてオーナーが注文つけるけど、バンドのポリシーとして受け入れられない、とかいう。ここの募集に応じた理由については、そこにあったから、と。コンビニのキャッチフレーズみたいだ。そこにある、と。2人目が唐田で、美容学校に通いつつ週3〜4で入る、と。応じた理由をきく西村の口調が、赤い髪の男のときとまったく同じで、感情がるまでない。コンビニに浸かるとここまで個性も主張もなくなり、パターン化してくるのか、と思ったね。なかなか面白い演出。
・染谷と西村の親子だけど、コンビニ弁当食べながらの会話が2〜3回ある。西村は、誰がやめた、とか仕事のことしか言わない。店長が縊死したのは内緒にしておこう、とか。いやいや、そんなのムリだろ、と思うんだけど。警察には届けなかったと言うことか。闇だな。で、染谷に、次の店長はお前やれ、できるだろ、と。息子の染谷が店長ではないことが気になっていたけど、コンビニで働く前は何をしていたんだろう。別の業界にいたのかな。の、転職組なのか。他にいくところがない連中の吹きだまり?
・そめやは、マッチングアプリで女の子と会っている。1人目は、猫アレルギー、犬アレルギーの娘。この娘にだったか、そういう顔をするんですね、と言われていた。無味乾燥な写真しかアップしてなかったからなのか。人間性は、まだ失っていないと言うことか。2人目は看護師で、人の死に感じなくなる話。これはコンビニの仕事と通底していて、流れ作業になってしまうと言うことかも知れない。3人目は、気があったのかベッドインして終わった後、な描写。4人目は、いろいろな事件の後で、それでも女選びはやめてないのか、な感じ。っていうか、人がどんどん死に、父親が殺人者になってもめげないんだなあ、という感じ。そういえば、4人目の時、別テーブルにいた女が写っていたけど、これまでの誰か、なのか? ちょい気になった。
・深夜のファミレスにも、染谷は行く。そこで唐田がひとりで来ているのを見つけ、話し始める。唐田は美容学校に通っていて、その勉強らしい。和気あいあいと話していて、フツーの青年の染谷。完全にはコンビニに染まりきってない、ということか。この店では、別の事件も発生していた。ある男(元のコンビニ店員仲間? 違うかな)が鯖味噌定食を頼んだんだけど、とどいたのは別の定食。でも、面倒くさくなって「これでいいよ」というと、店員は下がっていくんだけど、しばらくして調理人がフライパンに鯖味噌をもってきて、「鯖味噌。これでいいんだろ」と言って、鯖を皿に滑り落とす。「何すんだよ」といわれ逆上した調理人は、男の頭をフライパンで何度も殴る…。という行為が、染谷と唐田のテーブルの近くで起きるんだけど、2人は気がつかず。まあこれは、この手の注文間違いはよくあることで、映画の冒頭のレジ袋を頼んだか否かと通底する話。でまあ、鯖味噌の方は、こういう話はよくあるよなあ、でも調理人は反省するより、怒ってることもあるのかなあ、という映画全体としての妄想のようでもある。・染谷は店員仲間と、居酒屋も行く。まあ、↑でも述べたけど、ここで当時の店長が「店長はいつも金がない」とか言われ、蒼白になったりするんだけど。それはさておき、店員同士の交流もあったし、参加してるんだよなあ、というエピソードかな。
・唐田は正義感が強い、というか常識人で。染谷が監視カメラ李映像を示して、この人万引き常習犯、というと、染谷の制止を振り切って注意に行く。あとからオーナーにいわれるんだけど、いちいち万引き犯をつかまえ警察沙汰にすると手間も時間も面倒なので、無視している、と。これが事実かどうか知らないけど、そういうもんかなあ、とも思う。まあ、こういうこともあってオーナーからは目をつけられていて、串物セールのPOPで逆鱗に触れ、首を切断されてしまうんだが。定型の決まり事から逸脱するのは、たとえそれが売上につながったとしても、するな、ということなんだな。別の店員の「またのご利用をお待ちしております」も同じで、決まり事の通りにやらないと心が揺さぶれるまでになってしまったんだろう。個性をつぶすコンビニ的な定型作業、ということか。
・他にも染谷だったか別の店員だったかが、やってきては何も買わず1時間ぐらい店内をうろうろしていくジジイの話をしていた。デパートならまだしも、狭いコンビニで1時間はムリだと思うけど、ね。とはいえ、これだけ身近になったコンビニの、果たす役割は買い物だけでなく、時間つぶしの憩いの場にもなっている、ということなのかね。
・唐田が美容学校で紙を切る練習をする場面も出るんだけど。みょうな場面もある。ある女性が、練習用の女性のマネキンの首を外し、床に落としていくのだ。なぜかは分からないけど、まあ、これなんかも単調な決まり事への反発なのか。おかしくなってしまった生徒なのかもしれない。にしても、この首の場面は、のちのちのラストの、唐田の首の場面につながるんだよなあ。
というわけで、なかなかスリリングでブラックな映画で面白かった。
PEACOCK/ピーコック7/30新宿武蔵野館1監督/ベルンハルト・ヴェンガー脚本/ベルンハルト・ヴェンガー
オーストリア/ ドイツ映画。原題は“Pfau - Bin ich echt?”。Deeplによると「クジャク - 私は本当に実在するのだろうか?」だった。公式HPのあらすじは「完璧な息子、教養ある恋人、デート中にヒーローになりたい人のためのチンピラ役 ---。「マイ・コンパニオン」は、どんなシチュエーションもこなせる理想的な人物を提供する代理店だ。マティアスはそのトップパフォーマーとして、求められる役割を完璧に演じ分け、日々さまざまな人格を生きている。だが、恋人ソフィアに「本当のあなたを感じない」と告げられ別れを迎えたことで、彼の完璧な仮面は静かに剥がれ落ちていく。さらに、あるクライアントとの想定外の出来事をきっかけに、マティアスの歯車は少しずつ狂いはじめ、やがて現実と虚構の境界も曖昧になっていく…。」
Twitterへは「ゴルフカートの火災からのコンサートの感想…以下わけ分からず。ので寝て起きて、そういえばレンタル人間の話とかどっかで書いてたな、と思いだした。でも映画の中でその説明はちゃんとされてたか? もやもや。ま、つまらないのは変わらんけど。」
冒頭は、ゴルフカートの火災。それはそれで終わって。次はコンサート終わりで、感想を述べ合ってる場面。合理的なつながりはない。だれが主人公か、分からない。もちろんこの映画の設定=枠組みの紹介、すなわち「友だち代行会社の社員」というのも、ない。わけ分からないまま、ヒゲ男の登場が増えてきて、主人公はこいつか? 程度。まいど周囲にいる人物は入れ替わっていて、脈絡もない。ブタのアートと大型犬の場面は、これは妻なのか? と思ったけど、以降、大型犬は出てこない。老婆から、亭主に内緒でなにかのレッスンを頼まれて…。なんだかわけが分からず見ていたら睡魔がやってきて、うつらうつら…。
見る前の前提として、武蔵野館のHPの案内は見たけど、斜め読み程度。でまあ、目覚めて。路上での諍いの仲裁で鼻を怪我したり、なにかのパーティに出てるような感じだったり、死んだ犬をプールから拾い上げたり…。意味不明が続いている。で、ふと甦ったのは、主人公はレンタルされる人物だったかも、という言葉。トイレにも、レンタル何にもしない人、のコメントも貼ってあった。この時点になって、ようやく依頼者に頼まれる仕事をしている男なのか、と思い出した、というか、分かった。
でも、そういう設定の背景とか、説明的なところはあったか? 見た感じ、なかったような気がするんだけどね。振り返りつつ思い返しても、主人公にからんでくる女性とかオッサンとか、同僚なのか依頼人なのかもよく分からない。これじゃ観客につたわらないだろ。なんだけど、SNSやフィルマークスでは講評で、かならず「友だち代行会社の社員」という説明がされている。それって、見ていて理解したのか? それとも、映画のポスターのキャッチフレーズや紹介文を読んで知った、あるいは、見終えた後の評論とか読んで知ったのか? 疑問である。いわせてもらうなら、事前情報を一切入れずに見たら、「友だち代行会社の社員」だなんて、わからんと思うぞ。誰が同僚で誰が依頼人で、もわからんと思う。まあ、こちらが寝てるときに紹介されてた可能性はあるけど。でも、そういう前提条件は映画の初めの方で観客に知らせていくのが映画のルールだろう。それができていないこと自体、この映画はクソだ。
↑のあらすじには、他人を演じ分けすぎて本当の自分がなくなった、とか現実と虚構の境界も曖昧になっていくとか書かれているけど、なにを言ってるのかと思う。そんなこといったら、すべての役者は狂ってるというのか? バカ言うな、である。友人代行業なんてむかしからいくらでもあるし、それで自我を失うなんて聞いたことがない。
最後は、老夫婦の息子としてなにかのパーティに出席する。けど、老夫婦を持ち上げることもせず、同僚(?)の指示も無視し、泥サウナの泥を裸体にまとったままパーティ会場に戻ってきて、モラル無視の行動にでる。けれど、最初は呆れていた出席者たちは「これはアートだ!」などと賞賛し初めて。それから逃げるように窓から外の川か湖に飛び込み、対岸まで泳いでいく。それでオシマイ。
分かりにくすぎだけでなく、メッセージもアホらしくて、なにもつたわってこない。そんなクソ映画だった。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|