vol.4 「サンタは名伯楽」(1999/12/13)

クリスマスの季節だ。幼稚園に通う子供たちのクラスでは、お母さん方が中心となってクリスマス 会を開く。クラスによって、趣向は様々でおもしろい。いずれのクラスもお母さん方の個性が反映 されている。
ぼくは、去年のこのクリスマス会で、自らトナカイ役をやった。それが好評で、今年は2クラスの かけもち出演となった。子供たちにも、お母さん方にも喜んでもらい、ドーランまで塗ってトナカ イに扮した甲斐があった。

ところが、会場で何となく違和感を感じた。お父さんの姿が見えないのだ。車で子供とお母さんを 会場まで送りにくるお父さんはいるのだが、すぐに帰ってしまい、あとは終了後に迎えに来るパタ ーンだ。
お母さん方に言わせると、「恥ずかしがって出てこない」「こういう行事に協力的ではない」など など。運動会の時にはたくさんのお父さん方が参加していたのだが…。

思うに、これはお父さん方に役割がないからではなかろうか。何の役割もなく、ただお母さんたち と子供たちを会場の後ろから見ているだけ、というのはさぞ居心地が悪かろう。だから、参加しな いのだと思う。

似たような光景を思い出した。
以前に中国に留学していたことがあるのだが、外国人留学生たちは何かとパーティを行う。アラブ の友人たちは、自国の建国記念日ともなれば、みんなでお金を出し合って盛大なパーティを開き、 他の留学生たちを招待する。
日本人留学生も招待されるのだが、こういうパーティに慣れていないのか、参加人数も少なく、参 加してもなかなか場がもたない。居心地が悪いので次から参加しなくなる。
ぼくもご多分に漏れず、見知らぬ連中と食事をしながら会話をするということには慣れていない。 で、名案を思いついた。ゲストとして招かれたのだが、ホスト側に回ってしまうのだ。パーティの 招待を受けたら、早い目に会場に行って準備を手伝い、パーティの最中は食事を取り分けたり、飲 み物を運んだり、立っているのが辛そうな人にはイスを勧めたり…。アラブ人の中に日本人がひと り混ざってテーブルとテーブルの間をこま鼠のように往来するのである。しばらくすると、いろん な人が声をかけてくれるようになる。
この方法で、ぼくは友人の輪がグッと広がった。

自分の役割があるということは、自分の居場所があるということだ。もちろん、相手に喜んでもら って初めて、その役割を担う意味を持つ。つまりは、必要とされるということ。
人に必要とされることほど、充足感を感じるものはないと思う。人は、本能的に人の役に立ちたが っているのだとも思う。

ところが、自分の何が相手に必要とされているのか、ということはなかなかわからないものだ。
ぼくは、昨年、思いつきでトナカイに扮したが、まさか今年もやるとは思ってもいなかった。 あるお母さんが、「あの人のトナカイは笑えるよ」「今回もやってくれるよう頼んでみたら」な どと口添えしてくれていたのだ。そういうお母さん方が、ぼくの役割を見出してくれたわけであ る。
中国留学時代のアラブの友人たちもそうだ。パーティーのホスト側に回ったぼくに、「ゲストに そんなことをしてもらったら困る」と言わずに、「助かるよ。ついでにこれもあのテーブルに持 って行ってくれ」と、ぼくの役割を認めてくれたのだ。

つまりは、他人の特長を見抜き、それを活用する場を設定できる人が、人の世では欠かせないよ うな気がする。そういう意味では、"伯楽"の存在が、人を生かしも殺しもする。

子供たちが歌っている『赤鼻のトナカイ』という歌の歌詞を、初めてじっくり聞いた。

      真っ赤なお鼻の トナカイさんは
      いつもみんなの 笑い者 
      でもその年の クリスマスの日
      サンタのおじいさんは 言いました
      暗い夜道は ピカピカの
      おまえの鼻が 役に立つのさ
      いつも泣いてた トナカイさんは
      今宵こそはと 喜びました

サンタは間違いなく名伯楽だ。

(三浦伸也)

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