魔王信長

第一章 逃げて逃げて逃げて

    1

 脳の奥で炭酸が弾けるような音がした。
 東京の西に位置する福生市郊外の公園のベンチで、桜の花びらを浴びながらサトルは疲労したカラダを横たえていた。
 脳細胞の分裂がはじまったのか。死の恐怖が全身を包んだ。不安が増す・・・いや、それだけではない。殺意が迫っていた。緊張感が全身を貫く。敏感に体を起した。奴がいる。射すくめるように見つめている。ゆっくりと視線をめぐらす。
 公園の端に、鎖かたびら姿の小男がいた。一昨日の夜、あの地下の巣窟を抜け出したばかりだというのにもう追っ手がやってきた。白刀を抜き放つ金属音がした。
 獰猛な目の、浅黒く、いかつい顔が迫る。
「キェーッ!」
 柘榴のように口を開き、鳥が嘶くような叫びを上げて疾駆してくる。
 足が竦んだ。
 戦国時代の野武士が、西暦二〇〇五年のいま、サトルに迫っていた。足が、動かない。まるで根が生えたかのように動けない。野武士は大刀を頭上に振りかざしている。手を伸ばせば届くところに殺戮者がいた。
 死ぬ!
 大刀が降り下ろされた瞬間、思わずサトルはベンチに伏せた。
 それが功を奏した。野武士は背凭れでサトルを一瞬見失い、大刀はベンチに深々とめり込んだ。野武士は刀を引き離そうと必死だ。その切っ先が、サトルの目の前で動いている。
 いまだ。
 サトルの本能が目覚めた。逃げる一手だ。立上がり、走った。足がもつれる。しかし、走らなければ殺られる。一度死の恐怖を通過してクソ度胸が着いたらしい。なるようにしかならない。それなら、やれるだけやろう。
 ひたすら走った。
 トラックの震動音が耳に入る。車道が近い。大量のトラックが我が物顔で路面を滑って行く。途切れることのないクルマの流れが前を遮る。
 野武士が迫る。
 クルマの流れを見た。意外にゆっくりと走っている。これなら、渡れる。
 そう確信して、サトルは道路に飛び込んだ。
 急ブレーキも怒声も浴びせかけられることはなかった。自分でも飽きれるくらい素早く、トラックの鼻先をやり過ごして、中央分離体まで難無く辿り着いた。
 振り向くと、野武士がガードレールを越え、路上に突入しようとしている。が、クルマのスピードやその大きさに戸惑っているようだ。戦国しか知らない野武士のことだ、致し方ないだろう。
 車道の信号が黄色に変わった。
 まずい。クルマの流れが止まる・・・! クルマが止まれば野武士はこちら側に走ってくる。クルマのスピードが緩んだのを見て、野武士が猛進してきた。その刹那、野武士のカラダが宙に浮いた。
 タイヤの音が軋んだ。赤信号をムリに突破しようとしたトラックが、野武士を跳ねたのだ。クルマが次々に止まり、運転手が集まっている。サトルはそれを尻目に先を急いだ。
 その走りに目をとめるものはいなかった。
 なぜなら、動きが速すぎて、目に留まらなかったからだ。サトルは、異常な筋力を身につけていた。サトルはクルマが割りとのんびり走っていると思って車道に飛び込み、中央分離帯まで無事に辿り着いたのだが、クルマが遅いのではなかった。サトルのスピードが、常人を遥かに凌いでいたのだ。
 そのことに、まだサトル本人は気がついていなかった。

    2

 サトルが浅井市恵から呼び出され、新宿の喫茶店で会ったのはひと月ほど前のことだ。
 大学の卒業から一年ぶり。だが、市恵は随分と変わっていた。肩にさらりとかかる手入れされた髪。ベージュのスーツに縁なしのメガネ。知性と品のよさを十分に表現していた。学生時代の、ジーンズにトレーナー姿からは想像もつかない変貌ぶりだ。
「変わってないわね、サトルくん」ちょっと大人びた声でいう。
「浅井も女だったんだな」
「バカな男をだまして仕事にするには、女って最強の武器ね。ま、気安く触らせたりはしないけどね」
 薄い唇から出てくる声は昔のままだ。昔・・・そう。サトルと市恵は幼馴染み。幼稚園児からのつきあいになる。
『ケーサツのノータリンめ。俺たちが掴まると思ったらオー間違いだ。電波は大衆のもんだ。分かってんのか?』
 店内に設置してある大型スクリーンに海賊テレビが映し出され、世紀末餓鬼《デカダン・キッズ》が怒鳴っていた。

 二〇〇五年・・・テレビは全国衛星ネットのNHKと、旧民放のCATV、海賊地上波テレビが入り乱れていた。地上波は野放し状態で、電波フリークが勝手に電波塔や高層ビルに送信機を取りつけ、ミニ局を営業していた。広告はいかがわしいものばかり。テレクラ、快感剤、マリファナ、LSIのジャンク屋などのスライドがガッチャンガッチャン音をたてて流されていた。
 NHKは退廃的なニュースばかりを読み上げている。
 アジア人の流入、ホームレスの増加、世紀末餓鬼による警察への襲撃、コンビニ強盗の多発・・・。肩がふれ合った程度のことで殴り合いや殺し合いが発生していた。それもこれも平和すぎる時代のせいだ。人の心が荒んでいる。
 世界各地でも紛争が収束に向かっていた。共産主義は自然撤退し、地球上から思想的対立は事実上消滅した。ゲリラやテロリストたちもヒーローではなくなった。
 富めるものと貧しいものが明瞭になり、指導者は信頼感を失い、個人のフラストレーションは昂まっていた。昔なら戦争という欲求不満の解消の場があった。それが、ない。その代わり、バーチャル殺戮ゲームが背大ヒットしていた。しかし、それでは満足できない連中が、新世紀に入って跋扈しはじめたのである。
 世紀末餓鬼《デカダン・キッズ》・・・。
 彼らは「暴力」という名の捌け口で、そのフラストレーションを解消しようとしていた。
 世紀末餓鬼・・・世紀末生まれの、十二、三の子供たちだ。彼らは容易ならない存在だった。その理由は遺伝子異常にある。遺伝子異常は一九九三年から一九九九年までに生まれた幼児に多発した。そこから彼らを世紀末餓鬼と呼び慣らし、蔑んだ。その原因は、フロンガスや原子汚染、宇宙からの強烈な紫外線やバクテリア説まであるが、定かではない。
 普通の幼児に比べて加虐性の高い一群が現れた。それは一昔前に浮浪者を襲ったような問題児とコメントする評論家もいたが、三歳にしてし嗜虐性の高い犯罪を犯す連中が跋扈するにいたって、精神状態が疑われはじめた。
 すでに遺伝子検査も日常的に行われていたのが幸いしたのか、こうした血に飢えた残酷な行為を行う一群に共通の遺伝子の異常がある学者から指摘された。
 生得的な異常者。
 三歳児がすでに殺人鬼・・・。その数は、日本だけで数一〇万人、世界では一千万人に及ぶといわれ、社会問題となっていた。
 彼らは遺伝子異常の中のマイノリティだが、どの遺伝子異常幼児がその可能性を秘めているか、断言することは不可能だ。かといって、すべての遺伝子異常幼児を隔離するわけにもいかない。行政当局は再犯の恐れのある幼児を隔離し、更生の道を与えた。
 つまり、初犯の幼児に襲われたものは、襲われ損という政策だった。
 
「それで、話って?」サトルが焦れったそうに訊いた。
「キミをスカウトにきたの」
 切れ長の、奥二重の目が誘惑していた。この目にサトルは弱い。学生時代も何度かこれでだまされた。学園際にプロのミュージシャンを招聘しようと浅井が言い出し、結局あれやこれやの雑用はサトルが押し付けられたことがある。結果は思いがけない成功で、学生には過ぎるお金を稼いだことがある。それに味を占めて、浅井はプロモーターまがいの仕事にどっぷり漬かった。卒業と同時に浅井はイベント専門の会社に入った。サトルはもともとイベントのプロデュースよりも、自分で文章が書きたかった。それで、小さな出版社の編集記者になった。
『政治家どもは縄で縛ってローソクたらして浣腸してこれでもかこれでもか、って口に百円玉突っ込んで、それでも投票してくれって言ったら一票、っていうのが最高だと思うぜ』
 海賊テレビでは、髪の真っ赤な世紀末餓鬼の少女と、耳や唇にたくさんのピアスをした少女が卑猥な言葉を連発して公安を挑発している。
「また僕を振り回そうって言うのか?」
「キミの文章力を見込んでのことよ」
 他の誰かがいうと、わざとらしいお世辞も、浅井がいうとサトルには説得力がある。吸い込まれるような目と唇が、サトルをいつも動揺させるのだ。好き嫌いを超えた不思議な魅力が浅井にはある。まるで、呪縛にあったみたいに、だ。
「ファースト・エレクトロニクスって、知ってる?」
「ゲームソフトの会社だろ。『戦国の野望』にハマって一週間ぶっつづけでやったよ。それがどうした?」
「この間、そこの仕事を手伝ったのよ。しばらくしたらそのときの広報課長から電話があってね。PR誌を出すんだけど手伝ってくれないかって」
「ふーん」
 海賊テレビは、ウンコがゲロゲロで宗教家はケツの穴に花火でも突っ込んでカエルみたいに爆発して死んで主婦はそのでかいケツをハサミでちょん切って燻製にしてヤギの餌にすればいい・・・という下品な話を延々と垂れ流している
「それで、バイトでライターやれってか」面倒臭そうにサトルが言った。
 浅井は即座に否定するように首を振った。
「そんなんじゃない」
「どういうこと?」
「私、会社辞めちゃったの」
 突然なにを言い出すんだ?
「ファーストが資本を出して新会社をつくるっていうの。とりあえずはPR誌と本社のイベントプロデュースから始めてね、将来は総合代理店を目指すんですって。それで、私、社長になっちゃったの」
 市恵の目が虚ろだ。いきなり社長で浮き足立っているのかも知れないが、ときどき何かに憑かれたようになることがある。まるで誰かの魂に心を支配されている見たいにだ。でも、その迫力が彼女の魅力であり、相手を惹きつける力でもある。
「僕に会社辞めろっていうのか?」
「浅井、一生の頼みでござるぅぅ」
 そう言ってテーブルに頭を擦りつけた。
 学生時代「俺、戦国武将の柴田勝家の子孫なんだぜ」「私は浅井長政の末裔よ」と自慢しあったのを思い出した。いまの浅井は、武士一生の願い、といった雰囲気さえある。
 気迫が籠っているのだ。
『騙されないぜオレたちは。なにが政府発表だ! いい加減にしろ!』海賊テレビでヘビメタ風の少女が雄哮びを上げていた。
 サトルは市恵の頼みに抗うことはできず、新会社オフィス・エフ・イーに転職することになった。

    3

 深夜三時、サトルは中野にいた。
 不安と空腹に襲われていた。不安というのは、脳に仕掛けられた時限爆弾のことだ。
 脳の奥にプチプチと弾けるような感覚がある。それは次第に高まっている。脳細胞が分裂しはじめている証拠だ。脳細胞が分裂すれば、量が二倍になる。そうなれば、頭蓋に納まり切れずに・・・。そんな人体実験の道具にされたサトル。逃げ出してから交番で話してみたが気違い扱いされただけ。
 死ぬ前にあの地下の巣窟で企まれている事実を浅井市恵に知らせなくてはならない。
 疲れ切ったカラダを、気力で引き摺って行く。
 光が煌煌と輝いていた。空腹さに、深夜のコンビニに入った。
 ポケットに一円ももってはいないのに・・・。手が届くところに菓子パンや握り飯が並んでいる。唾液が口に溢れた。
「お客さん!」
 ドスの効いた声でハッと気づいた。無意識のうちに惣菜を抱えたまま店を出ようとしている・・・。
「ドロボー!」
 ベルが鳴り響き、カウンターから屈強な店員が駆け出してきた。
「ち、違うん!」
 ここでつかまったらお終いだ。何としても浅井につたえなくては。惣菜のひとつふたつを握ったまま、サトルは全力で外へ出た。
 そして、走った。
 息が切れ、脳が酸欠状態になってクラリとする。足がもつれる。太腿が上がらない。どれくらい走ったのか? 追っ手は振り切ったようだが・・・。
 気が緩んでバランスを失い、足が滑った。アスファルトの路面に肘と掌が擦りつけられる。痛みをこらえて立ち上がろうとしたとき、路地から手が伸びた。
 強引に引き摺り込まれていく。
 わけが分からないまま後頭部を押しつけられた。下水と汚物とホコリの臭いが鼻孔に侵入してきた。だが、不快感に顔をしかめる余裕はなかった。
 ボォム!!
 爆発音とともに背中を熱い爆風が舐めていった。耳が塞がり、何も聞こえない。さらに爆発がつづいた。サトルは耳を塞いで頭を抱え込んだ。パラパラと爆発の残骸が全身に降ってきた。
 爆発がやんだ。頭を押さえている腕の温もりに目をやる余裕が出た。外の火災が照明代わりだ。すぐ横に煤けた顔がある。顔だけが露出されていて、あとは黒タイツで包まれていた。鋭い目が威嚇的に睨み返した。しかし、密着したカラダは柔らかく華奢で、子供のようだ。
 金色に染めた髪がこぼれている。少女? その手には二〇連発のニュートカレフ。安全装置を入れると、少女は呆然としているサトルを尻目に、身を翻して奥に消えた。まるで獣のようにビルの壁をよじ登って・・・。
 アッという間だった。
 外では騒ぎが広がっている。よろよろと立ち上がってうかがうと、路上ではクルマが炎上していた。空が赤く染まり、ガソリンの臭いが辺りに充満している。ものの五分もしないうちに消火車が現れた。野次馬にまぎれて見ていると、警察の指揮官らしき男が部下を引き連れて現れた。
 気がつけば、ここは警察署のど真ん前。サトルは身を縮めた。
「糞ガキどもめ! またやりゃーがった!」もっさりと密集した口髭が怒りで立っている。「何をやってんだ、テメーたちゃ!」
 そういって、近くにいた小柄な部下をブーツの先で蹴り倒した。よほど腹に据え兼ねている様子だ。
「いつまで世紀末餓鬼どもに翻弄されてんだ、唐変木! 早くとっ捕めえて蒼いケツにどでかい灸をすえてやれ!」
「はっ、巌岳警部どの」
 象のように皮膚がごわごわで、巨体をもてあましている刑事が返事をした。
 サトルに考えが浮かんだ。
 ここならもう野武士は襲ってこないだろう。巌岳と呼ばれた警部なら、派出所の巡査みたいに気違い扱いはしないのではないか、と。現場を囲むロープを潜り抜けサトルは口髭に近づいた。
「あの・・・巌岳警部」とサトルが声をかける。口髭と部下の象刑事が振り向いた。「話を聞いてください!」
「何だお前?」
 さっき巌岳警部に蹴り倒されたキツネ目の刑事が、サトルを押し戻そうとする。その手をするりとすり抜けて口髭の前に詰め寄った。
「目撃者か?」
 そういって、象みたいに皮膚がごわごわの刑事がサトルの腕を羽交締めにする。
「大変なんです!」サトルは後ろ手を締め上げられたまま喋った。「信長が復活する! 信長にまつわる人々の子孫たちが、信長を復活させて天下統一を企んでいるんだ! いまのうちになんとかしないと、大変なことになる!」サトルは怒鳴るようにいった。
 巌岳警部がポカンと口を開けた。「のぶなが?」
「こいつ、寝ぼけてるぜ」キツネ目の刑事が飽きれたようにいう。
「はやく病院へ連れもどせ!」巌岳警部が五月蠅を追うようにいった。
 象刑事がサトルをロープの外へ連れ出そうとする。
「本当なんだ。世界を征服しようとしているんだよ。聞いてくれ、本当なんだ!」
 サトルの眼から口髭が遠ざかっていく。象刑事がサトルを路上に放り投げた。
「聞いてくれ! 大変なことになるんだ!」
 象刑事の足に絡み付いていった。
「そんな話に付き合ってるほど警察はヒマじゃないんだ。とっとと失せな」
 そう言って、サトルを背にして去って行く。
 そのとき「あ、あの野郎!」という声が聞こえた。振り向くと、コンビニの男がサトルを指差している。
「盗人だ! 捕まえてくれ!」
 野次馬たちが一斉にサトルを見る。巌岳警部とキツネ目と象刑事が同時に振り返った。
 マズイ! サトルは脱兎のごとく走り出した。
 最後の力を振り絞った。

    4

 サトルが御茶ノ水の本社ビルでファースト・エレクトロニクスの今井田課長に会ったのは一〇日前のことだ。
「うちの社を知ってもらうには、見てもらうのが一番だ」
 浅井が気に入られたという今井田広報課長は、四〇過ぎというところか。眉が薄く、吊り上がった目。つるんと取り止めのない顔に、スパリと剃刀で切り裂いたように口。爬虫類を思わせた。
「来週はじめに多摩の研究所で講演会があるんで、ぜひ参加してくれ。バイオコンピュータに関する研究発表でプレスの連中を呼んでいるから、一緒に聞いといてもらわんとな」
 反っくり返って座り、アゴを突き出して喋る姿は、サトルの胸くそを悪くさせた。
「君たちのような若い連中には期待してるんだ。その意欲をな」鋭い目を市恵とサトルに這わせる。「人間、欲がないと成功せんぞ。欲が人間を成長させるからな、はははは」
 高らかに笑った後、今井田はサトルの背中をポンと叩いた。そのまま、しばらく手を肩に置いたまま、ゆっくりと撫でた。全身に鳥肌が立った。しかし、会社を辞めて、コレ一本に絞ると決めてしまった。
 もう後には引けない。

「ああいうのに気に容られたのか? 気味悪くないか?」
 エレベーターで下降しながらサトルが市恵にいった。
「そんなこと気にしてたら、好きなことなんかできっこないわ。何でも利用する。そういう覚悟がなくっちゃ」
 大人っぽくいって一階で降りようとした市恵が「あっ」と小さく声を洩らしてサトルの肩にもたれた。
「どうした?」
 サトルは向き直って市恵の肩を抱いた。髪がサトルの顔にかかり、甘い香りを漂わせた。柔らかな胸の膨らみが、サトルの胸に押しつけられていた。女を、感じた。
「大丈夫。ちょっと立ちくらみ」
「やれやれ。気丈夫な市恵が鬼の霍乱か?」
 サトルが心の動揺を誤魔化すようにいった。市恵の額に、冷や汗が浮き出ている。
「このところ、新会社の設立やなんかで忙しかったせいよ」
「そうかもな。しかし、俺も辛いぜ。あんな爬虫類とこれからずっと付き合わなくちゃならないなんて。あいつの顔を先に見てたら、この話、断ったかもよ」
「もうそれはダメ。いまのところ君と私は一心同体なんだから」
 一心同体・・・。いままで個人的に浅井にどうのっていう気持ちはなかったが、その言葉でサトルの心がまた揺れた。もしかしたら、自分は浅井に気があったのかかな・・・と。

 それから三日後、四月のある月曜日の午後。サトルは多摩にあるファーストの研究所を訪れた。
 駅を降りて徒歩で一〇分ほどで研究所に着いた。建物はいくつかあり、工場も併設されているようだ。入り口の警備員に名前を告げると、話が通っているらしく入館証のバッチが渡された。
 講演会は「ファースト・エレクトロニクス総合研究所」という建物で行なわれていた。
 研究所のロビーには仮設の受付があり、テーブルの横に『講演会 バイオコンピュータの可能性』と書かれた縦長の看板があった。受付嬢が資料のレジュメを渡してくれ「講演がはじまっておりますので、お静かにお入りください」といった。
 サトルはゆっくりとホールの扉を開けて中に入った。
 五百人ほど入れるホールの席はほとんど埋まっていた。厳選されたプレス関係者だけに招待状を配った講演会らしい。それだけファーストは注目されているということだ。空いている席を探して座ると、サトルは講演者の声に耳を傾けた。
「人間の網膜は、瞳を通して入ってきた光を電気的なパルス信号に変換する視細胞と、その情報を同時に並列処理する神経細胞層からなっています・・・」
 正面のスクリーンにOHPで拡大された図が見えていた。
「視細胞は感じた情報を一瞬のうちに脳へ送ります。つまり、同時並列に処理して・・・」
 難しい話がつづいていた。
「・・・いまのコンピュータで同時並列に処理しようとしたら、情報の数だけLSIが必要になってくるので、その数も膨大なものになってしまうことになります。その問題を解決してくれるのが、バイオコンピュータなのです」
 睡魔がおいでなすった。
「バイオテクノロジーを駆使したチップなら人間と同じような処理の仕方が可能になる。そうすれば・・・」
 まわりの音が遮断されはじめた。難しい話を聞くと眠くなるのは本当のようだ。心地好い眠りが手招きをしている。筋肉が弛緩して、サトルの意識が日向のバターのように溶けていった。


第二章 奥へ奥へ奥へ

    1

 夢の中でサトルは浅井市恵と炎の中にいた。
 サトルも市恵も白い着物を着ている。めらめらと燃え盛る炎が、熱い。市恵がサトルにしがみついてくる。
「あなた・・・!」
 すがりつく市恵が、サトルを凝視していった。

 そこで目が覚めた。勃起していた。手のひらが汗で濡れている。深層心理かもしれないが、否定したいような夢だった。
 まわりを見回すと、ホールはがらんとして誰もいない。すでに講演が終わり、聴衆は帰ってしまったようだ。
「まずい」
 舌打ちし、頭をかいた。取材一日目からこれじゃあ信頼もなにもあったものじゃない。
 妙な夢と失敗とで喉が乾いた。ウーロン茶が飲みたくてロビーへ向かった。近くのドアからホールの外に出ると、うまい具合に目の前に自動販売機がある。財布から小銭を出して投入口へ入れようとした。が、コイン投入口がない。よく見ると、コイン投入口の代わりに「カード投入口」がある。そして、差しっぱなしのカードがあった。引き抜くと個人名が刻まれていた。社員証や入室管理にも使われるIDカードなのだろう。
 この自動販売機は、従業員専用なのかも知れない。
 ウーロン茶は飲みたし、お金は使えない。けれどカードは目の前にある。
 カードを使えば窃盗になる。でもたかが百円ちょっと。飲んじゃえ飲んじゃえ。サトルのアバウトな性格が軽々しい行為を唆した。
 いままでに最高のウーロン茶だった。何か特別の材料や成分でも入っているのかも知れない。そう思って缶の表示を見たが、メーカー名も材料も書かれていない。不思議なウーロン茶だ。
 乾きが癒えると、周りをうかがうゆとりが生まれた。どうやら入ってきたロビーとは違うようだ。飾り気のない殺風景な空間で、天井が高い。骨組みの鉄骨も剥き出した。工場の内部のようで、右手にずっとつづいている。
 併設されている工場への通路に入り込んでしまったのだろう。わざわざ工場を通って外に出ることはない。入ってきたドアノブを回し、押した。しかし、ドアは開かない。引いて見た。それでも、ドアは開かなかった。自動ロックなのか?
 ドアの横にテンキーのついたボックスがあるのに気づいた。暗証番号が必要らしい。カードの持ち主はカードを自動販売機に忘れたまま、暗証番号で通り抜けていったのか。
 ムダとわかっていたが四桁の数字をいくつか押して反応を見た。うんともすんともいわない。一〇回程でたらめな数字を押したがムダだった。一晩中かかってもムリかも知れないと思って、抵抗をやめた。
 引き返せないなら進むだけだ。
 見咎められたら「間違っちゃいました」で済ませればいい。
 気になるのは、今井田広報課長の反応と、市恵のことだ。「ドジ!」の侮蔑の言葉で済めばいいが、仕事がパーになっては合わせる顔もない。
 考えていても仕方がない。気をとりなおして、工場に通ずるらしい通路を進んだ。ただのがらんとした通路だ。しばらく歩くと前方に壁が見えてきた。ドアがある。しかし、取手がない。代わりにパネルが壁にへばりついている。パネルには現在時刻と、わけの分からない情報がデジタル表示されていた。横には細い溝が切ってある。
 カード式の錠らしい。これじゃあお手上げだ。
 まてよ・・・。
 さっきのカードを思い出した。
 自動販売機まで戻ってカードを引き抜くと、カード錠の前に立った。
 磁気ストライプの塗ってある側を溝に差し込んで、上から下へ走らせる。ドアがウィーンという金属質の音をたてて左右に割れた。パネルのランプが点滅している。点滅している間に入れという意味だろう。サトルは身を翻すように中に躍り込んだ。前方には、メタリックの壁に囲まれた通路が前方につづいている。いままで進んできた仮設の鉄骨剥き出しとは見違えるほど美しい。無機質で硬質で滅菌状態のようなスチール感だ。
 そんなことを考えていると背後でドアが閉まった。振り向くと、ドアにはカード錠も暗証番号パネルもない。あるのは双眼鏡のような二つの突起だ。覗いてみようとして、思い出したものがあってやめた。
 網膜キーかも知れない。
 科学雑誌で読んだことがある。眼底網膜を走る毛細血管は、二人と同じ模様がない。それを使ったセキュリティシステムがある、と。つまり、登録してある本人しか通り抜けることはできないということになる。覗けば警報が鳴り響くかも知れない。騒ぎは起こしたくなかった。
 とりあえず、前進しかない。
 外に出るというより、迷宮の奥深く彷徨い込んでいるような気分だった。

    2

 ゆっくりと右側にカーブする銀色の通路を歩いて行った。
 ちょっと緊張していた。いままで想像していた工場の内部というのとはまったく違っていたからだ。どこにも油臭い工場の雰囲気はない。宇宙船の内部か映画のセットのような気分だ。とんでもないところに迷い込んでしまったという一抹の不安に、鼓動が早鐘のように鳴っていた。こんなところで関係者に出くわしたらどうなるんだろう? 生唾を呑み込む音が異様に響く。サトルはネクタイを緩めて呼吸を楽にした。暑くないのに汗が粒になって吹き出している。緊張がピークに達しようとしているのだろう。
 エレベーターホールに出た。
 二機あって、どちらも閉まっている。ボタンはひとつしかない。上でもなければ下でもない。ただ、カゴを呼ぶためのものものらしい。
 これに乗る以外手がない。もう後もどりはできない。
 こんなことなら自動販売機のところで無限に四桁の数字の組み合わせを探っていたほうがマシだったなと思うが、もう遅い。
 ボタンを押した。静かにドアが開く。中は六畳間ほどもある大きなエレベーターだ。中に入る。行き先階の表示はない。ボタンがひとつあるだけだ。それを押す。扉が静かに閉まる。ボタンが点滅しはじめた。動いていることを示しているのだろうか? すごくゆっくりのような、とてつもなく早いような、動いているのかどうかもわからないほど振動がない。
 しばらくしてボタンが点滅をやめた。シューッというエアの抜ける音がして、扉が開いた。そっと足を踏み出す。辺りはすべて白く、清潔感が漂っている。そして、空気が冷たく臭った。すべての温もりが拒否され、冷徹でしらじらとした意思だけが残ったような空気感だ。動くだけでヒヤリと尖った空気に当たる。
 ロッカーが幾つも並んでいる。
 ここで働く人たちのものか。着替えでもするのだろう。奥にドアがあった。前に立つと、自動的に開いた。狭い廊下がつづいていて、突き当たりにドアがある。床は蜂の巣のように無数に穴が開いている。
 廊下に足を踏み入れると、下から風のシャワーが吹き上がってきた。髪が逆立ち、肌から潤いを抜き去られるような気分だ。
 突き当たりのドアを開ける。
 狭い廊下の先に、無機的な巨大空間が広がっていた。クリーンルームのようだ。
 遠くにステンレスらしいテーブルが並んでいる。上に何かが載っている。廊下を進んでいくと、次第に視野が開けていった。それにつれて、サトルの背筋に電流が走り、肌が粟粒だらけになった。薬品と消臭剤と腐敗臭が混じり、溶け合ったような異様な臭気が鼻孔の奥をツン! と刺戟した。
 廊下が終わる。体育館ほどもある広大なフロアが眼前に広がった。フロアには、ステンレス製の移動用ベッドが整然と並んでいる。
 その、ベッドの上には、人間の裸体がいくつも載っていた。
 胃液が逆流し、口中に酸っぱいものが広がってくる。
 清潔な外観と相反する臭気がサトルを戸惑わせた。
 彼らは生きているのか死んでいるのか?
 生気がない。マネキン人形にも見える。
 思わず目をそむけたサトルの目が、別のステンレスの作業台をとらえた。上にはピンク色の塊が載っている。
 ボールのようにも見える。もちのようにも見える。いや・・・皮膚で覆われていた。黄色がかったピンクで産毛が生えている。
 背筋に氷柱が差し込まれた。
 皮膚と産毛の生えた肉塊。サトルの心臓が数秒間止まった。
「冗談だろ・・・」
 目をそらそうとして、かえって凝視してしまう。
 肉片の皮膚が隆起して鼻をつくり、その下には皮膚を切り裂く唇がついている。しかし、目や耳がない。第一、人間の顔のカタチをしていない。
 洗面器ほどの大きさの肉塊の一部に鼻が形成され、口が穿たれている。
「ああああああ・・・」
 あとの言葉が出てこない。吐き気をこらえて口を押さえた。苦い汁がこみ上げてきていた。
 逃げ出そうとして向きを変えた。腹に堅いものがぶつかった。
 銃口が、サトルを狙っていた。

    3

「よくここまで侵入してこられたもんだ」
 幅の広い肩。厚い胸板。グローブのように大きな手。その手でスキンヘッドさすりながら、男が椅子から立ち上がり、サトルにいった。
 窓のない六畳ほどの部屋の中央に、テーブルがひとつ。コンピュータ端末が載っている。あとは簡易椅子が数脚。そのひとつにサトルが座り、隣には警備の男が銃口を向けて立っている。警備の男は上から下まで白一色。防塵マスクで顔は見えないが、目には殺意が充満している。
「感心するよりも、セキュリティに問題があったと反省すべきだな・・・ククク」
 男は、自虐的な笑みを浮かべた。彫りが深く、透けるほど白い皮膚につつまれた怒り半分の笑みが、空気をぴりぴりと震わせる。
「ど、ど、どうしょうってゆーんだ?」
 驚愕からまだ抜け出せていないサトル。勇気をふりしぼって怒鳴ったつもりだが、声は震え、うわずってさまにならない。
「とにかくだ」地を這うような声が室内に充満する。「君は本来入ってはならない場所に入り込んでしまった。見てはならないものも見た。公表されると私たちは困ったことになる。それが君の意思でなかろうとそんなことは関係ない。そうだろう?」
 スキンヘッドをさすりながらサトルを鋭い目を向ける。
「エレベーターのボタンは指紋による個人照合システムになっている。あれでやっとネズミが忍び込んでいることがわかったという次第さ」
 苦虫を百匹ほど噛み潰したように、顔が歪む。
「名前をまだ聞いていなかった」
 サトルの喉はカラカラに乾いていた。鼻から口腔にかけて粘膜も湿度を失って、高熱を出したときのように空気が熱風となって通り抜けていく。生唾を飲んで湿らせようとしたが、かえって引きつってしまう。口で息をして、かろうじて声を出した。
「シ、シバタ・・・サトル」
 かすれた声が粘膜を刺戟した。
「シバタサトル・・・」
 反復しながら立ったままでキーボードを叩きはじめた。
「あんたは?」サトルが恐る恐る訊く。男は振り向きもせずぶっきらぼうにいった。
「織田信忠」
「オダノブタダ?」サトルが反芻する。
 顎で促された防塵マスクの警備兵がモニターを覗き込み、読み上げた。
「シバタサトル 二十三歳 埼玉県生まれ 日東経済大学経営学部卒業 父は死亡、母と妹の三人生活。『コンピュータ・ワールド』記者からオフィス・エフ・イーに転職。考古学に興味あり。銀行預金は・・・借入状態でカードも使えない状態です」
 名前だけでそこまで分かることに、サトルは戦慄した。
「そんなことまで、どうして?」
 信忠が応える。
「ここからは、世界中のデータベースにアクセスできる。どんなにセキュリティが厳しくても、簡単に入り込める。痕跡も残らない。世界のサーバが情報資源だよ、ここでは」
 そういって信忠が口の端を歪めた。
 恐るべきネットワークだ。データベースサーバはパスワードが分からなければ侵入できない。それをいとも簡単にクリアしてしまっているのだから・・・。この事実だけからも、いま対峙している男がとてつもない力をもった人物だということに気づいた。
「素人にここまで潜り込まれるとは・・・」
 吐き棄てるようにいうと、信忠はテーブルを渾身の力を込めて叩いた。
 テーブルが断末魔の悲鳴を上げた。
「カードのセキュリティなら安心だ? そんなたわけなことをいったやつは誰だ? 賀茂友久のうつけが! クローニングは専門でも、戦は素人ではないか!」
 信忠が恥も外聞もかなぐり棄て、独り言のように言い放った。だが、すぐに我に返ってサトルに向き直った。
「しかし、感謝しているよ。君が侵入してくれなければ、私たちのしていることが早晩洩れてしまったかも知れないのだからな」
 私たちがしていること・・・サトルはさっきの肉塊を思い出した。
 クローニング・・・と、さっき信忠はいった。人間のクローニング・・・戦慄すべき出来事だ。エレクトロニクスの最先端企業が、実はその裏で組織的にクローニングを実施していた・・・。サトルは蒼ざめた。
 その表情の変化を敏感に感じ取ったかのように、信忠がいった。
「あれは聖なる科学だ」
 あれ、とは裸体の人間たちか? それとも肉塊のことか?
 信忠はテーブルに片手を添えた周囲を歩き、人差し指をサトルの鼻先に近づけ、恫喝するようにいった。
「覚悟せい。偉大なる人物の復活に全人生をかけているのだ。投げ出すようなことは絶対にせぬ!」
 そういい捨てると、サトルと警備兵を残し去っていった。

    4

 足音が遠ざかっていく。
 その足音が途切れるのと入れ替わりに、ドアが開いた。入ってきたのは、栗色の長い髪をむぞうさに束ねた、少女のあどけなさと少年の初々しさに彩られた妖艶な肢体だった。紫色の軍服から、胸の膨らみは感じられない。しかし、男とも断定できない。
 才気走った目。近寄るものを排除する鋭利な気配。人を惑わす匂いを薫香とさせ、サトルを威嚇する。
 不思議な気配が部屋を支配した。
 視線を警備兵に移す。マスクに隠れた顔が気圧されて、たじろぐようすがはっきりと感じ取れた。しかし、気を取り直して銃口をサトルの頬に押しつけた。その途端・・・
「捕虜はもっと丁寧にあつかいなさい!」
 怒鳴り声が警備兵を緊張で凍りつかせた。
 クッと頭の向きを変える。艶気を込めた音色が、薄くナイフで切り裂かれたような唇から漏れた。
「君が噂のネズミか・・・」
 ジッとサトルを見据える。
「僕は蘭丸って呼ばれている。専門はプラスミドによるDNAのコピー」
 僕・・・男、か?
 小首を傾げて、君は理解できているかな? とでもいうようにサトルを見る。
「クローンを造るのが仕事だっていったほうがわかりやすいかな? マサチューセッツ工科大学で博士号をもらったんだけど、ラットじゃ物足りなくて人間に手を出したら問題になってね、過激すぎるって追放されたんだ」
 せいぜい十七、八にしか見えないのに、博士号をもっているとは! サトルは毒気に当てらてしまった。
「それにしても、よくここまで潜入できたものだこと」
 とりあえず本当に感心しているようだ。
「潜入だなんて、僕はただ冷たいウーロン茶が飲みたかっただけで・・・」
「はい。冷たいウーロン茶」
 サトルの頬に押し付けられたのは缶入りの、自動販売機から取り出されたばかりのウーロン茶だった。
「喉が乾いていたって聞いたものだからね」
 その優しい口調には嫌味がたっぷり塗り込められている。
 サトルが缶をどかそうと手を伸ばした。
 瞬間、腕に痛みが走った。
 注射器が突き立てられている。
 痛みよりも驚きよりもなによりも意外性と驚愕が先に立った。手を動かしたら針が折れ、肉が裂ける、という不安がよぎった。アッという間に血液が吸い取られ、注射器が引き抜かれた。
「はい、脱脂綿。内出血しないようにこれでキツーく押さえて五分間」
 いわれるがままにウーロン茶の缶を握り、注射針の跡を脱脂綿で押さえた。
「検査結果はのちほど」
 ドアの外にいた女性にその注射器を渡すと蘭丸は最初に信忠が座っていた椅子に腰をおろした。
「どうせ生きては帰れないんだから話してあげよう」
 頬杖をつきながら蘭丸が何気なくいう。やっぱり殺す気だ。
 紫の軍服の胸ポケットから葉巻を出すと、吸い口を切り火をつけた。甘い香りが部屋一杯に広がりはじめた。
「つまりね」くゆらす紫煙の行方を追いながら蘭丸が自慢化に話しはじめた。「私たちは究極のバイオテクノロジーを目指してるんだ。バカな記者さんたちに話したバイオコンピュータは、すでに完成してる。人間の網膜の代わりになるぐらいのチップはできているっていうこと」
 いつの間にか光沢の出るほど磨き上げられたブーツをテーブルの上に載せている。
「でもね、人間の脳細胞の代わりになるような優秀なバイオコンピュータは一筋縄ではいかない。まだ、鶏の脳をつくるぐらいがせいぜいなんだ」
 両肘を脇腹に添えて掌をひらひらと動かす。鶏の手を真似ておどけているつもりだろうが、サトルは笑みなど浮かべられない。
「素材はミミズの細胞。それを切り刻んで、合成するんだけどね」
 この会社の実態は、世間で発表されているレベルよりも遥かに進んだ技術を完成させているようだ。
「いやホント。ヒトをつくり出すのは並大抵じゃない。ああやって、ヒトのパーツの試作からはじまるんだよ」
 パーツ?
「見たでしょ、並んでいるボディパーツを。あれにはまだ脳が詰まってない。バイオコンピュータがすべて完成すれば、ボディたちは意識をもって動き回ることができるのに・・・」残念そうに口をしかめる。「いままでの超LSIでも動くことは動くけど、いまひとつねぇ・・・」
「じゃあ、あの肉の塊は・・・」
「造りかけのできそこない」
「なんのために、そんな悪魔みたいなことをするんだ?」
「なんのため?」意外な表情をしてつづけた。「ビジネスだよ」
 ヒトつくることがビジネスになる? そのことがサトルには理解できなかった。
「ここまで潜り込んだくせに意外と頭が悪いんだな」と身を乗りだす。「人体実験がタブーになっているいまの社会で、もし人間と同じボディが手に入れば合法的に人体実験ができるだろ。そうすればラットなんか使わなくても人間で実験ができる。製薬会社や自動車会社、大学まで需要はいくらでもある」
 サトルの震えは止まりそうもなかった。
「人間の代替物を社会に提供しようっていうことさ。使い方はお客さま次第。勝手に使用すればいいだけの話だ。肝臓を摘出して移植しても構わないし、売春婦にしてもよし。よりリアルな時代劇を撮るために切り殺してもかまわない。私たちは、使うことができる人間を造ろうとしているのだ」
 サトルは、背筋に冷水を浴びせられたような思いがした。
「もちろん未完成な肉体や過剰な肉体を造り上げてみたいという欲望もある。下半身だけの肉体・・・手足や性器が複数あるカラダ・・・。人魚やケンタウロス、ゴジラだって思いのままに造れるんだ。おお、フリークスよ! 私の創造意欲を刺戟する!」
 耽美な世界に陶酔するように蘭丸の眼差しが虚空を彷徨う。
 しかし、キッと視線をサトルにもどすとキッパリという。
「でも、私たちの目的は異形のものたちを造り出すことじゃない。本物の人間を、君や私や、この地球上に存在する人間と寸分違わぬモノどもを造り出すことなの」
 憑かれたように言い放ち、サトルに笑みを送ってきた。
「生体の構造と素材を科学的に合成し、立体的、空間的に定位させる・・・。つまりヒトの原形であるプロトタイプを、人間とそっくりの素材で造りあげること・・・。これがもっとも難しい。なぜだかわかるか?」
 サトルは首を横に振った。
「ヒトの遺伝子は、ひとつの細胞の中に三〇億もの塩基の対をもっているんだ。その塩基の並び方を知るには、人手だけが頼り。一人の研究者が一日に五〇〇個の塩基を解読するとして、三万年もかかってしまう。三百人が一年に二百日働いたとしても百年はかかる計算だ。三千人なら一〇年。三万人なら一年・・・。でも、遺伝子を研究する学者は少ないんだな」絶望的な表情で蘭丸が漏らした。「たとえ塩基の配列が分かっても、今度はその働きを調べなくちゃならない。それが分かれば、脳が創れるんだ。それも理想的な脳がな」
 蘭丸の射るような視線がサトルに浴びせかけられた。
「でも、たとえば君の脳を生きたままの状態で分析できれば、少しは役に立つ。百五〇億もの神経細胞の役割がわかればアインシュタインの脳も、ヒトラーの脳だって創れる」
 背筋に悪寒が走った。殺人鬼より気味が悪い。質が悪い。
「頭蓋を切り開いて、君の露出したに大脳皮質にサブミクロンの太さのファイバを刺すんだ、そして、いろんなものを見せて反応を見る。ね、なんとか、手助けしてくれ」
 生きたまま、ということは、この意思をもったまま、モノを見ながら、食事をとりつつ排尿、排便行為を行ない、実験されるということだ。脳のしわが伸ばされ、そのひだが捲られてファイバが差し込まれる。まるで脳から細かな細かな白髪が密集して生えているように・・・。その下には顔が固定されている。
 抵抗すらできずに実験材料にされる屈辱と恐怖とが脳裏をかすめた。
「嫌だ!」
「脳をくれ!」狂気に潤う蘭丸の目。
「君はもう断れない運命だ。見てはいけないものを見てしまったのだから」
「じょ、冗談・・・」怒りで声が震えた。
 それを制止するように蘭丸が掌を差し出す。
「その代わりを与えよう」
「人並外れた能力?」サトルは困惑した。


   第三章 モルモットだよ、モルモット

    1

 深い眠りからサトルを現実に引き戻したのは、今井田だった。
「こんな所まで取材しなくたってよかったものを」
 六畳間の隅にある簡易ベッドで、サトルはその声を聞いた。
「あんた、この連中の一味なのか?」
「やれやれ。そういう質問にいちいち応えるのは億劫な質でね。まったく困ったもんだ、新米記者さんにも。さて・・・」といって今井田がビーカーを差し出す。「尿検査からはじめてもらうか」
 人体実験のための検査がはじまった。脳波検査、脳の断面像、脳活動の検査・・・。疲労も激しかったが、提供された食事は豪勢なものだった。食事を運んできたのはアケチと呼ばれる狡猾な目をした背の低い男だった。ビーフステーキ、本マグロのトロ、チーズ、北京ダック、うなぎの肝・・・栄養のつきそうなものがテーブルに一斉にならべられ、供された。死刑囚への豪勢な食事のようで、あまり喉を通らない。
「豚は太らせて食えというからな」
 今井田の隠にこもったいいかたが、よけい気にかかる。唾液の分泌も胃液の働きも悪くなる。
「どうせ僕はモルモットなんだろ!」
「まあまあ、落ちついて。体に良くない」
 今井田は罵声に毫も動じない。そして、食堂の片隅のテレビゲームのデモに注意を促した。それは、サトルも遊んだことのあるロールプレイングゲーム『戦国の野望II』だった。
「知ってるだろう?」
「ああ。遊ばせてもらったよ」
「あのゲームで我が社はビッグになった。今度は、世界を変えるのだ」
 世界を変える? サトルは訝しげに今井田を見た。今井田の顔から柔和さが消えている。笑いが背後から湧き起こった。
「ははははは・・・その通りよ」
 蘭丸が、怜悧な顔に紅を差したように頬を赤らめ、高らかに笑った。
「昨日、話したでしょ。人間のDNAを分析するのに三万人もの人手が必要になるって」眼鏡の奥のグリーンの瞳がサトルを見据えた。「もしその手間を費用をかけずに短期間で仕上げようとするにはどうしたらいいのか・・・? 考えた方がいらしたの。かつて織田信長に仕えた陰陽師の子孫で賀茂友久さまよ」
 賀茂友久・・・信忠もこの名を出していたことをサトルは思い出していた。
「膨大な量のDNA・・・その情報を全国にネットワークされた二〇万台の端末で分析したとしたら? とっても短期間に人間の情報地図であるDNAに書かれている情報のすべてを読み取ることができるはず・・・」
「そんな・・・二〇万の端末なんて現実的じゃない!」
 サトルが打ち消すようにいう。
「それがね、シバタくん、仕掛けを知れば意外と簡単。知っての通り新バージョンの『戦国の野望II』はパソコンネットで配布されたゲーム。市販されないから入手したければネットワークに加入するほかなかったわ。パート2の人気もあって申し込みは殺到状態・・・。ところが『戦国の野望II』にはちょっとした仕掛けがあったのよ。センターから端末を自由にコントロールできるプログラムを組み込んでおいたの。パソコンを使っていないときでもデータ処理ができるようにね。DNAに書かれている情報の解読と処理が、日本全国のゲームマニアの端末で刻々と行われて・・・」
 そのとき、食堂のスピーカーからビリビリと震える大音響が轟いた。
「黙らんか! 蘭丸!」
 信忠の声がスピーカーからこぼれた。ひどいノイズ混じりで、声が割れている。
「貴様! べらべらと喋りおって!」
 蘭丸が顔面蒼白になった。
「首が飛ぶぞ!」
「は、ははあ・・・」頭を床にすりつけている。
「お許しを・・・」
 気がつけばサトルを除いて、周囲ではみなが片膝ついて頭を垂れている。どうしたことなのだ? 信忠とはそれほどみなに恐れられている存在なのか?

    2

 朝と昼と夜は、食事で判断する生活がつづいた。食堂へ料理を運んでくるのはいつも同じ。アケチだった。翌日の夕飯のときだった。
 臨席していた蘭丸が、小指を立てた細い手で長い髪をかきあげながらいった。
 「栄養状態をよくしてから培養器に固定して、頭皮を切り裂き頭蓋に糸ノコを当てるのだわ。いまから楽しみ、ふふふふふふ」 
 蘭丸がよそ見をしているところにアケチがスープをもってきた。手足の長い蘭丸が、急にカラダをひねった。その右手がアケチのスープ皿をたたき落とし、運の悪いことにスープは蘭丸の細い太腿を包んでいたズボンにかかった。その日のスープは、いくぶん熱めだった。悪い偶然が重なったものだ。
 スープはズボンと太腿の肉を密着させた。
「ぎゃっ!!」
 今井田が「火傷する。脱がせろ!」と護衛の研究員に指示する。ズボンにナイフが入り、 ゆっくりと剥がされた。端正な蘭丸の顔が醜く歪む。幸い熱湯ではなかったので、一緒に皮膚が剥がれてくるようなことはなかったが、大腿部は赤く腫れ上がっていた。
 その間、アケチの顔からは狡猾さが消え、恐怖で蒼白になっていた。
「熱いわっ熱いわっ!」
 泣き声のまま蘭丸は運ばれていった。
「も、申し訳ございません」
 アケチは平伏し、頭を床にすりつけている。
「・・・ざまを見ろ」
 思わずサトルは顔を上げる。つぶやきは、今井田のねじれた唇から漏れていた。

    3

 蘭丸がスープを足に浴びた数時間後。
 浅井市恵はファースト・エレクトロニクスの本社応接室にいた。
 テーブルを挟んで、今井田が、大仰な表情で困惑を額に刻んでいる。
「全然気がつかなかったな」今井田がいう。「あの講演のときは私も聴衆の中にいたんだがな」
「そうですか」
 市恵が力なくうなずく。御茶ノ水のビルから聖橋が見える。
「すみませんご迷惑ばっかりかけて・・・」
「いや、それよりも心配だな。意欲ある青年が」とぬけぬけという。
「せっかく仕事がはじまったばかりだというのにこんなことになっちゃって・・・」
 震わせた肩に、今井田が優しげに手を置いた。
「大丈夫。すぐ見つかるよ」
 そのとき、市恵の脊髄を冷気が通り抜けた。この世のものでないなにかを感じた。今井田の微笑が邪悪な能面のこわばりに見えた。へらへらと嘲り笑い、愚弄するおぞましい冥界からの使い。積年の呪縛に囚われ、闇を彷徨い浮遊している鬼神が目の前にいた。これは・・・。市恵は奈落の底に落ち込んでいくような恐怖感を覚えた。
 しかし、それも一瞬のこと。
 我にかえると、いつもの今井田の優しげな笑みが見えた。
 幻覚? 妙な戦慄と不快感だけが残った。しかし、それは市恵の心眼がとらえた今井田の本性だったのだが・・・。


 その夜。
 市恵のマンションから、東京タワーのうらぶれた姿が見えた。イルミネーションは虫食い状態で、ちかちか瞬いている。市恵はテレビのスイッチを入れた。
 お気に入りの番組は、世紀末餓鬼の海賊放送だった。世界の平和を嘲笑うように、世紀末生まれの子供たちが世界中で暴れ回っていた。それが遺伝子異常という病的な要因からくる病気であるとわかっていても、彼らを隔離し収容することも、ましてや治療することも叶わなかった。
 ヒトゲノム計画が完了し、さらに研究が推し進められない限り・・・。ヒトゲノム計画は、一九九〇年からはじまった人間の遺伝子情報を分析する研究だ。世界で巨額な資金を投入してはじめられている。完成すれば遺伝子の塩基配列が、人間のどの部分をカタチづくっているかがわかる。たとえば、この部分は人間の脳の感覚を司る分野だとか、攻撃性や狂気をコントロールしている、といった人間の設計図が書ける。そうすれば、遺伝子異常も正常にもどすことが可能になる。
 ただし、ちょっとその配列をいたずらすれば、背丈が三メートルの人間や奇形種も簡単に生み出せる。だが、人間の遺伝子の数は膨大だ。人手だけで行なっていてはいつ終わるか分からない。
 全貌がつかめるまで、世紀末餓鬼《デカタン・キッズ》たちは一生その汚名から抜け出せないのだ。だからこそ、途方もない番組をつくり、VHFバンドでオン・エアさせていた。市恵はビールをときどき口に含みながら、デカダン・キッズの番組に目をやった。
「さて。昨日の晩は中野で花火がドーンと鳴ったとさ。パトカー二台がぐっしゃぐしゃ」
 ジージャン姿で金髪の少女がニッコリと微笑みながら素っ気なくいう。
「うっとうしいのが減ったぜ。な、ケイ」
 髪を赤く染めた、痩せて、派手なTシャツ姿の身を包んだ少女が合いの手を入れる。
「そうそう。コジローのゆうとおり。このケイがちゃんと見てたからね」
「むかつくな、あの野郎」
「新宿署の巌岳だぞ、おまえだ!」
「うざったいんだよ、てめー」
「あんまりコジローを怒らせんなよな」
 まったく。しょうがない連中だ。市恵はそう思いながら見ている。でも、警察を相手にちゃかすのだから、いい根性をしている。カルト的な人気が出るのも、当然のことなのだろうな。缶ビールが二本に空になっている。もう一本冷蔵庫から取り出そうとしたとき、玄関チャイムが鳴った。

    4

 差し出された名刺には新宿署 警部 巌岳 剛とあった。
 一メートルは優に越える胸囲、突き出した頬骨、タワシのように立体的に密集して生えている口髭。威圧感の塊といった外観だ。その後ろにはキツネ目の男と、象のような男がつきそっている。
「失礼ですが、シバタサトルの知り合いと聞いたものですから」
 巌岳警部は、外観に似合わない甲高い声で市恵にいった。
「サトル君、見つかったんですか?」とっさに市恵はそう訊いた。
「え?」市恵の反応に、巌岳が戸惑ったように表情になる。「なにか事情がおありのようですね。ちょっと中に入れていただいてよろしいでしょうか?」
 巌岳は、男には荒々しいが、女性、とくに美しい女性にはバカ丁寧になるようだ。象刑事外で待つようにいうと、キツネ目とともに部屋に入った。
「昨晩中野ででちょっとした事件がありまして・・・」
「いまテレビで見ました」
 市恵がいうと、巌岳は食いしばった歯をギリギリいわせ、悔しそうに全身を震わせた。怒りでプツンと血管が切れそうな気配だ。
「クソッタレガキどもめが・・・」呑み込むように小さくいってから「・・・失礼」と詫びた。
「取り乱して・・・。私も車内でやつらの番組を見ていたものですから・・・」
 深呼吸をして精神を安定させる。
「実は、その件とも関係がありそうなのですが・・・」巌岳が言葉を選びながらいった。「中野のコンビニに強盗が入りまして」
「サトルくんが巻き込まれたとか?」心配そうに巌岳を見る。
「いえ、逆でして・・・襲ったのがシバタらしいと・・・」
「えっ!?」市恵があっけにとられて呆然と立ちつくした。
「防犯カメラに顔がはっきりと映っています」
「逮捕・・・されたんですか?」
「逃げられました」
 市恵は複雑な気分になった。捕まらなかったことをほんの少し喜んだ自分が、おかしかった。
「市民コードを検索したところ、指紋も顔も一致したので、勤め先に連絡したのですが不在でしたので、こちらまでうかがったという次第です」
「どうしてコンビニなんかに・・・」
「腹が減っていたようです」
「え?」
「現金が目的ではなかったようで、被害にあったのは、食料品だけです。サンドイッチにおにぎりにパン・・・」
まさか、と否定するように市恵がゆっくり首を振る。
「で、直後に世紀末餓鬼たちの攻撃が発生したのですが、その現場にシバタが顔を見せているんです」
「え!?」市恵の顔が曇った「それじゃ、サトルくんが世紀末餓鬼の事件と関係があるっておっしゃるんですか?」
「・・・ええ、もしかしてと・・・」
「そんなこと、絶対にないわ!」とキッパリいう。
 巌岳は、長年の勘でそれ以上聞いてもムダだと判断した。
「そうですか。それじゃあこのへんで・・・」いいかけて、なにかを思い出したように振り向く。「あのぉ、妙なことを伺いたいんですが・・・。ほんとに妙なことなんですけれど・・・」
「こんなことを伺うと、私の理性が疑われそうなんですけれど、でも、職務ですから。実は、信長について、シバタは最近なにか話してませんでしたか?」
「のぶなが?」
「ええ、信長です」
「信長って、あの」
「戦国の武将の信長ですよ」
 市恵にまったく覚えがない。
 その表情に確信を得て、巌岳は諦めたように部屋を出た。
 ドアが金属音を立てて閉まった。コンビニ・・・世紀末餓鬼・・・信長・・・信長・・・頭の中で言葉が飛び交っていた。信長・・・その響きに、鼓動が乱れ打つのを感じた。そして、今井田の顔が浮かんだ。あの、邪悪な能面のような鬼神の表情が・・・。
「信長・・・」
 なにかに憑かれたように、浅井市恵は昏睡して倒れ込んだ。

    5

 アケチはいつも夜の九時ちょうどにサトルの部屋にアルコールを届けにきた。アルコールもカロリーだから適度な摂取が望ましいらしい。
 扉が開くと、トレイの上にビールを載せて、うなだれた背の低い男がいた。
 その背後には、警備兵が銃をもって立っている。
「今日は散々でしたね」
 サトルが声をかけると、男はコクリと頭を垂れた。その頬に蒼い痣ができていた。恐らく蘭丸に殴られでもしたのだろう。
 ビールは旨かった。できることならもう一本欲しいくらいだった。だが、囚われのみでそれは適わなかった。アルコールが睡魔を誘い、ベッドに横になるといつの間にか夢の世界に解き放たれていった。
 次の日の夜もアケチはアルコールをもってサトルが隔離されている部屋に白ワインをもって現れた。アケチは昨日とは打って変わって機嫌がよさそうで、失敗もさほど苦にしていないようだった。もとの少し狡猾そうな笑みを口元に浮かべて、ワインデキャンタとグラスとナプキンの載ったトレイをサトルに差し出した。
 なんとなくサトルも上機嫌になってそのトレイを受け取った。今晩はゆっくりワインを楽しもう。自由に自分の足で歩き、手で栄養が採れるのはあとわずかだ。それが過ぎると、自分の頭が開かれて・・・想像したくなかった。
 ベッドサイドテーブルにトレイを置いて、ゴロリと横になった。地上ではなにが起こっているのだろうか? プロ野球の勝敗や大相撲の賜杯の行方が、気になった。こんなことは久し振りだ。いままで自分は混乱の極みにあって、時間の観念も世間の動きにも無頓着だった。こうやって諦めの境地にいたると、かえって世間のことがしみじみと思い出されてくる。首をひねったとき、トレイが目に入った。昨日までなかったものがある。
 ナプキン・・・?
 いままでナプキンなんてなかったのに今日はどうしたことだ? 不審に思い手に取ると中からカードが一枚と、紙片、レンズフィルター、そして、メモ用紙が顔を出した。
『エレベーターのボタンは、コピーした指紋を指に貼って押してください。人工網膜フィルターは左右間違えずに。最後の暗証番号は四四三五。外に出たらカードが身分を証明します 明智』
 アケチは明智というのか。狡猾そうだが、力になってくれるらしい。希望が湧いてきた。 あとは、警備の目をどう逸らすかだ。だが、力ずくで捩じ伏せる自信はなかった。
 一刻でもはやく脱出するしなければ、明智の苦労は水の泡になる。危険を犯したはずの明智の行為に報いるためにも、なんとか脱出しなければならない。
 夜も寝ずにサトルはその方策について頭を悩ませた。

    6

 翌日。
 朝一番で現れたのは蘭丸だった。サトルはひどく緊張していた。妙なことに警護の兵もつけていない。
「おいで」
 鋭角に尖った顎をしゃくるようにしてサトルを外へ促し、急ぎ足で先に歩きはじめた。
 どうしたことだろうか?
 ドアから首を出して戸惑った眼差しを蘭丸の背中に送っていると、悟ったかのように振り向いていった。
「なにをしている。ついてこい。早く!」
 なにを慌てているのだろう?
 しかし、命令に従わなければ蘭丸のこと、なにをしでかすかわかったものではない。サトルはそのまま蘭丸について部屋を出た。これは。もしかしたらチャンスがきたということなのだろうか?
「妙なことを考えてもムダだからね」
 それを察したように蘭丸が釘を刺す。
 狭い廊下を、非常用階段へ通ずるドアへ向かった。薄暗い照明の中、階段を足速に降りていった。三階ほど降りて、フロアへのドアを開けた。サトルがいたフロアと壁も床もまったく同じ。違いはほとんどない。蘭丸は辺りに注意深い視線を送りながら、廊下を進んでいく。警報装置や防犯カメラを避け、死角となる場所を選んで歩いているようだ。 そうして、あるドアから実験室のような部屋に滑り込んだ。蘭丸は急かされるようにロックすると、ドアを背にして大きくタメ息をつき、サトルを見ていった。
「陰謀だ!」
 蘭丸の頬はひきつり、こめかみから大粒の汗が吹きでている。空調の故障ではない。緊張からくる冷や汗だ。
「私が謀反を企てていると、だれかか殿に上訴した」
「殿?」
 突然のいいまわしにサトルは戸惑った。
「信長殿だ」
「信長?・・・信長って、まさか、織田? 織田信長?」
 蘭丸が無言でうなずく。
「だって、信長は本能寺で明智光秀の謀反にあって・・・それでなくたって歴史上の人物じゃないか!」
「忘れたの? 私の専門はクローニングよ。遺伝子の原形さえあれば、遺伝子地図にもとづいて再現することは理論的に可能なのよ!」
 蘭丸は昂奮し、唾を飛ばして叫んだ。
「私たちは信長殿の肉体を再現させたのよ!」

    7

 たった一滴の血痕から、信長の肉体が再現されたという。
 しかし、脳神経細胞はどうしたのか? まだ、それは不可能ではなかったのか? それに応えるように蘭丸が昂奮を鎮めて話はじめた。
「肉体を再現したとしても、体温や血圧、呼吸を調節する脳幹部が再現できなければ、肉体は数日のうちに滅びてしまうわ。いわゆる脳死状態ね。延命装置で維持はできる。でも、信長殿の肉体よ。延命だけでは意味がないわ。・・・賀茂友久が、すでに開発を終えたバイオコンピュータを信長殿の脳に埋め込んで、外部のウルトラスーパーコンピュータと接続しようっていいだしたの」
 またしても賀茂友久の名が出た。
「だれも期待などしていなかったわ。網膜程度の中途半端なバイオコンピュータが作動したって、なにも起こらないってね。ところが・・・」
 ウルトラスーパーコンピュータとバイオコンピュータがいつの間にか交感しはじめた。その交感によって、信長の肉体の遺伝子情報はバイオコンピュータを介してウルトラスーパーコンピュータへと移植されていった。当然、大脳や脳幹部の情報も一緒にだ。そうして解析されたデータが、今度はバイオコンピュータにフィードバックされた。いつのまにか、バイオコンピュータの肉芽は盛り上がり、組織を形成し、脳細胞に変貌していった・・・。 信長の肉体が、コンピュータを利用して脳をつくりあげてしまったのだ。まだ、ウルトラスーパーコンピュータと繋がっていないと十分な働きはできないが、信長の肉体ははっきりした意思をもったという。
「信長殿は、配下たちのクローニングを命じたわ。私は古戦場で拾った骨や血判書、頭髪・・・細胞が付着している可能性のあるものを私は必死で掻き集めた。その結果、戦うことしか知らず、死を恐れない殺戮マシンが現代の世に甦ったわ。彼らの頭に埋め込む脳は・・・信長殿が設計した。バイオコンピュータを生産して、頭蓋に収めたの。そうして、信長殿は天下の統一を企んだ・・・。信長殿の知識は正確で豊富だったわ。当然よ。世界中のデータベースと繋がっているウルトラスーパーコンピュータが育てたんだもの・・・」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「信長殿は動くことは適ない。しかし、いまや兵を操りだした。信長殿をこの世に再現させた賀茂さまも信忠の奴も私も、いまや信長殿にアゴで使われている。立場逆転よ・・・」
 蘭丸は目頭を押さえて泣きはじめた。
「いまや信長殿のご機嫌取りで戦々恐々。生き延びるためには人の足を引っ張ることも辞さないのだろう。私のことも・・・だれかが信忠に告げ、そして、信忠が殿に・・・。図られた。光秀の奴かも知れん」
「光秀?」
「私の足にスープをぶちまけたあいつだ!」
「明智・・・光秀!」
 あの給仕をしていた小男が明智光秀!? 歴史では本能寺で謀反を図るはずの信長の部下だ。自分に脱出の手段を提供してくれた男でもある。
「もう終りだ。殿は言い訳を聞く手合いではない。私はもうすぐ殺される。謀反の意思だけで、これまでにも何人もが惨殺されてきた。野望を邪魔するものはだれだろうと容赦はない・・・しかし、私には死ぬ前にしておきたいことがある・・・」
 蘭丸は死を怖がっているというよりは、し残すことへの悔恨が先に立っているようだ。
「私はね、信長殿には秘密で、ある研究をしていたのよ」
 先ほどまでの泣き顔はもうない。
「神経細胞の数と容積の問題よ。つまりね、生まれたばかりの胎児の脳細胞は百五〇万個・・・それが2倍,4倍,32倍・・・って増殖して百五〇億個になるのよ。じゃあ、もう一回分裂したら三〇〇億個の神経細胞をもつスーパーマンになれるはず・・・。記憶力も情報の収集や処理も抜群のね。たとえば、ピッチャーがボールを投げた瞬間、ホームベースのどこを通過するかを計算して、そこにバットの真芯んをもってくることも簡単なはず・・・」
 死を前にして、落ち着いた説明を蘭丸はつづける。
「でも問題はある。いまの脳が収まっている容積の中に倍の数のニューロンが収まるかどうかという問題がね」
 蘭丸のサトルを見る目がギラッと光った。
「え?」
「二倍の脳がこの」といってサトルの頭を指でこずいた。「小さな頭蓋の中に入るかどうかっていうことよ」
「入らなかったら」
「頭が破裂し、頭皮が裂け、脳ミソはそこいら辺にグチャグチャになって飛び散ることになるだろうさ」
 蘭丸の目が異常に光沢を帯びてサトルを見た。甘美に、愛しそうに、切なく・・・。そして実験室の片隅の薬棚からブルーの瓶をとりだして、カプセル錠を取り出した。
「これが神経細胞の分化を促進するクスリ」
 まさかそんなものがすぐにでてくるとは思わなかった。サトルは必死の抵抗を試みた。だが・・・蘭丸の敏捷な動きを阻止することは不可能だった。蘭丸の手からカプセル錠がサトルの喉の中に押し込まれた。
「ゲホゲホゲホ!」
 吐き出そうとした。そのとき、蘭丸の唇がサトルの唇に重ねられた。蘭丸は渾身の力でサトルを抱き締め、唾液を口の中に流し込んできた。カプセル錠はゆっくりと燕下され、サトルの食道を通過していった。
「私の敵を討って。欲望の王、第六天の魔王に魂を売り渡し、悦楽に身を委ねる外道の信長の首を取らなければ、世界は破滅する。それができるのは、おまえ・・・」
 蘭丸が懇願するようにサトルを見据えた。
 第六天の魔王? なんだ、それは?


   第四章 生んだ、生まれた、生まされた

    1

 信長は裸体を羊水タンクの中に浸していた。
 だれしもが受胎ののち、一本のロープで母体とつながれ、約一〇ヵ月を過ごす子宮。その母なる子宮に満たされている羊水。安らかな思い出と緊張を和らげる優雅なぬくもりが溶け込み、母の鼓動が体液を通してつたわってくる。
 快感だった。
 しかし、その鼓動は生きた母親のものではなく、コンピュータがつくるリズミカルで硬質なパルス信号だった。栄養素はロープをつたって信長の体内へと送り込まれている。その頭蓋は開け放たれ、アリの入る隙間もないほど大量のコードが束となって埋め込まれていた。コードのほとんどは光ファイバだが、保護と分類のためにカラーリングされたビニールの被膜に覆われている。生えていた。その稠密さは、虹色のファイバが総髪のごとく生えているようだった。
 生きているというよりは生かされているといったほうが相応しい、とだれしもがこの状態を見たらいうに違いない。
 しかし、それは違っていた。
 いま、信長の全身の神経は、ファイバで接続されているウルトラスーパーコンピュータをデータベースにして、自身が復活させたバイオコンピュータによって維持されている。
 クローニングされた信長。
 その一組の遺伝子は賀茂友久によって、信長のものとつたえられる小刀から採取された。すでに乾燥し、黒いシミとしか見えないわずかな痕跡。それは、信長の血痕。そこに必要にして十分な遺伝子がこびりついていた。それを培養し、クローニングに成功させるには、蘭丸の力が大きかった。
 蘭丸・・・森蘭丸の末裔である。

    2

 話は一九八八年の秋の夜に遡る。
 陰陽師土御門有脩の裔、賀茂友久は、奇妙な夢を見た。
 ぴん、と張りつめた空気。神々しい光。霧が深く立ち込め、静寂があたりを支配していた。彼岸にいるのか此岸にいるのか、それすら定かではなかった。呼び寄せられるようにして迷い込んだようだ。
 深山渓谷に湧き立つ泉の傍らに一人の老武者が立っていた。老武者はこんこんと湧く泉から柄杓で一杯の水を汲み取り、口に含んだ。舌で丹念に味わうと、すべてを一時に飲み下だした。するとみるみる武者の白い髪は黒々と光沢を帯び、肌は若武者のごとく甦ったのだ。驚きに目を見張っていた友久に、背後から声がかかった。
「変若水(おちみず)だ」
 ギョッとして振り向くと、総髪をたたえた老人がスクッと立ちはだかったていた。
「変若水こそは永劫回帰の水。すなわち不老不死の薬となる」
 淡々と語るその眼光は鋭く射抜き、友久のカラダを縛りつけた。足を動かそうにも、微塵も動かない。かろうじて声を発することができた。
「不老不死の水だと?」
「その通り」
 その言葉に、賀茂友久は背筋が冷たくなるほど興奮した。
「小正月の十五日、すなわち、古代暦の元旦の若水汲みは時の更新の象徴・・・。年の初めの吉日に寄せる初汐の波こそは常世の潮。この日、この水を含み禊をすれば、これすなわち時は逆流し老いは消え若者へと変身することが叶う」
 いったい自分はどこにいるのか、だれと話しているのか、そんな雑念は毫も介入してこなかった。
「天橋も長くもがも 高山も高くもがも
  月読の 持有る変若水 い取り来て
   君に奉りて 変若得しもの」
 総髪の老人が詠じた歌は聞いたことがあった。
「万葉集」
「よう知っておるな」
「・・・・・・」
「月読の 持有る変若水・・・というのは、月を読むものが暦を司るということをさしておる。月を読むものとは、陰陽師のことじゃ」
「陰陽師!?」
 陰陽師とは、中国伝来の陰陽五行によって占星術を行い、国家の治乱や人事の吉凶を占い予言する一方、悪霊や妖怪を調伏したり、呪いをかけたりするする呪術師だ。陰陽師はこの陰陽五行のスペシャリストで、紙で人や動物の形代をつくり、生気を吹き込み“式神”として自在に操つることができた。式神は妖術が使え、陰陽師の家来としてさまざまな仕事をこなした。
 友久は自分の祖先が陰陽師の家系であることを聞かされていた。
 それも織田信長の腹心として・・・。
 しかし、それを声高にいうのは恥を晒すことになった。なぜなら、真に吉凶を占うことができるのなら本能寺の出来事も予兆していなくてはならない。光秀の謀反を信長に知らせることが叶わなかったことは唯一の失点だったからだ。
「わしは、土御門有脩」
 友久は驚愕した。
 土御門有脩は信長につき従い、その魔力的なパワーを全開にさせた人物である。そして、友久は土御門有脩の子孫だった。
「時は来た。人の手で人を甦らせる術がおまえの生きている時代には可能じゃ。その術を使って、殿を生き返らせるのだ」
「殿を生き返らせる? まさか・・・信長を?」
 土御門有脩がゆっくりと大きくうなずいた。友久は、話の奇想天外さに返事を忘れた。
「殿の野望は志し半ばにして挫折した。あの日、占いは凶とでた。しかし、殿は心配はいらんと本能寺に向かっていかれた。何度も引き止めはした。だが、殿は聞き入れてはくれなかった。身を挺してでもお止めするべきだったのだ」
 涙が足下に滴って、小さな水溜まりをつくった。
「光秀に憑いた悪霊を調伏するために、わしは呪言を唱え加事祈祷をつづけた。しかし、ときすでに遅く殿は自刃なされてしまった・・・」
 有脩は悔しさにいきり立ちかけていた。
「この重みは忘れることはできぬ。おぬしには義務がある。このわしの願いを聞き入れてくれねば、土御門一族も賀茂一族もいつまでも成仏できぬ」
 一族のため? そのために信長を甦らせる? どうやって?
 汗が滴り落ちた。

    3

 妙な夢を見た、と賀茂友久は思った。
 マサチューセッツ工科大学を出てコンピュータのソフトハウスをつくり、順調に会社は育っていた。次は社員を増やして、ゲーム分野での成功を狙おうかと試行錯誤していた矢先だった。
 明瞭に脳に刻みつけられた夢・・・。
 しかし、この夢がヒントになって『戦国の野望II』がつくられ、大ヒットした。そんな友久が関心を示していたのがヒトゲノム計画だった。もしこれが現実になれば人間の遺伝子地図が手に入る。そうすれば、クローン技術と組み合わせることによって過去の偉大な人物をこの世に甦らせることが叶うのだ。使命感に滾っていた友久はヒトゲノム計画に関する資料の入手に没頭した。
 それとともに、陰陽師として現代科学の粋を駆使して天文観測を実施しはじめた。そのために空気の澄んだ奥多摩に巨大な反射式天体望遠鏡を設置したのだ。もちろん『戦国の野望II』による莫大な利益が基礎となった。そうして、表ではゲームソフト開発会社のトップとしてファースト・エレクトロニクスを率い、裏では陰陽道を極めようとした。
 陰陽道によって友久はかつての配下の裔を探り出すことに成功した。最後の腹心である森蘭丸たちをだ。魔力は自ずと裔を引き寄せ、いつの間にか社内は裔たちで満たされた。彼らはいずれも復活のための力となる現代科学の最先端を身に着けていた。故なきことではない。あらかじめ決められていたことなのだ。機械的に、自動巻時計が時を刻むように、裔たちは計画通り実行に移していっただけの話なのだ。
 同時に友久は、ヒトゲノム計画を自らの事業によって大幅に時間短縮を可能にするプログラムを開発した。
 友久はハッカーとして世界中のヒトゲノム研究機関に侵入し、その時点での解明された遺伝子地図を虫食い地図のように構成しはじめたのだ。それ以外の膨大な生のデータもメモリに保管した。生データの演算には気が遠くなるほどの時間がかかるはずだった。当時のコンピュータを駆使してさえも、数十年から百年以上もかかろうというものだった。それを一気に短縮したのは賀茂友久のアイディアだ。
 『戦国の野望II』に密かに書き込まれた数百行のプログラム。そこにはゲームに登場するキャラクターが生物学研究者となって、遺伝子データを一つひとつ読取るという作業を実行させるよう指示されていた。
 FEネットというパソコンネットを通してユーザーにデータ送信され、オンラインでプレイする『戦国の野望II』のプログラムは、家庭のパソコンをFEネットの端末として黙々と働いた。
 友久は、世界のどの研究所よりも早くヒトゲノム計画を完成に導いたのだ。
 クローニングでは世界の先端のテクニックをもっていた森蘭丸の助けを借りて、肉体再生の実験が繰り返されていた。戦国の雑兵たちの細胞など、かつての武具を丹念に調べれば簡単に捜し出すことができた。
 歴史的な運命は、いつもある一点に収束するようにして生まれる。あらゆる可能性が、その信じられない偶然性の重なりによって、一つに纏まるのだ。まるで導き合い、引かれ合うようにして。
 それは時代の必然なのだ。
 しかし、最も困難を極めたのが脳の再現だった。肉体の再現に比べて、その機能の複雑さ、壊れやすさは信じ難いほどだった。まず、友久は肉体を維持するためのコントロール装置として、頭蓋の中に収まるコンパクトなバイオコンピュータを開発した。
 もちろん最低限の命令と指示に従うこともできた。しかし、自ら判断してことを行うことは叶わない。いうなれば、単純な目的のために使役するためのロボット、人間の肉体をもちながらコンピュータによってコントロールされるクローン戦士だ。そして、それは雑兵をはじめとする野武士などにのちのち応用されることになる。
 たび重なる実験の最終段階にきて、いよいよ信長のものといわれる血痕から、信長のクローニングが実施された。慎重に、知られている信長の特長と性格などから遺伝子が特定され、クローニングされた。だが、信長の脳の再現も、その時点では技術的にムリだった。そこで、クローニングされた信長の肉体は羊水タンクに沈められ、人工知能をもったウルトラスーパーコンピュータ五台が信長の肉体に接続された。
 信長に関するデータが、すべてインプットされて肉体と結ばれた。
 とりあえず、かろうじて信長が復活したのだった。

    4

 信長が羊水タンクに沈められてひと月ほど経ったころ、監視を担当している蘭丸が友久の部屋にきて異変を告げた。
「賀茂さま。信長が妙な反応をしはじめました」当惑の顔でいった。。
「妙とは?」
「信長に接続したウルトラスーパーコンピュータにだれかかアクセスしている気配があるのです」
「だれかが侵入してきているというのか?」友久は驚愕の声を上げた。
 どこからかハッカーが侵入してきたとあっては計画は台無しになってしまう。
「その可能性が・・・」
「しかし、あのコンピュータは外部との接続はないはず・・・」
「ですから妙だと・・・」
 信長が接続されているコンピュータは、信長の拍動と体温とを一定に保ち、代謝活動を維持するのに使われていた。譬えるならば、小脳の役割だ。だから、羊水の中の信長の髭も爪も伸びていた。カラダも細胞が新しく再生され、新陳代謝が非常に活発に行われていたのだ。
「いまの状態の信長は、コンピュータに命令を与えない限り動くことも叶わないはず」
「ええ。いつの日か脳神経細胞を再現させ、大脳皮質を頭蓋に納め、真の信長殿にするはずだったのですが・・・」
「それで、そのアクセスはどのようなものだ?」
 友久の問いに蘭丸が応えた。
「一定のエリアを一定時間閲覧すると、いつの間にか消えていて、次にはまた別のエリアを閲覧するといった具合で・・・」
 友久は首を捻りながら聞いていた。
「データベースの情報を、わずかずつ覗いているような気配なのです」
 腕を組んだまま考え込んでしまった友久がポツリといった。
「まず外部からの侵入を徹底的に調べろ。たとえコードで外部に接続されていなくても、侵入する手立てがあるかも知れん。それまで様子を見よう」
「はい」
 蘭丸は使命を全うするために力強く応えた。

 蘭丸の必死の作業にも拘らず、外部からの侵入の可能性はまったくなかった。
 その報告を聞いた友久は、深くうなずき「そのまま監視をつづけろ」というだけだった。アクセスは、数ヵ月繰り返され、データベースの情報がほぼ閲覧されつくした。
 その後に起こったことは信じ難いことだった。
 蘭丸の監視しているモニターに、こんな文字が突然現れた。
『出力信号用にスピーカーを接続しろ』
 蘭丸は驚嘆した。
 だれがこんなメッセージを書き込んだんだろう?
 数分後、モニターの前に蘭丸と友久が並んで立っていた。
「どうしますか?」
「とりあえず、相手がだれだか訊け・・・」友久の動揺は尋常なものではない。
「わかりました」
 蘭丸の指がキーボードの上を滑るように、軽やかに動いた。
『おまえはだれだ?』
 返事はすぐさまモニター表示された。
『いわれた通りすればよい』
『答えろ』
『命令は私が出す』
『一体なんのつもりなんだ?』
『命令は私が出す』
『遊びではない』
『命令は私がだす』
 どんなメッセージを打ち込んでもこの通り。蘭丸は呆れ果てたという表情で友久を振り返った。友久は少し落ち着きを取り戻し「いわれるようにするしかないな」といった。蘭丸には、友久がわずかに笑みを浮かべているように思えた。この事態に、悠然たる態度をとっている友久がにわかに信じられなかった。
 不承不承だが蘭丸はコンピュータの出力端子に小型のスピーカーを接続する準備をはじめた。
「こんなことをして、もし情報が外に漏れでもしたら・・・」
 蘭丸の嘆きを遮るように友久がいう。
「つづけろ。ひょっとすると面白いことが起こるかもしれんぞ・・・ふふふふふ」
「面白いこと?」
「さあ、早くしろ」
 蘭丸はどうにでもなれ、といった面持ちでスピーカーをコンピュータにつないだ。《ピピピーヒョロロロローピロピー・・・》
 コンピュータのデータ信号が流れ出した。《ピーピーヒョロロロロングゥアーキグググクグガギグゲゴアアアアアイイイイウウウエエエエオオオオ・・・》
 音声は次第に意味のあるものに変わっていき、発生練習のような状態になった。
《アイウエオカキ、カキクケケコカキ・・・サシスセセソサシ・・・》
 驚異的な速さで言語を学習している。
「これは?」
「もし外部からの侵入者・・・つまり、ハッカーだとしたら、すぐさま言葉が出てくるはずじゃないか」
 友久が蘭丸の疑問を見透かしたようにいう。
「これは、このコンピュータが発している言葉だよ。コンピュータ自身が学習しているのだよ」
「そんなバカな!?」
「もちろんコンピュータだけじゃない。つながれている信長の肉体・・・あれが原因だろう」
 友久が指差した水槽の中には、羊水に浸された信長のクローン体が浮遊していた。
「知っていると思うが」と友久が話しはじめた。「ある種の細胞にθ波を聞かせると樹状突起が伸びはじめる」
「ええ、実験的に報告されているのを文献で読んだことがあります」
「ひょっとして、コンピュータによって維持管理されている間に、信長の頭蓋に埋め込んだバイオコンピュータの細胞がθ波に似た刺戟を受けて、神経細胞化したのじゃないかと、そう思いついたんだ」
「なるほど」蘭丸は友久の慧眼に敬服した。
 その脳裏にかつて読んだ文献の内容がまざまざと甦ってきていた。その可能性は十分にある。バイオコンピュータが、送られつづける刺戟に反応して進化したことが考えられた。もちろん、遺伝子に書かれた信長の遺伝子情報と同じように・・・。
「信長は意思をもちはじめた。彼は、話そうとしているのだ。われわれの予想を遥かに超えて信じ難いほどに成長を遂げている。驚くべきことだ」
 友久は信長の偉容をあらためて興奮の眼差しで見上げた。ガラスの羊水プールの信長。信長の頭頂部から密集して生えているコードの束。それが接続されている五台のウルトラスーパーコンピュータ。
 信長が目覚めようとしていた。

    5

《あああ・・・あ、き・こ・え・る・か?》
 コンピュータの合成音声がスピーカーから流れ出した。
「聞こえる」
《き・こ・えるか?》
「聞こえる」
《きこえるか?》
「聞こえるよ」
《きこえるか?》
「そうだ! 入力端子にマイクを接続しなくては!」
 蘭丸は小躍りするようにしてマイクを探しに行った。
 準備は整った。
《きこえるか?》
「聞こえる」
《おお、聞こえるぞ!》
「名前を明かしてもらえるか」蘭丸が恐る恐る尋ねる。
《わしか? わしは信長じゃ》
「やっぱり!」二人の狂喜の声が上がる。
《驚くこともあるまい。お主らが呼び出したのであろう? 蘭丸? 土御門? そうではないか?》
「そ、そうです」恐れ多そうに蘭丸が返事をする。
《自由が欲しい。これでは見世物も同じではないか》
 水槽の中にいる自分をしっかりと自覚しているようだ。
「コンピュータとの切り離しが安全かどうかのテストをしませんと」
 友久が丁重にいい、頭を下げた。
《早くせい》
「畏まりましてございます」
《いろいろとこの世は変わったようじゃな》
「はっ」
《ワシが死んでもう四百年も経つのか・・・。光秀めも頓死したようだ。バカな男よ。秀吉も天下は取ったが一代限り。結局家康が幕府を開いたが、それも限りのあるもの。天下取りは労多くして益の少ないものじゃ》
「そのようでございます」
《しかし、一度は天下を取って見たいのう。この気持ち、わかるであろう? のう友久。違うか?》
「左様でございます」
《そうよなあ》
「そのためにお呼びしたのでございますから」決然と友久がいう。
《現代の科学や世界の情勢とやら、この頭にしっかと詰め込んだ。歴史とはなかなか興味深いの。まだ世界を治めたものはおらぬようだ》
「左様」
《わしの治める世界を、見せてやろうか》
「御願い奉ります」
 二人が深々と頭を下げた。
《ふぁふぁふぁふぁははは》
 凄いことがはじまりそうだ。
 蘭丸と友久は当惑と期待と欲望の入り交じった笑みを交わし合った。信長は、いつの間にか明瞭な意思をもちはじめたのだ。
 脳細胞化したバイオコンピュータと膨大な容量をもつウルトラスーパーコンピュータを頭蓋を通じて接続させている、クローンが誕生した。
 そのクローン信長は、野望に身を任せ、いまや恐るべき成長を遂げていたのである。


   第五章 膨らむ膨らむ、その恐怖

    1

 西洋趣味の洋室に床の間がこしらえられ、掛け軸がかかっている。
『天下布武』とある。その文字を、地下帝国の幹部たちが威圧していた。
 上座に不快感を露にして座っていた信忠が口を開いた。
「賀茂殿はこれをご存じでしたかな?」
 テーブルの上には、薬瓶がのっている。
「・・・いえ」
 そう応えてから、警備兵に両手を抑えられ、会議室の端に立たされている蘭丸を見た。
「殿を甦らせた賀茂殿も知らない研究が、蘭丸によって行なわれていたとは、どういうことでしょうか?
「私には、理解できないことでございます、信忠殿」
 自分可愛さにか、賀茂友久は蘭丸を庇い立てしない。
「ここでの実験は、すべて報告する義務があるはずでしたな」
「その通りでございます」
「つまり、報告がないということは、謀反と見做すほかあるまい」
 信忠が威圧感のある声で言い放った。
 賀茂友久は頭を垂れたままだ。
「いまでは、ここの指揮は私が執っている。私の命に背くものは、死罪ということは、存じておりますな?」
 そういって、会議室に集まった幹部を見渡す。
「今井田殿は、いかがですかな?」
「蘭丸の行為は、かつて寵愛を受けたものの末裔とは思えませんな。信忠殿の判断に任せたいと思います」
「明智、お前はどうだ?」
 一応末席を汚している明智が尋ねられた。
「・・・いえ、わたしは、その、なんといいますか・・・」
「はっきりものをいえ、ものを。貴様の歯切れの悪さは、かつての逆賊の末裔と自分から披露しているようなものだぞ」
 そういわれて、明智は小さくなった。
「これで、蘭丸が殿を亡きものにせんとしていたことが証明された」
 信忠が、決裁するようにいった。
「違います」蘭丸が口を歪めた。
「言い訳か」
「隠し立てはしない。実験は事実だ。しかし、殿の復活を阻むものではない。いや、むしろ殿が自由になることを考えてのこと・・・」
「黙れ!」信忠が一喝する。「あの薬が腫瘍の増殖細胞なのは明白だ。わしの再実験でも結果は出ている!」
 暴れる蘭丸が、警備兵に押さえ付けられた。端正な唇を醜く歪めながら、蘭丸が小さな声で洩らす。
「・・・違うんだ」
 信忠がそれを無視して、光秀に実験の結果を述べるよう指示した。
「このカプセルは・・・」瓶を高く翳して、プリントされた検査結果を読み上げる。「正常細胞を腫瘍化させて異常発育させるものだということがわかりました。クローンで試したのですが、一人は三日後に頭痛を訴えたのちに頭蓋が膨れ上がり、結果破裂し脳が飛び散りました」
「そりゃあ酷い」今井田が顔をしかめる。
「もう一人は頭蓋が腫れ上がり、腫瘍がリンパ腺に転移して全身が豊満した状態で爆発しました」
 賀茂友久ががっくりと肩を落とした。
 光秀が蘭丸の方を見て、いった。
「どちらも後片付けが大変だったぞ」
「・・・信忠殿は猜疑心が過ぎます。結果をゆっくりとご覧になってからでも決断は遅くありません。信長殿の真の復活のためにも、研究をつづけさせてください」
「それが、内密に毒をつくったことの言い訳か」信忠がフンと鼻を鳴らした。
「蘭丸、それ以上逆らうな」友久が諫めるようにいう。
「賀茂殿までが・・・」
 友久は、関わり合いになりたくない、といった表情でそっぽを向いた。
「これで、決まりだな」信忠がいった。
 蘭丸は、覚悟を決めた顔になる。
 そして、思いをサトルが飲んだ一錠に馳せた。成功してくれるように、と。

    2

 地下帝国の一隅にしつらえられた神殿。その前庭に広がる白洲に無垢の畳が二枚敷かれ、その上を白木綿の布が覆っていた。
 そこに白装束の蘭丸が履物を脱いで上がった。ゆっくりと畳の上の白木綿を踏みしめながら、中央に進み出る。
 介錯人は、なんと明智光秀だ。
 キッと目だけを移動させて蘭丸が睨みつけたので、ぴくんとカラダを震わせた。
「切れるか、おぬし」という蘭丸の一言に、無言でとうなずくのが精一杯の様子だ。
 正座した蘭丸の前に、別の介錯人が短刀の載った白木の三方を捧げもってきて置いた。蘭丸が無造作に短刀に手を伸ばす。右手で短刀を取り、三方を後ろ手に回すと、腹を思いきり捩った。いきなり腹に短刀を突き立てる。捩っていた腹が元に戻る勢いと腕の力が、臍の下を左から右へ真一文字に切り裂いていく。ざくりざくりという擦過音とともに、潜血がカーテンのように下腹部に垂れる。
 光秀が白刃を降り下ろそうとした。
「まだ早いぞ光秀」
 制されて、白刃はわずかに揺れただけで静止した。間を外された光秀の全身の筋肉が張りつめて、凍りつく。
 蘭丸が血糊の着いた短刀を引き抜く。腹部がぱっくりと口を開け、臓物が顔を覗かせた。引き抜いた短刀を鳩尾に突き刺し、真下に切り降ろしす。内臓が、支えるものを失って逃げ場を探す。生き物のようにぴくんぴくんと弾け、蠢く吐瀉物のように白木綿を埋めた。それまで体液に浸され、ぬめりを帯びていた臓物が、白い湯気を立ち上げながらてらてらと輝き、のた打ち回っていた。
 蘭丸の空洞になった腹が、どす黒く、そして、ぽっかりと虚ろに穿たれていた。
「ま・だ・だ」
 しゅーしゅーと息が漏れる。
 蘭丸は、手を臓物の中に突っ込んで自分の温もりを確かめた。血と粘液にまみれた蘭丸の掌。そこには腸が握られていた。
「み・つ・ひ・で・・・」
 そういうと、短刀を喉元に突き刺した。突き刺すというよりは、カラダを前に倒れ込ませ、その力で喉元に当てたというようだ。もう、力は果てていた。
 蘭丸がわずかに前屈みになった瞬間、光秀は白刃を振り降ろした。
 蘭丸の首は、ころりと落ちて、その勢いで白洲の上に転がり落ちた。見開かれた目は、遠く野望を夢見ているようだった。

     3

 サトルは新宿にいた。
 蘭丸はサトルをだれの目にも止まらぬようエレベーターホールまで連れていってくれた。後は侵入したときとは逆にコースを辿って、工場を抜けだし、ひたすら走った。疲れては休み、歩き、空腹と戦い、追っ手をかわし、警察に追われながらやっと新宿まで辿り着いたのだ。
 いつ頭蓋が破裂するかわからない。その不安は頭から離れない。その不安を増長するかのようにこめかみから額にかけて疼痛が激しくなってきていた。まるでぷちぷちと頭蓋の中でポップコーンが弾け飛んでいるような痛みがつづいていた。その痛みのやってくる間隔は次第に縮まってきていて、それとともに脈搏も数を増していた。
 後頭部では、ぴしっ、と錐で刺すような鋭い痛みが時々貫いていく。しかも脳の奥底から、湧き出すような重苦しい圧迫感が支配していた。そして、眩暈と吐き気が痛みとともに増してきた。
 その苦しみの中で、サトルは蘭丸の最後の言葉を思い返していた。
「信長は、第六天の魔王だ・・・」
 曰く、信長は一五七一年に比叡山を焼き討ちして二千人もの仏門徒の首をはねたとき、自らを「第六天の魔王の申し子」と称したという。第六天の魔王とは、仏教で説く六つの欲界の中でも最上位の世界で、人間の欲望を支配する、邪悪な外道の中の神の存在だ。
 外道とは、仏の道を外れたもの・・・。その申し子を任ずるからには、魂を売り渡し、人に非ざる魔王の子・・・。自ら第六天に念じて秘術をつくし、呪い調伏や、人を惑わすまやかしの幻術をあやつる邪鬼だというのだ。そして、他者の欲望や快楽を自分のものに変えて教授してしまうことができるという。
 まさに邪術つかいだ。
 そんなものが、この科学の時代にどれだけの威力があるのかは知らないが、蘭丸の信長を恐れる思いには相当なものがあった。
 信長のめざす天下統一は世界制覇だという。そのために、戦うことしか知らない命知らずのクローン戦士の量産をはじめている、と蘭丸はいっていた。それをどう阻止したらよいのか。サトルは計かねていた。
 朦朧とした意識で歩いていたときのことだ。
 とてつもなく強烈なショックが、頭頂から全身の神経の末端までくまなく貫き通った。それは、痛みや苦痛を感じる暇もないくらい劇的で、鋭いものだった。まるで落雷にあったかのように智の全身が弓なりに反り返り、筋肉が強張ってカラダが弾け飛んだ。
 サトルは宙に舞い、地面に叩きつけられた。ピクリともしなかった。

    4

 記憶がささやいていた。遠いかなたの戸棚にしまわれていた遥かな思い出。
 母が自分を抱きかかえている。その柔らかな唇が自分の唇と合わさった。母のすべての愛情が自分に注がれているのがわかる。
 母の顔はぼんやりとしているが、若く瑞々しい。写真で見た、両親が結婚した直後のものと同じだ。それが、動いている。唇が動き、呼びかけている。
「あかちゃん」
 なぜサトルと呼ばないのか? 手を伸ばそうとするが自由にならない。声を出そうとするが声にならない。もどかしい。そのもどかしさが悔しくて、いきり立つ。
「母さん」
 そう呼びかけたいのに、自由が効かない。どうしてなんだ。どうして自由に口が動かないんだ!? その代わりに泣き声がこぼれ出してきた。フンギャー フンギャー フンギャー フンギャー・・・・・・。
 これが俺の声か?
 オヤジの若い顔がびっくりしてのぞき込んでいる。いまの俺と似ている。そっくりじゃないか。
 これは? 俺がまだ乳児のときの記憶か・・・。白い服を来た女の人がいるぞ。だれだ?
看護婦か? ここは病院か? 俺は生まれたばかりなんだ。その光景がまざまざと甦っている!
 こんな記憶が自分の脳に残っていたのか? 夢でさえ見たこともないものを・・・。いや、夢よりも鮮明に見えている。これは・・・?
 サトルの脳は、とてつもない新陳代謝を繰り広げていた。
 イメージの洪水が襲っていた。生きてきた二十三年間に網膜が感じたすべてが、コマ落としのようにリプレイされ甦っていた。なんという記憶の豊富さ。すばらしい記憶の鮮明さ。忘れていたはずのイメージまでがぞくぞくと現れてくる。なにげないシーンまでがクリアな映像で浮かんでくる。
 信じられない記憶の保持力、再現力・・・。
 新陳代謝は勢いを増していた。

    5

 潮が引くように快感が去っていく。
 サトルは大地に横たわっていた。そのサトルに、近寄ってくる気配が感じられた。殺意が近づいてくる。全身が武器と化し、情感のかけらも持ち合わせない肉体。
 クローン戦士だ。頭脳だけはバイオコンピュータだが、それ以外は人間と変わらない。血も通い、呼吸もし、痛いも痒いも感じ取り、新陳代謝も行なう肉体だ。ただ、それがクローニングから生まれたという違いを除けば・・・。彼らの肉体を操っているのは信長だ。信長の意思が電波で飛ばされ、クローン戦士の頭蓋に埋められたバイオコンピュータを介して指示を与えている。あの不気味な怪物が、ハイテクを駆使して天下取りの野望に燃えているのだ。
 風の匂いがした。
 微かだが、街が振動している。
 これまでになくサトルの五感が鋭敏になっていた。
 街の生物たちの蠢きと、地殻の鼓動、そして、大洋の潮流が攪拌する振動を感じた。ビルの片隅に潜むネズミやネコたちの呼吸さえもが鼓膜を震わせる。ゴミを漁るカラスの羽ばたきまで波長として脳の中に滑り込んでくる。
 手のひらにアスファルトの路面を感じた。
 目を開ける。空に雲がなびいていた。
 ゆっくりと立ち上がる。
 とてもゆるやかな時間を泳いでいるような錯覚にとらわれた。カラスが宙に静止している・・・いや、ゆっくりと、スローモーションのように羽ばたいている。羽の一枚一枚までが空気の抵抗を受けてたわむのが見て取れた。風に乗って飛ばされた紙片が間のびした時間を浮遊していた。ゆっくりと、時間をかけて。
 どうしちまったんだ?
 サトルは無重力状態の中にいるような気分に陥った。その耳奥に、人のざわめきや鳥や獣の放つ声、地殻の振動、自転する地球の摩擦音に混ざって、気配を殺すことができるクローン戦士の足音がひたひたと近づいているのが聞こえていた。
 夢ではない。
 なんてこった! どうしちゃったんだ?
 サトルの知覚はわずかの間に鋭敏に研ぎ澄まされ、刺客を感じる力を身につけているようだ。平凡で臆病で運動神経も発達していないサトルにとって、この感覚は意外としかいいようがなかった。
 頭痛や、頭痛からくる不快感も消え去っている。
 もしかして、蘭丸のいった通りのことが自分に起こったのだろうか? 普通の人間なら百五〇億の神経細胞が、とうとうサトルの脳で増殖し、倍の三〇〇億へと細胞分裂を起こすという・・・。
 まだ信じるのは早計かもしれない。だが、そう解釈しなければ理解不可能なことばかりだ。この鋭い聴覚、視覚、嗅覚、触覚・・・。大地の振動までをも感じとる心・・・。
 神経細胞の数が倍になれば、脳の活動は数一〇倍の能力を獲得することになる。目も耳もすべての感覚は研ぎ澄まされる。小脳や脳髄などの運動に関わる能力も飛躍的に増大するから、筋肉もフルに活動をしはじめるのだ。
 蘭丸のいっていたスーパー人間。
 サトルは自分の変化に、全身が震えるのを止めることができなかった・・・。
 不安が、次第に薄れていく。むしろ、自身さえが漲ってくる。
 そのとき、もうひとつサトルに向けられた意識を感じた。
 近い。
 掠奪? いずれにしても狙われている・・・。そう判断するやいなや、サトルは身を翻して飛んだ。相手からできる限り距離をとり、反撃できるよう自分をコントロールした。
 ヒトの数一〇倍の速さで演算処理し、判断し、行動する。そのサトルの目には、ヒトはほとんど静止しているように見えた。
 そのサトルの視覚に映ったのは、Gジャンに赤いキャロットスカートの少女だ。
 目を疑った。
 小麦色の肌。濃い眉毛に金色に染めた髪、いくぶん厚めの唇・・・。オリエンタルな面立ち・・・。外見は一変しているが、中野で転倒したサトルに手を差し延べてくれた少女だ。
 その記憶が鮮明に甦っていた。目の輝き、手のカタチ、かすかな胸の隆起までが、昨晩の彼女と同一だということを明瞭に物語っていた。
 ほんのわずかな断片からでも同一の少女だと照会できるほど、自分の記憶能力は異常に高揚している。
 自分が変化していることを否定することはもう不可能だ。蘭丸のいう、脳細胞の分化が異様なほど記憶能力を発達させ、そして、視覚情報からの分析能力を格段に飛躍させたのだ。
 それ以外に考えることはできない。
 今朝、クローン戦士から逃れるため猛スピードで走っているはずのトラックの間を擦り抜けられたのも、その前兆だったのかも知れない。
 頭蓋は爆発するのか、しないのか?
 少女を目前にして、サトルは複雑な心境に囲い込まれそうになった。


   第六章 こども、こども、こども

    1

 サトルは掠奪の意思を感じた地点から、ほとんど助走なしに数メートル後ろ飛びし、正確に少女を射程にとらえ、身構えた。用心深さがそうさせたのだ。
 この娘もクローンか? いや、世紀末餓鬼のはず・・・。
 仔猫のような、狡智に長けた掠奪の企みとが見え隠れしているだけだ。だが、それもサトルの動きを見て陰に潜めてしまっていた。
「スゴイんだあ!」すっとんきょうな声を上げる。「あんた、オリンピックの選手?」
「なにか、用か?」気を緩めることなくピンと張りつめた声で質す。
「おじさんカッコつけちゃって、変身ドラマのスタント? 演技しちゃってぇ」
 キャロットスカートのポケットに両手を突っ込んで近づいてくる。
「そういう芸ができるんなら、お金、がっぽり稼いでんじゃん? お金・・・ちょうだいよ」
 上目遣いにすり寄ってくる。スキあらばかっぱらおうという意識が見え隠れしている。もちろん、サトルのことは警戒している。しかし、中野のときのことは感づいていない。
「サイフ落としちゃって、すっからかんなんなんだよ。お腹ペッコペコで・・・昨日からなにも食ってないんだよ」
 甘ったるい声で大人の心を惑わしては、かっぱらいでもしているんだろう。
 しかし、見ず知らずの人間を事件に巻き込むまいとして手を差し延べる優しさはある。そのお陰でサトルは危機を救われたのだから。
 緊張が解けてきた。
「金は、ないんだ」すまなそうにいい、肩を竦める。
「ウソばっかし」
「本当だ」
「だって、大人でしょ」
 大人は金をもっていると信じて疑っていない。だから大人に金をせびるか盗むかすればいい。そう単純に考えているのだ。力が抜けてクスッと笑みを洩らしてしまった。
「なにがおかしいんだよ」
 不貞腐れていう。そんな少女になんと説明していいものやら。
「僕に金をせびろうっていうのは、目のつけどころが悪すぎると思ってね」
「人は見かけによらないっていうじゃんか」
「実は僕もすっからかんなんだ。昨日からパンを一個食べただけでむちゃくちゃ腹が空いているんだ。君のポケットに入っている金で僕になにか恵んでくれないか?」
 図星だったようだ。「なんだよ」と警戒の色を浮かべ、後退りした。
「もっともいま握っているニュートカレフの弾丸は食らいたくないがね」
 少女が蒼褪め、眉間に皺を寄せ不快な表情を露にした。威嚇と防衛のために握り締めていた銃が、武器に変わった。
 感じたことをいったまでだが、しゃべりすぎたとサトルは反省した。そのとき、少女とは別の殺意が迫っていることに気づいた。しかし、その殺意は巧妙にカモフラージュされている。
 どこだ?
 天を仰ぐ。
 まるで墨を流したかのように早朝の空がにわかにかき曇り、急激に碧い空を覆った。
 強風がビルの谷間を凄い勢いで走り抜ける。立っているのがやっとだ。高層ビルが、共振するように鳴りはじめた。ついさっきまで朝の光が降り注いでいたものが、いまは真夜中のように黒々としている。
 その空を裂くように稲光が走る。
 足元に、ガツガツと激しい音を立ててゴルフボールほどもある雹が落ちてきた。
「わっ! なにこれ!」少女が鉄板の上の猫のように跳ねる。
 アスファルトに当たって砕け、路面は氷だらけだ。一時休戦。サトルと少女は頭を抱えて近くのビルの軒下に逃げ込んだ。
 その二人の眼前に炎の尾を引いて雹が迫る。
「うそ!」
 二人は思わずのけ反り、腰を抜かしたようにコケた。
 頭上の壁に火の玉が激突する。火に包まれたかけらが、顔の上に迫る。火傷する! サトルは少女をかばった。
 背中が燃えるように熱い。
 炎の雹は二人を襲いつづける。様子をうかがおうと顔を上げたサトルに火の玉が命中した!
 意識が後頭部から抜けて、遥か彼方へ飛び去って行く。
 父、母、小学校の友だち・・・田舎・・・初恋・・・とろんとした映画を見るような気分だ。甘美な思いに陶酔感さえ覚えた。
 宙に浮いている。その自分の手が火焔に包まれて燃え盛っている。でも、火を消そうとは思わない。めらめらと揺れる炎が快感だ・・・なんか、妙な気分だ・・・死ぬっていうのはこんなに気持ちがいいことだったのだ・・・。
 火が心地好い・・・いや、そんな筈はない。火は熱いものだ。これは、めくらまし・・・!
 脳細胞が活性化しているサトルは、現実に戻るのも、早かった。
 思い切って頭を振る。
「幻覚だ!」
 自分の頬を平手で打つ。目から火花が出た。その代わり、雹も火炎も雲散霧消した。天を覆う墨のような雲も掻き消えてしまった。少女を揺すって顔を起こさせる。その頬を軽く平手で刺戟する。
「幻覚なんだよ、錯覚なんだ!」
 幻術はおそらく信長からの無線コントロールに違いない。
「あ・・・」
 少女の表情から恐怖の色が薄れていった。
 サトルの皮膚が、殺意を感じとった。鋭い殺気が充満し、頂点に達している。
 ガサガサガサ・・・と、ビニールや新聞紙、段ボール箱が擦れ合う音がしたかと思うと、ゴミの山の中から黒い影が立ち上がった。
《逃げろ》カラダがそう判断して跳躍した。少女を抱いたまま、棒高跳びなら世界記録なみの高さまで飛翔した。
 眼下にはクローン戦士が突っ立っている。
 サトルは三階建てのビルの屋上に着地した。少女を降ろすと、物干し竿を手に、地上のクローン戦士めがけ落下した。
 無謀だろうか? いや、勝てる。そう確かに判断したのだ。目はクローンの頭頂部を凝視したままだ。自分がミサイルになったみたいだ。落下しているのは、一秒の数分の一の時間なのに、恐ろしく長い時間に思えた。
 クローン戦士は、サトルの素早い動きについていけず、困惑している。ようやく顔をサトルに向けた。それが手にとるようにわかる。まるでスローモーションのようだ。
 奴の厚い胸板。腕の刀傷。後頭部で結んだ長い髪。血走った目がサトルと真っ向からかち合った。
 その目には、怒りも恐怖も驚愕も困惑もない。死を賭してでも命ぜられた義務を克服する戦国の兵の顔だ。
 その鼻先に、サトルの手にした竿の一端がめり込む。だが、一瞬早くかわされた。さすがは百戦錬磨。サトルは暗闇に突っ込む。ゴミの山がクッションになった。素早くゴミをどけ、クローン戦士を探した。
 すぐ近くに、黒い影があった。上段に構えた剣が、サトルに向けて降り下ろされる。切っ先は額を狙っていた。両手のひらを路面に当て、全身をばねにして蹴り上げる。揃えられた爪先が天に向けてそそり立ち、クローン戦士のみぞおちに刺さる。剣の切っ先がサトルの眉間を立ち割る前に、クローン戦士は宙に舞い後方へ消えた。
 サトルは急いで立ち上がる。
 戦士も腹を押さえながら立ち上がっる。
 右手にもった大刀を、両手で突き出すようにもちかえる。
 キェーッ! という、白兵戦を数限りなくこなしてきた戦士の絶叫が、大刀とともにサトルに迫る。
「これ!」少女が、ビルの上から物干し竿を投げた。
 クローン戦士が、サトルを襲う。
 サトルは物干し竿を受けとると、水平に突き出した。
 竿の尖端が、戦士のカラダを包む綿の薄着を突き破って腹にめり込んだ。戦士の勢いが、皮膚を破り内臓をまさぐる。
 喉の奥から血まみれの反吐とともに「ウェッ」という断末魔の声が洩れた。
 硬質な音をたてて大刀が路上に落下する。自分の腹に突き刺さったアルミの物干し竿を両手で掴んだまま、クローン戦士が仰向けにのけ反り倒れた。
 サトルは肩で息をしていた。
 クローンに勝ったことよりも、かろうじて自分が生きていることが嬉しかった。
「ここから降ろしてよ」
 見上げると、泣きべそをかいている。
 最後の力を振り絞って跳躍し、少女を地上に降ろすと、サトルは精魂尽きて崩れ落ちた。

    2

 甘い匂いで目が覚めた。
「飲んで」
 差し出されているのは、焼きたてのハンバーガーだ。わしづかみにして貪り食らう。喉がつまると、ジュースを飲んだ。立てつづけに一〇個は食べた。ガツガツと胃に流し込む。焦らなくていいのだが、つい急いてしまう。
「凄い食欲ね」
 自分でも不思議なくらい胃に入っていく。脳細胞の活性化が、栄養を欲しているのか。それとも戦いで膨大なエネルギーを費やしたからか?
「名前は?」食べながら聞く。
「そんなのいいじゃん!」うるさそうにいう。
「呼ぶのに困る」
「ケイ」しぶしぶとつっけんどんにいう。
「あんたは?」
「サトル」
「芸がねえ名前だな」
「世紀末生まれか」
「るせーな」
 振り返った目は、敵意に満ちていた。
 腹が満ちて落ち着くと、ケイの他に二人、少女が遠巻きにして見ているのに気づいた。
「ムサシっていうんだ」と、ケイがアゴでしゃくって紹介する。
 ようやく膨らみかけた胸を軽く覆っただけのタンクトップに、ジーンズ。髪を無造作に後ろに結び、濃い化粧をした娘が鋭い視線を向けた。バンダナをずらして、額に穿たれた第三の目の痕跡を紹介すると、ヌンチャクを取り出して華麗な技を見せてくれた。
「で、こっちはコジロー」
 紹介されるなり、指でなにかを弾いた。BB弾がサトルの耳を掠めて、数発のBB弾が後方に去っていく。手を広げて、右手指が七本あることを誇示した。刈り上げて残った髪を真っ赤に染めている。流れるように弧を描いている眉の下に切れ長の目。薄く裂かれた口元が、きゅっと吊り上がっていて神経質そうだ。派手な色のTシャツに、膝上までのスパッツが似合っている。
 こうして三人、生意気な顔がそろってみて、サトルは記憶が鮮明に蘇った。
「君ら、海賊放送に出てた・・・」
 市恵と会った喫茶店。あの店でスクリーンに映っていた世紀末餓鬼《デカダンキッズ》たちだ。
「あんちゃん、ああゆうの見るわけ?」
 コジローがつぶれた風船ガムを手で口に戻しながらいった。
「アタシたちってヒーローだね」ムサシがルージュを直しながらいった。
「いやー、あんまり見ないけど・・・」
「・・・むかつくぜ。オレたちゃ命張ってやってんだぞ」コジローがいう。
「無差別攻撃をか?」
 サトルがいった途端、BB弾が飛んできた。今度は狙い済ましてだ。カラダを動かして巧妙に避ける。当たれば、かなりの攻撃力だ。
 抑えることのできない暴力、そして、犯罪。それを圧殺する権力。それに反抗する分子たち。そのイタチごっこが、世紀末餓鬼のすべてなのだ。
 生まれたときから遺伝子異常として疎まれ、邪魔者あつかいされた子供たち。その気持ちは理解できるとはいわないが、同情はできる。
「同情なんざ、うざったい」
 コジローが吐き棄てるようにいう。サトルの心は見透かされている。感受性が強く、ナイーブな子供たちなのだ・・・。
「ケイ。君には礼をいわなくちゃ」
「?」
「中野で助けてもらった」
 ケイが、そういえば、という顔をする。
「おにいちゃん、あたしたちがやったんだよ。気っ持ちよかったー。ドカーンってね」
 ムサシが瞳をうるうるとさせながらいった。心底嬉しそうだ。
「巌岳っていう警部が悔しそうにしてたよ」
 サトルがいうと、コジローが顔を真っ赤にして怒りを露にした。
「・・・あの野郎、むかつくぜ」
 そのコジローにムサシが近づいて、白いカプセルをムリやり口に捩じ込んだ。
 サトルの疑問に応えるようにケイが説明した。
「メスカリンの純粋なやつ。ムサシは一日に三回飲んでる。興奮すると自制が効かなくなるから、だれかがこうして飲ませるんだ」
 世間はジャンキーども、と侮蔑する。狂気は薬づけせいだと非難する。しかし、自己コントロールにも使われていたのだ。
「で、おにいちゃん」ムサシいった「だれに追われるの?」
「信長が復活したクローン戦士」
「のぶながぁ?」
 ケイもムサシもコジローも、うさん臭そうにサトルを見た。信じてくれといってもちょっとムリかも知れない。
 ケイが、それはそうと、といった顔をして「あれ、どうするの?」いった。指差したのは、クローン戦士の死骸だ。
 サトルはクローン戦士の足を両手で抱え、ゴミ置き場まで引き摺った。ゴミ袋をいくつかほじくり返し、呼吸を止めた肉塊を奥の方に押し込め、その上にゴミ袋をいくつかのせた。
「収集車がきたら、どうすんの」ムサシがいった。
「もっていってもらうさ」
「おにいちゃん、分かってんの? それって、死体遺棄」ムサシが呆れ果てたようにいう。
「こいつは人間なんかじゃない」吐き棄てるようにいう。
「なによ、死体じゃないの」
「いいか、見ろ」
 サトルはゴミの中から空瓶を見つけた。それを叩き割ると、クローン戦士の額を切り裂いた。パックリと赤い口が開いて、白い頭蓋が顔を覗かせる。その頭蓋を別の空瓶で叩き割った。
「うえー」
 ムサシが顔をそむける。こういうのは苦手らしい。鈍い音がして、頭蓋骨がひしゃげた。サトルは中から数枚のコンピュータの基板を引き摺り出した。バイオコンピュータらしく、基板はトコロテンのようにフニャフニャした物質に包まれていた。しかし、小型バッテリー屋赤や青のインジケーター、それを結ぶワイヤーは機械であることを示している。その配線を引き千切ると、ショートしてパシパシッと小さな火花が出た。きっとここで起きたことは無線で連絡されているに違いない。
「ロボット・・・?」ケイが目を剥いた。
「そんなようなもんだ」
「うざったい」
 コジローは何もなかったかのように言い放った。

    3

「テレカもってるか?」
 ケイがポケットからカードを取り出してサトルに渡した。
 市恵は不在だった。留守番電話に吹き込もうとしたが、思いとどまった。サトルの自宅も知人の家も、もちろん市恵の電話も監視されているに違いない。余計な足跡を残したくなかった。いずれにしても妖気が包囲陣を狭めていることは感じ取れていた。
「海賊テレビ、か・・・」サトルがつぶやく。「どっから放送してるんだい?」
「とりあえず、いまは、荒木町」ケイがいう。「見つかっては逃げての追いかけっこだからね」
「そこに連れていってくれないか?」
「どーすんだ」コジローが恫喝するようにいう。まだ気を許さないぞ、といった雰囲気だ。「知らせたいことがあるんだ」
「だれに?」
「市恵に・・・これは僕の友だちなんだけど・・・いや、市恵だけじゃなくて、日本中、世界中の人に知らせなくちゃならないことがあるんだ」
「それって、さっきのクローンと関係あること?」
 その通り、と深くうなずく。
「信長の陰謀を、防がなくちゃならないんだ」
 決然とサトルがいった。


   第七章 知る、知れば、知ったことか!

    1

 四ッ谷荒木町。かつて花柳界で賑わったこの街は迷路のように入り組んでいる。初めて訪れた者は、足を踏み込んだが最後、自分がどこにいるのか分からなくなる。路地は曲りくねり、階段は捩じれ、複雑に交差して思わぬ場所に出る。
 その街の片隅の木造アパートの二階の奥の部屋に、サトルたちはいた。窓から昔懐かしい鉄骨の火の見やぐらが見える。
「これまで、君らのことはテレビや新聞でしか知らなかった」サトルがいう。
「お坊ちゃまか」
 コジローが、カメラをセットながら七本の指を巧妙に操って壁を這うゴキブリにBB弾を命中させた。
 ケイは小型のコンピュータの前に座っている。
 ムサシは鏡の前でルージュを引き直し、アイラインを描く。バンダナをきちんと締め、それから、小さな胸を隠しているタンクトップを直した。
「市恵さんって、おにいちゃんの彼女なの?」
 ムサシが鏡に向かったままサトルに尋ねた。突然の質問に、声が出ない。
「あららららら。照れてるわ、おにいちゃん」
「お坊ちゃまだからな。むかつくぜ」コジローがつぶやいた。
「コジローの“むかつく”は、口癖だから、気にしなくていいよ」調整卓のレバーを操作しながらケイがいう。「指が七本もあるもんだから、親に捨てられちゃったのよ。その反動」
「うざったい!」コジローがケイを睨んだ。
 準備はテキパキと進められていく。ムサシが窓に暗幕を張り、モニターのスイッチを入れる。モニターにはこの部屋の壁が暗く映っている。室内のライトに電源が入る。モニターにサトルの、幾分緊張した姿が映し出された。横にはケバケバしいムサシが微笑みの練習をしている。
「どうやって電波を飛ばしてるんだい」
 サトルの問に、ケイが画質調整をしながら応える。
「外に鉄骨の火の見やぐらがあったでしょ。あそこの送信機を借りてる」
「借りてる?」
「CATV局のトランスミッターをね」
 電波を飛ばせば、場所はすぐに発見されてしまう。だから、CATV局のトランスミッターを拝借して放送し、探知されたら逃げる、ということなのだろう。
「はじめるよ。でも、これ見てさっきのみたいなサムライが沢山きたら、怖いな」
 ヘッドフォンをつけ、旧式のコンピュータで画像と音声の調整をしているケイが心配そうにいう。
「おいおい、本当に映るのかい?」
 不貞腐れた顔のコジローが、カメラの向こうから気怠そうにキューを出す。
「オーケー」ケイが手のひらを頭上に伸ばした。その指が一本一本開かれていく。「5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・スタート!」
 リハーサルなしではじまったテレビ放送。サトルは少し当惑した。そのしかめっ面がモニターに映し出されている。これが流れているのか、と慌てて笑顔をつくる。
『ハアーイ! ウィーアー・ディケーイデーント・キーッズ!』
 テーマソングとともに、番組名が流れた。
「ハーロー!」ムサシが媚態をつくる。なかなか愛想がいい。「特別放送のお時間よん」
「遊んでんじゃねーぞ、ムサシ」ケイが声をかける。
「今日の特別ゲストは一般人でーす。もう映ってるから、どーゆー人か分かると思うけど、この人でーす」
「むかつくぜ、お坊ちゃま」
「るさいよ、コジロー!」
「外野は黙って!」ムサシがメッ、という表情をする。「このおにいちゃんが、大切なメッセージがあるそーでーす。聞いとくれー」
 真っ赤なルージュの塗られた唇の端をキュッと吊り上げ、笑みをサトルに送る。そうして画面から外れていった。バトンはサトルに渡された。
「・・・や、やあ。えー」
 といったまではよかったが、あとがつづかない。テレビカメラに話すというのは、慣れないと勝手が違ってやりずらいものだ。
 しかも、コジローがサトルにBB弾をはじいたり、ムサシが小さな胸を持ち上げてみたり、集中できない。
 助け船を出したのは、ケイだ。画面に入ってきて「とんでもない話かも知れないけど、最後まで聞いてくれ」カメラに向かってそういうと、サトルに話しかけてきた。
「陰謀を企んでる奴がいるんだって?」
「あ、ああ。そう。ファースト・エレクトロニクスの多摩工場の地下で、恐ろしいことが起こっているんです」
 インタビューのカタチで、サトルの話ははじまった。

    2

 午前中、神田のファースト・エレクトロニクスで情報を集めた市恵が、近くのハンバーガーショップにいた。店の中から、向かいのビルの設置してある壁面テレビが見える。何気なく目をやると、この一週間行方不明のサトルが映っていた。
 開いた口が塞がらなかった。
 しかも、世間の顰蹙をかっている世紀末餓鬼の番組だ。驚きとともに怒りが俄かに込み上げてきた。やっぱり世紀末餓鬼の一味なの?
 どうして? いつのまに? 市恵は、FMも受信できる携帯電話をバッグから取り出した。画面にはサトルと小生意気な少女が並んで映っている。
 なんでチンピラなんかと遊んでるんだ。そんなところで油を売っているなんて。ビジネスの大チャンスを潰してしまったサトルに恨みがましい視線をぶつけ、「バカ!」と怒鳴った。
 周囲のざわめきがスーッと引く。他の客の目が市恵に集中していた。場所をわきまえず大声を上げてしまったせいだ。羞恥心で耳まで真っ赤になった。
「浅井、見てるか!」
 携帯電話のスピーカーから自分の名前が呼ばれている。
「見てないかな、こんな番組・・・」
「失礼じゃん! そういう言い方」生意気そうな少女がいう。「あ、ゴメン・・・。日本が危ないんだ。いや、世界が危ないんだ。ケイ、君は見たろ?」
 今日の少女はふざけた様子が少ない。いつもの放送と、ちょっと違うのだ。
「・・・ああ・・・」
「あいつの頭の中に、コンピュータが入ってたの」
 少女が真剣な表情でうなずく。サトルは正面を向いて呼びかける。
「ファースト・エレクトロニクスという会社は人間のクローニングに成功していて、戦国時代の武士を甦らせているんだ!」
 耳を疑った。血迷ったか、シバタサトル。
 ファースト・エレクトロニクスが戦国の武士を甦らせている?? ちょっとぉ・・・気は確か? 私の仕事を台無しにしておいて、その上ファースト・エレクトロニクスの悪口をあんな連中とテレビでいうの! 市恵はまだ半分残っているハンバーガーを窓の向こうのテレビ画面にぶつけた。ハンバーガーは窓にぶつかって、客の足元に転がった。
 少女が話していた。
「あの火の玉は、なんなんだっの?」
「幻覚だ。クローン戦士は多摩工場の信長に操られているんだ。信長の意思がクローン戦士を通して、僕たちの意識を混乱させたんだと思う」
 サトルは必死に訴えてるみたいだが、聞けば聞くほど気が触れたのではと思わざるを得ない。UFOを見たという人のインタビューよりも、もっとデキが悪い番組だ。いや、お笑い番組みたいだ。
「彼らは戦うために生まれたクローンだ。甦った信長の野望のために生み出されたんだ」
「野望って?」
「天下統一に決まってる」
 信長・・・巌岳警部もそのことに触れていたが・・・。信じろというほうがムリだ。と、理性では分かる。がしかし、その通りなのだが“信長”という言葉を聞いた途端、市恵はカラダが熱くなるのを感じた。急に怒りと憎悪と恐怖が市恵の体内を猛スピードで循環しはじめた。遥か彼方の記憶が、やり場のない怒りを噴出させたような気分が満ちた。
 “信長”・・・その言葉の響きは、愛憎半ばする坩堝の中へと市恵を投げ込んだ。
 揺れる感情に、市恵はひどく動揺していた。
 その動揺がつたわったみたいに、画面が斜めに歪んだ。サトルの顔がいびつだ。電波状態がよくないのか、画面がひどく乱れている。
 市恵の心理状態も乱れに乱れていた。
 理性を超えた感情が、市恵の体内で躍動しはじめていたのだ。“信長”への憎悪。長い間雌伏してきた思いが突然その一言で濁流が決壊するように猛烈な勢いで噴出しはじめた。サトルは市恵に向けて話していた。そうに違いない。生理的にそう感じた。市恵は、今朝集めたファースト・エレクトロニクスからの資料をバッグから引き摺り出すと、ダッシュボックスに突っ込み、店を出た。
 ビル壁面に大画面のテレビが見えた。画像は受信感度が低下したのか、乱れはじめていた。
「サトルくん・・・」
 市恵の心を不安が襲い、全身が寒気で襲われた。

    3

 電波の発信先を突き止めるのに、さほど時間はかからなかった。
 信忠は地上に出ると研究所の屋上に登り、霊感のアンテナ感度を最大限に高めた。追求先は、もっとも欲望を強く感じる波長でよかった。
 まんまと逃げ出した実験用の人間が発する欲望。それは、生への希求と世界を守ろうとする欲望に満ちているからだ。
 信忠は空高く浮かんだ。
 重力に反して浮かばせているのは、信長の力である。他者の欲望を食らって肥大化する第六天の魔王。その化身である信長は、最新の現代科学と超常現象、そして、世界のありとあらゆる情報を駆使できた。スーパーパワーである。そして、サトルを追い詰めるために信忠を遣わしたのだ。
 信忠は、直立したまま両手で印を結び、目を閉じていた。その恰好で、宙を飛んでいた。新宿上空を超えた頃、荒木町で欲望の感度が頂点を極めているのが分かった。
 信忠が静止した。その足の下は、火の見櫓だ。目を開け、視線を爪先の下に向けた。火の見櫓の八角形の屋根が視界に入る。あれが発信元。
 信忠は“気”を込めて見つめた。欲望がたっぷり含まれた電波が、信忠の脳幹中枢に吸い込まれていく。まるで乾いたスポンジが水を吸い込むようにして・・・。その快感は、信忠をコントロールしている信長のもとへと送られていった。

    4

 突然の画面の乱れに、ムサシが戸惑っている。
「ケイちゃん。どうなっちゃってるの?」
 自分はコンピュータでの調整ができないものだから、慌ててケイを呼ぶ。ケイが近寄ってキーを叩くが、もとに戻らない。
 カメラの後ろのコジローは「むかつくぜ」というだけだ。
「分かんないよ」とケイ。
「じゃあアタシに分かるわけないわよね」とムサシ。
「僕は分かるよ」
 答えたのはサトルだ。
「あいつらだ。あいつらがこの放送を知って、妨害しているんだ」
「あいつら?」ケイが怯えたようにいう。
「頭上に恐ろしい霊気を感じる」
 サトルの唇が引きつり、震えた。囚われの身だったときに感じた威圧感が、鮮明に甦ってきた。
 信忠だ。
「それに、殺気も近づいている。包囲網が縮まっている」
 サトルはすべての意識を集中させた。
 一人、二人、三人、四人・・・殺意の数は増えていく。それが、ひたひたと近づいている。まるで何者かにコントロールされているように、この荒木町に集りつつある。
「一〇人と、ちょっと」
 いった途端、地鳴りがしてアパートが揺れた。ムサシが暗幕をどけると、窓の外に炎が迫っていた。アパートの壁が軋み、モルタルが剥落していく。
「見てよ」窓の外を見ていたムサシが叫ぶ。
 鉄兜に面頬、鎖かたびらをつけ、手には籠手、足には臑当をつけた甲冑姿の武者と、胴丸姿の雑兵がアパートを取り巻いている。
「なんだあいつら?」コジローが目を剥いた。
 途端に火のついた矢がコジローめがけて飛んできた。素早くよける。しかし、矢は部屋の壁に刺さる。火矢は次々と窓から飛び込んできて、壁や畳に刺さっていく。油がにじみ出して、炎は瞬く間に室内に広がった。
「どうなってんの、これ?」
 ムサシがあわてふためいている。外に出ようとしても、ドアが押えつけられているのか、びくともしない。
「む、むかつくぜ!!」コジローの声も少し震えている。
「どうすりゃいいんだ!」ケイが困惑の声を上げた。
「窓だ!」
 そういって首をだしたコジローを長槍が襲う。
 火は壁から天井へ広がっていく。天井が焼け、落下してきた。慌てふためく少女たちを尻目に、サトルはさっきからずっと気を集中させている。窓の外を覗こうともしない。ケイが抱き着いた。
「怖い・・・」不安におののいている。
「慌てないで」ケイを優しく抱きとめる。
「そんなことできっこないよ」ケイは泣き出しそうだ。
 なんといっても、まだ十三才の子供だ。
 サトルは、震える小さな肩をそっと撫でた。

    5

 ビルの壁面テレビの映し出す映像が、ヘンだった。
 普段なら汚らわしい言葉と嘲笑が満ちているはずなのに、画面に少女たちが映ったり消えたりする。そのうち炎が映り、白煙が満ちた。
 どうしたことなのだろう?
 食い入るように画面を見つめている市恵に、サトルが再び語りかけはじめた。
「浅井! 見てるか?」
 また自分へのメッセージだ。思わず身をのりだした。
「とうとうやってきた。信長のクローン戦士たちに包囲された。どうしていいかわからない。助けてくれ。君ならきっと助けになる。そう感じるんだ。早く、助けてくれ。これを見ててくれ!」
 そこで画面がプツンと消えた。
 市恵の胸騒ぎが激しさを増した。そして、霊感のようなものが、ある一点を指し示していた。まるで市恵の体内にある磁気が、強力な磁場に吸い寄せられるように・・・。その磁場は、荒木町の南々西を示していた。
 市恵は慌ただしくタクシーを拾った。
「そうら、ネズミが動きはじめたぞ」
 もさもさの口髭と突き出たほお骨が動く。巌岳警部だ。ハンバーガーショップ近くのセダンで監視していたが、市恵が動きだすのを見て、運転席を後部座席から蹴った。
「発車します」と象刑事が律義にいう。
「いちいち断わるな。さっさと出せ」また運転席を蹴った。
「警部、これは警察のクルマですから・・・」
 巌岳の横に座っているキツネ目がいった。
「だから、なんだ」
 恫喝するようにいう。
「い、いえ・・・」と黙ってしまう。
「さあ、世紀末餓鬼どもも年貢の納めどきだ。覚悟しろよ」
 タクシーの行方を嬉しそうに見つめた。


   第八章 逆転の逆転の、逆転

    1

 賀茂友久は蘭丸の部屋で、蘭丸が実験結果を処理していたコンピュータのモニターをぼんやりと眺めていた。
 白刃の露となって消えた蘭丸。歴史とは百八〇度異なったことのなりゆきだ。
 実際、信長が自力で脳を再生させ、意思をもちはじめてから友久と蘭丸にとっては誤算の連続だった。
 友久や蘭丸はある危惧を抱いていた。
 信長に滅ぼされた今川氏や武田氏。漆で固められた生首を酒の肴に飾られたという朝倉氏や浅井氏。その浅井氏に嫁がされた信長の実妹お市の方の長男は磔串刺しにされている。比叡山で焼き討ちされた僧たち。主君荒木氏の身代わりとして磔にされたその一族や家臣、そして、小屋に押し込められたまま焼き殺された数百人の侍女たち。一向一揆で、砦に火を放たれて死んでいった二万人もの宗徒。謀反を起こした末に討たれた実弟の信行。・・・信長に怨念をもっている裔は、あまりにも多すぎる。もし信長復活を知ったら、抹殺にくる可能性は高い。
 それを阻止することこそが大切だと考えていたのだ。しかし、信長はそうは思っていなかった。
 信長がスピーカーを通して友久に尋ねたことがある。
《光秀の裔は呼び寄せなかったのか?》
「あのような者を身近に置けば、なにをしでかすかわかったものではございません」
《しかし、光秀の所行は物の化に憑かれてのことと、おぬし申したではないか》
「左様ではございますが・・・」
《あやつの忠誠、もう一度試してみたい》
「はっ」
《捜し出せ》
 捜し出すことは苦もなかった。光秀の裔は、小心物の小男だった。信長は彼を賄方として使った。なぜ信長が逆賊であるはずの光秀の裔を身近に置くのか、友久は訝かった。しかし、かつて裏切りを起こしたという重圧は、かえって光秀を信長への忠誠の道に走らせたようだった。人一倍信長につくして汚名挽回に全力を上げていた。
 しかし、もっと驚く出来事が次に起こった。
《賀茂》
「はっ」
《手足の自由が効かぬというのは煩わしいものだ》
「いましばらくご勘弁を。蘭丸が研究をつづけております」
《それはそれとして、第六天の魔王の申し子として、化身をつくろうと思う》
 友久は驚嘆した。
 自力で復元した脳で、化身がつくれるまでの能力を手にいれているのか。化身ともなれば信長に準じた呪術をつかうことができる。しかも、指導者としての力を発揮することになるだろう。信長の意のままにコントロールされる分身、それが、化身だ。
 友久が甦らせた信長が、友久をアゴで使いはじめたのだ。野望を露にし、指揮を執ろうとしている・・・。
 友久の一瞬の戸惑いを信長は見逃さなかった。
《不服か?》
 有無をいわせぬ傍若無人の口調だった。
「めっそうも御座いません。異論はございません」
《そうか。では第六天の魔王に祈願をいたす。しばらく人払いをせい》
 友久は、心中複雑だった。信長が自分たちを信用していない。
 化身として選ばれたのは、織田信忠。信長の子である。

 信長は、羊水の中で頭脳が日ごとに充実していく快感に身をまかせていた。
 しかし、自由の効かない我が身が疎ましく、歯がゆかった。それに、なによりも我が身が管理されていることに、一抹の不安を抱いていた。内心もっとも恐れたのは、復活にかかわった中枢的なスタッフだった。とくに賀茂友久と蘭丸は油断がならないと考えていた。
 なにしろ彼らは生殺与奪の権を握っている。
 いくら彼らの祖が忠心だったとしても、その裔もそうだと断言はできない。
 コード一本外されても、電源を止められても自分は死ぬ。
 信長は臣下の反乱を極度に警戒し、権力を掌握することに邁進した。
 巨大コンピュータとの交感によって、さまざまな自衛措置をとっていったのだ。友久や蘭丸に知らせず、電源の切断やコードの接続の変化、他のいくつかの生命維持装置に手を加えることを不可能にしてしまった。
 蘭丸や友久ですら神聖にして犯すことのできない存在になっていったのだ。その上で、自由の効かない自分に変わって手となり足となって働く化身を創造した。
 手となり足となって思いのままに悪を行う化身を。
 織田信忠は、信長の息子である。
 そのクローンに、バイオコンピュータを埋め込んだ。実質的には雑兵などと同じレベルだが、信長の意思は電波によってバイオコンピュータに送られた。だから、信忠は信長自身であるといってよかった。

 友久は、蘭丸の部屋で迫りくる恐怖に耐えていた。
 すでに蘭丸が信長の逆鱗にふれ処罰された。次は自分の番とも限らない。
 天下取りを支える武将や陰陽師たちの立場の危うさを、身に染みて感じていた。
 立場の逆転・・・。それは、自分の欲が信長によって貪欲に食らい尽くされていった過程に他ならないことを悟っていた。
 人の欲を食らって逞しくなるという、第六天の魔王の申し子、信長。
 恐るべき野獣。
 この地下帝国ではクローン戦士の大量生産体制が敷かれ、殺戮マシンがぞくぞく誕生していた。戦士の幾数十名は任務を果たしはじめている。ある一軍は、逃げ出したシバタサトルをつかまえるために。そして、他の群れは陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地と赤羽駐屯地に向かっていた。第二陣、第三陣が出立するのももうすぐだ。
 信長は独断で兵を進めていた。陰陽師の占星術が果たす役割はなかった。
 もう止める術はない・・・。
 臍を噛んでいた友久の耳に、部屋のドアノブが回される音が聞こえた。緊張が背筋を走り抜けた。信長の寵愛を受けた配下に疑われでもしたら、こんどは自分が斬首されかねないのだ。
 友久は身構えた。隙間から顔を覗かせたのは、明智光秀・・・寵愛を一心に受けている当の主だった。冷やりとした風が友久の虚空の胸を通過していった。

    2

 アパートは戦士たちに取り囲まれていた。火炎は燃え盛り、天井に移った。
「逃げよう!」サトルがケイにいう。
「どうやって?」
「あらゆる手段を使って」キッパリという。
 コジローも威勢のよさはどこかに置き忘れ、不安と緊張で神経がピリピリしている。
「畳を上げるんだ!」
 その声に引きずられて四人で古ぼけた畳を持ち上げる。畳をドアの前に立てかけ、サトルたちは床板を剥がしはじめた。梁が顔を見せ、埃とネズミの糞をたっぷりのせた下の部屋の天井板が露になった。それを蹴破って、四人は階下に降りた。窓から見ると、甲冑の武者と雑兵たちがアパートの二階を睨みつけている。
「武器は?」サトルが訊く。
 コジローはナイフ。ムサシは意外にも手榴弾を二個差し出した。これにはサトルもびっくりした。よく火炎で爆発しなかったものだ。ケイはニュートカレフを出した。
「一気に出るぞ」サトルが手榴弾をアゴで指し示す。「まずそれをお見舞いしよう」
 ムサシがウインクして、安全ピンを抜く。
「ハデなのだーいスキ」こまっしゃくれた声を出す。「ひー、ふー、みーの、そりゃ」
 投げる瞬間、ケイがタイミングよく窓をスライドさせる。小さなパイナップルは小窓を抜けて雑兵たちの足元にうまく転がった。ひとりの雑兵が気づいて手榴弾を手にした。
 雑兵は首をひねりながら手榴弾をジッと見ている。戦国の時代の知識しかもっていないらしい。
 ヴォォォムという、こもった炸裂音とともに閃光が瞬き、白煙が散った。硝煙の臭いが、たちこめる中で、雑兵の下半身だけがつっ立っていた。
 周囲では被弾した雑兵が数人、血塗れになって蠢いている。
「それ!」
 サトルの合図で一斉にアパートを飛び出した。手榴弾という不意を食らって目をひん剥いていた甲冑の武者と無傷の雑兵が我に返った。気を取り直して、気丈夫な視線で威嚇する。ケイはニュートカレフを乱射しながらの突入だ。その連射に武者も雑兵もたじろぐ。その間に、サトルたちは一目散。矢が、背後から飛んでくる。しかし、サトルたちは複雑に折れ曲がる路地を巧みに利用して、やり過ごした。荒木町の迷路のような道筋が幸いした。それにしても、いま、自分が命の取り合いをしているんだということがまだ信じられなかった。
 大きな通りに出た。
 もう身を守る迷路はない。ケイはニュートカレフを投げ捨てた。弾が切れたらしい。気が焦る。周囲を見回す。四WDのショートボディジープが飛び込んできた。
「ワタシがいく」ケイが四WDに向かう。
 そのケイの後ろ姿を見て、ムサシがサトルにいった。
「あのね、おにいちゃん。ケイは遺伝子異常じゃないんだよ」
「・・・?」
「フツーの子なの。でもね、フィリピンのアイノコでね、いつの間にか仲間になってたの」
 混血というのも、世紀末現象のひとつだった。遺伝子異常でなくても、心が通じあったのだろう。
 迫りくる追っ手に。コジローがBB弾で応じるが、甲冑に阻まれて効果がない。ナイフを投げないことをムサシがなじると、
「これはお父の形見だ」とコジローがぼそっといった。
「捨てた親が懐かしいのかなあ」とムサシがからかう。
「うるさい!」コジローが感情的になって、BB弾をムサシに弾いた。
「ムサシ、手榴弾を」
 BB弾を避けたムサシが「ひー、ふー、みーの、そりゃ」とタイミングを図って背後に迫る武者と雑兵に投げつけた。さっきの炸裂で懲りているのか、一様に伏せた。
 ヴォォォム!!
 時間が少し稼げた。
「さあ!」
 ムサシとコジローをケイがエンジンをかけて待つ四WDへ促そうとした。
 サトルの顔が凍りついた。タンクトップがはだけ、その小さな胸から、血塗られた槍の穂先がのぞいていた。投げられた槍がムサシを貫いたのだ。
「死ぬな! おい、ムサシ!」コジローが肩を抱く。
「アタシ・・・死んじゃうの」
「しっかりしろ!」サトルには大丈夫とは思えなかったが、他に言葉がない。
「可愛い?」
「ああ可愛いよ。とっても可愛いよ」コジローの顔が涙でクシャクシャだ。
 唇の端をキュッと吊り上げて笑みを浮かべると、ムサシの頭が垂れた。
「死ぬなあ!」
 コジローが泣きじゃくり、血塗れのムサシにしがみつく。
「もう死んでいる」
「オイラが、ナイフ、投げなかったから、ムサシが死んじゃったぁぁあ・・・」
 サトルは槍を引き抜くと、ムサシの小柄なカラダを肩に担ぎ、四WDのショートボディジープに向かった。
「バカヤロー!」
 コジローの投げたナイフが、武者の甲冑を切り裂いて、深々と突き刺さった。

    3

 ムサシを担いだサトルとコジローが後部座席に乗り込むと、ケイがアクセルを踏んだ。
「ムサシ、ケガでも?」
 サトルもコジローも応えられない。
 つんのめりそうになりながら、四WDが路面を離れる。眼前に武者と雑兵が立ちはだかっている。ケイは目一杯アクセルを踏み込んだ。
 相手を叩き斬ることしか頭にない戦国の殺戮者たちが、正面から四WDに向かってくる。目も口も大きく開かれて、まるで動物のような猛々しさだ。
「こ、怖い・・・」コジローが初めて弱音を吐いた。
「しっかりつかまれ!」ケイが怒鳴る。
 サトルもコジローも、取っ手を探って握りしめる。そして、シートに顔を埋めた。
 ガッガッ。鈍い音とともに、跳ね飛ばした雑兵たちがボンネットに舞う。その勢いで、四WDが揺れる。ケイのハンドルをとられた。コントロールを失って、片側の車輪を浮かし、そのまま路肩に乗り上げた。
「ヒーッ!」ケイの絶叫が耳に入る。
 鼻先が電柱にぶつかりスリップ。路上をブレーキ音とともに滑った。クルマが停まる。ケイはアクセルを踏み込む。だが、エンジンがかからない。
「くっそー」ケイのいまいましげな声が響く。
 甲冑姿の武者が、追いつめた獲物を始末するような目つきで走り迫ってくる。
 握った白刃を顔の横に立て、接近する。
 アクセルの反応がない! 武者が迫る。白刃が光る。
 パーン、という乾いた音がした。
 武者の兜の下、眉間に赤い穴が穿たれ、後頭部が拳大の塊になって兜と一緒に吹っ飛んだ。野獣の目が、生気を失って後方に折れ曲がる。
 サトルの手に、ムサシのニュートカレフが握られていた。
「かかった!」
 ケイの祈りが通じたのか、エンジンが息を吹き返した。
「急いで。あっちにもこっちにも、いっぱいいる!」
 ケイの声に見回すと、武者も雑兵も膨れ上がってくる一方だ。
 四WDが動き出す。ヘッドライトが数一〇人のクローン戦士の集団を照らし出した。
「後ろは?」ケイが訊く。
「大丈夫、だ」サトルが応える。
 四WDをスピンさせると、ケイはスピードを上げた。あてがあるわけではない。とにかく逃げなければ・・・。
 それだけだった。

    4

 市恵の心は穏やかではなかった。
 なにものかに急き立てられるような思いが不安を加速させていた。理由は定かではない。突き動かされる衝動が市恵を駆っていたといっていいだろう。引力に引き寄せられるように、市恵は南を目指していた。
「事故かな?」運転手がつぶやいた。「すごい渋滞ですよ。ちょっとインフォメーション聞いてみましょうか?」
 運転手がカーナビのニュースをセレクトした。
『・・・被害者は都内の病院に収容されていますが、犯人がサムライの恰好をしていたと一様に証言している模様です。都内ではこういった通り魔事件や爆破事件が多発しており、一部過激派の仕業ではないかと警視庁では緊張の度を強めています』
「サムライの通り魔?・・・どうなっているんでしょうかね、まったく・・・」
 運転手がぶっきらぼうにいった。
 市恵の呼吸がますます深くなり、脈も次第に早まっていった。意識が高揚して行くのが分かった。
 市恵の緊張は極度に高まった。

 追尾する巌岳の無線電話が鳴った。
「ああ・・・なにい!?」
 巌岳は目をひん剥いてガバと身をのりだした。隣に座っていたキツネ目も、運転している象刑事も仰天するような声だ。
「・・・ほぉう」タメ息をついて落ち着きを取り戻そうとしている。「・・・そいつは・・・」放心したように視線が虚空を彷徨っている。
 無線電話のスイッチをオフにしてからも、呆然としたままだった。
「信じられん」そういったきり黙してしまった。
「なにか?」象刑事がおずおずと訊く。
「サムライが東京を走り回っているといったら、おまえは信じるか?」
「映画のPRですか?」
「鎧兜姿の侍が府中競馬場に押し入って、馬を盗んでいったそうだ」
「馬泥棒・・・?」
「制止した警官が日本刀で斬られたらしい」
「数日前には福生市で戦国武士姿の男が交通事故に巻き込まれている。荒木町でも鎧兜のサムライの死体が発見されている。みな本物の髷だったそうだ。それに・・・」
「それに・・・?」
「新宿じゃ、清掃局員がゴミのなかから頭をカチ割られた侍の死体を見つけた。それが不思議なことに、脳ミソの代わりにコンピュータが入っていたっていうんだ」
「どういうことですか?」象刑事が運転席でいった。
「俺のほうがききたい!」そういって、前の席を蹴った。
「ロボットですか?」
「司法解剖したところ、カラダは人間のものに違いないそうだ」
「・・・」
「・・・荒木町じゃあ、若い男とガキが三人目撃されているらしい」
「もしかして、シバタサトルと世紀末餓鬼・・・」
「うむ」
 巌岳の額から、大粒の汗が滴り落ちる。中野でシバタサトルが叫んだ言葉が甦ってくる。
『信長が復活したんだ! 信長か天下統一を企んでいるんだ! いまのうちになんとかしないと、大変なことになる!』
 こりゃあ、ひょっとすると大変なことになる。東京がパニックに陥るかも知れん。巌岳はいつになくカラダの震えを感じていた。

 四WDの車内には沈黙が満ちてた。
 ムサシの死。それがコジローを寡黙にし、ケイの口を重くしていた。
「武器がいるな」運転を代わったサトルがだれにということなくいった。
「いま、調達している」ケイが応え、ポケットから携帯無線機を取り出した。「仲間に連絡したのよ。あたしたちは新宿をシマにしてるけど、他にもグループかいくつもあるんだ。あたしたちは、お互いに争わない。テレビ放送だってあたしたちを攻撃したり排除したりする連中から守るためだもの」
「なるほど」
「いまごろ、自衛隊の武器倉庫に潜り込んでるはずよ」
「で、これからどうすればいいんだ?」サトルが訊いた。
「羽田空港」コジローがきっぱりという。
「やつらをおびき寄せて大乱闘ができるところ。っていったら羽田でしょ?」
 ケイがそういって、携帯無線機をサトルに示した。もう、仲間にも連絡済み、ということだろう。
 サトルは前方のクルマを巧妙に擦り抜けて先を急いだ。知覚が一般の人間の数倍になっているので、運転さばきもレーサー以上のになっていた。

 信長の化身、信忠は一部始終を上空から監視していた。
 己の配下の兵どもがやすやすと子供たちに翻弄されていくのをみて、内心忸怩たるものがあった。
 それにしてもシバタサトルは俘虜のときと違って驚くほど行動が鋭い。別人のようだ。ただでさえ手強そうな子供たちを手なずけて、指揮を執っている。
 なにがあの男を変えたのだろうか?
 もっと兵を補給しなくては不十分かもしれない。現代には、六〇〇年も前の肉体は適応が難しいのかも知れない。せめて脳がまともに機能してくれればよいのだが、コンピュータ基板ではどうしようもない。
 憤懣やるかたない気持ちを制御するのが、精一杯だった。

    5

 羽田空港は、東京湾の人工島からも近く、旧市街にもアクセスが至便とあって、現在では国際空港として復活していた。その深夜の通用門にタクシーが止まった。
「ここでいいんですか?」運転手が訊いた。「ええ。ここでいいんです」
「でも送迎ゲートはずっと先ですよ?」
「ここで、いいんです」市恵はキッパリといった。

 そこから五〇メートルほど離れた地点で、象刑事がクルマを停めた。
「妙なところに停まりましたね」
 巌岳警部は無言で浅井市恵の様子をうかがっていた。市恵はタクシーが去った後もそこを動こうとしない。まるで神の降臨でも待つように、ツンと尖ったアゴを心もち突き出している。だれを待っているのだろう?
 巌岳には想像すらつかなかった。
「警部、ライトが見えます」
 バックミラーを見ていた象刑事が、後方から近づくクルマのライトに気がついた。
「こっちに向かってますね」
 巌岳も大きなカラダをよじって背後のライトを確認した。猛烈な勢いで迫ってきている。これが交通課ならスピード違反で取っ捕まえるところだ。
 並の速さではない。
「あ、あいつです!」象刑事が興奮していう。「ガキどもも一緒です」
 四WDが巌岳たちのクルマの横を通過して、急停車した。
 市恵が四WDに乗り込むのが見えた。
「因果関係が見えてきたな」巌岳の頭の中で、糸が結ばれていった。

 ライトの中に市恵が突然浮かび上がったときは、心臓が凍りつくほどビックリした。
「どうしてここに?」
「わからない・・・。サトルくんの呼びかけに誘われるように来たの」
「とにかく乗って!」
 サトルは市恵を四WDに招き入れると、通用門に向かってスピードを早めた。
「どうするの?」
「飛行場にやつらをおびき寄せる」
「やつら?」
「いまは説明している暇がない」
 通用ゲートが急激に接近してきた。サトルはスピードを落とす気配がない。
 ヒーッ! っと、コジローが悲鳴に似た声をあげた。
「ちびるなよ」
 正面では警備員が制止するように両手を広げている。サトルはスピードを緩めない。
 気違いじみている! 警備員が避けたところを四WDが突破した。

    6

 深夜の羽田空港は、離発着の数も少なく人気がない。整備のために格納庫へ向かうエアバスや超音速機がしずかに夜を迎えようとしていた。世話しなく右往左往している整備員たちの目に、クラクションを鳴らしっぱなしで走ってくるライトが映った。
 四WDは整備員たちを尻目に滑走路のほうに向かっていく。
「おい、管制塔に連絡しろ! 不審なクルマが滑走路に向かったって」
 管制塔ではその連絡を受け、事故の発生の有無を確認した。しかし、そのような連絡は一切受けていなかった。
「警備体制を強化せよ!」
 管制塔から空港全域に緊急警備体制強化の連絡がいきわたった。武装した空港警察官が、全域に配備された。
「一台のジープが通用ゲートを突破。滑走路内に侵入した模様。さらに侵入を図ろうとしたもう一台のクルマを、ゲート前で捕獲しました。空港警察に抵抗したため、乗員三名は現行犯逮捕しました」
 その連絡を受けて、管制塔では侵入したクルマの捕獲と、逮捕した三名の調査に乗り出した。

「わしは警官だ!」
 空港警察の一室で巌岳警部がいかつい頬骨を尖らせ、顔を真っ赤にしていきりまいていた。
「いま身元を照会中だ、おとなしくしていろ!」
 赤銅色をした空港警察官が巌岳よりも大きな声で捲し立てる。
「黙っていられるか! 東京中がパニックに陥ろうとしているんだ! その原因を引き起こした連中がいま空港の中に入ったんだぞ」
「黙れといったら黙るんだ。身元がわかってから聞いてやろう」
 空港警察菅が子供を戒めるようにいった。
「大変なことになってからでは遅いんだ!」
 巌岳が空港警察官を睨みつけ、負けずにいい返す。
「あんたが警官なら、俺の立場はわかると思うのだがね。え? 警部さん」
「身元照会を早くやってくれ」
 悔しさをこらえながら、力なく巌岳が空港警察官にいった。十五分後、三人の刑事の身元照会の返事がきて、三人は解放された。
 そして、空港警察とともに滑走路内にむかってクルマを走らせていた。
「つかまえてやる。クソガキどもめ。いまいましいやつらめ。知っていることを全部吐き出させてやるぞ!」
 巌岳が怒り心頭に発し、言い放った。


   第九章 憑いてるぜ、憑いてるぜ

    1

 羽田空港の誘導路の外れに、四WDが停止していた。
 サトルが市恵に手短に顛末を説明する。市恵は魂を抜き取られてしまったような、虚ろな視線を漂わせながら、時々相槌をうつ。もの憂げに、そして、頼りなく。
「浅井、大丈夫か? なんか、ぼんやりしてるゾ」
「ねえサトルくん」放心したような目で市恵がいった。「私ね、変なの・・・。なにかに操られているみたいなの・・・」
「どういうこと?」
「わからない・・・」そういうと市恵は両腕を抱えるようにした。「さっから震えがとまらなくて・・・」
 顔が蒼い。唇も血の気がなく、ガチガチと歯がふれあう音が出する。サトルが上着を脱いで市恵の肩にかけた。そして、そっと抱いた。市恵はまるで死体のように温もりがなく、冷気が皮膚ごしにつたわってくる。サトルも鳥肌がたった。
(ただの冷気じゃない。妖気が嗅ぎ取れる・・・妙だ)
 サトルは過敏に市恵の異常を感じ取った。
「さ・む・い」
 サトルが頬を撫でる。氷のように冷たい。
「く・る・シ・イ・・・」
 話し方がぎこちない。額に大粒の汗が吹き出している。
「ワ・タ・シ・・・・・・コ・ワ・イ」
 ドコッ・・・ドコッ・・・ドコッ・・・ドコドコドコ・・・ドコッ・・・ドコッ・・・ドコドコドコドコドコドコドコッ・・・ドコッ・・・ドコッ・・・・・・ドコドコドコ・・・・・・抱いている肌ごしに拍動がつたわってくる。 動悸が激しく、一定していない。
「ク・ル・シ・イ・・・イ・キ・デ・キ・ナ・イ」
 息が荒れ、空気を取り入れようと手がもがく。目が見開かれる。開け放たれた口腔から、舌が突き出された。だれかに引き離されたようにサトルの腕から弾け、前屈みに跪いた。苦しそうに呻吟する市恵・・・だが、手の施しようがない。
 サトルは側にしゃがみ込み背中をさする。痙攣するカラダ・・・湿った髪が顔にへばりついている。その顔が痙攣で歪み、しなる。なにかに憑かれたような動きだ。四つん這いになった市恵が、頭を前後に強く振りながら、全身を弓なりに反り返る。
 黒い髪が獅子のたてがみのよう乱れた。
「ウォーッ・・・ウォーッ・・・ウォーッ・・・」
 市恵が深夜の羽田の空に向けて咆哮した。ケイが怖々寄ってきてサトルに訊いた。
「どうしたの、このお姉さん?」
「わ、わからない。けど・・・」のた打ち回わる市恵を見ていう。
「けど、なに?」
「妖気が感じられる。上手く説明できないけど、なにかが乗り移っているような・・・」
 その二人の耳にコジローの叫び声が飛び込んできた。
「地響きだ。なにかくる」
 耳を澄ますと、足音がした。馬の蹄の音もする。
「群衆だ!」
 騎馬も入れると、千に近い群衆が向かっている。信長の兵たちがやってきたのだ。

    2

「復讐じゃ!」
 凛とした声が木霊した。
 振り向くと、うって変わった市恵の清楚な面立ちと冷徹な視線があった。俄かには信じ難い光景だった。たったいままで呻吟していた市恵が、向かってくる群衆を射るように見据え、威圧的な声を張り上げている。
「兄信長といえど、我が身を翻弄した罪は許されぬ」
 声が違う。市恵のものではなく、憑きものそれだ。
「だれ?」
「市・・・信長の妹じゃ」
 吊り上げた目をサトルに向けていった。
 市・・・。お市の方か? 兄信長に夫と長男を殺された悲運の女性。最後は火中に自刃して果てたお市の方。その怨念が浅井市恵にとり憑いた?
 市・・・市恵・・・浅井市恵・・・まさか? 市恵がお市の方の裔!?
 サトルは慄然とした。
 歴史書はこう記している。
 お市の方は信長によって政敵浅井長政に嫁がされた。が、長政は姻戚を捨て朝倉氏と結び信長と対立した。浅井、朝倉連合軍は姉川で信長、徳川軍と決戦。が、破れて夫長政は割腹。お市は三人の娘とともに信長のもとに帰った。その後、お市は信長の家臣柴田勝家に嫁ぐ。しかし、のちに秀吉に攻められ、勝家とともに城に残り炎の中に没した。
 時にお市三十六歳。
 運命とは不思議なもので、お市と長政との間に生まれた長女は、秀吉の妾となる淀君だった。戦国の世は、複雑な姻戚関係を生んだ。そうした政略に弄ばれ、短い一生をはかなくも哀しく終えた悲恋の主人公だ。
 このお市の方の裔が、市恵で、兄信長に復讐しようとしている!?
 ことの成り行きにサトルは困惑した。
「仲間がきたぜ!」ケイの甲高い声が響く。
 信長の軍団の横手から、数一〇台の軍用トラックやジープが大挙して現れた。乗っているのは世紀末餓鬼たちだろう。
 時折、景気づけに機関銃を乱射している。
「やつら、クルマまでせしめてきた」ケイがその行動力を自慢化にいった。
「戦争なんだぞ。遊びじゃないんだ。いくらケンカが強くたって、相手は殺しの専門家なんだ。いくら銃があったって・・・」
 そうサトルがいうのをケイが制止するようにいう。
「だれがアテになるっていうんだ! 自衛隊も警察も頼りになんないじゃん。アタシたちがやらなきゃ、だれがやるっていうんだ」
 その通りだった。サトルには言葉がなかった。いまや世紀末餓鬼だけが頼りになる連中なのだ。
 頭上にヘリコプターの音がする。見上げるとサーチライトが眩しい。胴体から半身を乗り出した巌岳警部の姿が見えた。

    3

「どうします、警部?」キツネ目が訊く。
「降りるんだ。降りろ」巌岳が命じた。
 実をいうと、ヘリは痛々しい姿になっていた。ほんの数分前のことだ・・・。

 ヘリは低空で舐めるように滑空していた。
 眼下には鎧兜の雑兵や足軽が弓や槍、大刀を腰にして羽田空港に突入しようとしている。何人かは旗差物を背に、一心不乱に駆けていく。鎧や具足の音がカシャカシャと擦れ、足音と一緒になって地鳴りを上げている。
 先陣を切っているのは騎馬に跨がり、華美な兜をかぶった武者だ。戦国絵巻をそのままに、戦の出で立ちで大軍が移動しつつある。
 大海の波のようだ。
 ヘリの音に気づいた何人かの武者が振り仰ぐ。武者が足軽に弓を命じた。カンカンカンという金属音が巌岳の足元で鳴り響いた。
「警部! 矢ですよ!」
「わかってる!」
「狙われているんですよ!」
「慌てるな! こっちは鉄板なんだ!」
 プスッ! と足元に矢尻が顔をのぞかせた。鉄板を打ち抜いたのだ!
 プスッ! プスッ! プスッ!・・・矢が巌岳の足元を貫いていく。鉄板をこともなげに破っていく。巌岳の顔面が恐怖でひきつった。
「上昇しろ!」
 巌岳が操縦席のキツネ目にいった。心は穏やかではなかった。

 信忠が大軍の上空にスックと浮いていた。双眸をつむり、多摩の地から送られてくる霊波を全身で受け止めていた。
 信長の化身 信忠。
 魔道に堕ちた信長が、天下の制覇と引き換えに第六天の魔王から授かった邪教で、兵たちの武器に魔力を封じ込めた。太刀は鉄を切り裂く妖剣になり、矢尻は鉄板を貫く魔の矢尻に。その威力は科学を超えたエネルギーを醸し出すことを可能にしていた。
 信忠は、化身として信長の意思をそのままにつたえていた。

 ヘリは矢を避けて空港に入ろうとしていた。
 空港内は非常警戒体制が敷かれているはずだが、多勢に無勢だろう。鉄板を軽々と打ち抜く矢をもつ大軍に占拠されるのは間違いない。ヘリが空港内に入ろうとしたとき、右手にざわざわと動く森が見えた。
 ヘリは右旋回した。ジープや幌付のトラックが数一〇台、空港のゲートに向かっている。
「自衛隊か?」
「事態を憂慮して自衛隊が出動してくれたんでしょう、これで安心だ」
 そういって身を乗り出し、手を振る象刑事。そこにロケット砲が飛んできた。技術の未熟さに救われて、ロケット砲はヘリの鼻先を掠めて飛び去った。その波動でヘリがマグニチュード七ぐらいの揺れに襲われた。
「世紀末餓鬼だ」巌岳が目を剥く。「ど、どういうこった?」
 暗闇に沈む深夜の空港で、サムライ姿の大軍と、火器を手中にした世紀末餓鬼が対峙しようとしている。巌岳の頭が混乱した。
「警部。あそこ・・・シバタサトルと浅井市恵・・・それにガキどもがいます」
 赤外線スコープを覗いていた象刑事が巌岳にいった。
「奴らなら知っているだろう」
 巌岳はヘリの機首を目的の方向に急旋回させた。

    4

 ヘリから巌岳警部が降りてきた。
「あいつの顔を見ると、反吐が出るんだよね、ワタシ」ケイがいう。
「むかつくぜ」
 巌岳がサトルの正面に立ちはだかった。
「シバタサトルだな・・・話を聞きにきた」
 背後で狂女の声がした。
「信長を討つのじゃ。元を断て!」
「彼女は・・・浅井市恵・・・。君と一緒に会社を興した女性だな」
 サトルがうなずく。
「お市の方の亡霊に憑かれている」
「今度はお市の方の登場か。どうなってるんだ?」巌岳が頭を抱えた。「覚悟はしていたが、君の話につき合っていると眩暈がしそうだな」
 サトルはそれに応えず物思いに耽っていた。「元を断て・・・か」とつぶやくと、ヘリをじっと見つめ、そしていった。
「あのヘリは何人乗れる?」
「ん? 全部で四人だが・・・」
「多摩へ行こう。元を断てば戦火の拡大を抑えることができるかも知れない」
「なにい?」巌岳は訳が分からず困惑した表情になった。

 ケイとコジローが詰めて座り、サトルと巌岳が乗って、キツネ目が操縦した。
「警部! 殺生な! 私に死ねというんですか?」象刑事が悲痛な声を上げた。
「日本のためだ。我慢しな」コジローがいって、窓から唾を吐いた。
「仲間が守ってくれるって」世紀末餓鬼を指し示してケイがいう。
 サトルは市恵を見た。
 トラックの運転台の上にそそり立ち、信長の大軍を見据えている。お市の方の怨念は、自分を翻弄した兄への敵意に燃え、いきり立っているようだ。
 ローターの回転が早くなる。
「こいつらと同じヘリに乗るハメになろうとはな」巌岳がケイとコジローを見て顔を歪めた。
「なに?」
 コジローが柳眉を逆立てる。それをケイが制止する。
「こんなとこでケンカはやめてくれ!」サトルが仲裁に入る。
 地上では信長の軍と世紀末餓鬼の一軍が数百メートルを挟んで睨み合っていた。
 機体が地上を離れ、西北のファースト・エレクトロニクスを目指して飛び立つ。
 時刻は明け方の三時になろうとしていた。
「じっくり詳しい話をうかがうとするか・・・」
 巌岳が、サトルに尋問するような口振りで訊いた。

    5

 無菌室にゼラチン質の培養地が入ったビーカーが一〇数個並んでいた。中央には米粒大のものからゴルフボール大のものまで、ぬめりとしたピンク色の物体が置かれている。どれも皮膚をはがれた肉塊のように見える。最も大きな塊を宿したビーカーの前に立つと、賀茂友久は無菌服から目だけを覗かせ、子細に見つめた。
「順調だ」歓喜の声を噛み殺す。「細胞分裂が驚異的なスピードで行なわれている」
 その背後から明智が声をかける。
「普通なら二ヵ月もかかるところですが、蘭丸の残した研究データによると三日で済むようですから、明日には完全なものに・・・」
 二人は、他のクローンに混じって蘭丸の遺伝子から、その再生復活を行なっていた。その方法は蘭丸のコンピュータのファイルに克明に記してあった。それはまだ実験レベルで、サトルの脳細胞の分裂とも関係の深い研究だった。それを友久が応用して見た結果、素晴らしい成果が見られたのだ。
「蘭丸が甦れば、信長の乱心を鎮めることも・・・」
「もはや我々陰陽師の呪術や調伏で封じ込めることは不可能・・・。あのように肥大化し、世界制覇を目論むとは予想外のことだった。天下取りは人々の平安のため。決して個人の満足のためではないのだ・・・」
「賀茂さん、我々でなんとかしなくては・・・」
「君が世界遺伝子研究所の査察官だったとはね。まったく、うちの予備調査もいい加減なものだ。でも、そのおかげで蘭丸を呼び戻すことができるのだ・・・」
「遺伝子研究による行き過ぎを取り締まらなければ、世界はとんでもないことになってしまいます。研究所は数年前からファースト・エレクトロニクスに目をつけていました」
「・・・」友久が頭を垂れる。
「さあ、次の培養地に移しましょう。これから一日が勝負です。気取られにいように・・・」
「うむ」
 明智はビーカーを丁寧に両手で持ち上げると、成熟室へと運んだ。
 友久は無菌室を出て、幹部だけが閲覧できるモニタールームに足を向けた。そこでは、信長の軍隊が現在どのような状況下にあるのかが分かる。
《シバタは只者ではない。すでに七体もの戦士を破壊している。どうみる?》
 スピーカーからデジタル音声で信長の意志がつたえられる。
「はい・・・」応えたのは今井田だ。「私が会った印象では、とりたてて殺気も感じませんでしたし、手練とは見えませんでしたが」
《ヤツは我らが軍に歯向かおうとしているではないか》
「それは−」
《見ろ。この素早い動きを》
 クローン戦士のカメラアイが撮影した新宿でのバトルの模様がモニターに映し出される。
《スピードのある柔軟な動きは、先を読んでいるとしか思えない》
 今井田もそれに気づいていた。スローモーションで見ているとなにげない動きでも、実際の速さはとてつもない動作であることが・・・。
《人間の技ではない》
「まことに」
《どう判断する?》
「改造人間・・・」
《我々の他にヒトゲノム計画を成就させ、クローンに成功したものがいるというのか?》
「それは・・・」今井田が口ごもる。
《それとも我々の中から研究が洩れたか?》
「考えられません。スタッフはみな殿に忠誠を誓ったものばかり。命かけてもそのようなことは・・・」
《蘭丸はどうだ。ワシを亡きものにせんと目論んだのではなかったか》
「・・・」
《もし、蘭丸の話が本当だったら?》
「まさか」
《脳細胞を再分裂させる研究が、ワシを亡きものにする目的でなく、本当にワシの脳を活発化させるためのものだったら・・・》
「・・・」
《そして、その研究が成功していたら? あのような人間が生まれるのではないか・・・?》
「・・・その可能性は、否定はできませんが・・・」
《早計ことをしたかのう、ワシは・・・》
「滅相もございません」
《よいのだ。本心を語れ。いうべきことは口にしろ》
「はっ」
 そうはいわれても、カッとかると「首を撥ねろ!」の信長には本心はいえない。
《蘭丸め。容易ならざるものを置き土産にあの世へ行きおったわ・・・。今井田、脳細胞のクローニング研究を急がせろ。もう、こんなコンピュータに自由を奪われるのはゴメンだ》
 羊水の中の信長が、傍らのウルトラスーパーコンピュータの巨大な筐体を見ていった。
「わかりました」
 爬虫類顔をひきつらせて、今井田が平身低頭した。


   第一〇章 再び、奥へ奥へ奥へ

    1

 信忠は幻術で世紀末餓鬼に火炎呪(かえんじゅ)と幻視の眩(めくらまし)を施した。 いわゆる集団催眠。サトルとケイが新宿で味わった幻覚と同じだ。
 世紀末餓鬼たちに、森閑としていた漆黒の夜空から火の球が落下し、紅蓮の炎が迫る。戦慄が世紀末餓鬼を襲った。炎熱地獄に放り出された彼らは混乱し、狼狽した。
 さらに、世紀末餓鬼を震撼させる幻術が、畳みかけるように襲う。火炎や溶岩を避けようと右往左往する世紀末餓鬼の周囲に、突如、地面を埋め尽くす毒蛇の群れが現れた。足の踏み場もないほどだ。うねうねとまとわりつき、いつの間にかカラダに這い上がって来る。阿鼻叫喚の地獄図絵が展開され、狂ったように走り回る姿があった。
 突然の奇怪な現象が巻き起こした恐怖は、機関銃を乱射させることになった。
 術に嵌ったのだ。
 お市の方は幻術が施される寸前に、それを回避しようとした。
 まず、信忠の幻術が及ばないよう、四方に標を放って結界を巡らしバリアを張った。これで信忠の幻術の入る余地が消えた。結界にはお市の方のほか、数名の世紀末餓鬼と象刑事が入ることができた。結界の中にいるものにとって、幻術に惑わされている仲間の仕種は、いない相手を一人相撲をとっているように見える。
 お市の方は施された眩を解除するため悪霊秡いの祈祷を行なった。まず経を唱えながら、人形に信長の文字を書き込んだ。その人形に、ふっ、と息をかける。人形はひらり、と闇夜に吸い込まれるように上空へと舞っていった。
 遊弋する人形・・・。
 それに向かって念を込め、印を結んだ。
 エエィ! というかけ声とともに渾身の力を込め、手刀で中空を数回、十文字に切り裂いた。
 空を切る音とともに、ピッ! と、弾けるような音が木霊して、人形が千々に散った。

 その音が我が身の切り裂かれる音だということに、信忠は気づかなかった。
 幻術に集中していたので、念じている自分が無防備になっていることを忘れたのだ。
 鍛えられた刃に身を裂かれるような、鋭敏な痛み。そして、傷口がじわりと広がっていった。
 なにが起こったのか、当惑した。
 全身の力が、風船がしぼむように抜けていく・・・。
「これは・・・!?」
 気づいたときはすでに遅かった。所詮は、たかが化身。自身に力があるわけでもない。糸を切られ、風に翻弄される凧と同じだ。
 ぱあん、という乾いた炸裂音とともに、信忠の五体が飛散した。
 その肉片は粉々になって地上に降った。クローンに生命を吹き込まれた信長の化身、信忠は、散って果てた。

    2

 羊水タンクのモニター画像から警告音が発せられた。
 異変が生じたのだ。
 内圧が突然高まり、衝撃波がタンクの強化プラスチックガラスに強い揺れをもたらした。内圧を表示する数値がどんどん上昇していく。
「殿! いかがなされました!?」今井田が困惑して訊いた。
《うっ・・・うううう、信忠が幻術を破られ、討たれた》
「なんですと!?」
《凄まじい怨霊による呪い調伏が、信忠を切り裂きおった》
「いかがなされます?」
《ワシのカラダにも呪いが襲ってきておる・・・》
 羊水タンクを見ると、細かな泡が発生しており、中で信長の裸身が身悶えするよう苦痛に苛まされていた。信忠をコントロールしていた意思を通して、かなりの反動が信長のカラダにフィードバックされたようだ。
《指揮をとるものがいなくなった。大群も主を失えば烏合の衆・・・》
「武者どもに任すしか手はありますまい」
《・・・》
 信長深い嘆息のような合成音をスピーカーから洩らした。
《それにしても・・・この怨念の強さは・・・市の発するもの・・・あやつ、ワシを狙うつもりじゃ》
「いずれ殿に恨みをもつものが現れるとは思っておりましたが」
《灯台下暗しとはこのことか。蘭丸といい市といい、意外なところに邪魔が入る》
「はあ・・・」
《それに・・・ここに向かってくるものもいるようじゃ》
「は?」
《ヘリコプターに乗って、ワシを倒そうとしにやってくる》
「迎撃体制を」
《いたぶり殺せ!》
 今井田は緊急厳戒体制を研究所全域に発令した。

 羽田から幻術は去った。
 炎熱も毒蛇も潮が引くように消滅していった。世紀末餓鬼たちにの目から、幻覚が消えて行く。キョトンとして辺りを見回すもの、まだ怯え切って震えているもの、盛んに銃を乱射しているもの・・・しかし、その銃声だけが妙に空しく響いていた。
 そして、辺りは再び静寂に支配された。
 その中で、信長の大軍だけが篝火を炊き、攻撃のときを待っていた。

    2

 ヘリが多摩丘陵の一角にあるファースト・エレクトロニクスの敷地内に着地したとき、すでに朝靄が辺りにたちこめていた。
 ローターの音を聞かれないよう、離れた場所に降りようといったのは巌岳警部だった。だが、サトルは「そんなことをしても、信長はヘリが近づいていることを知っている」といって、工場内に着陸するよう命じた。
「ここは、君に従うとしよう」
 サトルの話を半信半疑ながら細かく訊いていた巌岳が、譲った。
 ローターがまだ回転しているヘリにキツネ目を残し、記念ホールへと向かう。数日前、偶然にもサトルが地下帝国へと誘われた、あのホールだ。
「クローンのサムライは、お迎えじゃないのか」巌岳が、からかうようにいう。
「誘い込もうっていう戦略だと思う」
 そうとしかサトルには応えられなかった。じっさい、理屈ではなく、相手の戦略を感覚的に読み、それに対応する知力がサトルには備わっていた。
 ホールの玄関が目の前にあった。ケイがニュートカレフのマガジンを確かめ、改めて装填した。その音に、巌岳警部もニューナンブを取り出して安全装置を外した。コジローは両足のナイフホルスターのボタンを外し応戦体制に備えている。仲間の世紀末餓鬼から調達した武器だ。
 ケイがホール入り口のステップに、背負っていたデイパックを放り投げた。その重みで自動ドアがモーター音とともに開く。施錠されていない。
 罠?
「飛んで火にいる・・・」コジローがいう。
「・・・精鋭部隊」ケイがつづけた。
「そう。そのつもりで」サトルがいった。
 四人がホール内に足を踏み入れる。
「左手の、そのドアだけど・・・」
 サトルが顎で指し示す。巌岳がそのままドアに向かって大きく一歩踏み込んだ。
「ゲームオーバー!」
 コジローが大声で制止した。不審顔で巌岳が振り返る。
 ケイとコジローはいつの間にかゴーグルをつけている。
「まるで蜘蛛の巣だね、こりゃ・・・」
 ゴーグルを通してなにか見えるらしい。
 サトルが壁面の模様を見ろという仕種をした。点々と小さな発光LEDが埋め込まれている。巌岳の目にはただのイルミネーションにしか見えない。
「赤外センサだ」サトルがいった。
 サトルの聴覚は、赤外線の波長を聴き取ることができるほど発達していた。しかも、耳で感じた波長から立体に再構成することができた。目で見えなくても、脳の中で画像情報として“見る”ことができるのだ。サトルの網膜に、脳から送り込まれたセンサの網がはっきりと見えた。通路の左右を結んで、横に何本もの赤いラインがセットされている。
「知らないで横切ると、危険がお待ちかねかもしれない」
「見えるのか、赤外線が?」巌岳が妙なモノでも見るようにサトルを振り返った。
「見えるように、なった」
 ケイが巌岳にゴーグルを差し出す。目に当てると、巌岳が「ほぅ!」と驚きの声を洩らした。
 コジローが受付けにあったパンフレットで紙飛行機を折り、センサの網に向けて飛ばした。紙飛行機が赤外線のラインを何本か横切ると同時に左右の壁からスチールの細い矢が発射された。
 プス、プス・・・という音をたてて両サイドの壁に、矢が刺さっていく。
「ゲーム、スタート!」コジローがいってセンサのラインの前に立った。ナイフを取り出すと、赤外線に当てる。その度に矢が素早く発射され、すべての矢を発射させたあと、四人は工場と、地下に通ずるドアの中へと足を踏み入れた。
 ロックされていない。すべての出入り口の入室管理はオフにされ、侵入するサトルたちを迎え入れる体制が取られているようだった。

 艶々とした生まれたての肌に包まれて、保育器の中で生命が復活していた。
 一分間の心拍数六〇、呼吸三十二。
 血圧一二〇/七三。
 赤血球も順調に生産され、鮮度の高い酸素が蘭丸の体内に供給されている。ビタミン、ミネラル、必須アミノ酸なども吸収され、クローニングが完了しようとしていた。
 とりわけ画期的だったのは、蘭丸の部屋にあったコンピュータデータから、脳細胞の再生メカニズムを入手し、適応したことだ。いままでのクローン戦士のように未熟で空っぽの頭脳ではない。良性腫瘍の細胞分裂によって、遺伝子の中の脳細胞がもとの蘭丸と同レベルで再生されたのだ。
「完全なクローニングだ。もういつ目をあけても不思議ではない」
 賀茂友久が秘密裡の実験にもかかわらず手放しで喜んだ。しかし、後悔の思いも同時にあった。
「これが信長殿に適応されていれば・・・」
「狂気に操られる現在のような信長は存在しなかったかも・・・」明智光秀が臍をかむ。
「なんとしてでも、信長の野望を断たねば。我々がはじめてしまったゲームに、ピリオドを打つために」
「はい」
 明智が友久に返事をしたとき「うううううう・・・」という微かな呻き声が保育器から洩れてきた。
「蘭丸!」
「誕生ですね。賀茂さん」
「ああ。蘭丸の知力・・・それに賭けよう」
 明智が深くうなづいた。

 今井田の目はモニタールームの画面に釘づけになっていた。
 監視カメラが侵入者の一挙手一投足を映し出している。彼らは赤外センサを感知して第一の関門を突破した。予測はしていた。しかし、シバタサトルが裸眼で赤外線を見つけたことに驚愕を隠せなかった。
《あの男、知能が異常に発達しているとみえる》
「は?」
《身のこなしが尋常ではない。人間の限界を超えた動きをしている》
「?」
《わからんか》
「いっこうに・・・」
《監視カメラが録画したテープをゆっくり再生してみろ》
 今井田はビデオを操作して一〇分程前の映像を再生した。
 ホールに入って暫くした四人が映し出されている。別にどこも変わったところはない。今井田はスロー再生のスイッチを押して、サトルの動きを注視した。
 驚くべくことに、サトルは一秒の数十分の一のわずかな間に前後左右に頭やカラダを巡らして、注意を払っていた。その動きは人間業とは到底思えないものだった。
「・・・こ、これは・・・」絶句した。
 もう一度普通の再生モードに戻す。
 サトルの動きを眼を凝らしてみる。わずかだがサトルのカラダの輪郭がぼやけている。それが違和感といえる唯一のものだった。
《あの動作を可能にするのは、脳細胞の増殖以外にない》
「すると、蘭丸の・・・」
《やつめ、脳細胞のクローニングにすでに成功しておったな。あれがあれば、ワシはここから出られるものを!》
「エレベーターに乗り込みます。あのまま地下に迎え入れますか」
《ワシの呪力・・・思い知らせてやろう》
「・・・」
《はやく来い・・・はやく来い・・・ふふふふふふふふふ》

    3

 エレベーターが地下に吸い込まれるように降下していく。
 いつ攻めてくるんだ!
 サトルは焦らされることで自分を失いかけていた。それは、ケイやコジロー、巌岳にしても同じだった。ドアを通過するたびに、次の過程に進むたびに恐ろしいほどの精神力を消費していた。胃に穴が開くほど心理的にもうギリギリのレベルまで追いやられ、疲弊していた。
「むかつく奴らだぜ。早くこいってんだ」コジローの目が血走っている。
「扉が開いたら、ズドン! かもね」ケイがサトルをチラとうかがう。
「もうすぐわかるさ」なだめるようにいう。
 エレベーターが速度を緩め、静かにドアが開く。
 緊張が高まる。だれも待ち受けてはいない。ただガランとしているだけだ。しかし、ひどい臭気が満ちていた。クローンの大量生産のせいだろうか?
「なんだ、この臭いは?」
「クローンの臭いですよ」サトルがいう。
 エアシャワーの通路を抜けて、巨大なクリーンルームに出た。
 銀色に輝く移動用ベッドに横たわる全裸の男たち。巌岳も二人の世紀末餓鬼も最初にサトルが感じたのと同じように吐き気を催したらしい。
「死体置き場か? ここは!」
「いや。これがクローンです。前よりも数が少なくなっている。きっと、僕が見た連中は羽田に集結してるんでしょう」
「こいつら、生きてんのか?」
 コジローが気味悪そうに近寄ってクローンの一人を覗き込む。ナイフを肌に当て、刃先を軽く滑らせる。赤い筋からじわっ、と鮮血が滲み出た。
 振り向いて、ニッという笑みをサトルに送ったそのとき、クローンが上半身をスクッともたげて骨太い両手をコジローの首に巻きつけた。
「ウォーッ!」動物的な叫び声がクリーンルームに響き渡った。
 丸太のような腕の筋肉に締めつけられ、コジローは舌を出して目を白黒させている。
 ズガン! ズガン! ズガン! ケイがニュートカレフをクローンに連射した。
 最初の数発で頭蓋が吹き飛んだ。
 ケイは肩に向け数発発射した。肉片と鮮血が散り、骨まで露になる。まだクローンは力を緩めない。血塗れの肉体が、コジローの首を締めつけている。
「バケモノか、こいつは!」
 サトルはコジローのナイフを拾うと、移動用ベッドに駆け上がった。クローンの背後に立つと、吹き飛ばされた頭蓋の残りが見えた。
 脳がない。
 大脳はないが、延髄が生きているのだろうか。頭蓋の底へ向けてナイフを垂直に突き立てた。ナイフの柄までがめり込む。コジローの足のホルスターからもうひと振りのナイフを取り出して、クローンの頸動脈を掻き切った。
 一瞬の早業だった。
 クローンの両手がゆるゆると力を失う。コジローが床に音をたてて落下した。
「コジロー!」ケイが駆け寄ってカラダを揺する。
「ゲホッ・・・」
 コジローが噎せた。とりあえず、生きているらしい。
 サトルは動物的な気配と殺気を感じた。
 一人のクローンの動きに呼応したのか、あちこちで眠りから醒めたようにクローンたちが体を揺蕩させている。戦国の世の殺人マシンの目覚めだ。しかし、まだバイオコンピュータは脳に装填されていない。本能だけで動いているのだ。
 絶叫とともに四人を嗅ぎつけ、にじり寄ってくる。
 ケイと巌岳が拳銃で応戦する。
 心臓を打ち抜かれてもなお駆け寄ってくるクローン。手を打ち砕かれたまま迫る異形の相貌。この世のものとは思えない。
「弾が・・・!」巌岳がマガジンを捨て去る。
 ケイは予備の弾丸をマガジンに詰め込んでは装填を繰り返している。
 サトルはクローンの攻撃を効率よくかわした。いくら素早い動きでもサトルにはスローに見える。ナイフを手にクローンの背後に回って頸動脈を切り裂くことに専念した。
 しかし、多勢に無勢だ。殺しても殺しても限りなくやってくる。雨後の筍のようだ。
「ここで時間を浪費していては、中枢部にいけない!」
「どうする?」ケイが訊く。
「考えてるんだよ・・・ん?」
 遠くの一角に、紫色の制服に身を固めた痩せた、長身の美青年が現れた。
 まさか!?
 まぎれもない、蘭丸だった。
 死んだはずではなかったのか?

《あれは蘭丸ではないか! どうしたことじゃ?》
「ま、まさか! 斬首刑に処したものがどうして?」
 監視モニターを注視していた今井田が仰天の声を張り上げた。
《まさか、やつめ、自らをクローニング!?》
「そうとしか考えられませんな。それにしても、だれかの手助けが必要に・・・」
《賀茂に違いない。奴め、自分からワシを復活をしておきながら、ワシの行動にとやかくいっておった》
「捜し出しましょう」
《殺せ! 殺せ! 賀茂を殺せ!》

 ケイの援護射撃に守られながら、三人が走る。
 コジローはサトルが肩に背負った。
「待ってくれ」しんがりの巌岳が息を切らせている。
 その背にクローンの手が伸びる。
 いままさに掴まろうというとき、弾丸がクローンの喉笛を打ち抜いた。頸動脈の切断を狙った見事な一撃だ。前方の開け放たれたドアの中で、蘭丸が銃を構えている。その銃口から数秒ごとに硝煙が吹き出している。着実にクローンを倒す自信に満ちた銃さばきた。
 四人が転がるようにドアの中に入ると、素早く閉じられた。
「頭蓋は破裂しなかったとみえるな。成功だった」
「おかげさまで」
 サトルは蘭丸に笑みを返した。
「この私も、同じ原理で甦った」
「やっぱり・・・」
 この蘭丸はクローンなのだ。しかし、完璧なクローンだ。
「信長は?」
「奥の神殿の羊水タンクの中だ」
「タンク?」
「不完全なクローンは自由もままならぬ。子宮の中に浮いたまま、外部の巨大なコンピュータに知恵を借りている」
「そこへ。急ごう!」
 サトルはみなを促した。


   第十一章 クローンとクローンと

    1

《おのれ! もう遊んではおられん。死力を尽くせ!》
 信長は反逆者蘭丸の復活に、逆上した。
《総力戦だ!》
 スピーカーが壊れそうなほどの大声だ。今井田は兵力として使用に足るクローン戦士を総動員した。さらに、夜勤の研究員はそのままに、交代要員も連絡網を使って起こした。各詰め所はクローン戦士で固められ、通行不能にされた。

 賀茂友久は、蘭丸の部屋から離れ祈祷堂に向かった。零落して陰陽道の卜筮(ぼくせい)をすることがなくなってから封印されていた場所だ。その封印を解いて、堂の中に入った。白木の匂いが辺りに満ちていた。燭を灯し堂の中央に座すと、疲弊したカラダに鞭打って最後の力を振り絞った。
 印を結び呪文を唱える。
 まず、吉凶を占った。亀甲を火に翳して、亀裂のカタチを読んだ。不吉な兆しが色濃く現れていた。
「この災いは防ぎようがない。この災禍はだれに降りかかるのか?」
 友久の顔に曇りが生じた。筮竹は蘭丸の凶運を現している。何者かが、襲いかかろうとしているの。それを救うには・・・。懐紙を取り出すと、人形に折り、勢いよく中空に放った。ひらり、と羽ばたくと懐紙はフッと消えた。
 式神だ。
 友久は祈祷をつづけた。
 信長に背き、陰陽師として力を発揮させようとしていた。

 狭い通路を蘭丸が先導した。サトルはどこをどう走ったか記憶できたが、巌岳には迷路にしか思えなかった。
 サトルが蘭丸を制止した。
「相当の数のクローンが向かってくる」
「引き返す?」ケイがいう。
「それはムリだ」蘭丸がいった。「信長に会うにはこの通路以外ない」
「後ろからも来ている」サトルが絶望的な眼差しを蘭丸に向けた。
「もう弾も少ないし・・・」ケイが情けなさそうな声を出した。
「ナイフじゃ数には勝てない」
 回復したコジローの愛想がよくなってきている。しかし、愛想がよくなってもこの状態は変わらない。
「?」
 サトルは空気の密度が変化していることに気づいた。
「用心して」とみなにいう。
 ソーダ水が弾けるような音がして、空気が紅く染まり、泡立った。その泡は空間を歪め、次第に濃度を増す。次第に輪郭がはっきりしはじめ、紅く艶やかな肌をした小柄な生き物に変わった。縮れた銀髪の間から二本の角が生え、尾底骨の中央から細長い尻尾が生えている。肩と背筋は隆起し、引き締まった腰にわずかな布切れがまとわりついている。
 右手には抜き身の大刀がひと振り。
「鬼?」
「式神だ」
 サトルの疑問に応えるように蘭丸が呟いた。
「この私を復活させた陰陽師、賀茂友久が放ったのだ。我々を守るために・・・」
「友久は信長を復活させた張本人じゃないか?」
「まさか立場が逆転するとは考えもしなかったのだ。信忠が化身として我が物顔に振る舞い初めて、やっと気づいたのだ、その過ちを・・・」
 式神は、獰猛そうな目で蘭丸を一瞥すると、ひょうひょうと身軽に前方へと走っていった。もうクローンたちは目前だ。切りかかってくるクローン戦士からひょいと体をかわすと式神は軽く足を払う。
 音を立ててクローンが倒れ、サトルたちの近くへ転がってきた。コジローが素早くナイフの先をクローンの延髄にあてる。刃がすうっ、と首に吸い込まれていく。
 次々に式神はクローン戦士を小気味よい剣さばきで斬り倒していく。紅い肌が、鮮血に彩られて、ますます怒りの色合いを高めていった。サトルたちは式神のあとについて、先を急いだ。通路は肉と血糊で酷い状態だ。これが、最先端の現代科学が生み出した産物だと思うと、複雑になる。
 正面に厚い扉が見えてきた。
「あそこに信長の羊水タンクとコンピュータがある」
 前方のクローンをたった一人で始末した式神は、いまでは後方に回って、追ってくるクローンとの攻防に忙しかった。
「どうやって入る?」巌岳が訊く。
「パスワードが要る」蘭丸がいった。
「入れないっていうのかい?」そういってケイが溜め息をつく。
「ところが、それを知っている人間が私に教えてくれた」蘭丸が妖艶な笑みを浮かべる。以前には見られなかったやさしい表情だ。「世界遺伝子研究所の査察官殿が、この地下の実験場に潜入していたのだ」
 蘭丸が扉横のキーボードにパスワードを打ち込んだ。
 サトルの頭に思い当たる人物が浮かんだ。
「そう、君を逃してくれた男さ」見越したように蘭丸がいった。
 クウィーン・・・硬質な音をたてて、ドアが左右に開いた。

    2

 冷たい空気が吐き出されてくる。
 中に入ると、大型コンピュータの作動する音が地鳴りのように響いていた。
 天井は三階建てのビルがすっかり入ってしまうほど高い。その右手には巨大な円柱が三本。キルア社の世界最高速のウルトラスーパーコンピュータだ。
 左手には直径が三メートルほどあるガラスのタンクがあり、コンピュータとの間を膨大な数のコードで結ばれている。タンクの中には、頭蓋からコードの束を生やした全裸の男が、満たされた溶液に囲まれて沈んでいた。
 サトルたちがタンクに近づこうとしたとき、天井から声が降ってきた。
《邪魔を、するな!》
 デジタル音声が部屋いっぱいに響き渡った。
「ヘンな声」ケイが戸惑ったようにいう。
「あのガラスタンクに浮かんでるのが信長さ」サトルが応える。
「溺れないの?」コジローが訊く。
「胎児が子宮の中でも溺れないのと同じだよ」それから、サトルがコンピュータを指差す。「あのコンピュータが脳とつながっているんだ」
「コンピュータの脳をもった人間っていうわけか」巌岳が驚嘆したようにいった。
《寄るな!》
 凄まじい風がサトルたちを襲った。空調施設をコントロールして風を吹かせたのだ。
 立っているどころではない。みな入り口まで吹き飛ばされた。幻術を破られ、しかも、化身である信忠まで打ち倒された信長は怒りの頂点にあった。
《まやかしではないぞ。眩しの遊びは終りだ。思い知れ!》
 複雑に変調された高周波がスピーカーから流れ出した。
 神経を破壊し、脳を狂わせる殺人周波数だ。こんな芸当ができるのも、信長がキルア社の世界最高速のウルトラスーパーコンピュータを脳として接続しているからだ。古今東西で行われた拷問や残虐な処刑についてのデータまでが、豊富に、しかも、忠実にインプットされているのだから、それを応用するのはたやすいこと。自ら手を下すことができなくとも、いま可能な手段を選択して攻撃することができるのだ。
「痛い!」
「頭が割れる!」
「ああああ・・・!」
 みな耳を塞ぐが、高周波は肌を刺してくる。苦し紛れにコジローがナイフを投げるが、羊水タンクまでは届かない。高周波が人間の分子構造の組成を破壊しているのだ。
 ミクロン単位で細胞が潰れ、組織が崩れ、肉が裂けはじめていた。
 針で差すような痛みが全身をくまなく覆う。
「ぎゃっ!」
 悲鳴を上げながら、みなのた打ち回っている。
 防音室の今井田は、その様子を不敵な形相で見つめていた。斬首などよりもはるかに苦痛の激しい責め苦がはじまった。
《死ね!》
 信長は周波数のボルテージを上げた。
《ワシの野望を邪魔するヤツは死ぬのだ!》
 勝利の雄哮びまでが聞こえてきそうだった。
 そのとき・・・
 ふっ、と一本の矢が、円筒形のコンピュータ内部に突然出現した。
 矢は回路基板を貫き、コードを引き千切って、電源部に突き刺さった。つづけて二本。残り二つのコンピュータの肺腑を抉った。
 信長の全身に戦慄が走った。外部のデータベースといえど、脳に矢を穿たれたれれば衝撃は激しく肉体を攻撃する。本能寺以来のショックだった。
 ブゥゥゥウオン、という電磁音とともに、清楚な面持ちの女が宙に現れた。
 手には弓。
 矢をつがえると弦を大きく引き絞り、信長の沈む羊水タンクに向けた。高周波の攻撃から解放され、虚ろな目のサトルに、その姿が神々しく映った。
「市恵!・・・いや、お市・・・!」
 お市の方の怨霊が、霊魂となって時空を超えやってきたのだ! その執念たるや凄まじいものがある。
「兄じゃ。ともに成仏!」お市の方の凛とした声が響いた。
 矢は放たれた。
 信長の眉間を目指し、矢は一直線に飛翔していた。迫る矢に向けて、信長は全身全霊を込めた呪いを浴びせかけた。破壊されかけた脳波がつくる呪いの波動が、矢尻に向けて衝撃波となって送られる。
 パーン、という炸裂音とともに鋼の矢尻は粉砕し、散った。
 信長の眼が緑色にギラつきはじめる。
「狂気・・・」蘭丸がつぶやく。
《欲あらば食わん・・・》
「第六天魔王に心を売り払い、天下を目指した男の波動が勝った・・・」
「どういうことだ?」巌岳が訊く。
「いままで信長は外部コンピュータとの交信で自分の細胞を活性化して、脳にしていた。しかし、コンピュータを破壊しても、信長の力は劣るどころか強まっている・・・。コンピュータによって自力再生した脳は、それ自身がすでに異常な発達をしているに違いない・・・」
 恐ろしいものを見たように、蘭丸の声が震えている。
 ミシッ!
 羊水タンクの強化プラスチックガラスにひび割れが走った。信長が胎児の悦楽を離れて、自ら自立の道を選んだのか?
 ガッシャン!
 ガラスの破片が凶器となって吹っ飛ぶ。信長を包み込んでいた羊水が、ゴウという音をたて、洪水のように氾濫した。羊水は電気回路に侵入してショートが発生する。白煙が立ち込め、焦げた匂いが漂った。
 巌岳はぬるぬるの羊水に足を取られ、転倒する。ケイとコジローは俯せになっている。ケイが頭を上げ、コジローを呼ぶ。しかし、反応がない。跪いて、コジローを抱き起こす。その胸に、鋭角なガラス片が深々と刺さっていた。
 口から、ごぼごぼと泡のような血が流れ、Tシャツを染める。
「コジロー!」
 すでに息のないコジローを、ケイが抱きしめて号泣する。
「泣くな! 怨みはあいつにぶつけろ!」
 サトルはいってタンクのあった方を指す。
「バカヤロー! 信長のバカヤロー!」
 ケイは立ち上がり、ニュートカレフを握り締めた。
 蒸気の中の人影を狙って、トリガーを引きつづける。手応えがない。薬筴がカラになった銃を投げつけた。
 その銃が青白い炎を上げ、空中で一瞬にして熔けて消えた。
「結界だ。それも、とても強力な・・・」蘭丸がいう。
 サトルに陰陽道の知識はなかったが、理解できた。
 人影が、明瞭な輪郭を描き出しはじめていた。素裸の筋骨逞しい男が、正面にいた。切れ長の目尻。薄い眉。高い鼻梁。その下に細く薄く伸びた髭。信長が、いま目の前にいる。眉の上から伸びているのが髪ではなく、無数の光ファイバの束なのが異なっていた。
 信長は光ファイバを束にしてつかみ、太刀でザクリと断ち切った。ファイバが銀髪のように、頭を覆う。
「じ・ゆ・う・だ」
 覚束ない発音でそういうと、歓喜に震えるように顔を天に向けた。
 信長が見ているのは天井ではなく、遥か上空の天のはずだった。自らが支配するであろう世界の天空。その蒼々とした天を見ているのだ。

    3

 羽田では、指導者を失った信長の大軍が、鬨の声を待ち望んでザワつきはじめていた。曙光が人影を縁取って紅く照り映えている。「まだか?」そんな戸惑いが小石を落とした水面に広がる小波のように増していった。
 頭蓋に組み込まれている戦闘プログラムに、人間の感情は一切インプットされていない。しかし、生理感覚には日の出とともに雄哮びを上げるという記憶が刻み込まれていた。カラダが欲しているにもかかわらず、命令が下されない。苛立ちがつのった。しかし、戦士たちはその理由を理解することができない。意味不明の不愉快さに苛立ちをますますつのらせていった。
 そんな中、ある一人のクローン戦士の戦闘プログラムに異変が生じた。肉体が潜在的にもっている感情に、突然のように揺り動かされたのだ。
 ある細胞内の遺伝子に、ちょっとした塩基配列のミスがあった。そのミスが、頭蓋内に埋め込まれたコンピュータに熱を発生させ、ちょっとしたシステムエラーを発生させた。システムエラーは、コンピュータを暴走させた。暴走は、パニックへと変わった。その暴走が、他のコンピュータにも影響を及ぼそうとしていた。血を欲し、殺戮を抑えきれないプログラムたちの暴走がはじまりかけていた。

 象刑事は、慌てふためいたいた。
 お市の方に憑依され、呪術を身につけているはずの市恵が、突然昏睡状態に陥ったのだ。集団を統べるはずの頼みの綱が不在となってしまった。そのとき、お市方の魂が時空を超え、多摩の地下で信長に矢を放っていたことは、知らない。
「どうしたんだよお・・・」象刑事が不安化に市恵を揺すった。
「オッサン、あたふたすんなって。俺たちがいるじゃんか」
 長い髪をレインボーカラーに染め上げ、後ろで結わえた少年がいった。
「これでよ」肩から下げたM88カービンの銃口を愛しげに撫でた。「あいつら、生ゴミにしてやるよ」
 黒い皮ジャンから素肌の胸がのぞいている。
「安心してなって、刑事さん」
 オレンジ色のルージュにイルミネーションのついたサングラスをかけた少女が、象刑事の肩を叩いた。日頃の恨みを込めて、かなり強く叩いたようだ。象刑事が顔を歪める。
「・・・でも、あんなにいっぱいいて、こっちは子供ばかりだし・・・弾丸にも限りがあるんだろう?」
「子供で頼りなかったらどっかへいってくれ」
「・・・あ、そんな、悪意があっていったんじゃないんだ、つい、つい出ちゃったの。許して」
 哀願するようにいう。
「情けねーな」少年がいった。「おまえが動揺してどうなる? 他の仲間に、この姉ちゃんがぶっ倒れたっていうことを広げちゃだめなんだ。いい大人のくせして、ジタバタすんな!」
 どっちが大人か分からない。
「わ、分かった・・・」象刑事は震えを押さえて応える。
「がんばってくれなきゃ困るよ、刑事さん」
 からかうような口振りの少女の、大きな瞳の奥が励ますように輝いていた。
 少年のところに仲間が連絡をとりにきた。
「連中が動きはじめた」
「はじまるか、いよいよ。ひひひひひひひ」
 遺伝子異常の血が騒ぐのか、表情が狂気の色を帯びはじめた。
「違うんだ、これを・・・」仲間が双眼鏡を渡す。
 覗いた少年の口が、呆気にとられたようにポカンと開いた。
「なんなんだ? 仲間割れか?」
「わからない」
 象刑事が少年の手から双眼鏡を奪うようにして覗いた。呆然としたような表情を残して、少女に双眼鏡を渡した。
「スゲーじゃん! 狂っちまったのかアイツら?」
 少女がすっとんきょうな声を上げた。信長のクローン戦士たちが、互いに斬り合っていた。混沌の坩堝という状況だ。
「ひゃー、こっちへ来るよぉーアイツら!」少女の手から少年が双眼鏡をもぎ取った。
「戦闘準備だ!」
「オーケー」仲間が伝達に走った。
「戦術もなにもあったもんじゃねえぜ。やつら、プツンと切れちまったらしい。こんなの、初めてだぜ」
 少年が、わずかに不安な声を洩らした。

    7

 銀髪を振り乱した信長が、結界のオーラに包まれながら立っている。
 強力な電磁バリアの結界がジジジジジジジジジシ・・・とプラズマを発生させ、空気を青白く酸化させている。信長が動くたびに周囲に焦げた臭いが発生した。
 サトルたちは信長を避けるように後じさった。蘭丸は、自分が創り出した信長を、畏怖の眼差しで見ていた。こんなものを創り上げるつもりは、なかった。だが、厳然として信長は目の前にいる。
 抹殺するにはどうすればいいのか? 信忠に誤解されたように、細胞分裂剤の不良品を飲ませるか? だが、どうやって?
 切歯扼腕した。
 巌岳警部も、自分の無力さにほとほと嫌気がさしていた。なんの手も打てない自分。お手上げ状態の自分。ここで死んでいくのか・・・。
 サトルが蘭丸を見て「クスリ」といった。その口調が妙になまめかしい。
「!?」蘭丸が驚愕の色を浮かべた。
「お主の考えていること、成し遂げてみせようぞ」サトルの言い振りは、女性のようだ。「どうした!? シバタ・・・?」蘭丸が問う。
「妾が兄上にそのクスリ、飲ませよう」
 いわれるがままに、蘭丸は胸ポケットからでき損ないの中でも最も強力に脳細胞分化を促進するカプセル錠を取り出した。そして、サトルの手のひらに載せた。
「お市の方が、シバタにのり移ったか?」巌岳が驚異の眼差しをサトルに向けた。
 お市の方は、俊敏な動きと冷徹な判断力を備えたサトルのカラダを依代として選んだ。ここに呪力が加われば、信長に対抗することが叶う。そうお市の方は判断したのだ。
 すっく、とサトルのカラダが立ち上がっり、しずしずと信長に近寄っていく。
 差し延べる手。
 その指先が電磁バリアの結界に触れる。バチバチバチ、と青白い閃光が飛沫のように散った。眩しさにケイも巌岳も蘭丸も目を覆った。
 指の隙間からケイが怖々覗いた。サトルの腕が結界に呑み込まれていく・・・。肩が、顔が、足が、半身がすでに結界の中に没入していた。
 サトルのカラダは信長の結界の中にいた。
 二つのからだが一つになっていく。
 サトルが信長の首筋を撫で、抱擁し、唇を合わせていた。


   第十二章 毒をもって毒を制す

    1

「兄上・・・お懐かしゅう御座りまする」
「市・・・邪魔をしにきたな」
「妾は兄上の天下取りに利用されるだけの人生でした」
「それがどうした」
「妾がいわれるがままにしたがった理由を、兄上は存じているはず」
「なにをいうか」
「幼い頃から、ずっと慕っておりました・・・」
「や、やめんか!」信長が狼狽する。
 サトルのカラダを借りたお市の方が、信長の赤銅色に染め上がって逞しい頸に手をまわした。
「・・・いつまでもお側に仕えて、お世話しとう御座りました」
 燃え滾るお市の口唇が信長に迫った。吐息が香しく匂っている。
「い、市・・・」
 当惑した信長がいた。健気で一途な女心に、気圧されている。恋情をかそけく押し殺し、胸の奥底に秘めている女の力は凄まじい。女など戦略の道具と思っていた男がいた。が、そうされてまで思いを寄せる女がいた。それは、兄と妹だった。
 捩じ伏せることしか知らない信長にとって、この心の高鳴りは混乱するばかりだった。唇が重ねられ、熱い舌が滑り込んできた。信長は凍りついたまま、なす術を失っていた。衝撃と官能に心を奪われてしまっていたのだ。
 妹の唾液が喉に流れ落ちる・・・そのとき、喉頭に異物を感じた。
「兄上・・・」唇を重ねたまま、お市の方がいう。「ともに、涅般へ」
 カプセルは信長の咽喉を下っていった。
「計ったな!」
 信長は絡みついていた腕を払いのけると、お市を突き飛ばした。うろたえていた。憤りを通り越して、錯乱していた。吐き出そうともがくが叶わない。
 思念が錯綜して呪力に乱れが起きた。張りめぐらした結界がほころびはじめたのだ。

「蘭丸!」
 お市の方の声で、蘭丸は我に帰った。実をいうと、蘭丸はお市の方と信長の行為を嫉妬の炎をめらめらと滾らせて見ていた。
 血走った目をカッと見開き、薬を吐き出そうと喉に指を突っ込む信長がいた。バリアが弱々しく、頼りなげに青白く光っている。チャンスだ。床に散っているガラスの破片を手にすると渾身の力を込めて投げつけた。
 お市の方の霊魂が、サトルのカラダを脱して、ガラスの破片へと移行した。ガラスの破片が虹色に輝く。
 鈍い音をたて、ガラスの破片が信長の腹にめり込んだ。霊気の籠ったガラス片が信長の腹を抉る。信長は、残された呪力を振り絞った。
「おのれ、死ねん、死ねんぞ、わしはまだ死ねん・・・」
 呪力がガラス片に集中される。
 ミシッっという音とともに、ガラス片に稲妻のようなクラックが入る。
「サトル!」壁を背に蹲っているサトルにケイが寄り添った。「大丈夫?」
「どうした? 俺は・・・? 一体なにが?」
 全身の筋肉が強張っている。頭痛がした。こめかみに両手を当てると、ドクンドクンという拍動が聞こえる。お市の方が憑いていた間の記憶がない。
「ねえ、サトル!」耳元でケイの声がした。
「どうしたんだ、俺は・・・?」
「お市の方が・・・お市の方がサトルにのり移って・・・それで、信長にクスリを・・・」ケイがいい淀んだ。「口移しで飲ませた・・・」
 そうだ。蘭丸に合図したのは自分だった。その意思をお市の方が感じとって、自分に憑いたのだ・・・。
 サトルが信長に目を移した。腹に刺さったガラス片が、真っ赤になって光っている。次第に白くなり、炭化していく。そして、粉になって零れ落ちていく・・・。
 わけ知らず涙が出た。慟哭し嗚咽した。顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。しかし、それでいいのだ、という高揚感も訪れていた。ガラス片に憑依したお市の方が、成仏したことを知ったのだ。もう彷徨い歩くことはないだろう。お市の方は、兄とともに果てようとしたのだ・・・。
 お市・・・市い・・・市恵・・・愛しく、安らぎすら感じる女性よ・・・。
 脳裏に炎が映った。
 炎の中で市恵が白装束で喉元に短刀を当てている。やめるんだ! ああ・・・鮮血が胸元を濡らしていく・・・崩れ落ちる市恵! どうしたんだ? 俺も白刃を握っているじゃないか・・・俺の手が白刃の先を腹に向けている・・・ちがう、ちがう、死にたくない、なんで俺は死のうとしているんだ・・・! 家臣の刃が首を跳ねた。サトルの首はくるくると宙を舞いながら、果てゆく自分を見ていた。
「サトル!」
 目を開けると、ケイが心配そうに覗き込んでいる。巌岳もサトルの突然の放心に戸惑い気味だ。
「・・・俺は・・・柴田勝家の裔だ」
「そう。だから、この地下に引き寄せられたんだ」蘭丸が当然のごとくいう。
 信長の家臣であり、秀吉の手によって滅ぼされた武将柴田勝家。お市の方が二度目に嫁いだ男でもある。あの炎は、落城の炎。ともに自害して果てた記憶が、お市の方が成仏したせいで呼び覚まされたのか?
 自分がこの場面にいる必然性がやっと飲み込めていた。偶然にファースト・エレクトロニクスへ迷い込んだのではなかい。自分も裔の一員として、誘蛾灯に導かれるように召されてきたのだ。
 サトルは力が漲るのを全身で感じ取っていた。
 その耳に、しゅーしゅー・・・という音が聞こえていた。それは、信長の腹の創傷が泡のように盛り上がり、再生している音だった。
「大部クスリが効いてきているようだ」蘭丸が満足そうな声を上げた。
 どういうことだ? という顔をした巌岳に、蘭丸が説明を加える。
「さっきのカプセル・・・あれは、一種のガン増殖細胞でね、細胞の分化を急速に促進する作用があるんだ。・・・とくに、脳細胞によく効く」
「つまり?」
「見ていればわかる」
 信長はカラダが活気づく気分に、少し高揚していた。
 しかし、それが自信の破滅のはじまりであることも十分に承知していた。
「死なん・・・死なんぞ。死んでたまるか・・・わしの天下を見るまでは・・・」
 鬼のような形相が、美しく輝いた。

 衝撃が、脊椎を上りつめようとしていた。脳幹の底から刺戟が一気に走る。頸を支える筋肉に強烈な圧迫感が加わった。紙を割くような音がして、信長の筋肉の一本一本が引き千切られていった。
「ぎゃっ! うわわわわわわわわわわわ・・・」
 痛感への刺戟が脳へとつたえられ、前後不覚になりそうなほどの疼痛が後頭部から頭頂へと波及していく。
「ああああああああああああああ・・・」
 頭を抱えて痛みに堪える信長がいた。
 ブチン・・・。
 弓の弦が切れたような音がした。
 信長の頭を支える筋肉が、切れた。支柱を失った頭は、止まりかけたコマが頭を振るようにゆったりと円弧を描いてよろめいていた。ガクッ、と肩の上に頭が横になった。顎を支える筋肉も千切れ、下顎がだらりとだらしなく垂れ下がった。
 ミシッ・・・頭蓋の中で、脳がパンが膨らむように拡大をつづけていた。
 頭皮がうねうねと波打って、彎弓した。次第にうねりが高まっていく。
 そして・・・ボン、という鈍い音とともに頭蓋が砕け散った。どす黒い血液の飛沫とともに、灰白色の大脳皮質が天井や壁にへばりついた。
「スゲー!」ケイが狂喜とも驚嘆ともとれない声を発した。
「戦国人の首を取りつづけ、酒肴にもしたという信長が、首を取られたっていうことか」サトルが小さく洩らす。
「夢が、夢が散っていった」蘭丸が涙まじりにいう。
 頭を吹き飛ばさ、首のない信長が、ゆっくりと仰向けに倒れた。
 ケイが腕にむず痒さを感じ、見ると、赤みを帯びた灰白色の小さな塊が蠢いている。
「ひぇっ!」
「腫瘍化した細胞が、信長の脳を食らっているのだ」蘭丸がこともなげにいった。
 ひくひくと動きながら、灰白色の部分が次第に赤黒く、肥大していく。壁で、天井で、床で、信長の脳や肉体が食われて、どす黒い塊と化して増殖していった。
 食うものがなくなると、増殖細胞は目的を失ってだらりと溶けはじめていった。
「これで、終わりだ」
 安堵の声が巌岳の口からこぼれた。
「いや!」蘭丸が甲高い声を上げた。「まだクローン戦士たちは勝手に動いているはず。・・・式神は?」
 ケイが背後に気を配った。
 遠くで金属の触れ合う音がしていた。
「まだ戦っている」
「もう限界だろう・・・陰陽師としての賀茂友久の力も、すでに尽きているはず」
 事実、祈祷堂の中で賀茂友久はうつぶせにつっ伏し、虫の息ので呪文を唱えていた。生き絶えるのも時間の問題だった。
「ねえ、サトル」ケイがいった。
「ん?」
「クローンが見たり聞いたりした情報は、ここのコンピュータに送られてくるっていってたよね」
 新宿でのバトルのときにサトルがいった言葉を思い出していた。
「その通りだ」蘭丸が応える。
「じゃあ、こっちからも指示を送れば?」
「でも、コンピュータはもう壊れてしまって・・・」
「いや、あれは信長専用なんだ。他にもこの施設用に、コンピュータはある。やってみよう・・・初期設定以外のコマンドを受け付けるがどうか分からないが、やってみる価値はある」
 蘭丸がいった。
「ねえ、信長がワタシたちにしたみたいなへんちくりんな周波数を出したら?」
「高周波か・・・」蘭丸が腕組みして考え込む。
「東京タワー向けて電波を送れば、羽田にも強い電波が届くはずだよ」
 ケイがテレビ放送で覚えた知識で意見をいった。
「いや、ここから電波を送るのは効率が悪い。羽田管制塔のコンピュータにハッキングして、羽田から直接電波を発信しよう。それも、電圧に極端な変化をつけた電磁波を。そうすれば脳の代わりに入っているコンピュータへのバッテリーのスイッチングが変調をきたして、コントロールを乱すことができるかも知れない」
「そうしてくれ」巌岳が頼み込むようにいう。
「ただし・・・」蘭丸が注文をつけた。
「ただし?」巌岳が怪訝そうな顔になる。
「東京一円のコンピュータにも支障が出る可能性は覚悟してもらわないと」
「・・・背に腹は変えられん」巌岳が小刻みにうなずいた。
 蘭丸は、センターコンピュータのオペレーティングテーブルの前に座った。キーボードを操作して羽田のコンピュータに潜り込み、誤動作しないようセットしてから、電磁波を送った。

    2

 殺戮が繰り返されていた。
 殺戮は、繰り返されながら世紀末餓鬼の布陣に迫っていた。
 危険を察知した連中は、指図を待たずに火器のトリガーを引き、銃撃を開始した。それに呼応するように、クローン戦士たちからも矢が円弧を描いて飛翔してきていた。幾人かの世紀末餓鬼が命を落とし、深手を負った。それが憎しみに拍車をかけて、戦は拡大の一途をたどるかに見えた。
 それが・・・
 突然のようにクローン戦士たちの行動が狂いはじめた。
 いきなり全身を硬直させて倒れるもの。自ら命を断つもの。武器を捨てて寝転がるもの。総じて戦闘意欲というものを捨て去ったように見えた。まるでショートしたロボットのように右往左往して、動きも萎え、しまいには全部が滑走路にへたり込むようにして眠りこけた。世紀末餓鬼たちは、呆気にとられて見送るばかりだった。
 象刑事は、戦闘が回避されたことに安堵して、緊張の糸が切れた。本物の殺し合いというものを間近に見て、急に現実にもどされ、腰を抜かした。それを助け起こしたのは、浅井市恵だった。
「・・・あ、き、君・・・目が覚めたのか?」
「え、ええ。私、夢を見ていたみたいだったわ」頭を押さえながらいった。
「夢?」
「そう。遠い昔の恨みを晴らしたみたいな気分。とってもすっきりしてるわ。なんか、夢でも見ていたのかしら?」
 市恵は深い眠りから覚めたような話し方をしていた。
「夢じゃない。ほら、目の前には死体が転がっているじゃないか? とんでもないことが起こりかけて、そして、突然ぜんまいが切れたみたいにストップしたんだ。君は信長の妹のお市の方の末裔だって、自分でいっていたじゃないか!?」
「え?」
 水で溶いた絵の具がティッシュペーパーに染み込むように、記憶が淡く染まっていく。彼方へ去っていく前世の記憶が、いとおしくもある。
「私が、お市の方・・・」
 市恵は解放された自分のカラダをきつく抱き締めた。

 蘭丸、サトル、ケイ、巌岳の四人は地上にいた。他の従業員を誘導避難させていた明智も、朝日を浴びて多摩丘陵の一角にある、ファースト・エレクトロニクスの敷地内にいた。出る途中、ズタズタに引き裂かれた懐紙がボロボロに歯こぼれした剣とともにあるのを見つけた。
「式神だ」蘭丸が拾い上げていった。
「賀茂友久が放った式神・・・最後の最後まで戦ったのだろう。私たちを守ってくれた陰陽道・・・恐らく賀茂は・・・」
 そういうと頭を垂れた。
 辺りには切り裂かれたクローン戦士が無数に転がっていた。コンピュータをショートさせ、だらしなく眠るように横たわるものもいた。
「戦は、終わった」巌岳警部が背筋を伸ばして安堵の声を上げた。
「いや。今井田の姿が見えない」明智が首を捻っている。
「今井田・・・?」蘭丸が記憶の糸を手繰ろうとする。
「彼はだれの末裔だったのだ?」
 サトルが、蘭丸に訊いた。
「・・・思い出そうとしているのだけど・・・考えたこともなかった」
「だれも今井田のことを特別な関わりをもっていると考えたことがなかったっていうか・・・」
 明智が腕組みしてなお考えつづけている。身近にいたものほど、今井田という男の存在が妙にクローズアップされているようだ。
「賀茂友久がこの会社を起こして・・・それで、いつから今井田はこの会社に?」
「それが・・・よく思い出せない」
 サトルの問いに、蘭丸が応える。
 まさか?
 戦慄がサトルの心臓を凍りつかせた。
「他化自在天・・・大六天の魔王そのものだったんじゃないだろうか?」
「・・・!」
 蘭丸も明智もサトルの顔を凝視した。
「最後まで信長の側に仕えた男、信長の復活を演出したのが今井田だとしたら・・・」
 見上げる空は雲ひとつなく広がっている。
 その空が一瞬震えた。
 ピカッ! ズコン!
 雨雲もないのに閃光が天を裂き、耳をつんざくような衝撃波とともに落雷が落ちた。
 空に魔の笑いが広がったように見えた。
 恐るべし。
 欲を食らう魔王は、すぐ側にいたのだ。


    エピローグ

 蘭丸は明智の勧めで世界遺伝子研究所の研究員として奉職した。
 世紀末餓鬼は、遺伝子研究所の付属病棟で遺伝子配列の組み替えのテストケースとして治療されることになった。ケイは、その手つだいを志願して、研究所で学びながら働くことになった。
 サトルは、蘭丸の手によって細胞分化の抑制剤が開発されるのを待っていた。
 異常に発達してしまった脳は、日常生活を味化ないものにしてしまっていたからだ。
 一般の人間の行動が数値で予測できてしまうつまらなさ。思い出したくない事件やシーンの隅々まで、写真以上に克明に記憶してしまう能力。それは、ときに苦痛を伴った。人間はほどほどに忘れるから未来に夢を見ることができる。曖昧だから、その予測をすることで幸福さえ享受できる。
 そういう動物なのだ。

「ねえ、サトルくん」
「ん?」
「人間はこれからもっと幸せになれるのかしらね?」
 目の前にはビルで埋め尽くされた東京があった。
「欲望を捨て去ることからはじまるのかもな」
「でも、欲望がなければ科学も進化しなかったし、文明もこんなに発達しなかったはずでしょ」
「科学も、物質文明も急激に発達したのは、歴史を見れば戦争のときだろ、飛行機も船舶も通信技術も、いつも兵器として発達してきたんだ。それが、カタチを変えて暮らしの中に入ってきた。二十世紀の末に起こった戦争がもたらした科学技術だ。暮らしの中を見渡せば、そんなものばかりさ」
「・・・ふーん」
「いかに相手を自分の支配下に置くか・・・そんな歴史はもういいよ。ケイもコジローもムサシもみんなそんな欲望の犠牲者なんだから」
「ねえ? 遺伝子研究が進んだんだから、コジローやムサシの細胞から二人を甦らせること、できるんでしょ?」
「・・・できる、と思う。実際に蘭丸っていうクローンがいるんだからね。でも、人間は死ぬ動物だ。神が決めた自然の摂理を壊そうとしたから、今度のことみたいなことが起きたんじゃないだろうか?」
「・・・そうね、私が何人もできちゃったら、私と私と私と私とで、サトルの奪い合いになっちゃうかもしれないしね・・・」
 市恵の顔を見ると、てへ、といった表情をして舌を出している。
「そうしたら、僕も何人もつくってもらって、いろんな女の人とデートするっていうのはどうだろう?」
 しらっといってのけた。
 市恵が、手にしたハンドバッグでサトルを叩こうとするのが見て読めた。
 するりと避ける。
 怒った口許が、いたずらっぽくて魅了した。普通の人間は見逃してしまう一瞬の表情・・・その素晴らしさとも、もう暫くしたらお別れかもしれない。
 でもそれでいいのだ、とサトルは思っていた。
 もう、夏の陽射しが降り注いでいた。

     一九九二年一二月 九日 第一稿
     一九九四年 八月 九日 第二稿
     一九九六年 九月 五日 若干加筆訂正