■ vol.3 「人の顔色を見るのは悪いこと?」(1999/11/23)
"人の顔色など見ず、自分の思った通りに生きる" そんなことに憧れていた。生き方などという高
尚なものではなく、"豪胆"という言葉が持つイメージに憧れていたのだ。
事実、学生時代の友人たちの何人かは、ぼくに"豪胆"というイメージを抱いてくれていた。ぼく
自身もそんな自分を演出していたところがある。
学ランでのし歩いたのも、雪駄で学校に通っていたのも、町のチンピラとケンカをしたのも、朝
からコップ酒をあおったのも…、今にして思えば、豪胆なイメージを演じるためのものであった
のかもしれない。
笑い話がある。
先日、学生時代の後輩と久しぶりに会った。当時、ぼくの見えないところで、ぼくにまつわる替え
歌が後輩たちの間で歌われていたという。『想像できないもの』と題して、「三浦先輩の結婚生
活」「三浦先輩のサラリーマン生活」「三浦先輩の七三分け」等など、節をつけて歌ってくれた。
聞き終えたぼくは、「今は、全部あてはまっとるやないか」と大笑いした。
なぜ、そんな豪胆な自分を演じていたのか。
実は、ぼくが人の顔色を見るタイプの人間だからである。世間一般では、人の顔色をうかがうこ
とは、卑しいというイメージがある。そんな自分は認めたくないがために、対極にある豪胆な自
分を演じていたのだと思う。もちろん、意識的にそうしていたわけではないが、今、振り替える
と、当時の自分の無意識を意識化できる。
37年間も生きていると、だんだん身の丈の自分が見えてくる。人の顔色を見ている自分を自覚し
た時は、何とも複雑な気持ちだった。
でも、今は、人の顔色を見ることができる自分でよかった、と思っている。
たとえば、前回のレポートで書いた"掛け算チーム"のマネージメントをする場合、メンバーそれ
ぞれの顔色を見ながらでないとできっこない。仕事でも交渉相手の顔色を見て話を進めないと、
いい結果は得られない。友達づきあいでも、近所づきあいでも、相手の顔色を見ることは気遣い
にもつながる。
それだけではない。あらゆるところで、ぼくは人の顔色を見ている。
たとえば、車の運転をしていて、隣や後ろにいる車のドライバーの顔色をミラーで見る。イヤな
感じのするドライバーだと、遠ざかるようにしている。同乗している家族の命は、ドライバーで
あるぼくが一手に握っている。他のドライバーの顔色を見ることは、命を守るためのひとつの方
法だと思っている。
また、かつて少林寺拳法の指導に携わっていた時、100人や200人の受講生を教える場合があるの
だが、ぼくは指導が始まる前に会場に言って、受講生の顔色を見ていた。おおよそ雰囲気はこれ
でつかめる。指導の流れについて、この時に受講生の顔色を見ながら組み立てるのである。
あるいは、武道では、"気配を察する"などという。これなども人の顔色を見ることにつながる。
つまり、人の顔色を見るとは、コミュニケーション技術のひとつなのである。
ここまで書くと、ぼくの性格を正当化しているようにも受け取れるが、そういう部分も多分にあ
るにはある。が、それだけではないことの弁解の例をひとつ。
現・ラグビー日本代表チームの平尾監督は、現役時代、プレー中に相手選手の表情をよく見てい
たという。彼のすばらしいプレーの数々は、高等なスキルそのものよりも、卓越したコミュニケ
ーション能力によるところが多分にあると思われる。
以上、虎の威を借る狐であった。
一般的に、外国人などからは、日本人の阿吽の呼吸が理解し難いとか、顔色を見ながら話して気
持ち悪いというように見られていると聞く。とかくネガティブな表現として使われる場合が多い。
ぼくに言わせればとんでもないことだ。人の顔色を見ることは、日本人の優れたコミュニケーシ
ョン能力なのだ。阿吽の呼吸など、その最たるものである。
恥ずべきことは、人の顔色を見ることではなく、自分の考えを持たぬことである。
自分の考えを明確に持っていない人とは、外国人に限らず、コミュニケーションがとりづらい気
持ちは理解できる。そのことと、人の顔色を見ることは、まったく別物である。
繰り返し言う。
人の顔色を見るのは、コミュニケーション技術のひとつである。
恥ずべきことは、人の顔色を見ることではなく、自分の考えを持たぬことだ。
今のぼくは、"豪胆"なイメージとはほど遠い。演じようとも思わない。
人の顔色を見る自分で十分だ。
(三浦伸也)
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