2026年9月

猫たちと7000マイルの旅9/10ヒューマントラストシネマ有楽町監督/マイ・ホン編集/マイ・ホン
原題は“25 Cats from Qatar”。公式HPのあらすじは「世界有数の富裕国であるカタール。急速な発展を維持するため、人口の89%が他国からの臨時労働者で占められていること、野良猫の数が増加し続けていることは知られていない。路上から野良猫たちを救出するのも、イラン、インド、ヨルダンなど様々な国出身の、異なるバックグラウンドを持つ人々だ。米ミルウォーキー在住の猫カフェ経営者ケイティは、25匹の野良猫をカタールから米国へ移送し、新しい家族を見つけるため、ドーハを訪れる。4日間という限られた時間しかないケイティを待っていたのは、パキスタン出身のウマイルら同志たちとの出会い、そして野良猫たちを移送するにあたっての意義深くも難しい決断の連続だった…。」
Twitterへは「猫をつれてヒッチハイクする映画かと思ったら、猫カフェ経営者で保護猫家の女性ケイティがカタールを訪れ、捨て猫をかき集めて米国に移送するドキュメンタリーだった。感染症の猫や3本足の猫、ヨタヨタあるく猫とか、気の毒な猫がたくさん。」
CAで猫カフェ経営者で保護猫に力を入れてる米国人女性が、なぜかわざわざカタールのドーハまででかけ、この地の保護猫家と連絡をとり、みつくろって25匹を選択。米国まで連れて行く、という話。カタールの人口は300万人で、7〜8割は外国人って言ってたかな。猫を飼っていても帰国するとき捨てて行ってしまうので、ノラ猫化し、300万匹はいるという。外国人が何人かは知らんけど、捨てることまで考えて買わないのだろう。
猫映画ではあるけれど、ちっともほのぼのしていない。病気でやつれ、目病みダラダラとか。感染症で毛が抜けているとか。前足しか動かず、ズリズリしてるやつとか。そんな障碍を持ってのとか。やっと生きてるようなのがぞろぞろ登場する。もちろんデブ猫なんて登場しない。あんな汚い猫、自分なら触らないし頬ずりもしないぞ、というような猫にもケイティは無頓着に手を差し伸べる。偉いね。とは思うけど…。
しかし、なぜあえてカタールから、なんだろう。ノラ猫ならアメリカにもいるだろうに。わざわざ航空運賃や猫のビザ代を払い、延々長旅してつれて帰る。そこのところ、説明してたっけ? なるほど、と思わなかったし、説明なかったかな。忘れた。
彼の地の保護猫篤志家は何組かいて、そこを訪れ、こいつは愛想がいいから連れて行こう、なんて選別してる。この一瞬に、猫の運命は決まるんだよ。なんかなあ、な気がしてしまう。
しかし、あえて可愛い猫を選んでいるわけではなく、感染症に罹患していて現地の獣医に診せたりと、大変なこともしている。しかし、同じように感染症の猫もいるはずで、選ばれる/選ばれないは、どこで決まるのか。他にも、3本足の猫とか、生まれたての猫とか、障碍をもっていたり、病気の猫も選ばれていく。可愛いだけでなく、ひろく選択の幅をとっているのは、優しいなとは思う。でも、選ばれるのはケイティの好き嫌いと、その場の雰囲気なのか。重視されるのは愛想の良さで、引っ込み思案でなく、猫カフェでも動じず人間の言いなりになるような猫たちだ。この時点で、運命が決まってしまうのかよ。自分が猫なら、選ばれない側だな、と思ってしまう。
巨大な屋敷を借りて何10匹と保護している女性や、もうすぐインドに帰るという家庭とか、何組かの保護猫家を訪ね、選んでいく。途中で、街中で見かけた傷ついた猫や、妊娠している猫にも目星をつけて、翌日拾って行ったりする。これまた運だ。選ばれなかった猫は、死んでいく運命なのか、と考えてしまう。
ケイティは、帰国までに、最終的に27匹を選び、ケージに入れて連れ帰る。猫にもビザが要るのを初めて知った。まあ、命ある動物だからね。しかし、感染症にかかったやつとか、ありゃ合法なのか? 獣医が診断書を誤魔化してるような気配も、なかったか?
当初は25匹選んで連れて行く予定だったけれど、最終的に27匹になり、帰国後に生まれた4匹を加えて31匹の猫をドーハから連れ帰ったことになる。まったくの無償の行為だとしたら、大変なことだ。保護にかかる費用は1匹あたり1000ドルで、もらっていく人からは100ドルしか受け取らない、っていってたかな。それは評価する。でも、連れ帰ったすべてが、もらわれていった、と最後に分かる。え? 猫カフェで働かせるはずじゃなかったの? 
理由は知らんが猫カフェは一時的にお休みしていて、その後、再開したらしいけど。そこにはドーハの猫はいないということなのか? よく分からん。
捨て猫に愛を向けるのは素晴らしい行為だとは思う。アメリカに来て、もらわれていって幸せに暮らす猫を見ると、ホッとした気分になる。だけど、なんでドーハからなの? は最後まで頭に残ってしまうのだった。
・保護猫家のインド人はもうすぐ帰国すると言っていたけど、猫をどうしたのかな。ちゃんと別の保護猫家に託したのかな。気になっちゃうね。
・ケイティが、ドーハでハンディファン使ってる場面があったんだけど、彼の地でも流行ってるの? 日本独自かと思ってた。(チャッピーに聞いたら、2017年ごろにアジア圏でブームになり、SNSを通じて日本にも広がった、らしい。ふーん。)
ヒンド・ラジャブの声9/14新宿武蔵野館2監督/カウテール・ベン・ハニア脚本/カウテール・ベン・ハニア
チュニジア/フランス映画。原題は“Sawt Hind Rajab”。公式HPのあらすじは「2024年1月29日。人道支援組織「赤新月社」のスタッフは緊急電話を受けた。 パレスチナ・ガザ地区で6歳の少女が助けを求めている。 スタッフたちは少女との通話を繋ぎ止めながら、救出するためにあらゆる手を尽くす… …。少女の名前はヒンド・ラジャブ。」
Twitterへは「事実ベースで実際の音声をつかってるとか、少女がどうなるか、、なんかは何となく耳に入ってきていた。でも映るのは支援団体のスタッフだけ。銃声が本物、と考えると怖いけど、事実がドラマチックに迫ってこなかったのも事実。」「ドラマ仕立てより、ドキュメンタリーの方が真に迫ったのではないのかな。」
実際の音声を使っているのと、最後に少女が死んでしまう、というのは分かっていたので、ハラハラドキドキはなし。映画の構造はといえば、電話を受けた支援団体のスタツフが、少女と話しつづけるのがメイン。ときどき少女の母親とつながったりもするけれど。電話を受けた男性スタッフは興奮しすぎで、上司に「8分で救急車が到達できるんだから、すぐに向かわせろ!」と、最初から最後まで叫び続ける。いっぽうの上司は、「調整が済まないと向かわせるのは無理」というばかり。その理由はおいおい分かるけど、説明がないので、なんで? な感じがしてしまう。女性スタッフは、泣き顔で少女に言葉をかけつづける。なにを言っていいか分からない感じ。年輩の女性スタッフは、落ち着いて指示を出す。…という状況が最初から最後まで、なので、わりと構造としては単調で、退屈してしまう。
映画の冒頭に、少女の音声は実際のもの、と字幕で出るので、演技と思う人はいないと思う。けれど、なんかいまいち迫真の感じがしなくて。たんに娘が話している、としかつたわってこない。私が鈍感なのか。あるいは、事実は意外と退屈だ、ということなのか。
話のはじまりは、赤新月社に「ドイツ在住の男性(どういう関係なのか忘れた)から、姪? だか娘だかがガザ地区で、叔父夫妻クルマの中にいて、イスラエル軍の攻撃を受けている、という連絡が回ってきたこと。男性スタッフが少女or叔父のスマホに電話するとつながって、6歳だから具体的状況が把握できないのは分かるけど、スタッフが少女から聞き出そうとしてもなかなか上手く行かず、少々、じれったい。それでも「親戚のみんなは寝てる」「戦車が撃ってくる」など、たどたどしくいう。戦車が近くから射撃する音も聞こえてくる。
それでも、なんか想像しにくいのだよね。そもそも、イスラエル軍がガザ地区の特定エリアに退去命令を出したというのは、なんとなく覚えている。ハマスを根絶やしにするためガザ地区を徹底的に破壊したときのことだろう。疑問なのは、そんな場所になぜまだ居残っていたのか? なんだよね。そして、少女は両親とではなく叔父夫婦と、従妹と一緒にクルマにいた。これはどういう状況だったのだろう?  加えて言うと、ドイツの男性は誰なのか? ときどき電話に出る母親はこのときどこにいたのか? などの説明がない。これは結構、もやる。あ、あと、 赤新月社というのはどういう組織で、どことつながっていて、どこにあるのか? も、冒頭で軽く説明はあったような気がしたけど、イメージが湧かないので、これまたもやる。さらに、くだんのガザ地区の、退去命令が出た地区の、8分のところにいるという救急車はどこに属していて、どう行動しているのか? なども、よく分からない。分からないだらけで、話が素直に入ってこないんだよ。
少女の音声、およびたまに挿入されるスタッフと少女、母親の声以外は、音声に合わせたフィクションと言うことなんだろう。少女が、最初は寝ていると思っていた親戚が死んでいることに気づくとか、助けに来て、と何度もスタッフに懇願する様子は、これは事実なので痛々しい。のだけれど、それが実際の音声である、と頭の中で変換しないと、子役の声にも聞こえてしまう。とくに、話にドラマチックは皆無なので、よけいにそう思えてしまうのだ。
で、上司がすぐさま救急車を向かわせない理由も、これはなるほど、と分かってくる。つまり、ガザ地区はイスラエル軍の制圧下にあって、そこを通過するには赤新月社→赤十字→イスラエル軍に通過の許可申請を行わなくてはならないから、のようだ。しかし、最初の申請は却下されてしまう。それで再度、大使だか大臣(どこのだ?)を通じてイスラエル軍に申請するのだけれど、なかなか返事が来ない。許可が下りなければ、救急車といえど攻撃される可能性は高く、これまで数10名の救援スタッフが犠牲になっている、らしい。なのに、興奮した男性スタッフは上司に「救急車を向かわせろ」とのべつ訴え、上皮を非難し続ける。これは過剰な演出だろ。男性スタッフだって、リスクぐらい分かってるはずだ。というあたりで、なんか嘘っぽく感じちゃうんだよな。
許可が下りたのは3時間後。この間にも戦車からの銃声は間欠的にあって。スタッフの誰かが、イスラエル軍は赤外線で生体反応を見ていて、撃っている、とかなんとか言っていた。
もちろんイスラエル軍の横暴はひどすぎる。とはいえ、事前に退去命令を出していながら退去していないクルマがあったら、撃っちゃうかもな、とも思う。もちろん、退去を促してからすべきだけど。でも昨今のイスラエル人のやることは非人間的だからな。それが分かっていたら、さっさと退去できなかったのか? とも思うし。
最終的に、何時間後か分からないけれど、夜の7時には少女との連絡が絶えた、ということらしい。ひどい話だ。イスラエル人の冷酷非情、自分勝手は、人間じゃない。過去に虐げられた歴史があったとしても、許されるものではない。むしろ、アウシュビッツやユダヤ人差別を経ながら、憐れみのこころをもたず他者を簡単に殺害できるというのは、憎まれたってしょうがないよな。昨今のイスラエル人のすることは、経験からはなにも学ばないことの典型だ。あれじゃ、ユダヤ人差別が再燃しても反論できないだろう。いや、反論するだろうけど。アウシュビッツを例に出して、我々は過去にあんなひどいことを…と。しかし、もう80年以上前のことだ。いつまでいいつづけるのだろう、と思う。
というわけで、少女が死んだという事実の重みは否定できない。けれど、その音声をつかって再現しても、ドラマチックにはなラナイ。むしろ退屈になってしまう、という例ではないかと思う。
もうちょっと背景とか状況を分かりやすく見せるべきだったのではないか。退去命令がでた理由。退去する人々。破壊されたガザの街。なんてのをまず映す。そして、赤新月社がどこにあって、どういう仕事をしているかの紹介。救急車の活動。てなところに、ドイツからの電話…。という具合にすると、観客は話の枠組みが頭に入って、共感しやすくなると思う。
・ガザ地区で救援活動をするにもいちいちイスラエル軍の裁可をへなければならないもどかしさ。強者の理論だな。
・途中で、少女が死んだ、と判断して落ち込む場面があったけど、どの時点でそう判断したのか分からず。少し前に電話回線は切れていたけど。
・イスラエル軍の、クルマへの銃撃の目的はなんなんだろう。いきなり銃撃したのか? 退去は促さなかったのか? そして、335発も撃ち込んだ狂気の沙汰はなんなんだろう? 撃つことを面白がっているのか? 
・少女は「前に戦車がいて、撃ってきている」と話していたけど、戦車の機銃はもっと凄まじいはず。装甲車か、軽機な様な気がするんだが。
・最後に、破壊されたガザの街と、ズタボロのクルマ、そこから運ばれる遺骸が映る。これは少女の乗っていたクルマ? にしては燃えた後のような…。で、あとから検索したら、少女の乗っていたクルマは回収され、展示されたことがあるらしい。赤い車で、弾痕がなまなましい。では、なぜその写真を使わなかったのか? 別の破壊されたクルマの映像を使ったのか? ミスリードさせるため?
・ヒジャブしてない白髪(?)の女性スタッフがいたけど、いいのか?
私たちは、ちょうどいい。9/17ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/トレイシー・レイモン脚本/トレイシー・レイモン
原題は“Bob Trevino Likes It”。公式HPのあらすじは「住み込みで友人の介助をしながら暮らすリリー・トレヴィノ。幼い頃に母に捨てられ、父とも疎遠になった彼女は、孤独を抱えながら生きていた。ある日、父と連絡を取ろうとSNSで父を探し始めたリリー。だが、父だと思って友達申請を送った相手は、父と同姓同名の見知らぬ男性、ボブ・トレヴィノだった。 ボブは建設会社で働く心優しい男性。妻ジーニーと支え合いながら生きてきた彼は、自分のことよりも相手を優先してしまう性格だった。偶然つながったリリーの孤独に気づいたボブは、彼女にそっと寄り添いはじめる。 何気ないメッセージのやり取りを重ねるうちに、リリーとボブの間には少しずつ特別な友情が芽生えていく。ただの人違いだったはずの出会いは、やがてふたりにとってかけがえのない居場所になっていく…。」
Twitterへは「ぶきっちょで孤独なおデブ25歳女がSNSで父親と同名のオッサンと友だちになり…。ジョン・レグイザモったら『ER』『アサルト13』とかで癖のある脇役なイメージだったけど、こんなほのぼの系の映画でも活躍するようになったのか…。」
友だちのいないおデブな25歳リリーは、ダメな実父と離れて暮らしている。どうも、父親には面倒な娘、に見られている感じ。父親がSNSで知り合った女性と食事をするから同席しろ、と言われてそうするんだけど、その女性と別の女性とを取り違えてしまい、女性は立腹して帰ってしまう。これでまた父親から見捨てられた感じ。ののち、なぜか父親と同姓同名を検索してたら何人かでてきて、なかのひとりのポフのポストに いいね、をつけたら返信が来て…。最初はチャットでの会話だったけど、あるときリリーが世話している黒人娘ダフネの家のトイレが壊れて。で、ボブに助けを求めたらさっそく来てくれて、初対面。そっからお茶したり、星を見に行ったり、な歳の差デートが始まる、という寸法。
ボブには妻がいて、趣味がスクラップ。なんとコンテストもあると言うから、なんじゃらほいと思っていたんだけど、ラストでこれが大きな伏線になって、ちょっと泣ける話になる。それはさておき、ボブはリリーのことを妻にも話していて、でも、妻は「どうせオッサンのなりすましよ」なんていうんだけど、素直なんだよな、ボブは。
でまあ、若い娘と知り合った中年っていうか60オヤジがとくに有頂天にならないのには、理由がある。まず、リリーがなかなかのおデブちゃんなこと。いっちゃなんだけど、あれじゃ性的に惹かれるのは無理だろう。それと、ボブ夫妻にはかつて息子がいたけど、先天的な病で2歳で召されていること、かな。リリーが娘みたいな存在に思えてきたのかも知れない。浮気もせず、仕事一本槍で、浮気や離婚もせず夫婦関係をつづけてこられたのは、ボブの誠実さによるものだろう。このあたりは、かなりの理想話過ぎて、うーむ、だけどね。
というわけで、リリーとボブの間にとくになにも事件は起きないし、仲よくなりすぎもせず、つきあいがつづいていく。ので、中盤は中だるみ。喧嘩して不縁だった父親がリリーの元にやってきて、これまで育ててやったんだから金を貸せ、なんて言ってきたあたりで、ちょっとウトウトしてしまったぐらいだ。
実は、人間らしい人物はリリーとボブの周りにいる。ダフネは下半身が不自由で車椅子生活。リリーとダフネは依頼者と介護者の関係なのか、と思っていたら、解説では友だち、となっていたりする。へ? 友だちいないリリーに、友だち? ダフネは障害者だけど彼氏もいて、仲よくやってる様子だし。リリーに対してもつっけんどんでズバズバ言うから、どういう関係なのかな? と首をひねってたんだけどね。そしてもう一人は、父親ロバート。娘に借金を口にするぐらいなので、いい加減でテキトーな男。女房(リリーの母親)にも逃げられてたんだっけ。まあ、むべなるかな。
ボブの奥さんは、なかなか魅力的な女性で。こちらもボブと同様に貞淑で、真面目。家庭内別居もせず、いまだにコミュニケーションあるのは、信じられない! で、生きがいはスクラップ・コンテストで。どっかで全国大会があって、優勝しちゃうぐらいらしい。なんじゃそれ、だよね。
ボブは建設業で、昔からのパートナーと2人での経営? ある建築の検査員が3時間ぐらい遅れてきて。それに腹を立ててボブは検査員を残して帰ってしまう。その後、検査員が1人で検査して怪我をしてしまい、責任を押しつけられる。でも、自分がこれまでちゃんと仕事をしていたこと、それを示す書類も残していることをパートナーに激しながら話し、「もう仕事なんかやってられない。辞める」と、荷物を箱に入れてクルマに乗って、帰ろうとして…。胸を押さえる。さて、何が起きた? 
リリーは、ボブからの返信がなくなったので心配になり、ボブの家を訪ねる。が、不在で、窓から入ろうとして警察沙汰に…。と思ったら、奥さんからボブの葬儀の案内メールが飛び込んでくる。どうやら心臓病かなんかで入院し、奥さんもつきっきり、だったみたい。しかし、ここでボブを殺しちゃうって、なんて残酷な展開なのだ!
そして、深刻な顔をした奥さんに、渡すものがある、と言われ受け取ると…。リリーとボブのチャット、一緒の写真なんかが貼り込まれたアルバム。奥さんはボブのスマホを見てリリーとの友人関係を理解し、ちっとも嫉妬なんてすることなく、リリーにボブとの思い出をスクラップしてあげたのだ。いや、ここは涙ものだ。
というわけで、中だるみからの急転直下でラストは涙腺を刺激する展開で、奥さんのスクラップが絶妙な伏線になってて、素晴らしい。でも、中盤に少し寝ちゃったからなあ・・・。
・リリーに「昨晩は良かったよ」なんてメールが届くのは、あれは元彼からの間違いメールなのか? 彼氏がいたの? 
・リリーは、痩せれば美人、な容姿をしてるんだけどなあ。
・父親は長屋みたいなところに住んでて、リリーがドンドン扉を叩いてると警備員みたいのがやってきて警告してたけど、ありゃどういうことなんだ? 意味不明。
・リリーとボブがどっかに行って。リリーが、むかし飼ってた犬の話になって。帰路、ペットショップみたいなところに寄ったのは、ありゃどういうこと? ボブの馴染みの店? それとも保護犬のセンターみたいなところ?
ワンオペレーション9/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/メアリー・ブロンスタイン脚本/メアリー・ブロンスタイン
原題は“If I Had Legs I'd Kick You”。公式HPのあらすじは「家事と育児、セラピストの仕事に追われるリンダは、原因不明の病を抱える幼い娘の世話に追い詰められていた。顧客の患者への対応、娘の担当医からの叱責、出張中の口うるさい夫からの電話…休まる暇もない日々の中、自宅アパートの天井が突然崩落し、娘とともに海辺の格安モーテルへ移り住むことに。誰にも頼れない孤独のなかで限界を迎えた彼女は、思いもよらぬ事態へと飲み込まれていく…」
Twitterへは「難病の子の世話をしながら仕事もしなきゃならないのに、あれやこれやトラブルが襲ってきてパニクりまくるオバさんと、穴の話だった。だからって“If I Had Legs I'd Kick You”の原題が『ワンオペ』になるのがよく分からん。」
見終わって10日目に書いてるんだけど。なんか、穴、しか覚えてなかったりする。突如、家(借家?)の天井に穴が開いて水がドバドバな様子。そして、娘のお腹に空いた、胃瘻(?)の穴、のアナロジー。あと、病気の子供をもつ家族会のあつまりのときに置いてあったのがドーナツで、これも穴がある。しかし、天井の穴が開いたときは、見ててびっくらこいた。ドカーン! で目が覚めた感じ。このドカーン。もう一度あって、2つめの穴が開いたのかな、と思ったら違っていたんだけど、あの2度目のドカーンは、なんだったんだろう。
この映画もいろいろ端折りすぎがある。最大の端折りは、娘。病気らしいのは分かる。管がつながっている、と言っていた。どゆこと? でも、ずううううっと娘は端っこの方しか映らない。なので、どこに管が刺さっているか、分からないまま。ちゃんと見せるのは映画の終盤なんだよな。それと、なぜ管でつながっているのか? その理由も最後まで分からない。あるサイトだかどっかで、拒食症、と書かれていたけど、そうは言われていなかった。それに、ラストで少女の顔が映るんだけど、とても拒食症の娘とは思えないほどふくよかな顔だった。あれがガリガリなら、拒食症で納得するんだけどね。
分からない、映らない、といえば、リンダの亭主。どっかに長期出張だかで、電話で声は聞こえるんだけど、登場しない。これまた、映画の終盤にいつのまにか帰ってきていて、自分の判断で業者を呼んで、天井の修復作業をさっさと進めている。なんなんだ。な感じだ。とはいえ、あの修復作業で、天井つまり2階の床の強度は耐えられるのか? と、疑問に感じちゃったけどね。
分からない、といえばリンダという存在で。カウンセリングしてるかと思ったら、カウンセリングを受けていたりする。どゆこと? これまた少しずつ分かっていくのだけれど、カウンセリングしていたのは同じ組織(なのか?)のカウンセラー。リンダもカウンセラーだけど、同僚のカウンセリングを受けている、という構造なんだよね。で、これが同僚とも思えず。リンダの患者が赤ん坊を残して失踪したとき、その同僚に助けを求めると、素っ気なく拒否されていたんだよ。なんだ、この関係。ドライすぎだろ。
しかし、カウンセリングを受けるような状態のリンダが、悩みを持つ人の相談を受けているというのは、どうなんだ? 自分が患者だったら、そんなカウンセラーに診て欲しくないよなあ。
あと、そうだ。天井に穴が開いて。そののち、ヘンな部屋で暮らしはじめたな、とか思ったら、いつもまにかモーテルに一時避難していたのか、と分かるのもタイムラグがあった。ちゃんと、一時避難する、と説明を入れていないので、見てる方は情報を補正しなくちゃならない。いろんな意味で不親切な映画だ。
…なんて感じで、あとは、リンダがドタバタやってるだけ。でも、もっと合理的に考え、行動すればいろいろ解消できたのではないのかなとも思えたりする。たとえば天井の修理なんか、亭主がいつのまにか戻ってきていて、業者をみつけ、さっさと修理を終えようととしているではないか。リンダは単に要領が悪いんじゃないのか? 娘の世話も、あれもよく分からない。つきっきりなのかと思うと、ナニーに預けて仕事に行っていたりする。あるいは、一人にしていたりもする。娘に空いた穴も、娘をクルマに乗せて移動していたりするので、可動できるのか? と思えてくる。ずっとベッドから離れられず、点滴のようなモノを傍らに置いていなければならないもの? でもなさそうな感じもする。それとも、点滴バッグをクルマに持ち込んで移動しているのか? その辺り、まったく映らないのでよく分からない。
あとのもろもろ。同僚のカウンセラーとの仲直り的な話とか、リンダの女性患者が赤ん坊を置いて失踪してしまうだとか、娘の担当医が、管を抜こうかと提案してきてるだとか、同僚カウンセラーが、自分の男性患者に「取り込んでるから帰ってくれ」と言ったりとか、なんじゃこれなエピソードは在るけど、なんか印象が薄いし、説得力もない。何が言いたいのかよく分からんのだよな。
最後は、これまたよく分からん。リンダは、自ら娘の腹から管を抜く。これが延々と長い。これは何かのメタファーになってるのか? 脈絡なく、突然亭主が戻ってきて天井を修理している。な、あとに、リンダはパニクって(?)海岸へ行き、波に向かって行く。でも、死にたいわけではなさそう。で、砂浜で横たわっていると、そこに娘がくる。でエンド。なんなんだー!?  娘の顔は、体重22キロを目指しているにしてはふくよかな体型だし。ほんと、よく分からん映画だった。
この分からなさは、リンダという人間が壊れていることと関係があるのかね。修復すべきは娘、ではあるけれど、娘以前にリンダの修復が必要だ、とか。ああ、でも、よく分からん。
シャドウワーク9/28ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/吉野竜平脚本/吉野竜平
公式HPのあらすじは「日常的に暴力を振るう夫から逃げてきた紀子。絶望の中、入院先の看護師・路子に救われ、配偶者や親から暴力を受けた女性たちを匿うシェルター〈おうち〉に身を寄せる。そこでは暮らしのすべてが「持ち回り」というルールで成り立っていた。穏やかで守られた日々を取り戻していく紀子だが、少しずつ違和感を覚え始める。やがて〈おうち〉が“交換殺人”によって女性たちを解放している事実を知る。残るか去るか、選択を迫られる紀子。一方、とある事件を追う刑事・薫もまた夫からの暴力に苦しんでいた。疑われることのない夫・晋一と追い詰められていく現実のなかで、薫は事件の先に〈おうち〉の存在へと辿り着く。そして晋一の存在によって、その均衡が崩されていく…」
Twitterへは「DV男にお仕置きよ! な話だった。いろいろつながっていく経緯はヒキがあるんだけど、リアリティで考えると、うーむ、な感じ。DV男がどれもステレオタイプなのもなあ…。いろいろツッコミどころも多い。」
DVに苦しむ女性を助ける、闇の女性仕置人、てな話だ。対するのは、女刑事。初っ端に登場するのは吉岡里帆の紀子で、亭主の暴力に怯えて暮らしている。姿を消しても、いつのまにか居場所がバレて、連れ戻される。たまたま入院した病院の看護師・路子に紹介され、シェルター「おうち」に身を寄せる。そこには、家主の昭江、の他に3人の女性がいて…。シェルターと言いつつ農園なので安心していたら、ある日、注射器とかヤバイものを発見。隠された事実を教えられて・・・。な感じだ。しかし、注射器や薬品を台所のあんなところに隠してるって、脇が甘すぎだろ。
いっぽう、刑事の薫は海岸で女性の腐乱死体を担当。上司は自殺と処理しようとするが納得できず、自ら女性の身元を追及し始める。というのが、もう1本の話。実は薫には警察幹部の夫がいて、日常的に暴力を振るわれている、というアナロジー。なんだけど、なら誰かに相談して離婚しろよ、と思ってしまう。離婚の話は進めているらしいけど、亭主の関係で離婚できないようにさせられている、らしい。で、思うに、亭主は何で結婚生活を継続している状態をつづけたいの? 妻の薫を管理下に置いて、暴力を振るう。それが亭主の求めることなの? 亭主も、カタチだけの結婚生活を継続したいなら、もっと大人しい女性を選択すりゃあいいのに。そもそも、なんで薫はこんなDV男と結婚したんだよ。刑事なんだから、先に見抜けよ。と思ってしまう。
他に登場するDV男たちも似た感じで。紀子の亭主も、あるときは優しくするけど、突然暴力敵になって支配欲を発揮しだす。薫が追っていた腐乱死体女性の夫も、普段は優しく突如暴力、だったような。なんか、DV男って、みんなこのパターンなの? ステレオタイプ過ぎないか? 
でまあ、「おうち」の女性4人に紀子、そして看護師の路子も加えた6人は、「おうち」に身を寄せた女性のパートナーを薬物などであの世に送り、でも、自然誌に見せかけて処理していく。
よく分からなかったのは海岸で発見された女性で、彼女は一度「おうち」に身を寄せたんだっけか? 「おうち」には、一度「おうち」をでたら二度と戻れないというルールがあって、戻れないままDV男に殺された? んだっけ? なんか、そのあたりがちょっともやついた。
薫が「おうち」を知ったきっかけは何だっけかな。殺害された男性を事前に訪れた黒服の女性たちとか、片足を引きずる女性(看護師の路子のこと)という情報から、だっけかな。忘れた。彼女は、海岸で発見された腐乱死体は他殺とこだわりすぎ、上司から休暇を命じられる。この間に、「おうち」を訪問し、昭江たちと話をしたりするようになる、んだったよな。のらくら誤魔化しつつ、でも、余計なことを口走ってヒントを与えてしまうような場面も合って、これまた脇が甘いなあ、と思ったり。
なことしてたら、「おうち」に薫の亭主がやってきて。あれこれ昭江たちに質問し、余計なことをするな的なことをいいはじめる。で、昭江たちは亭主を処理するか、となったんだっけ。1人がスタンガンを構えるが、かわされ。さらに誰かが包丁を構えるが、これもかわされる。包丁なんか、構えてないで、後ろからズブ、ってやれよ。いらいら。すったもんだの末にやっとこさ亭主をしばくんだっけ。この場面、かなりイライラした。だって、かわされたスタンガンはどっかに落ちてるはずなんだから、だれか拾って揉み合ってるときに亭主に当てればいいじゃないか。なんでそうしないんだよ。でまあなんとか殺害するんだが、この亭主の死体はどう処理したんだ? 映画の冒頭の、夜中に遺体を海岸あたりに捨ててるのは、この亭主? 説明不足で分からない。でね、遺骸の処理はまだいい。亭主が乗ってきたクルマは、どう処理したんだ? それが気になって仕方がなかった。
薫は亭主が行方不明、と上司に報告。で、警察が「おうち」に捜査に入るんだったよな。注射器だの薬剤はどこに隠したんだ? 地所内ならすぐに発見されるだろうに。それはとにかく、記憶はおぼろで、路子は逮捕されたんだっけかな? 覚えてない。にしても、いくら薫の亭主が警察内で力があるとしても、亭主の暴力をもみ消したり、離婚させないようにしたり、なんだかんだ工作するのはなんでなの? 理解不能。
でまあ、「おうち」は解散。昭江は引退したんだっけか。薫の手柄になって一件落着? かと思ったら。休暇が終わった薫はバリバリ仕事してる風だけど、実は「おうち」を引きついで新しい「おうち」の主催者になった、というような終わり方だった。
ところで、「おうち」にいた若い女性3人のうち1人は亭主だかパートナーを処理されて出ていったけど、あとの2人はなんでずっといつづけだったんだ? 処理されるのを待っていた風には見えなかったけどな。
DV男の描き方がワンパターンだってのは書いたけど、DV男と結婚する女性側にも原因があるんじゃなかろうか。よく言うではないか。不幸を求め続ける女性がいる、とかなんとか。ダメ男ばかりパートナーに選ぶ女性。そっちにも問題があるんじゃないのかねえ。
しびれ9/30ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/内山拓也脚本/内山拓也
公式HPのあらすじは「日本海沿いの町に暮らす少年、 大地は、 幼少期に暴君のようだった父の影響から言葉を発しない。 今は母の亜樹と暮らしているが、 夜の仕事で生計を立てざるを得ない亜樹はほとんど家に帰らず、 生活は苦しい。 やがて亜樹と共に叔母の家に身を寄せるが、 どこにも居場所はなく、 ひとりで過ごしては内気になっていった。 大地は父の行方を求めて生家を訪ねることを決意。 これを境に、 彼の運命は大きく揺らいでいく…。心のよるべなき貧困、 誰にも見つからぬように生きる孤独の中のささやかな救い、 母への複雑な感情。 流されるままに生きているようで、 歩みを止めない大地。 そんな彼がかすかな光を手繰り寄せ、 息をのむような大きな愛を知るまでの20年間が、 少年の姿を追い続け、 リアリズムに根ざした視点で綴られていく。」
Twitterへは「ひたすら暗い話で憂鬱になる。共感できる人は出てこないし、ツッコミどころだらけ。クズな父親のDVもさることながら、ダメ母親の責任も大きいはずなのに、なぜか息子は長じても母親になついているという不思議。警察とか児相は知らなかったのか?」
DV親父が妻とこどもを捨て、残された母子が貧乏に。母親は淫らに生き、息子はヤクの売人に、そして母親は病んで施設に。息子は恨みから父親を刺す。やがて母親は死んだけれど、息子は母親への愛だけが思い出、みたいな話だった。なんじゃらほいだよな。
DVの場面で、母親に暴力をふるう父親に、少年は「やめて!」と声を出す。けれど、母子の生活では、少年は声を発しない。ボードに書いてコミュニケーションしてる。なんで? 説明がないので分からない。
それにしてもいらつく映画だった。喩えて言うなら、ト書きがなく、いつどこで何がどのように、の説明がなくて、だらだらと地の文だけがつづく感じで、話の輪郭がつかみにくい。さらに、人物の背景や輪郭も曖昧なままなので、つかみどころがない。そこは想像で埋めてくれ、なのかもしれないけど、逆にツッコミどころがどんどんでてくるだけ。もちろん、説明だらけの映画にしたくない、という意図なのかもしれないけど、手がかりが少なすぎて戸惑うだけなのだ。
たとえば冒頭からの水汲みの場面。ポリタンクにヒモをつけて近くの川から水を汲んでくる様子が延々と、だらだら描かれる。家に持ち帰り、ティッシュで濾してペットボトルに移し、冷蔵庫に入れる。飲料水か。の意味が分かるのは、それからしばらくして母親に、水道が出ない、と少年が書いて見せてやっとはっきり分かる。こんなもん、水道局からの督促状を1カット見せれば済む話だろ。
長じた少年がスーパーで靴下やカップ麺を万引きする場面も、ムダにだらだら長い。捕まるとか逃げる場面があるのかと思ったら、ない。近所の家から野菜を盗む場面もしかり。とくにこの盗みの場面では、野菜はまだしも缶詰とか醤油の類まで家の外に貯蔵しておく不自然さの方が気になってしまう。
少年が金に困っている、らしいのは分かった。水道料金も払ってないのも分かる。では、母親は本当に金がないのか? 夜の仕事に行っていて、近所のオッサンにも身体を売ってるし、金がないはずはないだろう。少年が後に「なんで男に金をやるんだ」と書いていたけど、たんに母親が金で男を引き留めるだけのだらしない女だったと言うことだろ。こんな女なら、亭主に暴力を振るわれてもしょうがないよな、と思ってしまう。だって、DVの理由が描かれてないのだから。
野菜泥棒で、相手の家に情けをかけてもらい、帰宅するとペントハウスが火事に。この家も謎で、誰から借りているのか? 仮設のようだけど水道や電気は引かれている。母親が身体を売ってるオッサンの持ち物? オッサンに気を使わないと暮らせなくなる、とかなんとか母親が言ってたけど、どゆこと?
で、火事の次の場面は、すとーん、と飛んでどっかの鉄筋アパート。少年が帰ると、家の中には男がいて、それまで母親とやっていたのか。少年はボードに、「おばさんがもうすぐ帰る」てなことを書く。様子が分からず見ていると、どーも母子は叔母、つまり母親の姉妹の家に転がり込んで暮らしていると言うことか。しかし、こころの広い叔母ではないか。自分ならいくら血を分けた兄弟でも、家に住まわせたりせんぞ。住まわせてもらってる身分で男を連れ込んだりするバカ女に。
叔母の家では、入ってくるな、のエリアの床に線が貼られている。そりゃそうだろう。狭苦しい家なんだから。とはいえ、ここでも疑問山積み。そもそもあの火事はどう始末したのか。警察や消防かと話をすれば少年が学校に行ってないことがバレるだろう。児相に話が行かなかったのか? 叔母とはどういう話で転がり込めたのか? 叔母の仕事は? 叔母はひとり暮らし? 叔母は少年が学校に行ってないことに無関心? などなど、話の展開の異様さが先に立ってしまう。
この頃か。会津若松行きの電車で向かった民家は何なんだ? 実父の現住所? 説明がないので分からない。そもそも電車賃はどう工面した。あの場所にはかつて行ったことがあるから一人で行けたんだろうけど、いつ行った? 民家にいた父子はだれなのだ? もやもやしか残らない。
叔母さんは、あんたの母親は肝臓がどうたらで治らない、てなことを言っていた。
でまた、ストーンととんで、どっかのバーで、バーテンしてる少年といっても何歳の設定なのか分からん。演じてるのは北村匠海だけど。で、カウンター越しに、客にヤクを渡し金をもらっている。えええ? あの無学で喋らない少年が、いかに長じてバーテンになれたのだ? 大いなる疑問。
でなんと、母親は施設に入っていて、少年が会いに行く。なんだよ。肝臓のせいで余命数年かと思ったら、10年以上生きてて、まだまだ元気! な感じじゃねーか。宮沢りえの、病んだ演技はいまいちだったな。で、少年は母親に200万ぐらいの札束を渡すんだけど、御金はいくらかもらえるし、父親からも送られてくるようになった、という。国民年金なんて納めてないだろうに、どうやって施設に入所できて、支援金までもらえるのだ? 少年の闇の稼ぎがあったから? でも、ヤクの売人なんてそんな儲からんだろ。そもそもヤクザや半グレの組織に入らないとブツも手に入らないだろうし。てなところも、さらなる大いなる疑問。
少年は、現金書留の住所を手がかりに父親宅に上がり込み、料理包丁で刺す。刃は下向き。
で、葬式の場面に、飛ぶ。式場の入口で「入れないのよ」というのは叔母か? 父親を刺した少年は入れないということか? でも、遺影の前に少年はさっきいたけどな…。で、そういえば、と思ったのは叔母が何とかいう宗教に入っているという話。教義で、他宗派の葬儀には出席できないと言うこと? と思い至った。にしても、これも説明がないから分かりにくい。にしても、叔母はいい人じゃん。あんな姉妹の葬儀に、やってくるんだから。
葬儀には父親もやってきた。生きてたのか。なーんだ。少年が知らせたのか? なんで? 「来るな」とおもって然るべきと思うんだが…。しかし、事件化しなかったのか。救急車呼んだらいろいろ聞かれただろうに。時を経て元女房に金を送ったり、葬儀にも来たり、悪いやつじゃないじゃん。
で、少年は母親への愛着を、呻きとして吐露する。こっから声をはっせるようになるりのか? 知らんけど。
出思うに。あんな母親のどこに愛着? なんだよなあ。もともとの原因は分からんけど、父親は母親に暴力を振るった。まあ、よくある設定じゃん。もともとDV体質なのか、母親が淫乱なせいか、は分からない。けれど、父親が出奔の後は淫乱度合いをフルに発揮。子供を学校に通わせない。とっかえひっかえ男を連れ込む。男に貢ぐ。子供の前で身体は売る。家庭に金を入れない。あげく身体を病んで、叔母の世話に。こんなダメ母親のどこがいいんだか、分からんな。気の毒とも思わない。亭主にDVされて、捨てられても、細々と律儀に生きてる母親は世の中にゴマンといるだろ。同情も共感も、さっぱりできないね。して欲しいなら、そういうシナリオと演出がないとなあ。
監督の自伝的な話なら、具体的なことは分かってるはずなんだから、どうやってここまで来たかを描かないとな。
バーテン時代の高級マンションの自室に絵画が2点ほどかかっていた。へー。そういう感性はどこで養ったのだ?
急に具合が悪くなる9/30ル・シネマ渋谷宮下9F監督/濱口竜介脚本/濱口竜介、ルディムナ玲亜
フランス/日本/ドイツ/ベルギー映画。原題は“Soudain”。「突然」という意味。公式HPのあらすじは「パリ郊外の介護施設「自由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌは入居者を人間らしくケアすることを理想としつつ、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされている。そんな中、マリー=ルーは森崎真理という日本人の演出家に出会う。がん闘病中の真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫・智樹と行動を共にする俳優・清宮吾朗の一人芝居。真理の描く演劇に勇気をもらったマリー=ルー。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて、二人の交流が始まる。しかし、あるとき真理は「急に具合が悪くなる」。真理の病の進行とともに、二人の関係は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合うようになる…。」
Twitterへは「一人芝居とか、Q&Aの内容とか、資本主義が…とか、よく理解する前に話が進んじゃうところはある。説教臭いところは相変わらずかな。でもほぼツッコミどころなく、話に没入できた。境界をなくす。リスクは可能性。3時間16分は苦にならず。」「ところでこれは、フランス映画なのか? 日本映画?」
3時間16分に恐れをなして、見たい気持ちはあるけど踏み切れなかった。けど、そろそろ上映期間も終了近くになって、そんなに混んでないだろ、端の席が取れて心理的にも(万一トイレに行くにも)気が楽だろ、と思っていったら、その通りで。気楽に見られた。水分も、4時頃に食べたてんやの天どんのみそ汁はほんの少しにして、小水も出し切って、18時10分の回。心構えが功を奏して、尿意も覚えず見終えた。なんならあと1時間ぐらいトイレに行かなくても大丈夫なぐらい、な感じだった。しかし、こんな長い映画なのに、予告が10分はないだろ。3分ぐらいにしろや。
で、話の方は単純で、フランスの介護施設で介護方法の理想を追いつつ壁も感じているマリーと、癌で余命幾ばくもない真理が出会い、短期間ながらも心を通わせ合うストーリーだった。けれど、数時間前に見た『しびれ』が、肝心な部分を端折りながら、思いだけでつくりあげた映画とすると、こちらは四方八方に念を入れ細部まで置きに行きながら話をつくっていくスタイルで、とても分かりやすく納得しやすい構成だった。3時間余にムダな場面はとくに感じられず、それだけ長くても画面に集中できた。もちろん、わからない? とか、どういうこと? というようなツッコミを感じさせるところはほとんどなくて、安心して見ていられた。もし2時間程度に短縮したとしても、十分説得力のある映画になるのではないのかな。
かつて精神病院で、現在は認知症患者を中心とした介護施設で、患者を人間らしく扱って介護する、を目指している施設長のマリー。でも、その手法の研修に時間がかかって他のスタッフの手が足りなくなるとか、いちいち認知症患者の立場で介護していったら非効率的、という上司の反対がある。時短や昇給を訴えるスタッフもいて、理解は進まない。なかには施設を止めて個人的な介護を始める看護師、介護士もいる。という悩みを抱えている様子が冒頭からフランス人とフランス語で20分ぐらいつづくのだけれど、日本人監督とは思えない自然な仕上がりになっている。
で、トラムに乗っていたらヘンな青年を見かけたマリー。途中下車して見に行くと、知恵遅れっぽい感じの日本人青年で、しばらくしたら祖父だという役者と、演出家の女性がやってくる。いずれも日本人で、いま芝居をしているから、よかったら、とチラシをもらって。気分転換に見に行く、というのが接点だな。
長塚京三の父親・吾朗が演じるのは一人芝居で、椅子をバンバン倒して行くのだけが記憶に残っていて、話自体はよく覚えていない。あと、例の孫の智樹が客席から舞台に乱入してあれやこれやする。そして、観客に楽器を持たせ、適宜音を出させる(このあたりは、観客と役者、健常者と病者、なんかの境界をなくするということのメタファーなのかもね)。けど、どんな話だったのかは覚えてない。で、終演後のQ&Aで、マリーは日本語で質問する。「不可能を可能にする可能性は?」とか、禅問答みたいな感じで、実は話についていけてない。理解する前に話が進んでいってしまう。
ここでのディスコミュニケーションは、吾朗が日本語でセリフを言い、字幕がでるスタイルたせということ。さらに、Q&Aで、観客から「フランス語ができるならフランス語で演じればいいのに」に「母国語の方が心が通じる」とかいうようなことを言ったこと。マリーの質問は日本語で、応える方も日本語。最後に真理が、自分は癌で余命少ない、と日本語で話し、通訳が訳そうとしたら吾朗が止めたこと、か。真理は、病気のことはスタッフにも話してなくて、吾朗ぐらいにしか言ってない、というのもあるだろうけど。これにも客席がちょっと不満な雰囲気。
マリーは「もっと話したい」と、真理に告げ、さらに歩きながら話をつづけ、マリーが施設から呼ばれると、施設までついていってしまう。ここまでは、マリーと真理は日本語で会話するんだけど、以降はマリーはフランス語、真理は日本語で会話を続ける。これが自然なんだよな。たぶんマリーを演じる役者への、日本語セリフを覚えさせる負担をなくす意味合いもあるんだろうけど、フランスの観客にとっても、分かりやすいような気がする。
話した内容は、あまりよく覚えていない。マリーは早稲田の大学院で文化人類学を学んだんだっけ? 真理はソルボンヌで哲学を学び、さらに演劇に…。とか、マリーが施設で実践しているユマニチュードという介護方法のこと、壁のことなどを。さらに、施設に行ってからは、真理が、資本主義は少子高齢化の原因である、という説をホワイトボードに書いて講義し始める。この資本主義の話は、理解する前にどんどん先に進んでいくので、恥ずかしながらついていけず。ちょい説教臭くて、難しい。
ナースコールで呼ばれて行くと婆さんがボーッとしていて。どうも失禁して妄想にひたってる様子。マリーが丁寧に処理し、真理も床を掃除したり手伝いつつ、タバコを吸いながら話はつづく。そのうち遅刻してた男性スタッフがやってきて、マリーも深夜残業(っても、この日は休暇だったはずだけど)したのかな。真理は、結局、泊まってしまったようだ。
マリーは演劇理論的なことを介護に採り入れたい、と話したんだっけか。翌日の朝のミーティングにも真理を参加させてたかな。
・ユマニチュードの実践か、認知症の爺さんを歩かせようとして転倒させて議論になったり。なんやかんや、あったな。
・庭で自由にしている患者と介護士とか。で、真理は話していたように、急に具合が悪くなる。いまの状態だと、いつ具合が悪くなっても不思議ではなく、いちど具合が悪くなると、病気の進行は早い、とかなんとかも言っていたな。
それで真理は、急遽、日本に帰国して主治医に会うことになった、んだっけか。で、その新幹線の中に、マリーもいたりして。おお。フットワーク軽い。
主治医に診てもらうと、これからは日本で治療を、と言われるんだけど、マリーは、ぜひフランスのうちの介護施設で、といい、そうなったようだ。このあたりの見せ方、端折り方が、いい。そうなった、という結論を、サッと見せていく。『しびれ』の、よくわからん端折り方よりよっぽど粋でスマートだ。
・日本での2人のふれ合いは、指圧と足の揉み合いで深まっていく。こういうのは東洋的なやり方なんだろうけど、たぶんマリーの考えるユマニチュードでは柔軟に受け入れられるのだろう。
フランスで、真理は演劇を通したスタッフ的な役割を与えられる。患者たちは芝生で横になり、足を揉み合う。身体に触れること。言葉の要らないコミュニケーションで、快適になっていく感じ。これは、マリーの考えるユマニチュードの、境界を無くす、という考えに合致してもいるのだろう。マリーが、イタリアには精神病院はない、てなことを言っていたっけかな。そういえば、病院のないなかで精神病患者達が過ごす患者たちを描いたイタリア映画があったよな。『人生、ここにあり!』だったかな。介護士と患者とその家族との境界をなくし、患者も人間らしく扱っていく。そういうなかで、認知症患者の転倒の可能性もある。それを、真面目すぎる介護士は恐れ、歩かせなくなる。でも、歩くことで、認知症の進行は緩やかになる。どう折り合いをつけるか。ここで出てくるのが、マリーの「リスクは可能性」なんだろう。
マリーは、吾朗の一人芝居を病院の庭で見せることにする。これも日本語で演じ、字幕で読ませる、つもりだったけれど、またしても智樹が乱入。吾朗は芝居ができなくなり、患者たちは大混乱。足揉みのスタイルで、患者たちの足が林立したりする。これまた境界の破壊か。とはいえ、智樹の乱入は、なにか事件が起きそんなザワザワ感がぬぐえないのだよな。リスクは可能性、であるだろうけど、リスクが事故になる可能性も充十分にあるわけで。それは、理想通りに行かないこともあるかもなあ、と思わせる。ここで吾朗は日本語での芝居をあきらめ、フランス語で説明しながら芝居らしきモノをつづけるのだけれど、これまた、完成された芝居と、変化していく芝居という、境界線を取り払う行為のメタファーなのかもね。この場面、かなり弱っている真理は車椅子で見るのだけど、ほんとうに痛々しい感じで衰弱している感じがでていた。
で、場面はパッと変わって。吾朗と智樹が、真理の家の近くに遺灰をまく場面になる。真理の終焉をどう見せるのか、気になっていたけど、ここも粋な省略でウェットにしていない。お見事。一方、フランスではマリーのユマニチュードも、進化していく。頑なにユマニチュード導入に抵抗していた介護士に、研修期間の削減を提示して、謝罪もする。くだんの介護士も、それならば、と折り合いをつける。ここでも、ひとつの境界を曖昧にすることに成功している。
マリーと真理は、日本とフランスの境界をなくすことの象徴だろう。この映画では、いろんな部分で境界をなくし、平等で自由で、人間らしく、優しく一体化しようとするマリーの姿が印象的。真理もまた、演劇の中に障害者である智樹を受け入れて、決まり切った展開からの逸脱を図ろうとした。そういう細部のエピソードが、決して説明的でなく散りばめられていて、3時間16分は長く感じなかった。
・マリーと真理、マリーと誰だったかが、鳥のフン攻撃を浴びる。「ウンがつく」と真理は言っていたけど、そういう不幸を笑いに変えていくというのも、境界を無くす行為につながっているのかもね。
ところで、真理は親の意向で東京の大学は受けさせてもらえず、京都の大学に受かった。でも学校には行かず、東京にでて演劇を学んだんだっけ? の後、フランスのソルボンヌで哲学? 演劇? を学んだとか言ってたけど、日本の大学に行かずソルボンヌに入れるの? 大学ではないソルボンヌなのか?

 
 

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