



【2012/3/19】山谷の櫻 事務局 松崎耕三
今日こそは暖かくなれよといつも思う。BUTいつも寒い。
毎月曜日のお仕事で、郵便局、銀行をめぐる、といっても自転車で周ってくるのである。寒いときついのです、おじさんたちに聞かれたら怒られるけど、今日もいつものように暖かくして自転車で交差点で信号ストップふと左にすごい桜が咲いてる。
すごいでしょう。植木も山谷じゃ強い、寒さなんか吹っ飛ばせとばかり満開か?の勢いである。青信号で渡って少し行くと、介護施設の玄関に鉢植えの櫻が
こんな風に。来週は花見かなと勘違いするくらいの感じです。先週は援護依頼で雨の秋葉原をうろうろ、会えなかったのですが、あの人あの時きっと寒かったろうな。早く春に、というより少しでも暖かく過ごしやすくなってほしい。
着の身着のままの人もまだ沢山います、特に炊出しにはいろいろな方が並ばれます。きれいな身なりの方も、普通以上の方も、そんないろいろな方に暖かい春を感じてほしい。この春こそ何かを変えよう、みんなでって・・・・・年甲斐もなく思ってみたりしました。





今回は、日々の出来事とは少し離れますが、山友会がある山谷周辺の歴史散歩をしてみたいと思います。
いわゆる「山谷」と呼ばれる地域は、明治通りと吉野通りが交差する泪橋交差点を中心に、台東区清川・日本堤・東浅草と荒川区南千住にかけて広がる地域を指します。まずは江戸時代に刊行された江戸切絵図と江戸名所図会によって、山友会があった場所は江戸時代どんなところだったのか見てみましょう。次のカラー写真の図は江戸切絵図でみた山谷周辺です。
左上から右の方へ斜めにかけて伸びる道筋が、今の吉野通りになります。そのまま右の方へ進むと千住大橋です。道には「浅草山谷町」「山谷浅草町」の文字が見えこの辺りが山谷だとわかります。その下方に「玉姫社」がありますが、これが現在の玉姫稲荷神社になります。また道沿いに「仕置場」(番号9の所)とあるのが幕府の処刑場だった「小塚原刑場」です(ちなみに吉野通りの一部をコツ通りというのは、この〔小塚原〕の頭2文字から取っているという説もあります)。この「小塚原刑場」のあった場所は、現在のJR南千住駅のすぐそばになるので、山友会の場所は、この「仕置場」と「玉姫社」の中間辺りになるでしょうか。まさに「田地」のど真ん中です。この辺一帯は、「浅草田圃」「吉原田圃」「入谷田圃」などと呼ばれて田園風景が広がっていたそうです。
ではその田園風景を江戸名所図会で眺めてみましょう。玉姫稲荷神社周辺の田園風景です。
次に、現在の玉姫稲荷神社の写真をご覧ください。現在、境内は駐車場としても使われており、山友会や山友荘で所有し、炊き出しを始め様々なことに使用する車もここに2台置かせてもらっています。周辺も田圃はもちろん見あたらず、ドヤを始め宅地が広がっています。
次は、上記切絵図上の9番の「仕置場」である「小塚原刑場跡」を見ましょう。当時の広さは間口約110メートル、奥行約55メートルで刑場跡は南千住駅のすぐ西側で常磐線と地下鉄日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内にあります。当時、この辺りは山谷町と千住大橋の間で、街並みが途切れ草むらばかりだったようです。
この刑場は、江戸時代初期の1651年に創設されました。明治初期に廃止されるまでの約200年以上の間に20万人以上が処刑されたといいます。その間、1771年には、ターヘルアナトミアを手に入れた蘭学者の杉田玄白・前野良沢らが腑分け(解剖)に立ち会いました。その後、彼らによって『解体新書』が刊行されたことは余りにも有名です。延命寺に隣接する回向院には、そのことを記念して日本医師会・日本医学会・日本医史学会による「観臓記念碑」があります。その写真が次です。
またこの回向院には、幕末になると国事犯の刑死者も葬られるようになり、安政の大獄で刑死した吉田松蔭や橋本左内のお墓もあります。南千住の回向院は、1667年、本所回向院の住職によって刑死者を弔うために建てられました(本所回向院は、1657年に起きた明歴の大火の焼死者を弔ったのが始まりです)。延命寺も元は回向院の一部だったのですが、常磐線敷設により分断された際、延命寺として独立しています。
次は回向院(左)と延命寺(右)の正面写真です。

もうひとつ、延命寺では首切り地蔵が有名です。刑場の象徴とも言えるもので、刑死者を弔うために1741年に建てられました。戦争や関東大震災にも耐えてきましたが、残念なことに去年の東日本大震災の日に左腕が落下し、胴体もずれました。倒壊の危険があるという事で、現在は解体されています。写真は現在の様子です。

震災前はこんな感じでした。

早く復旧してほしいです。
最後に、寒暖計やエレキテル(摩擦紀電器)の製作で知られる平賀源内の墓所を紹介します。ここも山友会から近く、いつも白髭橋方面に炊き出しに行く時に通る明治通りから少し入った所にあります。最初に掲げたカラーの切絵図で言うと、16番とある「総泉寺」にところにあります。ただ、総泉寺は昭和3年に板橋へ移ってしまい現在はありませんので、墓所だけが残っています。次の写真はその外観(左)と中の様子(右)です。

平賀源内は、1779年に小伝馬町にあった牢内で病死しました。入牢の理由は、誤って殺傷事件を起こしたからですが、入牢してからわずか1ヶ月後に亡くなりました。門の両側の築地塀は、高松藩主だった松平氏により昭和6年に整備されています。これは、平賀源内が元々高松藩士・白石氏の子として生まれたことと関係があるのかもしれません。昭和18年には国指定史跡となっています。鍵はかかってなく出入りは自由にできます。
まだまだ周辺には色々な史跡があります。是非みなさんも散歩してみては如何でしょうか。
毎週・木曜日の炊出しに2階の食堂では、早朝からのボランティアさんと、山谷地域のドヤ住まいの人や、今路上生活のボランティアさんたちが、たくさん来て下さっています。みなさんが、山友会活動に絆をもつ人たちです。
この頃は大震災の復興に優先度がある為か、山友会へのボランティアさんが減少の傾向にありますが、山友会には活動によって地域の人たちのとの協力関係(但し金銭寄付は論外ですが)が強くなって、ことあるごとにボランティアのお手伝いをしていただいています。木曜日の炊出しご飯は5キロ釜で、7釜・8釜を炊きます。梅肉やふりかけを混ぜておにぎりや弁当を作っていきます。みなさん、湯気の中で愉しそうな和やかな顔を並べて働いています、毎週木曜日の山友会の2階です。
このたび、11月25日から27日まで、福島のボランティアパックに参加し、
福島相馬市の大野台仮設住宅での活動と沿岸部の津波による被災地視察、南相馬
の原町教会を訪問しました。大野台の仮設住宅はかなり大きくて、ほとんどが津
波ですべてが流され、家族や家を失った方たちでした。


そこで、ふれあい茶の湯のきれいなお菓子と抹茶をいただきながら、ひと時を
過ごしました。一人のおばあさんがぽつんと「私たちは海の方から山に来たんだ
よ。」と言われた言葉が忘れられません。その言葉の中にどれほどの痛みと悲しみ
が込められているかを思うと、胸がつまりました。共に過ごすひと時でしたが心
のふれあいの時でした。その後、津波の被災を受けた沿岸部にゆき、波にさらわ
れて、なにもない、広々とした場所に立ちました。

その瓦礫の間から、黄色い花が伸びて、咲いていました。復興に向かう、希望のよう
でした。


原町は原発の発電所から25キロ圏内なので、残っている人は、とても寂
しいとのことでした。みんなが一日もはやく戻れるのが、今一番望むことだといっ


















この子がいなくなってた。
この子が健在。
この子はどうしたのかわからなかった。

皆様、お元気ですか?猛烈な暑さの次に朝晩は寒いくらいの気温の変化に心身共に驚きですね。こんな中でも仲間たちは頑張っています。
クリニックには、時々助っ人がきてくださいます。研修医、医学生、看護大学生、事務職員の方、薬剤師さん。明るい頼もしい顔ですね。午後はアウトリーチにも参加してくれました。
普段忙しい中、ありがとうございます。また来てくださいね。
聖路加病院のスタッフの方々(助っ人)
お借りしている滅菌器。26日(金)にお返しします。
水曜パトロールでおじさん達に手渡す食材の一般的なものです。
歯の悪い人が多いので、出来るだけ柔らかいものをと心がけています。
甘いものを入れ、季節がら傷みやすいので日持ちのするものをセットします。
(大きいドーナッツ+クロワッサン+ロールパン+冷凍パン)焼く2食分を袋に詰めテント小屋・並びの所と、各コースに出かけます。毎回300人〜350人分です。









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