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水神童子

第一章 めざめ

    1

 年の瀬を向かえたというのに、日本各地では突然の暖冬でとまどいを見せていた。雪山は岩肌を見せ、登山客は冷や汗ならぬ大汗をかいて登山する始末。降雪量ゼロの毎日がつづいていたが、スキー客ばかりはごった返している。
 ここ蔵王も、冬休みで雪めあての客が殺到していた。ロッジのまわりで日光浴を楽しむ客はもちろん、ゲレンデにも人が密集していた。
 人数制限によって大滝空と海の兄弟が仲よくならんでリフトに乗れたのは、行列に参加してから小一時間だってからのことだ。
 スキー板ごしにゲレンデを見下ろしながら、海があきれはてたようにいう。
「こりゃあ海開きみたいだな」
 見上げれば燦々と降り注ぐ太陽の光に青い空。汗ばむ陽気を考えると海がいうように初夏を思わせるものがある。
「何でこんなに人がいるんだ? 邪魔くさくてしょうがないぜ、なあ兄貴」
「おまえもその邪魔くさい人のひとりだ。文句があるならさっさと帰るんだな」
 眉ひとつ動かさず、平然と空がいう。まことにその通り、返す言葉がない。海はこういう理屈をいう兄の空が苦手である。だが、その分冷静で、教えられるところも多かった。もっとも、「なるほど」と首肯してから数時間すると、すっかり記憶の戸棚から消え去ってしまうのが難点といえば難点だったのだが。
 山頂からゲレンデを見下ろすと、まるでゴルフ場のフェアウェイのようで、ちょっとでもコースを外れるとサンドスキーならぬ泥スキーになりそうな気配だ。
 だが、この二人、恐れるようすが微塵もない。いや、むしろ弟の海などは唇の端をつりあげて、相手にとって不足はない、といった熱い眼差しを送っている。
「夏山スキーだな、こりゃ」
 視界は良好。遮るものといえば彼方に見えるスキー客。だが、それが一番危険だ。万一衝突でもしたら、交通事故なみの怪我をすることは必至。雪の緩みを懸念して、斜面の滑降を禁ずるお達しも出されていたのだが…。
「じゃ、先に行かせてもらうぜ」
 舌を出して唇を湿らすと、海はもう斜面を滑り降りていた。
「気をつけろ・・・といって聞くような海でもないか・・・」
 空があきらめ顔でいう。
 実際こういう状況下では雪が緩んでいてエッジが効かないことがままある。いくら技術があっても思いのままにコントロールできないのだ。まして海のように、過信がそのまま図体のでかい十五歳になってしまったようなスキーヤーは、文字通り足下をすくわれる可能性が高い。
 空は、海の後を追うように斜面に体をあずけた。思った通り、エッジは雪を蹴るどころか流されて行く。慣れないスキーヤーならバランスを失って転倒しているだろう。
 前を見ると、海は緩い雪なりにスキーをコントロールして、なかなかの滑りを見せている。樹氷高原も例年なら輝くように美しい氷のファンタジーを演出してくれるのだが、今年はただの雑木林でしかなかった。
 海は、ターンするたびにコースが崩れてふくらんで行くのがわかった。エッジが甘いのではない。雪が甘いのだ。
 その、崩されたコースを空が追走する。
(海のやつ、苦労しているな)
 年上の十七歳だが、スキーワークも海よりかなり上だ。海が崩したコースを何の苦もなくスムーズに滑り降りて行く。間隔を置いて、後ろからやさしく見守りつづけているところに、兄の包容力が感じられる。
 海は思った以上に雪にスキーを取られるので実のところ面食らっていた。思ったように走らない。ねっとりと絡みつき、かと思うと崩れる。気が短い海は、こういう粘着質が嫌いだ。
 ねっとりもったり喋るやつ。梅雨。納豆。とろろ。オクラ。ガム。酢豚。佐伯の叔父・・・。 そんなことを頭に浮かべていると、前方にバンクが現れた。
(いっちょう飛んでやるか)
 海は重心を低くしてストックを両脇に抱え、クラウチング・スタイルをとった。
る。そのまま突っ込むようにして舞った。・・・つもりだったが、バンクは脆くも崩れ落ちて跳躍台の役を果たさなかった。
(落ちる!)
 地平線が揺れた。
 目が追いつかない。地平線は二重三重になり、定まらなかった。両手を広げてバランスを取ろうとするが、垂直と水平が混乱して思うにまかせない。目をつぶろうとした。
<目をつぶるな!>
 脳天に声が轟いた。
(兄貴!)
<考えるな。臍下丹田>
 臍下丹田・・・亀毛先生の日頃からの口癖だ。亀毛先生は二人の家庭教師のようなもので、学業も教えてくれたが、武道や格闘技も教えてくれている。その亀毛先生の口癖が海につたわってきた。
 テレパシーか? 空兄貴はずっと後ろから滑っているのに・・・!
 青空が頭上にあった。反転して、額が雪を蹴散らしていく。だが恐怖心はない。臍下丹田に気を集めた。すると、不思議にカラダが軽くなったような気がした。時間が制止して、周囲の風景がとてつもなく間延びして見える。超高速度撮影された映像を見ているように、のろい。動態視力が増したかのように、雪のかけらが宙に静止している。
 すべては一瞬の出来事なのに、海はゆとりが芽生えたかのように冷静沈着に行動に移すことができた。
 頭上のスキー板をひねって雪上にもどす。頭が上を向いた。視界が落ち着く。真一文字に水平線が広がっていた。なんとか着地したようだ。バランスをとるため、ヤジロベエのようにストックで左右の雪に触れる。
 バチッ バチッ
 電気に触れたように抵抗が腕につたわり、中枢神経から脳へと感覚情報がもたらされた。 みじめな転倒から月面宙返りのように一回転。見事に着地して滑っている。
 固唾をのんで見守っていたスキー客から安堵の吐息が洩れた。
 心なしかスキーも身軽。エッジも立って、雪を気持ちよくかいていく。ターンにムダがなく、思い通りのコースを取ることができた。辺りにいるスキーヤーが止まっているように見える。旗門を通過するように、どんどん追い抜いていった。
「どんなもんだい、さすが海さま。ちょっとやそっとのアクシデントにゃ負けませんぜ」 そうつぶやいて、チラと後ろをうかがう。
 空は海とつかず離れずのまま追ってきていた。茶色い髪がなびいているので、広い額があからさまになっている。
 色白の無表情な顔の、口許だけが微かに笑ったように見えた。
(相変わらずの鉄面皮だね、色気もなにもありゃしねえぜ、兄貴ったら)
 気分がよかった。
 小気味良く雪を蹴り、思い通りのコースが取れて行く。ついさっきまで雪にスキーを取られていたのが不思議なくらいだ。海は慢心して鼻を一段と高くした。
 その横に空がならんだ。合図を送ってきている。
 指が雪面を指していた。
 海は、目を足下に向けた。
 海は、いままでに味わったことのないような驚きに背筋を貫かれていた。なぜなら、スキー板が雪の上数センチのところを滑降していたからだ。地に足がついていないとは、まさにこのこと。海は浮き足立った。
 しかし、海の足元でスキー板は雪面を感じていたし、エッジも雪を蹴っていた。ただし、雪の飛沫は飛んでいない。
 じゃあ、いったい? 空気を蹴っているというのか? 重力や物理の法則を無視したこの状態は何なんだ?
 海は冷たい汗で凍りついていた。

    2

 年が明けて一月。
 東京北区西ヶ原。旧古河庭園裏手の坂をわずかばかり下ったところに、大滝兄弟の住む洋館がある。
 その、風雪を経てきたことを感じさせるレンガ積みの門を、深夜バスで蔵王から戻って来たばかりの空と海がくぐった。
 皮肉なことに、二人が岐路につく少し前から雪になり、それは大雪に変わっており、東京は三〇センチもの降雪に見舞われていた。
 小ぢんまりとした洋館は、木造二階建てで外壁は白。そこに濃緑の柱が浮き出たハーフ・チンバー様式の建物が目に入ってくる。建物も庭も庭木も、すっかり雪化粧をしている。「こっちの方がよっぽどスキー場らいしい風景だな」
「ほーんと」
 軽口を叩き合いながら、二人は玄関のドアを開けて中に入った。
 それほど広いわけではないが、空と海、そして、同居する亀毛先生との三人住まいでは持てあます。だから、二階は二人の寝室以外には使っていない。
 階下ではデパートで誂えた安物のお節料理で亀毛先生が空と海を出迎える。すでに亀毛先生は一升瓶をかかえて紅顔の人となっていた。
「いよいよ海もこれで大滝嶽行きです。亀毛先生」
「なに、そうか。とうとうきたかアレが!」
「はい。そのようです」
 作務衣姿でソファの上にあぐらをかいている亀毛先生が、齢六十五。じゃがいものような顔いっぱいに笑みを浮かべて空に応えた。そうして、後ろでちょんと束ねた髪をときどきいじって、喜びを表現した。だが、その目が泪で潤んでいるのを空は見逃さなかった。 海は顔を歪め、複雑な表情を見せた。

 夜。
 空はビールを片手に御節料理に箸を伸ばした。
 納得のいかない顔で唇を噛み締めている海に、亀毛先生が笑顔を送る。
「いや、めでたい。こんなめでたいことはない。旦那さまや奥さまが生きておられたらさぞかし喜ばれたことだろうと・・・うううう」
「先生、何度目ですか、そうやって泣くのは」
「何度泣いたっていいではないか。わしゃあ嬉しい。嬉しくて泣いておるんじゃ。いくら空坊っちゃんだって、小生が涙腺を緩めるのを拒否なさる権利はありませんぞ!」
「それはそうですが・・・」
「いいじゃねえか、感涙に咽び泣きたい年頃なんだろ。泣かせてやんなよ」
 焼いたスルメをクチャクチャと噛みながら海がしれっという。
「大体さあ、教えてくれたってよかったじゃん。兄貴も先生も知ってて黙ってるなんざ水臭いぜ」
「十五歳の誕生日を過ぎれば、そろそろこうなねことは分かっていた」
「ならどうして!」
 タコのように口を尖らせて、ビールのプルタブを押し込もうとしている空に食ってかかる。
「自分が人なみ外れた力の持ち主だということを知ったのは、突然のことだった」
 昔を思い出すように、視線を中空に泳がせた。
「面倒なものを背負ってしまったな、っていう気持ちと・・・自分は特別なんだ、っていう気持ちとが一緒になったような・・・」
「その状態にぼくもいるわけ」
 腹立たしそうに海がいう。
「大滝嶽にいけば、すべては氷解する」
「面倒臭いよ」
 亀毛先生が戒めるようにいう。
「大滝嶽は修行です」
「いまどき古臭い!」
 完全に不貞腐れている。
「修行は自分との対話だ。おまえが行かなくちゃならないんだよ」
 すでに大滝嶽行きを経験している空が、先輩風を吹かすようにいう。
「兄貴が一昨年一ヵ月も独りで旅行に行ったのは、あれは大滝嶽行きだったんだろ?」
 空は無言でそのことを認めていた。
「じゃあさ、兄貴が悟ったっていうヤツを教えてくれよ。そうすりゃあ別に大滝嶽に行かなくても済むじゃん」
「横着はいけません。悟りというものは自分でしてこそ意味があるのです。空坊っちゃんも、お母さまの玉湖さまも、おばあさまも、みんなご自分独りで大滝嶽に行かれて悟りを開かれたのです」
「あれ? オヤジは大滝嶽に行かなかったの?」
「父上は大滝家の人ではない」
 空が少し哀しそうな目をして噛みしめるようにいった。

 大滝家・・・それは、空と海の母玉湖の家系だ。
 大滝玉湖は一人娘。玉湖の母親は佐伯尚一郎という婿を迎えた。しかし、薄幸の玉湖は二人の兄弟を生み落とすことが使命だったかのように他界した。それを悲しんだ玉湖の母親も相次いでこの世を去った。
 数年後、尚一郎も後を追うようにして逝った。
 残ったのは空と海の、まだ物心もつかない兄弟である。この二人をここまで育て上げたのが、亀毛先生だった。
「海坊っちゃんも大滝嶽から戻ってくれば一人前の男です。そうすりゃあ女の子にモテますぞ・・・くっくっくくく」
 亀毛先生が酔いにまかせてか戯言を洩らした。
「冗談じゃないよ。女なんか掃いて捨てるほど群がってくるもんね」
 アゴをつんと尖らせ、鼻高々というジェスチャーをする。
「曙学園の大滝海っていったら、スポーツ万能で男前でカッコよくていま女の子の間で人気沸騰なんだからね」
「成績の方はどうなんだ?」
「・・・・・・・・・」
 空に勉強のことを突っ込まれると返す言葉がない。
 それに、同じ曙学園の上級生の空が、成績優秀でスポーツマンとして生徒会の会長を務め、学園の綺麗どころが注目しているのを知っていた。
 海の周りには、学園のフツーどころが寄ってくるが、実は兄貴と知り合いたいという魂胆ばかり。実のところプライドを傷つけられていたりするのだ。
 亀毛先生は、そこいらへんのこともお見通しらしく、ニヤニヤと笑いながら杯を口に運んでいた。
 このじゃがいものようにごつごつした顔が、父尚一郎と母玉湖に代わって空と海の二人を育て上げたのだ。玉湖も、このじゃがいも顔に怒鳴られ叩かれ励まされて鍛えられたというから、親子二代で面倒を見てもらったということになる。
 とりあえず二人の保護者という立場になっている亀毛先生は、先祖代々大滝家の教育方として務める血筋である。代々といっても並ではない。
 いまを遡ること千二百年前からというから、気が遠くなりそうなくらい昔からということになる。いまだにその伝統がつづいていることが不思議なくらいだ。
 この亀毛先生が、叔父の豪二郎から二人を取り戻し、面倒を見てくれたのだ。
 空と海の父、尚一郎には弟がいた。
 佐伯豪二郎という。ユニバーサル商事の海外事業分野で頭角を現し、若干四〇歳で部長昇任という異例の抜擢をされだばかりだった。
 豪二郎の妻、静は娘をひとり生んだあと不妊となってしまい、ぜひとも男の子が欲しいと願っていた。ちょうど渡りに船だったのだ。豪二郎もこの願いを拒否することができずに、兄の遺児を預かることとなった。
 血縁といえば、豪二郎以外いない。
 豪二郎は小学校に上がるか上がらないかの空と海の兄弟を引き取った。しかし、二人は豪二郎とソリが合わなかった。
 幼いながら豪二郎の強引で根っからの商人肌の性格を見抜いていたのだ。もちろんこの強引さは、企業内ではやり手という評価を得るのに十分の力を発揮した。すべての行為を投資と考え、その成果を期待する豪二郎の考えや行動は、空にも海にも苦い味でしかなかった。
 塾に行けば、成績の上昇は当然のような顔をする。少年野球ではなぜすぐにレギュラーになれないかと不満顔をする。とにかく、すべてが成果となってカタチに現れないと気が済まない人物だった。しかもネチネチと小言をいう粘着質な性格は、到底兄弟二人と相容れるものではなかった。
 豪二郎の家を抜け出して西ヶ原の家に舞い戻ること数度。亀毛先生は豪二郎にかけあった。
「勝手にすればいい」
 豪二郎は期待に沿わない兄弟二人を、厄介払いするかのように手放して亀毛先生の手に委ねた。
 自由奔放豪放磊落の亀毛先生のもとで、二人は才能を開化させていった。枠に嵌めるよりも、人に合わせて枠をつくる。これが亀毛先生の教育主義だった。
 空は生来の才を研ぎ澄ました。海は海で学業はほどほどに明朗な性格を自分のものにしていったのだ。

「で、いつから行かなきゃなんないんだい?」
 横着そうに海がいう。
「準備があるから・・・一週間後っていうところかな」
「ま、ゆっくり羽根をのばすことですな。しばらくは忍耐ですぞ・・・くっくっくっ」
 亀毛先生が上目遣いで海を見て、肩を揺らして笑った。
(しばらく忍耐・・・)
 拷問に近いような苦痛とかがあるんじゃなかろうか?
 海の頭に憂欝が漂ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「おっ、麻衣ちゃんかな?」
 落ち込んでいた海の顔に光が差した。
 佐伯麻衣。
 叔父、豪二郎の一人娘である。
 空も海も、偏屈な叔父とは反りが合わなかったが、この麻衣とは波長が合った。
 年も空のひとつ下、海のひとつ上の十六歳で、東京でもお嬢様学校として知られる四葉女学館の二年生。ドラスティックでキビキビした語り口や行動は、学園内でもとくに目だち、四葉のマドンナなどと周囲からは呼ばれている。もっとも、麻衣自身は傍の声など気にしない性格だから、奢り高ぶりもしないし天真爛漫な行動をセーブしたりもしない。思ったことをズバズバいうから敵も多いが、その逆に信頼も篤いところがある。陰気な佐伯豪二郎からどうしてこんな娘ができたのかと、周囲でも首を捻るような女の子だった。
 麻衣は勝手知ったる他人の家にどんどん上がり込んでくる。
 その麻衣がドアを開けて目を剥いた。
「何これ! 信じらんない」
 両手に下げた風呂敷包みを無造作にテーブルの上に置くと、すっとんきょうな声を上げた。
 それもそのはず。高校生二人が缶ビール片手に真っ赤な顔をしている側で、一升瓶抱えた初老のじゃがいも顔が茶碗酒。旧制高校の寮じゃあるまいし時代錯誤も甚だしい。
「臭ぁーい!」
「酒がかな?」
「兄貴、屁でもこいたか?」
 海が火照った顔で鼻をつまんで見せる。
「みんなよ、みんな! ぜーんぶ!」
 三人はしかめ面になる。
「男の臭いとお酒の臭いと、ぜーんぶ! 窓開けるわよ!」
 真紅のダッフルコートを脱ぎ捨て、セーターとジーンズ姿になった麻衣が、木製の窓を開け放った。
「あんたたちも手伝いなさい!」
 慌てて空と海が窓を開けはじめた。ここは逆らったらソン。いわれるがままが利口な反応の仕方なのだ。
 雪の中をかいくぐってきた新年の冷たい空気が、暖房とアルコールと亀毛先生のタバコの煙りで澱んでいた室内を急速に冷やしていく。
「先生がついてながら、ダメじゃない! 未成年ですよ、この二人は!」
 風呂敷包みをテーブルに乗せ、包みをほどきながら麻衣が憎まれ口をたたく。
「あ、いや、正月で・・・めでたいことだし・・・ちょっとお神酒をな」
「限度ってものがあるでしょう、限度っていうものが!」
 亀毛先生も麻衣にかかっては形無しだ。
「寒いよ、麻衣ちゃん・・・」
 海の視線は、包みから現れた重箱に関心をすっかり奪われてしまっている。
「少し頭を冷やしたほうがいいの」
 母親のような口をきく麻衣に、海は顔をしかめてしまう。
 年上の空も、いまは黙して語らない。台風が通り過ぎるのをじっと待っているといった有様だ。
「生徒会長のくせして、こんなことが学校にバレたらどうなると思ってるの?」
「・・・・・・」
「せっかくお節料理をつくってもってきてあげたのに、不良なんかに食べさせたくなくなっちゃった」
「そ、そんなあ!」
 三人が一斉に声をそろえて訴えるようにいう。
 男三人所帯で、女の子がひとり加わっただけでも花が咲いたみたいに明るくなる。まして、手作りのお節料理は毎年心待ちにしているものなのだ。
「まったく。どこに出しても恥ずかしい男ばあっかり!」
「お代官さまあ」
 海はシーラカンスみたいなギャグをいい、頭を床に擦りつけた。

    3

「でも、何て間が悪りーんだ」
 海が栗きんとんの栗だけをほじくり出している。
「蔵王じゃ晴ばっか。帰ってくりゃ雪ばっか。なんか、おちょくられてる感じだぜ」
「そういう運命に生まれついてるんだよ、おまえは」
「あら、空だって海坊と一緒だったんじゃないの? 自分の周りだけは降雪一メートルだったんですかあ?」
 麻衣に突っ込まれて下唇を尖らせる。
 その凛とした顔付きしか知らない曙学園の同級生たちがこの姿を見たらなんというか。天下の美貌をもって知られる生徒会長の大滝空が、言葉に窮している。というよりは、あーいえばこういう佐伯麻衣の減らず口に、苦虫を噛み潰したような顔をしているといったらいいのか。
「そういうところは、麻衣クンもあの叔父さんそっくりだね」
 売り言葉に買い言葉。麻衣が一番気にしていることを、ズバリという。割り箸の先端が、空の透けるような白いマスクに隆起している北欧人のような鼻先に迫ってきた。
「二度と、二度とそういうことはいいっこなしだからね。こんどいったら、タダじゃ済まないよ」
 かなりマジだ。
「まあまあまあ」
 亀毛先生もその場を鎮めようと仲に割って入ろうとするが、麻衣はお冠。
 横から海が話題を変えようとして、
「麻衣ちゃん、あっちどうだった? シドニー?」
 さらっといってのけて、この場を取り繕う。普段は何にも考えていないように見える海だが、人あしらいとなるとなかなかのヤリテなのだ。一見冷静沈着色男の空よりずっとしっかりしている。
 麻衣は肩をすくめてホッとタメ息ひとつ。でも釘を刺すように空を一瞥して威嚇しておく。ホントは麻衣だって心複雑なのだ。
 豪二郎は実の父。でも、仕事一本槍で家庭を顧みず、猪みたいに一直線。偏差値至上主義で、どんな稽古ごとも結果と直結させるやなやつだ。付き合いにくい親だっていうのは空も海も知ってるはずなのにぃ・・・。空の意地悪! とか思ってみても。
 空にしても、いつも喋ってから「マズイ」って思うことばかり口にしてしまう癖がある。海のようにおちゃらけて誰とでも気さくにへらへら話せないから、共通の話題をポロッと出してしまう。それがたまたま叔父の豪二郎のネタになってしまう。
 反省猿になっているのだけど、ついつい、ってやつなのだ。
 それはさておき、麻衣は土産話をはじめていた。
「シドニーって、雨季かと思うくらいずっと雨。たまに曇るくらいで、ほとんど晴れ間なーし。せっかくの休みなのに・・・」
 麻衣は、名門四葉女学館のグリークラブに在席している。暮れに休みを利用してホームステイをしながらの日豪友好公演ツアーをしてきたばかりなのだ。
「麻衣ちゃんって昔からよく雨に祟られてたよな。修学旅行とか運動会っていうと、必ず雨」
「雨女って呼ばれているんじゃなかったかな」
「そのせい? 私が帰ってきたら東京じゃ大雪だっていうのは・・・」
 ちょっと合点がゆかないというように、頬をぷっ、と膨らませる。
「でも、蔵王や他のところはまだ暖冬がつづいてるわよ。・・・ねえ、海坊、そういう汚らしい食べ方およしなさいよ」
 まだ栗だけをほじくっている海に、母親が諭すようにいう。
「だって、旨いんだもん」
 栗を探す箸を休めずいう。
「みっともないわよ」
「自分だって食べたいんだろ、ホントのところ・・・。図星だろ、ね、麻衣ちゃん?」
 懲りないやつだ、こいつは・・・。という目で、空がひょうきんが衣を着て生まれたような海を横目で睨む。そしていった。
「さ、そろそろいくか」
「どこへ?」
「どこへはないだろう、初詣でに決まってるじゃないか」
「この雪んなか・・・!」
 呆れ返ったように海が洩らす。
「毎年恒例川崎大師厄除け祈願ですゾ。海坊っちゃん!」
「うー、川崎は遠いー。栗きんとんがイイー」
 海が重箱にしがみついた。

    4

 大滝家の初詣では例年川崎大師と決まっていた。
「明治神宮とか豊川稲荷とか神田明神とかあるだろうに、なんで遠路はるばる川崎くんだりまで寒い中こなきゃいけないんだー」
 と海が叫べど嘆けど川崎大師。これは、キマリだった。
 粉雪がしんしんと降りつづくなか、空、海、麻衣の三人は家内安全、大願成就を願いに川崎から京浜急行大師線に乗り換えて柏手を合わせにいった。
 帰りは池袋で下車。大滝兄弟御用足しのティーラウンジ「マーキュリー」へ行くのだ。 大滝家の川崎大師詣では恒例になっている。スキーから深夜バスで戻ってきたのも、この初詣でがあるからだ。だから、当然ここに立ち寄る。だから、マーキュリーも正月から特別に開いているっていうわけだ。
 マーキュリーは、雑司ヶ谷の近くにある。この雑司ヶ谷から都電、通称チンチン電車を使えば西ヶ原の家までは約一〇分。空と海が通う曙学園は雑司ヶ谷にあるから、いわば彼らの地元だ。
 池袋の駅について、さて酷い雪のなか雑司ヶ谷方面に向かおうとすると、海が「ちょっと・・・オシッコ」がはじまった。
 海は、東口の西武デパートのトイレへ消えた。このデパートは正月二日から開店する。他のデパートは大抵三日からだから、年末年始とすることがなく暇とお金をもてあましていたオバサンたちが群れをなしてここへ殺到する。凄まじきはオバサンパワー。福袋を三つも四つも握りしめて、地下街を右往左往している。
 その姿を見ながら、所在無げに地下コンコースで立っている空と麻衣・・・。人はまばらに交錯して行く。二人になると、余計に空は困ってしまう。話題がないのだから。
 この間をどうやってもたせようか・・・。苦手な麻衣の、端正な輪郭を目で追いながら、空が後頭部を人差し指てせポリポリかいていると、聞き覚えのある声がした。
「よう色男・・・。新年早々逢引か?」
 振り向けばやつがいる。
 漆原和彦。
 曙学園の害虫と呼ばれるノータリンだ。今日も子分を引き連れて、この大雪の中、バイ菌を撒き散らしながら徘徊していたのだろう。
「ホテルから出てきたばぁっかりかなぁ? お二人ぃさぁん?」
 ニキビは巨人の松井状態。でもって、ゴキブリのように浅黒い顔。埴輪のように虚ろな目がポカンと開いている。
「ちょっと、いいがかりは止してよね」
 強情っ張りで負けん気の強い麻衣が、空の制止を振りほどくようにして前に出た。
「こぉれはこぉれは姉ちゃん。マブイ面してなぁっかなっかいい根性しってっんじゃねーか。曙学園の生徒会長の大滝空よかよぉっぽど歯応えがありっそうっだぜ」
 下唇を唾液でてらてらと光らせながら、漆原和彦がカラダをくらげみたいにくねくねさせていった。
「麻衣クン。こういうやつらの相手はまともにするものじゃないよ」
 落ち着き払って、空がいう。
「いわせておくの?」
「相手にしたって時間と労力のムダってものだよ」
 しれっとしていう。
「ぬぁにぉ、この野郎。ちぃっとばっかし日本人離れした顔してるからって、女にチヤっホヤっされっからって、エラっソーな口きくんじゃねえ!」
 口角泡を飛ばして、いまにも飛び掛からん勢いだ。
「日本人離れ、かぁ。そういわれりゃ・・・」
 麻衣は空の顔を見て、それから漆原和彦の顔をしげしげと眺め回す。
「おたく、空にコンプレックス持ってるのか。・・・ふふっ、そうか、外人離れした顔してるものね、おたく・・・ふふふ」
 一瞬漆原は何をいわれたのか気がつかず、頭の中で整理しようとした。弱い頭は、数字や漢字や、難しいレトリックを使われると混乱するのだ。
「純国産モンゴロイド系の顔っていったのよ」
 麻衣がご親切にもはっきりと説明を加えてしまった。
「おいおい、挑発しちゃダメじゃないか、麻衣クン」
 慌てて空が制するがもう遅い。
「くぉのアマっ!」
 空は、飛び掛かってきた漆原和彦から麻衣をかばい、軽く体をかわした。ただし、軸足の位置は変えずに・・・。
 漆原和彦は目標を失い、しかも、空の足に自分の足を引っ掛けた。重心が前に移動した。体を失った和彦が、おっとっとととと・・・とたたら踏む。その後ろから空がチョンと突くと、ぺたっと這いつくばった。
「はたき込みー」
 麻衣が行事の声を真似ていう。
 取り巻きの子分たちが、慌てて和彦のまわりへと殺到して心配そうに声をかけた。
「和彦!」
「るっせー! これっからだ!」
 威勢だけはまだまだ立派なものだが、オバサンが立ち止まって「どうしたの? 君たち」って顔して見物してる。
「見世もんじゃねえ!」
 怒鳴る和彦を制して、空はオバサンたちの関心を逸らそうとして「すいません。ちょっと相撲ごっこしてただけなんです・・・。外が雪だから・・・」と、後頭部をポリポリ。
「表へ出ろ」
 漆原和彦が空ににじり寄ってきた。このままで済ますつもりはないらしい。
「しつこいな、漆原も・・・」
 やれやれ、面倒なことになったという顔で空が応える。
 積年の恨みが、ここで一気に爆発したっていう趣だ。付き合ってやるしかあるまい。空は観念した。

    5

 一行は地下のコンコースを通って南池袋公園近くの出口から地上へ出た。
 正月二日。
 もちろん人っ子ひとり見当たらない。辺り一面雪景色だ。だれも雪かきなんていう気の利いたことをしていないから、雪は積もりぱなしで、東北地方と見紛うほど。まだ雪は振りつづいている。
 だれも踏んでいない新雪に、サクッサクッとブーツに包まれた足を踝まで埋めて、真紅のダッフルコートに身を包んだ麻衣が気持よさそうに先頭を切って行く。
「決闘には、絶好のコンディションね」
「人の気も知らないで、なに脳天気なこといってるんですか、麻衣クンは」
 後ろからついて行く空が、呆れ返ったようにいう。
「何をグチャグチャくっちゃべっんだっ、てっめえっら! そろっそろっ行くぞ!」
 振り返ると、いつの間にか漆原和彦はペーパーナイフのような、シルバーメタリックの刃物を手にしている。
 脅しだろうが本気だろうが、凶器をもった行動には慎重に対応しなくてはならない。こっちも、そして、相手も怪我をする可能性大だからだ。
「大滝、おまえいっつも上手く逃げやがってっ。口だけっじゃ渡世は渡っていけねえんだってっことを、今日っこそっ教えてやるっ。こっこなら、先公もお巡りも絶対に来っこねえからな!」
 和彦が埴輪目をさらに細めて威嚇するようにいう。その手には、刃物が光る。
「懲りないやつだな、漆原。怪我させたくないから相手にしなかったんだぜ」
「何だとこのっガキ!!」
 空のひと言は、和彦を逆撫でしてしまったようだ。
「やっちまえ!」
 大将はあとかららしい。取り巻きが、がに股走りで雪からズボズボと足を引っこ抜きながら空に向かってくる。
 手に手に刃物やらヌンチャクやら木刀をもっている。別に決闘の約束を取り付けて池袋で待ち合わせたのではないのに、普段からこの連中はこういう凶器を持って歩いているのか?
 空は、気の毒なぐらい連中に同情した。しかし、そうもいっていられない。
 こめかみから耳の上まで剃り込みを入れ、ついでに眉毛も剃り落とした、目付きの恐ろしく悪いゴリラのようなやつが迫ってくる。
 鼻息が荒いが、息を嗅いだら失神しそうな暗い紫色の歯茎と黄色い歯をしているのが見えた。どういうわけか、空は話し相手の歯並びの悪さや、剃り残しのヒゲや、シャツの染みを瞬間的にキャッチする癖がある。手短にいうと、神経質という。
 いま向かってくるゴリラも「食生活生活態度悪そー」っていう外見だ。これは何も空が生徒会会長だからじゃない。生理的な反応なのだ。
 という間に、刃物をもったゴリラが目の前に。
 しかし、空は身構えるでもなく逃げるでもなく。平然と突っ立ったまま。さっきまでエールを送っていた麻衣も、何だかちょっと訝しげな表情になってイライラしているように見えた。
 ゴリラの左手が空の肩をガッシと咥え込む。ハサミの片割れのような金属を握った右手が、空の肩口に向けて振り降ろされようとした。
「思い知れ! 糞ったれ!」
「きゃーっ!」
 さっきまでの強がりはどこへやら。目を覆った麻衣の黄色い悲鳴が、白銀の世界に響いた。
 ところが、ゴリラは感電したみたいにカラダを反らせ、トランポリンにでも跳ね飛ばされたように吹っ飛び、バサッという音をたてて雪中に埋もれてしまった。
「安藤!」
 仲間の名前を呼ぶ声が、麻衣の耳に飛び込んできた。恐る恐る目を開けると、空は掌を大きく開いて胸の前に突き出している。ゴリラは大の字になって雪の中にバッタリ。
「やったー!」
 小躍りしたい気分の麻衣だった。
 漆原は何が起こったのか判断停止状態になっていた。
 突っ込んでいった仲間の安藤が、いきなり宙に舞ったのだ。技は? 武器は? スタンガンでも使いやがったか? 汚ねえ野郎だ。和彦の臓物が煮えくり返って、辺りの雪が溶けてしまいそうなくらい顔が赫らんだ。
「気絶しちゃってるぜ」
 安藤の側にしゃがみ込んでいたパンク風が漆原和彦に叫んだ。こいつは、垂直に立てた髪を虹色に染め、ピアスをしている。
 それとは別に、皮ジャンのスキンヘッドが空に近寄ってくる。ヌンチャクを頭上でぶんぶんと振り回している。まともに当たれば鼻ぐらい簡単に折れてしまうだろう。
 スキンヘッドは将棋のコマのような五角型の顔をしていて、目鼻がその中央にぎゅっと集中している。目玉はビー玉のように虚ろで真ん丸で。どこを見てるのかよく分からない。「殺っちまえ! 半次!」
 一彦が檄を飛ばすが、スキンヘッドで半次はないだろう。股旅ものの長脇差しじゃないんだから。麻衣は、可笑しさに鳩尾の辺りを抑えて、苦しい苦しい。でも、空の間近までスキンヘッド・半次・ヌンチャクは迫っていた。
 南無阿弥陀仏!!
 祈るようにして見守った。
 その甲斐あってか、スキンヘッド・半次・ヌンチャクの顔色が一変した。それまでの半狂人的ビー玉目玉が、死んだイワシのようにどろんと濁りはじめた。強張り青褪めたその顔から血の気が失せて行く。
「どうした半次!!」
 若干ながら浮き足立った漆原が、眉根を寄せて訝しげに下唇をゆるく噛んだ。
 スキンヘッド・半次・ヌンチャクの前にあるのは、空がかざしている掌だけだ。なのに、ガクガクと膝を震わせて、半次はおののいている。頭上でまわすヌンチャクも、いまや腕に絡み付いてダラリと垂れ下がったままだ。
「喝!」
 空の口から、鮮烈な波長が「しん」とした空気にひびを入れるように迸り出た。
 とたんに、スキンヘッドは腹に蹴りを入れられたように背中を丸め、次にはのけ反るようにして弾け飛んだ。
「?」
 それを見た漆原の、単純だが敏感に反応する神経回路がある応えを導き出した。
「気功・・・?」
 気・・・。
 生体のエネルギーを掌に集中することによって、大の大人をも撥ね飛ばしてしまうほどのパワーを発揮する、中国の秘術だ。
 空は、集中した神経を解きほぐしていた。
 その耳に、「嫌っ! やめてよ!」という麻衣の叫びが飛び込んできた。
 視線を移せば、漆原が麻衣を後ろ手にとって盾にしている。
「変な力なんぞ使いやがって、卑怯だぞ!」
 負けん気の強い麻衣も、曙学園の悪の総帥には手も足も出ない。
「正々堂々と勝負しねーと、四葉女学館の彼女に、痛てー思いさせっちまうぞ!」
 女の子を盾に人質にとって正々堂々もないもんだと、空は正直いって苦笑した。でも、漆原和彦のナイフが麻衣の頬から首へ、そして、膨らんだ胸を探るようにしているのには腹の底から怒りが込み上げてきた。
 漆原和彦は、髪垂直立て虹色ピアスに「かかれ!」と顎で催促する。
 虹色ピアスが木刀を振り翳し、雪に足を取られながら迫ってくる。
 その虹色ピアスに、空が気を込めて掌を翳す。それを見て、虹色ピアスは怖じ気付いてしまった。先の二人の弾け飛ばされたのを眼前で見ているからだ。
 竦んだ足で後ろを振り返る。
「こっちにゃ女がいるんだ。手も足も出ねーんだから、早くやっちまえ!」
 自分では最後まで手を出さず、子分を先にやる。しかも、女の子を人質にして・・・。
 空の翳す掌が、和彦に向けられた。
 漆原和彦は、あわてて麻衣の胸当たりを弄んでいたナイフを首筋へと移動させた。その手首に焼串を当てられたような衝撃が走った。
「ぐえっ!」
 呻きとともにナイフが弾かれて天高く舞った。間髪を置かず、麻衣の肘鉄砲が鳩尾にズドン! 振り向きざまに股間を蹴り上げて、蹲った背中に両手の拳を振り落とす。なす術もなく和彦は雪中に埋もれてしまった。
「お見事、麻衣クン」
 パチパチパチと空が拍手を送ると、麻衣はどんなもんだとガッツポーズ。手慣れたものである。さすがお転婆娘のことはあると、空は内心感心した。
 呆然と眺めていたのが、虹色ピアス。信じ難いという目をして肩を落としている。
 その虹色ピアスのすぐ側に、空が一瞬にして接近した。そして、木刀を奪い取ると、瞬く間にもといた場所に引き返す。
 何しろアッという間だった。
 人間業とは思えない早業だ。雪に足を取られることもなく、踊るようにスムーズに、まるで、宙を舞うようだった。
「どうした? こないのか?」
 空が木刀の先端を向けて声をかける。その木刀が自分のものだと気付くまでに、少しの間があった。
 虹色ピアスは目を剥いて、自分の掌を凝視している。いつの間に? 信じ難い衝撃をまともに食らった顔をしている。
 そして、空の方を見返した。
 一体こいつ、何者なんだ? 虹色ピアスは、疑念と恐怖で心臓がドクンと高鳴りった。
「やるのか、やらないのか!」
 空が威嚇する。
「・・・いや、今日は雪が振ってて天気が・・・」
 というトンチンカンな返事。
「天気がどうしたって?」
「え、遠慮しとくよ」
 完全に腰が引けている。
 踵を返すと意気消沈した足取りですごすごと去っていこうとする。
「待て!」
 空の呼び掛けに、虹色ピアスがビクンと一〇センチは飛び上がった。
「いま見たものは忘れてもらおう」
 いうと、空は人差し指と中指で手刀をつくり、掛け声とともに数回空を切った。切り終わると手刀を左手て包み込むようにし、瞑黙した。
 虹色ピアスがほんのわずかの間死んだように眠り、そして、目を開けた。惚けたような目で辺りを見回し、首を捻っている。
「ぉ、大滝・・・おまえ・・・この野郎・・・どうなっちまったんだぁ?」
 倒れている漆原を空が顎でしゃくって示す。虹色ピアスが雪に足を取られながら駆け寄って頬をぴたぴたと軽く叩いた。
「漆原! おい漆原!」
「ううむむ・・・」
 和彦が苦悶の声をしぼり出した。
「他にもあと二人、ちゃんと連れていけよ。生徒会長としては、とりあえず穏便に処理するつもりだから」
 いいおいて去ろうとする空に、背後から和彦の声が掛かった。
「・・・覚えてろ!」か細い声だ。「オヤジがきっと敵をとるっからな・・・」
 それを無視して、寄ってきた麻衣を促した。
「オヤジって?」麻衣が心配そうに訊く。
「コクボーサクラカイって知ってるかい、麻衣クンは」
「そんな貝、食べたことないわ」
「国防桜会」苦笑しながらいう。「保守的な右翼団体さ」
「それがどうしたっていうの?」
「あいつのオヤジはそこの幹部なんだ」
「コワーッ」
 振り返って、引き上げて行く漆原たちを一瞥すると、麻衣が肩を竦めた。
「急に寒くなっちゃった。早くマーキュリーに行こ」
 そういうと、カラダを空に擦り寄せてきた。

    6

 マーキュリーは雑司ヶ谷墓地の近くにある。最寄り駅は、地下鉄有楽町線の東池袋か、都電荒川線の雑司ヶ谷だ。サンシャイン60も近くにあるが、まだその喧騒には飲み込まれていない。旧い住宅地の片隅に、ひっそりと目立たないように隠れている店だ。
 店の前の異様な形状をした水銀灯が異彩を放っている。両刃の剣をモデルにしたような水銀灯から、蒼白い光が浮き立つようにきらめいている。
 建物の前はきれいに雪かきされていた。厚い樫の木のドアを空が開けると、麻衣はさっさと中に入って行く。室内は暖房が効いていて、乱闘のあとで上気した空には少し熱すぎるくらいだ。
「遅かったじゃん」
 奥から海が声をかけてきた。
「いろいろあってな」
 いいながら空はコートを脱ぎ、カウンターに座った。
 中にいる聡明な面立ちの女性に「おめでとうございます」といって会釈する。
「こちらこそ。今後ともご贔屓くださいね」
 笑顔が素敵な葉月葉子さん。ここのオーナーであり、銅版画家でもある。だから、マーキュリーの店内には葉子さんの自作が所狭しと飾られている。
「髪の毛、濡れちゃってるわねぇ。いま、タオルもってきてあげる」
 そういって、葉子さんが奥に消えた。
 そのスキに麻衣が海の後ろに立った。そうして、拳を胸の前で構えると「バンバンバーン!」と擬音を発しながら海に向かって腕を伸ばした。
「麻衣ちゃん、何だよ!」
「君がオシッコしてる間に、不良に絡まれちゃったんだからあ」
「不良ですって?」
 バスタオルをもって戻ってきた葉子さんが、空に手渡しながら驚いたような声を上げた。「漆原だよ」
「タチが悪いぜ、あいつ」
 海が顔をしかめた。
「国防桜会の幹部だもんね」
「あれ、麻衣ちゃん、よく知ってんじゃん」
「さっき教えてもらったの」
「なーんだ。・・・それで?」
「のしちゃった」
「兄貴ひとりで?」
 自分の鼻先に人差し指を当てて、誇らしげに麻衣が胸を張る。その胸が、ピンク色のセーターをツンと隆起させているのが、実をいうとちょっと海には眩しかった。
「まったくぅ。これが四葉女学館のマドンナかぁ?」
 呆れたように海がぼやいた。
「関わり合いにならないほうがいいわよ、あの手の連中とは」
 エスプレッソを空に出しながら心配そうに葉子さんがいった。
「もう遅いんです」麻衣がいう。
「遅いって?」
 麻衣から空へ顔を向き直して、葉子さんが眉をしかめて尋ねるようにいった。
「どうしようもなくて・・・」言葉少なの空。
「やっちゃったの?」
「兄貴らしくもなーい」
「防衛本能っていうやつだ。咄嗟にカラダが動いて、やっちまった。自分でも思いがけなかった・・・」
 しみじみと、思いに耽りながらカップを口に運んだ。
「あの子たちね」葉子さんがいった。「去年からあなたたちを狙ってたわ」
「え?」
「思い当たる節があるのよ・・・」
 葉子さんは三人を交互に見ながら話はじめた。一ヵ月ほどまえ、漆原とその取り巻きの連中が、店にやってきたというのだ。
 マーキュリーが空と海の常駐場所だと知ってのことだろう。それ以後も、店の周りをうろつき回ったりしていたという。幸いなことにかち合うことがなかったから黙っていたらしい。
「いずれはやり合う相手だったってことか」
 感慨深そうにいう海に「自分は相手してないくせにぃ」と麻衣が責めるようにいう。
「しょ、しょうがないじゃないか、生理的な欲求なんだから」
「あーら、都合がいいこと」
「喧嘩なんかしないほうがいいに決まってるわよ。麻衣ちゃんも、そんな海ちゃんを責めたりしないで。二人とも麻衣ちゃんの頼れるナイトなんだから」
 葉子さんの思わせ振りな一言に、空は口に含んだエスプレッソを吹きだしそうになり、海は目を剥いていった。
「どうして俺がこんな生意気なやつの・・・」
「やつ、だなんて。麻衣ちゃんは海ちゃんよりお姉さんでしょ」
「そうよ。弟分!」
 麻衣が悄気返る海の背中をポンと叩いた。
「やな、姉貴分!」
 ふざけ合っている海と麻衣を尻目に、空が壁の銅版画に見入っていた。
「曼荼羅のようでもあり、海原のようにも見えますね」
 その銅版画に描かれているのは無数の小さな丸だ。その丸が中ぐらいの丸を形づくり、中ぐらいの丸が大きな丸を構成していた。そして、全体は大きなうねりをもった海原を現しているように見えた。絵の中の波から飛沫が散ってきそうな勢いだ。
「いわれて見れば、そうねぇ」
 葉子さんは頬杖をつきながら、いまさらのように自分の絵を眺めて素っ気なくいう。
「去年の暮れにね、突然描きたくなってね。気がついたらできてたの」
 題名を見ると「メタモルフォーゼ」となっている。
 去年の暮れ・・・。メタモルフォーゼといえば、生まれ変わりのこと・・・。
 空は、麻衣と舌戦の最中の海を見て深い感慨に襲われた。

第2章 砂漠の国の訪問者

    1

 成田空港は、正月が始まったばかりとあって帰国ラッシュにはまだ早く、まだまだこれからハワイへ出かけ、常夏の一時を過ごそうという一群さえ見られた。
 この成田で、白い民族衣装を身につけた数人のアラブ人を、スーツとネクタイ姿のアラブ人の一行が出迎えていた。
 だれもその様子に特別の関心を払うものはいなかった。視線が送られたとしても、どうせまた不法就労のイラン人たちでないかという、蔑視の眼差しが投げ付けられたに違いない。
 さて、中央で威厳ありげにしているのが、イブン・アブドーラ・ハッサム。バンドーン共和国の新しい日本国大使だ。二月から現大使に変わって着任するための訪問だ。日本に来るのはこれが二度目のことで、去年の暮れに一度日本の土を踏んでいた。
 向かえているのは大使館員たち。ハッサム大使は型通りの挨拶を済ませると、出迎えのクルマに乗り込んだ。
 先導したのは、迎えの館員たちのクルマで、ハッサム大使と大使付き武官は後続のクルマに乗った。
 車窓からは見る日本は、一面が雪景色だった。砂漠の国バンドーンからは考えられないほどの水資源を持った国。しかも、このように美しい。
 カラカラに乾き切った故国は毎年のように砂漠化が進んでいる。国土の半分以上は植物が生えず、その領域はますます増加して行く。飢えが民の多くを死に至らしめていた。
 日本のように緑豊かで水資源に恵まれていれば、バンドーンの人々は活気づき、産業も発達するはずだ。ハッサムは、目を閉じてはるか故郷の姿を瞼の裏に思い起こした。

    2

 バンドーン共和国は、去年の夏から旱魃に苦しんでいた。誰もが飢え、火傷を負いそうな熱風から身を防ぐため、家でじっとしているのが賢明な選択だった。熱波は半年以上も荒れ狂い、川も湖もカラカラに干涸び、作物は枯れる一方。動物も人も、水を求め彷徨う状態がつづいていた。
 その電話が鳴ったとき、ハッサムはてっきり次のターゲットの連絡だと思った。ところが、それが公安警察からの直通電話だったことにいくぶん動揺した。
 なぜなら、ハッサムは裏社会で国家に忠誠を尽くす暗殺者だったからだ。イスラム圏での暗殺集団幹部として神話的な存在となっている自分に、公安警察がいったい何の用だ? ハッサムは、疑心暗鬼になった。
 が、代わって電話口に出たのはバンドーン共和国大統領のケマール・アラワンだった。話を聞いて驚いた。こともあろうに日本の大使として抜擢したいという。
 耳を疑った。
 いくらケマール・アラワンが、かつてともにバンドーン共和国統一のために戦った同志であり、旧知の仲であるとしても唐突だった。

 バンドーン共和国は、第二次大戦後の混乱の際に、一九五〇年代に近隣諸国からの侵入や搾取を防ぐため、各部族が合従連衡してイギリスから独立を勝ち取った。それまでの王部族から閣僚が選ばれ、最大規模の力をもっていたバンドーン土侯国の領袖であるムスタフ・アラワンが初代大統領となった。その戦いの過程で、イブン・アブドーラ・ハッサムは多大な功績を残した。もちろん、殺戮という意味でだ。
 ムスタフ・アラワンは一〇余年権力の座につき、世を去った。跡を次いだのはムスタフの息子のケマール・アラワンだった。
 以来、国境をめぐる紛争や石油資源をめぐる確執もイスラム諸国間で起こっていたが、なんとか安定政権を維持してきていた。
 ハッサムにとって、平和な状態は魂を抜かれたも同然だった。だから、ハッサムは表舞台を選ぶことなく、暗殺者としてバンドーン共和国を陰で支えてきたのだ。いわば、裏の軍隊・警察の役割を果たしてきていたのだ。ところが、アラワン大統領からの直々の願いだ。是非にとの以来で、ハッサムは護衛を引き連れて官邸に入った。旧知のアラワン大統領とハッサムの会話は夜を徹して大統領執務室で行なわれた。
「かつて世界を席巻したイスラム帝国の復活さえ不可能ではない」
 ケマール・アラワンは、こう力説した。
「そのために、水の国日本に行って、水の支配者となる人物を探すのだ。かつてバンドーンに黒雲を呼び、雨を一週間以上も降り続けさせたという、水の神の子孫を・・・」
 ふくよかな髭を蓄え、垂れ下がった頬をもつアラワン大統領が、ハッサムの膝をがっしりした掌で包んでいた。
「あの、伝説の日本人のことをいっているのか?」
 ハッサムはアラワンの野望を敏感に読み取った。

 伝説の日本人。
 独立戦争がはじまる前の一九四八年(昭和二十三年)。バンドーンがまだ土侯国だった頃のことだ。数人の日本人技術者が農業支援などの目的で、バンドーンに駐留していた。 その年も酷い旱魃だった。
 乾き切った砂が舞い、枯れた植物の根を無残に晒し出していた。灌漑設備も、そのための土木技術も無力だった。水が一滴も空から落ちてくることがなかったのだから・・・。
 そのとき、ひとりの日本人技術者が砂漠に出向いて神に祈りはじめたのだ。
 火を焚き、呪文を唱え、両手をさまざまに組み合わせて祈りつづけた。
 そして、一〇数時間。
 突如暗雲が立ち込め、太陽は遮られた。
 稲光が走り、大粒の雨が激しく大地に落ちてきたという。
 だれもがアラーの恵だと思い込んだ。
 だが、その日本人技術者と懇意にし、日本のことをさまざま聞き出していた首長のムスタフ・アラワンは、その雨が日本人の祈りのせいだということを見抜いていた。
 それはムスタフ・アラワンが立ち込める黒雲の中に、異形のものを目にしたことと無関係ではなかったかも知れない。

「そうだ。父が見たという、日本人。水の錬金術師。水の神をあやつり、雨を降らせることができる男・・・。その子孫が日本にはいるはずだ。もちろん彼らは日本の宝をそうやすやすと渡さないだろう」
 ケマール・アラワンは、そこで言葉をいったん切って、ハッサムの瞳を凝視した。
「奪う」
 弛んだ瞼の下で、老獪な光をたたえた瞳がじっとハッサムを射るように見た。国際的な謀略に荷担せよということを、この大統領はいっているのだ。
 ハッサムの鼓動が高鳴った。
「父はこういっていた。あのような日本人がいれば、バンドーンはイスラムを統一することすら叶うはずだ。富と力を掌中にしたければ、あの日本人の子孫を捜し出すのだ、と・・・」
「わたしは殺すのが専門だが・・・」
「その力が役に立つ」
 大統領が低い声でいった。
 それを聞いて、ハッサムは日本行きを決心した。半年に及ぶ日本に関する集中的な特訓の後、ハッサムは十二月の日本に降り立ち、そして、再び雪の日本に訪れていたのだ。

 クルマは関東自動車道を一路東京を目指していた。クルマは宮野木で京葉道路に入り、滔々と流れる荒川、隅田川を渡った。都心に入っても、エンペラーの住む皇居の周りには堀が巡らされ、水が豊か湛えられてい。
 この豊かな国が、ハッサムは忌々しいほど羨ましく感じられた。
 迎えの館員たちが乗った先導車は、そのまま大使館へ向かったが、ハッサム大使を乗せたクルマは、大使館のある西新宿には行かず、市ヶ谷から南に下った。
 クルマは閑静なたたずまいを一段と深遠なものにしている雪景色の中を数ブロック進むと、豪壮な門構えの邸宅に、静かに吸い込まれていった。
 正月二日、夕刻のことである。

    3

 空と海が家に戻ったのは、もう九時近くのことだった。東池袋から早稲田まで都電に乗り、麻衣を目白台まで送った。そこは、かつて空と海が住んでいたこともある豪壮な建築の家だ。
 二人は早稲田から再び都電に乗った。東池袋を過ぎ大塚を越えて西ヶ原。そこで下車した頃は、だいぶ雪も小降りになっていた。
 それにしても、よく降る。
 空が吸い込まれそうな漆黒の上空を見上げた。
「どうかした?」
 海が、真剣な眼差しを上空に向けている空に訊いた。
「・・・オマエ、感じないか・・・」
 尋常ではないものの効力が加わってバランスを失ったような気象状況。日本の雪国で小春日和がつづいているというのに、この東京で豪雪である。そして、海の変化・・・。
 異変が周囲を取り巻いている様子が痛切に感じられた。それは、去年の暮れ辺りから徐々に忍び込み、次第に濃度を増しつつあった。
「・・・なにも」
 空と同じ様に上空を睨み付けるようにしていた海が、お手上げといった顔で兄を見た。
「力の片鱗は見えたけれど、まだコントロールはムリなようだな」
 口の両端がキュッと上げて海を見る。
「どういうこと、それ」
 少しムッとしたように海がいい返す。
「いまにわかる」
「また、バカにしてえ・・・」
 先を行く空の背中めがけて、海がギュッと握り固めた雪つぶてを力一杯投げた。
 命中間違いなし、と思った刹那、雪つぶては的を失った。
 一瞬にして空は痕跡もなく消え、雪つぶては大滝家の門柱に命中。門柱の上に降り積もっていた雪がドサリと落下した。
「ちっ!」
 兄の姿を求めて、海が首を右へ左へと巡らせる。
「ここだよ」
 振り向いた海の頭上から、バケツ一杯ほどの雪がドサリと舞い落ちた。
「雪合戦をするような年でもないだろう」
「どんな手品を使ったんだ?」
 唖然として海がいう。
 兄の俊敏さは知っていた。しかし、これほどの素早さは見たことがない。
「いまにわかる」
 そういうと、空は門柱の横に立ち、海を手で招いた。
「見てみろ」
 いわれて指差された部分に目をやる。
 さっき投げた雪つぶてがこびりついている辺りに、真一文字に亀裂が入っていた。
「修理しなくちゃならないな、こりゃあ」
「ま、まさかオレが・・・」
「門を壊すつもりはなかったっていいたいんだろう。でも、ほらこの通り」
 空が門柱に手を翳す。すると、門の上半分がグラリと動いた。
「オマエの体内に、気が充満しつつあるんだ。自分では気づいていないらしいが、集中力がつくる破壊力はかなりなものだぞ。注意しないと人を殺めることにもなりかねない。気をつけるんだな」
 そういうと、空はさっさと室内へ入って行った。
 蔵王での空中滑降といい、このパワーといい、いったい自分になにがはじまっているのか? 不断喧嘩などしたことがない兄が、漆原と一戦を交えたというのも不思議だった。
 押し止めるもののない濁流の中に投げ込まれたような気がした。

    4

 亀毛先生は酔い潰れて一階のソファでごろりと横になっていた。
 暖炉では残り火が燻っていたが、底冷えがはじまりかけている。空が薪をくべ直すと、室内にじんわりと温もりが戻ってきた。
「これで夜中までもつだろう」
 空は押し入れから毛布を取り出すと、亀毛先生にそっとかけた。
 毎晩の儀式のようになっている作業を終えると、空はぎしぎしいう階段を上って自分の部屋に向かった。
 カーテンを退けると玄関が眼下に見える。
 もう海の姿は見えない。落ち着きを取り戻して家に入ったところかも知れない。
 床に入ると、空は瞬く間に深い眠りについた。

 深夜。
 しんしんと降りつづいていた雪もすっかり止み、冷気が表面を固めはじめていた。こんな雪の夜中に外出するのは、よほど差し迫った用事があるか、まったく用事がない酔狂な連中だろう。
 空が気配を感じて目を醒ますと、時計は三時を指していた。
 半身を起こすと、慎重に窓辺に近寄る。暗雲はすでに立ち退き、代わりに月が顔を覗かせている。
 月明りで、窓の外が一片の水墨画のように幽玄さをたたえて静まり返っていた。いや、静まり返っているように見えるだけで、殺気が迫ってきていることを空は感じていた。
 ドアがノックされた。
 海がそっと入ってきた。
「妙な感じがして・・・」
 不用意に喋りはじめる海の口を、空はそっと手で制した。
 目が「なに?」と訊いてきた。
「ネズミが数匹近づいてきている」
 小声でいって、海の口から手を外した。
 海も耳を澄ませて気配を感じ取ろうと努力しはじめ、そしていった。
「五匹・・・?」
「・・・おまえ、格段の進歩だね」
 空が舌を巻いた。海の能力は予想以上の速さで開発されている。
「で、どうするの?」
「関わりたくはないが、向こうには用事があるらしい。ただでは帰らないだろう。用件を聞きに行くとするか」
 招かざる客は、昨日に引きつづいての災難だ。どうしてこう面倒が襲ってくるのか。空は頭の半分でその解答を探りながら屋根裏部屋へ上っていった。
 こんな雪の日の夜に屋根に出たことはない。
 果たして窓を雪が塞いでいた。
 ムリに窓を開ければ雪が崩れ落ちて来訪者に気づかれるだろう。
 海は、どうするの? という目を空に向けた。応えの代わりに、空は手を窓枠に近づけて翳した。まるで懐中電灯を握っているように、空の掌がぽっ、と紅潮した。
 海もそれを真似て、手を翳す。その手が、ぶるぶると震えている。筋肉に力が入り過ぎているのだ。
「力んでもダメだ。雑念を捨てるんだ。そうして、祈る」
 コクンとうなずいて、海が肩の力を抜いた。そして、念じた。海の掌がピンク色に輝き出す。「やったよ!」と空をうかがうと、輝きは急速に失せる。
「集中するんだ」
 二人の気が、屋根の雪をみるみる溶かしていく。溶けた雪が、屋根の勾配をつたって雨どいへ流れ落ちていく。
「学業にもそのくらいの集中ができるといいんだけれどね」
 空のぼやきは耳に入らないのか、海はVサインを示して音もなくはしゃいでいる。
 海が窓を開けて外へ出た。
 大滝家は旧家で、かつて広大な敷地を有していた。しかし、祖父から父へ、父から空へと相続していく過程で、土地の半分以上を相続税のために切り売りしていた。
 それでもまだ二百坪の敷地が残っている。その庭の手入れをするのは亀毛先生の役目なのだが、近頃はそれもおろそかになって、ちょっとしたジャングル状態に堕していた。
 その庭に、殺意を殺した状態の気配が五つ。空は気を集中することで、暗闇の中でも姿カタチが手に取るように見えていた。
「おまえはここにいなさい。とりあえず、僕が正体を確かめにいってくるから」
 そう言い置いて、空がふわりと舞った。
 サクッ。
 着地した音が海の耳に入った。雪上を浮遊歩行もできる空のことだ。故意に音を立てたことは確かだ。
 その音に五つの気配が集中したのが、海に分かった。
(包囲にかかっている!)
 眼下に注意を走らせると、裸眼でも男たちの白装束が見える。雪に備えた迷彩服の包囲網が縮小して行く。手に手に銃。ゴーグルは多分赤外線夜間スコープだろう。
 突っ立ったままの空に向けて、全員が銃を構えた。
「危ない!」
 海の叫び声が、銃の向きがわずかに狂ったようだ。
 パスッ! パスッ! パスッ!
 消音された数発の銃声が雪に吸い込まれていった。
 空の動きは機敏だった。一人に急接近して首筋を手刀で痛打する。ウッという呻き声とともに、男の膝が折れ、崩れ落ちた。
 残りの四人は態勢を立て直し、一斉にトリガーを引き絞ろうとした。が、その前に、海のカラダがひとりでに動いていた。庇から跳躍して、迷彩服の一人の頭上に落下。そのまま雪上に倒れ込み「コンニャロ! コンニャロ!」と、しゃにむにところ構わず殴りつけた。
 残る三人は仲間を倒した空に向けて銃口を向け、トリガーを引いた。しかし、弾丸は仲間のカラダにめり込んだだけだった。
 なぜなら、空が消えてしまったからだ。
 三人は慌てて周囲に視線を巡らせる。仲間に馬乗り状態の海が見えた。銃口を向けるとためらいなくトリガーを指をかけた。
 気配に顔を上げる海。その眼前に、三つの銃口。凍りついたまま手が止まった。
(殺られる)
 海は覚悟して目を閉じた。その肩が、ポンと叩かれた。
 ハッ! として見上げると、空がいた。端正なアゴで前を見ろといっている。
 三人の侵入者が、銃を持つ手をダラリと下げて立ち尽くしている・・・が、それも束の間。一様に膝を折り、へたり込むようにして倒れていった。
「ふぁっふぁっふぁっ・・・」
 亀毛先生の笑い声がシンと静まり返った庭に響いた。
「先生・・・!」
 半べそ状態の海の頭を、空がやさしく撫でた。

    5

 亀毛先生は、両端が鋭利に尖った短剣のような武器を手入れしながら海に応えていた。「これは独鈷杵といってな、密教で使われる金剛杵と呼ばれる法具のひとつじゃよ。あらゆる煩悩を打ち破る力があってな」
「それで三人が一瞬にして気絶しちゃったってわけ?」
「わしには、これを投げるくらいしか能がない」
 懐かしいものでも見るように、じっと独鈷杵の先端を見つめ、つぶやくようにいった。 独鈷杵に撃たれた三人は簡単に気絶したが、自害するのも早かった。二人が気づき、三人目が意識を取り戻したとたん、タイミングを見計らったように、義歯に組み込んでいた毒薬入りカプセルを噛み砕いた。
 仲間に銃弾を食らった一人は、食らった銃弾の数が多すぎてか息絶えていた。
 その銃弾は、皮下に麻酔を打ち込むためのものだったのだが、人間一人に四人分は多すぎたようだ。
 海が殴り付けていた一人は、スキを見て裏庭の塀を越えて逃げ去った。追うほどのことはない。 捨てて置いた。
 死体は四人とも日本人ではなかった。濃い眉に針金のような髭、浅黒い肌をしているが、みな鼻が高く彫が深い。整った顔立ちといえるだろう。
 最近増えつつある中近東からの訪問者のようにうかがえた。
 海が驚いたのは、亀毛先生も空も警察に届けようとしなかったことだ。
「どうするの?」と訊くと、「あとで亀毛が処理します」
 と素っ気なくいわれたのだ。海は戸惑ったが、空は慣れているようだ。
 暖炉の薪がはぜた。
 もうすぐ夜が明けようとしている。
 未明だというのに、三人とも興奮して眠れない。海は亀毛先生が淹れた濃い目のコーヒーを啜っている。海は独鈷杵を興味深げに見ていた。それに気づいた空が、亀毛先生に手を差し延べる。
 亀毛先生は黙って独鈷杵を空に手渡した。右手で中央辺りを軽く握り、その重みを確かめるように何度か上下に揺する。海の目に、空の瞳が、ぽっ、と炎が点ったように見えた。まるで、獲物を追いつめるタカのように鋭い。
 空が独鈷杵を海に手渡そうと腕を伸ばした。興味深げに、でも少なからず威圧されながら海が独鈷杵を掴み取る。
 ぞくっとした。
 手にした途端、血管が膨脹して血液が全身を急速に駆けめぐりはじめた。赤血球が血管壁にぶち当たってクルクルとその方向を変える。そのたびに、赤血球はありったけの酸素を吐き出して、脳や筋肉や内臓の細胞膜の中へと送り込む。
 動脈がぷるぷる震える感覚が分かる。
 海の額に大粒の汗が吹き出しはじめた。
 酸素を吐き出した赤血球が末梢血管を通過して心臓に戻り、肺へと送り込まれる。そこで赤血球は、普段の許容量を超えた酸素をたっぷりと含ませて、動脈というパイプへ突入する。
 血管がはち切れそうだった。
 片手で支え切れず、海の手から独鈷杵が落ちた。
 小豆ほどにも膨らんだ汗が、重力に耐え切れず肌をつたって顎から滴り落ちる。
 まるでサウナから出てきたみたいだ。
「まだ慣れんのじゃろう」
 亀毛先生が心配そうに覗き込んだ。
「いえ、急速に目覚めはじめている海が、過剰反応したのでしょう。僕のときも、多かれ少なかれ同じような現象はありました。でも、海は変化が激しいみたいです」
 じっと掌を見ている、海。
 独鈷杵を握っていた部分の色が、燃えたように赤い。
「な、なに、これ?」
 海が独鈷杵を訝しげに見た。
「古来は武器として使われておった。じゃが、転じて魔を降伏させるための象徴として密教で用いられるようになった。使うものの精神と肉体を目的達成のために鋭く統一する」
「密教・・・?」
「呪術によって科学を超え、魔を降伏する。その力は、天変地異を克服し、災厄を逃れる。奥義に達すれば宙を舞い呪殺も叶う」
 亀毛先生が含み口でいう。
「ちょっと・・・理解できないや」
 海は自分の置かれた状況がまだ飲み込めていない。
 そりゃあそうだ。
 蔵王のスキーで、突然宙に浮いたり雪つぶてで門柱に亀裂を与えたり。そして、感覚が急速に鋭敏になったり。
 この数日間で理解を超えた変化が自分に起きている。それを興味本位で「超能力!」と浮かれていたうちはよかった。
 だが、いまは様子が違う。
 異国の襲撃団が家を襲い、それを兄と亀毛先生が片付けた。
 常識で考えられるか? 戸惑いを超えて、恐怖と不信感が湧き上がっていた。
「今日にでも大滝嶽に修行に向かった方が?」
「うむ。それがいいじゃろう」
 亀毛先生と空がうなずき合った。
「もう大滝嶽に修行だって?」
「早いほうがいい」
 確信のこもった表情で亀毛先生がいった。
「ちょっと辛いかもしれないな、海には」
 空は体験者らしく余裕だ。
「じゃが、少しは大人になるじゃろう」
「なんだい、人を子供扱いして!」
 言い返したものの、屁の突っ張りにもならない。空は夜明けとともに出かける準備をはじめた。

    6

 すっかり雪が上がった東京。
 四時を過ぎ電車は動きはじめているが、まだ闇の世界のままだ。
 西ヶ原辺りでもっとも高層なマンションの一室に、陸上自衛隊陸上幕僚長の堀場良作が到着したのは数分前のことだ。
 堀場は『デザインスタジオ オフィス・ミッション』というプレートの貼りついた鉄製のドアを開けて中に入った。
 堀場良作 五〇歳。
 防衛大学を卒業するとメキメキと頭角を表し、最年少で将官。幕僚長まで上りつめた。 陸上自衛隊切っての切れ者といわれ、歴代の防衛庁長官も一目置いてきた人物だ。
 中仕切りのドアを開けると、放送局で使われているような画像調整卓があり、モニターには様々な画像が映し出されている。オシロスコープや熱感度分布分析装置、音声分析装置など、大学か企業の研究室並のシステムも備わっており、それぞれの装置には専門の技術者が張り付いて作業をつづけている。
 堀場は、カーテンの隙間にセットしてある特殊な超高感度赤外線スコープを装着したビデオカメラやマイク、簡易レーダーなどにチラと抜け目のない視線を送った。情報収集のスペシャリストと最先端の科学装置が、いまやっと役に立つときがきた。堀場は報告を受けるといても立ってもいられず、朝を待たずにクルマを飛ばしてきた。その歴史的な一コマを早く目にしい一心だった。
 現場を指揮する森末三佐が、堀場を大型モニタ前のソファに促した。
 堀場はそんなことは承知しているとばかりにソファにカラダを埋めると、待ち切れないのかしきりに貧乏揺すりをはじめた。
「早くせんか! 幕僚長がお待ちだ!」
 森末三佐が、技術者たちに檄を飛ばす。堀場の気の短い性格を知ってのことだ。
 ひと呼吸もおかずに、モニターに鮮明な画像が現れた。
 高感度赤外線スコープで撮影した画像だ。月明り程度の光源があれば、明るさの点では昼と差のない映像が撮影できる。ただ問題は、一〇万倍にも増感したために起こる粒子の荒れだ。これを解消するのが、画像データをデジタル信号に変えて、解析・処理するイメージ・エンハンスト・コンピューターだ。たとえ映像の欠落やエッジに滲みがあっても、周辺データから予測したサンプリングデータで欠落を埋めていく。
 その処理の済んだ映像は、レンタルビデオと変わりないほどシャープで鮮明だ。
「侵入者たちです」
 画面には、常緑樹の影に隠れながら、雪上を一歩一歩前進する白い迷彩服の姿があった。 場面は一転して屋根の上の二人の少年を映し出した。二人ともパジャマ替わりのトレーナーを着ている。その胸にプリントしてある文字まではっきりと読み取れた。
 年長の、背丈が百八〇センチ近くありそうな彫りの深い顔立ちの少年が、二階の屋根からふわりと舞い降りる。いくら雪が積もっているからといって、常人なら骨折してしまう高さだ。
 カメラはその落下を追う。くるぶしの上まで雪に埋めて、少年が着地した。
「これが大滝空だな」
「はっ」
 森末三佐は、強張らせた頬をぴくぴくさせながら堀場幕僚長の傍らに屹立している。緊張し、顔色もいくぶん青褪めている。
「銃を向けられても微動だにしないとは・・・」
 呆れ返ったようにいうと、堀場は半身を乗り出した。
『危ない!』
 画面から、指向性の高い超高感度マイクがキャッチした海の声が流れ出た。
『パスッ! パスッ! パスッ!』
 つづいて、空が雪上を滑るように移動する。
「巻き戻せ」
 森末三佐の指示で、いまのシーンがスローでリプレイされる。
「足元に注意してご覧ください」
 堀場は精悍な顔をさらに引き締めると、瞬きを止めた。
「完全に、浮いております」
 画面がズームアップし、空の足元が大きく映された。森末のいう通り、裸足の足は拳が入るくらい浮いている。
「これが密教の法力か・・・。現実に目にするとトリックのように見えるが・・・」
「一切それはございません」
 森末三佐がきっぱりといった。
「分かっておる」
 堀場幕僚長は、五月蠅を追い払うように森末三佐にいった。ゴクリと生唾を飲み込む音が響いた。森末三佐は堀場幕僚長の怖さを十分に知りつくしているからだ。
 瞬間的な空の移動がつづいて、老人が手裏剣のようなものを投げる場面となった。その手裏剣のようなものは、侵入者の喉元を次々と掠め、老木の幹にカツンという乾いた音を立てて突き刺さった。
 侵入者たちは、毒気に当てられたようにカラダの力を奪われ、操り人形が紐を切られたようにドサリと崩れ落ちた。
「あれは?」
「独鈷杵と思われます」
「法具か」
「はっ」
「あの亀毛という老人だが、あれも密教僧か?」
「資料によれば・・・大滝空と海の兄弟の母、玉湖の血縁ということになっております。武術に長けており、儒教、あるいは、道教を学んだ老士のように思われます」
「うむ」
 納得したように堀場がうなずく。「血縁」・・・それだけで、十分に納得した様子だ。
「十分に価値があることが証明されたな」
 にんまりとした笑みを森末三佐に送る。
 大任を果たしたという安心感で、森末三佐は安堵の色を戻した。
 ビデオをダビングして至急届けてくれ。一刻も早く北尾防衛庁長官にお見せしたい。なにしろこのミッションは長官自らが周囲の猛反対を押して実行されたものだ。その甲斐があったことをお知らせして、次の任務を仰がなくてはならん」
「至急手配いたします」
 森末三佐は最敬礼して堀場良作を送り出した。
「三佐殿!」
 その森末に、モニタを監視していたスタッフから声がかかった。
「動きがあります」
 森末は窓際のモニタに目を向けた。
 少年がひとり、玄関から出てきたのが見えた。

    7

「これが地図だ」
 空が手渡したのは、旅行会社が出している『四国阿波の旅』という新書判の旅行ガイドだった。
「ねえねえ。ガイドブックに載ってるようなとこで、修行すんの?」
「そうだ」
「観光客相手の見世物になれっていうのかい。そりゃないぜ、兄貴!」
 不貞腐れた顔でいった。
「それからこれを忘れちゃいかんぞ」
 亀毛先生が渡したのは、文庫本だった。表紙に『虚空蔵菩薩求聞持法教』とある。
「こくうぞう・・・ぼさつ・・・ぐ・・・もん・・・じほう? 念仏かなんかかい? 辛気臭いなあ。坊さんにでもなるみたいじゃん」
 そういって海は顔をしかめた。
「よく分かってるじゃないか。山岳僧の修行に出るんだよ、おまえは」
「げげっ! 地獄の特訓みたいの?」
「行ってみれば分かるって。行くしかないんだ。大滝家の血を引いたものは、宿命なのだ。行けば、その理由も分かる。僕のようにね」
「はいはいはい。行きますって」
 肩を竦めていう。
 五時過ぎ、海は雪に覆われた西ヶ原の街を出て、羽田空港に向かった。

 玄関まで見送った亀毛先生と空は、ついでに雪かきをした。
 放っておくとコチコチに凍結してしまうから、そうならないうちに雪を退けなければならない。敷地と接している百メートル近い道路の除雪するのに午前中一杯を費やした。
 昨日までとはうって変わった快晴で、汗が下着を濡らした。仕事を終えると、熱をもった汗と、冷った汗が下着を濡らして妙な気分だった。
 シャワーの後で昼食をとった。朝食抜きのせいか、お節の残りと雑煮が、空の空腹の胃にすいすいと入っていく。術に頼らず肉体を酷使すると、食欲も快感に変わるものだ。もちろん、術を使うことは神経も使うし肉体も使う。だが、汗を出す労働とはまた違う。
 午後は、侵入者たちの遺骸の始末だった。
 荒れ果てた庭には池がある。その中央に小さな島があり、祠が祭られてある。そこまで手漕ぎボートを使って遺骸を運び、祠の前に並べ筵をかけ合掌した。
「悪人も死んでしまえばみな同じ」
 それが亀毛先生の口癖だった。
「後は水神さまが始末してくださる」
 空は、狭い中之島の小さな祠の格子戸の中に目をやった。
 遠い記憶が、うっすらと運び込まれてきた。
 まだ、庭が十分に広く手入れが行き届いていた頃・・・。日傘をさした母。池に浮かべたボート。清洌で透明な水飛沫。中之島の枝ぶりのよい松、刈りそろえられた芝畳・・・。
 胸が、少し締めつけられた。
 片付けが終わった昼下がり。裏庭に面したサンルームで、お茶をすすりながら、空が何気なく亀毛先生に訊いた。
「あのアラブ人たちは河川爺さんの線ですかね?」
 ゆっくりと、小さく何度も亀毛先生は首を上下に振る。そして、視線を湯飲みの中の茶葉に移した。湯飲みを揺らすと、小さな渦巻きができた。茶葉が湯飲みの底の中心に集まり、渦巻きが消えるとまた茶葉は湯飲みの底に広がった。
「うむ・・・」
 背後にあるものの正体を見極めようとしているようすが、空につたわってきた。それはもうはじまっているのだ。宿命の、因縁の戦い・・・。大滝河川が敷いた防衛策が次第に動きはじめていたのだ。それが、空に感じられた。

 その夜。
 東京北部を豪雨と強風が襲った。篠突く雨は風とともに西ヶ原を襲って一陣の竜巻へとカタチを変えた。その姿を目にしたものにとって、それはまるで龍が天に向かって駆け昇るがごと姿に見えた。

第三章 水神の血脈

    1

 大滝河川。
 空と海の祖父であり、二人の母、玉湖の父である。
 建設院から昇格した建設省にに勤務していたが、昭和二十三年、三十一歳のときバンドーン土侯国の土木工事教育のために赴いた。が、現地で行方不明に。その後、死亡が認定された。
 空がそれを知ったのは二年前。十五の誕生日を迎えてしばらくしてからのことだった。いまの海と同じ様に超自然的な力を身につけ、大滝嶽に修行に行く直前のことだ。
 なぜ自分は人と違うのか?
 空の関心は血筋に向いた。それまで、亀毛先生と海と、そして、ときおり訪ねてきては無邪気なままに戯れる佐伯麻衣たちに囲まれ、すでに過去の人となっていた両親や祖父などに関心を示したことがなかった。
 それが、力が身についた途端、関心が自己のルーツに向かった。
「真実の片鱗でも知りたい」
 空は、家の中の、古文書でもありそうな場所を嗅ぎ回るように探った。だが、過去のものといえば、自分たちの子供の頃までのものしか出てこない。
 両親のアルバムや、祖父、祖母たちの写真すらない。考えてみると、それは異常なことだった。過去を断ち切られているのだ。
 空は、区役所に戸籍謄本を請求した。

 大滝河川 大正七年生
      昭和二十一年 佐伯真尾と婚姻
      昭和二十三年 長女玉湖誕生
      昭和二十五年 バンドーン土侯国で行方不明
      昭和三十二年 死亡認定
 佐伯真尾 昭和三十五年 死亡
 大滝玉湖 昭和五〇年  佐伯正一郎と婚姻
      昭和五十一年 長男空誕生
      昭和五十三年 次男海誕生
      昭和五十五年 死亡
 佐伯正一郎昭和五十三年 死亡

 父も母も早逝している。
 祖父に至っては、他国で行方不明になったまま死亡認定である。
 しかも、大滝河川は、佐伯真尾と。娘の玉湖は、佐伯正一郎と。どちらも同じ佐伯姓が婚姻の相手である。ちなみに、佐伯正一郎は、麻衣の父親である豪二郎の兄だ。
 妙な因縁を空は感じた。
 空は、当時の新聞記事や週刊誌を閲覧するために、国会図書館を訪れた。大学生、または、二〇歳以上の入館しか認められていない国会図書館が利用できたのは、マーキュリーの葉子さんのお陰である。
 だが、収穫といったものはほとんどなかった。
 次に訪れたのが、北の丸公園にある国立公文書館だ。ここには一定機関を過ぎた国や行政機関の書類や、裁判記録などの閲覧が可能になる。ただし、重要度、機密度に応じては閲覧できないものもあるにはあるのだが。
 ここでも全面的に葉子さんのお世話になってしまった。面倒なことに、ここも二〇歳にならないと利用することができない。そのうえ、利用目的などをあれこれ詮索される。まったく公共機関というのは、開かれているようで閉ざされている。
 そこで分かったのが、大滝河川が戦後処理の一貫としてバンドーン土侯国に土木技術者として、他の二人の日本人とともに派遣されていたということである。
 大滝河川   土木技術
 北見 肇   農業
 長谷部一曜  衛生医学
 この三人は昭和二十四年にバンドーン土侯国に赴いている。その目的は『バンドーン土侯国の農業振興と、治水のための土木工事の事業援助、および、衛生意識の向上』ということになっていた。
 だが、一年も経たない昭和二十五年に一人は行方不明に。あとの二人は帰国したと資料にはあった。
 帰国した北見肇への聞取調書によると、
『・・・もともと砂漠地帯で農業などは困難な自然環境にあり、住民たちも米栽培への意欲が乏しい。しかも、民族間の闘争が激しくなり、身の安全の確保のために緊急脱出した』となっている。長谷部一曜の大同小異である。
 そして、大滝河川の行方不明については、口を揃えてこういっている。
『酷い旱魃がつづいたため、土木工事が思うように行なえず、ノイローゼ状態になっていた。気がついたら行方が分からず、バンドーン土侯国関係者に各方面の探索を依頼したが、国情の不安定も手伝って思うような捜査ができず、そのままになった。恐らく、砂漠に迷い込んでしまったのではないか』と。
 知り得た限りの情報をもとに、空は亀毛先生に詰め寄った。

    2

「父のこと、母のこと、祖父のこと。自分でできる限り調べはしました。でも、まだ分からないことがたくさんある。あり過ぎるといってもいいでしょう」
 空はいったん言葉を切ると、焦る自分を制御するように息を整え、舌で唇を湿らせた。「この家には過去がない。影もカタチもありません。なぜですか? 先生はなにも教えてくれない。ぼくももう十五です。色々なことを知ってもよい年齢だと思います」
 空は味わいつづけてきた隔靴掻痒の思いを正面切って亀毛先生にぶちまけた。
 何も知らない海が、無邪気に寝静まっている深夜のことだ。
 亀毛先生は、杯を持っていた手を宙に静止させたまま、表情を堅くしてじっと空を見据えた。それまでの酔いが吹き飛んでしまったようだった。
 話を聞き終えると、先生は杯を一気に飲み干し、新たになみなみと冷酒を注いだ。その杯をグッと空に差し出すと、
「飲みなされ」
 と言葉を噛みしめるようにいった。
 いわれるがままに杯を受けとると、空は顔ひとつ変えず、一合は十分にある酒を一口で胃の中に納めた。
 それを見届けると、亀毛先生は手の甲で口を拭い、腕組みをして天井をしっかと睨みつけた。じゃがいものような顔からは酒気が抜け、いつになく相貌がきつい。
「どこから話したらよいか・・・」
 なにやら深く沈殿した澱のようなものが複雑に絡み合い、状況を説明しにくくしているらしいことが伺えた。
「ポツダム宣言というのは知っとるか?」
「教科書に出ています。一九四五年七月に、ドイツのポツダムでアメリカ、イギリス、中華民国、ソ連が日本に対して発した共同宣言です。日本の降伏条件を盛り込んだもので、当初日本はこれを無視しつづけましたが、原子爆弾の投下やソ連の参戦によって受諾を決意。無条件降伏となって第二次世界大戦は事実上終結しました」
「その通り。さすが曙学園中等部の生徒会長を務めておるだけのことはあるわ」
 亀毛先生が満足そうな笑みを、じゃがいも顔一杯に浮かべた。
「しかしなぁ、教科書などというものは、歴史の上澄みだけを形式的に表記したものじゃ。間違いともいえんが・・・すべての事実をさらけ出しておるともいえん。ポツダム宣言もしかり。歴史の本にも書かれていない重大な裏取引があったんじゃ」
「裏取引?」
「一部の政府高官しか知らん条項じゃ。『日本の水神の分割条項』といって、要求したのは、中華民国。深い遺恨があってのことじゃ」
「水神!?」
「土地を緑豊かにし、豊饒な実りを民に分け与えてくださる水の神じゃ」
 NHKや朝日新聞が、心霊現象を真面目に取り上げたような違和感があった。
「うさん臭そうな顔をしておるな」
「あ、いや・・・」
 否定はしたが、戸惑っていることには違いない。
「なにを、非科学的でいかがわしいことをと思うておるのじゃろ。自分のことを考えて見よ。横丁から飛び出してきた幼児を避けようと、自転車のハンドルを切ろうとしたら・・・」 亀毛先生の笑みが、空の記憶を呼び覚ました。

 咄嗟のことだった。ブレーキを目一杯握り、自分が倒れるつもりでハンドルを九〇度に切った。だが、転がるボールを追う幼児の走りは予想以外に速かった。
 真っ白になった頭の中で、思わず願った。
<浮いてくれ!>
 遊園地で重力から解放されたときのような感覚に襲われた。地面に叩きつけられるのか・・・。受け身を取ろうと目を開いた。目の高さに屋根の庇があった。眼下に道路がある。自転車が三メートル以上もジャンプした。そして、ふわりと羽毛が落下するように優しく路面に着地した。
 振り向くと、幼児は何ごともなかったかのように道路の反対側に走り抜けていた。
「紀ちゃん!」
 若い母親が声を上げながら幼児を追って道路に現れるのが見えた。

    3

 それが、空の最初の体験だった。
「空坊っちゃんは、すでに十分に非科学的な存在ですぞ。水神が伝説でもおとぎ話でもないことぐらいで驚かれてはいけません」
 諭すようにいう。
 水神・・・そこには、なぜか懐かしく暖かい響きがあった。
 亀毛先生は腕を組み直した。
「九世紀のはじめのことだ。空海という僧が遣唐使として中国の長安を訪れた」
「高野山に真言宗を開いた弘法大師空海ですね」
「うむ。空海はそこで正統密教を受け継ぐ高僧恵果阿闍梨に出会った。恵果は空海をひと目見るなりこういった。『お待ちしておりました。正統密教の奥義をつたえるのに相応しい方がやっと現れた』と。面目を潰されたのは弟子たちだ。初対面の、しかも、当時としては後進国の日本に正統密教の奥義がつたえられる・・・。正統密教には、土地を豊かに潤す請雨呪法や、死者を蘇らせる呪術がある。この奥義が日本に行ってしまっては中国はどうなるのだ、と」
「それで、どうなったんですか?」
「恵果は反対を押し切り、正統密教の奥義のつたわる『大日経』と『金剛頂経』を伝授した。そればかりではない。密教の王の位である阿闍梨も授けた。その上、密教の秘儀に欠かせない曼荼羅や秘具も新たにつくらせ、空海に与えると、恵果はまもなく死んだ。こうして、正当な密教は日本にだけつたわることになったのじゃ」
 そりゃあ中国が怒るな、と空は思った。
「日本が江戸時代という未曾有の太平の世を謳歌できたのも、明治維新後に目を見張る発展を遂げたのも、現在の経済発展も、すべて空海に奪われた真言密教の恩恵だ。中国政府は、ずっとそう考えていた。そこで、思いもかけないような条項をポツダム会談でもちだしたのだ。水神に守られ、豊かな緑と自然に富む国土は、もともと中国の財産だ。それを返せ。各地に棲む水神を、中国に返せ、と」
「水神・・・」
 その言葉に、昔どこかで出会ったような、温もりが感じられるた。
「ところが、その提案に身を乗り出して関心を示したのが、旧ソ連のスターリンだった。荒廃する国土を肥沃な大地に変貌させるため、水神をいただこうと考えたのだ。ソ連はすでにヤルタ会談で日本への参戦を表明していたが、樺太、千島だけでなく、北海道東北の占拠に異常な執着を見せた。理由は、水神だ」
 亀毛先生が一息入れて酒で唇を潤す。
「アメリカは『日本の水神の分割条項』に反対した。ソ連という共産主義の防波堤に日本は欠かせない。つまり、日本の荒廃は防がなくてはならぬ。それに、ソ連と違ってアメリカは資源も豊富だし国土も肥沃だ。中華民国のような遺恨もさほどない。優先すべきは、日本の復興だったんじゃ」
 亀毛先生は杯に液体を注ぐと、一気に飲み干した。
「さてそこでだ。マッカーサーが日本に降り立つ前、つまり、ポツダム宣言の受諾の裏で暗躍したひとりの男がいた。大滝河川様だ」
「爺さん・・・」
 ホツダム宣言から空海、そして、やっと大滝河川にたどりついた。
「さよう。河川様は大学卒業と同時に建設院土木課に席をおき、日本各地の湖や川の整備と復興に全力を尽くされたのじゃ。水の国、日本を守るためにな」
「爺さんが日本を守る?・・・どういうこと?」
 素朴な疑問が空の口から零れた。
「河川様は真言密教の秘儀と修法を身につけておった」
「どうして河川爺さんが?」
「単純なこと。空海の子孫なのじゃ」
 素っ気なくいう。
「まさか!?」
 空は驚嘆した。
 祖父の大滝河川が空海の血を引いているなら、自分も弘法大師空海の子孫ということになる。まるで、ウソみたいな話だ。

    4

「自分たち兄弟の名前のことを考えたことがありますかな?」
 普段の陽気な先生ではなく、射抜くような鋭さをもった瞳が光っている。
「僕が空で、弟が海・・・」
「空と海・・・つづけると、空海」
「父親が気紛れで歴史上の人物から取ったのだと、子供心に思っていましたが・・・」
 思いに耽るように空が目を伏せた。
「名づけ親は河川様です」
「バカな! 僕らが生まれる三〇年近くも前に死んだ爺さんが、名前をつけられるわけが・・・」
 亀毛先生が頭をゆっくりと振って否定する。
「玉湖さまが生まれる前に、河川様はバンドーンにお出かけになられた。お二人の名は、出かける前に奥さまの真尾さまに託されたのじゃ」
 頭がくらくらしてきた。そんな予言者のようなことが果たしてできるのか? 覚悟の上で河川爺さんはバンドーンにでかけたのか?
「お二人の誕生を、知っておられたとしか考えられません。玉湖さまが佐伯正一郎さまとご結婚なされ、二人の男の子をもうけることを・・・」
 いくら真言密教の秘儀と修法を身につけているといっても、そんなことが? 空は驚嘆した。
「請雨法、呪い調伏、予知・・・それが叶うのが真言密教です。人なみ外れた力と神通力を身につけたとしても決して不思議なことではありません。詳しく話しましょうかな」
 亀毛先生は、身を正して噛んで含めるような口調で話しはじめた。
「東洋哲学によると、宇宙は木火土金水の五行からなっていましてな。なかでも水は、ありとあらゆる生物が生きるために欠かすことのできないもののひとつ。その生成を知り、変成を操れば、この世を統御することも叶う。水なかりせば、人は乾き、食むべきものも育たん。水多ければ、人は溺れ、食むべきものも流れ去る。旱魃も洪水も、神が人間に課した試練で、怒りの現れなのじゃ」
 分かるか? というように、亀毛先生が上目遣いで空を見た。端然と見返す空に、亀毛先生は安心したように言葉をつづけた。
「さきほどわしは空海が、請雨の呪法の『大日経』と、死人を蘇らせる『金剛頂経』を受け継いだといった。これは、現代でいえば気象予測やバイオテクノロジー、遺伝子操作に当たる。その他にも、医療、建築、土木、建築、鉱業、自然科学・・・そして超常現象と、空海が恵果阿闍梨から伝授された真言密教は、最先端科学を駆使したハイテク技術じゃ」
 なるほど、そういう解釈もできるな、と空は納得する。
「さて、弘法大師空海は六十二歳で瞑想ののち入定・・・つまり、即身成仏となった」
「五穀を断って生き仏となるっていう、アレですか」
「即身成仏・・・つまり、生きながら仏になること。これすなわち、密教の教主であるところの大日如来と一体となり、宇宙の真理と肉体とを合一すること。その結果、あらゆる可能性を身につけ、神秘な力で世界を意のままに操れるようになる」
 淡々と亀毛先生はつづける。
「弥勒菩薩の御前に侍り、地上を見守りつづけると大師は宣もうた。天下の大事には、その徳で人々を救済するということじゃ。そして、入定以来最大の危機が訪れた。ポツダム宣言によって、日本の水神が奪われようとしている。それを阻止できるほどの力量をもった密教の高僧は、日本にはいない。それで大師さまは、入定後はじめて救済のための行動を起こしたのじゃ。末裔である大滝河川に、真言密教の秘儀と修法を授けたのじゃよ。十五歳の河川様は、四国阿波に山籠り、修行を終えると秘儀と修法を完全に習得した。そして、建設院で時を待った」
 十五歳といえば、いまの自分と同じ年。身の上に起こっている変事と因縁があるのだろうか? 空の頭の片隅に黒雲のような思いが立ち上ぼった。
「ポツダムの危機を河川様は敏感にキャッチされた。中国から、密教を受け継いだと称する呪者が大量に流入し、全国の湖や川に散ったのじゃ。祈願で水神を呼びだし、持参した水瓶に封じ込んで持ち帰ろうという算段でな」
 亀毛先生が苦々しい顔になる。
「河川様は日本全国の湖と川の水神にメッセージを送った。邪教に惑わされぬよう、水界の奥に潜み、竜穴を塞ぐようにとな。いくら正統の密教が伝わっていないとはいっても、数百人を超す密教僧と河川様独りが戦うことは至難の技じゃ」
「それで日本の水神を救ったというわけですか・・・」
「だが、それを好ましく思わぬものたちがいた。実力もないくせに高位にある日本の高僧たちだ。河川様の行動を身勝手なものと決めつた」
「だって、爺さんが日本の水神を守ったんでしょ?」
「どこの世界でも、出る杭はうたれる。高僧たちは、自分たちの地位を守るのに必死だったのじゃよ。浅はかなことじゃ」
 亀毛先生は、過去の忌まわしい思い出を脳裏に描いているようだった。
「残念なことに、高僧たちの訴えをとりなした政治家の手によって、河川様はバンドーンへ追いやられた。人事による通達一本でな。高僧たちが『国の水神は自分たちが守る』と訴えられては、反論の余地などなかったのだ。このとき、すでに自らの命運を悟っておられたのだろう。お二人の誕生を予知して、名前をおつけになられた」
「どうしてわざわざ僕たちに空と海なんて名付けたんだろう?」
「四〇年後に現れる真の敵に備えてのことです」
「四〇年後って・・・」
「再来年。海坊っちゃんが十五になられる年です」
 戦慄が走った。河川の真の存在理由が、自分たち空と海の誕生のためにあった!?
「四国阿波大滝嶽。そこが修行の場です。即刻行かれるがよろしい」
 亀毛先生は、自分の部屋から持ち出してきたのは、一冊の観光ガイドブックと『虚空蔵菩薩求聞持法教』の文庫本だった。
 それを受けとると、空は全身の血が滾り、破裂しそうな勢いで流れるのを感じていた。 空、十五の春のことだった。

    5

 四国八十八霊場の第二十一番札書 舎心山太龍寺。
 参道となる険しい山道を、正月四日というのに、菅笠に白く清浄な笈摺を羽織り、金剛杖をついた遍路姿の巡拝者の姿が数多く見受けられた。その中に、独りジーンズに真紅のダウンジャケット姿の海も混じっていた。
 徳島市からバスを乗り継いで数時間。終点だというので降りたら次は徒歩だという。雪に埋もれた峻険な山道は、滑りやすく冷たく暗い。
 凛とした空気が、海の頬をカミソリのように舐めていく。研ぎ澄まされた冷気が鼻孔を刺戟して、涙が零れ落ちる。涙はいつの間にか流れ落ちてきた鼻水と混じって唇の端を濡らす。感覚が麻痺して、他人のもののようになった唇を舌で探ると塩っぱいので、それが鼻水だと気づく。
 空気が肺に痛い。
 凍った空気が、胸の細胞をキュッと締め上げる。呼吸すればするほど、酸素の毒がカラダ中に蔓延していくような気がした。何度か転びそうになりながら二時間近く。こんもりとした杉の巨木が林立する境内に達した。仁王門をくぐると、様々な古色蒼然とする木造建築が散在している。そのすべてから、海は呼びかけられたような気がした。
<きたか>
<まっていたぞ>
<もっとうえだ>
<けわしいぞ>
<こころしろ>
<すくうのだ すくうのだ すくうのだ すくうのだ・・・>
 声が、反響し木霊となる。海は両手で耳を塞いで、声を断ち切ろうとした。
「すくう・・・って、何を何から救うっていうんだ?」
 周囲を見回す。まるで六角堂や本堂や楼門が、ぐにゃりといびつになって声を吐き出しているような錯覚に囚われた。
「なんだ?」
 霊気の密度が、濃い。濃霧のように充満し、手を動かすのも水をかくような抵抗がある。胸が圧迫され、呼吸が苦しい。苦痛に顔を歪め、海は本堂の横手までやっとの思いで辿り着き、しゃがみ込んだ。膝頭の間に頭を埋め、耳を両手で塞いだ。

 夢を見た。
 きらきらと湖面が光を反射して、眩しい。白い和服姿の女性が日傘をさし、微笑んでいる。
 湖・・・といっても、庭園につくられた池のようだ。泳ぐほど広いわけではない。中之島があり、松が枝振りを誇らしげに見せている。幼児が二人、裸足で水と戯れている。二人とも小さな麦わら帽子をかぶり、水遊びに夢中だ。水にふれることが珍しく、面白いといった好奇の眼差をしている。
 母親らしい女性は、岸辺で優しくあどけない幼児たちを見守っている。
 のんびりと時間が経っていく・・・。昔のサイレント映画のように、声もなく色もない。
 子供の一人が誇らしげに何かを母親に見せている。
 母親は眉間に縦しわを寄せて首を振った。口が「いけません」といっているようだ。自慢そうに見せていた年かさの幼児は、恨めしそうな表情になり、獲物をじっと見ている。年下の幼児が、何ごとかも分からず、その獲物を覗き込んでいる。
「はなしなさい」
 母親の口が、そう言っているように見える。名残惜しそうに、幼児はそれを池に戻した。 細長く金色をした蛇が、湖面を泳ぎ、やがて水没した。
 そこだけが色に満ちていた。

 人の気配がした。
 ゆっくりと顔を上げる。
 菅笠で顔が隠れているが、手甲脚半に白い笈摺を羽織っているからお遍路さんだと分かった。
 何かを差し延べている。亀毛先生が侵入者たちを気絶させたと気に使った独鈷杵の、その両端から半ば広げた手のように四つの爪のようなものが伸びていて、両端の先を包んでいる。
「五鈷杵といいます。悟りに役立つものです」
 お遍路さんは、海の手にその五鈷杵を握らせると、くるりと踵を返して去った。その面立ちは、さっきの夢の中の日傘の女性に似ていた。そして、葉子さんにも似ていた。
 しかし、彼女がこんなところにいるはずがない。
 辺りは、もう薄暗い。日が短いせいもあるが、眠っていた時間も長かったようだ。
 冷気が顔を打つ。
 声が聞こえた。頂きから<こい>と呼んでいる。
 海は、肩の力を抜くように大きく深呼吸した。さっきは霊気に当たったが、いまは、霊気の濃さが心地好い。五鈷杵のせいだろうか?
 海は、夕闇の境内からつづく細く狭く険しい山道に踏み出した。
 かつて大滝嶽と呼ばれ、空海が修行したといわれる南舎心嶽に向かって。

    6

 正月五日。
 兄弟の叔父であり麻衣の父親である佐伯豪二郎は、東京でも高級住宅街として知られる千代田区番町の一角に、千坪の敷地を占める豪邸の客控室にいた。
 屋敷は広大な平屋造りで、伽藍を模しているので、奈良あたりの寺に紛れ込んでしまったかのようだ。
 屋敷の主の名は、西寺守敏。
 吉凶占いと加地祈祷で衆愚の耳目を集め、そのご託宣にすがらんものと、いつの頃からか、日本の政財界人や要人が足繁く訪れるようになっていた。
 毎日ひっきりなしに訪れる黒塗りのハイヤーの数は尋常なものではない。相談料は一件で家が一軒買えるほどだとも噂されているが、それだけ信頼が篤い証拠である。
 豪二郎が西寺守敏に目通りするのは、二度目のことだ。

 最初の訪問は先月・・・つまり、昨年末のこと。ある政府高官と一緒だった。ユニバーサル商事が幹事会社として推進する中近東の緑化プロジェクトの見通しについて、内閣総理大臣の助言と紹介によって守敏翁に尋ねるのが目的だった。
 この緑化プロジェクトは、発展途上国の支援策として、国家事業として通産省が推進する事業だった。
 日本の技術力の高さを世界に認めさせるという国家的な威信もある。失敗は、許されない。だから、政府高官も頭を畳に擦りつけてでもよいご託宣をいただこうと必死だった。 謁見の間の正面の御簾の奥から、政府高官と同じように、畳に鼻先が折れるほど押しつけて聞いていた豪二郎の後頭部を、
「中近東の砂漠化は防げん・・・」
 甲高い声で、木で鼻をくくったような素っ気ない返事が通り抜けるのを聞いたとき、豪二郎は風船が萎むようにからだの力が抜けていくのを感じた。
「ご祈祷を・・・」
 すがる政府高官にとどめの一言が放たれた。
「祈ってもムダじゃ。自然遷移に抗うことはできん」
 自然遷移・・・。
 それは豪二郎も十分に承知していた。
 大地は、生物と同じように生きている。ある部分は幼く、ある地域は若く、いくつかは年老いている。
 たとえば、現在砂漠となっている地域の多くは、古代に文明が栄えた地域だ。エジプト、メソポタミア、中国・・・。大河川に隣接し、豊かな時代を画した時期があった。しかし、太陽と土壌と水のバランスのとれた関係がつづかなければ、土地は死滅する。
 本来、土は栄養に満ちているものだ。盛りを過ぎた植物は枯れる。枯れた葉は土中に住む微生物が分解する。そして、植物が発芽するための栄養となる。発芽にはもちろん水が必要だ。発芽したら今度は太陽の光が成長を促す・・・。
 小学生でも知っている単純な理屈だ。
 このバランスが崩れるとどうなるか?
 日照時間が長すぎれば水分が蒸発し、土は乾き栄養が失われ、植物は育たなくなる・・・。 これが、砂漠が進む原因である。
 日照りを防ぐ方法は、ない。日本には適度な雨が降り、アフリカや中近東にはほとんど降らないという気象条件が、土壌を砂漠化していく原因なのだ。
 水がなければ、始まらないのだ。
 現在の科学は、植物工場などという、根が栄養を含んだ水に漬かっているだけで育つ技術も開発している。だからといってプラントを輸出しさえすれば解決になるのか?
 雨が降らなければ基本的な解決にはならないのだ。砂漠は砂漠のまま、永遠に風化したままの姿で晒されるのだ。

 守敏翁との会見の後、クルマの中で豪二郎が政府高官にこう尋ねた。
「これでプロジェクトは白紙撤回ですね」
 しかし、政府高官は「うん」とはいわなかった。
「一度閣議決定したことは世界がひっくり返っても覆らない」
 政府高官は豪二郎に不貞腐れたようにいった
「ムダだとわかっていても国税を捨てるようなプロジェクトを推進するのですか?」
 豪二郎が食ってかかる。
「経済開発援助を何らかのカタチで行なわねば、諸外国からの非難は必至だ。そのぐらい君も知っているだろう。ポーズだけでも世界貢献をしなけりゃあならない時代なんだよ!」
「ですが、効果のある援助の提供が、日本のためにも、バンドーン共和国のためにもなるのでは・・・」
「何でもいいんだ。金さえ出したことになれば、結果はどうなろうとな」
 遮るように政府高官がいった。豪二郎はガックリと肩を落とし、声も出ない。
 企業に向かって「プラント輸出を促進するよう」に求めておきながら、その内容も十分に検討しない。
「これでは砂漠化への対処療法でしかないから、十分に煮詰めたい」
 といえば、
「時間がない」
 といい、挙げ句の果ては吉凶占いと加地祈祷だ。
 経済大国日本はどうなっているのだ? 豪二郎は自分の立場が恨めしかった。
 政府の腹は「結果はどうでもいい」だが、企業としてはそうはいかない。どうしても成功に導かなくてはならないのだ。それでなくては威信に関わる。
 ましてや、豪二郎の企業内での立場がある。将来は経営陣に参加して、いずれはトップをと狙っている豪二郎にとって、プロジェクトの失敗は命取りだ。
 豪二郎はその事実をまだ社の首脳人につたえてはいなかった。社で守敏翁に唯一目通りが叶うだろう会長が直々にご託宣を承りに訪れでもしない限り、この事実は洩れることはないだろう。それだけに、豪二郎の胸中は複雑なものがあった。
 失敗して失脚するか。責を何らかの方策で転嫁するか・・・。年末はそのことで頭が一杯になっていた。
 そこへ、年が開けて突然の守敏翁からの呼び出しである。政府高官には連絡せず、一人でくるようにと厳命を受けての参上だ。内心の不安を抑えつつ、貧乏旗本が将軍にまみえるために登城するような、おどおどした心持ちで訪れたのだった。

     7

 しんしんと冷え込む空気が、正座して待つ豪二郎の下半身を覆い尽くしていた。
 客控室は簡素な板敷きに加え、睦月だというのにストーブひとつない。座布団もなく正座しているので、足は痺れを通り越して無感覚になっている。だが、豪二郎の心臓は手を当てずとも拍動数が数えられるほど高鳴っていた。
 半ば不安、半ば期待で、この寒いのに掌には細かな粒の汗が吹き出、ぬるぬると気持ちが悪かった。商社マンとしては辣腕ぶりで知られる豪二郎だが、いまは供のように縮み上がってしまっていた。
「佐伯豪二郎さま。ご入室を・・・」
 作務衣姿の案内役が静かに近寄ってきて声をかけた。色白で、鼻筋がつんと通り、瑞々しい唇から洩れる声は、華麗である。剃り上げられた頭部が青々としているが、匂いたつほどなまめかしい。
 立ち上がろうとした豪二郎は、足が完全に他人のものとなっていることに気づいた。感覚がまるでない。義足をつけて歩くというのはこんなものなのだろうか、と思わせるほどだ。
 五、六歩歩くと、じんという痺れと不快感が足の裏から込み上げてきて、バランスを失った。
「しばらく足を揉みほぐしなされ」
 案内役が振り返らずいった。
 うなじが、透き通るほど白いのが、豪二郎の目に焼き付いた。

 謁見の間には、以前のと同じように薬品の臭いが満ちていた。ひどい潔癖症なのか、病院の消毒臭のようだ。
 西寺守敏翁は、一段高い座敷にあぐらをかいて座っており、脇息によりかかっているのが影でうかがえた。座敷と接見の間との間には御簾が下がっていて、拝顔することは叶わない。わずかに着衣が法衣であることが知れるのみだ。年齢、経歴とも定かではないが、もともとは密教の僧だったともいわれている。それ以上の情報は、政府高官も持ち合わせていなかった。国家でさえ正体を把握していない怪僧・・・それが、西寺守敏なのだ。
 接見の間には、先客がいた。
 アラブ風の民族衣装を身につけている。その衣装には豪二郎も見覚えがあった。まさしくバンドーン共和国のものだ。近々大使が変わると聞いていたが・・・。
 プロジェクト推進のため、先行して下見に出かけたとき出迎えにきてくれた政府のお偉方が同じ衣装だったことを覚えている。
 豪二郎はそのアラブ人と少し離れたところに正座して、平伏した。

第四章 それぞれの野望

    1

「待たせた」
 守敏が御簾の奥から艶のある若々しい声を豪二郎にかけた。
「隣はバンドーン共和国のイブン・アブドーラ・ハッサム新任大使だ」
 豪二郎がハッサム大使を振り返る。
 ハッサムが豪二郎を忌ま忌ましげに見返した。その目に、肌寒いものがある。初対面なのに、積年の恨みでもあるような目付きだ。
「日本に着任したばかりだ」
 豪二郎の困惑は深まっていた。一度は断っておきながら、バンドーンの新任大使と同席させる理由は? その真意を豪二郎は計りかねていた。
 その疑念を晴らそうとしてか、ハッサム大使が重い口を開いた。
「日本ニハ自然ヲ自由ニスル技術ガアリマス。ソノ技術ヲ、西村守敏サマハ持ッテイマス。力ヲ借リニ来マシタ。シカシ邪魔ガ入ッテシマイマシタ」
 邪魔? 守敏翁の技術? 日本の各企業の先進技術をプラント輸出しようとしているのは、ユニバーサル商事の自分の筈だ。なのに、ハッサム大使は、守敏翁の技術を借りに来たという。豪二郎は思わず顔を御簾で隠された守敏に向けた。が、その表情はうかがい知れない。
 守敏が手元にあった鈴をチリンと鳴らした。
「面白いものを見せてやる」
 豪二郎は、訝しげな表情で御簾の向こうの守敏を見守った。
 気配を感じて右手を見やると、作務衣姿の剃髪した案内役が腰を低くして正面左手の襖にそって歩いて行く。案内役は豪二郎と壇上との中央辺りで片膝をつくと、ゆっくりと襖を開けた。二間ほどの広さの薄暗がりの中に、炎のような光が見えた。祭壇のようだ。
「護摩壇じゃ」
 ・・・たしか、密教の祈祷のためのもの・・・豪二郎はうろ覚えの知識を手繰った。護摩壇に積んだ護摩木を焚いて祈願する様子を、テレビで見た記憶がある。
 案内役が豪二郎とハッサム大使に目配せをした。小さくうなずき、右手で「こちらへ」と合図を送ってきた。豪二郎は正座したままの恰好で、膝で前に擦り寄って行く。ハッサムは胡座をかいていたが、おずおずと立ち上がった。
 次第に護摩壇が全貌を現してきた。
 屋敷の造りが仏教建築を思わせたのも無理はない。ここは寺なのだ。
 しかも、豪二郎は本堂の真ん中にいるのだ。
 炎のような眩い光の光源は、暗幕で覆ってある。その暗幕を通過してきた光が、斑のように蠢きながら光彩を放っていた。
 案内役はその暗幕の傍らへと近寄り、ゆっくりと暗幕を取り去った。
 まるで、野球場の照明灯がそこにあるような、強烈な光が洪水のように溢れ出た。眩しいといった表現ではとてもつたわらない。思わず平伏してしまいそうな神々しい光彩が、辺りに充満した。
「オウ!」
 ハッサム大使が驚異の声を発した。
 豪二郎は思わず目をつむり、腕で目の前を覆った。それでも瞼を通してきらめきが視神経を刺戟した。
「目を開けよ」
 含み笑いののちに、守敏の諭すような声がつたわってきた。
「こ、これでは目を開けられません・・・。眩しくて・・・目が焼けてしまいそうです」
「マブシイ・・・」
「心配いらん。ゆっくりと、祈りながら目を開けよ」
 守敏の命令とあらば仕方がない。恐る恐る腕をどかし、怖々目を細く開いていった。
 光というものは、あまり明るすぎると白になる。漆黒の護摩壇も、いまは白木に見える。 目が闇に慣れるように、豪二郎の目は光に慣れていった。眩い白の世界に、わずかだが陰影が認められるようになってきた。
 発光源は、巨大な水瓶だった。水瓶というよりは、水槽と呼んだ方がよいかも知れない。透明なクリスタルの水瓶・・・。そして、その中に、数匹の金銀の鱗をもった巨大な蛇が見えた。
「よく見るがいい。目を凝らしてな、ふふふ」
 傲慢というより、誇らしげな笑いが守敏の口から洩れた。
「コレガ・・・」
 ハッサム大使は困惑していない。むしろ、その存在を確認し、畏敬と喜びに満ちた表情で、声をうわずらせているようだ。
 白蛇? いや、短い足がある・・・! 頭からは産毛のような頭髪が密集して生えていた。そして、伊勢海老のようなピンと尖った髭・・・!
「コレガ水神デスネ」
 水神・・・!?
 豪二郎は思わずハッサム大使を見た。神々しいものを見るように、ハッサム大使は跪き、神に祈るようにうやうやしく何度も頭を垂れた。
 伝説の龍に似たこの生き物は、一体・・・?
 豪二郎は混乱していた。

    2

 それは水瓶の中をたゆたうようにしなやかな姿態をくねらせている。時々髭をピクリと震わせ、まさぐるように瞳を動かす。威風堂々と威厳に満ち貫禄も十分だが、動物園の野獣のように、封じ込められた牙が歯がゆいように見える。
 それでも、この生き物たちは豪二郎の心を魅了した。真の宝石に出会ったときと同じ興奮が、背筋を貫いた。
「こ、これは・・・!」
 御簾を振り仰いで、守敏に問い質す。
「水界の主ども、水神じゃ。つまり、龍だ。陸前阿武隈川、陸奥十和田湖、常陸久慈川、武蔵奥多摩湖、越中神通川・・・。これらの河川と涸沼からわしが捕らえてきた」
 豪二郎は慄然とした。
 なぜなら、阿武隈川の近くでは季節外れの陽気で蔵王の雪が溶け出してスキーどころではないというニュースを聞いていたし、十和田湖、奥多摩湖の異常渇水も新聞紙上を賑わせていた。
「水ノ神タチ・・・」
 豪二郎の動揺をよそに、ハッサム大使がつぶやいた。
「わしが呪力で水瓶に閉じ込めた。わしの秘儀をもってすれば、たやすいこと」
「伝説ノ通リデス。大統領ガ私ニ話シタ逸話通リデス! 日本ニハ龍ヲ操ル技術ガアルト聞キマシタ。コレデス。コレガ、国ヲ救ウノデス」
 ハッサム大使が垂涎の眼差しになった。龍が欲しくて喉から手が出そうな表情だ。
「大使。目がこの龍どもを所望したいといっていますな」
 守敏が目敏くいった。
 ちょっと待て、どういうことだ? 豪二郎は混乱した。
「説明しよう」
 背後から重厚な声が響いてきた。
 振り向くと、ひざまずいたままにじり寄ってくる総髪の羽織袴の老人物が目に入った。額がベランダのように張り出し、しかも頬骨が飛び出ている。目は落ち窪んで、奥に貼りついた目はどんよりと濁り、意地悪そうににぶく光っていた。
 見覚えがあった。
 長谷部一曜。
 日本の軍隊を世界に派遣して、再び大東亜共栄圏を目指すのだと主張している右翼団体、国防桜会の会頭だ。警察幹部や暴力団とも深い関係があると噂され、政界の大物も一目置いている。すでに七〇も半ばの筈だが、矍鑠として一部のスキもない。
「不覚にも大日本帝国は大東亜戦争を終了せざる得なかった」
 いかにも右翼らしい表現だ。負けたとはいわない。
「いまだ復興途中の昭和二十三年のことだ。三人の青年がバンドーン共和国に治水技術と医学、農業の技術供与のために政府から派遣された。もちろん、石油資源を潤滑に供給させようという目的があった。経済を復興させ、躍進させるためには是非とも石油資源の安定供給が必要だったのだ。それに、戦争が終結したとはいえ、中近東に橋頭堡を築けば欧州への牽制にもなるし、東への攻撃拠点にもなる。中国、インドシナ、インドを挟み撃ちして再び強大な大東亜共栄圏が築けるというものだ」
 長谷部一曜は途方もない夢を間近に見るような、恍惚とした視線を中空に泳がせながら話した。
「そんな政府中枢の思惑とは別に、三人は汗水垂らし、身を粉にして働いた。だが根本的な解決にならないことを悟った。農業には水が要る。しかし、バンドーンでは治水技術も灌漑設備も役に立たなかった。なにしろ雨が降らぬのだ。だが、それでも三人は協力を惜しまなかった。しかし、その年は例年にない旱魃でな。餓死者まで出る始末」
 長谷部一曜は、三人の中の一人が雨乞いの祈祷を行って雨雲を呼び起こし、豪雨をもたらしたことを話した。
 ハッサム大使はその話に何度も相槌をうっていた。
「その力を重視したのが、イギリスからの独立を目指していた当時のバンドーン土侯国の首長ムスタフ・アラワンという男だ。だれもがアラーの恵と思い込んでいる中で、ひとり雨乞いの祈祷術を見ぬきおった。祈祷をした男に、バンドーンに残り雨を呼ぶように強要したのだ。だが、そうそう祈祷が成功するわけではない。もともとの治水が異なっているのだ。龍が住む国で日照りがあっても、龍を呼び寄せることはできるが、龍が住まない国に龍を呼び寄せるのは至難の技だ」
 長谷部一曜は、水瓶の中の龍たちを凝視した。
「祈祷の失敗を知ったムスタフ・アラワンは、男を幽閉した。男にしても精魂込めての雨乞い。ムリがたたって獄死した・・・」
 語尾が湿り気を帯びたように掻き消えていった。
「いまのバンドーン共和国大統領は、そのムスタフ・アラワンの息子でケマール・アラワンだ。大使が話した伝説というのは、そういうことだ」
「こやつはバンドーンに行った三人のうちの一人だ。仲間を売り払って獄死させ、ついでにバンドーンの女どもを手込めにし、金銀財宝もかっぱらってきよった。嘘ではない」
「そこまでいわずとも西寺さま・・・」
 正体をバラされて、長谷部一曜が少し慌てた。ハッサム大使も汚らわしいものでも口にしたように顔をしかめている。
 狡賢い男なのだろう。西寺守敏の下にいるのも機を見るに敏な性格か。人の流れ、政治の流れ、金の流れをいち早く感じとって、お追従をいっているに違いないと豪二郎は踏んだ。利に聡く、しかも、逃げ足の早い人種だ。
「そこでだ」
 守敏の甲高い声で、豪二郎は正面に向き直った。
「大使はその末裔を探しにきた。長谷部一曜の名を頼りにな。そして、話しがわしのところにきた。わしは、その祈祷師の末裔を捜そうと、龍を掴まえてやったのよ」
「その龍たちをバンドーンに売るおつもり・・・」
「わしには、復讐せねばならぬやつが、おる」
 豪二郎の言葉を遮って、守敏がいまいましげに声を荒げた。
「やつは、この水神どもを運び去ろうとすれば、必ず阻もうとするだろう。そうされる前に、やつに大人しくしてもらわねばならぬ」
 豪二郎はそれがだれなのか、知りたかった。その心中を察するように守敏がいう。
「亀毛という老人だ」
 相撲取りに頬を張られたような衝撃が、豪二郎の脳天を突き抜けた。
「邪魔モノメガ・・・」ハッサム大使が歯がみしていう。
 自分が呼ばれた理由が氷解した。
 豪二郎は空と海の両親が他界したあと二人の甥を引き取った。しかし、豪二郎にはなつかず、スキあらば二人は代々大滝家に仕える老人のもとに逃げ帰っていた。それならば、と二人の面倒を老人に任せたのだ。以後ほとんど付き合いがない。娘の麻衣が大滝家を時々訪問しているようだが、その程度だ。
「あやつは、水神の心を惑わす術を使う呪師だ。わしがこのように龍を国際貢献に役立てようとしても、それを邪魔だてしようとする。あやつがわしに従順になるか、さもなければ、拘束することが必要だ。そうすれば、この龍をバンドーン共和国に貸与することも可能となる・・・」
 俄かには信じ難い高説だが、いま眼前に龍が光り輝いていた。その龍の目を見ると、守敏翁の話が到底嘘とは思えなくなってきた。亀毛老人さえ何とかすれば、緑化プロジェクトは成功する。豪二郎は、とんだ僥倖に出食わしたかのように、心を踊らせた。

 豪二郎は守敏と長谷部一曜の話に幻惑された。
 意外な事実ではあったが、手立てが身近にあったことに光明を見出だした思いだった。帰りのクルマの中で、豪二郎は方策を巡らせた。
「あの男が水神を惑わす呪師だとは・・・。どうやって説得するか・・・」
 下手に怒らせて反抗でもされたら、コトだ。穏便に済ませるには、話し合いが一番だろう。話し合いには、慣れている。なにしろ、放送局などないアフリカの原住民にラジオを売れ、と業務命令が下れば石にしがみついてでも説得して売り込むのがジャパニーズ商社だ。そういった修羅場なら豪二郎も幾度となく掻潜ってきた。今度の相手は日本語も喋れるし、知らない仲ではない。姻戚関係なのだ。
 切り口上をあれこれ思い浮かべて、どこから話しをはじめようかと腕組みし、眉の間に深い溝を三本ばかりつくった。
「うーん」
 なかなか名案が浮かばない。何しろしばらく御無沙汰しているからデータ不足だ。コンピュータだって分析不可能だろう。まずは麻衣にでも探りを入れて・・・。それからあの強情な兄弟にでも会って話しをしてみて・・・。
「まあ、何とかなるだろう。ダメなら、また考えりゃあいい」
 アバウトな戦略だが、いままでそれでやってきたのだ。楽天的にタカをくくった。
 だが、最も重要で素朴な疑問に気づくのを豪二郎は忘れていた。
 なぜ豪二郎が亀毛老人のことを知っているのか、ということ。龍を捕らえられるほどの人物が、なぜ豪二郎を頼りになどするのか? 商談の成立のことで頭が一杯なって、すっかり頭から抜けていた。
 守敏たちの思惑は単純なものではなかった。大企業の管理職としては思慮深さが足りなかったといえるだろう。

    3

「西寺さまも、粋なことをされる」
 佐伯豪二郎が辞し、護摩壇が閉じられた後の謁見の間で、長谷部一曜が豪快にいって、膝を打った。
「真実は、大滝空と海をおびきだし、捕らえんがための方便。さすがは我が師と仰ぐお方。密教界の法王と称されるのも、むべなるかな」
 いやはや、歯の浮くようなお追従のてんこ盛りだ。この男の世渡りが目に浮かぶようだ。が、守敏は「ふん」と鼻で笑っただけで真実相手にはしていない。そのせせら笑いが耳に届こうが届くまいが、守敏は頓着していない。お互いに、利用し合う関係で十分らしいのだ。
「まさか、自分の甥を殺せとはいえぬ・・・」
 守敏が甲高い声で呟いた。それに応じて、長谷部がもう一度守敏を持ち上げる。
「しかし、あの佐伯という男と大滝兄弟との関係を察知するとは、さすが西寺さま」
「血が臭うのだ。あやつ、弘法の生まれ変わりに、血をくれてやる血筋。初回のおり、それが臭いでわかった。あの男はできそこないだが、やはり血は争えん。大滝の血と混ざると、とんでもないものを生み出す氏素性よ。かつて、弘法大師空海を生み出したようにな」
 歴史上の空海は、西暦七七四年六月十五日、讃岐国多渡郡屏風ヶ浦に佐伯直田公善通を父に。阿刀玉依姫を母に誕生している。両親はとも地方の豪族の出自である。簡単にいえば、リッチな一般人だ。だが、玉依姫は、空海を懐妊した際に、天竺から貴い聖人が来て懐中に入った夢を見た、といわれている。
 聖人君子にはこの手の話しがよくある。たとえばキリストの処女懐妊も同じ類いだ。とにかく、フツーの人間の一般的な生殖行為からだけでは、聖人は生まれない。そこに必ず神や聖人が関わってくる。
 この解釈にしたがえば、大滝空と海の兄弟が大滝玉湖と佐伯正一郎の子であることは、肉体的には正しいが、精神的にはもっと高貴な何かが宿っていることになる。
「なんとも、化学反応のような話しでございますな」
 長谷部一曜は大仰にいって、さも感心したような素振りを見せた。
「大使はあの兄弟の凄さをすでにご存じのはず」
 守敏は話題をハッサム大使に振った。大使はいまいましげに下唇を噛みしめた。
「甘カッタデス・・・。タカガ子供トミクビッタノガ失敗デシタ。精鋭ノコマンドガ、四人葬ラレタノデス」
 憤懣やるかたない様子だ。それも尤もなこと。訓練に訓練を重ねてきた大切な精鋭の一部がいとも簡単に捩じ伏せられ、自害するという予想もしなかった事態に陥った。自信と誇りをもって、大滝兄弟の捕獲に向かった中東の殺人集団が、子供相手に大恥をかかされたのだ。
「シカシ、ドウシテ死体ガ遠イ天竜川ナドニ?」
「水神が運び去ったのだ」
「龍ガ?」
「龍たちの王」
「キング・オブ・ドラゴン?」
 ハッサムの目の輝きが違ってきた。小さな湖や流れの弱い川の龍を一匹や二匹借りるよりは、その龍王を一匹せしめれば、バンドーンの諸問題は解決する。
「あの兄弟は、龍を操るために生まれてきたのだ。このわしの野望を阻むためにな・・・」
 クックックッ・・・という喉を鳴らすような笑い声が御簾の向こうから漏れ出てくる。
「西寺さまの力に比ぶれば、たかが子供二人・・・」
「見くびるな」
 長谷部の追従を途中で遮るようにして、守敏がじめりと湿度の高い声で威嚇する。
「・・・・・・」
 びくん、とカラダを硬直させて、長谷部一曜は黙んまりを決め込んだ。
 軽口も度が過ぎれば不謹慎となる。実際に四人の歴戦の兵を失ったハッサム大使の面前を考えろ、ということも含めて、相手が子供だからといって油断できる相手でないことを教えようとしたのだ。
 長谷部は逆鱗にふれ、いたずらの後で頭をポカリと殴られたようにシュンとしてしまった。昨年の暮れから、大滝兄弟を見張るよう幹部の漆原には命じてあるのだが、どうやら上手くいっていないらしい。
「長谷部よ。お前の力で大滝兄弟か亀毛か、一人でもいいから引っ掴まえて来てからほざけ!」
 守敏に怒鳴られ、一曜は頭を畳にこすりつけた。
 もちろん、心の中ではハッサムを蔑んでいた。なにが精鋭の殺人コマンドだ。呆れてものがいえんわい、と。何もない砂漠やカスバの雑踏で人殺しをするのと、日本のような高度に文明化された国で行動するのとでは話しが違う。日本人には魂がある。日本の極左集団を相手にしている自分たちの方が、遥かに優れているのだぞ、と。
 まほろばの国日本の男子なら、軟弱なやつだろうが左翼だろうが、わが国防桜会に預ければ、一ヵ月もたたぬうちに叩き上げの日本男子に生まれかえてみせることができる、と。「承りました。早速、手土産をお届けいたします」
 そう約束するようにいうと、長谷部一曜は謁見の間を辞した。

     4

 正月六日。
 西ヶ原の大滝家。荒れた裏庭に面したサンルームで亀毛老人が一通の古ぼけた書簡を手に、物思いに耽っていた。
 昭和二十三年の春、大滝河川が三十一歳でバンドーン土侯国に赴いたとき、かの地から若干二十歳の青年だった亀毛老人に送られてきたものだ。
 それには、概略このようなことが記されていた。
『いずれ、日本の水神を狙って世界が暗躍するときがくる。戦後の混乱はなんとか乗り越えた。だが、宿痾ともいうべき怨念が、昭和の後の世に甦ることになろう。千年もの長きに亘り醸成され、鬱積した恨みは並大抵ではない。執念がを倭国を滅ぼすかも知れないのだ。その恨みから倭国を救うのは、正統な真実密教を受け継いだものの使命であり宿命でもある。わたしは、もう戻らないだろう。それを十分に承知して、国を発つ。真尾を、そして、生まれてくる玉湖を、頼む。そして、空と、海と名づけることになる孫を、頼む。詳細は、日記に当たれ』
 遺書とも読めるこの文面が送られて来たとき、彼は大滝家に書生として出入りしていた。だが、懐妊中の若く美しい真尾婦人にこのことを打ち明ける勇気はなかった。
 手紙が到着して二ヵ月後、真尾婦人は女の子を生み落とした。
 玉湖である。
 大滝河川がバンドーンに赴く前に、真尾婦人に預けた命名書に、この名前だけが記されていた。あらかじめ女の子と知っていたとしか思えないような手配だ。
 それから二年、平和な日々がつづいた。広い邸内に雇人が数人。真尾婦人は玉湖の世話にかかりきりで、時を過ごした。
 このサンルームから眺めた、庭を散策するたおやかな真尾婦人の着物姿が、覚束ない足取りの玉湖のあどけない表情が、瞼の裏に甦ってくる。
 若き亀毛老人は手紙の真意を探るため書斎に閉じ籠って、先生の原稿の整理、と銘打って膨大な日記を読み、そこに出てくる文献に当たって情報を再構成していった。
 少年時代に奇妙な力があることを悟った河川が、弘法大師の啓示を受けて大滝嶽に赴いたこと。そこで短時間のうちに真実密教の奥義を身につけ、建設院時代には全国の水神を訪ね歩いたこと。ポツダムの危機を救ったこと・・・。そして、四十五年後の異変の予知まで、こと細かに記されていた。
 驚嘆したところで、だれに告げることもままならない。託されたのは自分なのだ。
 大滝河川行方不明の報が届くと、真尾婦人はその衝撃で力を失い、急速に病魔に犯された。患うこと一〇年。長い病床生活の後、かつての美しさを残したままこの世を去った。真尾婦人は遺言状で、十二歳の玉湖の後見人に亀毛老人を指名していた。もともと彼は大滝家の遠縁。佐伯家からは若干の不満はでたが、声高には反対しなかった。
 むしろ、三十二歳のもう青年とは呼べない男と、少女から娘へと生まれ変わる女がひとつ屋根で棲むことに、抵抗の声が上がった。真尾の実家である佐伯家からの申し入れで、真尾婦人の母親、つまり、玉湖の祖母が一緒に住むようになった。
 玉湖は抜けるような白い肌をもち、幼虫がきらびやかな衣裳を身につけたアゲハチョウに変身するように美しく成長していた。亀毛老人とて心を動かされぬはずがない。
 だが、知っていたのだ。玉湖は佐伯家の、真尾の甥である正一郎と結ばれることを・・・。いとこ同士の婚姻であるが、こうした関係を大滝家と佐伯家は永年つづけてきていたのだ。本人たちが知らない正当な血を守る手段として・・・。
 そのことを大滝河川の日記で、亀毛老人はすでに知っていた。
 大滝玉湖は二十七で佐伯正一郎と結ばれた。そして、予言通り二人の男の子を生んでのち、母と同じように夭折した。正一郎の弟の豪二郎が二人を無理やり育成すると連れていったが、結局はソリが合わず戻ってきた。
 そして、空も海も十五歳で大滝嶽へ向かったのだ。
 ・・・千年もの長きに亘り醸成され、鬱積した宿痾ともいうべき怨念が、日本を滅ぼそうと暗躍しはじめている。それを救うのは、正統な真実密教を受け継いだ空と海だ。大滝嶽で修行に励んでいる海を思って、亀毛先生は肩に力を入れた。
 そのとき、玄関チャイムが鳴った。

    5

 その頃、空と麻衣は国立競技場にいた。
 抜けるように碧い上空に、綿飴のような空が浮かんでいる。異常気象は落ち着きを見せ、東京は平穏な天気がつづいていたし、大滝家へも妙な侵入者はあれ以来訪れていない。
 やってくるのは、相変わらず口達者な佐伯麻衣くらいのものだ。今日は空の誘いに乗ってラグビーの大学選手権を見にきていた。
 カードは早稲田大学と明治大学。
 六万以上入るスタンドは超満員で、蟻の這い出る隙間もない。運よく手に入れられたのは、B指定。バックスタンドの上段の席だ。
「ここは選手の動きがよく見える上等席だよ」
「でも、選手の顔が見えない!」
 広いグラウンドに、選手が蟻つぶぐらいにしか見えない。テレビのほうがよほど近く、選手の表情もはっきりと見えるのにわざわざ寒風吹き荒ぶ中で見なくちゃならないい理由が麻衣にはイマイチ理解できない。
「いけいけいけ!!」
 握り拳を振って、空はすっかり興奮状態だ。
「すっかりイケイケ兄さんになって、力入ってますね、空ったら」
 麻衣の関心は、グラウンドのゲームより周囲の風景に向けらていた。新宿西口の高層ビル群が、手を延ばせば届くみたいに錯覚してしまう。巨大な波の頂きに乗ったまま、ぐわんと押し上げられたような、浮遊感がある。
「見て見て、空! ほら、あれ」
 肩を揺すって右手を見るよう促す。面倒そうな皺を額に集めて空が振り向くと、広告塔代わりの飛行船が二台、ゆっくりと空中散歩していた。
「あの上から見たらサイコーだろね」
「ゲームを見にきたのかい? それとも飛行船かい?」
 そういうと空は、試合に目を戻してしまった。
「あたしね、最近空飛ぶ夢見るんだな、結構」
 旋回する度に飛行船は楕円から円に、そしてまた楕円へと戻っていく。
「一昨日のは、夜間飛行でね。一気に上昇すると雲の上に出て、ゆっくり蛇行運転したんだ。光がきれいでさ。きらきら光って瞬いてんの」
「それで、墜落しなかったのかい」
「意地悪ね」
 言って口を尖らせる。
 結局ゲームは早稲田が接戦をものにした。
 帰りはすっかり葉のなくなった銀杏並木から青山墓地をぬけて、墓地下から星条旗通り沿いに六本木に出て、お蕎麦屋さんに入った。そこで大きな海老の入った天ぷら蕎麦を食べてから、地下鉄で東池袋に出た。もちろん、マーキュリーへ寄るためだ。
 そのときすでに、影が、雑司ヶ谷周辺に目を光らせているのを、空は感じとっていた。

    6

「おやおや、これは珍しい。豪二郎さまではありませんか。正月早々どうなさいました?」 亀毛老人が、ついぞ西ヶ原に足を向けることのなかった佐伯豪二郎に正直なところをいったまでだが、相手はそうは取らなかった。嫌味にしか聞こえなかった。
「それは来てはマズイという意味か?」
 そういいながら豪二郎はさっさと上が込み、亀毛老人を尻目に廊下を進んで行く。しかし、随分と久し振りなので勝手が分からず、途中で立ち止まって亀毛老人を振り返る。
「右手が応接です」
 礼もいわずにずけずけと扉を開けて入り込んだ。救い様なし、という表情で亀毛老人も応接に入って行き、気短そうに外国煙草をふかしている豪二郎の前に腰を降ろすした。
「麻衣が時々邪魔しているそうじゃないか。迷惑か?」
 神経質そうな目が、フレームレスの眼鏡の奥で、値踏みするようにキョロキョロと室内を舐め回す。
「めっそうもない。男所帯に花が咲いたようで、みな歓迎しています」
「そうか。今日も来ているはずだが・・・」
「国立競技場に、空坊っちゃんとでかけました」
「サッカーか?」
「いえ、ラグビーです」
「なんだ、いまの流行りはサッカーだろう」
 怪訝な顔で灰皿を探す。もう灰が落ちそうになっている。亀毛老人は、あわてて食堂から有り合わせの皿をもってきて灰皿代わりに差し出した。豪二郎は煙草の火を揉み消すと、腰を深くして座り直し、肘掛けを強く握った。
「単刀直入にいおう」
 目は、テーブルの上に向けられたままだ。
「邪魔せんでくれ」
「邪魔といいますと?」怪訝な顔で豪二郎に訊いた。
「さるところで、龍を見た」
 動物園で象を見たとでもいうような口調だ。しかし、亀毛老人は龍と聞いて心臓が止まるほど驚いた。じゃがいもの窪みの奥で、警戒の光が強まった。
「信じるも信じないも、龍を見たんだ」
 亀毛老人は動揺を抑えるのに必死だった。
「あちこちで異常気象が起こっているだろう? 雨がひと月も降らんとか、水道が出なくなったとか、水源地の水位が異常に下がったとか。夏ならわかるが、この冬におかしいと思っていたが、あれは、水神である龍が捕えられて、治水が狂ったせいだ」
「合理主義の豪二郎さんらしからぬ発言じゃな」
 亀毛老人は、とぼけていう。
「あれを見ては、信じないわけにはいかない」
「どこで水神をご覧に?」
 そう訊いてくると思った、というしたり顔で、亀毛老人を上目遣いに見た。腹に一物あり、の目つきだ。
「邪魔せんでくれ」
「ですから、何をですか?」
「こっちも命がけなんだ。プロジェクトの成否は、龍をバンドーン共和国に貸し出せるかどうかにかかっているのだ。だから、手を引いて欲しい」
 亀毛老人の頭の中で、先日の侵入者たちと大滝河川の思い出がひとつに結ばれて、裏の様子がわずかながら垣間見えた気がした。
「それでは、先日の侵入者たちはあなたが遣わしたのですか?」
「侵入者? 何のことだ!?」
 二本目の煙草に火をつけるのを忘れ、手で弄びながら不審な顔をする。
「特種部隊の装備を身につけたアラブ人たちが五人、夜中に入り込んだのです」
「どこに?」
「この屋敷にです」
「何のために?」
「分かりません」
「それで、どうした?」
「一人は逃げました」
「あとは?」
「・・・・・・・・・・・・」
「まさか・・・」
 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。信じられないものでも見るように、亀毛老人を凝視する。
 本当にアラブ人たちのことは知らないようだ。
「攻撃してきたのは向こうです。身を守らなければなりません」
「・・・そ、そんなことがこの民主国家日本で・・・・・・が、外交問題ではないか・・・」
 顔が青褪め、声が震えている。
「それで、始末はどうしたんだ」
「龍に運び去らせ、水死ということにしました」
「貴様・・・やっぱり・・・」声が裏返る。「水神を操る術を使う呪師だというのは、本当のことなのか・・・」
 豪二郎が誤解していることを亀毛老人は知った。亀毛老人が請雨術の使い手と勘違いしているらしい。だが、ここで真実を話す必要はさらさらない。つまらぬ誤解と、妙な関心を膨らませるだけだ。
「しかし・・・アラブ人たちを送り込んだのが豪二郎さまではないとすると・・・?」
 独り言のようにいうと、豪二郎が反応した。
「あいつだ!」
 豪二郎の、腹の中にしまっておくことのできない性質が、思わず口をついていわせた。 ふっ、と亀毛老人が目を豪二郎に向ける。儒教に堪能で、道教をかじり、真言密教の秘儀、法力を獲得した超人を三代にわたって見つづけた亀毛老人。ちょっとした術は駆使できる。侵入者を独鈷杵で倒したのも、そのひとつ。そして、いまは催眠法で豪二郎の気をコントロールして、知っていることを吐露させようとした。単純で信じやすい人物ほど催眠術にかかりやすい。その意味では、豪二郎はうってつけだった。
 一時間後、本来の目的をうやむやにしたまま、そのくせ心の中はスッキリさせた豪二郎が「また来る」といいのこして、西ヶ原を辞していった。
 亀毛老人の心の中は、スッキリどころではない。とてつもない相手が背後にいることを知ったのだ。
 西寺守敏。
 長谷部一曜。
 ハッサム大使。
 狙いは、龍だけか?

    7

 マーキュリーのドアを開けると、すべての席は、そのスジの顔だちの男たちで埋めつくされていた。黒い上下の背広に白いネクタイ、投げ出された足には白黒コンビの靴。親指と人差し指で煙草をつまみ、小馬鹿にしたようなへらへら笑いを店内に充満させている。 マーキュリーは一〇席のカウンターと四人がけのテーブルが三つの狭い店だ。そこに二〇人以上の男たちがいるのだ。ムッとしないはずがない。
 しかし、どうしてこの手の連中は一様に同じような顔をしているのだろう? パンチパーマに剃り込みに爬虫類のような目。個性というものがないのだろうか? 奥で、漆原和彦が舌舐ずりしていた。
『オヤジが敵をとるからな』と捨て台詞を残していたが、右翼団体国防桜会がもう乗り出してきた。いや、和彦が新年早々いいがかりをつけてきたのは、前哨戦だったのだろう。葉子さんが、去年から和彦が二人をつけ回していたといっていたし・・・。
 やれやれ。葉子さんにとんだ迷惑をかけてしまったな、と彼女を探すと、店内を乗っとられたとはいえ毅然としてカウンターの中から力強い視線を送ってきた。
「おう、オバハン! まずいコーヒーのおかわりだ!」
「俺はアイスティーがいいなあ、寒いから」
「おいらはブルマーが舐めてえよ」
「四葉女学館のネーチャンのパンティを漬け込んだコーヒーが飲みてー」
「Dカップのブラジャーにホットミルクを入れてこい!」
 言いたい放題だ。
 二人が中へ入ろうとすると、恫喝するような声が轟いた。
「満員だぜ、お客さん!」
 逡巡して空の足が止まった。
「せっかく来たんだ。席を詰めてやれ」
 奥からドスの効いた声が響いてきた。ひどく浅黒い顔に、後始末の悪かったニキビの後。埴輪みたいな楕円で虚ろな目が、和彦の父親であることを如実に証明していた。口端を吊り上げ、嫌味な皺を頬に波紋状に広げている。
「息子が世話になったな。礼に来たぜ」
 幹部らしく高級なスーツに身を包み、オールバックに固めた油がてらてら照明を反射させた。が、いかんせん身長が空に一〇センチは足りない。もっとも、十七歳で百八〇センチもあるほうが珍しいのだが。
 空は、背後の麻衣に後ろ手でカウンターに入るよう促す。
「お嬢さんは、そこでご観賞って寸法かい?」漆原が皮肉っぽくいう。
「みなさんが痛めつけられるのをね」
 麻衣がしれっという。漆原の頬がピクリと引きつる。
「口だけは達者だな。後で吠え面かくなよ」
「その言葉は、そっくりそのままお返しさせていただくわ」
 つん、と顎を尖らせて、侮蔑の目光線を半開きの瞼から放った。故意に逆上させるようなものだが、その方が空もやりやすいことを知っている。自分から攻撃することを、空はあまり好まないのだ。
 舌戦にイラついたテーブル席の男が、空の足を払おうとした。気配で承知していた空が、ピョンと跳ねる。男の足は目的を失って、カウンターのスツールを蹴飛ばす。スツールに座っていた仲間が後頭部から転落した。蹴飛ばした男もバランスを失って椅子から転げ落ちる。ドタバタと派手な音が響いた。
「あら、仲間割れかしら? 連立政権みたいね」
 隣で葉子が肘で小突くが、意に介しない。麻衣は逆撫でするような言葉を重ねた。
「しょせんチンピラの寄せ集めね」
 これには国防桜会のメンバーもいきり立った。
「なにい!」
 ほとんど全員が殺気立ってテーブルに手をついて立ち上がった。その瞬間、とんでもないことが起きた。
 テーブルやカウンターにあったコップというコップ、カップというカップから水やコーヒーが勢いよく一斉に飛び出したのだ。まるで噴水のように。液体は狙い済ましたかのように、目に向かった。
「ギャッ!」
「うっ!」
 意表を突かれ、混乱が店内に充満した。ある者は視野と平衡感覚を失ってスツールから転げ落ちた。まだ熱いコーヒーを目に浴びて、目を覆っている気の毒な者もいた。目と鼻に水が入って溺れたようにゴホゴホと噎せている者がいる。
 とにかく、全員がお先真っ暗状態。背を丸めてよろよろと、テーブルの端を手すり代わりに覚束ない足元だ。
 葉子さんはびっくり顔で、「どうしたの?」という目で麻衣を見た。麻衣はクスクス笑い、成り行きにご満悦だ。
 ようやく視界を取り戻した何人かが、空を、滲む視野の中に認めて、足取りも重く向かっていった。
「このガキぃ!」
 怒鳴り声だけは勇ましく、入り口近くに猪突猛進。しかし、空は軽く身をかわすと、ドアを開け、尻をドンと蹴飛ばす。男たちは次々と店の外に送り出されていった。あらかたってくる始末すると、自分も外へ。と、猛者が一〇人近く目をしばたいている。
「卑怯な手を使いやがって、糞ガキ!」
 と吠えるヤクザもちょっと情けない。
「不意を突いて先手必勝。これ、ヤクザの専売特許じゃないですか? 喧嘩にきれいも汚いもないでしょう」
「るせー!」
「で、あとは逃げる」
 と言い置くと、空はもの凄い早さで路地を疾駆した。
「お、お、おい待てこのガキ!」
 慌てて黒い背広にパンチ頭の一団が追う。暴力団マラソン大会状態だ。店内に残っていた連中も合流して末尾につく。全員ハアハア息を枯らして額に汗。気がつけば雑司ヶ谷墓地の中に迷い込んでいた。いや、空が墓地に誘導したのだ。店内の乱闘を避けて、調度品や葉子さんの絵や内装を守ったのだ。先は、空の作戦勝ちだった。

     8

 墓地はだれも足を踏み入れてないせいか、正月の雪があちこちに固まって残っていた。 ザクッ! ザクッ!
 荒いかき氷のような雪を蹴散らして、国防桜会の兵隊たちが群がり、空を取り囲んだ。空は上唇に舌を当て、目を左右にゆっくりと動かす。二〇人以上の大人たちを相手に乱闘・・・というのは初めてだったが、恐怖心はなかった。この二年間、自分のパワーが次第に開発され、コントロールできるようになっているのを自覚していたからだ。
 先夜のバンドーン人たちを落ち着いて処理したことが、自信になってもいた。
 抜き身の日本刀や木刀、ドス、エアガンなどで武装している男たちが、じわりじわりと輪を縮めてくる。獲物を追いつめた群狼が、祝祭の血をちょっと伸ばしにして楽しむように、一様にへらへら笑いを浮かべている。舌なめずりが聞こえてきそうだ。
「こんな小僧ひとり、オレにまかせろ」中の一人が仲間を制していった。「飛び道具なんか要らん」
 そして空に鋭いガンを飛ばした。肩から首にかけての筋肉が異様に隆起して、太い首をがっしりと支えている。厚い胸板は、プロレスラーのようだ。トレーニングジムで鍛えた肉体なのだろう。体力に自信ありのムキムキマンというところだ。
「さっきは油断したがな、こんどはそうはいかねえぞ、兄ちゃん」
 ザックザックと雪を踏みつぶしながら、空に近寄って来る。
「こいつが、このひょろっとしたガキが大変なやつだと?」ニンジンほどもある太く節くれ立った中指を空に向けて突き立て、仲間に向かっていう。「試してみようじゃねえか。どれくらい強いか」
 そういってファイティングポーズをとった。ボクシングジムにも通っているようだ。左からジャブを、いかがかな、といった程度の勢いで繰り出してくる。
 空は首だけを、ひょいっ、と避ける。
「なかなか運動神経が発達してるようだな、兄ちゃん」
 感心したようにいうと、白い歯の間から舌の先を出して、上下の唇を一どきに湿らせた。 ジャブが次第に早くなってくる。それを空は俊敏に避ける。決して後ずさりもせず・・・。ひらりくにゃりとムキムキマンの繰り出される拳を避けていく。
 ムキムキマンの顔に苛立ちが浮かびはじめた。こんなはずじゃない? なんだ、こいつは? 焦りの色が濃くなってきた。こめかみには血管が浮きだし、首のスジがつまんで引っ張ったように張り出した。腕の振りが次第に大きくなり、空を切る音が唸りはじめた。 空は、ちょっと反り返ったり、ひょいと足を滑らせたりするだけで、鋭いパンチをスレスレのところでかわしていく。拳が通過したあとで長くストレートな髪がふわりと舞うほど、微妙な避け方だ。
「野郎! そのにやけた面を二度と見られねえようにしてやる!」
 ムキムキマンの苛立ちは頂点に達した。ずるずると空が後退していく。なんとか鉄拳を命中させたい、そればかりに神経が集中していた。やっきになって繰り出すパンチは虚しく空振りしていく・・・。しかし、ムキムキマンは光明を見出だしていた。空の背後には巨大な慰霊碑が建っていて、後がない。追い詰めれば勝算あり、と踏んだ。
 空は慰霊碑に背中をつけた。
「もう逃げられんぞ。その面ぁ潰してやる!」ムキムキマンは狙いを定め「うぉぉぉ!!」という叫びとともに、全体重をのせて拳を叩きつけた。
 ぐしゃ・・・鈍い音がした。
 男の拳が手首まで石碑にめり込んでいた。まるで潰れたトマトのようだ。手首から先はハンマーで丁寧に叩いたような複雑骨折。肘と肩は脱臼し、靭帯はものの見事に切断。しかも、腕の筋肉と腱は断裂し、手が力なくだらりとずり落ちた。
 男は劇痛とショックのあまり気絶してしまった。

    9

 拳が顔に届く一瞬前まで引きつけて、瞬間的に横に移動しただけのことだ。その程度は朝飯前。
 仲間の凄惨な姿に呆気にとられているスキに、空は他の連中の武器弾薬をアッという間に掠め取り、片隅に棄てた。動揺がとけて、連中が空に向かって来た。刀剣を握ったつもりで握り拳を上段やらに構えてきて、空の手前で叩き切る恰好をするが、手に抜き身がないのに気づいて「アレ?」という表情になる。
「馬鹿野郎! なにモタモタしてやがる!」
 あとから追いついた和彦の父、漆原秀男が手下にハッパをかけた。ひとりは自滅して気絶、残りも武器をなくしてアホ面を陳列している。ここはひとつ、幹部である自分が見本を示さねばならない。埴輪目の奥に鈍い光が灯った。
 人の命など屁とも思っていない野獣の目だ。横に息子がピタリとついている。こういう親に育てられたら、子供も染まってしまうのは当然のことかも知れない。それはさておき、漆原の修羅場の潜り方が子分たちと違うのが空にも十分わかった。
 臭いのだ。死臭と腐敗臭と血の臭いがした。
 密教に熟達すると、嗅覚が鋭くなる。初対面でも、その人となり、背景が臭いで感じ取れるのだ。西寺守敏が豪二郎から大滝家とのつながりを臭いで感じとったように・・・。
 ゆっくりと、漆原は胸からベレッタを取り出した。
「墓場は死ぬには恰好の場所だ」
 蚊でもつぶすように無感情にいう。伸ばした腕が空に向かい、指がトリガーにかかった。 空の右手が素早く胸の独鈷杵に向かった。
 熱い!?
 いままで感じたことのない反応が独鈷杵からつたわってきた。触れただけで充実した力強さが満身に送り込まれ、意識までが高揚した。霊波が空の全身を包み、耳の奥に声を響かせた。
<兄貴!>
(海?)
 銃声が響くのと、独鈷杵が空を切るのと、ほぼ同時だった。独鈷杵は、凍りついた空気を引き裂き、銃弾を弾き返した。そして、そのままベレッタ跳ね飛ばし、背後の墓石に先端を食い込ませて止まった。弾かれた銃弾は、まるで狙ったかのように漆原の掌を貫通して、墓地の奥に消えた。
(また俺は成長している?)
 気を集中したときの空の動態視力は、並大抵ではない。しかし、その動態視力がいままで以上に向上していた。銃弾がスローモーションにしか見えない。真言密教の修行の奥義が骨の髄まで染み込んだようで、洗練された自分の行動力に驚いたほどだ。
 銃など空の敵ではない。
 自信に漲る空の脳裏に、海の姿が光のように点滅していた。
 一方、漆原は判断停止状態だった。
 狙った、撃った・・・だがいま手にはベレッタがない!? あろうことか、鮮血が迸っている。掌を返して、すっぽりと開いた穴を、漆原は信じられないという目付きで見つめていた。血が吹き出している穴の下に、地面の雪が見える。その雪がどんどん紅く染まっていく。
「アニキ!」
 心配そうな声がかかる。手下の連中は踵を返すと憎々しげな顔を空に向け、一斉に空に襲いかかった。
 繰り出すパンチは軽く避け、つかみかかろうとした者をはたき込み、ちょいと軸足を蹴たぐるとズボッと顔を雪中にめり込ませた。空の省エネ攻撃は、ツボにピタリと嵌まる。眉間、首筋、鳩尾・・・どこも軽い一撃で大の大人が悶絶してしまった。
 辺りは死屍累々である。もっとも、本当に息の根が止まっていることはないが。自信過剰がもたらした、国防桜会の一方的な敗戦だった。
 空はゆっくりと何もなかったかのように歩いて、独鈷杵の刺さった墓石に近づいた。
 引き抜こうとする手の内部からほんのりと明りが灯るように色を浮かんだ。
 振り返って、独鈷杵をもった手を辺りに散らばる連中に向ける。そのまま先端を一人ひとりに向けていく。もう、だれも襲ってこようなどという志をもっているものはいなかった。金縛りにあったように、身動ぎもしない。
「子供のケンカに親がしゃしゃりでるなんて、みっともないじゃないですか。それも、大の大人が大挙して。おい、和彦」
 呼ばれて漆原和彦は一〇センチ以上は跳ね上がった。
「正々堂々と一体一でこんどやろうか?」
 和彦は、首を小刻みに、震えたようにして振った。

第五章 虎穴に入らずんば・・・

    1

 保守党衆議院議員で防衛庁長官を二期連続して務める北見肇は、衆議院会館の自室で、モニターに映し出されたビデオ映像に、食い入るように見入っていた。傍らのソファには、陸上自衛隊陸上幕僚長の堀場良作が満足そうな笑みを浮かべて北見の顔をうかがっている。 もうすぐ七〇に手が届こうというのに、皮膚には艶があり、頭髪も黒々として豊富にある。引き締まった体躯にはわずかばかりの贅肉がついているだけで、政治家といわれて連想するような豊満な肉体ではない。
「見事だ!」
「ありがとうございます。ミッションのスタッフにつたえておきます」
「なにをいっておるんだ? わしが見事だといったのは、この大滝空という少年の能力のことだ!」
 とんだ勘違いで恥をかいてしまった。堀場は、寛ぐどころではない。緊張して畏まった。せっかく雑司ヶ谷墓地での乱闘を、遠くからながら撮影したビデオを持参したというのに、大ボケだ。
 森末三佐が指揮するミッションは大滝空と海の兄弟を追うユニットと、周辺の動態を監視する幾つかのユニットで構成されていた。マーキュリーという喫茶店も、ユニットの一つの監視対象のひとつだったのだ。正月二日の池袋の雪の乱闘は、カメラに納められなかった。しかし、今回は大滝家への侵入者たちを捉えたときほどではないが、白昼の乱闘を何とかキャッチできたのだ。
 北見防衛庁長官は、自分らの苦労などこれっぽっちも理解しておらぬ。陸上自衛隊陸上幕僚長という職にありながら、直々の依頼だから探索してはいるものの、感謝の言葉のひとつぐらいかけたっていいではないか。
 畏まりながらも、腹の底でむらむらと不愉快な思いが滾っていた。
「どう思う?」
「実戦に十分に使えると思われます」
 北見は腕組みをして、口を尖らせた。
 北見防衛庁長官の依頼は、超能力者の研究調査ということだった。戦力としての人材の確保という意味の言葉は、使われていなかった。だが、防衛庁長官が直接監視を依頼したからには、それなりの含みがあってのことに違いない。堀場はそう考えて「実戦」という言葉を使った。何しろこれは、とんでもない兵器になりうるのだから。
「そうではない。なぜ襲われたのかということだ」
 北見がカエルのように飛び出た目を剥いて、ギロリと堀場を見た。矍鑠とした動きと物言いに堀場は畏怖を覚えた。保守党派閥の幹部として二〇年近く。参議院から衆議院に転身したこともあって当選回数こそ少ないが、防衛庁長官を歴任しており、党内での発言力は党幹事長以上とも噂されている。
「あの力を欲しがっているものが他にもいると・・・」
「それだけではない」
「と申されますと?」
「畏怖している者がいるということだ」
「恐れる・・・? いったい誰が?」
「背後を探る必要があるな」
 北見はそれだけいうと、ビデオのリモコンのスイッチを切った。
 いったいこの老人は大滝兄弟について何を知っているのだろうか? いままでずっと抱いてきた疑念が、堀場の腹の奥底で鎌首を持ち上げてきた。
「長官・・・彼らを日本の国益のために役立てる意思はおありなのですか? 得難い財産です。彼らの力を持ってすれば、日本は世界のリーダーとなって一層の経済発展と平和を享受することができるはずです。彼らをとらえて、ともに行動するようマインドコントロールすることも可能ですが・・・」
 煮え切らない北見に、腹蔵なく思いのたけをぶつけた。
 北見は堀場の質問に応えず、射すくめるようにいった。
「背後を探るのだ。だれが糸を引いているのか、それを早急に!」
 堀場には返す言葉が見つからなかった。この老人は彼らの使い方を知らない。彼らの価値を理解していない。彼らを監視しろといったのは北見防衛庁長官だ。にも拘らず、宝の持ち腐れではないか。
 真意を図り兼ねて、言葉が出なかった。

    2

 憤懣やるかたない渋顔が、張り出た庇のような額の下でわなわなと震えていた。
 国防桜会の中でも剛の者といわれた連中を集め送り込んだにも拘らず、ひとたまりもなく少年一人にしてやられたのだ。西寺守敏に会わす顔がない。それどころではない。守敏の秘密を知っている唯一の男としては、命さえ危ない。
「守敏のやつめ、人を使うだけ使って、見殺しにする気か?」
 長谷部一曜は、歯がみして過去を憂えた。
 バンドーンで河川を見殺しにし、自らは慌ただしい帰国の途次で、金目の物をもてるだけもって逃げるようにしていまや政界のドンとなった北見肇ともに帰国した。
 北見はその財を元に政界に売って出た。
 一方、長谷部は、戦後の経済統制期に有り余る資金で物資を買い込んで横流し。その利鞘を大量に溜め込んだ。経済界と密接なパイプを形成し、闇の将軍とまでいい称されるまでになっていた。
 その長谷部のもとに、あの女が現れたのは数年前のことだ。

 長谷部邸は、かつての大名の下屋敷を買い取ってつくりなおしたものだ。隅田川にほど近い江東区にあるのだが、清洌な湧き水がいまでも潤沢にこんこんと流れだし、飲料水にも利用しているほど水質はよい。
 その水を使った回遊式の庭園があり、小さいながらも池があった。
 その湖畔・・・といっても、一周するのに一分もかからない小さな池なのだが・・・に佇んで透明度の高い水を眺めていると、我が身の悪業がわずかでも洗い流されていくようで、心が安らぐのだった。
 その日も、一曜は湖畔にしつらえてある東屋で、ひとり時を過ごしていた。
 秋の気配が次第に濃厚となり、立ち木も色付いてきている。季節の移ろいを眺めているのが、長谷部一曜は好きだった。
 人なみ外れた野心と独占欲と傲慢さを身につけてはいたが、ときに寂寥感を覚えることもあった。この一曜も人の子かと、思わずタメ息をつく。屈強な憂国の志士たちに四六時中囲まれていると、人恋しくなるときがあるものなのだ。家族をもたない生き方を選んだのは、自分自身だったはずなのだが・・・。
「旦那様・・・」
 背後からの声に、一曜は震えるほどの優しさを感じとった。振り向くと、清楚な面立ちの、少女とも娘とも婦人ともつかぬ女が、薄紅色の着物姿で佇んでいる。
 手には、茶を立てた盆を持っている。口に差した紅が、燃えるように浮き立っていた。 このような美女は、いまだかつて見たことがなかった。家の賄いにでも最近入ったのか。それにしても、言葉では言い表せない輝きを全身から発していた。無防備を承知で、一曜は東屋の中に招き入れた。年甲斐もなく、純な気持ちが心の底から湧上がってくるのを抑えることができなかったのだ。
「座りなさい」
「・・・よろしいのですか?」
 ためらいがちな口調に、なんともいえない奥ゆかしさがあった。
「わしがよいといっているのだ。誰に気兼ねがいるものか」
 だが、まだ辺りを憚っている。
 当然のことだ。この屋敷には一曜に危害を加えるものが侵入できないように、万全の措置を取っていたし、監視カメラもあちらこちらに配置してあった。警備のために園内を巡回している者たちも、武道や格闘技に熟達したものばかりだ。気兼ねするなという方がムリなのだ。
「座れといっているのだ」
 一曜は腰を浮かし、女に座るよう促した。そんなことは初めてだった。人に気配りをするなどと・・・。風呂に入っても賄いの女がカラダの隅々まで洗ってくれた。歯も磨かせた。小便も立っただけで後は誰かが面倒を見てくれた。
 そんな暮らしを数一〇年つづけてきた長谷部一曜が、いかに心を奪われたとはいえたかが一人の女性にここまでするとは・・・。
 見れば見るほど吸い込まれそうな美女だった。抱きかかえればそのまま脆くも壊れてしまいそうな脆弱さに、手を出すことさえ憚られる。そんな神秘さを漂わせている。
 自分をすっかり忘れてしまっていた。
 娘が伏し目がちの目を上げた。その目が、紅く暗く深く輝いている。
「おぬし!」
 娘の猟奇の目が、長谷部一曜を蠢惑の世界に引き摺り込んだ。その目は、はるか昔バンドーンで見たものと同じだった。
 それは、大滝河川が呼び出した、龍の目だった。

 長谷部一曜が庭の一角の土蔵に籠りはじめたのは、それから暫くしてからのことだ。
 毎日、欠かすことなく朝晩一人で中に入り、暫くすると幾分やつれた表情のまま出てくる。中に運び込まれたものは、大量の水銀とアルコールと防腐剤と栄養剤、ビタミン溶液、輸血用血液、点滴用のブドウ糖、抗生物質などだった。
 かつて、バンドーンに衛生医学の普及のために派遣されたことを知っている者はほとんどいなかった。だから、この奇行に一同は首を捻るばかりだったが、一曜は一切の質問を排除した。そればかりではない。土蔵に近寄ることさえ禁じた。
 奇行はまだつづいた。
 千代田区番町に、一千坪の敷地を買い求めたのだ。バブルが崩壊して地上げしたままの土地があったからとはいえ、これは天文学的数字の額だったと思われる。そして、その土地に、何とも異様な建物を造り上げた。
 全体の設計は、長谷部一曜が取り仕切り、すべての図面を見たものは、建設業者すらいないという不思議な建築だ。付近の住民も一体なにが出来るのか首を捻りながら傍観していた。
 一年の歳月を費やして完成したのは、総平屋建の宏壮な建物で、付近に立ち寄ってもその片鱗すら伺い知れない。なにしろ旧ソ連大使館も負けてしまうような、重厚で見上げるほどの壁に囲われていたのだ。近くの高層ビルからも、急いで植えられた立ち木に守られて、全貌が判然としない。
 人々は噂した。
 曰く、新興宗教。
 それが当たらずといえ、遠からずだったことは、その存在が次第に知られていくことで明らかになっていった。黒塗りのハイヤーが数多く出入りしはじめて、噂は噂を呼んで広まっていった。しかし、その素顔を暴こうとはしなかった。それを阻止したのが長谷部一曜の力だけではなく、出入りをはじめた面々の威力もあったことは確かだろう。
 西寺御殿。
 人々はいつしかそこを、そう称するようになった。屋敷の主が、吉凶占いと加持祈祷で名を馳せるようになった西寺守敏だということが漏れつたわっていったせいである。

    3

「散々ですよ」
 空は西ヶ原の家に戻ると、呆れ果てたように亀毛先生にいった。
「なんだい。二人で喧嘩でもしたっていうのかな?」
 危機を察知したのか、亀毛先生は眉間の皺を深くして、目尻を吊り上げた。
「学校に漆原っていうタチの悪い同級性がいるんですけれどね・・・」
「ああ、初詣での帰りに絡まれたとかいっておったの」
「捨て台詞で『オヤジが敵をとる』とかいっいたんですけど・・・それが本当になっちゃったんですよ」
「来たのか」
「来たなんてもんじゃないです」空が腕を一杯に広げた大仰な身振りをする。「二ダースはいました」
「ちょっと待て。確かその漆原の父親は、国防桜会の幹部だといっていたな」
「ええ、その通りです」
 亀毛先生は組んでいた腕をほぐして、親指と人差し指でごつごつした顎を摘んだあと、後ろで束ねた髪をいじり始めた。
 考え込むときも亀毛先生はそうするのが癖だ。
「実はな、めずらしく麻衣どのの父上が昼に来られた」
「どうした風の吹き回しで?」
「仕事とだといっていた」
「仕事なら、来たくない家にも足を向けるっていうことですか」
「背後に、やっかいな奴がいるようじゃ」
「誰ですか?」
「国防桜会の会頭、長谷部一曜」
「!」
「それに、バンドーン共和国のハッサムという大使」
「それじゃあ、あの夜の一件は・・・」亀毛先生は、大きくうなずいた。
「しかし、その背後にもっとやっかいな人物がいるようだ」
 上目遣いに、亀毛先生が空を見る。
「守敏」
 その響きには、驚愕の色が込められていた。
「西寺守敏・・・」
 文献でしか知らなかった名前が、いま亀毛先生の口から洩れた。それが聞き誤りでなければ、空と海にとって生まれながらの仇敵だといってよかった。
 大滝河川が弘法大師空海の啓示を受けて真言密教の悟りを開いたのも、将来生まれるであろう二人の男の子に、空と海と名づけるよう予告したのも、この難敵が甦ってくることの布石だった。千年の間に醸成された怨念が、あらゆる手段を費やして、空と海を抹殺すべく動きはじめたのだ。
 それを、空ははっきりと自覚していた。
「豪二郎さまは、仕事と出世という目先の利害に我を失っておられる。いいように利用されている。困ったお人だ」
 頭を抱える亀毛先生の肩が、背後からぽん! と叩かれた。
 振り返るが誰もいない。と、前から肩が叩かれる。首を戻すと、誰もいない。
 正面で空がにやにやと可笑しそうに口許を緩めている。
「空ぼっちゃん。この一大事にふざけるのはやめましょうや」
 苦り切った顔で、諫めるようにいう。しかし、空は首を横に振るだけだ。
「まさか・・・」
 亀毛先生の顔に、期待にあふれた笑みが浮かんできた。曙光を浴びて、生気を取り戻したかのようだ。
「ただいま帰りました」
 声といっしょに、ずた袋を下げた海が、すとん、と天井から降りてきた。全身、汗とホコリまみれで、まるでホームレスのようだ。
 だが、清々しい匂いがカラダの芯から滲み出ている。体重は五キロ以上痩せただろうか。もともと精悍な面構えに磨きがかかって、一段と引き締まっている。
 眼光が違っていた。
 たった五日ほどで、これほどまでに変わり得るものなのだろうか? と疑ってしまうほどだ。両手を両太ももにピタリとつけて、亀毛先生に深々と一礼した。
「あ、いや、ご苦労さまといったらいいのか、大変でござったでしょう・・・」
 突然の帰宅に、ドギマギしている亀毛先生が面白いのか、ニカッ、と相好を崩して空に振り向く。その笑みは、ちょっとお調子者で軽薄で自信過剰だった昔の海のままだ。だが、修行によって芯から変化していることを空は知っていた。かつて自分が体験したことだ。
「随分早かったな」感心したように空がいった。「促成栽培の悟りじゃあるまいな」
「失礼なこというなあ、兄貴。短期間で免許皆伝なんだから、飲み込みが早いとか凄いなとか、褒めてくれたっていいじゃないか」
「いや、さっきは助かったよ。あのときもう東京に戻っていたのか?」
「いや、鎌倉辺りをひた走りですぜ」
「そんなところから・・・」
 空は、舌を巻くというより、呆れてしまっている。
「な、何のことですかな?」
 話しが理解できずに、亀毛先生が二人の顔を交互に見る。
「さっき話した漆原のオヤジとのときのことです。銃を向けられたものですから、独鈷杵で叩き落とそうとしたんです。で、握って投げようとしたら感じたんです。いままでなかったような力強さを・・・。海の声がかすかに聞こえて、いままでだったら銃を狙うのが精一杯。でも、あのときは、銃弾まではっきりと見えたんです。だから、その銃弾を狙ってなげたら・・・」
「見事命中ですか?」
 大きく空がうなずく。
「動態視力が一気に上がって、動きも早くなって・・・。きっとこれは海が<気>を強い霊波に乗せて送ってきているなってっ感じたんですけれど、まさか鎌倉くんだりからとは・・・」 大したものだ、というように海を見て、首を小刻みに振った。
「兄貴の危険を感じてさ。ちょっと気を集めて送ったのさ。もっとも、走りながらじゃムリだったから立ち止まってだけどね。その分、帰ってくるのが遅れちまったい」
 鼻の下を人差し指で擦るように、ちょっと自慢化にいう。
 気が合う・・・っていっても、そんじょそこいらの人間の「気が合う」のとは、訳もレベルも段違い。いわゆるテレパシーというやつで、しかも、兄弟の<気>は一緒になってパワーを強大にすることができるらしい。海が大滝嶽で身に付けた真言密教が、兄弟の真の力を開化させたようだ。
「いつ、向こうを出たのだ?」
「昼ごろか・・・。鳴門を泳いで渡って、あとははひたすらの走りっぱなし。いや、疲れた」 そういって伸びをする。首を捻ると、ゴキゴキと骨が鳴った。
 亀毛先生と空は顔を見合わせて驚愕の表情だ。
「海ぼっちゃん。風呂にでも入られるがいい」亀毛先生が海を促す。
「うん。じっくり湯船につかって、たまった垢でも擦るとするよ」
 どっこらしょと膝に手を当てて立上がり、海は浴室へと消えた。
「僕は、修行に二週間。向こうから帰ってくるのに丸々一日かかった・・・」空が呆然としている。「海のやつ・・・凄い力をつけて帰ってきた」
「生まれながらの仇敵、守敏との争いに備えてのことでしょうかのう・・・」
 腕組みしながら、小首を傾げる亀毛先生を見ていた空が決心したようにいう。
「二度も攻撃されているんだ。こっちからも様子をうかがいに行ってきましょう。その、西寺御殿の守敏とやらに」
「そんな!飛んで火に入るなんとやらじゃ」
 目をしばたき、耳を疑るかのように首を強く何度か振る。
「大丈夫ですよ。いまの海がいれば、怖いものなんかひとつもない。海も賛成だといっています」
<兄貴となら、安心だ>
 そうメッセージが聞こえてきていた。
「しかし、海坊っちゃんはことの次第を・・・」
 亀毛先生が心配そうに空に詰め寄った。
「心配ありません。僕が知っていること、思っていることを、すべて海は感知しているはずです。<気>が、通じているんです」
 亀毛先生は、曇らせた顔を歪めた。手塩にかけた兄弟が、歴史の定めとはいえ宿敵と相見えるときがとうとうきてしまったのだ。

    4

 海はよく眠った。
 あまりの疲れで湯船の中でうとうとしてしまい、空に担ぎ上げられて、自室のベッドに入ったぐらいだった。辛く苦しく呻吟するような足掛け四日の修行が、フラッシュバックのようにキラキラと輝いては消えて行く。
 見えない波動に誘われるようにして険しい山路を這い登って見た小さな祠。谷底に吸い込まれるような恐ろしい場所だった。そのたてつけの悪い扉を開けて、中に入って中央に正座した。
 籠ってしばし・・・。
 東に向けて切り取られた小窓からは、漆黒の闇が侵入して来るだけだ。
 辺りは既に闇である。
 だが、ほんのりと柔らかな光が洩れている。ふと目をやると、ショルダーバッグがまるで中に電球でも仕込んであるかのようにほんのりと光っている。
 中を見ると、『虚空蔵菩薩求聞持法教』が、金の粉をふりまいたように、輝いているではないか。明るさは、周囲に飛び火した。
 周囲が明瞭に見える。木目までが一条一条浮き出るほどはっきりと網膜に飛び込んで来る。なんだか感覚がぴりぴりと研磨されていくような気がした。
 自分のすべきこと、それによって感化されるであろうことが、教えられなくとも海には体感できた。知らず知らずのうちに手が動き、カラダが反応していた。なんの違和感もなかった。
 金色に輝く『虚空蔵菩薩求聞持法教』をとりだして床に置く。途端にページが猛烈なスピードで勝手に捲られて行く。風など吹いていないのに・・・。
 アッという間に最後の頁まで繰られ、同じことが何度も繰り返されはじめる。
 次第に経文が海の脳にどんどん吸い込まれていった。文字がそのまま脳細胞に入り込み、超スピードでシャッフルされリピートされる感覚だ。
 連綿とつづく経文が、次第に文字は連結して意味をカタチづくりはじめる。意味の輪郭が、か細く弱々しくだが見えてくる。
 本来なら、虚空蔵菩薩の真言を一日に一万回、百日間唱えつづけることでその経典が理解でき、理解できるはずのものだ。
 それを海はスポンジのように急速に吸収していく。
 意味が、カラダに染みてきた。
 海が立ち上がる。手をかけることなく扉が勝手に開いた。祠の中では、もう一人の海が正座したまま瞑想している。
 自分が二人・・・。
 しかし、動揺も驚愕もしなかった。刮目して慰謝の眼差しを投げつけると、ゆっくりと漆黒の闇に足を踏み出した。
 霊魂が抜けたのか? 肉体が霊魂を残して動いているのか? 海は恐ろしい早さで山を駆け下りると海岸に向かった。
 中空に灼熱したかのように白く燃えている星が、ひとつ。ぽっかりと浮いているのが見えた。星は徐々にその白熱を灼熱に変えていった。
 星に導かれて海に出た。
 波だ。砂浜の、足を取られる感じが伝わって来る。
 刹那、星がはじけた。
 はじけた光は周囲に小さな円をいくつもいくつも描いた。夜空に浮かぶ曼荼羅絵模様だ。はじけた光のひとつが一直線に落下すると、海原に直撃する寸前に向きを変え、浜にいる海に向かって急速に接近して来た。
 ブゥオッ!
 光が海を掠めて岩肌に吸い込まれた。
 海は後を追う。波に洗われてトゲトゲになった岩肌が、足の裏に感じられた。洞窟があり、奥深くまでつづいている。入り口は暗いが、奥から煌煌とした光が招いている。
 海の心が急いた。
 洞窟の奥の巨大な空洞の中央に光源が浮いていた。昼間以上に明るい。明るすぎて、すべてが白色に見える程だ。
 光源は低周波のうなりを上げ、小刻みに動いていたが、狙い定めたかのように海の顔面を目指して加速をつけた。
<口を開け>
 耳の奥に、声が響いた。光は大きく開けた空の口腔の奥に消えた。
 同じころ、祠に篭った海は、体内に満ち足りた幸せを感じとっていた。この世のすべての謎が解き明かされ、解放感に満ちた思いだった。
 金色の小さな竜が、目前をたゆたっているのが見えた。ホログラフィの立体映像のようだが、錯覚ではなく実像に違いないと確信できた。
 自由にカラダをくねらせ、髭を靡かせている。鱗は虹色に輝き、オーラを発しているようだ。懐かしいものと邂逅したときのような、慈愛に満ちた出会いだった。だが、これは、過酷な修行のほんの手始めでしかなかった。
 それから丸三日間。
 並の神経では耐えられないだろう難行修行が待ち受けていたのだ・・・。

 海の夢を、空は感じとっていた。
 自分のときよりもハードな修行だったことは十分に理解できた。これに耐えられるというのは、海が相当の精神力と肉体を持っていることの証しだ。
 夢の中で意識を交換し合う兄弟・・・。
 二人でひとつの、一心同体だからこその現象なのだろうか? かつての自分の修行の毎日のことを思い返しながら、スペクタクル映画のような夢を、空は追体験していた。

    5

 ひと晩寝ると、海はケロリとした顔で朝食のテーブルに現れた。
 かつお節で丁寧にダシをとった味噌汁の具は、オーソドックスに豆腐。シャケの切り身に焼き海苔、自前の漬物がつく。
「これ食わねえと、パワー出ねえよ」
 食欲は旺盛だ。二杯、三杯とお代わりの丼を無造作に突き出す。それを、わが子のように愛しい目で見つめる亀毛先生。この兄弟は、並外れた力量をもち、弘法大師が天界から見守っていることも十分に承知していたが、心はやはり乱れていた。
 空と海が出かけたあとも、荒れた裏庭につきでたサンルームの古ぼけた籐椅子にカラダを埋めて、物思いに耽ってばかりだ。
「玉湖さま。とうとう、そのときがやってまいりましたぞ」
 密林のように入り組んだ庭も、いまは緑が失われて複雑な骨格標本のような有様になっている。目をつぶれば、日傘に着物姿の玉湖が浮かんでくる。
 よちよち歩きの空と、乳母車の中であどけない目をキョロキョロとさせている海がいた。 つい昨日のように思い起こされた。

 正月七日。
 久し振りの登校に、学園は賑わっていた。
「お前、どこ行ってた?」
「ハワイ」
「スゲー。資産家ぁ! うちなんか超ビンボー。温泉だけだぜ」
 冬休み中の旅の話やバイト苦労話、女の子を誘おうとしたけれど失敗した話など、あれやこれや。賑やかである。そんな会話に混じって、こんな話が空の耳に入ってきた。
「漆原くん、休学届け出したんだってぇ」
「うそ!」
「ほんとほんと」
「あんなでかい面してた癖にぃ」
「取り巻きも来てないのよ」
 正月の一件と、雑司ヶ谷墓地での乱闘は、とんだ副産物を生んでしまったらしい。いままで曙学園を裏で支配していた漆原が失踪して、仲間もそれに同調。一気に平和な世界を取り戻してしまったようだ。
 もっとも、サル山のボスの政権争いと同じで、第二、第三の政権を狙っているヤクザものが次はオレの出番と舌なめずりでもしているのだろうが・・・。
 始業式と担任教師の雑談のような話が終わると下校となった。
 マーキュリーに行くと、すでに海が末席を占めて、分厚いサンドイッチを頬張っている。
  「よく食うやつだなあ」
「これまでのこともあるし、これからのこともあるし・・・」
 そういって目を細めた。やんちゃなところは少しも変わっていない。
「ねえ、昨日の結末はどうなったの?」
 カウンターの中から葉子さんが好奇心一杯の声で聞いてきた。
「まずは、バジリコでもつくってもらいましょうかね」
 といって肩透かしを食らわせる。
「そういう風に焦らしたりすると、嫌われるわよ、女の子に」
 ちょっぴりムッとした口調だ。当然だろう。自分の店が修羅場になりかけたのだ。それもきっかけは空にある。経過報告ぐらいしておくのは当然のルールであり、礼儀だ。
 海が隅で肩をゆらせて笑いを堪えている。どういって説明したものか。空と海の超人的なパワーを口で説明するのは、困難な部類に属する話題だ。
 パスタがゆで上がるまでのあいだ、葉子さんがカウンターの向こうで頬杖をついて空に無言の圧力をかけてくる。
「被害は?」
 空が訊いた。
「コーヒー代二十五人分。占めて、一万二千五百円」
「うーむ」
 空は頭を抱えた。
「大丈夫よ。出がらしを煮出して色をつけただけのコーヒーだもの」
 そういって、唇の両端をキュッと吊り上げて笑みを送ってきた。
「結果をいうとね・・・」
 葉子さんの好奇に満ちた瞳が、くるくると輝きを増した。
「ひとりが右手複雑骨折。ひとりは掌に銃弾貫通創傷、残りは気絶的ダメージ」
「ピストルなんか撃ったの?」
 身を乗り出して聞いてくる。
「自分で自分を撃ったようなものです」
「あらまあ」
 緊張がゆるゆると溶けていく。
「あの漆原のオヤジって、有名な右翼団体の幹部なんですよ」
「天罰ってとこか。でも、みんな君ひとりでやっちゃったの?」
 コクンと空がうなずく。葉子さんは「あきれた」といってパスタを揚げに行った。
「そーゆーの、喋っちゃっていいの」
「黙っているわけにもいかないだろう。それに」
「それに?」
「葉子さんは、口外したりはしない」
 それには納得したように海もうなずく。
「で、いつごろ行く?」
「暗くなってからなんていうのは当たり前すぎる」
 了解、というように、海がサンドイッチを頬張りながらうなずいた。
「はーい、バジリコ大盛!」
 空の前に、たっぷりのパセリとアサリの剥き身が混ぜ込まれたスパゲティが、でん、と置かれた。
「なんか、イメージ湧きそうよ、いまの話で。店閉めて、制作活動に没入しちゃおうかしら」
 本気でそうするつもりだ。そそくさと店のドアを開けると、急いたように戻って来た。「準備中にしちゃった」
 舌の先をちらりと見せると、カウンターの中でスケッチブックにデッサンを描きはじめる。こういうことができるのも、片手間商売のいいところだ。しかし、準備中だろうがなんだろうが入ってくるやつはいるのである。
 麻衣だ。
「いたいた。やっぱりここだ」
 焦ったような声を挙げて飛び込んできた。
「ナイトが二人、それに女王様がそろったってわけだ」
 鉛筆を動かしながら、葉子さんがつぶやく。
 モスグリーンのブレザーにチェックのスカートの制服姿の麻衣は、空と海の間のカウンターに腰を降ろして、タメ息ひとつ。
 元気のないのがひと目でわかる。
「まいっちゃった」
「憂鬱を絵に描いたような声じゃない」
「さすが葉子さん。ゲージツ的表現だね」
「何かまずいことでもあったの?」
 空が不審顔で訊いた。
「父さんが・・・」
 いいだしかねているのがよく分かる。
「気にしないでいっちゃいな、しゃべっちゃいな、女王様」
 サンドイッチを頬張りながら、海が冷やかし半分にいう。
「・・・二人に関係あることなのよ。だから・・・」
「だったら、いっちゃいな。そこまでいって焦らす女は、男に嫌われるぜ」
 といいながら葉子さんの方をチラリ。
 口調を海に真似られたので、葉子さんがキッとした視線を投げ付ける。海が首を竦める。 ふーっ、と大きなタメ息をつくと、麻衣が話を切り出した。
「父さんがね、二人に会って欲しい人がいるっていうの。で、亀毛先生とは昨日話をしたけど埒が明かないから、直接空と海に話がしたいからって、あたしに・・・」
「仲を取り持てってか」
 コクンと海に向かってうなずく。
「妙な役回りを押し付けられたというわけだ」
 いいながら空は海と目で会話しはじめる。
<豪二郎オジキって、亀毛先生を龍を操る呪師と勘違いしてたんじゃなかった?>
<故意に勘違いさせられたとも考えられる。守敏が間違うはずがない>
<じゃあ・・・>
<豪二郎叔父の関心を亀毛先生に向けておいて、実は・・・>
<深謀遠慮ってやつか>
<うむ>
<でも急にオレたちを会わせたいだなんて、臭うなあ>
<豪二郎叔父の独断なのか、それとも、守敏からの指令なのか・・・それはわからない>
<でも・・・>
<乗ってみる価値はアリだな。潜入する苦労がなくなった>
<キマリ!>
「叔父さんはどこにいる?」
 空が麻衣にいう。
「会社だと思うけど・・・」
 どういうつもりなのか理解できずに不安な色を浮かべている。
「直接話す」
「じゃあ、ここに電話して。携帯電話だから必ずつかまる」
 空は葉子さんに断ってコードレスのプッシュホンを手にとると、麻衣が読み上げる電話番号を押した。短い会話が終わって受話器を置くと、空がだれにともなくいった。
「あの叔父さんが直々に迎えに来てくれるそうだ」
「へーっ、気味が悪いなあ。でも、何かありそうで、興奮しちゃうぜ、こりゃ」
 いいながら指の関節をポキポキと鳴らす。こんなときでもユトリをもっていられるのは、海の長所でもあり短所でもあるのだが・・・。怖じ気づいてしまうよりはマシだ、と空は思っている。
 それから二〇分後、黒塗りのハイヤーがマーキュリーの正面に横付けされた
 葉子さんは二人が車に乗り込み、護国寺方面に走り去るのを見送った。
「まったく。命知らずな連中なんだから・・・ね、麻衣ちゃん」
 振り返って同意を求めようとしたが、麻衣の姿がない。さっきまで店のカウンターで空とならんでホットミルクをゆっくり舐めるようにしていた筈だが・・・。
 ひょっとして亀毛先生にことの次第を告げにでもいったのかも知れない。葉子さんは球に肌寒くなってきたのを感じて、小走りに店内へ戻った。

    6

 豪二郎は車内でいつになく陽気だった。
「いや、君たちが素直にきてくれるといってくれたので感謝しているよ。ははははは、いつも麻衣が邪魔してすまんと思ってる、ははははは・・・」
 だらしなく顔を緩ませて、心ここにあらずといった様子である。
「麻衣ちゃんがウチにくるのって、家にいたくないからじゃないのかな」
 という海の皮肉もほとんど堪えない。
「これから会いにいくお方は日本でもっとも権威のある人だ。並のレベルの人間じゃ会うことなどできないぞ。そういう偉い人に会いに行くんだ」
「随分と嬉しそうですね」
「ことは、日本の経済と将来にかかわることだ。あの亀毛のじじいさえ邪魔だてしなければすべて問題なくことが運ぶのだ。そのためにも、君たちの力が欲しいとな、西寺守敏さまが連絡をよこされたのだ。麻衣に聞いたんだが、昨日も国防桜会の連中とやりあったっていうじゃないか」
 空の顔を心配そうな表情でのぞき込む。
「あんなことに巻き込まれるのも、亀毛老人の責任だぞ。あの老いぼれが日本の龍たちを呪術でかどわかして天変地異を引き起こしているのは間違いない。それを阻止するために西寺さまは、直々に私に配慮をくださったのだ。直々にだ。わかるか。西寺さまには、日本でも大臣クラスにならないと直に会えないんだぞ」
 後部座席の中央で、両脇に座った甥たちに交互に目配せする。
 そういうことか。空は、守敏の作戦だということがわかって、緊張度が高まるのを感じていた。
 ノー天気なオヤジだねえ。海は呆れ返って言葉もでない。両手を組んで頭の上にのせたまま舌を出した。あんたはわざわざ人質を手土産にバカ面していくんだぜ。それも、自分の会社の地位と名誉を守るためっていう、下らないことのために。
 あんたが見た龍は、自分たち兄弟を目覚めさせておびき出すための手段。千年も昔の恨みを晴らしに、現代に現れた妖怪なんだ。その妖怪は大滝河川を獄死させたうえ、日本の龍を奪いにきたバンドーン共和国の暗殺集団に力を貸している。
 世界が、いま日本の水神である龍たちを再びターゲットにしはじめたんだ。
 あの妖怪は、日本の水脈の守り神を海外へ売り払うことだってやりかねないんだぜ・・・。なーんて話してもムダだろうなあ。
<ムダだよ>
 空が当たりじゃないか、という返事をよこした。
 クルマは四ッ谷の駅を過ぎて、番町に入って行く。威圧的で長大な外壁に囲まれた西寺邸の正門は、重厚な鎧戸でがっちりとガードされていた。
 クルマのまま門の中に滑り込む。右手に監視カメラとインターホン。後部座席の窓がピッタリと接近するような仕組みになっていた。豪二郎は不貞腐れ顔の海に覆い被さるようにして、インターホンのスイッチを押す。
 監視カメラに向かって愛想笑いを送りながら要件を告げると、何度もカメラに会釈をする。その様子が滑稽で、空も海も笑いを堪えるのが精一杯だ。
 鎧戸の閂が外され、やっとクルマ一台分通れるだけの幅に開けられた。
 門の内部には、このあいだ雑司ヶ谷でお世話になった国防桜会のバッチをつけた、腕っ節の強そうな連中だった。
 クルマはそのまま玉砂利に挟まれた道を、ゆっくりと左にカーブしていく。
 京都二条城のような、美しいカーブの屋根の、宏壮な建築物が目に入ってくる。正面の車寄せで停車すると、屈強な男たちが数人待ち受けていた。
 男たちは、下車した三人のボディチェックを入念に行なった。しかも、シャープペンシルから小銭入れからキーホルダーから、すべての身の回りのものを預ける羽目になった。「西寺さまからのご命令ですので」
 重低音成分がたっぷりのだみ声で、男の一人がいった。
「ちゃんと返してくれよな」
「もちろん、間違いのないようにいたします」
「それって、間違いないように努力するっつー意味? それとも、絶対間違いないって保証付き? どっち?」
 海と男のやりとりを、豪二郎は困ったもんだという顔付きで見ていたが、痺れを切らしたように海の手を引き摺るように邸内に向かった。
 磨き込まれて艶の出はじめた長い廊下を、しずしずといった風情で通過して行く。コーナーには、小さな穴が穿たれていて、超小型監視カメラが埋め込まれていることを暗示している。
 そして、控えの間で待つことしばし。
 作務衣姿の眉目秀麗な若者が案内に現れた。ピクンと空の小鼻が動いた。海も、同じように臭いを感じた。
 案内の若者は、険しい目付きで兄弟を一瞥すると、無表情で謁見の間へと導いた。
 襖を開けると、二〇畳ほどの広間があり、正面に御簾が垂れ下がっている。
 室内が、臭った。
 強烈な臭気だった。防腐剤の臭いが充満していて、顔を背けたくなるほどだ。豪二郎も案内役も、臭いには慣れているのか、いやな顔ひとつしないで中へと入って行く。
 ここへ。という案内役の手招きで、豪二郎と海、空が一列に座した。
 豪二郎は端然として正座だが、二人の兄弟は胡座である。それを豪二郎は不愉快そうに見る。またそれが面白くて海などはわざと膝頭を忙しく動かしたりするのだが・・・。
「ご苦労」
 鼻にかかった、甲高い声が御簾の向こうから届いた。
「いえいえ、なんの苦労もなくここに侵入することができましたよ。二度も命を狙われて、そろそろお返しに参上しなければと思っていたところだったものですから」
 隣から豪二郎の肘がつんつんと突ついて来るのも意に介しないで空がいう。
「そうさな。若輩がこの砦に潜入するのはまだムリかも知れん。何といっても真言密教は修行が第一。素質があろうと、血の滲み出るような修行を繰り返し、あの世を垣間見るぐらいでなくては奥義は手中にできぬものよ」
 居丈高に、見下すようにいう。
「そうかねえ。大部スキだらけって感じがするけどなあ、この家」
 豪壮な金屏風や壮大な屏風画、きらびやかな天井の細工などをキョロキョロ見回しながら海がいう。
「なんか趣味も悪いしさあ・・・もうちょっとこうシンプルにできなかったの? 色彩感覚なんかサイテーだよ。光ものが好きっていうの、寿司屋ならいいけどさ。これって下世話な金ぴか趣味だよね。ほら、よく亀の剥製とか中国の細工もんなんか飾ってるヤツいるけど、あのレベルだよね」
 豪二郎はこれ以上いってくれるな、というように顔をしかめ、海を小突く。
「海くん、か。君の目は節穴らしい。この装飾がどんな意味をもつものか、どれほどの価値のあるものか知らんとは、よほどの幸せものとしかいいようがない」
「価値があるぐらいのことは分かるよ。問題は、それを私物化してためこむ俗物的な考え方だい。価値あるものや歴史的に意味があるものだったら博物館にでも提供して、広く世の中に役立てればいいじゃん。仏教って民衆を救済するためにあるんじゃないの? 偉い坊さんに祭り上げられちゃうと、本来の目的を忘れちゃう。それって、マズイじゃん」
 御簾の向こうの、腹立たしげに引きつった守敏の顔が見たいと、海は心踊っている。しかし、そんな挑発に軽々しくのるような守敏でないことは空も海も知っていた。
「君のいうところの祭り上げられた俗物とやらは、わしのことを指しているのかな? 口だけは達者だ。まったく、あの頃の空海とそっくりだわ。僻み根性からひとの邪魔ばかりしおって」
「お言葉ですが、先に手を出したのはあなたの方ではないですか? 妙ないいがかりは止めてください」
 空が毅然とした態度で言い返す。
「何がいいがかりだ。恨み嫉みやっかみで神泉苑での雨乞いの修法を邪魔だてしおったくせに、善人面するな!」
 思わず本音がチラリ。積年の怨恨が激昂させてしまう。
 豪二郎は、昔からの知り合いのような口調で話しはじめた守敏と甥たちに、戸惑っている。
「だいたい年功も法力も上席のわしをさておいて、おまえごとき若輩に請雨の命が下るなど、理不尽ではないか。賄賂など使ったのであろう」
「それは心外な。天皇よりの勅命はその法力の効力を見抜かれてのこと。裏工作をしたのはあなたの方ではないか」空も負けずに応ずる。

    7

 話はこうだ。
 いまから千百年以上も前のこと。天長元年(八二四)はまれにみる大旱魃だった。日本国中で日照りがつづき、川も湖も干上がってしまった。もちろん穀物は収穫できず、川の魚さえも死に絶えた。当然、人も飢え、餓鬼のごとく路上で干涸びたように死んでいった。 各地で高僧と呼ばれる僧たちが雨乞いをするものの、効果がない。
 そこで、淳和天皇は、遣唐使として唐国へ渡り真言密教を極めたとつたえられ、水利・土木に天才的な実力を発揮していた空海を名指しで雨乞いを命じたのだ。
 それに「ちょっと待った!」をかけた僧がいた。
 名を守敏大徳という。西寺の寺主として、空海よりも上席に連なるにもかかわらず、それを飛び越しての空海への勅命が下ったのでは面目の立ちようがない。
「自分は真言密教の奥義を極めている。空海より年も上だし、経験だって修行だってはるかに積んでいる。まずは、私に雨乞いをさせてください」と申し出た。
 ところは平安京の禁苑のひとつの神泉苑である。禁苑というのは、読んで字のごとし。一般の者立ち入り禁止の皇室の庭園である。南北四町、東西二町というから、南北が約四五〇メートル、東西二二〇メートルの大庭園だ。
 庭園には広大な池があり、その池は平安京ばかりでなく、日本の水の根源の地と考えられていた。つまり、水神である龍が住む異次元ワールドへ通ずるトンネルなのだ。神泉苑の池に龍を呼び出すことが叶うならば、請雨祈願は成就したも同然。
 まずは守敏大徳の雨乞いがはじまった。
 祈祷すること一週間。
 京の市街を潤すほどの雨は降ったが、その周囲にまでは及ばない。
 それでは、と次に空海が雨乞いを行なった。ところが、こんどは一滴の雨も降らないのだ。

「・・・唐で恵果阿闍梨から伝授された密教の奥義を使ったっていうのに雨粒ひとつ落ちてこない。こりゃあなにかあるに違いない。そしてら案の定、あんたが呪術で龍を水瓶に閉じ込めちゃうなんてさ。きったねーよ。正々堂々と勝負すりゃあいいのに、裏工作なんかするんだもん。ずるいったらありゃしねー」
 海はわずかの期間に真言密教の奥義に迫っていた。亀毛先生が一年以上もかけて読み通した大滝河川の日記や、それに連なる文献さえも、数日間で体得してしまっていたのだ。歴史的事実への洞察も、判断力もすでに身につけていた。だから、こういう発言がすらすらとできるのだ。
 それにしても、間でうろたえているのは豪二郎だ。たったいままで、ただの子供だと思っていた甥たちが、日本の政財界を動かしているといわれる西寺守敏と対等に、いや、それ以上に食ってかかっている。
 戸惑いを隠せず、うろたえ、すっとんきょうな声を上げた。
「ど、どうなってるんだ!」
 頬の筋肉はひきつり、こめかみがピクピクと痙攣している。
「呪術で龍を惑わすのは、亀毛老人ではなかったのか?」
「叔父さんは勘違いさせられているのですよ」
「なんだと?」
「亀毛先生は龍をたぶらかす呪術者なんかじゃありません。力の弱い龍を閉じ込めて、旱魃をひどくしたのは守敏大徳。ここにいる妖怪です。日本各地で異常気象が頻発しているのは、この守敏が龍たちを閉じ込めて幽閉しているからなんです。この守敏は、川に住む水神を捉え、僕たちをおびき出そうとしたんです。積年の恨みを果たすために・・・」
 そういって空が決然と名指しすると同時に、海がフッと豪二郎のそばから消えた。
 バサッ・・・。
 音で正面に振り返ると、御簾のとれた壇上に、黒い塊のようなものが見えた。まるでスペアリブが紫の袈裟をまとったような具合に見える。
 御簾をはぎ取った海ですら、守敏の実物を目の当たりにして、思わず胃液が込み上げてきたほどだ。近くに寄った分だけ、臭気もひどい。何しろ守敏は、まるで、ふやけたミイラのような有様だったのだから・・・。
「バ、バケモン!!」
 豪二郎はすっかり腰を抜かしてしまった。
 悪臭を放つ燻製のような四肢が、紫の袈裟とともにスックと立ち上がった。骸骨にわずかの肉がへばりついているような有様だ。崩れ落ちそうな黒褐色の肉が、てらてらと濡れて光っている。スペアリブのように、触ると手にべっとりと絡みついてきそうだ。
 鼻はもげ、その上に瞼を毟り取った孔が穿たれている。中に、半熟卵のようにどろりとした半透明の球がみえた。中央の瞳が、ぬめりと動き、海と空を見据えた。
 孔だけの鼻から、シュッという音とともに蒸気のような鼻息が漏れる。
「わしの面目を丸潰しにした上、その恥を後々の世まで喧伝する卑劣さ・・・。それが仏の道か? 民を救う教えか? 弘法大師空海などといっていても、所詮は水銀堀の山師ではないか。どこまで仏の道を信じ、徳を説いていることやら。怪しいものだ」
 守敏がいまいましげに肩を震わせていう。
「守敏、あなたの目的はなんなのだ?」
「お前たちに思い知らせてやることよ」
 空の質問に、怒りの声で応える。
「それだけではないだろう。僕たちは、あなたの野望の邪魔になるから標的になっているだけのことでしょう。本来の目的は、世界制覇ではないのか? 水神を操る術を駆使して、世界の水脈を絶つ。いうなれば兵糧攻めです。そうして遺伝子操作によってまともなカラダを手に入れて、世界に君臨しようとでも思っているのでしょう」
「ははははははは・・・。創造力の逞しいやつだな。たとえどうであれ、そのときは貴様らはこの世にはおらぬのだ。よけいな心配をせんでもよいのだ」
 いうなり、守敏が印を結んだ。
 唇がなくなって歯茎がむき出しになっている。その歯茎にかろうじて植わっている歯の隙間から甲高い声が潜り抜け、座に響き渡った。
「オン・キリキリ・・・オン・キリキリ・・・ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラ・・・」 風体からは信じ難い声量だ。
<不動金縛りだ>
 空と海は瞬間的にその場に釘付けになってしまった。
 油断である。
 もちろん二人は真言密教の奥義を会得したものがもつパワーを身に付けている。だから、金縛りはたやすく解いた。しかし、一瞬でも術にかかってしまったことで、後手を選ぶこととなってしまった。
 さまざまな術が畳み掛けるように二人を襲った。防戦一方になると次の手を打つ余裕がなくなる。いくら空と海でも手一杯の有様だ。呪い調伏の波動が津波のごとく押し寄せる。 頭の中が空白になった。
 さすが、守敏大徳。かつて弘法大師空海の雨乞いを邪魔するために龍を水瓶に閉じ込めてしまっただけのことはある。権威を笠に着ただけで何の取り柄もないなまくら坊主ではない。
 反撃のチャンスをうかがいながら必死に耐える二人だったが、足元には気が回らなかった。畳が割れて、奈落の底へと落下した。
 気がついたときは遅かった。
 底に敷かれたマットの上にドスッ! という音を立てて叩き付けられていた。
 落ちたところは地下室らしき場所。しかも、檻の中だ。もちろん、檻の天井部分は落ちた途端にガチャンと占められた。ついでに落ちた穴も瞬く間に閉じられた。真っ暗闇だ。「まいったね、こりゃ。反撃する前にこのザマじゃ会わす顔がねえじゃん」
「もっともだ」
 漆黒の中で、やるせない声を交わしはじめていた。
「しかし、あの姿はなんだい? ありゃあバケモンじゃん」
「おそらく、即身成仏として千年以上もミイラでいた守敏を長谷部一曜が復活させた・・・。即身成仏になくてはならない水銀や防腐剤やなにかをたっぷり使ってね」
「それであの部屋は病院みたいな臭いだったのか・・・」
「ただでさえ脆い状態のはずだ。それが動くのだから、かなりの薬剤を飲むか塗るかしているに違いない。それで、あれだけの術を使うんだから、恐ろしいやつだ」
「兄貴、あの案内役の若いのが仕組んだんだね、きっと」
「うん」
 剃髪してはいるが、作務衣姿の案内役は女であること。そして、その正体は水神、つまり、龍であることを見抜いていた。
「守敏にどんな義理があるんか知んないけど、やってくれるよな、あいつ」
「ま、人それぞれ・・・いや、龍それぞれの恩義もあるのだろう。蓼食う虫も好き好きっていうじゃないか。海のことを好きだっていう女の子だっていつか現れるかもしれないしな」
「どういう意味だよそれって」
「いや、わかりやすい例を出したつもりなんだが」
「こういう状態で、よくそういう冗談がいえるよな、兄貴!」
「あせっても仕方がないだろう」
「何もしないでも困るだろう!」
「まあ落ち着け」
 冷静な空の言葉にいてもたってもいられなくなった海が、立ち上がって周囲をまさぐった。掌に冷たい肌触りが伝わって来る。檻といってもただものではない。一〇センチ角の鋼材を組み合わせて出来ていた。ちょっとやさっと<気>を入れてもびくともしない。脱出は容易なことではなさそうだ。タメ息が洩れた。
「これじゃあこっちが即身成仏になっちまうぜ」
 頭を抱えたまま海はしゃがみ込んでしまう。その視界の端に、キラリと光るものが滑り込んできた。闇の中に光とは? 思わず顔を上げて光源の方を見やる。それは空の喉元から、ほのかに滲み出るようにして光を散出させていた。
「兄貴、それ・・・?」
 海の問いに、空は医者に喉の奥を見せるときのような恰好で応えた。口腔が金粉を撒き散らしたかのように燦然と光を放っている。空の顔はまるでランプシェードのように輝いていた。喉の奥から、一筋の縄のようなものが顔を出した。白銀に煌く黄金色の頭からは産毛のようなたてがみが靡き、前肢はしなやかな動きを見せている。胴体を包む鱗は艶やかに重なり合い、流麗に変化を見せている。後肢が宙をかき、鋭く尖った尾翼を見せると、黄金の龍は空と海の眼前をゆっくりと、荘厳な面持ちで長さおよそ八寸、二十四センチの身をくねらせた。
「・・・・・・・・・」
 言葉がなかった。
 夢で見た、あの龍。母の日傘、兄貴と二人で戯れた西ヶ原の屋敷の湖水・・・。その主は、この黄金の龍だった。いま、それが眼の前で身をくねらせている。
 開いた口が塞がらないまま、空を見やった。安心しろ、という目で空は大きくうなづいた。そのメッセージは、とんでもない事実を告げてきていた。なぜって、この龍は・・・
「麻衣ちゃん!」
 海の洩らしたつぶやきに、黄金の龍は尾翼を振って応えると、頭上でくるりと一回転して隙間から出ていった。

第六章 水攻めの包囲網

    1

「飛んで火にいる夏の虫というやつですな」
 いつのまにか謁見の間に長谷部一曜が顔を出していた。作務衣姿の案内役は、海に断ち落とされた御簾を修復しようとしている。そして、部屋の中央では豪二郎が完全に動転して腰を抜かし、目を白黒させている。足を投げだし、後ろ手でかろうじて上半身を支えている姿は、とうていエリートサラリーマンとは見えない。
「う、嘘だったのか! 邪魔しているのが亀毛老人だといったのは、子供たちを、ワ、ワナにかけるためだったのか?」
 恐怖に顔を引きつらせながら、豪二郎は声をうわずらせながらいった。思いもかけぬ展開も驚きだったが、ハメられたのがかなり悔しかったようだ。商社マンとして世界を股にかけ、発展途上国から欧米人まで騙してきた自分が騙されたのだ。
「まともに話したのでは協力していただけるか心配だったものですからね。そうでしょう、佐伯さん」
 長谷部一曜は腰を抜かした豪二郎の前に回り、片膝つく姿勢で話しはじめた。
「偶然とは不思議なものでな。ワシはかつての日本帝国の再興を願って粉骨砕身戦ってきた。日本が世界の覇権を握ることが世界平和の第一歩だと確信してな。その過程で手に入れた屋敷が縁となって、この西寺守敏大徳翁と出会ったのだ」

「私はこの屋敷の水脈を司る水神です」
 東屋で、清楚な娘は長谷部一曜にいった。龍の目に魅入られていた一曜は、されるがまま、いわれるがままだった。
「あそこに古くからの土蔵があります」娘が指をさす。「あの土蔵に古い奇岩が隠されています。ここを下屋敷として使っていた大名は、岩を取り除いて離れを増築しようとしたのですが、ことごとく失敗しました。奇岩を移動しようとしても、並の人手ではビクともしない。周囲を堀り進んだのですが、岩盤に当たり歯が立たない。岩を割ろうと火薬を仕掛れば、事故で普請のものが火傷を負う。それどころではありません。その奇岩を排除しようとすると、屋敷のだれかが必ず奇妙な病に犯されるのです。高熱と嘔吐。水泡が生じ、挙げ句に水泡は破れて全身に広がり、皮膚が爛れる。爛れたところにウジが湧き、生きたまま腐って死んでいきました」
 娘が一曜を見た。その目には、恫喝の色が濃く漂っていた。自分も幾度となく修羅場を潜り抜けてきているので、その威嚇的な目が真実か否か、明瞭に理解することができた。この娘が、清楚な裏にどくどくしい怨念を秘めていることも・・・。
「祟りだという声が広がりました。もうだれも主のいいつけなど聞こうとはしません。出入りの職人たちから噂が洩れ、それ以上奇岩に触れようとするものはいなくなりました。主人を置いて他には・・・」
「で、どうなったのだ?」
「狂気に導かれた主は、雷雨の夜、奇岩に向かって抜刀したのです。しかし、白刃に落雷して主は炭となって果てました。事情を知るものたちによって奇岩は土蔵で隠され、丁重な祈祷の後に奇岩は幽閉されました」
「それが、ワシとなんの関係があるというのだ?」
「あなたの野心が叶います」
 娘の口許が隠微に歪んだ。眼の輝きは、かつてバンドーンで大滝河川が湧き立たせた暗雲の中に垣間見えた水神のそれだった。一曜は腹の中を見透かされているのが分かった。
「大切な方が目覚めようとしているのです。その方の霊力をもってすれば、日本の水神を自由に操ることが叶います。飲料水、工業用水、発電用水まで、すべての水を一手に操り、日本の人心を掌握することが叶います。大東亜共栄圏の構築はもちろん、ロシア、アメリカを傘下に治めることすら可能でしょう。たとえば、ミシシッピーに大氾濫を起こさせることも、バイカル湖を数ヵ月で砂漠に変えることも・・・」
 一曜にとって、蜜のようにとろける甘言だった。
 日本帝国の再興・・・。北方領土の返還、沖縄からのアメリカ軍排除、再軍備・・・。痺れるような興奮があった。一曜の野心が羽毛でなでるようにくすぐられ、欲望がそそり立ってくるのがわかった。もちろん、相手がこの娘でなかったら、烈火の如く怒りで張り倒していたかも知れない。だが、この娘の龍の眼差しと誘惑が一曜の精神状態を狂わせていた。
「そのお方は、千年の永きにわたって眠りつづけ、いま目覚めようと胎動を始めたばかりです。お人払いの上、必要なものを土蔵までお運びください。これが、土蔵の鍵でございます」
 透き通るように白い手に、古びた鉄の鍵が握られていた。
 一曜はそれを受けとると娘を凝視した。
「しかし、その方はなぜいまこの世に甦るのだ? なぜワシを選んだのだ?」
「それは・・・」娘が虚空に視線を移動した。「野望を阻止したものへの深い怨念です。そして、これから阻止するであろう邪魔者を共通の敵として戴くことになるからです。日本の水脈を守ろうとして、意固地になる連中が必ず出現する。そうした連中を排除して欲しいからです」
「それは、誰の頼みなのかな?」
「私です。この池の水神として、あのお方に忠誠を誓ったこの私の頼みです」
 娘の口調は、決然として揺れることがいかほどもないことが察せられた。
「して、甦る方とは?」
「西寺守敏大徳。弘法大師空海に請雨の法力合戦で破れて以来、空海の法力を喧伝する際に必ず引き合いに出されつづけてきたお方です」
「守敏大徳・・・」
「私の敬愛して止まぬお方です・・・」
 娘はとろけるような眼差しを宙に舞わせていた。

    2

 話し終えると、長谷部一曜は背後を振り向き、座敷の隅に鎮座している作務衣姿の案内役を顎でしゃくった。
「あれが、その娘だ。一途な思い、捨てては置けぬ」
 西寺守敏に、龍の化身、そして、それに操られている日本の右翼のドン・・・。ここは、妖怪の館か。豪二郎は顔をくしゃくしゃにしていまにも泣き出しそうな様子だ。
「なにも騙そうとしてやったわけではない。行きがかり上仕方のないことというのもあるのだ。貴様なら、その程度のことは理解できるだろう。ん?」
 いくら気に入らない甥たちだといっても、命に関わることとなれば話は別だ。命を奪ってまで名声にすがり栄達を願おうとは思わない。まあ、この辺りが佐伯豪二郎が普通の心根をもった一般人であり、心底悪人になれないことの証明なのではあるが・・・。
「トドメハ私ニ撃タセテクダサイ。仲間ノ復讐デス」
 ハッサムが豪二郎の背後から落とし穴へと近寄っていった。
「大使。焦らなくてもよろしいではないか」守敏が御簾の向こうから声を放った。
「あの二人が邪魔だてさえしなければ、水神を一時お国へ貸し出して国土を潤ませることはできる。そうすれば豊潤な水流は甦り、緑が生い茂り、穀物も潤沢に収穫できる。ひいてはそれが国力となり、イスラムの覇権を拡大することにつながるのではないですかな?」「シカシ、アノ二人ハ仲間ヲ殺メタ。目ニハ目ヲ、歯ニハ歯ヲ。ソレガ、私タチノ法典デス。ドウカオ許シヲ・・・」
 謙虚な言葉遣いではあるが、ハッサムの思いは復讐の一語につきた。やられたら、やり返せ。中東の国々の諍いが延々とつづいているのもむべなるかな。国情の違い宗教の違い、考え方の違いは恐ろしい。
「彼らは心さえ入れ替えればすぐれた請雨師として力量を発揮するはず。先ずはしばらく懲らしめて後、ワシの教えを説くつもりじゃ」
「守敏ドノハアノ二人ヲ生カシテオクツモリカ?」
 懇願を通り越して、憤りに変わっている。ハッサムはどすんどすんと踵で畳を踏み鳴らしながら御簾に向かって歩みを進めて行く。
「大使!」
 一曜の制止も耳に入らない。ハッサムに待ったをかけたのは、案内係りだった。身のこなし俊敏。瞬く間に御簾の前に立ちはだかって掌を前に突き出してハッサムを制止する。ハッサムが案内係りを張り倒そうとしたが、あえなくその手が空を切った。体を崩したハッサムは軽くいなされ、巨体がドウと転がった。
「身のほどを知りなさい。愚かものが」
 白い肌を紅潮させた案内係りが、語気強く言い放つ。
「ナニガ大東亜共栄圏ダ! 米国ト露国ヲ支配下ニ置クダト! 世界ノ覇者ニデモナッタツモリカ? イスラムノ覇権ハ世界ヲ導クモノダ。日本ハソレニ逆ラウトイウノカ?」
 這いつくばりながら、ハッサムが雑言を発した。かと思うと、いつの間にか手にした銃を守敏に向け、撃った。
 プスッ! プスッ!
 その手応えに、ハッサムは満足そうな笑みを浮かべた。ここにいる連中を殺害しても、護摩壇の中に幽閉されている水瓶の中の龍たちを持ち帰れば十分に大統領の依頼に応えることができる。最後の手段に訴えたのだ。元を質せば殺人集団の首謀者。権謀術数を弄するよりも先に手が出てしまう。
 ハッサムの銃口は守敏から一曜へと切り返された。手慣れた動きである。少ない動きで的確に的をとらえる。動物的な勘と鍛え上げられた運動神経で、殺人機械のように畳の上を回転しながら銃弾を一曜の心臓めがけて発射する。
 プスッ! プスッ!
 一曜は銃弾の勢いで、背後へとカラダを撥ね飛ばされた。残るは女ひとり。いるはずの位置へ銃口を向けた。しかし、そこにいたのは、緑の鱗に覆われた龍だった。
 銃を向けていることを忘れてしまったように、ハッサムはその場に凍りついた。直径一メートルはあろうという胴体。その先端に、錦絵や水墨画で見たことのある伝説の龍の頭がついている。間近で見ると、水瓶の中をたゆたっている龍とは迫力が違う。
 人間なら白目に当たる部分が黄金色に輝き、中央から砲丸のような瞳がのぞいていた。鼻を鳴らすと水蒸気がハッサムの全身を包み込む。まるで濃霧の中に放り出されたようだ。広大な広間を獲物をいたぶるような動きで全身をくねらせる。ぴくんぴくんと鼻先から伸びた髭が弾ける。口腔からは紅蓮の舌が伸びて来た。
 我に返ったハッサムがトリガーを引き絞る。
 しかし、厚い鱗に銃弾などはなんの役にも立たず弾き返される。口腔内を狙っても、龍は体をくねらせて一時として同じ姿ではいない。
 じりじりと腰を落としたままあとずさりするハッサム。その動きが止まった。見上げると長谷部一曜の魁偉な容貌があった。
「バカめ。防弾の用意は四六時中しているものだ」
 吐き棄てる様にいうと、唾を吐きかけた。御簾の向こうからケタケタという笑いが起こった。
「愚かよのう。子供相手に恥を晒した上、このワシに歯向かおうとは。身のほどを知らぬとはこのことよ」
 龍はハッサムを取り巻くようにして円をつくり、まるで自分の尾翼を舐めるように回転をはじめた。その回転は徐々に早くなり、円は次第に径を小さくし、螺旋状となって天井を突き抜けるようにして消えていった。
 あとに残ったのは、溺死したハッサムの惨めな姿だけだった。

    3

 明けて正月八日。
 千代田区番町の一千坪の敷地を取り囲む塀の横で、水道局の工事監督姿の森末三佐が西村御殿の塀を恨めしげに見上げて、憤懣やるかたない表情を浮かべた。
「なんでこんなことをしなくちゃならないんだ!」
 自分たちの任務は、あの二人の少年の監視の筈だ。彼らを襲ったのが右翼の大物の長谷部一曜であり、その影に西寺守敏という宗教家らしき老人がいることは探り当ててある。問題は、あの少年たちの超能力であり、それを可能にした真言密教、その神秘を探ることにあるはず。堀場幕僚長も当初そういう使命を口にしたし、ミッションの活動もそれにそって履行してきた。いまになって、ターゲットを西寺御殿に変更するとはどういうわけだ? 堀場幕僚長の返答も煮え切らないものだった。
 (・・・長官の命令だ。)
「長官? 北原防衛庁長官ですか?」
 (・・・・・・)
 無線の向こうで沈黙する堀場の態度が、森末の質問に「その通り」と応えていた。
「しかし、このままでは大滝兄弟は右翼の手に落ちるか、それとも、妙な宗教の手にかかって我々の手に入らなくなってしまうではないですか!」
 (・・・長官の命令は、西寺邸の排水設備の封鎖だ。それが当面の行動となる。あとは、い   ままで通りの監視だ。)
「しかし・・・」
 (・・・それ以上の質問には私も応えられん。私も長官が何を考えておられるのか皆目検討がつかんのだ。)
「わかりました」
 そう返事したとき、胃の辺りがムカムカして反吐が出そうだった。目の前に人知を超えた能力をもつ少年たちがいて、彼らは日本を守るために当然必要な力であるはずなのに、それを奪還しろという命令はない。あったのはただ「西寺邸の排水設備の封鎖」だという。 部下は現在、水道局の作業員に変装してマンホールから地下道に潜り込んで、下水管を早乾性のコンクリートで塞いでいるはずだ。
 腹立たしいにもほどがある。
 密教プロジェクトも、少年捕獲という前半の大詰めにきているというのに、みすみす西寺邸への侵入は許すは、土管封鎖を任されるわ。いったい、防衛庁長官ともあろうものがなにを考えているのか? 森末三佐は不機嫌そうに水道局の名前が胴体に書かれた作業車の中でつぶやいた。ドアの横には黄色いビニールカバーに覆われたマンホールがぽっかりと黒い口を開けているのが見えた。

    4

 気象庁では、関東管区気象台から送られてくる情報に所員はことごとく首を傾げていた。 冬だというのにまるで梅雨のような前線が停滞をつづけている。気象衛星が送ってくる雲の映像もそれを裏付けていた。この日も、前線は停滞したままで、西からの雨雲が前線に沿って東へと向かっていた。
 目を引いたのは、昨日の夕方、伊豆半島沖に突然発生した低気圧だ。夜のうちに相模原から上陸すると、時速三〇キロのスピードで北々東に向かった。中心気圧は九八〇ヘクトパスカルで、半径が一〇キロ。小規模の低気圧だったが、多摩川を渡ったところで急激に勢いを強めた。そのまま一時間に三〇ミリの豪雨を撒き散らしながら首都を通過し、そのまま北々東に針路を取った。隅田川、中川、江戸川を越え、利根川を渡ると、その勢いに拍車がかかった。雨量は一時間に四〇ミリを越し、首都圏には大雨注意法が発令された。
 時ならぬ台風の出現だ。
 しかし、その低気圧は次第に規模を縮小し、半径わずか二キロという点のような規模になっていた。いや点という表現は適切ではない。むしろ細長い帯状の雨雲といった方がよかった。関東地方を拡大表示したモニター画像には、その雲の姿はまるで一匹の蛇が蛇行しているように見えた。

 その雨雲の影響をまともに受けたのは、守敏邸の周囲で配水管工事をしていた森末三佐たちだった。
 はじめは飛行船でも飛んできているのかと思ったほどだ。はるか上空にぽつりと黒い点が見えていたが、最初は気にもとめていなかった。それが次第に大きく似るにつれて、森末は首をひねりはじめた。
「おい、あれは何だ?」
 隣席に待機していた一尉に、疑問を投げかけた。
「え? どれですか?」
 一尉は気にもとめていなかったようで、この返事は森末を大いに失望させた。防衛庁長官からの直接の指示で行なっているミッションに相応しくないと判断した。次回の作戦行動からはこの一尉を外すことを森末は腹の中で決めた。
「ああ、あの黒いやつですね・・・」
 ダッシュボードから双眼鏡を取り出して暫く見ていたが、彼にも判断がつかない様子だ。
「風船かなにかですかね?」
 一尉も首をひねるばかりで埒が明かない。ひったくるようにして双眼鏡を奪い取ると、森末はその黒い塊に向けた。
 雲・・・森末にはそう見えた。
 昨夜から今朝にかけて東京の一部を集中豪雨が襲ったことは知っていた。しかし、今日の降水確率は二〇パーセント。ほとんど雨の心配はないはずだ。
 しかし、その黒い物体は姿はあれどモノであるとは到底思えない動きをしていた。雨雲をギュッと握り固めたような濃さ。一定の形態をとらずにもごもごと定まらないその輪郭。それは、やはり雲としか言い様がなかった。堀場幕僚長からの無線連絡で、それが昨晩東京を通過していった低気圧がUターンしてきたものだということを知らされたとき、森末の背筋に悪寒のようなものが走った。すでに雨雲は番町に達しており、森末たちの上空を厚い絨毯のように覆っていたからだ。
 辺りは夜のように暗く、強風が渦を巻いた。見上げれば、漆黒の塊。そこから、大粒の雨が滝のように降り注いだ。作業車の天井に降り頻る雨粒は、まるでドラムの連打のように途切れることがなかった。
 雲はそれまで南々西を目指していたのだが、ここにきてそのスピードを和らげた。というよりも、止めた。西寺邸の上空で静止し、ピタリとも動かなくなってしまったのだ。
 森末は、雨雲が楕円状だとばかり思っていた。しかし、ここにきてかなりひょろ長いものだということを知った。そのひょろ長い雨雲がとぐろを巻くようにして西寺邸の上空で居座りをはじめたのを見て、異様な思いに囚われた。この雨雲が下水管の中での作業に影響が出るのは必死だ。森末は一刻も早く配水管を速乾コンクリートで塞ぐよう無線で命ずると、頭上の黒雲を忌ま忌ましげに見上げた。フロントガラスに打ち付けられる雨粒で、はっきりと見えないのだが、雲が蠢いているのがはっきりと見える。そのもこもこした雲の動きの中に、キラリと光る金属質のようなものが窺えた。
「おい、雲の中になにか見えないか?」
「この雨じゃよく見えませんよ」
 一尉はワイパーのスイッチを入れた。しかし、くっきり見えるのはほんの一瞬だ。すぐに雨粒でフロントガラスがぶつぶつびちゃびちゃになってしまう。
「あれ? 三佐殿・・・あっちを見てください」
 いわれて道路の反対側を見やって驚いた。雨が降っていない。濡れているのは西寺邸の上空と、その周囲のわずかな地区だけに限られているらしい。ほんの一〇メートルほど離れた場所の路面は一向に濡れていない。一尉は作業車をUターンさせて反対車線に回った。「あそこにクルマをつけろ。右端だ!」
 雨の影響がないから今度はくっきりと雨雲を見上げることができる。ぬめりとした異物が、雨雲の表面のいたるところから顔をのぞかせているのがまざまざと見えた。
「う、動いてますよ、三佐殿!」
 巨大な管のようなものが絡まり合い蠢いていた。赤金色や青金色、白色などの管が、雲の中に隠れているようだ。
「おい、ビデオを回せ!」
 今日の任務は監視ではなく、下水口の封鎖だった。しかし、小型ビデオカメラなどの装置は一応そろえてある。一尉はビデオカメラを手に路上に降り立ち、レンズを雲に向けてファインダーをのぞいた。その途端だった。風呂桶を引っくり返したような雨水が一尉の頭上に襲いかかった。突然のことで避けることも叶わず、濡れネズミとなった一尉が、あんぐりと口を半開きにして森末を見た。
 首を横に振っている。カメラが使い物にならなくなったということだろう。
 森末の背筋を恐怖が貫いた。

    5

 昼前に西寺邸を襲った雨雲からは、一時間に一〇〇ミリをはるかに上回る雨が降り注ぎ、午後三時までの総雨量は五〇〇ミリに達した。
 森末三佐たちが配水管にコンクリートをつめ込んだおかげで、西寺邸からの排水は一切不可能になっていた。結果どうなったか、言うまでもない。単純なことだ。深さ五メートル、広さ千坪の巨大なプールが東京の度真ん中に、それも、閑静で高級な一等住宅地にできようとしていた。
 西寺邸の門は内側に開く。
 脱出するために門を開けようとしても、内側に雨水が溜まってしまっている状態ではそれは無理難題だ。雨の降りはじめの状態ならまだしも、いまとなっては塀を乗り越える以外に手段はない。森末三佐は自分が命じられた任務がどれほど意味の深いものだったかを、いま痛感していた。塀の向こう側がどういう状態になっているか、邸内の人間のほかにそれを知っているのは自分たちと、任務の遂行を命じた上官以外にはいないはずだ。
「これはいったい・・・?」
 雨雲が西寺邸を襲うということを知っていたからこの任務が命じられたはず。しかし、気象庁でも当惑するような天候状態を、一体だれが予測したというのだ? しかも、もう四時間近くも雨は降りっぱなしだ。それだけでも信じ難いことなのに、その先を読んでことを命ずるなどと・・・。
 堀場幕僚長、そして、その上に立つ北尾防衛庁長官の顔を思い浮かべて、森末三佐は動揺する心を抑えるのに精一杯だった。

    6

 突然の雨雲に覆われた西寺邸の住人たちは、たかが雨と高をくくっていた節がある。守敏ですら異常に気づくのが遅れた。雨水が四〇センチを越えた頃になって開門を命じたが、巨大な鋼鉄でできており、しかも内側に開く扉は水圧でびくともしなかった。
「排水口はどうなっているのだ? まったく雨水が流れていかぬ様子ではないか!」
 御簾が上げられた壇上から吐き棄てるようにいう守敏に、長谷部一曜も何と応えてよいやらわからない。
「調査しようにも、なにぶん水の底ですから・・・」
 頭を垂れて言い訳する以外にない。
「龍を放ったものがおる」
 いうなり、謁見の間の畳の下を射るように見た。一曜も「まさか」という驚愕の色を浮かべて守敏の後を追うように畳の下を見やる。もっとも、畳表しか見ることはできないのだが・・・。
「あの二人がですか?」
「他にだれがいる? いまの日本で龍を操れるのは、このワシとあのガキども以外おらん。それは断言できる。だからあの兄弟を世界が狙っておるのだ。そのぐらいのことが考えつかんのか、愚かものめが」
「しかし、いつの間に?」
「それがわかれば苦労はいらぬわ!」
 怒りに震える守敏の興奮した握り拳から、腐敗を防止するための水銀を含む防腐薬が滴り落ちる。そのどろりとした白眼が天井に向いた。ふっ、と天井から白い絹のようなものが舞い降りてきた。
「蛟龍、戻ったか」
 わずかに安堵の色を浮かべて守敏がいう。蛟龍と呼ばれたのは、案内役の作務衣姿の尼僧である。かつて、一曜の屋敷に設けられた湖水に住まい、旧く守敏大徳の寵愛を受けていた龍だ。
 いまは怪僧の限りを尽くしてはいるが、守敏ももとは京都西寺の寺主であり、僧の世界では最高の位まで上り詰めた人物である。だから、その恩恵を被った民衆も多くいたし、守敏の祈りに応じて雨を降らせる龍も存在したのだ。蛟龍もそんな龍の中の一匹で、かつては京の湖水を棲家としていた。ところが、さる貴人の邸宅を増築することになり、蛟龍が棲む湖水が邪魔となって埋め立てることになった。それに待ったをかけたのが、守敏翁だった。それ以来、蛟龍は守敏を主と尊び、ことあるごとに自らの命を投げ打つ決心で守敏を支えてきたのだ。即身成仏としての守敏入定に際して、最も嘆き哀しんだのは蛟龍であった。守敏は入定の場所をはるか東国の果てを自ら選んだ。それは、将来いつの日にか甦ることを予知してのことだと考えられる。つまり、日本の首都機能が京から江戸・東京へ移行することをあらかじめ悟っていたとしか思えない行動である。蛟龍は守敏に随伴した。そして、こんこんと湧き出ずる水脈を棲家として身をもって守り通したのであった。 さて、この守敏大徳だが、ひとことでいえば、頭が旧い人間だった。年功序列や儀礼、形式などを優先的とする、頭の固い僧だったようだ。こういう人物はいつの時代にも存在する。明晰な頭脳と行動力をもった青年が頭角を現しはじめると、己の保身のために将来性豊かなその青年を蹴落とそうとして悪巧みを講ずる。
 とくに空海は、若くして風来坊のように日本全国を浪々したと思ったら、突然険しい修行のため山籠り。そして、誘われるがままに遣唐使として船に乗り込んでしまうなどと、当時としてもちょっと常識はずれの人間だった。創造力に富み、優れた発想をする感覚的な人物にはこの類いの人間が多いのだが、まっとうな大人からすれば、定職にもつかず、ふらふらしている不良青年としてしか目に映らない。高僧たちに対してもズケズケとモノをいい、あけすけに非難めいたことをいう態度は苦々しいものでしかなかったのは確かだろう。しかも、そのいっていることが民衆の心を捉えてしまうのだからますます面白くない。ちょっとは身のほどを知れ、といいたくなる気持ちもわからないではない。だからといって卑劣な手段で空海の行動を妨害するというのはいただけない話ではある。
 しかも、守敏は千年の怨念をひっ抱えてやってきたのだから逆恨みといわれても仕方のないところがある。しかし、人がいいからといって何をしてもいいかとなると、これは話が別である。水の国、日本の水神を海外に売り飛ばそうだの、その水神である龍たちを水瓶に閉じ込めて異常気象を発生させるだの、他人を慮る気持ちのかけらもなくては名僧とはいいがたいものだ。
 さて、宙から舞い戻ってきた蛟龍はもとの案内役姿に戻っている。守敏の前面に片肘ついて、その誠実な眼差しを、醜く歪んでいまにも崩れ落ちそうな肉のかけらに向けているが、顔色は蒼く、頬を引きつらせていた。
「どうした?」
 いったん頭を垂れ、大きなタメ息をひとつ。おもむろに口を開いた。
「・・・利根川、江戸川、隅田川、神田川、石神井川、多摩川、相模川などの水竜が、屋敷の上空で荒れ狂っております。とても、手のつけようがございません」
 守敏の顔色が変わった。
 といっても、焦げ茶色のミイラ状の姿では顔色を失うといってもどこがどの程度変わったのか常人では伺い知ることはできない。とにかく、まさにその様な驚愕すべき事態に陥ったということだ。
「兄弟を屠りましょう」一曜が背後からいった。
「いまならまだ間に合います。籠の鳥のいまなら、たやすいこと。溺れさせればよいのでせす」
 一曜の右手は、床上に迫ろうという雨水を指した。そして仕掛けのスイッチを押した。 軋み音とともに畳が六畳分ぱっくりと口を開けた。天井から、カラカラと鍵手のついた太い鎖が降りて行く。鎖の先端が檻に触れると、自動的に鍵手が檻の突起部分と連結した。
 ギリギリギリ・・・・・・
 機械的な音を立てて、大滝兄弟が篭の鳥になっている檻が引き上げられた。中では丸一日飲まず食わずの二人が、マットの敷かれた底の部分にだらりと横になっていた。

    7

 謁見の間に宙ぶらりんの檻が披露された。守敏が勝ち誇ったように「ほーっほっほっほっほっ!」と歓喜の声を上げた。
「何か食わせろ、腹が減って死にそうだ!」
「そんなことでは即身成仏にはなれぬぞ」
「てめーなんざ、成仏できずにいるくせして!」負けず嫌いの海が言い返す。
「相変わらず口の減らぬガキだな。飲まず食わずにして立派に入定させてやろうと思ったんだがな、事情が少し変わってな、水をたらふく飲んでもらうことにした」
「おっ、水を飲ませてくれるの?」
「飲ませるったって、死ぬまで飲めっていうことだぞ、海」
「なんでえ、性格悪い連中でやがんの」海は、ぷっと頬を膨らませる。
「それにしてもさあ、なんでこの部屋はこんなに水浸しなんだ? 土左衛門も」と溺死したハッサムを海が指差す。「そこにいるしさあ・・・」
「おい、お前たち」と長谷部一曜が威嚇するようにいう。「水浸しなのはここだけじゃないんだ。庭を見ろ! 何を企んでいるんだ?」
「何のこと? 僕には皆目見当がつきませんがね」
 そういう空に、一曜が縁側につづく襖を開け放って見せた。まるでそこは暗黒の海。水面を打つ雨音が激しく飛び込んできた。音だけではない。篠つく雨が謁見の間にまで飛び込んで来る。
「なにこれ? スゲー雨じゃん!」
 チラリと空を横目で見てにんまりとする。それに応えて、空も唇の端を少し緩めた。
「やはり、貴様らの仕業か」二人の表情から鋭く状況を読み取った守敏が、憎々しげにどろりと濁った目を震わせた。「水神たちに戻るよう祈れ!」
「嫌だね」言下の元に空は拒否した。
「そんなに迷惑してるんなら、自分で祈祷すりゃあいいじゃん。あんただって一応は真言密教を極めた高僧じゃなかったの?」
 海が嫌味をたっぷりとトッピングした言い方で援護する。
 自分の術で退散させることができないから二人を脅迫しているのに、これでは恥の上塗りである。現世に甦ってなお空海に翻弄されようとは、守敏大徳不徳の致すところととしかいいようがない。こうなれば実力行使である。一曜に命じられた国防桜会の剛毅な兵たちが畳の上に丸太を一メートル間隔ほどに並べはじめた。そのあと、檻はその丸太の上に乱暴に降ろされた。丸太をコロにして、檻を移動させようというのだ。それも、もうすぐ床上浸水しようという縁先から中庭へと・・・。庭に落とされたら逃げる場所はない。次第に水かさが増してくれば、網にかかったネズミを殺すときのように溺死させられてしまうことになる。
 さあどうだといわんばかりの守敏大徳が、壇上から不敵な笑みを投げかけている。
「いい性格してるよなあ、あんた。こういう卑怯なことを大の大人がするから、それを真似した小賢しいガキがうじゃうじゃ徘徊するようになるんだぜ」
「ほざけ。負け惜しみでも何でも、いえる間にいっておくんだな。もうすぐ中東からの客と同じような死に様になるんだ。それまでの、わずかだが貴重な時間だ。大切に使うんだな。ひっひっひっひっ・・・」
 守敏の快感に打ち震えるような笑い方が、海の耳に不快に響いて来る。国防桜会の強力たちが押す檻は、じわりじわりと縁先に迫る。強がりをいっていても、本音はドキドキものなのだろう。海がゴクリと唾を飲み込んで洩らした。
「兄貴・・・」
「情けない顔をするな!」
「わかってらい・・・でも・・・」
 脅しをかけるように雷鳴が轟いた。
 見上げる暗雲は、まるで神経が迷走したように放電を繰り返している。それが、怒りとなって数分おきに落下していた。見れば、西寺邸に植えられていた立ち木のほとんどは、落雷で縦に裂かれて裸同然の姿を晒しているではないか。
「この檻に雷が落ちたら一巻の終りじゃん」二人の顔に横殴りの驟雨が吹きつける。
<いや逆だ。雷を呼ぶんだ。そうすれば助かる>
<?>
 海は判断がつき兼ねて疑問の視線を送った。答は空の笑みの中に隠されていた。なるほどそうか、と海も納得。二人はカラダを寄せるようにして檻の中央へと場所を移した。縁先はもう目の前だ。
 護摩壇も独鈷杵もない。祈祷には圧倒的に不利な状態だ。だが、上空の水竜たちは、あの黄金の八尺の龍が呼び寄せたものに他ならない。ならば、願いは必ず聞き届けられるに違いない。空と海は瞑目して真言を唱えはじめた。
 檻の鼻先が縁先から庭へと突き出た。
「いまさら祈っても無駄なことを。愚かものたちよ。ひゃっひゃっひゃっひゃっ・・・」
 守敏の高笑いなど耳に入らない。二人は一心不乱である。
 落雷よ落ちろ。
 落雷よ落ちろ。
 落雷よ落ちろ。
 落雷よ落ちろ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 檻が傾いた。あとひと押しで、庭に溜まった雨水の中に没してしまう。とくに、この謁見の間は縁の下が高くとられているから、あっというまに首まで没してしまうだろう。天井にしがみついても、檻全が完全に水没するまで、すぐだ。生殺しである。
 絶体絶命!
 ゴロゴロゴロゴロ・・・天が怒りの声を荒げはじめた。
 檻が傾いた。
 ピカッ!
 閃光が蒼白く明滅した。と同時に、檻の天井にある鍵手めがけて稲妻が走った。暗雲が溜めに溜めた雷を、一気に檻に向かって放電したのだ。
 ボォム!
 爆発音とともに檻が数メートルほど弾け、軋み音を発しながら雨の中を舞うと、ジュッという焼き入れのような音をたてて水没した。

    8

 貧乏くじを引いたのは、檻を押していた屈強の男たち数人だ。いままさに庭に落ちる・・・という直前だったから、それぞれが必死に檻を押していた。つまり、落雷の直撃をまともに食らってあえなくこんがりと焼き上がったという次第。しかし、守敏も一曜もそんなことには毫も意に介していない。むしろ大滝兄弟も同じ様に果てたことを喜び、すみやかにこの豪雨が退散することを確信して満足そうにうなずき合った。
 だから、感電死したはずの二人が中庭の松の枝に這い上がってきたのを見て、肝を潰すほど驚き、憤った。
「な、なぜだ?」
 守敏は狼狽し、驚愕に震えた。
 しかも、二人は冠水した庭園を、歩いて渡って来る。水の上を、水没することなく歩いて来るのだ。
 二人は落雷の瞬間、空中浮揚して感電から逃れた。しかも、檻はすぐに水没したから熱の被害も被らなかった。落雷に打たれた檻の扉は、鍵が焼き切れていて容易に開いた。そのことを守敏も即座に理解した。歯がみして座を立つと、守敏は蛟龍とともに奥に消えた。
 慌てて一曜は、手下を集める指示を無線で発した。なんとか二人に抵抗しようというわけだ。ドドドドドド・・・という、地鳴りのような音が近づいてくる。国防桜会の兵どもが手に手に武器を引っ提げて広間に集結しつつあった。
「僕は守敏を探す。あとは頼むぞ」
 言い残すと、空は水の上を駿足で滑空し、御殿の中に回った。
 海は長谷部一曜と対峙した。迫り出した額の奥に、執念深そうな目が光っている。さすがは右翼の重鎮。その老獪な手練手管で、いままで幾度となく修羅場をくぐり抜けてきているだけあって、落ち着きぶりは見上げたものがある。さすがの海もそうやすやすと近づける気配ではない。しかも、気がついたときには筋肉隆々の連中が数十人、一曜の前に勢揃いして壁をつくっていた。
 いくらなんでも、海もたじろいでしまう。伸長一六五センチ、体重五〇キロの少年が、居並ぶ格闘技の猛者たちの前に立つと、やっぱり大人と子供・・・以下である。しかも、素手ではない。飛び道具さえ手にしているのだ。ロケット砲を肩にしたバンダナ肉厚が、その砲身を海のどてっぱらに狙いを定める。待ったなしでズバン! という炸裂音を発してロケットが放たれた。
 空気を切り裂く音とともにロケットが海に迫って来る。だが、海の超人的な動態視力はその動きを緩慢なものとしか受け止めていなかった。迫り来るロケットを身を反り返して避けると、海はそのまま水中に没した。
 ボワン! という爆発音とともに、何かが砕け散った様子が水中でも感じられた。
 海は水中を急いだ。
 庭木や灯籠、敷石などが眼下に見える様子は、奇妙なものだ。だが、そんなことに気を取られている暇はない。魚以上のしなやかさで縁先まで泳ぎ着き、水面下から力を溜めて水上に踊り出た。
 泡を食ったのは、海の姿を追って縁先から身を乗り出していた連中だ。探していた相手がいきなり眼前に現れて、腕を抱え込まれるようにして水中に引き込まれていく。まるで河童の攻撃を受けたようなものだ。一人、また一人と次々に水中に没していくが、咄嗟のことで身をかわすことができない。
 海は、水上に浮いたまま猛スピードで次々と猛者たちを水中へと導いていく。火器は水を吸って使い物にならなくなり、大の男たちは水に動きを封じられて慌てふためいたままだ。アッという間に、一〇人ばかりを水中に叩き込んだ海は、俊敏な動きで残りの連中のツボに一撃を与えていく。
 人間の急所というのは、的さえ外さなければわずかな力で相当なダメージを与えることができる。もちろん、筋力トレーニングを積んでも、急所は急所のままだ。パワーアップすることはできない。
 しかし、不思議だった。相手の急所の方が青白く光って、海に「ここだよ、弱点は」と呼んでいるのだ。あとはそこに一撃を加えるだけ。まるで何か底知れぬ力に誘われているとしか思えなかった。カラダが、手が、足が、勝手に動いていくのだから。気がついたときは、大半が畳の上に伸びていた。
 長谷部一曜は顔色を失った。
「逃げるの? オジサン」
 キッと睨みつける海。その鼻孔を腐臭が刺戟した。脳裏に砂漠の国が浮かんた。牢獄の中で横たわり、やせ衰えた青年が一人・・・。その姿を見やる影・・・。自分だけ酒池肉林の歓喜の中に埋もれ、財宝をカバンに詰め込んで小型のプロペラ機に乗り込む姿・・・。
「あんた、僕の祖父さんを見殺しにしたね。仲間を売って、自分だけ助かろうなんて・・・」 いままでの海とは言い様も眼光も違っていた。一曜は気圧されるようにじり下がる。
「な、なにをいうか・・・。貴様ごときになにがわかる!」
「日本を世界の盟主国として、世界の富を欲しいがままにしようだなんて。そういうさもしい根性があんな死にぞこないの妖怪を生みだしたんだ!」
 一曜の心を読み取っている海が、人差し指を突きつけて咎めるようにいう。
「世界で最も優れた民族がリーダーとなってどこが悪い!」
「往生際の悪いオジサンだね、こりゃ」
 海が五指を突き立てた手を、抉るように前に伸ばして中空をギュッ! と握り締めた。 ギャッ!
 途端に絶叫が広間に轟いた。胸を両手でかきむしりながら柱に凭れている一曜。見開かれた目の白目の部分が異様に大きい。舌が顎まで突き出て、垂れた。両頬は激しく引きつり、唇と舌の動きが止まらない。
 絞り出すような声は、屠られる食肉牛の叫びにも似ている。
 宙に突き出した海の五指が、虚しく助けを求めるように動く。その動きが次第に緩慢になって、止まった。
 柱にもたれ、座り込んだ一曜の耳から、鮮血がほとばしった。
 海の見えない手が、一曜の肉体を突き破って心臓を抉り、捻り潰したのだ。一曜には外傷はまったく見られない。医師が診断しても、心筋梗塞か心不全としかカルテには記入しないだろう。
 真言密教の手刀による術殺だ。
 海も、自然と自分のカラダが動いていくのだから止め様がない。意思がそのまま行動に移っていってしまうのだ。恐怖心や不安はない。自分の冷酷非常で残酷な行動に不愉快な気分になったり、慙愧に耐えないなどという思いはない。するべきことを遂行しているだけだった。

第七章 法力合戦ふたたび

    1

 見守っていた西寺邸の高い塀の一部がいきなり炸裂したときは、森末も腰を抜かさんばかりに驚嘆した。
「なんだ!」
 そう叫ぶなりクルマから弾けるように飛び降りて決壊した箇所を見上げた。なんと塀の上端部の一部が、抉られるように失われているではないか。
「三佐殿!」
 振り向くと、反対側の公園の巨木が地上から四メートルほどのところからまっ二つに薙ぎ倒されている。
「ロケット砲でしょう、これは・・・」
「何が起こっているんだ?」
 森末三佐は混乱した頭を整理しようと、両手で頭を抱えるようにしてクルマに凭れた。その視野に、濃緑色の装甲車の姿が認められた。
「どうなってるんだ? おい、貴様援軍など頼んだりしたのか?」
 胸倉をつかんで問い詰められ、一尉は困惑している。そんなことを自分がするはずがない。それは森末三佐も十分に承知のはずだ。三佐殿はこの非常事態でどうかされている。だから、自分に当たっているのだ。ここはジッと我慢を決め込むのが一番だ。一尉はそう確信して何の抵抗もしなかった。
 それが効を奏したのか、森末も自らの過ちにやっと気づいた様だ。たしなめるように一尉の胸から静かに手を放すと、迫り来る機甲部隊に目をやった。装甲車と戦車が数台。他に、特種部隊員を乗せたトラックが一台。電気工事用のと同じようなクレーン車が数台。歩兵はいない。一体なにをはじめようというのだろうか? 森末は困惑の度は深まるばかりだ。
 装甲車の影になっていたジープが一台、スピードを上げて森末三佐の疑問を解くためのように近づいてきた。森末の顔に、わずかながら安堵の色が浮かんだ。堀場幕僚長の姿が認められたからだ。幕僚長自らの指揮ということは大変なことだ。森末は、耳目を疑った。「ご苦労」ジープから降りながら堀場がいった。「大部溜まったようだな、雨水が・・・」
「はあ・・・しかし、中の様子をうかがい知ることはできません。どう対応してよいやら・・・」 現況報告もためらいがちだ。
「ムリもない。わたしも防衛庁長官から指揮を執るよういわれて戸惑ったくらいだ。まさか、この世に龍なんてものが存在するだなどと・・・長官も気が狂ったのかと思ったくらいだ。なにしろ長官は目的や理由をはっきりといわない方だからな・・・。いま、とりあえずすること、それしか教えてくれなかった。君が感じていた焦燥感というのは十分に理解しているつもりだ。わたしもなぜあの兄弟を見張るのか、その理由を最後まで知らされていなかったのだから・・・」
 堀場が話している間にも、作戦は遂行されていた。敏捷な武装した特種部隊員たちが、クレーンで次々と塀の上へとあげられていく。その数、およそ三〇。すでに一〇メートル間隔で塀の上から内部をうかがっていた。堀場は小さなマイクのついたヘッドフォンをつけており、各部隊からの報告が逐一入っているらしいことがわかる。
「結論をいうと、われわれの目標はあの兄弟ではなかった。ターゲットは、この塀の向こうにいる守敏という怪僧と、その配下の長谷部一曜という右翼の大立者だということだ」
 自分たちはずっと大滝兄弟を隠密裡に観察、報告してきた。だが、それが最終目的ではなかったなどといわれても、森末は戸惑うばかりだ。
「詳しい話しはおいおいするとして・・・今後の君の任務は、一般人が接近するのを極力阻止することだ。すでに西寺邸周辺半径五キロは厳戒体制下にある。住民にもできる限り避難してもらっている。だが、強制はできない状態だ。なにしろ、その理由を話そうものなら気が狂っているとしか思われんからな。とにかく、厳戒体制といっても限度がある。中でもやっかいなのがテレビ局の取材というやつだ。そこらへんでウロチョロしていたら取っ捕まえて構わん。まあ、この命令書を読んで見ろ。信じられんことが書いてある。わたしも今朝長官から渡されて、目を疑ったほどだ。しかし、この雨雲の停滞を予知して命令を下されたからには、信じないわけにはいかなかったのだ」
 ポンと森末の肩に手をやると、五〇ページもあろうかという命令書のコピーを堀場が差し出し、ジープに戻った。

    2

 蛟龍は守敏を守るため宙に舞った。
 その蛟龍めがけて激しい怒りの雷鳴が轟いていた。おなじ水神として、妖怪守敏を身を挺してまで守り抜こうという行動が怒りを誘ったのだ。
 相手は利根川や多摩川といった大河川の水神である。前をさえぎる巨躯だけでも威圧感があるだろうに、健気にも蛟龍は身をくねらせて怒りの雷鳴を避けて舞う。むしろ、小龍であることが幸いしてか、碧に輝く鱗を見せる巨大な龍たちの間隙を縫うようにして逃げ回っている。
 蛟龍は透き通るような白龍である。
 その体躯が、次第に手負いの状況を呈しはじめていた。ムリもないことだ。何といっても多勢に無勢。孤軍奮闘では限界がある。大龍に接触しては鱗を落とし、雷鳴に髭を焼かれ、金色のたてがみも無残に千切れ千切れになりつつあった。しかし、蛟龍は守敏を信じていた。信じているからこそ、無謀にも龍の塊である暗雲へと挑み昇っていったのだ。必ずや守敏の祈祷で龍たちがその力を殺がれるであろうことを・・・。

 守敏が護摩壇に近寄ることは、すでに適わない状態だった。しかし、そこはぬかりがない。宏壮な建物の何ヵ所かには仮の護摩壇が用意されており、独鈷杵をはじめとした金剛杵といった様々な法具や教が備えられていた。天井に近い一室で、守敏は黒い三角形の炉に古木をくべて印相を結んだ。護摩を焚いたのだ。三角形の炉は、調伏のための炉である。 そしてのち、一心不乱に教を詠んだ。
 水神の気勢を和らげ、暗雲を立ち去らせようという魂胆だ。憑かれた様に激しい上下動をはじめた。

 蛟龍は霊験が効きはじめていることを肌で感じとっていた。水神たちの間に混乱が生じているのだ。いままで一糸乱れぬ連係プレーで雨雲を溜めていた水神たちが、苦しそうに喘ぎ、だらしなく涎など垂らしはじめている。強力な霊波が龍たちを狂わせはじめているのだ。
 心なしか雨の勢いも弱まっている。
 守敏翁の祈祷が効を奏したに違いないと、弱った体を労るようにカラダを翻すと、守敏のもとへと急いだ。

 完全に床上まで水没した西寺邸では、国防桜会の面々が行き場を失って水中へと身を投じた。泳いで塀まで辿り着き、そこから逃れようというのだ。彼らは着衣のまま飛び込んだ。水を吸った衣服は鉛のように重く、カラダにまとわりついた。屈強な連中だから背広など簡単に引き千切ったが、その間に水没して大量の水を飲み込んだものも少なくはない。 おまけにこの豪雨である。わずか三〇メートルを泳ぎ切るのに、彼らはそれこそ全力を使い果たした。しかし、塀まで辿り着いたものの、手を差し延べたのは自衛隊市ヶ谷駐屯地から特種部隊の隊員たちだった。もう抗う気力もない彼らは、そのまま投降した。

 海は、嗅覚鋭く護摩壇の扉を開けると、水瓶に幽閉されていた水神たちを解放した。黄金色に輝く龍たちは、争うようにして水瓶の口から自由な世界へと解き放たれていった。しかし、関東の水神が一堂に会して豪雨を降らしている現実を目の当たりにして、龍たちはことごとくに海を見た。
「つまりぃ・・・」
 海はどうやって説明してよいか躊躇した。理路整然とことを話すのが苦手なのだ。頭をぽりぽりと掻いている間にも、龍たちは海の周囲を取り巻いて慈愛の眼差しを投げて来た。解放されたことへの感謝と、真の誘導者との邂逅に喜びを感じているのだ。ふれているだけで、意思がつたわり合っていく。しかし、それ以外の邪悪も同時に感じとっていた。
 守敏の呪調伏である。
 いま解放されたばかりの水神たちも一様に怯え、身をすり寄せるようにして海のもとから離れない。
「はじまったな」海は目尻を決して霊波の発信地を突き止めようと、身を翻した。

    3

「強い・・・」
 空は守敏の法力のパワーに幾分気圧されていた。雨乞合戦で破れた程の祈祷だろうと侮っていたのが間違いだったようだ。日本の水神を水瓶に閉じ込めて天変地異を引き起こしてしまうほどの霊力がどれほどのものなのか、目の当たりにしてはっきりと分かった。独りでは勝ち目がない、と。
 階上では守敏が調伏のための祈祷をつづけている。それによって現在この屋敷に豪雨を降らせつづけている龍たちに乱れが生じはじめていることも承知していた。しかし、手が出せない。歯がゆいが、思うようにならない自分が辛かった。
 拳を握り締めている空の背後から、黄金の八寸の龍が近づいてきた。空はそれに気づくと、両手を差し延べ捧げもつように受け止めた。
「まいったよ、麻衣クン・・・」
<空らしくないゾ>
「だけど、人間相手ならともかく、あの妖怪相手じゃ・・・」
<空だってただの人間じゃないじゃないか>
「そりゃそうだけど・・・」
<あたしなんか水神を司る龍の王女なんだからな。玉湖母さんが竜王と交わって生まれた龍王女で、つまりは、空の妹なんだからな>
 八寸の龍が、空を力づけようとしていた。
「それとこれとは話しが別なんだ。食い止めたいけど、自信がないっていってるんだ」
<独りでダメなら二人でやればいい。そのための兄弟でしょ。空と海。二人で空海。ね>
「・・・わかってる。僕たちは二人で空海。海を探さなくちゃ!」
 空は、力強い意思を取り戻し始めていた。麻衣の龍王女からうやうやしく手を離すと、階下への階段へと向かおうとした。
「探さなくたってここにオレはいるよ、兄貴」
 空は、海の力強さを肌で感じた。さすが短時間に密教の奥義を体得しただけのことはある。一日一日、いや、一分一秒ごとにこの弟は成長を遂げつつあった。
 この日のために・・・。
 守敏大徳が甦り、秩序を紊乱させる時に合わせ、能力のポテンシャルを最大限に開化させるよう弘法大師空海は海の降臨をプログラムしたに違いない。
<さあて、頼むわよ。あたしは乱れはじめた水神たちの統制に全力をつくすからね>
 そう伝え残すと、麻衣の龍王女は天井を突き抜けて消えていった。

    4

 番町の暗雲にいち早く気がついたのは、付近の住民だった。疑問の声は、警察や気象庁にばかりではなく、当然のことのようにテレビ局に寄せられた。半信半疑ながら情報は報道部に連絡されて、新入りの局員が確認に出かけることとなった。
 MTVの石原正昭も、そんなテレビ局の新米局員の一人だった。石原はまず東京タワーに電話して、そんな暗雲が千代田区近辺にたむろしているのかどうか確かめた。返答はつれないものだった。しかし、それにもめげず、新宿の高層ビルに勤務している友人に電話したのが、他局に先駆けてこの事実をスクープできる僥倖に恵まれることになった第一の要因だった。その友人は天体観測が趣味で、そのビルにも大口径の反射式天体望遠鏡を持参しており、夜毎星を見てはバーボンなどを舐めるのが至上の悦楽だったのだ。
 石原の電話で、その友人は千代田区番町に天体望遠鏡へと向きを変えた。普通の人間なら、それが雨雲の一種だなどと思いもつかなかったに違いない。なぜなら、そこがちょっと目には少し灰色がかった一区画としか見えなかったからだ。とくに、冬場である。落葉した公園の樹木と勘違いしても不思議ではない。しかし、その友人は星を見るのも趣味だったが、東京の街区を眺めやってはコンクリートジャングルに緑のオアシスを見つけるのも楽しみのひとつとしていたのだ。
 だから、石原から指摘された一角が、数年前から寺院のごとく緑に覆われ、まるで人目を憚るようにひっそりとしたたたずまいを見せはじめていたのを知っていた。だから、その灰色の絨毯が樹木ではないことを即座に理解した。
「こりゃあ、妙だ」
 電話口の向こうで友人が首を捻るような返答をするのを、石原は聞き逃さなかった。
「妙って?」
「動いている」
「何だって?」
「何ていうか、こう、雲みたいにモコモコしてるんだ」
「モコモコか」
「そう。モコモコだ。それに・・・ときどきピカピカ光ってる」
「ピカピカか」
「そうだ。ピカピカだ」
「それって、雷雲みたいなものかな」
「そうとも、見える」
「そうか。ありがとう」
 石原は勇み足を覚悟で報道局のヘリコプターを調達した。調布にある飛行場から局の屋上まで飛来してもらい、自分も乗り込もうという魂胆だ。カメラマンには同期の安島に頼み込んだ。そうして一時間後、石原と安島は局の屋上から千代田区番町へと飛び立った。 眼下に展開される光景をまざまざと見るにつけ、石原は背筋が凍りつくのを禁じざるを得なかった。もちろん、それは凄まじい有様が原因だったが、とてつもないスクープを自分が実況できる可能性があることへの武者震いでもあった。
「ヤスちゃん。ピ、ピント合ってるだろうな」
 緊張で強張っていながらも、カメラのことは忘れない。
「ま、待て。雲っていうのはな、フォーカシングがむ、難しいんだ!」
 安島の声からも、その興奮した様子がひしひしとつたわってきていた。
 石原は、無断で飛び立ったことは棚に上げて、上司にとにかく画像をチェックしてくれるよう無線で必死に頼み込んだ。もう、馘首を覚悟でのフライングである。見てもらう以外に、術はない。安島の映し出す上空五〇〇メートルからの映像は、まさに目から鱗のびっくりものだった。上司は緊急実況放送を即断した。

    5

「こちらは東京の高級住宅地として知られる、千代田区の番町の上空です。ご覧いただけますでしょうか。いま、この住宅地の一角が、まるで厚い絨毯のような黒い雲に覆われています」
 テレビ画面には、モコっとした雨雲が映し出されていた。バリバリバリ・・・というヘリのローター音に混じって、現場からの中継が聞こえて来る。
「まだ、この正体はわかっておりません。気象庁などに問い合わせたのですが、その実態を把握しているという返事はもらうことができませんでした。しかし、実際に、ご覧いただいております一角だけが、ぴたりと長方形のカタチの雲で覆われており、ときどき稲妻なども光っている様子が見えます。いったい東京のど真ん中でなにが起こっているのでしょうか? いま日本全国を席巻している異常気象となにか関係があるのでしょうか? 私たちはこのままこの雲の動きを観察していきたいと思います」
 昼過ぎのMTVのワイドショーは、芸能ニュースから一気に現場からの中継に置き変っていた。
 池袋のマーキュリーでは、葉月葉子がその映像を食い入るように見ていた。
「とんだことに・・・」
 そう呟くと、エプロンを外して客席に放り投げると、曼荼羅絵のような自作のエッチングにチラリと目をやった。左手を胸に当てて、心を落ち着けるようタメ息ひとつ。決心したように小さく頷くと、急ぎ足で入り口の扉を押し開けた。
 そこに、亀毛老人が立ちはだかっていた。

 空と海が方を並べて階段を昇って行く。
 いままで味わったことのない充実感と、漲る力強さを空は感じていた。
(これは・・・感応しているんだ!)
 海の戦闘能力に尖鋭に開化した能力が、空の体内に水が流れ込むように満ちてきた。さっきまで臆していたのが嘘のようだ。いまの二人なら、できる。自信と確信が空を満たしていた。ただし、注意を怠ってはいけない。陥穽に嵌まって檻に閉じ込められるなんていうドジを二度と踏んではならない。そう自分にいい聞かせた。
 ギシギシと階段が鳴る。
 侵入者の接近を知らせるための巧妙な仕掛けだ。だが、そんなものに頼らずとも、守敏のこと、すでに察知しているのは目に見えている。階段を昇り切ると、鉄扉が行く手を遮っている。この中に、守敏大徳が籠り、祈祷をつづけているはず。
 二人は顔を見合わせた。
 了解したように鉄扉に顔を向けると、互いに右手を扉に向けて翳した。その指が、中空の何かを摘んでクルリと捻るような仕種をする。鉄扉を締め上げていたボルトが急速回転して、見る見る勝手に外れていく。
 カチン・・・カチン・・・カチン・・・外れたボルトが床に落ちて行く。
 ゴトッ!
 錠前や蝶番までが外れて落下した。もうこの扉を支えるものは、自らの重みしかないはずだ。空は、海の力に引き摺られるようにその掌を鉄の扉に向けた。<気>が、まるで大型の電磁石が鉄片を強力に吸いつけるように集まって来る。二人の力は、厚さ五センチもあるような鉄扉を軽々と室内へ向けて押し倒してしまった。
 燃えさかる炎が一瞬垣間見えた。
 しかし、そんなものに気をとられている暇はなかった。
 凄まじい勢いで独鈷杵が二人の顔面めがけて飛来したのだ。
 海は首を捻ることで上手くかわしたが、一本は空の頬をわずかだが擦っていった。ジュッという音とともに、焼けるような痛みが空を襲った。
「兄貴!」
 空の恐るべき動態視力をもってしても、独鈷杵の早さをかわせなかったのだ。常人を相手にしているのとは次元が違う。守敏が放った独鈷杵からすれば、弾丸など可愛らしいものに見えた。しかし、機先を制するのはたやすいが、二次攻撃となると法力の強弱がものをいう。
 いち早く二人は結界を結び、次の攻撃に備えるとともに、守敏の存在をうかがった。幾重にも厳重に張り巡らされた結界の中に、老醜と腐臭を撒き散らしながら守敏が鎮座している。
「おい! このくたばりぞこない! もう観念して成仏するんだな」
「バカをいうな。貴様らに邪魔されるようでは現世に甦ってきた甲斐がないではないか。恨み骨髄、食らえ!」
 守敏が炉に新たな古木をくべると、勢いよく火がはぜた。
「呪殺術か!」
 古木が尖鋭な木端となって二人に襲いかかった。かろうじて結界で防いだものの、かなり結界に破れ目ができた。褐色の骨にわずかの肉片をまとっただけの守敏が、その外観からは信じられないほどの俊敏さで次の古木を炉にくべようとしている。次にまた木端を食らってはたまったものではない。扉のあった場所の、四角に穿たれた、その両脇に身を隠す。はぜる音とともに、木端が穿たれた扉の跡から恐ろしい勢いで噴出してきた。
「これを食らってはたまったものではないな」
「何かいいアイディアってのないのかね、兄貴」
「攻めるより、守れってとこかな、いまは」
「じゃ、みすみすやられるのを待つっていうことか?」
「いや・・・」
 空が応えようとしたとき、屋敷が揺れた。
「地震?」
「みたいだな。つまりこれは・・・」
 ミシッ!
 揺れは治まるどころかますます激烈になっていく。
「やべえ」
 実際ひどかった。
 揺れとともに屋敷が歪み出したのだ。柱と床が、九〇度を保つことができなくなり、平行四辺形のようになってきた。それが、上下左右に連続して揺れる。荒れる太平洋に放り出された木造船のような様を呈してきた。
 ミシッ!
 柱が軋み音を上げる。見上げる天井からは、歪みによって亀裂が生じ、裂けた板片がバラバラと降って来る。細かな木屑やホコリが辺りに舞っている。
「つまり、これはだな・・・」
 空が説明しようとすると、今度は床がズレて断裂をつくった。
「お、落ちるよぉ」
 何かしがみつくものがないか、海が周囲を見回す。が、体を任せられるようなものは何ひとつない。というよりは、あっても崩落寸前か崩壊していた。
「こ、これじゃ屋敷が倒壊しちまうぜ!」
「これは、つまりだな、守敏が・・・」
「あああああ・・・」
 屋敷が軋み、歪み、擦れ、バラバラになろうとしていた。床が、斜めに崩れ落ちて行く。まるで滑り台を滑りおちるように落下していく。
「あわわわわわわわ!」
 溺れるものは藁をもつかむの譬え通り、空も海も両手を頭上高くに捧げ上げた。それがムダだと分かっていても・・・。だが、ムダではなかった。二人の手首が、しっかと握られたのだ。どうしたことかと見上げれば、天使のごとき微笑みが二人を支えていた。
 空にはそれが遥か彼方の母に見えた。海には、大滝嶽で出会った遍路姿の女性に見えた。どちらにしても、慈愛に満ちた眼差しに、安らぎを感じとるとともに、救われたという安堵感に満たされていた。
「あなたは?」
 彼女は宙に浮いていた。天女の衣を纏い、引力から自由にカラダを浮かせ、静かに倒壊寸前の西寺邸から二人を運び出そうとした。そして、独鈷杵を空と海に握らせた。

    6

 信じ難い光景だった。突如地鳴りがはじまったかと思ったら、守敏邸がギシギシと凄まじい軋み音を上げだしたのだ。
 森末三佐は、目の当たりにしている事態を呆気にとられて見守る以外、なにもする術を見出だすことはできなかった。すでに国防桜会の面々は自衛隊の特種部隊に捕獲され終わっていた。残るは家主の西寺守敏と長谷部一曜、そして、大滝兄弟の安否が気遣われるだけの状態だ。下水管を塞いでいた速乾コンクリートは、あらかじめセットしてあったプラスチック爆弾に電流を流すだけで排除。もちろん、最低限の破壊で済むよう計算されていたから、被害と呼べるような事態は発生していない。
 西寺邸を満たしていた雨水は、猛烈な勢いで下水に流れ込み、何ヵ所かでマンホールの蓋を舞い上げた。しかし、その事態もすでに折り込み済みで、周辺の住民に浸水などの危険がないよう配慮されていたのだ。
 その作業が終了して、クレーンで森末が塀の上に這い上がった。塀は厚さが二メートル近くもあり、まさに砦と呼ぶに相応しい。雨水は、まだ深さ三メートル程残っており、その中央に、池に浮かぶ宮殿の如くに屋敷が威容を誇っている。これが、自分たちが最終目標としていた守敏大徳の住む屋敷だと思うと、森末三佐は身が引き締まる思いだった。
 その直後だった。
 ドカン! という直下型の地震とともに、大地がうねり、水面が怒りを帯びたように荒れ狂いはじめた。それとともに、威風堂々とした入母屋造りの屋敷が、飴のように歪み、瓦が四方に散って破風が乱れ飛んだ。それだけではない。屋敷は上下左右に伸び縮み、壁面を覆う板や柱までが砕け散っていったのだ。あまりの揺れに、森末は塀の上に這いつくばりながらも、その一部始終を見届けようと必死だった。なぜなら、北島防衛庁長官がしたためたという命令書には、信じ難いことが書き記されていたからだ。
「あれは、やっぱり龍だったんだ・・・」
 降り頻る豪雨に打たれながら、森末は邸内で繰り広げられている法力合戦を想像しようとして、それが創造力の域を脱していることを感じざるを得なかった。目の前で起こっていること。これも、法力合戦の一つなのかも知れない・・・。願わくば、あの兄弟が無事でいて欲しい。
 祈るような面持ちで、崩れかかっている屋敷をましまじと見つめた。

    7

 テレビ中継がはじまったことを知った堀場幕僚長は、正直いって困り果てていた。妙なものがテレビに映し出され、都民がパニックに陥る事態を慮ったのだ。中途半端な好奇心は怪我の元である。できるならば、中止させたかった。
 あらかじめ各局に報道規制の通達を発令していたのだが、フライングを犯した現場の連中がいたらしい。
 MTVがすでに中継をはじめていることを盾にとって、各局は強行に取材の許可を求めた。一局に抜け駆けされて黙っているわけにはいかないからだ。だが、政府は重大な機密に関する行動であるから、取材に関しては拒否の姿勢を崩すことはなかった。そして、電波管理法の立場から、MTVの行動は民意を故意に扇情し、騒乱状態を招く行為として処罰し、東京タワーからの送信をストップさせると宣言した。

「なんだって? 取材をやめろだと! そんなことをいう権利がどこにある! 俺たちは真実をつたえるのが商売なんだ。いくら相手が政府だろうがゴジラだろうが、命張って取材はつづけるぞ!」
 石原は強気の姿勢を崩さなかった。もちろんカメラマンの安島も同じ考えだった。たとえ送信をストップされて同時中継ができなくなっても、千載一遇のこのチャンスを逃す手はない。カメラに収められるだけの映像は撮っておくのだ、と自分にいいきかせて、ヘリを戻そうとはしなかった。

 北は靖国通り、南は新宿通り、東を内堀通り、そして、西を外堀通りに囲まれた一角は、厳戒体制下のもとで立ち入り禁止となってた。亀毛老人と葉月葉子は、靖国神社にいた。南は靖国通りであり、道路一本隔てた向かい側に侵入することは叶わない。だが、できるだけ二人のいる近くまできて、見守ってやりたいという心持ちが、ここまで足を運ばせたのだ。
 伽藍にほど近いベンチに座を占めていた葉子さんが、瞑目したまま微動だにしない。横では、亀毛老人がそわそわと落ち着きなく、太ももの内側を忙しなく拳で叩いている。
 テレビ中継で集まった野次馬が、そこかしこで爪先立ちし、首を長くして暗雲を一目見ようと一所懸命だが、視野にはごくごく普通の青空しかうつらない。何も見えないことがわかると「なんだ、つまんない」などと不満を口にしながら、それでも立ち去り難くうろついていたが、やがて、何も起こらないことにウンザリした顔だけを残して去っていった。 人気がなくなりかけたときだ。
「ギャッ!」
 という悲鳴をあげて葉子さんが亀毛老人にしがみついた。
「地震! 揺れる・・・ああ、崩れる・・・たいへんだわ・・・ああ・・・」
「どうなさった? 大丈夫ですかな!?」
 葉子さんは亀毛老人の両腕をしっかりと、痣のつくほど強く握り締めていた。何かに憑かれたかのように、まだ深い催眠状態にある。それが分かっているから、亀毛老人は譬え手首が痛かろうがそのままにしておいた。彼女は、入眠儀式をして、西寺邸に<気>を放っていたのである。
 亀毛老人が表立って大滝兄弟を守る教育係りとすると、葉月葉子という存在は、陰ながら兄弟を導き、支援する存在だった。これも、即身成仏として入定した弘法大師が、天空の雲の間から地上を見やり、生まれ変わりである空と海を守るべく遣わした守護神の、仮の姿である。現世の人物のカラダを借りて、その意思を弘法大師に代わってつたえようとする<力>なのだ。自分はそれと自覚せずとも、つねに二人を庇い、守ってきていたのだ。

    8

 空と海は、瓦が剥がされた屋根の上にいた。壮大な城壁に囲まれた、崩れ行く城塞の頂きに近い位置だ。柱の一部がひしゃげ、屋敷はすでに傾きを強めている。周囲は水に満たされていたが、その水位は徐々に下がっていっているように見えた。
「あの糞ジジイ、どこ行った?」
 見回しても、人の気配はない。それに、守敏の調伏の祈祷が効果を発揮したのか、暗雲は大部規模を縮小していた。神田川や石神井川などの小龍は、たまらず退散。利根川、多摩川、隅田川などの重量級の龍が悶えながらも黄金の龍の命にしたがって、わずかながら雨と雷雨を浴びせている状態のようだ。
「見ろ、海!」
 空が指差したのは、守敏が最後に護摩を焚いていたと思える部屋のあった辺りである。一匹の白い龍が、逃げるように天空を目指してその体躯をくねらせながら天空を目指して昇って行く。見れば、そのたてがみに守敏大徳が必死の形相でしがみついている。
「この機に乗じて逃げようっていうんだな、糞ジジイめ!」
「そうらしい」
「そんなこと、させるか!」
 海は、母のような、お遍路さんのような、葉子さんのような彼女がさっき手渡してくれた独鈷杵を握り締めた。そして、掌を広げて<気>をたっぷりと込めるように念ずると、やおら守敏大徳めがけて放った。
 白銀の独鈷杵は、大気を切り裂いて一直線。白い龍が弾き飛ばそうとした尾をも射抜いて守敏の背中から心臓を突き破った。自分の心臓を尖端に引っかけたまま、胸板から飛び出た独鈷杵を見やる守敏大徳。生への執着は並ではないらしい。心臓の二つや三つくれてやるわいという不敵な笑みを浮かべるだけで、毫ほども痛みを感じていないようだ。
「しぶといジジイだな」呆れ果てたように海がいう。
「いったん死んでこの世に生まれ変わってきたんだ。ゾンビみたいな性格してるんじゃないのか?」
「冗談はよしてくれよ、兄貴。さあ!」促されて、空も独鈷杵を手にした。
「あいつの弱みは、腐ることだ。それを防ぐために水銀と防腐剤を使っていたはず・・・」
 空が独鈷杵に<気>を吹きかけた。海のように、戦闘的なものではなく、理知的に、念ずるように<気>を込めた。
 空の独鈷杵は、海のほど勢いはなかったが、的を追うに正確だった。まるで生き物のように龍の反撃をかわし、尾てい骨から捩じり込むようにして守敏の体内に納まった。放って置けば、守敏のカラダは腐敗が進行して溶解してしまう。だから、内臓にも皮膚にも、水銀と防腐剤が充填されていた。その、一番腐りやすい臓物が満たされている腹の中心に、独鈷杵は腰を落ち着けたのだ。
 空は、印相を結び、真言を唱えた。全身を震わせる姿は、鬼気に満ち、その波動は海にも自然につたわった。二人は、倒壊寸前の屋敷の庇の上で、真言を唱えるのに必死だった。降りしきる雨も、崩れゆく屋敷も一切気にならなかった。

 目の前に龍が昇って来る。
 これって嘘だろう? というのが、石原と安島の本心だった。
 バラエティ番組で使われる発泡スチロールでできた大道具なんじゃないのか? しかし、空中遥か数百メートルに、発泡の龍なんぞを飛ばすだけの技術が我MTVの大道具にあったとは記憶していない。もちろん、スピルバーグだってルーカスだって不可能な筈だ。
 あの手の映像はコンピュータ・グラフィックによる合成がメインなんだ。するってえと、この下から舞い上がって来る白い龍の顔をしたバケモンは一体全体何やつなのだ? 困惑が恐怖を凌駕して、不安感よりも好奇心をかき立てた。テレビ局の報道部なんていうところにいると、感覚がズレてしまって敢えて危険に飛び込んでしまったりするからコワイ。 石原もカメラの安島も、いまその状態だ。とくに、カメラを覗いている安島にとって現実感は稀薄もいいところだ。アニメでも撮っているつもりでファインダーを覗いている。 恐怖心をもっとも感じていたのは、ヘリのパイロットだが、狂人に後ろからナイフを突きつけられてような状態で、反論のしようがない。
「戻るなんていったら、外に放り出すからな」
 と石原に狂気と凶器の眼差しでいわれたら、だれだってビビッてしまうに違いない。
「おい! あの龍に人が乗ってるぜ!」安島の声に、石原はあわてて双眼鏡を当てた。
「なんだありゃあ!?」
 古色蒼然とした飴色の骸骨が、法衣を身につけて龍のたてがみにしがみついている。初めて見た日にゃだれだって驚嘆する。骸骨といってもまったくの骨ではない。干涸びてはいるが髪も生えているし、半熟卵の白身のような目も眼窩に納まっている。引きつって破れた唇に、押せば膿が出そうなどくどくしい色の歯茎。生きているのか死んでいるのか、常人では判断のつけようがない。
 だが、そいつは背後を時折見やっているし、両手はしっかりとたてがみを握り締めている。
「バケモンか?」
「そうとしか思えないな。ともかくちゃんと撮ってくれよ。こりゃあ大スクープ間違いなしの社長賞ボーナス二倍づけってやつだぜ」石原は興奮の極みだ。

    9

 守敏は肉体の異変を感じていた。
 腹が異様に熱い。まるでほてった炭でも抱いているみたいに、じわりと熱が腹部を襲っていた。それは腐敗を促進させ、内臓をモツ煮込み状態どころか腹部に腐敗ガスを発生させ、異様に腹を膨らませていった。独鈷杵に込められた微熱が、防腐剤や水銀の効き目を弱らせて、発酵を促していたのだ。
「う、なんだ、腹が膨脹してきたではないか・・・!」
 守敏は腐りかけとはいえ、この世に復活してから人間並みに食物を普通に採り、内臓で消化・吸収・解毒などの作用を行なってきた。その重要な部分が急速に腐敗していっているのだ。
 額や掌は玉のような脂汗でぬるぬるし、吐き気が襲ってきていた。
「くそ!」
 急激な吐き気が、胃を反転させた。絞り出すように喉の奥から吐瀉物が噴出された。それを見て、守敏は血の気が失せた。いま、口腔から飛び出て背後へ飛び散っていったのは、細い管のように見えた。
「??」
 腹が充満するほど腐敗が進み、出どころを失った腸管が、胃を真実反転させて喉から飛び出たのだ。喉の奥に詰まっている吐瀉物の残りを、かろうじて引き摺り出す。それが自分の腸であることに、守敏は気づいた。
「ワシは腐っている!!」
 もっとも恐れていることが、現実となって迫っていた。
「ガキどもめが!! 蛟龍! ワシを見捨てるでないぞ!」
 言葉も力がない。
 腐敗はかろうじて骨にへばりついた肉片にも及んできた。防腐剤を十分に染み込ませた筈の肉が、輝きを急速に失いはじめていた。たてがみにしがみついた腕の肉が、ずるずると骨から剥離しはじめて、緩くなっている。上昇をつづける空気抵抗で、一部が吹き飛ばされ、骨が露になりはじめてきたのだ。
「おのれ・・・!」
 眼球が生卵のようにどろりと頬に垂れてくる。歯が、ぱらぱらと歯槽骨から抜け落ち、頭皮がわずかな毛髪とともにカツラのようにズルリと剥けて飛び去った。
 もはや人ではない。
 内臓はどろどろに溶け、肉までもが飛び散って行く。独鈷杵は、腹部から胸へ、延髄へと移動するごとに、周囲を腐らせていった。そして、延髄から垂直に脳下垂体を突き破って、大脳へと到達。頭頂から突き抜け、一月の陽光を全身に浴びてキラリと輝いた。
 溶けた脳が、粉霧となって散乱して行く。もう、守敏大徳のカラダを支えるものは何もなかった。骨を結びつけておく腱も軟骨もすべて溶解し、散ってしまっていた。黒光りする骨が、力なく龍の背から離れ、地上へと落下していっていた。

    10

 守敏の復活は、失敗した。むろん、世界を相手に覇権を牛耳ろうという長谷部一曜の無謀ともいえる野望も、水泡と帰した。
 守敏を腐敗させ、消滅に至らしめた独鈷杵は、夕日を浴びて紅蓮に燃えると、ゆっくりと地上に戻り、空の掌に納まった。
「とにかく、一件落着ってやつかね、兄貴」
「そういうことになるかな。でも、ここから逃げ出さないことには、僕たちだって安全とはいえないと思うがね」
 グラリ・・・。
 主を失った屋敷は、急速に張りつめていた気力を失って、脆くも瓦解せんとしていた。 一〇数メートル下では、豪壮な庭だった所も、汚泥と瓦礫にまみれて見る影もない。
「じゃ、オレ、先に行くぜ」
 言い残して、海は軽快なステップワークでわずかな足場を見つけては、猿のような動きで危険から離れて行く。中には海が足をついた途端に崩れ落ちる壁面や庇などもあり、空がその後をついていくわけにはいかない。
 自分なりに足場として確かな箇所を見つけていくしかない。だが、<気>を集中すれば、安全な場所が向こうから教えてくれるのだ。それにしたがってホップ・ステップ・ジャンプとつづけていけばいい。
 二人がもと庭だった地面に辿り着いて数分して、偉容を誇っていた屋敷はただの古材の山となって潰れ落ちた。
「守敏城落城せりか」
 雨はもう止んでいた。
 しかし、たっぷりと水分を含んだ木材からは、埃のひとかけらも舞い上がることはなかった。ことごとくが縦横に亀裂が走り、古材としても使い様がないことがはっきりと見て取れた。
「そうだ。兄貴、さっきなにかいいかけてたよな、地震がはじまったときさあ。あれってなんだったの?」
「ああ。つまり、あれはだなあ・・・」
 いいかけようとすると、海が別の何かに気を取られたらしい。すっとんきょうな声を上げた。
「見てよ兄貴、レンジャー部隊みたいな連中が塀の上から乗り込んでくるぜ!」
「ああ。ずっとこの屋敷の回りを監視していた連中さ。危険が去ったから入ってきただけのことだろ」
 こともなげにいう。
「知ってたの、連中のこと、兄貴!?」海が目を剥いた。
「ああ。ずっと前からね」
「ずっとって?」
「ずっとさ、ずっと。僕たちはね、ずっと何年も監視されてたんだよ」
「何それ!?」
「気がついたのは、もう二年近く前のことだ。亀毛先生に話したんだけれど、放っておけっていわれて、そのままにしてあった」
「それで、黙って監視させてたわけ!?」
「そういうわけでもないがな」
「どういうことさ?」
「調べた」
 空の目が、近づいて来るひとりの士官を捉えていた。
「ほら、あの近づいてくるのが森末っていう陸上自衛隊の三佐だ。堀場っていう幕僚長直轄のミッションのリーダーさ。しょっちゅう赤外線スコープつきのビデオモニタで家を覗いていたんだ」
「何なのそれ!」声を荒げて海がいう。
「そういう不躾で失礼な行動に、天誅ってやつを下そうとは思わなかったの?」
「うーん。悪いやつにも見えなかったしなあ・・・」
「でも、それってノゾキ行為ってやつで、犯罪じゃない?」
 そういっている間にも、森末三佐が神妙な顔で近づいてきていた。その表情からは、二人にどう話しかけてよいやら戸惑っている様子が感じられた。声が届く距離にまで近づいたとき、話しかけようとする森末よりも早く、海が口を開いた。
「これはこれは、森末三佐殿」
 当てつけがましい言い方だが、そのことよりも自分の名前と階級を呼ばれたことに、驚きの色を隠せないようだ。
「しっ、知ってるのか、私のことを・・・」かなりたじろいだ声を上げた。
「陸上自衛隊陸上幕僚長堀場良作率いるところの密教プロジェクトのリーダー。北尾防衛庁長官直々の命令で動いていたんでしょ」
 愕然とした。
 少年たちが自分のこと、命令のことなど裏の裏まで知っている。そのことに言葉もでない。恐るべき情報力だ。
「・・・いや、君たちの能力には恐れ入った。そんなことまで分かるとは・・・」
 森末は、完全にシャッポを脱いでいた。監視していたつもりが、逆に調査されていたとは・・・、それとも、心を読むパワーも身につけているのだろうか。この二人に関する興味はますます高まるばかりだった。
「三佐!」
 振り向くと、一尉が担架を担いだ兵を引き連れて近づいてきていた。
「屋敷の中に生存者がおりました。どうも、連中の仲間とは違うように思われます。ひょっとして・・・」
 といって、空と海の方を見て、軽く顎をしゃくった。
「君らの知り合いじゃないかと思って連れてきたんだけど」
「あ!」海が指をくわえた。「完全に忘れ切ってたよ、豪二郎叔父さんのこと」
「ケガの方はどうですか?」
「少し水を飲んでいるのと、ショックで気を失っているみたいだね」
 空の問いに一尉が応える。
「病院にお連れしろ」
 森末三佐が口早に命令した。一尉は首を前に突き出すような仕種をして、回れ右をした。 まったく一尉ときたら軽いやつだ。この二人に馴々しく口をききやがって・・・。お前なんかこの二人にかかったらアリがひねり潰されるみたいにブチュッ! なんだぞ、馬鹿者。軽薄な口のききかたしゃあがって、次のミッションからは必ず外すからな、見てろ! 森末は腹立たしげに一尉の背中を見やった。
「それで、用件っていうのは?」
 空にいわれて森末三佐はわれに返った。
「北尾防衛庁長官がお目にかかりたいとのことです。ご同行願えますでしょうか?」
 空と海が「ま、いいか」っていうように肩を竦めて同意した。

    11

 石原の頭の中には「独占スクープ! 千代田区にあった魔の巣窟・・・そこで見たものは? 龍を操る怪人を倒したのは、超能力をあやつる二人の少年だった!!」という衝撃的なタイトルがすでにプリントされていた。
「スゲー! こりゃ二人でピューリッツァ賞ものの大スクープだぜ!! なあ、ヤスちゃん」 興奮しながら安島の背中を勢いよく揺さぶった。
「あの骸骨みたいのが溶けて散逸するシーンなんざ、ハリウッドのSFXも平伏して退散しちまうこと間違いなしってやつだぜ」
「石原ちゃんのお陰だよ、こうして現場でカメラ回せたのもさ。やっぱ石原ちゃん、天性のジャーナリストよ。尊敬しちゃう。もう、局のアイドル決定!」
 まるっきり舞い上がってしまっている。
 すでに雨雲はほとんど消えていた。わずかにぽつんと、ひと塊りの黒い雲が浮かんでいるだけだ。その雲は次第に上空へと流され、いまにも消滅してしまうように、見るものには感じられた。守敏の呪縛から解放され、水神たちは各々自分の棲み家へと、雲に姿を変えて去って行ったのだ。
 だが、残っていた黒い雲に、光り輝く鱗をもつ龍が一匹、隠れ潜んでいた。その目は、獲物を狙う狩人のように鋭く、輝きを放っていた。その龍が、額にわずか八寸ばかりの黄金の龍を戴いていたのを見たものはいない。さて、タイミングを見計らって、龍はゆっくりと螺旋を描くようにヘリを巻き込もうと降下しはじめた。その様子は、地上の人間たちには一陣の竜巻がヘリをすっぽりと飲み込んだように見えた。
 幾人かの人々はその様子を垣間見て、思わず息を飲んだ。次のシーンがまざまざと想像できたからだ。機体はバラバラとなり、乗務員たちは空中に放り投げられるに違いない。 しかし、思惑に反して、竜巻はヘリを飲み込んだまま遥か上空へと勢いを増しながら昇り去った。

第八章 やすらぎ

 蔵王には例年なみの降雪が戻り、スキー客不足でお手上げ状態だった観光客相手の施設も、やっと息を吹き返しはじめていた。各地の極端な水不足状態も徐々に解消され、いたって平凡な日本の冬が全国で繰り広げられていた。
 大滝空は、裏庭に面したサンルームで食事の後の新聞タイムを満喫していた。そんな兄を、海は旧き活字人間と揶揄する。
「新聞なんて、事件のリアルタイム性にくらべたら、情報としての鮮度なんてないも同然だぜ。やっぱ、生中継が一番さ。サッカーでも野球でも」
「まるっきりそういうわけでもなさそうだぞ。ほら、こんな記事が載っている。・・・行方不明中のMTV取材班のヘリを利根川上流で発見。竜巻に呑み込まれたまま安否が気遣われていたMTV取材班のヘリコプターが、群馬県利根郡の山中に着地しているのが発見された。ディレクターの石原正昭さん(二七)とカメラマンの安島宏さん(二八)、パイロットの牛田義行さん(三六)さんらは全員無事で、自力で山を降りてきて住民に元気な姿を見せた・・・って、何だこの記事は」
「いいじゃん。助かったんだから」
「そりゃあそうだが、元気に手でも振りながら下山してきたのかな?」
「・・・三人とも異様な体験を物語っているが、失われてしまったという取材用のビデオテープを捜索することを強く地元住民に依頼。消防団がヘリコプターが着地した周辺を捜索したが、何も発見されなかった・・・」
「ま、そういうシナリオなんだから・・・」
 ごろんとソファに横になっている海が、分け知ったようにいった。
「それにしても、北尾っていう防衛庁長官が祖父さんと一緒にバンドーンに行ってたとはね」
「それは分かっていたことだ。亀毛先生が監視行為に詮索無用っていったのも、それを知っていたからさ」
「それにしても、見殺しにして済まなかったから、その償いをっていわれてもなあ・・・」
「バンドーンで何があったのか、真実のところは分からんよ。いま殺されようという事態に陥って、平常心でいられるほうが不思議なくらいだ。無闇に責めるだけがいいとは限らないと思うがな」
「でも・・・。連中の助けなんか必要なかったぜ」
「そりゃあそうかも知れないが・・・あの塀の中をプールにしてしまうというアイデイァはなかなかじゃなかったのかな」
「そんなものかね」
 横になったまま腕組みし、足でクッションをポンポンと蹴りつづけていた海が、ふと思い出したように顔を空のほうに向けた。
「なあ、兄貴が、つまり・・・つまり・・・っていいかけてたアレさ、なんだったの?」
「地震のときのやつか?」
「ああ」
「つまりだな、あの地震はだな・・・」
 空が姿勢をただして話はじめたときだ。亀毛先生の家中に響き渡るような声が轟いた。
「麻衣さんがいらっしゃったー」
「おっ、人間に戻ってのお出ましかな?」
 ガバッと体を起こすと、喜々として海は玄関に向かった。
「あれはだな・・・」
 話す相手のいなくなった空だが、鼻の横を人差し指でかきながら、これ以上待っていたら話すチャンスがなくなってしまうといわんばかりの表情で、だれにともなく話しはじめた。
「つまりだな、呪い調伏だの呪殺術だのを連続して行なうと、世界のバランスに狂いが生じるわけだ。みごとな調和を描いている曼荼羅にズレのようなものが生じてだな、天変地異が起きやすくなるんだな。あの地震と屋敷の崩壊は、つまりまあ、自分がたちもたらしたっていうことを・・・」
 そこまで話したとき、快活な麻衣の声が室内に響いた。
「なに独りでブツブツいってるんだ! 変に思われるぞ、そんなことしてると」
「もう十分にヘンですから、何と思われようと痛くも痒くもないけれどね」
 そういって空が肩を竦めた。
「ほらほらほら、二人とも」
 両手に空と海の腕を抱えたまま、麻衣が小春日和の西ヶ原に連れ出していった。
 その姿を、亀毛先生は慈しみの眼差しで見つめていた。
送った・・・。
 豪二郎は麻衣が実は玉湖が竜王と交わってもうけた娘であることは知らない。豪二郎も妻も、自分たちの娘だと信じ込んでいる。日本の水神を見守る黄金の龍を見守る役目を、仰せつかったということだ。
 そのこと自体も大滝河川は知っていたはず。
 いやすべては、大師のお考えの通りにことは運んでいるのだ。
 それでよいのだ。

                           一九九三・八・十九 完
                           一九九四・四・十三 加筆