vol.9 「観る」(2000/04/04)

コミュニケーションというと、対話をしたり、スキンシップを図ったりというダイレクトな言動 を指す場合が多い。実は、これらのダイレクトな言動と並行して、「観る」という作業がコミュ ニケーションの重要な部分を占めているようにも思う。

何を「観る」のか。
ぼくの場合は、何気ない言葉尻や顔色、ちょっとした仕草を観る場合が多い。
例えば、お店の店員さんのちょとした言葉使い、注文のとりかた、お釣りの渡し方等についつい 目がいってしまう。
こんなちょっとしたことから、その店員さんの性格や仕事への取り組み方などをあれこれと想像 するのが、ぼくの習性となっている。

あるいは、仕事で部外の人と共同作業をする場合、仕事内容もさることながら、ぼくは別の部分 を観てしまう。スタッフが入れたお茶に対して、お礼を言うか当然のように飲むか。時間に遅れ た際に、先に謝るか言い訳をするか。自分の自慢話をするか、他人を褒めるか等々。
こんな、一見、仕事とは関係のないことを観ながら、どういう人なのかを探っている。

なぜ、こんなことを「観る」のか。実は、こんなちょっとした仕草にこそ、その人の本質が表れ ていると思うからである。そこに、その人の根っこがあると思うのだ。

といっても、ぼくは意識的に人を観ようとしているわけではない。元々、自分自身を観ることに 興味があり、その延長線上で、ついつい人も観てしまうのだ。
さて、ぼくは、自分の根っこがどこにあるのかということに、とても興味がある。
ところが、自分の何気ない言動というのは、意図的ではないので、リアルタイムで自身を観るこ とは難しい。だから、過去のことを振り返り、なぜ、あんなことをしたんだろう、なぜ、あんな ことを言ったんだろうと、自身を分析的に振り返る。場合によっては、自分の生い立ちや家族、 親戚関係まで遡り、自分の根っこを探ることもある。当然、今まで無意識の領域にあった自分の 醜い姿に愕然とすることもあるが、等身大の自分と出会うことの方がぼくにとっては価値がある。

例えば、ふと、自分自身に専門的技術の蓄積が何もないことに気づいたことがある。仕事や家事 を含め、ぼくはオールラウンドにそこそこできるのだが、どれにも特化していないのだ。
過去の自分を振り返ってみてもやはりそうだ。
かつて、北京に留学した際、1年足らずである程度の日常会話は話せるようになったが、さらに 中国語の勉強を深めるでもなく、そこそこで満足してしまう。
あるいは、高校時代、柔道部に所属し、練習に没頭していた。ある程度の成績は残したが、さら に上を目指そうという気持ちにはならなかった。
また、小学校4年生でギターを手に入れたぼくは、まったくの独学で修得し、おまけに作曲に挑 戦したりもした。でも、そこまでなのだ。
何事においても、そこそこはできるのだが、そこそこで満足してしまい、執着や執念というもの が非常に希薄なのである。

子供の頃に遡ってみるとおもしろいことがわかる。
ぼくは、子供の頃から、人を押しのけて前に出るタイプではなかった。競争ということが嫌いだ ったのだ。だからといって、教室の片隅で黙っているタイプでもない。友達も多く、リーダー的 な存在でもあったと思う。いじめられたこともなかった。家庭もごく一般的な感じだった。
要は、現状に満足し、のほほんと過ごしていたわけだ。現状に満足しているので、執着や執念と いうものが、この頃から希薄だったのだと思う。
子供の頃の満足した生活が、今のそこそこのぼくにつながっているのだろう。

ところが、こんなそこそこのぼくが、終始、興味を持ち続けている対象がある。「技術」ではな く「人との関係」だ。ちょっとしたことで親しくなったり、逆に憎しみを持つようになったり、 やる気を持ったり、なくしたり。表向きは何も変わっていないのに、内面では大きな変化がある 「人との関係」が、ぼくにとってはおもしろくて仕方がない。

なぜ、こんなことに興味をもっているのか。これまた、根っこは子供時代にある。
前述したように、回りの人たちから持ち上げられ、かわいがられていたぼくは、人を押しのけて 前に出る必要もなく、ことさら、好かれようとふるまう必要もなかった。
ただ、みんなにかわいがられる状況を維持するためには、嫌われることは避けたかった。
「人に嫌われたくない」。それがぼくの根っこなのだ。
ぼくにとって、周囲にいる"人"は、満足な環境を維持するために、否が応にも関心を持つべき対 象だったのだ。技術に執着がなく、人に興味があることは、こんな子供時代を振り返れば納得が いく。

さて、人に嫌われたくないぼくは、必要に迫られて人の顔色を見るのに聡くなった。おとなにな ってからもそんな自分が嫌だった。胸の中にはいつも不安があった。
で、ぼくは一時期、「人に嫌われてもいい」と思うように心掛けた。横山やすしのような傍若無 人な自分を演じようとしたこともあった。でも、無理がある。所詮、ぼくの根っこは「人に嫌わ れたくない」ことなのだ。
不思議なことに、そんな自分を受け入れると、実は「人に嫌われたくない」自分が嫌なのではな く、そのことで揺れる自分が嫌だったことに気がついた。これまた不思議なことに、そういうこ とに気がついた頃から、揺れない自分自身のテーマが見つかりつつあった。

ぼくの内面を語り過ぎた。
なぜ、こんなに根っこを観ることにこだわるのか。
どんなに人とうまくコミュニケーションをとろうと思っても、実は、無意識のうちに根っこ同士 でコミュニケーションをとっているのだと思う。この根っこ同士のコミュニケーションはごまか しようがないもののような気がする。つまり、自分の根っこを観る、人の根っこを観るというこ とは、自分や他人の存在を認めるうえで、とっても大事な作業のような気がするのだ。

この根っこ……
「見て」も見えないが、「観る」と観える。

(三浦伸也)

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