2026年10月

モネと時間旅行10/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/セドリック・クラピッシュ脚本/セドリック・クラピッシュ、サンティアゴ・アミゴレーナ
原題は“La venue de lavenir”で、「未来の到来」。英文タイトルは“COLOURS OF TIME”で、「時の色彩」。日本タイトルは「モネ」前面に出して西洋画ファンの文化好きおばさまにターゲットしているのは明らかだな。「時間旅行」も、タイムトラベルを感じさせる。なんか、ずるいタイトルな感じ。公式HPのあらすじは「パリで恋に仕事に悩みながら、祖父と暮らすセブ。ある日、面識のない親族一同が集められ、先祖アデルが遺した屋敷を土地開発のために売ってほしいと迫られる。1944年から閉ざされたままの、ノルマンディーの草原に佇む古い一軒家だ。セブを含む4人が一族の代表として、屋敷の調査をすることに。するとそこで、白いドレス姿の女性を描いた、印象派の作品らしき絵画を発見する。屋敷の持ち主である、謎の女性アデルとは?そして、絵画の作者やモデルは一体誰なのか…」
Twitterへは「題名に「モネ」を入れた効果で客席は大量のオバサンたちで埋まってる。話の方は、エンジンがかかるまで長く、娘がパリで母親と遭遇したあたりからやっとドラマが動き出す。その後、次第に謎解きが…。徐々に盛り上がっていく感じだった。」
冒頭は、美術館での撮影シーン。青年写真家が、巨大なモネの睡蓮のある展示室で、女性を撮っている。おお。こんなでかい睡蓮があるのか。睡蓮だけの部屋が…。というのが、モネか、な感じ。
フランスのある一軒家と周辺の土地が再開発の対象になっている、らしい。でも、相続権をもっている人が30人ぐらいいて、総意をまとめなくちゃならない。まずはWeb会議をして、なかから代表者4人に実際に家の中に入ってみてもらいたい。なにしろ1944年以来、だれも中に入っていないので…てなところから話ははじまる。で、選ばれたのがデジタルクリエイターのセブ、養蜂家のギィ、なにかのプランナーみたいなセリーヌ、中学教師のアブデル。立会人とともに中に入ると、古い写真や絵画、書簡などが眠ったまま。てなところで、仕事疲れで寝入ってしまったセブに、130年ほど前の住人の女性がダブる。女性はカバンを提げて、家を出ていく…。村には恋人がいたようだけど、女性アデル21歳は、自分を捨て(でも、現在まで仕送りはしてくれている)パリにいる母親に会うのが使命だ、と決めている感じ。
パリへの船上で、アデルは2人の若者と知り合いになる。その後、公証人のところに行くが母親の住所は分からない。けれど、仕事場は分かる、というので行ってみたらなんと娼館だった…。行き場を失ったアデルは、2人の若者が投宿している宿に転がり込む…。
もちろんこの間、現代のドラマも進行しているんだけど、そんなドラマチックではない。青年セブと、一緒に暮らす祖父の話がちょっとあって、あとは教師の授業風景、少しだけ養蜂作業がある程度。とくにドラマはない。ので、ちょっと退屈だった。
で、縦糸と横糸が織りなされていって…事実が少しずつ分かっていく、という仕組みで、なかなかスリリング。細かく経緯をたどるのは面倒くさいので大雑把に言うと。アデルは誕生後、すぐに母親の田舎に捨てられたかたち。でも、仕送りはしていた。ので、母親はおそらく、完全に捨てたわけではない、と思っている感じ。会いに来たアデルにも優しかったし、つっけんどんなところはなかった。といっても、悔いている様子もない。生きていくためにはしょうがなかった、ということか。娼婦になる前は、モデルでもしていたのか。写真家のナダールとつき合っていた。ので、ナダールが映した母親の写真もあるし、アデルもナダールに撮られている。…もちろん、現代の話の中にも、だれだこれ? な感じで写真は登場する。
そして、終盤になって分かるのが、母親はなんとモネと恋仲だった、らしい。ここでやっと、タイトルのモネの意味が印象づけられていく。
印象派という名称のきっかけとなった「日の出」の絵をモネが描いたとき、そこにアデルの母親がいた、という設定だ。しかし、長つづきはしなかった、ということか。なぜ別れたかとか、何歳のときか、とか、詳細は省いていく。まあ、それでいい。母親は後日、アデルに一枚の布を手渡す。それは、モネが「日の出」を描いたときに、海面に映る陽光と同じタッチで描かれているのだが、このあたりはピリピリくる。なぜって、現代の話で、その布のことを「なんだこれ?」なんて言っていたりするのだから。
アデルが知り合った若者の1人は、画家の卵。もう一人は写真家の卵。写真家は、「そのうち、絵画はなくなる」と言ったりしていて、ピクトリアリズムの時代なんだなあ、と感慨深い。そして、印象派の誕生の“時”でもある。で、アデルは画家卵の裸体モデルになったり、アデルが文字を教えてもらってるうちに恋が芽生え…。おいおい。田舎の彼氏はどうするんだ!? 気になるね。
写真家の卵の叔父かなんかの知り合いがナダール、だっけ? 忘れたけど。アデルと写真家卵、画家卵とパブに出かけると、そこにサラ・ベルナールがやってきたりして。おお。世紀末!
一方で現代。養蜂家だったか、が幻覚の見える薬草持参でやってきて。セブがすっかりイッちゃうんだっけ? な幻覚の中で、モネが「日の出」を出品し、美術批評家のルイ・ルロワがが酷評して、会場には画家仲間のドガ、ピサロなんかもいて。女性の誰かがヴィクトル・ユゴーに口説かれてたり…。
教師の教え子にどっかの美術館の学芸員の女性がいて。その美術館に、家に残されていた油彩や、例の布を持ち込んで鑑定してもらうと、なんと本物のモネで、布の筆致と「日の出」の筆致が同じと分かって、ひっくり! ってことは、アデルはモネの子供なのか? 
さらに、アデルが田舎の恋人と交わし続けた手紙もみつかって、4人で読みあったりしていく…。
てなわけで、アデルはモネに会いに行くと、モネは優しく接してくれて。アデルをモデルに油彩を描いてくれる。てなわけで、過去の話と現代の話が綾織りになってつむがれていき、断片が結ばれていく。
あの油彩が田舎の家にあったということは、アデルの相手は? 想像通り、田舎の例の恋人だった。と。めでたしめでたしな話だった。
4人は、モネは国に寄贈しよう、といっていたんだけど、捜索結果を他の相続人に話すと、「国に設けさせるのか!」とかいう輩も出てきたりして。はたしてモネの油彩や布、ナダールの撮った写真はどうなるのか。いや。それ以前に、あの土地は果てして開発されることになるのか? そのまま手入れして残されるようなことになるのか? それは、分からんけどね。
・定年を迎える教師が、生徒に拍手で送られる場面はなかなかだった。あんな具合に教師を尊敬し、愛する生徒もいるんだね。フランス。
・田舎の貧乏娘が、なぜあんな屋敷と周辺の広大な土地を有していたのか、は、首をひねってしまうところ。
・アデルの母親は、今後どうするのだろう? 相変わらず娼館で働くのか? もうアラフォーだろ?
・アデルは21歳と言うことだけど、なかなかの馬面なんだよなあ。それが気になって気になって。
・教師の教え子の学芸員がいる美術館は、ブーダンを専門に集めている、とかいってたっけ。ブーダン、好きなんだよな。西洋美術館にもあるし。
・世紀末パートは、あっちこっちに、どっかの絵画で見たような人物や風景がチラチラしていて、面白かった。
ファウスト10/08シネマ ブルースタジオ監督/アレクサンドル・ソクーロフ脚本/アレクサンドル・ソクーロフ、マリーナ・コレノワ
原題は“Faust”。映画.comのあらすじは「19世紀初頭、神秘的な森に囲まれたとある町。あらゆる学問を探求するファウスト博士は、研究を続けるために悪魔と噂される高利貸しのマウリツィウスのもとを訪れる。マウリツィウスはお金を貸すかわりに生きる意味を教えるとファウストを説き、ファウストは言われるままに町へ繰り出す。そこで出会った美しい女性マルガレーテに心を奪われたファウストは、マルガレーテを求めるあまり魂と引き換えにマウリツィウスと契約してしまう。」
Twitterへは「誰が誰やら、なにがどうなってるのか、さっぱり分からんままゴチャゴチャ展開するので、途中で寝た。もちろんゲーテの原作など読んでるはずもない。読んでないと分からんのか? にしても2011年の映画とは思えない古色蒼然ぶりだった。」
ボカシのある解剖シーンのボカシはなんなんだ? で、ジジイが下痢が漏れる云々で「教会の中でする!」とか、泥棒とか、あれやこれや、女の股から卵で女が卵を食べる? 洗濯場で女どもが乳出してたり、「前がない! 尻尾がある!」とはやし立てられていたのはサタン? でもフツーのジジイだったけど…。あたりで、うつらうつら…。気がついたら葬式で娘が墓穴の前で泣き伏してたり。その娘? 子豚ちゃん顔の娘は…。悪魔なのか? が、娘に人工人間の赤ん坊を押しつけて容器のガラスを割ってしまったり、はなんなんだ? その娘となんとかのための契約書にサインしろとか何とかでサインして。ファウストはその娘と入水? そのあとも映像は続いてたけど、ぜーんぜんよく分からない。だって、ほとんど説明もないし、一般的なドラマツルギーでつくられてないから。
ときどき、画面が斜めに歪むのはなんなんだ? でまあ、魂を悪魔に売り渡す、ような話だったな、は、はぼんやり記憶あるんだけど。なにしろ冒頭からの画面が汚くて、誰が話しているのかもよくわからない。セリフも、噛みあってるのか合ってないのか、なんかよく分からない。ので、話も映像もあまり頭に入って来ない。
19世紀初頭らしい街の様子は、なかなかいい感じに映されていて。カラーだけどセピアっほい感じが画面にあふれているせいか、古くさい印象が全体に漂っている。なので30年ぐらい前の映画かなと思ったら、あとから2011年製作と知って、びっくり。画調とかドラマのセンスとか、映画のつくりが前時代的なんだもの。
後半になって、マルガレーテが大写しになるあたりの画調は綺麗だな、と思った。けど、前半の薄ら汚くてなんだかよく分からん部分は、ゴミだめの中の話のようだ。これがヴェネチア国際映画祭グランプリなのは、なんでなの? 西洋人の基本常識的な話だからなのかね。知らんけど。
ところで、マルガレーテの陰毛にはボカシがない。じゃ、冒頭の解剖シーンのボカシはなんなんだ?
観客は計7人。
本当にあった話(の話)10/14テアトル新宿監督/武井佑吏脚本/武井佑吏
公式HPのあらすじは「今から数十年前に起きた衝撃的な事件。夫を殺害し、戸籍を引き継いだ男と夫婦生活を送る女が、新しい男と結ばれるためさらに殺人を繰り返した〈配偶者入れ替え連続殺人事件〉は、世間を震撼させた…。そんな実話にもとづく舞台劇の制作が決まり、殺害される主人公役に抜擢されたのは、演技経験のない夛田だった。しかし役柄に自分の経験を重ね、深くのめり込んでいった夛田は、やがて虚構と現実の境界を見失い、ついに演じる人物と一体化してしまう。そして夛田の妄想は、舞台の関係者たちを巻き込み、すべてをぶち壊しにする。「おかしいのはお前たちだ! 僕は本当のことを言っているだけだ!」 舞台の本番が間近に迫る中、夛田は制御不能に陥り、物語は予期せぬラストへ。何が本当で、何が嘘なのか? 虚実が混ざり合う、恐ろしくも滑稽な舞台の幕が、今切って落とされる。」
Twitterへは「過去にあった殺人事件を舞台化し、上演することになった。ほとんど素人の主演男優は演出家や脚本家とぶつかり、やがて…な話。にしてもまるでヒキがない。何を見せようとしてつくられたんだ、この映画。不自然なところてんこ盛りでうんざり。」
夛田を演じる水上恒司の演技が凄い、と評判のようだけど。そうかなあ。そもそも、の段階がちゃんと描かれていないというのは、決定的なデメリットだと思うけどな。そもそも、の第一は、過去の連続殺人事件について。冒頭で画面に文字で表示されるけど、ちゃんと追い切れていないまま、だった。その後、ドラマの本読みのとき、脚本家の垣内(小池栄子)が「改めて」といいつつ説明しようとして、でも、HPにある「夫を殺害し、戸籍を引き継いだ男と夫婦生活を送る女が、新しい男と結ばれるためさらに殺人を繰り返した」以上のモノではない。そして、どの男もマサキと呼ばれたことだけ。何人殺害したかとか、その他、細かいことは映画では確か、説明されていなかった。説明されていたのかも知れないけど、見ている自分には届いていなかった。なので、次第にマサキが夛田に乗りうつったのかその逆なのか知らないけど、夛田が狂気を帯びていく様子に緊迫感というか、鬼気せまるものは感じられなかったんだよね。
あらためて正式HPを見ると、なんと、「配偶者入れ替え連続殺人事件とは」というショートムービーがあって、4人殺害したとか、犯人の素性が見られるんだよね。えっ? それって、HPで見せちゃうものなのか? というより、このショートムービーを本編冒頭で流した方がよっぽど理解が深まるんじゃないのか? そう思うと、本編の杜撰さにしか関心が向かなくなった。配偶者入れ替え連続殺人事件の、犯人である妻、殺されていった4人の男のことを知らなければ、夛田の異様さは理解できないだろ。映画の方では、最初の夫と2番目の夫にだけ焦点が当たっているけれど、3番目、4番目とはどういう関係だったのか? そもそもなぜ妻は夫を殺し続け、しかも、戸籍の上でマサキという名前にしていたのか? そこが肝なんじゃないのか? まあ、このショートムービーは見たけど、だからなに? レベルだったけどね。それにしても、なんだよな。
ショートムービーでも、本編でもそうだけど、最初の恋人と結婚できないからと、新たに結婚した男を殺し続けるという、この妻=女の本性はどこにあるのか? が分からない。そして、本名とは別にマサキと呼ばれ、殺されていく新たな男たち。なんか薄っぺらで説得力がないんだよな。そもそも、亭主が何度も死ぬという設定は、落語の『短命』を連想しちまうし。
というわけで、この映画の夛田がマサキに取り憑かれていく様子とか、本来の事件を調べ、脚本にいちゃもんつけるようになるとか、の流れは、いまいち「なるほど」感がない。なのに、どんどん映画の中の夛田は狂気を帯びていく。なんで? と冷ややかにしか見られないんだよ。
あんまり異様に絡みまくった結果、夛田はマサキ役(いつのマサキなのか分からないのも、困ったもので、妻が愛した最初の男なのか、代役で殺された何番目かの男なのかも、分からない)を降板させられる。で、急遽、演出家の加藤がマサキ役になるんだけど、本番直前、夛田が加藤を何かで眠らせ、監禁する。どーやってそうしたのか、一切説明されないので分からないけど、そうとう無理筋な展開だよな。それはさておき、加藤の代わりに夛田が舞台に登場する。これまたそうとう無理筋。だって、いままさに舞台に上がろうという役者兼演出家が行方不明になっているのに、誰も騒がないんだぜ。どころか、降板させられたはずの夛田が舞台に上がって演技を始めても、脚本家の垣内や他の役者、スタッフは動揺なんてしていない。どころか、淡々と話は進んでいく。あり得ないだろ、こんなの。
ひとつの転機は、夛田のマサキが妻役の米良(黒木華)を殺害しようとする(だったか、米良が夛田を殺すべきところだったか忘れた)場面なんだが、ショートムービーを見た後だと、なんでマサキが妻を殺害するのか分からんぞ。でまあ、夛田は米良の首を絞めようとするんだが、死ぬ演技をしない。で、いらだって押し倒すんだっけか。そして、いつの間にか発見され、車椅子で舞台後方で垣内と一緒に舞台を見つめる加藤に目を向け、駆け寄る。で、またまた個人的な、事件というか劇の演出や解釈について持論を述べる、だったか、どうすればいいのかを加藤に聞く、だったか、その夛田に、舞台上から不敵な笑みを送る米良の顔で、映画は終わる。え? いったい何を言いたかったの? あとから見たショートムービーも、映画の理解にはつながらなかったかな。なんか、いろいろと中途半端すぎな気がしたぞ。
・冒頭のシーンは、本ちゃんの芝居の初日の場面ということ? で、遡っての話になるのか? よく分からなかった。
・米良のオーディション場面が最初の方にあるんだが。その後だったかに、蔵之介が下の階から見上げると、斜め上の上階に米良の黒木華いるんだけど、どういう意味なの? 以前からの知り合いだった、ということ?
・スタッフの、私は小麦食べない、グルテンフリーなんて話に演出家の垣内が、私は炭水化物は一切とらない、なんて言いだすんだけど。なんの関係があるんだ? 意味ないだろ、このセリフ。
・夛田って男は、冒頭ではフツーの男で、妻もいる。けれど、突然の離婚話に、夫婦だ笑い合うんだけど。別におかしくもなんともない。よくある感じでしかない。いったい、夛田は、どういう性格なのだ? 狂気とかパラノイアを抱えているように見えないんだよね。で、連続殺人事件の資料を読んだからといって、狂気が解き放たれた感じもない。勝手にどんどんおかしくなっていく感じ。だから、怖くもなんともない。ただの変人な感じ。やはり、そうなる必然性を描いていかないと、映画としての説得力はないよな。
・夛田が、他人のコーヒーにガラスの破片を入れるエピソードがある。最初は同じ会社の知らない同僚かと思ったんだけどね。タバコの火を貸してくれと言われ、でも、電子しかない、と笑い合って。相手がいなくなったスキに、自分の水筒を落として割って、破片を相手の飲み物にいれて消える。相手の男がもどってきて飲むと、口を切る、という話。なんだけど、まず、ガラス製の透明ボトル水筒なんてあるのか? だし、何が憎くてそんなことをしたのかが分からない。まあ、そういうことをする人間だ、ということを表現したかったのかもしれないけど、あれじゃつたわらんぞ。
・全体に声=会話が聞き取りにくい。夛田役とか、加藤役の佐々木蔵之介とかも。そうじて男性俳優が聞き取りにくかった。
ナギダイアリー10/15キネカ大森2監督/深田晃司脚本/深田晃司
公式HPのあらすじは「自然豊かな町「ナギ」。この地でひとり創作に打ち込む彫刻家の寄子のもとに、弟の元妻で建築家の友梨が、休暇をとって東京から訪れる。義理の“元姉妹”である友梨をモデルに彫刻を制作する数日間。若くして妻を亡くした好浩、その息子の春樹と親友の圭太…。異なる場所で生きる寄子と友梨の再会は、穏やかだったナギの日常に小さな揺らぎをもたらしていく。」
Twitterへは「彫刻家の独身50女と、弟の元嫁との9日間。面倒くさい中坊とか、嫁を亡くした同級生の市役所職員とかいろいろ登場するけど、とくに事件もない。ちょいピンボケな感じ。ナギじゃなくて奈義でいいだろうに。説明ゼリフが多いけどあまり気にならず。」
つまらなくはないけど、なんか、もやっとした感じがつづくし、残る感じかな。だからどうした、な感じが。
寄子は、奈義町で酪農家をしながら彫刻を彫っている。主に人物で、舟越桂みたいな感じ。作品の多くはアトリエに並んでいるのでギャラリーもついていない、のかな。モデルにするのは弟だったり、弟の嫁=友梨だったりと、身近な対象のようだ。むかしの同級生(?)でいまは役場の職員の好浩とは」といい仲だったことがあるのかな? でもそれは友だち関係で、別に好きだった相手はいて、その彼には子供がいたけれど、彼は若死にして、寄子は泣いた、とかだったかな。セリフがよく聞き取れず理解できなかったところもあったけど。
好浩は結婚し、でもその女性は若くして亡くなり、息子の春樹が絵画教室に通ってきている。春樹の同級生で、ちょっと内向的な圭太もアトリエにはよく来ている。とかいう感じかな。
寄子には弟がいて、建築科。同じ建築科の友梨と結婚して海外で活躍していたけれど、離婚して友梨は帰国。東京を起点に仕事をしている、のかな。で、寄子は友梨に、モデルになってくれ、といったのかな。のこのこひとりでやってきた、というところから話は始まる。
農道を歩いている友梨。自転車に乗っている少年(自衛隊員の息子・圭太が友梨を認め、寄子のもとに連れて行く。元旦那の実家を知らないというのはヘンな気もするけど、まあいい。圭太曰く、春樹の描いたデッサンで友梨の顔を知っていた、という。(でもそれはスケッチ帳に描かれた友梨で、春樹の部屋に貼ってあった友梨の上半身のデッサン(本人とは似てない)とは、違うんだが…)
で、寄子、友梨、圭太、春樹がお茶しながら駄話。友梨はホッパーの画集を取り出し、春樹に渡す。ん? そういう約束なのか? すでに知り合い? という疑問が湧くけれど、その背景が分かってくるのは中盤以降なので、なかなかに不親切。どうやら春樹は夏季講習で東京に行き、友梨に世話になったようなんだけど、詳細は語られず。泊まったのかな? ただ、会っただけなのか? 不明のまま。ここは説明が足りなすぎ。
その後、寄子は友梨の顔をスケッチし、つぎに塑像をつくり、それができるとやっと彫りだしていく。とはいえ、塑像が気に入らなくて顔の部分を削り取り、やり直す、なんてこともしてたけど。で、そういた間に、だらだらと寄子と友梨は話していく。いまの状況とか過去のこととか、説明ゼリフは多いんだけど、それが理解につながる部分も多くて、とくにうっとーしくはなかった。ただし、以後もそうだけど、寄子と友梨の関係とか、友梨と元亭主の関係とか、寄子と好浩の関係とか、は、核心の周囲をぼんやりと説明するだけなので、分かったような分からないような感じでつづく。ま、どーでもいい感じかな。だって、寄子にも友梨にもとくに感情移入できなかったし。
春樹と圭太が仲がいい理由は、よく分からない。そういう設定なんだろう。その後の展開もあるから、に過ぎない気がする。その後の、圭太の父親の自衛隊員の転勤で離れ離れになる、ということになり、圭太は春樹に告白する。中学生の同性愛だな。春樹は、゛気持ち悪い」とか反応するわけでもなく、そのまま受け入れる。そして、いずり両親には理解されないだろうから、と、2人で駆け落ちを決意する。2人でどこかで生活を始めよう、という算段らしい。あまりにも杜撰だけど、これが中学生なのか。しかし、家を出るにしても当面の資金がいる。というわけで、寄子に理由を話し、借金を申し出る。15万だか、貸してくれ、と。で、寄子はこれに応じる。しかも、親には言わない、ということで。という寄子の態度も杜撰だよな。いまどきの映画の同性愛を否定しない表現なのか。にしても、中学生が知らない町で新生活を始めるには少なすぎる金額だし、働くにしてもだれが雇ってくれるんだ? 考えれば分かるだろうに。バカな中学生。それに金を貸す寄子も、ただの理想主義者か? アホか。
でまあ、駆け落ちしたら暴風雨がやってきて。寄子は心配するけれど、ちゃんと保護されて。好浩や圭太の父親の自衛隊員(ここで初めて登場)はひと安心。というわけで、中坊2人が親から何を言われたのかは分からぬまま。でまあ、数日の予定が延び延びになっていたけど、友梨の元亭主から一緒に仕事をしないか、と連絡があって。友梨は帰京することにする。元旦那と仕事するって、そんなんできるのかいない思うけど、そういう話なので、ああ、そうですか、なんだが。
帰京する列車の窓外に、2人乗りする春樹と圭太の自転車。おいおい。二人乗り推奨してんのか? と突っ込みたくなるが。ここで友梨は、「行け!」と声援を送る。ただし、窓から手を振るまではしなかった。危険すぎるのかな。知らんけど。で、ここで終わりかと思ったら、次の場面ではキャリーケースとともに、友梨は寄子のところへ戻ってきてしまう。どーも、元亭主とは仕事しない、と決めたらしい。で、東京の仕事をまず片づける、と。え? そんな報告のために戻ってきたのか? 変なの。木彫が完成するのを見とどけてから帰る、と言ってたんだっけか?
・日にちが変わるたびに、日めくりのカレンダーが千切られていく。たしか、13日〜21日までの日々だったかな。それは悪くはないけど、たんに何日目かな、というだけで、話の流れには関係なかったりする。
・奈義町では、まいにち待ちのお知らせの放送がある。自衛隊の練習場が近いので、何時から始まるとか、危険だから近づくなとか、てな内容。しかし、映画を通して随所に砲撃音が鳴り響くのは、ちとブキミ。とくに反戦とか反自衛隊の意図は見えなかったけど。
・映画では「ナギ」だけど、色んなところに「奈義」表記が登場する。たしか地元の消防団だから半被には「那岐」の文字もあったような。だったら、題名も「奈義の日々」でいいだろうに。
mentor10/21ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/吉田恵輔脚本/吉田恵輔
公式HPのあら/Users/notomo/Documents/のとも図書室/個人ファイル/www2.gol.com:users:notomo:/index すじは「それは運命の再会だった。15年前に花火遊びでアパートの火事を起こした拓海(末澤誠也)の前に現れたのは、その火事で大火傷を負い、妻子を失った埜本(綾野剛)。恨んで当然の相手なのに、詫びる拓海を優しく包み込む埜本。その不思議な優しさに惹かれ、埜本を"メンター"として慕い急速に距離を縮めていく拓海。一方、拓海とともに火事を起こした龍之介(磯村勇斗)は、アーチェリー競技と出会い、オリンピック日本代表になるという夢を追いかけていた。今の龍之介にとって拓海や埜本との再会は、平穏を揺るがしかねない。埜本に触発されて被害者への謝罪にのめり込む拓海にも、不気味なほどに優しすぎる埜本の態度にも違和感を拭えない龍之介。やがて事態はまさかの方面に転がり、歪な三角関係は狂っていく。そして物語は、誰も想像しなかった結末へ。」
Twitterへは「花火、火災…。人の人生を狂わせた少年たちが15年後、その被害者と再会し…。反省や償い、恨み、許しもそれぞれだったりして、いろんな観点からなかなか面白かった。拍子抜けするような展開もあって、それもまた興味深い。ほんと。人それぞれだね。」
じわじわきて、なかなか面白かった。登場する人物が、キャラも性格も立場も描き分けられていて、その対応の違いにイライラしたり、共感したり、え? と思ったり。たんに受け止めるだけではなく、自分だったらどうするか、も考えてしまう。
冒頭は小学生らしい少年ふたりが花火で遊んでる。そのうち近くのアパートに火がついて火事に。制止されながらも助けに入る人もいて、ともに焼けただれて出てくる。警察官に質問される少年たち。拓海の家族は転居し、直後に父親は投身自殺。時が過ぎて、拓海は自販機のルート配送・充填をしている。一方の龍之介は会社員? アーチェリーで五輪出場の期待がかかる選手になっている。互いに音信はなかったけれど、天気が訪れる。拓海が、あの火災で妻を失い、自信も全身火傷した埜本がガス配達の仕事をしているのを見かけ、声をかけて謝罪する。埜本は怒りだすかと思いきや、よく勇気を出して話しかけてくれた、と励まして親交を結んでいく。拓海は埜本の言葉をメモし、生きる指針にしていく。拓海にとって、埜本はメンターになった。で、久しぶりに龍之介に連絡し、一緒に謝りに行こう、と勧める。のだけれど、龍之介は乗り気ではない。アーチェリーの練習や予選に、動揺は邪魔になる、という考え方だ。匠海はそんな龍之介をなんとか説き伏せ、2人で埜本に再会。謝罪する。
このあたり、見ていてざわつく。埜本はほんとうに許しているのだろうか? 拓海の、過剰とも言える低姿勢と謝罪。対して、自分の目標を優先し、素っ気なさ過ぎる龍之介の態度。それを非難する拓海。龍之介にしてみれば、悪いとは思っているけれど、自分の人生もある。そんなとき被害者に会って、なんと言えばいいのか。たかが子供の間違い、では済まないけれど、では、どうすれば良いのか。拓海は父を失い、引きこもりになって友人もできず、それでもなんとか毎月弁済金を送りつづけてきた。その重圧から、解放されていない。龍之介は、重圧を忘れたい、と思っている。そもそも意図的な加害ではなく、アクシデントだ、と思っている節がある。拓海は、一生かけても償いきれない罪だ、と深すぎる反省を続けている。埜本は、亡き妻の妹が働くスナックに行ってカラオケするぐらいが関の山。であるけれど、拓海や龍之介を責めたりはしない。
龍之介も、淡白に見えて罪悪感は感じていたようだ。龍之介の母親は、埜本に会って謝罪を何度も繰り返し、龍之介が焼けたフライパンを自分の腕に押しつけていたこともあった、と話していたという。
実をいうと、埜本は親しげに拓海に接しつつ、復讐を考えていて、匠海と龍之介を闇で殺したりするのではないのかな、と思っていたんだけど、そんなことはなかった。
それはさておき拓海は、埜本のように家族を失ったわけではないが、被害をこうむった他のアパート住人にも謝罪しよう、と龍之介にもちかける。もちろん乗り気ではない龍之介。それでも埜本が何軒か探しだし、訪問する。一番の被害者である埜本が臨席するのが、ちょっと不思議だけれど、拓海と龍之介2人の同伴者ということなのかな。一軒目は、「うちはたいした被害じゃなかったし…」と、いまさらな感じ。それでも拓海は頭を畳にこすりつけるように謝り、素っ気なく「すいません」と言うだけの龍之介を非難めいた目で見る。2軒目で、異変が。当時の住人は老齢かつ認知症で施設にいて、その娘が対応したのだが…。その親がタバコの火を前庭に投げたら火がついて、消すのも間に合わずアパートに火がついた、と。娘には明かしたが、子供たちが捕まったので黙っていた、と。
拍子抜けの展開にちょっと笑ってしまった。呆気、な埜本。重圧から解放されのびのびとする龍之介。一方で拓海は、生きる指針=自分たちは加害者であり、謝罪することでなんとか自己確認し、生きてこられたという寄る辺を失って動揺する。真犯人の娘に「それは嘘ですよね。私たちの花火が原因だったんですよね。そうしてください」とトンチンカンなことを言いはじめる。あー、なるほど、世の中にはこういう人もいるかもな。生きがいといっては変だけど、自分の存在を担保してくれるモノが、いいことであれ、悪いことであれ、なくなると自分を失いがちな人。宗教なんて、その類だな。人はみな原罪をもって生まれてきているから、神に祈って許しを得ることで生きていける、というような考えの人。うーむ。
どうすればいいのか分からなくなって埜本に相談する拓海。加害者じゃないのだから、好きなように生きろ、と言われても納得できず、埜本にすがる匠海。そんな拓海がうっとーしくなって、疎外し始める埜本。
重圧がなくなり、解放された龍之介だが、そうなってみるとアーチェリーの成績がダダ下がり。そんなことがあるのかどうか知らないけれど、五輪代表確実だったモノが、選外になってしまう。それでも、とくに落ち込むこともなく、拓海や埜本と、フィールドアーチェリーにいってみたりする。自由になり、肩の力が抜けると、集中力もなくなるものなのかね。拓海は、埜本に、相変わらず生きる指針をくれ、というが、埜本は「うざいんだよ」とはねのける。 埜本は施設を訪れ、真犯人の老人に対面するが、なにも理解していない。それでも、埜本は考える。長い時間をかけ、妻の死を乗り越え、少年たちを許そうという心もちになってきていた。その心の構造が、瓦礫のように崩れてしまった。少年たちに対する許しなど必要なかった。ふたたび、憎しみの対象が忽然と現れてきてしまった。しかし、その対象は自分のしたことをすったり理解できない認知症になっている。妻の面影が、忘れてしまおうとしていた妻の存在がまた大きく甦ってきた。これを解消するには、老人を殺すしかない、と。しかし、その場に立ってみると、なにも理解していない老人を殺すことはできない埜本。殺したからと言って妻は戻ってこない。この悔しさ、やるせなさは、どうすれば良いのか?
龍之介は、拓海に言われ、低いレベルの試合に出るようになる。そこに、拓海がやってきて、「がんばれよ」と声援を送る。「ありがとう」と気軽に応じる龍之介。ふと見ると、観客席に赤い服をまとった面々が数10人。龍之介の名前を書いた垂れ幕をもち、声援を送っている。中央には、笑顔の拓海がいる。ああ、拓海はなにか寄る辺がないと生きていけない人なのか。
あの集団は、どっかの新興宗教の面々なのか。わからないけど、拓海にとっては自分を殺して人のために何かをしつづける、が生きがいのようになっているのだろう。そういう人は、世の中にいるのだ。ブキミだけど。
てなわけで、償いきれない究極の過去と罪悪を背負いながら生きる拓海と龍之介。その2人に家庭を壊され、日陰で暮らす埜本。さらに周囲の人々も含め、どうしようもない状況で前向きに、いや、後ろ向きに生きる人々がいるのだなと。いろいろと面白かった。
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