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鞄の産地・豊岡の杞柳産業の歴史
柳行李兵庫県の豊岡盆地は昔から杞柳(きりゅう)の材料となる「コリヤナギ」が多く自生していた。行李を編む時に使用する麻糸は、但馬麻苧として全国に知られて多く生産されており、行李に使う縁竹も多くあった。杞柳材料が地元で容易に手に入った当地方は、冬季には積雪で農作業ができず、副業としての杞柳製品作りが盛んになった。
また、杞柳産業の発展には、京極藩の保護奨励によるところが大きい。
1668年、京極藩伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりとされている。その後、京極藩は三万石から一万五千石に減知となり、藩財政が困窮しその一助にと、1763年に「触書八ヶ条」を布告し、杞柳製品の専売をはかった。
取引の活発化に伴い、大阪問屋との間に軋轢が生じ、積極的に藩財政の立て直しを図るため、1822年に地元で骨柳問屋の設立を許し、上方筋への直売りを禁じて、柳行李の専売性を強化した、さらに、骨柳師に対して、縁かけ・藤引きなどの一切の杞柳製法の秘密保持、原材料jの移出禁止を行った。この方針はやがて1823年の産物会所設立に発展していった。
柳行李は、通気性・容量性・耐久性に優れており、生活の向上に伴い衣料などの保存容器としての実用性が高く評価された。さらに、交通手段の発達とともに、人の往来が頻繁となり、網掛けをすれば直ちに運搬道具ともなる柳行李の運搬性の利点が認められ、庶民的共感を呼び需要が増大していった。
明治には「行李鞄」として旅行鞄が生まれる。この鞄は3本の革バンド締めのトランクと外観は一緒であっが、名称としては「柳行李」と呼ばれていた。その後、バスケット型や錠前をつけた柳行李が出てきた。そしてこれが豊岡の鞄として最初に売り出したものといわれている。
その後時代の変化で素材が柳行李からファイバー、塩化ビニールなどに変わり、柳行李は鞄材料としてはマイナーなものになって行った。