俺だけが正しい

    1

 その日はひな祭りだった。
 でも、俺にとってはこの二〇数年間、ずっと母の命日の翌日でしかなかった。別になにを祝うでもない。ただ、ひな祭りという名称がついた一日が通過していくだけだった。
 ところが、三〇の半ばを過ぎて娘ができてから、ひな祭りは世間並みの女の子の祭りの日、という色が濃くなった。
 妻は、狭いマンションの一隅にある箪笥の上にひな人形を飾り、花を飾る。そうなると、なんだか部屋の空気までがピンク色に変わっていくように感じられるから不思議だ。
 ベッドの中からテレビの上の時計を見ると、長針は九時を少し回りかけている。今日は火曜日だ。もうそろそろ家を出なければ会社に間に合わない。けれども、どうせ出社しても仕事がないことを考えると、げんなりとしてカラダに力が入らなかった。
 俺はサラリーマンコピーライターだ。もう十年以上同じ会社に勤め、仕事もそつなくこなし、世間並みの給料も貰っていた。
 だが、平成の始まりとともに弾けたバブルのせいで、仕事の量がガタ減りし、日がなパズル雑誌に鉛筆を走らせるか、銀座のギャラリーを回るというような会社生活を送るようになっていたのだ。
 ちょっと前までは人材難で悩み「レベルは問わない、学生欲しい」と奇を衒った会社案内などをつくっていたメーカーも、広告費や交際費、交通費をケチるようになって、そのツケは広告で飯を食っている俺の暮らしにも波及効果が及び、いつ首を切られるか時間の問題だった。
 二日酔いの覚めない頭でベッドを這い出すと、カーテンを開けた。まずまずの天気だ。こんな上天気に地下鉄に乗り継いで会社までいって、蛍光灯の下で日がな一日パズルをしている姿を、だれをまず血祭りに上げようかと手ぐすね引いて探し回っている総務部の中間管理職に晒す必要なんかない。
「なにが会社だバカヤロー」
 俺は急いていた気分を揉みほぐすと、狭いリビングへいって冷蔵庫からウーロン茶をとりだし、コップに注いで一気に飲んだ。こうやって冷たい液体を急激に胃腸に流し込むと、ウンコが出やすくなるのだ。もっとも、過剰に反応し過ぎて固形半分の軟弱半分、以下液体ということにもなりかねないのだが。
 ぼうっとした頭でキッチンの椅子に腰を降ろし、新聞を広げた。
 妻は黙々と朝食の支度をしている。
 押し麦が一割り入った飯に焼海苔、納豆、鰹節でとったダシに豆腐とナメコが浮いている。主菜は焼き魚の切り身。それに、脂肪分の取り過ぎを考えてポーチドエッグがひとつ。毎日、このパターンで決めている。
 すでに起き出している娘が、スウェーデン製の座る位置が調節できる椅子に座って牛乳を飲んでいる。
「ないよぉないよぉにゅうにゅうないよぉ」 舌足らずで飢えを訴えている姿は、ひな鳥のそれと同じだ。生理的な欲望だけで行動し、声を発している。
 前頭葉に俺が十七のとき死んだ母親の顔が浮かんできた。母が死んだのはもう二十二年も前のことになる。顔は当然思い出せるのだが、声が薄ぼんやりとした印象しか残っていない。
 記憶なんてものは、いい加減なものだ。
 生きていれば娘の面倒でも見ながら老後を過ごしているはずだ。そうして、妻も働きに出たりして我が家ももう少し経済的に潤っていたはずだ。会社を馘になったら、どうやって収入を得ていけばいいのだろう。恐らく間近に迫っている現実に想像を巡らせると、果たして娘が小学校に上がるときに自分はまともな職に就いているかどうか怪しいものだ。そう思うと、しつけ糸のような悪寒が一瞬走った。
 その震えは、九〇を過ぎてまだ矍鑠としている祖母のことを思い出させた。死んだ母親の母親だ。
 この子は、まだ祖母に会っていない。
「おい、千葉へ行こう」
 キッチンシンクに背中を見せている妻にそういうと、俺は会社に「休む」という電話をいれた。
 会社は俺を必要としていない。
 俺は千葉の母方の実家に向かうため、妻と娘を引き摺るようにして東京駅へ向かった。
    2

 千葉は俺の知っている実家ではない。
 つい数年前まで杉並に家があった。しかし、ある理由からそこを引き払って千葉の九十九里の近くに永住方の別荘を購入して移り住んでしまっていた。だから、初めての訪問ということになる。
 母親が若く死ぬと、母方の実家とは疎遠になるようだ。行き来が少なくなり、俺が上京して下宿暮らしをはじめてからも足が遠のいていた。小さい頃、母に連れられて毎年のように訪れていた杉並の実家だったが、大人になると特別の用事でもなければ敷居を跨がない。まして、結婚式も上げずに同居をはじめた俺としては、事後報告ということで、まだ杉並にあった頃に一度訪れただけだ。
 それは、もう五年も前のことだ。
 祖母に娘を見せたい心が、俺を急かせた。 午前一〇時四五分東京駅地下二番ホーム発総武線わかしお号に乗って、十一時五〇分に千葉県N町に着いた。
 駅前は閑散とし、正面に食料品店、その右に書店、寿司屋、お食事所と・・・ならんで、店はそこで尽きていた。左手斜め前には「ようこそN町へ」のペンキの剥げたアーケード看板が道路の上に虹のようにかかっている。
 九十九里が近いから、シーズン中は海水浴客で賑わうのだろう。でも、季節外れの三月には、失敗した町興しの残骸にしか見えなかった。
 丁度飯どきだった。
 実家には午後、昼飯を済ませてから行く、と連絡しておいた。
 駅からバスかタクシーしかない。バス乗り場の時刻表を見ると、田舎のせいか見事に本数が少ない。どうせタクシーのつもりだったから、この駅の近くで軽く昼食をとることにした。正面右手の寿司屋が先ず候補に上がった。しかし、知らない町の寿司屋に入るというのは、度胸と金銭面の両面で折り合いが着かず断念。その隣のお食事所は、平日の昼間なのにシャッターが閉まっていた。潰れて営業をしていないのではないだろうか。食料品店に戻って覗くとコンビニ並みの弁当はあったが、どうも食欲をそそらない。これを食べるのは最悪の場合、と決めた。
 それで、左手の仰々しい虹型アーケード看板をくぐって少し歩いていった。すると、左手にどんな町にも駅前に必ずありそうな蕎麦屋が一軒あったが、中には誰も入っていなかった。並びにチェーン店らしくない、茶月とまではいかないが、回転寿司とまでもいかないつくりの、窓口だけの寿司の折り詰めを出す店があった。
 さて、どんなメニューがあるのだろうかと窓口横のサンプルショーケースを覗くと、スペシャル握りが八五〇円で、その下が六〇〇円、それ以外にも太巻やネギトロ巻などがあった。でも、そのすべてを確認し終える前に、窓の中から
「できてるのありますよ」と女性の声が轟き、屈んで覗き込んでいる俺の後頭部を声の波形が通り過ぎていった。
 いちいち注文を受けてから握ったり詰めたりするよりは、出来てるのを売ったほうが早いし、あんたも直ぐ食べられるよという、営業上の意図と好意とが一緒になった一声だっただろうと俺は解釈した。
 ヒョイと顔を上げて、俺は窓の中のカウンターに並べてある透明プラスチックパックに入った出来合いの寿司から、スペシャル握りとネギトロ巻の二点を選んだ。丁度千円。その二つを、スーパーなんかでくれる薄いビニール袋に下げて、駅前に戻った。食料品店の前の自動販売機でウーロン茶を買って、駅舎の外にあるベンチに座った。
 駅舎の中にも幾つかベンチはあったが、少し寒くても明るく空気のいい駅舎前のベンチを選んだのだ。
 左横にはキオスクがあった。
 このキオスクは完全に駅舎の外の、庇の下に設置されていて、駅舎の中から購買することが出来ないつくりになっていた。俺はそこでフジカラーフィルム二十四枚撮りを買った。右横には、外から入れる駅のトイレがあった。
 ベンチに座って八五〇円にしては分厚く、面積も広く、見るからに中トロといた風情のマグロが乗った握りから手をつける。脂が口の中にジュワァーと広がった。これは、お買い得だ。一本五〇円のネギトロ巻も、こりゃあ東京なら倍の値段をつけても誰も文句のつけようがない代物だった。やっぱり海が近いせいなのだろうか。
 缶入りウーロン茶で喉にこびりついている寿司を流し込むと、空缶、寿司のプラスチックパックと付属の箸、醤油のビニール袋、そして、フィルムの入っていた紙容器を、寿司を買ったときにくれた袋にギュッと詰め込んで口を縛り、そして、駅舎に入って行ってゴミ箱に押し込んだ。立ち去ろうとした瞬間、背後から、千葉訛のイントネーションで話される標準語が響いた。
「お客さん! 困るんですよ、そういうことされると。他所からもってきたゴミは駅に捨てないでくれます」

    3

 日向純吉はその日、妻のつくった塩ジャケ入り弁当を十二時少し前に食べおえると、午後の改札に立った。まだ東京のように自動改札になっているわけではないし、その予定もまるで立っていなかった。恐らく、一生この木製の被告席みたいな改札ボックスで切符を切ることになるだろうと自分では思っているのだが、妻は昇進試験を早く通過して助役から駅長へと立身出世することを切実に願っていた。
 それは、はっきりいってプレッシャー以外の何ものでもなかった。
 しかし、自分にとっては家から近く安定していて居心地のよい職場だった。そりゃあ深夜勤務や早朝勤務もある。酔っ払いの相手やゲロのしまつもしなくてはならない。ごくごくたまには、轢死体を手バサミでつまんだり大鋸屑で掃き集めたりもする。だけど、だれに後ろ指差されるわけではない。誇りをもってしかるべき職業だと、日向は思っていた。出世などは二の次だ。地元で考えれば、教師、銀行員、町役場の職員に勝るとも劣らない立派な肩書きだと自負していた。
 なにしろ、かつては国家公務員だったのだ。
いまは乳酸菌メーカーに売り渡してしまったが、野球チームだってもっていたこともある。それだけで十分に日向は満足していたのだ。 真面目に働いて、それで、結果として出世なんかはついてくるんであって、媚びを売り愛想をふりまいて、あくせく受験勉強までして地位を得ようなんて、考えていなかった。
 財産だってある。
 東京から一時間と三〇分かかる距離は、いまや十分に東京圏内だ。近辺にも大手デベロッパーが進出して、郊外型の建て売り住宅もどんどん建設されている。それが、バブルのときは一軒が五〇〇〇万円で売り出されたのだ。
 決して田舎なんかじゃない。
 先祖代々百姓をしてきた日向家には百坪を越す家とかなりの田畑がある。それを総合すれば・・・。
 弁当を食べながら自分の資産を思い浮かべ、暗算するのが日向の日課だった。もっとも、バブルが弾けてからは四苦八苦のありさまで、あまり楽しくなくなってしまったけれど。
 でも。と日向は考えていた。
 なんといっても一都三県というように、首都圏だ。そのランクが東京、神奈川、埼玉、千葉の順番で、千葉がかろうじて面目を保っていることは十分に承知していた。
 千葉にやってくる東京脱出組は、本心でそうしているわけではないらしいこと。本当は東急東横線か田園都市線にしがみついて、横浜辺りに家が欲しいらしいことを。
 テレビドラマを見ていても、主人公たちが住んでいるのは、調布だの二子玉川だの横浜だのと、全部西南方面だ。
 間違っても松戸や柏や千葉や茂原に住んでいるトレンディな主人公はいない。こういうテレビのドラマがつくられるから、だから、千葉県のイメージが低下するのだ。内心で日向は憤りを感じていた。しかし、ちょっとした優越感もあった。
 それは、茨城に対してだった。
 関東地方でも、利根川を挟んで千葉と接しているにも関わらず、イメージは完全に東北だ。いくら、つくば市があろうと利根川を境にして文化は途切れるのだ。
 そう確信していた。
 茨城の南端の取手市に親戚がいて、不幸のとき行ったことがある。不幸といっても九〇歳の大往生だった。だから世間話がほとんどで、日向が鉄道職員であることも手伝って話は交通のことになった。
「あー、そうですか。あそこにお勤めですか」
「ええ、まあ、一応」などという会話がつづいたのだ。
 喪主の男は日向と同年輩で、大手町に勤めていることを自慢していた。彼が自分とどういう親戚筋に当たるのかのははっきりしたところは知らなかったが、まるで時代錯誤な大手町神話に、やっぱり茨城の人間だなと思った。
 彼はこんなことも喋った。取手は営団地下鉄千代田線が直接乗り入れていて大手町まで何と四〇分で着いてしまうのだし、原宿までも一本で行けるのだ、と。だが日向は、心の中で「取手市はそれでも一都三県には入っていない。千葉の勝ちだ」と信念をもって腹で笑ったものだった。
 だいたい、千葉と茨城を一緒にして欲しくないのだ。
 かつて、千葉と茨城は東関東という名称でひと括りにされていた時代があった。たしか、甲子園の出場校も千葉と茨城の代表が最後に争って決定したのだった。それにしたって、茨城のレベルが低いから千葉が負けるなどということはなかったのだ。
 それが・・・。
 何だ最近の体たらくぶりは。
 取手二高だあ常総学院だあと、最近ちょっと強くなったからといって生意気をいうな。千葉には銚子がある、習志野がある、成東だって弱くはない。いまはちょっと充電しているだけなんだ。大体、優勝旗が利根川を渡るなんぞは百年早い。
 千葉には東京新国際空港がある。
 東京ディズニーランドだってある。
 東京までピーナッツ売りの行商が行ってたりもする。
 東京との縁は、長く深く濃いのだ。
 それにしても、東京芸術大学を、茨城の取手に取られたのは痛かった。
 この埋め合わせはちゃんとしてもらうからな。
 日向はライバルについての情報はしっかりと身に着けていた。
 そのうち浦安が東京都第二十四番目の区として吸収合併されるのは間違いのないところだ。なぜなら、東京ディズニーランドと固有名詞が冠されているではないか。成田だって新東京国際空港だ。準東京といっても誰も文句をいうやつなんかいるわけがない。
 埼玉にそんな所があるか?
 神奈川にそういう所があるのか?
 千葉にはあるんだよ。
 茨城なんかは東北に近いんだからな。
 あれは、福島の属国だ。
 そんな所にでかい顔をされてたまるか。
 まあ、取手市ぐらいは親戚のよしみで関東に入れてやっても構わない。だが、茨城の連中は学園都市や芸大がやってきたせいか、近頃つけあがっているようだ。だいたい、あれは東京の飛び地なんだ。茨城じゃないんだ。取手市民も東京都の飛び地になりたがっているようだという噂はつかんでいる。
 親戚からの手紙でも、住所に茨城という文字がなく、いきなり取手市なにになにとなっている。
 なし崩しに、既成事実を積み重ねようという魂胆らしいが、そうはさせないぞ。千葉と東京の場合は相思相愛、お互いの思いがラブコールを送っているのだ。茨城の一方的な片思いなどとは次元が違うものなのだ。しかし、もし、浦安が東京都に併合されても千葉を見捨てるような不道徳で人非人のような態度は絶対にとって欲しくない。
 その態度豹変が一番気になるところだった。
 なにせ、あの東京都多摩地区がかつては神奈川の一部だったなどということもひた隠しにされている。だいたい、だれも多摩地区などと呼んではいない。東京都下なんだ。都の下クラスなんだ。
 浦安よ、プライドをもて。しかし、裏切るな。日向はそう言いたかった。
 俺は、駅員たりといえどもれっきとした千葉県民だ。千葉県民のどこが恥ずる所があろうか、いいやない。
 日向純吉は自信と誇りと、そして、使命感に真っ赤にもえたぎっていた。
 その日向純吉の目に、またしても駅の外から風体卑しく不道徳と人非人を絵に書いたような男が入ってきて、ゴミを駅利用者が使うべきゴミ箱に突っ込んで立ち去って行こうとしている姿が飛び込んできた。
 日向は怒りは天誅のバーナーに着火して、正義感が燃え上がった。
 ゴミ問題が深刻化している最中に、なんたる不届きな行為だ。我がN駅でもゴミ問題は重要なテーマとして駅長から告示されていた。駅舎に設置するゴミ箱を半分に減らした上に、ホームのゴミ箱はわざとホームの両端に近いところに置くようにした。
 不便にすることで、客が持ち帰るようにしたのだ。
 効果は、意外とあった。
 野山は別として、駅の中やホームにゴミをそのまま捨てるというのは、公衆道徳上なかなかできないことらしい。
 さらに、生ゴミなどを無神経にも遺棄する輩を摘発せよとの命令が下されていたのだ。恰好の獲物を見つけと日向は思った。
 説教をするのにちょうど都合のいいやつに見えたのだ。いまどき髪を長くしてジーンズで、よれよれのマウンテンパーカーを着ている男など、ロクな人間ではないはずだ。モラルというものについて、口幅ったいようだが忠告する必要があると確信した。
 男が去ろうとして背を向けたタイミングをとらえて、ドスの聞いた声帯を震わせた。
「お客さん! 困るんですよ、そういうことされると。
 ここで、一息入れると次のセリフが効いてくる。
「他所からもってきたゴミは駅に捨てないでくれます」
 言葉遣いは出来るだけまっとうに、表面上は失礼のないように喋った。これが、あとで問題を回避する手段であり、効果もあるのだ。声質の迫力には磨きをかけて、この一言にかけてきた一年の成果が、自分でも惚れ惚れするくらい効いていた、と満足だった。

    4

 俺は自分に向けられた言葉だとは初めのうち理解できていなかった。
 振り向いて、その声の発生源の方を見ると、
鬼瓦のような顔立ちで、胸を堂々と張って俺を見つめている改札の駅員と目が合った。
 半開きになった辛気臭い目が、俺を見て笑っているように思えた。しかも、丁寧な物言いの裏に、威圧的な見え隠れしていた。
「ゴミ・・・捨てちゃいけないんですか?」俺は素直に尋ねた。
「だってそれはお客さんが他所からもってきたゴミでっしょう。私たちはね、ゴミでは困ってるんですよ。この駅で発生したゴミ以外は捨てないで欲しいんです」
 まるでこの駅のゴミの番人のような言い方だった。
 駅で発生したゴミとは何を意味するのか。俺は、そのことについて疑問をもったのでどこでどのように生じたゴミなのか説明しようとした。
「だって、これは・・・駅前のあの店で買った弁当の空とウーロン茶の空缶だよ。それも捨てちゃいけないんですか?」
 一瞬ためらったような目になって視線が天井を彷徨わせたが、頭を整理するように駅員が口を開いた。
「だからぁそれはぁ、この駅で発生したゴミじゃないでしょう。お客さんが他所から持ち込んだゴミでしょ。だからぁ、駅のゴミ箱に捨ててもらっちゃ困るんですょ」
 駅で発生した以外のゴミという定義に当て嵌まるゴミには、駅前の店の弁当の入っていた容器やウーロン茶の空缶も入るらしい。さて、なんと反駁しようか。そのとき俺はフィルムの空箱も一緒に袋に入れたことを思い出した。
「あのお・・・そこを出たところにあるキオスクで買ったフィルムが入っていた空箱もはいってるんですけど、それも捨てちゃ駄目なんですか? そのキオスクは駅舎内に入るんですか? 入らないんですか?」
 駅員の表情が少し強張った。
 右手の駅員室に少し眼をやり、頷くようにしていた。中で上司がなにかアドバイスでもしたのだろうか。それまで俺にまともに向けていた視線を、フェイントをかけるように外した。地面や壁や、中空を漂わせるようになったのだ。そして、少し照れたような声でこういった。
「お客さん、もっと近くへ来て話してください」
「は?」
 俺はなんのことか分からず、当惑した。
 駅員は首を左右に振って周囲を見回すとこう小さな声でいった。
「他のお客さんに迷惑だから。大きな声で話さないで、近くで話してくださいよ」
 駅員と俺を挟んだ空間の両端に、他の客が一〇数人、扇形に広がって俺たちを見ていた。俺はそのことにまったく気づいていなかった。俺はそのとき初めて駅舎の度真ん中のゴミ箱の横に立っていて、改札にいる駅員とは五メートル程離れて喋っていたことに気がついた。でも、別に恥ずかしいとかみっともないとか感じてはいなかった。だから、こういった。
「大きな声で話ちゃまずいことでもあるんですか。そんなことより、さっきの質問に応えてくださいよ。キオスクは駅舎内なんですか、それとも違うんですか?」
 俺は、いままでの位置を変えずに、声もそのままに話しつづけた。
「・・・駅舎内ですよ、キオスクは・・・」
 幾分気後れし、しぶしぶといった小さな声でとりあえず認めた。
「じゃあ、いま捨てたゴミを分別して捨てればいいわけですね、キオスクのゴミとそれ以外のゴミとを。そうですね」
 と俺が言ったにもかかわらず、駅員はトンチンカンなことをまたいい出した。
「お客さんが捨てたのは、他所からもってきたゴミじゃないですか」
「だからいってるじゃないか。キオスクのゴミも入ってるって」
「こっちはゴミの問題で困ってるんですから」
「俺もいまゴミの問題で困っているんだ」
「・・・良心の問題ですよ」
「・・・良心」

    5

 良心なんていう言葉を使うつもりはなかった。しかし、思いがけない反撃にどう始末をつけていいのか日向純吉は戸惑ってしまっていた。
 いままで、ほとんど全部の客が「他所のゴミを捨てるな」と諫めれば、ゴミを捨てたまま悪態をついて去ってしまうか、それともしぶしぶ持ち帰るかのどちらかで、反撃に出てくるパターンというのは初めてのケースだった。
 明らかにこの辺りの人物ではない。よそ者だった。多分、ドライバーがゴミの捨て場に困って駅に捨てにきた、という風に見えたのだ。だから、それが駅前の弁当だとは知らなかったし、駅前の自動販売機の空缶だとも知らなかった。ましてやキオスクのゴミも一緒に捨ててあるなどと反論されるとは思いも寄らなかった。
 日向純吉は、動揺していた。
 どうしようかと右手の、改札横の事務室のほうをチラリと横目で見た。助役の飯田健三が右手をヒラヒラさせて早く収めろという合図を送ってきていた。老眼がきつくてレンズ一杯に広がった飯田の眼は、明らかに軽蔑のまなざしだった。悪い奴に引っかかりやがって。始末は自分がつけろよ。俺は知らないよ、そう語っていた。
 しかし、ゴミ問題は全社を挙げて取り組むべき問題である、駅長の代わりに朝礼でいったのは飯田だった。
「ゴミ処理にはコストがかかるのです。それを一鉄道会社に押しつけられても困るのであります。しかして、ゴミ箱の数や設置場所もさることながら、お客さんのマナー向上と、ゴミを出さないクリーンな生活スタイルを奨励し、啓蒙するためにも、駅以外からのゴミ持ち込みを極力排除する方針で望みたいので、みなさん、ひと言注意をお客さんによろしくお願いいたします」
 そう、歯槽膿漏臭い息を狭い駅員室で宣もうたのは、あの飯田だった。
 それが、何だ、責任回避じゃあないか。卑劣な。敵前逃亡に等しい行為だ。仲間を見捨てるというのか。あのやろー。
 日向の怒りは上司に向かっても火炎放射機のように燃え盛った。その時・・・
「良心だって?」
 突然、男の刺々しい言葉が耳に突き刺さった。
「そういう曖昧な言い方で誤魔化そうっていうの? それって卑怯じゃないの」
 男は語気を弱めようとはしなかった。
「俺はね、外のキオスクの横のベンチで、駅前で買った弁当とウーロン茶を飲んで、そのゴミをここのゴミ箱に捨てたんだよ。それがどうして良心の問題になっちゃうんだい」
 それが事実なら、勇み足は免れない。しかし、駅には知り合いの顔もある。ここで負けては顔が立たない。何とかこちらが謝らなくてもいいようなカタチで話を収めなくてはならない。話をそらそう。日向純吉は、男の問いには答えずに別の話題にもっていこうとした。
「何べんも言いますけど、私たちもゴミでは非常に困っているんですよ。他所のゴミを駅に捨てられても困るんですよ。だから、駅舎内で発生したゴミ以外のゴミを捨てられても困るわけ。それは、良心の問題でしょ」
 自分でもすごくムリがあるなと思った。
 夏で、観光客が勝手にゴミをバシバシ駅に捨てにきている時期なら通用するだろう。最近増え出した、東京へ通勤するOLとかが朝に家庭の生ゴミを捨てに来ているなら自分がいま喋っている理屈は通じるけれど、いまは季節外れの冬で観光客はいない。時間も昼過ぎだ。しかし、一旦はじまってしまったこの言い争いに負ける訳にはいかない。
 男が、ちょっと居直ったような表情をした。
「鉄道がゴミで困ってる・・・ああ、そりゃ分からないではないですよ。でもね、自分のところで困っているから他所へもっていけっていうのは、責任逃れじゃないの。他で受入れ態勢が整っていりゃあいいけど、それがないのに駅に捨てちゃダメだっていうのは、ゴミ問題のタライ回しじゃないか。駅の周囲にはこの町や県とかの地方自治体というか行政機関が設置したようなゴミ箱なんか、なかったよ」 日向は無視することに決めた。行政の問題などで矢鱈なことをいうのは得策ではないと思ったからだ。
「いまどきどんな公園にだってゴミ箱の一つや二つあるでしょう。そういう公共のモラルを向上させるような付帯施設、つまりこれゴミ箱のことだけどね、そういうの設置しておかないで、じゃあどこへ捨てろっていうんですか?」
 日向は答えになっていないことは十分に承知していながら、こう答えた。
「だからそれは、お客さんの良心の問題ですよ。基本的には、自分で出したゴミはもちかえる、と」
 男が顔をしかめた。話のスレ違いでイライラしはじめた様子だ。もう、これ以上苛めないで欲しい、日向はそう願っていた。
「しつこいようだけどね、何度も繰り返すようだけど、もういっぺんいうよ。俺はたまたまこの町に旅にきて降りて、たまたま昼時だから駅の周囲で弁当を買って、キオスク横のベンチで食べて、そばにゴミ箱がなかったから駅舎の中へ入ってこのゴミ箱へ捨てたんだよ。それがいけないっていうことですよね、あなたがいっているのは」
 日向は無視した。一般論と良心で話を進めることにした。窮余の策だが、これなら矛先がかわせるかもしれない。そう思ったのだ。
「ですから、それは良心の問題です」
 ずっと良心でいこう。
「ここは、曲がりなりにも、夏場は海水浴場になって客がくるわけじゃない」男が口を尖らせてぐだぐだと話をしている。「それなのに、環境問題にタッチせずに、やって来る観光客に責任を押しつけるわけだ。観光客が落とすのは金だけにしてくれ。ゴミは落とすな。そういう町なんだ。そういう県なんだ、千葉は」
 嫌味を込めたような口振りだ。しかも、千葉を莫迦にした。
 この男はいま、千葉を愚弄した。
 日向の怒りが、脳内毛細血管をブチブチと切りまくって脳内出血症状を起こしていた。わなわなと震えるカラダを「家庭、月給、社会奉仕、いま前にいるのはマネキン人形、あと一時間したらもうこんな奴はいなくなーる」と目をつむって呪文を唱えて切り抜けることにした。
 動揺を理性で何とか穏便に制御することが、これからの長い老後生活を支えるキーポイントだということがしっかりと分かっていたので、下唇の肉片を少し食い千切るだけで収めることができた。
 目を開けると男も下唇を噛み締めていた。何か考えがあるようだった。
「あのさ、キオスクの横のベンチはどこが管理してるの?」
「管理って?」
「だから、所属っていうか、どこのもちものなのかってことだよ」
 これには、良心では応えられない。しぶしぶ事実を認めるしかなかった。
「一応・・・この駅だ」
 男がにんまりとした笑みを浮かべた。
「あんたさ、駅舎内で発生したゴミならいいような言い方したよね。俺はそのキオスクの横のベンチで、駅前で買った弁当とウーロン茶を飲んだんです。キオスクが駅舎内に入るのなら、その横のベンチも駅舎内に入るわけだ」
 日向は、まずい展開だなと顔をしかめた。「すると、そこで食べた結果生じたゴミは、駅舎内で生じたといって間違いはないですよね」
 いいや、違う。日向は考え方に一線を設けていた。
「お客さん。お客さんが食べたものは余所からもってきたものでしょ。それは駅で発生したゴミにはなりませんよ。発生したのは、買った場所」
 日向は少し勝ち誇ったような気分になっていた。
 さあどうだ。
 答えてみろ。
 早く喋れ、このヤロー。
 何とかいってみろ。
 ん、来るか?
 男が、口を開いた。
「ということは、そのキオスクで買ったものしかこのゴミ箱に捨ててはいけないということなんだ。そうでしょ」
「お客さんの良心の問題ということですね」 平然と応えた。
 すると男が妙なことをいった。
「じゃあ、どうして灰皿があるの」
 灰皿? この男どういうつもりなんだ。何をいおうとしているんだ?

    6

 窓口の奥で助役の飯田健三が身を殺すようにして様子を見守っていた。些細なことが厄介なことになってきてしまっていた。しかし、日向が蒔いた種だ。俺の知ったことではないと、知らんふりを決め込んだ。
 だいたい、ゴミ削減は鉄道会社の幹部からのお達しで、駅長はそれを律義に真に受けて、自分はただ日向につたえただけだ。日向の尻拭いなどまっぴら御免だった。それにしても、最近の若いやつときたら口が減らない連中ばっかりだと内心忸怩たるものがあった。
いま日向と一戦やりあっているやつも、見るからに生意気そうな、屁理屈をネチネチとこね繰り回しそうな顔をしているな、と思った。そういう所は、自分の息子の光次そっくりだった。
 この春から大学に入ろうという光次の屁理屈にはとてもついていけないものがあったからだ。
昨晩だってそうだ。
「おめえ、なんで下宿なんかする必要があんだ」
「だって学校まで三時間だど、三時間。キャンパスライフがエンジョイできねえよ」
「なーにがキャンパスライフだ。もっと勉強してたら千葉大さでもへえったろうに。わざわざ東京抜けて八王子の聞いたこどもねえ大学さ行ぐぐれえなら、習志野あたりの学校さへえればいがったんだ」
「余計なお世話だよ。頭のよくないのはDNAのせいですからね」
「でぃーえぬえーだぁ」
「遺伝子だよ。学校で習わなかったのか」
「遺伝・・・なんだこの野郎、自分のバカタレを遺伝のせいにすんだねえよ」
「カエルの子はカエルってね」
「んだら父ちゃんみてえに高校だけで我慢すりゃいがったんだ」
「いまどき大学に行かせないなんて、そりゃあ差別だぜ。人並みっていうじゃないか」
「おめえなんか人並み以下だよ」
「そういうアンタは人並み以下の親ってことになるわけだ」
「トンビがトンビを生んだだけだよ」
「駅長になれないのは大学出てないからだって愚痴こぼしてたのはだれなんだよ」
「うっせー、このガキ!」
 殴ろうとしたら逆に羽交締めにされてしまった。すでに腕力ではかなわないとは悟っていたが、実際にやりあって負けてしまうと、それまでの元気は悄然と萎えてしまった。
「勝手にしろ!」
 そういったら、光次は黙って二階へ上がっていってしまった。家長としての自分の存在はいったい何なんだ? そんな自問自答をしている最中の昼間の一件。口ばかり達者な若造を殴り倒してやりたい思いを、グッと堪えたのだった。

    7

 俺は、駅員が「駅で捨ててもいいのは、駅舎内で発生したゴミ」という風に定義していると理解したので、その点を追究することにしたのだ。
「吸い殻のほとんどは、そのキオスクで売られたものじゃないんじゃないですか? 他所で買ってここで吸ってるものなんじゃないの。もし駅で発生したゴミを、キオスクで買ったものだけに制限するのなら、煙草の吸い殻は捨てちゃいけないことになるでしょう」
 少し駅員の顔が強張って、口元がヒクヒクといいはじめた。
 話の展開が困った方にいっちまったな、何て言い訳しようか、という表情だった。
「たっ、たっ、煙草は・・・ほっといたらゴミだらけになっちゃいますから、灰皿は設置しておかないと・・・し、仕方ないですよ、そりゃ・・・」 歯切れが悪かった。
「それってヘンじゃない。さっきあなたいったじゃない。駅で発生したゴミ以外は捨てちゃいけないって」
「煙草は駅で吸うことが発生になるんです」
「じゃあ弁当だって駅で食べることが発生になるんだろ」
「でもそれはお客さんが他所から持ち込んだもんだから・・・」
「だから煙草だって他所から持ち込んだもんだろうが」
 少し喧嘩腰だ。
「ゴミ箱と灰皿は、別物です。灰皿はゴミ箱ではありません。問題は別です」
 ムリやりのように、駅員がいった。その唇がぷるぷると波打って見えた。

    8

 自分でいっておきながらひどい理屈になってきたものだと日向純吉は思った。背筋がゾゾゾゾゾッとなって、冷や汗がタラリと頬から首筋に流れ、腹部を経て下半身に流れ込むのが分かった。パンツがグジュグジュになりそうな話だった。
 ピーナツ売りのオカク婆さんも、同じ町内の百姓の源さんも、下校中の中学生も、そして、キオスクの佐々木さんもこのやり取りをさてどうなることかと見つめていた。
 その視線がすべて自分に向けられていることに、いまさらながら恐怖を抱いた。
 男が目を陰気に細めて日向のほうに向かって喋りはじめた。
「すごい理屈だね。吸い殻はゴミじゃないと。わかったよ。じゃあさ、このゴミ箱の中身を全部チェックしようか」
 男が横にあるゴミ箱を指差した。
「でさ、この駅で発生したものでないものを分別して、捨てた人に帰してよ。あんたの良心の問題だよって。え、そうでもしてもらわないと、どうして俺が注意を受けて、他の人が注意を受けないのか、その差が分からないからね」
「そ、そんなことはムリに決まってるじゃないですか。私はね、あなたに注意したんだ。他の人に注意したんじゃない。もちろん、他の人が他所からゴミをもってくればいまと同じように注意してますよ。あなたみたいに理屈なんてこねませんよ」
 嘘だった。
 全部に注意するなんていうことができる筈がなかった。
 この男に注意したのは、いかにも他所者が、駅をゴミ箱代わりに使っている、と見えたからだった。軽い気持ちだったのだ。
 だが、いま気分は非常に重かった。
 さて、どう今度は反論してくるか。少し心配しながら見ていると、男はゴミ箱から自分のゴミを取り出すと、日向のほうを向いて、ニカッと笑みを浮かべて、いった。
「じゃ、分別してくるから。日本語が通じないような人と話しても時間のムダだあ」

    9

 俺は、ビニール袋をゴミ箱から引っ張り出すと、それをもって駅前の自動販売機の前にいった。
 袋の結び目をほどいて、中からウーロン茶の空缶を出して、空缶入れを探したが、なかった。その代わり、パンを入れる底の浅い木箱があってその上に空缶が堆く積まれていたので、その上に、空缶の山が崩れないようにして置いた。
 それから、もう一度ビニール袋をもう一度結わえると、寿司の弁当屋の窓の前に立った。客が一人いて、窓から覗き込むようにして寿司の品定めをしていた。その男はニッカボッカをはいた労働者のようだった。
「ああ、いいよにいちゃん。先で」
 俺にそう言うとニカッと笑った。その前歯が二本ほど欠けて、ブラックホールのような漆黒の闇が覗いていた。
 俺は眼の高さにゴミの入った袋を上げてこう言った。
「駅のゴミ箱に棄てたらね、駅員に、駅で発生したゴミ以外は捨てちゃだめだっていわれたんですよね。これは、駅以外の他所から持ち込んだゴミだから、捨てるなって。良心の問題なんだって」
 寿司弁当屋のおかみさんは、まず目を真ん丸に見開いて、それから眉を八の字にしてしかめ面をつくった。
「えっ。そんなこといわれたの。いいよ。ちゃんと引き取ってやっから。だれだぁ、そんなこというの」
 そういうと、俺の手からゴミ袋を取り上げるとサッと中に引っ込めた。
 ニッカボッカ男も、エエッ? の顔をして、
俺の方を見て
「駅員が? そったこどいったが?」と驚きのまなざしを向けてきた。
「うん。そう」
 俺は、そう応えた。
「純吉だな、そりゃ」
「日向の堅物かい」
「ああ。多分な。それしかおめえ、思いつかねえよ」

    10

 日向純吉は、やっとのことでしつこい奴から解放されたと、ほっとして胸をなでおろしていた。
 電車がそろそろやって来る時間だった。
 この路線は夏場の一時はそれなりの盛り上がりを見せる。しかし、シーズンを過ぎればただの田舎電車に舞い戻ってしまう。
 朝と夕方のラッシュアワーでは車両も六両ほどあって、乗車率も五〇パーセントを超えるが、サラリーマンは数えるほどで、もっぱら小便臭い中学生とポマードの臭いの派手な高校生がほとんどだ。救いは、十七、八の女子校生なのだが、まあ、一〇人並みと呼べる顔立ちなのは一〇人にひとり程度。あとは、神の忖度から逸脱したとしか思えないような集団で、掃き溜めにゴミといった表現が適切だと思っていた。
 余録なんか、ほとんどない。しかも、日中になると電車は一時間に一本くるかこないか。それも四両に削られ、乗客は数えるほど。平均年齢は年金支給年齢をはるかに超えてしまう。
「あんた、この町の保育係りと老人ホームの監督だね」
 という女房に嫌味をいわれても、そこは男 日向純吉。
「だれに恥じる職場でもねえぞ!」
 と、口の端からカニのように泡を吹き上げて反論するのが常だった。
 そろそろ列車が見えそうかな、と首をひねってホームに顔を出したときのことだ。
 ポンと肩を叩かれた。
 日向は確実に一〇センチは床から垂直に飛び上がった。なぜって、さっきの男が舞い戻ってきて背後から凶器攻撃でもしたのかと咄嗟に連想したからだ。
 怒りで脳出血した後は心臓発作かと、冷や汗がドッと全身にあふれ出た。
 恐る恐る振り返ると、ヨッちゃんがいた。ヨッちゃんとは幼馴染みである。
 ヨッちゃんは昔から不良仲間とつきあっていたせいで、ろくな仕事をしていない。まともな職場にも勤められず、四〇過ぎてもまだ日雇いのままだ。いまは、東京でビル建設や飛行場の埋め立てに使われる土砂掘削現場で働いている。
 しかし、先祖伝来の山を業者に売り渡すなんて、千葉県民として恥ずかしいの一語につきる。買い占めている人間はいざ知らず、売っている連中には知り合いや遠い親戚もいるから口に出してはいわないものの、ご先祖さまに申し訳が立たない行ないだ。
 ただの土砂が金になるからといって、昔からの山林を丸裸にして、あまつさえ掘り下げている。目先の金につられて、なんていうやつらだ。
 そう思っていた。
 ヨッちゃんちには土地がなかった。だから、現場で働かなくちゃならないんだけれど、そのお先棒を担いでいることに代わりはなかった。
 いいたいことは、あった。
 でも、喧嘩になるとかなわないから、なにもいわなかった。
 日向はルールに厳しかった。だから、ヨッちゃんみたいな生徒が嫌いだった。いまでも嫌いだ。でも、地元にいる限りつき合わなくてはならない。それが辛かった。なにしろ、「切符をくれ」などと、平気でいうのだ。つき合ってなんからんないよ、っていうのが本音だった。
 昔から日向はキマリが好きだった。校則だって守るためにあるものだ、と確信していた。先生に褒められるのも嬉しかった。にも関わらず、生徒会長に立候補しても必ず最低の得票しか得られない。自分ぐらい生徒会長やクラス委員にピッタリの人物はいないのに、どうしてだろう。それがいまでも納得できない不思議なことだったし、悔しい想い出になっていた。
 それにしても、やなやつが連続してやってくるもんだ、と日向は顔をしかめてヨッちゃんを見た。ヨッちゃんはいつもの紫色のニッカボッカを穿いている。いつもなら「大将、やってっか」と、前歯の抜けた間抜け面で、聞いてくるのだが、なんとなく今日は浮かぬ顔をしている。
「どうしたんだヨッちゃん。風邪でもひいたかや」
「なあ、純ちゃんよ。あんまり張り切ってもなんだど。なにかオッカとよくねえことでもあったのがよ」
 深刻そうなどんぐり眼で日向を下から覗き込んだ。
「なにもねえよ。ちゃんとやってっと」
「やってっか。やってんのか。やってんのはいいことだ。だけんどもな、オッカのせいだなくともな・・・」
 ヨッちゃんは説教を垂れるような口振りだ。
「・・・おめえ、評判よくねえど」
「なんの?」
「わがんねが?」
 なんの評判のことなのか、日向にはまったく見当がつかなかった。悪い評判に心当たりはない。むしろ、成東市の交通と安全を守る名誉市民として表彰してくれてもいいくらいだ、そう思っていた。その自分の、どこが評判が悪いのだ。
「若いのが、弁当のガラ、返しに来てたど」
「若いの?」
「どっからきたのが知んねけんどよ。美浜さ来てたど」
 さっきの男が弁当屋の美浜へゴミを返しに行ったというのだ。
 血の気が一気に失せた。
 あそこの女将のハナちゃんは女房の同級生で、昔は族をしていたという鉄火肌の姐御だ。ハナちゃんが一声だせばいまでも二〇〇人は銃刀法不法所持覚悟で一時間以内には集まってくるといわれている。
 まずい状況だ。日向は眩暈がして、地面が揺れているような錯覚を感じた。

    11

 俺は、残った最後のゴミであるフィルムが入っていた紙のパッケージを手に駅舎に入っった。すると、改札の前で弁当屋で俺に声をかけたニッカボッカのおっさんが駅員と話しているのが目に入った。
 ニッカボッカがなにか喋ると、駅員は眉を八の字にしたり首を捻ったりしていたが、突然目を白黒差せると天井を見上げた。その顔面は、ケント紙のように真っ白だった。
 その駅員に聞こえるように声をかけた。
「これ、フィルムのパッケージ」
 目の前にゴミをかざして、駅員に見せつける。
「これは、そのキオスクで購入したものですからね。この駅で発生したゴミだよ。だから、ここに捨ててもいいんだよね」
 俺は皮肉っぽく口元を緩めてヘラヘラ笑いを浮かべながら、バカな立候補者が自分の名前を書き込んだ投票用紙を投票箱に差し込むのをテレビに向けて見せるように、ゆっくりとした動作でフィルムのパッケージをゴミ箱に押し込んだ。
「お仕事、ご苦労さん」
 余計なことまで喋ってしまった。
 もう実家に告げた時間も迫ってきている。俺は駅舎を出ると、それまでのできごとを呆然と駅の外のベンチから見守っていた妻と、なにも知らずにケラケラ笑っている娘とを促して、たった一台いるタクシーの方へ向かった。融通の利かない馬鹿な駅員にながながとつき合っているわけにはいかない。
 俺の横を小走りに改札まで走っていく白い姿があった。白い割烹着、白いネッカチーフ。眉を吊り上げて、狂犬病にかかったみたいに前しか見ていない。弁当屋のオバサンだった。行く手を見ると、ニッカボッカの背後にピタリと止まった。
 駅員は被告席にでもいるようにうなだれているのが遠目に見えた。
 なにが起ころうと俺の知ったこっちゃない。
 俺たちはタクシーに乗り込むと、母の実家の知名を告げた。鄙びた木造の駅舎が、次第に遠ざかっていくのが揺れながらバックミラーに映っていた。タクシーは徐々に加速をつけて、虹のアーケードを潜り抜けて行った。

    12

 背の低いヨッちゃんの後ろにハナちゃんの顔が突然現れたので、日向純吉は心臓が凍りついたような衝撃を受けた。
 引っつめ髪を白いネッカチーフで覆っているその下の顔は、ちゃんと眉毛もあって族のそれではなかったけれども、トロンと半開きに垂れ下がった瞼は、かなり威嚇的だった。「あんたちょっとお」
 ドスの効いた声は、小水を漏らせる程の迫力すらあった。
「商売の邪魔してくれるじゃないよ」
 日向は困惑の極みに陥って、声がうわずっいしまっている。
「あ、あ、あ、いや、その、だって、ゴ、ゴ、ゴミは、こ、こ、困るから・・・」
「あたしだって困るわよ。え、このゴミ、どうしてくれんのよ」
 ハナちゃんが、男が持って来たという弁当のカラ箱が入ったビニール袋を日向の鼻先に突き出した。
「引き取ってもらえる」
「あ、いや、その・・・」
「もらえないの」
 これを引き取ってしまっては、いままで相手にしていた男に喋っていたことと矛盾してしまう。駅舎内には、どうしてこんな時間にいるのか定かではない高校生やら在所の婆さんやら、知り合いがまだたむろって成り行きを凝視しているのだ。
「ハ、ハナちゃん。分かってよ、俺の立場・・・」
 小声で日向がいう。
「誰に向かって分かれってんだぁよぉ」
 ハナちゃんの声は駅舎に響き渡った。
「わ、分かった分かった分かったから声を小さくしてくれよ、みんな見てるじゃないか」 蚊の鳴くような声で日向が拝むようにいう。「見られてまずいようなことがあんのかよ、えぇつ」
「そ、そんなことはないけど、次の電車がもうすぐ来るし」
「知ったこっちゃねえよ、そんなこた!」
 ハナちゃんが、日向を突き上げるように覗き込む。鼻と鼻が接触しそうだった。ハナちゃんの唾が、日向の顔一杯に飛び散った。
「このゴミ、受け取んのか取んねえのか、どっち!」
 ゴクリと生唾を呑み込むと、日向は頭をカクッと垂れ、ゆっくりと両手を差し出した。「わ、わ、わ、分かった。受け取る。受け取るよ。受け取りゃいいんだろ。受け取りゃぁ・・・」
消え入るような声だ。
 ハナちゃんはゴミの入った袋をラグビーでトライするときのように、日向の掌に叩きつけた。
「二度とこんな厄介起こすなよな」
 タンカを切ると、ハナちゃんは踵を返して駅舎から出ていった。
「迫力だねえ」ヨッちゃんが惚れ惚れしたように見送っている。「引退させるのは惜しかったなあ」
 冗談じゃない。自分にとっては、全然引退してることになりゃあしない。日向は泣き顔になって、その大きな体躯を、洗濯機で洗ったセーターのように縮ませた。

    13

 ヨッちゃんは昔を懐かしがっていた。
 ハナちゃんと一緒にバイクに跨がっていた十五年前のいい時代を郷愁を込めて思い出していた。思い出せば出すほど懐かしくて、涙腺がドッと拡張して涙がじわあっと滲み出てきた。怒りながら肘を左右に振って出て行く後ろ姿の、まだまだ捨てたもんじゃない突き出た尻の感触を懐かしがっていた。
 ヨッちゃんは背が低くて五〇ccのバイクしか自由に操れなかった。
 だから、みんなとつるんで走るときは、いつもハナちゃんのスズキの後ろに乗っけてもらっていた。
 幸せだった。
 ツナギの数ミリ下には、ハナちゃんのピチピチした裸がある。腕にはハナちゃんのふくよかなオッパイの比重がかかっていた。ほっぺたからは、ハナちゃんの背中の温もりがつたわってきていた。
 死んでもいい。何度そう思ったか知れない。
 ときには腕を組み直すふりをして、胸の感触を楽しんでしまうことともあったけど、ハナちゃんは女にモテないヨッちゃんのことを大目に見てくれていた。
 そんな姐御のハナちゃんが、ヨッちゃんは大好きだった。
 だから二〇を過ぎて、ハナちゃんが足を洗って堅気になってからも陰ながら応援してきた。ガソリンスタンドで働いていたときは、仲間に絶対にハナちゃんの店以外でガスをいれちゃあいけないと諭し、スーパーのレジを打っていたときも仲間にその店以外での買い物をご法度にした。いまの旦那と一緒になったときは盛大な結婚披露パーティを開く手つだいをしたし、子供が生まれるときもずっと病院につきっきりだった。
 ある意味じゃあ旦那よりもハナちゃんを思い、支えてきたといってもいいかも知れない。 寿司の店を開くときは、俺はこの店以外で弁当は買わない、と心に決めた。
 仲間にも徹底させたかったけど、もう、昔のようにはいかなくなってきていた。
 伝説のハナちゃん。
 いまではそう呼ばれている。
 一声かければ二〇〇人は固い。
 そういうキャッチフレーズを考えたのもヨッちゃんだった。
 いつまでも昔のハナちゃんでいて欲しかったからだ。
 でも、もうそんな威光は本当のところはない。だから、一声で二〇〇人のイメージだけは徹底していいつづけてきたのだ。それが、あのハナちゃんと昔とを結ぶ唯一の糸だからだ。
 立ち去っていくハナちゃんの後ろ姿を見ながら、ヨッちゃんは「また惚れ直しちまったぜ」と呟いた。

    14

「純ちゃんよ。人にはな、やっちゃいけねえことっちゅうのも、あんだど」
 日向にはヨッちゃんのかけてくれた言葉が耳に入らなかった。
 自分がこの駅舎の中で築いてきた規則が、ガラガラと音を立てて崩壊したのだ。だれも見ていないところで、ハナちゃんだけが規則破りをするのを黙認するなら、話は別だ。だが、今日の場合はまったく違う。
 みんなの前で、恥さらしにされてしまったのだ。
 それというのもあのどこの馬の骨かわからない若い男のせいだ。すべてあいつが悪い。あいつのせいだ。絞め殺してやりたいと思った。
 上り電車の音が近づいてきた。乗車する人々が改札に寄ってくる。その一人ひとりが好奇の眼差し、不気味な笑み、軽蔑の視線、ニヤニヤ笑い、嘲笑を送ってきている。
 なんだなんだなんだなんだ、そんなに人の不幸が楽しいか、嬉しいか、面白いか。
 ああ。俺は今日は赤っ恥じをかいたよ。どんどんそういう目で見たらいいさ。こうなりゃあなにも怖いものなんてありゃあしない。なんといわれたってへっちゃらだ。
 客の切符をひったくるようにして、日向はパンチを入れた。
 パチン! パチン! パチン! パチン!
 一挟み一挟み、あの男の指先や鼻や耳や目や舌やペニスや睾丸を思い浮かべながら千切っていった。
 このやろうこのやろう・・・。
 いつもより力を込めて、忙しなくパンチをカッチャン、カチャカチャ、カッチャンカチャカチャ・・・と鳴らした。カッチャン、カチャカチャ、カッチャンカチャカチャ・・・カッチャン、カチャカチャ、カッチャンカチャカチャ・・・カッチャン、カチャカチャ、カッチャンカチャカチャ・・・カッチャン、カチャカチャ、カッチャンカチャカチャ・・・
「もう乗るやつゃいねえよ」
 ヨッちゃんの声で、我に返った。
「もうみんなホームに行っちまったよ」
 日向は心を落ち着かせるために、大きく溜め息をついた。

    15

 久し振りに婆さんと会って、俺はホッとしていた。まだまだ、元気そのもので全然ボケてなんかいやしない。母の兄も七〇を超えて矍鑠としているのにはびっくりさせられた。妻は初めて会う曾お祖母ちゃんに感動のようすで、娘もわけが分からないまま縫いぐるみの人形など貰ったりしてご機嫌だった。
 俺が親戚の家の訪問を終え、再びN駅前に立ったのは午後六時のことだった。
 ちょっと気にはなった。果たしてまだあの駅員が改札業務をしているのだろうか。しているとしたら、俺に気がつくだろうか。気がついたらどんな態度を取るのだろうか。俺はどんな反応をしたらよいのだろうか。
 いやきっとあれぐらいのことで四の五の根に思ってたりはしないよ。気にするだけもったいない。もっと気楽になにもなかったように入っていけばいいんだ。もうさっきのことなんて誰も覚えていやしないさ。
 あらかじめ帰りの電車の時間は実家で調べてから無線タクシーを呼んだので、東京行きの特急が着く時間まで十五分ほどあった。
 とりあえず駅舎に入って、見上げるような高い所に掲げられている路線図を見て、東京までの乗車賃と上り電車の時刻を確認した。それから、フッと引き寄せられるように首を回して改札を、見た。
 いた。
 確か、あの顔だ。
 確か・・・というぐらいしか記憶がない。
 俺も少し興奮し過ぎていたのかも知れない。
確かにあの男か、と問われると自信がないぐらいの記憶である。
 なにかの事件で目撃者となったら、きっとおそまつな証言しかできそうにないぐらい記憶があやふやだった。
 なんだ、これなら向こうだって俺を覚えていないかも知れないぞ。
 気を揉むだけもったいなかったな。
 俺は窓口に行って乗車券を買い、馬鹿な駅員にパンチを入れてもらって東京行きの特急に乗り込んだ。東京駅には、一時間余りで着くはずだった。

    16

 俺たちは東京駅で山手線に乗り換え、新宿に出た。西口のざわついた繁華街で少し遅めの夕食をとり、再び新宿から西方面へ向かう電車に乗って吉祥寺で降りた。俺の借りているマンションは、ここから歩いて十五分。脚力のためにはもってこいの距離である。
 アーケードのある商店街を抜け、北へと娘の歩くスピードに合わせて歩いていった。
「ぴょんて、ぴょんて」
 娘が俺に両手を差し延べて哀願する。
 道路の両側に、少しでも高低差がある場所を見つけると、そこに乗せろとせがむのだ。もちろん、自分一人では「ぴょん」と飛び下りられない。俺が両手か片手かをもってやって、それで「ぴょん」と飛び下りる。
 たかだか二〇センチほどの段差でも喜んで乗っては飛び下りる。飛び下りれば、つぎの段差を見つけるために先へと進む。それがないと、すぐ「抱っこぉ・・・」と眉を八の字にしてカラダをくねくねとねじ曲げはじめる。
 もう一〇キロ以上ある娘を抱いて歩くのは、なかなか堪えるのだ。自分で歩いてもらうに越したことはない。だから、段差に引っかかりながら、ヨタヨタと娘のスピードで家路を楽しんでいた。
 商店街が過ぎて鬱蒼とした杜がさわさわと泣き出しはじめそうな神社の前に出た。娘が「オッバッケー・・・」と、ちょっと怖しげに声を震わせた。
 生き物が死ぬだとか、霊があるとかないとか、祟りやらなにやら知らないはずなのに、「オバケ」という単語と、恐怖心を示すのが不思議で仕方がない。人間の遺伝子に刻まれた太古からの歴史がそうさせるのか。
 ここら辺は、犬の糞が多い場所だ。俺は下を注意深く見ながら歩いた。神社や公園があるせいで、よく散歩させているのだ。
「やっぱりねえ、犬だって地面の上をあるかなくちゃねえ」
 などといいながらビーグル犬を両手に二匹ずつ連れている夫婦連れと出会ったことがある。そんなに地面の上を歩かせたかったら田舎に行け。東京なんかで犬を飼うな。心の中でそう怒鳴った。
 お前らのせいで公園の砂場に犬の糞が紛れ込み、家の娘がそれを握り締めてしまったんだ。馬鹿者。
 だいたいが、犬を飼っている連中のモラルは悪い。
 ついこの間も、昼日中の犬の散歩でさせっぱなしの現場に出くわしたばかりだった。それは中年のオバサンで、街路樹の植わった、わずかばかり露出した地面にしたウンコをさせたのだ。
 そのオバサンは片手にスーパーでくれる小さな袋を手にしていた。だから後始末をするものだとばっかり思っていたら、平然とそのまま行ってしまったのだ。袋はダミーだった。持っていることで、非難の眼差しを避けようと図った悪知恵だ。
 実際は、糞垂れっぱなしだ。
 俺は呆気にとられて「ちょっとまて」のタイミングを失ってしまった。遅きに失したが、一〇メートル程先を歩いていくオバサンに声をかけた。
「ち、ちょっと。ねえ、オバサン。忘れもんだよ、これ、犬のウンコ」
 しかし、オバサンは聞こえないふりをして、どんどん先へ行ってしまう。逃げるように、足早になっていく。
 俺は追っかけていってオバサンの前に回り込んだ。
「あんたさ、犬にウンコさせたまま行っちゃうの。始末しなさいよ。ちゃんと袋もってるんだから」
「あらご免なさい。今日、割り箸もってくるの忘れちゃったのよ」
 平然とこういって、足を止めない。
「割り箸なくたって、枯れ枝で挟むとかさ、すればいいじゃん」
「ちゃんと地面の上にしてるから、いい肥やしになるって、プラタナスも喜んでるわよねえワンちゃん」
 聞く耳をもたない。腹が立ってくる。
「公衆道徳だろ。始末しなさいよ」
 語気を強めると、オバサンも臨戦態勢に突入した。
「あたしだけじゃないわよ。そんなにいうなら、ずっと見張ってて他の人にも注意しなさいよ。一人残らずよ。そうしたら始末してやってもいいわよよ」
 理屈もなにもあったものじゃなかった。
 手を伸ばして腕を押さえつけようとしたら、
「暴力をふるうの」
 といって俺の手を力一杯ふり払う。安物の指輪が手首に当たって酷く痛んだ。
「痴漢だ、って叫ぶわよ」
 俺は一瞬たじろいだ。
 そう言い残すとオバサンは肩を怒らせてどんどん先を急いでいってしまった。
 まっとうな意見が通らない。不道徳が堂々と罷り通る。それを阻止する手段は、ない。悔しくて歯がみしながらオバサンの傲慢な後ろ姿を、俺は見送った。
 きっとあの女の家も生活もモラルも、犬の糞みたいなものなのだろう。
 なんていうことが、急に思い出された。
 そんなことを思い出していたら、住宅街の外れにある住家にたどり着いていた。
 狭いマンションだ。
 2DKで家賃が十五万円もする。その他に管理費というのを払い、ガス代や電気代、電話代、水道代など足していったら二〇万円を優に超してしまう。これで仕事を馘になったら、すぐにでもここを出ていかなければならなくなるだろう。収入の道がなければ、支払いなど叶わないからだ。
 一日の疲れを両足に引き摺ったまま、俺はロビーに入っていった。個数五〇戸余りの小ぢんまりしたマンションだ。妻は生協に入っているせいで、何軒かの家とご近所づき合いがある。俺がもっとも苦手としている類いの行為だ。本人が好きだといってやっているのだからあえて反対はしないが。
 妻が郵便受けを覗く。俺はエレベーターのボタンを押しにいく。娘もボタンが押したいらしく、小さな手を思いっ切り伸ばしてついてくる。
「いち、にい、さん、しい、ごお」
 部屋のある五階までの数字を首を左右にふりながら数え上げている。
 妻の方を向くと、エントランスに向かってくる人影が見えた。段ボール箱をもっていないところを見ると、ここの住人らしい。エレベーターは待っていた方がよさそうだ。先にいったりすると、なんかこう人を避けているみたいで嫌だし。かといって、知らない顔の住人と同じエレベーターに乗るのも、落ち着かない。
 もうちょっと遅くきてくれればよかったのに。などと腹の中では思ってみたりする。都会の集合住宅の、住みにくい部分だ。
 俺たちは、エレベーターの前で、まだボタンを押さずに、その影が近づいてくるのを何気なく待っていた。
 コツコツという靴音が次第に近づいてくる。
 俺はボタンに手を伸ばしかけたときだ。
「さっきはどーも」
 いいがかりをつけるような口調で、俺に声がかかった。
 振り向くと、見上げるほど背が高い。
「あんた、新宿もこの駅も定期で降りたね」ドキッとした。
「見忘れたかい。昼間あんたに罵倒されたN駅の日向っていう職員だよ」
「ひっ!」
 妻が声にならない悲鳴を上げた。
「オタク、キセルの常習犯だね。悪びれもせず、いい度胸だよ。千葉までしか切符は買わなかったもんな。けど、乗ってきたときの切符が吉祥寺だっていうのはすぐ分かったよ。めったにそんな所からの客はこないからね。だから、ひとこと注意したいと思ってここまでやってきたっていうわけだ」
 その勝ち誇った顔。人を馬鹿にした千葉面が、へらへらと俺の前で相好を崩してぐちゃぐちゃになっている。
 俺は反論できなかった。事実だったからだ。
「ヤマモトさんっていうんだね、オタク」
 郵便受けでも見たのだろう。
「ヤマモトさん」
 日向という鉄道職員の声が、拡声器のようにボリュームアップした。
「オタク、いつもキセルするわけ」
 カチャッと、ドアが開く音がした。一階の何軒かが、何事かと覗きはじめたらしい。
「知ってるんですか、キセルが犯罪だっていうこと。ええ!」
 日向の唾が、俺の顔にべったりねとねとと飛んだ。
「私は黙っちゃいませんよ。正当な手段で告発しますからね。なんたって、目撃しているんですから」
 不敵な笑みが、憎々しげに俺の目の前に浮かんでいる。
「す、すまんが、もう少し声を小さくしてくれないか」
「大きな声で話しちゃまずいですかね」
「せ、世間体っていうものがあるだろう、世間体・・・。あんただってそのくらい分かるだろう」
 お世辞笑いをつくって俺がいう。
 膝はガクガクいうし、血の気が引いて悪寒すらしていた。
「私にだって、世間体ぐらいありますよ。なにしろ小さな町ですからね。町中の人が、私を笑い者にしてますよ、今頃。分かります?」 日向の顔が、巨大に見えた。
 マンションのエントランスがとてつもなく広く、魚眼レンズで見たみたいに歪んでいた。俺も妻も娘も、その隅で小さく小さくなっている。
 周囲に人気を感じた。
 何人かの住人らしい人。宅配便の兄ちゃんや寿司屋の出前、クリーニング屋・・・。そんな顔の中に、N駅で切符を売っていた男の顔が合った。
 紫色のニッカボッカを穿いた小柄な男が口を開いて眺めている。前歯が折れて、黒い穴が広がっていた。
 ひっつめ髪の弁当屋のオバサンがいる。昼間の駅舎にいた行商のオバサンや女子校生もいた。
 みな、無表情のまま威圧的な視線を投げつけている。
 エントランスが、息苦しいほど人で埋まっていた。
 俺は、悪いことをしたのか。
 夢か?
 幻か?

    17

 寝覚めが悪かった。
 頭が痛い。喉がひどく乾いている。それに、吐き気がした。時計を見ると、もう一〇時を回っている。
 会社がはじまる時間だ。
 ズキズキする頭に手を当てながら、台所までいって水を飲んだ。昨日のことがよく思い出せない。
 夜テレビを見て、テレビゲームをしながら安もののウィスキーを飲んで・・・。それから記憶がない。その前も、実はよく覚えていない。 コップを水切りに戻そうとして、シンクの中に朝食のコップや皿が無造作に置かれていることに気づいた。
 汚らしい。
 なんだ、これは。
 振り向くと、ダイニングテーブルに一人分の朝食が用意されていた。もうずいぶん時間がたってしまい、冷えきっている。そして、メモがあった。
「美沙子のお迎え、お願いします。今日は、少し遅くなりそうです」
 妻の字だ。
 記憶が蘇ってきた。
 俺はあの、駅員の一件で警察に突き出されてしまったのだ。