■ vol.1 「自発の楽しさと大切さ」(1999/9/26)
10年以上前に浪人会という集団の設立に関わり、以来、ずっと企画、実務を担当している。
浪人会は、何をする団体かと聞かれると、返答に困る。やりたいことがあれば、やれる範囲で、やる気
のある者が何でもやる団体なのだ。スポットの企画も多々あるが、月1回の会報発行が活動のベースとなってい
る。
この浪人会に関わるようになり、何よりも"自分からやることの楽しさ"を実感できたと思っている。
設立当初から関わると、"自発的"ということを身をもって実感する。浪人会という存在は、自分たち
が作らない限りないのだから、自然、"自発的"になるのも道理だ。
以後、この"自発"の楽しさにはまり、十数年間、ずっと関わることになる。
"自発"の楽しさとは、一言で言えば、「自らイメージを描くことの楽しさ」と言ってもいい。いろん
な角度から、さまざまなイメージが次から次から涌いてくる。しかもイメージはだんだん精緻になってくる。イ
メージが"濃い"から、そのことについて話せと言われれば、一晩中でも話ができる。一方、"他
人から言われて"取り組んだものというのは、イメージが"薄い"。それについて、一晩中話をし
ろ、と言われたら、きっとつらいことだろう。10分ももたないかもしれない。
浪人会で、この「イメージを描くことの楽しさ」を実感したことは新鮮な体験だった。寝ても覚めても浪人会
のことを考えている自分が不思議だった。正直言って、当時、仕事では上司からの指示に従い、上司が気に入
るような仕事をしていたように思う。いつも閉塞感があった。にも関わらず、自分では、自ら取り組んでいる
ように思い込もうともしていた。でも、浪人会のことを考えているワクワクした感覚は仕事では得られない。
いったい、どうしてなのか。当時は、そんなことで悩んでいた。
実は、これは必然的な結果でもある、と今なら言える。
浪人会は、"自発的"に取り組んでいるものだ。誰から言われたわけでもないのに、徹夜して作業を
したり、資金の工面をしたりする。実はしんどいことだらけなのである。愚痴を言いたくても、「おまえが好
きでやってることやろ」と言われたら、何も言い返す言葉がない。そう、嫌ならやめればいいのだ。そんな選
択の岐路に立たされるたびに、「おれは何のためにこんなしんどいことやっとるんやろ」と自問することにな
る。そのたびに浪人会でやっていることの意味を考えることになる。そして、そのたびに新しい意味を見出す。
そんな作業を10年以上も続けてきたと言ってもいい。イメージが"濃い"のは、、"自発的"に
取り組むと、そういう自問自答の作業をせざるを得ないからでもある。"自発"には、やるかやらな
いかという選択はあっても、言い訳や愚痴という逃げのオプションはないのである。
一方、当時、上司から言われた仕事に取り組んでいたぼくには、言い訳や愚痴というオプションはあっても、
断るというオプションはなかった。「そんな仕事はやりたくない」と言えば、「おまえにはもう頼まん」となる。
断れないのだ。断れないからやるしかない。やるかやらないかという選択ができないので、自問することもなけ
れば、自分なりの意味や意義を見出すこともない。イメージが"薄い"のも当然のことなのだ。もちろ
ん、いい加減に仕事をしていたわけではない。言われた仕事をやる、ということについては、絶大な責任感はあ
った。だから同時に閉塞感にも苛まれていたわけだ。この閉塞感から逃れるためには、"自発"という
世界に飛び込む以外にないこともほどなく知る。
遅まきながら、この"自発"の楽しさと大切さを実感したぼくは、極力、自らの意思を大切にするよう
になった。仕事はもちろんのこと、町内の行事、子供が通う幼稚園の行事、友人との飲み会など、自分に関わる
ほとんどすべてのことに「やるのか、やらんのか」と自分に問いかけるようになった。
この"自発"の楽しさと大切さを、より多くの人に実感してもらいたいと、浪人会コミュニケーショ
ン・ラボというフィールドを、これまた"自発"の楽しさと大切さを実感している仲間とともに作っ
た。このフィールドから新しい現実を作っていきたいと思っている。
(三浦伸也)
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