■ vol.38 「授かる」(2002/10/3) | |
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アキちゃんという親友がいます。 彼と話をしていると、いくつかのキーワードに出くわすんです。 そのうちのひとつが「授かる」。 アキちゃんは、自分のことをこう言います。 「おれは、じいちゃんやおやじから、これこれこういうものを授かってる」 仲間に対しても、こう言います。 「あんたは、親から人を思いやるということを授かってるんやろうな」 ぼくには、こう聞きます。 「しんちゃんは、親から何を授かったと思う?」 ぼくは、こう答えました。 「おやじからは、自分自身にはウソをつかん力を授かってると思う」と。 オカンから授かったこともあるけど、紙面の余裕がないので、これはまたの機会で。 ぼくは、おやじに殴られたことは、幼少の頃の1回だけなんです。 おやじが家の周辺の路地にコンクリートを塗ってたんですわ。 その作業が終わってしばらくしたら、飛行機の音がしたんです。 当時、空を飛んでる飛行機を見かけると珍しくて、うれしかったんですよ。 で、ぼくは、飛行機の音を追いかけて、乾きかけのコンクリートふみつけ、裏庭に走ったんです。 しばらくして、おやじが、コンクリートについた足跡を見つけるんです。 おやじは、誰がやったんやと聞く。 ぼくは、夢中で裏庭に走ったんで、自分が踏んだとは夢にも思ってない。 だから、「ぼくとちゃう」と言うと、いきなりバシッ! ウソをついたことを、しつこいくらいに怒られました。 確かにぼくの足跡やったけど、ぼくには自覚がなかった。 だから、いきなり殴られたのは、理不尽なんですよ。 ただ、悔しかったからとか、何かが心に残ったから、というのではないんやけども、この時のことをおとなになってからもよく思い出すんです。 思い出しては、「ウソをつくことは悪いことなんやろうか?」と考えたりする。 人に対して、ウソをつくことなんぞ、山のようにあります。 まったくウソがなくなったら、人間関係がギクシャクしてしゃあない。 おやじもウソをつくことくらいあるやろうに、と思ったりしてたんです。 それが、10年ほど前かなあ。15年ほど前かなあ。 いきなりわかったんです。突然に。 「なんや、ウソをつくなというのは自分に対してか」と。 本当はやりたくないことやのに、やらなあかんことがあったら自分の中で正当化してしまうことってありますよね。 当時のぼくはそういう状況やった。 実は、そういうことこそが、自分に対してウソをついてることなんや、というのがわかったんです。 そのことがわかってから、ぼくは、徐々にウソで着膨れしとった心が敏感になってきたように思います。 心の快・不快には、めちゃくちゃ敏感になりましたねえ。 もう不快なことには、からだが拒否反応するもんね。 嫌なことでも、やらなあかん状況の時には、嫌なことやからさっさと終わらせよう、と割り切ってやる。 ちょっとした引っ掛かりにも、立ち止まれるようになってきた。 で、ぼくは長女に「命(めい)」という名前をつけました。 自分に対してウソをついてるのかどうかは、自分の命の声に耳を傾けてたらわかるはずや。 嫌なことは嫌、おかしいことはやっぱりおかしい。そういう感覚を大事にしようぜ、という思いでつけたんです。 当時は、自分にウソをつかない、という感覚は、ぼく自身が見つけた感覚やと思ってたんです。 でも、アキちゃんから「授かる」という言葉を聞いてから、親から授かったことやし、子供にもそれを授けようとしていることに気がつきました。 人を見ても、 「この人は、こういうことを授かってるんやなあ。きっと、親はこういう人やろうな」とか、 「この人は、これを授かりそこねたんやろうな」とか、 「ええもん授かってるのに、まだ気がついてないわ、この人」 というようなことを思うんです。 この「授かる」というキーワード。おもしろいですよ。 今まで、自分の内面は閉ざされた世界であったのに、それがおやじやじいちゃんという外につながっているんですから。 だから、内面であるのに、割合に冷静に見れるんです。 人に対しても同じです。 いい面は照れもなく誉めれる。マイナス面は「あぁ、この部分に関しては、授かりそこねたんやな」と思うだけ。 何よりも、人も自分もふと〜い流れの中にいる感じになります。 さて、皆さんは親から何を授かりましたか? | |