言語が思考を規定する、という立場に立って考えた場合、かつて、読み書き能力が現在ほど一般化していなかった時代には、今、俺が物事を受け止め、処理し、排泄しているのとは全く異なる次元の思考方法があった、ということも考えられるのではないか、という話をした。
木が沢山生えているのを見て俺は「森」という漢字を思い浮かべるが、しかし、映像を一端文字にコンバートしないと理解できない俺に比べて、文字に頼らない思考法というものがあった場合にその思考法を用いる者が得る情報というのは、同じソースに由来してはいても、よりビビッドなものなのではないだろうか。文字という非常に曖昧なフィルターを掛けなければならないせいで、そうでない場合に比べて、得られる情報はどうしてもバイアスのかかったものになってしまっているように思えるのだ。
言葉というのは猛烈に曖昧で、だからこそ使っていて面白い、というか工夫のし甲斐もあるものなのだけれど、しかし、そういう曖昧なものを使わなくても良い思考の方法というものには、やはり強烈な憧れを感じる。もしかしたら、ほぼ完全な読み書き能力を有していてなおかつそれに頼り切らない思考をすることの出来る人も世の中には存在するかも知れないが、しかし、自分はそれとは全く逆に言語化しなければ何一つ考えられないタイプのようで、それだけに一層文字がなかった時期の思考法には大きな興味を覚えるのである。
『読み書き能力のイデオロギーを暴く』で、スタッキーは読み書き能力が必ずしも中立の技術ではないことを説くが、しかし、社会的階級を分ける「ふるい」としての読み書き能力という彼の考えとは別に、事象に対する鋭敏な感応力、という点において劣ることの証左としての読み書き能力、という考え方もまた一つ出来るのではないか、ということなどを考えたことである。そのような考えを前提にすれば、歴史における読み書き能力の効用という問題についてもホガース等とは少し違った場所が見えてくるような気がするのだが、その辺については全然勉強不足なので今後の俺の勉強に期待して行きたい。って言うか、自分が何について何を書きたいのか自分でも分からなくなってきたのでこれについてはこの辺で。とっぴんぱらりのぷう。