
vol.24 「大学拳法部」
去年の話で恐縮です。
11月某日、ただよし君の通う大学の学祭に、家族でおじゃました。
拳法部が演武会を行なうとのことで、誘ってくれたのだ。
技の説明、剛法、柔法、女子護身術、運用法、招待演武等々が、女子部員のアナウンスに従い、時には芝居仕立てで次々と披露されていく。
我らがただよし君は全4回の出演で、大活躍だった。
私は大学に行ってないし、拳法も最近エセ拳士になっただけだから(笑)、大学拳法部を全く知らない。
なので、雰囲気に触れるだけでも、新鮮で楽しかった。
そして、単純に『うらやましいなぁ』と思ったのだ。
うらやましかったことのひとつは、あの年代に夢中になれるもの――むろん、彼らの場合は拳法が見つかっていること。
学校では、(たぶん)やりたい勉強をして、クラブ活動に夢中になれて。
あるいはバイトにもいそしんで。それも、さまざま目的があるにせよ、彼らは1日24時間を、丸ごと好きなことややりたいことのために、使っているだろう。
自分のためだけに忙しいのが当たり前なのは、あの年代ぐらいではないかな。
部員の誰もが、そんな“充実した青春を送ってます”と言いたげな、満ち足りた顔をしていた。
そのせいか、会場を包む雰囲気が、まことに健やかですがすがしい。
すがすがしいと言えば、OBの女性達だ。
見学席が一般席とOB用に分かれ、それぞれパイプ椅子を並べてあった。
観客が多く、一般席の椅子が足りず、私達も子供が静かに座っていないだろうし、椅子を遠慮して床に座った。
すると、OB席にいた若い女性が、さっと立ち上がり、自分が腰掛けていた椅子を持って来てくれたのだ。
他にも、赤ちゃん連れの夫婦などが立っていたのだが、先の女性やその友人(みんなOBらしい)が、次々とOB用の椅子を運んできてくれた。
こっちに座れ、という誘導ではない。
立っている人はそれぞれ見やすいポジションを選んで立っている。
その場に椅子を運んでくれたのだ。
そして彼女達は、ひとわたり作業が済むと、何事もなかったかのように席に戻り、談笑していた。
その様子が、実にさり気なくて爽やかだった。
私は“先輩というのは、こうやって黙って後輩を支えてあげてるんだなぁ”と思いながら、彼女達を見ていた。
あるいは、ただよし君より10期は上という30代の男性諸氏が、何人も会場に来ていた。
みんな立派な社会人で家庭人。
なのに、わざわざ休日に、または休暇を取って母校を訪れ、後輩の演武を見ているのである。
そして演武後は、みんなで連れ立ってキャンパスを歩き回り、クレープやぜんざいをぱくついていた。
後輩がかわいい、大学が懐かしい…色々な思いがあるのだろう。
でも、仕事や時間をやりくりして来るには、それなりのエネルギーが要る。
そのエネルギー源が、自身の学生時代に対する“よかった、楽しかった”という、いい印象だと想像するのは、易いことだ。
きっとそれだけ、拳法部で充実した4年間を送ったのだろう。
また、彼らの現役時代にも、先輩達が来てくれたはずだ。
その先輩達の思いを実感しつつ、自分達も後輩のために足を運んだと思う。
そうやって、ある種の思いが連綿と受け継がれている。
その先に、ただよし君達現役生の存在があり、この日の演武会の成功がある。
そういう、人から人へのつながりというのは、ありそうで、実はなかなかないものだと思う。
ただよし君達現役生が、自分達につながって来ていたもの、自分達からつながって行っているものを実感するのは、卒業して何年も経てからかもしれない。
私は逆に、血縁以外には、そういうつながりの中にいないもので、人のそういうものが見えるのだろう。
当たり前のようにその中にいる現役生が、とても頼もしいバックボーンを持っていると思えて、うらやましかった。
大学拳法部の出身者が、その問題点を色々憂いているのは、もちろん、知っている。
少林寺拳法としては、大事な課題なのだろう。
ただ、私はそれらを語れる立場でもないので、それはさておき。
人生の一時期、少林寺拳法を媒介として、いい仲間や先輩と巡り合い、時間や体験、あるいは思い出を共有するのは、それだけで貴重な貯金になるはずだ。
そして、これからの人生の中で、折にふれて、それが形を変えて花を咲かせ、実になるだろう。
それを自分で目の当たりにした時、どんなに貴重な貯金だったかが、本当の意味でわかることと思う。
大学に行っていない(大学拳法部の経験がない)私には、どんなに頑張っても持てない貯金。
うらやましいっっ!!
本当にただよし君には、いいものを見せてもらった。
この場を借りて。「ありがとう、ただよし君」
(追記)
今回、ただよし君が少林寺拳法をしている姿を、初めて一歩退いたところから見たわけである。
『きれいだなぁ』と感じた。立ち姿から動作から、変な歪みとかクセとか、そういう不自然なところが全然感じられない。
拳士としてどうとか、技がこうとかいう、表面の問題ではない。
人としての在り様が本当に自然で、とても健やかな美しさがあった。
それは、健全な肉体によるだけでなく、彼本来の素直さや品性が漂っているということだ。
人が人を観る時、結局はそういうところへ環るのだ、と自戒を込めて再確認した次第。