噂の祐太

プロローグ

 ぼくには、ちょっとした霊感みたいなものがある。少なくとも、あると思っている。でも、あくまでも「ちょっとした」「みたいな」であって「物凄い」とか「人に自慢できる」ほどのものじゃない。だから、自分の能力を人に話したことはない。なぜって、ぼくは友だちからホラ吹き男だなんて呼ばれたくないからだ。でもちょっとだけ話してみようと思う。
 先月までいた中学校でのことだ。
 春休みに行なわれた隣町の中学校との定期試合で、ぼくはショートを守っていた。
 実はこれはぼくにとってその中学での最初で最後の試合だった。
 春休みが終わればぼくは晴れて二年生となり、レギュラーになれることが決まっていた。けれどオヤジが突然の転勤の辞令を三月の末にもらったせいで、次の学年は別の学校に行くことになってしまったのだ。
 一年のときは出番なんかなかった。玉拾いと洗濯とグラウンド整備とうさぎ飛びの毎日っていう、定番の最下級生だったんだ。これからっていうときの突然の転校が、どれほどぼくにとって酷だったか、分かってもらえるだろうか。
 だから、その試合には密かに賭けるものがあった。どうにかひと花咲かせたいっていう気分だったんだな。
 でも、相手は地元の強豪で、いままで一度も勝ったことのないチームだった。その日もぼくたちの学校は二対〇で負けていた。初スタメンのぼくは、二打数二三振。いいところがまったくなかった。そうして迎えた六回の裏。二死 ランナー二塁。初めてのチャンスがやってきた。で、打番がタイミングよくか悪しくかぼくに回ってきていた。
(ピンチヒッターなんか出さないでくれ)
 ぼくは祈るような思いでネクストバーッターズサークルから監督の指示を仰いだ。
 選べ。
 そういうサインが見えた。
 相手校のピッチャーは地元でも注目されている剛速球投手だ。この試合もノーヒットに抑えられていて、二塁にいるのは四球と盗塁で進んだランナーだった。
 はっきりいって、凄いプレッシャーだった。次のバッターに回す仕事・・・。四球と盗塁で少し乱れているっていっても、やっぱり相手ピッチャーのカーブは切れがいい。外角低め、内角高めを正確についてきて、ぼくは手が出せずにいた。
 あっという間に、二ストライク二ボール。グリップを握る手が、汗で滑る。ぼくはタイムを取って、ダッグアウトの監督の顔をうかがった。腕を組み、渋面のまま下唇を突き出している。
 カットしていけ。選んで打て。
 指示はそう変わった。
 でも、「打てるはずがない」とタカをくくっているに違いない。初スタメンの八番バッターに、期待などかけているはずがないのが表情にありありと現れていた。他のナインもすでにグラブを手にしたりしていて、あきらめ顔だ。
 かなり悔しかった。
 意地でも打ってやる。闘志のようなものがせ腹の底から湧き上がってきた。
 ぼくは両手を広げてバットをもつと、大きく伸びをして、
(リラックス、リラックス)
 といいきかせた。
 そして、スパイクの泥をバットの先端で叩いて落としてからバッターボックスに戻り、土を二、三回ならした。時間稼ぎの一連の動作のあと、グリップを短めに握ってピッチャーを見た。自信満々で不敵な面構えだ。
(この野郎! 投げて見ろ!)
 そのとき、ピッチャーズマウンドとぼくの間を、一匹の紋白蝶がひらひらと舞っているのが目に入った。それが気になったのか、間合いを取るために相手もセットポジションから二塁ランナーに牽制球を送った。
 時間が怠惰に流れていった。緊張が緩みかける。集中力を保とうと、ぼくはやつを見据えた。
 やつは笑っていた。
 そして、なんとストライクゾーンのど真ん中にストレートを投げてきた。なんていう自信だ。投げるとき、やつが白い歯を見せていたのは、錯覚ではなかった。
 勝負球はカーブで、外角を狙ってくると読んでいたから、ぼくは完全に虚を衝かれ振り遅れてしまった。
 見逃し三振だ。
 目の前が真っ暗になってしまった。嘲りと侮蔑に包まれている自分が情けなかった。
「くそったれ!」
 ぼくは小さくつぶやいてバッターボックスを離れてダッグアウトに向かった。その背中から声がかかった。
「タイムかい?」
 審判がぼくに怪訝そうにいった。
 なんのことだかよく分からなかった。だって、三振でチェンジのはずなのだから。
 ぼくは眉間に皺を寄せて疑り深い視線を審判に投げかけた。
 普段は町役場の出納係りをしている野球好きな彼は、好意的な眼差しでぼくを見ていた。嘘をいっているとは到底思えなかった。それに、相手チームもダッグアウトに戻ろうとしていない。ランナーも二塁にいる。
 ぼくはカウントを間違えていたのだ。半信半疑のままバッターボックスに戻った。
 傍から見たら、ぼくの行為は間合いを外すためにバッターボックスをちょっと出た、というぐらいにしか見えなかっただろう。でもぼくは、三振した上で、もう一回オマケでバットを振りに戻った気分だった。
 ぼくはスタンスをしっかりととり、グリップを短めに握った。やつの自信満々で不敵な顔が相変わらずあった。
(クソ野郎!)
 そのとき、一匹の紋白蝶がマウンドとぼくの間をひらひらと舞った。さっきと同じだ。やつは気にして、セットポジションから二塁ランナーに牽制球を送った。
 一緒だ!
 グラブを尻にあてがってサインの確認している顔も、白い歯がこぼれているのも同じ。寸分違わない!
 もしかして?
 さっきのあれは予知夢で、次の球はストライクゾーンど真ん中のストレート!?
 あわてて、ぼくはグリップを長めに持ち直すと、右足を半歩ほど後退させた。
 やつは投球モーションに入っている。反り返った右腕から、白い軟球が押し出されるようにして飛び込んで来る。まるでスローモーションを見ているようだ。
 さっき一度リハーサルをしているのだ。真ん中を目がけてバットを振ればいい。右足に重心を移して、両手を耳の上まで引き絞る。そして、力一杯ストライクゾーンの中心めがけてバットを叩きつけた。
 ボールなんか狙わなくったって、ボールのほうがバットに当たってくれるはずだ。振り切ったバットから心地好い手応えがつたわってきた。
 真芯で捉えた打球が、青空に吸い込まれるようにして高く高く舞い上がり、フェンスのはるか向こうへ消えていくのが見えた。
 快感だった。
 やつの苦笑いが目に入った。ぼくの気分は最高だった。試合はそのまま七回引き分けだったが、やつの意気消沈した姿を見るのは、最高の気分だった。弱小チームの八番バッターに打たれたホームラン。それは、やつの心に長くこびりついて残るはずだ。ぼくとしても、面目躍如たるものがあった。監督にもナインにも。どうだ、っていう気分だった。
 あれが白昼夢による予知があったオカゲだということはだれにもいっていない。そんなことをいえば、頭ごなしに失笑を買うだけだからだ。
 思い返してみると、似たようなことはこれまでも何度かあったことはあったのだ。
 テレビの競馬中継で、数レースをつづけて的中させてびっくりさせたこともあったし、相撲なんかで勝負を直観的に当てることもよくあった。
 でも、ぼくのこの霊感らしきものは意図してできるものじゃないのだ。自分に都合よくは利用できない力なんだ。だから、他人に見せて自慢できるようなものじゃない。
 だから、最初にいったように「ちょっとした」力なんだ。


第一章 四月七日(木曜日)午前

    1

 ぼくの名前は、深町孝司。
 タツ、ター、タカちゃん、タッちゃん・・・ま、いままでの学校で呼ばれた愛称だけれど、こんどの学校では、なんて呼ばれることになるのだろうか? こればっかりは自分で押しつけるわけにはいかない。
 オヤジは東京に本店のある大手建築会社の建築士だ。ぼくが小学校に入った頃からずっと地方の支店を転々として、駅や市役所やときには橋なんかをつくっている。本人は「厄介払いみたいに地方巡業させて。一生本店に帰れっこないな」というのが口癖で、
「そんなことないわよ。次はきっと本店の課長よ」
 って激励するのが口癖になっているのは、オフクロのみどりだ。
「そんなことあるわけないだろ。本店の課長クラスで帰れるなら、いつまで支店を放浪させて現場ばかり担当させるか? 一度支店を経験して、三年くらいご奉公して本店にめでたくご帰還っていうのがうちの出世コースだっていうの知ってていい加減なこというな」
 お定まりの社内結婚だから、オフクロも会社内のことは十分に承知している。他の社員は、家族は東京にいて父親だけが単身赴任、っていうケースが普通だけど、オフクロはそうはしなかった。仲がいいのか、地方に女でもつくられちゃかなわないって思っているのか知らないけど、ドサ回りに付き合わされるのはこっちなんだ! といいたいけど、オヤジのマジメな働きぶりを見てたりすると、そうもいえなくなっちまうから不思議だ。
 妹がいる。
 二つ下の十二歳の小学校六年生で、未津樹っていう。年の割りにはませていて、
「お母さんったら、出世の話しはお父さんの前では禁句じゃないの。ダメよ、そういう話題いましちゃ」
 なーんてアドバイスするくらいで、ぼくよりも大人びている。ま、すれっからしもいいところだ。
 で、ぼくらはオヤジの数回目の地方巡業という転勤にともなって、この四月から北陸地方にあるN市の学校に転校してきた。
 今度の仕事は、学校の改築だ。偶然なことに、それは昔オヤジが通っていた中学校で、しかも、ぼくもその中学に通うことになっていた。曰く因縁の浅からぬシチュエーションっていうわけだ。
 N市は人口が二〇万。日本海に面した工業都市で、コンピュータやら電気製品の部品なんかをつくっている工場が多い。中堅規模の工場や研究所が何ヵ所もあって、さながら工業団地っていう雰囲気だ。
 人口が二万人とか三万人っていう山村漁村の町々を転々としてきたぼくにとって、こんどの街は凄く大都会だった。大学や短大もあって、キレイなお姉さんがファーストフードに群がっていたりする。田舎のお姉さんばかりを見慣れていたぼくには、結構刺戟だったりした。初めのうちはおシャレなファッションのお姉さんたちをしばらく何気でボーッと観察してしまったくらいだもの。なかなかにストレスの解消になったりした。精神的な栄養補給っていうヤツですね。
 それに、今度の街には映画館があった。テレビで見るより、やっぱり大きなスクリーンと暗い劇場で見たほうが、映画はやっぱりいい。
 というわけで、野球と映画が好きで、そろそろ性にも目覚めてきたという、ごくごくありふれた少年のぼくが初登校したのは、四月七日の木曜日だった。
 オヤジは会社、オフクロは未津樹の付き添い。だから、ぼくは一人でN市立玉藻中学校に向かった。学校は市街の外れの小高い丘の上にあった。おそらく昔の城跡なのだろう。正門に辿り着いて振り向くと、すっぽり掌に納まってしまいそうなビルの群れと、その向こうに日本海が見下ろせた。
 なかなかの見晴らしだ。
 前の学校の制服を着ているぼくは、一緒に登校する生徒たちから、ジロジロと見つめられながらの登校だった。こういうのはあまり気分のいいものではない。地方都市っていっても、異端者に対して警戒を怠らないのは、日本全国どこでもおんなじだ。
 腹式呼吸で大きく息を吐き出すと、ぼくは見知らぬ学校の玄関に向かって歩きはじめた。

    2

 相当古い建物だ。
 まるで明治時代にでも建てられたような木造で、玄関前にポーチが突き出ていた。ポーチから玄関内に足を踏み入れると、風がひやりとぼくの頬を舐めていった。
 正面に大時計。その下には左右に廊下が伸びているが、いままで眩しい光を浴びていた目が慣れていないので、よく見えない。床も腰板も黒光りして、年月を感じさせた。
 少し目が慣れてきた。
 見上げると玄関ホールの天井が高い。錆びたままのシャンデリアは、なんの用もなさず、絞首刑にされた罪人のように、静かにぶら下がっている。
 壁の上半分と天井は漆喰が塗られているが、風月に晒されてすっかり煤け黒ずんでいる。天井の隅には蔦や動物を象った装飾が施されている。けれど、大抵が欠けたり剥がれたりしたままで、修繕したあとが見当たらない。いずれ建て直すのだから、放ってあるのだろう。
 これが壊されるのかと思うと、ちょっと残念な気がした。旧くて機能的でなくて使いにくいっていうのは理解できるけど、木肌の温もりとやさしさや、建てられた当時はモダンだったはずの西洋風の造りが、ぼくは好きだったからだ。オヤジのつくった建築っていうのは何度か見て知っているけれど、正直いって壊す前の煉瓦の洋館の方がステキだったな、なんて思うことのほうが多かった。でも、空調が効いて広々として採光のいい空間がいまは求められている。そういうニーズに応えるのがオヤジの仕事だし、それで食わせてもらっているわけで、矛盾はしているのだけれど。
  ぼくは玄関ホールで靴を脱ぎ、来賓用の靴入れに入れようとした。そのとき、なにかが襟首から背筋にひやりと通り抜けていくのが感じられた。
 振り返ると、ぼくの目の前に白い人影が忽然と現れた。
「うわっ!」
 あんまり突然だったのでカラダがビクンと硬直し、弾け飛んだ。
 白いセーラー服、あまり大きくない胸の前にブルーのリボン。
 落ち着いて見てみれば、ごく普通の女子生徒だ。でも、びっくりしたのはぼくだけじゃないようで、女の子も驚愕の表情を浮かべていた。戸惑いの眼差しをぼくに向けたまま、手を胸に当てている。息を整え、脈打つ鼓動を鎮めているように見えた。
「突然なんだもん・・・。『十三日の金曜日』か『エルム街の悪夢』っていう気分だよ」
 ぼくは恥ずかしさも手伝ってユーモアを交えホラー映画のタイトルを口にした。初めての学校で「女子生徒に腰を抜かした」なんていう噂が学校中を駆け巡ったりしたらみっともない、っていう気分が先に立ったのだ。
 落ち着きを取り戻したのか、彼女の、胸に当てている手の動きがゆっくりになってきた。
 背中まで伸びている髪は少し赤茶けていて、一本一本がもの凄く細く、話すたびにさらりと波打つ。顔から胸元にかけて、あまり健康そうではない蒼白い肌が、透き通ったように紫色の血管を浮かび上がらせていた。奥二重の大きな目の下に、あまり高くはないけれどツンと尖った鼻がひかえめに納まっている。
「ぼ、ぼく、深町孝司」
 彼女は呆れたように、そして、値踏みするようにぼくの目を見た。それから、思い直したように初めて口を開いた。
「なにしにきたの?」
 いやにつっけんどんな言い口だ。
「なにって・・・転校してきたのさ」
「ふーん」
 妙なものでも見たような口調でいう。
(どこか、変なところがあるのか?)
 ボタンが掛け違っているとか、髪の毛が立っているとか、ズボンのファスナーが開いたままだとか、そんな、外見上に変なところでもあるのかって、ぼくはそっとじぶんを点検した。
「変だ、っていわれたことって、ないの?」
「どういうこと?」
 初対面の会話じゃないぜ、これは。
「そうね、妙なものが見えちゃうとか、感じちゃうとか、分かっちゃうとか・・・」
 ドキッとした。この娘も霊感があるんだろうか? 薄く、微かに白く、わずかに紅い唇が、曰くありげにぼくをと惑わせる。
「い、いや・・・。別にそんな、とくに・・・」
 ぼくは首を横に振って肩を竦めた。そして、話をそらしてこう訊いた。
「職員室に行きたいんだけど・・・?」
 彼女はクルリと背を向け、大時計の下の廊下を指差した。
「そこを左」
 細くすらりと伸びた足の白さと、踝を隠しているストッキングの白が、ほとんど同じように色を排除して、眩しいくらい輝いていた。 そのぼくの視線を感じたのか、彼女が首だけ振り向いて、ぼくの目を刺した。ちょっと威嚇するように、咎めるように。
 ぼくは頬が朱らんでくるのが分かった。それを察したかのように、彼女が右掌を胸の当たりでひらひらさせていった。
「じゃあ、ね」
 そして、そのまま大時計のほうに後ろ向きのまま下がっていった。
「あの・・・」
 名前を尋ねようとして、口ごもった。精霊のような女の子は、必要最低限のことだけを話すと『不思議の国のアリス』のチシャ猫みたいに、薄ら笑いだけを残して大時計の下を右に折れて消えて行った。
 初日から、妙なヤツと出会ったもんだ。へんなの。

    3

「たいへんだな、君も、転校つづきで」
 丹野正二というブルーのジャージを着たままの担任が、職員室の応接室で連絡票をめくりながらいった。四〇代の半ばっていう外観で、頭は頭頂部までが額になっている。どこかのカツラ会社がモデルに使ったらちょうどいいような髪の生え具合だ。
「・・・前の学校じゃ野球部らしいな。どこを守ってたんだ?」
 腰をソファの前のほうにずらして、しかも、短い足の踵をかろうじてもう一方の足の膝に引っ掛けながらという、偉そうで不遜でみっともない恰好で丹野がぼくに訊いた。
「ショートです」
 丹野は組んでいた足をほどいた。すると股が、ほとんど一八〇度の角度に広がった。そしれから身を乗り出して興味ありげにいった。
「足が速いのか」
 ジャージの上衣の裾に、小さなほつれがあるのをぼくは見つけた。
「それほどでも・・・」
 きっとまだ独身なんだろう。
「うちの学校でも、野球部か?」
「まだ、決めてません」
「なんだ、覇気のない返事だな」
 丹野は、不満化に下唇を突き出し、落ち窪んだ目をぼくに向けた。
「ま、いい。いずれにせよ何らかの部活には所属してもらうことになるんだから」
 丹野がいい終わると同時に応接のドアがノックされた。
「入れ」
「失礼します」
 入ってきたのは、くっきりと描いたような眉と、わずかにつり上がった目、そして、頑固そうな口からきれいな歯並びを見せている少年のような風貌の女子生徒だった。
「松井、有望な新人が転校してきたぞ」
 松井と呼ばれた女生徒が、興味を押し殺したような視線をぼくに送ってきた。
「前の学校じゃショートだったそうだ。足も速そうだし、おまえ、スカウトするか?」
「うちのチームは、実力本位ですから・・・」
 無味乾燥で、単調なイントネーションでいってから、ぼくの方に目を向けた。
「松井章子。君のクラスのクラス委員長だ。この街にある少年リーグのマネージャーもしている。学外活動だが・・・この街は少年リーグが盛んでね。そのお陰で学校のほうの野球部は二流になっちまった・・・」
 悔しそうな声になったのは、丹野がきっと学校の野球部の監督だったりするからなのだろうと、ぼくは勝手に想像した。
「こっち」とぼくの方を手で示して丹野が松井章子に紹介した。「深町孝司くん。今日からうちの生徒になった。お父さんが東都建設の方で、うちの学校の改築の関連でこちらにいらして、それで転校してきた」
 ぼくと松井章子はほとんど同時に目を合わせ、会釈を交わした。
「みんなには始業式のあとに紹介するから。だから、松井、それまで深町くんに一緒についててやってくれ」
「わかりました」
 またまた抑揚のない、感情を殺したような声で松井章子が丹野に会釈をすると、チラッとぼくの目を見て、ついてくるように促した。

    4

「あいつ、女生徒の敵」
 廊下を歩きながら、松井が誰にいうともなく口汚なく罵った。もちろんぼくに聞こえるようにいっていることは確かだったけれど。
「あいつって?」
「決まってるじゃない。丹野」
 クッと首を横に向けた松井の顔は、噛んで言い含める母親のように真っ正直に見えた。それに、さっきまでの素っ気なさはもうなくなっている。丹野の前だから故意に無視したような味気ない表情を装っていたのだろう。
「覗くのよ、あいつ」汚らわしいものに触れたような言い口だ。「体育の授業のとき、更衣室になる教室を必ず覗くの。それから、見回りだとかいって女子トイレに前触れもなく入ってきたり。奥さんいないもんだから、性欲を持てあましちゃってるのよね」
 木造校舎の、古ぼけた廊下がぎしぎしいう。
「つかまえてとっちめてやりゃあいいじゃん」
「ダメダメ」松井が顔の前で右手をひらひらと振る。「うまいんだ、とぼけるの、あいつ。それに、まだ完全に現場を押さえてない。そこが、弱いとこなんだな」
 下唇の端を噛んで、右手でつくった拳をぎゅっと握り緊める。コキ、と松井の手の関節が小さく鳴った。
「それに、いろいろと噂あるんだ。業者と結託して賄賂とってるとかさ。こんどの改築工事でも・・・」
 いいかけて口をつぐんだ。ぼくの父親が東都建設だっていうのを思い出したんだろう。
「・・・それよか、ねえ、ショートってほんと?」 目を輝かせて訊いてきた。
「変態丹野もいってたけど、この街じゃ少年リーグのほうが盛んなのよ。キミ・・・深町くん・・・か、硬球やってた?」
「いや」
「全然?」
「触ったことはあるけど・・・」
 オヤジとキャッチボールするときは、硬球だったのだ。理由は「高校へ行きゃあ硬球になるんだ。早いうちから慣れといても悪いことはない」だった。だったら「高校へ行きゃあバイクの免許も取れるんだ。早いうちから慣れといても悪いことはない」っていう理屈も成り立つんじゃないかと思ったけど、思っただけで喋らなかった。どうせ「屁理屈をいうな」とかいわれるのがオチだ。
「うちのチームね、イマイチなのよ」
 松井が悔しそうな口振りが、実に真に迫っていた。端正な顔立ちを崩して、眉根に縦皺を深く刻み込んでいる。すぼめた口が、不満をありありと示していた。
「県でも最下位クラス。二回戦進出がいいとこなの。いくらアタシが尻を蹴飛ばしても・・・」  彼女なら本当に蹴飛ばしそうだ。
「たまーに御馳走つくってあげても、ぜーんぜん効果なし」
 本当にたまにしか作らないだろうと思った。
「いい選手を探してたのよ。春の大会がもうすぐはじまるから、パワーアップを図りたいって思ってたところなの。ね、今度見にこない? 毎週土曜と日曜の午後、東都建設のグラウンド借りて練習してるから」
「オヤジの会社かよ」
「なにかの因縁ね。神のお導きに違いないわ。深町くん。あなたはわがNファイターズに入るべくしてこの街にきたのよ」
 いつのまにか立ち止まっていた。正面に松井章子が立ちはだかり、わずかばかり下からぼくの目をじっと見据えていた。頬が紅潮している。
「ちょっと待ってくれ」
 ぼくはちょっとばっかりたじろいでしまっていた。
「野球をやるなんて、まだぼくはいってないぜ」
 そこで初めて気がついたんだけれど、松井は濃紺のブレザーに真紅のタイじゃないか。さっき、玄関ホールで会った少女は、白いセーラー服だった・・・。
 なあんて考えながら後ずさっていくぼく。松井は両手を合わせたままじりっじりっと迫ってくる。いくら拝まれたって、まだこの学校がどんなところかも、どんな生徒がいるのかさえも知らないんだ。まだ、決心もついていない。
「ちょっとさあ・・・」
「運命よ。定めよ。宿命よ」
「ちょっとかんべん。時間をくれって!」
「いいわ。どっちにしても、深町くんはわがNファイターズに来ることになるわ」
 松井も霊感があるのか? クルッと踵を返すと、さっさかと高揚したような足取りで先導を切っていた。
 廊下の外れから、もう一つの棟と結ばれている渡り廊下に足を踏み出そうとしたとき、松井が突然、歩みを止めた。
 左を向いて小首を傾げている。コクンとうなずくと、ぼくの方を向き直り、緊張した顔でおいでおいでをした。
「どうか、した?」
「イジメ」
 そういって顔をしかめる。見るとそこは男子トイレ。中から威嚇するような声や小突き回すような物音が洩れてくる。ぼくは松井の顔をうかがった。
「だれだか大体見当はついてるんだけどね。アタシ、入るわけにいかないでしょ」
 男子トイレに女子生徒っていうのは、やっぱりちょいとマズイかなって、ぼくも思った。
「うちの先公どもってトロイんだ。それに、やつらとぼけるの上手いし・・・。ナメられてるのよ、不良どもに」
「で、どうしろって?」
「深町くん。キミは、正義感がないの?」と諌めるようにいう。
「だってぼくはまだ転校してきたばっかりだぜ。まだこの学校の生徒とは君も含めて二人としか会話してないんだ。それで、イジメの仲裁に入れっていうのかい?」
「イジメを敢えて見逃す気?」
 非難めいた声で威嚇する。
「どうしてぼくが関わり合いにならなきゃならないんだい」
「もうちょっと小さな声で・・・中の連中に気づかれちゃうわ。現場を押さえるのよ」
「そんなこといったって・・・」
 相手がどんなやつかも分からない。気後れしたっておかしくはない。
「暴力をふるわれているクラスメートを見殺しにする気?」
「ぼくにはまだクラスメートなんかいない」
「アタシのクラスになったんだから、中にいる水島くんだってもうクラスメート同様よ」
「水島なんていうやつは、ぼくは会ったことも見たこともない」
「会ったことも見たこともなけりゃ手助けしないんだ、キミってやつは」
「そうだ」
「意気地なし。根性なし」
「なんとでもいえ」
「卑怯者、非国民、売国奴」
 なんていう汚い言葉を羅列する女なんだ。
「キミさ、男でしょ。ちゃんとぶら下げてるもの、ぶら下げてるんでしょうね!」
 なんなんだ、この松井章子は! 信じらんねーやつ。
「女の子にここまでいわせといて逃げたりしたら、噂は一日で広まっちゃうからね。クラス委員長命令よ!」
 ぼくもそこまでいわれて黙っている訳にいかなくなってしまった。
 緊張の糸がプッツンだ。
「わかったよ!」
 ぼくは、意を決してトイレの中に勇躍と足を踏み入れた。

    5

 まずは、何気なく。小用を足しにきたフリを装って中に入って行った。
 それにしても、えらく暗い。光りをわざと遮るような構造になっているんじゃないかと疑りたくなるほどだ。
「いえよ」
「いえってば、フナムシ」
「なんでいえねーんだよ」
 学生服をだらしなく着込んだ二人の生徒が、小柄で痩身の少年を個室の前で小突いていた。 ひとりは頭頂部だけを残してきれいに刈り上げたヘアスタイルだ。まるで坊主が黒い人工芝を頭にのっけているみたいだ。半開きの目、半開きの口。またそれが斜めに歪んでいて、いかにも意地悪そうな、人をナメきったような顔つきだ。
 もうひとりは、明かに子分格。痩せぎすでイタチのような吊り上がった目と、キツネのような尖った鼻をして、忙しなくカラダを動かしている。
 ぼくの方を一瞥すると、見かけない顔に一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐにまたフナムシくんに向き直った。そして
「怖いのかよ。いうのが怖いんだろ」
 と、トイレの扉を背にしたフナムシくんの肩を小突きはじめた。つまりまあ、ぼくは完全に無視されちゃったっていうわけだ。それにしてもフナムシとはよくいったもので、か細く弱々しげなところはそっくりだ。彼はなにかを強要されているらしい。
「なにィ・・・」
 ぼくは声が裏返しにならないよう気をつけながら声をかけたつもりだった。でも、喉の奥で呑みこめない濃厚な唾液が絡んで、うわずった声になってしまった。
 二人の不良の視線がぼくに向けられた。
 コホンと咳払いをひとつしてから唾を呑み込み、もう一度話しかけた。
「なに、してるんだい」
 極めて平静を装ったつもりだった。
 人工芝がうさん臭そうにぼくを目で舐めた。アゴを少し突き出して、半開きの目を三日前のイワシのようにトロンとさせている。外見で威嚇するタイプとぼくは見た。ま、ケンカが強いかどうか、そこまでは分からなかったけれど。
「見ねえ面だな」
 イタチが落ちつきなさそうに肩を忙しなく上下させながらいった。
「転校初日なもんだから・・・」
「それはそれは。ようこそ我が玉藻中学へ。それじゃあひとつ、挨拶でもしてもらおうか、な、ナベちゃん」
 人工芝はナベちゃんというらしい。どうみたって「ちゃん」づけして呼ぶほどかわいい面はしていないと思うのだが。
「二年B組に編入することになった、深町孝司。よろしく」
 そういってぼくは軽く頭を下げた。人工芝のナベちゃんは、ぼくの挨拶を鼻でせせら笑うと、キツネにむかってアゴでしゃくって指示した。
「挨拶の仕方を教えてやらねーとな、トリよ」 キツネは、トリというらしい。
 キツネのトリは、ぼくの方にゆっくりとカラダをゆらゆらと揺らしながら近づいてくる。ぼくは、身構えた。「挨拶の仕方」なんていうからには、それなりの力づくの行為が伴うんじゃなかろうかって思ったからだ。
 キツネのトリは・・・って、動物だか鳥だかややこしい呼び方になっちゃったけど。トリは、ぼくの手の届くところまでやってくると、右手を自分の目の前辺りに突き出して、小刻みにオイデオイテをした。ついてこい、っていう意味らしい。クルッと背を向けたトリの後を、ぼくは注意深くついていった。
 なんのことはない。いままでフナムシくんがいたトイレの扉の前だ。フナムシくんは、人工芝ナベちゃんに強引に肩を組まれたまま、苦しそうに顔を歪めている。ムリもない。人工芝ナベちゃんの右拳が喉元でぐりぐりいっているのだから。
「さて、ここに三つのうんこ便所がならんでおりまして」
 トリがポーズをつけながらぼくに説明をはじめた。
「それぞれ一見してなんということはない金隠しがあるわけですが・・・でもな、ちょっと違うんだな、この真ん中の個室が」
 そういって、人差し指をを向けた。
 古臭い、板を打ちつけただけのみすぼらしく小汚ない扉が並んでいるだけだ。どれもぼくには同じに見える。
「しゃがんで跨ぐと下から手が伸びてきてっていう話しでもあるのかい」
 ぼくは半分茶化していった。
「まあ、焦らず聞けって」トリがにんまりとしながらつづける。「このドアを三度ノックする。そして、祐太・・・って呼びかける。するとな、中から『助けて!』って声が聞こえてくるんだ。中を開けると、昔から住み着いている祐太の霊が便器の中へ引き摺り込む・・・そういう噂が、昔からつたわってるんだ。これをひとつやってもらおうじゃないの」
 痩せた胸をそっくり返すトリの、尊大ぶった表情が薄暗がりで鈍く光った。
「フナムシにやらせようと思ったんだが、どうしても嫌だってぬかしゃがって・・・この意気地なしが」
 恐怖に震え、フナムシくんは顔を歪めていまにも泣き出しそうだ。
「こうすりゃいいんだな」
 ぼくは無造作にドアを三度ノックした。そして、次の言葉をいおうとしたとき、
「や、やめろ! 呪われる・・・」
 フナムシくんが、か細い声をしぼりだした。しかし、喉をキメられているので、それ以上は声にならない。
 ぼくはそれを無視していった。
「・・・祐太」
 なにも起こらない。
「祐太・・・祐太! 祐太!!」
 ぼくは声を少し荒げていった。
「なにも起こらないじゃん」
 振り向いていうと、形相を変えているのは人工芝のナベちゃんとトリの方だった。
「おい!」
 ナベちゃんに促されて、トリはぼくを払い除けるようにしてトイレの扉を乱暴にこじ開けようとした。しかし、中からロックされているのかびくともしない。板切れのつぎはぎにしては、なかなか頑丈だ。
 トリがひょいとジャンプして、扉の上部に手をかけて中を覗き込む。
「・・・ァアアッ!」
 悲鳴をトイレ中に響き渡らせて、力なくドスンと落下した。
 人工芝のナベちゃんが駆け寄った。
「どうしたの?」
 バタバタと音を立てて、入り口から松井章子が顔を覗かせた。
「死、死んでる!!」
 トリが床にしたたか打ちつけた腰を擦りながらかろうじていった。
「まさか、オメー」
 人工芝のナベちゃんが、目を剥いて怒鳴った。
「なにやってるのよ、みんな!」
 そういう松井の背後から男の声がして、長身の少年と、ごっつい重戦車のような少年が顔を見せた。
「どうしたアネゴ? 男子トイレなんか覗いて」
 怯え切ったフナムシくんは、トイレの隅で腰を抜かしたまましゃくり上げている。
「の、呪いだ・・・」
 人工芝のナベちゃんが、その体躯に似合わぬ敏捷さでトイレの仕切りの上に身を踊らせた。
「おい! イノ! イノ!」
 下に向かって呼びかけていたが、そのまま個室の中へと身を没した。
 数一〇秒の後。イノと呼ばれた鈍そーなツッパリ頭の少年が、しかめっ面で胃の辺りを押さえたまま出てきた。あとから、人工芝のナベちゃんが気まずそうに周囲をキョロキョロと見回しながら出てきた。
「このバカヤローが」
 いって、イノの尻を思い切り蹴飛ばす。イノは猪突猛進のごとくに反対側の朝顔の群れのひとつにしがみついた。
「いやぁ、騒がせたな。ははははは・・・」
 人工芝のナベちゃんが、照れたように空笑いを飛ばす。それから腰を抜かしたままのトリの方に向き直って、
「なにが死んでるだ、このバカタレ!」といって蹴りを入れた。「寝てただけじゃねーか!」
 トリはあんぐりと口を開けたまま、蹴られた尻をなでた。

    6

「呆れたね、まったく鍋島のやつ。猪股を中に潜ませといて、水島のこと脅かそうとしたんだ」
 長身の少年が頭をかきながらいった。ナベちゃんの本名は鍋島というらしい。中に潜んでいたイノというのは猪股か。
「それにしても、眠ってるのを死んでるって勘違いした鳥飼もマヌケだぜ」
 重戦車の方がいった。キツネのトリは鳥飼というらしい。
 この学校の、ま、柄の悪い三人組っていうところなんだろう。その三人組がすごすごと立ち去った後の、渡り廊下での会話だ。
「アネゴ。で、彼は?」
 長身の神経質そうな方がぼくを見て、松井に訊いた。
「深町孝司くん。こんど転校してきたの。我が二年B組のクラスメートよ」
「孝司・・・じゃあ、タッちゃんだな。オレ、町津勝司」
「カッちんでいいからね」
 アネゴが口を挟んだ。
 というわけで、ぼくはその場でタッちゃんと呼ばれることが決定した。
「ぼくは、多田淳夫」
 重戦車が自己紹介した。
「ベースよ。そのいわれは・・・Nファイターズのキャッチャーにして四番打者」
「おい、オレのことはそういう紹介のしかたはしないのか?」
 カッちんが不服そうにアネゴにいった。それを受けてアネゴがこう応えた。
「昨年度成績一勝一〇敗。名前は勝司でも試合には勝てないNファイターズの主力投手よ」
「いくらなんでも、そういう失礼な紹介のしかたって、ないんじゃない?」
「だって真実!」
 カッちんが情けなさそうにうなだれた。その長身が小さく見えるほど、アネゴこと松井章子の存在が大きく見えた。二人が一目置いているから、いや、それ以上頼れるから「アネゴ」と呼んでいることも十分に承知できた。
 渡り廊下の向こうに、カマボコ型の古臭い体育館が見えている。大きく開け放たれた入り口で、丹野が腕組みして口をへの字に結んで不機嫌そうだ。
「なにやっとるんだ、おまえら!」
 怒鳴っているのがつたわってくる。
「マズイなあ。よりによって丹野が監視役かよ」
 カッちんがまたまたぼやく。
「早くして! カッちん、ベース、ほら、タッちゃんも!」
 松井・・・いや、アネゴが小走りになって先を急いだ。
(「ほら、タッちゃん」だって。さっき命名されたばかりなのに、もう、愛称で呼ばれてしまう。威勢のいいアネゴにいわれると、みんな納得してしまうのかもしれないけれど、悪い気分じゃなかった。
 そんな風にして、転校の一日目がはじまった。


第二章 四月七日(木曜日)午後

    1

 新学期早々、少年リーグの集まりがあるから、というアネゴやカッちん、ベースと別れて、ぼくはひとりで岐路についていた。
 始業式での校長の話しは、下らないものだった。勉学においては向上心や集中力が大切であり、生活習慣では健全で規則的な毎日が必要。そして、周囲には感謝の念をもつように。
 まったく余計なお世話だ。そんな話、だれも聞いてないっていうの。
 ぶらぶらと歩いていると、横に気配がした。フナムシくんこと水島剛が並んで歩き出した。
「・・・今朝は、ありがとう。感謝してるよ」
「あー、いや、どうってことないよ」
「どうってことない、か」
 透き通った午後一番の青空を見上げて嘆息をつくと、水島がマジな顔でぼくを見た。
「ああいうことを、どうってことない、って言い切れるってキミが羨ましいよ。ぼくは、いつだって連中みたいなやつらの餌食になる運命なんだ。小学校のときからずっとだよ。ずっと目の敵にされ、わけもなくイジメられて嘲笑いの対象になるんだ。ぼくのこういう気持って、キミのような強い人間には分かりっこないよね」
 根底に敵愾心でももっているみたいな言い方だけれど、気にしないようにした。きっとずーっとイジメられつづけてきたせいで、心のどこかが捩じくれ切れてしまっているに違いないと思う。
「でも、どうしてぼくなんかのことを助けようなんて気を起こしたのさ。相手はあのナベちゃんだぜ。あんな、外見からして凄味のあるやつ相手に、よく仲裁に入ろうなんて決心できたね。どうしてさ」
 質問しているというより、問い詰めるみたいな言い方をしてくる。
「見てみぬふりをすればよかったのか?」
 ぼくは、両手をポケットに突っ込んだまま、水島を見ずに応じた。
「そうじゃない。感謝してる。嘘じゃない。だだ、なぜかって不思議に思ったから・・・」
 声がしぼんでいきそうだ。
「アネゴがオレにいったんだ。キンタマぶら下げてる男なら、クラスメートの窮地を見逃すべきじゃない、ってね」
「松井さんが・・・そういったの? 本当にそういったの?」
「ああ」
「そう」
 嬉しさを噛みしめるようにいう。
 こいつ、松井のこと好きでやがる。いっぺんで分かっちゃったね。やさ男が逞しい女に惚れるのって、ケースとしてはよくあるらしいけど。
「でもさ、アネゴって何者なんだ? 初対面にしちゃ馴々しいし、態度でかいし、カッちんやベースまでいいなりじゃん」
 水島ならアネゴのことを訊き出せそうだと思って話しかけてみた。
「・・・玉藻中学のマドンナっていうか・・・成績はいつもトップだし、運動神経も抜群だし、なんでもはっきりものをいうし、噂なんかだって信じないし・・・」
「少年リーグのマネージャーしてるんだろ?」
「できることなら、自分でやりたいくらい野球が好きなんだよ。それで、マネージャーしてるだけで、男に混じってプレーしたって見劣りしないぐらいの素質はあるんじゃないかな。短距離では県のベストスリーに入るくらいだし・・・」
 まるで自分のことのように誇らしげにいった。
 しかし、そんな万能選手とは知らなかった。ま、知ったからって別段「取扱い注意」ってことになるわけじゃないけどね。
「ぼくも本当は少年リーグに入って野球やりたいなって思ってるんだけど・・・」
 そういってから恥ずかしそうに俯いて顔を朱らめた。
「入ればいいじゃん」
「・・・そんな・・・ぼくなんか、下手だからムリだよ」
「下手だからチームに入って練習して、それで上手くなるんじゃないか。それにさ、じぶんの可能性なんか、まだすべて分かったもんじゃないぜ。じぶんでも思いもよらない力が潜在的に秘められているとか、突然超能力が身につくとかさ」
「楽天的だな、キミは・・・。そんなマンガみたいなことありっこないじゃないか」
 水島は追いかけている夢と現実の狭間で困惑したような表情のままだ。
「Nファイターズって、大したレベルじゃないってアネゴもいってたぜ。大丈夫さ、きっと」
 それには応えず、水島は改まったようにぼくを見ていった。
「深町くん」
 またまた真剣になって声を震わせてきた。
「なんだい?」
「もう二度と呼んじゃいけないよ」
「なにを?」
「祐太の名前」
「祐太?」
 思い出した。鳥飼がぼくにトイレをノックしていえっていった呪文みたいなやつのことだ。
「今日は偶々運がよくて猪股くんも眠っちゃうだけで済んだけど、本当はあんなものじゃ納まるはずがないんだ」
「あんなものじゃないって、なにが?」
「祐太の怨念さ」
「祐太って、だれさ?」
 水島の真剣な表情に、思わず引き込まれてしまった。
「うちの学校の生徒だったんだ。ちょうど三〇年前の夏休みのことさ・・・」
 そういって、水島はこんな話しをした。

 昔、祐太っていう名前の生徒がいた。祐太は孤独な少年であまり遊びにも加わらなかったし、かといって勉強ができる少年でもなかった。目立たないために生まれてきたような子だったのだ。
 ひとりぽっちの祐太は、ふだんは目立たないけれど、なにか事件があると必ずその犯人ではないかと疑われた。共同募金で集まったお金の入った袋が消失したときも、音楽教室のピアノが壊されたときも、まずだれもが祐太の顔を思い浮かべた。
 先生も同じだった。
 だれも祐太のことを庇わなかった。あとから真犯人が見つかっても、共同募金の盗難が先生の勘違いだったときも、だれも祐太に謝ろうとはしなかった。事件が起きると犯人で、解決すれば日陰者。
 そんな祐太がもっとも疑られたのが、修学旅行の積立金の盗難事件のときだった。なにしろ額が大きかった。貧乏で陰気で口下手の祐太は先生から長時間の取り調べを受け、精神的にすごく参ってしまっていた。
 その日も、取り調べが終わったのが八時すぎで、すっかり日が暮れてしまっていた。でも、祐太はずっとトイレに行ってなかったからオシッコがしたくてたまらなかったのだ。だれもいるはずのないトイレ。漆黒の闇にずっぽりと沈んで、お化けでも出そうなくらい怖かった。でも、怖いのはお化けではなかった。
 祐太が犯人だと決めつけた同級生数人が、祐太が先生から解放されるのをこっそり待ち受けていたのだ。「俺たちが泥を吐かせてやる」っていう意気込みで・・・。
 トイレが終わって手を洗っている祐太に、同級生たちが襲いかかった。なにも抵抗ができないままいたぶられ、ズボンを引き下ろされ、パンツまで脱がされてしまった祐太。蔑みの眼差しと、泥棒と決めつけて小突き回す同級生たち。
 祐太を残して、同級生たちは衣類をもったままトイレを後にした。
 翌日。
 祐太はトイレの一番奥のトイレの鴨居に、シャツを引き裂いてつくったロープで首を吊っていた。

「よくある学校の噂ってやつだろ。ぼくがこの間までいた学校にも似たような話しがあったぜ」
 小さく否定するように何度も水島は首を横に振った。そんなたわごとを本気で信じ込んでいるのか。やっぱりみんながいうみたいに、つかまえどころがないフナムシみたいなやつなんだなって、ぼくはそのとき思った。
「これは本当の話だって。ぼくの兄さんから訊いた話しなんだから」
「きみの兄さんはその祐太って生徒を知ってるのかい?」
「いや・・・先輩から聞いたって・・・」
「その先輩ってだれだい?」
「名前は知らないけど、とにかく先輩さ・・・」
「先生には訊いてみたか? 当時いた先生とかに?」
「三〇年も昔の話だもの・・・ムリだよそんなの」
「三〇年前なら、まだ先生だって同級生だって生きてるだろうに」
「ずっと口伝えでいわれてきているんだ。これは真実なんだ」
「でも、裏づけはないんだろ? とすると信憑性は薄いっていうわけだ」
「そんなことないよ! 嘘じゃないってば! 本当なんだから!」
 水島は興奮気味になってきた。こういうのめり込みタイプの一途なやつって、キケンなんだよな。君子危うきに近寄らず、だ。
「あ、ぼく、こっち」
 ぼくは交差点のところで水島が進みかけたのと反対の方角を指差していった。
「深町くんは三園じゃなかったっけ?」
「あ、家はそうなんだけど、寄ってくとこあるから。じゃ」
 これ以上ヨタ話につき合っちゃいられない。なんとか理由をつけて水島の波状攻撃をかわすことに成功した。

    2

 ぼくは、この日の午後を久々の遊休タイムにした。ま、いままでもポカンとして時間を潰すことが暫々だったけど、歩いて一〇分なんていうスゲーいいロケーションに映画館が三つもあるなんていうのは、いままで生きてきた中で初めてだ。
 ほとんどなにも入っていないバッグを部屋に放り投げると、さっそく繁華街に足を延ばした。
「孝司! あんたまだ荷物の整理が終わってないでしょ! 母さんあんたの荷物まで面倒見切れないわよ!」
 という罵声を背中に受けながらの逃避行。
 アメリカのB級SF映画二本立てを満喫したあとファーストフードでフライドポテトに照り焼きバーガーとコーラのセット頼んで、二階の隅で映画の余韻を楽しみながら店内の女の子を何気で眺めていた。
 やっぱ、地元に大学や短大、専門学校なんかがあると若者繁殖率が田舎とは違う。空気の匂いまでが香しく、活気づいているっていう感じだ。目はそぞろ。お姉さまたちの春物ファッションの胸元なんかを知らず知らずのうちにハンティングしていた。
 フィールドワークを終えて、ぼくは自宅となる賃貸マンションのある三園へと足を向けた。ま、なんのかんのといったって、この程度の街は五分も歩くと繁華街から農村地帯へと突き抜けてしまう。トラックがびゅんびゅん飛ばす街道があったり、鎮守の杜がこんもり茂っていたり、郊外型のショッピングセンターなんかがポツンとあったりする。
 前方に薄く明るい一角が見えてきた。とっぷりと暮れた山裾の道に、電球がイルミネーションのように揺れている。桜祭りの名残だろう。はらはらと花弁を散らせている桜並木に、色だけは派手な提灯が数メートル間隔でぶら下がっていた。
 桜と提灯を見上げながら歩いていると呼び止められた。
「遅いお帰りね」
 いいがかりをつけるような口振りだ。
 声のほうに顔を向けると、桜のトンネルの下にあるベンチに、古風な着物姿で今朝の少女がいた。
「映画・・・見てたんだ」
 思わず言い訳するみたいに応えてしまった。
「噂になってるわよ、今日の武勇伝。転校生が鍋島の鼻を明かしたってね」
 広く聡明そうな額が月明りを反射させ、後れ毛が幾条かうなじを彩っているのがちょっと色っぽい。あ、いかんいかん。視線がセクハラしている。
「どうしてそういう根も葉もない噂が広がるのかな」
「根も葉もあるじゃない」
「枝葉末節が違う」
「火のない所に煙は立たない。噂は真実に一番近いところにあるものよ」
 噂が真実にもっとも近い、か。すると、あの話も真実なんだろうか? 気になって訊いてみた。
「祐太の話って、知ってる?」
 彼女の目が急に虚ろになった。魂を奪われたみたいにだ。
「魅力的な噂だわ。学校のみんなが信じてる。理想的な噂話よ」
「じゃあ、あれはやっぱり噂なのか」
「いま説明したばっかりじゃない。火のない所に煙は立たない。噂は真実に一番近いところにあるものだって」
 彼女は目を輝かせながら話をつづけた。いままでと違って心を踊らせて話しているみたいだ。
「ほかにも、いろいろあるわ。理科実験の骨格標本が深夜に動き回る。音楽室で昔戦死した先生の婚約者がピアノを弾く。家庭科の下水には、間違って切り落とした指が流れてくるのを待っている太ったネズミがいる。用務員室で起こった一家惨殺事件の怨念が、いまも畳の裏から真っ赤な鮮血になって深夜浮き出てくる。体育館でマットに簀巻きにされた少年がいまも体育館の天井に住み着いている・・・」
 ぞろぞろと、いかにもの話のネタを並べる。
「詳しいんだな」
「うちの学校、旧いのよ。明治三十七年の創立で、いまの校舎も昭和十七年生まれ。だから、噂には事欠かないわ」
 はらりはらりと花弁が雨のように降り頻る。
「でも、そんな噂も今年限り」
 力なく肩を落としてぼそっといってひと呼吸。間を置いてから話をつづけた。
「この夏休みに木造校舎は全部壊されてしまう。だから、噂も居場所を失ってしまうのを恐れて最後のあがきをしているわ」
 噂の最後のあがきだって?
 噂話は「もの」に憑く。けど、その「もの」である校舎が失われたら、噂の威力が減退するのだろうか? 鍋島や鳥飼、猪股が噂話で威嚇してフナムシくんを苛めようとしたのも、噂のあがきのひとつなのだろうか?
「あなたたちのせいよ」
「ぼくたちのせい?」
 名指しされて思わず訊き返した。
「あなたのお父さんは、学校を壊しにきたんでしょ」
「違うよ。新しい校舎を建てるためにきたんだ」
「同じことよ。旧い校舎を壊さなければ、新しい校舎は建たないわ」
「そりゃそうだけど・・・」
「だから、壊しにきたっていったのよ。わたしはあの校舎が好きなの。まだまだあの校舎と一緒にいたいの。だから、壊されたくないの。壊そうとする人を、わたしは憎むわ」
 反論することができなかった。古色蒼然としているけど、ぼくも風格があってなかなかいい校舎だなって実際思っていた。でも、ぼくにはどうすることもできない。
「時代の趨勢ってやつだよ。旧いものを壊さなきゃ建設業界はなりたたない。それに、人間って新しい物が好きだからさ」
 言い訳するようにいった。
「日本だけよ、そういう考え方。外国じゃ何百年も昔のままの町並みがそのまま保存されているじゃない。そこにちゃんと人が住み、働いているっていうのに、日本はすぐ破壊する。行政機関と建設業界の癒着よ。そうやって私腹を肥やしている連中がたくさんいるんだわ」
「それは極論だよ」
「帰るわ」
 そういって彼女は立ち上がった。会話を中断しようというつもりなのだろうか。
「家は近くなの?」
 そう訊くと彼女は頭上を指差した。そこには木立ちが鬱蒼と茂っている。そのずっと上は、確か学校がある辺りのはずだ。
「ねえ、名前は? なんていうの?」
 視線を戻すと彼女は薄暗がりに溶け込んで消え入りそうだった。
「教えてくれてもいいじゃないか」
「そんなの、どうでもいいじゃない」
「どうでもよくなんかないさ」
「そうそう。松井さんの話は本当よ」カラダ半分を闇に溶け込ませたまま彼女がいった。「丹野先生が覗きをしてるっていうの。出歯亀先生の首根っこを押えたいなら、明日の午後、体育館の屋上に行ってみるといいわ。それからね、フライドポテト食べながら女の人の胸ばかり眺めてると、キミも変態になっちゃうから気をつけたほうがいいわよ」
 いうなり背を向けて、彼女はふっと暗がりに消えてしまった。
 こっちが質問する余地もない。
 彼女は丹野先生の行動を知っているのか? それよりもなによりも、ぼくは彼女に見られていたことに少なからずダメージを受けた。まずいところを観察されちまった。これが噂にならなきゃいいけどな。それが本音だった。

    3

 家に帰ると八時を少し過ぎていた。
「連絡もしないで今頃までいったいどこでなにしてたの!」
 オフクロはピリピリしてぼくを怒鳴りつける。いやちょっと映画を見て女の子を観察して、同級生の女の子と世間話を・・・。なんていうわきゃない。
「これぐらいの年齢になるといろいろとつき合いっていうものがあってね」
「バカなことおっしゃい。お父さんの口真似ばっかりして」
 すっかり冷めきった夕飯を横目に、お冠だ。
「お兄ちゃんはね、いま、反抗期なんだからあんまりきつくいうとキケンかもよ」
 煎餅をかじりながらテレビの歌番組を見ている妹の未津樹が背中でいった。
「反抗期だからって放っとくわけにいかないでしょ。責任はみんな親が取るんだから。こればっかりはね、勝手にしろっていわれても法律で決まっているんですからね。あんたたちは、未成年者なんですからね」
「わかってるよ」
「田舎の学校にばっかりいたせいで、のんびりやさんになっちゃって。これから受験やなんかで競争していかなくちゃならないのよ。いままでそこそこの成績でもね、この街じゃ通用しないわよ」
 藪蛇だ。つまらん話題にググッとカーブしちまった。
「オヤジは?」
「歓迎会とかで遅くなるっていってたわよ」
「大変だな、建設屋さんも。バブルの崩壊で受注も減って、気の休まる暇もなしってか。大学出ても建設業と金融業にだけは勤めるのよーそう」
「親のお陰で食べさせてもらってるくせして、いっぱしのこというもんじゃないの!」
 ちょっとマジ過ぎたかな。本音がズバリに、オフクロもヒステリー寸前だ。
「お兄ちゃん。やめたらぁ」
 未津樹が背中でいった。
「おまえみたいに老成してないんだよ、オレは」
 なことをいっているうちにオヤジがご機嫌な顔で戻ってきて、オフクロが迎えた。
「早かったんですね」
「こんなもんさ。二次会や三次会に流れて行くほどオレも若くないさ。明日も仕事なんだし、そう飲んでばかりもいられないさ」
 上着を脱ぐと、外で飲んできたにもかかわらず食卓に座ってオフクロのつくった惣菜に箸をつける。こういう気遣いが、この夫婦がとりあえず波風立たずにつづいている原動力なんだろうなって、思う。
 オヤジはオフクロにやさしいのだ。ま、苦労をかけてるっていう意識が、濃密に自分自身の中にあるからっていうのも理由だろうけど。
「孝司」
「ん?」
「監督、頼まれちゃったよ父さん」
「学校の新築工事現場監督だろ」
「違うよ。野球の監督だよ」
「野球ですって、どういう風の吹き回し?」
 オフクロが怪訝そうにいった。ぼくも思いがけなくドキッとした。
「今度の支店にな、父さんが昔、学生野球で活躍してたころのことを知ってる人がいてな」
 そうそう。いまからもう二〇年も昔のことだ。リーグ優勝もしたっていうくらいの強い時期に、大学野球で父さんはぼくと同じショートを守っていたのだ。一時期はノンプロで野球をつづけようかっていうくらい思い込みが激しかったらしいけど、結局当時のエリートサラリーマンの道を選択したって訳だ。
「硬球には少しでも早く馴れた方がいい」そんな風にぼくと硬球でキャッチボールをするのは、そういう前科があるからだ。
 でも、会社に入ってからはまったく野球からは離れた人生を歩んできたはずなのだ。それが、監督だって?
「土建屋チームのかよ?」
 ぼくは不安が的中しませんようにと祈りながら訊いた。
「少年リーグのチームだ。この街にはNファイターズっていうのがあるんだそうだ。そこそこ強いらしいな」
 あじゃ! 悪い予感がその通りになっちまった。なにがそこそこ強いだ。県でも最低レベルだってアネゴがいってたぞ。
「うちの会社のグラウンドで毎週練習しているらしい。いままでの監督がな、市の商工会議所の人で、今日の歓迎会にきてて、是非にって」
「あなた、忙しいカラダで監督なんて大丈夫なんですか?」
「週に一回だ。大丈夫だよ。それに、いままでの監督が常時見てくれるっていうから、ま、腰掛け監督みたいなもんだ」
「安請け合いなんかしちゃって、知らないわよ」
 勝手に決めてしまったのがオフクロは面白くないらしい。でも、休日にゴロゴロと家に居られるよりはマシだって内心思っているに違いないと、ぼくは踏んでいる。
「どうだ孝司、これを機会に硬式に転向して見たら。お父さんがミッチリ仕込んでやるぞ」
 ほうら本音がでた。そういう期待、迷惑なんだよなってとこ、あってさ。野球は嫌いじゃない。けど、これからもずっと関わって行くほど好きかっていわれるとノーとしかいいようがないんだな。ぼくは映画を見るのも好きだし、実のところをいうと将来は同じ監督でも映画監督がやってみたいって思っているんだ。
 スポーツマンタイプのオヤジと、文化系のオフクロの折衷作のぼくだから、こういう好みになったとしたっておかしくはないはずなのに、オヤジはなんとかぼくに硬式野球をやらせたがっている。それがミエミエだから厄介なんだよな。野球をするっていえばオヤジはご機嫌で小遣いもバシバシくれるだろうし、本人も願い叶ったりで、親孝行になるんだけどさ。
「考えとくよ」
「考えとけよ」
 帰ってきてまたまたビールを飲んでいるオヤジを後に、ぼくはまだほとんど荷物の整理ができていない自分の部屋に入っていった。壁にはオードリー・ヘップバーンのポスターがすでに貼ってある。あと、出ているものといえば机の上の8ミリビデオカメラとテレビモニターだけ。あとの、本やなんかのガラクタはまだ段ボール箱に入ったままだ。
 8ミリカメラは「バッティングフォームを研究したいから」ってオヤジを騙くらかして買わせたものだ。もちろん「オヤジだってゴルフのフォームの研究に使えるぜ」というフォローも忘れなかった。
 もっとも、ぼくの試合を撮影してくれたのは、もっぱらオフクロだった。なにしろ、試合を見にきても、オヤジは監督の采配に難癖をつけるのに全力を使い切ってしまうから、ビデオどころじゃない。
 だから、はっきりいってマトモな映像は残っていない。でもそれでも一向に問題はなかった。だって、8ミリカメラでぼくが撮りたいのは、映画だったんだから。
 シナリオも書いている。スタッフと資金さえあれば、いつでも短編映画ぐらい撮れる状態なのだ。けど、そのスタッフを集めるのが一番やっかいな問題だ。ぼくは、シナリオを書きながら頭の中でカメラを回し、映像を編集していた。
「野球か・・・」
 このところ御無沙汰だった野球が、頭の半分近くを占め出しはじめようとしていた。ごく自然に、習慣のようにぼくはテレビのスイッチを入れてベッドに倒れ込んだ。
 深夜のニュース番組が日本とアメリカの経済のことについて話したあと、スポーツの結果があって、そのあとで特集番組というのを放送しはじめた。
「・・・最近、全国の学校で怖い噂が流行しています。どの学校にもトイレに花子さんという少女が住み着いていて、生徒にいたずらをしたり、取り憑いたりするというものですが、映像をご覧ください・・・」
 女性アナウンサーが話している。どこかの学校で生徒にインタビューしている。
「何年かまえに、屋上から自殺した人がいて、その人が祟ってトイレにいるって聞いた」
「そう、真ん中のトイレ」
「理科室の骸骨の標本あるじゃん。あれって、夜中になると学校の廊下歩くんだぜ」
「前にいた先生がね、自動車事故でね、生徒を轢いちゃってね、それで、先生がクルマを買い替えたんだけどね、先生がまた事故起こしたんだけどね、相手のクルマが先生が売ったクルマだったんだって」
 えんえんとつづく噂話。そのほとんどをぼくも聞いて知っていた。インタビューが終わると、その学校の教師らしい中年のオッサンが出てきた。
「事実無根なんですけどね。子供たちが話すような自殺とか事故とか、そういう事実はないわけですよ。噂ばかりが流布してしまっていて、子供たちは信じているんですね。不思議なことです。おかげでトイレに入れないなんていう生徒まで出てきて、困ってますよ」
 次に出てきたのはどこかの大学の心理学の教授という肩書きがついていた。
「・・・偏差値教育の弊害っていうんでしょうかね、外へ出て自由に遊ぶことがなくなって、コンピュータゲームとか閉じ籠ってする遊びに夢中になる。こういうことも影響していると思いますよ。本来子供というものは外に向かって発散するものなんですよ。ところが、現在の状況は一人ひとりが逼塞してしまっている。その結果でてくるのがイジメですが、それに参加できない子供たちもいるわけですね。そういう子供たちが、自分たちも参加できる内への発散といいますか、それが噂になって現れているのではないでしょうか。こういう状況は歓迎すべき状況ではないと思いますね。噂が発生するっていうのは、社会状況が不安定な証拠です。関東大震災直後にも火災の原因は朝鮮人の放火だというとんでもないデマが流れましたが、こういった流言飛語が発生するっていういまの子供たちの状況を、私は憂えますね・・・」
 関東大震災と偏差値教育とコンピュータゲームと噂との関係がなんだかこじつけみたいに聞こえたけれど、大人たちは頭だけで分かったようなことをいっている。大人たちは、はじめっから「ただのウワサ」という前提でインタビューしている。
 これって、偏見だ。
 まあ、水島みたいに噂にどっぷり首までつかって身動きできなくなってしまうのも問題だけど、頭から否定してかかるっていう態度にも問題はあるんじゃないか?
 閃くものがあった。自分はいままで噂なんかに関心はなかったけど、ストーリーにするテーマとしては面白いんじゃないか。そう、直観的に閃いたのだ。
 あの妙な少女も、こんどの学校には山のように噂が残されているっていう話をしていた。 ぼくはベッドから跳ね起きると、机の引き出しからシナリオ制作ノートを引っ張り出した。このノートにはSFやらファンタジーやらの短かなストーリーがシナリオになって書かれている。でも、それはみな想像上の話しだ。それはそれでいい。でも、そういうのとは違って、いまもっとも身近にある話題で、カメラで追えるテーマを発見したのだ。
 ぼくは、新しいページに「学校の噂」とタイトルを書き込んだ。


第三章 四月八日(金曜日)昼休み

    1

「そういう話しが好きなの、タッちゃんって」
 昼休みのベランダで、ショートカットした髪の下の目を暗がりのネコみたいに真ん丸に見開いて、アネゴが呆れたようにいった。今日のアネゴはジーンズにVネックの真っ赤なセーター。プレスの効いた白い襟がツンと飛び出している。
「水島の話に影響され過ぎたんじゃないの」
 ナイーブそうに右手にもった硬球に爪を立てながらカッちんが素っ気なくいった。
「タッちゃんはね、アタシたちのチームでショートを守る運命にあるのよ。つまんない噂に翻弄されていないで、さっさと腹をくくって決めなさいよ、男なら」
 その、きついお言葉のアネゴを制止するように、ベースがゆっくりと噛んで含めるように話しはじめた。
「アネゴがそんな風にいうと、逆効果だと思うよ。ムリに強制するはよくないよ。そういうのは、結果よくない。勉強だって野球だって同じだよ。ムリに、イヤイヤはじめるのは、結果に現れないもんですからね」
「お言葉ですけどね、ピアノだとかバレーだとかって、物心がつかないうちから強制的に教え込んで、それで花開くっていうもんだと思うけど」
 顎を突き出すようにしてアネゴがベースにいう。
「でも、そうやって強制して花開くのはどれだけですかね。やっぱり、もって生まれた才能があってこそ花開くものでね。強制と才能の開花は、たまたま偶然に過ぎないと思いますけどね、ぼくは」
「才能があったって、それに挑まなくちゃ花が開くも開かないもないってものよ、ベース」
「平行線だぁ、こりゃ」
 カッちんがお手上げ、というように洩らした。
「噂っていやぁ、うちのチームにもあるぜ」
 カッちんの言葉は聞き捨てならなかった。でも、アネゴは苦虫を噛み潰したような顔をしている。よっぽど噂話が嫌いらしい。
「単なる噂よ」
「ただの噂でもぉ、みんな信じてるからあの背番号は永久欠番なんじゃないのかぁ」
「カッちんもしつこいな。アタシが男なら自分であの番号を選ぶわよ!」
「本気かぁ?」
 意地悪そうにカッちんがアネゴの顔を覗き込む。
「見てよ、ほら」
 アネゴが氏名欄に松井章子と書かれたノートを突き出した。
「あ!」
「三十五番」
 カッちんが息を呑み、ベースが小さく洩らした。
 どういうことなんだ? ぼくは三人のやりとりについていけない。
「うちのチームの永久欠番なんだよ、この三十五番は」
 ベースが右の人差し指と親指でがっしりした顎を擦りながら話をはじめた。その三十五番を、わざとノートに書き付けているアネゴ。いったい・・・。

 Nファイターズの草創期の話だ。
 そもそも少年リーグは、将来、高校に行ってもすぐ対応できるよう、硬式のボールを使った野球を趣旨としている。
 入団してくるのは、はっきりと甲子園を目指そうという理想に燃えた少年たちだ。だから、遊び半分で入団したりするととんでもないことになる。学校の野球部みたいに、運動神経が鈍いやつも、一緒に仲良く野球を楽しもうなんていう気風はない。呑み込みが早いやつはすぐにでもレギュラーになれるけど、下手なやつはいつまでたっても補欠のままだ。
 要するにレベルが高く、勝つための野球であり、娯楽ではないということだ。
 運動神経の鈍い者は必要としない。
 そんな中で、是非自分の息子に野球をやらせたいといって入団を希望してきた親がいた。それも、自分の息子はピッチャーかキャッチャーに向いている。だから、ぜひそのポジションにつかせたいというのだ。
 ピッチャーといえば、チームの要。それなりの才能と技巧と、それに、神経の図太さも必要だ。
(話が逸れてしまうが、いまのNファイターズが弱いのは、ピッチャーのカッちんがナイーブ過ぎるからっていう説もある・・・ってベースがいったら、カッちん、怒って席を立って行ってしまった)
 その子をひと目見て、監督は「こりゃアカン」と思ったらしい。カラダができていないだけじゃない。線が弱く、とてもスポーツをするような柄じゃない、と。
 しかし、親が是非にというので投げさせて見た。ところがどっこい、弓なりのひょろひょろ球。コントロールも全然ダメ。キャッチャーも補球に困惑するほどだ。とてもピッチャーなんて勤まらない。ところが臨席していた父親は目を輝かせて監督にこういったという。「素質は十分です。鍛えてもらったら、エースは間違いなしです」と。
 あまりの熱情というか親バカに監督も無下に断り切れず、とりあえず預かることになった。けれど、仲間のスピードのある球は満足にキャッチできない。平凡なフライにも及び腰。ノックは怖がってしまって前に突っ込めない。バットを振れば空を切る。野球に向いてないとしかいえないような少年だった。
 しかし、父親の思い入れは並ではなかった。 自分の息子を色眼鏡で見ているせいか、信じて疑わないのだ。「息子は練習さえすればエースになれる」と。
 ある練習試合の日、両親が見にくるという。ゲームも終盤になって勝敗が決してしまっていたので、監督は気を利かせたつもりで少年をセンターに入れた。配慮ってやつだ。
 本人も両親の前で恰好いいところを見せようと思ったのだろう。いつになく張り切った。父親の熱意に応えるのは自分なのだ、と。運よくというべきか、運悪くというべきか、センター前にヒットの打球が転がった。少年は、自分の運動能力の限界を超えて、そのボールを処理するためにダッシュした。しかし、タイミングが完全にズレていた。突っ込み過ぎた彼は口でバウンドした硬球を受けて、前歯を三本へし折った。
 足元に落ちているボールをチームメートが処理するのを、彼は口を血だらけにしながら呆然と眺めるのが精一杯だった。
 彼は救急車で近くの歯医者運ばれ、その後大学病院の付属病院に三日間入院して、それから一ヵ月かけて差し歯をつくった。少年がチームに復帰したのは、差し歯が完成するのと同時だった。
 チームメートは監督に「頼むからやつだけはチームに復帰させないでくれ」と訴えた。しかし、またもや父親の情熱が岩を溶かしてしまったのだ。
 試合には出せない。
 その条件付きで復帰させたのだ。けれど、試合にも出ないで野球をすること、させることがいかに惨めなものか。またぞろ父親の嘆願で練習試合に出ることになった。
 差し歯のセンターは、怖いものなしだった。親の期待に応えるために。彼はこんどは顔面でライナーを補球したのだ。
 頭蓋骨骨折。
 グラウンドには血溜りができ、かなりの深さで土を掘り返して取り替えたそうだ。
 本人は、願って野球をしたのではない。父親に喜んで貰いたかったのだ。だから、不器用なカラダで硬球に立ち向かっていったのだ。少し頭の回路をプツンと切りながら・・・。
 その少年の名前も、祐太といった。

「その少年の背番号が三十五番だったっていうわけ。それ以来、三十五番は不吉な数字っていわれて嫌われてるらしい。それに・・・深夜のグラウンドにその少年が現れて、父親が千本ノックをしているのを見たっていう話もある。少年が顔で球を受けた場所にはいまでも血が染み込んでいて、ときどき土が紅く染まるという噂もあるし・・・」
「もういい加減にやめなさいよ! そんな根も葉もない噂なんか!」
 黙って聞いていたアネゴが、痺れを切らしたようにムキになって怒鳴った。我慢ならないといったように口を尖らせている。
 気圧されたベースの太く濃い眉が引っ張り上げられ、竦めた肩と広げられた両掌が「救いようなし」と語っていた。
「それで・・・その少年はどうなったの?」
 ぼくは小声でベースに訊いた。
「知らない。話はそこまで。それ以上詳しいことはだれに訊いても分からない」
「それって、実際にあった話なのかな?」
「噂よ、噂。勝手にだれかがデッチ上げたに決まってるじゃない、そんなヨタ話!」
 ベースの代わりにアネゴが応えた。根拠については自信がないのか、ベースもそれ以上は口にしなかった。
 この話も、裏づけがない。その少年が生きていれば真実かどうか分かるのに。父親はいまもこの街に住んでいるんだろうか。ぼくの胸の奥で疑念が渦を巻いた。
「タッちゃん。そんなにヨタ話が好きで骨の髄までオタクになりたかったら、あのデブに聞いたら」
 そういってアネゴが指差したのは、窓際の席に座っている体格のいい少年だった。体格がいいといってもボディビル体格じゃない。相撲のアンコ型って呼ぶのが正しいだろう。
「井筒くんなら、その手の話を山ほど聞かせてくれるはずよ。それこそ噂漬けになって店を開けるくらいね」
 そのデブは、はち切れんばかりの贅肉を黒い詰襟服にムリやり押し込め、横に幾筋かのふくらみ皺を寄せていた。焼き上がったばかりのアンパンの中心を、冷める前に指で突ついたような顔をしている。
「井筒正志。通称関取」
 ベースが解説を加えた。アネゴは無関心そうにベランダから席に戻りかけていった。
「噂なんて麻疹みたいなみたいなもんよ。一度のめり込んでもすぐに免疫ができて、二度とバカバカしくて相手にしなくなるものよ」
 そういってアネゴがぼくを戒めるように見た。それから話題を変えるようにボソッといった。
「次は体育かぁ。どっかで丹野が覗いてるかって思うと、ゾッとしちゃうけどな」
 それを聞いて、ぼくはあの少女の話を思い出した。
「ちょっと待った!」
 まだ話があるの? といった表情でアネゴがぼくを振り返る。
「出刃亀の現場を押さえたいっていってたよね」
「いったわよ」
「ある情報によると、その現場が押さえられそうなんだ」
「どういうこと?」
 アネゴが興味深げに目を光らせた。
「丹野が潜んでいる場所を知ってる」
「どこ?」
 ぼくはベランダから正面左手に見える体育館を指差した。
「あの屋上に潜んでいるらしい」
「どうして分かるのよ?」
「ある人から聞いた」
「ある人っていうのは?」
 ベースが慎重な目つきで突っ込む。
「名前は・・・知らない。でも、この学校の生徒のひとりさ」
「だれよ?」
 カッちんが興味深げに訊く。
「それが・・・よく分からない」
「ガセじゃないの?」
 アネゴがうさん臭そうに顔をしかめた。
「タッちゃんのことだぁ、霊感でピンときた、なーんていうんじゃないの?」
 カッちんが小バカにしたようにいう。
「信憑性が大事よね、こういう場合は」
 アネゴが横目で睨む。
「この学校の生徒だと思うんだけど、女の子から聞いたんだ」
「だれよそれ?」
 疑り深い目でアネゴがぼくを見た。
「だから・・・名前は・・・分からない」
「それで信じろってゆーの?」
 カッちんは呆れ顔だ。
「ぼくは信じる。信じてるからこうやって話してるんだ」
 そうはいっても確実かといわれると「絶対」と断言できないのがつらい。ぼくとしては、彼女のいったことを信じているだけなんだ。でも、十分に信頼できるって、ぼくは確信していた。昨日、そう感じたのだ。そう感じさせてくれるものが確かにあったんだ。
「信じてもらうしかないんだけれどね」
「分かった。信じよう」ベースが落ち着いた口調でいった。「ダメでもともとじゃないか。ガセだからといって、ぼくたちに損はない」
 そういって次の行動を目で問いかけてきた。
「まあ・・・な。ちょいと面白そうな話ではあるな、ククッ」
 カッちんがいたずらっぽく笑った。
 アネゴが「しょうがないな」といった風にタメ息をついた。
 これでキマリだった。

    2

 がらんとした体育館は冷んやりして、噂通りの薄気味悪さだ。見上げると古い鉄骨がむき出しのまま天井に張りついている。あのどこかに、マットに簀巻きにされた少年が住み着いているのか・・・。
「教室を覗くとすると、どの辺りかな・・・」
 ベースが腕組みして入り口から内部を見回す。正面に緞帳のついた舞台。左右の二階の高さ辺りに、人ひとり通れるほどの手摺のついた通路。その突き当たりに、舞台の裏手に通じていそうなドアが見えた。
「あそこしかないんじゃない」
 いいながらカッちんが通路への階段を駆け上っていった。ぼくたちもカッちんにつづく。右手に体育館のダダっ広いフロアがあり、左には薄汚れたガラス越しにバラックのような建物が見えた。
「カギがかかってないよ」
 驚いたようにカッちんが振り向いた。
 南京錠は見えているが、Uの字型のつるが外されていて、留金に引っかけられているだけだ。だれかが開けて、そのままにしたとしか思えない。
 ドアを開けると中には緞帳を上げ下ろしするためのスイッチボックスがある。そして、鉄の梯子がコンクリートの壁から生えていた。まず、カッちんが身軽に梯子を昇っていく。その姿が暗がりに消えて直後、
「待て!」
 カッちんの、だれかを咎めるような声が奥で響いた。ベースが梯子に飛びつき、慌てて昇っていった。ぼくも後につづく。梯子を上り切る。体育館の裏部屋というのか、ウナギの寝床のような狭く長い空間が広がっていた。こちら側、つまり舞台の左手から右手までつながっているらしい。
 突き当たりに、向こう側の梯子から降りようとしているカッちんの背中が見えた。ベースもそれにつづいていくようだ。ぼくは逆戻りをして、昇ってきたばかりの梯子を急いで降りた。
「どうしたの? なにがあったの?」
 下でアネゴが心配そうに見上げている。
「外だ!」
 ぼくの叫びに、アネゴは通路へのドアを急いで押し開ける。梯子を降り切ったぼくも通路へと急ぐ。
 左を見ると反対側の通路を、三人の影が走っていた。最後尾はベース、真ん中がカッちん、そして、先頭の影が逃げる。逃げる影がグラリとよろけた。足をもつれさせ、手摺に倒れ込む。その手摺が、まるで障子の枠のように脆く崩れ、弾けた。影は、散乱する手摺の残骸とともに、三メートルほど下の体育館の床へと転落していった。
 ゆっくりと、スローモーションを見るようだった。薄汚れたジャージに、白いストライプ。禿げ上がった頭の下で、恐怖に引きつった目が叫んでいた。空虚な抵抗が、両手を突っ張らせている。それも空しく、腕は床につくと同時に妙な方向へぐにゃりとへし曲がる。
 ゴッ! 鈍い音がして、禿げ上がった頭頂部が床にめり込んだ。頭蓋が割れ、脳漿が飛散し、ピンクの肉片が辺りに撒き散らされた。
 ぼくの脚が、凍りついて動かなかった。
 床に頭頂部から叩きつけられた男の姿を見下ろしながら、ぼくは途方に暮れていた。

    3

 アネゴが先ず保健婦を呼びに行った。保健婦は一瞥するなり直ぐ教頭を呼ぶようアネゴに命じた。保健婦は立ちすくんだままガクガクと膝を震わせるだけだった。教頭はそんな保健婦に救急車を呼ぶよう促した。
 一〇分後、救急車が到着して、丹野は病院へと連れ去られて行った。消防隊員は、現状の様子から警察へと連絡し、ものの一〇分もしないうちに県警のパトカーが校庭に顔を見せた。
 ぼくたちは教頭と、遅れて事態を知らされた校長から、こう厳命された。
「これは、事故だ。間違いなく事故だ。君たちが、たまたま体育館に入っていったら、丹野先生がベランダの手摺から誤って落ちるのを目撃したんだ。機械室へは一切足を踏み入れていない。丹野先生も、そして、君たちもだ。分かったな」
 警察の実況検分はいい加減なものだった。
 手摺の強度が脆くなっているのは明白だったから、それ以外の可能性についてなど微塵の疑念も抱かなかった。まして、舞台の裏へ入り込んで検分することなどしなかった。機械室へのドアの、カギの外れた錠前についても、教頭の「いつもその状態です」という返答で納得してしまった。
 ぼくたちは警察官から簡単な事情聴取をその場で受けただけで、放課後には解放されていた。
 呆気ないものだ。
 でも、実をいうとちょっとだけ冒険をした。
 救急車がくるまでの騒乱状態の間に機械室の背後へともう一度潜り込んで、脱衣所となる教室に向けてセットされていたビデオカメラを回収したのだ。もちろんテープはポケットに入れた。カメラは、どさくさに紛れて職員室へ入ったとき、丹野の机の上になにげなく置いた。
 アネゴは機械室の背後に上がっていないからカメラの存在は知らないはずだ。カッちんもベースからもなんの話もない。気がつかなかったんだろう。
 ポケットのテープの厚みが、わずかばかり罪悪感を目覚めさせ心臓をチクリと刺戟した。でも、好奇心には勝てなかった。


第四章 四月八日(土曜日)午後

    1

 事故のニュースは、放課後になるまでに学校全体を駆け巡り、だれ一人知らない生徒はいない状態だった。
 ぼくたち四人は、クラスのみんなから質問攻めにあった。でも、ぼくたちの口は鉛を含んでいるように重く、慎重だった。せいぜい、丹野の頭蓋骨の凹み具合と血糊の飛び散り具合までしか話すことはなかったけれど、それにしたってあまり思い出したくはなかった。
「体育館の呪いだ」
 そんな声が、湖に投じた小石が広げる波のように広がり、増幅していくのが耳に入った。その噂をもっと知りたくて、アネゴがいっていた関取と、ぜひ話がしたいとぼくは思うようになっていた。
 帰り支度をしている関取こと井筒正志は、小柄な少年と話をしていた。その少年は黒縁のメガネをかけ、耳が隠れるくらい長く髪を伸ばした神経質そうな面立ちをしていた。二人が並んで教室を出るのを確認して、ぼくは席を立った。
 靴に履き替えた二人は、正門ではなく体育館の方へと回り込む。ぼくは、背後から声をかけた。
「聞きたいことがあるんだけど」
 ビクンと、関取が数センチ飛び上がった。図体がデカイのに反比例して、井筒はとんでもなく気が小さいのかも知れない。こいつぁノーメークで「猿の惑星」シリーズが撮れるっていうような面構えだ。額と顎が張り出て、目と鼻が落ち窪み、上唇と下唇が突き出た歯を包み込むように膨らんでいる。
「なななな、なに?」
 好奇心を煮染めたようなわくわくした声で関取が応えた。
「噂のことを聞きたいんだ」
 関取が奥に引っ込んだ小さなビー玉のような目を、キラリと意味ありげに輝かせるのが分かった。
「そ、そんなの、お、おやすいご用だよ。そ、それに、ぼ、ぼくたちも、丹野先生のことで、い、いっぱい聞きたいことが、あ、あるよ。な、なあ、か、監督」
 黒縁メガネの少年と顔を見合わせてにんまりと微笑み合う。その唇を濡らす唾液が、滴り落ちそうに口腔から湧いてきていた。
 監督と呼ばれたその少年が、ぼくの顔から衣服から舐めるように眺め回す。近くで見ると、髭の剃り跡が濃いのが異様に目立つ。ひどい近眼なのか、瓶底メガネで目が点になっていた。その点の眼の奥に好奇心を光らせて、いった。
「うちへ、来ますか?」
 慎重そうな口調に、食指をそそられている様子が見えた。
「こ、こっちが、ち、近道だよ」
 関取と監督は、体育館の裏へとぼくを誘導した。さっきのこともあって、ちょっと気味が悪い。関取と監督も、体育館の屋根を恐る恐る見上げながら歩いて行く。左手は敷地を囲う金網フェンスで、雑草が絡みついている。回り込んだ裏には、体育館と通路で連結された木造の小さな建物があった。体育館の窓から見えた、あのバラックだ。焦げ茶色の板壁は年月と風雪に耐えてきたことを忍ばせ、蹴飛ばしたらそのまま倒壊してしまいそうだ。
 ここが惨殺事件が起こったという建物なのだろうか?
 そばの焼却炉では火がはぜていた。
 通り抜けようとしたぼくたちに、ぶっきらぼうな声が浴びせられた。
「正門から帰れっていわれてるだろうが」
 用務員室の陰から白髪の、不精髭だらけの老人が箒を手に現れた。
「大目に見てやってくださいよ」
 監督が大人びた口調で、媚びを売るようにいう。
「そうはいくかい。お前らの悪さ見張るのもわしの仕事だでな」
 いかにも小意地が悪く、狡そうな目で監督と関取をギロッと睨んだあと、ぼくを珍しそうに見た。
「きょ、今日から、て、転校してきたんだ」
 ぼくは気圧されて、自然と頭を下げていた。
「よ、用務員の、周中さん」
「丹野先生の事故を見たっていう生徒だな」
 レモンにがぶりと食らいついたような、苦々しい顔つきでぼくを見る。その周中さんに、監督が近づき、バッグから小さな袋を取り出した手渡してた。
「新しいのが手に入ったから、もってきたんですよ」
 周中さんは急に相好を崩すと「うむ、うん、うん・・・」と呟きながら、焼却炉へと寄っていき、袋の中を覗き込むと、
「早く消えろ」
 と、投げ捨てるようにいった。
「ありがとう」
 ぼくたちは、緑の金網フェンスの一角にある狭い裏門からスルリと抜け出した。
「あ、あんな、ひ、人殺しのあったとこに、よ、よく住めるよな、あのオッサン・・・」
「人それぞれですからね。ふふ」
 監督が、口の端を曲げながらいった。
 ぼくは、二人のあとをついて、学校を背に高台ぞいの道を歩いて行く。大柄な関取と小柄な監督。なんだか妙な取り合わせだけれど、保守本流から外れたオタクっぽい二人がひそひそと小声で会話を交わし合う姿は、微笑ましいというよりちょっと薄気味が悪い。
 二人から目を逸らして左手を見た。
 丘陵が緩やかに傾斜して市街へと下りて行く。その緑が終わった辺りに、ぼくの住むマンションの屋上がかろうじて頭を見せていた。いまは春だから一面が緑に覆われて、一帯も緑の厚着をしている。
 この中に埋もれて、あの、名も知らぬ少女の家があるのだ。

      2

 監督の家は、周囲を畑に覆われた新興住宅地の一角にあった。市街地がどんどん広がるに連れて住宅が丘陵地帯を次第に呑み込んでいって、ここまできたか、という外れに位置している。
 瀟洒と呼ぶにはほど遠い、住宅展示場からそのままもってきた、全国一率規格品ツーバイフォーの建物の二階が監督の部屋だった。
 しかし、部屋に入って驚いた。
 壁一面に二段スライド式の本棚が並び、ギッシリとビデオテープで埋められているのだ。なかなかの光景だった。机の上にはビデオカメラが数台。それに、八ミリ映写機まである。八ミリっていってもビデオじゃない。昔の、ちゃんとした八ミリ幅のフィルムで撮影して映すやつだ。関取が「監督」と呼ぶだけのことはあるな、と改めて納得した。
「おいら、海野真」
 呆然と部屋を眺めているぼくに、監督がいった。振り向くと、メガネの奥の点を巨匠のようにギラリと光らせている。さあどうだ、といわんばかりだ。コードレス電話機を手に、ボタンを押している。
「凄いコレクションだね」
「仲間同志でダビングしたりして集めたんですよ。日本じゃ手に入らない珍品から、門外不出の秘蔵版までそろってますよ。用務員のオジサンに渡したのは、その中のエッチ版でね・・・あ、おいら・・・」
 電話がつながったらしい。
 近寄って見ると、いうだけあって、ぼくの知らないタイトルの映画が随分とある。なかでもスプラッターとホラー映画は充実していて、垂涎もののB級ムービーがゾロゾロある。
「オタクも好きみたいね。丹野の頭のリアルさと、どっちが好き?」
 電話を終えた監督が、いう。あの光景をムリやり甦えさせられて、胃液が逆流しそうな気分になった。真性オタクに「オタク」呼ばわりされるのも気分のいいものではなかったが、さっきの事故の生々しさがまだ頭にこびりついていたのだ。
「悪い悪い。冗談ですよ」
「あ、ああ」
 ぼくは我に戻って頭の中を整理した。
 その間に監督は机の脇にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ぼくに「飲むか」と動作で訊いてきた。首を振って断ると、ウーロン茶とコーラが部屋の中央にある小さなテーブルの上に並べられた。
「や、やっぱ、体育館には、す、簀巻きにされた少年の霊が、す、住んでるんだ・・・だ、だから、きょきょきょうみたいな事故が起きたんだよ」
「間違いないですね、霊が丹野を突き飛ばしたのは。それに・・・」
 監督が僕の方を確信に満ちた目を向けた。「昨日もナベたちが剛ちゃんを脅して祐太を呼び出させようとしたでしょう。あれも、旧くからある噂のひとつですよ」
「い、いの、猪股が気を失ってたの、あ、あれも、ゆ、祐太の呪いかな、監督?」
「それ以外に考えられないでしょう。気絶しただけで済んで、幸・・・っていうところじゃないですか」
 剛ちゃんっていうのは、フナムシの清水のことだ。こっちの仲間内では剛ちゃんと呼ばれているのだろう。
「深町くんは二日つづけての目撃者ですよね。しかも、転校したて。偶然とは思えませんよ。よっぽど霊感が強いんじゃないですか」
 瓶底メガネの奥で、疑り深く瞳が光った。
「ベースから聞いたんだけどね」
 ぼくが話題を変える。
「名捕手多田くんのことですね」
 いささが嘲笑気味にいう。
「あのチームにも昔から忌まわしい噂があるって聞いたんだけど・・・」
「三十五番の背番号のことでしょう」
 すぐさま答えが返ってきた。
「知ってるの?」
「この街で知らない人はいませんよ」
「そ、そうだよ、し、知らないやつは、も、モグリだ」
「でも、アネゴはしっかり単なる噂だって否定してたけど・・・」
「そりゃそうですよ。松井章子の父親は松井祐太っていって、むかし三十五番の背番号をつけたNファイターズの選手だったっていう噂ですからね」
 ほくは目を見張った。そして、耳を疑った。じゃあ、アネゴの父親は陰気な少年でトイレで自殺して、その上、気がふれて顔面で硬球を受けたっていうのか?
「どこまで本当の話か、それは保証しません。でも、松井の父親は、松井が小さい頃に雷に打たれて死んだって聞いています。これも・・・噂ですけど」
「そ、そう。う、噂だけど、し、信憑性が高い話だとお、思うよ、ぼ、ぼくはね」
 それにしたって、トイレで自殺した上、硬球を顔面に受け、落雷で死んだという人間なんかいるはずがない。でも、そのどれかが本当だったら・・・。アネゴが頑に噂を信じようとしないのも頷ける。
「むしろ噂の本質の部分をもっとも知りたがっているのは、松井さんの方じゃないんでしょうかね。なにかあるんですよ、きっと。ただ闇雲に拒絶しつづけるっていうのも、妙だと思いませんか?」
 ぼくの心を読み透かしたように監督がいう。アネゴに関する噂に興味と詮索の気持ちをもち、イロイロ調べているっていうことか。ネタはいくつかつかんでいるのかも知れない。
 ドアがノックされた。家族かと思って振り向くと、フナムシの清水剛だった。痩身の体躯に、いかにも趣味が悪くジジ臭いブレザーを羽織っている。
「深町くんがきてるっていうからさ」
 そういって、青白い顔に引きつったような笑みを浮かべた。それに呼応するかのように、関取と監督が「ヘッヘッヘッ」というオタッキーな笑い声を上げた。この三人は、究極のオタク野郎連合なのだろうか?
「いまね、松井さんの話をしていたんですよ」
「ああ、監督が調べ出してきたっていう、アレね」
「おいらの家は印刷屋でしてね。新しい玉藻中学の会員名簿をいま編集しているんですよ。それで、昔の卒業生を調べる機会がありましてね。いまから三〇年前の卒業生の中に松井祐太の名前を見つけたんですよ。すでに死亡していましたけれど・・・。それに、同級生の中に旧姓輿中、現在松井姓という女性がいましてね。住所を調べたら、松井章子と同じなんですね、これが」
「Nファイターズの選手だったっていう話は根拠があるっていうこと?」
「そこは・・・いや・・・ちょっと・・・」
 自慢化にいうもんだから突っ込むと、曖昧にはぐらかす。
「想像なんだ、きみの」
「そうはっきりいわれると立つ瀬がないじゃないですか。噂にはふくらみがないと面白くないでしょう」
 こいつら、面白がって噂を再生産している。しかも、勝手な想像で・・・。それで、三人は秘密を共有した喜びで目が蕩けまくっている。やな連中と一緒にいるハメになっちまったなって、半分反省しながらも、もっと知りたいという気持ちが心の中でせめぎあっていた。
 ぼくは、内心アネゴには申し訳ない気分で一杯だった。

    3

「面白いビデオがあるんです。見ますか?」
 察したかのように向こうから誘ってくる。ぼくが応える前に、監督は8ミリのビデオデッキにカセットテープをセットしはじめた。ワイド画像のテレビモニターにスイッチが入り、ビデオがスタートした。
 画面は暗く、映されているものの輪郭が朧気に見える。しかし、なにかは分からない。
「こ、この日はつ、月が出てたから、こ、これでもいい方だよ」
 カメラは定位置に置かれたままで、まったく動いていない。なんとか判別できるのは、そこがどこか教室のような場所だということだけだ。
「先週の夜、理科実験室にカメラをセットしたんですよ。噂のね、人体骨格標本が動くっていう時間にタイマーをセットして・・・。このとき午前〇時です。噂では、この時間からが骨格標本の活動タイムに入るんですけどね」
 監督は何度も見ているのだろう。それでも、新たな発見のためにか、目が画面の隅々まで忙しなく移動していた。
「次です。よく見ていてください」
 ぼくは目を凝らした。なにものも見逃すいまいという思いで一杯だったのだ。
 突然、カメラがグラッと動いた。
 だれかが触れたような動きだ。
「カメラは置きっぱなしで、だれも理科実験室にはいなかったはずなんですけどね」
「こ、怖いよ、な、何度みても・・・」
 そのあと、カメラが捉えていた骨格標本の周囲がパッと明るくなったかと思うと、画面は真っ白になってしまった。
 監督はビデオのスイッチを切った。
「こんなことって、考えられますか?」
「地震があって、それでスイッチが切れたとか?」
「それは有り得ないですよ。その時間、ぼくたちはこの部屋で待機していたんですから。学校だけに地震が起こって、ここで揺れが感じられないなんて、どう考えたっておかしいでしょう」
 その通りだ。監督の言い分を信用するとすれば、なんらかの不可抗力がカメラに加わって、動き、スイッチをオフにされてしまったということになる。
 見せたくないものがあったからだろうか?いったいなにを? 一体誰が?
「・・・やっぱり噂は本当なんだよ。理科実験室で劇薬を間違って飲んだっていう生徒の怨念が、標本の骸骨の模型に乗り移って、教室の中を徘徊するっていうの・・・これは、それを見られるのが嫌だから、霊がカメラのスイッチを切ったとしか思えないもの・・・」
 清水は蒼褪め、口を両手で覆い、身を縮めるようにして洩らした。
「そのカメラもね、すでに呪われているよ!」
 恐怖で引きつった声を上げて、清水は入ってきたドアに背中をピッタリとつけ、逃げ腰になった。カメラという実体から、自らを遠ざけようっていうつもりなんだろう。
「ぼ、ぼくも、そ、そんな気、気がするけどな」
「霊のせいだって断言はできないんじゃない」
「どうしてさ。どうしてそんなことがいえるんだい、深町くんは?」
 清水の声が震えている。
「噂や霊を信じている君たちなら、霊を連想するだろうけど、なにも知らない人がこのビデオを見ても、ただ撮影に失敗したビデオってしか思わないじゃないかな」
「そんなことないよ。絶対にない!」
 頑に信じ込んじゃっている清水にはなにをいっても「ムダ」のひとことみたいだ。
「いろいろな解釈ができるってことでしょうけれど、おいらの気持ちを察してもらえれば一番いいと思いますけどね。決死の覚悟でカメラをセットして、それでもって、翌朝学校が始まってすぐに回収しにいったんですからね。その結果が、これなんですから」
 監督は自信ありげにカメラを手にしていった。
「テレビでも霊の出る場所とかへカメラが乗り込んだりする番組はあるけど、大抵はなにも映っていなくてさ、それっぽい音楽で盛り上げようと演出したりするじゃない。やっぱり、そういうのって、決定的なモノが映ってないから説得力も信憑性ないしさ・・・」
 ぼくは、ひと呼吸おいて三人を見回した。
「それで?」
 ぼくの目に監督が応じた。
「一晩徹夜で張り込む覚悟でやってみたらってことさ」
「じょ、冗談じゃない! そんなことをしたら、今度はぼくたちが理科実験室のネコの脳髄のホルマリン漬けに乗り移って夜中に徘徊しなきゃならなくなる!」
 清水が声を震わせながら首を強く横に振った。
「そ、そんなの、や、やだよ。ぼ、ぼくは、一生あ、あの教室で、じ、人体解剖模型に閉じ込められるのは! や、やだあ!!」
 関取が巨体を震わせながら顔を歪ませる。
 ひとり冷静なのが、監督だ。なにも映っていないテレビの画像をじっと見つめているメガネの奥の瞳に、好奇の色が深まっていくのが見えた。
「噂になってる現場の全部にカメラを持ち込んでさ、一本の映像にまとめてみるとかさ」
 ぼくは、故意に煽るような言葉をかけた。腕組みしていた監督が、じぶんにいい聞かすようにして口を開いた。
「夏休みになったら校舎は壊されてしまうんですから、すべての噂を克明に記録するっていうのも面白いかも知れませんね。そうすれば、噂が本物かどうかちゃんと証明できるっていうわけですよね。深町くんにもちゃんと説明がつくし、ぼくらは噂の霊をカメラに収めたっていうんで有名になるし、ひょっとしたら全国ネットのテレビにだって出演できるかも知れない。その最後のチャンスになるかも知れませんね。もっとも、こっちも覚悟してかからなきゃなりませんけれど・・・」
(こいつ、危険とかを顧みない相当なオタク野郎だな・・・。ぼくの狙っているテーマをビデオに収められるとしたら、監督の協力は不可欠かも知れないぞ)
 恐怖を凌駕する貪欲な好奇心。それが、監督の目立ちたがりやな心を誘惑しているに違いない。とんだところで瓢箪から駒ってやつだ。本当はアネゴやカッちん、ベースたちにひと仕事頼もうと思っていたのだけど、とんだところで同好の士(?)を得た。
 自尊心をくすぐられたのか、監督はいままで以上に意欲に漲っているように見えた。
「や、やめようよ・・・」
「死、死にたくないよお・・・」
 関取も清水もすっかり怖じ気づいてしまっている。
「深町くん、キミも一緒にどうですか? まんざら映像に興味がなさそうでもないらしいし・・・」
 監督の矛先がこっちに向けられた。
「予定を立てておきますから。そのときは、よろしく頼みますよ。ぼくも、キミがいた方が心強いみたいですしね」
 そういって、助けにならなそうな関取と清水を侮蔑のまざった眼差しで見た。

    4

 五時を過ぎてもまだ明るかった。
 ぼくは、山路を下っていた。監督に麓への近道を訊いたが、いったん学校まで戻って、いつもの道を辿った方が無難だといわれた。それをムリに教えてもらったのは、あの少女の家をひと目見ておきたかったからだ。
 監督がいうように、道は傾斜がきつく、しかも、狭い。そのうえ、夏草が生い茂りはじめていて、どこが路なのか所々で分からなくなる始末だった。いったん引き返せといった理由が、歩き始めて五分もしないうちに理解できた。
 水分を含んだ下草が足にまとわりついて離れない。行く手を阻むように重く、執拗に絡みつく。草いきれがカラダ中を覆った。青臭い新芽の息吹が、鼻孔をくすぐって離れない。ぬめっとした空気に、全身が包まれた。
 足に重しをつけて歩いているようだ。
 そんな状況が一〇分くらいつづいただろうか。まとわりついた草たちから放り出されるように解放された。そこは、森の中の解放区とでも呼ぶに相応しい場所だった。三〇メートル四方くらいの広さで、周囲は木立ちに覆われているが、そこだけは下草も入念に手入れされていて、樹木も生えていず広々としていた。
 霧が立ち込め、しっとりとした空気にやっとまともに呼吸ができた。
 前方に、人の手が加えられた形跡がある。いままで来た路とは違って、手入れされた路が見える。足元は確かだ。幅は狭いけれど、茂った草もぼくのカラダにまでは手が届かない。
 しばらく歩くと、右手がいきなり大きく開けた。樹木が光りを遮っていたが、少し奥まったところに別荘風のロッジが見えた。
 しかし、生活臭が全然しない。まるで、童話の中の世界に紛れ込んでしまったみたいな感覚だ。つくりものの世界、といったらよいだろうか。
 あそこに彼女は住んでいる、のか? ここから学校へ毎日通っている、のか・・・。あの、いままでぼくがかき分けてきた草むらをどうやって?
 ぼくは、辿ってきた道筋を振り返る。そこは、闇につながるトンネルのように真っ暗で、夕闇さえも吸い込んでしまいそうな穴になっていた。
 夜が迫っていた。頭上にわずかに覗いている空が、急速に墨色に変わりつつあった。
 ぼくは下の桜並木につづくはずの路を、足元に注意しながら、でも心を急かせながら降りていった。路はくねくねと右へ左へとくの字に折れながら、ゆったりとした勾配でつづいている。所々に朽ちた老木があり、かろうじて立っているとしか思えないものもある。
 ミシッ! 
 静寂を破る音に視線を走らせると、数メートル先で、老木の一本が自分の重みに耐え切れず左手に倒れようとしていた。ゆっくりと、スローモーションのように路の反対側へ倒れ込んでいく。そこは、下へ降りる路がつづいているはずだ。次の角を曲がったら、倒れた老木を乗り越えていかなくちゃならないな・・・と思った瞬間!!
「キャッ!」
 下から悲鳴がした。
 ぼくは足を早めた。けれど、急いだせいで角を曲がるとき、足を滑らせてカラダが宙に舞った。腰から落ちたせいで、庇った左肘も一緒に打ちつけてしまった。様はない。半身が泥に塗れ、肘も痛みを忘れるくらい熱く、ジンジンと痺れている。
 それでも、声の主が気になって顔を起こすと、老木に押し潰された少女の姿が見えた。彼女か?
 立ち上がろうとしたが、腕に力が入らない。見れば左の腕が妙な方向に捩じれている。
 折れた!? 痛みよりも、悔しさで目の前が真っ暗になった。
 クソッタレ! こんなときに!
 怒りが頭頂に充満した。憤懣やるかたない思いが目を曇らせる。霧がかかったみたいだ。
 匂いがした。やわらかい生活臭だ。
 目をあけると別荘風のロッジ・・・!!
 さっきの場所にいた。
(予知夢!?)
 目をしばたかせて頬をぴしゃぴしゃと叩いた。
 現実だ。
 急がなくては!!
 ぼくは足を早めた。くねくねと右へ左へ折れながら、ゆったりとした勾配の路を滑るように駆けた。コーナーではスピードを緩めて転ばないように細心の注意を払いながら・・・。でも、急ぐことのほうが先決だった。
 左手に、倒壊寸前の老木が見えた。まだ倒れ込んでいない。さっき転倒した場所を、たたらを踏みながらかろうじて回り込む。
 前方に、路を上って来る少女の姿が見えた。 間に合うか?
「と、止まれ!」
 ぼくは精一杯の声を張り上げた。
「止まるんだ!!」
 少女が顔を上げた。怪訝な表情だ。構わず登ってくる。このままだと老木の下敷きになってしまう。一か八かだ。ぼくは加速をつけて駆け降りた。
 少女はぼくに気づいて身構えた。
 これ以上坂を登らせないために、彼女を止めるために、ぼくは坂を走り降りる。自分がどうなるかまでは考えなかった。
 頭上で老木のミシッという倒壊音がした。ゆっくりと老木が倒れて来る。ぼくは夢中で走り抜ける。
「早く!」
 彼女が冷静な声でいった。
 ぼくのカラダは、勢いでもう止まらない。老木がぼくの頭上に迫る。間一髪、老木はぼくの背中を掠めて倒れ込んだ。
 ドスン! 
 大地が揺れ、ぼくの加速は止まらない。行く手には彼女。その奥には森の茂みが待ち受けている。もう止められない。彼女が迫る。接触しそうになって、ぼくはカラダを捻るようにして地面を蹴った。わずかに彼女の肩にふれた。
 視界が、遊園地にいるみたいに回転した。足の下に空、頭から、森に突っ込む。
 ガサッ!
 草の感触が全身を包み込んだ。
 バキ、バキ、バキッ・・・
 枝が折れる音がする。
 ぼくは緑の中に嵌まった。嵌まったままで、熱いものを額に感じていた。手で拭うと、掌が赤く染まった。痛みは感じなかった。心臓がドクンドクンと高鳴っている。頭上の木立ちの隙間から、夕闇の中に白い雲が見えた。
 ぼくは立ち上がろうとした。けれど、カラダが動かない。腕にも足にも力が入らないのだ。
 どうしたんだ? そんなに酷くカラダを打ちつけたのか? 彼女はどうしたんだ? 困惑してぼくは目をつぶった。
 草の匂いが鼻孔をくすぐった。目を開けると細く狭い山路が目の前にあった。
 ぼくは立っていた。そして、山路に足を踏み入れようとしていた。
(なに!?)
 ぼくは、これから麓への近道へと入り込もうとしている。振り向くと、貧弱な建て売り住宅の、監督の家が小さく見えた。
 まだ周囲は明るい。
 だれかがぼくを翻弄している。あざ笑っている。いや・・・。来るな、といってるのか? 戻れ、といってるのか? そんな気がして、ぼくはきびすを返した。そして、学校へと急いだ。


第五章 四月八日(金曜日)夕方

    1

 夜になったらさぞかし寂しげな情緒が醸し出されるだろう裏門は、人気なく静まり返っている。緑に覆われた金網フェンスのチャチな施錠を解くと、用務員の周中さんに気取られないように気を配って体育館の横手に出た。
 体育館は立ち入り禁止状態だ。あのとき、ぼくたちの視線は丹野先生に集中していたけれど、もしかしたら屋根の上からマットに簀巻きにされた少年の怨念が丹野先生を朽ち果てた手摺へと誘導していたのかも知れない。締め切られた扉を見上げたぼくの心に、そんな思いがスルリとすべり込んできた。
 スニーカーを立入禁止状態の体育館の入り口で脱いで、バッグもそこに置いた。渡り廊下をつたって教室のある棟に入った。まだ活動しているクラブもあるらしく、微かに話し声も漂ってくる。右手は昨日の事件のあった男子トイレだ。正面の廊下はずっと向こうまでつづいている。左手に、二階へ上がる階段がある。理科実験室は確か二階だから、ここを上がればいい。明治時代から何人も何百人も、いや、何千人もの掌でなでられきた手摺は、木肌に人間の脂を吸って、まるでニスを塗ったようにつるつるに光り輝いている。
 階段に足を乗せると、ギィと軋み音をたてた。踊り場で向きを変え、周囲を見回す。漆喰がところどころ禿げ落ちたまま放置されている。
 もうすぐこの壁も柱もすべて壊されて、近代的な鉄筋コンクリート造りの建物に生まれ変わるのだ。わざわざお金をかけて修繕する必要もないというわけか。
 二階の廊下も、一階と同じく天井が高くて幅が広く暗かった。夕暮れが迫っているから、なおさらだ。天井から吊されている電球の傘はガラス製で年月を感じさせた。
 まるっきり昔のままだ。
 なんだか、この建物自体が生命をもっていて、呼吸しつづけてきたのではないかという錯覚にすら囚われそうだ。ここは学校という生命体の内臓の中・・・。どくんどくんと脈打つ息吹がつたわってきそうな気がした。
「音楽室」「家庭科室」「技術家庭室」「社会科資料室」・・・白いペンキで書かれた黒い札が、教室の入り口の金具から下がっている。「音楽室」の窓から噂のピアノが見えた。アップライトで、いまにも月光に照らされてセレナーデでも奏でそうに見える。
「家庭科室」には、古臭いステンレスのシンクが並んでいる。あの排水口の下には、切り落とされた指で丸々と太ったネズミが、次にだれの指が落ちてくるのか楽しみに待っているのだろうか?
 どの部屋も時代を経て、室内の設備は多少新しい物になってはいるが、いままでぼくがいた学校と比較したら、それこそ雲泥の差があるといってよい。どれも、これもが最後のお勤めという粗大ゴミの集積と呼んでもいいくらいの骨董品だらけだ。
 一番奥に「理科実験室」があった。
 そこだけ廊下側に窓がない。そのかわり壁に色褪せた額がかかっていた。中から厳めしい顔つきの白髪の老人が睨んでいる。初代校長という文字が、額に打たれた真鍮のプレートに刻印されている。なんだか化けて出てきそうな気味悪さだ。
 理科実験室の入り口は施錠されていた。といっても、どこのスーパーでも売っていそうな簡単な錠前だ。ドアと柱にネジ止めしてある金具を外せばカギなどなくても開けることはできるだろう。
 いや、そんな面倒なことをしなくでも、教室の窓が開くかも知れない。なにしろ、真鍮の、先端にネジを切ってある鍵をそのまま捩じ込んで、二枚の窓を締めつける古い鍵だ。ぼくは端から木枠に擦りガラスの嵌まった窓に触れていった。
 ぐらぐらする窓があったので、小刻みに揺すっていたら、ポトッと鍵が外れて落ちる音がした。長い間にネジ穴が広がってしまい、ただ鍵を穴に突っ込んであるだけだったのだ。廊下に他にだれもいないことを確かめてから静かに窓を開け、中に入った。
 古びたステンレス板で覆われた島が六つ。おのおの蛇口のついた小さなシンクがついている。ひとつの島を囲んで、八つの木の椅子が並べられている。
 教室の後ろは標本棚で、ホルマリン漬けの標本が並んでいる。関取が恐れていた、ネコの、脳の下に延髄の垂れ下がった標本も中にあった。腹から内臓を飛び出たせたカエルの解剖体や、細長い寄生虫、ヒトデや磯ぎんちゃくなど、脈絡なく標本が収められている。かなり古いもので、きっと授業には使われていないに違いない。かといって、だれも捨てようとしないのも分かるような気がした。まさか、燃えないゴミとして出すわけにもいかないし、処分するにしてもだれが処分するか揉めそうなものばかりだったからだ。
 その標本棚の端に、人体模型と骨格見本があった。
 人体模型は一メートルぐらいの背丈で、大人の顔をしている。紙粘土製だ。右手首と、腹部の肉の一部が破れてなくなっていて、紙粘土の材料の新聞紙が露出している。活字は旧仮名遣いと、時代を感じさせる。
 お椀のような頭を外すと、肉マンのような脳が入っていた。その脳を外すと、頭部は蝶番いで、縦にパカッとふたつに割れる。断面に舌や口腔、喉などがちゃちな絵で描かれていた。
 それからキャッチャーのプロテクターのような腹を外してみた。中に、肺や肝臓、胃、腸などの臓器が一体になった塊があって、それを取り出すと脊髄が見えた。
 これが動き出すだなんて、ぼくには信じられなかった。
 横に同じぐらいの背丈の骨格標本。こちらはプラスチック製で、骨と骨とが針金で結ばれていた。チョンと押すと、モビールのようにゆらゆらと揺れる。
 二流コメディアンよりよっぽど愉快な動きで、骸骨はニカニカと笑っているように見えた。
 この骸骨が深夜零時に動き出すってか。
 ぼくは、カメラのセットされたであろう教壇から頬杖をついて人体模型と骨格標本を見ていた。
 声がした。
「うぁわぁわぁわぁわぁわぁ〜」
 喉から絞り出すような声だ。
 背筋を氷の塊が落下して、全身に粟つぶが浮き出た。血の気が失せ、ふわりと浮いたような感覚に襲われた。
 身構えて周囲に視線を投げた。
 亡霊ってのは、本当か?
「こら! 実験室に侵入する不届きものめ!」威圧的な声が響いた。誰だ?「覚悟して、侵入したところから出てらっしゃい」
 開けて置いた窓から、髪を後ろでまとめ上げた女の人が覗いている。まだ学校二日目だから見覚えはないけど、教師に間違いはないだろう。
「す、すいません、ちょ、ちょっと・・・」
 ぼくは窓から廊下へと転げるように這い出した。 
 女の人は白のブラウスの上に濃紺のカーディガンを羽織り、グレーのタイトスカートを穿いている。腕を組み、ぼくを睨み付けていた。白いソックスとブルーの安物のサンダルがアンバランスだ。いやに地味なファッションだ。自分のいまの立場も顧みずチェックしてしまう。
「なにしてたのぉ、いま頃?」
 つんと突き出たカタチのいい下顎がリズミカルに動き、言葉を紡ぎ出す。
「キミ、深町くんだったわね。転校初日の騒動。それから、丹野先生の事故の目撃者。そして、今度は不法侵入・・・。随分と忙しそうじゃない」
「すいません」
 ひたすら低姿勢に、頭を下げた。頭を下げながら上目遣いに観察する。ちょっと目が吊り上がっているけど、端正な顔だちだ。三〇過ぎぐらいで独身・・・。こういうことに関しては、ぼくの推理はなかなかに的中する。これも霊感の強さかも知れない。

    2

 頭に、パッと閃くものがあった。
 正直に吐露したら、なにか情報が得られるかも知れないってね。
「先生は、理科実験室の噂って知ってますよね」
 言い訳するかと思いきや、噂の話題をされて戸惑ったのだろう。彼女は学内点検簿をつまんだまま、腕組みをしていた両手を解いた。そして、ボールペンのキャップを顎と下唇の間に当て、考え込むような仕種をした。
「それが・・・どうしたっていうの?」
「ぼく、まだ転校してきて二日目なんですけど、さっき先生がいってたみたいに昨日も今日もいきなり騒動に巻き込まれちゃって・・・。で、その原因みたいにいわれてるのが、祐太の噂と体育館に住み着いてるマット簀巻きの少年の霊でしょ。他にも音楽室の婚約者のピアノとか家庭科教室の下水の指とか用務員室の殺人事件とか・・・噂ばっかりが耳に入ってくるから、ちょっと確かめようと思って・・・」
「それでキミはあの標本が生きてるかどうか確かめにきたっていうの?」
 と、マジな調子でいう。ぼくはその通り、とうなずいた。呆れた、というように眉をつりあげると、
「ふーん」
 と、小首を傾げ、ボールペンのキャップは、下唇から小ぢんまりした鼻の先端を微かに押し上げている。何かを考えている顔だ。
「とにかく、ちょっと、いらっしゃい」
 含みを込めたようにそういうと、さっさと背を向けて、彼女は廊下をずんずん進んでいく。ぼくが上がってきたのとは反対の方角だ。 突き当たりの階段を左に降りると、正面に女子トイレ。そして、渡り廊下が伸びている。板張りの二階建ての建物に向かって行く。ぼくは黙って尾いていった。
 建物に図書館という看板が下げられていた。中に入ると紙が黴びた匂いがした。息がつまりそうだ。黴びた紙の粉が充満しているようで、鼻腔の奥がむず痒い。ぼくはこれが苦手だ。途端にくしゃみが出た。つづけざまに五回。鼻水が滴り落ちそうになった。
「本にアレルギーでもあるの?」
<資料室>というプレートの下がった小部屋に入ると、ティッシュペーパーを箱ごと渡してくれた。
 鼻をかむと、また、くしゃみが出る。
「少しは本を読む癖をつけたら治るわよ」人ごとだと思って、冗談目かしてそういう。「アレルギーって心理的なものが大きいのよ。別に黴とか紙の粉とか埃とかさ、そういうのじゃなくって、先入観ってヤツ。人間って、環境の変化に弱くてさ。初めて図書館の書庫に入ったとき、私もそうだった。でも、慣れると平気。そういうもんよ」
「は、はあ」
 くしゃみを堪えながら返事した。喉がトゲトゲ状態で、痛かった。
「わたし、世界史と図書室司書の松下美由紀。座って」
 いわれるがままに、鼻をグズグズさせたまま腰を降ろした。
「深町くんはモダン・フォークロアって聞いたことないかな?」
「それ、歌かなんかですか?」
「フォークロアっていうのは、民俗学のことよ。民俗学っていうと古いことを調べるみたいに思うでしょ。でもね、モダン・フォークロアっていうのは都市伝説っていって、現代の人々のあいだで口伝えで広まっている、もっともらしい噂話のこと。いかにも本当の話みたいに広まっているけど、その実体も根拠も実際にはどこにもないっていうような話の類いよ」
 松下先生は、デスクサイドにつまれている本の中から一冊を下の方から引っ張り出して、ぼくの目の前に見せてくれた。
「これはアメリカの民族学者が書いたものだけどね、ドライブの途中でヒッチハイカーに乗せてくれって頼まれて後ろの席に乗せるんだけれど、目的地に着いたからさあ降りなさい、っていおうとして振り返ると後部座席にはだれも乗っていない・・・っていう、典型的な話をもとに研究した本なの。アメリカ全土に聞取調査をしたら、どの州のどの街にも同じような話がつたわっていたっていう結果が載っているわ」
 噂は真実ではない、といいたいのだろうか。
「日本でもよくあるじゃない。雨の夜、人気のないところで女の人を乗せたタクシーが、目的地に着いたからってクルマ止めるとだれも乗っていない。けれど、シートにはぐっしょりと水が・・・とかっていう話がさ」
 それならぼくも聞いたことがある。
「わたし、学生のとき社会学を専攻していてね、都市伝説を随分と集めたのよ。なんちゃっておじさん、口裂け女、人面魚・・・知ってる?」
 いいながら松下先生は、サイドデスクにあるコンピュータのスイッチを入れた。
「卒業論文も<日本の伝承と伝説・・・主に都市伝説を追って>っていうのでね。ま、噂には一家言あるっていうかね」
 コンピュータの画面が明るくなった。
 先生はキーボードとマウスを手際よく扱って、データベースを呼び出した。いくつかのタイトルが表示された。その中の<玉藻中学の噂>という項目にカーソルが当てられる。文字が反転して詳しいリストが現れた。
「ほら、これ。この二年間でわたしが玉藻中学で収集した噂のリストよ」
 ずらりと並んだリストの中から、松下先生は<理科実験室の骨格模型>という項目を選んだ。
 瞬く間にモニタに文字のびっしり書き込まれたカードの画面が現れた。
「これが、深町くんが興味をもった<理科実験室の骨格模型>に関するわたしの知り得たすべての情報。いま、プリントアウトしてあげるわ。ちょっと時間かかるけど・・・」
 先生はマウスを使ってプリントの準備をはじめた。
 しかし、同じように「噂」に関心を寄せて、学問している教師がいただなんて、はっきりいって驚きだった。ぼくは素朴な疑問をぶつけてみたくなった。
「先生?」
「なに?」
 振り向いた松下先生の顔がすごく真剣なので、ちょっとビックリした。けど、その表情はすぐに和らいだ。
「そういう話、好きなんですか?」
「どういう意味かしら?」
「そのぉ・・・噂話が好きで・・・っていうか、興味があって調べてるのか、それとも、なんていうのか、純粋な学問でやってるのかっていうようなことですけど・・・」
「噂は噂でしかないわ。もっともらしいだけで、真実かどうかなんて考えたことないわよ。噂の中身より、噂がね、口から口へと伝染病みたいに広がっていく過程に興味があるのよ。昔から日本には、座敷童子とかのっぺらぼう、狐や狸が人を化かすっていう話があるわよね」
「妖怪みたいのですか」
「まあ、そうね。そういう話って、子供たちに夜は出歩いちゃいけないよとか、家や樹木にも精が宿っているから大切にしなさいよって教えているのよね、実は。でも、科学が発達した現代じゃそんなことだれも信じないでしょ。でもね、いくら技術が発達しても妙な噂って消えないものなのよ。都市が発達して人間と人間の関係性が薄らいでいくに連れて、現代の怪談話がどんどん生まれてくるの。わたしは、それに興味があるの」
 分かるような分かんないような応えだった。それはいい。ぼくは先生が集めたっていう噂話の方に興味があったのだ。
「はい。プリントできたわよ」
 先生が、画面に出ているカードと同じものをプリントアウトしてぼくに渡してくれた。これだけじゃなくて、他の噂の情報も見てみたい。そんな誘惑に、心がもぞもぞしていた。ぼくは、思い切っていってみた。
「お願いがあるんですけど・・・」
 ぼくは控え目にいった。なにしろ、理科実験室に不法侵入しているところを発見されているんだ。下手にでるのは当然だ。
「なに? なんでもいってみて」
 ちょっと自慢げに先生が応じた。
「そのデータ、フロッピーに落として貰えませんか?」
「え?」
「オヤジが同じコンピュータもってて、たぶんデータベースのソフトも持ってるんはずなんです。フロッピーに落として貰えれば、学校の噂が全部研究できるかなって思って・・・せっかく先生が時間かけて集めたのに、勝手なこといってるみたいだけど・・・」
 わざと「研究」なんていう言葉を使って、勉強するみたいにもちかけた。
「いいわよ。ちょっと待ってて」
 二つ返事でオーケーをくれた。ラッキー。知りたいと思っていた情報が、偶然だけれど転がり込んできた。
 先生はデータをフロッピーディスクにコピーすると、丁寧にラベルを貼り、タイトルを書き込んでからぼくに渡してくれた。四角張った、丁寧な文字で<玉藻中学の噂>と書かれている。
 立ち上がって軽く会釈をし、部屋を出ようとした。そのぼくに、松下先生がいった。
「もうあんなことしちゃ、ダメだからね。きょうは特別に解放してあげるけど、今度はお上に引き渡すからからね。それから、そのデータ読んで、つまらない詮索なんかしないこと。あくまで研究が目的よ。分かったわね」
 ぼくの心を読み澄したように釘を刺す。聡明そうな額が緩やかで艶やかな円弧を描いて、一直線の眉の下の目が、牽制したように光った。
「はい」と返事をして、ぼくは<資料室>のドアのノブに手をかけた。それから、胸の奥わだかまっていた疑問をもう一度ぶつけるために振り返った。
「先生は信じてますか?」
「なにを?」
「噂って、本当にあったことなのかどうか・・・」
「噂を? わたしが?」
 鳩が豆鉄砲食らったような表情を浮かべたあと、松下先生は左手て口を抑え、肩を震わせて笑いを堪えはじめた。
「冗談いわないでよ。いったでしょ、噂は噂だって。もっともらしい話だって、根拠なんかひとつもないんだから」
「その根拠、全部裏を取りました?」
「そんなことしなくたって、噂に決まってるじゃないの」
「でも、火のないところに煙は出ないともいいますよ」
「うーわーさーをーしーんじちゃいーけなーいよー」
 先生が調子っ外れの声でひょうきんに歌った。
「・・・じゃあ、いつか一晩つきあって貰えますか?」
「なにいってるの? わたしを誘惑してるつもり?」
 先生は呆気にとられて目を剥いた。
「ええ。理科実験室で、一晩」
 そういうと、急に真剣な表情になってしまった。
「そんなにしてまで確かめたいの」
「はい」
「ムダだって分かってても、そうしたいの?」
「ムダだってことを、この目で確かめたいんです」
「・・・考えとくわ」
 そういうと、松下先生はコンピュータのモニタに顔を向けてしまった。
 外は黒く重い雲に覆われ、じっとりとした空気が辺りを包んでいた。細かな雨粒が時折ぼくの頬を打った。酷い雨になる前に帰った方がよさそうだ。ぼくは小走りで正面玄関から出て、長い坂を駆け降りていった。

    3

 帰ると夕飯もそこそこにコンピュータのスイッチを入れた。
 フロッピーディスクからデータを呼び込む。画面に<玉藻中学の噂>というタイトルが出た。
 噂の件数は三十五件。ささいなものから、ベースが話してくれたNファイターズの噂みたいに詳しいものまで色々だ。<祐太の噂>では、祐太という名前の生徒について関連データが付け加えられている。卒業名簿から抜き出したのだろう。
 島田祐太
 橋本祐太
 金井祐太
  ・・・
 松井祐太
 あった。
 昭和二十六年生れ。N市千種町五−二五番地となっている。確認のために、貰ったばかりの生徒名簿を開いて見た。
 二年B組 松井章子 N市千種町五−二五番地
 保護者の名前は、松井美里と書かれている。 つまり、母子家庭っていう訳か?
 ぼくはマウスでカーソルを松井祐太の名前の上に当て、ダブルクリックした。松井祐太の文字が反転して、関連データのウィンドウが開かれた。
 昭和四十八年 K大学卒業
     同年 設計事務所に入所
 昭和五十二年 輿中美里と結婚
 昭和五十五年 長女章子誕生
 昭和五十七年 落雷による感電死
        享年三十一歳
 というのが大まかなデータとしてインプットされている。アネゴの父親は、アネゴが二歳のときに死んでいたのだ。
 ぼくは<玉藻中学の噂>のリストに画面を戻すと、<体育館の少年>のデータをマウスで開いた。そして、少なからずショックを受けた。なぜなら、その話は「この噂は真実に基づいている」という書き出しではじまっていたからだ。
 噂は噂。もっともらしい話で根拠なんかひとつもない。そう話した先生がくれたフロッピーから、信じられないような言葉が飛び出てきた。先生の真意はどこにあるのだろう? ぼくは、わだかまりを胸につかえさせたまま画面の情報を読みはじめた。

<体育館の少年>
 この噂は真実に基づいている。
 いまから三〇年前の事件がこの噂の元になっていると考えてよいだろう。被害に遭ったのは当時中学二年の真田俊夫である。被害者は普段から小心な性格で、イジメの対象として恰好の餌食になっていたと推定される。四月八日の午後二時過ぎのことである。体育の授業が終了した二年C組の生徒たちは、用具の後始末をするグループを残して教室に引き上げていった。
 このグループは、真田俊夫のほかにクラスメート六人で構成されていた。この日も真田俊夫は後始末を他のメンバーから押しつけられ、虚弱なカラダでマットを引き摺っていた。しかし、思うように片づけが進まず、泣きながらクラスメートに協力するよう要請した。しかし、それを生意気とするグループの六人は、真田俊夫をマットに横倒しにして、俊夫を芯としてマットを巻いていった。
 六人は面白がって丸められたマットの上に乗って跳ねるなどしていたが、一人が真田俊夫がぐったりとしていることに気づいた。真田俊夫はすぐさまマットから出され、救急車で病院に運ばれたが、三時間後に病院で息を引き取った。
 事件は裁判で争われることになったが、容疑者六人は殺意を否定。主犯格の少年は過失致死罪が認められ保護観察処分となったが、あとの五人は無罪となった。
 主犯 大熊俊策
 無罪 蛭田昭彦
  ・・・
  同 丹野正二
 この事件を契機に、体育館の天井に少年の霊が住み着いているという噂が広まった。

「丹野・・・!!」
 丹野先生?
 生徒名簿には担任の名前がフルネームで記入されていたはずだから調べると、果たして一致した。
 ゾクッとした。
 丹野先生は十二年前にあの体育館で真田俊夫という生徒の傷害致死事件に関連して容疑をかけられていたのだ。その丹野先生が、体育館の腐った手摺から床に転落して脳挫傷を負った・・・。だれが見たって呪われているとしか思えない。
 松下先生がこれを知らないはずがない。じゃあなぜ噂を否定したのだろう。そして、ぼくにこのフロッピーをくれたのだろう? 暗闇の中で、コンピュータのモニターだけが光彩を放っている。ぼくはモニタの中に引き摺り込まれそうな思いに囚われた。
「なにやってるんだ?」
 全身に総毛だった。集中していてオヤジが背後にきているのに気がつかなかった。
「脅かさないでくれよ」
「真っ暗な中でコンピュータなんかいじってるからさ。母さんがいってたぞ。夕飯もまだなのに、全然出てこないって」
 そういいながら、なんとはなしにオヤジがモニターを覗いた。
「データベースか? なになに・・・容疑者六人は殺意を否定。主犯格の少年は過失致死罪が認められ保護観察処分となったが、あとの五人は無罪となった。・・・なんの話だ?」
「いいのいいのオヤジは。明日の初練習のことでも考えてりゃあ」
 ぼくは焦りながら<体育館の少年>のデータが書き込まれているウィンドウを閉じた。これがマズかった。<祐太の噂>の、松井祐太の関連データのウィンドウが開かれたままだったのだ。
「祐太の噂だと? 松井祐太!」
 オヤジが奇矯な声を洩らした。
「知ってるの?」
「知ってるもなにも・・・同級性だった」
 嘆息にも似た声を洩らした。
 そうだ。オヤジは玉藻小学校を出てたんだから、その可能性はあったはずだ。いまさらながらに自分の見識の甘さに頭を掻いた。
「もう死んで一〇年以上たつ。まだ東京本社にいた頃で、葬式には出られなかったから香典だけ送ったことを覚えてるよ」
「事故だったんだって?」
「うむ。聞いた話によると、そのときにも校舎の改築工事の話が持ち上がっていたらしいんだ。で、請け負った建設会社に松井は建築士として勤めていたんだな。それで、偶然のいたずらで、母校の改築の担当になっちまったらしい。それで、校舎を解体する前に事前の調査に来ていたんだが、雷雨に当たっちまってな・・・、運悪く落雷に会っちまったらしい。不運ってやつだよ。・・・だけど、どうしておまえこんなデータを見てるんだ?」
 オヤジが訝しげにいった。

    4

 場所を居間に移した。
 オヤジは眉間に皺を寄せ、ウィスキーの水割りを舐めながら、ぼくの話に耳を傾けていた。今日の事故のこと。松下先生に噂の情報を貰ったことなどを手短に話した。
 未津樹は寝転がって、歌謡番組を見ながら宿題らしきものをやっている。器用なことができるもんだと思いながら、ぼくはオヤジの近くに座った。
 思いを馳せるように、視線を天井の辺りに漂わせながら、オヤジがつぶやくようにいう。
「松井祐太はな、ぶきっちょだったんだよ。生まれつきイジメられる素質をもってきたっていうような、そんなやつだったよ。覇気のないやつでな。頭が特別いいってわけじゃない。スポーツはどっちかっていうと苦手タイプで、いつも独りでいたっけな。腎臓が悪いからあまり運動しちゃいけないとかいわれてたらしい。でも、お父さんたちはまだ子供だったから、腎臓が悪いなんて聞かされると、なんだか気味が悪くてな。さわると伝染るって思い込んでた」
 いまとなってみれば・・・というような、わずかに罪悪感に苛まされたような顔つきをする。そして、ひと息入れて語調を変えた。
「それになんたって、名前が祐太だからな」
「祐太の噂のことでしょ」
「ああ。もう知ってるんだろうが、校舎の外れの、体育館に近い便所に祐太の霊が出る。三つならんだ個室の真ん中の扉に向かって祐太って三回呼びかけると、返事はあるんだが、中をあけるとだれもいないとかな。その祐太と同じ名前なもんだから、みんながイジメたさ。バケモンって呼んだり、仲間外れにしたり、その噂の個室にみんなで閉じ込めたり・・・」
 オヤジの顔には、少し懐かしそうな笑みが浮かんでいた。
「出してくれー出してくれーって悲鳴を上げてたよ」
「オヤジも一緒になって閉じ込めたの?」
「だれも助けるやつなんかいやしなかったさ。祐太にとっちゃ迷惑な話しだったろうけど、みんな楽しんでいたもんな。解放してやったときなんか顔中涙と鼻でぐっちゃぐちゃでな。小便ちびっちゃってたよ・・・くっくっくっ」
 オヤジは腹に手を当てて笑いを堪えている。
「・・・あっ、そういえば」
 オヤジの目が真ん丸に見開かれて、何かを思い出したように輝いた。
「ひとりだけ祐太を庇ったのがいたな・・・うーん」
 顔は覚えているけど名前が出てこないっていう様子で、顔をしかめて昔を必死に思い出そうとしている。唇が、ぶつぶつと言葉を探しあぐねている。
「たしか・・・こ・・・こ・・・こしなか・・・っていたかな。そうだ、輿中美里。間違いない」
 輿中美里・・・松井祐太の妻であり、松井章子の母、そして、現在の保護者だ。
「寄ってたかって、みんなでなによ! って便所に飛び込んできてな。こっちは毒気に当てられたみたいにシュンってなっちゃって。祐太の、出してくれー出してくれーっていう悲鳴で楽しんでたのが、一気に盛り下がっちまった。気が強い女だったよ。クラスは違ったんだけど、どうしてるんだろう?」
 弱い者をイジメたことも、そんな出来事があったっていうことも、オヤジはただ単に懐かしさだけで回想しているようだ。当の本人の屈辱や悔しさなんかそっちのけで・・・。
「うちの小学校にもいるよ、トイレの花子さん」
 こっちの話が耳に入ったのか、未津樹がいつのまにか顔を向けていた。
「お兄ちゃんの学校と同じだね」
「どこの学校でもそういう噂ってやつははびこるものなんだよ」
 水割りのグラスを口に運びながらオヤジがいった。
「でもさ、水洗便所だと下から手が出てくるって、説得力ないよね」
「未津樹! おまえの学校って水洗なのか?」
「当たり前じゃん。お兄ちゃんとこ、まだ汲み取り式なの!?!?」
 呆れたような声を上げた。
「校舎は全部木造で古臭くて、壁はいまにも崩れ落ちそうだし、床も抜けそうだよ」
「だからお父さんが建て直すことになったってわけさ。でも懐かしいなぁ。壊す前にじっくり見ておきたいよ」
 オヤジは腕を組んだまま感慨深げにひとりでうなづいている。
「やっとじゃあ水洗になるわけ?」
「そういうわけだなあ」
「じゃあ、祐太はどこ行っちゃうの?」
 未津樹の質問に、ちょっと戸惑った。いままでのトイレの個室にいた祐太はどこへ行ってしまうのだろうか? 家庭科室の下水からは切断された指の骨が出てくるのだろうか? 理科実験室の骨格標本や人体模型は捨てられてしまうのか? 噂は過去のものとして捨て去られてしまうのだろうか?


第六章 四月九日(土曜日)

    1

 金曜の夜から降りつづいていた雨は、日曜の午前中には上がった。しかし、テレビのお天気ニュースでは鹿児島南西に時ならぬ春台風の来襲を告げていた。勢力もスピードもかつてないほどの規模で、すでに沖縄では多大な被害を被っており、次の進路である鹿児島や四国では掃いて捨てるほどの注意法が発令されていた。
 もしかしたら、日曜には東海地方に上陸して、そのまま日本列島を横断するように北上し、月曜の夜には日本海へ抜けるのではないか、という予報もされていた。
 しかし、とにかくまあ土曜は快晴だった。オヤジはすっかり監督気分で興奮しまくり状態だ。
 話があってから、オヤジは早朝と夜のランニングをはじめた。そして、素振りだ。カラダをつくりなおすにはちょっと時間が足りなかったようで、久し振りに使った筋肉が悲鳴を上げている有様が傍で見ていても十分につたわってきていた。
 昨晩は久し振りに野球のユニフォームを出したかと思ったら「カラダに合わない」と大騒ぎ。自分の腹が出てきているだけのことじゃないか。オフクロは苦労して縫い目をほどいて、できるだけゆとりをもって縫い直していたけど、広げた部分が異常に白いから、ひと目で縫製し直したって分かってしまう。
「明日はこれで我慢か」
 なんとも残念無念そうに渋面をする。
「なにもムリしてユニフォームにしなくったって、ジャージか何かでも・・・」
 とオフクロがアドバイスをするのだけれど全然問題にもしない。
「そういう訳にいくか。監督初日だぞ。カタチが大切なんだ」
「やれやれ、新しいユニフォームで出費かな、こりゃ。あたしも夏用のワンピースかなにか買おうかしら、転勤記念に。ね、あなた」
「バカ。まだボーナス前なんだぞ。建設業界はいま不況のどん底にあるっていうのに、そんなユトリがどこにある」
「じゃあ、ユニフォームも買えないわね」
「それとこれとは話が別だ」
「監督するぐらいなら、ユニフォーム代ぐらいチームから出ないんですか?」
「こういうのはボランティアなんだよ」
「ひとの面倒見てて我が家の家計が破綻するなんていうのはまっぴらですからね」
 なんていう会話が昨日の夜遅くまで交わされていたが、オヤジはすっかり午後からのNファイターズの練習のことで頭が一杯のご様子だった。
 遅めの朝食を食べにダイニングテーブルにつくと、ピチピチのユニフォームに着替えて出かけようとしているオヤジが声をかけてきた。
「孝司、ヤル気になったか?」
「まだだな」
「案ずるより産むはやすしってな、気楽に考えろ。運動しないでいるとナマっちまうぞ」
「ナマっちゃってるのはあなたでしょ」
 オフクロが口を挟んでくる。
「孝司は三月まで野球やってたからまだナマルなんてことないでしょうけど、あなたの野球は随分久し振りよ。怪我なんかしないでね」
「うるさいなあ・・・俺はまだ昔のままだよ」
 そういって、オヤジはだぶついた腹をゆさゆささせながら練習の初舞台へと出かけていった。
 ぼくは、ベースが話していたNファイターズの背番号三十五番で祐太という少年のことがずっと気になっていた。それに、祐太がアネゴの父親であるということにも。もしそれが本当なら、どうしてアネゴは少年リーグなんかに関わったりしているのだろうか? まだ祐太の怨念が東都建設のグラウンドに染みついているのだろうか?
 八ミリカメラを手にすると、ぼくはグラウンドに向かって自転車を走らせた。

    2

 会社のグラウンドに、まぶしい白のユニフォームが踊っていた。オヤジは張り切ってシートノックをはじめている。
 カン、カン、カン、カン・・・
 軟球にはない、硬球だけの乾いたスリリングな音がグラウンドに木霊していた。
 昔取った杵柄っていうのか、いい動きをしている。ま、脂肪がついたせいで思うようにならないのは、ここ数日のトレーニングで十分承知しているようで、ムリはしていないようだ。
「なぁんだ、やっぱ、きたのか」
 最初にぼくを見つけて、フェンスに近づいてきたのはカッちんだった。
「新監督がきちまったよ」
「オヤジだ」
 そういうとカッちんは大きくうなずいた。
「やっぱそっか? 深町っていうから、アレって思ったんだけど。なんだ、そうか。そういう訳か」
 カッちんの球を受けていたベースが近づいてきた。
「見学かい?」
「亡霊を写そうと思ってさ」
 ぼくは手にしたカメラを構えて見せた。
「あれは単なる噂だよ」
 いまになって言い訳めいたことをいう。
「ちょっと! 練習サボってるんじゃないわよ」
 木陰のベンチに座っているアネゴから大声が飛んだ。みんなの視線がぼくの方に集まる。オヤジが「やっぱりきたか」というようにニンマリとした。
 つばの大きな帽子を目深にかぶったアネゴが、ゆっくり近づいてきた。白のパーカーをラフに引っかけ、膝上までの黒いスパッツから引き締まった足をのぞかせながら・・・。
 そして、ちょっとつっけんどんにいう。
「そんなとこから覗いてないで、入ってらっしゃいよ。お父さんだって楽しみにしてるはずよ、キミが入団するの」
「知ってたの? タッちゃんのオヤジさんだって」
 カッちんとベースが同時にいった。
「お父さんが東都建設だってのは聞いてたからね。新監督深町っていわれてピンときたわ」
 いうなり、手にしていたボールをフェンス越しに投げてきた。山なりにフェンスを越えたボールは、正確にぼくの顔を目指してくる。ぼくはカメラをもっていない左手でボールをキャッチした。
「早くいらっしゃい」
 アネゴはさっさと帰っていく。
 カッちんとベースが期待を込めたような笑みを送ってきた。

    3

 その日は、オヤジがチーム力を知りたいといいだして、選手を二チームに分けて三回の裏までの紅白戦を行なった。ぼくは暇つぶしにビデオを回しながら観察した。
 ぼくが見ても、一回戦突破が望みだとアネゴがいうのももっともだと、はっきり分かった。背丈のあるカッちんの球は角度もキレもあってなかなかなのだけれど、いかんせん軽かった。
 芯に当てられるとぽんぽんと外野へ球が飛んでいく。力のあるバッターなら簡単にホームランにできるだろう。制球力はまずまずあるのだからベースのリードさえしっかりしていれば・・・と思ったそばから乱れ出す。
 ちょっとランナーを溜めると背後が気になって投球がおろそかになってしまう。この辺が、弱気なピッチャーカッちんの謂れなのだろう。牽制球を暴投する。ボールは転々右中間。ランナーは一気にホームを目指すけれど、センターが拾ってホームでタッチアウト。どう考えたってベースをひとつ欲張りすぎだ。 基本が、なってない。でも、基本さえしっかりすれば、そこそこのチームになるだけの可能性も秘めているかも知れない。
 ファインダーを通してゲームを眺めながら、ぼくは「チームに入ろう」というふうに気持ちが傾いていくのを感じていた。カッちんやベースと一緒に県大会で勝ち残っていこう。意欲が、ゲームを見ているうちに腹の底からふつふつと滾って来ていた。

    4

 その夜のことだ。オヤジに突然の訪問客があった。
「真ちゃん、オレだよオレ、大志。水島大志」
 小太りの同年輩の容貌と、その名前に少し戸惑っていたオヤジだったけれど、数秒もたたないうちに顔にパッと輝きが差した。
「大ちゃん! 大ちゃん! 懐かしいなあ」
 二人とも子供みたいに両手を握り合い、大ちゃんはオヤジの肩を何度もたたいて、とても懐かしそうにしていた。オフクロは簡単な肴を手際よくつくり、客を迎えた。
 夜の七時過ぎに突然訪問してくるなんて、常識知らずもいいところだとは思ったけれど、オフクロはその点我慢強い。地方の建築屋なんて、ホント、この手の突然の客っていうのが多いんだから。
 ぼくと未津樹は居間からそれぞれの部屋へと追いやられたけれど、大ちゃんっていう客の声がなんとも怒鳴り声みたいに大きいから、嫌でも話の中身がつたわってきてしまう。
 中途半端に耳に入ってくるよりは・・・と思ってドアをわずかばかり開けた状態にしておいたら、とんでもない話で耳に入ってきた。
「・・・でさ、オレにも一人息子がいるんだけどさ、野球をさせたいって思ってさ、今度新しい監督になるって聞いたから是非入れてもらおうと思って前の監督に聞いたらなんと、名前が深町真司だっていうじゃないか。真ちゃんならオレの心の奥までちゃんと分かってくれてるし、こうやって頭下げれば絶対チームに入れて貰えるってさ、そう思って恥をしのんで今夜来たっていうわけさ」
「で、年は?」
「十四になる。玉藻中学の二年生だ」
「じゃあうちの孝司と同じか。おい、孝司!」
 呼ばれて出ていかないわけにはいかない。居間には、一本のビールで耳まで紅く染めた小太りでコロコロとした中年の男がソファにカラダを沈めていた。髪は薄く、頭頂部までが額状態になっている。
「こちら、水島さん。父さんが玉藻中学にいたときの同級生だ」
 水島さんはまるまっちい顔の真ん中にバッテンを描いたみたいに細い目をしていた。
「・・・うちの息子、剛っていうんだけど、知ってる?」
 水島剛・・・フナムシのオヤジか、これが。ちょっと信じられなかった。だって、息子の剛はか細くて存在感が薄く、少しひねた少年だったからだ。
「あんまり似てねえって思ってるんでしょ。いまのオレって、太っちゃってるから。でも、どっか似てるでしょ、ほら」
 そういって自分の鼻先を指差した。いわれてみれば、細く切れ長の目や鼻のカタチなんかが、そのまま部品として取り替えても十分に使えそうなぐらい似ている。
「水島くんなら、知ってます。同じクラスですから」
「こちらこそ、よろしくお願いしますよ」
 真っ赤なタコがニカニカしながら頭を下げる。
「今度は少年野球に入れてもらうことになったから、また面倒かけることになると思いますけど、よろしくお願いしますよ」
 水島の父親が、ぼくにも丁寧にいう。それからオヤジの方に向き直って、「立派な息子さんだぁ」と褒め言葉をいいながらビールをオヤジに注ぎにまわった。オヤジを見ると、目でぼくに「もういいから」といっていた。
「それじゃあ、ごゆっくり」
 そういってぼくは部屋へと戻った。
「疲れるなぁ!」
 ぼくは一人呟きながらベッドへ倒れ込んだ。あのフナムシが少年リーグで硬球を握ることになるのかよ。クラッとした。そりゃあ本人の口から「やりたい」という思いは聞いた。「下手でも上手くなるさ」とぼくも話の勢いで応えたことは事実だ。でも、それはぼくがまだNファイターズに入るって決める前のことだ。
 いまとなっては話が違う。
 当然のことながら、オヤジが目指す「勝つための野球」とは相入れない存在になるだろう。こんなことをいっちゃ可哀相だけど、資質ってものがある。向き不向きってやつだ。平たくいやあ才能。
 どんなに練習してもダメなやつ。たいして練習しなくったってある程度デキルやつ。どうしてもそういう風に分かれるものだ。勉強だって音楽だって絵を描くのだって同じことだ。
 明かに水島は、どんなに練習してもダメなやつに分類されるなって、ひと目見たときから思った。もちろん、練習してダメでも楽しめないことはない。練習すれば着実に技術は向上するからだ。でも、すぐに天井にぶつかってしまうものだ。その天井を突き破って一皮剥けるやつってのは、限られている。ましてや、これから勝つための野球をはじめようっていうオヤジには足手纏いになるはずだ。
 天井に貼ってあるポスターの、どた靴のチャップリンが「まいっちゃったな」といっている。気まずい思いが漂う部屋で、ぼくは憂欝という重りをつけて太平洋のど真ん中に放り込まれたような気分だった。
 水島の大ちゃんの話し声がドアの厚みを通して漏れ聞こえてくる。
「うちの会社も真ちゃんの会社とはつきあいも長いことだし、よろしく頼むよ。でね、オレの見るところ、うちの息子はピッチャーに向いてると思うんだ。まだまだ練習不足だしカラダもできてないが、いまは成長期だ。一年もすればチームのエースで活躍できるってね、ははは、期待も込めて見てるんだよ」
 現実を全然把握していない。ただの親バカでしかないぜ。
「ピッチャーに向いてるかどうかは、一度見てみないとな・・・」
 オヤジの尻すぼみの声が困惑をつたえていた。
「ピッチャーがあいてなかったらキャッチャーでもいいぞ。肩ははいい方だからな」
 高望みとかじゃない。本当にじぶんの息子が実力があると信じ込んでいる口調だ。あのカラダでカッちんの硬球受けたら後ろに弾き飛ばされちゃうっていうの。
「あとは、サードかファーストってとこかな。ま、将来有望だから。はははは・・・。」
 水島の大ちゃんの話を聞いていて、ベースの話がオーバーラップしてきた。
 息子をピッチャーかキャッチャーにしたいといってきた親と、背番号三十五番をつけた運動神経ゼロの少年の話だ。前歯を三本折り、それでも懲りずにボールを頭で受け、頭蓋骨骨折でグラウンドに血溜りをつくった少年の話を・・・。
 そっくりじゃないか。
 まるで、噂話が水島親子を危険に引き摺り込んでいっているみたいだ。
 なんだか寒気がした。

    5

 深夜なかなか眠れなかった。
 噂の因果が妄想のようにぼくの脳味噌を引っ掻き回していく。カラダ中が汗だらけになった。洗面所へ行ってタオルでカラダを拭いてから下着を取り替えて部屋に戻ると、机の上のビデオカメラが目に入った。
 ぼくはビデオカメラの出力端子をテレビの入力端子に接続すると、再生ボタンを押した。
 白いユニフォームがグラウンドで交錯している。画面の中で、いくぶん腹の突き出たオヤジがシートノックをしている。カッちんはあまりヤル気なさそうなピッチングフォームだ。アネゴが渋面でその様子を見ている。ベースはちょっぴり不満そうだ。
 画面はグラウンドを左から右へとゆっくりパンしていく。黄色い建設機械が数台ならんでいる。工事用のトラックや設備がグラウンドの一部を占領していて、いかにも建設会社のグラウンドっていう雰囲気だ。青空の彼方に雲がもくもくと盛り上がっている。天気の急変を示唆しているようだ。
 ピッチャーズマウンドの後ろ辺りがアップになる。別になんの変化もない。
 木陰でノートにメモしているアネゴの横顔がズームで映し出される。野球帽から、短めのストレートヘアがはみ出ている。まるで少年のような輪郭と鼻の隆起が、負けん気の強さをそのまま現している。画面はゆっくりとズームアウトして、アネゴの全身が映し出される。神経質そうに細かく貧乏揺すりする左足。踝がキュッとしまっていて、スポーツが得意だという水島のことばがうなずけた。
 画面を白いものが過ぎった。
 そしてすぐ、画面が灰色になって映像が跡切れた。
 妙だ。
 ぼくは六〇分テープを全部使い切ったのだから。まだ、二〇分もたっていない。テープを早回しにする。しかし、画面はもとに戻らない。テープはそこで切れたままだった。故障でもしたのか? テープが跡切れたちょっと前まで巻き戻す。アネゴの横顔が映し出されてズームアウトして、白い影が左から右へ横切る。
 もう一度巻き戻してスローで再生した。アネゴのイラついた顔と足・・・。左から白い影。ぼくとアネゴの距離は一〇メートルほどだから、ちょうどその中間をなにかが横切ったということになる。
 今度はコマ送りで見た。
 人のようだ。白の中にブルーの帯が見えた。それに、画面の下の方は濃紺になっている。 セーラー服!?
 直観的に記憶が甦った。これは、最初の登校日に出会ったあの少女のセーラー服! 確かに、白にブルーのリボンだった。スカートは濃紺・・・。
 どうしてだ? あのグラウンドにあの娘の姿なんかなかった。もしいたとしたら、カッちんなんか気がつかないはずがない。
「あのかぁいー娘、だれ?」
 ぐらいは絶対いうはずだ。
 深夜のビデオ劇場は、ちょっとしたホラーの夜になりそうな気配だった。それまで暗闇の中でテレビ画面だけ光らせていたぼくは、寒気がして部屋の照明のスイッチを入れた。部屋を見回す。ブラインドの隙間から漆黒の魔手が伸びてきそうな気がして、鳥肌が立った。
 目が、壁に吊したままのブレザーに吸い寄せられた。
 そのポケットにはこの間、丹野がセットしてたビデオカメラから失敬したテープが入っているんだった。心の奥底で、見てみたいという気持ちと、盗撮テープなんだから見ちゃいけないんだ、消してしまわなくちゃ、という気持ちがせめぎあいはじめた。
 だれもこのことは知らない。見てから消してもだれもクレームをつけてはこないだろう。いたずら心が正義感を凌駕して、誘惑に勝利しようとしていた。

    6

 木造校舎の二階の窓が二つ分映っていた。
 色とりどりの服装をした女子生徒が、ジャージの入ったバッグを机の上にのせたまま、おしゃべりをしている。玉藻中学には決められた制服はなかった。もちろん好みでセーラー服を着てくる少女もいた。数年前まであった制服の名残なのだろう。ひょっとしたら、姉や親戚のだれかのお下がりかも知れない。彼女たちがなにを話しているのかは分からない。真剣な表情で話しているにしても、せいぜいが友だちの話題だとか人気スターの動向であるとか、たわいもない話に決まっている。 そろそろ体育の時間が迫ってきたからだろうか、彼女たちはバッグからグリーンのジャージを出しはじめた。
 唾がゴクリと喉に引っかかるようにして落ちていった。
 ジーンズが脱がれていく。スカートが床に落ちていく。少女たちのお尻が露になっている。お尻にプリントされたキャラクターが、グリーンのジャージで隠されていく。
 セーターが脱ぎ出される。カッターシャツのボタンが上から一つひとつ外されていく。ティーシャツを、腕を交差させて一気に脱ぎ去っていく。白い布がまだ成熟し切っていない胸の膨らみをかろうじて包み込んでいる。彼女たちは次々と校章が胸にプリントされた白い運動着に着替えていく。首と袖にグリーンのラインが入っていて、上下がグリーンで統一されていた。
 ほんの数分。
 アッという間の更衣劇だった。けれど、ぼくは「ノゾキ」という行為に罪悪感を感じながら見ていた。深夜だし、部屋の中だし、だれも知らないはずだけれど、だれかに見つかってしまうんじゃないかってオドオドしながら見ていた。
 着替えの終わった生徒たちがぞろぞろと廊下へ出て行ってしまった。がらんとした校舎の窓枠だけが時間が止まったみたいに映し出されている。
 まだ興奮が醒めやらなかった。
 もう一回見たいという欲望が腹の底でとぐろを巻いていた。いや、ダメだ。これは消してしまうのだ。という理性が諍いを起こし、せめぎ合う。
 ぼくはビデオカメラのボタンに手を伸ばした。
 まだ迷っていた。
 迷っていた心が、その場でカチン! と凍りついた。
 全身に鳥肌が立ち、髪の毛までが総毛だった。
 窓から、あの少女がじっとカメラの方を見ていたのだ。瞬き一つせず、強く、諫めるように見据えている。彼女の右手が、スッと上がってピッと伸ばされた。指がピストルのカタチをしている。人差し指は、ぼくの眉間に向けられていた。
 口が「バン!」といったような気がした。途端に画面がパッと暗転した。ビデオがキリキリと妙な音を立てはじめる。回転がおかしい。モーターはうぃんうぃんと絶叫のような悲鳴を上げはじめた。ストップスイッチを押して、テープをイジェクトしようとして蓋を開けた。テープを摘んで中から取り出す。銀色に光るテープが回転ヘッドに絡みつき、幾重にも折られてぐしゃぐしゃになっている。テープを手で引っ張り出す。ヘッドに貼りついていたテープがバリバリと音を立て、紙縒りのような姿で剥がれてきた。
 どうしたことだ。
 偶然にしてはでき過ぎている。
 丹野が覗いていることを彼女は知っていた。だから、ビデオを睨んだり銃を撃つ真似をしても不思議ではない。でも、撃った真似をした途端にテープが絡みついてダメになっちゃうなんて・・・。
 夜風が窓ガラスをガタリと揺らした。背筋が冷やりとして振り返る。
 カーテンが揺れた。
 窓は閉まっているのだ。ぼくの動きで室内の空気が動いたからだろうか? 怖くなって、布団を被ってベッドに蹲った。だれかに見られているような気がして、恐ろしかった。明け方までぼくは一睡もできなかった。目をつぶると白いセーラー服の彼女が揺り動かす。白々と夜が明けていくのを、ぼくはベッドに横たわったまま、まんじりともせず眺めていた。
 あの指でつくったピストルは、ぼくを狙っていたのかも知れない。


第七章 四月一〇日(日曜日)午前中

    1

 悲報がもたらされたのは、日曜日の一〇時過ぎのことだった。
 電話の主は、松下美由紀先生。
「いい、落ち着いて聞いてよ。井筒くんがね、今朝早くに理科実験室で塩酸を浴びて大火傷をしたの。いま市内の病院にいるわ。来て貰えるかしら?」
 松下先生は取り乱していた。午後からNファイターズの集まりがあるので、それがぼくの初練習になるはずだったのだけれど、お預けになりそうな気配だ。
 ほとんど寝ていないのでボンヤリの状態だったけれど、自転車を駆って指示された病院に急行した。丹野先生が意識不明で入院しているのもこの病院だ。因縁を感じないわけなはいかなかった。
 日曜とあって本来は休診日。受付けにはだれもいないし、ロビーもガランとしたままで、さてどうしたものかと周囲を見回していたら二階から松下先生が降りてきた。
 真っ赤なトレーナーの下に白のキュロットスカート。髪をさっくりと靡かせている。いつもの辛気臭い服装とは打って変わって明るスタイルだ。けど、顔色は反対に暗く蒼白だ。促されて待ち合いロビーの、人気のないベンチに並んで座った。
 先生は肘を膝の上に乗せたまま手を組み、親指の爪を噛んだまま虚ろに視線を漂わせた。そして、まるで一人ごとのようにいった。
「どうしたらいいんだろ・・・」
 忌ま忌ましげに、困惑の色を浮かべながら。
「先生ね、今日、当直だったのよ。だから七時に学校へ行って、宿直の先生から引継ぎして、教室を見回りにでかけたの。それで・・・見ちゃったのよ・・・」
 神経質そうに顔にかかった髪を、手でかきあげる。
「・・・海野くんがね、井筒くんに馬乗りになって」
 監督が関取に馬乗りになっただって? 二人はオタク仲間じゃなかったのか?
「口をこじあけて・・・そして・・・」
 涙声に変わっていた。口をわなわなと震わせ、しゃくり上げるようにして嗚咽を堪えている。それ以上はいえない、とばかりに両手で顔を覆う。
「だから止めようとしたんだけど・・・遅かったわ・・・」
 それでも、ぼくみたいな生徒の前で取り乱したのを恥じたのか、両手で頬をピシャンと張ると話をつづけた。

 関取の口からジュッっという音が聞こえた。組織が焼け焦げ、白い煙が上がる。
「な、なにするのよ!」 
 美由紀は夢中で監督を突き飛ばした。
「うるさい!」監督が美由紀を睨み付けた。
「井筒君が・・・」
「こんなやつ!」はき捨てるように海野がいった。
 関取は両手で喉をかきむしり、絞め殺されるニワトリの断末魔のような悲鳴を上げる。
 美由紀は慌てて職員室に走り、救急車を呼んだ。戻ってくると、監督はもとのままの格好で、関取が床を転げ廻るのをみていた。その口元に、侮蔑の色が浮かんでいる。
「このデブがおいらを突き飛ばしたんだよ、先生」
「突き飛ばした? それぐらいで、どうしてこんなことを?」
「あの骸骨に向かってだよ、先生。骸骨に向けて突き飛ばしたんだよ」
「だから、それがどうしたっていうの?」
「わかってないな、先生。おいらが骸骨に呪われたらどうするんだい」
「呪い、ですって? そんなの噂でしょ?」
「その噂を確かめるために来たのさ。なのに、デブがビビリやがって」
 監督が床に泡になった唾を飛ばした。目が狂っている。
「深町が信じるようなビデオを撮らなきゃならないんだ」
「深町くんが? どうして?」
「深町が、おいらのビデオをインチキだなんていわなきゃこんなことにならなかったんだよ!」
 監督が全身を細かく震わせた。唇が歪み、恐怖に苛まされているのが見える。
「おいらだって怖かったんだ。けど、怖かったけど、またビデオを仕掛けにきたんだ。深町がいうから・・・なのに、あのデブが、おいらを押して、骸骨のほうへ・・・」
 涙と鼻汁が監督の顔面をくしゃくしゃにした。そのまま、髪の毛を鷲掴みにすると、崩れるようにして床にしゃがみ込んだ。
 美由紀の耳に、救急車のサイレンが聞こえてきた。

 愕然とした。
 ぼくの何気ない言葉にプライドを傷つけられた監督が、昨晩もういちど骨格標本を撮るために理科実験室へ忍び込みビデオをセットした。それを回収しようと今朝、関取と学校へきたのだけど、関取が理科実験室へ入るのを拒んだのだろう。それで、二人に亀裂が生じて・・・。
「海野くんはいま警察で事情聴取を受けてるわ。きみの名前が出る可能性は高いわね。キミが原因ではないにしろ、キッカケにはなってしまったっていうことよ・・・。気にしないでっていいたいんだけど・・・」
 ぼくは血の気が引いて卒倒しそうだった。自分のせいでこんな事件が起きたんだと思うだけで、怖かった。
 先生が一枚の書類をぼくに手渡した。それは、先生がつくったデータベースからプリントアウトされたもので、まだ、ぼくが読んでいないものの一つだった。
 <理科実験室の噂>というタイトルがつけられていた。

<理科実験室の噂>
 理科実験室の骨格標本と人体模型が、深夜零時に動き出すという噂を生徒たちから耳にした。なぜ動くのかと訊くと「あの骸骨は、むかし理科実験室で事故に遭って死んだ生徒のものだから」という。人体模型にもその魂がやどっているそうだ。
 理科実験室での事故について、教師たちの間ではとくに申し送りはなかったので、市立図書館で地元新聞の縮刷版を閲覧していくうちに、奇妙な記事に出会った。
 昭和四〇年の九月十七日、玉藻小学校で小火が発生しているのだ。火事は大したことがなかったが、生徒がひとり死んでいる。二年C組の海野真琴という女生徒だ。
 記事はその事実だけを記載していたのだが、一週間後にちょっとしたコラム記事があるのに気づいた。興味深い内容なので、転載しておく。
『イジメられる論理
 思春期の少年少女の心は傷つきやすい。つい先頃もひとりの中学生が自殺を図った。同級生たちから、臭い、汚いなどと日頃から疎まれた揚げ句の決断だった。遺書には、いわれない疎外感に悩むいたいけな少女の悩みが面々と綴られている。こうしたいわゆるイジメをあらかじめ防ぐことも教育者の使命のひとつであると思われるが、現場の教師たちは意外と蛋白だ。「一人ひとりを克明に観察していられない」といった声も上がっている。しかし、それは教師になった人たちが、いままでイジメられる立場に立ったことがなかったからではないか。教師たちは、こうしていまも生徒たちをイジメつづけている』
 この記事には教師たちから反響が凄まじく、その後一ヵ月に渡って投書による抗議や反論が相次いでいる。

    2

「その、海野真琴って生徒ね、海野くんの叔母さんだったの・・・」
 遠くを見ながら松下先生がいった。なにかに憑かれたような虚ろな眼差しが、病院のがらんどうの待合室を彷徨っている。
 それにしても。監督の父の、妹に当たる人が自殺を図っていた過去があったのだ。当惑した。小火というからには、焼身自殺か?
「それ以来、海野くんのお父さんは非行に走っちゃって・・・いまも、塀の中で過ごしているらしいわ」
 刑務所?
 監督の家に家族の影が見当たらなかったのもそのせいだったのか。
「深町くんだけの責任じゃない。この事件が関係していることは確かだと先生、思ってる。わたし、いま噂が怖い・・・なにかある・・・きっとある。怖い・・・」
 ぼくだって先生に負けないくらい血の気が失せていた。冬のように肌寒く、全身が鳥肌になっていた。海野のオヤジさんの妹の怨念が海野に取り憑いて、その行動を取らせたというのだろうか? 信じたくない話だ。
 それに、昨日は「噂は噂で、もっともらしい話だ。根拠なんかひとつもない」とキッパリいっていた松下先生がこんなに怖がっている。その対比が不自然で不思議だった。
「データベース、見た?」
「まだ全部は・・・」
「そう」
「でも、丹野先生の事故の背景にはびっくりしました」
「気がついたのね」
 やっぱり、という口振りだ。
「他には?」
「アネゴのお父さんが祐太だっていうこと・・・」
「そう」
「でも、そのことは関取や監督・・・あ、いや、井筒や海野や水島から聞いて知ってはいたんですけど」
「井筒くんたち知ってたの、そのこと」
 ちょっと意外な顔になった。
「なんでも印刷中の卒業者名簿を見て調べたとかいってましたけど・・・それに・・・うちのオヤジが松井祐太と同級生だっていってました」
「じゃあ、昔のことを知っているのね」
 先生が驚いたようにぼくを見た。
「はい。祐太の噂っていうのは随分昔からあったみたいで、アネゴのオヤジも名前のせいで随分イジメられたってうちのオヤジがいってました」
「そう・・・」
 心当たりがあるというような、感慨深げな返答だ。
「先生」
「?」
「本当は噂を信じてるんじゃありませんか?」
 ぼくの問いに、松下先生は顔を強張らせたまま返事をしなかった。
 どれくらい静寂がつづいただろうか? ぼくの耳に、救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。ピーポーピーポーピーポーピーポーという音は徐々に高まる。この病院に向かっていることは明白だ。
 サイレンが最高潮に達して、病院の前で止んだ。救急隊員がストレッチャを引き摺りながら、自動ドアを蹴破るような勢いで慌ただしく入ってきた。
 悲痛な顔をした小太りの男がストレッチャにしがみつくようにしている。見覚えがあった。水島剛の父親だ。胸騒ぎがした。ぼくは立ち上がってストレッチャの上の患者を確認しようとした。顔には白い布切れがかけられていて、血で染まっている。
「剛!」
 剛の父親のひとことで、もうそれ以上近寄って確かめる必要はなかった。水島が事故? あんな臆病で慎重なやつが? わだかまりがモヤモヤと腹の奥底でとぐろを巻いた。
「知り合い?」
「水島ですよ、うちのクラスの」
 松下先生は水島の父親の顔を知らないのだろう。ぼくだって、昨晩家に尋ねてこなかったら不審に思って立ち上がったりしなかったはずだ。
 キキーッ! という急ブレーキの音がして、病院の玄関に数人の人影が近寄ってきた。救急車に同乗できなかった関係者だろう。振り向くとオヤジが先頭になって、ユニフォーム姿のNファイターズのカッちんとベース、アネゴ、それに何人かがもの凄い形相で入り込んできた。どっちの方角に足を向けたものか、急いた面持ちで思案に暮れている。
「オヤジ! どうしたんだ?」
 呼びかけに、オヤジが振り向いた。いくぶん焦り気味の色を顔に浮かべている。
「孝司!? なにしてるんだこんなところで?」
「なにしてるって・・・友だちの見舞いに・・・」
「もう聞いたのか!? 水島くんの事故のこと」
 目を丸くして驚いている。
「いや・・・見舞いにきたのは別の友だちで、そしたら突然水島が救急車で運ばれてくるしオヤジたちは駆け込んでくるし・・・どうなってるんだか・・・」
 ぼくはお手上げのポーズをつくってみんなを見回す。みな、いちように血の気がない。それは、水島を気遣っているからていうよりは、別の理由があってのことのように思えた。
「水島なら、そっちへ連れていかれたよ」
 ぼくはオヤジに聞こえるようにいった。アネゴたちが、ぼくに話がある、という顔をしていたからだ。
「三十五番の呪いが目の前で起こった・・・」
 ベースが絞り出すようにいった。アネゴもいまは敢えて否定しようとはしない。いつもなら軽口を飛ばすカッちんも、無言のままだ。
「びっくりしたよ・・・紅白戦でセンター守ってた水島が、顔面でライナーの飛球を受けちまったんだ。鼻が潰れちまって、辺りは血だらけでさ、血の中に歯が三本散らばってたよ」
 開いた口が塞がらなかった。昨晩の不安が的中したのだ。空気が冷やりと動いたような気がした。
「それにしても練習開始草々いきなりフナムシがピッチャーズマウンドに登ったときはたまげたよ」とベースがいう。「監督の方を見たら、投げさせて見ろっていう顔するから受けてやったんだけど・・・小学生みたいなスローボールしか投げられなくて・・・」
「そのあとは俺の球を受けさせることになってさ。まいったよ」カッちんが後ろめたそうに口を歪めた。「手加減したんだ。けどあいつ、受け損ねてマスクにボールぶつけて・・・。脳震蕩起こしちまった・・・。それでも紅白戦にはセンターで守備につくんだもん・・・」
「カッちんのせいじゃないわ」
 キッという視線をアネゴがぼくに向け、声を震わせていった。
 監督の配慮不足とでもいうのだろうか? あの場合ああせざるを得なかった。そのことをぼくは昨日の晩の一件をもちだしてみんなに説明した。説明しながら、みんなの顔が恐怖で引きつっていくのが分かった。
「あの話しとおんなじだ・・・。ピッチャーかキャッチャーにっていう親バカが、気弱な少年を事故に導いたっていう・・・」
 カッちんがクロスさせた両手で自分の肩をさすりながらいった。
「ただの偶然じゃぁ済まねえぞ・・・アネゴもこれで少しは信じるようになったか?」
「わ、わたしはただ、水島くんが心配で・・・」アネゴが動揺していった。
「そうだタッちゃん、見舞いにきた友だちってのは?」
 傍らの松下先生に目をやりながら、ベースが不審顔で訊いた。
「井筒くんよ」
 松下先生が声を震わせてかろうじて応えた。
「関取が、どうしたっていうの?」
 全員の声が唱和して驚きの声を上げた。
「こ、こっちは、こ、骨格標本さ・・・」
 説明するぼくの声は上ずり、震えていた。「噂」は、アリを一匹一匹丹念に踏みつぶしていくように、ぼくたち生徒を狂わせはじめていた。そして、ぼくも例外ではなかった。出口のない恐怖の渦の中に呑み込まれたような気分だった。
 松下先生の説明を聞き終えたアネゴたちは、言葉もなく、顔を強張らせたまま待合室のベンチに気力なく腰を降ろしてしまった。
「信じられない」という打ち消しの気持ちと、「今度はなにが?」という恐怖に襲われてしまっていたのだ。
 ぼくは、まったく非力だった。
 ぼくたちは、凍りついた空気の中に閉じ込められて、息をするのもやっとだった。


第八章 四月十一日(月曜日)

    1

 月曜日の朝のニュースは、数一〇年ぶりの大型春台風が伊勢湾に上陸したことをつたえていた。
 九〇〇ヘクトパスカルという驚異的な低気圧はいっこうに衰えを見せず、日本列島を南から北へと横断するように急速に北上していっていた。
 N市でも朝から異様な空気が立ち込め、風も湿り気を帯びていた。だがそれは台風の影響ではなった。雷をともなった雨雲の襲来だった。
 玉藻中学では朝から緊急職員会議が開かれていた。そのため各クラスとも自習となったのだが、どのクラスも噂話でいっぱいだった。こう事件がつづけば、噂が噂を呼んで混乱するのは避けられない。二年B組では、とくに酷かった。当然のことだろう。事件の当事者が揃っているのだから。
 ぼくもアネゴもNファイターズの連中も、詮索好きなクラスメートから好奇の眼差しと質問を浴びせられていた。
 そんなざわついた教室の後方から、突然吐き棄てるような言葉が投げつけられた。
「こんな校舎なんか早くぶっ壊しちまえばいいんだ」
 ざわめきが、潮が引くように消えていった。そして、みなの畏怖に満ちた視線が鍋島に向けられた。
「古臭くて黴臭くて蹴飛ばせば穴の開いちまうようなボロ校舎が原因なんだろ? フナムシが下手やったのも、監督が狂っちまったのも、丹野が事故ったのも、みんなこの化け物屋敷みたいな校舎のせいだ。いっちょう火でもつけて焼き払っちまうか」
 ジッポのライターを点火させると、炎に教室の板壁を舐めさせた。
「そうだよ。こんなボロい校舎、オレたちに失礼だぜ」
 鳥飼が鍋島に習って、ライターの炎で机を下から炙りはじめた。焦げる臭いがした。
「やめなよナベちゃん・・・」
 この間トイレで眠り込んでしまった猪股が、不安そうに二人を牽制する。
「イノ、おまえ怖いのか?」
「イノちゃん、金玉縮んじゃったのかあ?」
 調子にのって鳥飼がジッポの炎を猪股に向けた。炎がなびいて、鳥飼の手を包み腕を這った。
「あちちちち・・・!」
 ジッポが床に投げ出された。オイルが漏れ、炎が床に広がっていく。鳥飼は呆然と竦んでしまった。
「なにやってるのよ、あんたたち!」
 アネゴがすっ飛んできて、鳥飼のショルダーバッグを炎の上から叩きつけた。
「ああ・・・オレのバッグ!」
「火事にでもなったらどうするの!」
「だ、だからって、なにもオレのバッグで消さなくったって・・・」
 鳥飼が心配そうにバッグを拾い上げ、底を調べる。ビニールの焦げた臭いが漂った。
「こんな校舎よか、このバッグの方がよっぽど価値があんだぞ!」
 腹立たしげにいう。どうせ中にはタバコとエロ雑誌しか入ってないんだろうにとぼくは思った。
 鍋島が横着そうにいう。
「こんな校舎、燃えた方がオレたちのためだっていってるんだよ。そうすりゃ解体業者に金を払わなくてもすむし、早いとこオレたちは新しい校舎に入れるし、住み着いてる霊とはハイサヨナラってわけだ。万事丸く納まるっていうことよ」
「放火は犯罪よ」
「ああ、ほうかい」
 バカにしたように鍋島がいう。
「アンタって、どうしようもないバカね。いっぺん脳味噌をクリーニングに出した方がいいわよ」
「なんだと、このアマあ!」
「鍋島! おまえ、いい加減にしろよ」
 カッちんが寄ってきて諫めるようにいった。
「カッコつけんなよ、おまえ」
 鳥飼が軟体動物のようにカラダをくねらせながらへらへら笑いをカッちんに投げつけた。
「このぉ!」
 カッちんが拳を振り上げた。その手首をベースがごっつい腕で握って制止した。
「落ち着け・・・」
「水島や海野がとんでもないことになっちゃってるのに、おまえらよくそうやって平気でいられるな。おまえらが祟られりゃよかったんだ!」
 いい捨てると、カッちんは肩を怒らせて自分の席に戻っていった。
「なにが祟りだ。なにが噂だ。霊なんかいるもんか。そんなもんにビクついて、おまえらそれでも現代人か!?」
 鍋島がクラス全員に聞こえるように言い放った。
「そんなもんにオドオドしてるから、そういうやつをトイレに連れ込んでからかいたくなるんだよ。オレはな、迷信なんか信じるんじゃねえっていうデモンストレーションしてるんだよ。分かってんのかよ、おめーら?」
 自信たっぷりの演説に聞こえる。しかし、内心の不安を隠すための示威行為ともとれなくない。クラスから担任も含めて被害者加害者併せて四人がいなくなっているのだ。声高に噂を否定しようとすればするほど、鍋島の内心の不安が透けて見えてくる。
「なんとかいったらいいじゃねーか!」
 焦れったいそうに鍋島が怒鳴った。
「黙ってねーでよ! ヒソヒソ話したりしねーで、もっとでかい声で話せよ!」
 苛立ちの色が濃くなっている。そして、声が震えはじめた。
「お、俺だってフナムシのヤローをこないだイジメたことをちょっとは反省してるんだ・・・」
 弱きの虫が顔を出す。虚勢が瓦礫のように崩れ去っていく。それまで鍋島の強気な態度に相槌を打っていた鳥飼は、親分の突然の弱気振りに狼狽の色を隠せない。
「ナベちゃん・・・ど、どうしちゃったんだ?」
 肩にかけようとした手を振り払われる。鳥飼の顔から血の気が引いていった。

    2

 緊急職員会議にはオヤジも臨席しているはずだった。少年リーグの監督として水島の怪我の責任の一端を担う人物として、事故当時の状況を知るために当然のことだろう。松下先生も目撃者として話を聞かれている。もちろん、事件が公になることを防ぐために最大限の注意を払っているに違いない。ぼくたちに丹野先生が手摺から落ちた事故を口封じしたときのように・・・。
 午後から丹野に変わって、とりあえずの担任となった松下先生が教壇に立った。神経質そうに机の上をか細く白い指でコツコツと忙しなく動かしながら、落ち着きを保とうと懸命な様子がうかがえる。いつものようにシックでダサイ衣服に身を包んでいたが、上気した顔からは奇妙な色気さえ感じられた。
「・・・とにかく、今度のことは単なる偶然が重なっただけだから、みなさんもあまり動揺したりつまらない噂に翻弄されたりして欲しくないの。ちゃんと警察にも話してあるし、単なる事故なんだから・・・」
 でも、そういっている当の松下先生のピリピリした物言いと態度が、言葉とは裏腹にそれがただの偶然ではないと認めていた。噂の研究者というより、噂に翻弄されている一人の女性がそこにいた。
「丹野先生も水島くんも井筒くんも、みんないま病院で回復目指して必死でがんばっているわ。それを応援するのがわたしやみんなの役目なのよ。いい? 松井さんも冷静になってみんなをまとめてちょうだいね」
 名指しされたアネゴは力なくうなずく。松下先生の動揺がつたわっているからだ。
「妙な噂はしないこと。分かったわね。当て推量でものをいっていると、噂はひとり歩きするものだから、十分に気をつけてちょうだい。それじゃ、今日はこれで下校っていうことにしますから、いまの話を肝に命じて、噂に惑わされないでね」
 それだけいうと、逃げるようにして教室を後にした。
「美由紀先生、自分が一番動揺してるじゃん」
 カッちんが呆れ果てたようにいう。
「ムリないんじゃないの。監督が関取に塩酸飲ませるなんていう凄惨な現場見ちゃってるんだから」
 ベースが松下先生の肩をもつようにいった。
「でも・・・妙な噂が流れてるぜ」
「どんな噂だい?」
 カッちんの口から噂という言葉が出たので、ぼくは興味をそそられて訊いた。
「・・・うーん。タッちゃんにも関係アリなんだよな、それが・・・」
 いいにくそうに頭を掻く。
「だったら初めっから口にしなきゃいいのに」
 アネゴが咎めるようにカッちんを睨む。そして、代わりに話はじめた。
「こういう話よ。ひとつは、関取が監督に塩酸を飲まされようとしているのを目撃した松下先生は、それが終わるまで見物していて、関取が悶え苦しむのを楽しんでから止めに入ったっていうの」
「そんなバカなことって・・・!」
 噂にしても程がある。なんて悪意のこもった噂なんだ、とぼくは憤った。
「もうひとつはね、タッちゃんのお父さんは、水島くんが野球が下手なことを知っていて、わざと怪我をさせるために試合に参加させたっていうの」
 ムカついた。勝手なことをいいやがって。
「だれがそんなことを言い触らしてるんだ!」ぼくはこめかみの血管が弾け飛びそうなくらい怒りでいっぱいだった。「そんなことありっこないじゃないか!!」
「わかってるよ。ただの噂だよ。気にするな」
 ベースに宥められても、腹の虫は納まらない。
「鍋島のやつだろ」
 咄嗟に口を突いて出た。この間のトイレでの一件もあって、ぼくは目の敵にされていると思ったからだ。
「あいつにそんな度胸がありゃ、さっきみたいに取り乱したりするわきゃないさ。噂ってのは自然発生的に生まれて、燎原の火みたいに広がるっていうからな。発生源を探すっていってもなぁ・・・」
 カッちんが諦め顔で頭を掻く。
「だれもが疑問に思うこと・・・そんなところから噂って生まれるんじゃないかしら」
 だれもが疑問に思うこと? じゃあアネゴもカッちんもベースも、ぼくのオヤジを疑っているのか!! ぼくの心にみんなへの猜疑心が生まれようとしていた。
「じゃあアネゴはおれのオヤジがわざとやったって思ってるのか?」
「そ、そういう訳じゃないけど・・・」
 口が過ぎたというように言い淀む。
「だっていまいったじゃないか。だれもが疑問に思うことって!!」
「タッちゃん、あんまり興奮しないで・・・」
 宥めようとするベースの声も耳に入らなかった。
「腹の底じゃみんな疑ってるんだろ。噂を信じているんだろ!」
 ぼくはショルダーバッグを引っ掴むようにして教室を飛び出た。興奮が納まらない。視線を浴びているようで、神経がピリピリした。いま、孤独だった。
 人気のがなく薄暗い旧い木造校舎の廊下を、靴入れに向かって走った。昼だというのに、廊下には陽が所々にしか入らない。黒く濃厚な空気が、明治の昔からどんよりととぐろを巻いたまま澱み、居座っているみたいだ。
「孝司!」
 呼び止められて振り向くと、正面玄関ホールにオヤジがいた。緊急職員会議に出ていたオヤジ。疑いをかけられているオヤジ。疲労と落胆の色が顔に染み出ている。
「終わったの?」
「ああ。簡単な報告だけでな。水島の父親のことは伏せておいた。無理強いされてああなったなんていって、責任逃れみたいに思われると嫌だしな。おまえも、黙っててくれ」
「うん」ぼくは頷いた。
 ま、監督は二日間だけになるかも知れないな」
「辞めちゃうの?」
「最終的には俺の責任で試合に出したんだし・・・知らんという訳にもいかん。大人の世界はゴメンじゃ済まないんだよ」
「だけど・・・」
 疑っている連中がいる、といおうとして止めた。いたずらにオヤジの心配事を増やすだけだと思ったからだ。納得がいかなかったけれど、大人には大人のケジメのつけかたってやつがあるのだろう。
「それにしても、昔のまんまだな。奇跡に近いぞこれは。よくもまあ市役所も教育委員会もこんな骨董品をそのまま保存しておいたもんだ」
 そういって、懐かしそうに、慈しむように壁の感触を掌で味わっている。黒光りのする床、所々剥げ落ちた漆喰、古代ローマの柱の意匠を真似た飾り、天井からは埃だらけで使いものにならないシャンデリア・・・。古色蒼然とした佇まいに、時空を超えた感慨を抱いているような気がした。
「そこいらから昔の友だちが顔を見せそうな気がするよ。・・・ほら、ここ」
 オヤジがスリッパのままホールの三和土に降りて行く。オヤジが指し示したところを見ようと、ぼくも上履きのままホールに下りた。釘で掘ったような小さないたずら書きがあった。
 フカマチシンジ
「卒業日に引っ掻いて書いたんだよ。まだ残ってたなあ・・・」
 懐かしそうに人差し指の先端で微かなイタズラ書きを確かめている。その目が、まるで子供のように輝いていた。いままで見せたことのないような微笑みを浮かべながら、オヤジが玄関ホールを慈しむように歩く。ゆっくりと、とてつもないスローな歩みで。
 ぼくは廊下に上がって、上履きの汚れを落とそうと廊下の角に爪先をトントンと当てる。オヤジは玄関ホールを回遊している。上にはシャンデリア。玄関の外で、ほんの一瞬木洩れ日が輝いて、オヤジがシルエットになった。玄関に、スカートをはいたシルエットがもう一つ、白く照り輝いていた。
 あの子?
 シャリン! という硬質なガラスの擦過音が玄関ホールに木霊した。頭上を見上げるオヤジ。その目がカッと見開かれた。
 落下するシャンデリア・・・錆びた鉄枠とガラスの塊がオヤジの顔を目がけて落ちていく。両手で顔を覆い、蹲るオヤジ・・・。ぼくのカラダは硬直して動かない。足に根が生えたように身動きが取れない! 声も出ない。濃密な大気が、ぼくの動きを封じ込めてしまった。
 オヤジの頭に重量のある鉄枠の大輪が息の根を止めんばかりに落下する。
 ガシャ!
 太い鉄枠が見事にオヤジの首の付け根に命中した。首がスッパリと切断され、恐怖に引きつった形相でぼくに向かって飛びかかってきた。
<オヤジ!>
 目をつぶった。
 静寂が辺りを支配した。
「ほら、ここ」
 目をあけると、オヤジが漆喰のイタズラ書きを慈しむように人差し指で撫でていた。
「卒業日に、引っ掻いて書いたんだよ。まだ残ってたなあ・・・」
 咄嗟のことに逡巡した。
 けれど、カラダが反応していた。
 予知夢だ。
 オヤジがホールの中を歩きはじめようとしている。ぼくはオヤジを押し止めようとして、廊下から上履きのまま玄関ホールへと全力疾走した。オヤジの仰天したような形相が、ぼくの異変に戸惑っていることを示している。ぼくはオヤジにしがみついて、玄関の三和土までオヤジを押し返した。オヤジも必死に突っ張って弓なりになる。
「落ちるから!」
「どうしたんだ、孝司」
「危ないんだ!」
「危ないのはこっちだ!」
「シャンデリアが落ちる!」
「シャンデリア?」
 目の前にオヤジの浅黒く日焼けした顔があった。
「落ち着け、孝司。落ち着くんだ」
 背中をオヤジの肉厚の手が優しく叩く。ぼくは全身の力を緩めた。
「なんにも起こらないじゃないか」
 背後を振り向き、天井を見上げる。
 シャンデリアは数十年分の埃を全身に溜めたまま整然として吊り下がったままだ。さっきのが予知夢なら、もうすでに落下している時間だ。なのに、なにも起こらない。
 困惑した。
 予知夢でもなんでもない、ただの妄想だというのか? 鼓動が高鳴る。冷水を浴びせられたような気分になった。玄関の三和土でオヤジを壁に押しつけている自分に気がついて、ゆっくりとカラダを剥がした。
「どうした孝司!? 夢でも見たのか?」
 怪訝そうに、そして、心配そうにオヤジが訊いた。
「友だちが怪我したり、いろいろあって疲れているんじゃないのか?」
「・・・あ、ああ。そうかもしれない・・・」
 ぼくの声は消え入りそうなほど元気がなかった。
「さあ」
 オヤジがぼくの腕をとって三和土から廊下へと促した。元気を殺ぎ落とされたようで、ぼくはすっかり参っていた。足取りも重く、薄暗い廊下へと並んで歩いて行った。
「父さんはもうちょっと学校を見ていくよ。ひどく懐かしくなっちゃってな」
 シャンデリアの下を通過して、廊下へ上がった。オヤジはスリッパを脱ぎ、底を叩くようにして汚れを払った。そして、履きなおすとぼくに手を振って、背を向けた。その直後だった。
 ガシャ!
 振り向くと、シャンデリアを吊していた鎖の一本が千切れ、リングが傾いていた。カシャンカシャンと揺れるクリスタルのガラスから数十年分の埃が舞い上がり、玄関ホールの空気をほんわりと白く染めた。その白煙を見ながら、ぼくは呪縛霊にでも会ったみたいに身動ぎもできなかった。それは、オヤジも同じだったみたいだ。
 妄想でもなんでもない。あれは、やっぱり予知夢だったのだ。オヤジがぼくを信じ難いものでも見るような目つきで見ている。
「おまえ・・・」
 ぼくはゆっくり頷いた。
 埃の白煙の向こうに、白い影が見えた。
 セーラー服だ。
 彼女は、玄関の外から一部始終を見ていたに違いない。
「き、キミ!」
 ぼくの問いかけに驚いたようにカラダを翻すと視界から消えてしまった。
 知り合いか? というような顔でオヤジがぼくを見た。
 ぼくは大きく深呼吸をひとつした。

    3

 オヤジと別れてから、ぼくはだれもいない図書室の<資料室>で書棚の資料を眺めながら時間を過ごした。
 注意して見ると、噂の研究書が並んでいる。サブタイトルに「・・・の社会学的考察」なんて印刷してあって小難しそうだ。
「興味ある?」
 松下先生のやつれた顔が<資料室>に現れたのは、五時を回った頃だった。
「校長と教頭からずっと解放されなくって。疲れちゃったわ。飲む?」
 松下先生は清涼飲料水のプルリングを押し込むと、傍らのお茶セットから湯飲み茶碗を取りだして、二つに分けて注いだ。それから席に着くと、一気に茶碗の中身を喉に流し込んだ。
 よっぽど喉が乾いていたんだ。なのに、半分もらっちゃって、なんだか申し訳ない気分で一杯だった。
「先生キミにいったわよね、噂は噂。もっともらしい話で根拠なんかひとつもないって。裏なんか取らなくたって、噂に決まってるって」
 机の引き出しからキャスターマイルドを取り出して口に咥えると、ジッポのライターで火をつけた。大きく胸を突き出すようにして煙を吸い込むと、ゴジラが吐き出す放射能のように、すぼめた口から細く円錐形に煙を吐き出した。
「あれ、嘘」
 煙草の先端から天井に向かって上っていく紫煙の行方を目が追っていた。
 濃紺のタイトスカートに白いブラウス。その上から真紅のカーディガンを肩にかけて煙草の煙をくゆらせる松下先生は、いつもとちがって、なんかこうアブナイ感じがしてゾクゾクっとした。
「キミから理科実験室に一晩つきあえっていわれたときは、驚いたわ。この子、なにか感じてるのかしらって」
 松下先生が疑り深そうに見た。
「この学校がずっと旧い校舎のままできたのにはね、理由があるのよ。もう読んだでしょ? わたしがつくったデーターベース全部」
 ぼくは返事の代わりにうなずいた。
 玉藻中学の校舎を建て代えるという話はいままでに何度もあったというのだ。ところが、その決定を下した市が、決議が可決しないうちに突然解散してしまったり、議案を提出している間に市長が死んでしまったり、いざ解体が決定した途端に建設業者が倒産したり。一度は体育館から解体をはじめる作業が行なわれかけたけれど、作業員が次々に事故を起こして作業が進まず、じぶんから解体しようという作業員がいなくなってしまったという前例もあったという。
 この夏からの解体予定は入念に行なわれていて、事故のないよう大手の建設業者を指定し、なるだけ人手に頼らない安全性の高い解体工事を準備しているらしい。
 この話を聞いて、ぼくはオヤジのことを真っ先に考えた。この話が真実なら、オヤジも危険だということになる。
「嫌がってるのよ、きっと」
 何気ないいいかたで、さらりという。
「このまま放っておいて欲しいのよ、きっと。だから、じぶんを壊そうとする力に精一杯抵抗しているんだわ。いままでは行政や業者に歯向かってさえいればよかった。けど、こんどはそうはいかなくなっちゃった。だから、教師や生徒たちを相手に抵抗をはじめたんだわ」
 だれが、と訊くまでもない。
 校舎だ。
 校舎が意思をもち、じぶんを葬り去ろうとする人々に抵抗をしている。
「生きてるっていうことですか?」
「そうね・・・この校舎は魂をもっていて、ときどきいたずらをしては噂をつくって、タブーをあちこちに創り出してきたのよ。そうやって自分を守りつづけてたんだわ。そうとしか考えられない。でなかったら、噂と今度の事故の因縁を理解することはできない」
「本当にそんなこと・・・?」
「信じてるわ。・・・わたしもここの卒業生なの。知ってた?」
 初耳だった。松下先生は、なにかに取り憑かれたような、蠢惑的な眼差しを向けた。
「理科実験室の骨格標本が本当に怖かったし、家庭科教室の排水口には切り落とされた指がつまってるって思っていたし、体育館の天井にはマットで簀巻きにされた少年の霊が宿っていて、真ん中のトイレには絶対に入らなかったもの。いまだって信じているわ。信じているから、真実を探りたかったの。だから、ここに赴任したいってずっと思ってた。でも、念願叶ってきてみればこの始末」
 タメ息とともに紫煙が吐き出された。
 松下先生が都市伝説を卒業論文にしたっていう理由が理解できた。あれは、自分の体験なんだ。
「この二年間、怖い思いで日曜日にも一人で学校へきて歩き回ったわ。海野くんが仕掛けたビデオカメラを見つけたのもわたし。夕方六時ぐらいに見つけたの。ちょってイタズラ心でカメラを動かしたんだけど、それが、今度のことにつながっているんじゃないかって・・・」
 松下先生は肩を落とし、眉間に深い皺を刻んで噛みしめるようにいう。例の、カメラが動いたというのは、松下先生の仕業だったのだ。
「みんな、わたしへの警告よ」
 先生の肩がカタカタと震えている。そして、天井を見上げて、睨みつけるようにいった。
「わたしはあなたを壊そうなんて思っていやしないわ。わたしはただ、噂が真実かどうか知りたかっただけよ! あなたはそれを、さあどうだとばかりにわたしに見せつけた。それも、丹野先生や水島くんや井筒くん、海野くんを生贄のようにして!」
 先生が話しているのは、ぼくではない。柱や壁や窓や天井や漆喰、こまごまとした飾りや空気・・・つまり、この校舎全体に向かって話しているのだ。
「あなたにそこまでする権利があるの?」
 声がうわずっていた。
「わたしをそんなに苦しめたいの? わたしを苦しめてなんの得があるっていうの? あなたはいずれ朽ち果て、崩れ落ち、消える運命なのよ。なぜ生き長らえることに執着するの? 死臭を腹の中にどんどん詰め込みながら、噂にまみれて風化するまで立ち誇っていようっていうつもり!? もうやめてちょうだい!!」
 絶叫するようにいうと、先生は涙と鼻水に溺れそうになりながら机に拳を叩きつけ、泣き崩れた。
 ぼくにはなにも為す術がなかった。
 そっとしておくしかない。先生の目的や魂胆をぼくが知ってもどうしようもないことだ。先生は、先生なりの考えでこの学校の噂と戦さをしてきたのだろう。それに負けたとしかいいようがない。
 ぼくは、気づかれないように<資料室>を逃げ出した。太陽は沈んでいたが、まだ新聞が読めるくらい明るかった。
 人気のない校庭・・・いまにもグニャリと歪んで襲いかかってきそうな校舎を中央に、右に図書室、左に体育館が広がっている。背後の山の音が、校舎の鼓動の音のように錯覚される。
 ボッ!
 火の手が上がるのが見えた。目を凝らす。人魂の大きなやつみたいだ。
 校庭の真ん中で、ホログラフの立体映像を見るみたいに、黄色い炎が燃え盛っていた。中に、黒く焦げた人間の五体が苦しげにもがいている。目をしばたいてもう一度確認しようとしたが、炎は薄らいでしまっていた。
 予知夢?
 胸騒ぎがした。引き寄せられるものがあったのだ。ぼくは一目散に駆け出した。
 左手の体育館の横手へ回り込む。前方に用務員室が見えるが明りは灯いていない。手前に人影が二つ・・・。小さな赤い点が顔の辺りでチカチカしている。
「鍋島!」
「でかい声出すなって」
 ぼくの呼びかけに、低い声で応じた。暗がりで煙草を吸っているのだ。声を低くしろっていうのも当然かも知れない。
「嫌な予感がするんだ。煙草を捨ててこっちへきてくれ」
「なにいってんだよ。ナベちゃんにそんな言い方が通用すると思ってんのか? バカもやすみやすみいえよ、深町」
 鳥飼がコンコンと甲高い声でいう。昼の動揺は治まったのか。それとも、煙草を吸うことで気を紛らわせているのか?
 ぼくは焦った。火だるまになるのはこいつらのうちどっちかじゃないか? でも、それを止める手立てはあるのか? 口でいっても信用されない。じゃあもぎ取るか? そんなことをしているヒマはあるのか? 揉み合っているうちに火がついたりしたらどうするんだ? ぼくの頭の中で様々なことがぐるぐるとミキサーのように急速に回転して攪拌された。けれど結論は出なかった。
「嫌な予感って、なんなんだよ」
 鍋島が訊いた。
「キミたちのどちらかが、火に包まれる」
「火・・・だと?」
「ああ」
「なぜそう思うんだ」
「見えたんだ」
「見えたって、なにが?」
「火だ」
 ぼくと鍋島のやりとりに、鳥飼が割って入る。
「深町・・・おまえも飲め」
 そして、透明なボトルにはいった液体をぼくに勧めた。
 ツンと鼻の奥を甘いアルコールの臭いが刺激した。こいつら、酒を飲んでる。
「火がどうのこうのって、バカみてえなこといってねえで、飲めよ」
 酔っ払いの絡み酒ってところか。イライラして声を荒げた。
「水島のこと、酒で忘れようっていうのか、鍋島。そんなことしたって、水島の怪我は治らないぞ。噂なんかを信じて弱いやつをからかったりするからいまごろ反省することになるんだ」
「あれは噂なんかじゃない! 噂じゃないから事故が起きるんだ! おまえは知らないかもしれないけどな、あのグラウンドで昔・・・」
「知ってるよ」
 遮るように、ぼくがいう。
「知ってるのに、怖くないのかよ」
 鍋島はすっかり意気消沈しているみたいだ。
「監督も噂通りに狂っちまったじゃねーか!」
 かなり怯えているみたいだ。
「鍋島、おまえ今日校舎が燃えればいいなんていってたな?」
「それがどうした?」
「校舎がおまえを恐れて反抗したらどうなると思う?」
「校舎が恐れるだって?」
「ああ。校舎に意識があって、じぶんが壊されないために噂をばらまいていたとしたら。じぶんを壊そうとする連中を呪っていたとしたら?」
「なにいってんだよ深町。校舎がなんだと?」ロレツの回らない声で鳥飼がいう。「校舎が俺たちに火をつけるっていうのか?」
「ああ。おまえらのうちどっちかが燃える」
「バカいってるよ、こいつ」
 鳥飼がへらへらと人を軽蔑したような笑いを送ってきた。けれど、鍋島はさっきからじっとして動かず、考えあぐねているみたいだ。顔がマジになっている。
「鍋島、おまえ、聞いてるか? 火だるまになりたかないだろう。はやくその煙草の火を消すんだ。おい、鳥飼。酒の瓶を捨てろ!」
「そんなのオレの勝手じゃねえか。捨てねえぞ」
「トリ! いわれたとおりにしろ」
 鍋島が命令するようにいった。校舎が意識をもっていることを信じたのだろうか。そんな鍋島に、鳥飼が絡む。
「ナベちゃんよぉ。怖じ気づいたのかぁ。よお、ナベちゃん。いつからそんな弱気になっちゃったのかよ」
 酔っ払っているせいか、鳥飼が酒の瓶の口をあてがい損なった。酒が胸にかかる。こぼれた酒を指で擦って嘗め、
「もったいないぜ」
 そういいながら、ポケットからジッポのライターを出した。
「この酒が燃えるっていうのか!」
 千鳥足の鳥飼が、酔いに任せてライターに火を点けた。
「やめろ、トリ!」
 鍋島の制止も耳に入らない。火はこぼれた酒に呼び込まれるようにして燃え移った。
「あっあっあー!」
 鳥飼が慌てふためいたような叫び声を上げる。
「トリ!」
 鍋島もあんぐりと口を開けたまま立ち尽くしている。ぼくの頭の中は、どうやって火を消したらいいのか判断がつかず、糠味噌状態だった。
 影が鳥飼にぶつかり、地面に倒れ込んだ。影が馬乗りになり、鳥飼を覆った毛布からはみでる炎を、上衣を脱いで叩き消そうとしている。
 ぼくもいまさらのように駆け寄って、慌てて捨いだ薄手のセーターで火を揉み消しにかかった。
「しょうのねえガキどもだ!」
 用務員の周中さんの声だった。
「こんな時間にこんなところで煙草だの酒だのやりやがって。バカヤロウ! おまえ、だれか呼んでこい」
 ぼくに命じた。だれを呼ぼうかうろたえていると、「早くするんだ!」と叱るように言い放った。


第九章 四月十一日(月曜日)夜

    1

 墨汁を流し込んだような暗雲が、洪水のように押し寄せていた。雲は刻々と濃さを増し、カタチを変え、とぐろを巻くように渦をつくり、消滅したかと思わせておいて、再び濃密に重なり合い迫ってくる。
 まるで生き物のようだ。
 さっきまで青々としていた春空が、みるみる重く立ち込めた黒い絨毯で遮蔽されていく。雲の中で、ときおり放電が起こり、不気味な光りを発した。気圧が激しい勢いで変化していた。その変化を追って、気圧の谷を狙い澄ましたかのように大気が摩擦し合って移動する。空が轟然と音をなして縺れ、混ざり合った。
 まるで悪魔の咆哮のようだ。
 高圧線は弓なりになり、街路に張り巡らされた電線も、糸くずのように乱れている。じっとりと湿り気のある風が街を覆い、よからぬものを招き入れてようとしていた。

 ぼくは水島の一件の後でパニック状態の松下先生を、鳥飼の火傷状態の現場へと強引に連れて行った。しかし、ヒステリー状態の先生はなんの役にも立たなかった。ただペタンと腰を落とし、うわ言のようにぶつぶつとなにごとか呟きくだけだ。目は虚ろで焦点は定まらない。
「あんたも教師ならしっかりしなよ」
 周中さんは松下先生の頬を強力にひっぱたく。しかし、先生はただっ子のように首を振り、病院へいくことを拒絶した。
 その場を取り仕切ったのは、周中さんだ。まず救急車を呼んだ。そのあと、茫然自失状態の鍋島から鳥飼の家の連絡先を聞き出して事故のことをつたえ、病院に直行するように連絡した。そして、教頭の自宅に電話してことの次第を説明した。
 それがすべて終わった頃、救急車がやってきて、火傷で呻吟している鳥飼を病院へと連れ去った。付き添いには、朋友であるはずの鍋島をムリに押し込んだ。鍋島は鳥飼の火傷にひどく怯え、半狂乱状態だったから、ついでに鎮静剤でも注射して貰えば丁度いいと思ったのだろう。
 その間、松下先生は用務員室の上がり框に蹲り、放心状態だった。先生にも救急車が必要じゃないかと思ったくらいだ。
「あっちもなんとかせにゃならんな」
 周中さんはぼくにそういって、松下先生の方をアゴでしゃくった。
 ぼくと周中さんは、用務員室横に停めてあった旧式の乗用車の後部座席まで松下先生を両側から支えて連れ込み、後部座席に寝かせた。周中さんはぼくに後部座席で先生を支えるよう命じた。力なくクラゲみたいにふにゃふにゃ状態の先生を支えるのは大変だった。ちょっとブレーキを踏むだけでも、軟体動物のような松下先生はぐにゃぐゃと揺れ、シートから転がり落ちそうになる。それを押さえるのには随分と苦労した。
 先生のマンションに着いてからも大変だった。<資料室>からもってきた先生のバッグからキーを探しだし(女の人のバッグを開けるなんていうのは本意ではなかったんだけど、致し方なかった)周中さんと二人で部屋まで連れて行ったのだ。
 背負わせるまでが一大事だった。
 ぼくが仰向けになっている先生の両脇に腕を突っ込んで、胸の前で腕を組む。そのまま後部座席からずるずると引き出して、なんとか周中さんの背中に凭れさせる。そして、腕を首に回させる。でも、力の入っていない腕はすぐズリ落ちるから、背負われた松下先生が落ちないよう、ぼくは背後でずっと押さえていなくてはならなかった。
 えっちらおっちら階段を上り、ドアの前に着く。ぼくはドアを開けた・・・途端、腕が引き千切れるかと思った。強風でドアがもっていかれ、開きっぱなしになってしまったのだ。ドアに構ってはいられない。中へ入れるのが先だ。二人がかりでベッドへ寝かせたあと、室内に流れ込んでくる不快な空気と戦いながら、ぼくはドアを閉めた。
 力を使い果たした周中さんの、びっしょりと汗で濡れた背中がぜいぜいいって上下動していた。
「大丈夫ですか?」
「人のことは放っておけ」
 そういって水切りからコップを取り出すと、水をたてつづけに数杯飲み干した。濡れたシャツを剥ぐようにして脱いだ。ぼくもそれを真似た。
 それから寝室の方に目をやって、周中さんにいった。
「女手がいりますね」
「ん? ああ、そうだな・・・」
 そこまでは考えていなかったという口振りで寝室を見やる。
「先生は玉藻中学の出身だっていってました。親戚とか友だちとか、いるんでしょうか?」
 知り合いがいればと思って、とりあえず周中さんに尋ねてみた。しかし、周中さんは、「知らん」
 と素っ気ない。
 こんなときに威力を発揮するのはアネゴの機動力だ。そこで名前を告げると、
「松井? 松井章子か? あの威勢のいい女の子か・・・」
 周中さんは幾分戸惑ったように口をすぼめ首を捻っていたが、他に適当な人物も思い当たらなかったんだろう。反対しなかったので、ぼくはアネゴに電話した。

    2

 空気がマンションのベランダの角で切り裂かれ、悲鳴を上げていた。ポリバケツが転がるボテボテした音や、看板が落下したような衝撃音も聞こえた。
「・・・つかれておる」
 少し開いた寝室のドアの方を見て、周中さんが呟いた。
「そりゃあ疲れたでしょう。松井がくるまで休んだらどうですか」
 実際、七〇近いに違いない周中さんには重労働だったはずだ。
「違う」周中さんは、寝室に向けて精悍な顎をしゃくった。「憑かれているといったんじゃ」
「どういうことですか?」
「憑依じゃよ。狐や狸が取り憑くというじゃろ」
 先生が憑かれている。としたら、それは、狐や狸じゃなくて校舎の怨霊だ。
 ぼくは夕方、松下先生から聞かされた校舎の魂の抵抗の話をしてみようと思った。最後には、松下先生が校舎に向かって話しかけていたことも・・・。
「オジサン・・・」
 なんだ、というように振り向いた周中さん。その目は深く透明だった。見かけは底意地が悪そうで疑り深く見えるが、根の正直さが現れているように思えた。
 話をしていくにつれ、周中さんの顔色が次第に青褪めて行く。
「松下先生はそんなことを・・・」
 驚きの目を、半ば開いた寝室に向けた。
「相当まいっているみたいです。なぜ怪事件が連続して起こるのか? それに、先生まで巻き込んで犠牲者も増えるばかり。みんな自分のせいじゃないかって・・・」
 周中さんは、指をくの字に曲げたまま、指先で強くじぶんの頭を押さえつけている。何事かが頭から零れ出すのを阻止しようとしているように見えた。
「一連の事件のこと、どう思いますか? 丹野先生や水島の事故・・・監督が狂って関取にあんなことしたり、揚げ句の果ては鳥飼が火だるまになって・・・松下先生がこの始末・・・。みんな、みんなこの学校に昔からつたわってる噂話にまつわる事件ばっかりなんでしょ!?」
「そう、らしいな」
 つっけんどに応える。
「訊きたかったんですけど・・・」周中さんの目を覗き込むようにいった。「ずっと昔に用務員一家が惨殺されたっていう事件があったっていう噂も耳にしたんですけど・・・あれって、本当のことなんですか?」
 周中さんが射るようにぼくを見る。余計なことを訊いたかな。と、怒鳴られるのを覚悟した。
 タイミングを見計らったように停電!
 点滅がつづく。まるでミラーボールとフラッシュライトのカラオケボックスにでもいるような気分だ。
「・・・そりゃ、ウソだ」
 強く否定した。
「殺されたりなんかしちゃいない。惨殺なんていうのは、あとからだれかが面白おかしく尾鰭をつけただけでな」
「じゃ、事件があったっていうのは本当なんですか?」
「事故らしきものは・・・あった」
「どんな事故だったんですか?」
「あれは・・・」
 フッ、と電気が消えた。
 月明りもなにもない。漆黒の闇の中にぼくたちは放置されてしまった。ときおり近くを通るクルマのフォッグランプが、ぼくたちの影を壁に映し出し、大きさを変え移動させた。

    3

 いまから二〇年ほど前。玉藻中学には住込みの用務員一家が住んでいた。五〇になる父親と、四〇を過ぎの母親、それに、中学二年になる長男と小学生の女の子がいた。
 長男は当然のことながら玉藻中学に通っていた。病弱で同級性によくイジメられたという。父親が用務員だという理由も、それに輪をかけた。
 父親は働き者だった。
 不平も不満もいわず、黙々と真面目に日がなよく働いた。ところが、ある年の年度はじめに校舎の改築問題が起こり、用務員室も新しくすることになった。近代的な設備が導入されれば自分の仕事はなくなってしまうかも知れない。そういう話題もちらほらと聞こえてくる。父親は各方面に足繁く通い、頭を下げ、懇願して回った。改築後も雇用してくれるようにと。
 しかし、その努力も空しく校舎の改築計画は着々と進行した。図面ができ、改築後の予定表も完成した。その中には用務員一家を雇い入れるという項目は記載されていなかった。予定されていたのは、ボイラーマンや火薬取締技術などの資格を取得した、若い人材の雇用だった。
 そのうち改築を担当する建設会社の関係者がやって来た。まず、旧校舎を取り壊す必要があるからだ。
 それから、妙なことがつづいた。
 まず、市長が交通事故で急死した。
 一週間後、市の教育委員長が脳溢血で倒れ半身不随になった。
 校長が急性心不全で全校生徒の前で演壇から崩れ落ちたのは一ヵ月後のことだ。
 みな改築工事を積極的に推進してきたリーダーたちだ。動揺が街中に亀裂を走らせた。市の職員たちの恐怖は並のものではなかった。建築業者や設計事務所までも及び腰になった。「このまま改築を進めればもっと犠牲者が出る」と。
 現場の労働者も、地鎮祭をする前からこんな災難つづきでは集まりそうもない。
 警察は、すべてが事故ないし病気によるものだと発表した。しかし、市民の多くはある男に疑惑の目を向けた。
 用務員である。
 彼は、校長の事件の日以来、だれにも目撃されていなかったのだ。
 噂は広がった。
 曰く、自殺して怨霊となり改築を推進する人々にとり憑き、呪い殺したのだと。
 しかし、当人は失踪していない。疑いと非難は残された家族に向けられた。街を歩けば白い目で見られる。買い物も満足にできない。中学生の長男は、
「おまえのオヤジは人殺しだ」
 といって蹴られ嬲られ最後には嫌悪された。小学生の長女も同じだ。だれも味方につかなかった。一家は街外れで肩身を狭くして生きざるを得なかった。
 そして、改築計画は白紙に戻された。

    3

「こういうことじゃ」
 周中さんは、回想するようにゆっくりと話した。
「その用務員は、いまだに行方不明でな。噂だけが一人歩きしとるんじゃ」
「家族は、いまどこに?」
「中学生だった息子は大学まで出て、昔の同級生と結婚した。これからくる松井章子。あの子の父親だよ」
 背筋を冷水が滝のように駆け抜けた。
「じゃあ、アネゴの父親の祐太っていうのは・・・その用務員の子供・・・」
 それ以上声が出そうにもなかった。
 沈黙を打ち破るかのようにドアがノックされた。ぼくは風に負けないよう両手でしっかりとドアノブを握り、アネゴを部屋に招き入れた。アネゴが慌てふためいた形相でいた。ビニールの雨合羽を纏い、手には懐中電灯が握っている。
「どうしたの、引きつった顔して」
「あ、いや・・・」
 ぼくは思わず口ごもる。
「先生に、なにかあったの?」
 乱れたショートヘアーを手で繕いながらアネゴが訊いた。
「あ、ああ・・・。話より先に、先生の着替え頼むよ。ズブ濡れなんだ」
「一体どうしたっていうの?」
「いいから、とにかくさ」
 アネゴは慌てたように合羽を脱いで寝室に入った。
 着替えが終わって出て来ると、アネゴは驚いたようにいった。
「先生、目が虚ろ。凄いショックだったみたいね」
 ぼくは、鳥飼の火だるまの一件を一部始終話した。アネゴは食い入るようにぼくの話に聞き入った。アネゴは噂を信じているんだ。ぼくは、確信した。自分の父親が祐太だからこそ、信じていないなどと強がりをいっていたのだ。
 呪縛に絡みつかれているのは、アネゴの方なんだ。
「・・・ううううううう・・・」
 わずかに開いている寝室のドアから呻き声が洩れ聞こえてきた。
「先生、気がついたみたいよ」
 アネゴが寝室に飛び込んで行った。
「・・・ま、松井さん・・・ね」
 か細い声が聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
「な、なんとか・・・ね」
「なにか飲みます?」
「ビールをちょうだい、冷蔵庫にあるわ・・・」
 アネゴが缶ビールを冷蔵庫から取り出して、一本を周中さんに手渡し、もう一本を手に寝室に戻ろうとした。
「お父さん」
 寝室から、先生の声が響いた。周中さんの顔が強張る。松井先生が、周中さんのことをお父さん、と呼んでいる。
「お父さんでしょ? さっきの話の行方不明の用務員っていうのは・・・」
 先生は随分前から気がついていたようだ。
「お父さん、あなたでしょ・・・」
 アネゴの足が止まる。寝室に入りあぐねている。顔色が蒼白だ。そうだろう。松下先生が周中さんの娘なら、松井祐太は周中さんの息子だ。アネゴにとって、周中さんは祖父で、松下先生は叔母ということになる。それで驚かない方がどうにかしている。
 タオル地のガウンを纏った松井先生が、静かに寝室から姿を見せた。
「知っとったのか」
 周中さんの驚きの声に、松下先生がゆっくりとうなずく。強張ったアネゴの手から缶ビールをもぎ取って、プッシュプルを押し込む。
「全部知っていたのか・・・!」
 ひと口ビールを流し込んでから、大きく深呼吸していった。
「いまの、お父さんの話しで確信したわ。その話しをそこまで詳しく知っている人物はお父さん以外にいないって・・・」
 停電の復旧作業が行なわれているのか、パッパッと瞬間的に頭上のライトが瞬く。ぼくは、冷水を浴びたまま市場の巨大な冷蔵庫の中に放り込まれたような気がした。
 実の親子が同じ学校で働いていた。しかも、周中さんは松下先生に自分のことを打ち明けていない。それはなぜなんだ?
「でも、お父さん。どうして急にいなくなったりしたの?」
 松下先生が、詰問するようにいった。
「悪魔に心を売り渡したんじゃ・・・」
 周中さんが悔恨に顔を歪めながらいった。
「あ、悪魔・・・?」
 松下先生の声が狭い気管からしぼりだされる。
 ぼくには分かっていた。
 その悪魔が、あの校舎だということが。
 もちろん松下先生も理解していたはずだ。
「初めてあいつと話したのは、ちょうど二〇年前のことじゃ。そう、校舎の改築話が出たときのことじゃった」
 周中さんは肩をガックリと落としたまま、だれにいうともなく話はじめた。
「廊下の腰板が痛んできていたんで、新しく張り替えようとしたんじゃよ。もう陽も暮れようとしてい時分じゃった。古い板を剥がそうとしたんじゃが、なかなか外れん。足をかけてかち割ってやろうとしたんじゃ。ところがどうじゃ。割れるどころかわしの手にトゲが刺さっちまった。人差し指を突き抜けるほどのな。慌てて保健室へ行って包帯を巻いたよ。もう板を剥がすのはあきらめて、上から新しい板を打ちつけようとしたんじゃ。釘をもっていた手が滑って、今度は左手の爪を玄翁でぶっ叩いちまった。そんなヘマをやらかしたことはなかったから、びっくりしてしもうてな。それでも、そこまでは偶然でも済む。問題は、その夜だ。とんでもないことが起こりおってな」
 その顔が恐怖に引きつっている。

    4

 いまから二〇年前の春のこと−
 周中が玉藻中学の用務員として住込みをはじめて、もう一〇年が経とうとしていた。
 仕事といえば、体育館裏の焼却炉で古材を焼いたり垣根の手入れをしたり、樹木を労ったり。旧くなった机や椅子、そして、校舎の壁や棚など、手に負える修繕箇所があれば簡単な大工道具で事済ます。手に負えなければ業者を手配してあとはまかせっきりだから、のんびりしたものだ。仕事には事欠かないが、人が相手ではないから気楽なものだった。
 それは、周中の性格に合っていた。
 売り上げを上げるためあくせく働いたり、上司やお得意の機嫌を取ることもない。相手は古ぼけた校舎と地面と四季の草花。申し分ない毎日だった。
 そこに突然の校舎の改築問題が持ち上がった。ひょっとしたら、職を失うかも知れない。そんな不安な日々がはじまっていた。
 廊下の腰板で棘を刺し、左手の爪を玄翁で叩き潰したのも、そんな頃だった。
「きっと動揺しているからだろう」
 周中はそのぐらいにしか思わなかった。しかし、その背後に怨念の炎が燃え上がっていたのだ。
 深夜が月を隠していた。
 家族はすでに眠りに入っている。周中はスルメを齧りながら寝酒の焼酎を舐めていた。風が板張りの屋根をかすめていく音がした。酔いが脳の奥まで周り込み、テレビの画面を追うのが億劫になってきていた。
 時計は一時を過ぎている。
 ゴトン・・・外で不審な音がした。風でなにかが薙ぎ倒されたのかも知れないと、周中はよろける足でサンダルをつっかけて、外に出た。四月だというのに、風は冬のように冷たく周中のカラダにまとわりついた。
「おお寒・・・」
 周中は思わず両手でカラダを抱え込むようにした。焼酎のせいで温もっていたカラダから、暖が一気に消え去ってしまうほど冷える。なにか上に引っかけてこようかと思った途端、人のカタチをした残影が、視界を横切るのが目に入った。
「だれだ?」
 周中は不審な気持ちを抱きながら、その影を追った。
「まて! だれなんだ、いまごろ!」
 足速に体育館の正面にまわり込んだ。体育館の中に消えて行く後姿が見えた。周中が後を追う。外の冷え冷えとした空気と違って、体育館は生温い空気が澱んでいた。濃密でジメリとする。
 非常灯のスイッチを入れると、屋内が薄明りに照らされた。
「出てこい! こら、隠れてないで出てくるんだ!」
 周中の怒鳴り声が艶を消されたように届かない。妙だ。周中が背後を振り返る。気配は頭上に移行した。見上げると・・・
 黒い風船がひとつ浮いていた。それが、クルッと向きを変える。風船が生っ白く色を変えた。
 それは、男の生首だった。
「わっ!」
 驚愕のあまり力が抜けて、カラダが萎んでいくみたいに思えた。
 嘲笑うかのように首がケタケタケタと顎を震わせ、急速に滑り落ちてきた。開いた口蓋の下に、紅蓮の舌が覗いている。
「うへっ!」
 思わず身を伏せる。バランスを失って床に転がった。天井が見えた。
 目玉が巨大な葡萄のように密集してぶら下がっている。その一つひとつの目玉が、ギロリと周中を射すくめるように瞳を移動させた。目玉がモゴモゴと泡のように蠢動する。その裂け目から床運動用のマットが現れ、バサリと周中のカラダを覆う。
 視界が暗転した。と思うまもなくカラダがごろごろと回転しはじめた。気がつけば、周中を中心にしてマットが巻かれていた。
 哄笑が周囲に木霊した。
「ざまあない」
「手も足も出ないだろう」
「さて、どうするか」
「イジめてやるのが一番さ」
「まあ待て。取り引きっていう話だったろう」
「そうそう。そうだった。アレを承知してもらわにゃな」
 囁きが鼓膜を震わせる。
 だれかが自分を身動きできなくして取り引きを迫ろうとしている。いったいなにがはじまろうとしているのだ。
 ピンと張りのある少年のような声がいった。
「頼みがある」
「た、頼み?」
「そうだ。頼みだ。おまえなら十分にその役割を果たしてくれるはずだ。だからここへ呼んだんだよ」
「な、なんなんだ、その頼みっていうのは」
「余計なことをするやつが多くてね。そういう連中を懲らしめたいんだよ。そいつらの魂胆を根絶やしにしたいんだ」
「そいつらっていうのは、だれのことをいってるんだ?」
「この校舎を壊そうっていういうやつさ」
 周中の頭の中に何人もの顔が浮かび、脳裏が埋め尽されていった。
「ほら、そいつらだよ。そいつらさえいなくなれば、ぼくたちは安心してずっといままで通り暮らしていけるんだ。だから、そのために一肌脱いでもらいたいんだな」
 だれなんだ、こいつらは? 周中は混乱する頭をフルに回転させた。
「ぼくたちだよ」
 周中を圧迫していた力がフッと失せた。
 マットから解放された周中は、教室にいた。理科実験室だ。すぐ横に人体模型。その首がぐるりと一回転して、周中を見上げてニヤリと笑みを送ってきた。慌てて後退りした周中の背中が押し止められる。首をひねると、骨格見本が下顎をだらんとさせて笑っていた。
「ひゃあ!」
 腰が抜けた。
「まだ私の紹介が終わってないわよ」
 その声で恐る恐る顔を上げると、月明りがピアノの前にした小柄な女性を照らし出していた。胸に拳ほどの穴が穿たれ、どくどくと血が流れつづけている。
「グラマン戦闘機が私をこんな目に合わせたのよ」
 思わず目を覆う。矢も盾もたまらず腰を落としたまま這った。
 ストン!
 床が抜けた。落下していく感覚が体を包み込む。ふっ、と止まると生臭さが鼻孔をくすぐった。飛沫が顔にかかった。見上げると、頭上には格子状の小さな四角がある。足元をネズミが走り抜けて行く。
 ギョッとした。
 そのネズミが、鮮血に濡れた指を咥えていたからだ。立てつづけの恐怖が、周中を狼狽させる。
「やめてくれ! なんだってこんな目に会わせるんだ!」
 周中の視界がフラッシュのように白ける。 声がした。さっきの、ピンと張りのある声だった。
「ぼくたちの存在を知ってほしいからさ。みんなが噂してるぼくたちをね」
 気がつくと薄暗がりの狭い部屋にいた。
 すぐ前には扉が三つ並んでいる。その、真ん中の扉が、ギシギシッと音を立てて開いた。生徒用の男子便所の中だ。現れたのは、小柄な少年だった。底無し沼のような深い碧色の瞳がサファイアのように輝く。
「そう、ぼくだよ。祐太だよ。噂の祐太だよ」
 耳を疑った。たかが噂だと相手にしていなかったが、その実物が目の前にいる。目を疑った。
「信じられないのもムリはないよ。だから、ちょっと校舎内をトラベルしてもらったのさ。夢なんかじゃないってね、それを分かってほしかったんだ」
 少年が、平然という。噂の主が、話をしている。つまり、これは霊魂なのか?
「ふふふふふふっ・・・そんな詮索なんか、どうでもいいじゃない。とにかく、ぼくたちは一緒に戦う相手がいるっていうこと。それは、分かってもらえるよね。この校舎がなくなったら、ぼくたちは活躍の場を失っちゃうんだ。せっかく長い間築き上げてきた噂が、たちどころに消えちゃうなんてさ。許し難いことだよ。そんなことされちゃ、ぼくたちはまた新しい噂をつくらなくちゃならなくなる。つまりそれは・・・」
 少年のサファイア色の瞳が怪しく光を帯びた。
「・・・新しい犠牲者が必要になるっていうことなんだよね。たとえば・・・仕事を失った用務員が新校舎のコンクリートの中に飛び込んで死んだとか、さ」
「や、やめろ。脅すのか」
 周中が後退っても、背中が壁に突き当たるだけだ。
「だからさ、校舎を建て替えようっていう連中をさ、消しちゃえばいいことなんだ。簡単なことさ。そうすれば、あんただって職を失わなくてすむ。ね、いい方法でしょ」
「消す・・・って、一体・・・?」
「だからさ、発言できなくしてしまうってことさ」
「そんな、人殺しをしろっていうのか!」
「いやいや。そういう段取りはぼくたちがちゃんとするさ」
「じゃあ、なにを?」
「犯人が必要なんだ」
「犯人」
 少年が頭を振った。
「ぼくたちは、噂が生んだ産物じゃない? だから人殺しなんか本当はできないんだ。けど、あんたが共犯になってくれればできる。わかるでしょ?」
 周中は意味がよく掴めなかった。
「悪霊だとか怨念のこもった霊魂なら呪い殺すことなんか造作ないことさ。でもね、ぼくたちは流言飛語なんだ。実態も霊魂もない。ぼくたちの噂を信じている人の想像力でもって存在しているだけなんだ」
「おまえは、霊じゃないだと!?」
「そう」
「だって、あんたはそのことを一番よく知っているはずなんだけどな」
 曰くありげにいう。
「どういうことだ?」
 祐太がゆっくりと腕を差し出す。その人差し指が、周中の眉間に向けられている。
「だって、ぼくの噂を流したのは、あんただよ」
 いわれて周中は狼狽の色を隠せない。血の気の失せた愕然とした表情が、心当たりのあることを物語っている。
「ほら、思い出したでしょ。いまから四〇年も前のことさ。まだ戦争中のことだ。あんたは東京から疎開してきていた小学生たちをつまらない噂で脅したんだ。真ん中のトイレに祐太っていうお化けの霊が住み着いていて、三回ノックすると中から『助けて!』って声がして、中を開けると、昔から住み着いている祐太の霊が便器の中へ引き摺り込むっていってね」
 周中の頭の奥から、その些細ないたずらが引き摺り出されてきた。
「それからさ。ぼくたちが生まれたのは。それからずっとぼくたちは生きてきたんだ。いろんなバリエーションも生まれた。仲間もいっぱいできた。みんなあんたが噂の震源地なんだよ」
 祐太が冷酷に言い放つ。
「でも、もうあんたの自由になんかならないよ。ぼくたちは、ぼくたちを信じている子供たちの想像力が増殖させたんだ。とてつもなく大きく、あっちこっちにね。いまさら否定しようったって、ムリさ。そんなことも知らないで、自分の子供に脳天気にも祐太なんて名前つけるんだものな。イジメられるの当たり前じゃないか」
 嘲笑うようにいう。
「だからさ、ご協力よろしく頼みますからね。それじゃあ・・・」
 そういうと、噂の祐太は出てきたときのようにスーッとトイレの中へと後戻りしていった。周中の方を見ながら、立ったままで遠ざかって行く。次第にその姿を薄くさせながら・・・。
「あ、ま、待て! おい、こら、話はまだ終わってないじゃないか! こら!」
 周中は慌てて噂の祐太が消え入ったトイレの扉を開けた。
 そこは裳抜けの空だった。なんの痕跡もない。朝が白々と明けつつあった。疲労がドッと眩暈のように押し寄せた。気を失うようにして、その場に倒れ込んだ。

 話し終えた周中さんは、憔悴し切っていた。
「気がついたら家の中じゃった。横に焼酎の瓶が転がっていてな、そのまま眠りこけてしまったみたいだったんじゃ。夢に違いない。わしは、そう思ったよ。たかが噂話じゃないか。わしの耳に入っていた噂が、気色の悪い夢を見せたんだってな」
 周中さんの肩が恐怖に震え出したかのように小刻みに揺れていた。
「じゃが・・・その日の夕方に市長が事故で死んだと聞いたときは心臓が飛び出そうになったよ。まさかと思っていたら、一週間もたたないうちに今度は教育委員長だ。そして校長も・・・ありゃ夢なんかじゃない。いても立ってもいられなくなっちまって旅に出た。ほとぼりが冷めるまでってな」
 虚ろな眼差しでぼくたちを見回した。
「それから五年。わしはこの街に舞い戻った」
「どうしてなの? どうしてこの街に戻ってきたの?」
 松下先生が周中さんを問い詰めるようにいう。
「わしの、仕事を失いたくないという気持ちが、あの連続事故を生み出したんだ。噂の連中がいうように、わしも共犯・・・同罪なんだ。それに、連中を生み出したのはわしじゃ。これ以上、犠牲はならん。あの校舎と暮らしていくのが、わしの欲が犯した罪の償いだと気づいたんじゃ」
「でも、どうして私たちのところへ戻ってきてはくれなかったの?」
「いけば噂が立つ。噂が立てば、人がまた痛くもない腹を探りだす。おまえたちに迷惑をかけたくなかったんだよ」
「でも・・・」
「行きたかったよ。行きたくて行きたくて、どれほど辛い思いをしたことか・・・じゃが、わしには噂の連中を監視する義務がある」
 松下先生は涙を浮かべながらコクリと納得したようにうなずいた。
「幸いなことに、だれもわしのことを昔の用務員だと気がついたものはいなかった。黒かった髪は真っ白になっちまっていたし、顔つきだって変わっちまった。それまで人づき合いが悪かったこともあるし、あの一件以来、関係者がすっかりいなくなっていた。わしは、また用務員になったというわけじゃ。妻の美里や息子の祐太、娘の美由紀のことも耳に入ってくる。祐太が東京の大学に入ったこと。美由紀は高校に入学したこと。妻が苦労の末に亡くなったこと・・・。おまえたちにも苦労をかけたよ。祐太は働きながら夜学に通ったことも後から聞いた。そのお陰で美由紀も学校に行けたこともな」
 松下先生が静かに頭を振った。
「しかし、悔しいのは息子の祐太がわしの目の前で死んでいったことだ!」
 周中さんは悔しそうに歯がみし、両拳をギュッと握りしめる。その拳が怒りに震えていた。


第十章 四月十一日(月曜日)深夜

    1

「偶然とは因果なものでなぁ・・・」周中さんが、過去に怯えながら話をはじめた。「建築科を出た祐太が、まさかこの学校の校舎の改築工事にやってくるとは・・・。懲りもせず持ち上がった新校舎建築プロジェクトで指名した設計事務所に、たまたま祐太が勤めておったんじゃなあ。喉元過ぎれば熱さ忘れるというてな。五年前の改築計画なんぞみんな忘れてしまっておった」
 呆れ果てたように吐き棄てる。
「祐太がどんな思いで学校を一〇数年ぶりで訪れたか・・・考えるだけでも恐ろしいもんじゃ。祐太が学校を懐かしいと思うはずがないからな。イジメられ、嬲られ、その上父親は市長や校長を呪い殺したと噂を立てられて、嫌な思い出しかあるもんか。なのに、祐太はまたやってきたんじゃ」
 周中さんの唇がてらてらと唾液で光りはじめていた。
「・・・わしは、はじめはただの建設屋だと思っていたんじゃ。だがな、面立ちが昔の祐太そのものなんじゃ。測量用の長い棒をもって校庭を歩いておった。暫く前から雲行きが怪しくなっていたんだが・・・空がゴロゴロいいはじめたときは、まだ大変なことになるなんて思ってもみなかったよ。あれは祐太じゃ。そう気がついたときも、懐かしさが先でなあ。でも、噂の連中のことがフッて頭を過ぎったんだ。校舎を壊そうとするやつは、事故に遭ったり死んだりしている・・・。祐太も、危険に足を踏み入れているんだ」
 目頭を押さえながら、周中さんは鼻水の垂れるのも構わず話しつづけた。
「近寄っちゃいかん! わしは怒鳴りながら祐太に近づいて行った。この校舎に手を出したらいかん! そっとしておくんだ! 触れてはなん! とな」
 周中さんのタオル地のハンカチは、絞れば洗面器がいっぱいになるんじゃないかと思えるほど涙を吸っていた。
「だが、祐太はキョトンとしたままわしを見ていた。顔かたちも変わってしまった老人が、近づくな、といったところで、説得力なんかありゃせんさ。ドーンという音がして、気がついたとき祐太は校庭の隅で落雷を受けて黒い塊になっていたよ・・・。気がつくのがもう少し早ければ・・・」 あとは言葉にならない。突っ伏して泣き声の周中さんに、アネゴがどこからかタオルをもってきて差し延べた。
「私、父さんのことが憎かった」松下先生がつぶやくようにいった。「母さんや兄さんを置いてどこかへ逃げた父さんが、たまらなく憎かった。だから、調べたの。図書館で当時の新聞も見たわ。でも、あの事故は妙だと思った。だから、この街に戻っていろいろと話を聞いたわ、噂話を研究しているっていう名目でね。そしたら、いろんな噂が組み紐みたいに絡み合ってた。それで、この学校で自分の目で確かめたかったの」
 周中さんが涙を堪えながら松下先生を見る。すべてを語り終えた周中さんは、慈しみの目で先生を見る。
「・・・お、おじいちゃん・・・」
 血縁の謎を知らされたアネゴは、まだすべてを振っ切れずに呆然としたままだ。
「今度の一連の出来事も、あの校舎が改築されることへの、校舎っていうか、噂の連中の必死の抵抗っていうか、反逆っていうか、そういうことですか?」
「ああ。あいつは魔物だ。人の心に住み着く怨念のようなものだ」
 ぼくの問いに、周中さんは訥々と応える。
「松下先生も同じことをいってました」見ると、松下先生が下唇を噛みしめながら頷いた。「あの校舎が丹野先生や水島や井筒、海野を生贄にしてるって。なんの権利があってそんなことをするんだ、そのうち朽ち果てる運命なのに、なぜ生き長らえようとするのか? 死臭を詰め込みながら噂にまみれて風化するまで立ってるつもりか、って・・・そう、叫んでました、さっき・・・」
 「そうか」周中さんは松下先生に目をやった。「これ以上、犠牲は出せん。わしは、わしは、この手であの校舎を・・・!」
 周中さんは弾けるように飛び上がった。老人とは思えない俊敏さでドアへと駆ける。
「父さん!」
 松下先生が止めようと追いすがる。ぼくも周中さんの背中を追いかけた。それを振り払って、周中さんは慌ただしくマンションを出ていった。
 そのときを待っていたかのように、部屋全体に明りが戻った。
「お父さんが大変なことになっちゃう!」
 松下先生が叫ぶ。
「大変なことって?」
「殺されちゃうわ!」
「まさか!」
「父は噂の連中と戦いに行ったのよ。校舎を壊そうとする敵を排除している連中を・・・。父は噂の連中がじぶんの願いを聞き届けてくれたんだと錯覚しているわ。でも、そんなんじゃない。噂の連中はじぶんたちを守ろうとしているだけだわ。でも、校舎にも寿命があることに気がついたんだわ。だから、また新しい噂をつくるために嵐を呼んだのよ。どうせ壊されるなら、自分たちの手で壊そうって・・・」
 松下先生は、両手で顔を覆い、その手で髪を後ろ手に纏めて縛り上げようとしていた。
「どうしたらいいの? どうすればいいんですか? ねえ先生!」
 アネゴが縋るように問い詰めた。
「わたし、父さんの後を追う!」
 弾けるように松下先生は玄関に向かった。ドアをちょっと開けると、ドアが風で弾けるように開いて壁に叩きつけられた。
 霧雨を伴った強風が、室内に雪崩れ込む。紙片や置物が散乱したが、意にも介さず先生はスニーカーに履き替え、階段を飛ぶように降りた。
「待って! 先生! 待ってください! ぼくも行きます!」
 ぼくは強風に足をすくわれながら先生の後を追った。
「タッちゃん! タッちゃんったら! あたし、どうすればいいの?」
 アネゴの戸惑いの声が、背後で風にかき消されていくのが分かった。

    2

 風は細かな雨をともなって、横殴りに頬を打った。周中さんのクルマはすでになく、前方に懸命に走っていく松下先生の後ろ姿が見えた。辺りでは薙ぎ倒された街路樹がみじめな姿を晒し、段ボール箱や新聞紙が宙を舞っている。
 時計の針はすでに九時を回っている。ぼくは公衆電話から家に電話した。
「どこでなにしてるの? 早く帰ってらっしゃい。台風がすぐ近くまできてるのよ!!」
 受話器の向こうでオフクロが凄まじい剣幕で怒鳴っていた。細々と説明している暇はない。これから学校へ行くというと、
「なんであんたまで。さっき父さんが出かけていったばかりよ」
 とんでもないことをいいだした。
「どうしてこんな夜中に?」
「地盤を確かめにいくとかいってたわ。危ないからよしてっていったのに・・・」
「まいったな・・・」
 校舎の魔力がオヤジを呼び寄せたに違いない。祐太と同じように、オヤジも噂の連中に殺されてしまう! ぼくは受話器を放り投げるようにして学校へと向かった。
 風と雨とで 目を開けているのがやっとだった。
 正門をくぐるとき、松下先生が正面のポーチから校舎の中に入っていく姿がかすかに見えた。玄関ドアが開き放しだから、周中さんもそこから入ったのだろう。ぼくは土足で校舎に足を踏み入れた。
 グチュグチュとスニーカーが水浸しで重い。ここはまだ停電が回復していないせいか、一寸先は闇だ。巨大な生物の胃袋の中を歩いているような錯覚を覚えた。
 風雨の音が渦巻くように校舎を舐めている。それは唸りのように低く、振動のように感じられた。音が耳の底に沈んでしまって、静まり返っているみたいに思える。古びた校舎だが、明治生まれらしく重厚で頑丈にできているらしい。窓ガラスを雨戸が覆っているから、雨粒がガラスを叩く音もない。
 グチュッ・・・ミシッ・・・グチュッ・・・ミシッ・・・
 水浸しのスニーカーと廊下が軋む音が交互にした。
 闇の中を壁に手を添え、ゆっくりと歩く。 玄関ホールから左に曲がり、突き当たりを右手に曲がって二階への階段を足でまさぐった。一段一段ステップを確認しながらゆっくりと昇る。左手に磨り減った手摺の冷たい感触があった。
 踊り場で半回転して、さらに階段を上がる。 左手が廊下になっているはずだ。手前から「音楽室」「家庭科室」「技術家庭室」「社会科資料室」「理科実験室」・・・。しかし、人の気配がない。右側の教室の窓枠をたよりに歩きはじめた途端、
 バタバタバタという派手な音とともに光が明滅した。
 ガチャン!
 雨戸が風で剥ぎ取られ、ガラスが割れて廊下に散乱した。雨を伴った風が強烈に吹き込んでくる。気違いじみた有様だ。
 窓から見える雲の中に稲光が見えた。廊下が一瞬蒼白く浮かび上がり、窓枠の影が廊下にいくつもの十字架を描き出した。
 ピアノの音がした。
 音楽室のピアノに人影・・・。鍵盤の上を細く長い指が泳いでいく。ショパンの「月光」。松下先生か? まさか。やけに田舎臭い衣裳だ。あれはモンペか? 背筋を氷柱が貫いた。防空頭巾。肩から水筒。冷凍室にいる気分だ。歯がかみ合わない。古い飛行服の男が聞き入っている。あれって・・・。
 亡霊。手が震え、音楽室の窓枠に触れた。触れた指が、窓枠を押した。ガタリ、とひどい音が響いた。男が振り向く。
 閃光で全身が浮かび上がった。白い顔。異様に大きい目。目が黒い。黒いのは穴? 歯がむき出しだ。骸骨。
「わっ!」
 弾けるように窓から離れた。背中が窓枠に激突した。その反動で今度は前につんのめった。痛さみ感じない。腰に力が入らない。鼓動が早鐘のように鳴っている。心臓が喉から飛び出しそうだ。なんとか立ち上がって逃げ出そうとする。膝がまっすぐにならない。筋肉が溶けたみたいだ。心だけが逃げ出そうとしている。
 廊下の腰板に手をあてがって、なんとか立ち上がろうとした。
「しっかりして!」
 松下先生の声が頭上から聞こえた。
「先生!」
 ぼくは夢中で手をまさぐる。雨に濡れた冷たい手の感触がつたわってきた。ギュッと握り返す。引き上げてくれる先生。先生! 先生! 助けて! 腰に力を入れる。一気に立ち上がる。先生の目が、やさしく笑っている。
「どうしたの?」
「どうしたのって。ぼ、亡霊が・・・そ、そこに!」
 声がうわずった。
「ほら、もう大丈夫」
 そういって先生の手がぼくの頬をやさしく撫でた。先生の温もりがつたわってくる。胸が熱くなる。先生の手を握り返した。濡れた手が温かい。雨水が、滴り落ちる。雨水が温かい。温かい? なぜ? 見る。指の先が無い。指の先が赤い。赤い血があふれ出す。松下先生じゃない! 指先のないた亡霊だ!
「ひぇっ!」
 ストン! と腰を落とし、廊下に仰向けに倒れた。天井が見えた。どす。どす。ボールが落ちてきた。ボールが、顔をめがけて落ちてきた。ボールが、肩口で転がっている。見る。ボールが笑った。目が、ぼくを射る。生首。生首が、ぼくを見ている。ぎゃ。天井がザワつく。生首が蠢いている。髪は乱舞し、蛇のようだ。幼い首。苦痛に歪む首。醜く崩れた首。首が、落ちてくる。どす。どす。どす。
 口が渇ききっていた。
 体を転がした。立って歩く気力がない。転がるのが精一杯だ。廊下を、丸太のように転がる。転がるぼくに、首が落ちる。どす。どす。どす。血と体液と腐敗物が入り交じった廊下のぬめぬめの中を、転がった。ガツッとぶつかるものがあった。両手で顔をかばいながら目を走らせる。骨格標本が覆い被さるように倒れ込んできた。肘で受けとめて払いのける。転がる。転がる。どすっ。何かにぶつかる。稲光が、廊下を照らし出す。床から素足が二本生えている。その一本の足は皮膚が剥がれ、筋肉が露出している。見上げる。露出しているのは、足だけでなく半身だった。
 正中線から左半分の皮を剥かれた人体模型がニヤリと笑った。両手で腹の蓋を取り外す。ぬるぬるどろどろ。腸がどろりとぼくの腕に絡みつく。押し戻そうとする手に、大きな塊が落ちてきた。濃茶色の肝臓がぷりぷりと生暖かくはずむ。湯気を立てる臓器を頭から浴びた。口中に酸っぱい胃液が満ちた。胃が、強烈な力で絞られる。視界がぼやけ、平衡感覚が消え失せた。目眩と失神の中に首まで漬かっていた。かろうじて、脳だけが恐怖の中にいた。
 胎内に宿しつづけてきた噂という噂。その噂が堰を切って現われた。
 恐怖の中でぼくは転がりつづけた。転がって転がって、奥の階段を転がり落ちた。痛さなどひとつも感じなかった。噂の呪縛から逃れたかったから・・・。

    3

「孝司! しっかりしろ!」
 オヤジの声がした。目を開ける。父がいた。本物か? 猜疑心が満ちる。顔が崩れて化け物になるかも知れない。見回す。臓物は消え去っている。オヤジか? その手が、ぼくの頬を叩こうとする。思わず顔をかばった。かばった手に、オヤジの手が当たる。
「どうした? 孝司」
 本物だ。オヤジの手がぼくの頬をなでる。温かい。人間の手だ。緊張が弛緩する。ホッとして肩の力が抜ける。オヤジの襟をつかむ。泣き出したい。オヤジの胸に顔を埋める。背中にオヤジの手が伸びる。ゆっくりと、慈しむように背がなでられる。庇護されている自分がいとおしい。いとおしくて涙が出る。しゃくりあげて泣いた。息が肺にもぐり込み、しゃっくりになった。
「父さん。怖いよ。怖くてたまらないよ」
 甘えた。こんなにオヤジに頼ったのは何年ぶりだろう。昔はよく手をつないで歩いた。寝るときも、怖くて手をつないで寝たものだ。逞しい腕が、手が、好きだった。うれしかった。そんな昔の思い出が、一気に蘇った。
「バケモンが一杯だよ、父さん」鳴き声でいった。「校舎に住んでる亡霊が、父さんを殺そうとしてるよ。ぼくも、殺されそうだよ!」
「なに?」
「校舎を壊そうとすると、学校の亡霊が刃向かってくる! 丹野先生も水島も鍋島も、みんな亡霊にやられたんだ! 海野や井筒も、つまらない詮索なんかしたからあんなことになったんだ!」
「そうか。そうなのか。やっと分かったか・・・じゃあ、もっと驚かせるか。ふふふ」
 オヤジの顔にひびが入る。ひびが割れ目となる。割れ目からどす黒い肉塊が盛り上がって広がる。顔がめくれるように反転した。筋肉が顔になった。人体模型。赤茶けた鳥のささみの顔が、笑った。
 ぼくは、ただ凍りついていた。
「手出しはするな」
 ツヤのある少年のような声が響いた。どこから? 空気が震えていた。
「ぼくたちの抵抗に手出しするな」
 校舎全体が震えている。空気が反響する。壁が、窓が、天井が、そして、床までもが反響した。
「手出しはするなするなするな・・・抵抗するなするなするな・・・」
 声が木霊した。
 人体模型が皮膚を剥かれた筋肉顔で笑う。笑いながら、座らない首を揺らせながら近づく。下顎が片方外れ、ぶらぶら揺れる。舌がだらりと垂れ下がる。まぶたのない目が、きろきろと動く。指先が、ぼくを求めて宙をまさぐった。両手が、ぼくの首に巻き付こうとして迫る。もうすぐ手が首に届く。届く・・・。
 ぼっ! 視野に炎が燃えた。炎は人体模型の腹から突き出た。火がねじれて浮く。火は棒の先で燃えていた。炎が人体模型の鼻先にあった。筋肉の顔が驚愕に歪む。歪んだ顔に炎が移った。炎が、皮膚のように人体模型を覆った。脂が燃えて、はぜた。じゅうじゅうと脂が滴り、首から腹へ、そして足下へたまる。たまった脂が、ぼっ! と燃えた。
 人体模型の輪郭が薄れ、消えた。
「逃げろ!」
 消えた化け物の背後で火のついた棒を突き出しているのは、周中さんだった。
「わしは校舎を焼き払う。早く出ろ!」
 悲痛な叫び声が、周中さんの顔を醜く歪ませていた。陰惨な視線で、ぼくを追い払おうとする。周中さんは本物か? 分からない。分からないが、逃げればいいのだ。ぼくは腰を落とし、後じさりした。玄関ホールに出た。鎖が一本千切れたシャンデリアが頭上が見えた。
 それを確認したかのように周中さんが、してやったり、の顔をした。途端に亡霊の顔に反転した。くそっ! こいつもか。
 亡霊が火のついた棒をシャンデリアめがけて投げた。
 炎のついた棒が残っていた鎖を吹き飛ばす。ガッシャッという音とともにシャンデリアが大きく傾いた。もう、一本の鎖ではその重みを支え切れないだろう。
 周中さんの勝ち誇った顔が見えた。高らかに、笑い声を上げている。
 金属の太いリングと、無数のランプがぼくの腹の上に落ちる。
 死ぬ、と思って目をつぶった。
 いや。ぼくには力がある。時を戻れる力がある。そうだ。ぼくは戻れるのだ。戻るんだ。
(戻れ!)
 ぼくは必死で念じた。時が戻るように。
 永遠の時が、渦を巻いてぼくを飲み込んだ。飲み込まれたぼくは引力から解放されて平衡を失った。上下も左右もなく、渦の中できらめく時の流れを見た。きらきらと光る時間の粒が、頬をなでて通り過ぎていった。手を伸ばす。時が、ぼくの手のひらに触れた。触れた時が、砂粒になってこぼれていった。
 目を開く。
 周中さんが狂喜に目を輝かせて火のついた棒をシャンデリアめがけて勢いよく投げつけようとしていた。時が戻った!
 後じさりしていたぼくは、逆に、周中さんに向かった。飛びかかるようにして方向を変えた。背後でシャンデリアが床に激突する轟音がした。一瞬のタイミングだ。
 飛びついたはずの周中さんは、消えていた。ぼくは、腰を落として周囲をうかがう。散乱した埃とガラス片が、視界を遮っている。ガラス片がぱらぱらと降る。白煙が次第に薄まる。そこに、人影があった。
 少年。
 小柄。単発。詰め襟の制服。坊ちゃん刈り。深海の底から運びあげたような声でいった。
「君には、ぼくが見えるんだね」
 抑揚のない淡々とした口調。
「・・・おまえは?」
「ぼくかい。ぼくは祐太だよ」
 祐太だと?
「危なかったね。もうちょっとで大怪我だ。でも、魔子はイタズラのつもりだったんだろうけどね」
 ぼくに一瞥すると、そのままホールから廊下へと足を進めていく。その後ろ姿をぼくは神経を集中させて追う。そのぼくの頭は混乱の極みに達していた。

    4

「魔子・・・出ておいで」
 祐太は華奢なカラダで周囲を見回していた。右手の廊下から、白いセーラー服の少女が現れた。初登校の日に出会った少女だ。そして、なにかあるたびに影のように現れていた。
 マコ・・・。魔子というのか?
「イタズラばっかりしちゃダメじゃないか。みんなが迷惑してるよ」
「殺すまではしてないよ」
 魔子が肩を竦め、いたずらっぽく舌を出す。
「許容範囲を越えてるよ。いくらなんでも、怪我までさせちゃいけない」
 祐太が戒めるようにいう。
「でも、ちょっとぐらい・・・」
 魔子は不満化に洩らす。
「ぼくらは恐怖心をかきたてるのが仕事だよ。それ以上は介入しちゃいけないんだ」
 ピシッと諫められて魔子がしゅんとなる。それを
「久し振りに帰ってくると、これだもんな。トイレの中に閉じ籠ってばかりいるのが嫌になって旅に出たけど、いつのまにか日本中どこでもトイレの噂でもちきりになっちゃった。やれやれ」
「祐太がそんなふうだから、ここの学校のトイレの噂は効果なしよ。この間だって、あのトイレでバカな生徒が寝込んじゃったんだから。まったく」
 魔子が呆れたようにいう。
 水島がトイレで脅されたとき猪股が個室で眠りこけたのは、祐太があのときトイレにいなかったからだというのか・・・? もし祐太が中にいたら、どうなっていたんだろう?
「それに・・・あの子」
 魔子がぼくを指差した。
「あの子が来たせいで、焦っちゃったわ」
 興味深げに祐太がぼくを見る。
「ぼくたちが見えるみたいだね」
「そうよ。わたしたちが見えるのよ! 焦っちゃったわ」
「でもだからって、いまみたいな手荒なことしていいっていう理由にはならないよ」
「ちょっと脅しただけじゃない。だってこいつのオヤジ、あたしたちの校舎を壊しにきてるんだよ」
「みたいだね」
 祐太の目に凄味がこもった。
「き、きみたちって・・・いったい・・・」
 ぼくは動揺を隠せなかった。
 祐太はもったいぶったように人差し指で鼻の頭をかくと、手品師が自慢化にネタをばらすときのような笑みを浮かべた。
「ぼくたちは、噂だよ」
「噂?」
 戸惑っていた。だれかに噂されているその張本人とかいう意味なのか? 
「そうじゃないよ。ぼくたちは噂そのものさ。きみや、きみの友だちがしている噂話の中に生きている」
 ぼくの心を察したように説明してくれる。でも、ぼくの混乱は増すばかりだった。
「存在していないけど、存在するモノっていうのかな。本来は姿、カタチがあるわけじゃない。きみたちの想像の産物さ」
 想像の産物?
「そう。きみはいま、みんなが描いている想像の世界に足を踏み入れているんだよ」
 困ったな、という表情で祐太がぼくを見た。
「きみはフツーの子と違って時間を無視して動いたりできるみたいだね。そのせいで、想像力の世界に紛れ込んじゃったみたいだ」
 どうやらぼくが予知夢を見られることと無関係ではないらしい。予知夢はいわばタイムワープみたいなものだ。未来を体験して、現実にまた舞い戻ってくる。その、ぼくの妙な能力が、噂でしかない二人を実像として感知してしまうのか?
「ま、そんなようなところかな」
 ぼくの心を読んだかのように祐太がいった。
「オヤジはどうなったんだ? 殺したのか? あの、松井祐太のように!」
 心配になってぼくは怒鳴った。
 祐太は困ったような顔になる。
「松井祐太の感電死は、事故よ。残念だけどね」魔子が素っ気なくいう。「わたしたちには直接、人を殺せる力なんかないもん。できるのはただぁ・・・恐怖心を煽り立てることぐらいかな」
 舌なめずりした魔子の緋色の下唇が、てらりと光を反射させる。獲物を仕留めた獣のような輝きだった。
「そのあとのことは、みんな人間たちが勝手にやっていることよ。もともと松井祐太も今日みたいな雷雨の日に校庭をウロウロしなきゃ落雷に撃たれることなんかなかったの。だってわたしが流したのは、この学校の地盤が弱い、っていう噂だけだもの。雨の日に地盤がどうなるかって調べたのは、松井祐太の勝手よ。それに・・・市長と建設業者が癒着して賄賂を貰っているっていう噂も流したわ。そしたら、あの市長ったら逮捕されるって目の前真っ暗になっちゃって、それで車道にふらふら出ていくもんだから轢かれちゃったってわけ。教育委員長には不正入試の噂を焚きつけてやったわ。ま、その噂はホントの話だったっていうことなんだけどね。ふふふ」
 責任については、知らぬ存ぜぬといった口調だ。
「じゃあオヤジは・・・」
「あなたのお父さんも、用務員のオジサンも松下先生も無事にどっかで寝てるわよ」
 魔子は無関心に言い捨てた。ぼくはホッとする。
「さっきあなたが見た霊たちも、きみの頭にこれまでインプットされていた情報が、恐怖心で現れただけのことよ。たあだ、それだけ」
 あれは、ぼくの想像の産物だっていうのか?
「懲りずに何度も何度も校舎を壊そうとした連中も、同じようなイメージを見たはずよ。わたしたちは、この校舎を壊そうとする人間たちを追い払おうとしているだけなのに、みんな喉もと過ぎると熱さ忘れて。すぐまた校舎の改築とか計画はじめるんだもん・・・。飽きれちゃうわ。そして、そのたびに教育関係者と業者が癒着して賄賂が罷り通る。あの覗きが専門のスケベな先生も相当やってたはずよ」
 丹野先生のことだ。
「きみのお父さん会社だって、同罪なのよ。知ってた?」
 初耳だ。
「もちろんきみのお父さんは知らない。つまり、お父さんの会社の偉い人が、この町の偉い人と・・・ね、わかるでしょ」
 戒めるようにいう。そういうこともあるのかもしれない。建設業者と地方自治体の首長とのつながり、談合・・・。ニュースでよく見る。
「偉い人は実際に建設するわけじゃないから。だから、現場を監督するきみのお父さんに、『地盤が弱いから・・・』ってこのあいだ囁いておいたのよ。松井祐太のときみたいにね」
 さあどうだ、といわんばかりに魔子が腕組みして顎をツンと突き出す。その横で祐太はニヤニヤ笑っているだけだ。
 魔子がつづける。
「でもねえ、校舎を長年さんざん利用しておいて、旧くなるとポイ! それって、人間のわがままだと思うわ、私」
 祐太はいちいちうなずいている。
「・・・でも」ぼくは反論した。「古いものは自然と壊れていく。そして、新しいものと交換されていくんだ。モノは人間に使われるためにある。なのに、人間に歯向かうなんて、そっちこそわがままじゃないか!」
 ぼくが言い返すと、魔子はちょっとムッとしたように唇を尖らせた。それを見て、祐太が口を開いた。
「魔子の言い分にももっともなところがある。校舎はもともと人間に作られて、使われるために生まれた。その意味じゃ道具だ」
「でも粗末に扱っていいって話はないわ」
 魔子が反発する。
「魔子。ぼくたちの底力を見せてやろうよ」
「どうしようっていうの?」
「もうすぐ台風がくる。かなり大きな台風だ。街は相当な被害を被るに違いない。だから・・・」 魔子がニンマリと唇の端をキュッと吊り上げるようにして笑みを浮かべ、うなずく。
「そうね。そういう手はあるわね。ビデオからバキューンって撃つ真似するよりは効果があるかもね」
 怪しい笑みをぼくに投げつけて、二人はフッ・・・と消滅した。やっぱり。ビデオの画面からぼくを狙っていたのは、彼女だった。
 すっかり埃が消え、ときどき暗闇に雷鳴だけが光りを届けていた。夢のような一時。亡霊たちは、どこに消えてしまったのか? それにしても。
 僕たちの底力。一体それはなにを意味しているんだろう?
 ぼくは身震いした。

    5

 台風は勢力を衰えさせることなくN市に接近してきていた。
 気圧は九〇〇ヘクトパスカルと前代未聞。風も五〇メートルは優に超していた。街は大変な騒ぎだったらしい。
 コンクリート護岸で固められていた玉藻川は、大雨に耐え切れず数ヵ所で決壊した。昔からの自然の水流は暗渠になっていたり埋められたりしていて、玉藻川が唯一の排出口になっていた。だから、街はほとんどが冠水し、かろうじて家々の屋根がのぞいていた。下水も玉藻川に流されていたから、流れ出した雨水は行く手を完全に見失ったていた。
 その上、川は大量の土砂を上流から運びこんできた。川底はますます浅くなり、雨水は氾濫する一方だった。
 加えて、土砂崩れだ。
 監督の家があった辺りはかつて樹木が生い茂り、大量の雨にも十分な保水能力をもっていた。樹木の根が地面に深く食い込み、絡み合って土をガッチリと支えていたのだ。しかし、樹木は伐採された。山は削られ、窪みには土砂が投げ込まれ、整地された。そして、一見立派な造成地となった。だが、それが砂上の楼閣であることが今度の台風で露見した。激しい雨が次第に地面を抉り、土砂はどろどろと溶け出して市街地へと流れ出した。地盤が緩んだ造成地は、流砂と同じだ。地面ではあっても液体と同じ。家々は土砂の流れとともに丘を滑り落ちていった。あるものは家の姿のままで。あるものは、半壊し、屋根や壁だけとなって。あるものは泥の中にずぶずぶと呑み込まれていった。監督の家も、他の建築と一緒に泥流とともにゆっくりと高台から市街地へと分解を繰り返しながら流出していったという。
 あの、膨大で貴重なビデオコレクションはすべて散逸し、ゴミとなった。かろうじて踏みとどまった家々も、その多くが傾き、半壊し、多くを風で吹き飛ばされ、惨めな姿を晒すことになった。とにかく、台地の造成地は、自然によって天誅を加えられたのだった。
 家々は汚泥とともに市街地に流れ込み、街は巨大なゴミ溜めと化した。
 風の被害も甚大だった。
 強風は新緑の新芽をひとつ残らず摘み取り、樹木を丸裸に近い状態にまでした。避難勧告は、街のあちこちに設置されているスピーカーから発令された。しかし、その多くは風に消し去られ、完全にはつたわらなかった。だか、市当局は、日頃から市は避難場所に市民会館とスポーツセンターを指定していたので、そちらで受入れ態勢を取っていた。ところが、どういうわけか一人の市民も市が指定した避難場所には現れなかった。
 市民たちが目指したのは、玉藻中学だった。
「あそこなら水がこないらしい」
「風にも強いらしい」
「あそこが一番安全らしい」
「市長までが避難しているらしい」
 そんな噂が市民の間に自然と広がって、明け方までに数千人を超す市民が集まった。避難民は体育館に収容し切れず、旧い明治時代に建設された木造校舎の教室にまであふれた。そんな中で押し寄せる市民をテキパキと捌いたのは、当直でもないのに学校にいた松下教諭と、周中用務員、そして、たまたま学校に来ていた深町真司という建築会社の社員と、その息子の孝司という少年、そして、松井章子という少女だった。
 彼らは避難してきた市民たちを校内に誘導し、適当な場所を指示するという作業を翌日の昼過ぎまで根気よくつづけた。市でもっとも被害が少ない箇所が玉藻中学だという事実を市当局が確認し、認め、他の市民にも避難を進め、市役所員がその作業を肩代わりしたのは、風雨が弱まった明け方のことだった。
 市が避難場所に指定していた市民会館とスポーツセンターは、濁流で浸水し、およそ使いものにならないくらいの被害を受けていた。

    6

「タッちゃん! ずいぶん手回しよく避難したじゃん」
 カッちんが深夜やってきて発した言葉がこれだ。少し離れた場所で場所の指示をしていたアネゴにもこの声が聞こえたと見えて、振り向いた。
「あれま、アネゴもかい。いつの間に二人で仕切りはじめたんだ?」
 ぼくは祐太と魔子のことは黙っていた。
「偶然だよ。ここなら大丈夫だろうって、そんな気がして学校へきたんだ。そしたら、ぞくぞくとみんなもやってきてさ。たまたま松下先生と用務員のオジサンもいて、だからさ」
「それはそれはご苦労さまで。でも、どうして松下先生がいるんだよ、こんな時間に?」
 鋭いところをついてくる。内角低めにもこのくらい鋭いボールが放れるとカッちんももう少し三振が取れるはずなんだけどな。
「残業でもしてたんだろ」
 ぼくはスッとぼけることに決めた。いちいち経過を説明していてはたまらない。だいいち、納得させることは不可能だ。それに、周中さんと松下先生の関係のこと・・・その過去、そして、ぼくのオヤジと松井のオヤジが同級生でその昔イジメたなんていう、干涸びた話題までご披露しなくちゃならなくなる。そんなことはゴメンだった。
 それはそうと、台風から一番安全な場所がこの中学校だという噂を流したのは魔子と祐太だ。
 二人がいっていた「ぼくたちの底力」っていうのは、このことだった。
 噂は、人に被害妄想や不安や疑念をかきたてもする。
 でも、人を救うことだってできるんだ、っていうことを魔子と祐太は示したんだ。そして、ぼくはその底力をこうやって使ってくれたことに感謝している。
 もちろん、校舎が十分に役立つことを示すためのデモンストレーションが本来の目的だったとしても・・・。

 ぼくは、疲れ切ったカラダを休めるために朝から昼過ぎまで体育館の片隅でそれこそ泥のように眠った。台風はその間に日本海に抜けて、急速にその勢力を衰えさせ、ただの温帯生低気圧になってらロシア領へと侵入していったらしい。まるで、我が街を痛めつけるために発生し、消滅していった台風のようだとだれもが後々まで語っていた。
 目覚めると、風雨が弱まった市街地へと坂を下っていき、膝上まで水につかりながら自宅のマンションへと足を運んだ。
 うちは四階建ての三階だから、床上浸水などの被害はなかった。でも、妹の未津樹がいうには「壁がぶるぶる震えて、ガラスが割れるんじゃないかと思うほど物凄い雨が降った」そうである。
 ぼくは部屋に入るとビデオカメラを持ち出して、充電してあるバッテリーパックと予備のテープを数本カメラバックに詰め込んですぐに街へと繰り出した。
 そこでしたことは、ドキュメンタリー映画の監督だ。ありとあらゆる破壊の爪痕を克明に記録し、惨状を脳裏に刻みつけようと思ったのだ。でも、それは撮りっぱなしのままで一度も再生されることなくいまも僕の部屋の本棚の一隅で静かに眠りつづけている。
 ぼくの興味が、Nファイターズのプレイヤーへと急速に傾いていってしまったからだ。惨劇を忘れるために、カラダを動かすことは随分と役に立った。

エピローグ

 春の新人戦に、ぼくはNファイターズの新人ショートとしてデビューすることになった。監督としてのオヤジの選択は間違っていなかったと思っているが、ぼくの加入でショートのリザーブに回されてしまった子には、正直いって同情する。
 ただ、ぼくよりも俊敏な動きと正確な投球ができるショートが現れたら、敬意をもってそのポジションを譲ることに、ぼくはいささかのためらいもないだろう。
 それが、勝つためのスポーツのあり方だと確信しているからだ。
 ところで、台風が通過したあとでオヤジに何気なく訊いたところ、あの日に学校へいったことは覚えているが、途中で眠くなってしまって、気がついたら人々がどんどん避難してくるので慌てた、としか記憶していないらしい。
 ぼくのことも、早めに避難したと錯覚していた。だから、それ以上はなにも話してはいない。それに、オフクロもぼくが学校へいく、といったことを避難したと勘違いしているらしく「どうして?」とは尋ねてこなかった。
 松下先生と周中さんは、さすがに過程を記憶していたが、学校へ入ってからのことは覚えていないらしい。つまり、魔子の存在も祐太の姿も、見ているのはぼくだけだというわけだ。
 噂の真相を知っているのは、ぼくだけだというのが、ちょっぴり自尊心をくすぐった。それに、オヤジは校舎の改築工事の件で学校当局をビックリさせるアイディアを持ち出した。つまり、旧校舎の外観をそのまま残し、内部の装飾や意匠もできるだけ保存しつつ、改築するという提案を投げかけたのだ。
 当初、学校や市は費用がかさむことと完成の姿が十分に想像できずに否定的な態度をとりつづけていたが、オヤジがつくった完成模型を見て考えを変えたようだった。
 鉄筋コンクリート六階建ての校舎は、どこにでもある学校のように矩形でなんの飾りもないものとは様相を異にしていた。優美な木造建築が校舎の二階までをやさしく包み込み、新旧が見事に融合したバランスの取れた建物だったからだ。
 こうした、旧校舎を保存しつつ改築することに、市民のほとんどが賛成した。自分たちの命を救うために一晩お世話になった建築がメモリアルとして残されることにだれの異論があろうか。そして、学校の管理者にはすんなりと周中さんが推挙され、治まることになった。それを最も喜んだのが松下先生であることはいうまでもない。

「カッちん! ゲッツー! ゲッツー!」
 ベンチからアネゴの声が飛んだ。
「わかってらい」
 顎に滴る汗をユニフォームの肩で拭うと、カッちんはベースのリードを確認しはじめた。二度ならず三度までダメを出す。血の気が多い割りに気が小さいカッちんは、勝負球の選択となると意外とナイーブだ。
 どれを投げても打たれる。そんな気がしているのだろう。
 ベースがタイムを要請してピッチャーズマウンドに駆け寄った。ぼくもカッちんの近くに走り寄った。
「どうしたんだい。負けるつもりか?」
 不満を顕にしてベースが詰問するようにいうと、カッちんは小さくこう洩らした。
「タッちゃんに決めてもらってくれ」
「なんだって?」」血相を変えてベースがいう。「ぼくのリードじゃ不満があるのか? おい、そういうのって、ヘンだぜ!」
 いたくプライドを傷つけられたらしく、ベースはぼくを目だけ動かして睨みつけると、カッちんに抗議した。ぼくの戸惑いだって、並じゃなかった。
「実は・・・」カッちんが肩を竦めた。「ゲームがはじまる前に、見たことがない女の子が寄ってきた」
「それがどうしたっていうんだ」
 ベースの怒りはまだ治まっていない。
「その娘が、困ったらタッちゃんに訊けって」
「なんだって? それでそれを信じたのか?」
「タッちゃんは霊感があるからって・・・」
 ベースは「マジかよ」というように顔をしかめると、ぼくをうさん臭そうに見た。
 ぼくに霊感があるってことを知ってる女の子っていえば・・・彼女しかいない。でも好きなときに予知夢が見られるっていうわけじゃないんだがな。
「そんな・・・ウソだよ、霊感だなんて・・・」
 ちょっと腰が引けた応え方をしてしまった。
「はじめは否定するだろうって、その娘がいってたよ。でね、そういったら、バックネット裏を見ろって言えってさ。そしたら、タッちゃんも気が変わるだろうってさ」
 カッちんがバッターの後ろのバックネット裏を見た。
「ほら。あそこ。あの、紺のブレザーの、髪の長い子・・・でもさ、どこで知り合ったんだ? あんな娘」
 カッちんがバックグラウンドを見ていった。そこにいたのは、妹の未津樹だった。
 その、未津樹のちょっと横に、ぼくには見えた。
 白いセーラー服にブルーのリボン。長い髪を風にまかせた魔子がいた。隣りに、詰め襟の祐太。
 噂の二人が白昼堂々と姿を晒している。
 魔子が未津樹のカラダを借りてカッちんに話したんだ。
 ぼくへのエールのつもりなんだろうか? 校舎を壊すことなく、改築したことへの、ぼくとオヤジへの挨拶なのだろうか? ぼくは、幻覚の中にいるような気分になった。
「ようし、タッちゃんにまかせる。あの娘なら、許そう」
 ベースの顔から不審の色が消えていた。
 そうさせたのは、魔子と祐太の見えない力なのかも知れない。カッちんが会ったのが妹の未津樹だってことは、あとで話せばいい。いや。連中のことだ。魔子が未津樹になってカッちんと会った記憶も、うまく消してくれることだろう。
 さて。未来を読むか。できるかな? 過去に戻るのはできたけれど、未来にいくのは、できるんだろうか? 
 よーし。やってみようか。
 ぼくは、全力で試してみようと思う。

「噂の祐太」 一九九三・一〇・十三 完
       一九九四・四・六 書替終
       一九九六・九・三 加筆訂正