東京スコラ・カントールム第24回定期・慈善演奏会
J. S. バッハ ロ短調ミサ

(1992/9/21、指揮:黒岩英臣、東京カテドラル聖マリア大聖堂)


《プログラムノートより》
『平和の讃歌…ロ短調ミサ曲』 ... 小笹和彦 (東京スコラ・カントールム主幹)
バッハはなぜこの曲を作ったのでしょうか。いつ、どういう機会に、どこで、誰が演奏するためにこの曲を作ったのでしょうか。
従来より様々な議論がなされてきました。
その中で、専門家でもない私の自由な立場からいえば、このミサ曲がカトリックのために創作されたことに間違いはないと思われます。それはこの曲の総譜を遺産として相続した次男カール・フィリープ・エマヌエル・バッハの遺産目録に、「大きなカトリック・ミサ曲」と記載されており、その意味は「カトリック教会においてのみ上演されうる完全ミサ曲(W.フェリークス著・杉山好訳/J. S. バッハ…生涯と作品/国際文化出版社)」だということからも明らかです。
その作曲年代は、最近の通説によれば次のようになります。

第1部 ミサ曲(キリエ/グローリア)(第1-12曲) 1733年
第2部 ニケア信経(第13-21曲) 1748年秋から翌49年夏迄の間
第3部 サンクトゥス(第22曲) 1724年
第4部 オザンナ/ベネディクトゥス/アニュス・デイ/ドナ・ノービス・パーチェム (第23-27曲) 1748年秋から翌49年夏迄の間(第2部 ニケア信経と同時期)

この「ロ短調ミサ曲」につづいて作曲を開始したといわれる「フーガの技法」がついに未完のまま絶筆になったことを思えば、「ロ短調ミサ曲」こそバッハが自らの手で完結した「白鳥の歌」といえるでしょう。しかし、この曲に手を染めた当初はそこまで発展させる考えはなかったようです。
1733年7月27日…48才のバッハは後に「ロ短調ミサ曲」の第I部となるキリエとグローリア(当時の中部ドイツでは、カトリックもプロテスタントも、この2曲だけで「ミサ」とよぶこともあったらしい)をポーランド国王兼ザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト2世(1696〜1763)に献呈しました。国王の居城があったドレスデンには今も美しい献呈譜が保管されています。そのパート譜には、筆跡鑑定の結果、バッハ自身のものと、長男ヴィルヘルム・フリーデマン、次男カール・フィリープ・エマヌエルおよび妻のアンナ・マグダレーナといった家族総がかりの筆写の痕跡が認められるそうです。またその傍らには見事なバッハ自身の筆跡による献呈文が添えられています。ところがその内容はかなり激しく自分の窮状を訴える直訴状のようなもので、バッハがかなりさしせまった事情でこの曲を作り、献呈したことが分かります。
ここで注意しなければならないのは、ザクセン選帝候はカトリックであったということです。
ドレスデンはルターによる宗教改革以来200年にわたる伝統あるプロテスタント領域であり、バッハの生まれる100年前にはハインリヒ・シュッツも活躍したルター正統派の拠点でした。
けれどもアウグスト2世の先代であるアウグスト1世強王(1670〜1733)は、ポーランド国王に再選(1709年)されると同時にカトリックに改宗していたのです。
ドレスデンは当然のことながらカトリック用の典礼音楽に不足を来しました。
ライプツィヒでの状況に幻滅を感じ、音楽家として、また大家族の長として何らかの打開策を模索していたバッハが、このことに注目するのはむしろ当然のことだったといえるでしょう。
さらに、ドレスデンには、ライプニッツ(1646-1716 思想家)の提唱したプロテスタントとカトリックが一致するための条件が全て整えられていました。美しいバロック建築の教会や宮殿は、どちらかといえば商業都市であり学園都市である地味なライプツィヒに比べて、バッハにはまぶしく映ったに違いありません。ドレスデンは堅固なプロテスタント精神と伝統的・普遍的カトリック文化がみごとに調和したユートピアのような存在だったのです。音楽と芸術家は最高に優遇され、国際的交流も盛んです。
しかもその地でバッハは称賛され、高い評価をかち得ていたのです。
ともあれ、バッハは1748年秋の頃、いつの日にかドレスデン宮廷に伺候することを夢見て生涯で初めての「完全ミサ曲(Missa tota)」の創作に取り組みます。15年前の1733年に献呈したキリエとグローリアを想起し、それにカトリック典礼文にのっとった後半部分を新たに追加することにしたのです。
曲は申し分ない仕上がりで完成したものの、バッハ自身はその全曲がこの世に鳴り響くのを待たずに帰天しました。しかし、今やこの曲は世界中に知られる名曲の一つとして無数の音楽愛好家に愛され親しまれ、多くの平和を願う人々の心にこだましています。

この曲はなぜ「ロ短調」で始まるのでしょうか。
変化記号「♯」はドイツ語でクロイツ(Kreutz)といい、クロイツは「十字架」を意味します。そして「ロ短調」という調性は、全ての親近調を「♯」系の記号(調号)でまとめることができます。つまり全曲をどのように展開しても「♯」記号を付すことができるのです。ちなみに「ロ短調ミサ曲」は全曲が27曲(「オザンナ」の繰り返しを除けば26曲)で構成されていますが、その内の1曲を別として全てが「♯」系の調性で成り立っています。また、私の数えたかぎり、この1曲の例外を除く他の25曲の膨大な音符のうち「♭」系の付けられた音符は74個しかありません。それは他の圧倒的多数を占める「♯」系の変化音の数と著しい対比を示しており、逆に言えば「♭」記号にも特別な意味があると考えられます。
が、それらを別とすれば、この曲にはイエス・キリストの象徴である十字架への崇敬が満ち満ちています。ちなみにこの曲は「ロ短調ミサ曲」の名称通りロ短調で始まりますが、全曲は「ニ長調」の明るい曲想が支配的で、終曲はニ長調で解決します。「ニ長調」はこの曲では「復活」を象徴していますから、これをもって「ロ短調ミサ曲」の主題が「復活のキリスト」にあると考えることも可能です。

バッハの作品は晩年の作品になればなるほど高度な象徴化が進み、その解読に多くの学者が腐心しています。それが声楽作品と器楽作品であるとを問わず、その象徴的解釈を誤れば曲の本質さえ損ないかねないからです。バッハの「象徴的表現」についての研究は今世紀の初頭から始まりました。
その名も懐かしい、シュヴァイツァー博士の「バッハ」は、1908年に出版されています。この本はバッハの人と作品を広く世界に伝え、特にことばと音楽動機(モティーフ)との密接な関連を修辞学的に分析して多くの演奏家に大切な示唆を与えました。これを契機として、その後続々と「バッハの音楽と象徴」に関する体系的研究成果が発表されました。
1925年から28年にかけて発表されたバッハ学の碩学A.シェリングの「バッハと象徴」という論文は画期的でした(参照/樋口隆一著/前掲書)。今はそれも時代遅れといわれていますが、彼の用いた「象徴の4段階」は非常に有益な分類法です。本文は難解ですが、意訳すれば大要次の通りです。

i. 聴覚的段階(普通の人が聴いて分かる程度の象徴)
ii. 視覚的段階(動作のイメージを想像するとか、楽譜を見て分かる程度の象徴)
iii. 技法的段階(カノンとか下属和音とか作曲技法が分かれば分かる程度の象徴)
iv. 理念的段階(普通の人では分からない象徴。数学、修辞学、哲学、ドイツ/ラテン/ギリシャ/ヘブライ語学、音楽学、聖書学、プロテスタント/カトリック神学、歴史学、比較文化学、情報工学、美学、心理学、建築学などの広範な知識と並外れた好奇心が必要)

バッハ晩年の作品にはいわゆるパロディーという旧作を改作したものが多く含まれています。改作といっても改悪ではなく、ましてその場しのぎに木に竹を繋いだものではないのですが、どうも後世の評判は悪く「クリスマス・オラトリオ(BWV248)」などもそのせいで長らく不評をこうむっていました。しかし、最近になってようやくその真価が見直され、パロディーにもそれなりの必然とある種の象徴が認められることになり、晩年の作品とパロディーの関係が再評価されるにいたりました。
この「ロ短調ミサ曲」も多くのパロディーで構成されていますが、それだからといってこの曲の真価を疑う人はいないでしょう。パロディーについては現在までに相当数の原曲とそれを再利用した意義が解明されていますが、まだ全容は明らかになっていません。従って、その研究が終わるまでは何が新曲で何がパロディーか分からない部分もありますが、厳密な資料批判によって「ロ短調ミサ曲」のために新たに書き起こされた作品と考えられる作品も含まれ、それらがバッハにとって最後の教会声楽用作品になったことを思えば感銘深いものがあります。


各曲の内容(曲順は全曲の通し番号順ですが、( )内数字は「新バッハ全集」の曲順です)

(1) Kyrie(あわれみの讃歌)
1.(I-1)Kyrie eleison(5声部合唱、フルート×2、オーボエ・ダモーレ×2、ファゴット、弦楽、通奏低音、ロ短調、4/4)
〔歌詞〕
Kyrie eleison
主よ 憐み給え
荘重で、悲痛な響きに満ちた5部合唱が、いきなり曲を開始します。バッハの通常の作曲法と異なる導入が聴く人の耳をそばだたせます。自筆譜にはこの冒頭に“Adagio”および“Molto adagio”の速度記号があります。この4小節の絶唱が終わると速度記号は“Largo”に変わり、フルートとオーボエが少し速度をあげてロ短調の主音でフーガの主題を奏します。
合唱は沈黙し僅かに弦と通奏低音がこの動きを支えます。やがてこの主題は合唱に引き継がれ、徐々にその規模を拡大し、とうとうとして流れる大河のような大フーガに発展していきます。人間の小ささ、醜さが洗い清められ、やがて大いなるもののうちに同化される思いです。この曲には、有名な「嘆きのモティーフ」が間断なく現れます。冒頭合唱の旋律は、ルターが1525年に作曲した「ドイツ語ミサ曲」の主題をパラフレーズしたものです。

2.(I-2) Christe eleison(ソプラノ2重唱、ヴァイオリン2重奏、通奏低音、ニ長調、4/4)
〔歌詞〕
Christe eleison
キリストよ 憐み給え
一転して明るいニ長調に転じ、悲哀の底に一筋の光明がさしこみます。これは「ヨハネ受難曲(BWV245)」の有名なアルトのアリア「すべては終わりぬ(Et ist vollbracht)」と軌を一にする曲想です。ここにも「嘆きのモティーフ」があるのですが、その悲しさは背後に隠れ、多様な主題と軽やかなリズムによって確信に満ちた喜びが際立ちます。

3.(I-3) Kyrie eleison(4声部合唱、他は第1曲と同じ、嬰へ短調、2/4、Alla breve/2拍子で)
〔歌詞〕
Kyrie eleison
主よ 憐み給え
ロ短調に始まった「Kyrie」楽章はニ長調を経てここで嬰ヘ短調となり、ここに全曲の基調となるロ短調の調性が確立します。曲は再び短調に戻り、テキストも冒頭と全く同じ神のあわれみを求めるものとなります。しかし曲想に前回のような悲愴感はなく、どちらかといえば淡々とした諸行無常の響きが流れます。合唱は4声部に圧縮され、楽器もみな声部をなぞるだけの地味な存在となります。バッハはあえてこれをパレストリーナのモテット風に作曲し、前2曲とこの後に続く明るい“Gloria”との対比を鮮明にしています。
第1曲冒頭の合唱がルターの旋律を基調とする絶唱によって開始され、多様な展開をした後にカトリックの伝統的教会音楽作法に則った古様式で終わるという構成にもなんらかの意義があるのかもしれません。

(2)Gloria(栄光の讃歌)
4.(I-4)Gloria in excelsis(5声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、フルート×2、オーボエ×2、ファゴット、弦楽、通奏低音、ニ長調、3/8)
〔歌詞〕
Gloria in excelsis Deo
天のいと高き所の神には栄光あらんことを

5.(I-5)Et in terra pax(同上、〔ト長調〕/ニ長調、4/4)
〔歌詞〕
et in terra pax hominibus bonae voluntatis,
地には善意の人々に平和あれ
今から2000年前のベツレヘム……
夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使が現われ「大きな喜びの知らせ(キリスト降誕のこと)」を告げました。そこに突然天の軍勢が加わり“Gloria in excelsis……”という大合唱で神の栄光をたたえます。
トランペットにティンパニーを加えた管弦楽の全奏と5声部合唱が、輝かしい響きをもってこの雰囲気を活写します。3拍子の軽快なリズムで運んだこの曲想は、ちょうど100小節まで進んだところでピタリと鳴りをひそめます。ここからテキストは“et in terra pax……”という地上の人々への祝福に変わり、リズムも4拍子になります。
そこで曲想は一変してトランペットも沈黙し、まことに牧歌的な、のどかで平和な地上の情景がかもしだされます。122小節目(第5曲の入りから数えると23小節目)で“hominibus bonae voluntatis(善意の人)”というテキストで美しいフーガの旋律に入ると、器楽はそろって15小節間にわたり8分音符の伴奏を刻みます。おそらく地上の教会が平和の鐘を打ち鳴らす響きを模したものでしょうが、まことに心の和む美しい光景が目に浮かびます。

6.(I-6)Laudamus te(ソプラノII独唱、独奏ヴァイオリン、弦楽、通奏低音、イ長調、4/4)
〔歌詞〕
Laudamus te, benedecimus te, adoramus te, glorificamus te,
我ら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主を崇めたてまつる

7.(I-7)Gratias agimus tibi(4声部合唱、器楽は第4曲と同じ、ニ長調、4/2、Alla breve)
〔歌詞〕
Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam,
主の大いなる栄光のゆえに 我ら主に感謝したてまつる
ここからテキストは聖書を離れ、古代教会の讃歌に移ります。その第1部「神の栄光をたたえる讃美」は上品なソプラノのアリアで開始されます。ともすれば私達はこの曲の技巧的な独奏ヴァイオリンとソプラノ独唱との協奏にのみ耳を奪われがちですが、ここにもバッハの精神的所産が隠されていることを見落とすわけにはいきません。
この曲は、前曲の天の軍勢の頌歌に地から呼応する讃歌のさきがけです。穏やかな独奏ヴァイオリンと弦楽器だけがソプラノ独唱を彩る協奏曲形式の採用は、第11曲のバス独唱“Quoniam tu solus”を意識して、極端なほど対照的に作曲されています。
ソプラノ独唱ではテキストが“Laudamus te”のほか“te(汝を=神を)”ということばを4回繰り返しますが、バス独唱では“tu solus(汝のみ=イエス・キリストのみ)”ということばを3回繰り返して讃美の対象をイエス・キリストに絞り込んでいます。両者は同じ協奏曲形式をとっていますが、後者は活発な独奏ホルンに主導性があり、他の声部はこれに従属しています。しかしこの第6曲では、バロック協奏曲本来の形で3声部の弦楽器と独唱、独奏の合計5声部が対等の関係で協奏に参加しています。それは、地にある共同体すなわち教会が競って神を讃美する状況を暗示しているようです。時おり各声部に冠状の音形が現れますが、それは地上の讃美に対する天の光輪を示す「音冠」です。
こうした協奏曲形式の採用は、次の合唱曲“Gratias agimus tibi”の原曲となったカンタータとよく似た構成です。この第7曲はカンタータ「神よ、われら汝に感謝す“Wir danken dir, Gott”(BWV29)」のパロディーです。その原曲でも、独奏オルガンとオーケストラの協奏曲が合唱曲の前にあるのです。つまりバッハは、新しい協奏曲様式と古様式の対比に特別の意義を認め、それをほとんどそのままの形でロ短調ミサ曲の第6〜7曲に転用したのです。時代、地域、老若男女、主義主張を超越した普遍性を表現する形式として、これほどふさわしい形態が他にあるでしょうか。

8.(I-8)Domine Deus(ソプラノIとテノールの2重唱、フルート、弦楽、通奏低音、ト長調、4/4)
〔歌詞〕
Domine Deus, Rex coelestis, Deus Pater omnipotens.
主なる神、天の王、全能の父なる神よ
Domine Fili unigenite, Jesu Christe altissime.
主なる御独り子、至高のイエス・キリストよ
Domine Deus, agnus Dei, Filius Patris.
主なる神、神の小羊、父の御子よ
ここからテキストは「父なる神と子なる神への嘆願」に移ります。従ってこの曲以降の3曲は神の恩寵を乞う者の主観性で統一されます。
この曲は、テキストの“Domine Deus(神なる主)”と“Domine fili unigenite(主なる御ひとり子)”という一なる神の二面性を強調するために、2重唱の両声部に異なるテキストを同時に歌わせる、カノン形式によって両者の分かち難い関係を示す、曲を大きく2部構成とし、前半は主として「父なる神」に重点を置き、後半では2つの声部に同じリズムとテキストを与えて「父のみ子である、神の小羊」に焦点を絞る、など独特の工夫を凝らして作曲されています。また、音符を類型化し、16分音符でイエス・キリスト、8分音符で父なる神、4分音符で聖霊を象徴しています。
なお、この曲の53小節以降に数箇所の変記号(♭)が出現します。この変記号は人の姿をとって地に降下された神を象徴するものであり、しかもその姿が世の罪をあがなうために小羊のようにか弱く謙虚なものであったことを示唆しています。この部分から曲は複雑な転調を重ねてト長調からロ短調に転換していきます。つまりこの2重唱曲は、天の神を仰ぎ崇めながらも次の合唱“Qui tollis peccata mundi(世の罪をのぞきたもう主よ)”という全「Gloria」の基底をなす楽曲の準備として、深い内省の思いに浸されていくのです。
清澄なフルートの旋律と明るいソプラノとテノールの2重唱は、終始秘めやかな弱音器付きの弦楽部とピツィカートで奏されるバスの動きで支えられ、極めて神秘的な表情をたたえています。

9.(I-9)Qui tollis(4声部合唱、フルート×2、チェロ、通奏低音、ロ短調、3/4)
〔歌詞〕
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis,
世の罪を除き給う主よ、我らを憐み給え
Qui tollis peccata mundi, suscipe deprecationem nostram.
世の罪を除き給う主よ、我らの願いを聞きいれ給え
曲は切れ目なく“Qui tollis peccata mundi(世の罪を除きたもう主よ)”という第9曲に入ります。ここからはリズムは3拍子に変わり、2重唱は合唱となり、オーケストラはフルート一本と独立したチェロを加えて厚みを増します。しかし、合唱は第1ソプラノを沈黙させて音域は低く、調性も全曲の基底であるロ音上に組み立てられた短調であるところから深い黙想の雰囲気を漂わせます。
バッハは、2節のテキストをあえて3つのフレーズに再構成し、”Qui tollis peccata mundi”という各節共通の出だしのことばを大見出しとして3回繰り返し、更にそのフレーズのなかで“miserere……”または“suscipe……”ということばを3回歌うよう設計しています。
3拍子、3つのフレーズ区分、3回の呼びかけ、3回ずつの嘆願の反復は何を意味しているのでしょうか。「3」という数字は「三位一体の神」の象徴であり、従ってこの曲は「三位一体の神」を想起するものだ、といってしまえば簡単ですが、それだけではバッハの意をつくしたものとはいえません。この曲は、第4曲の天の軍勢の讃歌と対置されているのです。そして、その讃歌も3拍子をとり、3本のトランペットを用い、弦と木管が3つのグループに分けられ、輝かしく主調の3和音を奏でたことを思い出して下さい。つまり、ここにも強い「3」へのこだわりがあったのです。天と地の違いはあっても、天使も人もこぞって三位一体の神を見上げ、讃美を捧げている情景がほうふつとしてきます。
こうしてバッハは第4曲とこの曲を天と地という著しい対比で色分けしながらも、それが対立ではなく、三位一体の神の摂理によって調和させられていることを表現しています。さらにこの曲は、人の姿で現れた「神の小羊」に向かう祈りとして「Gloria」楽章の中で最も悲痛な響きを奏でます。それは次楽章の「Credo」第5曲“Crucifixus”とほとんど同じ曲想です。「神の小羊」という名称は象徴的意味においてイエス・キリストを指し、預言者イザヤの比喩的表現では「いけにえに供されるもの」という意味があります。

10.(I-10)Qui sedes(アルト独唱、オーボエ・ダモーレ、弦楽、通奏低音、ロ短調、6/8)
〔歌詞〕
Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis.
父の右に座し給う主よ、我らを憐み給え
美しいアルト独唱が「Gloria」の中間部である「父なる神と子なる神への嘆願」を締めくくります。中間部最初の第8曲「2重唱」と、ここで歌われる「独唱」には対比的な意味があります。第8曲では「父なる神」と「子なる神」という異なる位格(ペルソナ)を人声2部で表しましたが、ここではアルトの単旋律で「一なる神」を表現します。つまり、子なるイエス・キリストは死者のうちから復活して天に上げられ、いまや父と共に一体であることを表象しているのです。平安な情緒を感じさせるオーボエ・ダモーレの音色は、時おりアルトの旋律を反復し、おだやかに呼応しあう一心同体のエコーの響きを奏でます。
また時には、作曲上異例のことながら、アルトとオーボエがカノン風に緊密に絡み合ったかと思うとすぐ両声部が一つになり、ユニゾンとして同時進行します。これは、父とその右に座し給う子が一体となってみ業をなすことの象徴だ、とH.リリングは解釈しています。
後半は“Adagio”と指定され、奥深い情感を湛えながらこの「嘆願(miserere nobis)の部」を終えます。

11.(I-11)Quoniam tu solus(バス独唱、コルノ・ダ・カッチァ、ファゴット×2、通奏低音、ニ長調、3/4)
〔歌詞〕
Quoniam tu solus sanctus, tu solus Dominus, tu solus altissimus, Jesu Christe.
されば主のみ聖なり、主のみ支配者、主のみいと高し、イエス キリストよ

12.(I-12)Cum Sancto Spiritu(5声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、フルート×2、オーボエ×2、ファゴット×2、弦楽、通奏低音、ニ長調、3/4、Vivace/生き生きと)
〔歌詞〕
Cum Sancto Spiritu in gloria Dei Patris
聖霊とともに、父なる神に栄光あれ
コルノ・ダ・カッチァは別名狩猟ホルンともいわれ、普通のホルンより力強くて明るい音を発します。
この音色と雄渾なバスの歌唱があいまって、ここに気宇壮大な讃歌が開始されます。この曲想は前曲のアルト独唱と、後に続く大合唱との際立った対照を示すと同時に「Gloria」楽章第6曲のソプラノ独唱と対比してすばらしく高揚した信仰の確信を表しています。
この信仰の確信は冒頭ホルンの旋律に最も凝縮した形で提示されます。その旋律はド-ド-シ-ド-ドとうたった5箇の音符で成り立つモティーフですが、この単純な音形に驚くべき意味がこめられています。高音で奏される中間の3音ド-シ-ドは高きにましますものの安定とそのものへの拝礼の形があり、最初のド-ドはオクターブの跳躍をもってキリストの昇天と信仰の飛躍を示します。つまり前曲までは自分の心の奥深くに秘めていた内省と嘆願が、ここでは一躍して天に向かうのです。最後のドからドへのオクターブ下降は、この音形を前から読んでも後ろから読んでも同じ音程にするための配置であり、これによって万古不変の神の完全性を表します。この決然としたキリストに向かう祈りは、休みなく続く大合唱に発展して三位一体の神の栄光をたたえます。
この燦然たる大合唱曲は、当初ザクセン選帝候に献呈する目的で書かれたいわゆる「ミサ曲」の最後を飾る部分です。それだけにバッハとしては最大規模の楽器編成をもって全体の効果を盛り上げます。ちなみにこの曲は、「Gloria」の冒頭合唱(第4曲)と調性、器楽編成、声部の構成および作曲法(和声的な導入からフーガに展開する)をほぼ同じにして一貫性を保ち、そうすることによって「Gloria」全曲のみごとな額縁が完成するのです。とはいえ、終曲にはそれなりに全曲を集約する完結性がなければなりません。そのためバッハは、ティンパニーをともなったトランペット群、木管楽器群、弦楽器群と5声の合唱群にそれぞれ異なるモティーフを与えて多彩な展開を示すと同時に、各奏者と歌手に技巧の限りを尽くして華麗なパッセージを繰り広げさせます。

(3)Credo(信仰宣言)
13.(II-1)Credo in unum Deum(5声部合唱、ヴァイオリン×2、通奏低音、イ長調、4/2)
〔歌詞〕
Credo in unum Deum,
我は信ず、唯一なる神を

14.(II-2)Patrem omnipotentem(4声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、オーボエ×2、弦楽、通奏低音、ニ長調、2/2)
〔歌詞〕
Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem coeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium.
我は信ず、唯一なる神を。全能の父、天と地と、見ゆると見えざるもの全ての創造主を
「Credo」楽章は精巧なモザイクのように、随所に象徴的技法の粋がこめられていますが、この2曲には特にそれが目立ちます。主なものだけをとりあげても、次のようなものがあります。
・グレゴリを聖歌の旋律や、パレストリーナ流の古い教会音楽様式を採用することによってカトリック教会との関係を強めている
・曲がクライマックスを迎える第33小節の3展開部以降では、バスに非常に長い9小節の主題を与えて「三位一体の神」に対する信仰の永続性を証しする(「9」は祈りの象徴)
・5声の合唱には2本のオブリガート・ヴァイオリンを加え、合計7声体の編成によって神の完全性を象徴する(「7」は愛徳、恩恵および聖霊の象徴)
・対位法、なかんずくカノンとストレッタを駆使して絶対的な確実感や安定感を象徴する
・“Credo”という歌い出しを43回繰り返させて、「われ信ず」という意義を確固不動のものとする(Credoを数字に換算すると「43」になる)
こうした周到な計画で作曲された堂々たる信仰宣言は、格調高い第13曲から切れ目なく第14曲の4声部合唱によるフーガに展開します。5声部の合唱は4声部に圧縮され、2部に分かれていたソプラノも一体となり、集中した量感で全能の父なる神をたたえます。
まず、バスが毅然とした音色によって最初の信仰個条を唱えます。その主題はテノール、アルト、ソプラノ、トランペットの順で受け継がれ、全5声部がこぞって高らかに唱和する光景が表現されます。こうした単声部の朗唱に対する他声部の唱和という形は冒頭から3回にわたって繰り返されます。

15.(II-3)Et in unum Dominum(ソプラノIとアルトの2重唱、オーボエ・ダモーレ×2、弦楽、通奏低音、ト長調、4/4、Andante)
〔歌詞〕
et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum,
我は信ず、唯一の主 イエス・キリストを、神の御独り子
et ex Patre natum ante omnia secula.
我は信ず、全ての世の先に 父より生まれし者を
Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero.
神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神
genitum, non factum, consubstantialem Patri, per quem omunia facta sunt.
造られずして生まれ 父と一体なり、(主によりて)よろずのもの造られたり
Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de coelis.
我は信ず、我ら人類のため、また我らの救いのため 天より降りし者を
強い緊張感が優しいオーボエ・ダモーレの音色によって慰められます。信仰個条の第2項は神の第2の位格であるイエス・キリストに向かう信仰告白です。女声2重唱、2本のオーボエ・ダモーレ、それに第1、第2ヴァイオリンの合計3対の2重奏(唱)がカノン形式で組み合わされ、かなり長いテキストに潤いのある表現を与えて飽きさせません。
この曲は第69小節に及んでかなり唐突に変ホ長調に転調します。これも既に述べたことですが、ここで変記号(♭)が出現するのは「Gloria」第8曲の“Domine Deus”の時と同様に「人の姿をとって地上に降下された神」を象徴します。その変記号(♭)は「おとめマリアより御からだを受け、人となりたまえり」というテキストの部分にだけ用いられ、続く第16〜17曲のイエス・キリストの受肉と受難を予告しています。
バッハはこの後にこの曲の異稿を用意し、変記号(♭)部分のテキストを別のことばに置き換えています。それではこの変記号の重要な意味が変わってしまいます。それにもかかわらず、あえてバッハが異稿譜を追加した理由には、次のことが考えられます。
・ “et incarnatus est……(御からだを受け……)”以下のテキストの重要性、殊にカトリックの教義における重要性を考えて、より深遠な別の曲を創作することにした
・ この補足を行うことによって、第17曲の「Crucifixus(受難)」をはさんで第15曲の「受肉」と第18曲の「復活」を対置し、両者の重要性に対等の位置を与えた。また、そうすることによって全曲のシンメトリカルな構造を完成した
・ その際、第15曲と16曲の重複は、ミサ式文との整合性をとる意味では不都合なので第15曲のテキストを全面的に書き改めた

16.(II-4)Et incarnatus est(5声部合唱、ヴァイオリン×2、通奏低音、ロ短調、3/4)
〔歌詞〕
Et incarnatus est de Spiritu sancto, ex Maria virgine et homo factus est
そして聖霊によりて、おとめマリアから体を受け(存在する)、そして人と成りて(存在する)
信じない人には愚かなことでしょうが、信じるものにとってかけがえのないキリスト教の神秘に「受胎告知」があります。天使が処女マリアに「聖霊によってみごもるであろう」と告げ、マリアは「おことばどおり、この身になりますように(ルカ1-38)」と答えます。もしマリアが世俗的な価値判断でものごとを決める人だったら、この素直な応答とその結果としての神の子イエスの受肉(託身)は成立しなかったかもしれません。ここにマリアを歴史上初めてのキリスト教の聖人として崇める素朴な信心の原点があります。
こうした情景の中でこの曲が作曲されたわけですから、ここにも何かのバッハの「受胎告知」に関する心情が隠されているかもしれません。そこで思い出すのがシュヴァイツァー博士の「聖霊が世上を舞い漂いつつ、辿り着くべき者を慕う姿」ということばです。それはこの曲の最初から最後まで連綿として続く第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの旋律を評したことばですが、そう理解すればこの曲にもフラ・アンジェリコのムリリョの描いた「受胎告知」の世界が音によって表現されているような気がします。この曲が49小節で作曲されているのも偶然の一致とは思えず、「聖母の7つの喜びと7つの悲しみ」を象徴(7×7=49)しているように思えます。
この曲はバッハが好んだパッサカリアという形式によって作曲されていますが、この形式特有の低音の半音階的進行が驚きと恐れの入り交じった心臓の鼓動を伝えます。

17.(II-5)Crucifixus(4声部合唱、フルート×2、弦楽、通奏低音、ホ短調、3/2)
〔歌詞〕
Crutifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato passus et sepultus est
我らのために十字架につけられ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、そして葬られ給う
いよいよ「Credo」楽章の核心に入ります。ここでもバッハはパッサカリア形式を採用し、低音域に独特の主題を与えます。それは「聖霊が世上を舞い……」といった高みを遠く離れ、人の心を一挙に深い谷底に突き落とすような効果をもっています。この低音部の絶え間ない半音階的動きを“Lamento Bass(悲しみの低音)”といいます。もともとパッサカリアはシャコンヌと同じようにスペインで発生した古いゆるやかな3拍子の舞曲ですが、バッハの時代には器楽曲の形式として再評価され、バッハもこの様式にフーガを連結して多くの作品を残しました。
原曲のカンタータ「泣き、嘆き、憂い、怯え(BWV12)」にわざわざ4小節書き加えて13変奏にした真意は、それによって「裏切りの象徴」を印したかったからだと思われます。また、4声部に圧縮された合唱が、“Crutifixus(十字架)”ということばを13回繰り返して歌い出すのもその表われです。裏切ったのはユダばかりではない、自分もその一人なのだという悲痛な内省がこうした作曲上の工夫に反映されているように思えます。抑制された編成や多くの不協和音の響きもこうした心の痛みを伝え、不変のリズムは神の計画が宇宙の神秘の中で着々と進められていることを暗示します。

18.(II-6)Et resurrexit(5声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、フルート×2、オーボエ×2、弦楽、通奏低音、ニ長調、3/4)
〔歌詞〕
Et resurrexit tertia die, secundum scripturas:
そして聖書にありし如く、第三日によみがえり
et asxendit in coelum, sedet ad dexteram Dei Patris,
そして天に昇り、父なる神の右に座し給う
et iterum venturus est cum gloria judicarevivoset mortuos,
そして栄光とともに再び来たりて、生ける人と死せる人とを裁き給う
cujus regni non erit finis.
主の国は終わりに向かうことなし
しばしの黙祷を経て、曲は一転して明るい歓喜の合唱に移ります。キリストは死に勝って復活されたのです。オーケストラは「Credo」楽章中最大の編成となり、これまで抑制され、静けさに沈潜していた合唱が再び5声部合唱に戻って高らかに復活し、昇天された神の子キリストをたたえます。たくさんの楽器や合唱声部が一斉に華やかな全奏で凱歌を上げたかと思うと、たちまち散開して夫々が各々の音色で華麗な協奏を繰り広げます。
まず、テキストに基づいて曲を3部で構成しています。1小節から33小節までが第1部で、テキストでは「聖書にありしごとく、3日目によみがえり」の部分です。そこから66小節までが第2部「天にのぼりて、父の右に座したもう」となり、その後終わりの131小節に至る66小節間が第3部に相当します。第3部のテキストは「主の栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とをさばきたもう、主の国は終わることなし」という長文のため、第1部と第2部の倍に相当する66小節が割り当てられていますが、そこにも執念といっていいほどの強い「3」とその倍数に対するこだわりが感じられます。
28小節から4小節間続く通奏低音の音形が注意をひきます。スラーのかかった6箇の8分音符が半音階的に上昇してゆきます。これは前曲「Crucifixus」で限りなく下降させた固執低音の主題を、ここでは逆に限りなく上向させて復活と昇天を象徴するのです。また、58小節にある“ascendit(昇る)”のことばに対応するオクターブの飛躍音形や、63小節の“sedet(座る)”につけられた、いかにも玉座に人の子が座る様子の音画的描写も才気溢れるアイディアです。
第3部はイエスの「再臨」と「最後の審判」を描写する場面ですが、この恐ろしい情景をバッハはバスと通奏低音の2声部だけで活写します。バスの旋律は荒々しく乱高下し、吹きすさぶ一陣の風のようにあらゆる音域を駆け抜けて全天下に主題を告知します。このわずか21小節間で描写されるすさまじい緊張感は、2度にわたる短調系の転調とリズムの変化によってもたらされますが、それは一瞬のうちに吹き去って再び冒頭の曲想に戻ります。それは第1部の輝かしい勝利の歌を装飾的に拡大変形したもので、キリストの統治する神の国が終わりなく続くことを宣言します。

19.(II-7)Et in Spiritum sanctum(バス独唱、オーボエ・ダモーレ×2、通奏低音、イ長調、6/8)
〔歌詞〕
Et in spiritum sanctum Dominum et vivificantem, qui ex Patre Filioque procedit; 我は信ず、主なる聖霊を、また生命の与え主を、(聖霊は)父と子から出で
qui cum Patre et Filio simul adoratul et conglorificatur;
(聖霊は)父と子と共に同時に拝まれ 、また崇められ
qui locutus est per Prophetas.
(聖霊は)預言者を通して語り給う
Et unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam.
我は信ず、一つの聖にして公なる使徒継承の教会を
前曲とは全く対照的な最小の規模で「Credo」楽章の第3部が始まります。この簡素な編成のうちにもバスと2本のオーボエ・ダモーレが軽快で活発な動きをもって、「聖霊」の生き生きとした働きを伝えます。全曲で144小節からなるこの曲も3部のダ・カーポ形式で構成されています。前の曲で復活のキリストをたたえながらも三位一体の神を仰いだバッハは、ここでも聖霊を讃美しつつ三位一体の神を崇めます。この曲はいわば前後の大曲に挟まれた谷間に咲く一輪の百合にも似た趣があり、全曲にかぐわしくひそやかな落ち着きを感じさせます。後に続く壮大な2曲のフーガ楽章を準備する前奏曲といってよいかもしれません。

20.(II-8)Confiteor(5声部合唱、通奏低音、嬰ヘ短調、2/2、121からAdagio/静かに遅く)
〔歌詞〕
Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum.
罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め

21.(II-9)Et expecto(合唱、器楽共に第18曲と同じ、ニ長調、4/4、Vivace e Allegro/生き生きと活発に)
〔歌詞〕
et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi seculi, Amen.
また死者のよみがえりと来るべき世の生命を待ち望む、アーメン
バッハのあらゆる楽譜を丹念に調べ、その結果を独特の演奏で聴かせるアメリカの音楽家にジョシュア・リフキンという人がいます。その人が解説するところによれば、今まで「ロ短調ミサ曲」の新作として考えられてきたほとんどの曲は旧作からのパロディーに属するそうです。唯一の例外がこの「Confiteor」で、これだけはどう見ても新作に間違いないと断定しています。
それが事実とすれば、この曲はバッハにとって生涯最後の宗教作品となるわけで、ひとしお懐かしく感じられます。
“Confiteor……(認め)”というフーガの第1主題が各パートによって宣言されると、すぐ16小節からテノールが“in remissionem……(ゆるしのために)”と歌い出して第2主題を提示します。第1主題には「認める」という肯定的なことばが冒頭にあり、従ってその旋律には毅然とした格調と安定感があります。一方、第2主題のテキストには“peccatorum(罪の)”というおぞましいことばを含むため、旋律線は細分化された音符と変化音で不安定な表情を示します。通奏低音部も半音階的進行によってその揺らぎを助長します。
バッハがこうした半音階的進行を用いる場合には、第17曲「Crucifixus」のパッサカリア主題と同様に、常にその背後に死や罪といった不吉で不安な要素が隠されています。
その先にあるのは死の世界で、バッハはここをことさらに“Adagio(静かに遅く)”と指定して印象深い場面設定を行っています。アルトは人々が地獄の果てまでさ迷い込んでいく様子を極低音で描いています。死者の霊魂はよみがえり行くべき道を求めて際限もなくさ迷います。「よみがえり(resurrectionem)」を「待ち望む(expecto)」魂のうめきは諸所に湧き立ち、それが上向する音形で象徴されます。それらを象徴して、この部分では「♭」の変化記号を多用して罪の重さを示しています。
さて、その「罪と死の世界」にも遂に一条の光が射しこみます。
バッハはたった1小節の通奏低音の動きによって急激な場面展開を行います。直前の“Adagio”で長い持続音によって象徴された「待つ」ことの成果が、いよいよ現実のものとなるのです。しかし、それはひたすら長く「期待(expecto)」をもって待ち続けるという時間の経過によってではなく、ある時突然に神の一方的な恵みによって与えられるものなのです。しかもそれがイエス・キリストを主と仰ぐ、信仰の一致によってもたらされるものであり、従ってこの第21曲では再び全員がこぞって最後の信仰宣言を唱和します。
テキストは前の“Adagio”」と一部重複しますが、これに「来世の生命(vitam venturi saeculi)」の希望と、確信に満ちた“Amen(然あれかし)”が加わり、内容は全く一新されたものになります。曲想としては、バッハ自身がわざわざ“Vivace e Allegro(生き生きと活発に)”と記すほどに躍動的な生命力がみなぎり、その溢れるばかりの喜びの表情は「Credo」楽章全体を終結させるにふさわしい感動的な昴まりをみせます。

(4)Sanctus/Osanna/Benedictus(総称して「感謝の讃歌」)
22.(III)Sanctus(6声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、オーボエ×3、弦楽、通奏低音、ニ長調、4/4-3/8)
〔歌詞〕
Sanctus, sanctus, sanctus Dominus Deus Sabaoth.
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神
Pleni sunt coeli et terra gloria ejus.
(主の)栄光は天と地に満てり
ミサ曲としては後半になりますが、ミサの儀式としては祭儀の頂点を迎えます。ここでは司祭も会衆も一体となって、神と御子キリストに讃美と感謝を捧げます。ここで司祭の唱える祈りを叙唱といいますが、それは通常次のことばで結ばれます。「……神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」このことばを受けてすぐ歌い始められるのが次の狭義の意味での「Sanctus」です。しかし、本来の意味ではこの「Sanctus」にその後の「Osanna」と「Benedictus」を加えたものが広義の「Sanctus」です。
バッハ在世当時のライプツィヒでは「Sanctus」が独立した教会音楽としてラテン語で演奏されていたようです。バッハはこの曲を1724年に作曲し、その年のクリスマスと1727年の復活祭に演奏した記録が残っています。1724年の作曲ということは「ロ短調ミサ曲」を作曲した4半世紀ほども前の作品で、今明らかになっているパロディーの原曲としては最古のものです。いずれにしてもこの曲は天才バッハがその才能を縦横に発揮した偉大な曲で、テキストである旧約聖書イザヤ第6章の情景がまざまざと脳裏に浮かびあがるような、様々な意匠を凝らして創作されています。シュヴァイツァー博士はこの曲を評して「崇高なるもの、という観念をこれほど完全に表現した楽曲はほかにないであろう」とまで絶賛しています(A.シュヴァイツァー「バッハ」全3巻/浅井真男・内垣啓一・杉山好訳/白水社)。確かに、バスが「歩みのモティーフ」によって深く下っていくとき、その上を他の5声が美しいハーモニーを長く保って「聖なるかな」を唱和するさまは神の「天地創造」の情景をほうふつとさせる荘厳さがあり、さればこそ、その後に続く「主の栄光は天地に満つ」というテキストは一点の曇りもない晴れやかなフーガ主題によって、生き生きとした輝きをおびて歌い継がれていくのです。

23.(IV-1)Osanna(4声部合唱×2、器楽は第18曲、第21曲と同じ、ニ長調、3/8)
〔歌詞〕
Osanna in excelsis.
天のいと高き所にホザンナ
「感謝の讃歌」に与えられたテキストは非常に短いものですが、その内容は極めて多くのことを示唆しています。器楽を「ロ短調ミサ曲」最大の編成にし、合唱を8声部に拡大して天上の頌歌に呼応する体制を整えたのです。冒頭合唱は2群の合唱が声をそろえてユニゾン(同音)で“Osanna(アーメンと同様に古いヘブライ語で<われらを救いたまえ>の意)”を歌い出します。これは前曲の79小節からバスによって歌い出されるフーガの主題をパラフレーズしたもので、ここに「Sanctus」との一貫性を保つための工夫が認められます。調性もリズムももちろん前曲と同じにそろえられています。その曲はカンタータ BWV215 のパロディーですが、原曲の前奏部分を後奏に振り替えてまで「Sanctus」との関連性をつよめています。しかもそのことによってこの曲自体の音楽的昴揚感がむしろ高められるのが不思議です。最大20声部におよぶ「Osanna」の響きは、全地がこぞってエルサレムに入城するイエスを迎える情景を壮大に活写して余すところがありません。

24.(IV-2)Benedictus(テノール独唱、フルート、通奏低音、ロ短調、3/4)
〔歌詞〕
Benedictus qui venit in nomine Domini,
主の御名によりて来たる者はほめ讃うべし
壮麗な前後の讃歌の間に簡潔で神秘的な独唱曲が挿入されます。全体の規模は前曲と反対に最小の編成となり、調性も短調に変化します。唯一前曲との関連を示すのはオブリガート楽器によって奏される3連音の調べだけです。なぜこのような変化をつけたのでしょうか。音楽的意義だけを考えれば大曲と小曲、長調から関係短調への転調、合唱から独唱への転換によってこの楽章全体に変化をもたせた、としか考えられません。しかし、この曲がミサで用いられる場面を考え合わせれば、より重要な意義があることに気づきます。
バッハ時代のカトリック教会では、大規模なミサ(荘厳ミサ/歌ミサなど)が執行される場合には「Sanctus」と「Benedictus」は切り離して歌われました。その間に司祭は聖変化の儀式をおこなうのです。そしてこの間、司祭も会衆も沈黙してキリストの聖体に思いを集中し、その後に「Benedictus」が歌われたのです。その最初の語のとき十字をきって聖体への崇敬を表すほど敬虔な瞬間です。従ってバッハも必然的に静かで瞑想的な曲を用意したのです。
なお、オブリガート声部に楽器の指定はなく、旧バッハ全集ではヴァイオリンが特定されていましたが、新バッハ全集ではスメントがこれをフルートに変えました。フルートの方が音域と音色の表情からみてこの曲にふさわしいように思えます。

25.(IV-3)Osanna(全て第23曲と同じ)
〔歌詞〕
Osanna in excelsis.
天のいと高き所にホザンナ
テキストでは前半の結びのことば(Osanna)と後半の結びのことばが全く同じです。従って前半の「Osanna」をここでもう一度再現するのが一般的慣行となっており、バッハもこれを踏襲しています。

(5)Agnus Dei(平和の讃歌)
26.(IV-4)Agnus Dei(アルト独唱、ヴァイオリン×2、通奏低音、ト短調、4/4)
〔歌詞〕
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
神の小羊、世の罪を除き給う(主よ)、我らを憐み給え
小さな曲ですが味わい深い名曲です。
「平和の讃歌」というテキストは非常に簡潔で、「神の小羊。世の罪をのぞき給う主よ、われらをあわれみたまえ」という短い文を3回繰り返すだけですが、3回目の「われらをあわれみたまえ」は「われらに平安を与えたまえ」ということばに代わります。この前者がアルトの独唱に委ねられ、最後のテキスト「われらに平安をあたえたまえ」の部分だけが合唱曲として歌われます。
従ってこの第26曲と次の27曲は一連の作品として作曲されています。
第26曲で目立つのは「ロ短調ミサ曲」の中で唯一の変記号(♭)を持つ調性の曲だということです。変記号に付与された特別な意義は「神の小羊」と「主のあわれみを乞う嘆願」を象徴しています。この曲が全体を通して自らを低くしてこの世に下り、人々の罪の犠牲として屠られた神の小羊に向かい、かつ、その慈悲と恵みを感謝することを意味しています。
「クリスマス・オラトリオ」や「受難曲」でおなじみのアルト・アリアを思い浮かべてください。「オラトリオ」でははっきりとアルトに聖母マリアの役が与えられています。「受難曲」での役柄は特に定められてはいませんが、重要な出来事、たとえばペテロの否認とかキリストの臨終などの合唱の後に、必ずといっていいほど叙情豊かなアルトのアリアが登場します。それらは短調で作曲され、その内容は常に「あわれみ」、「涙」、「悲しみ」といった悲痛な内容を主題としています。しかし、それが単なる哀悼歌に終わらず、それを越えた深い愛情と気品をたたえているのは、これがバッハにとっての「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」ではなかったかという想像をかきたてます。

27.(IV-5)Dona nobis pacem(4声部合唱、トランペット×3、ティンパニー、フルート×2、オーボエ×2、弦楽、通奏低音、ニ長調、4/2)
〔歌詞〕
Dona nobis pacem.
我らに平安を与えたまえ
……神への感謝
それによってこの世に平和がもたらされます……。
「ロ短調ミサ曲」の全体を通して、また特にこの曲によってバッハはこう語っているように思います。それは「平和の讃歌」の終曲「Dona nobis pacem(主よ、われらに平安を与えたまえ)」であり、かつ全体の結論でもあるこの曲が、「栄光の讃歌」第7曲「Gratias(主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる)」の再現をしていることから明らかです。
第7曲との違いはテキストと、独立したファゴットの割愛と、それらに伴う部分的調整だけですが、編成がこじんまりとしたのと反対に、全体としては無限の広がりが感じられます。
バッハという人物の大いさと深さ、その音楽の完璧な秩序と崇高な美しさ、そしてそれらを私達にもたらして下さった、より大いなるものの愛に感謝を捧げたいと思います。
バッハはこの曲の終わりに、いつものように「Fine D S Gl(終り 神にのみ栄光)」と記して筆を擱きました。

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