■ vol.25 「"…でなければ"なんて、誰が決めてん!」(2001/07/20)

「…でなければならない」。
ぼくの一番嫌いな言葉です。
「誰がそれを決めてん!」と言いたくなるんです。

こんなことがありました。
小学校には、親と先生との個人面談があります。
嫁はんは、面談があったその日は、決まってプンプンと怒っています。
小学校1年、2年と別々の先生に同じようなことを言われているのです。
「学力は問題ありません。友達もいるようです。ただ、元気がありません。あれで、楽しいんでしょうか?」
嫁はん曰く、「メイ(小2の娘)は、積極的に前に出ていくタイプではないけど、放課後はあれだけ友達と遊び呆けていて、どこが元気ないのん。
毎朝、嬉々として学校に行ってるのはなんやのん。
楽しいに決まってるやん。
参観日に見てたけど、確かにメイは手を挙げへん。
でも、その分、一所懸命、先生の話を聞いて理解しようとしている。
それのどこが悪いの」と、もうカンカンだ。

今まで、保育園の先生だけが、娘の特徴を理解してくれました。
1歳の頃の話です。
「新しい遊び道具が来ると、他の子たちは我先にと群がるけど、メイちゃんは人を押しのけていくタイプではありません。
その代わり、じっくりと観察しています。
観察して、自分なりに納得がいくと遊び始めます。
いったん、遊び始めると、ず〜っと遊んでいます。
あの集中力はすごいです」と。

世の中、こんなええ先生ばっかりとちがいます。
小学校の担任の先生は、「子供はハキハキとして、何にでも積極的な子」でなければならない、という思い込みがあるから、それ以外の態度はマイナスに見えてしまうんでしょうね。
教室中、ハキハキした子ばっかりやったら、気色悪いでっせ。

大きな組織にいると、この「…でなければならない」という考え方が、大手を振って歩いてますよね。
組織の大小に関わらず、いつの間にか、こういう考え方に浸っていることって、けっこうあると思うんです。
ぼくも、気がつかないところで、「…でなければならない」と思ってしまっていることって、多々あると思います。
先の担任の先生にしても、教師であるが故に、知らない間に"教師の常識"のようなもの縛られているように思います。
例えば、昨日、娘は通知表をもらってきたんですが、教科の評価以外にも、「外遊びを積極的にできる」「掃除がちゃんとできる」などという項目があり、○や△がついている。
掃除はともかく、外遊びをするかどうかは、好き嫌いの問題やろうと思うんですけどね。
遊び時間くらい、どこでどう遊ぼうが、子供の自由にさせたれよ、と思います。
評価項目にこういうのがあるから、知らん間に、何の疑いも持たず、「そうしなければいけない」と思い込んでしまうのでしょう。
これって、危険ですよ。
知らん間に、目に見えない力にコントロールされているようで。

ぼくのことを話します。
以前、ぼくは少林寺拳法の本部で働いていました。
12万人の現役拳士の中枢機関です。
どこかで、特別視されているという優越感があったと思います。
その優越感を守るために、気持ちのどこかで、本部職員でなければならない自分、があったようです。
そのために、いろいろな自分の気持ちを抑制していたようでもあります。
辞めてからそれに気がつきました。
辞めたら、自分が自分でしかないことにも気がついたんです。

そして、こういうことにも気がついたんです。
「社会って、何でもありの世界やなあ」ということに。
今、常識やと思っていることは、違う世界に行けば、非常識なことかもしれんし、あと数年たてば、常識でなくなることだってある、ということです。
「…でなければ」なんて思うこと自体、すごく不自然に思えたんです。

だったら、自分の興味に従って、自分が納得いくようにやったらええ、と思えるようにもなりました。
何よりも、自分の気持ちの中で、何か変やな、という違和感を、嗅ぎ分けられるようになったのは、ぼくにとって大収穫なんです。
それが嗅ぎ分けられると、自分の心と会話ができますからね。
心と会話をすると、自分が心底そう思っているか、意識的に思い込もうとしているのかがわかります。

「…でなければならない」なんて、誰かが作った見えないロープを、自分で自分の体に巻きつけているようなもの。
もっと、自分の心を信じてあげよう。
そうすれば、毎日が楽しいはずや。


(三浦伸也)

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