ある国の死の叫び



――扇動、虐殺、そして報復――

これは作り話ではありません
現代の、この星での出来事です





 アフリカ中央部に位置する国ルワンダ。この豊かな大地に、ツチ族とフツ族、そして少数のトワ族が1つの王国を築いていました。牧畜民族で少数派のツチ族が、農耕民族で多数派のフツ族を支配するという形でしたが、この当時、部族間の対立はほとんど表面化しませんでした。しかし、19世紀の末に、ドイツやベルギーによる植民地支配が始まると、支配する者とされる者の間に対立が広まり、部族同士の対立が次第に深まっていきました。
 1962年、ルワンダ独立と共にフツ族主導の政権が誕生。その時からフツ族とツチ族の間に流血の衝突が繰り返され、多くの難民が近隣諸国に逃れました。やがてツチ族の難民を主体に、ウガンダでルワンダ愛国戦線が結成されます。
 彼らは、1990年にルワンダ本国に侵攻を開始。本格的な内戦が始まりました。1993年、政府と愛国戦線の間に和平協定が成立しました。しかし翌94年の4月、飛行機が撃墜されて、フツ族の大統領が死亡したことで再び内戦が激化します。

 そして政府軍とフツ族の民兵組織は、ツチ族と反体制派の人々に対し組織的な虐殺を開始しました。


 このルワンダの悲劇を5ヶ月にわたって取材した一人の女性がいる。ベルギーのジャーナリスト、エルス・ド・タマルマンである。このドキュメンタリーは彼女の日記に基づいて作られている。




 ルワンダに朝が訪れた。でも深い霧に包まれたその風景は、まだ夢の続きを見ているようだ。
 そう、これから私が目にする悲劇が、ひとときの夢だったらどんなに良かったことだろう。



 私のジャーナリストとしての仕事は、この大虐殺を記録し、世界に伝えていくことだ。
 後になって人々に、私たちは知らなかったと言わせないために。



 1994年4月7日、ナイロビの病院で、厄介な寄生虫の治療を受けた。その最中に助手のユリウスから電話が飛び込んでくる。ルワンダとブルンジの大統領が暗殺されたというショッキングなニュース。タンザニアでの会議から帰る途中、飛行機ごと撃墜されたそうだ。ツチ族とフツ族の対立が激化することは間違い無い。
 ルワンダに大きな暴動が起きることだろう。



 4月10日、ようやくルワンダの首都、キガリに到着する。ここまで来るのは大変だった。空港が3日間閉鎖されていたので陸路ルワンダに入り、反政府軍のルワンダ愛国戦線と一緒に二日間を過ごした。
 既に国中で殺戮が始まっているらしい。空港は国外へと逃げ出す白人たちで一杯だった。ここでパスポートなどをひとまとめにして封をした。当分の間、この身分証明は隠しておかなくてはならない。ベルギー人だとわかれば私の命も危ないだろう。



 私たちのハビャリマナ大統領が暗殺された。反乱軍とベルギーの連中が手を組んでやったことだよ。絶対に許せない。ベルギー人は一人残らずこの国から追い出してやる、一人残らずね。



 4月7日、平和維持軍のベルギー兵士11名が、大統領の護衛隊に殺された。9日の朝、フランス軍が到着し、白人たちの国外脱出はピークを迎える。私は一番乗りしたフランス軍の車に同乗した。
 死体はあらゆる場所に転がっていた。ほとんど目的の見えない殺戮の跡、誰が敵で誰が味方なのか、戦っている彼ら自身にもよくわからないようだ。
 前の車にいた兵士が叫んだ。奴らは見境い無しに虐殺している。運転中の兵士がラジオのボリュームを上げた。美しいクラシック音楽が流れてくる。劇的で残酷なBGMだ。
 10代の少年が一人の女性を引きずってきた。彼女の顔に刀を突きつけドレスの端を掴んでいる。ほんの一瞬、私と彼女の目が合った。彼女は体を震わせながら不思議な表情で私を見つめた。
 昨日までは誰かの娘、誰かの恋人だった彼女も、ほんの数分後にはただの死体として道端に転がっている。



 植民地となる以前、ルワンダが王国だった頃には、人々はこの様に分裂してはいなかった。牧畜民のツチ族が農耕民のフツ族を支配していたが、今のような深刻な対立は存在しなかった。
 全てはヨーロッパの植民地支配から始まったはずだ。
 白人たちを脱出させるために、ベルギーの警備隊がンデラの病院に到着した。この病院はベルギーの慈善宗教団体が運営するものだ。白人だけでなくツチ族の人々もここに避難しようとしていた。



 ひどい目にあったよ。全部で5人いる、1人は女性だ。オランダ人が妻子と共にまだ残っている。



 3日間も銃撃を受け続けた。中は死体でいっぱいだ。けが人も大勢いる、およそ300人くらいだ。男も女も老人も・・・もうたくさんだ・・・。



 あとからあとからツチ族の避難民がやってくる。しかしとても全員は収容しきれない。警備隊の役目は、現地人ではなく、白人たちの安全を確保することだ。彼らは人々の哀願を退けるほか無い。



 4月17日、キガリ空港には腐乱死体の臭いが充満している。少数の宣教師と救援隊を除き、外国人は皆、国外に逃れた。ほとんどのジャーナリストもだ。まるで物語りはもう終わったかのように。ちがう、物語はこれから始まるはずだ。



 ナイロビに戻ったときにこの映像を見た。20人の女性の虐殺現場を、望遠で捉えた映像だ。どんなに凄惨な光景も、カメラのレンズは冷静に記録していく。でもカメラが捉えたのは、事実のほんの一部分。この様な虐殺は国中で行なわれていたはずだ。既に悲鳴が消えた後も、殺人者たちは執拗に刀を振るい続けた。



 4月23日、虐殺はまだ続いているにもかかわらず、国連軍の大部分がルワンダから撤退した。私はブルンジで国際赤十字の部隊に加わり、一緒にキガリに戻ることにした。
 危険は大きかったが、この虐殺の真相をどうしても知りたかった。ジャーナリストとして、そして1人の人間として。
 検問所に人影は無かった。ツチ族の人々はほとん国境を越えていない。越えようとするものを、ルワンダ軍が無差別に殺しているからだ。惨劇の跡があちこちに記されていた。国境を越えようとした人々のほとんどが、この様な最後を遂げた。国境を越えられたのは、ほんの数名のベルギー人宣教師だけだ。
 彼らの言葉が重く胸にのしかかる。世界の報道は間違っている。フツ族の急進派だけが殺人を犯しているわけではない。誰も彼もがお互いに殺しあっているんだ。世界は氷山の一角しか見ていない。現実は私たちの報道よりも遥かに悪いのだ。
 病院には重傷の人々が500人ほど収容されている。皆ツチ族ばかりで、その衣服は血に塗れていた。22歳の女性に話を聞いてみた。彼女の村では5000人の住民がほぼ皆殺しにされたらしい。彼女自身も刀で3箇所に傷を負ったが、死んだふりをしてやり過ごし、6日間かけて国境に辿りついたそうだ。
 彼女だけではない、ここにいるほとんどの人の体に刀による傷跡があった。彼らは口々に訴える。フツ族がやったんだ。小柄なフツ族は、大柄なツチ族を切り刻んで自分たちと同じ大きさにしようとしたんだ。
 平原は静寂に包まれていた。悲鳴も呻き声も、話し声も聞こえない。



 4月28日、愛国戦線が侵攻してくると、25万人のルワンダ人が国境を越えてタンザニアへと逃れた。その大部分はフツ族だ。彼らは、虐殺に対するツチ族の報復を恐れて国外へ避難したのだ。
 植民地時代、ベルギー政府はツチ族に権力を与えてフツ族を支配させた。しかし独立の機運が高まった頃、突然その地位を逆転させた。ベルギーが支援した1959年の革命によってフツ族が権力を握り、何万人ものツチ族が国外へと逃れた。そして今度はフツ族が国外へと逃れる番だ。
 私は抑えきれない疑問をフツ族の人々にぶつけてみた。なぜ彼らは刀を手にして同じ人間を切り刻んだりしたのだろう。返ってきたのはこんな答えだった。ツチ族が我々を挑発したんだ。1990年の反乱の時もそうだ。彼らは私たちの子供を殺した。そして今度は大統領を殺した。ツチ族は誰でも殺す。
 彼らには血も涙も無いし、権力だけを求めている。我々は自分の身を守るために、なすべき事をしたまでだ。



 このタンザニアの難民キャンプで、私はフツ族とツチ族の混血の少年に出会った。
「この中には虐殺に加わった人も沢山います。皆ツチ族の復讐を恐れてここに逃げてきているんです。」
彼は虐殺のリーダーを1人1人呼び差して言った。けっして悪魔のような形相はしていないごく普通の男たちだ。
「あの人たちが人を殺したのは、自分たちが殺されるのが怖かったからです。ラジオからは、殺せ殺せ、墓場をいっぱいにしろ、というアジテーションが繰り返し流されていました。」
少年の言葉には重要な鍵が含まれていた。
 ラジオだ、ラジオが人々を扇動していたのだ。



 5月18日、再びルワンダへと戻る。この戦いの勝利者はどうやら野犬らしい。犬たちは人気のなくなった町や村を自由に駆け回り、腐りかけた死体を引きずり出しては食いちぎっている。
 生き残った人々の話によると、大統領が殺された翌朝、役人たちがビラを配ってツチ族を殺すように呼びかけたそうだ。軍隊や急進派の部隊はもちろん、昨日までの友人が突然殺戮者に変わった。
 何千もの人々が教会などに逃げ込んだが、手榴弾を投げ込まれ、刀や銃で皆殺しにされた。男も女も、老人も子供も見境い無く殺されていた。死体は絶望と苦悶を表すかのように、不自然な形であちこちに転がっている。死の臭い、血と肉の腐る臭いだけが辺りに満ちていた。カメラマンは布で鼻と口を覆い、吐き気を堪えながら、死体に向けてシャッターを切った。



 こんな大虐殺がなぜ起きたのか。謎は次第に明らかになってきた。この事件には巧妙に仕組まれたシナリオがある。部族間の対立に終止符を打つため、ある組織が意図的にこの虐殺を扇動したに違いない。



 〜暫定政府閣僚 J・カンバンダ
「虐殺について、この暫定政府に責任を問うのは間違っています。虐殺が始まったのは4月6日、この暫定政府の樹立は4月9日です。6日の時点で行なわれた虐殺の責任は、反政府組織のルワンダ愛国戦線にあると思います。」



 僅か3日で成立した暫定政府のメンバーは皆フツ族側で、彼らは全ての責任をルワンダ愛国戦線に押しつけた。愛国戦線はもちろんこの暫定政府を拒否し、政府軍と交戦を続けると発表した。



 6月9日、ルワンダ北部にある、愛国戦線の支配地域を訪れた。彼らは1990年に内戦を始めて以来、この地域を守りつづけている。そして前線は徐々に首都のキガリへと近づきつつあった。
 ルワンダ愛国戦線はウガンダで作られた反政府ゲリラ組織だ。主なメンバーは、ツチ族を中心とした亡命ルワンダ人たち。彼らは、民主主義政府の樹立と亡命者たちの帰国受け入れを要求して、90年にルワンダ政府との戦いを始めた。3年後に和平協定が調印されたが、それに対してフツ族の急進派は強い不満を持っていた。それが今度の虐殺の背景にもなっているはずだ。



 〜ルワンダ愛国戦線隊長 リジンデ
「民族間の差別など、ばかげたことです。私にとってはツチ族もフツ族も関係ありません。皆、ルワンダという1つの国に住むルワンダ人です。今問題とすべきなのは、子供たちを飢えの苦しみから開放してやることです。それをツチ族やフツ族の問題としてではなく、国全体の問題として捉えたいんです。」



 愛国戦線の部隊は高い理想を掲げ、規律も良くとれている。彼らは決して無秩序な殺人集団などではない。だが兵士の中には、家族を虐殺されたという怨みから、許可無しに復讐を行なったりするものもいるらしい。



 このキャンプにはフツ族の市民たちが捕虜として捕らえられていた。
「あなたたちは殺すべき相手をどんな基準で選んでいたんですか?」
「お役所が決めたんだよ。どの地域にもリーダーがいて、殺すべき人間のリストを用意していたんだ。」
「自分たちの行なった行為に対してどう思いますか?」
「今考えれば、政府の思い通りに操られてたってことだね。俺たちは、反逆者に協力する者は全員殺せって指示を受けたんだ。愛国戦線が入ってきたとき奴らに味方する人間は、誰一人残しておくな、奴らを助けるような人間は一人残らず殺せって、そう言われたんだ。」



 愛国戦線の武装力はとても強大だ。しかしその武器の中には、外国からの支給品も数多く含まれている。自分たちは手を汚さず、武器の供給によってこの戦いを裏で操っている国々がいる。実際に血を流し、倒れていく兵士たちはそのことを知っているのだろうか?
 だが、このルワンダでもっとも恐ろしいのは、軍隊が持つ爆弾や機関銃ではない。何かに取り憑かれたように、一般の市民までが刀を振るい、同じ人間を切り刻む、その事実の方が遥かに恐ろしい。



 6月10日午前8時、多くのルワンダ人と同じように、私もラジオに耳を傾けていた。バレリー・ベメルクルの声が絶え間無く聞こえてくる。フツ族の急進派として知られる女性ジャーナリストだ。過激なアジテーションであることだけはすぐにわかった。1人の兵士が彼女の言葉を通訳してくれた。
「反乱軍は武器を捨てるべきだ。さもなければ、私たちが彼らを殺し、ツチ族を皆殺しにしてやる。」
 ベメルクルは人々の憎しみを煽り、いっそうの流血をまねこうとしていた。彼女はツチ族をゴキブリと呼び、その皆殺しをいつまでも訴え続けた。しかし彼女の言葉を待つまでも無く、フツ族の急進派は、以前から若者を中心とした民兵組織、インタラーメを作り上げていた。
 そのリーダーがロバート・クジュガだ。フットボールコーチの彼は、独特のカリスマ性を持っていて、若者の心を次々と捉えていった。3万人の若者が集まり、殺人部隊で訓練を受けた。
 大統領が死んで数時間後には、この殺人部隊は既に動き出していた。政府首脳部から渡されたリストに従い、国中で殺戮が開始された。自分たちが殺すだけではなく、一般の市民も扇動して虐殺に参加させた。男も女も子供も、あらゆる人間を殺しの共犯者に仕立て上げたのだ。



 ラジオが解放と呼ぶものの為に、多くの人間がゴキブリのように殺されていった。まるで、誰もかれもが集団催眠にかかっているかのようだ。巧妙に仕組まれた罠が、1つの国全体を巻き込み、血で染め上げていく。暴力を伴ったイデオロギーがアフリカの大地を地獄へと変えていく。



 大統領が死ぬ数ヶ月前、国連は既にフツ族急進派の不穏な動きを察知していたが、何も手を打とうとはしなかった。



 6月23日、多くの救助物資を携えてフランス軍がルワンダにやって来た。ルワンダ南西部に難民の安全地帯を作るという人道保護のための出兵だ。しかしフランスには、ハビャリマナ政権を支援してきた過去がある。1990年以来、彼らは政府軍に武器を供給し、軍事訓練を施してきた。その同じ兵舎でインタラーメも訓練を行なってきた。
 彼らはルワンダ人に武器を与えて殺し合いを促し、辛うじて生き残った人々に人道的保護を与える。フランスにとって大切なのは、中央アフリカにおける影響力だ。ルワンダ人1人1人の命ではない。
「やっと終わった!先週の木曜から、ルワンダの人間は皆同じ言葉を繰り返してるよ。ゴキブリはもういない、ゴキブリの大嫌いなフランス軍が来てくれたってね。」
 フランス軍は、住民からまるで救世主のように歓迎された。彼らは怪我人の手当てをする、生き残った人々を暴力から守る、その英雄的な働きはメディアを通じて世界中に伝えられた。
 自由、平等、博愛の精神を実践した国フランス。彼らの宣伝キャンペーンは大きな成功を収めたようだ。



 7月4日、ルワンダ愛国戦線が首都キガリをついに制圧した。兵士たちは叫ぶ。我々はもう反乱軍の兵士じゃない、政府軍の兵士なんだ。



 教会や難民キャンプに隠れていた生存者が、次々と姿をあらわしてくる。町は人々で溢れかえっていた。生きている喜びと、死者への悲しみが入り混じる。生き残った人々は家路を急ぐが、そこに出迎えてくれる家族が残っているとは限らない。



 そして1つの問題の解決は、新たな問題を生み出す原因にもなった。



 7月15日、ザイールのゴマにて。
 首都の陥落と共に、政府軍、インタラーメ、そして何十万ものフツ族市民が、西に向けて大移動を開始した。ある統計によれば、1時間に一万五千人、1分に250人という割合だ。
 まだ起こったわけでもない報復を恐れて、彼らはわき目も振らずに歩みつづける。恐怖と思いこみが何十万人という人々を動かしていた。傷ついた政府軍の兵士たちもその中に混じっている。彼らは国境でザイール兵に武器を取り上げられ、ルワンダに帰ることを無理やり誓わされていた。
 キャンプの生活条件は劣悪だ。救援の食料はなかなか届かず、土地が火山灰でできている為、穴を掘ってトイレを作ることすら難しい。すぐにコレラが蔓延していく。体力の弱ったものに取り付けば、数時間のうちにその命を奪ってしまうこともある。
 彼らを見ていると、同情と怒りが入り混じった複雑な思いを抱いてしまう。彼らはあまりにも従順すぎる。リーダーの言う事に従って刀に手を伸ばしたように、今度は素直に地獄へと付き従って行くつもりなのだろうか。



 飢えと死の恐怖がキャンプの秩序を乱していく。デマが飛び交い、あちこちで争いが始まる。ひとまず戦火が収まったことで、ジャーナリストたちも大勢集まってきた。ゴマで死んでいく人々の姿は、格好の特ダネになることだろう。
 世界はルワンダで起こった悲惨な出来事を理解し、ようやく救いの手を差し伸べようとしている。しかしこのとき既に、50万人から100万人もの人間が殺されていた。彼らは決して戻ってはこない。



 9月3日、ゴマからルワンダに戻った私は、国中を旅して回った。数えきれないほどの墓を見て、多くの人々から虐殺の真相を聞いた。町の秩序は次第に回復しつつある。しかし根本的な解決はまだ見出されてはいない。
 私はベルギーの慈善宗教団体が運営していたンデラの病院を再び訪ねてみた。病院は惨憺たる有様だった。国連軍が撤退した数時間後に、フツ族の急進派がここを襲ったのだ。
 救いを求める500人の患者とツチ族の避難民たち。ある者は拷問され、ある者はレイプされ、10日間かけて全員がここでゆっくりと切り刻まれていった。












夕日が落ちていく
虐殺で流された血のように辺りを赤く染めながら
子供たちの歌声が聞こえる
死者の魂を慰める歌だ
死者は今も生き続ける
ルワンダの大地に
生き残った人々の記憶の中に













H8/2/24
海外ドキュメンタリー ルワンダ
第2回  「扇動 虐殺そして報復」より







伽草子のカケラ